(14) 鰍沢から雨畑渓谷へ――日本の端州硯、「雨端硯(あめはたすずり)」の産地を訪ねて
雨宮弥太郎さんは名硯「雨端」の第13代作家
山梨県南巨摩郡鰍沢町は急流で知られる富士川の右岸沿いに位置している。川面に美しく紅葉の映える秋の一日、私はその鰍沢にある甲斐雨端硯本舗(電話0556-27-0107)を訪れた。お店の正面に掲げられた「雨端硯」という看板ひとつを見上げただけで、そこに脈々と息づき秘められている歴史と伝統の重みを感じ取ることができた。車から降りる私を笑顔で出迎えてくれたのは雨端硯の第13代作家雨宮弥太郎さん(44)だった。以前、私は東京芸術大学の大学院に講義に出向いていたことがある。芸大では本来の専門である数学の講義ではなく、哲学や論理学、コンピュータサイエンス、さらには文学論や芸術論までを織り交ぜた、かなり風変わりな講義をやっていた。その頃に院生として私のいい加減な講義の犠牲者の一人になってくれたのが、ほかならぬ雨宮弥太郎さんというわけだった。ただ、その当時は雨宮弥太郎さんが現在の第12代当主雨宮弥兵衛さんの後継者であるとは知らずにいた。その事実を知ったのは、銀座の御木本で催された雨宮さんの作品展の折だったと記憶している。一時的であったにしろ、かつての師ではあったというささやかな事実を拠り所にして、図々しくも鰍沢まで押しかけてきたというのが取材の舞台裏だった。
元禄3年(1690年)、身延山参詣の途にあった初代雨宮孫右衛門は、富士川支流早川の川原で一個の黒石を拾い上げた。そして、のちに雨畑石として知られるようになるその良質の粘板岩を用いて孫右衛門は美しい硯を制作したという。以降、現代に至るまで、雨宮家においては雨畑石による硯の制作が家業として代々継承されてきた。明治期に雨宮家は当時文人として高名を馳せていた犬養木堂の知遇を得るところとなり、その推奨もあって同家の生み出す硯は天下の名硯として広く世に知られるようになった。また、時の元老院で東京帝国大学教授だった文学博士中村正直は、中国の名硯「端州硯」にも匹敵する国産の名硯という意味を込めて、「雨端硯」の名を贈った。それ以来、各種の雨畑硯を代表する雨宮家の硯に限って「雨端硯」の名が冠せられるようになった。
高名な老舗ならではの存在感の漂う古い木造店内の床や壁面には、雨宮家代々の古硯から近年の作品にいたるまでの硯がずらりと並べ置かれていた。さすがに名硯、それぞれの硯がその硯なりの表情と密やかな言葉をもって見る者に何事かを語りかけてくる感じであった。会意文字の「硯」という字は「石を見る」というふうに読み解くことができる。雨宮さんによると、硯を制作するうえで最も重要なことは「石を見る目」であるという。石と向き合い、石との心の対話を進めながらその奥に秘められた本質を見抜き、研ぎ澄ました自分の心をその石に投影し、その結果として、その作品を手にした人々が自然に自らの心に向き合うことができる「精神の器」を生み出すこと――それこそが雨宮さんの目指そうとする作硯の理想像であるらしい。実際、そうやって作られた硯であればこそ、その硯に向かう墨筆家にもこよなく愛され、筆を執るの人の創造性を存分に引出すことができるのであろう。硯を用いる者もまた、心の中で硯とじっくり対話をしながら、すなわち、「石を見つめ」ながら心身のバランスを十分に整え、そのあと一気に創造の空間へと飛翔することになる。優れた硯というものは、芸術品として鑑賞に堪えるだけの美しさと、かけがえのない道具として長期にわたる実用に応えることのできるような機能性とを兼備していなければならない。そのような硯を作り出すのは容易ならざることなのだ。そう考えてみると、多くの著名な書家などが雨端硯を珍重し愛蔵するのも当然のことだと納得がいく。
雨宮家3代にわたる「雨端硯」の革新
雨宮家の「雨端硯」に代表される雨畑硯の原石は、南アルプス連峰の雨畑渓谷で産出する良質の粘板岩だ。目が細かくてしっとりとした肌触りの黒色原石がほとんどだが、なかには緑や黄さらには赤味を帯びたものなどもあるようだ。富士川の支流早川は早川町内で上流方向右手にのびる早川渓谷本流と、左手にのびる雨畑川とに分岐する。その雨畑川上流の雨畑渓谷稲又の周辺が雨畑石と呼ばれる貴重な粘板岩の産地である。昔は随所に露頭層も見られたらしいが、長年の採掘で近年は産出量が激減し良質の原石の入手は容易ではなくなってきた。甲斐雨端硯本舗のある鰍沢町と雨端石の採れる早川町雨畑渓谷との距離はかなりあるので、現在では雨宮家は早川町の採掘業者から原石を入手しているという。
雨端硯の制作工程は、選別された原石の表裏をノミやタガネで平にすることから始まる。つづいて水と金剛砂を用いさらに表裏を平に磨き終えたあと、制作しようとする硯の大きさに原石を切断し、砥石を用いて寸法や形を整える。この石どりの工程は最終的な硯の出来栄えを大きく左右するという。石どりが終わり全体的な概形が整うと、硯の表にするほうに墨池や墨堂となる部分の輪郭を刻み込み、柄の末端の平な部分を肩に当てて用いる特殊な長ノミなどを駆使して、望みの形になるように慎重に彫り上げる。そして、粗い砥石から目の細かな仕上げ砥石までを順に用いて磨きをかける。硯の細部の形までが最終的に決まる磨きの工程は極めて重要で、伝統的な特殊技術と細心このうえない気配りとが不可欠であるらしい。最後に、こうして彫り上がった硯全体に墨液、漆、さらには原石を彫る過程で生じた微粉末などを薄く塗って総仕上げする。
「雨端」の名を冠せられた雨宮家の名硯が中国古来の硯の風趣を脱却し、時代の求める近代美術工芸品への転換を見せ始めたのは、弥太郎さんの祖父にあたる第11第の雨宮静軒さんの時代からだった。竹内栖鳳ら高名な日本画家の影響を受けた静軒さんは、山水や動植物をモチーフにする場合でも、確かな観察を怠らなかった。そしてその観察に基づいて、前代までの作品には見られなかったような斬新で瑞々しいデザインをもつ硯を創り出すことに成功した。つづく第12代の雨宮弥兵衛さんは東京美術学校(現東京芸術大学)で西洋近代彫刻を学んだこともあり、その作風は当時の美術工芸界の潮流をなすモダニズムへの傾倒を深めていった。その結果、中国様式の硯への盲従をよしとしなくなった弥兵衛さんは、美の世界における自己の直接的かつ本質的な経験を作硯の新たな基準とするようになった。そのため、弥兵衛さんの作品は具象的なデザインに一定の距離をおき、簡素さのなかにもこのうえなく斬新な抽象美を秘めもつ独自の作品へと昇華していったのだった。
東京芸術大学で彫刻を専攻した第13代の弥太郎さんは、とりたてて家業を意識することなく育ったという。父弥兵衛さんから家業を継ぐようにと強く求められたこともなかったし、作硯の技法を直接指導されるようなこともなかったようだ。ただ、弥太郎さんが芸大彫刻科に進み石彫を学ぶようになったという事実から想像すると、おそらくは幼少期から無意識のうちに雨宮家の気風とも芸術観ともいうべきものを体内深くに吸収しながら育ったのであろう。その意味では父君弥兵衛さんによる無言の教育の成果とその賢明な戦略とが見事に功を奏したともいってよい。そんな弥太郎さんが本格的に硯の制作に取り組み始めたのは20代後半から30代前半のことで、硯石を使った個展の話がきっかけだった。その時にいたってようやく、「彫刻」と「作硯」とではまったく異なる造形センスが要求されるものだというこにとに気がついたのだという。
静軒さんや弥兵衛さんは基本的には石膏でおよその硯の形状を決め、それをもとにして石を見、石を彫って名硯を作り上げた。それに対し、弥太郎さんのほうは石膏で形を決めてから作硯に臨むことはないという。頭の中にある程度のイメージを描き、おおまかなスケッチをおこなったりはするが、そのあとは実際の石の状況と自分のイメージとをすり合わせながら、双方の調和点を探っていく。要するに、その時々に石と相談し合いながら最良と思われる形状に硯を仕上げていくのだそうだ。当初は抽象的な作品が多かったが、最近は動植物の姿などをそのまま取り込んだ具象的な作品の制作も考えるようになったという。弥太郎さんのなかで、ようやく「硯」と「彫刻」の距離が縮まり双方が融合一体化し始めたということであるらしい。弥太郎さん独自の境地への到達を思わせる近作には、見ていて楽しくなるような、自由で豊かな遊び心を感じさせる作品もずいぶんと多い。
雨宮家の奥のほうには、静軒さん、弥兵衛さん、弥太郎さんとつづく3代の硯師の手による代表作品が大切に保管されていた。弥太郎さんによる特別な配慮でそれらをじっくりと拝見させてもらったが、黒く艶やかな硯の石肌の奥から筆舌に尽し難い不可思議な存在感が漂い出ている感じで、ひたすら圧倒されるばかりだった。最後にお手洗いを拝借したのだが、なんと二面が総ガラス張りになっていて、居ながらにして野鳥の観察をしたり、裏山の木立の新緑や紅葉を楽しむことができるようになっていた。弥太郎さんの母堂の発案によるものだそうだが、さすが伝統工芸を守るお家柄ならではの風趣と感心することしきりだった。
早川町天畑渓谷へ
鰍沢の甲斐天端硯本舗を辞したあと、私は天畑石の産地である雨畑渓谷を訪ねてみることにした。雨畑渓谷はかなり離れたところにあるので、夕暮時までに到着できるかどうかわからなかったが、まずは行動をと、車のアクセルを踏み込んだ。北岳の登山口、広川原へとつづく早川渓谷には過去何度も行ったことがあるのだが、雨畑川流域に分け入るのは今回が初めてだった。崖崩れのため途中で迂回路を通ったりしながら、狭くてカーブの多い急峻な林道を縫い登り、なんとか雨畑湖畔に到着した。その先の雨畑集落近辺の道は対向車との擦れ違いが困難で、何度も前進と後退を繰り返す有様だった。急斜面に沿う雨畑の集落には「雨畑硯」の看板を掲げた小店舗が何軒かあって、店頭にはいろいろな硯が並べ置かれていた。雨畑集落を抜けると林道はますます急峻になり、渓谷の底は眼下はるかに遠ざかっていった。ただ、そのぶん、一帯の景観は一段と凄みを増し、鬼気迫るものがじられさえするようになった。さらに高度を上げ、雨畑渓谷と稲又渓谷の分岐点に着いた時にはもう日は沈み、深い夕闇がすぐさこまで迫っていた。地図で調べると、その険しい林道はなおも奥へ奥へとのび、南アルプス連峰南端部の2000m余の峠を越えて静岡県側に至っているようだった。林道走行狂の身としては、その地点で撤退するのは残念至極なのではあったが、雨畑石の産地の様子だけはあらかた掴むことができたので、その先につづく林道への挑戦はべつの機会に譲ることにした。