(4)私のドライブ哲学
私が自分の車をもち、それを運転して本格的な車の旅をするようになったのは、30歳前後からである。その頃には私も人並みに仕事をもち、家庭をもつようになっていた。しかし、私は、はじめから家庭の空間と旅の空間とは別のものだと考えていた。家族を連れての旅にまったく出なかったというわけではないが、家族サービスの延長上に旅を位置づける一般的な発想には、とうてい馴染むことなどできなかった。世間の尺度からすれば、私はけっしてよい家庭人ではなかったというほかない。
そんな私がはじめて入手した車は、通常の乗用車ではなく、中古のバン型ワンボックスカーだった。当時のバンは、乗用向きではなく、荷物の運搬を主な目的とする商用タイプだったから、車の性能、乗り心地、仕様やデザインなどのいずれをとっても近年の乗用ワンボックスカーなどとは似ても似つかぬ代物だった。それでもなお、空間が広く後部が開閉できるワンボックスタイプのバンに決めたのは、その車をもっぱら旅のみに使おうと思ったからだった。いまもそうだが、私はもともと車を日常生活のために使おうなどとは考えていなかった。
旅とは、本来、日常性を脱却し、見知らぬ人々や未知の風物との出逢いを求めて異質な空間へと飛び込んでいくことを意味している。すくなくとも私にとってはそうである。日常生活の快適さと百パーセントの安全性を旅の先々にまで求めるとすれば、それは旅ではなく、旅行になってしまう。何が起こるかわからないからこそ旅なのであり、その意味からすると、「旅は無計画をもって至上とする」と言えないこともない。その崇高な精神には私など到底及ぶべくもないので、ここに引用するのもおこがましいが、「罪なきも流されたしや佐渡ヶ島」と詠んだ松尾芭蕉が、旅空のもとでひそかに胸に抱いていた想いも、どこか似たようなものだったのかもしれない。
旅先で日常性から脱却するために、もっと極端な言い方をすれば、日常性を解体するために、私はまず二つの大きな意識改革を実践する必要があると考えた。それらのひとつは、長年の生活で体内の奥底まで身にしみつき、それがあたりまえのようになっている、24時間単位の日常的な行動パターンの放棄である。何時には起床して朝食、何時には昼食、そして何時までには宿に着き風呂にはいって夕食、就寝、といった習慣にこだわって旅をしていると、感動的なものと出逢える可能性が半減してしまう。
大自然がもっとも美しい姿を見せるのは、早朝の日の出前後のことだったり、落日とそれにつづく黄昏時だったり、冴えわたる月の光や満天の星空のもとだったりすることがおおい。自然が昼間見せる顔はいくつもの顔のひとつに過ぎない。旅先での人との出逢いの状況やお互いの心の交わしかただって、朝、昼、夕、そして夜ではまるで違う。大自然やそこで生きる人々の織りなす未知のドラマにめぐり逢い、そのことを通して命の垢を洗い流し、生きることの不思議に想いをかさねたいと願うなら、無意識のうちに我々を拘束する時間軸を解体し、通常の行動形態をはずれて振る舞うほかはない。そうやってはじめて、見えなかったものが見えてくる。
いまひとつ重要なことは、一定時間内における視覚の複眼化と視座の多面化、立体化をはかることだった。このことについては、いくらかの説明が必要かもしれない。
放浪の旅という言葉に象徴される、なにものにも縛られない自由でゆったりとした旅は、むろん、旅の本道とでもいうべきものである。だが、それは、現代の日常性から脱却するために、負の方向へ回帰すること、換言すれば、従来からの旅の精神と旅の方法へ立ち戻ることを意味している。もしそうだとすれば、それと対照をなすかたちで、日常性から正の方向へと脱却していくやりかた、すなわち、従来のものとは異なる旅の精神や旅の方法というものがあってもよい。そして、私は、新たな旅の精神や旅の方法は、旅の空間を短時間で水平方向、垂直方向に迅速に移動し、対象を複眼的、多面的にとらえることによってはじめて確立されるのではないかと考えた。
日常的な時間と空間を正負の両方向へと脱却することによって、それまでぼんやりとしか見えなかったものが、はっきりと見えてくるはずである。ただ、その場合問題となるのは、正の方向への脱却をどのようにして行うかということである。短時間における空間移動というものは、過去においては物理的に困難ないしは不可能に近かった。
日常性からの脱却に必要な二つの基本的な改革を実現するために私が選んだとっておきの手段は、いうまでもなく車だった。ただし、そのためには、単に乗り心地のよいだけの乗用車ではなく、その中で好きなときに眠れ、簡単な野営用具や登山具、釣り具などが一式積め、雨の日などは車中でコンロが使えるような車が必要だった。だから、私はあえて商用仕立てのワンボックスカーを選んだのである。当時はまだ、このタイプの車をアウトドア専用に使う人はほとんどいなかった。
この画期的な移動と宿営の道具を得たことで、私の旅は大きく変わった。その日の宿や食事の心配をしたり、交通機関の時刻などを気にしたりする必要がなくなったから、どんな時間帯でも思いのままに行動できるし、その時々の気分や状況に任せて緩急自在に旅を続けることができるようになった。むろん、普通の宿に泊まりたくなったらそうすればよいし、ひと風呂浴びたくなったら、周辺の風景を楽しみついでに、無料の露天風呂や入浴料を払えば入れてくれる温泉などをさがせばよい。
物理的にも心理的にも通常の時間の観念から解放されることによって、私は、それまで見ることが出来なかった様々なものを見、それまで経験したことのないような貴重な体験をつむことができるようになった。旅先での私の1日は24時間一律ではなく、あるときは10時間に、あるときは20時間に、またあるときには30時間になったりした。しかも、私は、誰にも干渉されない「動く小空間」を確保したことにより、家庭や職場ではなく、その時々に自分のいる場所を、自己存在の原点、精神活動の基点として自然に受け入れることができるようになった。わかりやすい言い方をすれば、どっかりと根をおろす日常の生活の場から一時的に旅に出て再びそこへ戻る、という考え方を捨て、時間的にはたとえ一時的なものにすぎないにしても、吹く風に身をまかせた根無し草の姿を自分本来のものだと考えることができるようになった。この視座の転換は現代の社会通念からすれば異常だと批判されても仕方のないものであったかもしれないが、その通念を放棄することによってしか、私の旅は成り立ち得ないように思われた。
それは、列車というものを、日常という固定された風景画の片隅を飾るささやかな構成要素のひとつに過ぎないと考えるのではなく、列車という運動体を自らの運命共同体だとみなし、その窓越しに展開する走馬灯のような風景こそがこの身を委ねるに値する風景なのだと考えることと似ていた。
車を得たことによって、高度2000メートルを超える冬の深山で、真夜中、粉雪を眺めたり無窮の星空を仰いだりしながら、バッハのトッカータとフーガを聴くことができるようにもなった。月山や鳥海山を背景に一面輝くような緑の野と化す五月の庄内平野の田園風景のなかで、ベートーベンの田園交響曲をかけながら遠い想いにふけることも可能になった。荒涼としたサロベツ原野の西を走るオロロンラインで、日本海に沈む壮絶な夕陽に見惚れながら、ワーグナーのフライングダッチマンに漂泊の想いを重ねるという、望外の機会にも恵まれた。また、それらの体験を通して、それまで見えなかったものを見ることができるようにもなったし、見失って久しいものを再発見する喜びを味わうこともできた。それらは、都会のホールでの演奏会では絶対に味わえない体験であった。
湖面に霧をたたえながら月光のもとに息づき眠る夜の摩周湖の不思議な美しさ、根釧原野奥地の林道でのエゾシカの群れやヒグマとの遭遇、丑三つの刻に訪ねた室戸岬の四国二十四番札所最御崎寺での不気味な体験、迷い込むようにしてはいりこんだ信州の山里でたまたま出逢った何百ものホタルの群れ――旅の想い出はとどまることをしらないが、もし車という道具がなかったら、そういった貴重な経験をすることは、おそらく不可能であったろう。
車というものが時間の制約をいっさい解消してくれたことによって、普通なら見落とす小さな風物に目がいくようになったことも幸いだった。畦道や狭い林道での珍しい草花や小動物とのおもわぬ出逢い、なんでもない小川や湖沼に秘められた意外なドラマの発見、ひなびた山村やうらぶれた漁村が隠しもつ深い深い文化の痕跡の確認、そして、けっして世の表に立つことはないが、豊かでしかも自分なりの確固たる言葉をもつ人々との幸運なめぐり逢い――それらのささやかな出来事を通して、私はかけがえのない多くのものを得ることができた。この本の表紙の装丁を引き受けてくださった渡辺淳さんとの幸運な出逢いもそのひとつであったといってよい。
いっぽう、車の機動性をフルに活用し、短時間でダイナミックな空間移動を実現することによって、従来の旅の方法ではのぞき見ることの難しかった自然界の素顔や風物の隠れた姿に触れることができるようになった。一日平均数百キロ、ことによったら千キロ以上を走り回ることによって、それまで単に点としてとらえていた国内各地を、連続した線、さらには連続した面として認識できるようになったことも大きい。
たとえば、大雪山連峰の姿を知りたいと思うときには、何度もその地を訪ね、相当な時間をかけて周辺を歩きまわらないないかぎり、その広大かつ奥深い山容をつかむことは不可能だった。また、実際に何度かにわけて大雪山連峰一帯をあちこちを訪ね、さらには稜線を縦走してみることができたとしても、各回の旅相互の時間的ギャップや季節によってうける印象の違いなどがあって、その全体像を構成するのは想像以上に難しいことだった。
その点、車があると、富良野、美瑛、旭川、層雲峡、糠平、然別、十勝、狩勝峠、南富良野と短時間で大雪山系の山麓を一周できる。秘境といわれる東大雪トムラウシ山麓や十勝岳周辺の林道を奥深くまで分け入って、間近で大雪の峰々を仰ぎ見ることもできるし、中腹から雄大な山麓とその向こうに広がる平野を遠望することもできる。その気になれば、林道奥の登山口に駐車し、すばやく登山スタイルに身を固めて頂上をアタックすることも容易である。そして、こうして得られた情報を総合することによって、大雪山連峰の全容が立体的に浮かび上がる。
連峰周辺各地の地理的関係も明瞭になる。富良野盆地、上川盆地、十勝平野のそれぞれの方角から眺める大雪山連峰はおなじ季節でもその顔が異なるが、それを知ることによって、気候や気象の微妙な地域差を感じとることもできる。逆に、大雪山系の存在が、富良野、上川、十勝の各平野部に及ぼす影響と、それによって生じる生活環境や農産業の様相の違いなどを的確に把握することも可能となる。24時間を通じて刻々と移り変わる大雪山系の姿をつぶさに観察し、そこから自然の営みの妙を読み取ることもできる。機動性のある車がなければ、とてもこううまくはいかない。
中年暴走族という異名を頂戴しそうだが、私の場合、たった一日のドライブであっても、東京から北に向かって走りだし、何百キロも走ったあげく、南から東京にもどるというようなことが少なくない。こういったドライブのやりかたというものは、通常の感覚からすれば気違いじみてみえるかもしれないが、実際にやってみると、自分を取り巻く世界の様相や構造が、思いのほかはっきりと認識できるようになる。遠く離れたある町とある町の関係が、不思議なほどに鮮明に浮かびあがり、なるほどと納得させられることもある。そんなドライブを重ねていくと、やがて、各種の地域情報をもりこんだ立体的で拡大縮小自在な体内地図ができあがる。この独自の体内地図は、なにか事が起こったとき、その背景や状況を即座に理解するのにたいへんに役に立つ。私の体内には、日本全土をカバーするこの種の地図が存在している。その構成と内容は下手なガイドブックなどより、はるかに精緻かもしれない。
海岸線に沿って短時間で北海道を一周するという行為は、あまり意味がないことのように思われるかもしれない。だが、そんなドライブを一度経験するだけでも、北海道の広さ、道南、道東、道北それぞれの特徴や相互関係、宗谷海峡や根室海峡に立ちはだかる国境の存在、海流と気象の深い関係、植物相の違い、星々にみる緯度の高さ、町々の風俗や言葉の差異、各地の産業とその立地条件、大まかな歴史とその背景といったようなものが自然に見えてくる。とくに意識などしなくても、それらが有機的に結びつながって北海道というものを鮮やかに浮かび上がらせてくれるのだ。ピンポイントの旅行ではそういった体験は味わえないし、どんなに詳しくガイドブックを調べたり地図を眺めたりしたところで、その姿は見えてこない。
三陸海岸の北山崎や浄土ヶ浜で日の出を迎え、太陽を追いかけるようにして北上山地、盛岡、雫石、田沢湖、田沢スーパー林道、岨谷峡、秋田、男鹿半島と走り抜け、男鹿半島突端の入道崎で日本海に沈む夕陽を眺めれば、それぞれに豊かな自然を抱えて対峙する東西ふたつの東北の顔が見えてくる。日が昇る三陸海岸側と日が沈む日本海側とではおなじ東北でも明らかにその顔は違う。春夏秋冬いずれの季節をとっても、それらふたつの顔は違う。そしてその対照と相補性とが陸奥と呼ばれてきたその地方の全体像をくっきりと浮かび上がらせてくれる。まさにこれなどは、車あってはじめてできることだといってよい。
車が私の旅にどのような影響を与え、またどのような役割を果たしてきたかを一通り述べてきたが、近年旅をするにあたってとくに心がけていることがいまひとつある。私は旅先において写真をとることがほとんどない。昔は人並みにカメラを持ち歩き旅先の風物を写していたが、あるときからカメラを捨てた。そのほうが旅先で出逢う物事の奥底をはっきりと見つめることができるということに気づいたからである。その地域に特有の風の流れや大気の淀みみたいなものは写真では容易にとらえきれない。旅先で出逢う人々の心もレンズにはなかなかうまくおさまらない。あるときは戯れ、あるときは縺れ彩なす光と影のもとで刻々と変化する情景は、やはり心の広角レンズで写しとるのがベストであるように思われてならない。私自身にかぎっていえば、これからも先も、旅の途上でめぐり逢う様々な出来事を心象風景としてあくまで心のフィルムに写し残していきたいと思う。
現代は海外旅行が旅の主流を占める時代だが、私はこのところずっと国内の旅にこだわっている。国外の旅に興味がないわけではないが、私の体内の日本地図は、一通り国内全域をカバーしてはいるものの、まだまだ空白地帯も多く完全となるにはほど遠い。生命体の何億分の一にも足らない一個の細胞中の遺伝子が、その生命体全体のいっさいの情報を内包しているように、旅先で出逢うどんな小さな風景も、全世界の、さらには全宇宙の縮図を内に宿している。日本という地球のごく限られた地域であっても、そのどこかにはデフォルメされ縮小された地球の姿が隠されているに違いない。それを少しでも発見するために、これからも、私は、あえて日本の旅にこだわろうと思う。それで地球が見えなければ、私の心のレンズがその程度の代物だったと諦めるしかないだろう。
ある日のこと、旅先である浜辺を訪れ、渚に立ってひとり夕陽を眺めるうちに、私は言葉では言い表しようのない不思議な感動と懐かしさに胸をうたれたことがある。
人間はいったいどこから来てどこへ行くというのか、自分のこのささやかな旅路の果てはいったいどんなところなのか――そのとき私は、解けるはずもないそんな方程式を心の中でもてあそびながら、詩とは言い難い一篇の我流の詩もどきの言葉を、自らに言い聞かせるように呟いていた。恥をさらすようで少なからず躊躇いを覚えるが、それを最後に記しおいてこのドライブ考の結びとしたい。
渚
たしかこの渚をこころもとない足取りで歩いたような気がします
そう……まだ幼かった頃です もう遠い昔のことです
砂に足をとられながら 寄せる波に小さな靴を濡らしながら……
さがしていました ながいあいだ この渚を……
そのときあなたはひとり坐っていました
すぐ近寄れそうで それでいてどうしても近寄れないところに
歩き疲れて砂の上で眠ったような気がします
ふと気がつくともう夕暮れでした
遠い海面が赤紫に輝いていました
はっとしてあたりを見回すと 渚と垂直に二筋の足跡がつづき
海の中へと消えていました
その日が最後でした あなたの姿を目にしたのは
あれからずいぶんとさがしました 遠い記憶のこの渚を……
砂と波と夕陽が解いてくれるような気がしたからです
わたしという この小さな存在の方程式を……
解けなかったのですね あなたにも
あなたはわざと 解のない方程式を渡したのですね
この浜辺で 幼かったわたしに
解けないことも 解く必要もないことも知りながら
おかげでわたしは生きてきました
小さな謎をいつもどこかで気にかけながら
わたしもまた渡すべきなのでしょうか
わたしもまた残すべきなのでしょうか
解けないとわかっている方程式を……
生命という名の赤いビーズを無数につなぐ
目に見えない細く長い糸として……