(2)旅のはじまり
1年ほどまえから私に自分の死期を予告していた母は、私が中学にはいって間もなく眠るように他界した。横浜生まれの横浜育ちで、青春時代はモダンガールでならしたという母の、それは思い残すこと多き死ではあったろう。当時の私にその意味を読み解くことはできなかったが、臨終の枕元には、まるで対照をなす2冊の本、唯物弁証法の書とバイブルとがそっと並べ置かれていた。
それから3年後、中学を卒業した私は、老いた祖父母を島に残して鹿児島市の高校へと進学することになった。島内には高校がないため進学するなら本土の高校へ進むしかなかったが、そのためにはかなりの費用が必要だった。本来ならとても進学できるような状況ではなかったのだが、周囲の人々の様々な励ましや、受け入れ先の高校の配慮などもあってなんとか通学できるようになったのだった。表向きは勉学のためではあったが、私にとって、それは未知なる空のもとへの巣立ち、逆の言い方をすれば、帰ることの許されない旅路への第一歩でもあった。
ただ、そうはいっても、本土への旅立ちはなんとも胸踊るものであった。甑島から船で薩摩半島西岸の串木野市に渡り、鹿児島本線串木野駅のホームに立ってはるかに続く鉄道線路を目にしたとき、不思議な感動が込み上げてきたのを昨日のことのように想い出す。その線路が遠い遠い日本の果てまでつながっているのだと思うと、それだけで幸せな気分だった。
島にいるはずの祖父が、どこか疲れた様子を全身に漂わせながら、突然、私の住む寮に現れたのは、高校に入って間もない五月下旬のことであった。なぜか上着のあちこちには泥の跡らしいものが付着していた。半ば怪訝そうな顔をして立つ私を見るなり、祖父は、祖母からのものだという一通の封書を私に手渡すと、「おまえに会いに来たんだ。3・4日ここにおいてもらえんか?」と切り出した。
「ないきゃ、こけぇきたと? おらあ、嫌やいどお!(なんでここに来たの? 僕は嫌だよ!)」
里言葉(甑島里村の方言)で、私はそっけなく拒絶の意志を表す一言を吐いた。不意をつかれたうえに、それでなくても、必要以上に他人の目を気にする15・6の反抗期のことである。それが私にできる精一杯の対応だった。
「そうかぁ……」
力のない、なんとも淋しそうな表情を浮かべながら祖父は低くそう呟くと、声をふりしぼるようにして、さらに一言、こう続けた。
「水が……一杯水が欲しい……」
うかつにも、私はまだ、祖父の身体の奥で起こっている異常に気がついてはいなかった。コップを手にして水を汲みに行き、再び部屋に戻ったとき、祖父はもう意識を失って倒れていた。脳卒中の発作が原因だった。なにげなく吐いた冷たい私の言葉が卒中を再発させる引き金になってしまったのだろう。それから一週間ほど昏睡状態が続いたあと、好意で看病を引き受けてくれた知人宅で、祖父はついに意識を回復することなく他界した。急遽島から駆けつけた祖母に見守られながらの死であったが、早朝のことにくわえ、手をはずせないアルバイトの仕事を抱えていた私は、死に目に立ち合うことができなかった。
祖父がすでに2・3度軽い卒中の発作を起こしていたことや、医者をはじめとする周囲の反対を押し切って私に会うために島を出たことなどを、のちに祖母の口から聞いてはじめて知ったわけだったが、すべてはあとの祭りだった。祖父にすれば、自らの死期が近いことを直感しての最後の振る舞いだったのだろう。上着についた泥の跡は、寮を訪ねてくる途中どこかで倒れるかうずくまるかしたときのものだったに違いない。以来、私は、心の奥に痛みを背負いながら、人生の旅路を歩まねばならなくなった。
大戦をはさむ複雑な社会事情の余波をこうむり、晩年、甑島で、細々と農業の真似事をしながら窮乏生活を営まざるを得なかった祖父のそれが最期であったが、この祖父が往時、心血を注いでその建設に関わったモニュメントが東京近辺には当時まだいくつか残されていた。そのひとつが樺美智子の死に象徴される六十年安保闘争の舞台となったのは、それからほぼ二年後のことである。
肝臓癌を患っていた祖母が甑島の自宅で静かに息を引き取ったのは、そのほぼ半年後の十二月二十三日の夕刻だった。和歌山市出身で、のちの人生の大半を京都と横浜で送り、晩年、祖父にしたがって言葉も慣習も違う甑島に渡った祖母にすれば、それは異郷での孤独な死であったに違いない。人一倍気丈だった祖母は、病などものともせずに、島でひとり厳しい日常生活を送っていた。
死の一週間ほど前に自らの最期を予感した祖母は、家の中を一通りかたづけ、障子を張り替えてから死の床に伏したらしい。「らしい」と、ひとごとみたいに書いたのは、私が死に目に立ち合うことを祖母は断固として許してくれなかったからである。死の瞬間まで意識がはっきりしていた祖母は、どうしたものかと様子を見守る近所の人に、自分が危篤だということを私に知らせる必要はないと、毅然として言い放ったのだという。
――いろいろな人にお世話になりながら学んでいるあの子は、自らの責務を優先して果たすべきだ。なにも死に目にあの子を呼び寄せることだけが愛情ではないし、その逆だってあっていいはずだ。人間誰しも、いざ死ぬというときは、結局、ひとりぼっちなのだから――臨終に立ち会った村医などからのちに聞いた話を総合すると、どうやら、そのようなことを言ったらしい。あまりの気迫に圧倒されて、ご近所の人々が危篤の電報を打つのをためらっているうちに、静かに永眠の途についたのだという。いまにしてみれば、確かにそれは、ひとつの愛情にほかならなかったのではと思う。
「ソボシス スグカエレ」というごく短い電報を死後一時間ほどして受け取ったのだが、たとえその日の午前中に危篤の報せをもらっていたとしても、かぎられた船便しかない離島のことゆえ、祖母の死に目には間に合わなかったろう。
巷にはジングルベルの曲が響きわたるクリスマス・イブの晩がお通夜だったが、棺のなかで眠る祖母と対面したとき、なぜか涙は湧いてこなかった。すでに、悲しみの向こうを心の奥で見つめはじめていたからだろう。病弱だった母にかわって、幼少期、様々なことを私に教え、身をもって自然の草木に話しかけながら私の感性を育てあげてくれたのはこの祖母だった。知らず知らずのうちにではあったが、この祖母から教わるべきことは、その時までにすでに教わっていたのだと思う。
出棺を控えた翌朝のこと、なにげなくまえを通りかかった有線ラジオから、軽快ななかにも哀調を湛えた歌声が流れてくるのを耳にした。戦後の一時代を風靡したあの名曲、青い山脈だった。私はしばしその歌声に聴き入っていたが、そのなかでも、「父も夢見た母も見た 旅路のはてのその涯の 青い山脈……旅をゆく 若い我らに 鐘はなる」という最後の一節は、前夜に祖父母や母の若い頃の登山のスナップ写真を整理したばかりだった私の胸を強く激しく揺さぶった。
母にしろ、祖父母にしろ、若い時代、それぞれに夢見た青い山脈があったに違いない。それはそれで胸の高鳴る美しい山脈であったのかもしれない。それに反して、人生の旅路の涯において実際に踏み歩んでみた山脈のほうは、赤茶けてごつごつした不毛の岩のむきだす山々の連なりだった。
でも、母も、祖父母も、自分の運命としてそれを静かにうけいれた。漢詩にでてくる青い山、すなわち「青山」とは、最期の「死に場所」のことを意味するのだよ、と教えてくれた漢文教師の言葉が、一瞬、不思議な真実味を帯びて胸中を駆け巡ったことを想い出す。
棺のそばにもどり、いま一度、静かな祖母の死に顔をそっと見つめると、その口元から、私にだけ聞こえるかすかな囁きが漏れ響いてくるように思われた。
――おまえはもう、ここに帰ってこなくていい。おまえの力で自由に好きなところへ羽ばたいていい。おまえの旅を心ゆくまですればいい。もう誰もおまえを拘束したりはしない。いつかおまえの羽が力尽きたら、そこで静かに眠ればいい。私たちがただひとつ最後してやれるのは、おまえを解放してやることだけだ。私たちの亡骸を埋めた跡がたとえ草むし荒れ果てようと、そんなことは気にしなくていい。帰らねばならぬ場所があると思えば、遠くへ翔ぶ力が鈍る。帰ってなんかこなくていい。おまえがその時々にいるところが、おまえの故郷だと思えばいい。その折々にめぐり逢う人々が、家族であり、故郷の人々であると思えばいい。もしもひとりぼっちになるようなことがあったなら、いつも教えていたように、自然と対話をすればよい。それがおまえの最期を飾る棺なのだ。つまるところ、この私だってそうだったんだから――
それは、紀ノ川を見て育ち、ただの一人の血縁者にも見取られることなく、九州の離島でその生涯を終えるまで、ささやかな歌詠みとして世隅を黙々と生きた祖母が、無言のうちに私に語りかける遺言ともいうべき言葉だった。