はじめに
過日日本地図センターの野々村邦夫理事長と同席した折、「地図中心」においてなにか連載記事を執筆してもらえないかとの依頼をうけた。旅にはよく出かけるものの地図の世界についてはまったくの素人にすぎないとあって、もしお引き受けしたとしても、いざ執筆となった場合自分にいったいなにができるのだろうとすっかり考え込んでしまった。ただ、せっかくの依頼でもあるので、なにかよいアイディアはないものかと想いをめぐらすうちに、大小諸々の歴史上の出来事や種々の社会的な事件あるいは様々な文学作品の舞台となった場所、さらにはそこに登場する有名無名の人物たちのことなどについて書き述べ、そのことを通して関係地域の地図に関心をもってもらうようにしたらどうだろうと考えるようになった。
いうまでもないことだが、表題を「人間ドラマの舞台」としたのはそのような理由からである。内容的には一回読み切りの構成をとるようにし、気まぐれなこの身の足と筆の赴くままに、日本全国各地に散在する人間劇場の有様をあれこれと紹介していきたいとおもう。いささか無節操にすぎるとか表現力や取材力が未熟だとかいったようなお叱りをかうこともあるかもしれないが、それらの点に関しては筆者の非力さに免じてご寛容のほどをお願いしたい。
さて、いささか前置きが長くなってしまったが、新年号スタートの第一回の「人間ドラマの舞台」に選んだのは、九州薩摩半島の西南端に位置する坊津(ぼうのつ)である。
第19回 人間ドラマの舞台
(1)嵐の東シナ海を越えて〈坊津〉
天平勝宝5年(西暦753年)12月20日、今日の太陽暦でいえば1月の中旬頃のこと、薩摩国阿多郡秋妻屋浦、すなわち現在の鹿児島県坊津町秋目浦に一隻の遣唐使船が難破寸前の状態で漂着した。そしてその船から、ひとりの盲目の僧侶が随行の者に手を取られながらその浜辺へと降り立った。その名は鑑真、当時の一大先進国の唐においても一、二を争う稀代の高僧であった。
唐にならった律令国家体制が整い、その根幹をなす仏教も隆盛を極めるようになっていたが、その頃の日本には仏教本来の厳格な戒律にのっとり授戒をおこなうことのできるような高僧は皆無だった。そのために聖武天皇はひそかに鑑真のもとに使者を送り同師に日本渡航を要請した。現代の超一流学者にも相当する高僧の国外流出を防ぐため唐王朝は厳しい規制を敷いていたが、奈良朝廷の度重なる要請に意を決した56歳の鑑真は、西暦743年、果敢にも日本への密航を企てたのだった。
不運にもこの最初の密航計画は弟子のひとりの密告により挫折のやむなきにいたったのだが、鑑真は同年の12月に真冬の東シナ海の荒波をついてさらに2回目の日本渡航を試みた。しかし天運はなおも鑑真に味方せず、狼溝浦というところであえなく遭難、再び密航は失敗に終わった。そのさらに一年後の西暦744年、鑑真らは第3回目の渡航計画を慎重に練り上げたが、またもや密議が発覚、先導役の日本人僧栄叡が捕らえられ計画は頓挫した。それでも懲りない鑑真は同年の冬に天台山巡礼を表向きの理由として揚州から南下、東シナ海沿いにある日本渡航船の待機地に回って出国を図ろうとした。ところが、厳重警戒中の唐の役人に身柄を拘束され、再び揚州へと護送される羽目になった。
4度目の渡航失敗から四年間、鑑真は平静を装い続けていたが、西暦748年6月密かに揚州を離れて9月に暑風山に到着、そこで風待ちをしていた船に乗って10月半ば奄美、阿児奈波(沖縄)方面に向かって出帆した。しかしながら東シナ海で船は激しい嵐に遭遇、航行能力を失って一ヶ月ほど海上をさまよったあと現在のヴェトナムに近い海南島に漂着した。容赦ない潮風と強烈な太陽、さらには食料や飲料不足のもとでの苛酷な漂流によって体力を消耗した高齢の鑑真は、その航海でとうとう失明してしまったのだった。
5度目の渡航失敗から五年を経た西暦753年の10月半ば、遣唐使正使の藤原清河らは揚州延光寺を訪ね、遣唐使帰国船に同乗して日本へ渡航してくれるよう鑑真に密かに要請、極秘のうちに揚州を出た鑑真は、蘇州黄泗浦において11月16日の出航を直前にした遣唐使船団の第2船に乗り込んだ。当然それは密出国だったから後日の唐との関係悪化なども懸念され、遣唐使らの間にも計画決行に躊躇いがあったという。
遣唐使船団は通常4隻編成で、この時の第1船には正使藤原清河のほか、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」の歌で有名な阿倍仲麻呂が乗り込んでいた。鑑真が乗ったのは要人の乗る第1船ではなく第2船のほうであったが、それは役人の監視の目を忍ぶ必要があったからだった。そして、結果的にはそのことが幸いした。
藤原清河や阿倍仲麻呂の乗る第1船は出航後ほどなく東シナ海で遭難、かつての鑑真の場合と同様に海南島周辺に流れ着いた。また、第3船は暴風と黒潮の勢いに翻弄されて太平洋側に押し流され、紀伊半島南部の田辺付近に無残な姿で漂着し、第4船は薩摩半島の南端にある現在の頴娃町付近の荒磯に難破船の残骸となって打ち上げられた。
構造的欠陥や操船技術に問題の多かった当時の帆船は風まかせの航海をするしかなかった。そのため、日本へ帰る遣唐使船は、晩秋から冬期に吹く北西の季節風に乗って中国大陸を離れたあといったん琉球諸島や奄美諸島のいずれの島かに立寄り、そのあと黒潮や対馬海流に乗りながら種子島・屋久島などの薩南諸島周辺まで島伝いに北上、天候をみはからって坊津に入港するのが常であった。揚子江河口のほぼ真東に位置している坊津への直行は不可能だった。鑑真一行の乗った第2船は沖縄に着いたあと、海流に乗って無事に屋久島まで北上した。だが、屋久島から坊津に向かう90kmほどの航行中に激しい、嵐に遭遇、一時は方向を失い太平洋側に流されかけもしたが、辛うじて遭難を免れ、いまにも沈んでしまいそうな状態で坊津秋目浦に着岸したのだった。
坊津が良港とされたのは、中国大陸に直接面する地理的位置や琉球諸島西沖で黒潮本流から分岐し北上する対馬海流がその沖合を流れていることのほかに、同地のそなえもつ特殊な地形的構造があったからだった。一口に坊津というが、北側から順に、秋目浦、久志浦、泊浦、坊浦と、それぞれ複雑な形をした4つの入江がほぼ西に向かって並んでおり、それら全体を含めたものがいわゆる坊津だったのだ。いうなれば、5本の指を広げたような地形の四つの指間に相当する部分がそれぞれ入江になっているようなものである。
しかも各々の入江の奥には船の停泊に適した2重、3重の小さな入江が形成されていて、外海の風浪から停泊船がしっかりと守られる地形になっていた。満足な海図や羅針盤などない時代の風まかせ浪まかせの木造小型帆船にとって、4つの浦のどれかに辿り着きさえすれば当面の安全が保証される坊津は願ってもない良港であった。なかでも激しい風浪に翻弄され難破寸前になっている船などの漂着地としては、これほどに条件のよい場所はなかったことであろう。開聞岳や野間岳のような航海の目印となる山々が近くにあったのも古代の舟人には幸いなことだった。
10年にわたる苦難の末、初めて坊津秋目の地を踏んだとき鑑真はすでに66歳になっていた。仏教の教えにある大勇猛心の化身のごとき鑑真は、ようやくにして降り立った異郷の地でいったいどのような感慨を抱いたのであろう。坊津で修理と補給を終えたあと鑑真一行を乗せた船は九州西岸に沿って航行し、有明海の最奥にある現在の佐賀県久保田町付近の浜辺へと到着した。そのあと鑑真らは陸路大宰府入りし、博多津に出て再び用意された船に乗り、瀬戸内海を通って難波津に入港した。そして唐を出た翌年の2月4日に聖武天皇の待つ平城京入りを果たしたのだった。故郷揚州を立ってから平城京に到着するまで実に3ヶ月半にも及ぶ長旅であった。
ちなみに述べておくと、東山魁夷画伯筆の唐招提寺障壁画「濤聲」のモデルとなったのは秋目浦ではなく坊浦の双剣岩とその一帯の厳冬期の光景である。東山画伯は鑑真が初めて坊津の地を踏んだのと同時節に同地を訪れ、海の荒れる日を選んではスケッチに勤しんでおられたという。