(2)もうひとつの黒船〈戸田〉
伊豆達磨山の北肩、戸田峠から西方に向かってカーブの多い急坂をいっきに下ると静かな入江に面する漁業の町戸田(へだ)へと出る。深海魚料理をはじめ、新鮮な魚料理で知られる町で、西伊豆の北部、より正確にいうとかつて金山のあった土肥と西伊豆最北端の大瀬崎とを結ぶ海岸線のなかほどに位置している。駿河湾に向かって左手から大きく海中にのびでた砂嘴によって守り抱かれるようにして静かな入江が形成され、風光明媚な天然の良港となっている。戸田から駿河湾をはさんで眺める富士の山容は雄大で実に美しい。
三方を数百メートルの険しい山々に取り囲まれたかつての戸田は陸の秘境という言葉そのままの存在であった。北側の足保から戸田へと越える真城峠は500m、東側の修善寺から越える戸田峠は730m、南の土肥方面から越える駿馬山は600mあるとあって、戸田への陸路入りは容易ではなかった。そもそも、足保、修善寺、土肥などに行くことさえも交通の便の悪かった時代には大変な難事であった。
1854年(安政元年)12月初旬のこと、この戸田村に突然500人ほどのロシア人が護送されてきた。幕府の特別なはからい基づく戸田村入りであったが、以後6ヶ月にわたって500人ものロシア人たちとともに暮らすことになった村民たちの驚きはたいへんなものだったろう。そのほぼ一ヶ月前、米国のペリーらと前後して開港交渉のため下田に来航していたプチャーチン指揮下のロシア軍艦ディアナ号は、紀伊半島南端沖が震源の大地震に起因する大津波に遭遇、舵その他を大破して航行不能の状態に陥った。下田周辺でディアナ号の修復作業をおこなうと、クリミア戦争においてロシアと敵対関係にあった英仏などの艦船に目についてしまい幕府外交上も不都合だと考えた幕閣川路聖謨は、韮山代官江川太郎左衛門やディアナ号関係者と急遽合議し、外国艦船に見つかりにくく艦の修理にも好適地だとロシア人らが判断した戸田村への回航を指示した。
しかし、大砲60門をそなえる2,000トン級の大型木造帆船ディアナ号の回航は困難をきわめ、地元漁民やロシア人船員らの必死の作業にもかかわらず折からの冬の嵐に翻弄され、戸田の北西方向8kmほどの駿河湾奥で沈没した。カッターボートやランチに分乗し辛うじてディアナ号を脱出したプチャーチン提督以下約500名のロシア人乗組員は、地元漁民の助力でいったん宮島村(現在の富士市宮島)に上陸した。そして、それからほどなく、2日をかけ陸路徒歩で戸田村へと護送された。
ロシア人たちがみな地元民に深く感謝し終始紳士的に振舞ったこともあって村人との関係はきわめて友好的であったという。村人はロシア人ら一人ひとりにたニックネームをつけ、彼らと親しく交流していたらしい。むろん他地域からの一般人の往来は厳しく取り締まられていたのだが、この戸田の地において、当時としては異例ともいえる日露間の国際協力のもと、歴史的な一大事業が繰り広げられることになったのである。
遭難したロシア船員のなかには、のちに飛行機の設計製作でも有名になったモジャイスキーという優秀な技術将校が含まれていた。彼の技術指導のもと、戸田の入江の砂浜においてロシア帰国のために80トンほどのスクーナー型帆船が建造されることになった。有能で開明的な人物としても名高い幕閣川路聖謨や配下の韮山代官江川太郎左衛門は造船資材を幕府が提供するよう便宜をはからい、さらに国内各地の高名な船匠7名をはじめとする40名ほどの船匠のほか、西伊豆各地の船大工を多数戸田へと召集した。それら船匠や船大工に幕府の諸役人や村の関係者、人夫を合わせると日本人だけでおよそ300名、さらにロシア人500名を加えると実に800名もの人間がこの一大事業に参画することになった。
プチャーチンによって戸田号と命名された全長22m、2本マストの本格的なこの様式帆船は、着工から3ヶ月たらずという当時としては驚異的なスピードで完成された。船舶工学にのっとった強靭な竜骨構造をもつ木造船が我が国で建造されたのは初めてのことで、川路の狙いのひとつはその高度な造船技術を国内の船匠らに修得させることにあった。攘夷派の中心的人物で当初「ロシア人を皆殺しにせよ」とまで唱えた水戸斉昭までが、最後には自らの家臣やのちに石川島播磨重工の基礎を築いた自藩の船匠らを戸田に送り込み、戸田号の建造現場を体験視察させたというから、当時としてはきわめてセンセーショナルな出来事であったのだろう。実作業の監督にあたった7人の船匠たちは細大漏らさず船の製作過程の記録をとり、国内でのその後の様式帆船建造にそなえようと学び努めた。
ただ、戸田号の建造に加わった日本人船匠らは受身いっぽうであったわけではない。全体的な船の骨格造りの段階ではロシア人技師たちの指導が大きな力となったが、細部の作業や表面仕上げの段階になると手先の器用な日本人船匠たちの技術とアイディアが活かされ、その素晴らしさにロシア人たちはみな舌を巻きもしたという。わずか3ヶ月間の戸田号建造の経験を通してスクーナー型帆船の製作技術を修得した船匠らは、ロシア人一行が無事帰国したあとも6隻の同型帆船を次々に完成し幕府に納入したのだった。また、それら船匠やその弟子たちは、江戸、横須賀、浦賀、長崎、大阪、神戸をはじめとする国内各地の造船所に散り、今日に至る我が国の造船業界発展の礎を築いたのであった。
母国の事情により帰国は急を要したため、実際には戸田号の完成直前の1855年(安政2年)2月末、約150人のロシア人が米国籍の傭船カロライン・E・フート号によってまず帰国し、プチャーチン以下の約50人が完成したばかりの戸田号で3月22日に戸田をあとにした。そして残りの300人ほどは6月1日ドイツ国籍の傭船グレタ号で帰国の途についた。戸田号は翌年の10月ハバロフスクから戸田に回航され、徳川幕府に返還された。そしてのちの函館戦争では榎本武揚の指揮下に入って官軍と戦い、敗れてその地で廃船となった。
現在では戸田湾の砂嘴の一角に美しい松林に囲まれた造船郷土資料博物館が設けられ、ディアーナ号の遺品をはじめとする貴重な関係資料が展示されている。首都サンクト・ペルブルグに戻りのちにロシアの大臣にもなったプチャーチンには、日露友好の功労者として明治政府から勲一等旭日章が贈呈されている。ロシア国民と戸田の人々との親交は今日にいたるまで絶えることなく続いているという。