夢想一途バックナンバー

第29回 人間ドラマの舞台

(11) 穂高町――日本近代彫刻の祖、荻原碌山生誕の地

ロダンの教えに殉じた碌山

北アルプス常念岳と有明山とを間近に望む穂高町は信州安曇野のなかほどに位置している。穂高町というと、ほとんどの人はチャペル風の美しいデザインで知られる碌山美術館を想い浮かべることだろう。この美術館は、日本近代彫刻の祖と謳われる大彫刻家荻原碌山の業績を讃え、昭和三十三年、碌山の生地、穂高町に創設された。前面を蔦の蔓と葉で覆われた煉瓦造りの建物の特異な存在感や、同館所蔵の碌山の彫刻作品に魅せられた私は、若い頃から足繁くこの美術館に通ってきた。

穂高の旧家の若当主相馬愛蔵のもとに、才色兼備で鳴る二十一才の星良、すなわち相馬黒光が嫁いできたのは明治二十九年のことだった。彼女の恩師星野天知は「到底何かやらなければ成仏できそうもない光」を放つその瞳の輝きを「暗光」と呼んだ。星良は、その「暗光」という言葉に示唆され、自ら「黒光」と名乗るようになった。先練された都会的感覚の持ち主であった黒光が安曇野に嫁してきたのは、当時彼女がワーズワースなどのロマン派詩人に傾倒し、田園生活に憧れていたからでもあったらしい。稀代の知性と美貌とを武器にして、既に多くの文士や芸術家らと交流のあった黒光は、嫁入り道具に添えるようにして一枚の絵画を持参した。長尾杢太郎筆の「亀戸風景」というその一幅の風景画は、彼女より三歳年下の青年荻原守衛に衝撃をもたらし、はからずもその運命を大きく決定づけることになった。相馬愛蔵が主宰する東穂高禁酒会の会員だった地元の青年守衛は、その縁で愛蔵の美しい新妻黒光を知るところとなり、彼女の鋭い知性と豊かな感性に圧倒された。その胸中に彼女への抑え難い思慕の念が湧きあがったのも当然であったろう。その黒光から荒川河畔に牛が佇む様子を描いた「亀戸風景」を見せられた時、若い守衛の魂は激しく燃え昂ぶった。彼が芸術の道を志そうと決意したのはまさにその瞬間であったという。二十一歳になった守衛は、黒光の紹介のもと、巌本善治を頼って上京、明治女学校内の深山軒に仮寓し、その二年後の明治三十四年、渡米してニューヨークの画学校に入学した。

同じ頃、相馬愛蔵夫妻のほうも穂高での生活に区切りをつけて上京、本郷の東京帝国大学前にあったパン屋「中村屋」を屋号ごと譲り受け、その新事業に精を出すようになった。日本初のカレーライスなどが帝大生や上野の美校の学生らの間で大評判となって中村屋は大繁盛し、明治四十二年には新宿駅前に移転、現在の新宿中村屋の基礎が出来上がった。各界に幅広い人脈をもつ黒光の才覚もあって中村屋はますます発展の一途を辿り、多くの文人や芸術家らのサロン的役割を果すようになっていった。

いっぽう、ニューヨークの画学校生活に行き詰まりを感じた守衛は、一時的に渡仏してパリの画学校に入学した。そして、その地でたまたまロダンの彫刻「考える人」との運命的な出逢いをし、その結果天啓ともいうべき衝撃をうけた彼は、彫刻家になろうと意を新たにしたのだった。いったんニューヨークに戻って身辺の整理を終えた守衛は明治三十九年に再び渡仏し、美術学校アカデミー・ジュリアンに通い彫刻の修業に専念するようになった。美術雑誌に紹介された「考える人」の写真を一目見てやはりロダンに傾倒、渡欧していた若き日の高村光太郎と廻り逢い、互いに親交をもつようになったのはこの時代のことだった。やがてロダンのアトリエに出入りしてその教えを乞うようになり、彫刻の腕にいちだんと磨きをかけた守衛は、「女の胴」、「坑夫」などの秀作を次々に生み出していった。守衛が「碌山」と号するようになったのはこの頃からであったようだ。明治四十年、二十八歳になった荻原碌山は、盟友高村光太郎が激賞した作品「坑夫」を携えて帰国した。碌山美術館が現蔵しているその作品を母国に持ち帰るようにと勧めたのは光太郎であったという。帰国した荻原碌山は、相馬夫妻が営む新宿中村屋の二階に仮住まいし、近くに設けたアトリエに通いながら作品の制作にとりかかった。アトリエと言えば聞こえはいいが、実際には麦畑やトウモロコシ畑の中に立つ六畳一間ほどのバラック小屋だったらしい。

「愛は芸術なり。相克は美なり」という有名なロダンの芸術思想を継承した碌山は、このうえなく甘美な、しかしまた救い難い葛藤と愛憎とに彩られた世界に自らの魂を投じ、そこに彫刻表現の根源を求めた。愛の相克のもたらす美に文字通り命をかけていったのである。青春期に安曇野で出逢って以降、若くして他界するまで、碌山の黒光に対する深い思慕の念は変わることがなかった。相馬愛蔵が安曇野に愛人をつくり黒光との不和が囁かれるようになると、碌山は黒光母子を連れて渡米することさえも考えたといわれているから、その懊悩は並大抵のものではなかったのだろう。自らの意志では如何ともし難い胸中の苦悩を叩きつけるようにして、碌山は「文覚」、「ディスペア」、「労働者」といった作品を制作した。「文覚」は芸術としての彫刻が何たるかを初めて我が国に知らしめる歴史的記念作品となった。モデルとなった文覚上人は、北面の武士だった頃に恋慕した人妻、袈裟御前を誤って殺め、その苦悩のゆえに出家して仏門に入った実在の人物だけに、碌山には黒光に対する自らの処し難い気持を重ね見る想いがあったのかもしれない。絶望に悶える女の姿をテーマにした「ディスペア」は、碌山と黒光の複雑な心的関係やそのゆえの葛藤が形を変えて表され、類稀なる芸術作品へと昇華したものだと考えることもできるだろう。

明治四十二年の暮れ、自らの命の炎に避け難い翳りと揺らぎとを感じた碌山は、精魂を傾けて一つの作品の制作に取りかかった。伝記の語るところによれば、塑像を作る粘土が凍結するのを防ぐため、毛布はおろか自分の着衣までも覆いとして用い、碌山自身は暖房器具一つない貧しいアトリエの中で立ち震える有様だったという。翌年の明治四十三年三月半ばに「女」と題されるその作品は完成した。完成直後に碌山のアトリエに通された黒光の子供たちが、一目見るなり「あっ、母さんだ!」と叫んだというその塑像こそは、碌山最後の、そしてのちに明治期最高の傑作と評されるようになった作品だった。膝を立て、両腕を後手に組んで豊かな乳房を誇示するかのように胸を張り、こころもち右へと首を傾け、両眼を閉じてわずかに口を開き悩ましげに天を仰ぐその像は、まさしく相馬黒光その人の裸形そのものだったのだ。「女」を完成して一ヶ月後の四月二十日、中村屋奥の相馬家居間で友人達と談笑中、突然に碌山は吐血し、二日後の早暁、相馬夫妻や駆けつけた多くの知己の見守るなかで絶命した。時に碌山三十歳五ヶ月、天才にありがちな夭折であった。

碌山の他界から数日後、主なき碌山のアトリエに一人佇む黒光の姿があった。黒光は死の床で碌山から密かに手渡された合鍵で故人愛用の机の引き出しを開け、一冊の日記帳を取り出した。そして碌山に指示された通りに、歓喜や苦悩の文字のびっしりと書き込まれたその日記帳の一枚一枚をむしりとり、深い想いを押し殺すようにして火にくべた。立ち昇る煙が天上遥かな碌山の魂に届けとばかりに、黒光は、情念の写し絵とでもいうべき紙片の数々を燃やし去った。荻原碌山の遺骸は列車で信州穂高の実家に運ばれ、北アルプス常念岳を望む安曇野の一隅に埋葬された。碌山の遺作「女」は、女性の裸像など芸術ではないとする時代の偏見に打ち勝ち、その秋の第四回文展において、「この一品をもって及第品中の最高傑作と断ずる」と評価された。日本近代彫刻の金字塔ともいうべき「女」は、碌山が文字通りその命を賭け、最後の血の一滴までも絞り尽して完成させた作品であった。

万水川に魅せられて

「これからどちらへ?」――眼鏡の奥にいたずらっぽい笑みを湛えた見知らぬ老人に穂高の駅前でそう声をかけられたのは、生まれたばかりの樹々の緑が西陽をふくんでやわらかく輝く、ある初夏の夕刻のことだった。驚く私に向かって老人はさらに続けた。

「あなたは昨日、碌山美術館のベンチでノート片手になにやら想いに耽っていましたよね。あのとき、私も客人を案内して碌山美術館を訪ねていましてね。それでたまたまあなたの寝そべっているベンチのそばを通り過ぎたんです。妙に印象に残っていましたんでね」

老人はそう言ってまた愉快そうに笑った。見るからに上質な麻織りのシャツを前開きにして着流し、太い黒縁のサングラスをかけたその姿には、なんとも不思議な存在感が漂っていた。これが、石田達夫と名乗るその老人と私との運命的な出逢いであった。

穂高町有明に住むというその老人は、そのあとすぐに、有名なワサビ園の近くを流れる万水川(よろずいがわ)の水辺へと私を案内してくれた。なにげなく川面に目をやった私は、次の瞬間思わず息を呑みこんだ。満々と水を湛えたその川の水面は、北アルプスの綾線近くまで傾いた西陽に美しく輝き映えわたっていた。眼下を流れる水は透明そのもので、深くて速い水の動きにもかかわらず川底までがはっきりと透き通って見えた。水中には若緑色の美しい水草が繁茂し、下流方向へと大きくたなびき搖れる緑の水藻のあちこちには、水梅花とおぼしき小さな白い花が清流で身を清めるかのように咲いていた。また、下流側両岸にはミズナラをはじめとする好水性の樹木が密生し、かなりの幅のある川筋全体を両側から覆い守るようにしてしなやかな枝を伸ばしていた。岸辺よりの水面にやさしく影を落とす樹々もみな命にみなぎり、梢の葉の輝きは鮮烈そのものであった。水辺ぞいの土手の斜面では、タンポポをはじめとする黄色い花々が、野の虫たちを誘いかどわかすかのようにその鮮かな輝き競っていた。そして、上流左手の川岸には二、三軒の水車小屋が建ち並び、昔風の大きな木造りの水車が時の流れに抗うかのようにゆっくりと回っていた。眼に飛び込んでくるなにもかもが美しく、ただただ信じられないような光景であった。

「この川はいつも私の心身を癒してくれるんですよ」と老人が語ったその万水川こそは、この地で育った荻原碌山が、終生、「心の原風景」として愛し続けた川でもあったのだ。しかも、この万水川にはいまひとつおまけがあった。黒澤明の「夢」という映画のラストシーンに清冽な水を湛えた美しい川のほとりの長寿村が登場する。川の両岸には花が咲き乱れ、何基もの大きな水車がゆっくりと回っている。この村では、長寿を全うした者が死ぬということは大変にめでたいことだとされる。村人総出の明るく賑やかなムードの葬儀においては、楽隊が先頭に立ち、全身を花で飾った若い女の子たちが笑顔で踊りながらそれに続くといった具合なのだ。そして、ヤッセー、ヤッセー、バンバカバンという掛け声と楽隊の奏でるリズムに乗って、美しい川伝いにお祭りなみの葬儀の行列が進んでいくところで映画は終わる。そのラストシーンの舞台となったのがなんとこの万水川だったのだ。

運命のいたずらはさらに続き、私は穂高で出逢ったその不思議な老人石田達夫をモデルにした伝記小説「ある奇人の生涯」(朝日新聞アスパラクラブで連載中)を執筆することになった。しかし、その老人も四年前に他界し、もうその姿を目にすることはできない。

安曇野と常念岳

安曇野と常念岳

万水川

万水川

碌山 作 「労働者」

碌山 作 「労働者」

碌山美術館

碌山美術館

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