(23)和島村、国上山、出雲崎――良寛の足跡を訪ねて
良寛の生涯とその終焉の地
長岡から新潟方面に向ってしばらく国道を進み、信濃川に架かる与板橋を渡って与板町に入り、かつて良寛が幾度も往来したという塩之入峠を越えると和島村に至る。この和島村のJR越後線小島谷駅からほどないところに隆泉寺というお寺があり、その境内の木村家墓地の中にはあの有名な良寛の墓が建っている。今回が二度目の墓参ではあったが、あらためてその墓を訪ね、良寛という人物の生涯を偲んでみることにした。
出雲崎で代々名主を務める橘屋、山本新左衛門の長男として生まれた良寛は、成長するにつれて仏門に強く心を惹かれるようになり、18歳を迎えた安永4年(1775年)には仏道の修行のために尼瀬光照寺に入った。そして22歳の時にたまたま来越していた国仙和尚に随行して備中玉島(現在の岡山県倉敷市)の円通寺に赴き、その地で本格的な修行を積むことになった。その地で大愚良寛と称しつつ勤行に励んではいたのだが、師である国仙の逝去や父新左衛門の桂川での入水などさまざまな不測の事態が折り重なり、39歳の時に半ば僧門を離れるかたちで玉島をあとにし故郷の越後へと戻ってきた。その後、彼は赤貧に甘んじながら出雲崎や国上山麓一帯を転々とし、一所不定、現代風にいうなら「住所不定、無職」同然の生活を続けることになった。そして50歳も近くになってから、それまでにも折々寄居していた国上山五合庵に定住した。
いっぽう、この頃になると、和歌や漢詩、墨書をはじめとする諸々の芸術分野での良寛の卓越した才能と業績、さらにはその人徳の高さなどが国中に広く知れわたるところとなり、各地から文人墨客らが次々に五合庵を訪ねてくるようになった。「沙門良寛」などとも称しながら五合庵に10年ほど定住した後は同じく国上山麓の乙子祠脇の草庵に移り住み、69歳以降は、島崎村能登屋、木村元右エ門邸に寓居するようになった。当時まだ30歳の若さだった美貌の貞心尼がはじめて良寛を訪ねてきたのはその1年後、すなわち、良寛が70歳になった時のことである。
長岡藩士の娘として生まれた彼女は、生みの親と幼くして死別、成長してからもその並みはずれた美貌と才気とが逆に災いし、浮世の辛酸を舐め尽くすことになった。やがて、彼女は柏崎近くの浄土宗閻王寺に駆け込むかたちで尼となり、ひとかたならぬ修行を積んだ末に貞心尼と名乗るようになった。良寛を訪ねてきた当時、貞心尼は長岡在福島の閻魔堂に独りで住んでいた。それからわずか4年足らずの間に繰り広げられた良寛と貞心尼との交流と心の絆の深め合いについては、広く世に語り伝えられている通りである。
初めて良寛のもとを訪ねた時の感動を貞心尼が「君にかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞ思ふ」と詠むと、良寛はそれに応えるかたちで「ゆめの世にかつまどろみてゆめをまたかたるも夢もそれがまにまに」という歌を詠み返している。二人にとって、それは年齢を超えた文字通りの運命的な出合いであったのだろう。
良寛が貞心尼に別れを告げ、静かに天上界へと旅立っていったのは、天保2年(1831年)新春の夕刻のことであったという。「いきしにのさかひはなれてすむみにもさらぬわかれのあるぞかなしき(俗世の生死の境地を超えた仏門に帰依するこの身にもまた、避けがたい別れのあることのなんと悲しいことでございましょう)」という貞心尼の歌に対して良寛が返した、「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」という一句は、はからずも彼の辞世の句となったという。
聖俗両面を合わせ持ち、悟りの世界と煩悩苦の世界との狭間を生涯自然体で生き抜いた人間良寛の散り際を飾るにそれはなんともふさわしい一句であった。はらはらと散りゆく紅葉に良寛自身の姿が重ね合わされていたことは言うまでもない。良寛と貞心尼との四年近くにわたる心の交流の一部始終を述べ伝えた貞心尼の自筆稿本「はちすの露」は、「天保二年卯年、正月六日遷化、よはひ七十四――貞心」という一文で結ばれ、貞心尼の深い悲しみを暗示でもするかのようにそこでぷっつりと終わっている。のちに貞心尼の墓碑に刻まれることになった彼女の辞世の歌、「来るに似て帰るに似たり沖つ波立ち居は風の吹くに任せて」のイメージは、師、良寛の臨終をまえにしての深い想いを通して生まれたものではないかと考える研究者もあるようだが、言われてみると、たしかにと頷けるふしがある。激しく吹き狂う風に翻弄され、寄せ来るでも引き去るでもなく逆巻き立ち騒ぐ沖の波を貞心尼自身の人生に見立てれば、この歌に秘められた想いは自然と見えてくる。寄せる波を紅葉の表に、また引きゆく波を紅葉の裏に、そして波を起こす風を紅葉を散らす風に対応させれば、両者の奥に流れている人生回想の本質は同じものだからだ。
良寛の墓に秘められた物語
良寛の墓は、いまや伝説ともなっている清貧そのものの生涯からはとても想像できないほどに立派なものである。石碑の幅は悠に1mを越え、高さのほうは台座も含めると3m近くにも及ぶのではなかろうか。当時の有力者らが良寛の徳を讃えて建てたものであったにしても、ちょっとやり過ぎみたいな気もしなくもなかったので、初めて目にした時には、あの世の良寛は顔をしかめているかもしれないな、などという想像をめぐらせたりもした。
だが、あらためてよくよく調べてみると、そんな想いはどうやら私の不勉強による早とちりのせいであったようなのだ。新潟県柏崎の出身で、良寛の研究者として知られる北川省一著の本によれば、この墓碑は時の有力者達の手によって建てられたものではなく、生前に良寛を慕った越後の無名の人々の手で、良寛の没後2年経った天保4年に建立されたものなのだという。良寛の死を悲しんだ越後の人々は「石碑料志」と記した奉加帳を作って募金にかけまわり、資金を集めたうえで、寺泊の七つ石というところから花崗岩の巨石を運びこみ、この地方には類をみないような大墓碑を建てたのだそうである。厳しい身分制度の敷かれていた徳川幕府の治政下においは、墓の大きさにもおのずから制限があった。徳川幕府の政策を愚かと断じ、幕府の庇護下にあって権勢を貪る僧侶や文人たちを鋭く批判し続けた良寛は、権力者の立場からすれば、乞食坊主と唾棄すべき追放僧の身に過ぎなかった。だから、没後2年のうちにこれほど巨大な墓を築き、「良寛禅師墓」と大きく刻み込むなどということは、当時の身分制度に真っ向から挑戦する行為でもあったのだった。しかも、その墓碑の銘文は、苦悩多き生涯を生き抜いた良寛のかねてからの想いを象徴する歌や、人心から遊離した宗門に対する厳しい告発と訓戒の言葉を刻んだものだった。
良寛の死後、幕府や宗門からの指示を受けた出雲崎の代官所は、良寛の歌稿その他の手稿類の強制的な提出を命じたり、関係者の取り調べをおこなったりしたという。そして、追放僧良寛の巨大な「禅師墓」を取り壊そうともしたらしい。
しかし、良寛その人のあまりにもまっとうな精神と主張、さらにはなんとも的を射た碑文のゆえに、さすがの権力者達も墓碑に手をだすことはできなかった。権力者が無理に墓碑を取り壊しでもしていたら碑文そのままの蛮行となって、国中の民衆から笑いものにされ、たちまち権威を失墜したに相違ない。それにしても、墓碑を建てるに先立ち、権力者の手を巧妙に封じる仕掛けを案出した民衆の知恵は相当なものである。
初めて良寛の墓を訪ねた時のこと、私は1羽の雀の子が時折チュンチュンと鳴き声をあげながら参道脇にうずくまっているのを発見した。巣から落ちたか巣立ちはしたもののうまく飛べずにその場に舞い降りたものらしく、遠巻きに様子を窺っていると、2羽の親雀がたまに飛んできては餌をやっているところだった。猫に狙われでもしたらひとたまりもないので、心配しながらしばらくじっと見守っていたが、自らも旅の身ゆえ一緒に連れていくわけにもゆかず、ここは親雀の知恵と愛情に子雀の運命を任せるしかないと決断した。うしろ髪をひかれる思いでその場をあとにしながら、自然の摂理とはなんとも厳しいものだろうとあらためて感じもしたが、良寛が目にして自らの無力さに打ちのめされたという地獄絵図、すなわち当時の庶民の悲惨な現実は、そんなものとは較べものにならぬほどに救い難いものであったに違いない。
国上山五合庵から出雲崎へ
良寛の墓をあとにすると、国上山国上寺の一隅にある五合庵を訪ねてみた。現在残る五合庵は大正3年に再建されたもので、良寛が定住していた当時の建物とは構造もずいぶんと異なっているようなのだが、その位置そのものは現在の地点と変りはなく、全体的な規模もほぼ同程度のものであったらしい。五合庵はブナやナラなどからなる深く静かな樹林帯の中に国上寺の本堂などからひとつだけぽつんと離れて建っている。豪雪と寒風に見舞われる厳冬期の過酷な自然状況に耐えながら、山深いこの小さなお堂で暮すのは容易なことではなかったであろう。ちなみに述べておくと、五合庵は良寛の時代よりもかなり以前に建立されたもので、そこの五人目の住人となった良寛は、それに先立つ僧侶らのように国上寺そのものに対し直接的な貢献をした人物ではなかったようである。
和島村の良寛の里美術館や出雲崎の良寛記念館には良寛の遺墨、遺品の類が数多く展示されている。自由奔放な良寛の墨跡を眺めていると、筆を執っているときだけは現世の苦しみから解放され、文字を書いていることさえも忘れて無心に紙と戯れていたのではないかとも思われてくる。美しく書こう、立派に仕上げよう、世間から大きな称賛を得ようなどという卑俗な意識を超越した良寛の姿をそこにははっきりと感じ取ることができる。ただ、だからと言って、私は良寛という人物が超然たる悟りの人だったとは考えていない。浮き世という名の濁流のなかにあって自らも濁りの一因をなしつつ生きているにもかわらず、それ自体の輝きはけっして濁ることのない石英の砂粒にも似た存在であったように思われてならないのだ。また、だからこそ、その人柄が類稀なものとして後世まで語り継がれるようになったのであろう。
海を挟んで佐渡島と向き合う出雲崎には良寛堂が建っている。日本海をすぐ背にしたこの記念堂は、一帯の名主でもあった良寛の生家、橘屋の跡に建てられたものである。往時の出雲崎の橘屋は本土と佐渡島との間を往来する幕府役人や商人らの乗る船、さらにはそれらの者たちの宿泊所を仕切る業務を請け負っていたのだ。なお、その良寛堂からほどないところには松尾芭蕉の銅像の立つ芭蕉園が設けられている。奥の細道の中のあの名句、「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのかわ)」を芭蕉が吟じたのは、ほかならぬこの出雲崎の地であったという。漂白の旅に全身全霊を傾けた先哲松尾芭蕉の生き方が、その偉業を慕う後世の良寛の人生にすくなからぬ影響を与えただろうことは想像に難くない。