(5)「夜明け前」の舞台となった藤村の生地〈馬籠(まごめ)〉
島崎藤村の「夜明け前」は、「木曽路はすべて山の中である」という有名な冒頭の一句に始まり、「(中略)馬籠は木曽十一宿の一つで、この長い渓谷の尽きたところにある。西よりいる木曽路の最初の入口にあたる。そこは美濃境にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山道をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。街道の両側に一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる」という一文に続く。
明治5年3月25日、藤村(本名・春樹)は、この作品の舞台となった旧中山道の馬籠宿で本陣、問屋、庄屋を兼ねる旧家の当主島崎正樹の四男として生まれた。ちなみに述べておくと、本陣とは諸大名の参勤交代や幕府役人、公家衆の通行に備えた特別な宿屋のことで、各宿場町でも草分け的な存在の名家が選ばれるのが常であった。昨年まで長野県木曽郡山口村の一部だったこの馬籠は、山口村の越県合併に伴い今年から岐阜県中津川市に所属するようになった。
9歳まで馬籠で育った藤村は、上京して泰明小学校に転入、その後15歳から19歳までの多感な時代を明治学院で学び過ごした。自由な校風で知られた当時の名門明治学院には外国人講師が多数いて、物理学、化学、論理学、心理学、経済学などの講義も英語で進められていたという。歴史学の講義などではグリーンの英国史の原書が用いられ、授業はむろん終始英語でおこなわれた。厳しい中にも自由闊達な雰囲気の漂う恵まれた教育環境のもとで、近代文学者としての藤村の資質が大きく磨き高められたであろうことは想像に難くない。
旧中山道は西側の美濃地方(岐阜県)から馬籠に至り、そこから馬籠峠を越えて妻籠宿へと続き、さらに木曽谷伝いに、須原、上松、木曽福島、藪原、奈良井、贄川、塩尻とのび、塩尻峠を超えて諏訪方面へと達していた。馬籠は中山道六十九次の宿場にあって、東方の江戸から数えると43番目の宿場町にあたっていた。明治と大正の大火により江戸時代の宿場の建物はほとんど焼失してしまったが、古い石畳の続く急坂の街路とその両側に立ち並ぶ民家の風情は、往時の宿場町の雰囲気を十分に偲ばせてくれる。馬籠集落の南側に聳え立つ恵那山(2,190m)の雄大な姿がひときわ美しい。
いまから30年くらい前までは、若葉の瑞々しい初夏や紅葉の燃え立つ中秋の頃ともなると、馬籠峠をはさんで馬籠と妻籠を繋ぐ旧中山道の隘路一帯は観光客や若いハイカーで溢れていたものだった。しかしながら、海外旅行が主流となった昨今では馬籠や妻籠を訪ねる旅人は激減した。そのためだろう、かつては繁盛をきわめていた峠の茶屋もすっかり影が薄くなってしまっている。そうでなくても、両集落を結ぶ道路は立派に拡幅舗装され車の通行もすっかり自由になっているから、峠の茶屋で一服することなどなく、いっきに峠を越えてしまう人がほとんどなのだろう。
詩集「若菜集」で名声を博し、小説「破戒」で近代自然主義文学者としての確たる地位を築いた藤村は、56歳のときにこの馬籠一帯を舞台にした大作「夜明け前」の執筆に取りかかった。藤村の父、島崎正樹は藤村が15歳のとき他界したが、享年は56歳であった。56歳になったとき、藤村が中央公論において「夜明け前」の連載執筆を開始したのはけっして偶然のことではなかったのだろう。その小説の主人公青山半蔵の人物像は、彼の父親、島崎正樹の姿そのものだったからである。
明治維新にともなう近代化の波に戸惑う庶民の姿や、王政復古の旗印に託したおのれの夢とその現実のギャップに苦しみ挫折して果てる青山半蔵の生涯を、故郷の木曽路を背景にして描いたこの小説は、実は日本の伝統歴史の本質そのものと、維新における近代化の意味を鋭く問いかけた著作であった。平田篤胤らの国学思想に傾倒する青山半蔵は、王政復古の旗印を、「国政のありかたを神武の創業にまで戻し、多くの国学者が夢見てきたような古代復帰の念願の実現を目指すものだ」とひたすら信じ、大きく胸をときめかせた。しかしながら、御一新の現実は民心や旧制度の長所をも徹底的に無視した急速な西洋化の促進であり、国学思想の理想とするところとはおよそかけ離れたものであった。
維新の実情を知るために東京に出た半蔵が目にしたものは、「祭政一致」の理念も「神仏分離」の願いもすべて反古にされ、神社行政に貢献した国学者らが誰一人として国政に重用されることもなく、ひたすら西洋化を急ぐ維新後の日本の姿だった。挫折し絶望しきった半蔵は明治天皇行幸の際に、「蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてゆくべき時なからめや」という和歌を扇子にしたため行列に向かって投げ入れる。そして、駆け寄った巡査に取り押さえられてしまう。後日なんとか放免されて馬籠に戻った半蔵は、気を取り直して村の子供らの教育に当たろうとし、また、時代の流れを学ばせるために自分の息子(すなわち藤村)を東京に遊学させる。しかしながら、日々の生活に追われる馬籠の人々はもはやそんな半蔵の姿を快くは思わなくなっていた。
明治19年の春のある夜、半蔵は発狂したように近くの寺に向かいお堂に放火する。「夜明け前」の中には、「半蔵の放火は仏教への放火だった。我慢に我慢を重ね、仏教に背こうとした放火であった。仏に反逆したのではない。神を崇拝するためでもない。神仏分離すらまっとうできなかった『御一新』の体たらくが我慢できなかったのだ」と書かれている。半蔵は長男に縄で縛られ、親族や村人らが用意した座敷牢に幽閉される。牢中で古歌をしたためたりはするが、結局、そのまま56歳で死んでいくのである。
藤村が生まれ育った馬籠の本陣跡には、現在島崎藤村記念館が建っている。そしてそのすぐ隣には有名な詩「初恋」に登場する「おゆふさん」の実家だった大黒屋がいまもなお存続している。藤村が文豪として大成していった背景には、幼児期に木曽の豊かな自然の中で育ったということのほかに、各種文化情報や文物の集まる本陣という当時としてはきわめて恵まれた文化的環境下におかれていたことなどがあったのだろう。フランス留学時の資料や諸々の作品の原稿・草稿類など、記念館に収蔵されているその膨大な足跡を目にしていると、ただもう驚愕し圧倒されるばかりである。漱石や鴎外もそうなのだが、真のエリートとして国を背負い強い義務感を抱きながら欧州に学び、帰朝して後進の育成と文学界の発展に心身を捧げた明治の大文豪の気迫が時を超えて伝わってくるからだ。
以前に記念館を訪れたときには、藤村が恋したという東北学院時代の教え子佐藤輔子の写真と日記なども展示されていた。今回の取材ではそれらの資料を目にすることはできなかったが、その知性美、達筆このうえない毛筆文字、簡潔ながらも的確かつ切れ味鋭い文体などは、さすが藤村が見初めた才女だけのことはあると思われるものであった。
「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり」と詠んだ初恋の相手のおゆふさんは、もうその頃には妻籠の脇本陣の奥谷(林家)に嫁いでおり、藤村にとっては遠い既に過去の人となっていたのであろうが、まあ、それはやむをえないことである。現在資料館になっている隣の妻籠宿の奥谷(林家)には、のちに藤村自身がおゆふさんに寄贈した直筆の「打てや鼓の春の音」の書き出しで始まる詩額が飾られている。
記念館収蔵の資料の中で人間的にみてたいへんに興味深いのは、父親の島崎正樹が勉学中の息子春樹すなわち藤村に与えたといわれる戒めの一文である。全体的な大筋は、「盛り場や遊興の地への逗留を避け、山師や糸師、賭博師といった一獲千金を夢見る詐欺師まがいの連中との交際を慎むように」といった内容の文書だが、その中に、「嫡子が生まれない場合をのぞき妾女は持たないように」との訓戒が記されている。ところがなんと、そのすぐあとに、「ただし、このことはなかなかに難しい問題なので、大体のところを記しておいた」という趣旨の意味ありげな補足文がついているのである。書いたあとで己の人生を振り返り、ついつい付け足したのであろうが、人間島崎正樹の心の内が偲ばれて、思わずにやりとさせられた。
展示館の一角には小部屋があって、藤村が生前原稿執筆に用いた机や座布団、火鉢などの調度類が当時のままに再現配置されているのだが、なんとも簡素なものである。昔風の木机に向かって背筋を伸ばして正座し、一心不乱に原稿の筆を執った在りし日の藤村の姿が偲ばれて、眺めているほうもなんとも厳粛な気分になってくる。「そうだよなぁー、こうやってちゃんと姿勢を正し、真摯な気持ちで筆を執るのでなきゃ、良い作品なんか絶対に生まれてこないんだよなぁー。どう考えたって自分なんか失格だよなあ」という、感嘆とも懺悔とも諦めともつかない思いが一瞬脳裏をよぎっていった。
馬籠の集落のすぐそばにある永昌寺の墓地には島崎藤村一家とその父島崎春樹の墓がすこし離れて設けられている。それらの墓所周辺から仰ぎ見る早春の恵那山の姿は冠雪が陽光に映え眩いばかりではあった。