夢想一途バックナンバー

第34回 人間ドラマの舞台

(16) 安房小湊

一足先に勝浦へ

安房小湊は太平洋に面する房総半島南東部、いわゆる外房に位置している。近年鴨川市に編入されるまでは天津小湊町に属していた。この小湊にある日蓮ゆかりの誕生寺、清澄寺、妙(たえ)の浦(鯛の浦)などを訪ねようとしていったん同地に入ったのだが、既に日没も間近な時刻になっていた。そのため、そのまま勝浦方面に走り抜け、勝浦港近くの民宿に泊まって翌朝出直すことにした。勝浦へと向かう途中の車窓からは、残照に映えわたる入道ヶ崎一帯の静かな海面が望まれた。この日、勝浦市では大規模な雛祭が催されており、遠見岬(とみさき)神社の参道石段に敷き詰められた赤い毛氈上には大小無数の雛人形がずらりと並べられ、その雛壇全体が見事にライトアップされていた。漁業の町勝浦で思わず息を呑むばかりのそんな感動的光景に出遭えるなど、むろん望外のことだった。

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翌日は小湊へ向かう途中で勝浦市鵜原の海中公園展望塔と海の博物館に立寄った。かなり風の強い日で海中展望塔周辺の荒磯には波が白々と打ち寄せていたが、水深8mのところにある水中展望室からは岩場に棲息する海藻類や魚類をじっくり観察することができた。透明度は最大15mほどだとのことなので、沖縄や足摺岬あたりの同施設に較べると視界は劣っているけれど、東京近辺でこのように海中生物の生態を自然のまま観察できるところは他にないだろう。北上する暖流の黒潮と南下する寒流の親潮とがぶつかるこの海域は魚種や魚影が豊富だから漁業にも適している。この日は海水が濁り気味だったこともあり、メジナやアジの群、ハコフグ、ソラスズメダイくらいしか目にすることはできなかったが、条件さえ良ければもっと多くの魚貝類の生態を観察することができるようだ。すぐそばの海の博物館の展示物や諸々の解説なども学術的観点に立って一貫整理されており、また干潮時に周辺磯辺の生物の観察をおこなえるよう、詳細なエリアマップなども用意されていた。同博物館内の水槽で飼育されているミノカサゴの華麗かつ優雅このうえない姿を目にした私の脳裏には、少年期に遊び親しんだ南の島の海辺の光景が懐かしく甦ってきた。

海中展望室より見るメシナの群れ

海中展望室より見るメシナの群れ

日蓮の生涯と誕生寺

小湊に着くとまずは誕生寺を訪ねてみた。日蓮宗の開祖、立正大師日蓮は、貞応元年(1222年)安房国東條郷片海、すなわち現在の千葉県鴨川市小湊の地で生まれた。地元の漁師の子として生まれたというのがもっぱらの定説だし、またそのような出自だったと考えるほうが彼の唱えた法華経の教義にも相応しい。だが一部には、その父は鎌倉幕府の御家人だったが領地争いの訴訟に敗れ小湊に流されたという説もあるようだ。鎌倉幕府に公然と立ち向かったのちの日蓮の行動を思うと、武家の流れを引く身であったと考えるほうが自然なような気もしてならない。幼名を善日麿と言った日蓮は12歳になる天福元年(1233年)まで生家で暮し、そのあと小湊北西の山上にある天台宗清澄寺に上って同寺の僧道善に師事した。そして16歳で得度すると全国各地を訪ね巡って修練と修業を積み、ついには法華経を仏法界最高の教義であるとする日蓮宗を開くに至った。「法華経以前に説かれた諸経典は釈迦本来の悟りを十分には説き伝えていない。この末法の世で仏の導きを受け真に成仏するには、日蓮宗に帰依し法華経の真髄である南無妙法蓮華経のお題目を唱えるのが最善の道だ」とする日蓮の思想は、当時としては極めて特殊なものであった。また仏法論争をしかけ、他宗派を容赦なく攻撃したのも日蓮の布教活動における大きな特徴であった。史上名高い立正安国論を著し、時の執権北条時頼に対して「日蓮宗に帰依しなければ国が滅ぶ」と強く唱え迫害された日蓮は、下総中山の富木常忍のもとへと逃れた。その後も文永元年(1264年)の小松原の法難、佐渡ヶ島への流刑など様々な命懸けの苦難と戦いながらも布教に奔走、弘安5年(1282年)、病気療養のため常陸の国へと向かう途中、逗留先の武蔵国池上宗仲の屋敷にて60歳の生涯を終えた。そんな日蓮の生き方が、安房小湊を中心とする南総一帯の海を相手に育ったことに大きく影響されているだろうことは想像に難くない。

当初「高光山日蓮誕生寺」と称された誕生寺は、建冶2年(1276年)、日蓮の弟子である日家や日保らの手によって祓崎の端部に当たる日蓮の生家跡に建立された。そして、日蓮を開山、日家を二祖、日保を三祖と定めた。しかしながら、明応7年(1498年)の大地震と大津波によってもともとの寺院は流失した。その後は織田信長の布教弾圧策などもあって廃寺のままになっていたが、寛文5年(1665年)頃に水戸黄門光圀らの寄進をうけて誕生寺は再建された。ところが再び起こった元禄16年(1703年)の大地震と大津波によってまたもや誕生寺は損壊流出してしまった。そのそのため、宝永年間(1704~1711年)に小湊港に近い現在の場所に再々建され、寺院名も小湊山誕生寺と改められた。再興に際しては水戸徳川家による大々的な支援があり、壮麗な仁王門や七塔伽藍を有する関東屈指の大寺院となった。東西2160m、南北3460mに及ぶ壮大な境内を有していたという。ところが始祖日蓮の波瀾の生涯そのままにまたもや悲運に見舞われ、宝歴8年(1758年)の大火によって仁王門を除く全山が焼失した。そして、天保13年(1842年)になって第49代目聞上人のはたらきにより現在のような祖師堂をもつ誕生寺が復興された。境内の一隅には戦国時代から江戸時代初期まで安房国一帯を支配し、誕生寺とも縁の深かった里見氏の三基の供養塔なども残っている。もちろん、あの滝沢馬琴作の奇譚「南総里見八犬伝」のモデルとなった里見氏のことである。誕生寺の寺院内ではちょうど宝蔵などの整備がおこなわれているところで、残念ながら所蔵されている日蓮関係の資料を目にすることはできなかった。

誕生寺本堂

誕生寺本堂

清澄寺山門

清澄寺山門

妙の浦、それとも鯛の浦?

誕生寺をあとにすると、すぐそばの小湊漁港から出ている妙の浦観光遊覧船に乗り込んだ。晴天の一日ではあったが幾分風が強く吹いていたので海面が波立ち、船はかなり大きく揺れた。だが、海育ちのこの身にはその船の揺れはむしろ快適そのものにさえ感じられてならなかった。総ガラス張りの客室を出て全身を潮風に委ねながらデッキに立つと、船首によって切り分けられた海水の飛沫が顔面に向かって激しく打ちつけてきたが、少年時代に戻ったような気分がしてそれもまた快いかぎりだった。妙法蓮華経の「妙」の一字をとってそう名づけられたという妙(たえ)の浦は、小湊港外の南南東側に広がる浅い海域のことをいう。伊貝島、小弁天島、大弁天島などの小島を含む妙の浦周辺の浅瀬やそのすこし沖合いには、昔から鯛が多数生息しており、日蓮の時代以来、群生するそれらの鯛は乱獲されることのないよう大切に保護されてきた。現在では国の特別天然記念物に指定され、一帯の海域は禁漁区になっている。妙の浦に出て船べりを叩いたり撒き餌を投与したりすると、海中に生息する鯛が大群をなして一斉に海面に浮上し、訪れる人々の目を楽しませてくれる。黒鯛、メジナなども含まれるが、それらのほとんどは真鯛であるという。通常は水深30mから150mのあたりで群をなさずに生息する定着魚の真鯛が、この妙の浦のような水深10mから30mの浅い海域に群生するのはとても珍しいことであるらしい。しかも、警戒心の強い鯛が船べりを叩いただけで自ら餌を求めて浮上するのは生態学的にみても極めて稀な現象で、その理由はまだ解明されていないそうだ。

浮上した鯉の群れ

浮上した鯉の群れ

古来、小湊の漁民らは日蓮聖人の化身だとして妙の浦の鯛を拝んでは手厚く保護し、江戸時代後期になると地元漁民の助力のもと日蓮宗信者らによる妙の浦の鯛詣でが盛んにおこなわれるようになった。明治から大正にかけての一時期、大手観光業者が大物政治家の後押しで妙の浦の観光開発を目論んだが、優美な自然景観と鯛の保護とを叫んで地元民が強行に反対、その開発計画を断念させもした。戦中の食糧難時においてさえも鯛を獲る者など一人もおらず、それどころか貴重な小魚の切り身を鯛に与えまでしたという。何百年にもわたる人々のそんな鯛への思いやりが妙の浦の鯛の習性にもすくなからず影響しているのであろう。文化庁による特別天然記念物指定の際の名称は「鯛の浦」となっており、全国的には「鯛の浦」として知られているが、地元の人々はいまもなお昔からの名称「妙の浦」をいまもなお用いている。観光船発着所脇の資料館の解説によると、観光的には「鯛の浦」だが、正確な地名としては「妙の浦」のほうが本来だということだった。鳥居の建つ大弁天島や小弁天島はれっきとした小島だったが、日蓮の生家があった祓崎の沖にある伊貝島は島というよりも波間に浮き沈みする大きな岩場という感じだった。日蓮はこの伊貝島でとれる貽貝(いがい、フランス料理のムール貝に似た貝)が大好物であったらしい。妙の浦の一角で停船し餌を撒くと、観光船の周辺に多数の鯛が浮上してくるのが目撃されはしたが、この日一帯の海域はかなり波立っていたのでうまく写真に撮ることはできなかった。

日蓮練行の地、清澄寺

日蓮が12歳で入山し16歳で得度するまでの4年間を過ごした千光山清澄寺は、深い杉林に囲まれた海抜383mの山上に位置していた。宝亀2年(711年)に不思議法師が虚空蔵菩薩を本尊として開山したこの寺を慈覚大師円仁がのちに訪れ、21日間にわたる修業をおこなった。以来、この寺は天台宗の寺として栄え、鎌倉時代には12の僧坊と25の祠堂をもつ一大霊場となった。鎌倉や比叡山などに遊学した日蓮は法華経の真髄に開眼し、建長5年(1253年)、32歳の時に清澄寺に戻り、法華経信仰に終生その身を献げようと誓ったのだった。清澄寺に戻った日蓮は同年4月28日早朝、若緑の萌え薫る同寺内の旭ヶ森に立った。そして、幾重にも連なる山並みのむこうに広がる太平洋をじっと睨みやりながら、東の水平線から昇る朝日に向かって「南無妙法蓮華経」のお題目を高らかに唱えた。それは彼が日蓮宗布教の第一歩を踏み出した瞬間だった。現在、その地には東方に向かって合掌する日蓮の銅像が建っており、その足下の展望台に立つと眼下に広がる外房一帯の美しい景観を一望のもとにおさめることができた。

旭ヶ森に建つ日蓮像

旭ヶ森に建つ日蓮像

清澄寺にあって法華経伝教を願った日蓮だったが、その過激とも言える布教活動のゆえに周囲の理解を得るのは困難を極め、結局、彼はひとり寺を去り、厳しい布教の旅にのちの生涯を委ねざるをえなくなった。清澄寺は室町時代後期の度重なる戦火で衰退したが、江戸時代に入ると真言宗智山派の僧頼勢法院が家康から同寺を授かり再興に尽力、やがて京都醍醐三宝院関東別院となって大いに栄えた。昭和期に入ってから、真言宗智山派と日蓮宗との間で話し合いの場が持たれ、昭和24年になって清澄寺は日蓮宗に改宗し、宗門直轄の大寺院となって現在に至っている。境内には本堂のほか、県指定の重要文化財の山門、日蓮像を安置した祖師堂、若き日の日蓮がそこで修業を積んだという練行場跡があり、本堂前の広場脇では樹齢千年を超える神代杉がその偉容を誇っている。

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