(13) 五家荘(ごかのしょう)――平家落人伝説に彩られた秘境》
五木の子守唄の村はいま……
日本三大急流のひとつ球磨川は、熊本県の人吉市東部で二手に分岐する。その分岐点から北へと向かう大きな支流が川辺川である。建設続行か中止かで問題になっている川辺川ダム建設予定地は、その上流の球磨郡五木村の南端部に位置している。哀愁の響きに満ちた五木の子守唄で知られる五木村も、かつては秘境の地と謳われたところだった。だが、ダム建設に伴う大々的な道路開発が進み、水没予定地に当たる旧中心集落の頭地およびその周辺住民への高額の立ち退き補償やそれに伴う代替地への移住も完了した。そのために、山深いところだとの印象はなおあるものの、かつてのような五木ならではの秘境の面影は失われてしまった。立派な家の立ち並ぶ代替地のなかほどには物産販売所を兼ねた真新しい道の駅があって、その一角に設置されたスピーカーからは五木の子守唄が流れ出ていたが、なんとも空々しい感じがしてならなかった。「おどまかんじんかんじ、あんふとたちゃよかしゅ、よかしゃよかおおびよかきもん(自分は貧乏人だけど、あの人たちは裕福で身分の高い人々、身分の高い人たちはよい帯を締めよい着物をきている)」というその歌詞とは裏腹に、周辺住民の誰もが「よか衆」になってしまったように映ったからである。ただ、道の駅のすぐ隣の土産物屋の二階にある蕎麦屋の「地鶏蕎麦」は絶品と呼ぶにふさわしかった。蕎麦自体の味も歯ざわりも腰の強さも文句のつけようがなかったが、温かい地鶏スープの味や本物の地鶏肉のうまさは抜群で、そのうえに信じられないほど値段が安かった。
五家荘の由来とその歴史
五木村を抜け川辺川伝いの道をさらに遡行していくと道幅はどんどん狭まり、鋭く切り立つ山々が左右から大きく重なり迫ってきた。それとともに、奥へとのびる渓谷は、近寄る者を威圧でもするかのように、荒々しく険阻な姿へと変貌した。それこそは私の求める昔ながらの秘境の姿にほかならなかったが、急峻で急カーブの連続する一車線の道路は、対向車とのすれ違いが困難なので慎重なハンドル捌きが必要とされた。突然に湧き立ち前方の視界を奪う濃霧もまた問題だった。日中でもライトを点灯するようにとの警告をいささか舐めてかかっていたが、走行中のライトの点灯は身を守るために不可欠なのだとほどなく納得させられた。この日私が目指していたのは川辺川の源流域に位置する熊本県八代郡泉村五家荘、現代日本に残された秘境中の秘境であった。若緑に煙る峡谷や深山の景観を横目で睨みつつ五木から泉村に入り、久連子鶏で知られる久連子(くれご)方面への細い分岐を右手に見送り奥へと進むと、やがて椎原と呼ばれる小集落に差しかかった。こんな辺鄙な山奥での暮しはさぞかし大変だろうと思いながらくねくねした狭い道をゆっくりと走っていると、「緒方家」と案内表示のある文化財らしい茅葺民家のそばに出た。五家荘の歴史についてなにか得るところがあるのではないかと直感し、すぐさまそこに立寄ったが、幸いにもその狙いは的中した。緒方家を見学しながら同家の由来を聞いたり、各種の解説資料を読んだり、そこで入手した一帯の詳しい案内図に目を通したりしているうちに、とても興味深い五家荘の歴史文化のおおまかな流れが見えてきた。
平家の落人の隠れ里として名高い五家荘は、樅木、仁田尾、葉木、久連子、椎原の五地域からなっており、樅木と仁田尾の二地域は左座(ぞうざ)姓を名乗る二家が、また葉木、久連子、椎原の三地域は緒方姓を名乗る三家が代々その地域の庄屋を務めていた。外部と隔絶した秘境であることを幸いに、それら五家の庄屋らは一種の治外法権を確立し、互いに連携しながらその一帯を支配した。そのために古くは五箇庄と呼ばれていたらしい。五家荘という名称が用いられるようになったのは後世になってからのようである。庄屋を務める五家のなかでは、平家の流れを汲む緒方姓の三家よりも菅原道真の末流として左座姓を名乗る二家のほうが古かった。菅原道真の死後、その一族は藤原氏による追討を逃れて山深いこの地に至り、左座と姓を改めたうえで延長元年(923年)頃から樅木、仁田尾一帯に分住するようになったという。いっぽうの緒方姓の三家は平家一族の末裔であるという。文治元年3月(1185年)壇ノ浦の合戦で破れた平家一党のうち、平清盛の孫にあたる平清経は入水と見せかけて生き延び、源氏の追討を逃れて四国伊予今治、四国阿波祖谷、豊後舞鶴を転々としたのち湯布院に入った。そのあと、豊後竹田の緒方実国の招きでその館に逗留、緒方の娘を妻に迎えて緒方一郎清国と改名、山家らの先導と助力のもと、日向国方面から峻険な九州山地を西に越えて樅木の奥にある白鳥山に到達した。その地に住み着いたのは建長2年(1250年)のことだったという。そして、その四代目の子孫にあたる緒方盛行(長男)、近盛(次男)、実明(三男)の三兄弟は、それぞれに、椎原、久連子、葉木の庄屋となり、左座二家とともに五家荘(五箇庄)を構成支配するようになった。外部勢力の侵入を防ぎ治外法権的立場を守り抜くために、五家並びにその傘下の住民らはきわめて強固な結束をみせていた。南北朝時代のこと、肥後一帯の国主菊地武重は峻険な渓谷の川上から一個の木椀が流れ着いたのを聞き知って、人跡未踏に近いとも思われていたその上流域に集落があるらしいと察知した。やがて、塩搬入のため密かにその地に入ることを許されていた塩売り勘兵衛なる人物の存在を突きとめ、その情報をもとに五家荘討伐を敢行したが、峻険な地形と固い防御とに阻まれて同地の制圧は成らなかった。だが、時の経過につれて五家荘の人口は増加の一途を辿り、やがて住民らは塩や食料をはじめとする生活必需品の欠乏に苦しむようになっていった。そのため、庄屋らは、一定の条件のもと、阿蘇氏の支配下に入ることをついに決断、以降、五家荘の全貌が徐々に明かになってきたのだった。
現代の秘境に見る驚きの数々
現在残る緒方家の建物は古来の建築様式を継承しながら300年ほど前に建造されたものであるが、老朽化や住居としての近代化が進んだため、泉村が買い取り、本来の造りに改修復元したのだという。天井が高くて頑丈な構造の屋内には大部屋がいくつもあり、また通常は吊階段が天井部に隠されていて見えないが、それを降ろして昇ったところには特殊な隠し部屋が設えられてもいた。いまひとつ興味深かったのは、最奥の床の間とその手前の六畳ほどの部屋だった。八畳敷きの床の間の床上には引き戸のついた小棚が設けられていたが、かつてはその棚に討ち取った人物の首を一時的に収納し、礼を尽くして祭祀したのだという。外敵を防ぎ五家荘を守り抜くには時に戦(いくさ)も避けられなかったのだろうから、そのような配慮も不可欠だったに違いない。また、その手前の間の天井を支える何本かの桟だけは、他の部屋の桟の並びと垂直になるように配列されていた。それは、切腹の間を象徴するものであったのだそうだ。「観光客が気味悪がるので通常そんな解説はしないのだが……」という案内人の断りつきで、私は密かにそのような裏話を聞かせてもらった。
緒方家をあとにした私は椎原のさらに奥にある樅木地区の八八重を目指した。本道自体が険しくて細いのに、吐合という地点で東南に分岐する沢伝いの枝道はさらに細く、対向車とのすれ違いは不可能だった。しかもその道は岩だらけの峻険な斜面をくねくねと縫いうねりながら渓谷の上流へと急角度でのぼっていた。妖気さえ漂う一帯の景観をゆっくりと眺めてみたいとも思ったが、対向車が来ないことを祈りながら必死にハンドルを操る身にそんな余裕などあろうはずもなかった。幸い、有名な樅木吊橋に近い八八重の小集落を過ぎ、Uターンして峡谷の反対側を縫う道路に入るあたりまでくると道幅がかなり広くなった。そして、ちょうどその付近で峡谷はさらに三方向に分岐し東に聳える連山の奥へと消えていた。樅木一帯は九州山地主稜線の西側直下に位置している。1500m前後の山並みが南北に連なる九州山地は標高こそそれほどに高くはないが、壮年期の山脈で、東西両方の海岸線からもずいぶんと奥まったところにあるから、主稜周辺の谷々は想像以上に険しくて奥深い。それがまた秘境の秘境たる所以(ゆえん)でもあった。そして、その樅木から九州山地の背稜を東側に越えたところに位置するのが、これまた平家の落人鶴富姫伝説と稗搗節(ひえつきぶし)で知られる秘境、宮崎県椎葉村だ。地元民からさえも秘境ルートなどと呼ばれる林道が樅木から椎葉まで続いているのだが、台風で崩壊した箇所の復旧の目途が立たず通行止めになっているとのことで、その林道への挑戦は断念せざるをえかった。だが、その地点のすこし下流側の峡谷に架かる大小二本の樅木吊橋の壮観さや、吊橋上からの息を呑むような眺望に接するだけでも、秘境のなんたるかを知るには十分であった。無数の山桜や煙るような若緑に覆われた周辺の山々と眼下の切り立った渓谷の美しさに、私はひたすら圧倒されるばかりだった。
樅木吊橋からそう遠くないところにある公営施設「平家の里」の平家伝説館には、五家荘の歴史民俗資料がいろいろと展示されていたが、そのなかで面白いと思ったのは鬼山御前の伝説だった。なんと、平家の船上にあって「この扇の的を射落としてみよ」と源氏の兵を挑発したあの唐衣の美女玉虫御前は、壇ノ浦の戦いのあと五家荘近辺に落ちのび、鬼山御前と名を改めひっそり暮していたのだという。そこへ、扇を射ち落とした那須与一の子、那須小太郎が平家の落人追討にやってきた。平家の高貴な落人がずっと奥に隠れ住むことを知っていた鬼山御前は、その美貌と才覚をもって小太郎を自分のもとに引き留め、その縁でやがて二人は夫婦(めおと)になってこの地で暮すようになった。平穏な日々の大切さや、平家追討をはじめとする戦いの空しさに小太郎が目覚めたからでもあったという。二人は幸せな生活を送り数々の子宝をもうけた。豊かな暮しの知恵をもつ鬼山御前は子育ての名人でもあり、周辺の人々から尊敬され、死後は安産と子育ての神様として祀られるようにもなったという。史実のほどはともかく、なんともロマンに満ちた伝説ではある。なお、平家の里の能舞台では、10月25日の天満宮祭の前夜に、古くから樅木神社や葉木神社伝わる神楽や久連子神社の古代踊り、さらには平家にまるわる能や平家琵琶の演奏などが催されるとのことだった。夕暮迫る中で訪れた葉木地区では、幽谷に架かる梅の木轟(とどろ)吊橋と梅の木のように屈曲して流れ落ちる梅の木轟(とどろ)に遭遇した。「轟(とどろ)」とは滝のことである。また、講談や芝居で有名な下総佐倉の義民「佐倉宗吾郎」が実はこの葉木の緒方左衛門の二男宗吾だったという伝承なども面白い発見だった。宗吾は下総に移住していた叔父の光全和尚を頼って同地に赴き、それが縁で下総の名主木内家の養子となった。佐倉藩の苛酷な税に苦しむ農民の窮状をみかね四代将軍への直訴に出たのは、そのあとの出来事なのだったという。
帰路は葉木から二本杉峠を越えるルートを辿ったが、狭くてカーブだらけの隘路は濃い夜霧に覆われ前方がまったく見えない状態だった。歩くような速度でようやく砥用(ともち)へと抜け終えた私には、五家荘が夜霧の彼方の幻の存在であるかのように思われてならなかった。