(12)花の礼文から星闇のオホーツク路へ
稚内から礼文島の香深に向かうフェリーの中で、オーストラリアからやってきたという中年の男と一緒になった。彼は、ちょっと癖のある英語で、初夏の礼文島の花は見事だと聞いていたので、ぜひ一度見てみたいと思い、遥々訪ねてきたのだと話してくれた。
「わざわざこんな遠いところまで大変でしたでしょう?」とさりげなく水を向けると、彼は、「旅というものはそんなものでしょう。意志をもって行動してこそ、未知の世界や新たな友にめぐり逢えるのですから…」と、こともなげに言ってのけた。その瞳は、力強い命のリズムを内に秘めていたずらっぽく輝いていた。
この季節礼文を訪ねる人は多いが、働き盛りの男性の姿はきわめて少ない。その年代の男たちにすれば、花を愛でるどころの騒ぎではないからに違いない。彼らが日本社会の根底を懸命に支えていることは、むろん、よくわかる。だが、たとえ人生の盛りにあったとしても、たまには、好きなときに数日単位の休みをとり、仕事を忘れて、大自然のドラマに親しむことくらいはあってもよいのではなかろうか。
旅に費やす時間も金もないという反論が返ってきそうだが、実際のところは、その人の意志力と人生観ないしは価値観の問題であるように思えてならない。冠婚葬祭などのために時間をさくのと同じ決意をもって臨めば、その程度の時間はつくれると思うし、旅費だって贅沢を避けちょっとした工夫をすれば意外なほど安く上げられるものである。デッキに深くもたれ掛かって遥かな海原を見つめながら、青い目の遠来の客と楽しく語り、その旅行観に耳を傾けるうちに、私はつくづくそんな思いに駆られたのだった。
礼文島は、ほぼ南北にのびる全長40キロほどの細長いV字形の島である。この島の北端スコトン岬から地蔵岩で知られる元地海岸までは、西岸沿いに「愛とロマンの8時間コース」とうたわれるハイキングコースが続いている。朝早くスコトン岬を出発し夕陽が西の海に沈む頃、元地海岸付近にゴールインするのが標準的な歩き方なのだが、このコース、変化に富んでいて実に素晴らしい。青潮の海を見おろす断崖や岬沿いの道、林や草原を縫う細い道、3・40種の花の咲き乱れる天然のお花畑、美しい利尻の島影の望める小山、砂走りと呼ばれる急斜面の砂地の道、しばし汗を流すにもってこいの小川、さらには、様々なドラマの眠っていそうな宇遠内の海辺の漁師番小屋と、コースの半ばまでをとってみても、その景観の多様さには唯々驚くばかりである。
宇遠内から元地海岸までは断崖下の海沿いの道になるが、玉石の浜辺あり、数々の岩間に刻まれた細道あり、礼文の滝やメノウの原石の採れるメノウ海岸ありと、これまた変化にこと欠かない。そして、屹立する奇岩、地蔵岩の垂直な割れ目を抜けると、ようやくゴールの元地部落に到達する。
起伏が激しいのに加えて、道そのものの質も岩地、黒土、赤土、草地、砂地、石浜と次々に変わるから、踏破するのは必ずしも容易ではない。朝一番のバスを降りスコトン岬を後にした知らない者同士の一団が、お互い助け合いながら元地へと向かううち、幾組みもの若い男女のペアが誕生することも少なくないらしい。地蔵岩に辿り着き、西の海に沈む美しい夕陽を共に眺めたことが縁となって結婚に至ったカップルは数知れずというわけで、「愛とロマンの8時間コース」と呼ばれているのだそうだが、雨模様の天候の場合には「泥と涙の10時間コース」に変貌する可能性もあるらしい。
残念なことに、以前このコースにチャレンジしたときはロマンスの相手には恵まれなかったが、そのかわりに2人の30代の男性と親しくなった。一人は東京調布のパチンコ店で働きながら、一定額のお金がたまると休みをとって納得のゆくまで自分の旅をするという男、いま一人は、会社勤めに失望し、苦しいけれどもフリーになって体を張って生きながら、旅を追い求めているという家族持ちの男だった。共にその身を社会の落ちこぼれだと自嘲して憚らない彼らだったが、その瞳は礼文の海や花々を見て生き生きと輝き、そして、なによりも、その姿格好には不似合いなほどに心優しく、謙虚だったことを想い起こす。
今回、私は8時間コースをとらず、礼文島随一の原生花園の広がる桃岩展望台へと登り、それからお花畑を縫って島南端の知床へと続く細い道を辿ることにした。桃岩の名称は付近にある桃そっくりの巨岩に、また、知床半島のそれと同じ知床という地名は「地の涯てるところ」という意味のアイヌ語に由来している。この一帯の亜寒帯種の花々の繚乱ぶりは、ただ凄まじいの一語に尽きた。そして、ときおり眼下はるかな海面から激しく湧き上る白い霧が、ほどよく花々を包み込み、その景観をいっそう詩情豊かなものに演出してくれていた。霧の晴れ間に秀麗な姿を見せる利尻島をお花畑越しに眺めやりながら知床方面にしばらく小道を分け進むと、人影はほとんどなくなり、それに逆比例するかのように花々の密生の度合が一段と増してきた。
奇岩のひとつ猫岩を見おろす崖沿いの小道にさしかかったときである。すぐ足元に小さな星形の白い清楚な花が一輪、霧を含んで吹き上がる風に揺れながらひっそりと咲いているのが眼にとまった。腰を屈めてよく見ると、星形の白い花弁に思えたのは実は花額で、中央の小さい黄色のかたまりがほんとうの花びらであるらしい。その特徴的な花相から判断して、あの有名なエーデルワイスの仲間、レブンウスユキソウに相違なかった。
国内のウスヨキソウの仲間でエーデルワイスに最も近いのは岩手の早馳峰山麓に群生するハヤチネウスユキソウであるが、このレブンウスヨキソウも可憐さではけっしてそれらに劣りはしない。礼文林道の群生地で咲き競うウスユキソウもすてきだが、こうして一輪、霧の中で人知れず気高く花開くウスユキソウの姿はより以上に素晴らしいものに思われた。
青潮の慕いをのせて湧く霧にひとり気高く礼文うすゆき
夕刻近くに稚内に戻った私は、すぐに車のエンジンをかけると、宗谷岬に向かって走りだした。視界のよい日だと宗谷岬からは樺太の島影がはっきりと見える。
宗谷岬は、根室半島の納沙布岬と並んで、国境というものの存在を実感させてくれるきわめて稀な場所である。今は異国の地となった遠いその島影を見ていると、未知の世界への激しい想いに駆られ海を渡った間宮林蔵の気持ちがよくわかる。もっとも、この日、宗谷岬に着いたのは日没直前だったので、沖合いには夕霧が立ちこめ樺太を望むことはできなかった。人気の絶えた岬に立ち西方に眼をやると、なんとも心もとなげな落日だけが、霧の向こうでもの悲しそうにボーッと揺らめき輝いていた。
この岬には日本最北端の給油所がある。出光のオイルステーションだが、ここで給油を済ませると、2枚の貝殻を合わせて作った手製の下げ飾りを記念にくれる。貝殻の外側には「宗谷岬」の表示がなされ、またその内側には来訪年月日と「交通安全」の文字が記してある。車にはお守りの類は一切つけない主義の私だが、10年ほど前にここで給油したときもらった貝飾りだけは、いまもなお運転席の片隅にさりげなく掛けてある。貝飾りも国中をあちこち旅できて本望だろう。
岬の給油所の前をまわってオホーツク側にはいると、いっきに夕闇が深まった。右手に広がる荒涼とした野山と左手にうねるオホーツクの海面がみるみる闇の底に沈んでいく。薄い一切れのメロンを想わせる月影もやがて西方の山の端に隠れ、真の闇が訪れた。奇妙な快感を覚えながら、私は、闇を切り分けるようにして、無人の国道をひとりどこまでも疾走した。そこだけ明るい枝幸の町を過ぎ、興部(オコッペ)方面へと向かう道に差し掛かると、再び濃い闇に行く手はすっぽりと包まれた。それから三十分ほど走ってからだったろうか、急に夜空を仰ぎたいという衝動に駆られた私は、車を停めライトを消して車外に出た。そして、そこで、想いもかけず、久しく忘れていた懐かしい情景に遭遇した。
久遠の天界に散在する村々の明りを想わせるような満天の星々の下には、360度どちらを向いても人工の明りの全く無い真の闇が広がっていた。近頃では、真夜中深山に登っても、真の星闇を目にすることは難しい。視界のどこかに人工の明りが1つや2つはあるものだし、そうでなくても、遠い空の一角がボーッと輝いていたりするものだ。私は、衰えた自分の五感を鋭く磨き蘇らせてくれるこのような星闇がいまもなお残されていることを嬉しく思った。そして、活力を失った細胞の一つひとつを浄化し野性の感覚を呼び覚まそうと、体内深くにじわじわと沁み込む闇の精を心の底から歓迎した。かなうものなら、時の流れを超越し、そのまま星闇の中へと融け込んでしまいたい思いだった。