(22)伊豆下田――近代日本外交萌芽の地
下田の町と近代日本外交
伊豆半島南部に位置する下田は静かな港町で、石廊崎や爪木崎、波勝崎、堂ヶ島など周辺一帯の名所観光の基点となっている。激しい時の流れのなかにあって、いまではその事実さえも忘れ去られようとしているが、江戸時代末期この港町は日本近代外交史に残る重要な役割を担っていた。嘉永7年(1854年)から安政6年(1854年)に至る6年間、下田はいわゆる黒船に乗って来航してくる諸外国の使節との外交折衝の場としてその名を世界に知られていた。そして、その間、下田湾奥の柿崎に位置する海上山玉泉寺は、来航する外交使節や艦船乗組員の応接所、休息所、非常時における宿所、死亡した外国人の埋葬所、さらには日本初の外国領事館であるアメリカ総領事館の開設地となった。
嘉永7年3月3日(1854年3月31日)浦賀において歴史的な日米和親条約が締結されると、下田は即時開港となり、同年3月21日(4月18日)、ペリー艦隊は下田湾に集結した。その際にペリーが初上陸したと伝えられる下田湾西部の下田公園近くには、その歴史的意義を解説した「ペリー上陸記念碑」が建立されている。米国などの諸外国が下田開港を迫った当初の目的は、日本近海まで来航する軍艦や捕鯨船などの乗員の一時的な休養、傷病者の救済、死亡者の埋葬、水その他の物資の補給など、人道的なものが主で、商業交易を目的にしたものではなかった。日米和親条約締結に基づき下田が開港されると、幕府も下田奉行所の役割を重要視し、その権限を強化した。またそれに伴い、幕府内でもきわめて有能とされる人材が同奉行職やその補佐役に任じられるようになった。
玉泉寺に建つ異国人船員の墓
ペリー艦隊が下田に停泊中のこと、コネチカット州ヘプロン出身のG・Wパリッシュという21歳の水兵がマストの上から転落し急死した。そのため、下田奉行所のはからいにより玉泉寺内の墓地に死亡した水兵を暫定的に埋葬することが許可された。また、江戸沖で脳炎のために死亡し横浜の増徳院に埋葬されていたペリー艦隊ミシシッピー号の水兵ロバート・ウィリアムズの遺骸も日本の帆船で下田に運ばれ、パリッシュの隣に葬られた。それから間もなく日米和親条約を補うかたちで下田追加条約が同地の了仙寺で調印され、その第五条に「柿崎の玉泉寺境内にアメリカ人用の埋葬所を設け、以後その墓地の墓碑は厳重に保護される」という趣旨の一文が明記された。さらに同条約においては、「了仙寺と玉泉寺にアメリカ人来訪者用の休息所を設ける」という旨の取り決めも追加された。玉泉寺のアメリカ人墓地にはその後三基の石碑が加えられ、合計五基の石碑が現在まで遺し伝えられているが、いずれも同型の立派な造りの墓碑である。ペリー艦隊の主席通訳官S・W・ウィリアムスは日記の中で「墓石は立派なもので、碑銘の刻文も見事なものである」と述べているし、従軍画家のW・ハイネもその手記中で「灰色の石灰岩を用いて綺麗に造られた墓碑群といい、それらを取り巻く村落の美しい自然環境といい、異郷の地に果てた死者を弔うにふさわしい品位と友好的な雰囲気とに満ち満ちている」と称賛している。
ペリーには少し遅れをとったものの、嘉永7年10月15日(1854年12月4日)には、ロシアの外交使節プチャーチン提督が日露和親条約の締結を期し、2000トンの新鋭フリゲート艦ディアナ号に乗って下田港に来航した。ほどなく第1回の日露会談が催されたのであるが、その直後に起きた大津波のために下田の町は壊滅状態に陥り、500名余が乗船するディアナ号も湾内で大破した。その際に倒れた大砲の下敷きになって圧死した一水兵の遺骸も玉泉寺の境内に埋葬されたが、その墓碑には「1854年12月11日の地震による下田町崩壊の日に他界したフリゲート艦ディアナ号乗組員アレクセイ・ソボレフの遺体ここに眠る」という碑銘が露文で刻み込まれている。ディアナ号のマホフ司祭長はその航海日誌の中で「ソボレフの葬儀は江戸幕府によって指定された場所である玉泉寺で執り行われた。水兵たちは柩を海岸から玉泉寺まで担ぎ運び、柩の前方にはプチャーチン中将と士官一同、さらには司祭服を纏った私と聖歌隊が立ち、柩の後方には残りの乗組員らが続いた」とその時の様子を綴っている。現在玉泉寺に残るディアナ号乗組員の墓所にはソボレフの墓碑以外にもう二基の墓碑が並び立っている。それらは、修理のための回航中に嵐に遭い駿河湾で沈没したディアナ号から脱出、母国への帰還を待って伊豆半島西岸の戸田村に一時的に滞在した500名余のロシア人乗組員のうち、再び故国の土を踏むことなく病死した二人の人物の墓で、いずれにも露文の碑銘が刻まれている。
下田以外のところで死亡した米国人やロシア人の遺骸を下田へと運んだのは、日米和親条約や日露和親条約によって、米露両国の人物が日本で死亡した場合その遺骸を玉泉寺に埋葬するとの約定がなされていたからでもあった。以後それらの墓所は日米、日露間の友好のシンボルとして重要な役割を果たしてきた。玉泉寺は日露和親条約締結の交渉や戸田村に滞在中のロシア人の帰国準備交渉の場としても用いられたが、諸状況の展開によっては予想外の事態が生じることもあった。米船籍のカロライン・フート号がロシア人の一部を母国に送還する任務についた際、下田奉行は同号に乗船していたワース船長の家族を含む三家族の一時的な玉泉寺逗留を特別に許可した。外国人女性が上陸し滞在するというのは当時の日本においては前代未聞の大事件であったから、人々が受けたその衝撃の深さは想像に余るものがあった。幕末期の有能な幕閣として知られ下田での交渉に自ら何度も赴いた川路聖謨は、その著「下田日記」の中で「四月六日・曇。在宿。亜人(アメリカ人)は女房と子供とを並べ、眺めて楽しみ候上にて、女房の口を吸う故、番人の日本人、大に驚き申し候、船大将の亜人、亜人の美人の上着をもち遺し候て、其の女の首を抱えながら、白昼の下田の町を遊歩する也。国風と見えたり」と自らのカルチャーショックぶりを書き遺している。カロライン・フート号がロシア人送還の任務を果たし、三ヶ月ぶりに下田に戻った時の様子についての川路の記述はさらに強烈で、「亭主バッテラーにて飛ぶが如く乗り付け来れり、夫婦顔を見候とかけより候ていろいろと泣きくどき人目を少しも憚らず口を吸うこと久し。此其上に夫婦手を引き合い候て一間の内へ入り戸を締めて出でず。其体、犬とことなることなし」と、なんともリアルな描写を試みている。
初代米国総領事タウンゼント・ハリス
安政3年7月21日(1856年8月21日)の夕刻、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・アームストロング提督率いる蒸気船サン・ジャシントン号が下田へと入港した。その船から降り立ったのは初代駐日総領事に任命されたタウンゼント・ハリスと通訳のオランダ人ヘンリー・ヒュースケンの二人だった。日本側の対応は厳しく、下田奉行は「下田は大津波による被害の修復で忙殺されているから一、二年後に再来して欲しい」と申し出てきたがハリスはそれを断固拒否、結局、下田奉行は柿崎の玉泉寺にアメリカ総領事館を開設することを認めた。奉行所は玉泉寺に寺院の明渡しを命じ、その作業が完了するとハリスは総領事館開設に着手した。そして、安政3年8月6日(1856年9月4日)午後2時半、ハリスの見守る中で、サン・ジャシントン号の水兵らの手によって玉泉寺境内に日本最初の外国領事館旗が掲揚された。この日の夕刻、サン・ジャシントン号は艦旗をわずかに傾けて別れの挨拶を送り、ハリス総領事独りを栄光の中に残して下田から立ち去った。ハリスはその日記に「この日の午後2時30分、この帝国における最初の領事旗を私は掲揚した。厳粛な反省――変化の前兆――疑いもなく新しい時代が始まる――敢えて問う、この領事館開設が日本にとって真の幸福となるのだろうか?」とその胸中の想いを書き記している。
米国初代総領事としてハリスが最初に手掛けたのは下田協約の締結であった。その主な内容は、「長崎の開港、米国人に下田と函館での永住権を与え函館に副領事を置くことを認める、金銀貨の同種同量交換(ただし改鋳費6%を含む)、米国人に治外法権を与え領事の裁定に服させる」というものであった。ハリスにとっての最大の仕事となったのは日米修好通商条約の締結であったが、現在玉泉寺にあるハリス記念館にはその時代の各種資料が展示されており、それらを通じて当時のハリスの仕事ぶりや生活ぶりを偲ぶことができる。安政4年10月(1857年11月)、53歳になったハリスは13第将軍徳川家定に謁見するため下田を発ち、天城峠から三島、箱根、小田原を経て陸路江戸入りした。350名ほどからなる幕府役人に警護されたハリス一行は、その道中、星条旗を掲げ続けた。同年10月21日(11月30日)に家定への拝謁を無事済ませたハリスは、並み居る幕閣らに向かって、「産業革命によって世界の情勢が一変し、列強国の武力行使による東洋市場への介入進出が強行されている。それゆえに、日本は外国との通商の意義やその有益性を認識し、鎖国政策を放棄して市場を開放すべきである。米国総領事としての自分の要請を受諾し、米国と通商条約を結ぶならば日本は利益を得て繁栄するだろうが、それを拒絶するなら国際的に孤立化し、列強国、なかでも野心的なイギリスとロシアの好餌となるであろう」と力説した。
ハリスは江戸に入ってから幕閣らと14回にも及ぶ談判を重ね、翌年の初春にようやく条約の妥結がなり調印を待つばかりになったが、京都の朝廷の勅許が得られず調印は大幅に延期された。いったん下田戻ったハリスはほどなく重病に陥り、その状況を危惧した幕府は医師団を下田に派遣、献身的な治療に努めさせた。その甲斐あってハリスは危うく一命をとりとめることになったが、その折ハリスは栄養を補給するため奉行所に牛乳の入手を要請した。奉行所配下の者たちの奔走により和牛から搾った牛乳約1升ほどが調達されハリスのもとに届けられたが、その代金は1両3分88文で、米3俵分にも相当する高価なものであったという。当時の日本には牛乳を飲む風習はなかったのでハリスの要請は人々を大変驚かせたというが、それが我が国における初の牛乳取引の事例となった。玉泉寺にはそのことの意義を伝える「牛乳発祥の辞の碑」や「牛乳の碑」が建てられてもいる。
健康を回復したハリスが通商条約の一刻も早い調印を願って下田と江戸との間を往復している間に、英仏連合艦隊やロシア艦隊は日本に向かって続々と出動し、下田湾や東京湾に来航して外交的圧力をかけるようになった。決断を迫られた幕府は、井伊大老の命により安政5年6月19日(1858年7月29日)井上信濃守と岩瀬肥後守を神奈川沖に碇泊中の米艦ポーハタン号に送り、懸案となっていた日米修好通商条約に調印した。調印式が終わると、マスト高く日米両国の国旗が掲揚され、21発の祝砲の音が一帯に轟きわたったという。条約締結の功績により翌年に公使に昇格したハリスはほどなく江戸に移り、麻布にある善福寺に仮公使館を開設した。そして、それに伴い、同年12月8日に玉泉寺は檀家の人々の手に戻され、下田は閉港となって外交舞台としての幕は下ろされた。ハリスはその3年後の安政9年(1862年)に帰国した。