夢想一途バックナンバー

第38回 人間ドラマの舞台

(20)山形県村山市――老舗「あらきそば」を訪ねて

村山盆地の豊かな自然

飯豊山系北部や吾妻連峰北部に端を発する最上川は、途中、朝日山系東北部、月山連峰南東部、蔵王連峰西部などの各水系と合流しながら山形盆地を北上し村山盆地に至る。そして、村山盆地北部の大石田を過ぎたあたりでその流路を北西方向に変えて激しい蛇行を繰り返しながら進み、古来の良港酒田を経て日本海へと注ぎ込む。村山市のある村山盆地はその最上川の中流域に位置し、同盆地の西方には月山連峰の東端を成す葉山(1462m)の雄姿が望まれる。出羽地方の修験道霊峰のひとつとしても知られる葉山は、村山地方の人々の生活と深く結びついた自然豊かな恵みの山なのである。葉山の山腹や山麓周辺の冷涼な気候は果樹類や蕎麦の栽培に適しているし、東山麓に湧き出る豊かな沢水や伏流水は昔から多くの田畑を潤すとともに、貴重な生活用水として人々の暮らしを支えてきた。

水田越しに望む葉山

水田越しに望む葉山

村山盆地を蛇行しながら北上する最上川には、碁点(ごてん)、三ヶ瀬(みかのせ)、隼(はやぶさ)という水運の難所が存在し、かつてそれらは最上川三難所として恐れられた。米沢や山形の産物を満載した川舟が酒田まで下ったり、必需物資を積んだ舟が酒田から山形や米沢方面まで遡上するには、危険な浅瀬が潜み激流の逆巻くそれら難所を通過しなければならなかった。現在の碁点橋付近にあたる碁点は、碁石のような形をした岩々が川中に点在する急流地だったのでそんな風変わりな呼称がつけられたものらしい。いまでは「最上川三難所舟下り」と銘打つ観光船の「碁点」ならぬ「基点」になっているのだが、その奇妙な地名のもととなった碁石形の岩々を碁点橋から望むことができた。また、それより5kmほど下流の三ヶ瀬あたりで最上川はヘアピン状に大きく蛇行しており、そこに架かる三ヶ瀬橋の少し上流から橋の直下あたりまでがやはり浅瀬の急流になっていた。渇水期には川床の固い岩盤が剥き出しになるらしいのだが、いまは六月半ばの増水期とあって川底の岩盤は水に隠れて見えなかった。そのかわりに川面全体が小刻みに漣(さざなみ)立ち、相当な勢いで水が流れ下っているところだった。また、三ヶ瀬橋のすこし下流には長島橋という橋が架かっており、その橋のたもと一帯が最上川三難所舟下り観光船の終着地になっていた。こんなことを明かすと営業妨害になるのかもしれないが、この「最上川三難所舟下り」という看板にはいささかの偽りがあるようだ。実を言うと、三難所中の最難所「隼」はこの観光船終着地よりもかなり下流にあるのだが、隼の瀬付近は文字通りの激流となっているため、観光船がそこを無事に上り下りすることは不可能に近い。そのため隼は舟下りコースから外されているのだ。したがって、正しくは隼抜きの「最上川二難所舟下り」ということになる。

最上川最大の難所「隼」

最上川最大の難所「隼」

最上川難所「碁点」

最上川難所「碁点」

最上川難所「三ケ瀬」

最上川難所「三ケ瀬」

むらむらと涌き上がる生来の野次馬根性を制しかねた私は、どうせなら最難所と謳われる隼の瀬を訪ね、実際にその光景を眺めてみたいと考えた。そこで、長島橋近くで国道から農道へと車を乗り入れ、その農道からさらに分岐する狭い脇道へと分け入った。その細道の奥まったところには小集落があったが、その周辺の水田越しに眺める葉山の山容はひときわ秀麗なものだった。その集落の一隅に駐車し、そこから300mばかり歩くと最上川のほとりに出た。来訪者は稀らしく鬱蒼とした草叢の中に古びた感じの解説板がひとつ所在なげに立っているだけだったが、隼の瀬はまぎれもなくその場所に存在していた。眼前には大小の岩々の見え隠れする瀬場が段をなして広がり、渦巻き泡立つ激流がその瀬場越しに轟々と流れ落ちていた。碁点や三ヶ瀬に比べこの隼が段違いの難所であることは一見しただけで明かだった。交易を水運に頼っていた時代、この難所を無事に通過するのは容易なことではなかったろう。とくに上りは激流中での危険な作業に当たる多数の曳き舟人足を必要としたばかりでなく、多大な時間と労力、創意工夫の数々を要したに相違ない。隼の瀬の岩には往時の川舟の衝突や接触の痕跡が残されているとのことであった。なお、奥の細道の旅路にあった芭蕉と曽良は、この隼よりも下流に位置する大石田から舟に乗り酒田へと下っていった。「五月雨をあつめて早し最上川」の句はその折に詠まれたものである。

茅葺屋根の「あらきそば」

老舗「あらきそば」(0237-54-2248)は村山市西部の大久保にある。地理的には葉山の東面山麓端にあたり、前述した碁点橋の2kmほど西方に位置している。大正9年創業のこの老舗の古風な茅葺屋根の建物は、180年ほど昔に近隣の村に建てられた田舎家を現当主の祖父が明治初めに譲り受け、現在の場所に移築したものだという。有名な蕎麦屋なのだが、人目を惹く大仰な看板などどこにもなく、入口付近に「あらきそば」とさりげなく墨書された軒行燈風の看板がひとつ控え目に掛かっているだけだ。その一事からしてもこの店主の人柄や高い美意識のほどが偲ばれるというものだろう。押しかけ取材に訪れた私を二代当主の芦野又三さん(74歳)は温かく迎え入れ、店の玄関奥にある囲炉裏の間に通してくれた。店名が「あしのそば」ではなく「あらきそば」となった経緯を芦野さんに伺ったが、その話はいささか意外なものだった。又三さんの祖父の又蔵さんは剣豪荒木又右衛門に心酔していたのだそうで、そのことにちなんで、又三の父君の勘三郎さんが蕎麦屋を創業した折、店名を「あらきそば」とすることしたのだという。奥様のよし子さん共々に「あらきそば」のそんな由来などを静かに語る又三さんの山形弁の優雅な響きが、なんとも心地よく私の耳に伝わってきた。また、そんな芦野御夫妻のさりげない物腰の奥には、一朝一夕には成り難い品格とそのゆえの謙虚さとが偲ばれてならなかった。

玄関を入って右手にある客間は30畳から40畳ほとの畳敷きの大広間ひとつだけで、そこに年代物の頑丈な木製坐用長テーブルが何脚も配置され、それら各テーブルの両側には座布団が敷き詰めてあった。歳月の流れの中で磨き上げられた柱や板壁、天井の梁などは、みな固有の存在感を湛えて黒光りを発しており、きわめて庶民的な雰囲気のなかにも洗練された風情が漂い滲み出ている感じだった。和紙張りの明かり障子のほかに明かり取りを兼ねた昔風の簾などもさがっていて、それら簾の隙間から望む外の木立の緑はなかなかにおつなものだった。あらきそばはもともと地元の農家や商家の人々に慰労の場や寄り合いの席を供するために設けられた。地元産の蕎麦粉を用い地元に伝わる昔ながらの手法で打たれた蕎麦を腹一杯食べながら、近隣の人々が交歓できるような場を設けようというのが創業者芦野勘三郎さんの願いだった。大久保一帯の各農家では当時から手製の蕎麦を打って食していたが、勘三郎さんはそんな地元で蕎麦打ちの名人と謳われていた人物でもあったので、あらきそばの評判は時を待たずして周辺に広まっていった。

この店の蕎麦は、杉の柾目板で作られた縦20cm、横55cm、深さ4cmほどの長箱に盛られて供される。地元産の蕎麦のみを用いた4mm角の超極太生粉打ちの蕎麦で、東京あたりの蕎麦の3~4本分もの太さがある。よく吟味された原材料が用いられているから味も香りも申し分ないのだが、太くて強烈に腰がきいているので楽々とは喉を通らず、しっかりと噛み締めてからでなければ呑みくだせない。そのかわり、噛んでいると、絶品と謳われるここの蕎麦ならではの深みのある味がじわじわと口内に広がってくる。いまひとつ驚くべきなのはその量だ。又三さん直筆の品書きには「うす毛利(薄盛り)」と「むかし毛利(昔盛り)」の二種類だけが併記されているのだが、「うす毛利」の1人前でも都会の蕎麦の3人前近い量があるから、たとえ蕎麦好きであっても空腹でなければ食べ切れないおそれがある。「むかし毛利」にいたっては「うす毛利」の2倍もの量があるときているから、よほどの蕎麦好きか大食漢でもないかぎり挑戦するのはやめておいたほうが無難だろう。また、品書きには記載されていないのだが、知る人ぞ知るこの店のもうひとつの名品は「身欠き鰊の味噌煮」である。北海道岩内から直送される身欠き鰊を、米4俵大豆4俵を用いて造った自家製の赤味噌と砂糖だけで丸一日じっくりと煮込む。すると漆黒に近い艶やかな色の身欠き鰊の味噌煮が出来上がる。簡単なように思われるがいろいろと特別な処理法や秘伝があるので他店には真似できないらしい。この店を訪ねる機会のある人には、お客の誰もが絶品と口を揃えるその味覚を是非とも楽しんでもらいたいものだ。

うす毛利そばと鰊の味噌煮込み

うす毛利そばと鰊の味噌煮込み

鰊を煮込む芦野よし子さん

鰊を煮込む芦野よし子さん

茅葺屋根のあらきそば

茅葺屋根のあらきそば

蕎麦を捏ねる芦野光さん

蕎麦を捏ねる芦野光さん

蕎麦を打つのは三代目の光さん

又三さんの話によると蕎麦の味は生粉の質できまるという。そのために、毎朝、蔵の中の玄蕎麦を素材に当日必要な蕎麦の生粉を碾くのだそうで、それは専ら経験豊かな又三さんの仕事であるという。昔みたいな石臼による手碾きではないが、それでも良質の生粉を碾くのは難しいことらしい。いっぽう、いま蕎麦を打っているのは、又三さんの長女真弓さんの婿で三代目若当主の芦野光さん(53歳)だ。光さんが向かうのは140cm四方の姫松製の蕎麦打ち台だ。まず台の上に大きな木鉢を載せ、それに大盛り2升ほどの生粉を入れ金柄杓で2杯弱の水を加える。水は自宅の深井戸から汲み上げた葉山山麓の清冽な伏流水であるという。他にはいっさい何も加えず、それを十分に捏ね上げて一塊の大玉に仕上げる。何気ない作業に見えるが水加減や練り加減には長年の経験と勘が必要だという。次に捏ね上げた蕎麦玉を台上に置き、台の一辺と同じ長さの140cmの桐の麺棒を転がしながら、直径140cm弱の円盤状になるまで展ばす。手際よく均等の厚さになるように展ばすのは至難の業とかで、円盤の直径を小さめにすると太めの蕎麦に、大きくすると細めの蕎麦になるらしい。円盤状に展ばし終えると四つに折りたたみ、コマ板を当てながら蕎麦包丁でいっきに細く切り分ける。20分ほどのこの工程で15人分前後の蕎麦が打ち上がる。光さんはこの作業を不休のまま数時間以上連続することもすくなくない。打ち上がった蕎麦を最適の状態に茹で上げるのは長年釜番を務めてきた又三さんの奥さんのよしこ子さんだ。

著名人客も続々と

あらきそばに足を運んだ著名人は数多い。古くはシェークスピアの研究家の福田恒存、時代小説家の村上元三、食通として知られた慶応大学教授池田弥三郎、NHKの名アナウンサーだった宮田輝、奈良東大寺の管長清水公照、地元山形の作家藤沢周平、芸能人の南伸坊などの名が挙げられる。近年では芥川賞作家玄侑宗久、若狭の画家渡辺淳、ニュースキャスターの築紫哲也なども来店しているし、斉藤茂吉の孫娘の斉藤惠子なども毎年のように訪ねてきているという。それら著名人の残した書や色紙はいまではこの店の宝物となっており、その一部は客間の床の間や壁に掛けられて来客の目を惹いている。このようなことを書くとずいぶんと敷居の高い店に思われるかもしれないが、実際には誰でも気軽に入れるごく庶民的な店で、著名人と一般人が差別されるようなことはまったくない。地元村山市白鳥出身の知人に連れられ私が初めてこの店を訪ねたのは、まだ29歳の若造の頃だった。

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