(8)山刀伐峠と封人の家――「奥の細道」の舞台裏は?
封人の家考
「奥の細道・尿前の関」の章で「大山をのぼって日既に暮れければ、封人の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれてよしなき山中に逗留す」と述べられている封人の家とは、現在も山形県最上町堺田に残る旧有路家住宅だといわれている。そして、この封人の家滞在中に芭蕉が詠んだのが「蚤虱馬の尿する枕もと」という有名な一句にほかならない。蚤、虱、尿といった人々がもっとも忌み嫌う対象を詠み込んだこの句を、芭蕉の俳諧精神の極致だと評する専門家もすくなくない。この一句を素直に読むかぎり、芭蕉一行が泊まったのは粗末な藁小屋みたいなところで、その中には蚤や虱がウジャウジャしていて身体中が痒くなり、おまけに小屋の中で飼われている駄馬が枕もとでジャージャーと放尿する始末なので、とても安眠できるような状況ではなかったという印象をうける。
だが、封人の家とは、陸前仙台領と出羽新庄領との国境を守る役人をかねた当時の堺田村の庄屋の家を意味している。堺田は仙台領と新庄領とを結ぶ交易路、北羽前街道の要衝集落だったのだから、その地を預かる役人兼庄屋の家がそれほどに粗末なものであったはずがない。実際、旧有路家所有のその家屋は、総茅葺の屋根をもつ建坪81坪の立派な建物なのである。東西にのびる長方形の建物の北西奥が縁側付き10畳敷きの床の間、南東奥が12畳半の入りの座敷、入りの座敷の東側がやはり畳敷き15畳の中座敷、そして、床の間の東側、すなわち中座敷の北側が12畳の板敷き納戸の間になっている。また、納戸の間と中座敷の間の東側には約18畳の総板敷きの間があって、そのなかほどには大きな囲炉裏がしつらえられている。この大きな板敷きの間が日常的に使われていた居間だったらしい。
18畳の板敷き居間の東側には面積15坪をゆうに超える広い土間があって、そこには炊事用の大竈や水屋(内井戸などのある生活用水場)が昔のままに残されている。かつてこのような土間は、炊事場、洗い場、各種作業場、物資保存場などとして多様な使い方がなされていた。そして、この土間の東側、すなわち家屋の最東端に、それぞれ3・4坪ほどの厩が三つ並び配されているのである。当時小国と呼ばれていたこの一帯は有名な乗用馬の産地で、新庄藩の保護奨励のもと、武士たちに供する良質の馬を育てていた。「小国駒」と呼ばれるそれらの馬は、遠く江戸や越前地方にまで移出され重用されていたという。したがってこの厩で飼われていた馬たちは、我が子のように愛情深く育てられた高級馬だったのだ。それらの厩舎を用いれば、すくなくとも4・5頭の馬の飼育が可能だったに違いない。
床の間や入りの座敷は大名や高位の武士しか使えなかったから、芭蕉と曽良は中座敷に泊まったらしい。ただ、中座敷もなかなか立派な畳敷きの部屋だから、蚤や虱がそうそう出たとは思われない。寝具だって、豪奢なものではなかったにしてもそれなりに清潔なものが提供されたと考えるのが自然だろう。馬の尿にいたっては、その音がはっきりと聞こえたかどうかさえ疑問である。中座敷から厩まではすくなくとも6間半(11.7m)はあったから、どうみても枕もとで馬が放尿するといったような状況ではなかったはずである。
山刀伐峠考
奥の細道の本文にも曽良随行日記にも山越えをした旨の記述があるだけで、その名が明記されていない山刀伐峠は、大森山と金山とをつなぐ稜線の鞍部にあたり、その高度は海抜470mほどである。封人の家のあった堺田付近の海抜高度が300m~400mほどだから、その高度差はせいぜい200m弱のものだろう。芭蕉らは元禄2年5月17日(新暦7月3日)に堺田から尾花沢までの約30kmの道のりをまる一日かけて歩いている。堺田と山刀伐峠間約12kmの行程のうちもっとも高度の低いところは現在の赤倉温泉付近で、海抜300m強のようである。したがって芭蕉一行は堺田を出たあと緩やかな坂道伝いに100mほど高度を下げ、そのあといっきに200mほど高度上げて峠を越え、長く緩やかな坂道を尾花沢へと下っていったことになる。山刀伐峠という呼称は、北側が急で南側が緩やかなこの峠の地形が昔の猟師や農民らの冠物(かぶりもの)の「ナタギリ」に似ていることに由来しているという。「尿前の関」の章中で、芭蕉はこの山刀伐峠越えについて次のように述べている。
宿の主人によれば、ここから出羽の国に出る場合、途中に大きな山があって道もはっきりしていないから、道を案内してくれる者を頼み、その者の先導で山越えをしたほうがよいということである。それならばと人を頼んだところ、道案内にはもってこいの頼もしい若者がやってきて、刃の反った山刀を腰に差し樫の杖を手にした姿で我々を先導してくれた。我々は、「今日こそはきっと危ない目に遭うにちがいない」とはらはらしつつ、さらにまた辛く苦しい思いを重ねながらそのあとについて行った。宿の主の言った通り、その高山は森閑としていて鳥の鳴き声ひとつ聞こえず、樹木が鬱蒼と繁っているため樹下の道はひどく暗く、まるで夜道を歩いているような感じであった。「雲端につちふる」という杜甫の詩の一節をも想い出すほどに薄暗くて凄まじい有様で、笹薮の中を踏み分け踏み分け前進し、沢の流れを渡ったり岩に躓いたりするごとに冷や汗で肌身を濡らしながら、やっとのことで最上の庄に出た。案内の男は、「この道を通る時にはきまって不祥事が起こるのですが、今日は無事にお送り申し上げることができ幸いでした」と言い残し、喜んで帰って行った。その言葉を聞いたのは無事に道中を終えてからではあったけれども、それでも胸がどきどきしてならなかった。(筆者現代文訳)
この記述を読むかぎり、この峠路は想像を絶するほどに峻険で人跡稀な難路であったかのように思われる。だが、現在も部分的に残るこの古道を実際に歩き地形的な考察をしてみたかぎりでは、北面がブナの原生林で覆われていた元禄時代であったとしても、ここがそれほどの難路であったとは考えられないのだ。この程度の険しさの峠路は当時ならどこにでもあったに相違ない。堺田の封人の家を出発した芭蕉らは、古代からの交易路、北羽前街道を新庄方面に向かって6kmほど進み、現在の羽前赤倉駅に近い明神のあたりで左に分岐し、山刀伐峠を越えて尾花沢に向かう山道を下ったものと推定される。実のところ、この山道は南部地方(岩手)と最上地方(山形県村山市一帯)を結ぶ中世以来の要路で、出羽三山の参詣路でもあったのだ。
尾花沢に着いた芭蕉は門下の鈴木清風の屋敷に泊まっている。紅花商人の清風は尾花沢の豪商だったから、南部地方や仙台方面の商人たちとも諸物資の取り引きがあったことだろう。当然、清風配下の用人たちは山刀伐峠を越えて往来していたはずである。そうだとすれば、芭蕉が尾花沢に到着する以前から清風とは連絡がついており、堺田から尾花沢に至るこの道程の情報もあらかじめ掌握されていたと考えるのが自然なのではなかろうか。
「言葉の絵師」としての芭蕉
「封人の家」の場合にしろ、「山刀伐峠」の場合にしろ、実際の状況が「奥の細道」の中の描写とは大きく異なっていたとすれば、なぜ芭蕉はあえてそのような大袈裟ともいえる記述をしたのであろう。芭蕉研究の大家であるドナルド・キーンは、「そうだからといってその文学的な価値がさがるわけではない。むしろそれによってその芸術性は一段と高められている」と断わったうえで、奥の細道にはいくつものフィクションの部分があることを具体的に指摘している。そして、「自らの作品を納得ゆくまで推敲し、何度も手直しするというのは芭蕉の常であった。数々の有名な芭蕉の句のなかには即興句はほとんど存在していない」とも述べている。このキーンの言葉はさきの疑問を解くためのひとつの手掛かりになるかもしれない。
芭蕉は奥の細道の全文を完成させるのに5年もの歳月をかけた。その理由は、句の部分ばかりでなく、散文部を含めたその作品全体をきわめて完成度の高い詩篇ないしは詩物語として仕上げようという意図があったからだという。長い旅路における数々の体験が芭蕉という稀代の天才の心を通して一度濾し分けられ、それらが深い感動を伴う究極の心象風景となって、「奥の細道」という普遍性の高い作品へと結実したということなのだろう。
奥の細道の随所において事実とは異なる記述がなされたり、大袈裟とも思われる表現が用いられたりしているのは、はじめから芭蕉には事実を細大漏らさずありのままに記述する意図も、その必要性もなかったからに違いない。紀行文というと、事実に即した克明な記述がなされているものと思いがちだが、それは現代的な紀行文に毒された我々の勝手な思い込みだともいえる。芭蕉の時代の「紀行」は現代の「紀行文」とは本質的に異なっていたのだと考えるほうが自然なのだ。
一流の画家というものは、なにかしらの現実の風景を目の前にしてその画家なりの心象風景をつくりあげ、それをキャンバスに描きとめる。だからこそ、絵画の世界ではなんでもない風景をもとにして後世に残るような感動的な名作が生み出されることにもなるのである。そのような場合、完成した絵の風景が現実の風景とは異なっているからといって、その作品の評価が低くなるようなことはありえない。それとまったく同様に、芭蕉の奥の細道を陸奥の旅を題材にした一幅の絵巻、それもきわめて完成度の高い絵巻物語だと考えてみるならば、すべては説明のつくことなのだ。それは、実際の旅の出来事を素材にした心象作品、すなわち、ノンフィクションをベースにしたこのうえなく良質なフィクションなのだということになる。芭蕉という稀代の「言葉の絵師」に偉大な絵巻物師の姿を重ね見るならば、万事納得がいくというわけである。
遠く李白を偲び、歌人西行の旅の世界に傾倒もしていた芭蕉は、その旅路のなかに先人たちが心惹かれた昔ながらの風物や風情を求めようとしたに違いない。だが、元禄という爛熟した時代の波は行く先々の景観を大きく変えてしまっていたことだろう。現代の我々が芭蕉の歩いた名所旧跡を辿るとき、昔の面影などどこにもないその変容ぶりに嘆息するようなことはすくなくない。同様の思いは元禄時代の芭蕉にもあったことだろう。そうだとすれば、奥の細道を完成させるにあたって、芭蕉が終始心象風景の記述という作業、すなわち良質のフィクションの創作に徹しぬいたことは、当然の成り行きであったというべきであろう。