夢想一途バックナンバー

第14回 星闇の旅路

(9)富良野の友

十勝連峰の麓に広がる富良野には格別の想いがある。40年ほど昔に話は遡るが、当時、私は、南国鹿児島の薩摩半島西方海上50キロほどのところに浮かぶ甑島という離島にあって、遠い世界をひたすら夢見る少年だった。生まれたのは横浜だが、諸々の家庭の事情もあって、幼少期に母方の祖父母の住むその島に移り、それからもう数年がたっていた。

朝夕に潮騒のこだまする海の向こうに広い世界があることだけはわかっていた。だが、それは、世の繁栄とはまるで無縁な半農半漁の小村に身をおき貧しさを忍んで生きる少年には、憧れても訪なうことの到底かなわぬ彼岸のようなものだった。大気の澄んだ秋の日などには、水平線の遥かむこうに、その「彼岸」が悲しいまでにかすんで見えた。

そんななかで、唯ひとつ、彼岸への心の懸け橋となったのは、月に1度、大阪に住む遠縁の者が送ってくれる「小学生の友」だった。今と違って、学年別には分けられていなかったように思う。離島にはまだラジオさえ十分には普及していなかった頃のことだから、むろん村には本屋と名のつくものなどは1軒もなかった。また、僻地のことゆえ、学校に備えられている図書などしれたものに過ぎなかった。だから私は、送られてくる本を隅から隅までむさぼり読んだ。そして、見果てぬ夢の世界へと、遠く想いを馳せらせた。

小学5年のある日のこと、小学生の友を読んでいるうちに、突然、私は、文通をしてみようかと思い立った。それも、なるべくなら遠い所に住んでいる人がよいと考えた。そのほうが自分の知らないことなどをいろいろと教えてもらえるのではないか、という期待に小さな胸を踊らせたからである。

さっそくに読者欄をめくってみると、たまたまその号に、空知川が云々という自校の校歌を投稿していた「定塚信男」という1学年上の男の子の名前が目についた。住所はと見ると、北海道空知郡南富良野村字幾寅とある。すぐに学習用の地図帳をだして調べてみると、南富良野村とは、北海道の中部に位置する、なにやら面白そうなところであることが判明した。そうとわかれば、まずは当たって砕けろである。べつに相手が文通希望の意志を表明していたわけではなかったし、手紙そのものがうまく届くかどうかさえ確信はなかったのだが、ものは試しと、とにかく筆を執ってみることにした。

中学生になってからだったら、文通の相手には異性を選んでいたかもしれない。だが、当時はまだ小学生だったこともあって、異性に対するこだわりはあまりなかった。そして、いまにして想うとそのことが逆に幸いした。さもなければ、以後40年にわたる我々2人の天恵とも言うべき親交はなかったに違いない。たどたどしい筆跡の手紙をポストに投函してから何週間かが過ぎた。そして、やはり駄目だったかと半ば諦めかけた頃になって、ようやく北海道から一通の便りが届いたのだった。差し出し人の名前を見ると「定塚信男」とあるではないか。内心小踊りしながら大急ぎで封を開くと、中からは、とても小学生のものとは思えないほどに整った字体と文章で綴られた、かなり長めの手紙文が現れた。そして、それには、突然のことで驚いたけれど、文通の件は喜んで了承した旨のことが記され、そのほかに、先方の家族についての簡単な紹介などもしてあった。

あとになってわかったことだが、彼もまた、その頃はまだ知る人がほとんどなかった富良野にあって、厳しい生活を送りながら、広い世界を秘かに夢みる少年だった。不思議な縁だが、ともかく、こうして日本の北と南に住む我々2人の文通が始まった。まさかそのささやかな文通がその後に続く長い付き合いにまで発展していこうとは、むろん、その時はまだ、お互い思ってもいなかった。

私は南の島の四季の風物や日々の生活の様子などを折あるごとに克明に書き綴り、彼は彼で、いつもながらの見事な字と文章で、富良野や十勝連峰一帯の雄大な自然、さらには農業の有様などを詳しく書き送ってきた。たまに、南の海で獲れたキビナゴ・アジ・カマスの干物やスルメなどをほんの気持ちばかり送ったりすると、むこうからは、お返しにと収穫したばかりのジャガイモやカボチャなどが送られてきた。そのカボチャの身がしまっていてとても美味しかったので、種を採っておき翌年我が家の庭にまくと、実が成るには成ったものの、形も違うし、身のほうも水っぽくて軟らかく、すっかり期待は裏切られた。そして、生育環境が異なるとこうも違ってくるものかと妙に感じ入ったりもした。

過労が原因で当時は治療の難しかった胸をやられ、1年ほど前から自分の死期を予知していた母は、祖父母も先々長くはないから、あなたは独りで生きる心構えをしておきなさい、という主旨の言葉を私に言い残し、中学1年の冬、貧しさのなかで他界した。

既に父親は亡く、叔父叔母や兄弟も皆無だったから、母方の祖父母だけが頼りではあったが、母の言葉通り、その祖父母も日を追うように老いていった。明日への不安を人知れず胸に秘めながら生きる私の心を、遠くにありながらも鋭く察した彼は、いつも温かい思いやりのこもった励ましの言葉を書き送ってくれた。それがどれだけ心の支えになったことだろう。

送られてくる手紙の中には、時折、彼自身が撮影した富良野周辺の風景写真などが入っていた。広大な原野を縫い進む列車を狩勝峠から撮った写真や、銀冠を戴く美しい十勝連峰の写真などは、先々のことを想って沈みがちな私の心をしばしやすらわせてくれたばかりでなく、富良野、さらには北海道という未知の土地に対する強い憧れの念を私のなかに生み育んだ。一生に一度でよいから、その地を訪ねてみたいと思った。だが、そのときの自分の境遇からすれば、それは夢のまた夢にほかならなかった。

島での3年間の中学生活が終わりに近づいた頃には、貧しさに追われるように祖父母はますます老いを深めた。島には高校がなく進学するには本土に渡るしかなかったが、それにはかなりの学資が必要だったので、私は進学を断念し働くことを決意した。現代とは違い、中学生ともなると、田舎の子供は日々大人顔負けの労働をするのが常だった。だから、働くことそのものには抵抗感はまったくなかった。

だが、周辺の人々の強い勧めや直接間接の支援などもあって、結果的に、私は島を離れ、鹿児島市内の普通高等学校に進学した。自分自身では、昼間働きながら夜学に通う道を選びたいと主張したが、「自分達は死んでいく人間だけど、お前はこれから生きていかねばならぬ人間だから、無理しても学べるときに学んでおけ」という祖父の強い一言もあって、普通高校へ通うことになったのだった。

寮生活を送るいっぽうで、掃除や見回りその他のアルバイトに励む毎日だったが、進学したその年の5月と12月に祖父母が相継いで他界し、文字通りの天涯孤独の身になった。学んでいる者はその責務をまず全うすべきだという祖父母の強い遺志のゆえに、どちらの死に目にも立ち会わせてはもらえなかった。

最後の肉親を失ってからというものは、どこにあっても己の感情を抑制しながら生きることを余儀なくされたが、そんな状況下にあって、手紙を介したこととはいえ、気がねなく本音を吐露できる年上の彼の存在はこのうえなく有難いものだった。

その時からさらに10年余の歳月が流れ去った。そして、その歳月は、かつては幼かった我々2人をそれなりには育み導いてくれていた。既に地元の中学の先生となっていた彼は、自ら志願して赴任した山間の一級僻地の学校で優れた教育者として数々の実績を積み、私は私で、かつては遠く無縁の存在に過ぎなかった東京の地にあって、ささやかながらも専門研究の道を歩み始めようとしていた。

その年の5月のこと、長年の夢を実現する絶好の機会が訪れた。彼が結婚をするというのである。このチャンスを逃してはならないと思った私は、すぐに手筈を整え、結婚式参列のため、急遽北海道へと旅立つことにした。かねてから北海道に渡って初めて踏む土は南富良野のそれにしようと決めていたから、函館や札幌などには目もくれず、ひたすら列車を乗り継いでまだ見ぬ友の待つ幾寅駅へと直行した。

列車が富良野盆地に入ると、車窓左手後方に残雪を戴く雄大な十勝連峰の山並が見えた。胸が熱くなるような深い感慨を覚えたのをいまでもはっきりと想い出す。富良野市から少し南に下ったところにある南富良野の幾寅駅に降り立った私は、にこやかな微笑みのなかにも静かな緊張を秘めてホームにたたずむ北の友との念願の対面をついに果たし得たのであった。時に昭和44年5月10日…初めての手紙を書いた日から数えてみると、実に16年もの春秋が、とどまるところなく巡り繰り返されていた。

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