(3)甲斐武田家滅亡の地〈日川渓谷〉
天正3年(1575年)3月11日、武田勝頼は大菩薩嶺から南に向かって切れ落ちる深い渓谷の地・田野(現在の山梨県東山梨郡大和村田野)にあって、わずかに生き残った一族郎党とともに西の山の端に傾き近づく朧月を眺めやっていた。その朧な月影はさながら滅びゆく武田家の運命を映し物語っているかのようでもあった。自らの父信玄によって滅ぼされた諏訪頼重の娘を母とし、長じて武田家を継いだ宿命の武将勝頼は、大月岩殿城に向かう途中の田野の地で武運尽き果て、波瀾に満ちたその人生の終焉を迎えようとしていた。「朧なる月もほのかに雲かすみ晴れて行衛(ゆくゑ)の西の山の端」という辞世の句を残したと伝えられる37歳の勝頼の胸中はいかばかりではあったろう。
――朧な月影は西の山の端に近づきほどなくその姿を隠そうとしている。ほのやかな光を放つあの朧月はまさに我が武田家の命運そのものであり、また一門最後の継承者たるおのれの姿そのものにもほかならない。さきほどまで西方に聳える峰々を覆い隠していた雲や霞も晴れ渡り、その山並みの彼方の西空へと沈みゆく朧月だけが名残惜しそうに輝いてみえる。ほどなく隠れる月影はまた、数々の裏切りや権謀術数の渦巻く下克上の世に別れを告げ、人世の恩讐を超えた西方浄土の地へと旅立とうとしている我が魂にも似ている。あの朧な月影のように、この魂の行く手を衛(まも)るがごとく聳え立つ峰々を越えて静寂な彼岸の地へと向かえば、もう織田軍の追撃の手も及びいたることはないであろう――自己流の解釈ではあるが、私にはその辞世の一首がそんなふうにも読み取れた。
天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田軍に敗れた武田軍は以後急速に衰えをみせるようになった。時流をいちはやく読み取り、勝頼に見切りをつけた重臣らの離反や謀叛が武田家滅亡の原因だったといわれるが、勝頼はほんとうに無能いっぽうの人物であったのだろうか。織田軍の勝利を決定づけたのが鉄砲主体の新戦術と信長のもつ強大な経済力であったのは確かだろうが、勝頼やその家臣らとて鉄砲の威力や経済力の重要さを認識していなかったわけではあるまい。ただ、領地が海に面していなかった武田家が鉄砲技術やそれに必要な火薬その他の多くの素材を迅速に入手することは困難だったろうし、国内外各地との交易で信長なみの経済力をつけることも難しかったであろう。つまるところ、地の利と時の運に恵まれなかったことが武田家衰亡の根本原因だったのではなかろうか。
天正10年(1582年)3月、武田家重臣木曽義昌の織田方への内通を機に甲斐攻略に踏み切った織田・徳川連合軍は、武田方の穴山梅雪をも味方につけ10万余の軍勢をもっていっきに勝頼の本拠地新府城(現韮崎市)へと攻めのぼった。進退窮まった勝頼は家臣小山田信茂の進言を容れて新府城を焼き払い、信茂の守る難攻不落の岩殿城(現大月市賑岡町岩殿)に籠城し織田軍に抗しようと決意した。不穏な動きを察知した家臣真田昌幸は上田城に籠るように要請したが勝頼はそれを容れず、直属の手勢七百騎と一族郎党のみを率いて岩殿城へと向かい、笹子峠越えを前にした3月10日、勝沼の東の田野周辺に逗留した。
だが、すでに織田軍と内通していた小山田信茂はこの時点で謀叛の意を顕にし、笹子峠や大鹿峠など大月方面へと通じる主な峠に兵を配して勝頼の進路を阻んだ。小山田の謀叛によって窮地に立った勝頼一行は、田野から峻険な日川渓谷を遡上して天目山栖雲寺(せいうんじ)に入り、そこから大菩薩嶺を越えて多摩秩父方面へと落ちのび、さらに上州に抜けてそこで再起をはかろうと考えた。いっぽう、小山田信茂の進言によりあらかじめその動き察知した織田軍は、信茂軍の先導のもと五千の兵を即刻天目山方面へと送り込んだ。それらの軍兵は大月・小菅方面から湯ノ沢峠や米背負峠などの難路を越えて日川渓谷本流から右手に分岐する大蔵沢一帯へと進出、同沢の下流域を経て天目山へと北上しようとする勝頼一行の前途に立ちはだかった。
家臣土屋惣蔵昌恒は、討死を覚悟した勝頼に田野まで引き返して自刃するよう忠言し、自らは竜門の滝近い渓谷の断崖絶壁を縫う隘路で待ち伏せ、次々と敵兵を切り殺し渓流へと蹴落とした。当時その付近は垂れ下がる藤蔓を片手で掴みながら通り過ぎなければならないほどの難所で、土屋は片方の手で藤蔓を掴み、もう片方の手で刀を振りかざし敵兵を切り落としたという。その伝承にちなみその場所は「片手切」と呼ばれるようになった。土屋のほか、小原丹後守、小原下総守らも配下の兵とともに同地近辺で奮戦、千人にも及ぶ織田軍兵を切り倒したと伝えられている。いっぽう、日川渓谷下流の田野への入口にあたる鳥居畑では秋山紀伊守、小宮山内膳正友信、阿部加賀守らがわずかな兵力をもって織田配下の滝川一益の軍勢と激闘し、数度にわたって滝川軍の田野侵攻を押し留めた。
そしてその間に、勝頼と北条家出身の19歳の勝頼夫人、勝頼の世子で16歳の信勝の3人は自刃した。武田一族最期の地にはのちに徳川家康の命によって天童山景徳院が建立され今日に至っている。景徳院境内には勝頼夫妻や信勝らの墓のほか、その影像、位牌、遺品を収めた甲将殿、3人の自刃の場だとされる3個の生害石などが現存している。また、近くには織田方が勝頼ら3人の首を洗ったところだと伝えられる首洗池などもある。
ただ、勝頼の最期を見届けた織田方武将の伝えるところはいささか違う。勝頼は飢えと極度の疲労のために動けず、戦闘にも参加せずに具足櫃の上に腰掛けていた。そしてついには前面を死守する土屋惣蔵らも討死し、その直後に側面から襲いかかった伊藤伊右衛門永光の手によって無抵抗のまま一刀のもとに討ち果たされてしまったのだという。戦闘終結後も3日間にわたって一帯の渓流には死んだ多くの兵士らの血が流れ続けた。そのためにかつてその渓流は「三日血川」と呼ばれていたのだそうであるが、イメージの問題もあって現在では「三」と「血」の二文字を取り去り「日川」と改名されている。
そんな名称の由来だけを耳にするとおどろおどろしい印象を抱いてしまいがちだが、実際の日川渓谷はこのうえなく風光明媚で風情豊かなところである。大菩薩嶺(2057m)には南に向かって大菩薩嶺―大菩薩峠―小金沢山(2014m)―牛奥ノ雁ガ腹摺山(1985m)―黒岳(1988m)―湯ノ沢峠―大蔵丸(1781m)―米背負峠―大谷ヶ丸(1643m)―大鹿峠―笹子雁ガ腹摺山(1357m)―笹子峠(1096m)とのびる尾根筋と、同じく南側に向かって大菩薩嶺―上日川峠(1590m)―砥山(1607m)―下日川峠―源次郎岳(1477m)―宮宕山(1309m)とのびる尾根筋とがあって、日川渓谷はそれら2つの尾根筋の間に位置している。ちなみに述べておくと、大菩薩峠は中里介山の時代小説のタイトルにも舞台にもなったところである。
景徳院のある田野から渓谷伝いに遡上するとやがて清流のほとばしる竜門の滝に着く。この地点で渓谷は竜門峡を形成する左手の日川渓谷本流と、「片手切」のある右手の支流大蔵沢との二つに分かれる。瑞々しい新緑や鮮やかな紅葉で知られる竜門峡には遊歩道が設けられていて、この遊歩道を登りきると天目山栖雲寺へと出る。中国杭州天目山で修行を積んだ業海本浄禅師が南北時代の1343年に開山したというこの禅寺には、花崗閃緑岩の自然石群をそのまま活かした珍しい石庭などがあって、こよなく旅人の目を惹きつける。またこの栖雲寺は蕎麦切発祥の地ともいわれ、境内にはその旨を記した石碑が立っている。その伝統を受け継ぐ近くの蕎麦屋天目庵や砥草庵の蕎麦は絶品といってよい。
日川渓谷のあちこちにはPH10.3というきわめてアルカリ度の高い鉱泉が湧き出ている。渓谷の奥にある嵯峨塩鉱泉はその代表格だろう。栖雲寺からなおも渓谷に沿って遡上し、日川最奥の牛奥集落をすぎてさらに進むと、鄙びた一軒宿「嵯峨塩館」が現れる。泉質抜群のこの宿の露天風呂にゆったりと身を沈めながら眺める四季折々の渓谷の景観は実に素晴らしい。渓谷の清流に映える新緑や紅葉、さらには美しい冬の雪景色と、目を奪われることこのうえない。若き日の東山魁夷がその風景に感動し絵筆をとったというのも頷ける。渓谷に沿う林道は嵯峨塩鉱泉からさらに奥にのび、日川ダムを経て長兵衛小屋のある上日川峠に至っている。渓谷の上流一帯から望む富士の眺めも息をのむばかりである。