(7)名作「鉄道員」の舞台、そしてある二人の出逢いの舞台〈南富良野町幾寅〉
「幾寅」その異称は「幌舞」
南富良野町幾寅(いくとら)は十勝岳の南尾根端の集落で、広大な十勝平野を一望できることで名高い狩勝峠の西方に位置している。富良野盆地を南下する根室本線は途中で大きく東に向きを変え狩勝峠直下のトンネル方面へとのびているのだが、その狩勝トンネルの20kmほど手前にあるのがJRの幾寅駅だ。しかし、この駅を訪ねる人は「幾寅」ではなく「幌舞」と大書された駅名を目にすることになる。ここは幌舞駅なのか、そんな駅が実際にあったかなと首を傾げながらよくよく駅舎表側の右上部を眺めてみると、そこに、ごく小さな文字で「JR幾寅駅」と実際の駅名を記した表示板が掲げられているのに気づく。
実をいうと浅田次郎原作、高倉健主演の映画「鉄道員(ぽっぽや)」の撮影舞台となった幾寅駅は、その名も「幌舞」と改められ、大竹しのぶや広末涼子らも登場するあの名作の誕生に一役買うことになったのだった。現在も駅として機能している「幾寅」は実際には「鉄道員」の中の「幌舞駅」のような終着駅ではないのだが、周辺を深い山々に取り巻かれ、冬場は豪雪に埋もれる土地柄ゆえに、雪の夜の駅舎を舞台にしたあの幻想的なラストシーンを撮影するには最適のロケーションと考えられたのだろう。現在では無人駅となっていることもあって、駅舎の中には「鉄道員」のストーリーや登場人物、各俳優らの役柄などを解説した展示物が並び、ちょっとした映画資料館なみの様相を呈している。いまも駅舎前に残る「だるま食堂」や「ひらた理容店」などの撮影用建物セットと合わせて「幌舞駅」はもっぱら南富良野の重要な観光スポットの一つとなっているのだった。
映画「鉄道員」は、高倉健演じる佐藤乙松という一徹な老駅長の、悲嘆と苦難に満ちみちた、だがそれでいてなお感動的な鉄道一筋の生涯を描いた作品である。まだ幼なかった娘の雪子を失い、大竹しのぶ演じる妻静枝とも死別した乙松は、やがて定年退職の日の夜を一人幌舞駅で迎えることになる。しんしんと雪の降り積もる白銀一色の幻想的なその夜のこと、乙松の前にどこからともなく赤いマフラーをした美しい高校生の少女が現れる。広末涼子演じるその少女の面差しがどことなく亡き妻静枝に似ていると感じた乙松は、娘雪子が生きていればちょうど今頃この美少女とおなじくらいの年頃になっているはずだと、思わず我が目見張る。ユッコ、ユッコか?……ただ美しいとしか言いようのない文字通りの幻夢の世界の中で、娘雪子の化身であるその少女に呼びかけた乙松は、信じられないような人生最大の至福の時を送りながらその少女とともに一夜を明かす。そしてその翌朝、幌舞駅のホームで降り積もる雪に埋もれて一人静かに眠る乙松の最期の姿が発見される。
浅田次郎ならではのそんな感動的物語の舞台として、幾寅駅はこのうえなく重要な役割を果すことになり、幌舞駅としてその存在を世に広く知られるところとなったのだった。
我が人生ドラマの舞台にも
去る4月末、私は旭川市の旧友定塚信男宅に電話をかけた。長年親交のあるヴァイオリニストの川畠成道さんを岩内の関係者に紹介し、5月下旬同地開催のコンサートの仲介をしたこともあって、定塚氏をそのコンサートに誘おうと思ったからだった。だが、電話に出た定塚夫人からは、悲しみにうち震える声で信じ難い事実を告げられることになった。旭川市の有名な合唱団の事務所で定塚氏が突然に縊死したというのである。長年中学校の音楽と英語の教師だった定塚氏は、道内では有名なその合唱団の事務局長を30年ほど務め、数々の海外公演を成功させてきた。常々私は合唱にかける同氏の心意気に感嘆するばかりだった。ただ、中学校を退職した同氏が、その合唱団の団長就任後も事務の総責任をも担うというきわめて異常な状況に身を置くことになっていたとは私もまったく知らずにいた。
「退職後は在職中以上に多忙をきわめる有様で、徹夜で事務所に詰めることもすくなくなくありませんでした。合唱団関係者がおっしゃるように命を賭けて合唱団を守ったのではなく、実際には命を賭けて合唱団を辞めたのです」という夫人の言葉が、おそらくはその死のすべてを物語っているのだろう。合唱団内部に渦巻く複雑な人間関係について定塚氏が苦悩していたのは事実だったらしいが、その急死の究極の真相は私にはなお謎のままなのだ。
私たち人間の誰しもが他者には絶対にわからない心の闇を抱えて生きている。ごく近しい存在であったとしても相手が他者であるかぎりは、その人の心の闇を奥底まで見通すことはできないし、ことさらそうする必要もない。よい意味での「心の闇」を内有することによって人には個性が生まれもするし、その人なりの魅力もそなわってくるからだ。だから、存在感があり人間としても魅力的だった定塚氏に心の闇があったとしても他者がそれを責めるわけにはいかない。ただ、その闇が、同氏の命の輝きを支える力としてはたらくよりも、その命を吸い取り奪う力としてはたらいたことをいまは心底残念に思うのだ。
南富良野の幾寅に住む定塚氏の存在を知ったのは「小学生の友」の読者欄を通じてのことだった。東シナ海の離島の磯辺で遥かな本土の山影に憧れる少年だった小学生の私にとって、文通こそは遠い未知の世界を垣間見る唯一の手段であった。文通相手を探していた私はたまたま定塚氏の投稿記事を目にとめ、すぐに一学年上の同氏に一方的な文通の申し入れをした。不思議といえば不思議なのだが、そんな奇縁が発端となって、当時はまだその名を知る人のほとんどなかった富良野盆地の南端に住む定塚氏と東シナ海の離島に住む私との間で文通が始まったのだった。それからほどなくして私が最後の肉親を失い天涯孤独の身になったときも、定塚氏は温かい手紙をもって絶えず私を励ましてくれもしたものだ。
定塚氏と私との文通はその後も連綿と続き、いつしか15年を超える歳月が流れ去った。その間に起こった互いの身辺の変化については手紙を通して了解し合ってはいたが、直接に顔を合わせる機会はなお一度もないままだった。初めて手紙を交わしたときには幼い少年だった私たちは、もう20代半ば過ぎの青年へと変貌を遂げていた。すでに地元北海道の中学教師になっていた定塚氏は、自ら志願して赴任した当時の一級僻地の学校で優れた若手教育者として数々の実践を積み、私のほうも、かつては遠く無縁の存在にすぎなかった東京の地にあって、ささやかながらも専門研究の道を歩みはじめようとしていた。
その年のこと、結婚することになったという報告を定塚氏から受けた私は、願ってもない機会だと思い、結婚式出席のため憧れの北海道へと旅立った。北海道に渡ったあと最初に踏む土は幾寅のそれにしようと決めていたから、函館や札幌などには目もくれずひたすら列車を乗り継いで南富良野の幾寅駅へと直行した。富良盆地に入るとすぐに車窓左手に残雪を戴く雄大な山並みが見えはじめた。あれが定塚氏の愛する十勝岳なのかと胸の奥底が熱くなったことを懐かしく想い出す。そして幾寅駅に降り立った私は、静かな笑みを湛えて駅頭に佇む定塚氏とついに念願の対面を果たすことができたのだった。それは昭和44年5月10日、私が初めて手紙を書いた日から数えると16年目も間近な日のことであった。
初対面の日からさらに36年もの時を経たこの5月末、私は定塚氏の眠る南富良野幾寅の恵光寺へと出向いた。途中で仰ぎ見る十勝岳はいつもながらの雄大さだった。幾寅に着くと私はまっさきに幾寅駅のホームに立った。もちろん、二人の初対面の舞台となったその場所においてあの日の記憶を甦らせながら、在りし日の定塚氏の姿を偲ぼうと思ったからだった。人知れぬ思いを胸中深くに抱き秘めながら、昔のままの面影をとどめるプラットフォームに立った私には、まるで「鉄道員」の映画のラストシーンそのままに亡き友の幻影が見えるような気がしてならなかった。プラットフォームの東端に立つと、友の愛してやまなかった十勝岳の頂きが雲間を縫って一瞬白く輝いて見えた。幾寅駅での私と定塚氏との対面のドラマは「鉄道員」のそれに較べるとささやかなものにすぎなかった。男同士のことゆえにそれほどにロマンティックなものでもなかった。だが、実話であったという意味においては、「鉄道員」の映画にもけっして劣ることのない数奇な運命のいたずらとでも言うべきものをはらんではいた。だから、すくなくとも私といまは亡き友にとっては、その駅はあくまで「幾寅」駅であり、「幌舞」駅であってはならないのだった。
幾寅駅をあとにした私は、そこからほどないところにある恵光寺の友の墓前に詣でた。少年期に次々と肉親を亡くした時も表だっては涙を流さすことのなかった私が、不覚にも涙を堪えることができなかった。じっと合掌をつづけるうちに、この世に別れを告げる直前に友の発した絶唱がどこからともなく響き聞こえてくるような気がしてならなかったからだった。私はそんな自分の想いをささやかな歌に詠み、それを色紙にしたためて友の墓前に献げおいた。いまの私には、せいぜいそれくらいのことしかできなかった。
十勝岳凛と輝く大地へと君は還りぬ絶唱のはて