(17)姉川古戦場と小谷(おだに)城址
浅井と織田―その決戦の舞台
3月末だというのに激しく雪の舞う寒い日のことだった。関ヶ原で名神高速道を降り一般国道へと出た私は、関ヶ原古戦場の脇を通り抜け、伊吹山麓を右手に見ながら滋賀県長浜市野村町(旧東浅井郡浅井町野村)へと向かった。浅井長政(あさいながまさ)・朝倉義景(あさくらよしかげ)連合軍18000人と織田信長・徳川家康連合軍28000人が激突、死闘を演じたという姉川の合戦跡を訪ねようというわけだった。姉川の合戦がおこなわれた元亀元年(1570年)6月28日は、現在の太陽暦では夏の盛りの8月9日に相当している。だから、この日のように雪の舞う寒々とした天候ではなく、武具の下から汗の噴き出るような猛暑の最中だったに相違ない。その2ヶ月前のこと、織田信長は妹お市の嫁ぐ浅井家と同盟関係にあった越前朝倉を急襲していた。信長は、朝倉軍の裏をかくため敵の防御網の固い北近江から直接越前を突くルートを避け、京都と若狭小浜を結ぶ有名な鯖街道の朽木宿、さらには熊川宿を経て敦賀へと向かう迂回路を取った。その戦略は見事に功を奏し、敦賀の諸城を制圧した織田軍は木之芽峠を越えて朝倉義景の本拠地一乗谷へと迫った。そして、浅井長政が織田に叛旗を翻したのはまさにその時であった。お市の方を迎えたことで同盟関係の生じた織田と、以前から深い同盟関係にあった朝倉との間で板挟みになった浅井にすれば、それは苦渋の決断であった。浅井の事前承認がなければ朝倉への軍事行動はとらぬとの約定があったにもかかわらず、信長がそれを無視して朝倉攻めに出たのも、長政が義兄信長に叛く原因になった。真偽のほどは定かでないが、朝倉・浅井両軍に挟まれ袋の鼠に陥りかけた信長に、陣中見舞いと称して両端を紐で縛った小豆袋を送り、暗にその危機を知らせたのはお市の方であったという。
敦賀湾に近い金ヶ崎に布陣中の信長の行動は迅速だった。浅井の謀叛を知ると、まだ完全には退路の断たれていないその日のうちに熊川から朽木を越えて京都に戻り、さらに京都から一路岐阜へと遁走した。そして、直ちに大兵力を整えて反撃に移り、南近江の六角義賢を討って同地を平定したあと、北近江の浅井氏の本拠小谷城を包囲した。しかし、小谷山(495m)の峻険な尾根筋の上部に位置する小谷城は、難攻不落の山城で、織田の大軍をもってしてもそれを陥落させることは容易でなかった。無理に攻めれば自軍に多大な犠牲者が出ることは必定だった。そこで、信長はいったん小谷城周辺から兵を引き、そのかわりに戦略の要所にある浅井の外城のいくつかを攻略包囲、浅井軍の主力や朝倉の援軍がそれら出城を見捨てることのできないような状況をつくった。この巧みな戦略に乗せられた浅井や朝倉の軍勢は、堅固な小谷城から平地に打って出て織田・徳川軍と戦わなければならなくなった。そして両軍はほぼ南北に姉川を挟んで対峙することになったのだった。姉川古戦場は、現在国道326号線が姉川を横切る野村橋付近一帯だったといわれている。小谷城の南東7kmほどのところに位置しており、この川の北側に浅井・朝倉軍が、南側に織田・徳川軍が陣を敷いた。流水部の幅そのものは50m足らずに見えたが、全体的な川幅のほうは200m以上もあるかと思われ、南北どちら側にも大きな河原が広がっていた。そして、その広大な河原は折からの積雪に埋もれなんとも寒々しい感じだった。冷たい雪混じりの強風に全身を震わせながらしばし一帯を歩き回ってみたが、国道を走り抜ける車以外には人気を偲ばせるものは皆無で、閑散としていてなんとも物寂しいかぎりだった。
戦いは浅井に利せず
真夏の早朝に始まった姉川の戦いは、当初、軍勢の数では劣る浅井・朝倉連合軍が優勢であったという。浅井軍の先鋒を務める磯野員昌配下の兵は猛攻をもって正面の織田軍主力を圧倒し、信長は一時敗走の危機にさらされた。しかし、徳川家康率いる三河武士団が、対峙していた朝倉軍を徐々に押し返し、配下の榊原康正軍が側面攻撃を仕掛けると朝倉軍はたちまち総崩れになってしまった。そこで直ちに徳川軍は織田本陣に直線的に突入していた浅井軍の側面攻撃を敢行した。そのため浅井軍は致命的な打撃を受けたばかりでなく、完全に退路を断たれてしまう危機に瀕し、たちまち散乱潰走する事態となった。浅井・朝倉両軍は小谷城へと敗走し篭城するにいたったが、信長はそれ以上強行に城攻めをおこなうことはせず、木下藤吉郎秀吉を抑えに残すと主兵力を率いて岐阜城に戻った。こうして歴史に残る姉川の合戦は織田・徳川軍の勝利に終ったのだった。この合戦における両軍の正確な死者数は不明だが、二、三千人とも数千人ともいわれ、姉川の水は一面血に染まり真っ赤になっていたと伝えられている。
だが、それからほどなく足利義昭の檄に応じて本願寺やその傘下の三好勢が再起、浅井・朝倉勢もそれに呼応して南近江に出兵し、比叡山中に陣取った。膠着状態が続いたため一時的に信長は和議を結んだが、1年後の元亀2年(1571年)9月、突如比叡山に攻め上って延暦寺本堂や僧堂をことごとく焼き払い、僧侶や寺務めの男女数千人を斬首に処した。また、背後から織田・徳川勢を脅かしていた武田信玄の急死によって時運を得た信長は、将軍義昭を追放、攝津の三好勢や石山本願寺を牽制すると、あらためて浅井・朝倉攻略に乗り出した。知る人ぞ知る調略の達人だった秀吉は外城を守る浅井の重臣たちを次々に寝返らせ、越前朝倉との連絡路を遮断、小谷城の浅井長政を包囲し孤立させた。佐和山城を守る浅井の猛将磯野員昌が内通したとの風説を流布して長政らに疑念を抱かせ、磯野を投降離反に追い込んだのも秀吉のそんな手口の一環だった。朝倉の支援軍は防衛拠点である浅井の出城に入れずに撤退、それを猛追撃した信長軍はそのまま朝倉の本拠一乗谷を攻略、天正元年(1573年)8月17日に朝倉氏を滅亡させた。そして、直ちに北近江に引き返した織田軍は8月27日全軍を挙げて小谷城の総攻撃にとりかかった。
小谷城栄枯盛衰の跡を辿る
姉川古戦場をあとにすると小谷城址へと向かったが、同城址の登り口に着く頃には天候は吹雪模様となった。さすがに、こんな日の小谷城址探訪は無理かと断念しかけたが、すぐに、こんな悪天候を突いての探訪のほうがかえって面白いかもしれないと思い直した。蛮勇と言ってしまえばそれまでだが、まるでこの地で果てた悲劇の武将浅井長政の霊に導かれでもするかのように、私は小谷寺のそばの城址登り口へと車のハンドルを切ったのだった。小谷城址の登り口から金吾丸という尾根筋上の地点までは細い急坂が続いている。そこまではなんとか車で行けるので、スリップに注意しながらアイスバーンした一車線ぎりぎりの坂道を登り詰めた。金吾丸のそばに車を駐めて車を降りた途端、切り立った尾根の西側斜面沿いに轟々という音をともなって猛烈な風と雪とが吹きつけてきた。横殴りの風雪に一瞬たじろぎはしたが、いまさら引き下がるわけにもいくまいと腹をくくり、防寒具に身を固めて尾根上の狭く急な雪道を登りはじめた。幸い、しばらくすると深い木立の中に入ったので吹雪にさらされることはなくなったが、そのかわりに積雪が深くなり、傾斜もますます急になった。
途中までは人跡が残っていたが、番所跡や御茶屋跡を経て御馬屋跡や馬洗池に至る頃にはそれもまったくなくなった。歩を進めるごとに深々と靴が積雪の中にめりこみ、やがて雪は向こう脛付近にまで達するようになった。こんな高所までわざわざ軍馬を引き上げ、山城の貴重な水でそれを洗ったのだろうかという疑問を抱きながらなお登ると、尾根道の右手に上部が平らな茶色の大石が現れた。なんと「首据石」という案内板が立っており、罪人の首をこの石の上にさらしたとの説明がしてあった。不思議なことに、この石を撮影しようとした途端に日が差し込み、すぐまたあたりは暗くなった。さらにそこからしばらく登ると、樹林に囲まれてはいるがそこだけ大きく開けた平地に出た。もちろん、その平地の表面は深い雪にすっぱりと覆われたままである。案内板を見ると「大広間」とあった。どうやらそこは、浅井一族やその家臣団が一堂に会して宴を催したりする主殿のあったところらしかった。この大広間跡は削平地といって、人工的に尾根上の一部を削り取り平にならして造成したものだった。そして、そのような削平地はより上部の尾根筋にもなお何段にもわたって設けられ、それぞれに館や社殿、砦、曲輪などが置かれていた。むろん、それら削平地の東西両側は容易に敵を寄せつけぬ急斜面となって切れ落ちていた。
大広間跡からまたすこし登っていくと雪に埋もれた本丸跡が現れた。標高300mほどのところに位置し鐘の丸とも呼ばれたこの本丸は、落城するまで浅井長政の居所となっていた。この本丸の三重櫓の天守閣は、のちに秀吉の命で彦根城西の丸に移築された。本丸の脇から尾根の東側斜面をすこし下っていくと重臣赤尾氏の屋敷跡があった。五百の手勢による防戦も空しく敗れ去った浅井長政は、天正元年(1587年)8月28日、この赤尾屋敷で自刃し29歳の生涯を閉じた。屋敷跡の冷たい雪の下からは、長政の怨念が時を超えていまにも立ち昇ってきそうであった。本丸跡裏手の尾根の西斜面側には御局屋敷跡と表示のある小さな平地もあった。城中の女房たちの居所で、お市の方にもすくなからず縁のあったところなのだろう。落城直前に長政から生き延びるように説得され織田方に送り届けられたお市の方と、茶々(淀君)、初(京極高次妻)、江(徳川秀忠妻)の幼い三人の娘が最後まで身を潜めていたのも本丸跡から御局屋敷跡にかけてのこの一帯であった。本丸跡のさらに上部には、中ノ丸、京極丸、小丸、山王丸の各跡地である削平地や自然平地が、かなりの落差をもって段々状に続いていた。京極丸は大永4年(1524年)長政の祖父亮政が主君の京極高清を歓待した館跡である。標高300m前後の高さにある本丸や京極丸、御局屋敷などに大量の生活必需物資を供給するのは容易でなかったに違いない。
小谷城落城の前日夜半、秀吉指揮下の三千の兵は尾根西側の清水谷に入り、すでに織田側に内通していた浅井の重臣大野木土佐守の屋敷を経て京極丸を攻略占拠した。この急襲により浅井長政の守る本丸と父浅井久政の守る隠居所の小丸とが分断され、49歳の久政は長政より一足先に自害した。私は、そんな浅井父子の非業の最期を想像しながら懸命に雪を踏み分けて急斜面を登り、かつて山王権現が祀られていたという標高395mの山王丸跡に立った。すると、どういうわけか、突然に降雪と強風とがぴたりとやみ、雲の切れ間から差し込んだ陽光の中に琵琶湖と竹生島の美しい遠影が浮かび上がった。大嶽砦跡のある小谷山頂も指呼の間にあった。信長は城を逃れた長政の嫡子万福丸を探し出して磔刑に処した。さらに浅井長政父子と朝倉義景の頭蓋骨に漆と金粉を塗して髑髏盃を造り、翌年の正月の宴でそれらに酒を注いで諸将に振舞った。そんな信長への浅井一族の怨念をあらためて浄化し鎮めでもするかのように、私の立つ山王丸一帯は神秘的な静寂に包まれていた。