夢想一途バックナンバー

第15回 星闇の旅路

(10)富良野の変貌

南富良野幾寅の駅で長年の夢だった定塚信男さんとの初の対面を果たしてから、さらに四半世紀の時が流れ去った。当時の富良野一帯の家並みには、北の大地での厳しい生活を偲ばせる、ある種の重々しい雰囲気が漂っていた。全体的にくすんだ色の下見板張りの家々は、自ずから厳冬期の風雪との凄まじい戦いを物語り、夕陽に映えて富良野盆地を見おろす十勝岳や芦別岳のおごそかな山容は、人間にとって必ずしも甘くはない自然の営みの激しさをひしひしと感じさせた。そして、私は、どこかに陰を秘めたそんな富良野が、なぜかとてもいとおしかった。

いま、富良野は大きく変わった。夏場は花と緑の豊かな観光地として、また冬場はスキーのメッカとして全国的に知られるようになった富良野には、あの倉本聰さんのテレビドラマ「北の国から」の中に見る下見板張りの家屋などはもうほとんど見あたらない。そのかわりに、明るく変貌を遂げた近代的な住宅群が、降り注ぐ陽光にカラフルな輝きをみせながら山裾近くまで広がっている。十勝岳や芦別岳の偉容こそ昔と変わりはないものの、その姿から幾分厳しさが消えてしまったように感じるのは私の気のせいなのだろうか…。

時代の変遷のなかで、建物を含めた生活環境が変化していくこと自体は少しも悪いことではないし、人間の歴史とはもともとそのようなものだろう。単なる感傷のゆえに古いものに固執し続けることがけっして賢明とは言えないのはわかっている。問題は、この大地から生まれ、また大地へと還ってゆく小さな命の明滅の歴史を、その時代の風物が、その時代なりの哲学に基づき、十分に内包し表現し得ているかどうかだろう。明るくも暗くも、その姿が変わりゆくことそのもは、この世界の本質にほかならない。

移り行く時のなかで富良野が変わっていったように、この20数年のうちに私たち二人もまたずいぶんと変わった。かつては気鋭の青年(?)を自負した二人も、いまでは50の坂を僅かに越えた「規格外の青年」になり果てた。当時は冬になると深い雪にすべての道が閉ざされていたというトマムの山奥の最僻地分校にあって、理想に燃える青年教師を地でいった定塚さんも、現在は環境に恵まれた旭川市の中学校に勤めている。

はじめ国語の教師としてスタートした定塚さんは、その後声楽の道に目覚め、努力を重ねた末に音楽の教師として全道に広く知られる存在となった。1993年10月、北海道文化奨励賞に輝いた旭川混成合唱団の指導者のひとりとして同合唱団のヨーロッパ公演などに尽力し、また、アメリカに派遣された日米合唱交流使節団(北海道民合唱団)結成にあたっては、その事務局長として辣腕をふるい、国連本部での公演をはじめとする同使節団のアメリカ各地での公演を大成功へと導いた。

その前年の秋、東京渋谷のあるお店で、声楽の指導者として世界的に高名なロシアのエマコーワ女史を囲み、定塚さんや旭川混成合唱団・現事務局長の万城目さんらとなごやかに歓談する機会があった。その席で久々に対面した彼は、ずいぶんとその言動に貫禄がつき、それに比例するかのように肉付きもまた口の悪さも相当のものとなっていた。だが、たゆまぬ努力の結果として、広い世界を駈けめぐるという少年の頃からの夢を果たし、さらにはそれをより大きく実りあるものにして若い世代に託し伝えようと力を尽くす彼の姿に、私は内心少なからぬ敬意を覚えた。

肉付きと貫禄では定塚さんに一歩譲りはするものの、私もまた自らの毒舌にはずいぶんと磨きをかけ、それなりの脱皮を遂げることはできた。定塚さんとは選んだ道も方法も異なりはしたが、私は私なりのやりかたで、かつて夢みた広い世界を、現実のものとして自らの足で踏みしめ見つめることができるようになった。ささやかではあるが、私たち二人は、ともかくも、少年の頃抱いたひそやかな想いを果たすことだけはできた。その意味では、お互い恵まれていたと言ってよい。

何年ぶりかで富良野に入った私は、遠い青春の日々を懐かしみながら、国道38号を南下した。そして幾寅の少し手前の東山で国道に別れを告げ、麓郷方面に続く道へと車を乗り入れた。かつてはダートの狭い道だったこのコースも、いまではすっかり舗装が行き届き快適なことこの上ない。

老節布を過ぎるあたりから眺望がいっきに開け、おおきく緩やかなうねりを見せながら四方に遠く広がる緑の畑地や牧草地のただなかを縫うようにして道は続く。ゴッホの絵にあるような大きく緩やかなスロープを見せて盛り上がる丘の若緑と、その向こうに広がる真っ青に澄んだ空の色とのコントラストが実に素晴らしい。あの丘の向こうにはいったい何があるんだろうという想いを強く掻き立てるこの風景は、麓郷を中心としたこの一帯ならではのものである。ある意味でこれは異国の風景なのだ。

いまでこそ、平和で豊かな酪農地帯になっているが、私が初めて富良野を訪ねた頃までは、この地では都会人の想像を絶するような厳しい戦いが演じられていた筈だ。「北の国から」の世界そのままの、あるいはそれ以上の生活苦の中で人々はこの大自然と格闘していたことだろう。

広大な牧場で悠然と夏草を喰む牛の群を見ていると、酪農というものがなんとも優雅に思えてくるが、それは旅人の勝手な想像で、いまでさえ現実はそんなに甘いものではない。緑の輝く夏がくると、酪農家はすぐに冬を睨んで準備に入る。牛たちを無事越冬させるため、大量の干し草をつくり、他の飼料とともにそれをサイロに蓄える。北国の酪農は冬場をどう乗り切るかが勝負なのだ。氷点下30度近くにまで気温が下がる猛烈な吹雪の日々の続くなかで、酪農家の人々は大人も子供も一家総出で牛たちの面倒を見なければならない。

病気の牛の看護や大量の糞尿の処理も欠かせない。真冬の酪農家の生活は、夏に旅人が想いを馳せる甘いロマンの世界などとはおよそ縁遠いものなのだ。花と緑の美しいベストシーズンに北海道の酪農地帯を旅する者は、たとえ心の片隅においてではあっても、そのことだけはしっかり押さえておかないと、北の大地で自然と人間が繰り広げるほんとうのドラマは見えてこない。

平沢を過ぎ麓郷の中心部に入ると、急に観光客と車の数が多くなった。そして、いわゆる観光牧場とそれに付属する土産物屋や飲食店が目立ちはじめた。布辺付近から麓郷へとまっすぐに延びる道と東山方面からの道とが交差する十字路からそう遠くないところには、「北の国から」のロケのセットになった下見板張りのくすんだ家が一軒いまもなお残されていて、観光の目玉になっている。麓郷周辺でさえ民家の造りは皆近代化してしまっているから、昔を知る者の眼には、セットのその家だけが妙に浮き上がって見える。その前で記念撮影をする若い観光客たちは、はじめからそれをセットと割り切っているゆえ、とくに違和感はないのだろうが、かつて実際に下見板張りの家並とそこに住む人々の姿を目にし、それらを印象深いものに感じた身には、不思議としか言い様のない光景だった。

麓郷の中心部を過ぎると、本来の牧草地や耕作地が緩やかに波打ち広がるこの一帯特有の景観が戻ってきた。私は、あたり一面に漂う緑の精気で身を洗い淨めるようにして上富良野へと駆け抜け、美瑛方面へと下る手前の峠路で車を止めた。風に揺れて紫に波打つラベンダー畑の向こうでは十勝岳が青くけむって天を指し、眼下に広がる富良野盆地は大地の吐き出す緑の蒸気に美しく輝き揺らめいている…そして、盆地の右手奥の方角には、鋭い影の芦別岳が、俺だけは今年も厳しくいくぞと言わんばかりのたたずまいで、黒く大きく聳えていた。

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