執筆活動の一部

45. 《言葉の世界にみる数学的想い》 2/4
(茨城県公立高等学校数学科教員研修会にて:2006年6月23日)

いささか話は飛びますが、先日、和田画伯の絵画盗作問題がマスコミ上でずいぶんと問題になりました。ですが、和田画伯のあの一連の作品が盗作であることを証明しなさいと言われたら、厳密な意味では誰もそのことを証明することはできないでしょう。何故かというと、そもそも盗作とは何かという定義そのものが明瞭ではないわけですよね。状況的には盗作だと誰しもが認めるに違いありませんが、あれを盗作であると証明しなさいと言われたら途端に困ってしまうわけです。それ以前の問題として、なにがどうなっておれば盗作などだ、という約束事――換言すれば盗作の定義がまったくないわけですから……。そうするともう、状況的に見てあれは盗作であるといったような、論理的にはかなりいい加減な判断で画伯の行為を裁定するしかありません。このような話は、一見、数学の世界には縁がないことのようにも思われるのですが、実は数学の根底的な定義についてもこれに類することが少なからず起こったりしているわけです。その内容的なことをこの場で簡単に説明することは難しいのですが、皆さんもとくご存知の通り、大数学者とよばれる人たちは自分の駆使する数学の記号言語やその言語による概念の構築に行き詰まると、その壁を克服するためにそれまでの体系そのものを解体し、まったく新しい数学概念の定義をしたりしています。それは我々みたいな凡人にはとても出来ないわけですが、大数学者と呼ばれた人々の多くはそんなことをやってのけているのです。

また、それほどに高度な世界の話ではなくても、ごく初歩的な数学の世界にも似たような事例は随分とあるのです。例えば、「1=0.9999…である事を証明できるか?」という問題があります。たしかに「X=0.999…(1)」とおき、(1)式の両辺を10倍した式から(1)式を引き算すれば「9X=9」となって「X=1」となり、建前としての証明はできるわけですが、この証明はよく考えてみると、インチキとまでは言いませんが、ある種の定義がらみの変な問題ではあります。話をわかりやすくするために、この問題を日常言語を用いて比喩的に書き換えてみますと、「無限に人間に近いチンパンジーは人間であるか?」ということと同じになるわけです。この問題を考えるには、チンパンジーの定義や人間の定義といったものから考え直していかなければならないのですが、ことはけっして容易ではありません。無限に人間に近いのだから人間じゃないかと言う事も出来ますし、チンパンジーというからにはあくまでチンパンジーなのであって人間ではないとも言えるわけで、これは凄く厄介な問題です。数学の極限問題の根底にはトートロジーがらみのこの種の黒白つけ難い論理構造が隠されているのですが、数学記号という一種の抽象言語で記述されているために何となく見えにくくなっているだけのことなのです。

またまた話は変わりますが、おそらく皆さんも一度や二度は「先生、数学は何の役に立つのですか?」などと教え子から訊ねられたことがおありでしょう。そんな時には、ニュートリノ研究の有益性を問われたノーベル賞学者の小柴さんのように「なんの役にも立ちません」ときっぱり答えるのが本当は一番良いのかもしれません。ただし、「なんの役にも立ちません」というその言葉の裏には「衣食住に直結するものを即座に生み出すような意味では」という前提的な含みがあるわけですよね。数学というものはこの世界に無くては困る道具なのですが、たしかに、それ自体がすぐさまお金儲けに役に立つようなものではありません。現代の人間社会を深いところで支える高度な科学理論などを的確に記述したり把握したりするには数学というものは不可欠なわけですが、そのようなことを高校生などの説明することは容易ではありません。ただ、すくなくとも、「数学というものは日常的な言語のもつ無駄を省き、それを極度に圧縮してつくった一種の言葉なのだ。だから、その根源にはなんらかの厳密な約束事があるのだが、そんな数学の約束事もけっしてパーフェクトなものなんかではなく、実際、そこにさまざまな矛盾や限界などもある。だが、いくらか不備があるとはいっても、そういう約束事を設けないことには先に進むことができない。数学という特別な言葉を使わないと、この世のいろいろな問題を解決したり克服したりすることはできないんだよ。先進的な工業技術ひとつをとってもそうなんだよね。いまの君たちの数学の学習段階でそのことを理解してもらうのは難しいんだけどね。もちろん、僕らにとっても、一定から先の数学の奥の世界を理解することは難しいことなんだよ」といったくらいのことは、寧ろ正直に話したりしてやったほうが生徒たちも納得するのではないかと思います。また、そのほうが、生徒たちが将来ある年齢に達した段階で、物事の根底を真剣に考えるようになった時、それなりにプラスにもなるのではないかとも考えるのです。

あまり時間もありませんのでこの場では詳しくは話しませんが、ある歳になってからは、そういう根底的な問題をなるべく通常の言葉でわかりやすく表現するにはどうしたらいいか、あれこれと考えるようにしてきています。数学が嫌いな人でも、数学的思考、論理的思考の本質にある程度の興味をもってもらえるようにするには、どうしても事例の取り上げ方などにそれなりの工夫が必要となってきます。例えば、以前に、イラクへの米英軍の軍事進攻の理由についてその正当性が国会で問題になった時、ある野党議員が「破壊兵器があるからかというが、実際に破壊兵器があることを立証できるか?」と迫りました。すると、当時の小泉首相は、「それでは、あなたは破壊兵器が無いこと証明できるのか。破壊兵器が絶対に存在しないことを証明できないというのなら、破壊兵器の存在が疑われるイラクへの進攻はやむをえないのではないか」などと、巧みに議論をすり替え開き直りました。情けないことにその野党議員はすっかり煙に巻かれてしまい、その議論はうやむやに終わってしまいましたが……。現実には、ほとんどの場合が、「不存在証明」というのは難しいというより不可能なんですよね。

この議論をもっともっと単純化してしまえば、首相は「宇宙人はいないことを証明せよ。それができないなら宇宙人はいるかもしれない」と言っているようなものなのです。宇宙人がいることを証明するには実際に宇宙人を発見しればすむことですが、宇宙人がいないことを証明するには全宇宙の隅々まで行って宇宙人がいないことを確かめなければなりません。そんなことははじめから不可能です。「君は泥棒でないことを自分自身で証明しなさい。それができなければ、君には泥棒の容疑があることになるから身柄を拘束するからな」というむちゃくちゃな論法とそれはまったく同じでもあります。「証明」という言葉の裏には、常にそういう誤摩化しが見抜きにくい形で二重三重に紛れ込む可能性があるわけです。数学の先生方がこういったような事例を挙げながら、受験の数学とは違った角度から発言なさったり、数学的論理の面白さなどを生徒たちに話してくださったりすれば、生徒たちもそれを比較的身近な問題として感じることができるかもしれません。また数学の先生がそういう社会的な問題に関して言葉を発してくだされば、国語の先生などの発する言葉などよりもずっと通りがよい、すなわち、説得力があると思うのです。学校での教育の仕事がお忙しいというのは私も十分にわかってはおりますが、出来ればその辺のことを念頭に置きながら、数学の先生こそ生徒たちに向かって言葉を発して戴きたいと願うのです。

私は大学での教職を辞してフリーになりましてからというもの、非常に出来の悪い子を個人的に教えるという体験も重ねてきました。私の唯一の取り柄は、小中学生、高校生、ドロップアウトしたり不登校になったりした生徒、さらには世間からは一流大学と呼ばれる大学の学生や社会人までの指導と教育に携わってきたことかもしれません。今でも皆さんと同じ様に高校生に数学を教えたりすることがあります。そんな折には、虚数ひとつ教える場合でも、相手がパニックを起こさないように、数学で使う言葉の定義、すなわち各種記号や式の成り立ちの意味をじっくりと説明するわけです。こういう約束をすると何が起こるかとか、初めにこういう約束事を考えた人は、今みたいにその考え方が広く用いられるようになるだろうとは予想などしていなかったことだろうとか……。また、この約束事は難しそうに見えるけど、実は、これこれの色を「赤」とか「青」とか約束するのと同じことなのだよと、ゆっくり時間をかけて説明することにしています。無限数列や極限の概念を教えるときなどは、いきなりその定義などを教えるのではなく、さっきお話ししましたような、「無限に人間に近いチンパンジーは人間であるか」といったような問いかけをし、「人間である」とした途端にその問いかけの意味はなくなり、「人間は人間である」というトートロジーになってしまうよね、というような話をしたりもします。基本定義に従ってある曲線のX=Pにおける微分値を求めるような場合、分母がゼロになってしまったら定義の意味がなくなるから、Xの値がどんなにPに近づいてもPとは一致しないなど教えるわけですが、その時なんかも、そのような話をあれこれ交えたりすると、生徒らも面白がって結構耳を傾けてくれるものです。

それから例えば、宇宙論のビッグバンの話なんかを聞くときに、全宇宙はその昔は無限小の点だったなどと言われると、皆さんだってそんなバカなことがと抵抗を覚えたりしますよね。私たち人間というものは、無意識のうちに自分の存在する空間を基準にして、また自分の認識能力を絶対だとして考える習慣があります。ですから、無限小から無限大に至る一連のプロセスを仮に一本の直線で表わしてみた場合、自分自身の大きさを表わす点は無限小を表わす端点にごくごく近い位置にあるとの認識をもちやすいものです。人間というものは自分の自然な視覚に基づいて物事を考えるのが常ですから、我々とっては無限大をイメージするのに比べると無限小をイメージするのはずっと難しいことなのです。ところが、実際には、その直線の中点くらい、もしくはそれよりずっと無限大の端点のほうに寄った点あたりに人間の大きさは位置しているのかもしれないのです。いま述べた仮想直線上において、人間の大きさを表わす点と無限小を表わす端点との距離が想像以上にあるのだということが凄く認識しにくいものですから、全宇宙の物質や諸々のエネルギーがかつて無限小の一点に凝縮していたという事実を受け入れることが困難なのです。現代の理論物理学者というものは、思考トレーニングによって無限小の世界と無限大の世界をつなぐ直線のすくなくとも中点付近に人間界は位置しているという考えを自然に受け入れられるようになっています。ですから、ビッグバン理論なんかをごく当然の理論として考えることができるわけです。

そんなわけで、一般の人々には、無限大の世界はともかく、無限小の世界は非常にイメージしづらいですから、数学を教える場合などには、そのあたりのことを時間をかけて丁寧に教える必要がありますね。各種の証明問題などを考える過程においても、かたちを変えて同様の興味深い問題が生じたりもするものです。よくご存知の方もおありかもしれませんが、距離や長さに関する問題などにおいてもその点はまったく同じです。いま入り組んだ形をしたある島があったとします。そして、通常、人々はこの島の周囲は3キロだとの島だと考えているとしましょう。しかし、いったいどのような基準をもって3キロという距離を導き出しているのでしょう。それは1メートルの物差で測定するならほぼ3キロになるのかもしれません。けれども、1センチメートル単位でごちゃごちゃと細かく入り組んだ島の周りを測ったら島の周囲の長さは3キロよりずっと長くなるに違いありません。1個の石や1粒の砂レベルまでの凹凸をも考慮に入れるとすれば、島の周長は何倍にも何十倍にも大きくなっていくことでしょう。しかも海というものは常時干満の変化を続けていますし、打ち寄せる波の大きさも一定などしていませんから、どこをどう測ったものが島の周囲の長さなのかわからなくなってしまいます。もともと島には周囲の長さなどないわけであって、島の周囲の長さというものは、これこれを島の周囲の長さとするという約束、すなわち、その定義をすることによってはじめて決まってくるものなのです。このことからもわかるように、ごく初歩的な長さの問題についてさえも、根源的に考えていくとこんな厄介な問題が浮上してきます。小学生の算数などで隣町まで時速5キロで進むと何時間何分で行けるかなどという問題を見かけたりしますが、生徒の中には、上り坂があったり下り坂があったりでこぼこ道があったりしたら同じ速さで進めないから答えがわからないという者が現れたりもします。平均速度という考え方は実は子どもたちにとってはとても難しい概念なんですよね。実際にはそんなふうに思い悩む生徒のほうが、数学的な潜在能力は高いのだと言えない意こともありません。大人はそんな生徒をバカにしたりしますけれども。実際には速度など常時微妙に変化しているわけですから、正確を期そうとすると、これは微分学の世界の問題になってしまうわけで、とても厄介な話なのです。まあ、そんな具合に、ごく簡単に見える事柄であっても、物事の根源には容易ならざる問題が二重三重に絡んでいるわけなんですね。大学教師を辞めたあとは、そんな事なんかをあれこれと考えたりもしていました。

(つづく)

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