執筆活動の一部

44. 《言葉の世界にみる数学的想い》 1/4
(茨城県公立高等学校数学科教員研修会にて:2006年6月23日)

こんにちは、本田と申します。皆様に向かってたいしたことをお話しできるような身ではない私のような者をお呼びくださり、たいへん光栄に存じます。現在、私は100円ライターをやっております。100円ライターと申しますのは、原稿用紙一枚100円ぐらいの稿料しか貰えないしがないライターのことでございます。先ほど教授だったとのご紹介ありましたが、実際には助教授の時に大学を辞めております。そんな100円ライターの身が皆様に向かって何かをお話するとなると、そんなことが何の役に立つのかと思われても仕方のないような事柄を、たとえは悪いのですが、皆様が学校で生徒から数学が何で役に立つのかと尋ねられる時のような気分になりながら述べさせていただくしかありません。いつもならしっかりとレジュメ作ったりもするのですが、今回は現在の自分の暮らしぶりとか、過去のいろいろな体験談などについて述べさせていただこうと思って参りましたので、変にレジュメを作りますのもどんなものかと考え、結局、何も用意することなく、まっさらのままにこの場に伺ったような次第です。大変申し訳なくは存じますが、その旨何卒宜しくご了解くださいますように・・・・・・。

何からお話ししようかと思ったのですが、まずは私が何故数学研究の仕事を辞めて言葉の世界へと入ったか、そのプロセスをお話することを通しましていろいろな問題が浮かび上がってくるのではないかといういう風に考えましたので、その話から始めさせて頂くことにします。

数学の先生であられる皆様はこのことについてはもうとっくにお気づきだとは思うのですが、数学というものは世間一般からはずいぶんと誤解されております。私は大学で学生の相手をしているときから、数学は言葉であるということをうるさく言ってきた人間です。ただしその数学の世界の言葉というのものは、日常言語とはちょっと違った、いわゆる抽象言語というやつで、日常言語が極度に圧縮された形になっているわけなのです。その意味では数学というものは立派な言葉のひとつですから、専門の数学者が純粋数学の専門研究をやるということは、見方を変えれば数式という特別な言語を使って前衛詩を書いているようなものなのです。文学の世界における前衛詩とは、その表現が時代の感性を超越しているためにその時代の大多数の人々にはストレートに受け入れてはもらえないけれども、時間が経つにしたがってやがて大きな意味を持ってくるような詩のことを言うわけです。数学の研究をやっている人間が数学の世界の言葉、すなわち数式という言葉を使って何か新しいことをやろうとするときには、前衛詩人がある事象を観てその詩人なりの言葉でそれを描写しようとするのと同様に、数学の世界の言葉で自らの観た事象を描こうとするわけなのです。

よくお話しすることがあるのですが、日常言語の「波」というと言葉は、たとえば白い波やきらきら光る波、美しい漣などを連想させるのに対して、y=sinθなどのような数学の関数からは、それが波動を表しているにもかかわらず、そこから美しい波の輝きなどを感じ取ることはできません。そのかわり、y=sinθという数学の言葉は日常言語の「波」という言葉に比べて極めて機能的で、たったこれだけでいろいろな波の波長、波高含めた形態を的確に表現できるわけなのです。換言すれば、色も輝きもないけれど、それは自然界のすべての波に共通する根源的な性質(運動様態)を捉えた言葉だといえるのです。

私が今日一つだけ数学の先生方にお願いしておきたいのは、数学と国語とを対照的なものあるいは対比的なものとして考えないようにしていただきたいということです。せっかくですから、数学の先生であられる事をよい意味で生かし、皆さんの生徒やその他の関わりある方々に対して、数学というのものは立派な言葉なんだよということを伝えるようにしていただきたいと思うのです。国語の先生方が発する言葉よりも、論理的な思考が出来る数学の先生方が発する言葉のほうが聞く者心の底まで深く凄く通るということもあるんですよね。私などは、数学の先生ほど明瞭な言葉を使ってアピールをなさる事が必要なのではないか、現代はとくにそういう時代ではないかと考えるようになってきているわけなのです。私自身も結局はつなたいなりに言葉を駆使する世界に入ってきてしまいましたのですが、数学の先生であればあるほどに、数学の根幹をなす言葉の本質というものを十分に考えながら、数学教育の仕事に励んでいただきたいと思うのです。

若い頃は私も専門的な数学の研究をやっていましたから、論理性と明証性に強くこだわり、論理的に明快でないものをひたすら排斥しようとした時代がありました。論理的思考というのは曖昧さとは相容れませんから、社会学的な問題に立ち向かう場合でも、その骨格の部分のみを、換言するなら極力無駄の無い方向に向かって突き進んで行こうとするわけで、最終的にはどうしても白黒の決着をつけなければならないということになるわけです。若い頃の私はそんな思考傾向を強く有しておりました。そんな私の考え方が根底からぶち壊されることになったのは、多分その名前をご存知の方も多いとは思いますが、ひと昔前の二人の著名な数理哲学者、バートランド・ラッセルとホワイトヘッドの著作との出合いによってでありました。どちらももともとは純粋数学の研究者で、この二人は「プリンキピア・マテマティカ」(数学原理)という数理哲学の根源に関わる有名な大著を共同執筆し、その成果のほどを世に問いかけました。数学界における世界的な賞ということになると、広中平祐さんのおとりになったようなフィールズ賞なんですが、面白いことに、この二人の数学者がもらったのはなんとノーベル文学賞だったのです。彼らの業績が哲学上の観点から評価されたからなのですが、この二人のうち、ホワイトヘッドのほうが六年ほどラッセルの先輩にあたっていたわけなんですね。幼少期から数学に異彩を発揮していたバートランド・ラッセルは、とにかく明晰かつ明快に物事を考え、白黒の決着をつけなければ気がすまないという性格を持っていたんですね。ところが、この先輩のホワイトヘッドという人物が後輩のラッセルを諭す場面が、ラッセルの回顧録の中に出てくるんですね。これを読んだときに私は「えっ?」と驚きを覚えたようなわけなんですね。それはですね、次のような比喩を用いて書き述べられてありました。

「ラッセル君、君はこの世界というのを、燦々と輝く太陽のもとで、真っ青なエーゲ海を背景にして純白に煌きわたるパルテノンの神殿みたいなものだと考えているだろう。だけどね、それはこの世界のもつ一つの姿に過ぎないのだよ」と説諭するのですね。そして、何かというと、ホワイトヘッドは、「月光に輝くパルテノン神殿も月下のエーゲ海も、霧にかすむパルテノン神殿も濃霧の漂うエーゲ海も、さらには星闇の中に立つパルテノン神殿も星明りのもとに眠るエーゲ海も、それぞれがひとつの世界を形成しているんだ。しかもそれらは絶えず連続的に変化を続けながら存在しているわけなんだ。燦々と輝く太陽の下で見る真っ白なパルテノン神殿と真っ青なエーゲ海のみを世界と見る限り、たしかにこの世界は明快なものに見えるかもしれないけれど、それは現実の世界のごく一面にすぎないわけで、世界の全体像はけっして見えてなんかこないんだよ」と強烈に諭したというのです。

私自身もその文章を読んだときに、はっとさせられたんです。昔はそうでもなかったのに、自分もいつのまにか論理的な明快さとか明証性とかいったものだけを絶対視し、過度にそれにこだわり続けてきたなぁ、と深く反省させられたような次第なんです。またその時に、すっかり忘れていた事を思い出しもしました。実は私は鹿児島県の甑島という離島の育ちなのです。都会の学校などに較べれば勉強などひどく遅れている片田舎の小学校と中学校で学んでいたわけなのです。中学生になった時には既に両親は他界し、肉親としては老いた祖父母辛うじて生き長らえていただけでしたから、高校進学は断念し集団就職して働こうと思っていたんです。そして、集団就職先もほぼ決まりかけていたのですが、現実に高校に行けるか行けないかはともかく、まあ自分の気持ちを納得させるために高校受験だけはしてみようと考えるようになりました。私の育った甑島には当時も今も高校なんかありません。そのため、鹿児島市の高校を受け、その結果、辛うじてその高校に合格しました。現実には鹿児島の高校に進むのは経済的に不可能でしたので、区切りがついたからあとは関西に集団就職するだけだと自分に言い聞かせていたのですが、入学すればなんとかなるものだからと周囲から説得され、結局、その高等学校に進学することになりました。ただ、進学できたのはよかったのですが、農業や漁業といった島の大人の生活の手伝いの真似事を実践しながら育った田舎者なものですから、新たな物事を学ぶ場合、体感的に納得しないと先に行けないという、なんとも厄介な一面がございました。そのために、鹿児島市の高校に通うようになってまず引っかかった事があったんです。

それは物理の時間のことです。f=mαというあの有名なニュートン力学の公式です。回りのクラスメイトはなんなくそれを受け入れていったのですが、私にはどうしてこんな関係式がいきなり登場してくるのかさっぱり理解できず、引っかかってしまったわけですね。まだ物事の定義というものをよく理解していない頃のことですから、それを絶対的な真理として無条件に受け入れるように迫られたりすると、どうしてそんなことになるのだろうと、考え込んでしまわざるをえなかったのです。そこで、物理の先生に愚直な質問をぶつけたわけなんですね。その時に言われた事はなんとも強烈なかぎりではありました。

実際には鹿児島弁で言われたのですが、要するに、「お前ね、こんなことが理解できなければ理系進学は無理だよ」というようなことでした。その次に引っかかったのが化学の時間のアボガドロ数という代物なのです。いろいろ原子や分子の種類が違ったとしてもあの一定数になるというんでしょう……、なんでこんな数値になってしまうのだ?……という疑問がわいてきたんです。仕方がないので今度は化学の先生に質問に行きました。その時に言われたことがこれまた凄いんですよね。今だからこそ、「先生も困ったろうから、やむをえなかったのだろうな」とは思いますが、なんと、その先生は「お前は木をみて森を見ないのか」と私に向かって言ったんですね。まあ確かに、当時の私が部分的なことにこだわりすぎ、全体的なことをおろそかにしがちだったことは認めざるをえないのですが、それにしても……というわけなんですね。

結局、こういう問題の根源にあったのは、数学の世界で言えば定義の問題、根源的な言葉の約束事の問題だったんですね。これはずっとのちに知ったことなのですが、f=mαなんて公式はアメリカのプリンストン大学あたりでは、30時間ぐらいもかけてこの定義の意味や背景を学生にしっかりと教えているわけなのですね。アボガドロの法則に至っては、アボガドロ定数を正確に絞込み定める研究を通して二人もの学者がノーベル賞をもらっているくらいで、その定数の導かれた過程を理解するのは大変なことなのです。その意味ではこちらの質問もかなり無理な内容ではあったのですが、ただ、今にもなってもひとつだけ残念思うのは、その時に先生がもうすこし違う対応をしてもらいたかったなあということなのです。ある色があって、その色は明度も彩度もいろいろ段階的に変化はするが、それを当面「赤」という言葉でその色を呼ぶと約束しておかないと、日常生活においてその色についてコミュニケーションをとることができないし、その色についての考察を深めることもできない。同様に、自然界に働く力の大きさやその性質をなんとか表現しようとすれば、何らかの形でそれを言葉や記号として約束してやるよいにしなければならない。f=mαという式はそのための必要最小限の約束事(定義)で、力学の世界では「力」というものをそう約束することによって、その先にあるいろいろな物理的運動の問題などを考えたり説明したりしていくことになる。日常的な言葉の世界で、たとえば火の色や夕日の色などを「赤」と約束することによって人は初めて自然界の色彩についてのコミュニケーションをとれるようになる。本質的にはそれと同じことなのだよ――とまあ、そんなような説明をしてもらえば十分納得していたでしょう。

また、アボガドロ定数に関しては、「これはなかなか厄介な問題なのだよ。科学の世界の基礎というのは実はたいへん難しいものなのだよ。そのため、いくつかの分野では、初学者は一定の法則などをまずはそういうものだとして受け入れ、その法則の活用に十分習熟したうえで、先端の応用研究や根源的な基礎研究に取り組んでいく必要があるのだよ。お前がアボガドロ定数にこだわる気持ちはわかるけれど、この問題をいまのお前の知識や能力で理解するのは難しいし、先生にだってその問題を本当に理解するのは容易なことではないのだよ。もし、お前がどうしてもその問題を根本的に理解したいというのなら、大学に進学し、もっともっと専門的な勉強をしてからにするのだな」とでもいったようなことを話してもらえれば良かったと思うのですが……。私の場合は、幸いなんとかここまでやってこられたからよかったようなものの、下手をすると、あの時点で挫折して理系進学など諦めていたかもしれません。

皆さんがご承知のように、数学っていうものはなんとも厄介なものですよね。例えば確率の問題なんて、なにげなくやっていますけれども、サイコロのある目が出る確率が六分の一だなんて言われてみても、実はそんなことは定義の問題以外のなにものでもない、「サイコロの任意の目が出る確率は六分の一であることを証明しなさい」なんて問題は、厳密には証明のしようなどないわけで、それは、「曲線は直線より長い事を証明しなさい」なんていう問題とまったく同じだということになります。「赤は赤であることを証明しろ」といったように、特定の定義を証明しろなんていわれてもそれは不可能なわけなんですが、現実にはこういうものが姿と形を変えて私たちの思考の世界に忍び込んできているわけです。自分が高校生だった頃にごちゃごちゃと悩んだことの根本的な理由を含め、そういった理論の奥に秘められた問題の厄介さがだんだんと理解できるようになってきましたので、応用研究の方向、換言するなら演繹的な方向に目を向けるよりは、根源的な問題、すなわち、数学の定義に関わる問題などのほうにだんだんと関心をもつようになっていきました。そんなわけで、言うなれば木の根っこの部分を細い毛根まで掻き分けていくようなことをおこなうようになってしまったわけなのです。

ただ、そんなことをやっているうちに、カール・フリードリッヒ・ガウスが若い頃に数学を専攻しようか言語学を専攻しようかとずいぶんと悩んだということの意味が見えてきました。また、抜群の数学的才能を有していたウィトゲンシュタイン――彼はバートランドの愛弟子だったわけすが、その彼が言語学の世界に進んでいった理由もいくらかわかるようになってきました。日常言語の根源でもあり、数学の世界に見るような抽象言語の根源でもある定義の問題を考えていくうちに、そこに隠されている曖昧性の問題に気がついて、それまで明快そのものに見えていた純粋数学の世界にある種の壁とか限界とかいったようなものを感じたからなのだろうな、というようなことがだんだんと理解できるようになってきたわけなんです。それで、その頃から、「証明」ってそもそもなんだろうと考え始めたわけです。それまでは証明というもの意義を無条件で受け入れてきたのですが、どうも証明の問題を考えるには二つの方向性があるらしい――ひとつは皆さんが通常やっておられる演繹的な方向、すなわちある根底的な定義や公理をもとにして説明できるはずだと予想される問題を、当該定義や公理、さらにはそれらに基づく定理を組み合わせて実際に証明していく方向、いまひとつは数学の問題の根底にある定義や公理などの約束事が正当なものなかどうかを考えていく帰納的な方向があるらしい。そして、機能的かつ根源的な方向に真剣に目を向けはじめると、証明というものの明証性に疑義が生じてもくるのだという事を学んだようなわけなのです。

ラッセルとかホワイトヘッドという人たちはそのような根源的な方向に目を向けるようになった為、なにかと行き詰まりを感じるようになったり、ある種の堪え難さを感じたりするようになったのだと理解するようになったのです。そして、それまで自分がやってきた数学の研究の方向を演繹的な方向から機能的かつ根源的な方向へと転じることになってしまったのです。結局このことが、ある意味で自分の能力を見切る要因にもなりました。それから、もうひとつには、アメリカに行っていた時代の体験にも大きく影響されました。大学を出、さらには大学院に学んでから向こうに行ったわけなのですが、私の小さな能力なんてそれまでの受験勉強や生活苦に伴う多くのアルバイトやなにやらですっかり擂り潰されてしまっていましたし、私の学生時代は学生運動が盛んな時代で、大学の授業に出席にしないことが美徳ともされていたんです。そんないい加減な状況を経て向こうに行ってですね、所謂、天才と呼ばれる人々に出会ってしまい、根本的に自分の能力を見切らざるえなくなってしまったんです。生来の能力のほかに、おそらくその人の育ちとか生育環境とかいったものの影響も相当にあったのでしょうが、奥に秘められた世界や高次次元の世界に対する洞察力や認識力が決定的に違うんですね。この種の話は数学者の藤原さんなんかもよくなさっているので皆さんも一度や二度お聞きになったことがあろうとは思うのですが、実際ある話なんですね。私も目の前でやられるまでは信じられませんでした。インド系とかイラン系とかの数学研究者にとくに多いのですが、たとえば、碁石が99個あるか100個あるかを一目で見分けてしまうんですね。瞬間的にその違いがわかってしまうんです。私なんか9個と10個、下手をすると5個と6個だって見分けられるかどうか怪しいものです。こういう特殊な認識能力を持っている人たちと一緒に学ぶと、自分の無能さを痛切に自覚せざるをえません。だからといって今更トレーニングやってそんな能力をつけることができるわけでもありませんから、それは強烈なショックでしたですね。

それからアメリカなどでは飛び級が許されていますから、まだ子供にしか見えない10代初めの年齢の大学院生がいたりするわけです。そういう人たちを目にしますと、少なくとも自分には彼らのような才能はない、日本の大学ではそれなりに頑張ってはいたけれど、自分の能力は正直言ってこの程度のものかなと、己の力を見切らざるをえなくもなりました。帰国しましてからも、無能な研究者なりの仕事はやっていたわけですけれども、自分の数学の世界での思考能力や直観力はたいしたことないと既に悟っていましたから、その時点でこれから先の自分の人生の場を何処に求めようかと考え始めました。そのまましがみついてその大学にいても構わなかったのですが、また数学者としではなく数学の教育者としてのレベルで教鞭を執ることはできたのでしょうが、いまひとつすっきりしませんでした。そして、あれやこれやと突破口を探しているうちに、言葉の根源を考える世界と日常的な言葉を操る世界がこれからの自分には向いているのかなと思いました。本を読んだりすることは好きでしたから、できれば日常的な言葉を使って文章を書くような世界に入りたいなと考えるようになったのです。もうひとつは、じっくりと時間をかけながら、例えば確率論の一番根底にある確率の定義のような問題を考察し、もう一度私なりに「証明とはなんだろうか」とか「確率とはなんだろうか」とかを考えてみたいと思ったのです。物事の明証性、なかでも論理の明証性というのは何処からくるのだろうと考えるようになったわけですね。

日常言語での表現活動という方面では、まずは雑文ライターとして通常の言葉を使いこなしてみたいと思いまして、最初は翻訳などに関わり、それから科学系の解説書などを書いたりするようになりました。そういった著述活動を続けているうちに、次第に文学的な表現にも関わる世界に入りたいと思うようになりまして、徐々にそういう世界に転換致しました。そして、それと同時に、最終的に数学研究者としての自分の能力に見切りをつけ、さっさっと大学を辞めてしまいました。生活がかかっていましたから大変だったのですけれども、家族にも了解してもらって、人も呆れるほどの貧乏ライターになったわけであります。

(つづく)

カテゴリー 執筆活動の一部. Bookmark the permalink.