執筆活動の一部

30. 留学生「世界的争奪戦」の熾烈さ

海外の頭脳獲得が国家の存亡を左右

先進諸国の経済戦略のグローバル化に伴い、知的資産、なかでも科学技術分野における人的資産の育成と確保は、国家の将来に関わる最優先課題となってきている。京大山中伸弥教授によるiPS細胞(人工多能性幹細胞)の作製成功の発表が世界にもたらした衝撃と、その直後から始まった同細胞による再生医療技術開発への熾烈な国際競争に見られるように、卓越した一人の人物の科学的才能が経済的にも世界を大きく動かす時代になったのだ。かつては、どんなに重要な科学技術上の発見であっても、その意義が認知され実用化されるには相当な時間を要したものである。だが、先端技術による世界支配を狙って「政・官・産・学」四者間の連携が飛躍的に進む欧米先進諸国においては、最新理論をもとに新技術を開発し実用化するまでのプロセスは驚くほどに短縮されてきつつある。宇宙開発、医療技術、IT産業、バイオテクノロジー、通信技術、各種機械工業など、いずれの分野を見てもその状況に変わりはない。
 一刻を争う国際間での激烈な先端科学技術開発競争を勝ち抜くには、何よりもまず若くて優れた人材の確保が不可欠だ。従来からグローバリズムを標榜してきた米国などの先進諸国が、自国の枠を越え世界中から優れた人材を集めようと、周到な戦略を立てるようになったのは必然の成り行きだろう。将来性のある他国の優れた頭脳を引き抜き育てることで自国の科学技術力の強化を図り、競合する他国の力を相対的に弱体化させるという長期的国際戦略に関して、いまや日本は完全に立ち遅れてしまっている。

海外の英才をリサーチする米国

9・11テロ事件の勃発や他国との留学生獲得競争の激化により、一時期米国への留学者数は激減した。それを危惧したライス国務長官は、長官就任早々の二〇〇六年全米の大学関係者と教育サミットを開き、政府と大学とが提携して優秀な外国人留学生の確保に総力を挙げるようにと提言した。そして両院議会に強く進言し早急に外国人留学生のビザ取得の簡易化を図るよう促した。米国の政府高官や大学人には、海外から先端科学分野の優秀な研究者やその予備軍を受け入れることなしには、世界に冠たる「知の超大国」としての地位を維持し続けることはできないという強い危機感があったからだ。「米国の理工系大学院は優秀な自国の学生が不足するという深刻な事態に陥っている。将来的にもそれらの大学院を存続させ、優れた研究を維持発展させるには海外の頭脳に依存するほかない」という、米国際教育研究所のアラン・グッドマン理事長の発言はその事実をよく物語っている。

その戦略の一環として、二〇〇七年に米政府はフルブライト奨学制度の中に理工学系博士課程対象の新奨学金制度を設立した。そして、全世界から「天才中の天才」ともいうべき約三十人の第一期留学生を厳選し破格の待遇で受け入れた。奨学金の対象期間は五年で一人当たりの年平均支給額は十六万ドル(千八百万円)にのぼるという。最近、将来を嘱望される英国の天才少女が米国の大学に引き抜かれる事態が生じ、国家の損失だとして英国内は騒然となったが、その出来事も米国の「知の超大国」戦略の一環であるといってよい。
二〇〇七年に米国の大学で博士号を取得した学生の約三十五パーセントが留学生で、科学技術系に限ると留学生の占める割合は四十五パーセントに及んでいる。研究環境が抜群で、政・官・産・学の徹底した連携のもと、卒業後も活躍の場が保証されている米国の大学には、現在、国籍・人種を問わず世界中から優れた人材が集まってきている。清華大学をはじめとする中国主要大学の最優秀卒業生の四分の三は米国に留学しているという。ハーバード、MIT、スタンフォードなどの有名大学は、各国の政府や大学と提携して米国の本校と同一レベルの授業を行い、同一の資格を得られる大学院プログラムをアジア各地で実践しており、そこで育った優秀な学生を即刻米国に呼び寄せもしている。中東や中南米在住の日本人家族の優秀な高校生らが米国の一流大学や有名高校にスカウトされている現状などからすると、米国は異才をもつ海外の若年層人材を密かにリサーチし、リストアップした人物を自国に勧誘する工作を行っているふしさえある。二〇〇四年、米国国際教育工作協会のヨハンソン会長が、「世界の留学生市場を失うのは森林を火災で失うようなものだ」と警告を発し、その後、「ブッシュ政権はその状況に気づき、優れた学者や学生の米国入国を阻む障害を除去しようと努めている」と発言したことなども、その事実と無縁ではないだろう。

ケンブリッジ大学、オックスドフォード大学などの伝統校を有する英国も負けてはいない。世界の優秀な人材が米国へと一極集中するのを憂えたブレア前首相は、一九九九年末、英国は五年以内に世界の留学生の四分の一を獲得するとの方針を掲げた。そして人材の宝庫である中国を最大の教育市場であると指摘し、同国へ熱い視線を送った。ケンブリッジ大学のゴードン・ジョンソン副学長の「大学の評価は研究業績で決まる。それは世界的な研究者や優秀な学生をどれだけ確保できるかにかかっている」という言葉に裏付けられるように、現在、同大学の院生七千人のうち三分の二が外国人で占められている。

破格の奨学金で学生を奪う英国

世界の頭脳獲得の武器となるのはむろん奨学金である。英国の大学は民間企業や資産家に強く寄付を訴えかけるようになり、その一環として、ケンブリッジ大学は二〇〇〇年マイクロソフト社のビル・ゲイツ会長運営の団体から二億一千万ドルの寄付を受け、奨学基金を設立した。現在までに七百五十人の留学生を奨学金支給対象者に選び、年間一万~二万ポンド(約二百十五万円~四百三十万円)の学費と、一万一千五百ポンドの生活費を給付している。

ブレア前首相の意向に英国財務省も迅速に対応し、二〇〇一年には中国人留学生対象の奨学金制度を充実させ、以降毎年三百人近い中国人学生に最高で一人当たり三万ポンド(約六百四十五万円)を支給している。さらに、財務省は二〇〇二年に十億ポンド(約二千百五十億円)の予算を投入し、中国人留学生を含む重点科学研究部門の博士課程大学院生に資金援助するようになった。また、英国政府はそれと並行して技術移民の定員枠を十万人前後に拡大し、英国に移民したいという留学生の要望に応えるとともに、卒業後も留学生がビザ延長の手続きなしに一年間滞在し、仕事を探すことができるように計らった。いっぽう英国の主要メディアにも留学生の能力の高さを積極的に報道してもらうようにし、彼らが英国内で暮しやすいムードをつくるような配慮も行った。さらに中国で留学フェアを開催して英国の高等教育を紹介し、留学希望者のビザ申請手続きを簡略化して容易にビザ取得ができるように配慮した。そのため、英国の中国人留学生は飛躍的に増大している。

英国大学協会の最新レポートによると、大学や諸研究機関で新規雇用される研究者の三割近くが外国人となり、頭脳流入が頭脳流出を上回る好ましい状況になっているという。他国出身の研究者が集中する学術分野は、情報科学・数学・物理学・工学・技術開発・言語学・政治学などのようである。同レポートは、英国の高等教育機関が英国移住を望む外国人研究者の適切な受容と支援の制度を確立すべきだと提唱し、さらに、どのような要因で外国人スタッフが他国の研究機関への移籍を決意するかの分析も必要だと指摘している。

フランスのシラク前大統領は二〇〇四年に訪中、大学生対象の講演を行い、「フランスは世界経済の上位に位置し、IT産業や新技術開発分野で世界の先端を走り、欧州の主要なハイテクをリードしている。中国人学生のフランス留学を歓迎するので、言語の壁を恐れずどんどんフランスに留学してほしい。充実した奨学金制度によって、優秀かつ真摯な中国人学生を国を挙げて支援する」とのエールを送った。フランス政府は両国間の文化交流促進のため、二十校以上のフランス語高校の開校に協力、中国内各都市にフランス語教学センターを設立し、フランス留学に必要な語学や文化的な基礎を中国人学生に習得させようと努めている。さらに、フランス教育省は自国内での中国語学習を推進するため、小学校十校、中学校百五十三校、大学百校に中国語課程を取り入れた。また、公立大学への中国人留学生の授業料を一律免除したことによって、フランスへの中国人留学生は一挙に増加し、二〇〇四年時点での大学入学者数は一万五千人に達している。

米、英、仏などの対応を傍観できなくなったドイツのシュレーダー元首相(当時)なども、「優れた留学生や突出した研究者はいまや先進各国の争奪戦の対象になっている。我が国もこの人材戦争に負けるわけにはいかない」と危機感を訴え、争奪戦参戦を表明した。

他の国々も独自の戦略を展開中

英語圏であることを生かし、私費・公費の留学生十五万人を抱えるオーストラリアの戦略はユニークだ。オーストラリア政府は留学を「重要輸出産業」という独特の概念で捉え、外国人に「商品としての良質の教育」を提供するという政策を実践している。その中心となる教育科学訓練省には多数のスタッフを擁する調査、広報、経済担当部門があり、全国の大学が共同運営する大規模な民間教育機関と連携し、海外での広報や留学生のリクルートを展開している。政府機関、教育機関、経済界の三者の連帯はきわめて強固のようだ。

シンガポールでMIT本校並の教育を

シンガポールにはMITをはじめとする世界の一流大学が集結し、それぞれ政府や地元大学と連携して本校と同水準の大学院プログラムを展開中だ。MITがシンガポール国立大学と提携して開設した大学院プログラムにはシンガポール政府が百パーセント出資し、授業料が無料なうえ奨学金と生活費とが支給される。産業界の全面協力によりインターンシップ制度も整備されたこのプログラムは好評で、昨年度は定員四十名に対しインド一国だけでも七百人の応募があった。院生の三分の二は留学生で、卒業生には永住権も与えられる。奨学生は卒業後三年間シンガポールで働くことを義務づけられているが、七割の者はそのまま残留し勤務し続けているという。将来の国家の繁栄は知識集約型産業の発展にかかっており、その実現には優秀な人材確保のシステム構築が不可欠だとする政府の方針の成果である。

いっぽう、香港大学とオックスフォード大学とが連携したプログラムでは、上海、香港、オックスフォードでそれぞれ半年ずつ学ぶことができる。ロンドン大学と提携したプログラムでは香港を離れることなく同大学の学位を取得できる。教員の半数はロンドン大学から派遣され、教育システムや授業内容については厳格な審査基準が設定されている。ロンドンの本校で学ぶ学生と比較してもその実力に遜色はまったく見られないという。

優れた留学生を多数送り出す側の中国やインドは別の戦略をとっている。先進諸国への留学生がその国で世界的な業績を挙げれば、たとえ帰国しなくても自国の評価は高まるし、少なくともそれらの研究者から先端科学技術の情報を得ることはできる。彼らを懸け橋にして相手国と緊密な友好関係を築くこともできる。帰国者があれば、その能力を自国の発展に生かせばよい。中国が自国の最高学府、清華大学出身の英才たちを惜しげもなく欧米の大学院などに送り出しているのは、そのような国家戦略があってのことなのだ。

日本は就職口すら用意しない

世界の頭脳獲得競争における日本の現状は悲惨である。科学技術立国を標榜するなどおこがましい状況なのだ。その第一の原因は、国の指導的な政治家や官僚に真の意味での学術的理念が欠如していること、なかでも科学技術系教育のバックグラウンドを持つ者が少ないことにある。政府要人らは国際的な頭脳争奪戦の意味をまるで理解していない。近年アジア諸国を歴訪した首相や閣僚経験者で、訪問国の若者らに向かって「科学技術立国日本への留学を!」と熱弁をふるった者があっただろうか。

技術開発戦略の中枢に位置する総合科学技術会議は、そのメンバーの大半を科学教育に疎い政治家や官僚が占めている。国内には小宮山宏東大総長以下、日本の科学教育の現状を憂える識者は多いし、官僚の中にもその重要性を理解している者もいる。だが、旧態然たる日本の政治システム下では、そんな識者の苦渋に満ちた提言や警告など蟷螂の斧に等しいというのが実情なのだ。最近、東大が大学院情報学環にアジア情報社会コースを新設、アジアのリーダーを育てると発表したが、その定員枠は修士課程十五名、博士課程八名と小規模で、しかも科学技術系学科専攻のコースではない。吉美俊哉情報学環長の「アジアのことは米国より日本にいたほうがよくわかる。人材の育成を通じて、日本がアジアの中でリーダーシップを発揮できる」(二十日付・朝日新聞)などという発言も、世界の現状に目をやるといささかピント外れというしかない。

アジアからの留学生に対して、かつて日本人には「後進国から技術を学びに来た知識遅れの連中」という偏見と奢りがあった。だが、いまやアジア人留学生には日本人学生より優秀な者が多く、不勉強な日本人のほうが啓発されている有り様だ。それなのに留学生に対する奨学制度は貧弱だし、有名大学院を抜群の成績で卒業しても国内に就職先はない。組織的行動を至上の美徳とし、異端を嫌い、個の能力やその将来性を正当に評価しないこの国の体質は、自国他国の人材を問わず、有能な大学院修了者の活躍の場を閉ざしている。政財界、大学、企業が連携し、一貫して国際的な視点から人材の育成と確保を図り、その活躍の場を保証しないかぎりこの国に未来はない。我々国民は一刻も早く道路建設促進や防衛強化策のみによって国の繁栄が得られるなどという幻想を捨て、科学技術教育振興費を増大し、真の国力を高めることに深い理解と賛同を示すべきであろう。

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