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26. 「極限環境生物」の驚くべき生態

解明進む深海生物の生態

近年極限環境生物の研究が進んでいる。極限環境生物とは、無酸素ないしは極低濃度酸素下、超高圧や高温高熱下、高アルカリや高酸性下、極賓栄養条件下、大量放射線下、有機溶媒や高濃度塩水中などのような極めて過酷な環境下に生存する生命体のことである。そして、現在、その極限環境生物研究の中核を成しているのが深海生物に関するさまざまな基礎研究だ。

深海とは水深200メートル以上の海水層を指す。水深200メートル以内の海水層では風成循環による撹拌混合が起こる。だが、水深200メートルを超える付近には水温が急激に低下する層が存在し、その境界層をはさむ上下双方の海水が混合することはほとんどない。微妙な比重の違いに起因する熱塩循環によって上下の海水がわずかながら混合はするが、その循環は測定困難なほど微弱で一循環に千年単位の時間を要する。また、太陽光が到達するのも水深200メートルくらいまでなので、それより深い海水層では光合成も不可能である。そのため深海には、高水圧、低水温、暗黒などのような過酷な環境に適応する特殊な生物や生態系が存在するようになった。地球の海の平均水深は3800メートルで、その約95%を占める深海は「地球最後のフロンティア」と呼ばれる未知の領域となっている。地球の環境変動にも影響するこの領域は未利用・未発見の資源の宝庫としても注目され、各国ともにその探査と採取データの解析に余念がない。有人潜水調査船としては世界で唯一6500メートルの深水域にまで到達可能な我が国の「しんかい6500」も深海探査に活躍中だし、無人深海探査機「かいこう」は世界最深のマリアナ海溝チャレンジャー海淵(10,911メートル)に潜航し、その基底部の貴重な泥土の採取にも成功した。日本には他にも特殊な能力をもつ各種の海洋調査船があり、深海の研究で国際的にも大きな貢献を果たしている。深海生物の研究だけが深海探査の狙いではないが、その探査を通して発見された特異な生態をもつ深海生物も少なくない。

奇魚珍魚の発見続々

深海魚というと生きた化石シーラカンスや巨大なダイオウイカ(そのクチバシがマッコウクジラの胃中でゼリー状に固まり排泄されたものは「竜涎香」の原料)が有名だが、珍魚の新発見も続いている。ダルマザメは体長50センチほどの深海魚だが、ナイフでもカット困難な原潜のソナードームのカバーゴムを噛み取ったり、海底調査船の機器曳航用ストリーマーケーブルを噛み切ったりする能力をもつ。その食性は特異で、夜間になると表層水域に浮上しマグロ、クジラ、他種のサメなど大型回遊魚の身体の一部の肉や皮を齧り取って食べる。高速で泳ぐマグロなどを狙う場合には自らが餌となるふりをして相手をおびき寄せ、喰われる直前に身を翻して鋭い歯でマグロの腹部に噛みつき特殊な唇でその部分を覆い塞ぐ。そしてマグロの泳力の生み出す水流を利用して自分の身体全体を回転させ肉を喰いちぎる。1000~2000メートルの深海に棲むミツクリエナガチョウチンアンコウの生殖様態も奇妙である。メスの体長の20分の1程度しかないオスはいったんメスと出会うと噛みついて離れない。ほどなく両者の身体は皮膚も血管も癒着し、オスはメスに寄生したまま栄養分を吸収する。やがてオスの歯も目も腸も完全に退化するが精巣だけは発達し、生殖機能を維持活性化しながらメスの身体に同化してしまう。これまで発見されている深海生物(微生物をのぞく)中で最深生息記録をもつのは、我が国の海洋研究開発機構によるチャレンジャー海淵の生物調査で、10900メートルの海底泥土中から採取された体長4.5センチのカイコウオオソコエビである。その痕跡さえ認められないほどに目が完全退化したこのエビの体内には栄養分とも思われる黄色いオイル状の物質が蓄えられている。ただ、その生態はまったく不明で、10000メートル余のそんな海底で何を餌としているかはなお謎だ。

極限環境生物利用の可能性

深海生物は上層から降下する有機物に依存するとされてきた。だが深海探査の進展により太陽エネルギーに頼らぬ独立した生態系の存在が明らかになった。海底では硫化水素やメタン、重金属類を含む300℃以上の熱水が噴出している。その周辺には熱水中の無機化学物質をエネルギー源に有機物を合成するバクテリアが生息し、「化学合成生態系」と呼ばれる生態系を支えている。植物の根に似た奇妙な形のチューブワームなどはこの生態系の代表的生物で、その体細胞中にこの種のバクテリア(硫黄酸化菌)を飼い、それらが生み出す有機物を栄養にして生きている。このような「化学合成生物群集」に属するものとして、すでに、シロウリガイ、シンカイヒバリガイ、ユノハナガニなど500種以上の生物が発見されている。

いっぽう、マリアナ海溝のチャレンジャー海淵底から採取した泥土からは3000株の微生物が分離され、その性質の解明が進行中だ。500気圧以下では生育せず、1000気圧もの採取現場の環境下で良好に生育する絶対好圧性菌、蛋白質や糖質の分解酵素を生産する新種の有用微生物なども発見されている。また、分離された微生物の多くが現場環境からはかけ離れた高濃度塩分、高温、常圧の環境下でも生存可能だという意外な事実も判明した。これら化学合成独立栄養生物群の存在は、地球上の諸生命の起源を化学合成のプロセスに求める化学進化説の有力な裏付けにもなるとして注目を集めている。化学進化説とは、無機物から有機物がつくられ、有機物の反応によって生命が誕生したとする説のことである。

深海生物のような極限環境生物は、過酷な環境に適応するため特殊な機能や遺伝特性を具えもつ。最近はそれら生命のダイナミズムを解明し人間社会に活用するため、ゲノム科学、分子レベルの生理学、生体情報工学、深海・地殻関係の物理化学などを連携した研究が進んでいる。新奇な微生物を分離し、その生理特性や物質生産プロセスを化学、食品製造、材料工学分野に応用する研究、微生物のもつ酵素及び生理活性物質を医薬品開発や地球環境保全に役立てようとする研究などもその一環だ。

そのために、我が国では極限環境生物圏研究センターが中心となり、民間企業の協力も得て、深海微生物のゲノムバンクの創設や有用深海微生物の特定、ゲノム情報解析ソフトの開発などを行う深海バイオ事業化推進計画などを促進中だ。学術的にも工業的にも興味深い好アルカリ性菌Bacillus holothurians C-125株の全塩基配列を決定し、続いて沖縄の伊平屋海嶺(深度1050メートル)で採取分離された高度耐塩性好アルカリ性菌Marino bacillus iheyenisis HTE831株のゲノム解析に着手しだのもその一環だ。その成果は微生物の進化や生命誕生の謎の解明、有用物質生産技術の開発に繋がると期待されている。好圧性微生物の遺伝子をヒントに通常の酵母菌の1塩基を置換しただけで250気圧以上の圧力下でも増殖が可能になることも発見され、それを契機に微生物以外の生物をも対象とする新学問分野「圧力生理学」の創設とその応用研究なども提唱され始めた。深海の魚介類のホルモン様物質やその生成メカニズムを解析し、細胞工学、医療工学、薬学、バイオテクノロジーなどに応用する研究も進んでいる。すでに各国のバイオテクノロジー企業は、極限環境微生物の遺伝子を用いて強力な酵素を大量生産し、合成洗剤、洗浄用化学薬品、高効率のDNA識別システムなどの開発に奔走中だ。自然界から商業利用可能な特質をもつ動植物や微生物を探し出すバイオプロスペクティング(生物資源探査)の可能性は計り知れない。極限環境微生物が遺伝的にもつ耐性を利用したり自由に制御したりできるようになれば、有害廃棄物の浄化や効率的な汚染物質の除去防止、さらには優れた医薬品の開発につながるものと大きな期待が寄せられている。米国などでは、バイオ企業に商業利用される極限環境微生物の利権や所有権をめぐってさまざまな係争も生じている。

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