執筆活動の一部

17. 箱庭紅葉より山岳紅葉

箱庭紅葉見物から山岳紅葉の探訪へ

由緒ある京都の寺々に見る紅葉がそうであるように、千年余にもわたる歴史の中で洗練に洗練を重ねてきた庭園を背景に、幽玄かつ優雅に映えわたる紅葉を愛でるのは感動的なことには違いない。古都の名園の紅葉の多くは、それぞれの時代最高の庭師らが何百年ものちの景観を計算し尽くしたうえで樹種を厳選し、代々にわたって精魂を傾け育み慈しんできたものだからである。京都や奈良、鎌倉といった古都の寺々などに見る紅葉というものは、たとえて言うなら、名家の伝統にしっかりと守られ、それなりの教養を身につけながら美しく育った深窓の令嬢みたいなものである。俗世にまみれた我々庶民が、伝統美の繊細さや優雅さに触れるべく折々畏れ仰ぎ見るには格好の存在なのだが、おいそれと気軽には近づき難いのも事実である。それにまた、古刹や名園の紅葉の磨きあげられた美しさは人工美の極致であると言ってはみても、詰まるところそれらが箱庭紅葉であることに変わりはない。したがって、真の大自然の営みを通じてしかもたらされえぬ凄絶なまでの美しさや、魂の根幹を揺すぶり動かすような妖艶さとなると、その種の紅葉にはおのずから限界も生じてくる。箱庭紅葉の紅葉狩りにおいて、鬼女の本性を内に秘めた絶世の美女との出遇いを求めることは難しいからだ。

いっぽう、山岳紅葉は、たとえて言えば、自由奔放そのものだが、命がけで生命というものの本質を求め謳歌することを知り尽くした野育ちの美女みたいなものである。誰であろうと差別なく迎え入れてくれるかわりに、訪ね来る者の心情のほどや美への執着心の度合い、さらにはおのれに賭けてくれようとする相手の決意の深さなどに応じて、秀麗にも妖艶にも凄絶にも、そして時には鬼女そのものの恐ろしい姿にさえも変貌する。要するに、朝、昼、夕、宵、それぞれの時の推移や訪なう者の視座の高低の変化に応じてその様相を一変するのが山岳紅葉なるものの特徴なのだ。そのような意味からすると、山岳紅葉を楽しもうとする者には最小限のチャレンジ精神と不慮の事態にも堪えうるそれなりの覚悟、さらには醜悪さをも平然と楽しむだけの寛容さが必要だろう。

ひと昔前なら、錦秋最高の贈物である山岳紅葉を楽しむには、一定レベル以上の登山技術や登山経験を有しているか、そうでなくとも、通行不能個所もすくなくない狭くて急峻な岩だらけの山岳ダート路を走行する運転技術や運転度胸、さらには車両故障時等の応急処置法などを身につけていたりすることが不可欠だった。また、絶好の山岳紅葉探訪ルートを選択したり、非常時に避難場所や緊急回避路を確保したりするために、的確に地図を読み取る能力も必要とされた。だが、高山地帯を含む各地の山岳路や林道の整備が進み、道標の設置や見やすいガイドマップの作成などが実践されるようになった昨今では、一般の人々が山岳紅葉を楽しめるチャンスも、そのためのルートやスポットも飛躍的に増大した。近年車の性能が著しく向上し、峻険な山 とて岳路を走行してもよほどのことがないかぎり故障に遭遇することがなくなったのも救いである。いまや紅葉狩りは、箱庭紅葉めぐりの時代から山岳紅葉探訪の時代へと移行してゆきつつある。アプローチにそれなりの工夫や時間を要し、天候その他の条件次第ではなおいくらかの不便やリスクを伴いはするものの、誰もが気ままにその素晴らしさを楽しめる山岳紅葉見物は、本物の旅が好きで時間的にも余裕のある中高年層の人々などにはもってこいだろう。

山岳紅葉探訪の醍醐味は?

山岳紅葉見物となると、旭岳、層雲峡、奥入瀬渓谷、日光、上高地、穂高涸沢、立山、黒部峡などといった国内各地の山紅葉の名所探訪を思い浮かべる人が多い。むろんそれら名勝地の紅葉は大いに見ごたえもあるのだが、そのほかに車による深山の林道走行をベースにした山岳紅葉見物も捨てがたいものだ。険しい山岳地を縫い走る大規模林道は、峻険な峡谷を源流地帯に向って遡上したり、鬱蒼たる樹林に覆われた幽谷をいくつも横断したり、展望のきく尾根筋の高所や高原地帯を通過したりしながら延々と続いている。錦繍の候に南アルプスや奥秩父などの大規模林道を走行したりすると、大小の滝や清流のほとばしる渓谷上に真っ赤に燃え立つカエデやハゼ、ウルシ、ナナカマドなどの紅葉が二重三重に映えわたっているのを目にすることが多い。運がよければ全山が命を賭して燃え上がるような壮大なスケールの紅葉に遭遇したりすることもある。ブナやミズナラの樹林が、凛と澄み輝くようなひときわ気高い黄金色の光を発している光景に出遇うこともしばしばだ。もしも、美しい秋の夕日のもとや夕霧の漂う中にあって、たまたまそのような情景を目にする機会に恵まれでもしたら、その荘厳さに息を呑み心震えることは必定だろう。これはまたあまり知られていないことなのだが、煌々と輝く月光のもと、夜風に吹きさらされたダケカンバやカラマツの黄葉が、幻想的な輝きを発しながらハラハラと散りゆく有様はこの世のものとは思われないほどに美しい。晩秋の頃に大雪山系や北アルプス山系などの奥深い林道を訪ねると、純白の新雪を戴く雄大な山々を背景に、赤、橙、黄、緑、青、紫、茶などのさまざまな色の葉が織りなす見事な紅葉を人知れず楽しむことだってできる。朝日や夕日の差し込む時刻ならその景観は一段と素晴らしいものになる。紅葉の真の美しさというものは、紅葉それ自体の色の鮮やかさのみによってきまるものとはかぎらない。その美しさは、背景となる自然界の諸風物との組み合わせの善し悪し、太陽光や月光の明るさとその差し込み加減、吹き抜ける風の強さや流れる霧の濃淡の度合い、さらにはそれを眺める者のその時々の心情や歴史文化的素養の有無などによって大きく左右されもする。その意味からしても、人それぞれに好きな時刻に好きなところで車を駐め、自らの感性や嗜好に適う自然の風物を背景にしながら終始マイペースで紅葉の美しさを堪能できる林道利用の山岳紅葉探訪は今後大いに奨励されてよいだろう。

一度や二度のチャレンジでは……

紅葉、なかでも山岳紅葉というものは日照時間の長短や寒暖の差の大小に大きく影響されやすい。秋の紅葉期の温度変化が急激なほどに、とりわけ気温の日較差が大きいほどに葉に含まれる色素の化学変化が活性化するためである。それゆえ一般的に北海道や東北地方北部山地の紅葉は格別美しく鮮やかな色をしたものが多い。アプローチも容易ではなく、ヒグマ出没の危険もあるところなのだが、忠別岳からトウムラウシ山に至る東大雪山系稜線直下の五色ヶ原一帯の紅葉などはその名の通りの秀麗さだ。五色ヶ原の紅葉期には背後の忠別岳やトムラウシ山はすっかり新雪に覆われるので、五色の紅葉はそのぶんいっそうその美しさを引き立てられることになる。ただ、北海道や東北北部の山岳紅葉はすぐに葉が凍り色が褪せ霜枯れしてしまうため、紅葉期間は一週間から十日くらいときわめて短い。しかもその時期を的確に予測するのは専門家にも難しい。それに比べるとその他の諸地域の山岳紅葉の最盛期は長いのでそれを楽しめるチャンスこそ多くはなるが、そのぶん色の鮮やかさはいまひとつという場合も少なくない。秋の冷え込みが大きくない年などは、木々の葉が鮮やかな紅葉などしないままに枯葉へと変わってしまうこともしばしばだ。したがって、いかなる山岳紅葉の名所であったとしても、よほど幸運なめぐり合わせでもないかぎり、一度や二度そこを訪ねただけでその地域最高の山岳紅葉に出うきと遇えるというわけにはいかない。至上の山岳紅葉を目の当たりにするためには、時と労とを惜しむことなく再三再四チャレンジを試みていくしかないようだ。

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