執筆活動の一部

2. 算数教育「百マス計算」信仰の愚

「創造力育成」の証明なし

いま教育界は百マス計算ブームである。いまやその教祖的な存在となった尾道市立土堂小学校の?山英男校長のもとには、自信喪失気味の教師たちが全国各地から教えを乞いに詣でているありさまらしい。無定見な一部マスコミなどがその様子やその成果と称されるものを大々的に報道し、その結果、百マス計算万能神話に洗脳された親たちはこぞって書店へと走り、?山メソッドなる計算ドリルや漢字ドリルを買い求める騒ぎになった。
 百マス計算の元祖で、現在教育コンサルタント業を営む岸本裕史氏がかつて教職にあった関西のある小学校では、地域的な特殊事情などもあって基礎的な四則計算もできない生徒が多かった。そこで同氏は計算力育成を図るため百マス計算なるものを考案した。縦十マス×横十マス、合計百マスからなる正方形のスペースを設け、百マスの上側と左側にマス目に合わせ十個ずつの数字をランダムに配列しておく。生徒は縦列と横列の数字二個ずつを指示通りに加減乗除し、その答え百個を各マスに記入していく。この作業を反復させると生徒らの計算力が大幅に向上し集中力も高まったという。要するに一種の簡易基礎計算ドリルだと考えてもらえばよい。
 前述した?山方式はこの百マス計算を改良発展させたもので、百個の答えのうちあらかじめ各段ごとに指定されている数を塗りつぶすと、隠された文字や図柄が浮き上がってくる仕組みになっている。一個でも計算ミスがあると文字や図柄が不完全なものになってしまう。この方式で生徒の算数能力の飛躍的な向上を実現したという?山教諭は、その業績を高く評価され尾道市立土堂小学校長に迎え入れられた。現在、?山校長は百マス計算式学習法を国語教育にも応用すべきだと唱え、その実践効果を声高にアピールしている。
 一昔前の日本人なら誰もが体験したような計算ドリルや読み書きドリル競争を、ちょっとだけ目先を変えて復活させただけのことなのだが、なんとこれにお墨付きを与えるべくして川島隆太東北大学教授が登場した。脳科学の専門家を自認する同教授は、「天才の創りかた」(講談社インターナショナル)などというキワモノ的な著書のなかで、「創造力を鍛えるには、音読や単純計算トレーニングが第一」という自説を裏付ける実例として岸本、?山氏らの実践教育を称賛している。機能的MRI(核磁気共鳴断層撮影装置)や光トポグラフイ(脳表面の活性反応測定装置)を用いて脳の活動状態を調べると、音読学習や計算ドリル、漢字ドリルなどを実行中の脳は際立った活性反応を示し、なかでも創造力の源泉とされる「前頭前野」という部分の活動がもっとも顕著になるのだそうだ。
「理由は不明だが音読や単純計算トレーニングは脳全体を著しく活性化する。脳が活性化するとは創造力が高まることにほかならない」という川島教授のお墨付きを得て、百マス計算ドリルや同方式応用の漢字学習ドリル信者はますます勢いづいてきた。おかげで中学生用から成人用ドリルまでもが登場する盛況ぶりなのだ。川島教授自らも公文研究所と協力してドリルを刊行、それらは書店に山積され爆発的な売れ行きをみせているらしい。

天才を生む鋳型など存在しない

初等教育において一定量の計算ドリルや漢字ドリル、音読トレーニングなどが不可欠なことに異存はない。その意味において百マス計算や百マス方式漢字ドリルが効果的であることも否定はしない。それらのドリルによるトレーニングが老人性痴呆症の進行防止にある程度有効なのも事実だろう。だが、初等中等教育における百マス計算方式のドリル教育が生徒の創造力を飛躍的に高め、将来の秀才、さらには天才をも生みだすことになるかもしれないなどという川島教授の短絡的な主張には唖然とせざるをえないのだ。
 ドリルを反復練習すればその種の問題を迅速かつ正確に解く能力が向上するのは当然だ。計算速度や暗記力が有利にはたらく初等中等教育レベルの学力試験で成績が上がるのも不思議ではない。ただ、真の創造力や深い理解力、高度な探究能力の育成となると話はまるで別なのだ。百マス計算の元祖あるいは教祖たる岸本、?山両氏にしても、もともとは百マス計算を全体的な教育指導課程の一環として位置づけていたにすぎない。それなのに、いつのまにか百マス計算が能力開発の奥義みたいに崇められ、独り歩きするようになってしまったのだ。その背後には出版業者の巧みな営業戦略や、一時代前の画一詰め込み教育法にノスタルジーを懐き、あわよくば古めかしい思想教育に利用しようとする一部政治勢力の思惑なども見え隠れしている。
 詰め込み型ドリル教育が創造性を培うというのなら、その種の教育を受けた旧世代の人々の中から創造性豊かな人材が輩出していてもおかしくなかったはずなのだ。一定の思考法則を無条件で叩き込み思考回路を固定する教育は、度が過ぎると自由で独創的な思考や発想を阻害する。大脳生理学者らが明かにしてきているように、特定の思考回路を過度に強化すると、それ以外の思考回路が極端に退化してしまうからだ。普遍的な思考や社会的協調性への依存度が大きすぎると創造性や個性が損なわれ、創造的、個性的でありすぎると普遍的な思考や社会的協調性が損なわれてしまうという人の脳の構造特性は、なんとも厄介なものである。そのバランスをどうとるべきかは永遠のテーマだといってもよい。
 そんな批判を予測してか、川島教授は「単純な計算ドリルや音読トレーニングだけで創造力が育つと信じるほうがおかしい。それらは創造力育成の必要条件にすぎず、十分条件ではないのだ」と開き直る。しかも呆れたことには、その本のどこを探してみても創造力を育てる具体的な方法についてはそれ以上のことは書かれていないのだ。現実には子供らがチャレンジングなフィールドワークや高度な知的ゲームに没頭しているときにも脳は大いに活性化しているに違いない。最近の研究で、難問を考究したり独創的な思索に耽ったりしている人の脳が必ずしも強い活性反応を示すとはかぎらないことも判明した。川島理論で「天才を創る」など冗談も甚だしい。
 高名な認知心理学者ピアジェは、具体的操作の段階(幼少児が具象物をいじりながら抽象思考力の基礎を培っていく段階)から形式的操作の段階(抽象化された計算式だけで事象を考察する段階)への移行が性急すぎると、一時的には学力が向上したように見えても抽象度の高い専門レベルの高等数学を修めるのは困難となることを立証した。実事象から理論を抽象する能力や、抽象論理を実事象に基づき検証したり定義に立ち戻って考察したりする能力が未成熟のままだからである。一流大学の数学科や物理学科に進学した学生が、解決までの時間が読めない問題、解の存在さえも判然としない問題、意味不明な多重解がある問題などを前に挫折してしまうのはそんな背景があるからなのだ。百マス計算方式への過度な依存が形式的操作の段階への移行を急ぐ行為であることはいうまでもない。
 チューリップはこんな色のこんな花だとあらかじめその概念を無理に叩き込まれた子供は、一時的に綺麗な絵を描けたとしても将来優れた画家にはなれない。一流画家になれるのは、たとえ時間はかかってもその目と体でチューリップのなんたるかをじっくりと見きわめ、たとえ下手だと笑われようとも、自分なりの絵を描きあげた子供だけなのである。

(「選択」2005年3月号より)

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