マーカー遺伝子とは
伝統的な交配育種では、有用形質を持つ固体を何世代にもわたって交配し、ホスト種への当該形質の導入をはかってきた。だが、交配育種では有用形質以外の形質も取り込まれてしまうので、優良な形質のみを固定するには多世代にわたる育種期間と多数の固体の育成が必要だったし、有用形質の識別そのものも容易でなかった。また、交配可能な近縁種に有用形質をもつものがなければ品種改良も不可能だった。そこで登場してきたのがほかならぬ遺伝子組換え技術(GM)なのである。GMを用いれば有用遺伝子をホスト種の遺伝子中に直接導入できるばかりか、交配不可能な動植物の遺伝子をも組み込むことができる。GMの実践には、無数の塩基対で構成されるゲノム中の有用遺伝子部位の推定とその機能の解明が不可欠だ。農業分野では動植物の有用形質を生む遺伝子の特定が必要になってくる。遺伝子情報を解読するには、遺伝子列の特定個所にマークをつけその部分を取り出して培養したり他の遺伝子中に組み込んだりしてその機能を調べなければならない。また、目的遺伝子が他の遺伝子中に組み込まれたことを確認するなんらかの目印が必要になってくる。
ただ、マークするとは言ってみてもゲノムを構成する塩基対に直接に印をつけるわけにもいかないから、それに代わるものとして識別用の遺伝子が人工的に組み込まれるようになった。それが「マーカー遺伝子」と呼ばれるものである。マーカー遺伝子としては抗生物質耐性遺伝子や除草剤耐性遺伝子などが用いられることが多い。たとえば、目的遺伝子と一緒にカナマイシン耐性遺伝子をマーカーとして組み込んだ動植物細胞をカナマイシン入りの培地で培養すると、カナマイシン耐性遺伝子が組み込まれた細胞だけが成長する。そのため、目的遺伝子の組み込みが成功したことを確認したり、遺伝子組換えの起こった細胞だけを選抜したりすることができる。狙いとする動植物の有用遺伝子やその機能を調べたい遺伝子と結合連鎖し、それらの遺伝形質が発現する時には必ずそれに付随するかたちで現れるのがマーカー遺伝子の特徴だ。最新技術を用い人工的に複製した多数のDNAを染色して寒天のゲル中で電気泳動させ、マーカー遺伝子の一連のDNAバンドを検出し、それを通して目的遺伝子の存在やその位置の確認をおこなうこともできる。
そのいっぽう、従来マーカーとして多用されてきた抗生物質耐性遺伝子や除草剤耐性遺伝子は作物の可食部細胞内にも発現するため、そのことが遺伝子組換え作物に対する近年の懸念の一つになっている。抗生物質耐性の遺伝コードが遺伝子水平移転と呼ばれるプロセスを経てGM食品から人畜類の消化器官のバクテリアに飛び移り、このバクテリアを抗生物質の効かないものに変質させてしまう恐れがあるからだ。遺伝子組み込み確認後は抗生物質耐性マーカー遺伝子を除去することが望ましいが、除去作業が容易でないうえ除去してしまうとその後の確認選別作業が煩雑になるため、多くの場合はそのまま残しおかされるのが実状だ。そこで、最近、一部の研究機関などで、PCR法(ポリメラーゼ連鎖反応応用の分析法)によるDNA分析をもとに、遺伝子組換え後の固体から目的遺伝子は含むがマーカー遺伝子を含まない固体のみを効率的に選別する技術なども開発された。また、近頃では目的遺伝子の近隣に高確率で出現する一塩基多型DNA配列をチェックし、そのDNAバンドと目的遺伝子との相関性を確認したうえで、それらを新たなマーカー遺伝子として用いるようにもなってきた。適切なマーカーの発見までに時間もかかるし、特定されたマーカーの汎用性も高くはないが、この方法は抗生物質耐性遺伝子などをマーカーに用いるのに比べてはるかに安全性は高いとされる。
育種の花形「マーカー利用選抜法」
最近、マーカー遺伝子を用いた改良育種が有望視されるようになり、おおいに脚光を浴びている。有用な動植物の生産量に関わる形質の多くは、個々には小さな効果しかもたない多数の遺伝子の総合的影響力によって支配されることがわかってきている。そして、それら量的形質を支配する遺伝子座(ゲノム中の位置)をQTL(Quantitative Trait Loci)という。ただ、QTL自体の直接かつ正確な位置特定やQLT中の遺伝子個々の機能の解明は容易でないため、目的とするQLTと密接に連鎖するマーカー遺伝子を諸実験によって発見し、それを改良育種に利用する間接的な方法が実践されるようになった。MAS(Marker Assisted Selection)、すなわちマーカー利用選抜法と呼ばれるこの技術の開発促進により、異品種間の交雑集団から目的形質のQLTを有する固体を高確率で間接選抜することが可能になった。そして、ホスト品種と目的形質をもつ品種との交配と選抜を繰り返しおこなうことによって効率的に、しかもGMによる直接的な遺伝子導入法などよりも安全に品種改良を遂行できるようになった。もちろんMASを活用すればGMと自然交配との折衷による改良育種も可能である。なお、改良育種において、マーカー遺伝子は、導入したい遺伝子のマーカーとして利用される場合と、ホスト種がもっている遺伝子のうち残しておきたい遺伝子のマーカーとして利用される場合とがある。
ちなみに、乳牛の泌乳量や成長力を支配する遺伝子の直接的な特定には多大の時間と労力とが必要だが、その遺伝子そのものが不明であってもマーカー遺伝子の出現パターンと泌乳量や成長力との間に高い相関性があるならば、その情報を育種に利用することができる。そのように有意な関係が存在するということは、マーカー遺伝子の近くに目的遺伝子があることを示しているからだ。この種のマーカー遺伝子の特定は、解析実験用の乳牛家系の育成を含め十年程度の期間があれば可能だとという。家畜類などにあってはこのマーカーの情報を用い受精卵の段階で即刻効率良く将来的な資質の判定をおこなえるので、従来の後代検定に必要だった施設規模、家畜頭数、時間や労力などの大幅削減が可能になり、大きな経済効果をもたらすと期待もされている。血縁種間の交配で生じた子については、どちらの親の配偶子が伝わったものかこれまで判別が困難だったが、両親及び子のマーカー遺伝子の型を調べることにより、子の配偶子がどちらの親に由来するものなのかを識別もできるようになった。各種作物や家畜の遺伝病などに関しては、病因遺伝子と強く連鎖するマーカー遺伝子が発見されれば、将来の発病を待つことなく早い段階で病因遺伝子の有無を判別することができるから、その意味でも確実で効率的な選抜育種が可能になる。
さらにまた、特定の目的形質と有意に連鎖するマーカー遺伝子を用いてその形質を支配する遺伝子のおよその位置をつかみ、染色体上のその部分をさらに細かくチェックできるマーカー遺伝子を新たに開発すれば狙う遺伝子の位置をより正確に絞り込んでいくこともできる。さらにこの作業を繰り返し進めていけば、最終的には目的遺伝子に辿りつくことが可能になる。遺伝子が特定されそのDNA配列が明らかになれば、当該遺伝子の機能やDNA配列の変異と形質発現の関係も解明され、生物学や医学の基礎研究は飛躍的に発展するものと考えられる。なお、近年MASは発症前遺伝子診断などによる未発症の疾患の予知と予防などにも用いられ始めているが、その診断結果は特定個人ばかりでなく遺伝的要素を共有する血縁者、さらには社会全体にも重大な影響を及ぼしかねないので、その点についてはきわめて慎重な対応が求められるところである。