残虐な人間の本性を直視せよ
著名な動物生態学者コンラート・ローレンツは、その著書「ソロモンの指輪」の中で興味深いことを述べている。我々人間は、狼を獰猛かつ残忍動物だとみなすいっぽう、鳩やノロ鹿を平和の象徴だと崇めているが、それは大きな誤解だというのである。ローレンツによれば、自らの牙の危険性を熟知している狼は、仲間同士で戦う場合、劣性の狼が首を差し出して降伏の意思を表すと、優勢な狼はそれ以上相手を攻撃することはないという。同一群の狼に序列はできるが、いったん序列がきまるとそれ以上無益な争いをして傷つけ合うことはなく、それぞれの役割を果たしながら仲間同士助け合って行動する。そのいっぽう、鳩やノロ鹿のように弱くておとなしそうな動物が仲間争いを始めると凄惨な事態が起こるという。たとえば鳩の群を大きな檻の中で飼ってみると、ストレスなどが原因で争いが生じた場合、強い鳩は弱い鳩を攻撃して殺してしまうばかりか、死んだ鳩の内臓が剥き出しになりズタズタに裂けた状態になっても攻撃の手を緩めない。小鹿のバンビのモデルになったノロ鹿の場合も同様で、いったん争いが生じると強い鹿は弱い鹿をとことん追い詰め、相手の内臓が破裂し絶命してもなお執拗に攻撃し続ける。人間社会と同様に弱者に対する集団攻撃も起こる。その種の残忍さは弱い動物が具えもつ特性であるという。争いに負けた鳩やノロ鹿が通常絶命するまでに到らずにすむのは、広い自然界の場合、敗者が一時的に逃走することにより悲劇を回避し自己防衛をおこなうことが可能だからだ。ストレスがもとで集団内に争いが生じ、しかも弱者に逃げ場がないような時には見るも無残な結果になってしまう。鳩やノロ鹿などの動物にとって「逃走」は重要な意味を持っているわけだ。ローレンツの考察によると、生来、人間という動物は鳩やノロ鹿と同様の生態学的特質を有しており、その本性はきわめて残忍なものなのだという。
食物を摂取すれは必ず排泄が伴う。身体が成熟し性的なエネルギーが蓄積されるようになると、性行為を通してそれを放出せざるをえない。社会動物の人間は集団の中で生き抜くため諸々の精神的活動をしなければならいが、そのために消費される精神エネルギーはストレスという負のエネルギーに変換されて体内に蓄積する。この負のエネルギーが一定以上蓄積すると、それを一挙に排出しなければ人間は生きてゆけない。フロイトが「カタルシス」という言葉を用いて指摘したように、複雑に関係し合うそれら一連の排出行為はいずれの場合も快感を伴う。なかでも精神的ストレスは、大なり小なり、暴力、虐待、破壊、強制、支配といった嗜虐的行為、あるいはその代替行為を通じて排出されざるをえない。それは人間という生命体の生存にとって不可避な行為なのであり、人間の人間たる所以でもある。「イジメ」すなわち「所属集団で実効的に遂行される嗜虐的行為」は、一生物としての人間のそんな悲しい宿命ゆえの必然的現象なのである。「イジメ」が大問題になっている昨今の学校などにおいては、教師も生徒も父母もが人間のもつそんな性(さが)をまずしっかりと直視し、自らにもなおその残虐な資質が内在していることを学ばねばならない。
イジメ問題の根は深い
学校でのイジメの主な原因は、多人数が集団を構成し半強制的に同一行動をとらされることから生じるストレスや、集団構成員である生徒が情緒の発達段階にあるため、良好な人間関係を維持する能力が未熟なことなどにあるといってよい。アメリカの心理学者ソロモン・アッシュらは、集団への同調圧力(peer-pressure)から、たとえ残虐な行為であっても罪の意識を忘れその場の趨勢に加担してしまう集団心理の存在を実験的に証明している。集団内に下位層を形成し間接的に集団の秩序維持を図ろうとする行動様式が不完全な形で現れるのがイジメ現象だと考えることもできる。弱い固体や一時的に弱体化した固体を群から排除し、現集団の環境適応能力を高めようとする動物的本能の名残がその根底には存在する。本来、社会集団というものは弱者が犠牲になるのを極力避けるために存在しするはずなのであるが、未成熟な集団の場合には本末顛倒した事態が生じてしてしまう。
近年は脳科学もイジメ問題に光を当てはじめている。大脳辺縁系からは無意識のうちに生理的欲求、性的欲求、安全と安心確保の欲求、愛情の欲求、所属の欲求、認知と評価獲得の欲求、自己実現の欲求などが発せられる。そのような欲求がうまく満たされない場合に起こるストレスをコントロールし、理性的判断を下すのは大脳新皮質の前頭連合野だが、その機能が不十分だったり未発達だったりすると、それらの欲求を短絡的に満たそうとする衝動が起こる。この前頭連合野の機能は後天的な学習作用による脳神経細胞のネットワーク形成を通して発達するという。幼少期に無償の愛を十分に受けて育ち、豊かな自然体験や社会体験を積んだ子ほどイジメ行為に走りにくいのは、そんな脳の発達様態と関係があるからのようだ。近年、幼少期の子どもらの自然体験や社会体験が極端にすくなくなっているのはその意味でも問題である。
攻撃される弱者にとって「逃走」は重要な意味をもつと述べたが、現代の子どもたちには逃走すること自体が難しい。逃走に適した場所がなくなったという現代的な事情もあるが、それ以上にもっと根本的な理由がある。逃げるという行為をするには集団から分離するエネルギーと、それなりに自立した行動能力が必要なのだ。集団から逃げ出した者は、一時的ではあろうとも、孤独な状況に耐えながら自分の時間を過ごすことができなければならない。すくなくとも一人遊びができなくてはならない。ところが現代の子どもたちの多くは、社会環境の変化もあって、幼少期にそのような体験やトレーニングを積むことなく育ってしまう。だから、集団から離れて一人になるとたちまち不安に襲われ、どう行動してよいのかわからなくなってしまうのだ。逃げようにもすでに逃げる能力すら喪失してしまっているのが現代の子どもたちの姿である。かつて心理学者エーリッヒ・フロムは「自由からの逃走」という著書の中で、「自由を求めるくせに、いったん自由を与えられると極度の不安に陥りその自由から逃げ出し拘束のある世界に戻りたくなる人間の不条理」を論じたが、現代の子どもたちは一人でいる自由さえも求めなくなってきている。そのような状況下では、イジメから逃れて身を守るのも、イジメに加担しないでいるのも難しい。
少年問題に詳しい小林道雄はそんな子どもらの危機的状況を「つながってなくちゃなんない症候群」と名づけているが、その状況の進展に一役買っているのが携帯電話のメールである。親や教師の知らないところで子どもたちはメールで繋がり、それを通じて部分的に重層するさまざまな集団を形成し、自らの所属欲求を満たしている。その必然の結果として携帯メールは「イジメの凶器」に転化する。誰が第一発信人か判らないような伝聞形のメールや発信人非通知のメールにより特定の子どもに対する誹謗中傷の言葉が飛び交い、陰湿なイジメの相談がおこなわれる。いじめの対象者には直接メールは届かないが、なんとなく白眼視されていることに当人も気づくし、間接的にしろ自分に対する中傷は耳に入る。しかもこのメールによるイジメにおいては、従来のイジメとは違い、強者弱者に関係なく、ある日突然誰しもがその対象になりうるのだ。「友達が恐い」と怯える子どもが続出する昨今の学校の状況は尋常ではないが、親も教師も実態を把握するのはもはや不可能な有り様なのである。これほどに深刻なイジメ問題に決定的な解決策などあるはずもないが、いくつかの試みはなされているようだ。ただ、そのことについては別の機会に述べさせてもらおうと思う。