執筆活動の一部

8. ナノテクの秘めもつ功罪 – その可能性と危険性

ナノテクとはどんなものなのか?

十億分の一を意味する「ナノ」とは本来「小人」を表すラテン語だった。一ナノメートルとはむろん十億分の一メートルのことで、炭素原子三個を並べたほどの長さである。ナノテクノロジーとは、結晶の大きさ、膜の厚さ、粒子の直径などのうち、すくなくとも一つがナノメートル単位で表記される大きさの物質を造る技術、及び、それらの物質を素材として、化粧品、衣料品、医薬品、医療機器、コンピュータ、通信機器、微小機械などを製造する技術のことをいう。乳酸菌が一・二マイクロメートル(一二〇〇ナノメートル)、ウイルス類が数十ナノメートルほどの大きさなのに対し、ナノテクの花形ナノチューブの直径が三ナノメートル、フラーレンというサッカーボール状炭素構造体にいたっては直径〇・七ナノメートルという小ささだ。原子や分子を操作して人工的にウイルス規模の構造物を造り、それらを素材に各種製品を生み出す技術がナノテクだと考えてもらってもよい。

一九五九年、物理学者リチャード・ファインマンがナノスケール領域の未知の可能性に言及、その十年後に物理学者江崎玲於奈がナノサイズの超格子を発案すると、ナノ領域の研究は一躍脚光を浴びるようになった。そして、一九七四年、日本人研究者谷口紀男は国際生産技術会議において「ナノテクノロジー」という用語とその概念を提唱した。一九八一年、ゲラルド・ビニッヒらによって伝導体物質表面の個々の原子を観察できるSTM(走査トンネル顕微鏡)が開発されるとナノテク研究はいっきに加速、このSTMを用いたハロルド・クロトーは、一九八四年、炭素原子六十個からなるサッカーボール様構造の特異分子フラーレンを発見した。さらに一九八六年、ゲラルド・ビニッヒが伝導体以外の物質の原子配列観察も可能なAFM(原子間力顕微鏡)を発明すると、STMやAFMを駆使した名城大教授飯島澄男は、多数の炭素原子が平面状に並ぶ構造のグラファイトシートをまるめ、髪の毛の直径の一万分の一という細さのカーボンナノチューブを生成することに成功した。また、長円錐形の先端をまるくした構造のカーボンナノホーンをも造りだした。

ナノテク研究は花盛り

飯島の成功からほどなく、フラーレン、ナノチューブ、ナノホーンなどの類似構造体は、窒素、ホウ素、二酸化チタン、シリカなどでも生成可能なことが判明、また、ナノテクによる各種ナノ結晶の開発が進み、それらナノ構造体の多方面にわたる応用研究が始まった。米国は国家戦略としてナノテクの先端研究を開始し、日本も文部科学省がナノテクノロジー総合支援プロジェクトセンターを発足させて研究促進をはかり、欧州や東アジアの先進各国も諸々のナノテク関連技術や特許で先行する日米両国を激しく追い上げている。各国とも多額の投資をおこないナノテク開発に余念がない。日独間にはトップレベルの研究者の交流を通じナノテクの共同研究を促進する動きなどもある。

米国はナノテクの将来的な目標として、連邦議会図書館の全蔵書の情報量に相当する十テラ(兆)ビットの情報を角砂糖大のスペースに収録できる素子の開発・現在最速のスパコンで数十億年かかる演算を数分で処理できる量子ドット使用の量子コンピュータの開発・癌細胞や病因遺伝子を数個程度のレベルで検出、人工のナノマシンに薬を載せて血管中を自走させ患部のみに投薬するシステムの実現といったようなことを掲げている。そのほか、脳の隅々まで挿入できるナノカテーテルの開発、ダイヤモンドよりも硬い素材の生成、ナノチューブダイオードやナノチューブ発光体の研究、光電池の実現につながるフォトニック素子の開発など、ナノテクの応用研究は多岐多様にわたっている。広汎な応用が期待される強靭で透明なカーボンナノチューブ・シートは既に開発され、高密記憶素子や省電力高輝度ディスプレイ、低コスト高効率太陽電池、水素貯蔵装置、各種産業用新素材などの開発も具体化の段階にはいっている。

ナノテクの隠しもつ危険性

国内ではいまアスベスト公害が大問題になっているが、肺に吸い込まれるアスベスト繊維でとくに有害度が高いのは、直径一ミクロン(〇・〇〇一ミリメートル)以下、長さが八ミクロン(〇・〇〇八ミリメートル)以上の繊維だといわれる。だが、ナノ粒子やナノチューブはそんなアスベスト繊維の千分の一サイズレベルの極微小物質なのである。極度の微小さのゆえもあってか、安全性が不問にされてきたナノ物質だが、最近その危険性を指摘する声が各方面から上がり始めた。たとえば毒物学専門のノースカロライナ州立大学教授ナンシー・A・モンテイロ=リビエールは、今年三月の専門誌掲載論文でカーボンナノチューブが体内に大量摂取された場合、皮膚細胞に浸透し炎症を起こす可能性があることを指摘した。同教授は、バイオマーカーとして使われている量子ドット、MRIの造影剤や薬物送達システム用に開発されたフラーレンについても現在安全性の検証を進めている。

また、ミシガン大学のマーク・バナザック・ホール教授は、樹木状のナノ構造をもつ薬物送達用人工分子デンドリマーが細胞膜に穴を開け細胞を透過してしまうことを発見した。同じく三月には、南メソジスト大学のエバ・オーバードースター博士が、フラーレンを混入した水槽にオオクチバス九尾を入れて観察し、フラーレンを吸い込んで四八時間経ったオオクチバスの脳にかなりの損傷が生じることを確認したとの報告を公表した。さらに最新の研究では、カーボンナノチューブを吸い込んだ動物は肺に損傷を受けること、ナノ粒子は脳に入りこんだりするほか細胞壁を透過してDNAのある細胞核にまで侵入しうること、二酸化チタンのナノ粒子は有益なバクテリア類を殺す可能性があることなども明らかにされた。既に、汚れにくいナノ素材の衣料品、二酸化チタンなどのナノ粒子を使った日焼け止めクリームや化粧品、フラーレンでつくられたボウリングボール「ナノデス」などの製品を生産している米国のナノテク業界はその発表に震えあがった。欧米の大手保険会社などはナノテクのもつ危険性に神経を尖らせ始めてもいる。そのため、米国政府は来年度には四百億円を超える費用を投じ、ナノテクが健康と環境に与える影響の研究を進めると発表した。ナノ化粧品を発売している日本化粧品工業連合会がこの九月に独自の安全性試験をおこなうことを決めたのも、米国でのそんな動きに影響されてのことである。

イギリスでは科学者、技術者、倫理学者などで構成される専門家チームが、政府からの依頼を受けナノテクの危険性についての報告書を作成した。その中では、ナノ粒子やナノチューブが無数に浮遊し、肺や皮膚から体内に入って身体を損ねたり、自然界に蓄積されて環境を汚染する危険性が警告されている。そして、最も危険度が高いのはナノ素材を含む製品の製造工程に関わる人々だと指摘されている。自然界には無数のナノ粒子が浮遊しているが人類はそれらに適応して生きてきた。だが、人工的につくられたナノ粒子がリスクを含めてどのような特性をもつかは不明であり、その解明や検証は技術的にきわめて難しい。その研究を促進するにはスーパーSTEMという一オングストローム(十分の一ナノメートル)レベルの解像度をもつ電子顕微鏡が不可欠だというが、そのような顕微鏡は現在英国に一台、アメリカに二台しか存在しない。その設置には雨粒によって生じる振動すら遮断する特殊構造の建物が必要だというから、地震国で地盤の不安定な日本ではスーパーSTEMの導入は困難だ。それでなくても安全軽視の風潮の濃い我が国のことだから、アスベスト公害の二の舞がすくなからず危惧されてならないところである。

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