執筆活動の一部

14. 携帯電話監視ソフトの恐怖

児童誘拐殺人事件などの頻発に因する過剰なまでの安全志向や安全対策の広まりもあって、世は急速に相互監視社会、さらには集団監視社会へと移行しようとしている。そんな社会の流れの中にあって近年大きな役割を果たしつつあるのは、ほかならぬ携帯電話だ。親がリアルタイムで子供の現在位置を確認監視できるGPSシステム付き携帯電話などは、時流に乗った各社の巧みな販売戦略も功を奏し、いまでは飛ぶような勢いで売れているという。以前は生徒による校内への携帯電話持ち込みを規制していた学校当局も、いまではほとんどが黙認するようになっているありさまだ。しかしながら、何事にもおのずから限度というものは存在する。自分以外の者の言動の一部始終を極秘裏に知りたいと思うのは人間の悲しい性(さが)というものだが、技術の進歩や社会の風潮をいいことにその性(さが)が昂じると、とんでもないことになってくる。いま海外の一部メーカーの携帯電話などで問題となっている出来事などはその象徴的な事例だろう。

誰もが監視される

フィンランドのセキュリティー専門会社F-SECURE社は、先月末、フレクシスパイ(Flexispy)という特殊な携帯電話監視用ソフトの存在を明かにするとともに、それをトロイの木馬型のウイルスに該当するものだと認定し各方面に警告を行なった。タイの企業の開発したこの特殊なソフトは五〇ドルほどの価格ですでに市販されており、国際的には大きなシェアをもつフィンランドのNOKIA社製携帯電話などに密かに組み込んで使用される。

夫が妻に、妻が夫に、両親が子供に、さらにはまた恋人同士がその相手にといったように、自分が監視したいと思う特定の人物の携帯電話に用途を偽るなどして巧みに、あるいは極秘のうちにこの「フレクシスパイ」をインストールする。インストール用の手引書には、そのソフトが携帯に組み込まれると自分の通話が監視されることになるなどの説明はいっさい付いていないから、用途を偽わって相手の携帯にインストールしても本来の意図に気づかれることはほとんどない。しかも、このソフトはインストール後もコンピュータウイルス同様に姿を隠したままなので発見が困難だし、携帯電話の持ち主がたとえその存在に気づいたとしても完全に除去するのは容易でない。

フレクシスパイはシンビアンOSの搭載機種向けソフトなので、目下のところ日本国内の大多数の携帯電話には直接に影響はない。しかし、基本OSの異なる携帯電話に対応するその種のソフトの開発が技術的に可能なことは言うまでもない。したがって、特別な規制やセキュリティー上の万全な対応策が講じられないかぎり、国内に流通する携帯機種用にそのようなソフトが登場するのは時間の問題と考えられる。

F-SECURE社は自社開発のウイルス対策用ソフトにおいてフレクシスパイをトロイの木馬の一種として対応処理することにし、とくに「Flexispy.A」と命名した。同社は最近NOKIA製の携帯電話の場合を事例にウエッブ上でフレクシスパイ削除マニュアルを公開しているが、その削除処理は一般人にとってはかなり面倒なことのようだし、対応を誤ると削除の過程で過去の重要記録データなどが消失したりするおそれもあったりするようだ。

フレクシスパイの組み込まれた携帯電話で通信を行なうと、その音声データやメールデータ、通信時刻、通信相手の電話番号、メールアドレス、ハンドルネームなどが自動的に同ソフトの開発企業運営のサーバーに送信され、そこのサイト上に記録される。通信内容を監視したいと思う者はあとでそのウエッブサイトにアクセスし、その通信記録を閲覧すればよいというわけなのだ。夫や妻の不倫の証拠を掴んだり、恋人の浮気の相手を突きとめたり、子供の行動を監視したりできるということでヨーロッパなどでは急速に売り込みが進んでいるようだ。目下のところ、このフレクシスパイは違法ソフトとして法的な規制はなされていないようで、タイのその企業はポケットPC用のソフトをも開発、近々発売に乗り出す予定であるという。最近急速に開発が進んでいる新たな無線データ伝送方式「ブルートゥース」による携帯電話へのフレクシスパイ・インストールも技術的にはすでに可能になっている。

携帯電話の機能向上に伴ってその搭載ソフトが複雑化し、また内蔵素子類が大容量化するため、ますますこの種のソフトの悪用は容易になってきているという。従来のコンピュータ・ウイルス同様に、メールや映像データの送信、各種ウエッブサイトへのアクセスを介して秘密裏にこの監視ソフトを特定の人物の携帯電話に送り込むことも、さらには不特定多数の携帯へ送り込むことも早晩可能になるだろう。このソフトがきわめて罪つくりなのは、介在するサーバーなどを通じて、その携帯の持ち主と関わりのある人物すべての情報が第三者へと漏れてしまうことである。

監視社会到来の不気味さ

夫婦や家族、あるいは恋人同士が互いの言動を監視し合うくらいならまだよいが、この種のソフトが進化すれば、将来的にはそんなものではすまなくなってしまうに違いない。いずれはソフト開発企業のサーバーを通してばかりではなく、任意のサーバーやパソコンで、さらには監視者自身の携帯電話で、狙いとする人物の携帯電話通信データを直接受信し監視できるようにもなるだろう。待機中の状態になっている特定の携帯電話を遠隔操作によってコール音なしで密かに送信モードに切り替え、その携帯の持ち主の会話を盗聴したり、周辺の様子の一部を盗視したり、メモリー中の重要諸情報を盗み取ったりするソフトなどが開発されるのも時間の問題と思われる。そうなると、友人知人、職場の上司部下、先輩後輩、教師と生徒の間など、あらゆる社会関係において人は皆絶え間なく疑心暗鬼の状態にさらされるようになり、その結果極度の人間相互不信に陥ってしまうことだろう。さらにまた、国家権力などによる秘密裏の指令に基づき、高度化したこの種のソフトを製造段階からすべての携帯機種に組み込んでおくようなことにでもなれば、警察その他の国家機関は必要に応じ任意の人物の通信内容や諸言動、現在の位置動向などを随時監視把握することもできる。いま問題になっている共謀罪法案などが可決されれば、極秘裏に監視ソフトの組み込まれた携帯電話などの通信機器は同罪容疑者を摘発する捜査当局にとってきわめて都合のよいツールともなる。

新聞社や放送局をはじめとする各種メディアの記者たちは、秘密裏にこの種のソフトを用いれば特種をスクープできるかもしれないが、逆に、知らぬ間にその取材活動の一部始終を監視され、追い詰められることにもなるだろう。取材源の秘匿などおよそ不可能になるからだ。

直接間接に携帯電話を用いた各種決済が頻繁におこなわれるようになってきているが、フレクシスパイの発展バージョンなどを駆使すれば、金融機関その他についての重要な個人情報を盗み出すことも難しくはない。皮肉なことだが、未来の携帯電話社会は、何の秘密を持つこともできない「プライバシー無用の社会」になってしまうのかもしれない。秘密のない社会は明るい社会だなどと言われてはいるが、そんなにも丸裸の社会が到来したら、いったい我々はどうやって生きていけばよいのだろうか。唯一の解決策は通信機器類をいっさい持たぬこと、ひいてはこの世のすべての通信機器類をなくしてしまうことだという本末転倒した珍妙な事態になってしまわなければよいのだが……。

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