執筆活動の一部

42. 取り残される日本の「スパコン」

文部科学省と理化学研究所は、富士通、NEC、日立製作所と連携し、次世代スパコンの開発計画を進めてきた。二〇一二年完成を目指すこの次世代スパコンは総合科学技術会議で国家基幹技術にも指定され、その開発も順調に進んでいるものと思われた。だが、最近、NECと日立とは同スパコンの製造段階以降の作業から撤退すると表明した。予算総額一一五四億円の国家基幹事業であることからすると、このような事態は異例であり、我国の科学技術の発展に及ぼす影響も少なくない。事業撤退の原因は国際的経済不況に伴う両社の経営悪化にあるという。NECは三千億、日立は七千九百億円の赤字だとのことだが、一定金額の見返りが保証されている重要な国家基幹技術開発、しかも世界最先端を狙う超高性能のスパコン・プロジェクトからの撤退となると、それだけの理由では説明がつかない。

このプロジェクトを継続するとNECには百数十億円の負担が生じるというが、「国家御用達」事業にも拘らずなぜそのようなことになるのだろう。かつて世界一の演算速度と実効性能を誇った海洋研究開発機構のスパコン「地球シミュレータ」を開発したのはNECだ。今ではその評価が世界ランク数十位に下がったこのスパコンの後継機が、神戸ポートアイランドに建設中の次世代スパコンである。同機により毎秒一京回の演算速度を達成し世界一の座を奪還するとともに、その能力を駆使し先端科学研究の飛躍的促進を図る計画だった。その推進役のNECと日立とがプロジェクト離脱を決めた背景には、経済的理由のほか、克服困難な技術的問題や人的資源の枯渇といった深刻な事態が隠されているふしがある。

次世代スパコンは片肺飛行

次世代スパコンでは、世界最高水準の実効性能(アプリケーション性能)実現を狙うと同時に国内のスパコン開発能力の維持を図るべく、スカラー計算機部とベクトル計算機部からなるスカラー・ベクトル複合システムが採用された。数量計算を主務とする汎用のスカラー機部は、データを細かい単位で順次処理する数値演算用プロセッサーを多数連結した中央演算処理装置(CPU)で構成され、ナノデバイスの構造解析、遺伝子や蛋白質データの解析収集、化学物質や素粒子の解明などに伴う精緻なデータの逐次計算処理に適している。このスカラー機部開発担当の富士通のみは事業継続を表明、CPU部に最新汎用マルチコアプロセッサーを導入し、世界最高レベルの高性能化・省電力化を実現する方針のようだ。

いっぽうのベクトル機部は、多要素の大量データを一度にしかも連続的に処理できるベクトル演算プロセッサーを集積した中央演算処理装置から成っている。このベクトル機部は学術研究専用のシステムで、地球規模での大気や海洋の大循環の解析、地質構造や地震メカニズムの解明、宇宙科学の研究、複雑な流体の解析などに適している。このベクトル機部の開発担当がNECと日立だった。地球科学や複雑系科学の研究に寄与した「地球シミュレータ」はベクトル計算機のスパコンだが、そのベクトル演算処理装置を開発したNECの撤退により、次世代機は富士通担当のスカラー計算機のみのスパコンとなる。その結果、ベクトル機が得意とする演算処理領域での実効性能は大きく下落し、大規模科学や複雑系科学の研究には暗雲が漂いかねない。理研次世代スパコン開発実施本部は、システム構成の見直しは必要だが、二〇一二年の「京速計算機」完成は可能だとしている。だが、片肺飛行を余儀なくされたスカラー機スパコンで一時的に演算速度世界一の座を奪還してみても、そのことに大した意味はない。無単位・無次元の数量計算が主務のスカラー機のみで、有単位・多次元の科学データを迅速かつ有機的に処理する「総合的実効性能」で世界のスパコン界に君臨するなど不可能なのだ。スカラー演算もベクトル演算も所詮同じ計算だからスカラー機だけで十分だと主張する専門家もいるが、それは暴論だ。ベクトル機なら数行ですむコーディングに何倍あるいは何十倍もの行数と手間を要する非効率な結果に繋がるからだ。

業界筋には「NECや日立の撤退は、既存の高性能機を複数並列稼働させて処理作業をシェアさせ、サーバーで結果を統括すればスパコンに依存しなくてもすむようになったからだ」というもっともらしい見方が流れている。データ解析が一定レベルの範囲に留まる科学研究や、国防・国政レベルの情報処理が目的なら当面それでも間に合うだろう。だが、複雑系の大規模未来科学研究などをその種のシステムで行うのは事実上不可能だ。関連機器全体の煩雑な管理調整だけでも研究者は大変な労力を強いられ、本来の研究が円滑に進められなくなってしまうからだ。

日本のIT技術力低下は深刻

従来のベクトル機はその素子機能と集積回路の構造上、消費電力も発熱量も甚大で、「地球シミュレータ」でも年間維持費五十億円と極めて不経済であった。そのため、世界の次世代スパコン開発では、スカラー機とベクトル機の連結をやめ、スカラー・ベクトル両演算機能をもつハイブリッド素子やハイブリッドCPUを開発し、実効性能の向上と小型化、省エネ化、低価格化を図ることが主流となる。Intel社やAMD社は既に高性能ハイブリッドCPUを開発中だ。半導体事業不振のNECなどは、CPU開発の巨額経費削減のため、将来のハイブリッドスパコン事業ではそれら海外企業のCPU採用に踏み切る可能性もある。

世界の半導体業界は、ナノテク技術の登場で「ペンティアム」の五百分の一サイズの高速チップやハイブリッドチップの開発競争に突入した。だが、深刻な技術者不足に悩む日本のIT企業には、経営面のみならず技術的にも余力がない。最新の多機能チップや超高速CPUに組み込まれる高度な演算アルゴリズムの構築、制御機能のコーディング、ナノ回路設計等には国家戦略下で育成された天才的頭脳が不可欠だ。インドや中国出身者を多数含む若手人材が欧米では活躍中だが、付け焼刃の国家戦略しかなく科学教育が崩壊寸前の日本では有能な人材は払底しつつある。国内半導体企業では先進IT国家を目指す中国への頭脳流出も起こっている。革新的な技術力を要するベクトル機からのNECと日立の撤退は、そのような裏事情あってのことなのだ。このままだと、日本人にとって先端チップやCPUはブラックボックス化してしまう。内在する巧妙なコードや高度なアルゴリズムの意味や機能が理解すらできなくなったら、日進月歩のIT界での再起は絶望的となり、我々は基幹技術をもつ他国に隷属するしかない。根源的な思考をしなくなった我々には実際その危機が迫っている。次世代スパコンが国家基幹技術だというのなら、文科省や理研は本末顛倒の安易な収拾策をやめ、今一度徹底的にIT国家戦略を立て直し、世界の趨勢に立ち向かっていくべきだ。そのために要する経費などを惜しんでおられる段階ではない。

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