自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 39 (伊豆半島石廊崎)

語れども言葉通はず我が住める
この地はつひに異邦となりしか

(伊豆半島石廊崎)

絵・渡辺 淳

言うまでもないことだが、文字通りの意味で「自分の話す言葉が通じない」と驚き嘆いてこの歌を詠んだわけではない。ふとしたことから、若い時代に夢中になって読み耽ったフランスの作家アルベール・カミユの小説「異邦人」の主人公ムルソーの姿を突然想い浮かべ、彼の受けた社会からの疎外感の深さにその折の自分の心情をそれとなく重ね見たからだった。

もっとも、私はただ単に好奇心の赴くままに旅をしていただけだから、自分の味わったささやかな疎外感などは、小説の主人公ムルソーが感じたであろう日常社会からの絶望的な疎外感や、殺人のかどで死刑を宣告され、死刑執行を前に教誨師との間で神の不条理さについて不毛な対話を交すラストシーンでの深刻な隔絶感とはまるでレベルが違っている。ただ、「言葉が通じなくなった」、よりわかりやすく言えば、「自分の価値観や美観が現代日本社会のそれとは相容れなくなった」と感じた点ではどことなく類似したところがあった。そのために、ながらく記憶の古層の中で眠っていた「異邦」あるいは「異邦人」という言葉が突如甦ってきたのだった。

この日私は久々に伊豆半島先端の石廊崎を訪ねていた。西寄りの強風の吹きまくる日のことだったが空は雲ひとつなく晴れわたっていたので、石廊崎の突端に立てば素晴らしい夕陽が見られるだろうと思ったのだった。午後五時十五分頃に岬の先端へと続く尾根上の広い公営駐車場に着いたのだが、かつては賑いをみせていたその駐車場に車の影は皆無だった。しかも、駐車場入口には五時三十分をもってゲートを閉鎖する旨の注意書きが掲示されていた。この無料駐車場から石廊崎の先端まで往復するには急ぎ足でも三十分はかかる。晩冬のことで日没時刻は午後五時四十五分前後だったから、夕陽が沈むのを眺めてから駐車場に戻ったのでは車が出られなくなるのは必然だった。

やむをえないので、すこし離れたところにある国道の路肩に車を駐め、本来の駐車場を抜けて岬のほうへと歩き出した。安全管理上の問題や管理担当者の勤務時間の都合でいつのまにかこういうことになったのだろうが、これではまるで、「石廊崎では夕陽は見るな! 石廊崎では月の出を見るな! 石廊崎では星空は見るな! 石廊崎で満月の光に輝く海などは見るな!」と言っているに等しかった。「石廊崎の観光は明るいうちにやるもので、安全上もなにかと問題のある日没時や日没後にこんなところを訪れるのは変り者のやることだ」という声が私の耳にどこからともなく響いてくる感じだった。

明るい陽光のもとで目にする景色だけが大自然の美しさを伝えるものだとはかぎらない。夕陽のもとで見つめる自然も、月光のもとで眺める自然も、ほのやかに星明かりのなかに浮かぶ自然も、そして闇の奥に眠る自然も、美しさという意味ではみな同等なはずである。しかも、成長期にある子供らが将来にそなえて自然のなんたるかを学び、彼らの心の中にのちのちの自然観や人生観の根幹となる原風景を形成するのは、むしろ後者のような状況下での自然体験が不可欠なのだ。すくなくとも私はこれまでそう信じ通してきた。九州の離島育ちの私などは、「闇を砥石にしておのれの感性を磨き上げた」といってもよいくらいだった。過剰な安全思想や度を超した保護政策は人間本来の能力というものを損ないこそすれ、それを高めることは絶対にないと、私は考え続けてきた。

もうずいぶん昔のことだが、日没前後の時間帯や深夜などに、当時まだ幼稚園児や小学生だった息子や娘をこの石廊崎周辺によく連れてきたものだった。そして、幼かった彼らに、夕陽を見せたり、満月を眺めさせたり、星空を仰がせたり、懐中電灯を頼りに夜の岩場や波の打ち寄せる荒磯を歩かせたりしたものだ。昨今の風潮からするならば、そんな危ないことをするなんて非常識きわまりないということにもなるのだろうが、子供たちはそんな小さな冒険を結構楽しんでいたようだった。

懐かしい日々の回想しながら岬の先端へと向かう私の胸中は複雑だった。この石廊崎と同様に、安全管理が十分できないという理由だけで探訪時間が日中だけに制限されるようになった自然公園や自然探索路が増えてきているのを私は熟知していたからだった。よくよく考えてみると、そのような状況は本質的な人間の成長や自立にとって憂うべきことのはずだった。自らの不注意でなにか事故が起こったりしたときでも、自己責任をとらず、すべてを社会制度や教育システムのせいにする昨今の大人たちの態度が、結果的に過剰な「安全性絶対視」の現状を生みもたらすことになったのだろうが、長期的にみた場合、そういった考え方が将来の社会にとってほんとうにプラスとなるだろうとはとても考えられなかった。

駐車場を抜けてしばらく歩くと、見覚えのある長大な半円筒状の建物のそばに出た。かつては「ジャングル・パーク」として各種の熱帯植物や熱帯種の動物類を見学したり観察したりすることのできる石廊崎名物の施設だった。だが、無残に荒れ果てたその建物の入口付近には「当園は閉園しました」と記された小さな看板が掛かっていて、カランカランと空しく風に鳴っていた。長々と続くその建物にそって石廊崎の突端方向へと歩きながら、あちこちの壁の破れ目などからその中を覗くと、手入れもされぬまま放置された熱帯植物類をはじめとしその内部は悲惨きわまりない状態になっていた。バブルがはじけて以降、観光客が激減してジャングル・パークの運営会社が倒産、廃園となった施設そのものを解体撤去する費用もないままに放置されこのようなことになってしまったのだろう。これだけの規模のものを解体処理するとなると、おそらくは何百万円、何千万円と費用がかかるだろうから、荒廃した施設の完全除去は容易なことではないのだろう。

このジャングル・パークには、ずいぶん昔に子供らを連れて二、三度入園したことがあり、その時はそれなりにもの珍しくも面白くも感じはしたが、そのいっぽうで私のなかには、「なんでこの自然の景観に恵まれた石廊崎に……」という思もあった。結局のところ、一時的な経済力にものをいわせただけの理念もなにもない似非自然教育の化けの皮が剥げ、そのつけがまわってきたということだったのだろう。意外だったのは、ジャングル・パークばかりでなく岬へと向かう途中のお店もみな廃店となり、無様な様相を呈していることだった。石廊崎の素晴らしい自然の景観そのものに魅せられてやってくる人々だってまだまだすくなくはないだろうに、以前だったら考えられないこの廃れ様はいったいどうしたことなのだろう?――予想外の光景を目の当たりにした私の脳裏を一瞬そんな疑問がよぎった。

もちろん、少子化が進み、わざわざ石廊崎のようなところを訪ねる家族連れがすくなくなったことや、海外旅行ブームで国内の観光地を訪ねる人が激減したということなどもあったのだろうが、それだけではなお説明がつかないような気がしてならなかった。いろいろと想像をめぐらすうちに、私はふと思った。詰まるところ、これもまた、幼少期や青少年期における本物の自然教育や自然体験の欠如のゆえに、現代の中年層や若年層の多くが自然美に感動したり自然の妙や自然の驚異を楽しんだりする能力、さらには自然そのものへの適応能力を失ってしまった結果ではないのだろうかと……。

そんなとりとめもない想いに耽りながら灯台の脇を抜け、ほどなく石廊崎の突端に立ったのだが、幸い、その一帯は昔のままの景観をとどめていた。西風が猛烈に吹きまくり、周辺の岩などに掴らず立ったままでいると風圧で身体がぐらつくほどだったが、散在する付近の大岩礁にズズーンとぶつかり砕け散る激浪の純白の飛沫が眼下の海面を霧のように覆っていた。太陽は水平線に向かって大きく傾き、西の空は息を呑むような茜色に染まっていた。西の水平線上にはまったく雲がかかっていなかったので、久々に素晴らしい落日を見ることができそうだった。

太平洋側にあって、石廊崎は水平線の向こうに沈む夕陽が見られる数少ない場所のひとつである。日本海側なら水平線に沈む夕陽が見られるところはいくらでもあるのだが、地理的な理由から太平洋側ではそのような場所はほとんどない。この日の太陽はそんなこちらの期待に応えでもしてくれるかのように、刻々と真紅の輝きを増しながらゆっくりと水平線の向こうに姿を隠していき、その周辺の空は凄絶なまでに赤々と燃え立っていた。

太陽が沈むと西寄りの空で三日月が青く鋭い輝きを見せはじめ、ほぼそれと時を同じくして宵の明星が澄んだ光を放ちだした。そして、折からの風に乗って轟々と響き渡る潮鳴りが、切り立った岬の岩上に立つ私の身体の奥深くまで沁み伝わってきた。原風景――そう、幼い時代に自らの心の底に刻み込まれた記憶の底の風景が、「時代錯誤」とか「老いの冷や水」とか嘲笑われても仕方のないような愚行の果てに、この石廊崎の光景と二重映しになって胸中に甦ってきたのだった。それがどれほど意味をもつのかはともかくとして、この歳になってもこんな馬鹿げたことをやりながら大自然の光景を味わい楽しむことができるのは、「教育」された結果、すなわち「教え育てられた」おかげというよりは、「学育」の結果、すなわち自ら「学び育つた」ことのおかげなのではなかろうかと思うのだった。

だが、なんとも皮肉なことに、そこまで思いを深めた次の瞬間、ハッとして私は再び現実に引き戻された。土曜や日曜の晴れた日の夕刻ともなると、かつての石廊崎一帯は季節を問わず家族連れや若いアベック、さらには老若男女の旅人の群で賑ったものだった。それなのに、休日のこの日、岬に立つのは私ただ一人だった。皆いったいどこへ行ってしまったのだろう?、いくらなんでもほかに一人や二人はこの夕景を楽しむ者があってもよさそうなものなのに――そう考えかけた時、「もうお前は異邦人になってしまったんだよ!」という声がどこからともなく響いてきた。その声は、嘲るようにさらに言った。「お前が自然の美しさをどんなに歌に詠んでみたって、孤独な旅の情景を筆にしたためてみたって、そんなものにはもう誰も共感なんかしないのさ。所詮、お前の独り善がりなのよ。古き良き日のノスタルジアやセンチメンタリズムなんか、もうこの時代には通用しないのさ」と……。その突き放すような声に半ば説得されながらも、なお私は反論を試みた。

「それはそうかもしれなけど、じゃ、『言葉の力を育てよう』とか、『国や郷土を愛する心を育てよう』などといった教育理念を熱心に唱える昨今の政治家たちは、いったいどういうつもりでそんなことを言ってるんだろう?」
「そんなものは連中に都合のよいだけのレトリックにすぎないのさ。言葉に無神経で、日本の自然や文化になんかにもともと関心なんかないあいつらに、真の意味での愛国心や郷土愛の精神などあるわけないだろうさ。『身を捨つるほどの祖国はありや』って遠の昔に寺山修司も詠んだだろう?……、まあ、いまの時代というものはどっちみちそんなものよ。時代遅れの用無し君!」

その声は悪意に満ちて冷ややかではあったが、それでいて妙に説得力が秘められているようにも感じられた。その日の石廊崎の情景をいつものように拙ない歌に詠んでみようかと思いかけていた私は、なんとも空しい気分になってしばしその場に佇んだままだった。そして、そんな私の胸中をカミユの「異邦人」の主人公ムルソーの影が突然よぎっていったのだった。

すっかり暗くなった夜道を車のあるところへと引き返しながら、私は、石廊崎とは直接には関係のない最近のちょっとした出来事を想い浮かべた。ある山村地方に取材を兼ねた旅に出かけた時のこと、私は車を停め外に出て、周辺の状況についてメモを書きとめたり、何枚かの風景写真を撮ったりしていた。そこを、学校帰りと思われる小学生たちが三々五々通りかかった。ところが、その小学生たちは私の立つ場所から二十メートル前後の距離のところまで近づくと、皆が申し合わせでもしていたかのように突然駆け出し、私と車とを遠巻きにするようにして大急ぎで走り抜け、しばらくするとまた何事もなかったかのように歩き去っていくのだった。最初はどうしてなのかと戸惑ったが、各地での学童誘拐事件勃発をうけ、見知らぬ人物や車を見かけたら絶対に近寄らないようにという徹底指導が田舎の学校にまで行き渡っているせいだろうとすぐに納得したのだった。そして、それからというもの、旅先のいたるところでそような状況に遭遇するようになった。

旅先でその地方の小中学生に道を尋ねたり、それがきっかけでいろいろと話し込んだり、手紙のやりとりをしたりするようなことが以前にはよくあった。しかし、もうそんなことはお互いできなくなってしまったし、それどころか子供たちは学校の行き帰りに道草を含む小さな冒険さえもできなくなってきた。我が子の一挙一動をどこまでも監視しなければ気がすまない親たちも激増している。安全優先の社会の中で守りに守られて育つ現代の子供たちの行く末はいったいどのようなことになるのだろう。広大な、しかし、空っぽの石廊崎駐車場を利用することはできず、やむなく路肩に駐めた車へと戻る「異邦人」の心は無性に重くそして侘しかった。

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