自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 37 (奥会津桧枝岐にて)

白狂ふ魔性の笛の呼び鳴りに
凍てる桧枝の夜を戦ふ

(奥会津桧枝岐にて)

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

この歌を詠んだのは昭和五十年の冬のことである。当時はまだ三十三歳だったので、私の体力や気力はそれなりには充実していた。だが、その時代の同年齢の者たちが皆そうであったように、公私にわたる激務や苦悩少なからぬ私的生活に因するストレスを溜め込み、ともすると心身のバランスを崩しがちではあった。ささやかながらも専門研究の道を歩んでいたこともあって、身のほど知らずにも、おのれの能力に余るようなテーマを前に必死に足掻き苦しんでいたし、折からのさまざまな離別に伴う心の痛みとも戦っているところだった。

そのため、一時的にでも日常生活の場を離れ冷静に自分を見つめ直したいと思った私は、冬の休暇を利用して一人会津の奥地へと旅立った。目指したのは、その時代まだ、「陸の秘境」などと呼ばれていた奥会津の桧枝岐(ひのえまた)だった。桧枝岐は東側の帝釈山地と西側の会津駒ケ岳連峰、さらには南奥の尾瀬燧ケ岳によって形成される深い谷奥に位置している。現代の広い舗装道路とは違い、細く険しいダートの山岳路しか通じていなかったその頃の桧枝岐は、深い峡谷の最奥に位置するうえにアプローチが容易ではなかったこともあって、夏場でも訪ねる人はきわめて少なかった。

のちに訪れたバブル経済の絶頂期には、突然巻き起こった民宿ブームなどで一時的に観光客で賑うことになったりもしたが、それ以前は文字通り「秘境」の名に相応しいところであった。沼山峠越えの尾瀬沼探訪裏ルートの基点として山仲間には知られていたが、会津若松を経由して桧枝岐までアクセスするには相当な時間を要するとあって、必然的にそのコースを選ぶ者の数はかぎられてもいた。

夏場でもそのような有様だったから、豪雪地帯としても名高い桧枝岐を厳冬期に訪なう旅人ということになると、かなりの物好きの部類に入れられても仕方のないことではあった。会津駒ケ岳から窓明山へと続く峻険な山稜の東側急斜面の足下を縫う隘路は、大雪崩に襲われることもすくなくなく、冬場には桧枝岐の集落が孤立することもしばしばだった。

しかも、私が桧枝岐へと出かけたその時期、奥会津一帯はその年いちばんの大雪に見舞われているところだった。絶間なく降りしきる雪の中を、会津若松から会津田島、館岩村、伊南村と抜けて、ようやく桧枝岐の集落に辿り着くことはできたが、予想していた以上に時間がかかり、すでにあたりはすっかり宵闇に包まれてしまっていた。

あらかじめ宿泊先の予約などもせずに突然やって来たようなわけだったので、まずはその夜の宿探しからはじまった。だが、厳冬期のそんな時刻に全身雪まみれになりながら、半ば休業状態の宿屋にお客が飛び込みでやってくるなど、先方にすればむろん想定外のこととあって、同情して泊めてくれた小さな民宿の主人もずいぶんと呆れ顔だった。

他には宿泊客などいなかったこともあって、赤々と薪の燃え立つ囲炉裏端で、有り合せのものだと恐縮そうに女将の差し出す遅い夕食をご馳走になったが、たとえ質素ではあっても心のこもったその食事は冷え切った身体の隅々までを温めてくれるには十分のものだった。食後にお茶を頂戴しながら、天井から下がる大きな自在鉤の周りに何気なく目を向けると、黒っぽい玩具のゴムトカゲを何匹も束ねたようなものがぶらさがっているのに気がついた。なんだろうと思って宿の主人に尋ねてみると、それは桧枝岐周辺の渓谷で捕れる小山椒魚の燻製なのだとのことだった。ずいぶんと栄養価もあり、桧枝岐一帯では古来一種の強精剤としても用いられてきたとの話でもあった。

「いきなりじゃお客さんがびっくりするだろうと思ってやめたんですけど、なんでしたら明朝にでも食べさせてあげましょうか?」と言って、その主人は悪戯っぽく笑いかけてきた。そして、さらに私をからかい驚かすようにこうも付け加えた。

「小山椒魚はね、生きたやつにちょっと酢醤油かワサビ醤油をつけてそのまま口に入れるのがいちばん美味い食べ方なんですよ。小山椒魚は暗くて狭いところへと向かう習性があるでしょう。だから、生きたままの奴を噛まないで口に入れると、咽口を掻き分け掻き分け奥へと進んでいくわけなんで、タイミングを見計ってごくりと飲み込んでしまうわけです。慣れるとその感触がこたえられませんでねえ……」
「はあ、そうなんですか……、桧枝岐には小山椒魚のそんな食べ方もあるんですか……」
目を白黒させながらそう答えると、主人はさらに念を押すかのように言った。

「でも、いまは真冬なので燻製しかありませんよ。残念ですがね……」
「いえ、はあ……、いまが真冬でほんとうによかったと思いますよ……」
私は苦笑しながらそう答えるのがやっとだった。

白銀一色の世界の中で命の洗濯をおこない、くすんだおのれの心を真っ白にしてしまえば、ストレスも払拭され再生のエネルギーも湧いてくるかもしれないと考えて私は桧枝岐へとやってきた。たまたまだ満月の夜にも当たっていたので、運がよければ煌々たる冬の月に照らし出された幻想的な光景でも目にすることができるのではとの思いもあった。だが、そんな期待はもうとっくに裏切られてしまっていた。しかも、その夜から桧枝岐一帯は稀に見る猛吹雪に襲われることになった。

夜が更けるにつれて、会津駒ケ岳方面から桧枝岐の谷底に向かって吹き降ろす雪まじりの風の音は一段と激しさを増した。ヒューウーッ、ヒューウーッウーッ、ビューウウウウーッと不気味な音をたてながら激しく吹き降ろしてくる風は、ある時には、まるで巨大な魔物の吐き出す白い息そのものであるかのようにも感じられた。そしてまた、ある時には、人間の魂を吸い寄せ狂わせるとかいう悪魔の角笛の響きにも思われてならなかった。現代とは異なり、個室全体をしっかりと暖めるような暖房器具や暖房施設など置かれていない時代のことだったから、部屋の中までがしんしんと冷え込み、吐く息も白くなる有様だった。ただ、幸いというか、炬燵だけは用意されていたから、敷布団の上にその炬燵をのせ、炬燵掛けのほかにも毛布や掛け布団などを二重三重にかぶせてその中に潜り込むように工夫した。ありったけの衣類も着込んだ。

ヒューウウウウ、ヒューウー、ヒュヒュッヒュー、ヒュウウウウーッ、ゴーッ、ゴゴゴゴーッ――地獄の底から響きわたるおどろおどろしい叫び声そのままの風の音は、強弱と高低を繰り返しながらいつ果てるともなく続いていた。そんな地吹雪の異様な物音を耳にしているうちに、私は、シューベルトの冬の旅に出てくる魔王の如き存在か、さもなければ日本の伝承民話に登場する雪女の如き存在が徐々にこちらへと近づいてきているかのような想像を廻らせさえもした。

ただ、私は、非日常的な出来事や現象を前にして怖れ尻込みするようなタイプの人間ではない。そのような事象に直面すると、むしろ自らその直中に飛び込んでいきたくなるようなタイプである。幼少期に田舎で育ち、深夜に独りで人魂探しに出かけたり、台風で荒れ狂う海やいまにも氾濫しそうな川を眺めたりするのが大好きという変な男の子でもあった。だから、大人になってからもその性癖が抜けることはなかった。

この夜も、猛吹雪の音を聞くうちに、胸中にむらむらとそんな想いが湧いてきた。そこで私は二階に位置する自分の部屋のカーテンを開き、頑丈な造りの窓越しに外の景色を眺めやった。部屋から漏れる明かりに照らされて、白い蛾の大群が激しく舞い飛びでもしているかのような光景が目にとまったが、それら無数の白い影の向こうには漆黒の闇が見え隠れするだけだった。風向きや風の強さが変ったりすると、まるで小さな玉か純白の砂粒みたいな細かい雪が窓一面に狂ったように叩きつけてくることもあった。そして、そんな外の様子を見つめやるうちに、もし唸り吼える吹雪の背後にそれを操る魔王や雪女がいるというのなら是非とも一目対面してみたいとものだという想いさえもしてくるのだった。

ちょっとだけ窓を開けて戸外の気配に直接触れてみようとすると、強烈な寒気がいっきに吹き込み、顔面に冷たい雪片や氷片が容赦なく打ちつけてきた。ある時は近くで、またある時は遠くのほうでヒューヒューと鳴り響く風の息吹の不気味さは相変わらずであったが、むしろ雪が小降りの間のほうが生霊の怨念のこもったようなその響きには激しさが増す感じだった。

結局、その夜、私は一睡もせずに夜が明けるまで地吹雪きの音を聞き続け、吹きつけてくるその白い息を折々窓越しに眺めやった。そして、そうしながら、解決しなければならいさまざまな懸案のことを考え続けた。魔王や雪女におのれの魂を売るかわりに、当面の問題を乗り切る能力と知恵を与えてもらえるなら、それも悪くはないかもしれないという思いも何度か脳裏をよぎりはした。しかし、幸いにというべきか、それとも不幸にもというべきか、その夜は魔王や雪女との直接の対面はならなかった。そのため魂は売り渡さずにすんだのだった。桧枝岐の吹雪きの夜を徹してのそんな精神の戦いの中でいくらかは心が洗い清められたらしく、白々と夜が明け始めた頃までには、まだ朧ながらもおのれの取るべき道が見えかけてきていた。

――一眠りして目覚めたら、宿の主に頼み込んであの小山椒魚の燻製とやらを食べさせてもらうのも悪くはないな……。人間逃げてばかりいたら何事も始まらないし、それにあの燻製、結構美味しいものなのかもしれないなあ。一見グロテスクにも感じられる山椒魚だけど、そもそも、人間なんて存在は山椒魚にしてみたらとんでもない化け物にしか見えないに違いない!――そんな想像が一瞬胸中に広がり、おのれの偏見をやんわりと消し鎮めた。

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