日本列島こころの旅路

(第44回)川の流れに想うこと(2014,03,15)

川の源流は青く澄んで美しい。清冽な水は細く浅いけれど激しい流れとなって急峻な谷間を一息にかけくだる。時折そんな源流域を訪ねてみると、長らく忘れていたものを思い出しハッとさせられることがある。人生という名の川の源流に近いあたりの澄みきった水流の記憶が懐かしく、また時にはちょっぴり恥ずかしく甦えってきたりもする。

しかしながら、海に近い川口の風景もまた捨て難い。流れ去った時間と大地の涙とをいっぱいに背負い溶かし込んでいるため、たしかに水は濁っている。最早そこには澄んだ輝きは存在しない。でも、それは広く悠然としていて、なによりも頼り甲斐がある。ある時は夕陽に映え、またある時は街の明りをそっと映し出すその水面(みなも)は、心の目で見つめるとかなしいまでに美しい。そこにはまた、紛れもなくひとつの安らぎが棲んでいる。そして、その向こうでは、もっともっと大きな海がじっとこちらに無言の視線を送っている。

川の流れのどのあたりにその時々の心の風景を求めるかは人それぞれに違うものだ。中流付近のたたずまいが今の自分にはふさわしいと思う人だっているだろう。社会という名の川だって、澄んだ水、濁った水、純白のシブキをたてる水、さらにはどす黒い水など、いろんな水が流れ合わさってできている。多分、澄んだ水も濁った水も、その一滴一滴の振舞いは、長大な川全体の姿からすると、そう賢くもないがそう愚かでもなく、そう清らかでもないが、忌み嫌われるほどには濁ってもいないのではなかろうか……。

人生という名の濁流にどっぷりと浸かりながら、河口へと渦巻き流れゆく凡庸このうえない身ではあるが、旅先にあってふと大川の水面(みなも)を眺めたりするときなど、よく思うことがある。人間には三つの象徴的な生き方があるのではないのだろうかと……。

一つ目は、悲喜交々な出来事の淀み渦巻く濁流を超然と見おろしながら、土手の上を川伝いに川下へと向かって独り黙々と歩き続けていく生き方だ。これは世において聖人・君子と呼ばれる人々のとる道で、偉大かつ崇高ではあるけれども、到底凡人には真似できない。

二つ目は、川面に舟を浮かべてそれに乗り、たまに水しぶきを浴びながらも自らは流れに直接身を沈めることもないままに、濁流の力を借りて川を下っていく生き方だ。実際には庶民によってしっかりと支えられているにもかかわらず、表向きには私利を捨て世の人々のために尽くしているかのように見える人々……すなわち、諸々の宗教家や学究一筋の研究者、人々の信頼厚い思想家などの取る道がこれで、やはりそれもまた凡人にはおよそ無縁だと言ってよい。たまに、濁流に揉まれた末に舟が転覆することもあるようだが、だからと言って、その隙を狙った不心得者が代わりにその船を立て直し、それに乗って川を下ろうとしてみても、そうそう事はうまく運んでくれはしない。

三つ目は、濁流そのものに身を任せ、自らが濁りそのもの要因となりながら、あるときは淀み、あるときは激しく奔(ほとばし)りつつ流れ下る生き方で、もちろん、これは、我々凡人の人生そのものだと言ってよい。我々多くの人間にとっては避けようのないその場任せの生き方なのだが、濁流に身を委ねるからといって、常に身体の奥深くまでが濁りっぱなし汚れっぱなしかというと、必ずしもそうとばかりは言い切れない。

昔は南九州の片田舎に住んでいたこともあって、大雨や台風の折などに轟々と音をたてながら濁流が渦巻き流れる光景を幾度となく目にしてきた。ある意味で、それは浄化作用をともなう実に荘厳な光景でもあった。土手をも抉(えぐ)る凄まじいエネルギーをもって川原に積もったゴミや芥を一気に押し流し、すべてを一掃してしまうその不思議な迫力は、当時の幼い心にはとても感動的に思われさえしたものだ。

さらにまた、そんな時など濁った水をおそるおそる掬(すく)い取って観察してみると、その中に様々な色や形をした無数の砂粒が含まれていたものだ。言うまでもなくそれらの砂粒が濁りの原因そのものだったわけなのだが、それら一粒一粒は意外なほどに艶やかな輝きを帯びていた。なかでも石英質の砂粒などは、どうしてこれが濁りのもとになるのだろうと首を傾げたくなるほどに美しく澄んだ光を発していたものだった。

どんなに川が濁り汚れようとも、濁りの原因である一粒一粒の砂粒はそれ以上輝きを失うことはない。それと同じように、人生の濁流を生きる愚かなこの身ではあっても、心の奥のごくささやかな一隅を、おのれの魂のほんの片隅を透明な色に保つくらいのことはできるのではないかという気はする。もちろん、一人ひとりの人が放つ微かな光の色は、それぞれに異なっていてもよいと思う。たとえ見かけはどんなに汚れていようとも、身体のどこかに光る砂粒を一粒隠しておきさえすれば、激流が渦巻く時には無数の他の砂粒と一緒になって、川そのものの浄化力ともなることができるのではなかろうか。

たまに先人の言葉の中にも見かける「渾斎(こんさい)」、すなわち、「濁りて澄める境地」とは、もしかしたらそのようなことを言うのではないかと思ったりもするこの頃である。

カテゴリー 日本列島こころの旅路. Bookmark the permalink.