日本列島こころの旅路

(第37回)日川(にっかわ)渓谷~甲斐武田家滅亡の地(その1)(2013,8,15)

中央高速道の下り路線を西に向かって走行し、笹子トンネルを通過するとすぐにカーブの多い急な下り坂に差しかかる。知る人ぞ知る日川渓谷は、その一帯の右手に迫る山岳地帯に位置している。山梨県甲州市の勝沼インターチェンジで高速を降り、国道20号を大月方面に向かって少しだけ戻るとその渓谷の入口に着く。渓谷沿いに大菩薩峠方面へとのびる道路やその奥の林道一帯は、変化に富んだ雄大な景観に恵まれ、歴史上の秘話・哀話にも彩られていて、しかも都心からの交通も至便である。だが、それにもかかわらず、一部の歴史愛好家をのぞいてその地を訪ねる人は少ない。史跡あり、温泉あり、美味なる蕎麦あり、素晴らしい山岳風景ありの景勝地なので、一度足を運んでみるふぁけの価値はあるだろう。

天正3(1575)年3月11日、武田勝頼は大菩薩嶺から南に向かって切れ落ちる深い渓谷の地・田野(現在の山梨県甲州市大和田野)にあって、わずかに生き残った一族郎党とともに西方の山の端に傾き近づく朧月(おぼろづき)を眺めやっていた。その朧な月影は、さながら滅亡間近な武田家の姿を映し物語っているかのようでもあった。自らの父、武田信玄によって滅ぼされた諏訪頼重の娘を母とし、長じて武田家を継いだ宿命の武将勝頼は、大月の岩殿城に向かう途中の田野の地で武運尽き果て、波瀾に満ちたその人生の終焉を迎えようとしていた。「朧なる月もほのかに雲かすみ晴れて行衛(ゆくゑ)の西の山の端」という辞世の句を残したと伝えられる37歳の勝頼の胸中はいかばかりではあったろうか。

――朧な月影は西の山の端に大きく近づき、ほどなくその姿を隠そうとしている。淡くほのかな光を放つあの朧月の有り様はまさに我が武田家の命運そのものであり、また一門最後の継承者である自らの儚い姿そのものにもほかならない。さきほどまで西方に聳える峰々を覆い隠していた雲や霞も晴れ渡り、その山並みの彼方の西空へと沈みゆく朧月だけが名残惜しそうに輝いてみえる。ほどなく隠れる月影はまた、数々の裏切りや権謀術数の渦巻く下克上の世に別れを告げ、この世の恩讐を超えた西方浄土へと旅立とうとしている自らの魂にも似ている。あの朧な月影のように、この魂の行く手を(まも)り固めるかのように聳え立つ峰々を越えて静寂な彼岸の地へと向かえば、もう織田軍の追撃の手も及び到ることはないであろう――自己流の解釈ではあるが、私にはその辞世の一首がそんなふうにも読み取れるのだった。

天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田軍に敗れた武田軍は、以後急速に衰えをみせるようになった。時流をいちはやく読み取り、勝頼に見切りをつけた重臣らの離反や謀叛が武田家滅亡の原因だったといわれるが、通説にみるように勝頼はほんとうに無能いっぽうの人物であったのだろうか。織田軍の勝利を決定づけたのが鉄砲主体の新戦術と信長のもつ強大な経済力であったのは確かだったのだろうが、勝頼やその家臣団とて鉄砲の威力や経済力の重要さを認識していなかったわけではあるまい。ただ、領地が海に面していなかった甲斐の武田家が鉄砲技術やそれに必要な火薬その他の多くの資材を迅速に入手することは困難だったろうし、国内外各地との交易で織田家並みの経済力をつけることも難しかったのであろう。つまるところ、地の利と時の運に恵まれなかったことが武田家衰亡の根本原因だったのではなかったろうか。

天正10年(1582年)3月、武田家重臣木曽義昌の織田方への内通を機に甲斐攻略に踏み切った織田・徳川連合軍は、武田方の穴山梅雪をも味方につけ10万余の軍勢をもっていっきに勝頼の本拠地新府城(現韮崎市)へと攻めのぼった。進退窮まった勝頼は家臣小山田信茂の進言受け容れて新府城を焼き払い、信茂の守る難攻不落の岩殿城(大月市賑岡町岩殿の中央道「岩殿トンネル」の真上に位置する峻険な岩殿城址は、現在でも中央道を走る車中から展望できる)に籠城して織田軍に抗しようと決断した。不穏な動きを察知した家臣真田昌幸は上田城に籠るように要請したが勝頼はその忠告に従わず、直属の手勢七百騎と一族郎党のみを率いて岩殿城へと向かい、笹子峠越えを前にした3月10日、勝沼の東の田野周辺に逗留した。

だが、すでに織田軍と内通していた小山田信茂はこの時点で謀叛の意を(あらわ)にし、笹子峠や大鹿峠など大月方面へと通じる主要な峠に兵を配して勝頼の進路を阻んだ。小山田の謀叛によって窮地に立ち至った勝頼一行は、田野から峻険な日川渓谷を遡上して天目山栖雲寺(せいうんじ)に入り、そこから大菩薩嶺を越えて多摩秩父方面に落ちのび、さらに上州へと抜けてその地で再起をはかろうと考えた。いっぽう、小山田信茂の進言によりあらかじめその動き察知していた織田軍は、信茂軍の先導のもと五千の兵を即刻天目山方面へと送り込んだ。それらの軍兵は大月・小菅方面から湯ノ沢峠や米背負峠などの難路を越えて日川渓谷本流から右手に分岐する大蔵沢一帯へと進出、同沢の下流域を経て天目山へと北上しようとする勝頼一行の前途に立ちはだかったのだった。

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