日本列島こころの旅路

第6回 青木ヶ原樹海での人間教育(その2)

私とKとはいったん車に戻るとUターンし、鳴沢氷穴へと向かった。江戸時代には将軍献上用の氷が切り出されていたとかいう氷穴だが、到着したのは午後七時頃だったので、あたりは暗く他に人影はなかった。駐車場で車から降りると、私は懐中電灯を手にして先に立ち、裏手の樹林帯へと続く小道に入った。むろん、その一帯は青木ヶ原樹海の中心部だった。樹林帯への入口には警告板が立てられていて、「大きな悩みごとがあってこの地に立ち入る人は、けっして命を粗末にするようなことなく、まずは下記のところへ相談の連絡をしてくれるように」という主旨の一文が表示され、その下に連絡先の電話番号が記してあった。それは、人生に絶望し自死を願ってこの地にやってくる者に、なんとかその行為を思いとどまらせようとする当局の窮余の策の一環だった。私がその警告板を照らし出すと、その警告文を一瞥したKは、何を思ったのか携帯電話を取り出しその写真を撮った。

「君、そんな写真を撮っていったいどうするつもりなんだい?」

「東京に帰ってから、友達に見せてやるんです。きっとみんな驚きますよ!」

「おいおい、青木ヶ原は怖いって怯えてるくせに、東京に戻ったら青木ヶ原探検をやってきたとかなんとか偉そうなことを言って自慢でもするつもりかい?」

私はそんなKの調子のよさを諌めながら、深い夜の闇に包まれた岩だらけの小道をどんどん奥へと進んでいった。そして、途中からわざと道を外すと、樹林帯の藪の中へと分け入った。この一帯の地形を熟知している私にすればなんでもない行為であったが、Kにとっては信じ難いことだったに違いない。彼はすっかり怯えきった様子で言った。

「先生、もも・・・もう帰りましょうよ!……何かが出たらどうするんですか?」

「何か出るわけなんかないだろう、君の心の持ちよう次第だって話したばかりだろうが!」

懐中電灯に浮かび上がるその顔からはすっかり血の気が引いてしまっているようだった。

「ちゃんとついてこいよ。そうでないと青木ヶ原に行ったなんて自慢なんかできないぞ!」

そう煽り立てると、私はさらに樹林の奥へと歩を速めた。Kはまるで私に縋りつきでもするかのようにして、必死にあとを追ってきた。しばらくして目指す樹海奥の窪地に着くと、私は足を止め、一呼吸おいたあとでいきなり懐中電灯の明かりを消した。

「わーっ、真っ暗でなんにも見えないですよ!……どうするつもりなんですか?」

絶叫にも近い彼のそんな声が暗黒の樹海一帯に響き渡った。

「君さあ、自分の手も見えない真っ暗闇っていうものを体験したことなんかないだろう。でもね、せめて一生に一度くらいはこの程度の経験はしておいたほうがいいと思うよ!」

「何かに襲われたらどうするんですか。まさか先生、突然に消えたりはしないですよね!」

「しばらくしたら闇に目が慣れてくるさ。確かにここは、お化けや幽霊が出るなどと噂されてるところだけどさ、心を落ち着けてみると、ただ深い樹林があって、それが闇に包まれているだけのことじゃないか。ほら、木立の間からいくつか星だって見えるだろう?」

「そう言われてみると、確かに星が見えますね。すこし目が暗さに慣れてきましたよ」

「君ねぇ、くどいようだけど、将来医学を志すつもりなら、もっと理性的に行動できるようにならないと駄目だよ。自分の心の生み出す幻影なんかに怯えていたら話にもならいね。ちょっとくらい勉強ができたって、そんなものなんの足しにもなりゃしないんだよ!」

「はい・・・・・でもやっぱり・・・・」――いまひとつ答えにならないKのそんな呟き声を耳にした私は、そろそろ引き上げどころかなと思い、あらためて彼に言った。

「そろそろ引き返そうか。じゃ君に懐中電灯を渡すから、先に立って駐車場まで歩きなよ」

「はい・・・・・・、でも先生、僕に道がわかるでしょうか?」 

「帰りのルートくらい憶えてるだろう。それとも夜が明けるまでここにいるかい?」

「そんなぁ……それは厭です。なるべく早く車のところに戻りたいですよ」

不安げに懐中電灯を受け取ったKは、足元を照らしながら、先程の小道目指して歩きはじめた。樹海内には凹凸があるので来た時のコースを幾分外れはしたものの、まずは無事に小道へと出た。あとはその道を右手に辿るだけだったのでKは安堵した様子をみせたのだが、その時にちょっとした珍事が起こった。Kの手にする懐中電灯の明かりに誘われ、どこからともなく現れた一匹のカナブンが、その身体にまとわりつくようにしてブンブンと飛び回り始めた。Kは必死の形相でそのカナブンから逃れようと足掻いたのだが、相手はなかなか飛び去ろうとしなかった。そのカナブンが死者の霊魂の化身だとでも思い込んだのか、彼はすっかり恐怖に取り憑かれ、懸命に相手を振り払おうとしたのだった。
それからほどなく私たちは無事東京へと戻った。以来4年が経った今、「あれはよい経験でした」と語るKは、精神的にもいくらかは成長を遂げ、理性的に振舞う冷静さをも身につけてきた。夜間わざわざ独りで青木ヶ原に出向く気にはまだなれないそうだけれども……。

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