森進一による「おふくろさん」の歌詞書き換え問題がこじれにこじれているようだ。そして、なんとも皮肉なことに、そのおかげで私が育った甑島(こしきじま)がこのところ妙にクローズアップされている。東シナ海に浮かぶこの島は、上甑島、中甑島、下甑島の三島と、それらを取り巻く小さな無人島群からなっている。今回の騒動で一躍その名が全国的に知られるようになったのだが、けっこう大きな島であるにもかかわらず、これまでは、「甑島」という島名の読み方はむろんのこと、その存在さえも知らない人がほとんどだったのではなかろうか。風光明媚で、海産物にも恵まれ、民俗学の宝庫でもあり、しかも本土からそんなには離れていないにもかかわらず、全国的に見てこれまでその知名度はきわめて低かったと言ってよい。
甑島には最近まで、里村、上甑村、鹿島村、下甑村の四つの村があったのだが、市町村合併が進められた結果、現在ではそれら4村すべてが本土に行政の中心を置く薩摩川内市に属するようになっている。正直なところ、自然豊かなこの島で育った私などは、いまさら「薩摩川内市になりました」などと言われてみてもピンとこない。しかも、昔に比べてずいぶんと過疎化が進んでいると聞いたりもすれば、ますますもって「薩摩川内市」というその名に違和感を覚えてしまう。
満3歳の頃にさまざまな事情があって甑島に移り住んでから地元の中学を卒業するまでの12年間を、私は上甑島の里村で暮した。いっぽう、森進一氏のお母さんの出身地は下甑島の手打(てうち)というところで、今回の騒動で有名になった「おふくろさん」の歌碑は、その手打集落の海岸近くに立っている。地理的にいうと、私の育った里集落はもっとも九州本土に近い甑列島の北東端に位置し、森進一氏の母堂ゆかりの手打集落は同列島の南西端に位置している。
弧状に大きくのび広がる美しい白砂の浜辺に面する手打は、いまは亡き高名な女流書家、町春草の出身地でもあり、女優吉永さゆりの父君ゆかりの土地でもある。また、人気コミック「Dr.コトー診療所」(山田貴敏作)のモデルとなった旧下甑村手打診療所長、瀬戸上健次郎医師の活躍の場としても知られている。
1998年秋のこと、ちょっとした仕事の依頼を受けたこともあって、私は久々に甑島に帰省したが、その時にはまだ問題の「おふくろさん」の歌碑は建立されていなかった。ただ、甑島一帯は海釣りの好適地で、大物釣りを狙う釣り人たちの間ではその地名はそれなりに知られているため、西田敏行主演の「釣りバカ日誌」の舞台になったこともあった。そのため、手打集落の海岸沿い道路の一角にはその作品の舞台となったことを伝える看板が設けられている。
主演者西田敏行の大きな顔入りの記念看板を立て、ここがテレビや映画にも登場した場所なのだぞと観光客にアピールしたい島の人々の気持ちは痛いほどわかるけれども、島外からやってくるほんとうに旅好きな人間には、風光明媚な海岸の一角に立つその看板がいささか目障りにうつるのではないかと、私などは逆に心配になったものだった。
今般の騒動で一躍有名になった「おふくろさん」の歌碑は、私が甑島に出向いた翌年の1999年に建てられたもののようである。現地での除幕式には歌手の森進一、作詞家の川内康範の両氏がともに出席し、歌碑の前で固い握手を交わしもしていたようだから、そのずっと以前に問題のイントロ部分の挿入がなされていたにもかかわらず、両者の関係は良好だったようである。「おふくろさん」の歌碑が建てられたということを風の便りに聞いたとき、いくら名曲ゆかりの歌碑であるとはいっても、わざわざその歌碑を見るために島に渡る人はまずいないだろうな、いったいどういう算段があってのことだったのだろう、と思ったものである。だが、今度の大騒動のおかげで、すくなくとも甑島観光に行く人々の多くが、とりあえずは話の種にということでこの歌碑を訪ねることになるだろう。思えばなんとも皮肉な話ではある。
一部の大衆紙などでは、「この歌碑を見るために年間5千人もの観光客が現地を訪れている。もしも、今回のもめごとが原因で森進一の歌声が流せなくなったら観光収入は大幅減だ」という趣旨の地元関係者の声がまことしやかに報じられたりしていたが、話はまるで逆というものだろう。面白い工夫が凝らされているにはしても、建立されてまだ数年の、そして、長期的な目で見れば、それ自体に歴史的文化的存在意義がそれほどあるとも思われないその歌碑を本土からわざわ見に行く観光客などごく少数にすぎないはずだからだ。従来のほとんどの観光客は、甑島の自然美や諸々の風物に惹かれて島を訪ねたついでに「おふくろさん」の歌碑を見物していたにすぎないし、今後ともその流れに大きな変化はないだろう。むろん、しばらくは、一部報道関係者をはじめとし、歌碑自体をお目当てに来島する人々もそれなりの数あるのかもはしれないが・・・・・・。
昨今報道されている両者の様子から推測すると、作詞家の川内康範氏の想い描く「おふくろさん像」と歌手の森進一氏の歌い偲ぶ「おふくろさん像」とは、実際、相当異なるものだったようである。川内康範氏の「おふくろさん像」が「衆生救済の慈悲の微笑みを湛えた菩薩像」に近いものだったとすれば、いっぽうの森進一氏のそれは「無償の愛をひたすら自分一人のためだけに注ぎ込んでくれる究極の慈母像」だったのであろう。
しかしながら、両氏それぞれの「おふくろさん像」は作曲家猪俣公章氏の生み出した感動的なメロディーが介在することによって見事に融合し、国民的名曲「おふくろさん」となって昇華し、一世を風靡した。不幸な自殺を遂げた森進一氏の母堂の出身地に建立された歌碑の序幕式に川内康範氏が出席したのも、川内氏が森氏の「おふくろさん像」をある程度まで容認するとともに、「おふくろさん」が名曲として世に知られることになった功績のかなりの部分を、歌手としての森氏の歌唱力によるものと認識していたからでもあろう。
ここにいたって事態が悪い方向へと急転してしまったことの責任が、なによりもまず森氏の甘えや甘さにあったことは言うまでもない。育ちのせいもあってか、いささか自己中心的で支配性の強い性格の見え隠れする森氏の判断の甘さや、行動の不手際ぶりは責められても仕方がない。年齢とともにいくぶんとも柔軟さが失われてくる人間の宿命みたいなものを差し引いて考えるとしても、川内氏の怒りはそれなりに当然のものだろう。
ただ、「おふくろさん」はすでに、作詞家、作曲家、さらには歌手の手を離れ、国民的な歌謡曲となっている。優れた文学作品が作家の手を離れると独り歩きをするように、そして、いったんそうなるともはや誰にもそれを止めさせることができないように、優れた歌謡曲というものもまた作詞家、作曲家、歌手の手を離れて独り歩きするようになると、もう誰にもそれを止められなくなってしまう。はっきり言わせてもらうなら、いったんそうなると、その歌謡曲はもう、作詞家のものでも、作曲家のもでも、歌手のものでもなくなってしまうのだ。
換言すれば、我々庶民は、「おふくろさん」という名曲を聴いたり歌ったりしながら、それぞれ心の中にそのひとなりの「おふくろさん像」を造り、それに向って切々と語りかけている。そんな「おふくろさん像」は、もはや川内康範氏のそれでも、猪俣文章氏のそれでも、さらにまた森進一のそれでもないのである。そしてまた、そうするためにこそ、我々はその名曲を聞いたり歌ったりするごとにさまざまなかたちで対価を支払い、その一部が印税となって川内、猪俣、森の各氏に渡っているわけだ。
川内康範氏の気持ちもわからぬではないが、いまさら「おふくろさん」の歌手を他の歌手に替えたりするわけにもいかないだろうし、森進一氏の人格云々の問題はともかくとしても、そうなったら別の意味で庶民が納得しはすまい。川内氏が「同一性保持権」にこだわるのは当然だが、森氏もさすがに深く反省し問題のイントロ部を今後用いるつもりはないようだし、またその善し悪しはともかく、文学作品などにおいてはおよそ原作とは異なるドラマなどが大手を振って横行するこの時代のことであるから、いますこし柔軟な対応があってもよいのではなかろうか。もちろん、作詞家の川内氏に敬意は表してのうえのことではあるけれども・・・・・・。
「世の中の ためになれよと 教えてくれた・・・・・」という「おふくろさん」の歌詞を無にしないためにも、ここはすでに老境にあられる川内康範氏の寛容の精神と、人生の辛酸を一通りは舐めたはずの森氏の他者を慮る心の涵養に期待したい。川内氏は過日マスコミを通じて公開した自筆書の末尾に「惜、無上道」という四文字を記しておられた。「惜」には「捨て難い」のほかに「大事にする、尊重する」といった意味があるし、「無上道」とは仏教でいう「この上なくすぐれた道」のことだから、解釈のしようによっては「惜、無上道」というその言葉は、「この上なくすぐれた道を歩むことをなによりも尊重し大切にしたい」というふうにも受け取れる。
そうだとすれば、この際、今一度、「おふくろさん」問題における「無上道」がどのようなものであるかを、川内氏にも森氏にも冷静に考えてもらいたものだと思う。森進一氏が今後も「おふくろさん」を歌うことを許すかわりに、それによって生じる収益の相当部分を社会福祉のために寄付しつづけるといったやりかただってあるだろう。ファンの協力も仰ぎながら「おふくろさん基金」を設けたっていい。そうすれば川内氏の大義も立つし、甑島の歌碑にだってそれなりの存在意義が生じもしよう。
横浜生まれの横浜育ちだった私の母は、40を前にして甑島の地で他界した。まだ小学生だった私に、母は、「お母さんはもう長く生きられない。だから、あなたは近いうちにたった独りになることを覚悟しておきなさい」と言い遺し、それからほぼ一年後に、その死に際を誰にも見取られぬまま、赤貧の中で一人眠るように息をひきとった。だから、「おくふろさん」の調べは私の胸にもまた切々と響き渡る。川内氏の表現を拝借するなら、まさに、「惜、名曲・おふくろさん」ということになる。