エッセー

24. 上海駈足紀行(8)

我々の乗った遊覧船はゆっくりと岸辺を離れ、黄浦江の川面の真中あたりまでくると、そこで下流側へと向きを変えた。そして、ほぼそれと時を同じくするようにして前方に我が目を疑いたくなるような幻想的光景が広がった。一口に言うならば、それは、ライトアップされた摩天楼の数々と夜空や川面に映えわたる七色の光の渦の紡ぎ出す「あやしの世界」にほかならなかった。それゆえに、船上の客の誰もが思わず息を呑み、しばし言葉を奪われたのも当然のことだった。化け物都市上海の見せる誘惑と謎に満ちた夜の顔――そんな思いが一瞬私の脳裏を駆けめぐった。東京のレインボウブリッジあたりから見る夜の都心やお台場一帯のきらびやかな光のドラマもなかなかのものだが、そんな光景など足元にも及ばないほどにこの上海の夜景は華やかで魅惑的なものだった。かつてある知人が「上海から戻ると東京が田舎に見えたりする」と言っていたが、その言葉の意味するところをすくなからず納得されられる思いでもあった。

エンジン音もほとんど聞こえないほどの微速前進を繰り返しながら、遊覧船は黄浦江の夜の川面を滑り下った。大勢のお客を乗せて川面を行き交う大小の遊覧船は皆それぞれに趣向を凝らし華やかな彩りに電飾されていたので、それだけでもちょっとした見ものであった。我々の乗る遊覧船の進行方向左手には、黄白色の光でひときわ明るくライトアップされた風変わりなビル群が建ち並んでいた。黄浦江の両岸一帯を取り巻く他の建物がみな現代的な超高層ビルばかりなので、時代を感じさせるそれら古風なビル群のほうは相対的に低く小ぶりなものに感じられはした。だが、そこに漂う不可思議な存在感は、無言のうちにそれら自身の来歴を物語っていると言ってよかった。それら二十棟ほどの風格ある建物こそは、旧租界時代の面影をとどめる外灘一帯の有名なビル群にほかならなかったからである。経済発展の目覚しい現代中国社会の若者らは、それら外灘のビル群の景観にノスタルジアを感じることなどほとんどないらしかったが、異国からやってきた旅人の身にすれば、それはなんとも心惹かれる光景だった。

私は携行していた上海の詳細な地図を広げてバンド一帯のビルの現名称の確認をおこなった。改築あるいは改修されたものもかなりあるらしかったが、現在は浦東開発銀になっているネオ・バロック様式の旧香港上海銀行や現中国工商銀行の旧横浜正金銀行をはじめとし、それらのビル群のほとんどがいまでは中国の主要銀行や商工会本部になっているようであった。

そんな中で嬉しくもありまた意外でもあったのは、あの石田達夫と斎藤ミサ(のちのネダーマン・ミサ)との出逢いと舞台となったアール・デコ様式の旧サッスーンハウス(現和平飯店北楼)と旧パレス・ホテル(現和平飯店南楼)がほぼ当時の姿のままで残っていることだった。旧サッスーンハウス、いまはピース・ホテルとも呼ばれている和平飯店北楼の特徴的な三角屋根は濃いグリーンにライトアップされていたので、船上からでもすぐにそれと識別できた。かなり奥行きのある和平飯店北楼の建物全体のうち黄浦江に面するのはごく一部にすぎないので船上から遠目に眺めると意外なくらいに小さく思われもしたが、それはまぎれもなく旧サッスーンハウスのいまに残る姿にほかならなかった。さらにその前方の黄浦江支流蘇州河の河口付近には、やはりアール・デコ様式の旧ブロードウエイ・マンション(現上海大厦)や旧アスター・ハウス・ホテル(現浦江飯店)が、その壮麗なビル影を光の中に浮かび上がらせていた。

だが、華麗なネオンをはじめとする眩いばかりの光の競演、さらにはライトアップされたテレビ塔や超高層ビル群の織りなす現代的景観美の極みということになると、進行方向右手の浦東地区のほうに軍配を上げざるをえなかった。浦東シャングリラ、上海国際会議中心(コンベンションホール)、オリエンタル・リバーサイドホテル、虹色に彩られた巨大な化け物そのままの姿を見せる高さ四六八メートルの東方明珠テレビ塔、そしてグランド・ハイアットホテルのある四〇二メートルの超高層ビル金茂大厦、さらにはそれらと肩を並べて聳え立つ数々のビル群と、それはニューヨーク・マンハッタンの摩天楼のそれにも劣らぬ光景だった。ライトアップに用いられているカクテル光線にも、各ビルや塔の照明類にも、また諸々のネオンサイン類にも、十分に美観を計算した配慮がなされている感じで、はじめから遠来の観光客の目を意識した心憎いばかりの演出という気がしてならなかった。こういう総合的な景観演出をおこなえるのは、善い意味でも悪い意味でも行政管理の徹底したこの国ならではのことのように思われた。

遊覧船は大きく北から東へと曲がる黄浦江の流れに乗って楊浦大橋の手前まで下ったあと、そこでUターンし帰途についた。今度は景観が左右に入れ替わってまた違った感じの美しさに変わり、船上を吹き抜ける夜風も心地よくて、そのドラマティックな夜景をいつまで眺めていても飽きることはなかった。遊覧船が再び蘇州河口の周辺へと近づくのを目にしながら、私は石田達夫翁が大連から船に乗ってはじめて上海にやってきた時の有様を想像した。その時代には浦東一帯はまだ未開発だったから、若かった石田翁の目に真っ先に飛び込んできたのは、ブロードウエイ・マンション(現上海大厦)やアスター・ハウス・ホテル(現浦江飯店)などの、当時としては極めてモダンな建物であったに違いなかった。

一時間半ほどの短いナイト・クルージングであったが、上海という中国最大の都市の夜の顔をそれなりの驚きをもって眺め見ることができたのはなによりの収穫であった。ただ、そのいっぽうで、夜間においてさえこれだけの電力やエネルギーを消費する化け物都市が機能し続けていくために、エネルギー不足をはじめとする諸々の皺寄せがそのぶんどれだけ地方にいっているのだろうかという思いが湧いてもくるのだった。

遊覧船を降りると、外灘の公園風遊歩道を和平飯店の方へと向かって進んで行った。かなりの幅のある遊歩道にもかかわらず、たくさんの観光客や地元の夜の散歩客で溢れかえり、うっかりよそ見をしていたりすると、同行の三人からはぐれてしまいそうなくらいだった。外灘から黄浦江を挟んで眺める対岸の光景は、遊覧船上からの眺めとはまた一味異なる見ごたえがあった。遊覧船上からの場合とは違って、華麗な花火をも連想させる対岸の浦東地区一帯の凄まじいばかりのイルミネーションの渦と、巨大な花飾りを纏いでもしたかのように輝き聳え建つビル群の全容を一望することができるからだった。

和平飯店北楼のそばまでくると、車が激しく行き交う中山東路をはらはらしながら横断し、和平飯店の玄関へと向かった。実際に近づいてみると、和平飯店はずいぶんと奥行きのある大きな建物で、終戦以前の時代にあって、東洋では稀な高層ビルのひとつとして人々の目を驚かしたのは当然のことと思われた。この夜我々が和平飯店にやってきたのは、昔ながらの雰囲気を留める同店一階のカフェバーでオールド・ジャズの生演奏を聴くためだった。外国人観光客、なかでも欧米人観光客に人気があるのであらかじめ予約しておかないとは入れないというお店だったが、Fさんが手際よく交渉し席を確保しておいてくれたので特に問題もなく入店できた。外観ばかりでなく和平飯店の内部のほうもまおアール・デコ風の荘重な造りになっていて、我々は思わず見事な装飾画の施された高い天井を見上げたり、重々しい石の柱をしげしげと眺めやったりしたものだった。

租界時代さながらにクラシックな雰囲気を湛えだそのカフェバーは、想像していた通りにとても素敵なところだった。ステージにはかなり高齢のバンドマン四、五人がそれぞれの楽器を手にして並び、演奏を続けているところだった。我々のテーブルの置かれている場所は、ステージのすぐ左脇だったのでクラリネット奏者の指の動きまでを目の当たりにすることができたが、バンドマン全員の姿を一度に見渡すことはできなかった。先刻まで思いきり派手な照明の数々を目にしていた我々にしてみれば、光量を押さえ込んだ昔ながらのモノトーンの照明はかえって新鮮で心安らぐものでもあった。  それぞれに飲み物を注文した我々は、グラスやカップを思いおもいに手にしながらジャスの生演奏に耳を傾けた。若い時代からオールド・ジャズの熱烈なファンであったMさんなどは、半ば目を瞑り天にも昇りそうなうっとりとした表情で次々に演奏される曲に聴き惚れていた。セントルイスブルース、ベサメムーチョ、ブルースカイ、ムーンリバー、アメリカンパトロールといった具合に懐かしいメロディーが次々に演奏されるうちに、お客の中の白人老婦人がバンドマンの前まで歩み出て、曲に合わせて見事な踊りを披露する光景も見られたりした。また、幼い子を腕に抱えた男性が巧みにリズムを取りながら一緒に踊る様子も実に微笑ましいかぎりだった。

いつ果てるともなく続くジャズの演奏を聴きながら、私はそのうちの何曲かを持参したテープに録音した。帰国したら折をみて石田翁の眠る松本市蟻ヶ崎の信州大学医学部供養塔を訪ね、その懐かしい音をいまは亡き翁の霊に聴かせてやりたいと考えたからだった。ぬろん、この和平飯店北楼と同店南楼が、若き日の石田達夫と斎藤ミサとが初めて出逢い、恋に落ち、そして生涯にわたるその後の異色な交際の礎を築くことになった舞台にほかならなかったからである。録音テープを回しながらうっとりとした気分で演奏に耳を傾けるうちに、二人並んでフロアに立つ石田とミサの幻影を一瞬だが私は目にしたような思いがしてきてならなかった。

和平飯店のオールド・ジャズ・バーをあとにすると、すぐ近くに入口のある外灘観光トンネルに向かった。この有料の観光トンネルは幅四百メートルほどある黄浦江の河底を抜け対岸の浦東へと通じているらしかった。長いトンネルの中を歩いて向こう側に渡るのかと思っていたが、実際にはそうではなく、小型の電動車に乗って向こう岸まで移動するようになっていた。ゆっくりと電動車が進むに連れて前方のトンネル内に華やかな彩りのイルミネーションが何重にも浮かび上がったり、映画のスクリーンのようなものが行く手に垂れ下がってそれに様々な映像が投影され、電動車が近づくとスクリーンごとパッと消え去るといったような凝った演出までがなされていた。

まるでお伽の国を行くようないささか奇妙で幻想的な体験を味わいながら浦東側の出口に立つと、そこは先刻遊覧船上から眺めたあの東方明珠テレビ塔のすぐ近くだった。驚いたことには、もう午後十一時前後だというのにまだ何台もの観光バスが止まっていて、お客を乗せたり降ろしたりしているところだった。オールナイトで観光ツアーでもやっているのだろうかと首を傾げながらも、すぐそばの大通りに出てFさんにタクシーを拾ってもらい、ようやく宿泊ホテルへと戻り着いたような有様だった。

カテゴリー エッセー. Bookmark the permalink.