冬の一日、ふと思い立つところがあって、久々に門前仲町界隈を訪ねてみることにした。地下鉄東西線の門前仲町駅を出ると、そこはもう深川不動の門前町である。駅そばの鰻の老舗「かね松」の看板を目にした途端に、私の体内時間はいっきに青春時代へと逆行した。学生時代、私は門前仲町駅からほどない深川牡丹三丁目に住んでいた。貧乏学生だったから「かね松」で鰻を食べる機会などまったくなかったが、その看板だけは日々目にしていたのでなんとも懐かしいかぎりだった。久々の深川、まずは不動明王の威容を拝せんと門前の商店街を素通りし本堂前へと足を運んだ。近年、本堂背後に大きな内仏殿が増築されたため、昔の不動堂とはかなり異なる趣になってはいたが、堂内に入り正座して仰ぎ見る不動明王坐像の存在感は以前のままだった。
再び参道に戻ると、私は一軒の老舗を探し始めた。かつては参道奥の左手に「きんつば・清水」という江戸時代創業の名代きんつば屋があった。特別な事情でもないかぎりお客一人に一個しか売ってくれないという風変わりなきんつば屋だったが、それでも日々行列ができ、たちまち売り切れてしまう有り様だった。評判を呼ぶだけのことはあって、口に入れるとすぐにもとろけてしまいそうなそのアンコの味は、いまだに忘れられないくらい美味であったし、値段も良心的なものだった。あの味をもう一度とばかりに清水屋を探してみたのだがどうしても見つからない。きんつばを売っているお店ならいくつかあったが、まるで品物が違っていた。
そこで、地元の人に「以前、きんつば・清水という老舗がありましたよね?」と尋ねてみると、「あそこが昔のきんつば屋さんですよ。いまは清水甘酒店となってますけどね」との思わぬ返事が戻ってきた。看板さえも掛かっていないその小さな店を訪ねると、店頭に老婆がいて二人の女性客に応対しているところだった。店内の客席は三人がやっと座れるほどで、私は空いている席に先客と並んで腰をおろし、一杯三百円の甘酒を注文した。メニューなどは一切なく、売られているのはその甘酒一品のみだった。冷え込みの厳しい日のことだったが、長湯呑に入れて出された熱い甘酒をすすると私の身体はたちまちにしてポカポカと温まった。狭い店内の壁には「名代きんつば・清水さんへ」と記された往年の大きく立派な寄贈額や、江戸期の深川不動参道の様子を描いた古い絵画の写真などが掲げられていた。
先客の御婦人方が席を立ち二人だけになったところで、「学生時代にはよくきんつばを買いにうかがったんですよ。懐かしくなって訪ねてみたんですが、もうきんつば売っていらっしゃらないんですね?」と話しかけると、今年89歳になるというその老店主の清水政子さんは快くこちらの問いかけに応じてくださった。清水さんによると、もう25年も前にきんつば屋は閉店したのだという。一族で懸命に老舗の暖簾を守ってはきたが、最後の職人となったお兄さんが亡くなる際、末っ子だった政子さんに、「年期の入った男手がないと伝統のきんつば作りは難しいから店は閉めるように」と言い残したのだという。ちょうどその折、長年甘酒売りをやっていた近所のお婆さんの具合が悪くなったので、きんつば屋を閉じた清水さんはその甘酒販売の仕事を引き継ぐことにしたのだそうだった。
清水さんは、「きんつばのアンコを作るだけでも8時間はかかりました。そして、それを薄皮に包んで焼き上げるのにまた何時間もかかりましたから、一日に300個ほど作るのがやっとでしたよ。すべてが手作りでないと本物の味は出せませんし、それ相応に体力も要りましたからね」と言いながら、奥から昔のきんつばの写真を取り出してきてくれた。それは私にも見覚えのある直径7~8センチほどの円いきんつばの写真だった。清水さんは、「金鍔は、もともと刀の鍔をイメージしたものだったのです。でもいまの金鍔のほとんどは長四角ですよね。あれは以前には六方焼きと呼ばれていたもので本物の金鍔ではありませんよ」とも説明してくれた。
清水さんはまた、「直木賞作家の山本一力さんもよくこの店に見えるんです。山本さんと私とが話し込んでいる写真がここに掲載されていますよ」と言って一冊の雑誌を差し出してくれた。江戸人情物の名作「あかね空」で直木賞を受賞した山本さんは、深川やその近隣を舞台にした時代小説で知られる現代の売れっ子作家で、先年まで門前仲町の隣の富岡町に住んでいた。いまや東京の下町ではその名を知らない人などいない名士である。実を言うと、まだ20歳代だった若き日の山本さんを育てたのは、最近まで都内のあるプランニング会社を経営していた私の親友だったのだ。その親友のことを山本さんはいまも「ボス」などと呼んだりして昔と変わらぬ親交を結んでいるのだが、そんな奇縁で私もまた当時から山本さん、いや、「山本君」をよく知っていた。当時、その親友の会社で営業マンやコピライターをやっていた山本君は、知識欲旺盛な若者で、コンピューター・サイエンス関係のことについていろいろ質問されたりしたものだった。清水さんにその話をすると、さすがにびっくりなさった様子だった。
次に私が足を向けたのは、これまた昔よく散歩した富岡八幡宮の境内だった。大鳥居をくぐったすぐ左手のところには以前にはなかった新しい銅像が立っていた。近づいてみると、なんとそれは伊能忠敬の銅像だった。忠敬は50歳の時に江戸に出て黒江町(現在の門前仲町一丁目)に隠居所を構えた。そして、寛政13年4月19日(1800年6月11日)早朝、この富岡八幡宮に参拝したあと蝦夷地測量の旅に出立した。のちに他の地域の測量に旅立つ際も、忠敬は必ず富岡八幡宮に参詣し旅の無事を祈願したという。忠敬と富岡八幡とのそんな縁に基づいて2001年10月この境内に測量の旅姿の銅像が建立されたらしい。
神前に詣でたあと、社殿の右手奥にある横綱力士碑の前に立った。学生時代に何度となく訪れた場所であるだけに懐かしさもひとしおだった。この顕彰碑は江戸期最後の第12代横綱陣幕九五郎らの尽力で明治33年に建立された。前面の左右には肥後出身の横綱不知火光右衛門と陣幕久五郎の姿を彫り刻んだ石碑が配してある。また「横綱力士碑」の文字を刻んだ大石碑の裏とその両脇の石碑には、寛永元年その地位に就いた初代横綱明石志賀之助から平成15年に第68代横綱となった朝青龍明徳までの代々の横綱の名が彫り込まれ、相撲史の伝承に一役買っている。そのほか境内には2メートル26センチもの身長があったという釈迦ケ岳ら巨漢力士数名の背丈を刻んだ巨人力士身長碑などもあって、日本人の平均身長がいまよりずっと低かった時代にも2メートル20センチ前後の巨漢力士がいたことを物語ってくれている。
古来庶民に親しまれてきた相撲は、江戸時代に入ると幕府公認の勧進相撲(寺社修復の費用調達を目的とした興行相撲)へと発展した。幕府が初めて公認した勧進相撲は貞享元年(1684年)にこの富岡八幡宮で開催され、以後、春秋二場所のうち一場所は必ず富岡八幡宮で催されるようになった。だから、江戸勧進相撲の発祥地であるこの八幡宮に横綱力士碑が建てられたのは当然のことだった。
そのあと横綱力士碑の右脇を抜けて社務所裏手にまわると七渡弁天の祠の前に出た。一昔前、岡本綺堂原作の時代劇「半七捕物帖」が一世を風靡していたことがあったが、七渡弁天一帯はその作品の舞台となりテレビドラマにも幾度となく登場していた。以前は朱塗りの木の鳥居がもっとずらりと立ち並んでいたのだが、いまはもう申し訳程度のごく僅かな数の鳥居しか残されていなかった。
富岡八幡をあとにした私の足は自然と牡丹三丁目へ向かった。富岡町から牡丹三丁目に行くには旧運河に架かる東富橋を渡ればよい。東富橋手前の運河沿い一帯はかつて巽芸者の本拠地として名を馳せたところだった。江戸時代から吉原の向こうを張ってきた巽芸者の本領は、洗練された知性と下町ならではの人情ときっぷのよさ、さらには吉原にはない庶民性だった。私が住んでいた頃までは数寄屋造りの古風な家屋が軒を連ねて運河沿いに立ち並び、宵の刻にもなると運河側に面する部屋部屋からは三味線や長唄の音色が流れ響いてきたものだった。いまはもうそれら芸者宿の家並みは消え去り、もろもろのレストランや小洒落た料理屋、各種の事務所などに様変わりしていた。
だが、東富橋を渡り琴平通りと交差する一番目の道路を横断し終えた時、私は思わず「まだあったんだ!」と大声で叫び出しそうになった。私が間借りしていたのは峯木さんという靴屋の2階の四畳半部屋だった。当時でもかなり古い家であったが、信じ難いことに、それから40年近くたった今もなおその建物が残っていたのである。すべての窓も扉もシャッターも閉め切られ、誰も人は住んでいない感じだったので、近所の古老に近況を尋ねてみると、すでに家屋は売却され家族の方々はどこかへ引っ越されたとのことだった。周辺の家々はみな近代的に様変わりしているのに、旧峯木宅だけが時間が止まったかのように昔日の姿のままでそこに建っているのはなんとも不思議な光景だった。
当時、私は江東区塩浜二丁目にあった東京シャーリングという会社で夜警のアルバイトでやっていた。そのため、バイト先に近いその靴屋さんの貸間をたまたま探し当て、そこに住むようになったのだった。入居して間もなく、世話好きな大家の奥さんから、「この部屋に住むのは風変わりな人が多いんですよね」と言われた時は、どうやら自分も変人の部類に入れられているらしいなと思っただけで、それ以上深くは考えてみなかった。その言葉の意味するところを知ったのはかなりのちになってからのことだった。
私が「風変わりな人」の何代目で、先住者らがどんな人々だったのか詳細は聞きそびれたが、すくなくともその中の二人の人物だけは誰であったかが判明した。一人はのちに東大助教授になり、それから作家へと転身した丸谷才一さん、いま一人は楢山節考の作者である故深沢七郎さんだったのだ。お二人とも、私などその足元にも及ばぬ文筆の大家であったが、もちろん、それは、丸谷さんも深沢さんもまだ無名だった頃の話である。深沢さんは、月の綺麗な夏の晩などギターを抱えパンツひとつで近くの運河べりへと出かけ、歌と演奏に耽り興じていたという。そんなある日突然に記者やカメラマン数人が峯木靴店に押しかけてきた。そこで初めて、大家の峯木さんは深沢さんの文学賞受賞を知ったようなわけだったらしい。
その峯木さんは根っからの下町気質の靴職人さんで、店に並べてある高い革靴を所望する客があったりすると、「お客さん、いまお履きになっている靴は修理するとまだまだ履けますから、こんな値段だけ高い靴をいまお買いになる必要なんかありませんよ」と言いながら、呆気にとられるお客を前に、鮮やかな手つきで即座にその靴を直してしまうような方だった。
感慨にひたりつつ旧峯木宅前をあとにした私は、古石場や木場を経て塩浜方面へと足を運んだ。途中の古石場にはかつて老夫婦の経営する「千代」という小さな大衆食堂があり、当時はずいぶんとお世話になった。借りていた部屋には自炊できる流し台やガス台などなかったから、当時の下町にはよくあった安い大衆食堂に出入りし、そこで食事を取らざるをえなかった。冷蔵庫や電気釜など持ち合わせない時代の話だったから、一人暮らしの身で下手に自炊などしようものなら、かえって不経済なことにもなってしまいかねなかった。元石川島重工播磨の技師だったその店のご主人と元巽芸者で俳人水原秋桜子の直弟子だったという女将の千代さんは、ある時駆け落ちしてそこに住みつき二人で暮らすようになったらしかった。
築地から魚のアラを入手してきて、勝手に料理して食べていいよと閉店後調理場を開放してくださったりもした。貧乏な身ゆえ安いマクロのブツを注文するのが常だったが、周辺の若い工場労働者が中心のお客のほとんどはその2、3倍は値のするマグロの刺身を食べていた。ある時たまたま、女将が刺身もブツも同じ材料を使っているのに気づいた私は、そっとその訳を尋ねてみた。すると女将は、「切り方が違うのよ」と言いながら悪戯っぽく笑ってみせた。日々の食費にも事欠く貧乏学生への粋な計らいだったのだ。
古石場から木場を抜け、雲雀橋の上から、かつてはダルマ船の頻繁に往来していた運河の水面を眺めやった。雲雀橋のたもとには寄せ集めの古材で造った異様な家がいまもなお残っていた。ある日突然たった独りでその地に現れた中年の女性は、自ら持ち込んだ廃材でそこの空き地にごく粗末な小屋を建てた。明らかに不法占拠だったのだが、生活力旺盛なその女性は夜毎にどこからか廃材を運んできては徐々にその小屋を拡張し、ついには芸術的にも映る不思議な風情の一軒の家屋を造りあげた。そして、どこからともなく三人ほどの子供らが現れそこに同居するようになった。そして、そうこうするうちに、「Violet English School」という手作りの看板が入口に掲げられた。いったいどういうことになるのだろうと、興味深く様子をうかがっていたが、さすがにその英語教室に通ってくるような生徒の姿は見当たらず、そうこうするうちにその看板はおろされてしまった。
日々夜警のアルバイトに通うついでに、私はその一部始終を驚嘆の目で眺めやっていたものだったが、すでに電線が引き込まれているところから察すると、のちに定住権を得たのであろう。その女性はまだ生きているとしてももう相当な高齢だろうから、いまではその頃まだ子供だった者のうちの誰かが当主なっているのであろう。それにしても、橋の袂の空き地を不法占拠し、なんとも不可思議な家をまったくの手作りで建て、ついには定住権を得るに至ったらしいその逞しさに、私はひたすら脱帽するばかりだった。
私のアルバイト先だった塩浜の工場は既に姿を消し、跡地にはまったく見知らぬ会社のビルが建っていた。私はすぐそばの浜崎橋の上に立ち運河越しにかつて東京シャーリングのあった一帯を見渡した。手配師の連れてくる日雇い労務者で溢れかえるその町工場でのアルバイトを通して、私はさまざまな人生勉強を積んだ。ひとつひとつが短編小説の素材になりそうな出来事にもずいぶんと遭遇した。世の中の多くの人々から蔑視されながらも日々を懸命に生きるその日暮らしの日雇労務者らが、実は心優しく人間味に溢れる人々であることを知ったのも、そして、彼らのほとんどが壮絶な人間ドラマを背負って生きてきたのだということを知ったのも、「夜の工場長」を自称するこの町工場での夜警の仕事を通してのことであった。
40年に近い星霜のめぐりは、この塩浜一帯の景観を信じ難いほどに一変させた。暗くよどんだ空気の漂っていたあの工場街は、いまや近代的な高層マンションの立ち並ぶ洒落た住宅街へと一大変貌を遂げていた。塩浜橋の上に立ち運河の水面を眺めやる私の脳裏を、突然、「ミラボー橋の橋の上、時は流れて人は去り……」というアポリネールの有名な詩の一節がよぎっていった。セーヌの流れとはおよそ比べものにならない下町の運河ではあったが、その水面のどこか重たい輝きだけは自分の青春時代のそれとそう変わってはいないように思われた。