のちに天下無双力士と称えられ、後世までその名を轟かすことになった雷電為右衛門は、明和四年(一七六七)、当時の信濃国小県郡大石村に生まれた。幼名は太郎吉だったという。いまに伝わる雷電の少年期のエピソードはいささか大袈裟過ぎるので、そのまま事実として受取るわけにはいかないが、それはともかく、当時から彼が並外れた力持ちであったのは確かなことだったのだろう。
ある夏の夕刻、母親が庭で据風呂に入っていると、突然、耳をつんざくような雷鳴と稲妻をともなう激しい夕立がやってきた。すると、太郎吉は母親を風呂桶ごと抱え挙げ、家の土間に運び込んだのだそうである。並みの母親だったら、「そんなバカなことはやめてー!」と諌め叫ぶところだが、慌てず騒がず息子のなすがままに身を任せていたらしいから、もしそれが実話だとすると、ずいぶんと遊び心も豊かな母親であったのだろう。その親孝行の逸話にちなみ、「雷電」という四股名が生まれた――というのはあくまでもここだけの冗談だ。
少年太郎吉の怪力ぶりを伝えるいまひとつのエピソードはもっと凄まじい。荷を積んだ馬を引いて細く険しい碓氷峠の山道に差しかかったところ、加賀百万石の大名行列と行き合わせてしまった。狭い道のためによけることもでず困った太郎吉は、荷を積んだままの馬の足を掴んで頭上に差し上げ、無事に大名行列を通過させた。そして殿様から「天晴れじゃ!」とのお褒めの言葉を賜わったのだという。
馬の身にしてみれば迷惑千万な話だったろうし、異常な事態に興奮するあまり殿様の籠に向かってお漏らしなどでもしようものならご主人様共々たちまち打ち首になっていたことだろう。そうしてみると、実際に偉かったのはじっとその苦行に堪え抜いた馬のほうだったということになる。本来なら、加賀のお殿様は、「おまえのほうがもっと天晴れじゃ!」とその馬を太郎吉以上に褒め称えるべきだったのかもしれない。ただまあ、そんな皮相な見方はべつとして、今日にまでこのようなエピソードが伝わるほどに太郎吉は怪力の少年だったというわけだ。
その頃のこと、千曲川を挟んで大石村と向かい合う長瀬村に上原源五右衛門という庄屋がいた。名を成した雷電が故郷に錦を飾り五十両をかけて生家の建て直しをおこなった際、その家が若い頃お世話になった庄屋の家よりも小さめになるように配慮したというくだんの庄屋のことである。学問にも造詣の深かった上原源五右衛門は自ら寺小屋の師匠となり勉学を奨励するとともに、近隣の相撲好きな若者たちの世話をして彼らを育てることにも余念がなかった。たまたまそのことを知った太郎吉は上原源右衛門のもとを訪ねて温かく迎え入れられ、ほどなく同家に寄食するようになった。そしてそこで学問を修め学識を深めるとともに相撲の技を磨き鍛えたのだそうだが、その勤勉ぶりは尋常なものではなかったらしい。
ともすると怪力ぶりばかりが強調されがちな雷電だが、相撲その他に関するさ優れた直筆文記録書類が残されていることからもわかるように、実際の彼はきわめて高い学識を身につけた人物でもあったと言われている。文武両道に秀でた大力士としての礎はこの時期に培われたものに違いない。
「文武遼道」のこの身などは雷電の爪の垢でも煎じて飲みたいところだったが、さすがに、雷電の生家まで引き返して土間にある土俵の中からその爪の垢を探し出すだけの執念は持ち合わせていなかった。それにまた、いまある建物は近年の復元だとのことであるが、いくらなんでも土俵の中の爪の垢までが復元されているはずがない。よしんばそこで爪の垢のレプリカが手に入ったとしても、そんなものを煎じて飲んだら贋雷電が誕生するのがいいところだろう。
江戸相撲の浦風林右衛門の一行が地方巡業で上原家を訪れた際、相撲取りとしての天賦の才を見込まれた太郎吉は、十七歳になった天明四年(一七八四)に江戸に上り江戸相撲の門を叩くことになった。身長一九八センチ、体重一八八キロだったというから、二二六センチもの身長があったという釈迦ヶ岳は別格としても、当時としては目を見張るような巨漢力士であったのは間違いない。その四股は鋼鉄のごとく強靭そのものだったというが、それにもかかわらず実に柔和な相貌をしており、性格も温厚そのものだったらしい。
天賦の資質とそれを磨く猛稽古の甲斐あってめきめきと頭角を顕した彼は、その力量と学徳をかわれて二十一歳の時に出雲松江藩のお抱え力士となった。そして、その時から、松江藩にゆかりのある「雷電」という四股名を名乗るようになった。二年後の寛政二年(一七九〇)には関脇として初優勝、以降無類の強さを発揮して優勝を重ね、寛政七年(一七九五年)に大関昇進を果したのだった。それから実に十六年の長きにわたり大関の地位を守り続けた。
雷電は通算二十一年にわたる力士生活において、江戸相撲で二八五番、京都・大阪相撲で二二八番、合計五一三番の取組み(勝敗の明確な分)を行なっているが、その間に負けたのは十九番のみで、その勝率は九割六分一厘という驚異的なものとなっている。このほかに、長時間取組んだまま勝敗のつかなかった引き分け、同体の場合のように勝敗の判定が明確につかなかった無勝負、勝負の裁定に横槍が入ってもめた挙げ句に勝敗をうやむやにしてしまう勝負預かりなどが合わせて三十二番ほどあったようだ。
当時の力士は皆が各藩のお抱え力士であったために、各力士の取組みにはその力士を抱える藩の名誉がかかっていた。平和な時代における模擬戦争あるいは代理戦争さならがの、サッカー・ワールドカップの試合みたいなものである。そのために、衆人の目からすれば明かに雷電が勝ったと思われるケースでも勝負預かりになってしまうようなこともあったらしい。横綱小野川との一番などはその典型的な事例だったようである。
雷電が大関になった頃には名横綱谷風梶之助はすでに亡く、横綱としては引退間近な小野川喜三郎がいるだけだった。その横綱小野川との上覧相撲の対戦で雷電は相手を投げ飛ばしたらしいのだが、藩同士の体面や小野川の名誉問題などもあって、結局、その一番は勝負預かりになってしまった。ところが、事実上息子が敗れたのを知った小野川の母親は、そのことを苦にして自害して果てた。そのことに心を痛めた雷電は、小野川の母親のための追善供養として梵鐘を造り、松江藩とも縁の深かった赤坂の報土寺に寄進したと伝えられている。
あまりに強烈で相手力士を必ずや負傷させてしまうというので、雷電は「張り手」、「突っ張り」、「かんぬき」の三手を禁じ手とされたと言われているが、それが事実であったかどうかはいまひとつ定かでないらしい。藩の体面ばかりでなく、相手力士の将来などもあったことゆえ、ひどく力量差があるような場合には特別にそんな対応が取らたのかもしれないが、もしそうだったとすれば雷電の勝率はそのぶんいっそう驚異的だと言わざるをえないだろう。
そんな無敵の雷電が横綱の位に就くことなく終ったのはいまだに謎であるという。横綱小野川の引退後は四十年間ほど横綱は不在だった。横綱の称号の認定と授与を司る肥後細川藩の吉田司家がさまざまな理由から当時容易には江戸に上るのが困難だったからとか、横綱という称号そのものがその頃はまだそれほどには重要視されていなかったからだとかいう説もある。また、雷電自身が横綱の称号を辞退したからだとか、雷電を抱える松江藩松平家と吉田司家を擁する肥後藩細川家とが不仲だったからだとかいう見方もあるが、ほんとうのところはよくわからないらしい。
東京深川の富岡八幡宮に初代横綱明石志賀之助以下、代々の横綱の名を刻んだ「横綱力士碑」が立っているが、むろんその中に雷電の名前はない。ただ、そのかわりに、「無類力士雷電為右衛門」の碑が特別に設けられている。おそらく、それは雷電にまつわる特別な事情を配慮してのことだったのだろう。
地元の関家には雷電の着衣類や足袋などが残されており、現代の大型力士が試しにそれを着用してみたビデオなども紹介されていたが、幾分だぶついた感じであった。足袋にいたってはまったくだぶだぶだったようで、横綱曙の足袋と長さを比べるとすこし短いくらいだが、横幅はずっと広く、在りし日の雷電の土俵上での並外れた踏ん張りの強さを物語っているようだった。指紋や掌紋までがはっきりと浮き出た雷電の手形の複製なるものも展示されていたが、おそろしく巨大で、こんな手で一発張られたら瞬時に昇天してしまうだろうなと思われた。
いまひとつ館内の展示資料で興味深かったのは、江戸時代の力士の想像以上の多忙さだった。「一年を十日で過ごす好い男」などという川柳などがあるが、現実にはそれほど生易しいものではなかったらしい。当時一場所は十日制だったが、江戸だけでも年二場所おこなわれることもあり、さらに京都や大阪での場所にも出向かねばならぬうえ、その他の地方への巡業などもあったから、事実上は年間を通じフルスケジュールで活動していたらしい。
現代みたいに飛行機や車、電車などに乗るわけにもいかず、もっぱら巨体を揺すっての徒歩による旅だったのだろうから、容易なことではなかったに相違ない。また、一場所十日だったといっても、雨天には取組みが行なわれないのが決まりだったから、天候不順の折などは一場所終えるのに一ヶ月を要することもあったという。
雷電が他界してから三十六年後の文久元年(一八六一)には佐久間象山の直筆文と揮毫になる雷電の顕彰碑が建立された。かつてその碑は名碑中の名碑と謳われていたらしいが、いつしかその碑の一部を欠き取り身に着けると立身出世したり勝負ごとに強くなったりするという俗信がはやり、表面が削り取られてついには碑文が読めない状態になってしまったのだという。そのため、明治二十八年に新しい碑が再建された。その碑文の写真やその解説文などもなども館内に展示されていたが、象山の献辞が文字通りの絶賛であることからすると、雷電という人物はこれまで想像していた以上に偉大な存在であったようだ。
力士雷電展示館を出ると、眼前に浅間連峰ののびやかな影が浮かび上がった。幼少期の雷電は日々その雄大な浅間の山々を仰ぎながら育ったのだろう。雷電の心の広さと豊かさは、そしてその強靭無比な身体はそんな大自然の賜物ででもあったのだろうか……。