先々週、穴吹史士キャスターの「さらば」という手記が掲載された。短いが、いかにも穴吹さんらしい潔さの感じられるお別れの文章だった。大手術の終わったあとで、「あと一回だけ原稿を書いて、それでAICでの自分の仕事を終わりにしたい」とのメールを頂戴していたので、その手記の内容そのものに驚きはしなかった。だが、穴吹さんの最後の原稿が掲載されるのは、足掛け十年続いたこのAICのコーナーそのものが終わりになると聞いているこの三月末のことだろうと想像していたので、早々と掲載された穴吹さんの最後の文章を目にした時にはいささか戸惑いを覚えもした。
昨年奥様を亡くされたあともAICの編集を手掛けるかたわら健筆を揮ってこられたのだったが、八時間にも及ぶこの度の大手術は、さすがに穴吹さんの心身にひとかたならぬ負担をもたらしもしたのだろう。幸い、手術そのものは成功し、体力も徐々に回復してきておられるようだから、いましばしゆっくり静養し、一日も早く以前のような英気を取り戻されることを祈ってやまない。そしてまた、この場をかりて、足掛け十年間、ほんどうにご苦労様でしたと、心からの労いの言葉を申し述べさせていただくことにしたい。
穴吹さんとの出合いはもう十数年前に遡る。それが縁となって、以来、一緒になにかと仕事をさせてもらってきた。私はもともと理数系の分野を専門としていたために、穴吹さんと出会うまでは、朝日新聞社から依頼される仕事というと、もっぱら科学系分野のものにかぎられていた。かつて刊行されていた「科学朝日」誌などでの執筆が主で、現在はともに論説委員になっておられる辻篤子さんや高橋真理子さんに府中の拙宅まで原稿を取りにきてもらったりもしたものだ。
その後フリーランスの身になった私は、生活をしていく必要上、仕事の範囲を文科系領域にまで広げるようになり、各種の翻訳なども手掛けるようになった。私が翻訳した書籍のひとつに「超辞苑」(新曜社)という奇書があったが、たまたまその本を手にし、「訳者あとがき」を読んだ穴吹さんから、週刊朝日でコラムを書いてみないかとの思わぬ誘いを受けたのだった。朝日新聞の日曜版を飾るヒット企画を次々に誕生させ、長年その執筆を担当してもきたという名物記者の穴吹さんからコラム執筆のお誘いを受けたのは、三文文士ならぬ「百円ライター」の身としてはこのうえなく光栄なことであった。
それは、穴吹さんが週刊朝日の副編集長から編集長に昇格したばかりの頃のことだったが、身のほど知らずの私は、のうのうとその誘いにのってしばらくの間「怪奇十三面章」という冷や汗ものの下手なコラムの連載執筆を担当した。当時の週刊朝日の副編集長は山本朋史さん、清水建宇さん、柘植一郎さんらで、その縁などもあって以来ずっとそれらの方々とも親しく付き合わせていただいた。それまでの業績を評価された穴吹さんは、その後出版局次長に昇進した。そんな穴吹さんのすすめなどもあって、私は、当時朝日が創刊したばかりの初級者向きパソコン月刊誌「paso(ぱそ)」で、創刊号を皮切りに二年間ほど「コンピュータ解体新書」という連載記事の執筆を担当した。
ところが、私が「paso」での連載を終えてしばらくした頃、突然、穴吹さんは電波メディア局という当時はまだあまり聞き慣れない部門へと移動になった。穴吹さんが発行人となって創刊した「UNO(うの)」という女性誌の事業展開がさまざまな事情からうまくいかなくなり、ほどなく同誌が廃刊のやむなきに至った責任をとってのことのようであった。「僕なんかもう出社してもしなくても会社には関係ないんだ」などと折々ぼやくほどに当時の穴吹さんは意気消沈しきった感じで、その様子を見ているこちらもいささか辛くなるほどであった。
しかしながら、そこから穴吹さんの再起は始まった。1997年にAIC(アサヒ・インターネット・キャスター)という風変わりなコラム欄をアサヒ・コムのウエッブ上で立ち上げた穴吹さんは、先が見えないながらも、その内容的充実と拡大発展に全精力を注ぎ込むようになっていった。翌1998年に穴吹さんらと箱根方面に旅に出かけた折のこと、二人で風呂に入っていると、「本田さん、私が運営するアサヒ・コムのAICでコラムでも書いてみませんか。正直なところ、通信費程度しかギャラは出せませんが、そのかわり内容は自由で何を書いてもらってもかまいません。文章の長さなどにも特にこれといった規制などありません。お金のかかる有名ライターなどには頼めませんので……」と原稿執筆の話を持ちかけられたのだった。それは、ほぼ無名に等しい「使い捨て百円ライター」なるがゆえの幸運(?)だったと言ってよかったろう。
筆者は二人ずつペアとなって原稿を書いてもらうことにしたいという穴吹さんの意向に従い、私は、「僕が医者を辞めた理由」という著書ですでに広く知られていた作家の永井明さんと組んで原稿を書くことになった。原稿執筆を諒承すると、穴吹さんは、「永井さんは医者を、本田さんは数学の研究者を辞めた同士だから、ちょうどいい組み合わせですよね」など軽口を叩きながら、すぐさま「医者VS.数学者」というコーナーをAICの水曜欄に設けてくれた。我々にすれば「慰者VS.崇楽者」くらいのほうが気楽でよかったのだが、結局、永井さんは「メディカル漂流記」、私は「マセマティック放浪記」というタイトルでそれぞれにコラムを書き始めることになった。
いい加減な我々二人のことだから、永井さんは医療の話などほとんど書かなかったし、私のほうも数学の話などめったに書かなかった。私の相方を務めてもらったその永井明さんは、AIC欄がアサヒ・コムから現在のアスパラクラブに移行する前にすでに他界され、いまは沖縄座間味諸島の海中に眠っておられる。生前座間味の海をこよなく愛した永井さんの遺志に従い、その遺骨は座間味の海に散骨されたからである。
「マセマティック放浪記」で原稿を書き始めた頃は読者のAICへの月刊アクセス数はせいぜい2万回程度だった。そのためもあって、穴吹さんからは、原稿は長くても四百字詰め用紙で二枚程度に抑えてほしいとの要望があった。ウエッブ上ではそれ以上長くなると読者からまともに読んではもらえないからというのがその理由だった。しかし、私はその意向に反して毎回ずいぶんと長い原稿を書き綴っては穴吹さんに送り付けた。「本田さんの原稿をちゃんと読むのは編集者を兼ねる僕一人くらいのものだろう」などと茶化されたりもしたが、めげずに長い文章を書き送る私の執拗さに最後は穴吹さんも根負けしたみたいだった。「本田さんのせいで、永井さんの文章も、そのほかのライターの文章もだんだん長くなってきた」とからかわれもしたものである。
原稿料など度外視して私が毎回長い文章を書き綴ったのには、それなりの訳があった。私はインターネットが普及するずっと以前のパソコン通信の時代からのネットの常連で、しかも、さまざまな先導試行的な役割をも委託されたりしながら、日本人としてはごく初期の時代からパソコン通信の普及に深く関わった人間だった。そして、パソコン通信黎明期におけるさまざまな経験に基づき、当時チャットや掲示板で用いていた「stranger」というハンドルネームをペンネーム代わりにして、「電子ネットワールド――パソコン通信の光と影」(新曜社)という本を執筆したりもした。そのためもあって、未来工学研究所から二十一世紀のコンピュータ通信の展開についての予測を諮問されたりもしたこともあった。
まだ全国でもユーザーが二・三万人程度にすぎなかった初期のパソコン通信の時代に、BBS(掲示板)にわざと長文のエッセイや紀行文を次々にアップし、BBSにアクセスする人々に読んでもらえるかどうかを試してもいた。その結果、長文の記事であっても、それなりに誠意をもって臨めば多くの人々に読んでもらえるという確信を持つようになっていた。当時のほとんどのマスメディア関係者は、パソコン上でやりとりされる文章なんてまだまだ子どもだましにすぎず、活字メディアに追いつくまでには少なくともあと五十年はかかるなどと冷笑していたものである。私自身は近いうちにパソコン通信の世界に一大革新が起こると考えていたが、なかなかそんなことを真に受けてくれる人はいなかった。パソコン通信はもっぱらオタクか変人のやることだというのが当時の世論の趨勢だったからである。しかし、現実には、パソコン通信は私の予想をもはるかに上回る速度で発展し、インターネット文化として一世を風靡するようになった。
穴吹さんからAICへの執筆を依頼された時、執筆条件にかかわらず即座にその申し出を受諾したのも、穴吹さんの意向に逆らうようにして意図的に長い文章をアップしたのも、実はそんな背景があってのことだった。幸いAICの読者はどんどん増え続け、穴吹さんのさまざまな苦労や努力もあって、それからほどなく月刊アクセス数は百万を超え、さらには二百万をも超える勢いとなった。まさに穴吹さんの面目躍如というところだった。
いまから数年ほど前に穴吹さんは一度癌の手術のために入院されたことがあった。病院までお見舞いに出向いたのだが、その時の穴吹さんは手術直後にもかかわらずずいぶんとお元気で、穴吹流のジョークを次々に連発していたものだった。現在AICに掲載されている私の顔写真は、その折に穴吹さん自身がデジカメで撮影してくださったものである。それまで掲載されていた顔写真が小さかったので、もっと大きいものをいうわけだったのだが、こちらが想像していたよりもずっと大きくふてぶてしく写ってしまったかなというのが、正直な私の感想だった。
印章を彫るのが得意だった穴吹さんからは「成親」と刻んだ印章を頂戴し、いまも折あるごとに愛用させてもらっている。「自分がもっとも精神的に落ち込んだ時に彫った印章だから」という前置きつきでそれを頂戴したのだが、穴吹さんが身代わりになってすでに厄払いを済ませてくれていたせいか、この印章は私にとってはなんとも縁起がよいのであった。そんなわけだから、今後もその印章を多用して穴吹さんの全快を祈るとともに、あらためてここにいたるまでのその労をねぎらうことにしたいと思う。
故永井明さんとともに私がAICで原稿を書き始めてから足掛け九年が過ぎ去った。そのほとんどをいまも眠らせたままにしてしまっているが、これまでに書いた原稿は四百字詰め用紙で数千枚にものぼる。さまざまな紆余曲折はあったものの、これほどまでに多くの文章を書きためることができたのも、ひとえに穴吹さん、さらにはアサヒ・コム並びに、アスパラクラブ運営関係者のおかげだと、いまは感謝の気持ちでいっぱいである。この三月を最期にAICも終わりを迎えるようなので、必然的に今月末で私もまた九年間にわたった拙筆を収めることになる。さすがに寂しい思いもしなくはないが、時の流れには抗いようがない。