「まず、トイレだけどねえ、小のほうはあとできれいに掃除しておけばよいから、当面は問題ないけど、大のほうについてはなにか方法を考えないとね。まあ、僕はもともと田舎育ちで、糞尿の汲み取りも肥やし造りもずいぶんと体験してきた人間だから、君の排泄したシロモノが浮いているのを目にしながら、その上から自分の用足しをするのなんかなんでもないけど、君は僕の出したシロモノを見たりその臭いを嗅いだりしながらながら用を済ませることなんかできないだろね……、でも、自分のモノだったらある程度は平気なんだろう?。なんなら、この旧館に二つあるトイレを僕と君とで別々に使うようにしたっていいんだけどね」
「たとえ自分のシロモノを眺めながらだってそんなことするの嫌ですよ……」 「やっぱり、君は都会っ子なんだなあ。じゃ、暗い夜の庭の片隅にでも行って穴を掘ってそこで用を済ませるかい?……でも、それだと手も洗えないことだし、そもそも、この別荘の持ち主の方に申しわけないからねえ。そこで、どうしたらよいかを、君がトイレに行きたくなる前に君是非とも考え出してもらいたいね」
私はニヤニヤしながら、Kに向かってそう問いかけた。もちろん、こちらにはそれなりの算段があってのことだった。 「やっぱり、遠くてもコンビニに行くか、公園のトイレを探しでもするしかないと思うんですけど……」 「あのさあ、この別荘内の台所周辺や物置きなんかにはバケツが何個かあるんだよねえ。それを使ってなんとかならない?」 「それで水を汲んでくるんですか……、でも、それだとバケツを持って水場のある公園か公衆トイレにでもいかないとなりませんが……」 「相変わらず頭が固いねえ。あのさあ、ここは山中湖の湖畔だよ。なんのために山中湖があるわけ?……湖面まで二十メートルと離れていないんだよ!」 「あっ、そう言われてみればそうですよねえ」
いささかじれったくなって私が発したその言葉を聞いて、ようやくKは私の意図を納得したのだった。それから、我々二人はバケツを手にボートハウスを抜けてすぐそばの桟橋まで往復し、山中湖の水を汲んでトイレのそばに運び込んだ。 「それで、君、このあとどうするつもりだい?……、水の入ったこのバケツをそのままここに置いておくわけ?」 「大をしたあと、この水で流せばいいんでしょう?」 「でもねえ、お尻を拭いたあと、このバケツの水を流してやっても水圧がかからないからうまく流れないかもしれないよ。それに手も洗わなければならないしね。まあ、湖畔の渚まで行って手を洗っても構わないけど、面倒だろう?……だから、もうちょっと頭を働かせないとねえ」 「はあ?……、でも、いったいこれ以上どうしろと……」 「君は水洗トイレのタンクの中を覗き、その構造を調べてみたことなんかないのかい?」 「いいえ、そんなことしたことありません」 「じゃ、水洗トイレが故障した時にはどうするわけ?」 「水道業者に電話をかけ、修理に来てもらえばいいと思いますが……」 「すぐに来てもらえない時にはどうするわけ?……、それに水洗トイレが故障するたびに業者を呼んで修理してもらっていたら、お金も手間隙もかかるだろう。水洗トイレの構造なんか簡単なものなんだし、部品はどこにでも売ってるんだから、男の子だったら故障の時には自分で修理できくらいにはなっておかないと駄目だろう?」
私はそう言いながら、水洗トイレのタンクの蓋を開け、Kに向かってボール状の浮きとそれに連動した弁の開閉の原理をはじめとするその構造を一通り説明してやった。そして、そのあとでもう一度問いかけた。 「君がその構造を理解したところで訊くけど、それで、このバケツの水をどうすればいいと思うかい?」 「タンクに入れるですか?」 「当たり前だろう。旧館と新館合わせて四箇所トイレがあるから、全部のタンクの水を一杯にしておけば、大のほうを処理するんだって当面はそれで間に合うだろう。そのあと水を入れたバケツを洗面所に置いておけば、それで手や顔くらいは洗えるだろう。バケツを持って何往復かしなければならないけど、新館のトイレのほうもふくめてあとは君の仕事だな。いいかい?」 「ええっ、新館のほうは僕一人ではちょと怖いんですけど……」 「さっき各部屋の明かりも灯してきたことだから、屋内は結構明るくなってるよ。だからなんにも心配いらないよ。今夜は僕が旧館のトイレを使い、新館のほうのトイレを君に使ってもらうことにするからね」 「そんなあ……、せめて、泊まるほうの旧館のトイレを先生と一箇所づづ別々に使うことにしてくださいよ」
真顔でそう頼み込んでくるKを冗談半分にあしらいながら、私は次の準備にとりかかった。その間にKのほうはともかくも四箇所のトイレのタンクの水を満たし終え、最後に運んできた水入りのバケツ二個を洗面所のそばに並べ置いた。 「K君、今夜は残念ながら風呂には入れないけど、どうしても汗を流したいかい?……ちょっと面倒だけど、頭を使えば行水の真似事程度のことなら出来るけどね」 「できればそうしたいですけど……、でもその行水ってなんのことですか?」
「昔の人はね、大きなタライなんかがあったから、それを庭先に出して沸かしたお湯を入れてね、ほどよい温度になるまで水で割ってそれにはいって汗を流したり身体を洗ったりしたものなんだよ。水道の完備した現代とは違ってね、井戸で水を汲んで離れたところにある風呂場まで運ぶという作業を何度も繰り返しながら風呂釜を一杯にし、それを沸かしてはいるのは結構大変なことだったんだよ。だから人手のすくない家庭などでは毎晩風呂を沸かしてはいるなんてことはできなかった。風呂に入るのが一週間に一度とか十日に一度とかいうのは一昔前の田舎などではごく当たり前のことだったんだよ。その点、行水はお湯も水も少なくてすむから、とくに夏場などにはお風呂代わりによくおこなわれたものなんだ」
「そうなんですか。でもここにはタライなんかないですよね」 「だから、ちょっとだけ頭を使って工夫をするんだよ。君はこれからすぐに小さいほうの風呂場の浴槽をバケツで汲んできた水を使って綺麗に洗い流し、そのあと栓をしておきたまえ。僕のほうは台所の大きなヤカンや大鍋などに湖水を汲んできて、ガスレンジをフルに使ってそれを沸かすからね。陶器かなにかの大きな容器があるようなら、電子レンジも併用してお湯を沸かすことにするさ」
そういうと、私はヤカンや大きな鍋などを探し出し、それらの容器一杯に湖水を汲んでくると、すぐにそれを沸かしにかかった。土鍋を利用して電子レンジでも湯を沸かした、そして沸いたはしからその熱湯を浴槽に運んで注ぎ込み、そのいっぽでKに水を汲んでこさせ、適温になるまで水割りさせた。二人でそんな作業をしばらく続けていると、ほどなく浴槽の二分の一近くまでお湯が溜まった。そこで私はKに言った。
「じゃ、僕のほうが先に浴室に入って、浴槽の中には浸からずに湯を汲み取ってそれで身体を洗って出ることにするよ。だから、あとから入る君のほうは、湯を汲みとって身体にかけるなり身体を洗うなりしたあと、直接に浴槽の中に入ってちょっとした行水気分を味わい、最後に栓を抜いて残ったお湯を流し出てきたまえ……。頭は使いようだろう?」 「そうですねえ。水を汲みに往復するのはちょっと面倒ですけど、慣れるとたいしたことじゃありませんねえ」
すっかり納得したようにそう話すKをあとに残して浴室に入ると、私は手際よく汲み出しだお湯で身体を洗い、すぐに外へ出た。続いて浴室に入った彼もしばらくすると、「いやあ、少ないお湯でもなんとかなるものなんですねえ」と言いながら、いかにもさっぱりとしたような様子で再び姿を現した。彼が湯を浴びている間に、私は桟橋の先端にいきヤカンと鍋とに汲んできた水を火にかけ、十分な時間をかけてぐらぐらと沸騰させ続けた。それから彼に向かっておもむろに言った。
「沸騰したこのお湯で持ってきたカップラーメン屋やインスタント味噌汁を作って食べようか。お茶を入れたりコーヒーや紅茶を入れたりしてもいいし、なんならこのまま飲んでもいいさ。そのほかの調理に用いたって構わないよ。また、冷ませば歯を磨いたり嗽をしたりするのにも使えるしね」 「ええっ!……先生、それって山中湖の水なんでしょう?……大丈夫なんですかあ?……お腹こわしたりしません?」 「あのねえ、君が飲んでいる東京の生の水道水よりはずっと安全だよ。あの桟橋の先あたりの水は山中湖の中でも結構綺麗なほうだし、それを十分に沸騰させ殺菌して使うわけだからまったく問題ないよ。年中それを使い続けるのならまだしも、たった二日や三日間この沸騰水を飲み続けたからといって身体に悪い影響なんか出やしないさ。要は心理的な問題だけなのさ」
「でも、わざわざそんなことする人いませんよ」 「そりゃそうだろう。でもねえ、大地震のような予想外の非常事態が起こった時に備えて君にもこのくらいの経験はさせておかないとと思ってねえ。それで敢えてこんなことをやらせてみているのさ。もう少し科学的に物事を考えてみたまえ、別に東京あたりの下水の汚水を沸かして飲もうというわけじゃないんだよ。いろいろな薬品や溶解物が混入している東京の水なんかより、この煮沸水のほうがよっぽど安全だと思うし、味たってよいはずだよ」
「うーん、言われてみれば、それはそうなんですけど……、でもやっぱり……」 「君は昼間、山中湖でワカサギを釣ってる人を見たろう。ワカサギを釣った人たちはそれを食べるんだよ。水道の水で洗ったって、山中湖の水の成分が染み込んでいるワカサギの体内まで洗えるわけじゃない。なのにそれを食べたってなんともないんだよ。じゃあ、まず、僕がこの熱湯でカップラーメンを作って食べて見せるから、そのあとで君も真似してみたまえ。もし、君のお腹が痛くなったりしたら、もちろん責任はとるさ……」
そう言い終えた私は、Kの目の前で沸かしたてのお湯を使ってカップラーメンを作り、それをうまそうに食べて見せた。半ば呆れ顔でその様子を見守っていた彼も、ついに意を決して同じ熱湯でカップラーメンを作り、恐る恐るそれに箸をるけたのだった。そして食べ終えると一言感想を述べた。
「いやあ、別になんの変りもありませんね。美味かったです……」 「そうだろう?……何事も経験してみるにかぎるんだよ。まあ、夜中にお腹の調子が悪くなってもトイレの準備もできたことだから、大丈夫だしね。あと、バケツにもう一杯水を汲んできて洗面所に置いておいてくれるかい」 そう言うと、私は持参した食材をもとに、煮沸したお湯を使って簡単な次の調理にとりかかった。
お知らせ この「マセマティック放浪記」の中で折々執筆させていただいてきた「自詠旅歌愚考」の中の短歌から抜粋した八首と、それぞれの歌のために若狭の渡辺淳画伯が描いてくださった挿絵とを組み合せた短歌絵葉書(八枚一組)ができあがりました。私の拙い短歌はともなく、渡辺淳画伯の絵は大変に素晴らしいものですので、関心のおありの方は是非ともhttp://nansei-shuppan.com/にアクセスし、その詳細をご覧いただければと存じます。