(亀井勝一郎の作品にいざなわれて) 昨年の11月の連休、私は久々に大和路を訪れた。折から開廟中の夢殿では救世観音の尊顔を仰ぎ見ることができるし、鑑真ゆかりの唐招提寺では大改修中の金堂の様子を間近に見学できるということもあったのだが、大和路再訪の最大の理由は青春の日々の足跡をいま一度見つめなおすことにあった。
高校3年生の秋のこと、私はある神社の縁日の出店で偶然に1冊の文庫本を入手した。真新しい文庫本がたった5円で売られていたので、その安さに惹かれてなんとなく買ったというのが正直なところだった。そのあと3カ月間ほどその本は机の片隅に積み置かれたままだったのだが、ある日、ちょっとしたきっかけから、私はふと思い立ってその本をあらためて手にしたのだった。それは亀井勝一郎の「愛の無常について」という角川の文庫本だったが、冒頭部を読み始めた瞬間から私はその華麗な文体と深い思索の虜になってしまった。そして憑かれるようにしていっきにその本を読み終えた。まさに己の人生を左右する1冊の本との劇的なめぐりあいであったと言ってよいだろう。
己の内面を述べ語るには言葉が未熟だった当時の私にとって、その文章は不安と苦悩とに苛まれる孤独な胸中を的確に代弁してくれるものであった。しかも、深いそれらの迷妄を克服するすべさえも示唆してくれるものであった。その本の最終章「永遠の凝視」を読むことによって、私は仏性の本質ともいうべき「慈眼」というもの真髄を教わった。大学に進学した私は、亀井作品を次々に探し当ててはそれらを片っ端から読みあさった。その中の1冊「大和古事風物詩」には、大和の寺々やそこに安置されている仏像についての卓越した考察が流麗かつ克明な文章で語り綴られていた。
その文章にひとかたならぬ感銘を覚えた私は、筆者の足跡をその記述通りにたどりたいと思い立ち、ある晩秋、同書を手にして大和路へと旅立ったのだった。貧乏旅行の極みみたいな旅ではあったが、私の胸は少なからぬ期待のゆえに高鳴り、ささやかな感性もまたそれなりに研ぎ澄まされていた。
大和路紀行の名著「大和古寺風物詩」は斑鳩の里の寺々についての考察から書き始められる。亀井勝一郎の大和の旅の起点がほかならぬ斑鳩の地だったからである。だから、私の大和の初旅も必然的に斑鳩の里が出発点となった。法隆寺金堂、宝蔵殿、夢殿、中宮寺、法輪寺、さらには薬師寺、唐招提寺と続く同書の記述に追随しながら、それらの寺々を私も順に巡り歩いた。開扉期でなかったので夢殿の救世観音を拝することはできなかったが、中宮寺の如意輪観音とは感動の対面を果たすことができた。
京都太秦広隆寺の弥勒菩薩とならび美しい木造半跏思惟の飛鳥仏として知られるこの国宝の観音像を、当時は手で触れられるほどの至近距離で仰ぎ見ることができたから、その感動もひとしおだった。あまりの美しさに魅せられた京大の学生が広隆寺の弥勒像の小指を折り取るという事件が発生したのも、そのような人仏至近の時代背景があったからにほかならない。いまではとても考えられない話ではあるけれども・・・・・・。
西洋の古美術研究家フェノロサらがアルカイックスマイルと名づけた菩薩像のその永遠の微笑みは、亀井勝一郎の説く永遠の凝視、すなわち仏の「慈眼」のなんたるかを無言のうちに物語ってくれるようなものであった。一口に言えば、それは、来し方も行く方も知れぬ苦悩と不安と矛盾とに満ちた人間の生を全面肯定してくれる微笑み、すなわち、愚かで無知で欺瞞だらけの我々人間の生を未来永劫にわたって温かく見守ってくれる救済の微笑みにほかならなかったのだ。
斑鳩の里に続いて私は西の京を訪ね、薬師寺と唐招提寺に参詣した。当時の薬師寺はまだ西の塔が復元されておらず、白鳳様式の美しい構造をもつ東の塔だけが秋空高く聳え立っていた。同じく白鳳様式の伽藍である薬師寺金堂では、薬師三尊と呼ばれる薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の白鳳期金銅仏と対面することもできた。さらに薬師寺のすこし北に位置する唐招提寺では、天平勝宝六年(745年)、度重なる艱難辛苦の末に唐から我が国へと渡来した鑑真和上過海大師の遺徳をその墓前に偲び、「天平の甍」として名高い見事なしび鴟尾をその棟上に戴く金堂の前に佇んでは1200年余の昔に遠く想いを馳せめぐらせることができた。
(歌人会津八一との出合い) そしてまた、この旅において私はいまひとりの人物と、より正確に言えばその人物の残した一首の短歌と運命的な出合いをすることになった。当時すでにその人物は他界していたが、ほかならぬ救世観音の姿を見事に詠みきったその短歌は、亀井勝一郎の説く「慈眼」なるものを亀井とは異なる切り口と表現をもって後世に伝え残そうとしたものだった。
その人物とは「秋艸道人」を自称した歌人会津八一、そして、彼独特の仮名文字分かち書きで表わされたその一首とは、「あめつちに われひとりゐて たつごとき このさびしさを きみ はほほゑむ(天地に我独り居て立つ如きこのさびしさを君は微笑む)」というものだった。「きみ」という言葉が救世観音を指していることは言うまでもないことだった。その旅において私は救世観音と直接対面をすることはできなかったが、この短歌を介して救世観音との心の対面を果たすことはできたのだった。しかもそのことによって、未熟な己の目で直に仰ぐよりもずっと鮮明に救世観音の慈悲に満ちた姿に接することができたのであった。
会津八一がこの歌で言わんとする「さびしさ」とは、どこから来てどこへと行くのかわからないまま最期の瞬間まで生の旅路を独り歩き続けていかなければならないという、人間の宿命ともいうべき「根源的な存在の不条理」に根差す寂しさであることは明らかだった。「青白い月光の降り注ぐ広漠とした氷原上を、身も心も凍る寒風に晒されながら、行く手の様子も知れぬまま、行き倒れ覚悟で独りどこまでも歩き続けねばならない孤独感と寂寥感、そしてまた、救い難い迷いと矛盾と欺瞞とに満ちみちた人生に身を委ねつつ、なんの救いもないままに独り自力で立ち続けるしかない絶望的なまでの孤立感――そんな遣り場のない人間の根源的なさびしさを救世観音は永遠の微笑み、すなわちその慈悲の眼をもってじっと見守り包み込んでくれている」――私はそんなふうにこの歌の意味を読み取ったのだった。
「わたしにはあなたがた人間を直に助けてあげることはできません。どんなにその生の旅路が辛いものであろうとも、詰まるところ歩いてゆくのはあなたがた自身なのですから……。でも、わたしには、あなたがたの旅ゆく姿を永遠の凝視をもって見守り続けることはできるのです。微笑みをもってあなたがたの生のすべてを肯定してあげることはできるのです。迷うこともあるでしょう。過ちをおかすこともあるでしょう。苦しむこともあるでしょう。そしてまた悲しむこともあるでしょう。人間とはもともとそういうものなのですから……。でも、それはそれでよいのではありませんか、それこそが生きるということにほかならないわけなのですから……。さあ、もう一度立ち上がって歩いて行きなさい。わたしはあなたがたをいつまでもいつまでも温かく見守ってあげますから……」
夢殿の救世観音の前に初めて立ったとき、歌人会津八一は、その口元に微笑みを湛えながら観音像がそう語り囁きかけてくるのを耳にしたに違いなかった。会津八一のその歌に感動した私自身が人知れずその声に聞き入ったのとおなじように……。
東京に戻った私は「南京新唱」や「自註鹿鳴集」、「こんさい渾斎随筆」などのような会津八一の歌集や随想集に読み耽った。坪内逍遥の愛弟子で早稲田大学文学部教授をも務めたこの歌人との出合いによって、私は短歌というものの素晴らしさを認識させられるとともに、それを契機に自らも折々素人短歌を詠むようになっていったのだった。その後も私が幾度となく奈良盆地一帯の寺々を徘徊し、数々の名歌をものにした会津八一の足跡を丹念に辿りみたことはいうまでもない。
(唐招提寺は平成の大修理中) 昨年は会津八一の没後50年目に当たっていた。その意味からしてもその折の大和路探訪は感慨深いものであった。秋の3連休とあってお寺はどこも観光客で溢れ返っていたし、斑鳩の里に着いたのも午後の遅い時刻だったのでこの日は法隆寺の参拝のみをおこなった。東西に分かれる広大な敷地の西院側には飛鳥時代建立の国内最古の五重の塔、飛鳥仏の釈迦三尊像を安置した金堂、講堂、百済観音収蔵の大宝蔵院などが建ち並び互いに偉容を競っていた。人波にもまれながらそれらの伽藍を一巡したあと東院夢殿に向かった。この日は夢殿が特別に開廟されており、救世観音が拝観できるとあって、前庭には長蛇の列ができていた。
多くの研究者が異口同音に語っているように法隆寺は悲劇に彩られた寺である。聖徳太子の死後、太子の子孫とその一族は親族でもあった蘇我入鹿の軍勢によって攻め立てられ、この法隆寺で皆自害して果てた。聖徳太子の政所だった斑鳩宮あとに建つ夢殿はその象徴とも言うべき場所である。聖徳太子の姿の生き写しであるとも言われる救世観音は、明治初期フェノロサによってその姿が明かされるまで、全身を白布に巻かれ誰も目してはならぬ秘仏として畏れられ、廟内深くに封じ込まれたままだった。
「救世観音はくすんだ黄金色の肉体をもった神々しい野人であった。瞳のない銀杏形の眼と分厚い唇、その口辺に浮かんだ魅惑的な微笑、人間というよりはむしろ神々しい野獣ともいえるような御姿であった」と亀井勝一郎が描写した救世観音を遠目に拝し、その微笑の意味に再度想いをめぐらしながらこの日の夕刻、私は夢殿をあとにした。その夜の月はとても綺麗だった。斑鳩の里に宿を取っていた私は、月の晩によく大和一円を散策したという会津八一にならって法隆寺の周辺を歩き回ってみたが、往時の風情が偲ばれこのうえなく心満たされる思いだった。
翌日は法起式と呼ばれる独特の構造の秀麗な塔をもつ法起寺(ほっきじ)から同じく飛鳥様式の三重の塔をもつ法輪寺周辺をのんびりとめぐり、丘陵伝いの静かな遊歩道を経て、いま一度法隆寺東院に立ち寄り、夢殿に隣接する中宮寺に入った。亀井勝一郎が同寺の如意輪観音にちなんで「微笑みの庭」と名づけた白砂敷きの静かな庭を奥へ進むと如意輪観音を祀るお堂が現れた。五尺二寸の如意輪観音の深い思惟の奥底から湧きあがる永久(とわ)の微笑みは、いつもながらに私の愚かな心を励まし安らがせてくれた。
中宮寺をあとにすると、西の京に向かいまず薬師寺を訪ねた。青い秋空を背にすっくと立つ白鳳時代建立の国宝東塔の姿は律動感に富み息を呑むほどに美しかった。この塔は裳階(もこし)をつけているため六層に見えるが実際は三重の塔で、相輪の頂上に取り付けられた四枚の水煙には24体の飛天が透かし彫りになっている。会津八一はその水煙越しに見える秋空を「すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな」と詠んだ。久々にお顔を拝する国宝薬師三尊も、祈りそのものの権化とでもいうべき国宝聖(しょう)観音菩薩も健在だった。
秋の一日は短い。この日最後に足を運んだのは唐招提寺だった。国宝の金堂は老朽化が進んだため現在平成の大修理中で、屋根を含む堂宇全体を保護建築棟で覆い徹底した解体修理がおこなわれているところだった。そのため、棟上げからおろされた二尾の鴟尾のほか、天平期から伝わる屋根の複雑な木組みの有様などをもつぶさに観察することができた。その際たまたま耳にした解体修理担当者らの話はとても興味深いものだった。
大きな柱や梁の外からは見えない接合部分の切断面のあちこちには、金堂建設当時やその後に解体修理をおこなった時代の物の値段やもろもろの生活情報などが意図的に書き残されているのだという。その頃の人々の生活状況を知るうえでとても貴重な資料になるのだそうで、この平成の大修理においても、後世の人々のために同様の方法で現代の生活情報を書き残しておくのだとのことだった。一風変わったタイムマシンというわけで、なるほどと感心させられることしきりであった。
会津八一は鑑真の遺徳を偲ぶ「風月同天」の四文字を揮毫してこの寺に献げ、満月の夜にこの金堂の大円柱の列とその影を眺めつつ想いに耽り、「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」という有名な一首を詠んだ。会津八一が「風月同天」という文字を揮毫して献上したのは、彼の胸中に次のような故事が想い浮かんだからだろうと推測される。
「唐鑑真過海大師東征伝」などによると、聖武天皇の命を受けて唐に渡った栄叡らは、鑑真に対して、「仏教の教えは遠の昔に日本に伝わってまいりましたが、その教えが好き勝手に解釈されて国中に広まるだけで、仏教本来の教えを正しく伝えることのできる人物が我が国には一人もいない有り様です。昔、聖徳太子は、いまから200年後に仏教は我が国で興隆をみるであろうと予言なさったのでありますが、いよいよその時が到来したようでございます。どうかお願いでございますから、この際ぜひとも我が国にお渡りくださり、真の仏教を説いてその一大興隆をはかるとともに、跡を継ぐべきすぐれた仏僧の育成と指導にお力をお貸しいただけませんでしょうか。ぜひとも私どもの心の師となってくださいませ!」と弁舌巧みに日本への渡航を懇願したらしい。
状況的にみて、どうにもできすぎた話だから、とてもそのまま信じるわけにはいかないが、渡唐の真意を懸命に訴えかける栄叡らの言葉を聞いていた鑑真は、「伝え聞いているところによりますと、私たちの宗派天台宗の祖師であられる南岳恵思禅師は、お亡くなりになられたあと、日本の王子に生まれ変わって仏法を興隆し、衆生を救われたとのことです。また、日本の長屋王は、千着もの袈裟をつくって私たちに贈ってくださったのですが、それらの袈裟の一端には、山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁、という四句が刺繍されてもありました。私は、日本こそは真に仏教の興隆を願っている国だと思います。いま私の話を聴いていてくれるあなたがたのなかで、誰か日本に渡って真の仏法を伝えてくれるような人はありませんか」と並みいる弟子たちに問いかけたのだという。その言葉の中の「山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁」の四句を私なりに創意訳してみると、およそ次ぎのようなことになると思われる。
たとえ山川の景観の異なる別々の世界であろうとも、それぞれの地を吹き渡る風や、それぞれの世界を照らす月影は、同じ天をめぐる共通の存在ではないか。仏の道を信じる者は、国やその立場を超えて一堂に会し、心を一つにして協力し合い、お互い同じこの世に生まれた縁を大切にしながら、共に手を結んで未来に向かって歩もうではないか。
鑑真の問いかけに並みいる僧は皆黙り込んだままだったというが、ついに、祥彦という一人の修行僧が進み出て言った。
「日本は大変に遠いため、生きてその地に行き着くのは至難の業だと聞いております。果てしない大海原を渡らなければならないため、百人に一人さえも無事にその地に到着するのが難しいと申すではありませんか。ひとたび落命すれば、人として再びこの世に生を得ることは難しく、ましてや、この中国に生まれることなどもはや望むべくもないことでしょう。しかも、私どもはまだ修行中の身なのですから、ここにいる誰もがいまの師のお言葉に即応することができないのでございます」
すると、鑑真はその言葉を待っていたかのように、弟子の一同に向かって毅然としてこう言い放ったのだという。
「これはひとえに仏法を伝えるためなのです。お経のなかの教えにもあることですが、仏法を広めるには、自らの身命を惜しんではなりません。誰も私のかわりに行かないというのなら、私自身が行くことにしましょう」
こうして、唐においても並ぶ者がないといわれた戒律の大徳、鑑真の日本渡航が実現に向かって動き出したのだという。会津八一が揮毫した「風月同天」の四文字にはそのような背景が秘められていたのである。
金堂修理中のため、大宇宙を表わすという本尊の盧舎那仏を拝観することはできなかったので、私はまず八一の歌碑の前に立ち、そのあと境内の最奥にある鑑真の墓前にしばし佇んだ。そして、そんな私の胸の中を青春の日々の懐かしい想い出と、不思議なほどに凝縮された時間とが激しく逆巻き流れ去っていった。