エッセー

27. 上海駈足紀行(11)

目的地の烏鎮(ウーチン)に着いたのはもう午後5時近くだった。広い駐車場の奥のほうには大きな駅舎風の大門があり、そこが烏鎮集落の入口になっていた。烏鎮は「烏鎮東柵景区」という特別な景観保護区になっているため、そこを見学するには入口脇の事務所で門票を購入しなければならなかった。門票とは烏鎮集落一帯の各種施設や諸々の旧跡を見学するのに必要なチケットのことで、その料金は60元であった。もう閉門間近な時刻だったのだが、Fさんの手際よい対応のお蔭で、我々はなんとかその景観保護地区にぎりぎり滑り込むことができた。

係員に門票を提示してその景観保護区内に一歩足を踏み入れてみると、すぐ近くには満々と水を湛えた水路が広がり、それに面するかたちで小さな船着場があった。そこで我々を待っていてくれたのは一艘の手漕ぎの川舟だった。我々がその小舟に乗り込むと、櫓を握る中年の男は慣れた手つきで舟を水路の奥へと漕ぎ出した。そして、行く手に架かる石造りの太鼓橋をくぐると、ほどなく舟は左右に延びるより大きな水路である東市河へと出た。その地点で大きく左手方向に曲がった舟は、見るからに詩情豊かなその水路を右側をそのまま静かにどこまでも直進し始めた。

「現代中国最後的水没家屋」というキャッチフレーズが何を意味するのかを了解したのはその時であった。烏鎮は日本の潮来など同じような昔からの水郷集落なのだった。「水没家屋」とは白髪三千丈的ないかにも中国らしい大仰な表現なのだが、要するに、鏡のように静かな水面の広がる水路の両側に、まるで水辺に沿い接するかのように軒を連ねて建ち並ぶ古い民家の光景のことだったのだ。杭州湾に近いことから、大嵐の時などは異常な高潮などが原因で大洪水が発生し、実際にそれらの家屋の多くが浸水したり水没したりすることもあったのかもしれない。だが、けっして日常的に民家が浸水状態や水没状態にあるというわけではなかった。あとで調べてみたところによると、烏鎮は北京と杭州を結ぶ全長1800kmもの京杭大運河の沿岸に栄えた古い町のひとつなのだそうだった。ただ、古来何度も改築や改修が行われてきたために、現在の街並みの多くは100年くらい前のものだと考えられているとのことでもあった。

ゆっくりと舟が進むにつれて、両岸の古風な造りの家々が前方からその影を大きくしなが徐々に近づき、そして今度は逆にその影を次第に小さくしながら後方へと遠ざかっていった。夕暮れ時の運河の静かな水面に映る倒立した家並みの影や、美しい枝垂れ柳の影をじっと見つめやっていると、まるで一時代昔にタイムスリップしたような気分になり、胸中の旅愁はいやがうえにも深まりゆくばかりだった。舟は見るからに風情ある大きな石橋の下を何度もくぐり抜けたりしながらどこまでも進み続けた。舟の上から眺めやると進行方向右手の家並みがことに美しく、そしてまた趣き深くも感じられた。時折逆方向に進む舟ともすれ違ったりしたが、巧みに櫓を操る男たちの姿といい、独特の櫓の動きといい、さらには櫓の軋む音といい、これまた烏鎮というこの特別な場所ならではのもののように思われた。

実をいうと、甑島で暮らしていた少年時代、私は機会あるごとに小舟の櫓を手にして育った。それゆえ今でも櫓を漕ぐことは得意なのだが、最近の日本では、自ら櫓を漕ぐ機会はおろか、舟人が櫓を漕ぐ姿を目にする機会すらなくなってしまった。だから、櫓によって操られる小舟との久方の出合いは、私にとってなんとも懐かしいかぎりではあった。私たちの乗る烏鎮の川舟の櫓は水中に浸かっている先端部の幅が極端に広くなっていた。和船の櫓の先端部は胴部とそう違わない幅をしているか、むしろ狭めでさえあるために、ちょっと意外な印象を受けはした。だが、海と違ってほとんど波の立たない静かな運河の水面を往来するにはそのほうが効率的で、得られる推力も大きいのであろう。叶うものなら自分にも櫓を漕がして欲しいと胸中密かに思いはしてはいたが、状況的に考えてさすがにそればかりは断念せざるをえなかった。

しばらくすると、舟は大きな橋のたもとにある船着場に着いた。そこは東市河が南北河市河と交差する地点のすこし手前付近であるらしかった。舟を降りた我々はFさんの先導で橋を渡り、すぐ近くの広場奥にある寺院風の古い建物や、そのすぐ隣にあるこの地方独特の伝統影絵劇の資料館に入ろうとした。しかし、すでに閉館時刻にを過ぎているということで、残念ながらその中を見学することはできなかった。

そこで、我々は、先刻舟の右手に見えていた運河沿いの集落の中を通り抜け、途中でいくつかの展示館などを見学しながら大門のある駐車場へと戻ることになった。細長い集落を抜ける通りには東大街という名がついていたはが、それは両側を民家やその土壁で挟まれた細く狭い道だった。だが、それはまた、昔の中国庶民の生活ぶりがそっくりそのまま偲ばれるなんとも情趣豊かな道でもあった。運河を含む集落ごと景観保護地区に指定されているため、いまもなお、そのように昔ながらの姿をしっかりと留めているのだとのことだった。

集落に住む人々が通路脇のあちこち座し、和気藹々何やら雑談を交わしつつ、そばを通り抜ける我々の様子を上目遣いでさりげなく窺っている姿なども、昔ながらの懐かしい光景のひとつといえた。好奇心に満ち満ちたそんな人々の視線には、現代人によくありがちな嫌みなどではなく、ある種の温もりのようなものが感じられてならなかった。通路からは直接運河を目にすることはできなかったが、ところどころに運河に通じるごく細い路地が設けられていて、そこから周辺の水面の様子を垣間見ることはできた。

東大街をしばらく進むと木彫り陳列館の前に出た。噂には聞いていたが、中国の国宝にも指定されているという当館の木彫り彫刻群の凄さは私の想像をはるかに超えるものであった。三重四重に層をなして立ち並ぶ百人百様の姿と形をした人物像群、気の遠くなるほどに複雑な構造をもつ立体的な透かし彫りの装飾彫刻群――それらは巨大な一木を素材にし、想像を絶する技術をもって彫り上げた作品なのだった。おそらくは、この江南地方に遠い昔から伝承されてきている技術で、日本の飛騨地方あたりに伝わる高度な木彫技術などのルーツもこのあたりにあったのではないかと思われてならなかった。

この陳列館の中央には大人三人が手をつないでようやくその周りを取り囲むことができるくらい太い柱があった。そして、その土台部から天井部にかけては何段にもわたって多種多様な神仏彫刻群が彫り重ねられていたが、これまた思わず息を呑み、さらには感嘆の溜息をつきたくなるほどに素晴らしいものばかりだった。

広大な敷地をもつ藍染工房の宏源泰染坊も面白そうだったが、すでに夕闇の迫る時刻でもあったので、藍染めの実作業の様子を見学することはできなかった。ただ、藍染めした長布を干すための高い支柱群やそれらの間に渡されている横木の構造には、あれこれと効率よく乾布作業を進めるための工夫がなされており、なんとも興味深いかぎりだった。

昔の大富豪の家の華麗このうえない造りの部屋をそのまま保存した百床館や、その隣の民俗館になども一応は足を踏み入れた。むろん、閉館時刻をとっくに過ぎてはいたのだが、入口に管理人らしい人影が見当たらないのを幸いに、図々しくそれらの展示館に飛び込んというわけだった。だが、さすがに、数ある展示物や展示資料をゆっくり見て回るというわけにはいかず、結局、文字通りの慌しい駈足見学に終わってしまった。そこから、烏鎮東柵景区、すなわち、景観特別保護区の最奥まで向かう途中においては、運河沿いの家々に住む人々が昔風の薄暗い灯火のもとで夕食を取っている姿などが見かけられたりし、ほのぼのとした気分にさせられもした。もちろん、自分の幼い頃の生活ぶりをその情景に重ね見たからであった。

景観保全地区の最奥まで行ったところで橋を渡って運河の対岸へと渡り、駐車場のある大門へと向かったが、古い家並みに点々と灯る明かりが宵闇に包まれ静まりかえった水面に美しく映えわたり、幻想的なことこのうえなかった。かなりの強行軍を承知の上でわざわざこの烏鎮に案内してくれたFさんに感謝しながら、我々一同は再び大門をくぐり駐車場の車へと戻り着いた。

烏鎮から高速道路を走って上海へと戻る途中、例の別荘地帯かとおぼしきあたりを通りかかったが、明かりらしいものがわずかに点在して見える程度で、昼間あれほどに私たちの目を惹いた瀟洒な造りの建物群は宵闇の奥深くに姿を隠してしまっていた。人が住んでいない建物が多いというばかりでなく、電力の使用も極力抑えられている感じで、夜の上海の凄まじいばかりの光の洪水をいったん目にした者にすれば、それはなんとも理解に苦しむ不可思議な光景だった。

しかしながら、車が上海地区に入り上海の中心部へと向かうにつれて再び光の乱舞が見られるようになった。しかもそれはほどなく光の渦となり、さらには光の大洪水へと変わっていった。上海の中心街へと戻った我々は、折角の機会だからというわけで、当地の珍味として名高い上海蟹のコース料理を食べてみることになった。そのため、ちょっとした贅沢ではあったのだが、当地でも名の知れた蟹味館という上海蟹料理店に足を運び、名物蟹の美味のほどを楽しむ手筈とはなった。もちろん、そのお店を手際よく手配してくれたのはほかならぬ名ガイド役のFさんだった。

度々噂に聞いていた上海蟹とは湖水や川に生息する川蟹の一種らしく、毛蟹などに比べるとひとまわり小ぶりな感じだった。子供の頃に育った島で、地元の人がヤマタロウガニと呼ぶハサミに毛の生えた川蟹を捕って食べたものだったが、姿形がどこかその蟹に似た感じであった。コース料理を注文した関係で、上海蟹を素材にしたさまざまなバリエーション料理が続々と登場してきたが、もちろんその基本となるのは、他の蟹の場合と同様に上海蟹を丸ごと茹でただけのものだった。その味はなかなか繊細でさすがに珍味といわれるだけのことはあった。もっとも、これは個人的な味覚の問題もあるので一概には言い切れないのだが、その折の正直な感想を述べるなら、すくなくとも私には日本の毛蟹やズワイ蟹のほうが美味でもあり食べ応えもあるように感じられてならなかった。

次々に運ばれる上海蟹のコース料理に我々一同はすっかり満腹になり、贅沢な話ではあったのだが最後はもう誰も食べきれなくなってしまい、出された料理のかなりの部分を残す羽目になった。そして、そうこうするうちに閉店時間も迫ってきたので、それからほどなく我々は蟹味館をあとにし、浦東にある宿泊ホテルへと戻り着いたのだった。

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