マセマティック放浪記

エッセー

31.「硫黄島からの手紙」を観て

新春早々の1月3日の夜遅く、最寄りの駅前の映画館に飛び込んで映画を観ることにした。午前零時ちょうどに上映開始という深夜興行のせいもあってか、広い館内はがらんとしていて、観客は私を含めても10人足らずのものだった。新しい映画館なので総合的な設備も素晴らしく、客席のシートの坐り心地も抜群で、そのうえにレイトショウときていたから、料金も1200円と格安だった。その夜に観た映画は昨今大きな話題になっている「硫黄島からの手紙」だった。

 生来あまり素直ではない気性のゆえもあって、マスコミで大評判となるような映画やベストセラー書籍があったりしても、すぐにそれらに飛びつくようなことはしない。かりにその種のものを観たり読んだりすることがあったにしても、ブームが去ってそれらの存在が世間から忘れられるような頃になってからか、さもなければ仕事がらみでどうしてもそうせざるをえない場合にかぎられる。しかし、なぜかこの映画については初めからすくなからぬ関心があった。

 沖縄と硫黄島とにおける日米間の決戦は、太平洋戦争史におけるもっとも熾烈な戦いであった。かつて沖縄に足を運んで戦場となった各地を訪ね歩き、さらには日米双方の各種戦史資料を読み漁った私は、それらの体験や知識をもとにして沖縄戦についての話を連載執筆したことがある(関心のある方は全バックナンバー中の1999年5月2日〜7月28日分をご参照ください)。
 そのため、沖縄戦についてはかなり詳細な知識をもっていたのだが、いっぽうの硫黄島戦についてとなるとほとんど何も知らないままであった。硫黄島で大激戦があり、指揮官の栗林中将以下の日本軍はほぼ全滅し、機動力を誇った米軍にも日本軍に劣らぬ数の死傷者が出たというくらいのことは知っていたが、具体的な戦いの様子やその前後の日米両国の軍事状況に関しては何の知識も持ち合わせていなかった。また、たとえそれらに関する知識を得たいと思っても、日常的には硫黄島に渡る手段そのものが存在しないうえに、硫黄島戦についての詳細な戦史資料の入手も容易ではないという事情などもあった。だから、実際に現地を撮影の舞台にし、硫黄島戦を日本側の観点から描いたというこの映画にはすくなからぬ関心があったのだった。

   一般上映に先立ってこの映画を観た著名なマスコミ人らが、異口同音に「この映画は日本で作るべきだった」と語っているのを見聞きしたが、映画を観たうえでの私の率直な感想は、「日本で作らなくてよかった。日本人が制作したとしたら、周囲の様々な思惑やよくありがちな陰の力などが働いたりして、とてもこんなよい作品にはならなかっただろう。そもそもこんな映画自体を作ることができなかっただろう」というものだった。
アメリカで制作された映画とは思われないほどに、時代考証や時代状況の設定には細心の注意が払われていた。個々の日本兵の抱える複雑な心情についても、クールな視線で当時の日本人の思想や立場を分析し、それらをもとにしてとても客観的な描写がなされており、欧米人が日本を描く場合にありがちなバター臭さなどはまったく感じられなかった。

 いまも硫黄島に残る当時の洞窟や塹壕跡などの諸戦跡をそのまま活かし、また摺鉢山や島を取り巻く浜辺などのような現在の硫黄島の自然環境を最大限に活用して撮影をおこなったのも成功の要因のひとつだったと思われる。
映画制作に先立っては、近年公表された栗林中将の書簡類、日本兵が家族らに出した書簡類、さらには米兵らが故郷の家族や友人知人に送った書簡類などが冷静に分析されたようである。米軍側の手になる戦闘記録映像その他の戦史記録類の研究分析や、栗林中将が米国に滞在していた頃の状況についての情報収集も的確におこなわれた様子が窺える。

 米軍の捕虜になったり、地獄よりも厳しい極限状況を生き抜き奇跡的に生還した数少ない日本兵の生存者らに対する直接取材や、元生存者らの手記などに基づく事実検証なども綿密におこなわれたふしがある。
いっぽうで、実際に硫黄島戦に参戦した米兵の生存者に対する取材も十分になされたに違いない。戦時中の日本社会の有り様もそれなりによく押さえてある。いずれにしろ、この映画の制作関係者の尽力には心からの敬意を表したい。

 もちろん、「硫黄島からの手紙」はドキュメンタリー作品ではないから、それなりの脚色もあれば、事実とは異なるストーリーを創作し挿入したらしい部分もある。
ロサンゼルス・オリンピックの馬術障害競技で優勝した西中佐が洞窟内で瀕死の重症の米軍捕虜の手当てをするように部下に厳命し、その米兵の死の直前まで深く心の通う会話を互いに交わすシーンなどはその典型的な事例だろう。
栗林中将が米国滞在に記念品として贈られ、戦闘中も常時携えていたコルト拳銃を使い最後に自害して果てたというのも、また遺骸を土中に埋めるように中将から依頼された下級兵士が、その任務を果たしたあと辛うじて命を取り留め捕虜になるというのも、むろん創作された話だろう。
また、栗林中将が最後まであの映画のように冷静であったかどうかについてはなんの確証もないわけで、当然、それに対する異論もあるに違いない。

 しかし、ひとりの人間としては間違いなく人道主義者であったと思われる栗林や西らのいつわりなき胸中の想いや、理不尽な状況下にあって本土に残した家族のことを案ずる下級兵士らの想いは、映画に描かれている内容とそう異なりはしていなかったことだろう。
栗林や西をはじめとする欧米通の軍人が意図的に硫黄島や沖縄のようなところに配属され、本土には精神主義に毒され現実認識能力のひどく欠如した無責任な指導者だけが残り、結果的に彼らの多くが生きながらえたのも事実だったのだろう。

 米軍が上陸してくる海岸線での潔い玉碎を主張し、その行為をなによりの美徳であり母国への最大にして最高の貢献であると信じて疑わなかった将校が多かったのもその通りだったに違いない。
それにもかかわらず、一種の自己陶酔とも思われる兵士らの単純な玉砕を極力制し、長い地下トンネルを掘ってそこに立てこもり、できるかぎり延命をはかりながら徹底抗戦する道を選んだ栗林の決断は、結果的には米軍に多大の被害をもたらし、その本土進攻を大きく遅らせることになった。
一般住民を硫黄島から退去させたのも栗林の賢明な判断だったといってよい。傍観者としての甚だ無責任な言い方を許してもらえば、早々に全面降伏してしまうのが最善の策ではあったろう。だが、現実にはそううまくいかないのがこの世の定めというものなのだ。心のどこかでそれが愚かな行為だとは感じていても、どうしても譲ることのできないプライドを抱き、それを死守しつつ行動せざるをえないのもまた我々人間の背負う悲しい性だからである。

 激戦の中で死んだ兵士の無残な遺体の有り様などはなかなかリアルに描かれていた。近頃の日本のテレビや映画の作品などは、残酷だという視聴者からの批判の声を恐れて、このような殺戮場面を不自然にぼかしたり美化したりして描く社会風潮があるが、そのようなことは明らかに間違っていると思う。
残酷さを目の当たりにしたことのない人間に残酷さのなんたるかなどわかりはしないからだ。戦争礼賛とはいかなくても、戦争を肯定しそれを必要悪だと考える昨今の一部政治家や、その扇動にやすやすと乗る若者らにはそのあたりのことを十分に考えてほしいものである。

 憎悪に満ち満ちた日本兵が助命を哀願する米軍捕虜を射殺する場面も、また、自らの身の安全と激戦の最中での保護監視の任務の面倒さのゆえに、生きる道を選んで投降した日本人捕虜を米兵らが射殺する場面もよく描かれている。そして、それらの場面は戦争というものが平静時における人間の理性の抑制をどれほどに超えたところにあるものかを教えてもくれる。

 この映画がアカデミー賞作品にノミネートされたと報じられているが、私自身はそれがアカデミー賞を受賞しようがしまいがそんなことなどどうでもよい。「硫黄島からの手紙」というこの映画制作の狙いは、究極的には勝者も敗者もいない戦争というものの虚しさと、それにもかかわらず、いったん戦争が起こってしまえば、おのれの本意などには関係なく、自らの属する国の誇りと存続のために命を賭して行動せざるをえない人間の哀しさを描くことにあったはずだからだ。

 旧陸軍士官学校卒の軍人で、戦時中満州の最前線にあったいまは亡き義父が、生前、しみじみと語ってくれた言葉が私には忘れられない。
それは、「かねて大言壮語を吐いているような者たちよりも、通常は穏やかで人に対する思いやりが深く、物静かで冷静な理性的行動をする人のほうが、生きるか死ぬかの戦場に立たされたら勇敢に戦い冷徹に振舞うものなんだよ。人と人とが殺し合う戦争というのはそういうものなんだ。本田君、君なんかも戦場に立てばきっとそうなるだろうな……」という言葉だった。
むろん、その言葉は、人一倍の人情家で晩年にいたるまで困窮した人々の面倒をよくみ、戦時中はむろん、戦後になってからも多くの元部下らから慕われ続けた義父が「戦場における自らの姿」をありのままに語ったものでもあったのだ(詳細は全バックナンバー2001年10月3日の「北旅心景・弟子屈」をご参照ください)。

 おそらくは取り巻きのブレーンらが陰でその骨子を纏め上げ、ゴーストライターの手を借りて仕上げられたのではないかと推察される「美しい日本」の表向きの筆者は、小泉内閣後期の官房長官として米国のイラク政策を支えながらその政治基盤を固め、北朝鮮の拉致問題でいっきに風に乗って総理の地位に駆け上った。
だが、その筆者がどこまで真剣に伝統文化なるものの維持を含めたこの国の将来のありかたを考えているのかは疑問である。その筆者を背後で支えていると思われる人物らの伝統文化擁護論の内容やその展開の手法にも私はいまひとつ馴染めない。その人々は口を揃えて、「自分たちは日本古来の伝統を尊重すべきだ主張しているだけで、一般の人々と同様に心から平和を望んでおり、戦争などすこしも肯定していないし、むろん奨励もしていない」と公言するに違いない。

 もしかしたらその通りではあるかもしれないその人々の言動は、しかしながら、無批判な多くの付和雷同者や将来に絶望しがちな現代の若者らの心をなんとも心地よく煽り立てる。そして、それがもとで悲惨な事態が起こっても、自分たちにはそんな意図はなかったなどと言い出すに違ない国体偏重主義者らの自己弁護にかかわりなく、煽動された者たちは国際的な紛争にもつながりかねない過激な行動に走るようになる。また、たとえ、そうではなくても、そのような行動を支持する心情を持つようになっていく。そのことを私たちは常々十分に警戒しておかねばならない。
 ただまあ、外遊先の空港で専用機から降り立つ首相夫妻の姿を見ていると、自分はちょっと考え過ぎなのかなという思いになったりもする。見るからにぎこちない感じで手をつないでタラップを降りる夫妻の姿は、首相自らが音頭をとる日本の伝統文化への回帰政策には明らかに馴染まないものである。
それが国際儀礼にのっとった作法だということで、欧米の大統領夫妻や首相夫妻らの真似事をしているのであろうが、日本の伝統文化を国内外に向かって云々するだけの器量のある人なら、従来の日本人らしく振舞えばよいのではなかろうか。
外国人から批判されたりしたら、それこそ、「これは日本の伝統文化にそったやりかたなのだ。別に手をつないで降りなかったからといって性差別をおこなっているわけではない」と毅然として反論すればよいだけのことだろう。

 もしも天皇ご夫妻が外遊先で手をつなぎながら飛行機のタラップを降りたりなさったら、それを見た日本国民は、それこそ日本の伝統文化は変ってきたと思い、それに倣う人々が続出するかもしれないが、さすがにまだそこまではいっていないようだ。総理夫妻のあのパフォーマンスが自主的なものなのか、それとも誰かの差し金によるものなのかはわからないが、見ていてなんだか恥ずかしくなってしまうのは、私のほうが首相夫妻などよりもよほど日本の伝統文化に毒されきってしまっているせいなのかもしれない。

 いずれにせよ、あのようなパフォーマンスをすることによって国際親善になんらかの好影響がもたらせるというならむろんそれは結構なことだが、それならそれで日本国内の各地を夫妻で訪問する時も、仲良く手をつないで行動するようにしてもらいたい。変らぬことも文化にとっては重要だが、そのいっぽうで時代とともに変ることもまた文化の特質であり宿命なのだから・・・・・・。真剣に国家の現状やその将来像を考えたうえでのことではない、政治屋にありがちなやすぽい場当たり主義の伝統文化擁護論なら、国民にとっては迷惑このうえない話である。

近著紹介

AIC本田成親マセマテック放浪記 で1998年12月9日から1999年4月21日まで掲載された甑島紀行エッセーをA4判縦書きの本にしました。

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