マセマティック放浪記

エッセー

「マセマティック放浪記」
1998年10月12日

八手の葉の意外な実像は? 

 この夏、仕事で上野に出向く機会があった。予定よりすこし早目に着いたので上野公園をぶらついていると、園内の片隅に八つ手の樹が生えているのに気がついた。なにげなく近づいて子葉の数をかぞえてみると、なんと九枚もあるではないか。
 まさかそんな?……と思いながらべつの葉を調べてみるとやはり九枚の子葉がある。なお我が目を疑いながら手当たり次第に子葉の数をチェックしてみると、意外なことが判明してきた。ほとんどの葉は子葉が七枚か九枚で、それらの葉のなかに、成長途中のものらしい三枚あるいは五枚の子葉をもつものが一定割合で混じっている。驚いたことに八枚の子葉をもつ八つ手の葉など一枚も見当たらないのだ。
 どうやら、八つ手の葉は、はじめ先端が三つに分かれたあと、外側の両子葉がそれぞれ二枚ずつに分かれて計五枚の子葉をもつ葉となり、さらにまた左右両端の子葉が二枚ずつに分かれて七枚の子葉をもつものへと成長するらしい。そして最後に七枚の子葉の両端がそれぞれ二分化し、九枚の子葉をもつ完全な「八つ手の葉」となるようなのだ。これでは「看板に偽りあり」もいいところで、八つ手の団扇がトレードマークの天狗様も真っ青の事態である。いや、案外、天狗様のほうはとっくにその事実をご存じで、よけいなことを騒ぎ立ててくれるなと、苦虫を噛み潰したような顔をしておられるのかもしれない。
 七と九の平均値は八だから、この植物を「七手」でも「九手」でもなく「八つ手」と呼ぶようになったのは、便宜上やむをえないことかもしれない。我が国では古来「八」という数字が全方位を表す縁起のよい数だとされてきたことなども、そんな呼称が定着した理由の一つではあるのだろう。だが、「八つ手」という呼称がその植物の実像に正しく迫るための観察眼を曇らせ、観念上の虚像を本物の像だと錯覚させてしまうとなると、話は笑いごとではすまなくなってくる。
 実を言うと、もともと理論とはこの「八つ手」という呼称のようなものである。ある一群の事柄の全体像を平均的にはよく表しているが、個々の事柄には必ずしもよく当てはまらない。換言すれば、理論というものは、個々の事柄のもつ極端に偏った特性を捨て、事柄全体にほどほどに当てはまる一般的な特徴や性質を「法則」としてまとめあげたものにほかならない。このようにして導かれた大小様々な理論は、相互に結びつき多重に積み重ねられてさらに大きな理論を構成していくことになる。したがって、理論が肥大化していくにつれて、見かけ上はどんなに立派でも現実とはどんどんかけ離れたものになっていくことが多い。そして、このような理論が盲信的あるは意図的に社会政策や生産活動に適用されるとき、目に見えない形で大きな不利益を被るのは我々一般市民なのである。
 肥大化した理論に疑問を抱いたとき、その欺瞞を見抜く唯一の手段は、自らの目を信じて理論の原点へと立ち戻ることである。七枚か九の子葉をもつものしかない「八つ手」の実像を見すえて、その呼称の表と裏それぞれのもつ意味を深く考えてみることである。この一連のコラムでは、いろいろな角度から折々そんなことなども取り上げてみたい。

「マセマティック放浪記」
1998年10月21日

蝉の音出すスピーカー 

 八つ手の話を書いていて、寺垣武さんのことを想い出した。「日本のエジソン」という異名をもつ寺垣さんは、工業界では半ば伝説の人物と化した天才技術者だ。
 理論というものは両刃の剣で、その限界や短所を見すえて用いれば未来を切り開く強力な武器にもなるが、見かけだけの正しさを鵜呑みにして振り回すと、発展を阻害し、一瞬にしてその命脈を断つ凶器となる。肥大化し現実から乖離した理論に疑問を抱いた技術者がとるべき道は、理論の原点に立ち戻って考えることである。
 だが、それはけっして容易なことではない。数式でものものしく武装され、一見完璧に見える理論の根底に迫り、問題点を的確に究明するには、卓越した能力や一貫した理念にくわえて、人一倍の勇気と良心を必要とするからだ。それだけの能力と資質をもつ技術者はきわめてすくない。寺垣さんは、我が国ではまれなそんな技術者の一人である。オーディオシステムΣ5000の開発だけをみてもそのことがよくわかる。
 寺垣さんは、ふとしたことから、専門外のオーディオの研究を始めて間もなく、アナログレコードに音響情報を刻み込むとき消費されるエネルギーに比べ、レコードから音を再生するときに要するエネルギーが小さすぎることに気がついた。そこで、最新のレーザー技術を用いて従来のアナログレコードに刻まれた複雑な溝の形状を精細に調べてみると、驚くほどに膨大な情報が隠されていることが判明した。それまでのプレイヤーは、再生に際して、アナログレコードがもつ音響情報のほんの一部しか読み取っていなかったことになる。
 プレイヤー自体の微妙な震動や内部の定常波の反射が原音情報に変調をもたらしていることも問題だった。極力変調を抑えるためラバー類や油脂類を一切排除し、軸芯やアームに特殊な工夫を凝らして寺垣さんが完成させたΣ5000システムは、何十年も前のモノラル盤レコードでさえも現代のCDを凌ぐほどに良質で立体感のある音響情報を秘めそなえていることを実証してみせた。
 そのいっぽうで、寺垣さんは驚異的な性能をもつスピーカーの開発にも成功した。わずかなエネルギーしか消費していない蝉の鳴き声が遠くまで響き渡る理由を追究したことが、新スピーカー開発のきっかけになったという。きれいに波長のそろった物質波は、低エネルギーのものであっても、いったん音波に変わると、やわらかく澄んだ響きとなって遠くまでよく通る。独創的な波動理論に基づいてバルサ材を素材に設計された薄型スピーカーは、たった3Wたらずの出力にもかかわらず、信じられないような音響と音色で大ホールを包み込み、何百人もの聴衆を感動させるという奇跡をも演じてみせた。
 近くで聴いても遠くで聴いても、前後左右どの位置で聴いても音質に変わりがないこの全方位型スピーカーは、過去の常識を超越した逸品中の逸品だと言ってよいだろう。その音を聴いたオーディオ研究者や音楽家たちは、皆、異口同音に驚きの声をあげる。
 寺垣さんは、CDをはじめとする最近のオーディオ技術は、芸術家に対する冒涜だとさえ語っている。収録された原音を忠実に再生するのではなく、技術者の感覚と判断で原音を変調したり加工したりして再生するからだという。
 Σ5000はCDの再生においても他のシステムを寄せつけない。だが、CDの情報は、原音の連続情報を人為的に強制分割し、不連続なデジタル情報に変換入力される時点でかなりの変調が生じている。さらに情報再生の過程で人の耳に馴染みやすい音質への加工がおこなわれるため、原音とはかなり異質な音になってしまうのだという。
 一八七七年にエジソンが蓄音機を発明してからCDが普及するまでの間にアナログレコードに蓄積された膨大な情報は、歴史的にみてもかけがえのない文化遺産であり、それらを時流の中に沈め捨て去ることは人類にとって大変な損失だと、寺垣さんは熱く語る。その美しく澄んだ瞳の輝きに、私は寺垣哲学の神髄をみる思いである。

「マセマティック放浪記」
1998年10月28日

ジョーと晩酌を交わした日々 

 東京多摩動物公園のチンパンジーのボス、ジョーがこの十月二十日に死んだ。推定年齢四十一歳、チンパンジーとしてはたいへんな長寿だったらしい。
 今年の八月にたまたま東京都立多摩動物公園の吉原耕一郎さんにお会いする機会があったが、その時に名ボス、ジョーのことも話題にのぼった。吉原さんといえば、ゴリラやチンパンジーの飼育を手掛けて三十余年、霊長類の研究者としても広く知られ、テレビなどでもおなじみの方である。
 動物園の飼育係というと、餌をやったり檻の中を掃除したりするオジサンのことだと思われがちだが、実際には、吉原さんをはじめとして、有名な大学の大学院などで動物生態学や生物学などを修めた人が少なくない。飼育係とは俗な呼称で、実はれっきとした動物の専門研究者なのである。
 吉原さんからチンパンジーの生態についてお話を伺ううちに、我々人間は文字通り「猿にも劣る存在」なのではないかという気分になってきた。自分が、霊長類ヒト科ヒト目ヒトではなく、霊長類サル科サル目ヒトに分類されてもおかしくないのではないかと思われてきたからたった。
 チンパンジーと長年つきあっていると、チンパンジーも人間に似てきますが、人間もチンパンジーに似てくるんですよ。人間は異常なチンパンジーだし、チンパンジーは異常な人間なんですよ――そう言って笑う吉原さんのことばには妙に説得力があった。吉原さんの風貌や身振りがどことなくチンパンジーのそれに似て見えたことも、その一因だったかもしれない。
 マスコミなどで、チンパンジーの知能は幼児並みだなどと報道されたりしているが、それは何の根拠もないことなのだという。確立されたチンパンジーの知能測定法があるわけではなく、どれもがいい加減な推測に過ぎないのだそうだ。長年にわたる自らの経験を通してみるかぎり、彼らの知能は想像以上に高いようだと、吉原さんは語る。
 ニホンザルの社会は、ボスザルや上位のサルが弱者を支配し弱者の物を収奪する専制主義ないしは封建主義型社会だが、チンパンジー社会は管理型社会なのだという。チンパンジーのボスは会社の管理職みたいなもので、人望ならぬ「猿望」、なかでも、雌のチンパンジーたちからの信頼がなければ務まらないものらしい。主なボスの仕事が、外敵から群を守ることや、仲間内の争いごとの仲裁であることは言うまでもない。
 チンパンジーが一対一で喧嘩をすることはすくないらしい。普通は、それぞれが仲間をつくり複数で争うからだ。ボスのチンパンジーは、そんな争いを遠くからさりげなく眺めているが、収拾がつかなくなるようだと、仲裁にはいる。
 その判断と処理は的確で、強者と弱者の間にはいるときには、強者に顔と体を向け、背中で弱者をかばうという。ルール違反の加害者から被害者を守る場合も、加害者に顔と体を向け、被害者を背後におく。争いの当事者のどちらが悪いかを実によく見きわめており、裁定を誤ることは滅多にない。
 だが、「猿も木から落ちる」の諺通り、さしものボスもたまには判断ミスをおかす。そんなときには想わぬ事態が起こるらしい。多摩動物公園のチンパンジーのボス、ジョーが、あるとき、被害者と加害者の識別を誤った。裁きに納得のいかない真の被害者のチンパンジーのほうは、手足を激しくバタつかせながら鳴きわめいて抗議し、周囲の仲間たちに裁きの不当性を訴えかけた。すると、多くのチンパンジーがそれに同調し、有力な雌たちが結束してジョーに批判的な態度をとったり、ジョーのことを無視したりしはじめた。
 すっかり自信を喪失したジョーは、ノイローゼ状態に陥って、毎日飼育場の片隅に座り込む事態となった。ピーンと天を突くべき象徴物もうなだれっぱなしの有り様とあって、雌たちからはますます馬鹿にされ、事実上ボス不在となった群は大混乱をきたしはじめた。
 獣医と相談し、人間の場合と同様に精神安定剤を投与しようかという話にもなったが、それなりの問題もあるのでもうすこし検討しようということになった。その時、吉原さんにあることがひらめいた。人間なら、ストレスがたまると一杯やって憂さ晴らしをする。チンパンジーが人間に似ているというなら、ちょっと晩酌をやらせてみたらどうだろうというわけだった。
 吉原さんはジョーを特別室に隔離すると、彼のために蜂蜜で割った特性のウィスキーを用意し、自らもグラスを手にしてどっかりと座り込んだ。かくして、多摩動物園の一隅で、人間とチンパンジー2人、いや1人と1猿の間で奇妙な酒宴が繰り広げられることになった。ベテランの飼育係と長年生活をともにしたチンパンジーは、普通に話す人間のことばを9割以上理解するという。むろん、飼育係のほうもチンパンジーの心が手にとるようによくわかる。吉原さんは、人間を相手にしたときとまったく同じ調子で話しかけた。もし事情を知らない者がその様子を見ていたら、思わず吹き出し呆れはてたに違いない。

 吉 原:ジョー、おまえも大変だよな、まあ、一杯やって元気だせよ!
 ジョー:オレナァ、モウ、ヤンナチャウヨ!、メスドモガ、ヨッテタカッテ、オレノコト、バカニスンダモンナァ……。
 吉 原:おまえの気持ちもわかるけどよぉ、元気になってまた番張ってもらわんと俺も困るんよ。おまえらの群がいまのまんま混乱し続けたらよぉ、俺だって首になってオマンマの食い上げになるかもしれんのよ……頼むよ、なぁ!
 ジョー:タツモンガタタント、モウドナイモナランヨ……ンデ、ホントニ、コレノムト、ビンビンニナルンカイ?
 吉 原:いまばやりのバイアグラじゃねえからよぉ、飲んだからってすぐナニができるわけじゃないけどさぁ、気分がよくなってぐっすり眠れはするぜ……。
 ジョー:フーン、オメーニモ、クローカケルヨナァ。ジャ、マァ、チョイトノンデミルカ、ドレドレ……。
 吉 原:そうそう、もっといっきにグーッといきな!
 ジョー:ウーン、コレ、ナカナカイケルワ……キブン、ヨウナッテキオッタシナァ!

 ジョーが実際にそうしゃべったわけではないけれど、彼らはこれに似た心の会話を交わしたらしい。何時間かこうしてジョーに話しかけながら晩酌を続けていると、ジョーは気持ちよさそうに寝込んでしまった。そこで、吉原さんは、それから2カ月ばかり続けて、ジョーの晩酌の相手を務めてみた。その効果はなんとも絶大で、すっかりストレスのなくなったジョーの心身、いや心チンはたちまち元通りの力強さを取り戻し、その御威光のおかげで、チンパンジーの群は再び統率を得たのであった。
 チンパンジーが精神的に落ち込んだとき対処療法として晩酌が効果的だという吉村さんのレポートは、ずいぶんと評判になり、テレビなどでも報道された。すると、それを聞いて共感した世のお父さんがたから、ジョーにウイスキーを贈りたいという申し出が折々舞い込んでくるようになった。
 そんなとき、吉原さんは、最近うちのジョーは口が肥えましてジョニクロやレミーマルタンしか飲みませんのでどうかよろしく、と応答してきたらしい。冗談ともしらず、一瞬ことばに詰まるお父さんも少なくなかったという。
 吉原さんのほうがストレスをためこんだとき、ジョーにSOSを求めたのかどうかは聞き漏らしたが、案外、ジョーのほうは、あいつを陰で励ましてやっているのは俺だと自負していたのかもしれない。実際、ジョーを失って、いまもっとも悲しんでいるのは、ほかならぬ吉原さんなのかもしれない。

「マセマティック放浪記」
1998年11月4日

母ジャーニーとの対話 

 あるとき、ジャーニーという母親チンパンジーの胸に抱えられた赤ちゃんの様子がおかしくなった。そのままでは命が危ないとうので、特別室に親子を移し治療をということになったのだが、ジャーニーは、ぐったりした赤ちゃんを強く抱きしめ離そうとしない。気長に説得するしかないと判断した飼育係の吉原さんは、近づくと毛を逆立て、恐ろしい形相で睨むジャーニーをやさしくなだめにかかった。
 そのままじゃ赤ちゃん死んじゃうよ、可哀そうだろう、治してあげるから渡してごらん……と懸命に語りかけるうちに、ようやくジャーニーは赤ちゃんを両手で差し出した。しかし、それを受け取ろうとすると、すぐに歯をむきだして攻撃的な表情をみせる。なんとかしてもらいたいのだが、どうしても手渡せないのだ。直接の手渡しは危険だと判断した吉原さんは、強い口調で、「ジャーニー、それなら赤ちゃんを床に置きなさい。そして、部屋の奥に行きなさい」と命令した。
 ジャーニーがようやく赤ちゃんを床におろし、奥のほうへとさがったので、吉原さんが赤ちゃんを抱き上げ扉のほうに近づこうとした。その瞬間、ジャーニーの黒い体が突進してきた。チンパンジーが本気になったら、人間の体を引き裂くことなどなんでもない。さすがの吉原さんも、もうだめだと観念したという。だが、ジャーニーがつかんだのは、檻の扉の格子だった。それは、部屋の外に出ず、自分の見ている前でなんとかしろという、ジャーニーの意志表示だったのだ。
 再び吉原さんの説得がはじまり、ようやく諦めのついたジャーニーは、肩を落として部屋の奥に戻った。そして、そこにあった麻袋を頭からすっぽりかぶって床にうずくまった。それは、とても見てはおれないという母親としての辛い気持ちのアピールだった。
 重い肺炎にかかった赤ちゃんは、獣医の手に渡ったときにはすでに死んでいた。吉原さんは言いようのない思いにかられながらジャーニーのところへと戻った。すぐに飛んできたジャーニーは、胸に赤ちゃんが抱かれていないのに気づくとギクリとしたように足をとめ、吉原さんの顔をじっと見つめた。
 吉原さんがゆっくりと首を振りながら、「ジャーニー、赤ちゃん死んでたよ。赤ちゃんはもう返せないんだ……」と語りかけると、ジャーニーはいきなり土下座し、床に額をこすりつけるようにして何度も頭をさげはじめた。それでも駄目だとわかると、今度は両手を重ねて前に差し出し、お辞儀をしながら赤ちゃんを返してほしいと哀願した。
 吉原さんは、ジャーニーの前にしゃがんで、何度も何度もジャーニーに事情をを説明した。吉原さんの目の奥を覗き込むよにしながら聞いていたジャーニーは、ようやく諦めたように部屋の奥へと歩きかけるものの、すぐに引き返してきてまた正座し、頭をさげるありさまだったらしい。最後はジャーニーもすべての事情を納得してくれ、死んだ子どもにナンシーという名前までつけてやったのだそうだが、それはもう、心と心の会話そのものであったという。
 
 あるとき、檻の中に忘れてきたタオルを拾ってくるようにチンパンジーに命じた。そのチンパンジーが差し出しかけたタオルを檻の格子の間から受け取ろうとすると、その瞬間相手はわざとタオルを足元に落とし、からかうような目つきで吉原さんの顔を見た。なめられてはいけないので、強い口調でもう一度やりなおしを命じると、格子のすぐ近くまでタオルを持ってきて、あとは自分で拾えといわんばかりにまたもや床に落とした。やむなく、しゃがんでそれを拾いあげようとしたが、引っ張っても動かない。なんと、そのチンパンジーが、馬鹿力を秘めた足の指でタオルの端をしっかりと押さえていたのだという。
 ゴリラやチンパンジーは、成長の過程で折々飼育係に力較べや知恵較べを挑んでくる。それを「試し」などと呼ぶらしいが、「試し」をしかけられた者は、時をおかずに自分のほうが上手だということを相手に誇示しなければならない。そうでないと、次から言うことをきかなくなるからだ。
 実際には相手のほうが腕力がまさるから、本気になって格闘したらとてもかなわない。だから、人間のほうが弱いと悟られないように、耳の付近を押さえて瞬間的にこらしめるのがこつらしい。たまたまチンパンジーを厳しく叱っているのを目撃したお客が、あの飼育係は動物を虐待していると管理当局へ抗議してくることもしばしばだという。
 吉原さんがパンジーとデージーというチンパンジー二頭を相手に決闘した話は面白い。デッキブラシを二本持ち込んで床の掃除をしていると、パンジーがその一本をつかみ上手に床をこすりはじめたが、そのうちブラシの長い柄のほうを吉原さんのほうに向けてじりじりと詰め寄ってきた。デージーのほうもパンジーを煽り立てながら、吉原さんの背後に回り襲いかかる気配を見せた。檻に入るときは二重扉を内側から施錠するので、助けを求めたくても、誰も中にははいれなかった。
 七歳のチンパンジーといえば猛獣に近い。それが二頭で本気になって襲いかかってきたら、人間はひとたまりもない。ただ、成長の過程でいずれこんな日がやってくるだろうと思っていた吉原さんは、挑戦を受けてたつしかないと腹をすえた。そこでひるんだら取り返しがつかなくなることは目に見えていた。学生時代剣道部の猛者だった吉原さんは、デッキブラシを正眼に構え、デージーを背後に回らせないように牽制しながら壁際まで後退した。その様子を見て勢いづいたパンジーが前に出ようとした瞬間、吉原さんは強烈な面の一撃を見舞い、返すブラシを力一杯横に払って連続業の胴をきめた。
 悲鳴をあげて逃げ出すパンジーを横目に、正眼に構えなおしたブラシをデージーのほうに向けると、こちらのほうはすっかり戦意喪失してパンジーの背後に隠れてしまった。それからというもの、二頭のチンパンジーは吉原さんにはまったく頭があがらなくなったという。
 若い頃ゴリラの飼育にあたっていた吉原さんには苦い経験がある。あるとき檻から出ようとすると、一頭のゴリラが悪ふざけでもするかのように扉の前に立ちはだかった。その場で叱ればよかったのだが、他のことに気をとられていた吉原さんは、そのゴリラが扉の前から立ち退くのを待って外に出た。
 動物園の檻の扉は二重になっていて、一つ目の扉を開け、内側から施錠したあと二つ目の扉の前に立つ。その際、檻の中にはいるべきかどうか心に迷いがあるときは、絶対に中にはいるなというのが鉄則であるという。翌日ゴリラ舎の第二扉の前に立った吉原さんは、中に入ればやられると直感した。それ以降、そのゴリラが死ぬまで、吉原さんは問題の檻の中にはいることはなかったという。
 それほど細心に注意を払っていてさえも、危険な目に遭うことは避けられない。チンパンジーに指を噛まれ重傷を負ったことや、怒ったチンパンジーに体当たりを食らい馬乗りになられて命を落としそうになったこともあるという。
 吉原さんの一連の話を聞いていると、「猿の惑星」というSFもまんざら絵空ごとではないという気がしてくるし、霊長類の飼育係は仕事に自信を失ってノイローゼになりやすいという話も、十分に納得できる思いがする。

「マセマティック放浪記」
1998年11月11日

猿だといってなめんなよ! 

 多摩動物公園の吉原さんのところには、動物学専攻の学生たちが飼育実習にやってくる。その理由は明らかではないが、そんな学生を一目見ただけで、チンパンジーには、こいつらは1週間もすればいなくなってしまうとわかるらしい。どいつもこいつもアホづらしてるけど、ちょっとの辛抱だから、まあ言う通りになってやるか――なんてわけで、実によくその命令をきくという。
 ところが、おなじ初顔でも、これから五年も十年もつきあわねばならない新人飼育係がやってくると、頑として言うことをきかない。先が長いっていうのに、オメーみたいな新米になめられてたまるもんかい――ということであるらしい。
 指話をおぼえたチンパンジーなどは、見慣れた相手には一定速度でサインを送るが、相手が新米の人間とみると、小馬鹿にしたようにゆっくりと指を動かしながらサインを出すという。オメーが相手じゃ、手加減してやんねぇとわかんねぇだろうからな!――とでも考えているのだろう。
 吉原さんが長年育ててきたベティという雌のチンパンジーがいる。ある日のこと、いつものようにベティと呼ぶとプイと横を向かれてしまった。そんな風にチンパンジーにそっぽを向かれるのは初めてだったので、呆気にとられてもう一度ベティと声をかけると、くるっと背中を向け、両手で頭を抱え込むポーズをとった。むろん、呼びかけ無視の意志表示である。想わぬ事態にしばし戸惑いを覚えたものの、そこはベテランの吉原さん、すかさず、「ベティさん」と「さん」づけで呼びかけてみた。すると、一瞬振り向いて吉原さんの顔をチラッと見たあと、また知らんぷりをきめこんだ。
 そこで、敬意を込め、何度も「さん」づけで話しかけるうちに、ようやく機嫌がなおったのだという。仲間たちのと関係もあって、成長するにつれチンパンジーにもプライドが芽生えてくるらしいのだ。そんな行動が人間のことばを解してのうえであることは言うまでもない。
 チンパンジー社会には「先取り特権」のルールがある。餌などを見つけた場合、第一発見者に先取権があり、物欲し顔の仲間たちに取り巻かれたりはするが、他の者がそれを力づくで奪い取ることはないという。餌などを仲間うちで分配し合うのもチンパンジーの特徴の一つであるらしい。「猿にも劣る」ということばがあるが、こんな話を聞いていると、「人間にも劣る猿にだけはなるなよ」と、彼らが互いに戒め合っている光景すら浮かんでくる。
 人間とは声帯の構造が異なるため、人語をしゃべらせるのは無理らしいが、記号を用いると200〜300もの単語を学ばせることができる。すると、彼らはそれらの記号を組み合わせて意志表示をするようになる。尻尾の長い通常の猿をじっと見ていたチンパンジーが、突然、「オマエ、キタナイ、サル」という、それまで誰も教えたことのない表現をして人間を驚かせたのは有名な話だが、この程度の造語能力は彼らには普通にそなわっているのだという。
 想像以上の知能をもつチンパンジーだが、彼らの身体能力もまた凄い。吉原さんは、チンパンジーは猛獣だと断言する。その握力は三百キロに近く、相手が本気で力を込めたら人間の指の骨などたちまち折れてしまう。腕力もたいへんなもので、八十キロもある鉄板を空中に放り上げ、すばやくその下をくぐり抜けるという芸当など朝飯前なのだという。脚力も凄じく、足で物を押さえたり引っ張ったりする力は三百五十キロにも達し、垂直飛びにいたっては、三・五メートルから四メートルにも及ぶのだそうだ。また、成獣の場合、体重は軽く八十キロを超えるから、全力で体当たりされたり、横に力いっぱいはたかれたりしたら、並みの人間は一発で致命傷を負い、ダウンしてしまうという。
 よく、三輪車や自転車に乗る芸達者なチンパンジーがいるが、ふだん遊んでいるときにそれらを与えても絶対に乗ることはないらしい。彼らにとって、それは苦行にも近いことのようで、放っておくと、その馬鹿力をもって三輪車や自転車をグニャグニャ、バラバラに分解してしまうという。

「マセマティック放浪記」
1998年11月18日

青房は緑、力士の足首は細い 

 先の場所の話であるが、大相撲の取り組みを国技館の土俵下、いわゆる「砂かぶり」で見物する機会を得た。しかも向正面と呼ばれ、NHKテレビに大きく映し出される席である。正式には維持員席と言い、本来は相撲協会や相撲部屋関係者しか立ち入れない場所なので、当然その席の切符は売られていない。たまたまツテがあってそんな上席に潜り込むことができた。
 お茶屋さんの案内で通されたのは行司だまりのまうしろあたりで、話に聞いていた通り土俵上や控え席の力士の顔や審判員の姿も手にとるようによく見えた。小さめの座布団1枚分のスペースしかなく、飲み食いも一切できないが、特等席なのは間違いない。
 正面席のほうを見上げると、なるほどテレビカメラがこちらのほうを狙っている。両手にVマークを出してはしゃげる歳でもないし、うっかりハナクソなんかをほじっているところをアップで全国中継されたりしたらたまったもんじゃないから、まずはおとなしく姿勢を正しての観戦とはなった。
 中入り直後に行われる幕内力士や横綱の土俵入りは、近くでじかに見ると、迫力もあり美しくもあった。土俵上にずらっと並ぶ力士たちの化粧回しは、デザイン、色彩、織り柄とも多種多様で郷土色に富んでおり、想像以上に素晴らしかった。向正面席のため、横綱の土俵入りはうしろ側から眺めることになりはしたものの、鍛えぬかれた筋肉を太い純白のまわしでグイと引き締めた勇姿には、ほれぼれとするばかりであった。三横綱のうちでは曙の土俵入りが最も迫力があった。もともと金剛力士像そっくりの顔と巨体の持ち主だから当然ではあるが、パカーン、パカーンと鋭く乾いた響きで場内にこだますその柏手の音は圧巻だった。
 相撲の取り組みも面白かったが、めったに座れない席に陣取ったせいか、妙なところばかりに目がいった。まず気になったのは、土俵の四隅を飾る青、赤、黒、白の四本の房の色だった。黒房はその通りの色だったが、赤房はいわゆるエンジ色、白房は純白ではなくすこしくすんだ光沢のある白だった。
 意外なのは青房で、実際は「青」ではなく鮮やかな「緑」なのである。「あお」という日本語はもともとブルーからグリーンまでの幅広い色調を表す言葉だから間違いではないのだが、一瞬戸惑いを覚えてしまった。もっとも「みどりぶさ」や「りょくぶさ」では語呂が悪いことこのうえない。
 土俵は意外なほどに小さく見えた。大型力士が2人も土俵上に上がると、もうそれだけで満杯な感じで、そんな状況のもとでよくあれだけの激しい動きができるものだと感心もした。粘土を固めて造った土俵は高さが大人の太もも付近まではあり、帰り際に手を触れてみるとその上面も側面も文字通りカチカチだった。並みの人間なら土俵上から転げ落ちただけで大けがすることだろう。
 控え力士はそれぞれに自分のしこ名の入った大きな座布団を付き人に運んでもらってそれに座る。取り組みが終わるとその座布団を運び出し、次の力士の座布団と入れ替える。館内の隅々までよく通ると言われる呼び出しの声は、すぐそばで耳を傾けると深く澄んではいるものの、むしろ細々とした感じに聞こえた。長年鍛えた独特の呼吸法によって腹の底から絞り出すように発せられるその声は、以前述べた寺垣式スピーカーのだす音や蝉の鳴き声などと同質のものなのだろう。
 物言いのつく一番があって、5人の審判員が土俵上で協議をはじめた。皆が白足袋に白い草履を重ねばきしている。面白いのは草履のほうで、大人が子どもの草履を爪先につっかけた感じで、足裏の半分ほどしかカバーされていない。問題の一番は結局行司差し違えとなったのだが、土俵を降りていくその行司の顔は相当にこわばっていた。差し違えはないほうがいいが、いっぽうで行司の権威とは何だろうという思いがしてこなくもなかった。どうせなら、土俵下の5人の審判員に紅白の旗を持たせ、柔道の試合のように勝負を判定させたらどうだろう。いささか滑稽で威厳がなくなることは避けられないが……。
 それぞれの懸賞のぼりが相当に凝った織り模様になっているのは意外だった。あらかじめ協会に登録したスポンサー企業しか懸賞のぼりを出せないシステムらしく、たとえ大金であっても、部外者がいきなり懸賞金を出すというわけにはいかないようだ。スポンサー企業は年間に何本懸賞を出さねばならない、といったような決まりなどもあるのだろうか。
 勝ち力士が懸賞金の入った祝儀袋を手にする様は、まるで小さなトランプのカードを1枚つまみあげたみたいな感じである。100万円くらい入った厚く大きな祝儀袋でないと並外れた力士の手にはマッチしないのかもしれない。
 力士の足首がその巨体に較べて驚くほどに細いのも印象に残った。曙や武蔵丸、琴の若といった巨漢力士でもその点は同じだった。一流の投手の手首が意外なまでに細いのと同じような理由からなのだろう。
 大番狂わせはなかったので座布団が飛ぶことはなかったが、もし枡席(ますせき)から土俵上まで座布団を飛ばすとすれば、その距離から考えて相当な技術がいる。だから、実際には土俵の四方を囲む数列ほどの維持員席あたりからも座布団が飛ぶのであろろうが、それも維持員の仕事の一つというわけなのだろうか。まあ、この日の私みたいに怪しげな維持員もいることだから、そんなことが起こったとしても、べつに不思議ではない。帰り際、お茶屋さんで大きな紙袋いっぱいのお土産を頂戴したが、それはインスタント維持員の私への一日分の報酬でもあったようだ。

「マセマティック放浪記」
1998年11月25日

ドナルド・キーン先生 

 先月、埼玉県草加市で催された、国文学者ドナルド・キーン先生の「奥の細道」についての講演会を拝聴した。私事になって恐縮だが、二年前、「佐分利谷の奇遇」という紀行作品で第二回奥の細道文学賞を頂戴したとき、尾形仂、大岡信の両先生らとともに同賞の選考委員を務めておられたのが、ほかならぬキーン先生である。
 もうずいぶんと昔のことになるが、「MEETING WITH JAPAN(日本との出会い)」という先生の著書を拝読し、日本文学にたいする先生の思い入れと造詣の深さに感銘したことがあるだけに、どのようなお話をなさるのか楽しみであった。
 旧日本海軍による真珠湾攻撃の直後、コロンビア大学の学生だった先生は、志願してカリフォルニアの米海軍日本語学校に入校、そこで猛烈な日本語の特訓をお受けになった。四・五カ月で全員が日本語の新聞を自由に読めるようになるほどに、きわめて厳しい実践的な日本語教育だったという。大戦が勃発するとすぐに、先々の戦局の展開や終戦後における日米間の諸問題の処理をにらんだ米国政府は、海軍にこの日本語学校を特設し、日本語と日本文化に通じた優秀な人材の育成にのりだしたのである。鬼畜米英を合言葉に、いっさいの英語の使用を禁止した日本とは大違いであった。
 この米海軍日本語学校からは、のちに日本文化の優れた研究者、紹介者として世界的に名を馳せる知日派の若者が数多く巣立っていった。キーン先生のほか、川端康成や三島由起夫の翻訳者として名高いエドワード・サイデンステッカー、ハーバード大教授で駐日大使を務めたエドウィン・ライシャワー、戦後まもなく様々な事情から歌舞伎をはじめとする各種伝統芸能の存続が危ぶまれたとき、文字通り力の限りを尽くしてそれらを死守したフォビオン・バウワーズなどは、皆この日本語学校の出身である。
 キスカ島、アッツ島などの激戦地で、米軍日本語通訳・翻訳官という特務につかれた先生の日本文化への関心は、その仕事を通して日々深まっていったらしい。終戦後、コロンビア、ハーバード、ケンブリッジの各大学で日本文学を専攻、一九五三年には京都大学に留学された。来日の時点ですでに、和歌の二条派と京極派の違いや、近松門左衛門がその浄瑠璃作品に導入した能の要素、松尾芭蕉の弟子十人の俳風の特徴や相違などについて論じることができたというからおそれいる。
 谷崎潤一郎、太宰治、三島由起夫らをはじめとする多くの日本近代作家たちとも深い交流のあったキーン先生は、毎年六ヶ月はコロンビア大学で教鞭をとり、残り六ヶ月は日本にあって、日本文学の研究に没頭するという生活を今日まで続けておられる。古典から現代文学に至るまで、そのお仕事は幅広く、しかも奥深い。大蔵流の家元に弟子入りして狂言を学び、「青い目の太郎冠者」の異名をものにされたことからも、日本の伝統文化にたいする先生の思い入れの深さが伺い知れる。昭和三十年には大好きな芭蕉を偲んで、実際に奥の細道の旅を試みもなさったというから、先生は、日本人以上に日本人的な方であると言うほかない。
 日本文化の素晴らしさは外国人にはわからないなどというのは、とんでもない誤解で、外国人だからこそその真価がわかることも多い。浮世絵の価値に気づいたのも、明治初期に排仏毀釈運動が起こったとき仏像の貴重さを見抜き、その保護を訴えたのもほかならぬ外国人たちだった。
 松尾芭蕉の「奥の細道」は、現在の四百字詰めの原稿用紙に換算するとわずか三十五枚ほどの作品でる。意外なほどに短いその作品の完成に、なぜ芭蕉は五年もの歳月をかけたのだろう。そのあたりの問題について、自他の新説や新解釈を交えながらキーン先生がなさった講演は実に興味深いものだった。講演内容をすべて記載することはできないが、以下にその一端を紹介させてもらおうと思う。

「マセマティック放浪記」
1998年12月2日

「奥の細道」にもフィクションが? 

 一般には、「奥の細道」という作品は、芭蕉がその旅の実体験をほぼそのまま述べ記した紀行であると信じられている。だが、芭蕉の随行者だった曽良の随行記、いわゆる「曽良日記」の発見や、最近話題になった芭蕉真筆本の出現、さらにはそれらの資料をもとにした専門家たちの厳密な研究と考証によって、近年、意外な新事実が次々に明らかになってきているという。
 さきに草加市で行われた講演で、ドナルド・キーン先生は、そのあたりのことについて興味深い話をしてくださった。学識豊かな先生のことゆえ、当然講演の内容は多岐にわたったが、「奥の細道にも実はフィクションの部分があった」というお話などは、私のような素人にとっては大変興味深いものだった。
 「フィクション部分があるからといって奥の細道の文学的価値が落ちるわけではない。むしろそれによってその芸術性は一段と高められている」とあらかじめお断わりになったうえで、先生は具体的にいくつかのフィクション部分を指摘された。
 自らの作品を納得ゆくまで推考し、何度も手直しするというのは、芭蕉の常であったらしい。したがって、数々の有名な芭蕉の句のなかには即興句はほとんど存在していないという。芭蕉は自然体のままでさらさらとあのような秀句を詠んだ、とばかり信じていた私などは、その話を聞いたあと、自分の無能さを棚にあげ、いささかほっとした気分になりもした。
 山形県の山寺にある立石寺で詠んだとされる有名な一句、

  閑さや岩にしみ入る蝉の声

は、完成に至るまでに少なくとも三回は手直しされ、最終的には当初の句とはかなり違ったものになったのだという。また、旅立ちに際し、見送りの人々との別れを惜しみながら千住あたりで詠んだとされる句、

  行く春や鳥啼き魚の目は泪

にいたっては、奥の細道の旅を終えたのちに作り加えられたものであるというから驚きだ。
 明らかにフィクションとわかるのは、日光で詠まれた、
 
  あらたふと青葉若葉の日の光

という句だそうで、曽良日記その他の資料などをもとに詳しく考証してみると、芭蕉一行の日光来訪時は雨続きで、青葉若葉が日の光を浴びて輝いてなどはいなかったらしい。
 また、「石の巻」の段には、

 山深い猟師道を迷い抜けてようやく繁栄をきわめる石の巻の町についたが、なかなか泊めてもらえるところが見つからない。やっと見つけた貧しい小家に泊めてもらい、夜が明けてから、また知らない道を迷いながら歩いていった。

という主旨の記述がある。ところが、実際には、当時の要港、石の巻周辺の道路はそれなりに整備が行き届いていて迷うようなことはなかったはずだというし、泊まった家もほんとうは地元商家の立派な邸宅だったのだそうだ。芭蕉があえて事実と異なる記述をしたのは、やむをえなかったこととはいえ、彼自身は資産家と縁を結ぶことを誇りとは思わなかったうえに、石の巻周辺の栄華ぶりが自ら理想として想い描く陸奥の情景とは違ったものであったからではないかと考えられるという。
 荘厳に輝く中尊寺光堂に感動してで詠んだといわれる、
 
 五月雨の降りのこしてや光堂

の句だが、曽良日記によると、光堂を包み守る覆い堂には錠がおろされていて、実際には芭蕉たちは何もみることができなかったようである。だから、奥の細道のクライマックスの一つとして欠かせない光堂を、芭蕉は想像力を駆使し、心の眼で透視し、その心象風景を歴史的な名句として詠みあげたことになる。ただもう見事というほかはない。
 芭蕉は現在の四百字詰め原稿用紙で三十五枚ほどの奥の細道を完成するのに五年もの歳月をかけたという。その理由は、句の部分ばかりでなく、散文部を含めたその作品全体を、きわめて完成度の高い詩篇ないしは詩物語として仕上げようという意図があったからだろうと、キーン先生は語っておられる。壮大な旅路での数々の実体験が芭蕉という稀代の天才の心のなかで一度濾し分けられ、それが深い感動を伴う究極の心象風景となって、「奥の細道」という普遍性の高い作品へと結実したのだと、先生はおっしゃりたかったに違いない。実際、そうだからこそ、奥の細道は外国の人々にも愛読されるのであろう。
 市民参加型の文化行政を進めている草加市の「奥の細道・芭蕉講演会」は先日のキーン先生の講演で第十一回目を数えるにいたった。草加市奥の細道まちづくり市民推進委員会によって「百代の夢(はくたいのゆめ)」という講演録も刊行されており、そのなかには、尾形仂、大岡信、有馬朗人、佐藤和夫などの諸先生をはじめとする十名ほどの方々の講演のほか、以前のドナルド・キーン先生の講演なども収録されている。装丁も芭蕉の精神をほうふつとさせるような、華美を排したシンプルなデザインになっており、約三百ページの書籍にしてはきわめて格安で好感がもてる。
 なお、この本の末席に他に比べて格段に見劣りする場違いの講演が一つだけ含まれているので、その部分だけは迷わず無視なさったほうがよいだろう。その理由はご想像にお任せする。
 余談になるが、なるべく労なくして奥の細道の追体験をしたいという、無精で欲張りな方々のために、とっておきの情報を提供しておこう。国道四七号線を鳴子から新庄方面に向かって走ると「尿前の関」跡に出る。芭蕉一行が役人にその身分を厳しく問われ、足止めを食らったところでる。関跡を右手に見ながら通過し、しばらくのぼると谷を横切る大きな橋にさしかかる。車を降りてその橋のたもとから谷筋沿いに細道を辿ると、ほどなく清流のほとばしる深い沢にいる。頭上はうっそうとした樹木に覆われ、初夏の頃だと、どこからともなく澄んだ小鳥の声が聞こえてくる。
 よほどの物好きしか通ることのない隘路だが、この道こそは芭蕉一行が折からの悪天候と戦いながら越えていった小深沢の六曲がりの古道にほかならない。当時のままの様相を留めているのは旧道のごくわずかな部分にすぎないが、行く手をさえぎる木立ちの枝々の下を左右にくねり縫う急傾斜の細道は、元禄時代の中山越え(奥羽山脈越え)の苦労と、当時の旅の雰囲気のほどを十分に偲ばせてくれる。二・三年ほど前、私も実際に歩いてみたが、芭蕉や曽良の話し声や足音がいまにも聞こえてきそうで、なんとも感慨深かった。往復で三・四十分程度しかかからないから、芭蕉通を自称する方々は一度訪ねてみるとよいだろう。
 芭蕉一行はこの山道をのぼりつめたあたりで激しい風雨に見舞われ、やむなく出羽国境の役人の家に三日ほど逗留することになった。そのときに詠まれのが、

  蚤虱馬の尿する枕もと

という有名な一句である。キーン先生は、先の講演のなかで、この句は芭蕉の旅の精神の真髄を象徴するものだと賞賛しておられた。
  天候の回復を待ってから、若い屈強な山案内人の先導で、芭蕉たちは道なき道を分け進みながら山刀伐峠を越え、尾花沢の集落へと抜けていったのである。

「マセマティック放浪記」
1998年12月9日「二十数年ぶりの帰郷」〜1999年4月21日「さらば甑島、また逢う日まで」の紀行エッセーはこの南勢出版のホームページで「甑島再見紀行」として発売中です。

「マセマティック放浪記」
1999年4月28日、5月5日

黒鯛釣り紀行
続・黒鯛釣り紀行  

     黒鯛は信濃に棲む?

 友人の米沢慧さんから、三河湾を抱える渥美半島突端の伊良湖岬沖に黒鯛釣りに行かないかと誘われる。米沢さんは、私が中年暴走族に仕立ててしまった評論家。老年暴走族に近いんじゃないかという口さがない連中もあったりする。米沢さんの大学時代からの親友で、私とも付き合いの長いジャーナリストの玉木明さんも同行するとのこと。この三人が一緒に出かけたら、ろくなことにならないことは目に見えている。
 今回の鯛釣り旅行は、私のマニュアル・ワンボックスカーではなく米沢さんのオートマ乗用車で出かけることになった。四月二十一日水曜の午前七時にJR阿佐ヶ谷駅南口で待ち合わせ、直ちに出発。コース取りはいっさい私に任せるということになる。
 練馬インターから関越自動車道に入り、群馬方面に向かって北上開始。藤岡で上信越自動車道に分岐し長野県北部を目指す。「山国信濃に黒鯛が棲んでるわけないだろ、おまえらアホとちゃうか?」」と笑われたら、「はいアホでんわな!――まあ、なるようになりまっしゃろ」と素直に自分らのいい加減さを認めるのみ。一切の責任はこの私に。出発時どんよりと曇っていた空は北に向かうにつれて徐々に晴れ上がり、やがて快晴に。行き当たりばったりの我々に協力的なお天道様も、かなり気まぐれな方ではあらしゃりまする。
 野原や山肌を覆うやわらかな緑と、その中に点在する白い山桜のコントラストが実に素晴らしい。この季節ならではの美しさだ。緑と一口に言っても、何十種類もの緑がある。色調と彩度の異なる多様な緑の織りなす風景に三人ともひたすら感動。晩春から初夏にかけてのこの美しさに無感動な人が最近増えているとも聞くが、もったいない限り。どんな緑も同じ緑色にしか見えない色彩オンチのせいらしいのだが、なんともはや……。
 怪異な岩峰の連なる天下の奇勝、妙義山が車窓左手に大きく迫る。かつて画家の須田剋太が、画境を極めるために単身この山深くに籠ったことはよく知られている。何年か前、若狭の農民画家渡辺淳さんを案内して、私もこの妙義山の岩峰周辺をうろつきまわった。妙義山から目を転じ前方を仰ぎやると、残雪を戴いた浅間山が雄大な姿を見せてはじめた。
 長いトンネルの連続する山間部を抜け信州佐久平に入ると、風景は初春のそれに変貌した。「春まだ浅き信濃路の…」と歌の文句にもある風景だ。むろん、年配の方なら、島崎藤村の詩の一節「緑なすハコベは萌えず 若草も藉(し)くによしなし」を想い出すことだろう。車の進行につれて、左手に千曲川の流れが深々と刻んだ断崖と、その上部に広がる台地が見えてくる。小諸から北御牧村にかけての台地で、作家の水上勉先生在住の勘六庵のある下八重原もその一角に位置している。そういえば、最近、北御牧村でも新たなオウム騒動が起きてもいるようだ。

     美しい山村風景

 更埴で長野自動車道に入り麻績村(おみむら)方面へ向かう。伝説の姨捨山が前方に大きく姿を現す。姨捨山は冠着山とも呼ばれている。「なんで爺捨山がないのか、これは男女差別の証ではないか!」と世の賢女方から詰問されても私には返答のしようがない。日本のどこかには爺捨山もあるのだろうか。もしそんな山があるようなら、二・三十年後には我々三人もそのお山の厄介になるやもしれない。
 姨捨山トンネルを抜けてすぐの麻績インターで高速道から一般道におりる。この麻績インターからすぐの坂井村保養所冠着荘は、美人の湯と呼ばれるよい泉質の温泉の湧く宿泊施設だ。この一帯に実際美人が多いかどうかは未確認。近くの田圃にはヒメボタルが多数生息しており、六月末から七月中旬にかけてのホタルの乱舞は見ごたえがある。聖高原駅前を過ぎて聖湖まで急な山道をのぼり、そこから聖高原へ。聖高原一帯の樹林はまだ冬の眠りから目覚めていない。
 聖高原を越え、大岡村へ向かってしばらく下るといっきに展望が開けてくる。この地点からの北アルプス連峰の大パノラマは絶佳の一語に尽きる。地元以外の人にはほとんど知られていないが、お薦めの北アルプスビューポイント。大岡村は私が大好きな山村の一つで、早春から初夏にかけての自然の景観は抜群。折しも桜の花が満開だった。左手に北アルプス連峰を望みながら、大岡村のなかほどを横切るかたちで信州新町へと下る。
 犀川を渡り、信州新町から小川村方面への山路に入る。このあたりも典型的な山村で、絵に描いたような昔ながらの山村風景が続く。峠道からの北アルプスの眺望はやはり素晴らしい。このドライブコースにすっかり感動した同行の二人からは、同時に、よくもまあ、こんなルートを知っているものだと呆れられる。鯛釣りのことなど、遠の昔に忘れてしまったような様子。伊良湖岬沖では黒鯛がケラケラ笑っていることだろう。
 小川村から鬼無里村に抜ける山路の両側に広がる風景はさらに感動的。「美しい日本の山村」のお手本として、NHKテレビの朝の番組かなんかで紹介されてもおかしくない。日本昔話の世界にタイムスリップしたみたいだなどと話しながらどんどん道を登っていくと、小川村の売り物である北アルプス展望台に出た。槍、穂高方面から常念、鹿島槍、五竜、唐松、さらには白馬鑓、白馬にいたる北アルプス主峰が、眩いばかりの白く輝きを見せて我々の視界いっぱいに迫ってきた。
 観光ガイドブックなどにはほとんど紹介されていないが、ここは北アルプスの撮影スポットとして写真家の間では昔から知られてきた場所だ。ドライブの好きな人はぜひ一度訪ねてみるとよい。私が初めて訪れた頃は一帯はまだ自然のままになっていて、いまのように立派な展望所は設けられていなかった。道路も細いダートだった。
 かなりの標高のある小川村の北アルプス展望所から鬼無里村に下る。眼前に聳える岩だらけの険しい山は戸隠山、その右後方に見えるのは黒姫山。鬼無里からは左にルートをとり白馬村へと向かう。水芭蕉で有名な奥裾花峡入り口を過ぎ、峠のトンネルを抜けると、まだ一面雪に覆われた五竜、唐松、白馬鑓、白馬岳がすぐ目の前に大きく浮かび上がった。   昔は何度も登った山々だが、残雪の多いこの時期にもう一度登れといわれたらちょっと考えてしまう。
 白馬から青木湖畔、大町、松川村と走り、穂高町の手前から安曇野の西端を縫う山麓線に入る。この道沿いには様々な美術館や工芸館などがあり、景観も風情も抜群。碌山美術館で知られる穂高町には、私の知人で風景カメラマンの上條光水さんが経営する蕎麦屋などもある。このお店の蕎麦は絶品中の絶品だが、遅めの昼食をすませたばかりだったので今回は通過。
 現在私がその一代記を執筆中の石田達夫という八十余歳の怪老人宅の近くに差しかかるも、立ち寄らず先を急ぐ。以前、穴吹史士キャスターをこの謎の怪人物に引き合わせたことがある。波乱万丈かつ奇想天外なその人生模様については、乞う御期待とでもいったところ。脱稿前にもしかしたら天国へ……なんて軽口を叩いても、十三日の金曜日をこよなく愛するこのドラキュラ老人は平然としたものである。
 これも最高の蕎麦を食べさせてくれる大梅蕎麦の前を通過。この店は午前十一時に開店し午後三時には閉店という殿様商法を貫いている。「大梅」という店名は「おお、ウメー」をもじったものとか……確かに蕎麦の味は「ウメー」と思わず呟きたくなるくらいに美味しいのだ。この蕎麦屋の調理場は窓が大きくとってあり見晴らしがいいのだが、反対側の客室のほうはまったく外の景色が見えない。この店の主人いわく、「お客は一時間もすれば帰ってしまうが、店で働く我々のほうは、何時間も何日もそして何年も同じ場所で仕事をしなくちゃならない。調理場のほうの見晴らしをよくするのはあたりまえだ 」とのこと。どこまで本音かはわからないが、なかなかの蕎麦哲学なのだ。

     信濃から飛騨へ

 やわらかな緑に包まれはじめた山麓線伝いに堀金村、梓川村、安曇村と走り抜け、奈川渡ダム、沢渡、上高地入口、そして、昨年開通した安房トンネルをくぐって岐阜県側の上宝村平湯に出る。急峻でカーブの多い安房峠を越えていた頃は、道が混雑していなくても上高地入口から平湯まで一時間ほどはかかったが、新トンネル経由だとたった五分。雨期や積雪期に通行止めになることもなくなったが、風景のほうは峠越えの道に較べてなんとも味気ない。
 新平湯、栃尾温泉を経て蒲田川沿いの道を新穂高温泉に向かって走る。右手に焼岳、左手に笠ケ岳、そして前方に穂高連峰と、いずれの山々も全身に白銀の衣をまとって高く鋭く聳え立つ。槍ケ岳だけはちょうど雲に隠れていて見えないが、いつ見てもここからの眺めは絶景というほかない。雄大な景観を楽しみながら中尾温泉経由のルートで新穂高ロープーウエイの駅のところまで行ったあと、槍見橋付近まで引き返し、近くの駐車場に車を置いて橋の下の露天風呂に飛び込む。飛騨地方にやってくるたびに、私はこの露天風呂のお世話になっている。
 きれいな単純線で湯加減も長湯にぴったり、しかも、自然の大岩に囲まれた広い湯舟の底は小さな玉砂利で出来ているから気持ちのよいことこの上ない。お湯は有り余るほど湧き出ていて、溢れた分はすぐ脇の蒲田川の清流に小滝をなしてどんどん流れ落ちている。周辺の眺めもいうことない。温泉宿に付属したエセ露天風呂ならわんさとあるが、自然美に恵まれ、湯量も豊富で、しかも誰でも無料ではいれる本物の露天風呂は、当世めっきり少なくなった。
 さらに素晴らしいことに、この露天風呂は混浴だ。この時は、我々三人のほかには相当年齢の離れた一組の男女だけ。そのカップルはなんとも仲がよく、我々はアテられっぱなし。「どうだ、オメーら羨ましいだろうが」という中年男の得意げな心の呟きが聞こえてきそう。「よーしゃっ、そんじゃ、こっちも頑張るか……」と闘志だけは湧いてきても、この場でいますぐに対抗できるものでもない。
 癪(しゃく)だからいう訳ではないけれど、そのカップルの女性のほうが四、五十代で男が十代か二十代の若者だったらもっと絵になったろう。逆のケースはこの時代ありふれている。ただ、何事も男女平等が叫ばれる時代だから、そう遠くないうちに事態は逆転するかもしれない。つい最近、浮気は仕事の活力源だとのたもうた検察畑のお偉いさんなんども、たまにはお忍びでこんなところに来てたのだろうかと、よけいなことまで考えた。
 「不倫」という言葉は「人の道にはずれる」という意味らしいが、老いも若きも、お偉いさんも一般庶民も、男も女も自ら進んで婚外交際を楽しむことが普通になったこの時代、その行為を表すのに「不倫」などという旧態然とした表現を用いること自体問題なのかもしれない。攻めるも守るもフリンフリンになったいま、そろそろ「不倫」という言葉を「従倫」、すなわち、「人の道に従う」とかいったような意味合いの表現に改めたらどうだろう。
 むろん、その場合、「不倫」の二文字は、きわめて厳格で品行方正なごく一部の人々のみに冠せられることになる。そうすれば、詰まらぬ騒動なども少しはなくなるのではないか……いや、やっぱりなくならないだろな、私を含めた愚かなこの国の民衆の精神レベルでは……。
 そんな取り留めもないことを考えながら一時間近くも露天風呂につかっていると、さすがに全身がぐったりしてきた。すっかり日も暮れてきたことだし、そろそろ宿に入るかということになる。体を拭いて車に戻った我々は、露天風呂のある場所からそう遠くない栃尾荘という民宿に飛び込んだ。中年男どもの一日の行程としてば、放浪というより暴走に近い、いや、暴走そのものだ。軟弱化が叫ばれる当世のひ弱な若者連中には、こんな真似をする輩などそうそうはいないだろう。
 出された山菜料理を平らげたあと、せめて宿泊料金の元だけはとらねばと貧乏人根性を丸出しにした我々は、先刻の長風呂でぐったりした体に鞭打って、また性懲りもなく宿の露天風呂に長々と浸り、疲れを癒した……んじゃなくて、疲れを溜め込んだ。
 さすがに皆とろーんとしてきたので、ニュースステーションをちょっと見ただけですぐに寝入ったが、朝までぐっすり眠ったかというとそうでもない。ちゃんと、深夜三時には目を覚まし、日本のアンダー・ツゥエンティ・サッカーチームがウルグァイを二対一で撃破するのを見届けた。試合が終わったのが午前五時近く……翌日は七時起床、本番の黒鯛釣りはまだまだこれから……いったいこれからどうなるんだろうと呆れ果てながら、あらためて眠りに就く。

 東洋のキリマンジャロ、木曽の御嶽山

 翌朝は七時に起床、宿の露天風呂に飛び込んで眠気を覚ます。頭上に広がる青い空、今日も晴天。朝食をすませると直ちに出発。中部地方を半ば縦断するかたちで南下し、夕刻までには豊橋市の加藤幸正宅に着かねばならない。加藤さんは米沢さんの長男のお嫁さんの父君で、我々三人を黒鯛釣りに招待してくださった御当人。栃尾温泉近くの酒屋で、民宿の主人推奨の地酒「神代」をお土産に購入。
 栃尾から新平湯を抜けいったん平湯に戻り、丹生川沿いに高山方面へ下る。白銀を戴き陽光にきらめく乗鞍連峰の大きな山容は圧巻。あちこちに咲く白いコブシの花も見事。乗鞍スカイライン入口を過ぎしばらく行くと、円空仏の収められた祠のある日面地区にさしかかる。ここの明郷とかいう蕎麦屋の蕎麦は美味かったなあと思いながら通過。文学談議の好きなあの女将は健在だろうか。
 そこからしばらく下ると、高山方面に向かって右手に大きな飛騨の古民家を改装したお店が現れた。小八賀園である。このお店には、昨年秋、ある雑誌から依頼された飛騨紀行の取材の途中でふらっと立ち寄ったが、落ち着いたお店の雰囲気、出された焼き肉定食の飛騨牛のうまさと通常の二倍はあるその量、その他の新鮮な素材の素晴らしさとこまやかな心尽くし、そして何よりもその値段の安さに感激した。店主の林崎藤治郎さん御夫妻もとても素敵な方々だった。今回は先を急ぐのでここも通過。
 高山に入る少し手前で左に折れて市街を迂回、国道四七号に出たあと久々野町まで南下、そこから飛騨川沿いに朝日村方面へ向かう。万石の集落を過ぎたあたりから、前方に雪冠を戴き高々と聳える御岳山の姿が見えはじめる。朝日村、高根村、開田村一帯から眺める御嶽山は実に美しく、「東洋のキリマンジャロ」と呼ぶにふさわしい。
 ただ、一言断っておくと、私はキリマンジャロの勇姿を写真や映画の画像でしか見たことがないので、ほんとうにその名がふさわしいかどうかには責任がもてない。どなたかぜひ確認のほどを……。普通、御嶽山というと木曽路を連想するのだが、地形の関係で木曽路方面からは御嶽山の全貌を眺めることはできない。御嶽山ファンはぜひ朝日村、高根村、開田村へ。
 秋神ダム、権現トンネルを抜けて高根ダム、そして野麦峠へ続く道との分岐点へ。野麦峠越えの道は積雪のためまだ閉鎖中。女工哀史にもあるように、高山方面から諏訪、岡谷一帯の紡績工場へ向かう十代の若い娘たちは、かつてこの道をたどり、標高一六七二メートルの野麦峠を越えて木曽路の藪原や奈良井に入った。そしてそこからさらに、千五百メートルの権兵衛峠を越えて伊那谷に入り、伊那から谷伝いに岡谷方面へと向かったと伝えられている。
 長峰峠を越え高根村から開田村へ。開田村一帯は、馬高は低いが足が太く馬体のがっしりした木曽馬の産地として知られたところだが、いまでは純粋種はもうほとんど残っていないという。当時テレビ出演したとかいう純粋種の木曽馬を十数年前にこの近くで見たことはあるが、その後の情況はわからない。国道三六一号の木曽街道から分かれて御岳山麓の開田高原を縫う県道開田三岳福島線に入る。朝日村の万石あたりからは前方に大きく聳え立って見えた御岳山が、右手車窓のすぐそばに迫る。高度が上がったせいもあって、周辺の木立はまだ冬の眠りの中。その分、見通しはきく。車窓左手には木曽駒ケ岳を中心とする中央アルプスの美しい峰々が見えてくる。むろん、中腹から上はまだ雪に覆われている。
 米沢さんに運転を代わってもらうため道路脇に車を寄せ、何気なく時間を見ようとしたがどこにも腕時計が見当たらない。トランクの中のバックやナップサックを隅々まで探してみたがやはり見つからない。宿を出るとき忘れ物はないかとあれほど確認したのに、肝心の時計を忘れてくるなんて、どうやら我が身にもボケがまわってきたらしい。知人のシチズン中央技術研究所長からプレゼントされた特製試作品のエコ・ドライブ型腕時計だが、いまさら栃尾温泉まで引き返すわけにもいかないので、どこかで宿に電話し、見つかったら自宅に送ってもらおうと思う。
 ところがその時、何かに思い当たったような感じの米沢さんが、「これもしかしたら本田さんの……?」と言いながら腕時計をはずして差し出すではないか。そういえば、テーブルの上にあった米沢さんの時計と私の時計とは形や色がかなり似ていたなあと思いながら、その時計に見入ると何となく自分の物であるような、そうでないような……。その次の瞬間、時計の裏蓋をじっと見つめた米沢さんが、「あっ、これ、オレのじゃないや!」とストンキョウな声を上げる。米沢さんが自分の左腕を確認すると、なんとそこにはもう一個の腕時計が……。米沢さんは宿を出る前にうっかりして二個の腕時計を左手にはめたものらしい。米沢さんのスーパーボケ技に感謝、そしてまた感謝!

     南木曽から馬籠宿へ

 木曽福島と上松の中間にある元橋で国道十九号に合流し同国道を南下。高度が下がったせいで再び若緑の輝きが美しくなる。上松町、大桑村を経て南木曽町に入り、妻籠方面に分岐して妻籠宿脇を通過、緑の眩い馬籠峠を越えて島崎藤村の生誕地馬籠宿に向かう。青春時代馬籠から妻籠まで歩いたときには急峻な隘路しかなかったが、いまではバスも通れそうな立派な車道が通じている。さびれた感じの峠の茶屋前を通過しながら、車で通過する人がほとんどのいまはお客も激減したことだろうと想像する。
 馬籠宿が近づくにつれ、前方に恵那山が大きな姿を現した。馬籠宿は石畳と階段の続く急坂の古道を両側からはさむ形で発達した集落からなっている。米沢さんも玉木さんも馬籠は初めてだというので、坂上側の集落入口で二人をおろし、私だけが車を運転して坂下側の駐車場にまわる。両側にこの地方特有の造りの老舗の立ち並ぶ急傾斜の路をのぼり、集落中央付近の島崎藤村記念館前で米沢、玉木両氏と合流。
 藤村記念館は、藤村が生まれ育った馬籠の本陣跡に建てられている。本陣とは旅の途中の大名や貴人たちが逗留した宿場町の主家の屋敷で、各種文化情報や文物の集まる場所でもあった。藤村が文豪として大成していった背景には、幼児期木曽の豊かな自然の中で育ったということのほかに、当時としてはきわめて恵まれた文化的経済的基盤があったものと思われる。海外留学時の資料や諸々の作品の原稿や草稿など、その途方もない足跡には圧倒されるばかり。漱石や鴎外もそうだが、真のエリートとして国を背負い、強い義務感を抱きながら欧州に学び、帰朝して後輩の育成と文学界の発展に心身のすべてを捧げた明治の大文豪の気迫が時を超えて伝わってくる感じ。
 藤村が愛したという東北学院時代の教え子佐藤輔子の写真と日記も展示されていたが、その知性美、達筆このうえない毛筆文字、簡潔ながらも的確かつ切れ味鋭い文体などは、さすが藤村が見初めた才女だけのことはある。「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり」と詠んだ相手のおゆうさんは、すでに妻籠の脇本陣の大黒屋にすでに嫁いでいたはずで、この頃にはもう藤村にとって遠い去の人となっていたのだろうか……まあ、そんなことは、よけいなことか。
 面白かったのが、藤村の父、島崎正樹が若い頃の息子春樹、すなわち藤村に与えた戒めの一文。全体的には「盛り場や遊興の地への逗留を避け、山師や糸師、賭博師といった、一獲千金を夢見る詐欺師まがいの連中との交際を慎むように」といった内容の文書だが、その中に、「嫡子が生まれない場合をのぞき妾女は持たないように」との訓戒が記されている。ところが、そのすぐあとに、「ただし、このことはなかなか難しい問題なので、大体のところを記しておいた」という主旨の意味ありげな補足文がついているのだ。書いたあとで己のことを振り返り、ついつい付け足したのであろうが、人間島崎正樹の心の内が偲ばれ、にやりとさせられる。
 展示館の一角には藤村が原稿執筆に使った机や座布団、火鉢などをはじめとする調度類を当時のままに配した部屋があったが、実に簡素なものだった。昔風の木机に背筋を伸ばして正座し原稿の筆を執った、在りし日の藤村の様子が偲ばれる。「そうだよなぁー、こうやって姿勢を正して真摯な気持ちで筆を執るんでなきゃ、良いものなんか絶対に書けないよなぁー」という米沢さんの感嘆とも溜め息ともつかない言葉が印象的。少なくとも我々三人はその時点でもの書きとして既に失格。
 それにしても、ワープロやパソコンで原稿を書くのが当然のことになってしまった現代の作家たちは、先々、原稿を書くのに使ったワープロやパソコン、プリンター、フロッピーなどを自らの文学資料として残すのであろうか。これは作家の誰々先生のお使いになったパソコンとプリンター、それにフロッピーディスクです……なんてことになったら、誰も文学記念館などには行く気がしなくなるに違いない。現代作家の文学記念館のようなものが後世成り立つかどうかは疑問である。将来自分の記念館が建てられることを願う現代の大先生方は、ワープロなどには頼らず、せいぜい手書きの原稿でも残すように心がけておくがよかろう。中身はたいしたことなくても、手稿が残っているというだけで高く評価されることは……まあ、たぶんないだろうな。

     木曽から三河地方へ

 藤村記念館を出たあと、近くの蕎麦屋で昼食。なかなか美味しい蕎麦だった。信州名物の野沢菜入りお焼きを頬張りながら坂を下って駐車場へ。馬籠からいったん中津川市に出たあと、岩村方面へと続く道に入る。奥三河の山中を縫って豊川、豊橋方面へと南下しようという魂胆。またまた深い山岳地帯に分け入るも、樹々の緑の輝きは一段と艶やかさをます。一帯はすでに初夏の気配。岩村、上矢作、稲武、設楽、新城と、それぞれに趣のある村々や町々をつなぐ深い谷筋伝いの道をひたすら南へ。関東方面からの旅人で奥三河の山中を訪ねる人は少ないが、四月中旬から下旬にかけてのこの一帯の自然の美しさは推奨に値する。今回は立ち寄らなかったが、東方に南アルプス連峰を、さらに南方から西方にかけて奥三河の山並みを望む茶臼山周辺の景観はとくに素晴らしい。
 新城から豊川を経て豊橋市の加藤幸正宅へ午後六時前に到着。加藤御夫妻に温かく迎えられる。明朝は三時起きなので、加藤宅に着いてすぐに釣りに出かける準備をすませる。心配なのは天候。我々の破天荒な事前行動に呆れ果てたお天道様がとうとうヘソを曲げたのか、見上げる空はなんとも怪しい雲行きに。天気予報でも、低気圧が近づいており、明日は海は荒れ模様とのこと。今朝だったら最高の条件だったのになあ、と加藤さん。その時刻、我々は岐阜の山奥、新穂高温泉峡の民宿の布団の中で黒鯛の釣れる夢を見ていたのだから仕方がない。
 伊良湖沖の海中に黒鯛の祈祷者がいて、念力でお天道様と掛け合い低気圧を呼び寄せたのだろうか。釣るというよりは、相手が釣れてくれるのを待つといった程度の腕前の御一行様ともいえないことはないのに、なんとも御苦労様なことだ。
 風呂にいれてもらい一段落したあと、奥様の手になる豪華な料理に舌鼓を打つ。地元で獲れた生きのよい魚の刺し身も美味かった。刺し身皿に次々と箸を伸ばしながら、黒鯛を釣る前にこれでは順序が逆じゃないかとも思ったが、美味しいものの誘惑には勝てるわけもない。食後は、加藤さんと米沢さんの初孫、滴(しずく)ちゃんの近況などを交えた話に花が咲く。リビングルームの飾り棚には滴ちゃんが誕生してほどなく、加藤さんが釣り上げ、東京練馬の米沢宅にお祝いとしてそのまま送られたという一メートルに近いお化け真鯛の写真もあった。
 ヤマハで音楽インストラクターをやっていた加藤さんの上のお嬢さんが米沢さんの長男のお嫁さん。加藤さの次女、加藤訓子(かとうくにこ)さんは、桐朋音大を卒業後、パーカッション(打楽器)の有名な若手演奏者として世界を股にかけ活躍中。現在はロンドンに在住、ヨーロッパを中心に音楽研究と公演とに多忙とのこと。過日、東京お茶の水のカザルスホールでのコンサートを拝聴したが、音のでるものなら何でも、たとえば自らの身体さえも見事な楽器に変えてしまうその迫力と独創性に驚嘆したことがある。
 天候は荒れ模様になり、明日は百パーセント雨天とのことだが、案内してくれる漁師はともかく出船してみよう言っているとのこと。午前三時起床なので、ともかく寝ようということになり、午後十時過ぎに就寝。

   黒鯛はセイゴとコチに化けた!

 翌朝は午前三時ぴったりに起床。直ちに加藤さんの車に乗り込み、小雨の中を四十キロほど離れた伊良湖岬へ向かって出発。伊良湖岬に着く頃には風も強まる。黒鯛釣りのポイントは伊良湖岬をまわって外海に出た遠州灘の沖。秋には真鯛の釣れる場所だが、この季節はそこが黒鯛の釣り場になる。
 米沢さんと私とは過去何度か伊良湖沖の真鯛釣りや黒鯛釣りに招待されたことがある。伊良湖の鯛釣りは独特で、ウタセエビ、アカセエビといった三河湾、伊勢湾周辺で獲れる生きた小海老を餌にする。針先に掛けて海中に投じても海老が生きたままでいるようにするのがコツだが、これが結構難しい。釣り方は胴釣りで、錘をいったん海底に着床させたあと、二〜三メートル引き上げた状態で当たりを待つ。文字通り「海老で鯛を釣る」わけだ。ときには鯛のかわりに大きなハマチが釣れたりもする。以前の真鯛釣りの際には、私の竿にも六十センチほどのハマチが掛かった。
 伊良湖岬に着くとすぐ長靴をはきカッパを着て迎えの船の到着を待つ。見おぼえのある船頭さんの操る小型漁船が着岸すると直ちに乗船。今日は外海の遠州灘は風浪が激しく黒鯛釣りは無理との船頭の言葉に従い、急遽釣り場と釣りの対象魚を変更。三河湾と伊勢湾を隔てる知多半島突端の沖合にある日間賀島周辺に向かう。「テメーがその気なら誰が釣ってやるもんか」と黒鯛に悔しまぎれの捨てぜりふを吐いて、狙いを出世魚のスズキのこどもセイゴに変更。新鮮なセイゴの刺し身は美味い、黒鯛よりも美味い!……と自らに言い聞かせる。
 乗船して三十分ほどで日間賀島沖に到着。内海のため風浪はそう激しくないが、それでも結構船は揺れる。島育ちの私は船酔いには無縁だが、雨風はないほうがよいにきまっている。三時間ほど釣り続けたが釣果はまるでかんばしくない。船頭共々五人がかりでセイゴとコチ合わせてわずか四、五尾。私の隣で釣っている腕のいい船頭さんも小ぶりのセイゴ一尾を釣っただけ。
 この日一番の大物を釣り上げたのは初めて参加の玉木明さん。五十センチほどはある大型のセイゴを一尾釣り上げた。「よかったね!」と声を掛けると、ご当人は、釣ったというより相手が勝手に掛かってくれた感じだと、なんとも憮然とした表情。
 しかし、玉木さん以上に途方もない大物を引っ掛け糸を切ってしまったのはこの私。なにしろ地球を二尾も釣りそこねたのだから大変なものである。私が座った位置の海底はたまたま根掛かりしやすいところだったらしく、何度も根に引っ掛かり、二度も糸先が切れてしまった。
 そうこうするうちに風雨がいちだんと激しさを増し、海面も大きく波立ちはじめた。もうこれ以上は無理だということになり、伊良湖岬へと引き返すことになる。シャワーのような雨に加えて、何度も潮水を頭からかぶりながら伊良湖岬着。黒鯛釣り騒動は「泰山鳴動して鼠一匹」の諺そのままの結果に終わる。気の毒がった船頭さんは、自分が前日釣って船倉に生かしてあったセイゴやコチを我々が釣ったものに合わせてプレゼントしてくれた。総数で十五尾ほど。
 加藤宅に戻ったあとは、睡眠不足を補うべくもっぱら昼寝。それにしても豊橋まで昼寝に来るなんて考えてもみなかった。結局この日は加藤宅にもう一泊。翌日午前中に豊橋を発って東名高速道経由で東京に戻る。豊橋から東京まで大雨に降られっぱなし。家に戻ったあと、お土産にともらって持ち帰ったセイゴとコチをさばき、刺し身にして食す。美味かった……黒鯛の何倍も何十倍も!……だけど、喉元のどこかに釣り針の形に似た「?」マークが引っ掛かったような感じがしてならなかった。

「マセマティック放浪記」
1999年5月12日

ある沖縄の想い出(1)
那覇到着直後の椿事

 沖縄でサミット会議が開催されることになった。プラス要因とマイナス要因の複雑に交錯する問題だから、万事が万事喜ばしいとはいえないかもしれないが、大局的にみれば沖縄にとって有意義なことには違いない。「万歳」という言葉の裏に秘められた歴史的な背景を遠い過去のものとして消し去るがごとく、サミット開催決定の知らせに「バンザイ」を三唱する地元誘致関係者の姿が、私にはとても印象的だった。
 すでにマスコミ報道などでも指摘されていることだが、警備は大変なことだろう。本土から多数の警察官が応援のために派遣されることは間違いない。沖縄が開催地に選ばれたというニュースを聞いて私が真っ先に警備のことを思い浮かべたのは、沖縄にまつわる警備がらみの想い出があるからだ。
 一九八七年の九月二十三日、沖縄で金環食が見られたことがあった。その金環食を取材するため、私はその前日に日航機で沖縄に飛んだのだが、羽田で搭乗手続きをするときからチェックは厳しく、手荷物の中身まで細かく調べられた。それほどに警備が厳重だった理由は、金環食観測に多くの人々が殺到したからではなく、たまたまその時に開かれていた沖縄国体に昭和天皇の名代として現皇太子の浩宮が出席していたからである。私が沖縄に渡ろうとした当日、浩宮は沖縄から東京に戻る予定になっていたのだ。
 眼下に青く揺れ輝く珊瑚の海に吸い寄せられるようにジェット機は機首をさげ、午後二時過ぎ、那覇空港へと滑り込んだ。沖縄を舞台にした金環食のドラマを明日にひかえ、私の胸は弾んでいた。予約してあるレンタカーを借りようと、その会社の空港内事務所に足を運ぶと、数人の先客が、困惑気味の表情で係員の説明に聴き入っているところだった。
 「大変申し訳ないのですが、国体にご出席の浩宮様がお帰りなるために交通規制が敷かれ、車を空港に持ち込むことができません。ただ、ここから十五分ほど歩いた地点までは車が入れますので、そこまでご案内致します。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い致します」
 秋とはいっても九月の午後の沖縄の日差しは本土の真夏なみに強烈である。我々は手荷物をさげ汗だくになりながら、トランシーバー片手の女性係員の誘導にしたがった。ところが、ほどなく指定の地点に着くという時になって、係員のトランシーバーが急に鳴りだした。そして、みるみる彼女の顔が泣きだしそうな表情に変わっていった。
 「なんとも申し訳ありません。こちらのほうもたったいま交通規制が敷かれたとのことです。ただもうお詫びするしかございませんが、もう一度空港事務所までお戻りいただけませんでしょうか。幸い構内に当社のワゴンが一台おりますので、その車で皆様を市内の私どもの営業所までご案内しようと存じます。空港を出るほうの道路は無規制ですので……」
 自分の責任ではないにもかかわらず、必死になってそう詫びる彼女の姿は、見ていて可哀相なほどだった。
 我々は再び空港の建物目指してぞろぞろと引き返しはじめた。炎天下、両手に重い荷物をさげながら往復三十分近くも歩くのは、たしかに疲れることではあった。こんなときはお互い様だから、私は老婦人が手荷物を運ぶのを手伝ってあげた。
 我々が乗車し終えるとワゴン車はすぐに走りだした。那覇空港と那覇市街の間には立派な車道が通じている。全島にわたってというわけではないが、本格的な自動車道ができたのは本土よりも沖縄のほうが先だから驚くにはあたらない。むろん、戦後すぐに沖縄がアメリカ軍の統治下に入ったせいたっだ。
 車窓から反対側車線を見やると、なるほど、沿道には十メートルほどの間隔で警察官が警戒に立ち、その向こうに日の丸の小旗を手にした見送りの人々がずらりと並んでいる。大戦中の悲惨な歴史のゆえに日の丸に対して複雑な感情を抱く人々も少なくないと聞いていた沖縄にしては、日の丸の小旗をもつ人の数が想像以上に多かった。もしかしたら、それなりの背景や多少の演出などもあったのかもしれないが……。
 車を運転していたのは、三十歳前後のどこにでもいそうな感じの男性だった。無事に空港を出た車は市街に向かって快調に走り続けていたが、一本の道が右手斜め前方から合流する変則T字路のところまでくると、速度を落として中央分離帯のほうに寄り、ゆっくりと反対車線方向へ回転しはじめた。
 進行方向に対して車が四十五度ほど曲がったときだった。沿道に並ぶ警官の数人がとんでもないという形相で我々の車に駆け寄ってきた。そして、そのうちの一人が大きな身ぶりでただちに直進するように運転手に向かって指示をだした。
 だが、次の瞬間、運転手は警察官のほうを睨むと、毅然としてこう言い放ったのだった。
 「私の事業所はそこなんですよ。いったいあなたがたは直進してどこへ行けっていうんですか?」
 運転手が指さす方向を見ると、なるほど、反対車線側の三十メートルほど後方にトヨタレンタカーの営業所の看板が見えている。彼はUターンしてその営業所に戻ろうとしたのだった。
 「浩宮の一行がほどなくここを通過するので、こちらがわの車線は交通規制が敷かれています。直進してください」
 二人ほどの警官が車の回転を妨げるようにして右手前方に立ちはだかった。しかし運転手は一歩も引かない。
 「あなたがたも仕事なのかもしれないが、私だって仕事なんですよ。交通規制するならするで、 はじめから時間と場所をしっかり決めてくれているならまだいい。あなたがたのやり方は行き当たりばったりじゃないですか。過剰警備もいいとこだし……」
 「気持ちはよくわかりますが、万一に備え本部から強い規制命令が出てるんです。一時直進して待機してください」
 あとでわかったのだが、このときも多数の警察官が本土から警備の応援に派遣されていた。だが、何かあったとき表に立って直接に対応するのは地元の警察官の任務になっていたようである。東京あたりの警察官なら、この時点で公務執行妨害行為として車を強制排除し、運転手の身柄を拘束しかねないところだったが、そこは沖縄のこと、警察官もそれなりに慎重であった。
 固唾をのんで事態の推移を見守っていると、運転手は一語一語に力を込めてさらに反論した。
 「このお客さんがただって、もう一時間以上も予定が狂ってしまってるんですよ。しかも重い荷物を持ってあちこち振りまわされて……。本来なら空港からレンタカーに乗ってもらうところを、こうして我慢してもらってるんですよ。そういった一般の人々の迷惑はどうなるんですか?」
 驚くべき光景が展開したのは次の瞬間だった。私は思わず我が目を疑った。なんと、婦人警官を含む二人の警察官が、すこし顔を紅潮させながらも、車中の我々一人ひとりに向かって鄭重に頭をさげはじめたのである。東京などでは絶対に考えられないことだった。
 私は強い衝撃を覚えながら、「ここは沖縄なんだ!……人々が黙々として重い歴史を背負ってきた、守礼の国沖縄なんだ!」と心の中で叫んでいた。
 私などは、この際直進もやむを得ないのじゃないかと思いかけたが、それでも運転手は頑として車を動かそうとしなかった。彼には彼なりの内なる思いがあったのかもしれない。その時とうとう、斜め前方の道路のほうに浩宮一行の車の列が現れた。警察官たちは慌てて歩道側の持ち場に引き下がり、我々の車だけが道路中央に取り残された。
 浩宮一行の車の列は、何事もなかったかのように我々の車の脇を通り過ぎていった。車中の浩宮が至近距離から我々のほうに向かって軽く手を振りながら微笑みかけるというおまけまでついて……。さきほどからの騒動を宥め鎮めるかのように、その笑顔は自然で親しみに満ちていた。後部座席の老婦人などは、思わぬ体験にひたすら感激の様子だった。
 一行が通過し交通規制が解除されたあとも、べつだん我々の車の運転手が追及されたり拘束されたりするようなことはなかった。トヨタレンタカーの事業所に着いた我々は、それぞれに車を借りて目的地へと向かって散った。スターレットを借りた私は、那覇市内をそのまま通過すると、その晩宿泊を予定していたヴィラ・オクマ・リゾートのある沖縄北西部の奥間ビーチに向かって西海岸沿いの五八号線を北上しはじめた。私は旅をするとき高級リゾートホテルに泊まることはほとんどないが、このときはJAL広報誌からの依頼原稿の取材ということもあったので、JAL傘下のリゾートホテルが何泊分か先方の手で予約されていた。
 広いドライブウエイに沿って立ち並ぶお店や建物はすっかりアメリカナイズドされていて、まるでカリフォルニアあたりの海岸線を走っているかのようであった。浦添、宜野湾、北谷(ちゃたん)を過ぎ嘉手納に入ると、大きな円環路から四、五本の道路が別々の方向にのびる嘉手納ロータリーが現れた。その周辺は大きな建物が立ち並ぶ市街地になっている。どこにでもある駅前ロータリーなどは違い、機能性の高い大規模ロターリーで、アメリカ的な発想で造られたことは一見しただけで明白だった。
 夕刻が近づいてきていたが、嘉手納を通りかかったついでに米軍基地を一目でも眺めておこうと思い、まず、基地の北側にまわってみた。なるほど、四千メートルはあるという大滑走路が二本、ますぐにのびている。遠くのほうには駐機場があって戦闘機や輸送機らしい機影が散見された。
 突然に背後から轟音が響いてきたかと思うと、黒灰色のデルタ翼をもつ怪鳥のようなジェット機が頭越しに滑走路へと降りていった。その異様な機影はたしかになんとも言い難い不気味さを秘めている。しばらくすると、今度は巨大なアホウドリにも似た四発の大型機が北東方向へと飛び立っていった。私が基地周辺にいたのはせいぜい三十分くらいだったが、その間にも様々な軍用機が地面を揺るがすような響きをたてて離着陸を繰り返した。米軍の極東戦略にとってこの基地がどんなに重要な位置を占めているかは、それらの軍用機の動きを見るだけでも明らかだった。
 いったいその基地の奥ではどんな指揮系統のもとに、日々どのような戦略が立案、遂行されていたのだろう。本土の横田基地などもそうだが、おそらくは地下深くに核攻撃にも耐えうる大シェルターがあって、その中枢部のオペレーション・センターにある超大型スクリーンには、極東全域の航空機や主要艦船の位置と動きがリアルタイムで表示されているに違いない。
 再び国道筋に戻った私は、沖縄戦のときに米軍が真っ先に上陸したという読谷村を過ぎ、恩納村にさしかかった。ムーンビーチ、万座ビーチ、瀬良垣ビーチ、インブビーチと美しい海岸の続くこの一帯は沖縄随一のリゾート地で、当時、本土ではまず見かけることのなかった段状テラス構造の高級ホテルが立ち並んでいた。開業して間もない日航系の高級リゾートホテル、サンマリーナもその一角を占めていて、三晩目に私はそこに泊まることになっていた。折しもバブル経済の絶頂期とあって、沖縄にも大量の本土資本が流入し、観光開発に一段と拍車がかけられていたのである。
 人工的ではあるが、なんとも蠱惑(こわく)に満ちた風景の中を進んでいくと万座ビーチが近づいてきた。左手にハワイかマイアミの高級リゾートホテルを彷彿とさせる豪華な造りの万座ビーチホテルも見えた。私は翌日の金環食をそのすぐ近くの万座毛で観察するつもりでいた。
 サンセット・ロードという呼称を冠してもけっしてその名に恥じることのない恩納村西海岸の道をなおも走りながら、私は南海の美しさにひたすら酔いしれていた。だが、それにもかかわらず、あの運転手の姿とその言葉の裏に秘められた思いがどうしても気になってしかたがなかった。沖縄の幻想的な光景の背後に潜む歴史の陰影を学ばずにその風光のみを耽美することに、私は本能的な罪悪感を感じかけていた。
 せっかくの旅だから素直に楽しんでしまえばよさそうなものだったが、どうしてもそれができなくなりはじめていたのだ。隣県の鹿児島で育ちながら、私はあまりにも沖縄のことを知らなさすぎた。「ひめゆりの塔」をはじめとする沖縄関係の映画や戦争報道写真はそれなりに見たことがあったけれども、そこで見聞きしたものが単なる知識以上の意味を持つようなことはなかった。
 私はいまもあの時の運転手に感謝している。あの衝撃的な一件がなければ、翌日の金環食を乾いた科学の目のみで追いかけ、本土のバブル資本によって演出された沖縄の表の美しさだけに見惚れ、南部の戦跡や戦史資料館などを別の惑星の出来事のように眺めただけで戻ってきたに違いないからだ。
 奥間ビーチに向かう途中、軽食をとりに立ち寄ったお店で私の手を一冊の本に導いたのは、あの運転手の見えない力だったに違いない。B5版、およそ二五〇ページのそのハードカバー上製本は、店の片隅に四、五冊そっと積まれていた。「これが沖縄戦だ」というタイトルの本で、米軍サイドが撮影したモノクロの凄じい戦争報道写真と沖縄戦史の記述とを半々に織り交ぜた構成になっていた。地元の琉球新報社が刊行し那覇出版社が発売しているこの本の迫真の写真に目を惹かれて買ってはみたが、著者についてはまったく知見がなく、正直なところ郷土史家の一人くらいにしか思わなかった。
 実際、その本の著者は、当時、沖縄以外ではほとんど知られていなかったし、私のほうも、写真を眺めて沖縄戦について一通りのことがわかれば十分だというくらいの期待しかしていなかった。
 名護市を過ぎ本部半島の根元を横切って本島北部の大宜味村に入ると、道幅も狭まり、海岸線の景観も自然のままの感じに変わった。もしかしたら、まだ幼かった安室奈美恵がその近くで遊んでいたかもしれない。周辺の景色がどんどん人工的な装いを脱ぎ捨てていくなかで、そこだけが妙に明るく華やいだ感じの奥間ビーチに到着したのは、すでに太陽が西の海に沈んだあとのことだった。ヤンバルクイナが棲み、米軍の実弾演習場や特殊部隊訓練場もある山深い国頭村にあって、奥間ビーチ一帯だけはカリフォルニア海岸の飛び地のような奇妙な風情を湛えていた。
 ビーチ裏手の大駐車場に車を置いた私は、とりあえず、ヴィラ・オクマ・リゾートにチェックインした。ホテル周辺は本土からやってきた若いOLたちであふれていた。若い男もいるにはいたが、圧倒的に女性客のほうが多かった。

「マセマティック放浪記」
1999年5月19日

ある沖縄の想い出(2)
ヴィラ・オクマの夜

 私が通されたのはツイン仕様の洒落たコッテージで、一人で泊まるのはもったいないくらいだった。気をきかせてこんなコッテージを用意してくれたのだろうが、あいにく、このとき私は一人旅だった。誰かと一緒に来ればよかったかなとは思ってみたが、あとの祭りである。すぐに魔法を使って美女を出現させるなんて芸当ができれば苦労はないが、そうそううまくことが運ぶわけもなかった。
 奥間ビーチ一帯はもともと米軍の保養施設だったところだけに、ホテル内もその周辺も完全なリゾートタイプの造りになっている。ヨット、カヤック、ウィンドサーフィン、水上スキー、ダイビングなど、あらゆるマリンスポーツを楽しむことができるうえ、夜間でも使用可能なトレーニングジム、プール、各種球技施設なども完備していた。ホテルの従業員を兼ねた各種競技や遊技のインストラクターなども多数いて、滞在客の指導や対応にあたっていたが、よく見ると彼らの多くは白人系の混血らしい若い男女で、しかもなかなかの美形揃いだった。
 私はとりあえず浴室で汗を流し、レストランで夕食をすませた。そして、各種プレイング・ルームやディスコ、スポーツジムなどをひとわたりのぞきまわったあと、夜のビーチへと散歩にでた。広いビーチは波打ち際にいたるまで明るく照明が施され、いかにもリラックスした感じの男女が、三々五々、心地よい海風に全身をゆだねながらアバンチュールを楽しんでいた。ビーチのあちこちにはスタンドバーやティースポットもあって、軽食などもとれるようになっている。渚伝いにビーチの端のほうまで歩いていくと、大きな仕切り用ネットが現れ、そこから先には進めないようになっていた。その向こうにあるのは米軍専用のリゾートビーチらしかった。
 しばし一帯を散策しながら南国の夜の潮騒に聞きほれたあと、浜辺の一隅にあるベンチに腰をおろした。そして何を想うでもなく遠くの漁火を眺めているうちに、たまたま隣り合わせになったチャーミングな女性と、どちらからともなく話し込むことになった。彼女は会社のグループ旅行でこのホテルに泊まっていたのだが、仲間が遊技に興じている間に独りでビーチに出てきているところだった。
 翌日の金環食の話題にはじまり、沖縄についてのお互いの想い、さらには様々な旅や仕事の話などを、我々は二時間近くにわたって語り合った。沖縄の旅の夜風が心の緊張を解きほぐし、それまでに生きてきたそれぞれの時空の隔壁をいっきに消し去ってくれたこともあって、きわめて自然体のままに、私たちは偶然の出逢いの生みもたらした共有時空をしばしの間楽しんだ。
 部屋に戻って翌日の金環食取材の準備を整えたあと、ベッドに横になった私は、奥間ビーチに来る途中で買い求めた戦史記録、「これが沖縄戦だ」に軽く目を通しはじめた。巻頭には手榴弾による集団自決直後の凄惨な現場写真や、隠れていた壕の中から現れた一人の少女が、ありあわせの木の枝に白い三角旗をつけ、おびえながら米軍のほうへと近づいてくる写真などが収められていた。後者は「白旗を掲げる少女」として米軍の沖縄戦記録フィルムにも登場する有名なシーンの写真だった。
 この本で私がその写真を目にしてから何年かのち、比嘉富子さんという那覇在住の主婦が「あの白旗の少女は私です」と名乗り出て、朝日新聞などでも大きく報道された。比嘉さんは当時六歳で、首里が戦火に巻き込まれたため、兄、姉、弟とともに南へ逃げるうちに兄は銃弾を浴びて死亡、姉、弟ともはぐれて一人になってしまったのだった。ちょこちょこ動き回るため日本兵からも危険視され、お前が生きているとこちらが危ないと、何度も退避壕から追い出されたという。そうやって逃げ回る途中でたまたま飛び込んだ壕の中に、両手両足のない老人と目の不自由な老女の夫婦がいた。
 「もう戦争は終わったから出てきなさい」という、投降を勧告する米軍の呼びかけがある日突然聞こえてきた。するとその老夫婦は、どうしても外に出たがらない比嘉さんをなだめすかし、老人の下着を切り裂いて作った白い三角旗を持たせて壕から送り出したのだそうだ。その後の老夫婦の消息は比嘉さんにもまったくわからないというが、その運命は想像に難くない。
 迫真力と衝撃力とにみちた数枚の巻頭写真を見たあと、「米軍、慶良間を攻略」というタイトルの初章を軽い気持ちで読みはじめた私は、あっという間にその文中に引き込まれた。そして容易にはページを閉じることができなくなってしまった。沖縄戦についての正確かつ詳細な記述、日米どちら側にも公正な客観的叙述、極力感情を押さえたジャーナリズムの手本のような明快で的確な文章、驚異的なまでの調査力と情報収集能力、冷静な情報分析力、読む者の心をひきつけてやまない見事な構成力、さらには沖縄戦がなんであったかを如実に物語る三百枚近い戦争報道写真――このうえなく愚かで悲惨な戦史を描き著した本であるにもかかわらず、それは絶賛に値する一冊であった。
 私は目を見開かされる思いでその本の半分ほどを一気に読み通した。そのまま最後まで読破してもよかったのだが、敢て残り半分を翌晩まで読まずにとっておくことにした。一晩で読み終えるのはもったいないような気がしてならなかったからである。
 冷静な筆致で書かれたこの戦史の本文中には、むろん著者の影らしいものはまったく感じられなかったが、その人物がただ者ではないことだけは明らかだった。恐るべき筆力に感嘆した私は、昭和五十二年の初版刊行時に琉球大学名誉教授仲宗根政善が執筆した巻頭献辞文や著者自身の前書き、巻末の著者略歴などをあらためて細かく読み直し、その人となりのおよその輪郭をつかもうと努めてみた。
 沖縄守備軍司令官牛島満が自決した昭和二十年六月二十三日(一説には自決は二十二日ともいう)の前日、日本軍司令部のあった摩文仁の丘一帯では日米両軍の最後の死闘が繰り広げられていた。沖縄師範鉄血勤皇隊に所属する二十歳前の一人の若者も、岩さえも燃え砕けるその熾烈な砲撃戦の直中で生死を賭して戦闘を続けていた。戦いに利なく、多くの仲間が戦死するなか、かろうじて凄惨の地を脱出したその若者は、三カ月にもわたる死の彷徨を続けたすえに奇跡的な生還を遂げる。
 終戦後本土に渡り、早稲田大学に学んだ彼は一九五四年に渡米し、ニューヨークのシラキュース大学大学院を卒業、帰国後は東大新聞研究所で研究員として専門研究に従事する。その後、彼はさらにハワイ大学イースト・ウエスト・センター教授を経て、琉球大学法文学部社会学科教授に就任し、私が沖縄を訪ねた十二年前の時点ではまだ同大学で教鞭をとっていた。
 自らの生は多くの人々の血であがなわれたものと深く悟ったこの人物は、米国留学から帰国したあとも沖縄戦の資料を求めて機会あるごとに渡米、ワシントンの米国国防総省で膨大な沖縄戦関係の写真資料を探しだし、その中から一千数百点の写真を選び出して日本に持ち帰った。さらに、米国立公文書館、米陸海軍、米海兵隊などが保管する沖縄関係資料や防衛庁戦史室保管資料、各種戦記類など内外の資料を可能なかきぎり収集して、沖縄戦の全貌を明らかにしようと試みた。その心中に悲壮なまでの使命感があっただろうことは推測に難くない。
 入手した資料を体系的に整理した彼は、地元紙の琉球新報に「これが沖縄戦だ」というタイトルの連載記事を書き始める。そして、その記事にさらに加筆し、三百点近い未公開の写真と組み合わせて編集出版されたのが、たまたま私が手にすることになった一冊の本というわけだった。この本の特徴の一つは、収録されている写真のすべてが米軍側によって撮影されたものであり、しかもそれらはアメリカに現存する関係資料写真のごく一部に過ぎないということだった。日本側の記録写真がほとんど存在しないのは、沖縄守備軍がほぼ壊滅したことにもよるが、より大きな理由は、それほどまでに彼我の間に物量的な力の差があったということである。
 同書を出版したあとも、その著者は毎年のようにアメリカと沖縄とを往復して沖縄関係の写真や機密文書を収集、著述内容の改訂を進めてきた。むろん、それは、前述の経歴からもわかるように、青春期、自ら戦火の直中にあって生き地獄を体験し、戦後の留学を経て日本人としては指折りのアメリカ通となり、語学堪能で米国人の知己も多いこの著者にしてはじめて可能なことであった。
 大田昌秀――その人こそがこの本の執筆者にほかならない。この人物がのちに沖縄県知事になろうとは、その時の私には想像もつかないことであった。現在の出版情況はわからないが、おそらくいまも沖縄でならその著書を入手できるのではなかろうか。沖縄を訪ねる機会のある人や沖縄戦史に関心のある人にはぜひ一読をお勧めしたい。現在の沖縄の抱える問題の根源は、本書を一冊読むだけで明らかになると言ってもよい。いま一度あらためて紹介しておくと、「これが沖縄戦だ」(大田昌秀著、琉球新報社刊、那覇出版社発売)がその貴重な戦史記録の書名である。

 昭和二十年三月二十六日、沖縄守備軍の予想を裏切り慶良間諸島を攻略制覇した米軍は、その海域を基点にして沖縄本島上陸作戦を敢行した。慶良間諸島では七百人以上の住民がその時点ですでに集団自決していたのだ。米軍兵員は延べ五十四万八千人、艦船数千五百余隻、対する沖縄守備軍は地元から強制動員された十三歳から六十五歳までの男子と女子学生看護部隊を含む十一万人であったという。
 当時のアメリカの著名な従軍記者が、「これは戦争の醜さの極致だ。それ以外にはこの戦いをうまく説明しようがない。その規模において、その範囲の広さにおいて、その激烈さにおいて……」と報じた激戦の幕は昭和二十年四月一日静かに切って落とされた。
 「海三分、船七分」と日本側の監視員が打電したというほどに海面を埋め尽くした米軍団主力部隊は、読谷村の渡具知海岸に続々と無血上陸を果たす。のちに待ち受ける凄絶な戦いからは想像もつかないくらいに、その上陸風景は平穏なものであったという。沖縄守備軍が水際決戦を避けて全軍を沖縄南部に配し、首里高地一帯の地下にトーチカを構えて米軍の進攻を待ち伏せる作戦をとったからだった。
 沖縄守備軍は南部に下がって陣地を構えるに先立ち、北(読谷)飛行場や中(嘉手納)飛行場を爆破し使用不能にする戦略をとった。学徒を大量に動員し、長い年月をかけて完成したばかりの飛行場であったが、上陸した米軍に補給や攻撃の基地として使用されるのを恐れたからである。
 しかしながら、日本側参謀本部の思惑はあっけなく裏切られた。優秀なアメリカ工兵隊は、多数のブルドーザーとトラックを揚陸すると、わずか二、三日で両飛行場を修復、拡張整備して使用可能にしたばかりでなく、周辺一帯に車両用の広い道路をあっというまに建設した。
 前述の本に収められている一枚の写真を目にしたとき、私は思わず我が目を疑った。米軍が上陸して数日と経たないうちに造られた嘉手納ロータリーと、その円環路を走る多数の米軍車両を撮影した航空写真があるのだが、なんとこの日通ってきたばかりの嘉手納ロータリーの形そのままだったからである。路面が舗装され、道路沿いには建物がびっしりと立ち並んでしまっているが、ロータリーの形や道幅は建造当時とほとんど変わりがない。
 嘉手納ロータリーを走りながら、このロータリーはアメリカ的な発想のもとで造られたものだと感じはしたが、まさか米軍の沖縄上陸直後に建設されたものがそのまま残されていたなどとは夢にも想ってみなかった。戦時下の状況にあっても将来を見越して立てられた米軍の戦略構想に較べて、日本軍部のそれはなんと愚かで短絡的だったことだろう。

「マセマティック放浪記」
1999年5月26日

ある沖縄の想い出(3)
金環食のあとで

 翌日は絶好の金環食日和だった。ホテルで朝食をすませた私は、すぐに、金環食帯の中心線の通る恩納村万座毛目指して五八号線を南下した。前日那覇から五八号線伝いに奥間にやってくる途中でも気づいていたが、道路沿いに点々とアイスクリームを売るスタンドがあって、年頃の若い女の子が強い日差しのなかでじっとお客を待っている。暑いから観光客にアイスクリームが売れるのは当然だと思って、はじめのうちはとくに気にもならなかったが、そんな光景を繰返し見かけるうちに、いったいそれで採算が合うのだろうかといささか心配になってきた。
 いつやって来るかわからないお客を待って立っている女の子だって大変だろうと思ったが、その複雑な背景が私にはまだよく見えていなかった。沖縄国体と金環食とが重なって本土からの客も多かったその日の前後はともかくとしても、働き盛りの若い女性がこうもたくさん道端でアイスクリーム売りをやっているのは、よくよく考えてみると不自然なことである。むろん、「乳脂肪率が高く本土のものより美味しい沖縄のアイスクリームはよく売れるからだ」などという表面的な説明で片づけられるようなことではなかった。
 つぶさに観察してみると、アイルクリームスタンドやお土産店の売り子には混血の男女の若者が多かった。すでに過去三、四十年にわたり軍属を主とした米国系の人々と地元住民との間で血の融合が起こり、現在もその状況が進行中である沖縄において、国籍や人種の異なる父母をもつ彼らが生き抜くことは容易でない。米軍基地関係企業をのぞくと経済基盤がきわめて弱く、雇用も不安定なこの地で、自らには何の責任もないにもかかわらず、ときにはあらぬ差別にも堪えて生きなければならない人々の苦悩を、本土の人間が理解するのはきわめて難しい。アイスクリームのスタンド一つにもそのような問題が秘められていたのだが、愚かな旅人の私がそのことに気づくにはいま少し時間が必要だった。
 万座毛とは海蝕断崖上にある天然の広場のことだ。青々とした芝生の広がるこの広場からは、眼下に紺碧の万座の海が見下ろせる。小さな入り江をはさんで万座ビーチホテルの洒落た建物も見えていた。二五〇年ほど前、この地を視察した尚敬王が「万人を座らせるに足る」と称賛したのがその名の由来であるという。
 万座毛一帯は金環食観測にやって来た報道関係者や一般客でいっぱいだった。NHKや朝日新聞社の腕章をつけた報道陣が慌ただしく取材準備をするかたわらでは、商売上手の業者によって日食メガネなるものが売られていた。小さな長方形の白い厚紙の中央に円形の穴をあけ、それに黒いフィルムをはった簡単な道具で、私も試しに一個買ってみたが、結構役に立ちそうだった。
 万座毛の一角では沖縄古来の民族衣装に身を包んだ地元の人々が「うるう祭」というお祭りをやっており、金環食が始まるまでのひととき、観光客の目を楽しませてくれていた。直観的にそう感じただけではあるが、沖縄の伝統的な民族衣装姿はアイヌの人々の民族衣装姿ときわめて似通ったところがあるように思われた。最近のDNAの研究を通して、縄文時代の沖縄や南九州の先住民と同時代の東北、北海道の先住民との間には深いつながりがあったこともわかってきているが、そういったこともなにかしら関係しているのであろうか。
 日食は午前十時頃から始まり、次第に太陽が欠けていって、十一時二十三分に金環食の状態になった。皆既日食とは違って太陽の周端はリング状に明るく輝いて見えるから、予想していた以上に眩しく、肉眼でじかに観察するのは困難だった。結局、持参のフィルターや試しに求めた日食メガネを通して観測するしかなかったが、予測されていた通りの見事な金環食を四分間ほどにわたって観測することができたので、その意味ではこの取材旅行は大成功だった。金環食が起こっている最中に周辺の様子をうかがってみたが、陽光は大きく翳りはしているものの晴天時の夕暮れよりはずっと明るい感じで、その点はいささか意外な気がした。
 考えてみれば、皆既日食と異なり地上に降り注ぐ太陽光が完全に遮断されるわけではないから、美しいコロナを期待することも、天の岩戸伝説にあるように世界が一時の闇に沈むのを目にするのも、もともと無理な話ではあった。生涯において一度出逢うことができるかどうかという自然現象に、沖縄の万座毛という美しい場所でめぐり逢えたこと自体に感謝すべきであったのだった。
 将来、宇宙船などで地球周辺の空間を自由に動くことができるようになれば、皆既日食や金環食の起こるスポットの追尾や選択も意のままになるから、観測の成否が天候に左右されることもなくなるに違いない。だが、千載一遇の機会に賭けるしかない現在においては、金環食を自分の眼ではっきりと見ることができただけでも恵まれていたと考えるべきだろう。
 金環食の観測取材をを終えた私は、名護市まで北上し、本部半島の中央部を抜けて本部町渡久地港に出ることにした。地図で見ると、渡久地から本部半島突端にある沖縄海洋博記念公園までは一走りだった。本部半島中央の伊豆味一帯は沖縄随一のパイナップルの産地である。車が半島中央部の高原地帯に入ると、道の両側も前方も見渡すかぎりパイナップル畑になってきた。道路沿いの観光客向けの売店でとりたてのパイナップルを試食することができたが、その甘酸っぱい香りと味はさすがに本場ならではのものだった。
 伊豆味地方には明治の頃からパイナップルはあったらしいが、もっぱら仏前の供物とされ、沖縄の人々はほとんど食べていなかったという。ところが、戦後の米軍の沖縄駐留にともなていっきに需要が高まり、米軍用に大量栽培されるようになった。それを契機にパイナップル作りが盛んになり、いまでは沖縄の観光資源の一つとなったのだった。
 パイナップル地帯を過ぎ満名川沿いに渡久地の街並みに出、そこからすこし北上すると海洋博記念公園に到着した。博覧会ブームが続いていた一九七五年に、世界初と銘打って開催された海洋博の跡地を国営公園化したもので、国内では最大規模の敷地面積を有している。園内に熱帯植物園や水族館、沖縄館、海洋文化館、沖縄郷土村、アクアポリス、エメラルドビーチ、そしておきまりの大遊園地エキスポランドなどがあった。
 ガイドブックに全施設を見学するには最低でも五時間は必要とか書かれていた大規模な園内施設を、せっかくやって来たのだからと一通りは見てまわったのだが、各施設の細かな様子などはほとんど記憶に残っていない。十二年ほど前のこととはいえ、歴史文化や科学技術、動植物の生態などについての展示はけっして嫌いではないし、もの憶えもそう悪いほうではないつもりなのだが、いったいどうしたことだろう。時のフィルターに耐えうるような発見や感動があまりなかったということなのだろうか。
 わずかに記憶にとどまっているのは、十七世紀から十八世紀にかけての琉球諸島の古民家集落を再現した沖縄郷土村と、未来の海上都市モデル、アクアポリスの水中展望室から眺めた美しい海中の景観、そして、エメラルドグリーンの海の向こうに浮かぶ伊江島と瀬底島の島影だけだ。いや、それにもうひとつ、旅先でめったにお土産を買うことのない私が、園内の公営珊瑚細工店で赤珊瑚のペンダントを二個買い求めた記憶がある。
 そのうちの一個は我が家の奥方の箪笥の底あたりで二度と日の目を見ることのない運命をたどっているのだろうと思うが、もう一個のほうを誰に進呈したものか私もはっきり憶えていない。なんとなく思いあたるふしもないでもないが、いまさら出てこられてもロクなことにはならないから、そちらのほうも眠っていてもらうにかぎる。
 沖縄海洋博記念公園をあとにした私は本部半島の北側にまわり、西日に浮かぶ今帰仁(なきじん)城址を訪ねてみた。長い石段をのぼり、城の本丸のあった広場を抜けると古来のままの城壁を見渡せる展望台にでた。七百年以上も前に築かれた北山王朝のこの城は、首里城、中山城と並ぶ名城だったというが、現在は城郭だけが残っている。北山王朝は十四世紀に中山の首里軍によって攻め滅ぼされた。
 独特の構造の城壁の下は断崖になっており、北方海上はるかに伊屋名島、伊平屋島とおぼしき島影が望まれた。かねてから訪ねる人はほとんどないらしく、城跡に立つのは私一人だけだった。一帯には夕日を浴びて鳴く無数の蝉の声が悲しげにこだまし、その不思議な蝉時雨(せみしぐれ)は、栄華の果てに滅び去ったいにしえの北山王朝一族の霊を、さらにはこの地につかの間の生を刻み、やがて去っていった多くの沖縄びとの魂を弔い鎮めているかのようだった。
 私の心に深くしみいるそれらの蝉の声は九州南部のクマ蝉やアブラ蝉、ニイニイ蝉などのものとは明らかに違っていた。おそらく沖縄地方固有の蝉だったのだろう。実を言うと、蝉の声ばかりでなく、そられを乗せて吹き抜ける今帰仁の夕風のそのものに私の五感は未知の何かを知覚しはじめていた。「ここの風は違う。自分の知っている風とは違う」……一言でいえばそんな思いに襲われたのだった。
 なおも続く蝉時雨を背に、静かに今帰仁城址を辞した私は、本部半島北部の集落を縫う道を走り抜け、羽地内海と呼ばれる美しい内海のそばに出ると、その周辺を見下ろせる嵐山展望台にのぼってみた。羽地内海は本部半島の北側付け根一帯とその少し沖にある屋我地島、奥武島によって大きく囲い込まれた天然の内海で、その中には地元の人々が小松島と呼ぶ多数の小島が点在している。
 人けのない嵐山展望台に立って見下ろす羽地の海とそこに浮かぶ小島の群は、迫り来る夕闇のもとでひたすら静まり返り、気まぐれな旅人の旅愁をいやがうえにも掻き立てた。点々と民家の明かりの灯りはじめた対岸の屋我地島の西部と本部半島との間には細長い自然の水路が開けており、直接には見えなかったが、その水路の外洋よりの部分が運天港となっていた。
 地理的に恵まれた運天港は、古来、沖縄近海を航行する船舶の格好の避難港になってきた。「運天」というその奇妙な地名の由来はなかなかに面白い。あくまでも伝説にすぎないが、保元の乱に敗れ流刑の地伊豆大島にあった源為朝は密かに大島を脱出、運を天に任せた航海の末にたどり着いたのがこの港だったのだという。その決死の航海にちなんで運天という地名がつけられたのだそうだ。
 このときたまたま手にしていたガイドブックをめくって運天港の解説を拾い読みしていた私は、慶長十四年(一六〇九年)琉球を侵略した薩摩の軍勢が最初に上陸したのもこの港であることを知った。そして、自分の育った家にいささか関わる遠い昔のある人物についての記録を想い出したのはこのときだった。学生時代に一度それらしき記述を走り読みしたことはあったが、現代に生きる自分には直接関係なかったこともあって、私はそれにさして興味を覚えなかった。だから、そんな記録などすっかり忘れてしまっていた。
 運天港につながる羽地内海を通りかかったのは偶然にすぎなかったのだが、蝉時雨の今帰仁城址でいつしかこの身に働きかけた宿世の糸は、否応なしに私の魂を四百年も前の世界に引き込もうとしていた。宿命論というものを私は信じない。いまでもすべては偶然だったと考えている。しかし、このときの沖縄の旅において、偶然として片付けるにはあまりにも多すぎる偶然が重なったのは事実だった。
 突然のように降って湧いた複雑な想いを鎮めかねて、しばし私はその場に立ち尽くした。東京に戻って書斎の片隅にある歴史資料を詳しく読みなおしてみなければ、いまひとつ断定はできないという想いはあったが、多分そうなのだろうという予感を打ち消すことはできなかった。正直なところ、それが私の勘違いか記憶違いであればよいのだがとも考えた。
 その晩再びヴィラ・オクマに戻った私は、思わぬ展開の末に生じた胸中の混乱をノートにメモしたあと、昨夜読み残した大田昌秀の著書「これが沖縄戦だ」の後半部を憑かれたように読み耽った。その書中には、信じ難いほどに残虐な数々の出来事が、読み手にその歴史的評価を委ねるがごとく淡々と語り綴られていた。感情の高ぶりを極力抑えてあるぶん、そこに収められた記述にはいっそうの真実味が感じられてならなかった。
 時間的には話が前後するが、帰京したあと、私は薩摩藩に関する歴史資料と私の育った鹿児島県甑島についての歴史資料をあらためて精読してみた。その結果、やはり私のかすかな記憶は間違いではなかったことが判明した。その事実が間違いではないとわかった以上、私には遠い昔の沖縄の出来事を過去の話として眠らせておくわけにはいかなくなった。

「マセマティック放浪記」
1999年6月2日

ある沖縄の想い出(4)
琉球侵略と初代在番奉行

 中国との地理的歴史的関係が深く、南海交易の要所だった琉球諸島は、経済的にも莫大な価値があり、生前、豊臣秀吉も琉球を支配することを夢見ていたという。関ケ原の戦いで豊臣方を破り、江戸幕府を樹立した徳川家康にとっても、琉球を支配下に置くことは願ってもないことであった。
 ただ、当時、琉球王朝は中国(明)との結びつきが強くその庇護下にあったうえに、江戸の徳川幕府が自力で直接支配するには地理的にあまりにも遠すぎた。政権を樹立したばかりの江戸幕府には、琉球への侵攻は経済的にも物理的にも困難だったのである。またかりに直接の侵略が可能だとしても、守礼の国として知られる琉球を武力で支配すれば、琉球の人々からばかりでなく、国内外からも少なからぬ反感を買うだろうことは目に見えていた。
 そのため、徳川幕府が選んだ方策は自らは労することなく琉球を間接支配することでああった。すなわち、薩摩島津藩に琉球を侵略支配させ、薩摩藩の手を介し、琉球の生み出す富や文化の粋を間接的に略取することを考えたのである。慶長十四年(一六〇九年)の薩摩藩による琉球侵略は、表面的には薩摩藩の単独行為に見えたけれども、黒幕はほかならぬ徳川幕府で、その支持と承認があってはじめて可能だったのだ。琉球支配後、薩摩藩が失政をおかせば直ちに改易し、幕府中枢に近い大名を送り込んで、外様大名島津の従来の所領のほか琉球諸島をも合わせて統治せんとする思惑も隠されていたに違いない。
 関ケ原の戦いに豊臣方として出陣しながら、石田三成と用兵戦略をめぐって対立したあげく、戦いに利なしと判断した島津勢は、ついに一戦を交えることもなく東西両軍の戦闘が終わるのを見届ける。小早川の徳川方への寝返りと、勇猛果敢で知られた島津勢の不戦が豊臣方敗北の要因とも言われるが、もしかしたら、小早川にばかりでなく島津に対しても、老獪な家康からの秘密裏の工作などがあったのかも知れない。激闘のさなか中立をかたくなに守った島津の軍勢は、勝利を収めた徳川方の多数の軍勢の真っ直中を粛然として行軍踏破し、最小限の犠牲を払っただけで奇跡的に薩摩に帰還した。
 徳川幕府成立後、外様大名に列せられた島津の表向きの禄高は加賀前田藩につぐ七十三万石であったが、シラス土壌が多く台風などによる被害の絶えない薩摩の米の生産力は低く、実質的には高々三十数万石に過ぎなかったし、米質もそう良くはなかったようである。土壌的に恵まれない薩摩の民人の暮らしは貧しく、士族階級といえどもその生活は苦しかった。のちに琉球経由で持ち込まれた甘藷(サツマイモ)はたまたまシラス土壌にも強い作物だったため、食料窮乏の際の救いとなったことはよく知られているところである。
 わずかな失政があったり、幕府に対する知行高相応の儀礼や賦課、賦役などに不備不足が生じたりしたら改易必定だった外様の島津は、藩の維持防衛に必死であった。外様大名の参勤交代の制度が正式に定められるのは関ケ原の戦いから三十五年ほどのちのことであるが、徳川幕府成立当初から、江戸城への表敬参内や藩存続のための幕府有力筋への工作などには莫大な費用が必要だった。また、のちの薩摩藩による木曽川治水工事にみるような、藩の財政を圧迫する法外な賦課や賦役、理不尽な各種難題などが先々持ちかけられるだろうことは目に見えていた。
 幕藩体制が確立し参勤交代が制度化されてからというものは、江戸屋敷の維持、諸々の祭事儀礼、各種賦課、参勤交代の行列などにおいて、実禄高をはるかに超える知行禄高相応の格式を要求されたため、途方も無い費用が必要となった。島津をはじめとする九州の諸大名は、参勤交代の際、川止めが多く莫大な逗留費のかかる東海道を避け、たいていは中山道を通ったようであるが、東海道を選んだ場合などは大井川ひとつ渡るにも大変な費用がかかったのである。
 たとえば、禄高十万石の格式の大名は参勤交代の際に三百人ほどの行列を組むことを義務づけられていたが、この行列が大井川を渡るだけでも、現在の貨幣価値に換算して千五百万円ほどの費用を要したという。七十三万石の薩摩藩などは、従者の数は二千人近くにものぼり、しかも、鹿児島から江戸まで千数百キロもの旅をしなければならなかったから、そのための費用だけでも驚く程の額にのぼった。しかも参勤交代の旅に要する経費の大半は主要街道に沿う徳川親藩や譜代大名の収入となり、間接的に徳川幕府に還流してその財政を潤した。華麗な江戸文化や京都文化の繁栄はそういった経済構造に支えられていたのである。
 そのいっぽう、外様大名の領民は重税や賦役に苦しみ、士分といえどもその多くは禄を極度に低く抑えられ、薩摩藩にみる郷士制ように、平時は農耕に従事しながら厳しい生活を送っていた。薩摩人の美徳ともされた「質実剛健」という言葉は、聞こえだけはよいものの、そんな気風が奨励された背景には、生活苦と戦うことを余儀なくされながらも気概だけは高くもつことを求められる領民の隠された姿があったのだ。
 幕藩体制成立直後の薩摩藩が、領内の限りある歳入のみに頼って、先々予想される幕府の様々な要求や締めつけに対応していくことは困難だった。そんな薩摩にとって唯一の方策は、中国や東南アジアとの密貿易を含む南海交易を通して利益をあげることであり、その最大の目玉となるのが、ほかならぬ琉球諸島の支配であった。
 薩摩藩による琉球侵略が行われたのは、徳川幕府と薩摩藩の利害に関する思惑がたまたま一致した結果にほかならない。一般的な歴史書などでは横暴いっぽうの薩摩藩が自藩の利益のためのみに琉球を侵略したように記述されているが、実際の黒幕は徳川幕府であり、薩摩藩が琉球支配によってあげた利益の大半を陰で吸い上げたのも幕府や幕閣筋であったことを忘れてはならない。
 慶長十四年(一六〇九年)三月、総勢三千余の薩摩軍は百隻ほどの軍船に分乗、琉球侵攻のため薩摩半島先端の山川港をあとにした。樺山権左衛門久高を総大将とするこの薩摩軍の指揮官のなかに物頭(ものがしら)を務める一人の人物があった。物頭とは軍の鉄砲組、弓組を指揮する役職である。山川港からの出陣に際し薩摩の従軍将士に対しては、「一般の民人に狼藉をはたらくな、神社、仏閣、堂宇などを荒らすな、各種経文、文書などを大切にせよ」という三つの軍律が布告されていた。
 しかしながら、ほとんど抵抗をうけることなく琉球一円を制圧した薩摩軍の将士たちは、この軍律を破って民人に狼藉をはたらき、文物を荒らしてはそれらを略奪した。「この役において将士すこぶる律令を犯す」(南聘紀考)、「家々の日記、代々の文書、七珍万宝さながら失せ果つ」(喜安日記)などと当時の状況を記した文書にも残されているように、薩摩軍の暴挙は目に余るものがあり、当然、琉球の民心には強い反島津の感情が湧き起こった。
 ただ、そんな薩摩の将士のなかに、軍律を遵守し、琉球の人々の生命と生活の安全にに努め文物の保全に尽力しようとした一人の人物があった。それが先に述べた薩摩軍の物頭である。民心のなかに高まる反島津の感情を抑え、地元との宥和をはかる必要に迫られた薩摩は、慶長十四年九月に本土へ軍勢を引き上げたあとも、軍律を厳守し琉球の民心にも通じたその物頭を現地に留め、初代琉球在番奉行の任に当たらせる。言うなれば、彼は、沖縄占領後、同島の行政に携わった米軍の軍政司令官と同じ役職に任じられたわけだった。
 いくら人徳があり軍律を守ったからといっても所詮徳川幕府や島津の命令の代行者に過ぎなかったわけだから、すくなからぬ損失やゆえなき圧政を琉球にもたらしただろうことは想像に難くない。侵略者の手先であるかぎり、琉球の民人にとって迷惑な存在だったことは疑う余地もないからだ。ただ、当時の幕府や薩摩藩の支配構造の許すかぎりにおいて、地元との宥和をはかるべくその人物なりには力を尽くしたようである。琉球侵攻から二年後の慶長十六年(一六一一年)に「掟十五ヶ条」という法度が薩摩から琉球王朝に申し渡されるまでの間、彼は首里にあって在番奉行を勤めあげた。
 掟十五ヶ条は、琉球王朝が遵守すべき事柄を厳格に定めたもので、その最大の狙いは琉球王府の対外貿易権を統制し、主に対明貿易の利益を独占することであった。以後琉球は与論島以北の奄美諸島を薩摩に割取されたばかりでなく、完全な薩摩の植民地となり、様々なかたちで税の上納を強要された。ただ、明への進貢貿易の必要上、琉球王朝の明王朝との冊封関係(明に使節を派遣して貢ぎ物などの礼を尽くし、その見返りに明王朝から庇護をうけ、多大の利益を保証される関係)は容認されるいっぽで、明王朝に対しては薩摩と琉球王朝の関係は隠蔽されたままになった。要するに琉球は二重支配の状態におかれたわけである。
 また、幕府に対しては徳川将軍の代替わりのときには慶賀使を、琉球国王の代替わりのときには謝恩使を江戸まで送ることが義務づけられた。これは江戸上りと呼ばれ、一六三四年から一八五〇年までの百年までの間に十八回もの使節団が派遣されている。幕府への莫大な貢ぎ物に加えて使節団の旅する距離が長大なだけに、その負担は大変なものであっただろうと想像される。徳川幕府は、薩摩藩を通じての間接的な利益吸収のみにとどまらず、折々直接的な利益に預かろうと企てるとともに、自らの権威を広く国内に知らしめるため琉球王朝を利用しようとしたのであった。
 徳川の旗本の系譜を汲むというある人物が、かつて薩摩は琉球を侵略したと、いくつかのメディアで厳しいく断じているのを目にしたことがあるが、それはかなり一方的な見方だと言えないこともない。なぜなら、陰でその片棒をかついでいたのは旗本たちを召し抱える徳川幕府であり、琉球から収奪された富がめぐり流れて潤したのは、貧しい薩摩の領内ではなく、火事と喧嘩が売り物の江戸だったからである。
 初代の琉球在番奉行といえば聞こえはよいが、要するに琉球傀儡王朝樹立のための体のいい手先となった問題の人物は、琉球侵攻の二年後に鹿児島に召喚される。そして、今度は、鎌倉時代以来の支配者小川一族が改易になったあとで、人心が乱れて治安が悪く、流人や異国船の出入が絶えなかったという島津の直轄領、甑島の初代移地頭に任命された。甑島とは、かつて私が育った東支那海に浮かぶ島である。歴史資料のなかの文書には、「甑島は鹿児島より遠いため、普通の者を派遣したのでは勝手なことをしかねず、とても信頼がおけない。そこで慎重に人選をした結果、先年、琉球で軍律を守り貢献のあったその人物を甑島に送ることにし、緊急に同島に移るように申し渡した」といった主旨の記載がある。
 信頼が厚かったからとはいうものの、功労があった割には遠い島から島への移封であり、しかも当時の記録で見るかぎりその職務の重さに比してその禄高は驚くほどに低かった。彼には藩のそんな人事と条件をのまざるを得ない事情があったのかもしれないと思った私は、古い文献を調べその一族のルーツをすこしばかり探ってみた。
 源頼朝とその側室との間に生まれた島津忠久は、文治二年(一一八六年)頼朝より薩摩、大隅、日向の三国の守護職に任ぜられるが、忠久自身は大番役を務めるために都にあった。そのため忠久は一人の直臣を所領に送り領内を治めさせた。派遣された直臣は忠久に代わってその三国を平定し領内の所々に城を築いたあと主君を迎えに上洛、忠久に従って再び領国へと下った。
 島津忠久が薩摩の守護職に着くと、その直臣は忠久より、現在の鹿児島県国分市を中心とする大隅一帯の統治を任じられ、南北朝以降になるとその直臣代々の後裔は大隅国守護代として一帯を治めるようになった。大隅にいるにもかかわらず信濃守を名乗る当主が多かったその一族は、国分清水城を本拠地にしてその地を治め、大きな勢力をもつに至ったらしい。地理纂考によるとこの一族は諏訪大社の大宮司一族とも同族であったという。しかし、大隅の統治についた初代から十代目にあたる董親とその子の親兼は天文十七年(一五四九年)に主家に謀反、島津貴久の命をうけた伊集院久朗の軍に攻められて日向の庄内(現在の都城)へ逃走、それがもとで一族の主家や分家は離散衰退し、島津藩史の主流から姿を消す。
 菫親、親兼父子が権力を傘に横暴な圧政を行い、それがもとで一族内部に対立が起こり、やがて主家の島津に対する謀反にまで発展したと藩史などには記されている。記録に残っているような事実も確かにあったようだが、島津一族の島津右馬忠将がそのあと大隅の地頭に任命されているところをみると、一族の内紛に乗じ、謀反という名目で追い落としが計られた可能性も高いし、なんらかのかたちで守護家島津一族の勢力争いに巻き込まれた可能性もなくはない。
 没落衰退はしたものの、それでもなおこの一族の一部は国分の地に生きのび、五十年ほどのちになってその係累の中から現れたのが初代琉球在番奉行になった人物であった。彼は秀吉の朝鮮出兵の際、島津軍の一員として高麗に遠征、また、関ケ原の戦いのあと島津義弘を無事薩摩に帰還させるために大きく貢献し、義弘より藤島の太刀を拝領するとともに、五十石の知行を得た。むろん、前大隅守護代謀反の汚名のゆえに、残された同族の者たちにはかつての栄光や権威にすがることなど許されようはずもなかったろう。だから、ささやかでも家を守るには与えられた機会を最大限に活かし、命懸けで功をたてねばならなかったに違いない。その人物が琉球の文物の重要さを熟知し、抑圧される琉球の民衆の心を十分に解し得たのは、自らの置かれたそんな状況に加え、その一族に代々伝わる文物尊重の気風ないしは家風みたいなものがあったからかもしれない。
 甑島の初代移地頭に任じられ、地頭としては驚くほど微禄としかいいようのない知行を得たその人物、本田親政は、補佐役で一族の本田八左衛門と共に甑島に渡る。そして彼らは、慶長年間に甑島に配流された大炊御門中将藤原頼国、松木少将宗隆の公家二人が最後に暮らした上甑島里村の屋敷に居し、その職務を全うした。本田親政のほうは寛永十五年甑島から鹿児島に戻り翌年に他界する。甑島に残ったほうの本田一族は、両公卿の墓を代々守るとともに、その遺児や子孫と血縁関係をもつにいたったようである。明治初期外相を務めた寺島宗則は、のちに甑島から鹿児島県阿久根市脇元に移った松木家の出身である。
 両公卿の甑島での生活ぶりを偲ぶ文物や当時の事情を詳しく記した文献などはなにも残されていないので(おそらく藩命で没収されたものと思われる)明確なことは定かでないが、鎌倉時代薩摩に下る以前の本田一族のルーツとの関係が背景にあって、そのような縁が生まれたのかも知れない。

 本部半島の嵐山展望台から羽地内海を見下ろし、運天港に上陸した薩摩の軍勢のことを想い浮かべたとき、突然に記憶の古層から甦ったのは、ほかならぬ本田親政という名前だったのだ。実を言うと、親政が鹿児島に戻ったあと甑島に残った本田一族は私の先祖であり、いまは草蒸し荒れ果てた屋敷跡になっているが、彼らが四百年近くも前に暮らしたのと同じその場所でこの私は育ったのだった。
 遠い昔のこととはいえ、幕府や薩摩藩の代弁者となって尚寧王の琉球統治に干渉し、琉球の人々に多大の迷惑をかけた一族の末裔の一人がほかならぬこの身だということが判明し、私はなんとも遣る瀬無い複雑な心境になってしまった。沖縄にやって来るまでは、こんなかたちで否応なく己のルーツをたどらされ、あげくのはてに衝撃の事実を確認させられることになろうとなどは夢にも思っていなかった。一連の事態は、まことにもって天のいたずらとでもいうほかないものであった。

「マセマティック放浪記」
1999年6月9日

ある沖縄の想い出(5)
辺戸岬と祖国復帰闘争碑

 沖縄三日目の朝は、いささか憂鬱な私の心を励まし力づけてくれるような晴天だった。遠い昔のことがどうであれ、こうして沖縄にやってきた以上、現代の沖縄の置かれた状況を自分なりに極力冷静に見すえ、己の無知と無責任さを省みる契機にするしかない……そう思い直した私は、とりあえずホテルをチェックウトするべく身支度を整えた。
 フロントに向かう前にホテルの売店をのぞくと、前日の金環食の写真セットがもうお土産として売られていた。記念にワンセット買ってみたが、プロのカメラマンが撮った写真だけのことはあって、その出来栄えはなかなか見事なものだった。だが、それ以上に感心したのは、「機を見るに敏なり」という言葉を地でいくようなその抜け目のない商魂ぶりだった。万座毛で金環食を見る前に買った日食メガネもそうだったが、どうもそれらのアイディアは地元の人の発想ではなく、商才にたけた本土の誰かが考え出したもののように思われた。
 奥間ビーチに別れを告げると、私は沖縄本島最北端の辺戸岬を目指して走り出した。右手には国頭山地の最高峰与那覇岳の西山麓が広がっている。与那覇岳は四九六メートルと標高こそ高くないが、その周辺、とくに東側山麓一帯は深い亜熱帯樹になっていて、天然記念物のノグチゲラやヤンバルクイナが生息していることで名高い。また、一〇四科三七八種におよぶ植物が繁茂しているともいわれ、天然保護区域にも指定されているところだ。海辺の村というよりは静かな山村といった感じの辺土名(へとな)の集落を過ぎ、西海岸沿いの道をどんどん北上していくとやがて宜名間(ぎなま)の集落にでた。沖縄本島の集落は北端に近いほど昔の姿を留めている。がっしりした感じの赤瓦の屋根がとても印象的だった。
 明るい日差しを浴びながらもひたすら静まり返った宜名間の集落を過ぎると、ほどなく道路の左右に二十メートルほどの大岩の切り立つ場所にでた。まるでトンネルかゲートをくぐっている感じである。その近くの道路脇に「戻る道」と記された碑が立っていた。五、六十年ほど前までは、そこは岩の裂け目を掘り削った急勾配の狭く細い道になっていて、途中で反対方向からやってくる人と出合うとどちらかが道を譲って戻らなければならなかったことから、そのような名がつけられたらしい。
 現在も車道の上の崖の間にその道の跡が一部残っていて、それを徒歩でのぼりつめたところに「茅打ちバンタ」と呼ばれる場所があった。眼下には高さ百メートルほどの断崖がほぼ垂直に切り立っている。この断崖上から束ねた茅を海面に向かって落とすと、風に吹き上げられてバラバラに飛び散ってしまうというのが、その変わった地名の由来であるという。断崖の真下で揺れる海の色はどこまでも青く、しかも底のほう深くまで透き通っていた。こころもち視線を上げて来し方を眺めやると、あの運天港を形づくる本部半島と屋我地島一帯の遠景が望まれた。
 四百年前、百隻を超える薩摩の軍船団は、私の眼前に広がる海を横切って運天港に向かっていった。不安な思いに駆られながら、その異様な光景をこの茅打ちバンタの断崖上から眺めていた沖縄びともあったに違いない。最終的にその事実を確認したのは私が東京に戻ってからのことであったが、それらの軍船のどれかには、当人も予想だにせぬ成り行きから薩摩の琉球支配に一役買うはめになる人物が乗っていたわけだ。そして、それから四百年近く経たのち、奇しくも、その人物にゆかりの不肖な男がふらふらと沖縄を訪ね、いにしえの沖縄びとが軍船団を見下ろしていたはずの断崖に立って当時の情況を想像していたことになる。
 展望台の周辺には蘇鉄が多数自生していた。赤土に近いこの地の土壌は多分に鉄分を含んでいるのだろう。群生するそれらの蘇鉄を眺めるうちに、私は自分が育った家の庭の一隅にも大きな蘇鉄が一本生えていたことを想い出した。年代もののその大蘇鉄が枯れてなくなるときには家も滅びるなどと伝えられていたものだ。身辺に様々な不幸があいつぎ、やがて天涯孤独の身になった私が東京に出て苦学しはじめた頃には、もともと荒れかけていた屋敷は、無人となってますます荒れ果て、その蘇鉄もいつの間にか枯れてしまった。
 こんなことを書くと言い伝えがずばり当たったようにも見えてくるのだが、真相は多分そうではない。蘇鉄は鉄分を多量に摂取して生きる樹木なので、甑島のような本来の自生地でないところで蘇鉄の樹勢を保つには、根元に屑鉄や使い古した剃刀の刃などを常時埋めて鉄分を補給してやらねばならない。そのほか、こまかな手入れや台風などに対する備えなども必要となる。だから、何らかの事情でその世話をする家人がいなくなると、蘇鉄は徐々に弱りやがて立ち枯れてしまうのだ。人がいなくなるから蘇鉄が枯れるわけで、言い伝えとは因果関係が逆さまなのである。
 あらためて周辺の蘇鉄を観察するうちに、もしかしら、私が育った家のあの蘇鉄は、この沖縄での任務を終え甑島に渡った例の人物たちが、沖縄での二年間を懐かしんで植えたものではなかったろうかという想いが脳裏をよぎったりもした。だが、手入れさえ怠らなければ蘇鉄が樹齢三、四百年にもわたって生きながらえることができるものなのかどうかは、植物の専門家でもないこの身にはよくわからなかった。
 茅打ちバンタのある付近から沖縄本島最北端の辺戸岬までは車でほんの一走りだった。岬一帯は万座毛と同じようにウガンダ芝が密生していて、何千人もの人々が大集会でも開けそうな平地になっていた。そして、その平地を抜け岬の突端に続く小道の脇に一つの記念碑が建っていた。ほとんどの人は何の関心も示さず次々にその碑のそばを通り過ぎていったが、そんなものがわざわざこの地に建てられた経緯が、私は妙に気になってならなかった。そこで碑の前に佇んでざっと碑文に目を通してみることにした。
 「祖国復帰闘争碑」と題されたその碑文は相当に長いもので、細かな文字が連綿と彫り刻まれており、刻字の一部は読み取るのに苦労するくらいに変形や変色をきたしていた。だが、碑文を読み進むうちに私はいつしか深い感動にいざなわれた。文体はいくぶん古いものの、それは読む者の胸に切々と迫る名文であった。そして、そこには、まぎれもなく戦後の沖縄びとの心の原点が刻まれていたのである。
 こんな碑文があることなどこの辺戸岬にやってくるまで知らなかったし、その文章を沖縄関係の書籍やガイドブック、報道記事などで目にしたこともなかった。どうしてもその内容を記録しておきたいと思った私は、その碑の近くに腰をおろしてノートを開くと、その碑文の刻字を一文字一文字書き写しはじめた。かなり時間のかかる作業であったが、そんなことなどすこしも気にはならなかった。
 私が碑文を書き写している間にも、たくさんの観光客が私の脇を通り過ぎて行ったが、ほとんどの人はその碑に何の関心も示さなかった。だが、碑の前で足を止める人がまったくなかったわけではない。一人の日本人青年に案内されてやってきた在日米軍の家族とおぼしき一行は、碑の前に立つてVサインを出したりしながら皆でにこやかに記念撮影を繰り返した。その何とも無邪気で平和な光景を目にしながら、もしこの人たちが碑文に記された内容を知ったとしたらどんな反応を示すのだろうかと、私は内心で半ば苦笑せざるを得なかった。
 時代の潮流というものはすべての恩讐を風化させる。それは必ずしも人類の平和と友好にとって悪いことではないのだけれども、折々珍妙かつ喜劇的な光景を生み出したりもするものだ。そのとき目にした米軍家族一行の心から楽しそうな様子は、そのことを何よりもよく象徴するものであった。
 もしかしたら一部に写し間違いなどがあるかも知れないが、せっかくの機会だから、以下にその全文を紹介しておこうと思う。その意味するところをどのように受け止めるかは人それぞれであろうけれども、我々本土の人間が沖縄の基地問題や来年開催される沖縄サミットの意義などを考えるとき、なにかしらの参考にはなるに違いない。

         〈祖国復帰闘争碑〉
       全国のそして世界の友人に贈る。
 吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなしとげた大衆の乾杯だ。打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間開放を闘う大衆の叫びだ。
 鉄の暴風やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き、一九五二年四月二十八日サンフランシスコ「平和」条約第三条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躙した。祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声はむなしく消えた。われわれの闘いは蟷螂の斧に擬せられた。
 しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯あることを信じ、全国民に呼びかけて、全世界の人々に訴えた。
 見よ、平和にたたずまう宜名真の里から、二十七度線を断つ小舟は船出し、舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ。今踏まれている土こそ、辺土区民の真心によって成る沖天の大焚き火の大地なのだ。一九七二年五月十五日、沖縄の祖国復帰は実現した。しかし県民の平和の願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。
 しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのではなく、まして勝利を記念するためにあるのでもない。
 闘いを振り返り、大衆を信じ合い、自らの力を確かめ合い、決意を新たにし合うためにこそあり、人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の摂理のもとに生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。

 碑文の筆写をほぼ終えかけたときのこと、私はもう一つ忘れられない光景にでくわすことになってしまった。ノートを広げてメモをとる私の姿が気になったらしく、一人の青年がさりげなく近づいてきてすぐ脇に立った。そして、彼はまるでこちらの視線に誘われるかのように、その碑文に目を通し始めたのだった。彼は混血の青年で、地元の大学の学生ではないかと思われた。しばらくその碑文を読んでいたその青年の顔がみるみる複雑な表情に変わっていくのを、そばの私は見逃さなかった。
 彼は半ば悲しげな、半ば怒りに満ちた様子で急にプイと石碑に背を向けると、来た道をそのまま引き返して行ってしまった。おそらく辺戸岬の突端に立って海を眺めるつもりで来たのだろうが、彼は岬に行くのを途中でやめてしまったのだ。その原因が碑文にあったことは明らかだった。彼の心中は察するにあまりあるものがあった。もし私の見かけたこの青年が沖縄駐留の米軍軍属と地元沖縄の女性との間に生まれたのであったとすれば、どんなにそれが沖縄の民衆の心を強く訴えかけたものだとしても、この碑文は彼にとって残酷なメス以外の何物でもなかったろう。
 沖縄の地で混血として生まれてきた彼には何の責任もない。そして生まれてきた以上、彼は沖縄で、さらには日本国内で生き抜いていかなければならない。しかし、彼の力では如何ともし難い日米間の過去の歴史的背景が様々なかたちで彼を苦しめることになっていく。しかもこの沖縄には彼と同じような境遇の人々が相当数生活していて、その数は現在も一定割合で増加しつつあるはずだった。私が出逢った青年はそれなりに教育を受けている感じだったからまだよかったが、おそらく、十分な教育を受けられないままに苦しんでいる人々も多数あるに違いない。そんな人たちが沖縄で安定した仕事を探すのは容易なことではないだろうと思われた。
 祖国復帰闘争碑の向こうにある平坦地を通り抜け、辺戸岬の突端に立つと、北方はるかに与論島の島影がうっすらと望まれた。眼下は隆起サンゴ礁特有の高さ二十メートルほどの絶壁になっていて、青潮が激しく打ち寄せ砕け散っていた。東支那海と太平洋を繋ぐ海峡をはさんで与論島までは二十二キロ、小舟でも二時間足らずの距離だったが、一九七二年に沖縄が日本に復帰するまでは、その間に目に見えない国境北緯二十七度線が引かれていた。
 碑文にもあるように、祖国復帰を願う当時の沖縄の人々は年に一度この辺戸岬の広場に集まって大集会を開き、夜には巨大な篝火を焚いて、同様に篝火を焚く与論島の人々と呼応し合ったという。また、辺戸岬近くの宜真名の港からでた小舟の群れは北緯二十七度線を越え、、与論島からやってきた小舟の群れと合流し、互いに接舷し灯火を点して祖国復帰実現のための海上集会を催したのだった。
 岬から車に戻る途中で喉を潤すために売店に立ち寄ったが、若い売り子の女性たちはやはり混血の人たちだった。これは私の思い過ごしだったかもしれないので、断定はできないが、南部や中部の沖縄観光の中心地からはずれて沖縄北部や北東部に向かうにつれて、白人系より黒人系の混血と思われる売り子が多くなっているのは少々気になった。やはり、そうならざるを得ない何らかの事情が隠されていたのだろうか。
 
 辺戸岬をあとにした私は、沖縄本島でもっとも昔のままの姿を留めているといわれる東北部の海岸線や国頭山地の東側山麓一帯をめぐる道路を走って、中部の宜野座村、金武町方面に抜けることにした。辺戸岬からほどない「奥」といういう集落は、その名の通りに奥ゆかしく、とても静かな集落だった。燦々と降り注ぐけだるいばかりの陽光とは裏腹に、まるで遠い昔に時間が止まってしまったかのように静まり返る家々のたたずまいは、沖縄南部の市街地や中西部のリゾート地帯の様子から想像もできないものだった。
 太く厚い筒状の真竹を縦半分に切り割ったような形の赤瓦を丹念に並べ、それらを分厚い漆喰で固めた低い屋根を持つ平屋と、その四方を囲うがっしりとした石垣などは、この地ならではの猛烈な台風にも耐え得ることを想定したものに違いない。長年の生活の知恵としてこのような造りの家々が生まれたのだろうが、周辺の自然や南国の太陽と実によく調和していて美しかった。いくつかの家々の屋根を飾る獅子形の守り神シーサーを仰ぎ見たり、あちこちに咲くブーゲンビリヤやハイビスカスの花を愛でながら、私はしばらく時を忘れて集落内を歩き回った。
 奥集落から東寄りにしばらく走って沖縄本島北東端の海岸線に出ると、道は大きく南に向きを変えた。進行方向左手には太平洋が広がり、どこまでも続く無人の浜辺に向かって磯波が静かに、しかし絶え間なく打ち寄せている。いっぽうの右手山岳部の斜面一帯は、亜熱帯性の樹林で深々と覆われ、容易には人を寄せつけない気配だった。
 本物の磯浜のみの持ち具えるある種の匂いを潮風の中に嗅ぎとった私は、伊江川近くの海岸で車を駐め、浜辺に降り立った。思った通り、そこにはまったく人手の加わっていない自然の磯浜だった。浜辺一面に無数の白い珊瑚の断片や珍しい貝殻が転がり、すこし沖の遠浅の部分は磯辺に沿って帯状に発達した大小の珊瑚礁群からなっていた。人工的に整備されたリゾート地の恩納海岸や奥間ビーチと違って荒々しく無愛想な感じではあったが、これはまさしく、幼い頃に私を育んでくれたのと同質の、本物の潮の香りと輝きをもつ海と浜辺に違いなかった。
 日差しもほどよい強さだし、水も青々と澄みきっていて、水中の生物の息づかいがいまにも聞こえてきそうな感じである。これで泳がない手はないだろう。誰もいないのをよいことに、幼年時代を懐かしみ、生まれたままの姿、すなわち「フリチン」で飛び込んでみたいという想いも一瞬募ったが、己の歳を考えるとさすがにそれは気がひけた。そこで、いったん車に戻って持参の海パンにはきかえ、ゴーグルをはめて出直すと、喜々として無人の海中に飛び込んだ。
 「泳げなければ人間でない」というよりは、「潜れなければ人間でない」と村の誰もが考える島育ちの私なので、荒磯での泳ぎや素潜りは得意である。ちょっと沖に出て海中を覗いてみると、予想に違わず大小の美しい珊瑚が群をなして発達していた。珊瑚礁の根元に潜り、藻や海草を掻き分けて貝を探し、人懐っこい色とりどりの魚たちと戯れるうちに、いつしか私はすべての憂いを忘れ去り、なんとも満ち足りた気分になった。調理具を携行していなかったので貝を採るのはやめたが、食べられそうな貝がいたるところに生息していた。
 海からあがったあとで潮気を洗い流せる場所は近くにはなかったが、子どもの頃からこの手のことには慣れっこだったから、多少の身体のべとつきは気にならなかった。それどころか、他に人影のない沖縄の美しい海を独占して泳ぎ回るという望外な体験まで積むことができたので、海からあがっても気分は爽快そのものだった。
 車に戻って一息ついた私は、次なる目的地、タナガーグムイを目指して再び走りだした。グムイとは川の淀みや滝壺のことである。タナガーグムイは安波川の支流、普久(フークー)川の上流にある秘境で、一帯の湿地や滝壺周辺には国の天然記念物に指定された珍種の植物が群生しているということだった。

「マセマティック放浪記」
1999年6月16日

ある沖縄の想い出(6)
新旧の沖縄の狭間にて

 タナガーグムイに向って山間部を通過中、突然、バリバリバリバリという不気味な轟音がどこからともなく響いてきた。しかも、エンジン音をかき消すくらいに激しいその音は繰返し繰返し聞こえてきた。機関砲を連射している音のようにも、軍事用のヘリコプターが超低空で飛行している時の音のようにも思われた。おそらく沖縄駐留の米軍が、近くの山岳地帯でなんらかの軍事訓練でもやっていたのだろうが、豊かな自然と静かな環境の残る沖縄東北部にはなんとも不似合いな物音だった。
 タナガーグムイの入り口は安波方面へと続くダートの山岳道路の右脇にあった。よく注意していないと見落としてしまいそうなほどにその場所は目立たなかった。車を近くのスペースに止めたあと、軽い気持ちでその入り口に立った私は、予想外の状況に思わず息を呑んだ。私の立つ地点から眼下の谷底に向かって、人間一人が降りるのにやっとなほどの隘路が四十五度ほどの急角度で一直線に落ち込んでいたからである。そして足元の鉄杭に一端を固定された太く長いいロープが一本、その隘路に沿って張られていた。どうやら、そのロープを伝って下に降りろということらしかった。こんなところを訪ねる物好きはめったにないとみえ、あたりはしんと静まり返り、人の気配はまったく感じられなかった。
 私はロープにつかまり身体のバランスをとりながら、脆い砂岩質の岩と粘土質の赤土のむきだした急斜面を降り始めた。若い頃に山歩きや沢登りをずいぶんとやっていたから、その程度のことはたいして苦にならなかったが、もし雨が降っていたら赤土で身体中泥々になっていたことだろう。谷の底は割合平坦になっていて、沼地の水辺伝いに細道を少し歩くと、滝の注ぎこむ淀のそばにでた。あたりの岩盤は様々な形に侵食されていて、奇岩怪石と呼んでよいような岩々がいくつか立ち並んでいた。
 流れる水はかなり鉄分を含んでいる感じで、淀の周辺の岩や緩やかな滝の川床の基盤はちょっと赤茶けた色をしていた。一帯はかなりの広さの湿地帯になっていて、初めて目にする様々な植物類が繁茂していたが、それら一つひとつの名称は門外漢の私にはよくわからなかった。リュウキュウアセビ、アオヤギソウ、コケタンポポ、ヤクシマスミレなどの珍種奇種も群生しているとのことだったが、花のシーズンを少しはずれていたこともあって、これがそうかなと思う程度で、十分には確認できなかった。
 タナガーグムイに流れ込む川の上流側は鬱蒼とした亜熱帯樹林になっていた。滝から流れ落ちる水に手を入れているうちになんとなく奥に分け入ってみたい気分になって、ちょっとだけ前進しかけたが、そんな私の足を引き留めたのは前方に現れた一枚の黄色い警告板だった。髑髏のマークが描かれたその警告板には英語で「WARNING!」と大書され、その下にやはり英語で警告理由を記した一文が添えられていた。いつごろ建てられたものかは定かでなかったが、それは駐留米軍の衛生管理当局の手によるもので、水遊びや探検ごっこにやってくる人々に注意を促す内容だった。
 詳しく目を通すまでは、一帯のあちこちに棲むハブなどに注意するよう促したものかと思っていたが、警告の内容はそうではなかった。それは、この付近には熱帯性の特殊な有害水生細菌が生息しているので、水遊びなどは慎むようにという内容の警告文だった。アメリカ人などは家族や仲間内でちょっとした冒険がらみのフィールドワークを楽しむことが多い。そういった人々向けの警告板なのだろうが、日本の当局によって建てられたものではなく、米軍の管理当局の手によって建てられたものであるということは、過去の沖縄の状況を無言のうちに物語るもので、なんとも興味深いかぎりだった。もしかしたら、かなり前に建てられたものがそのまま残っていたのかもしれないけでども……。
 再びロープを頼りに急斜面をよじ登りタナガーグムイをあとにした私は、安波の集落へと下っていった。安波川のすぐ近くまで山の斜面が迫り、その山裾に段状をなして古い造りの民家が立ち並んでいる。現在はどうなっているのかわからないが、当時はほとんどが昔ながらの茅ぶき屋根の沖縄民家で、その風情豊かな光景を通して、遠い時代の沖縄の姿の一端を偲ぶことができた。車から降りて集落の細い小路を歩いてみると、隅々まで実によく手入れが行き届いていて、各々の家の門口付近には亜熱帯種の美しい花々が鮮やかな彩りを競うかのごとくに咲き誇っていた。集落一帯はどこも静まり返っていて、その不思議な静けさが心身の奥底までじわじわとしみとおってくる感じだった。
 安波を出てしばらくすると、車は与那覇岳の東山腹に差しかかった。先にも述べたように、この与那覇岳の東側一帯はノグチゲラやヤンバルクイナが生息するので有名なところである。むろん、よほどの幸運に恵まれないかぎりそれらの珍鳥にはめぐりあえないとわかっていたので、とくに期待もしていなかったが、そんな鳥たちの棲む豊かな自然の中を走るのは気持ちのいいことだった。
 与那覇岳の山麓を過ぎると、車道は複雑な山岳地形を避けるかように海岸線のほうに向かって下り始め、ほどなく海辺からそう遠くない平坦地に出た。大泊、大工泊、魚泊、宮城、川田と海岸に線沿う小集落を抜け、やがて車は平良湾に面する東村の中心集落平良に入った。そして、平良から宇出那覇のT字路に出て左折、しばらく道なりに南下していくと慶佐次の集落に着いた。この集落の位置する慶佐次川の河口にはヒルギ、すなわちマングローブの群落が形成されている。海水の塩分にも耐えるヒルギ林は南の島ならではのもので、その独特の枝ぶりや葉の形、根の張りかたなどを実際に目にしたのはその時が初めてだった。
 慶佐次から有銘湾をめぐって再び山中に入り、しばらく走ると大浦湾沿いの集落に出た。眼前にひらけた湾をはさんで進行方向左手に大きくのびだして見えるのは辺野古岬のようだった。大浦湾から辺野古岬一帯は名護市に属しており、来年開催される沖縄サミットにおいてはこのあたりが中心会場になる予定で、現在開発整備が進められているという。また、普天間飛行場の代替として海上基地の建設地の候補にあがっているのも、名護市の東海岸にあたるこのあたりにほかならない。むろん、その時点においては、世の喧騒から隔離された美しく静かなその地が、やがて国際政治劇の渦中に巻き込まれることになるなど想いもよらぬことではあったのだ。
 辺野古岬をめぐり、宜野座村を経て中部の金武町に入ると、周辺の雰囲気が一変した。いかにもアメリカ的な感じの建物が立ち並び、見るからに基地の町という独特の空気が漂っている。考えてみると、キャンプハンセンをはじめ、金武町内の七割が駐留米軍の軍用地となっているというから、街並み全体がどこかけばけばしい感じがするのはやむを得ないことだった。由緒ありげな町名につられて沖縄古来の静かな農村風景を期待するほうが無理というものではあった。
 金武の街並みを通り過ぎ、舗装整備の行き届いた金武湾沿いの道に出ると、屋嘉ビーチを左手に見ながら石川市方面に向かっていっきに走り抜けた。左手海上はるかに浮かぶ島影は、翌日に訪ねるつもりでいた平安座島、宮城島、伊計島のもののようだった。東海岸の石川市と西海岸の恩納村仲泊の間は、沖縄本島がもっとも細くくびれている部分である。石川市に入った私は、東海岸沿いに南下する幹線路から西に分岐して仲泊に出ると、西海岸伝いに残波岬目指して走りだした。できることなら、残波岬で西の海に沈む美しい夕日を見たいと思ったからだった。
 旅先にいるとすぐに夕日を追いかけたくなるというのは、私の困った習性の一つである。子どもの頃に身についてしまった厄介な習癖で、ほとんど「夕日中毒症」とでも呼んだほうがよい状態になっている。サン・テグジュペリの「星の王子様」の中に、一日何回も夕日が見られる小さな星の話が出てくるが、もしかしたら、サン・テグジュペリも私と同病だったのかもしれない。この厄介な病を抑えるには、誰か素敵な女性にでも旅先まで同行してもらい、日没の時刻が近づいたら「私と夕日とどっちが大切なのよ!」と強引に迫ってもらうくらいのことをするしかない。
 朝日のほうはどうかといえば、まあ、けっして嫌いではないが、旅先で常に早起きしてそれを見るというまでのこだわりはない。そもそもフリーランス人間というものは、朝は弱いと相場が決まっている。北アルプスの山の頂で見るモルゲンロート(朝焼け)のような例外もあるにはあるが、美しさという点では、一般的には滅びの影を秘めた夕日のほうが素晴らしい。
 余談になるが、日の丸というのは、「日出る国の天子云々…」の聖徳太子の言葉を待つまでもなく、エネルギッシュな朝日をイメージしたものに違いない。与党筋に日の丸大好き人間の先生方が多いのも、一歩間違うと「見よ東海の空明けて旭日高く昇るとき…」というアナクロニズムに通じかねないイメージへの思い入れがあってのことだろう。少しくらいは夕日の厳粛さをイメージした日の丸でもあれば、夕日派の私などももっと日章旗に好感を抱くことができるだろうにと思わぬこともない。もっとも、いま私がこの拙稿を書かせてもらっているこのホームページのオーナー会社も「夕日新聞」ではないから、話はなんともややこしい。
 真栄田岬の付け根を横切り、与久田ビーチ沿いに走って、残波岬に辿り着いたのは日没時刻の少し前だった。残波岬の北側は数キロにわたって高さ百メートルほどの断崖になっていて、絶え間なく東支那海の荒波が打ち寄せている。岬の先端付近に立つと、東支那海が一望できた。西方海上の水平線上に雲が湧いていたために、残念ながら美しい夕日を眺めることはできなかったが、残波岬というその名称からも連想される通りの、落日にきらめく神秘的な夕波の輝きを想い浮かべることは容易であった。中国の淅江省はこの岬の西方はるかに位置している。中国大陸から見れば、日の昇る東方の海上に浮かぶ琉球諸島はまさに仙人の住む蓬莱(ほうらい)島そのものであったに違いない。
 残波岬から西海岸線伝いに十キロたらず南下したあたりが、沖縄戦の際に米軍主力部隊が無血上陸を果たした読谷村の渡具知海岸だ。一九四五年四月一日午前八時、奇しくもエイプリルフールの当日に、「アイスバーグ作戦(氷山作戦)」と名づけられた米軍沖縄本島上陸作戦は敢行された。もしこの岬に立つ人があったとすれば、南西方向の海上一面を覆う米艦船群を遠望することができたであろう。米軍将兵の間で「これはもしかしたらマッカーサーの上陸か?」というジョークが飛び交かったほどに、日本軍の抵抗のまったくない静かな上陸風景だったというが、それは沖縄南部戦線における地獄絵図を裏に秘めた、文字通りの「嵐の前の静けさ」に過ぎなかった。
 夕暮れの残波岬にしばし佇んだあと、私は五八号線まで引き返し、ムーンビーチの少し先にあるホテル・サンマリーナにチェックインした。本格的なリゾートホテルとして当時開業したばかりのサンマリーナの造りは、さすがに見事なものだった。広い一階のオープンスペースは音楽演奏用のステージと青い水を湛える人工池をそなえた屋内ガーデン風の造りになっていて、あちこちにロングチェアが配されていた。照明器具をはじめとする各種デコレーションも計算し尽されたもので、上部空間は建物の最上階に至る巨大な吹き抜け構造になっていた。さらに、各階には屋内回廊があって、それらの回廊から一階のオープンフロアを見下ろすことができるような工夫もされていた。エレベータの内部から吹き抜け空間全体を見渡せるようになっているのもなかなか味な感じだった。
  鍵をもらって自室に入るとすぐ浴室に飛び込み、北東部海岸で泳いだときに身体についた潮気を洗い流した。あてがわれた部屋は立派なツイン仕様になっており、階段状に配された部屋付きのテラスからは、大小の屋外プールのある大庭園とその向こうに広がる海を見下ろすことができた。自ら好んでホテル・サンマリーナを選んだわけではなく、このホテルの取材も仕事のうちだったので泊まることになったのだったが、せっかっくのことなので野次馬精神を丸出しにしてあちこちを散策してみたりもした。
 ホテル脇には、各種ヨットやマリンスポーツ用のボートのほか、サンセット・クルージングやムーンライト・クルージング用の船が発着できる専用マリーナが設けられていた。広大な屋外プールには、夜間照明のもとで思いおもいに泳ぎを楽しんでいるかなりの数の宿泊客の姿も見受けられた。また、ホテル敷地の外側に続く綺麗な珊瑚砂のビーチはサンマリーナの宿泊客専用で、夜間であっても、寄せる波の音に耳を傾け、サクサクと砂地を踏みしめながら散策を楽しむことができた。マリンスタッフと呼ばれるホテル専属のレジャー指導員は、男女ともヴィラ・オクマと同様になかなかの美形揃いで、そのほとんどはやはり白人系の混血のようだった。
 私はダイニングルームでのんびり食事をとったり、ティルームでお茶を飲んだり、レジャールームをはしごしたり、プールで泳いだりしながら、宿泊客の様子をさりげなく観察してみた。若いOLや女子学生風のお客が圧倒的に多いのに比して、男性客はかなりの高齢者か外国人がほとんどだった。なかに何組か若い男女のカップルがいたが、面白いのは、どのケースも女の子のほうが主導権をとっていることだった。ホテルの洒落たダイニングルームで夕食をとるときも、若い男の子のほうがどこかおどおどした感じなのに対し、女の子のほうの身振る舞いは実に堂々としていた。かねがね私は各方面での女性の社会進出に肯定的な人間だが、このときばかりは、「日本の若い男どもよ、もうちょっとしっかりせんかい!」と尻を叩きたくなるような気分だった。
 それにしても、働き盛りの日本人男性がまったくと言っていいほど見あたらないのは、考えてみると奇妙なことだった。ひとつには九月という時節柄もあったのだろうが、一番心身のレフレッシュを必要としているはずの人間が少なくOLが異様に多いということは、表面的には絶頂を誇る日本経済の底の浅さを物語るもののように思われてならなかった。リゾート地でのんびりと休養をとるのは要職にある男のすることではないという社会通念が崩れ、働き盛りの人間がもう少し余暇を楽しめるようにならなければ、日本人の生活が真の意味で豊かになったとは言えないと感じたわけである。だが、現実にはそうなる前にバブル経済は崩壊してしまった。どうせ崩壊する運命にあったのであれば、当時の企業戦士たちはもう少し余暇をとって人生をエンジョイすべきだったろう。あの頃なら、本人の選択次第で十分そのことが可能だったはずだから……。

「マセマティック放浪記」
1999年6月23日

ある沖縄の想い出(7)
沖縄は沖縄固有の物差しで

 翌日は朝食をすませたあと、ホテル専用のビーチに出て一泳ぎした。純白の珊瑚砂も綺麗だし、エメラルドグリーンの海の色もなかなかのものだった。だが、私にはいまひとつ物足らなかった。前夜は気がつかなかったが、このビーチは大量の珊瑚砂を運んできて人工的に造ったものであることは明らかで、海底の構造が単調なうえに海中に生物の影がほとんど見当たらないのが、そのなによりの証だった。海に何を求めるかは人それぞれだから、純白の砂と青く透明な水のきらめくこのビーチが素敵だと思う人も多いことだろう。それはそれで結構なことであり、他人がそれに対してあれこれ言う筋合いのものではなかったが、ともかく、野蛮な育ちの私の感性にはいまひとつフィットしなかった。
 ホテル・サンマリーナをチェックアウトした私は、五八号線をいまいちど北上し、部瀬名岬にある恩納海岸海中公園を訪ねてみた。当時のここの売り物は岬の沖一七〇メートルほどのところにある海中展望塔で、ラセン状の階段を降りると、水中展望室の窓から海底の様子が眺められるようになっていた。珊瑚の林と潮の動きに伴ってゆらめき動く海草、そしてそれらの間を泳ぎまわる色とりどりの熱帯魚の群れとそれなりに見ごたえはあった。私自身は子供の頃から海に潜ってこういう光景を幾度となく見てきたのでとくに驚きはしなかったが、水族館とは一味違う自然まかせの光景で、展望室に近づく魚類もそのときどきで異なるから、都会育ちの人などにはとても新鮮に感じられたことだろう。
 せっかく海中公園にきたついでだからと思って観光用グラスボートに乗り一帯の海の中をのぞいてみたが、群生する珊瑚そのものは皆小振りなものばかりだった。近年の状況はわからないが、私が育った甑島でもかつてはそれより数段大きなテーブル状珊瑚の群生を見ることができた。もっとも、座間味諸島や宮古島、西表島などに行けば話はまた違ったことだろう。
 この海中公園についていまも強烈に私の記憶に焼き付いているのは、それとは別の光景だった。私が乗船したグラスボートの舳先にはかなりの数の菓子パンが山積みしてあった。ボートに乗ったときから、それらはいったい何のために使うのだろうと思ってはいたが、いまひとつピンとはこなかった。ある地点にやってきたとき、ボートの舵をとっていた船頭が私を含む同乗の三人の客に向かって「そのパンをちぎって海面に投げてみてください」と声をかけた。
 一瞬何ごとだろうと思ったが、その直後に起こった事態に私はあっけにとられて言葉を失った。ボートの周辺の海面にまかれたパン切れ目指して、大小無数の魚が殺到してきたからである。バチャバチャと水音をたてて跳ね回る魚でボートの周りは埋め尽くされた。
 池の鯉ならともかく、海中に棲む天然魚がパン切れに向かって飢えたピラニアのごとくに群がる光景は、なんとも衝撃的なものだった。べつに魚がパンを食べて悪いということはないが、どうみても、その光景は、私が過去に見慣れた海の魚の生態とはまるで異質のものだった。あえて述べれば、アメリカ的とでも言うべきだったろうか……。
 目の前で起こっていることが善いとか悪いとか言う気はまったくなかった。私が言葉に窮したのは、そんな魚たちの姿に戦後の沖縄の置かれている状況を重ね見たからである。終戦直後から現代に至るまで、沖縄では本土の日本人の想像をはるかに超える文化の融合が起こってきた。古来、沖縄は、沖縄独自の文化と、大陸文化や東南アジア文化さらには日本本土の文化との融合点であった。だが、終戦後にこの地で起こった一連の文化融合の流れは、融合の規模の大きさと融合のもととなった各々の文化の相対的な違いの程度において、過去の歴史の常識をはるかに超えるものであったのだ。沖縄の現状を肯定するにしろ否定するにしろ、我々本土の人間が己の物差しを振りかざして軽々しく云々できるようなことではないと、つくづく思わざるを得なかった。その象徴的な光景を目のあたりにしながら、沖縄はいまこの地で暮らす人々の総意の向かうところに進んで行くしかないと、心底私は感じたのだった。
 奇しくも、海中公園のあるこの部瀬名岬一帯が来年開催予定の沖縄サミットのメイン会場に選ばれた。沖縄県当局と名護市が中心になって、現在関連施設の建設や周辺環境の開発整備をおこなっているところだそうだが、付近の状況はさらに一変することだろう。各国の首脳たちが沖縄にどのような印象をもっているかは知るよしもないが、明るく近代的に整備されたリゾート地としての一面ばかりでなく、人類史においてもまれな、重いおもい歴史を背負ったもう一面の沖縄の姿も十分に知ったうえでサミット会議に臨んでほしいものである。一回や二回のサミット会議で世界の重大懸案が解決されるほど甘いものではないことは即刻承知だが、沖縄のあの岬の一角において、もつれにもつれたこの世の矛盾の糸玉をほぐす糸口でも見つかれば、それはそれで喜ばしいことである。
 ただ、沖縄でサミット会議を開けるようにしてやったし、それによって一時的に経済効果もあるのだから、その代償として米軍基地の存続には沖縄の住民もそれなりの協力をすべきだなどという本末転倒した考えをもつ国会議員などがいるとすれば、不見識もはなはだしい。本土の政治家や財界筋の要人には、戦後の沖縄経済は米軍基地がなければやってこれなかったなどと平気で主張する人も少なくないが、それは大変誤った一面的な見方である。
 終戦後まもなく米軍の軍政下におかれ、極東から東南アジア一帯にかけての戦略基地として重要視されるようになったという特殊な歴史状況のゆえに、沖縄経済が米軍基地ならびにその関係施設の存続維持と密接な関係をもつようになったことは事実である。沖縄本島の市町村のなかには、経済的理由のゆえに米軍基地関係の誘致に積極的なところも少なくない。そういった市町村の現実的な財政苦や住民の生活状況を考えるとき、それらの自治体が基地関係施設の存続や誘致に肯定的であることを責めることはできないし、大田昌秀前沖縄知事が先の選挙で敗れたのもそのあたりの問題への対処の難しさがあったからだろう。
 しかし、たとえ沖縄に現在のような米軍基地が存在しなかったとしても、沖縄は沖縄として存続し、戦後の荒廃から立ち上がってそれなりの発展を遂げていたに違いない。昔から沖縄には産業らしいものがあまりなかったから、米軍基地抜きでは戦後の沖縄経済は成り立たなかっただろうなどと、本土の人間が訳知り顔で語ったりするのは、沖縄の歴史文化に対する無知と冒涜以外のなにものでもない。世界のどんなに環境の厳しいところでも、どんなに貧しいところでもそこに住む人々は独自の文化と歴史を築きながらたくましく生き抜いてきた。それが人類史の常識である。
 まして沖縄は、古来、南海交易の要衝として、幾たびかさまざまな苦難に面しながらも豊かな繁栄を続けてきたところである。そもそも、沖縄の文化と富とを収奪し、挙げ句の果てにそれらを破壊し尽くしたのはいったい誰だったというのだろう。また、戦後に再出発した日本本土の地方自治体のうち、自立した経済を営むことができたところがどれだけあったというのだろう。

 部瀬名岬の海中公園をあとにした私は、五八号線をいっきに嘉手納ロータリーまで南下し、嘉手納基地の北側を抜けて東海岸側の具志川市に向かう道路に入った。途中までは沖縄にやってきた当日に一度通った道である。基地脇を過ぎしばらく行くと沖縄市知花にある東南植物園の近くに出た。どうしようかなと思ったが、せっかくのことなので、とりあえず立ち寄ってみることにした。沖縄随一の規模を誇るこの植物園には、珍しい熱帯植物や亜熱帯植物が園内のいたるところに生い茂っていたが、十年以上たったいまとなっては、椰子の木がやたらに生えていたなあというくらいの記憶しか残っていない。
 ただ、園内の売店で飲んだ椰子の実のジュースの味だけはいまもはっきりと憶えている。椰子の実をまるごと一個買い、なかほどの核部の殻が見えるまで繊維質の厚い皮と剥ぎ取り、まるい殻の一部を切除してもらった。そして、ストローをつかって中のジュースを飲んだ。ご存知の方も多いと思うが、白く半透明の椰子の実のジュースは、色も味も市販のスポーツドリンクのポカリスエットによく似ている。ジュースの量は、椰子の実一個で缶ジュース二個分ほどはあった。もしかしたら、ポカリスエットの発案者は、椰子の実のジュースをヒントにしてその清涼飲料水をつくりだしたのかもしれない。殻の内側に薄い層をなしてついている白い油脂分も食べられるというので、お店の人のすすめに従い七味をかけて試食してみたが、結構いける味だった。
 東南植物園のある沖縄市から隣の具志川市にかけての街路や街並みは、周辺に建ち並ぶすべての民家もふくめてなにもかもがアメリカ的だった。その驚くほどのアメリカ化の理由は、駐留米軍関係者やその家族が多数この一帯に住み着いていることもあるが、熾烈を極めた沖縄戦において、琉球古来の文化を留めていた南部の主要集落は徹底的に破壊し尽くされ、灰燼に帰してしまったとにもよるのだろう。戦後、米軍の主導によって生活環境の復興整備の行われた沖縄南部が古来の文化の影をほとんど喪失してしまったのは、その時点で残すべきものがほとんど失われてしまっていたからに違いない。
 具志川市を抜けた私は、太平洋に向かって南東に大きく突き出た勝連半島を目指すことにした。この半島の北側は与那城村(よなぐすくむら)、南側は勝連町になっている。この半島の近辺にはホワイトビーチなどをはじめとする米軍専用のビーチが多い。半島のほぼ中央を貫く道路をしばらく走り北側の海岸線に出たところが与那城村の屋慶名港だった。港の背後の展望台にあがるとすばらしい景観が望まれた。眼前には藪地島、そのむこうには浜比嘉島、さらに、海面を二つに切り分けてはるかにのびる海中道路の先をたどると、平安座島、宮城島、伊計島の島影が浮かんで見えた。勝連半島にほとんど接する感じの藪地島はその名とは裏腹になかなか美しいたたずまいの島だったが、地元の人の話によるとハブが多いことで有名だとのことだった。
 屋慶名と平安座島の間の浅瀬を埋めたてて造った四七〇〇メートルの海中道路は、実際に走ってみると、なんとも快適なドライブコースだった。もともとこの道路は石油コンビナートと石油備蓄基地のある平安座島と沖縄本島とをつなぐために設けられたものだそうだが、すでに観光道路としても一役買っている感じだった。現代の地図を見るかぎりでは平安座島と宮城島とは一つの島になっている。私もはじめは、一つの島に二つの名前がついているなんて何かの間違いではないかと思ったが、事情を知って納得した。かつては別々の島だったのだそうだが、石油基地を拡大する過程で二つの島の間も完全に埋めたてられて一体化し、地図では見分けられなくなったらしい。
 景観のよさも抜群だったが、海中道路を走りはじめてすぐに気になったのは、Yナンバーの車が圧倒的に多いことだった。一瞬私は、誤って米軍専用の地域に紛れ込んでしまったのではないかと錯覚しかけたほどである。ほとんどのYナンバー車には男女のカップルが乗っていて、外国人男性と現地の若い女性という組み合わせが大半を占めているように思われた。たぶん米軍軍属たちのちょっとしたデイトコースにでもなっているのだろう。
 左手の金武湾越しに沖縄本島東海岸線を遠望しながら宮城島の突端まで走り、狭い海峡に架かる橋を渡ると、そこが一番はずれの伊計島だった。島の南側には小集落があって、近くの港にはアーケードのような奇岩が立っていた。島の西側のほうにまわると美しいビーチが現れたが、そこが知る人ぞ知る伊計ビーチだった。私はビーチを左に見ながら行けるところまで行き、そこで車を駐めると、しばし青く輝く海を眺めながら休憩をとった。
 あたり一帯には本部半島の今帰仁城址で耳にしたのと同じ蝉の声が響いていた。どんな姿形をしているのだろうと思って鳴き声のする樹木の枝を注意深く観察してみると、羽が透明で頭部が青い色をした、ツクツクボウシを二倍にしたほどの蝉が見つかった。やはり本土では見たことのない蝉だった。
 伊計島から再び海中道路を通って勝連半島に戻ると、中城湾沿いの道を走って中城村(なかぐすくむら)方面へ向かって南下した。そして、中城城址に立ち寄った。十五世紀の中頃に建てられた山城だというが、壮大な城壁がいまもほとんど往時のままで残っており、その築城技術は高く評価されている。。伝えられているところによると、かのペリー提督もかつて琉球を訪れたとき、この城壁を見てその建築技術の高さを絶賛したらしい。ペリーはこの城の築城技術をフランス式だとみなしたのだそうだが、実際になんらかのかたちでフランスの築城思想の影響があったものなのか、それともたまたま似通ったものになったのかは、素人の私には判断がつかなかった。ただ、東南アジア方面から異国人がやってきて築城技術に影響を与えたということは、まったく考えられない話ではない。
 城の東南側は高さ数十メートルの絶壁になっていて、青々と潮のうねる中城湾が眼下いっぱいに広がっていた。この城は首里王朝の忠臣護佐丸の居城だったというが、彼は政敵で勝連城主でもあった阿摩和利の妬みを買い、その讒言によって謀反の罪をきせられた。忠節を尽くした主君の尚泰久王に疑われるのは無念と、護佐丸は一族郎党とともに自害して果てたという。したがって、この城は悲劇の城の一つだと言ってよい。のちになって、謀反を企てたのは讒言をした阿摩和利のほうであったことが発覚、激戦の末に勝連軍は敗れ、阿摩和利は刺殺された。この史話は沖縄芝居にも取り入れられ、以来、地元ではもっとも人気のある演題になってきたのだそうである。
 中城城址をあとにするころには日も暮れかかってきていたが、ついでなので大急ぎで国の重要文化財中村家を訪ねてみた。中村家は二百年以上の歴史をもつ沖縄最古の民家で、幸いにも戦火による焼失をまぬがれた。背後に魔除けのひんぶん(石の衝立様のもの)をもつ門をくぐって入った敷地内には、赤瓦葺きの母屋のほか、アシャギ、高倉、豚舎など、五棟ほどの建物が配されていた。正面の母屋の右手にあるアシャギには二男や三男が結婚するまで住む部屋があり、また、その一部は客間として使われることもあったらしい。母屋の左手にあるのは高倉と呼ばれる大きな倉庫で、ネズミや水害などによる被害を防ぐために床面を高い柱で支えた南方独特の構造になっていた。
 中村家の建物全体の建築主材は木質が硬く耐久性のあるイヌマキで、建物本体はずいぶんと古いが、現在の赤瓦葺きの屋根だけは明治以降のものであるらしかった。中村家は村長も務めた豪農の家柄だったが、士族ではなかったために、明治になるまでは瓦葺きの屋根の家に住むことは許されていなかったからだという。夕刻のせいもあったが、中村家の周辺には各種の樹木が繁っていて、実に静かで落ち着いた感じだった。
 中村家の庭ではたまたま沖縄伝承芸能の一つ「花風(はなふう)」の舞のテレビ撮影が行われているところだった。撮影関係者のほかには私しかいなかったのをよいことに、愛惜の思いを深く秘めたゆるやかなテンポのその踊りに見惚れていると、なんとも言えない気品を湛えた民俗衣装姿の舞踊家の方が撮影の合間に自分のほうから近づいてきて、花風の舞について簡単な説明をしてくれた。
 この花風は、昔遊女が愛する人との別れに際して、永遠の祈りと深い惜別の情を込め密かに舞ったものだという。遊女は愛する人が旅立って行くのを表立って見送ることが許されなかったので、別れを前にこの特別な舞を披露し、相手にそっと自分の哀しみを伝えたのだった。現在伝承されている花風は、琉球王朝の踊を取り入れ、明治の初めにいまのかたちに完成されたとのことだった。無言の言葉を内に秘め、青紫に内張りした日傘の揺れに思いをたくす花風の舞に、時を忘れて私はいつまでも見入っていた。こんな舞で見送られたであろう昔日の沖縄人を、内心で羨ましく思っていたことは言うまでもない。
 中城の中村家をあとにするころには夜の帳(とばり)が一帯を覆いはじめていた。私はアクセルを煽るように踏み込みながら与那原町まで南下すると、そこから那覇郊外の首里に通じる道路に入り、首里城跡の近くの沖縄グランドキャッスルホテルに午後七時頃チェックインした。丘の上にある高層のホテルの窓からは、那覇市の中心街方面の夜景を一望することができた。
 ホテルの自室で一服したあと、私は那覇の繁華街国際通りに出て周辺を散策、伊勢エビとステーキを合わせ盛った料理を食べさせてくれるレストランを見つけるとすぐ中に入った。注文した料理は看板に偽りなくとても美味で、しかも本土に較べてはるかに安い料金だった。また、たまたま食事中に隣り合わせになった地元の若い女性は、私の沖縄訪問が初めてだと知ると、那覇市街や首里をはじめとする沖縄南部地域についての情報をいろいろと教えてくれた。笑顔の素敵な平良さんというその女性はボーイフレンドと待ち合わせ中だったが、彼が現れるまでの間、取材を兼ねた私の質問に親身になって答えてくれた。
 夕食後あてどもなくぶらついた夜の国際通りは、その名に恥じず大変な賑わいぶりで、外国人の姿もずいぶんと見かけられた。そして、那覇市の人口からすると不釣り合なくらいに、付近のお店や市場は大規模なものが多く、商品も国際色豊かだった。本土とは違って、案内の看板も日本語のほか英語、中国語、韓国語と四カ国語で表記されており、まさに国際都市那覇の面目躍如というところだった。

「マセマティック放浪記」
1999年6月30日

ある沖縄の想い出(8)
首里城址守礼の門に立つ

 翌朝は、ホテルを出るとすぐに首里城址を中心とする首里丘陵一帯を歩いてみた。首里を訪ねる観光客の誰もがするように、私もまた、まっさきに、いにしえの琉球王朝の象徴「守礼の門」の前に佇んだ。赤瓦を漆喰で固めた二層の屋根をもつ「守礼の門」は、琉球王朝最後の王統、尚氏によって四六〇年ほど前に建立された。沖縄独特の建築様式をそなえた本来の門は明治時代に国宝に指定され、大戦前までその偉容を誇ってきたが、先の沖縄戦で戦火にさらされ焼失した。現在の守礼の門は、文部省に保管されていた古い設計図をもとに、昭和三十三年に復元されたものである。
 「守礼の邦」と大書された額が門の中央に高々と掲げられているのを目にしながら、私はなんとも空しい想いにとらわれていた。沖縄戦の最中に、なによりも守礼を重んじた琉球王朝ゆかりのこの地でかつて起こった出来事は、あまりにも「守礼」の教えとはかけ離れた蛮行愚行そのものだったからである。おなじ「しゅれい」でも、「守令」、すなわち、「軍務命令を盲目的に守ること」が最優先された結果、終戦直前、この地には文字通り阿鼻叫喚の一大生き地獄が出現した。
 現在では首里城も復元公開されているようだが、当時はまだ、守礼の門のほかには首里城の正門だった歓会門と第四門の久慶門が復元されている程度だった。私はそれらの門をひとめぐりしてから、少し坂を西に下って、尚円王統歴代の墓陵、玉陵の前に出た。玉陵は琉球王朝中興の祖と言われ、中央集権を確立するいっぽう、海外貿易でも広く名を馳せた名君尚真王が、一五〇一年、父王尚円王の遺骨を改葬するにあたって建立した第二尚家の墓陵である。高さ二メートルにも及ぶ琉球石灰岩の石垣で囲まれた、広さ二四〇〇平方メートルにも及ぶこの壮麗な墳墓は、海洋民族として自由奔放に南海交易に活躍していた当時の沖縄人の豊かさと、建築技術の高さとを偲ばせた。
 堅牢な石造りの家を想わせる三基の墓室の中央には洗骨前の遺骸を安置し、左側の墓室には国王と王妃、右側の墓室には王子及び王女の遺骨を納めるしきたりになっていたという。民俗学者の柳宗悦が、「ただ琉球最大の墓陵であるというのみならず、その幽玄さにおいて匹敵しうるものは世界においても稀であろう」とまで賞賛したこの玉陵も沖縄戦の際には猛烈な砲火にさらされ、大きな損傷を被った。幸いなことに、その後、復元修復作業が進み、近年ではほぼ原型を取り戻しつつあるようだ。
 首里城址のあるこの丘陵一帯にかつて存していた古都首里は、京都、奈良に次ぐ文化財の宝庫だった。戦火に包まれる前の首里城内外には、国宝に指定された建造物だけでも二十二件が存在し、重要文化財にいたってはその数が知れぬほどであったという。米軍の進攻に備えた沖縄守備軍の主力部隊は、大本営の意向をうけ、米軍主力を一刻でも長く沖縄にとどめ極力抵抗を図るべく、首里丘陵ならびにそれに連なる丘陵地帯に布陣した。北方を見下ろす戦略上の要所をつないで防御線を張り、トーチカ(地下壕)を掘りめぐらして、読谷村方面に無血上陸した米軍が南下するのを迎え撃つ戦略をとったのである。
 牛島満中将率いる沖縄守備軍司令部のおかれた首里丘陵周辺は、当然その防御線の最中枢部に位置していた。沖縄守備軍主力部隊は、膨大な量の国宝建造物や重要文化財群を地上の盾とし、布陣していたようなもので、なかでも守備軍司令部などは、首里城の地下の壕深くに置かれていた。まさか守備軍トーチカの上部やその近辺に貴重な文化遺産群があれば米軍は攻撃を控えるだろうなどと考えたわけでもないだろうが、ともかく、この迎撃戦略は沖縄の歴史と文化に不幸きわまりない災厄をもたらした。
 京都や奈良、鎌倉などが空襲を免れたのは、それらの地域の文化財の重要性を熟知した欧米の研究者や米軍関係者がかなりいて、彼らが懸命にその保護を軍上層部に働きかけた結果であった。米軍側の記録によると、米軍沖縄方面司令部関係者にも、古都首里を中心とした一帯の文化遺産の貴重さを知り、その破壊と焼失に心を痛めた人物はそれなりにあったようである。だが、沖縄守備軍のとった首里丘陵における一大トーチカ作戦は、首里城をはじめとする文化遺産の救済を決定的に不可能にしてしまった。
 沖縄戦の中でも日米主力部隊が正面から激突した首里攻防戦は苛烈をきわめ、事実上の勝敗を決める戦いとなった。そして、それに伴い、膨大な数の人命損失と貴重な文化財の破壊が起こったのだった。その破壊と殺戮の凄まじさは、一六〇九年の薩摩による琉球侵略などとは較べものにならない規模のものだった。日米両軍の戦闘が熾烈のきわみに達したとき、首里城周辺の主陣地に対しては、四〇分間に一万九〇〇〇発もの大型砲弾が撃ち込まれた。首里攻防戦全体を通してみると、首里市街や周辺の山野では一平方メートルあたり四、五発の砲弾が炸裂したことになる。
 皮肉なことに、この時の米軍第二十四軍団砲兵指揮官は、後年、名軍政長官として知られるようになった、ジョセフ・シーツ少将であった。戦後軍政長官として沖縄に赴任すると、自らが破壊した沖縄を自らの手で再建復興するのだと宣言し、地元住民のために力のかぎりを尽くしたという。彼の軍政長官離任に際しては、沖縄の人々が留任運動を起こしたほどであったらしい。有能な職業軍人としての砲撃指揮の任務と、一個の人間としての人類の歴史文化に対する畏敬の念とのはざまにあって、おそらくこの人物も、戦中戦後の時代を通し、深い内面の苦しみを味わっていたに違いない。
 一九四五年四月二十日前後に始まった首里攻防戦が五月二十九日の沖縄守備軍の南部撤退によって終わりを告げたとき、首里丘陵はいたるところで変形をきたし、美しい古都首里は、膨大な文化遺産ともども、隅々にいたるまで無残な瓦礫の山と化していた。「これが沖縄戦だ」(大田昌秀著、琉球新報社刊)の中に、破壊される直前に米軍が写した首里城周辺の航空写真と破壊され尽くした直後の同城の写真が掲載されているが、それらがほんとうに同じ場所を写したものかと我が目を疑うばかりである。
 日本古来の伝統と文化を守ると称しながら、実は守るべき日本の伝統や文化について最も無縁であった人々によって導かれた戦争の、それは当然の帰結であった。また、それは国体護持という空疎なお題目は知っていても、日本文化の本質とその真の重要性を具体的にはほとんど学ぶことをしていなかった、我々自身の父母や祖父母を含む日本国民一人ひとりの愚かさの終着点でもあった。国やその政体は一時的に滅びても、民族やその本質的な文化は脈々と息づきながらえるものであり、また、そうであるべきだという「世界の歴史の常識」を日本人はまったく学んではいなかったのだ。厳しい言い方をするならば、日の丸をむやみやたらに振り回すことが歴史だと錯覚していただけのことである。
 玉陵を見学し終えた私は、そのあと沖縄県立博物館を訪ねてみた。この博物館が現在のかたちになるまでには、さまざまな紆余曲折があったようである。終戦直後のこと、沖縄の文化財のすばらしさを知った米軍のハンナ少佐と彼の仲間の軍属は、瓦礫の山を掘り起こし、文化財の断片を収集した。そして、それらの収集品を恩納村に造った沖縄陳列館(のちに東恩納博物館と改称)に展示した。いっぽう、首里に住む一部の地元有志も自らの手で文化財の破片を拾い集め、それらをもとに沖縄郷土博物館(のちに首里博物館と改称)を開設した。そして、一九五三年にこれらの二つの施設が合併して琉球政府立博物館となり、一九六五年に尚王家屋敷跡を購入、米国より援助を受けてその地に新館が建てられた。
 その間、博物館として全国的に琉球関連文化財の収集運動を展開、米国政府や米国在住の沖縄関係者にも協力を呼びかけ、戦乱の最中に滅び潰え去ったかにみえた琉球文化の面影を、一部分ではあるがかろうじて蘇らせることに成功した。一九七二年の沖縄日本復帰に伴い、名称も沖縄県立博物館と改称され、現在では収蔵品も二万点を超えるようになっているが、その礎は文化を深く愛する沖縄住民や心ある米軍有志たちの尽力によって築かれたものであったのだ。
 博物館の展示室は、歴史、自然、美術工芸、民俗の四室と、大嶺薫コレクションコーナーの計五室に分かれており、それぞれの角度から沖縄を眺めることによりそのおよその全体像をつかむことができるようになっていた。さらに、日本本土の縄文、弥生、古墳時代などに相当する貝塚時代、城(グスク)が成立し統一国家が形成されていく時代、南海交易の拠点として発展し中国と冊封関係を結ぶようになる大交易時代、薩摩の植民地となって以降の江戸期の時代、そして明治から昭和にかけての時代と、各時代の沖縄像をそれなりに展望できるような工夫もされていた。
 また、進貢貿易の様子や明との冊封関係、薩摩や江戸幕府との関係などを伝える諸文物、琉球の人々の生活を偲ぶことのできる各種民具などの民俗遺産もかなりの数展示されていた。それらは、戦火の中で失われたものに較べれば大海の一滴にも等しい残存文物ではあったが、「鉄の暴風」という言葉が示す通りの想像を絶する破壊の嵐のことを考えるならば、それだけのものが残っただけでも奇跡であったというべきだろう。

 米軍の個々の戦闘部隊に配属されていた軍政要員たちは、上陸前に沖縄に関する全般的な情報を要約網羅した小冊子を配布されていたので、本島内の住民のおかれた厳しい状況についてはかなりの予備知識をもっていた。だが、上陸後に彼らの目に映った沖縄の実情は、想像していたよりもずっと悲惨なものであったらしい。そんな沖縄の実態をレポートするなかで、彼らのある者は、「軍政下の住民は誰もが恐怖におののいているが、そこには一つの不吉な予兆がはっきりと見てとれる。それは若い青年が一人もいないことだった。そしてまた、若い女性も異常なまでに数が少ないことだった」とも述べている。
 米軍第六師団の通訳S・シルバーソン中尉などは、「自分が見た地元住民は、全員六歳以下もしくは六十歳以上だった」とさえ報告している。複数のそのような報告を総合的に分析していく過程で、米軍司令部は、地元の若い世代のすべてが守備軍の支援に動員されたことにはじめて気づいたのであった。
 激戦の火ぶたが切って落とされるかなり前から、戦場となる一帯には、着の身着のままの姿であてどもなく逃げ惑う何千人もの地元住民があって、米軍軍政要員の手によって後方の住民収容所に次々と収容されていったという。戦闘開始に伴って当然その数は激増した。だが、生死にかかわるほどにひどい栄養失調にかかっていても、米軍に収容された人々はまだ恵まれたほうだった。負傷し戦場に放置された人々や、戦禍の中で親兄弟を失った幼児たちの多くは、米軍にすら発見されることなく次々に餓死したり、爆死したりしていった。戦場のいたるところで悲惨な幼児たちの姿が見られたという記録を米軍は残している。
 質、量ともに圧倒的に勝る火器、艦船、航空機を擁する五四八〇〇〇人の米軍団に対する一一六四〇〇人の沖縄守備軍の兵力と備えは、あとから考えてみるとあまりにも貧弱に過ぎた。しかし、守備軍司令部は、開戦当初は自信満々であったらしい。そのことは八原高級参謀の発言に関する記録(「これが沖縄戦だ」より引用)にもうかがえる。

 「敵は予想に反し、ほとんど我が軍の抵抗を受けることなく、このまま上陸を完了するだろう。あまりの易々たる上陸を、さては日本軍の防衛の虚を衝いたのではないかとばかり勘違いして小躍りして喜んでいるのではないか。否、薄気味悪さのあまり、日本軍は嘉手納を取り囲む高地帯に退き、隠れ、わざとアメリカ軍を引き入れ、罠にかける計画ではないかと疑い、おっかなびっくりの状態にあるかもしれぬ」
 「第十軍司令官バックナー将軍が率いる主力の四個師団は、アッツ島以来繰り返されてきた日本軍の万歳突撃を予期しているだろうが、首里山上の守備軍首脳はまったくそんな突撃態勢をとる気配を見せない。ある者は談笑し、また他の者は煙草をふかしながら悠々と前線を眺めやっているが、それは何故かと反問したに違いない。日本軍は数ヶ月も前から首里北方地帯に堅陣を敷いて米上陸軍をここに誘い込み、一泡も二泡も吹かせる決意でその準備を整え待っていたからだ」

 米軍の近代的物量戦略の凄さを知らぬ大本営や守備軍司令部のこういった甘い判断は、結局、独りよがりの自己満足に終わり、その結果、多くの沖縄住民をも悲惨な運命に導いていくことになるのだが、それはまた、世界の趨勢というものを合理的かつ客観的に見る目を持たなかった、また持とうともしなかった当時の日本国民一人ひとりの責任でもあったのかもしれない。ではどうすればよかったという話になると、すべては結果論に終ってしまうのだが、現代の我々が、せめて沖縄の悲惨な歴史に何かを学ぶことくらいのことは必要であろう。それも、単なるイデオロギーの糧としてではなく、左右の思想を問わない、合理的かつ冷静な視点に立った判断力と、できるかぎり透徹した歴史的想像力をもってである。

「マセマティック放浪記」
1999年7月7日

ある沖縄の想い出(9)
首里攻防戦再考

 沖縄戦については、これまでにさまざまな報道がなされたり、各種の戦史本が出版されたりしてきているが、記憶を新たにする意味でもこの際もう一度、おおよその首里攻防戦の様子を振り返ってみることにしたい。以下の文章を書くにあたっては、「これが沖縄戦だ」(大田昌秀著、琉球新報社刊)を中心とするいくつかの戦史資料を引用したり参照したりしたことをあらかじめお断りしておきたい。

 首里攻防戦において最初の死闘が繰り広げられたのは、嘉数から西原にかけての丘陵地帯だった。普天間方面を見下ろす嘉数高地には沖縄守備軍がもっとも堅牢を誇る首里防衛陣地の一つがあった。首里本陣の前衛にあたる数嘉の陣地が陥落すれば首里城地下の守備軍司令部方面への進軍路が開けることは確実だった。四月二十日、米国第二十四軍団のホッジ少将は、軍団配下の第二十七師団司令官に対して、いかなる手段を講じ、いかなる犠牲を払っても、その日の日没時までに嘉数高地を占領するよう厳命した。
 しかしながら、日本側守備軍の反撃は凄まじく、さしもの米軍精鋭部隊も腹這い状態のまま一日に四、五十メートル前進するのが精一杯の状態だったという。結局、米軍が目標地点に進攻し、嘉数高の完全制圧に成功したのは一カ月以上も後のことであった。「嘉数高地の戦闘ほど日本軍に苦しめられた戦いはなかった」と米軍戦史にも記録のある通り、物量に勝るアメリカ軍にとってもそれは極限の戦いであったらしい。
 いっぽう、首里陣地正面、いうならば守備軍の心臓部を攻撃したのは第九十六師団だった。強力な火器をもって激しい攻撃を加えはしたものの、堅固なトーチカ深くに陣を構えて徹底抗戦を試みる守備軍精鋭部隊を通常の戦法で攻略するのは困難だと悟った米軍司令部は、トーチカや地下洞穴内の日本軍守備兵を外に駆り出すには土を深く掘り起こすような容赦のない砲爆撃を加えるしかないと考えた。彼らはそれを「耕し戦法」と名づけていたらしい。ホッジ少将の命令一下、米軍は、陸、海、空の全軍をあげて一大総攻勢に転じ、通常の砲弾や爆弾のほか、当時としては新兵器であったナパーム弾やロケット砲などを守備軍陣地に雨霰と浴びせかけた。その空前絶後の猛爆によって与那原から首里にかけての一帯は一面焼け野原になり、すべての住居建物は跡形もなく崩壊した。
 物量にものをいわせた攻撃と並行し、米軍は地下壕や洞穴陣地の守備軍に対し一つの奇策を実行した。守備軍の各地下壕の上部に夜陰にまぎれて練達の狙撃兵を送り込み、壕の入り口付近に陣取らせて壕内から姿を現す将兵を片っ端から狙い撃ちにしたのである。そして守備軍を壕内に封じこめたところで、戦車を地下陣地の入り口に誘導し、壕内に向かって猛然と火焔放射を浴びせかけたり、強力な爆雷やガス弾を大量に投入したりした。「馬乗り作戦」と呼ばれるこの奇襲戦法によって、難攻不落と思われていた守備軍のトーチカや洞穴陣地は次々に無力化され、その中で多くの将兵が戦うことなく犠牲になっていきはじめた。
 沖縄守備軍の司令官は牛島満中将、参謀総長は長勇中将だったが、実質的に戦略を主導したのは高級参謀の八原博通大佐だったようである。彼は、米軍を至近距離に引き寄せ、短刀で闇討ちするにも似た「刺し違え戦法」をとることを考えた。米軍がある程度南進するまではさしたる反撃もせずそれを黙認し、機を見て守備軍地下壕内に隠してある約四百門の重砲で一斉攻撃を開始して反撃に転じ、一挙に相手の主力部隊を殲滅しようというわけだった。守備軍には砲術の大家として聞こえた和田孝助中将などもいて、砲兵隊の砲術技能は日本軍全体においても最高のレベルにあったという。だから、一斉砲撃開始の時期の判断さえ誤ることがなければ、大戦果をおさめるのは間違いないと信じられていたのである。
 実際には、そんな司令部の予想をはるかに超える米軍の猛攻と巧妙な奇襲戦略のために、大反撃にでる前に主力部隊全体が壕内に封じこまれてしまいかねない状態になってきた。しかし、この時点までは、沖縄守備軍はまだかなりの戦力を維持していた。米軍の攻撃の矢面に立ち激戦に耐えていた藤岡中将指揮下の第六十二師団の兵力はすでに半減していたが、トーチカ内で温存されていた和田中将配下の第五砲兵隊のほか、後方地区に控える雨宮中将麾下の第二十四師団、独立混成第四十四旅団残存部隊、さらには大田少将率いる海軍部隊などの兵力はなお健在であった。
 南部地区に控えるそれらの部隊を首里戦線に投入すれば、ある程度は米軍に反撃態勢をとることができると考えた司令部は、第二十四師団と独立混成第四十四旅団に北上を指示、それらの部隊は夜陰にまぎれて前線に進出した。こうして、首里本陣の沖縄守備軍司令部がその命運をかけた決戦の準備は整った。
 しかしながら、この時点で守備軍司令部首脳の間には戦術上の問題で意見の対立が起こっていた。長参謀総長や若手参謀たちが、全軍をあげて総攻撃に出る機が熟したと判断し、総力をあげて反撃に転じるべきだと主張したのに対して、八原高級参謀は、増援部隊を第二防衛線に配備し、最後まで専守持久の戦法をとるべきだと主張して譲らず、容易には収拾がつかなかった。その間にもじわじわと進攻を続ける米軍は、砲爆撃の狙いを守備軍司令部近辺に集中しはじめ、地下陣地の坑道内まで煙硝が立ちこめる事態にまでたちいたった。当然、守備軍の壕内においては日に日に緊張の度合いが高まり、司令部には殺気立った空気が漂いだした。
 壕内の将兵の間には、このまま持久戦を続け、一矢を報いることもなく敗北と死を待つのは耐えがたいという思いが募り、「攻撃は最大の防御なり」というかねてからの日本軍の教えにのっとって、この際一斉攻撃に転じるべきだ、という気運が高まった。そんな気運をうけて、司令部内の大勢は攻撃論者の急先鋒、長参謀長の主張を支持することで固まった。そして、最終的な幕僚会議における採決に基づき、牛島満司令官は、五月四日早朝を期して全軍を挙げ総反撃攻勢に転じることを決断した。
 この決定を不服とした八原高級参謀は、そのときの心境を「米軍は、日本軍のことを、兵は優秀、下級幹部は良好、中級将校は凡庸、高級指揮官は愚劣と評しているが、上は大本営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々まで、多くの幕僚や指揮官が、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う」と記録している。八原の危惧したとおり、無謀な反撃攻勢策はほどなく無残な敗退を招き、守備軍は再び地下壕に潜って持久戦に転ずることになっていった。
 現実には持久戦術のほうも米軍にはほとんど通用しなかったので、八原の判断が正しかったとは言い難いし、いろいろな発言や行動記録を読み較べてみるかぎり、この人物の言動にはかなりの矛盾と自己弁護とも思われるある種の翳が感じられる。また、のちに彼のとった作戦が結果的には沖縄一般住民の大量死を引き起こすことになっていく。したがって、上官に対する八原の批判の正当さを全面的に信じるわけにはいかないが、彼の見解もそれなりには当たっていたのだろう。
 総攻撃を前にした司令部壕内では、本職の料理人の手になる山海珍味のご馳走に洋酒まで交えた戦勝祈願の祝宴が開かれたという。盛装した若い女性が居並ぶ守備軍首脳の間を酌してまわり、酒の勢いもあって皆が「明日の総攻撃は必勝間違いなし!」と口にするなど、意気軒昂たるものがあったらしい。どこまで本気だったのかはわからないが、長参謀長などは、「天気予報では五月三日から四日にかけては雨だ。敵の戦車は泥にはまって動けず、飛行機は飛べないだろう。五日の端午の節句には戦勝祝賀会をやるぞ」と怪気炎をあげる有様だったという。もっとも、この酒宴の数日前、長参謀長は意見を異にしていた八原高級参謀に向かって「いっしょに死のう」と涙をみせつつ自分の主張に同意を求めたというから、内心では全軍玉砕もありうることを覚悟していたのかもしれない。
 五月四日午前四時五十分、沖縄守備軍は総反撃を開始した。地下壕に温存されていた守備軍の四百門の主力砲がいっせいに火を吐き、砲声が首里丘陵に轟きわたるのに合わせて、九州本土の知覧や鹿屋から飛来した多数の神風特別攻隊機が海上の米艦船群に襲いかかった。戦術や兵器の優劣はともかく、死力を尽くしての守備軍の反撃ではあっただけに、一帯はたちまち修羅場と化した。
 五月四日の午前五時前、米軍第二十四陸軍砲兵隊員は、首里防衛戦線上に位置する二つの集落付近から火の玉が高々と打ち上げられるのを目撃した。そして、次ぎの瞬間、守備軍陣地から米軍の陣地に向かって猛烈このうえない砲撃が始まった。その砲撃の凄まじさは、米兵がそれまでに一度も体験したことのないほどのものだったという。しかし、守備軍の反撃攻勢はあまり長くは続かなかった。米軍も即座に火器や航空機をを総動員して応戦を開始、午前八時頃までには前線全体で守備軍の攻撃をほぼ鎮圧した。
 守備軍敗退の原因の一つは、味方の援護射撃を過信した主力兵団が攻撃開始とともに何の遮蔽物もない平地に無鉄砲に飛び出し、米軍の重砲火を浴びて退路を断たれ動けなくなってしまったことにあった。生存者の言葉を借りれば「まるで逃げ場を失ったカモを狙い撃ちするみだいに次々と撃ち倒されていった」のだという。たとえば、村上中佐指揮下の戦車第二十七連隊などは、米軍の集中砲火のために進退ともに不可能になり、大半の隊員が戦車もとともなすすべもなく戦死した。また、総攻撃のために地下に温存してあった守備軍自慢の巨砲は、地上に姿を現し一斉に火を吹いたまではよかったが、それを待ち構えていた米軍艦載機の餌食となり、現実にはその威力をほとんど発揮することもなく、ことごとく破壊し尽くされてしまった。
 みるべき戦果をあげることのできなかった地上軍の戦闘に対して、神風特別攻撃隊のほうは、五月四日までにのべ二二二八機を出撃させ、米艦船十七隻を撃沈もしくは大破させるという戦果をあげた。だが、当初こそ攻撃成功率は二割に近かったものの、米軍が神風特攻機に対する防御策を強化するにつれ、その成功率は減少の一途をたどり、ほどなく多数の若い命が、むなしく南海の藻屑と消えていく結果になった。
 五月五日の午後六時、司令官牛島満中将は地下壕内の自室に八原博通高級参謀を呼び、「予は攻撃中止を決定した」と告げたという。総攻撃の失敗を認め、さらなる自陣の損害を食い止めるための決断だった。伝えられるところによると、司令官牛島は、それと同時に「残存兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人になるまで、沖縄の南の端に尺寸の土地の存するかぎり、あくまで持久戦をたたかい本土決戦の準備のために時をかせぎたい。今後は一切を貴官に任せるから、予の方針にしたがい思う存分にやってくれ」と告げたという。
 牛島中将はのちに摩文仁高地の洞穴内で自決しているので、八原参謀が伝えるその言葉が牛島の真意であったかどうかはもはや確かめようがない。陸軍士官学校長を務め、人格者だったとも言われる牛島の言葉にしてはいささかの疑問が残る気もする。首里攻防戦のあと、多くの島民を巻き込んだまま南部に兵を引いて持久戦を展開、結果的に十万人を超える民間人犠牲者を出すことになった作戦の実質的な指揮官が八原だったことを思うと、どこかに責任逃れのにおいがしないでもない。
 総攻撃が中止されたからといっても、戦いが終わったわけではなく、その後も日米双方には多数の犠牲者が続出した。とくに守備軍の犠牲者の大半は生え抜きの精鋭とうたわれた兵士であっただけに、もはや反撃攻勢は絶望的となった。総攻撃が失敗に終わったこともあって、最終的に累計すると守備軍は首里攻防戦全体を通じてその兵力の七十五パーセントを失ったと言われている。
 沖縄戦当時の鈴木首相は戦後の回顧談の中で「沖縄の日本軍が敵を一度海中に突き落としてくれたら、これを契機として具体的平和政策を開始しようと考えていたが、期待に反して守備軍はそうしてくれなかった」と述べた。のちにそれを知った八原は、「いやしくも一国の首相が、沖縄戦にこんな期待を寄せていたとすれば、沖縄の実情をご存知なかったものと言わねばならぬ。沖縄戦においては、現地の首脳は戦闘開始数ヶ月前から希望を失っていたのだ。決戦は本土でやると公言し、沖縄守備軍は本土の前進部隊だと断じておきながら、現地軍に決戦を強いて本気で戦勝を期待するのは本末転倒も甚だしい」と反論している。
 八原は、大本営と現地守備軍との間には正反対に近い意志の乖離(かいり)があったことを指摘、その裏事情を明らかにしている。彼によると、沖縄戦の始まる前年あたり以降、上は参謀総長から下は参謀本部部員にいたるまで、一人として沖縄に直接視察に来たり、将兵を激励しに来たりした者はいなかったという。それどころか、沖縄方面の作戦について現地の作戦主任である八原自身とさえ親しく膝を交えて談合した大本営関係者は一人もいなかったらしい。しかもそのほんとうの理由は、那覇市の遊郭が全滅して享楽に耽ることができなくなったことや、南西諸島の海域に米軍の飛行機や潜水艦が多数出没しはじめ、身の危険を感じたからであったという。
 八原はさらに、大本営の幕僚たちのこの無責任な態度は、米国の場合とはあまりにも対照的だったと述べている。米国などでは、大統領や首相が自ら前線に出かけて将兵と語り合い、国政方針と戦争現場の実態との調整をはかるのが常だったが、当時の日本政府や大本営首脳にはそんな配慮などまるで欠けていたという。結局、大本営は、自らが導いた沖縄作戦に見切りをつけて増援部隊を送ることをやめ、沖縄本島守備軍、南西諸島海軍部隊、さらには動員された多数の沖縄住民総力をあげての戦いをみすみす見殺しにしたのだった。

 米軍第十軍司令官バックナー中将は、沖縄守備軍の総反撃が失敗に終わったのを見届けると、配下の全軍に五月十一日を期して総攻撃にうつるように命令した。いっぽうの守備軍は総攻撃に失敗したあと、すぐに持久戦態勢に戦略を切り替え、兵力の減少を考慮して戦線を首里周辺に縮小した。米軍が総攻撃に転じたこの日には、神風特別攻撃隊百五十機が沖縄海域の米艦船団めがけて猛然と決死の体当たり攻撃を敢行した。ほとんどの特攻機は米艦船に到達する前に撃墜されたが、一部の特攻機は米機動艦隊旗艦のバンカーヒルに大きな損壊を与え、やむなく僚艦のエンタープライズに司令官旗が移されると、他の特攻機がそのエンタープライズをも大破させた。司令官旗は結局、別の航空母艦に移されたという。
 陸、海、空、海兵隊の連携作戦のもと全戦線にわたる総攻撃を開始した米軍に対し、守備軍も最後の死力をふりしぼって頑強に抵抗した。勢い、首里の守備軍本陣に対する砲撃は過去のそれをはるかに上回る激烈なものとなった。米軍主力部隊は昼夜の別なく戦車砲や機関砲、臼砲、ロケット砲を撃ちこみ、じわじわと首里本陣に肉迫していった。
 米軍がシュガー・ローフと呼んだ小さな丘をめぐる攻防戦は、ひときわ凄まじいものであった。この丘が日米どちらにとっても戦術上の要所になっていたため、米第六海兵師団は一挙にその地を占拠しようと、多数の戦車を送り込んで攻め立てた。しかし、首里の西方に位置するこの丘陵地を失えば司令部陣地がたちまち危機に瀕することは目に見えていたので、守備軍も第六十二師団と独立混成第四十四旅団の一部部隊を配置し、同地を死守する構えにでた。
 物量ではるかに勝る米軍は、攻防戦の開始とともに寸刻みの砲撃や爆撃を加えて日本軍の動きを封じ、戦車を盾に攻め進んだ。その猛攻を通常の戦法で防ぐことは不可能と判断した守備軍兵士たちは、爆雷を抱えたまま次々に洞穴陣地から飛び出し、攻め寄せる米軍の戦車や砲兵隊に向かって突入、捨て身の体当たり攻撃を敢行した。こうしてシュガー・ローフの丘を両軍で一日数回も取りつ取られつするという激闘が続き、戦いが始まってから六日後の五月十八日になってようやくその丘は米軍の手に落ちた。
 勝つには勝ったが、あまりにも激烈な戦闘のため、米軍第六海兵師団は二六六二人もの死傷者と一二八九人もの戦闘疲労症患者、すなわち発狂者を出す結果となった。これらの精神異常者を治療するため、米軍は特別に専門の野戦病院を設立しなければならなかったという。むろん、守備軍側の死傷者は米軍の数倍にものぼったと推定される。
 シュガー・ローフ制圧に目途をつけた第六海兵師団主力部隊は、その損傷にもめげず、次ぎに首里本陣北側に隣接する沢岻および大名の両高地の攻撃に取りかかった。いかなる犠牲を払っても同地を死守せよと牛島司令官から厳命を受けた現地守備軍は、力のかぎりを尽くしたが、臼砲や艦砲射撃の猛撃に支援された海兵隊の手によって沢岻高地がまず占拠された。第五海兵連隊の増援をうけた米第六海兵師団の猛攻に、大名陣地守備軍は果敢に立ち向かい、しばらくの間は米軍をまったく寄せつけなかったが、米軍の攻撃はいつにもまして執拗だった。通常砲弾はいうにおよばず、爆雷や火焔放射器からロケット砲、ナパーム弾にいたるまでのあらゆる火器が動員され、ついに大名高地一帯の守備軍陣地は陥落した。
 天然の要塞石嶺高地の攻略にはさしもの米軍も手を焼いた。米軍のある中隊は総員二〇四人で石嶺高地に夜襲をかけたが、一五六人を失った。一二九人からなる別の攻撃隊は生存者が三〇人だけ、交替要員として派遣された五八人の小隊などは、わずかに三人が生還しただけだったという。それでも徐々に激戦を制し、首里の司令部陣地を取り巻く高地を占拠した米軍は、いよいよ司令部に直撃弾を浴びせはじめた。そして、風前の灯火とも言うべき状況に追い込まれた首里本陣の陥落はもはや時間の問題となっていた。
 守備軍本陣は三っの強固な防衛線で守られていた。右翼には第二十四師団が陣を構え、中央には第六十二師団が陣を布いていた。また、司令部陣地の東北側には防衛線中もっとも堅固で難攻不落とみなされていた弁ヶ岳陣地があった。ところが、大方の予想に反し米軍が真っ先に攻略したのは、平地からそこだけ急に盛り上がった不落のはずの弁ヶ岳陣地だった。米軍がチョコレートドロップと呼んだ標高一六七メートルの弁ヶ岳陣地は、歴戦部隊の米七十七歩兵師団の猛攻撃に合い、あっというまに陥落してしまった。制空権を奪われていたため、米軍機による空中からの支援攻撃や、落下傘部隊の投入によってあっけなく壊滅させられたのだった。
 五月二十一日、米軍はいよいよ首里市内に進軍しようとしていたが、この日沖縄はたまたまひどい豪雨に見舞われていたという。肉迫する米軍を前にしてもはや万策尽きた守備軍首脳部は、首里で玉砕する覚悟を固めつつあった。ところが、八原高級参謀だけは、首里を脱出して南部の喜屋武岬方面への撤退を画策していた。そのため彼は腹心の参謀長野英夫に密かに命じて、守備軍司令部のとるべき方策を考えさせた。暗黙のうちに八原の意向を汲んだ長野参謀は、次のような三案を提示したという。

一、守備軍司令部は喜屋武地区へと撤退する。
二、知念半島に撤退する。
三、首里複郭陣地に拠り、最後まで徹底抗戦する。

 五月二十二日の朝、八原はそ知らぬ顔でこれらの三案を長野から長参謀総長に提出させた。八原の画策とは知らぬ長参謀総長はすぐに彼を呼び、その見解を求めた。そこで、すかさず八原は喜屋武方面への撤退案を推すいっぽう、同案について配下の各兵団指揮官の意見を尋ねてみることを勧めたのだった。
 その夜の協議において、第六十二師団の上野貞臣参謀長は配下の将兵の大部分が首里戦線で戦死したうえ、首里洞窟陣内には後送困難な何千人もの重傷者がいるので、最後まで首里で戦うべきだという長参謀総長寄りの意見を述べた。それに対し、第二十四師団の木谷美雄参謀長と軍砲兵隊の砂野高級部員は、喜屋武方面への撤退案に賛成した。また、独立混成第四十四旅団の京僧参謀は、喜屋武地区ではなく、知念半島方面への撤退案を支持し、海軍を代表して会議に参加した中尾参謀はとくに意見を述べなかった。その結果、八原高級参謀の思惑通りにことは運び、牛島司令官は守備軍司令部を喜屋武地区に撤退させることを最終的に決断した。
 五月二十七日夕刻から二十八日にかけて守備軍の南部撤退は開始された。折からの豪雨と夜陰とが守備軍司令部の撤退に大きく味方した。守備軍首脳陣は周到な撤退計画を練り、いくつかの小隊に分かれて南下した。第三小隊までは摩文仁方面へと直行したが、牛島司令官と八原高級参謀ら五十人の第四小隊と長参謀総長や長野参謀らを含むやはり五十人の第五小隊は、ひとまず津嘉山に立ち寄り、一時的にそこを戦闘司令部にすることにした。 守備軍司令部撤退と前後して、第六十二師団と戦車第二十七連隊も南下、翌日の二十八日までには首里最前線に布陣していた独立混成第四十四旅団司令部と第二十四師団司令部も、津嘉山の戦闘司令部に合流するため撤退を開始した。
 米軍が守備軍主力部隊の喜屋武方面撤退に気づいたのは、撤退開始後かなり時間がたってからだった。五月二十九日に米第一海兵隊が首里城址に突入したとき、首里要塞はすでにもぬけの殻になっていた。八原の策謀通り、南部での持久戦を狙った一大撤退作戦は米軍の目をも欺き、見事な成功を収めたのだった。しかし、この撤退作戦こそはまた、のちに続く凄惨な地獄絵図の序章でもあったのだ。もし、首里で守備軍が玉砕しておれば、正規軍人約九万六千のほとんどが戦死していたかもしれないが、十数万人にも及ぶ沖縄住民や現地動員防衛協力隊員の死は避けられていたかもしれない。沖縄南部戦線における真の悲劇はこの時点から始まったのだ。
 五月末の軍団長会議には当時の島田叡沖縄知事も同席していた。その席で島田知事は、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、住民を道連れにするのは愚策である」と憤ったという。そのとき牛島司令官は、「第三十二軍の使命は本土作戦を一日たりとも有利に導くことだ」と説いて会議を締め括ったという。
 「絶え間ない雨のカーテンの陰に隠れて、牛島はその兵力の大部分を率いて脱出することに成功した。そして首里城の真南十四キロ半、岩だらけの海岸を見下ろす絶壁の洞穴に新司令部を置いた。だがこの撤退は沖縄の住民にはとても高価なものについた。恐慌状態に陥った民間人の群れが軍のあとを追って南へ逃げ、砲爆撃で虐殺された。何千もの死体が、ぬかるみの道端に置き去りにされていた」
 これは、ジョン・トーランドがこの沖縄守備軍の南部撤退について述べた一文である。まさに彼の指摘の通り、その作戦は、ひめゆり部隊の悲劇をはじめとする数々の大惨劇を引き起こしたのだった。

「マセマティック放浪記」
1999年7月14日

ある沖縄の想い出(10)
沖縄発祥の地とイラブー余談  

 沖縄戦の悲劇を遠く偲びながら首里丘陵をあとにした私は、本島東南端にある知念半島に向かって車を走らせた。知念半島沖合い一帯は、沖縄本島のなかではもっとも珊瑚礁の美しいところとして知られている。突端の知念岬には近代的な海洋レジャーセンターがあって、海中を展望できるグラスボートなども用意されていたが、時間の都合もあったのでそれには乗らず、明るく輝く青い海だけを眺めていた。南国の真昼の太陽にきらめき揺れる大海原には、あの忌まわしい戦争の影などどこにも感じられなかった。
 知念岬を少し南にまわったあたりには斎場御嶽(せーふぁうたき)と呼ばれる聖地があった。その聖地につづく山道をしばらく上ると、ほどなく小さな広場に出た。その広場の右端は切り立った断崖になっていて、その断崖にもたれかかるようにして大きな岩が立っていた。沖縄創造の伝説よると、アマミキヨという創造神は、まず、この地の沖合いに浮かぶ久高島に降臨した。そして、そのあとこの斎場御嶽にわたってきたのだという。そのためこの地は、古来、沖縄本島第一の聖地とされ、琉球王朝歴代の国王も一年おきに必ず参拝に詣でるしきたりになっていたらしい。また、国王に次ぐ権力者であった聞大君(きこえのおおきみ)の即位式がおこなわれたのもこの聖地であったという。
 東方の海上を見やると、なるほど、久高島のものと思われる島影が見えていた。話に聞くところでは、古事記にも登場し、沖縄発祥の地とされるこの小島では、十二年に一度イザイホーという古代から伝わる祭祀が催されるのだという。これは島の三十一歳から四十一歳までの女性がナンチュと呼ばれる巫女になるための洗礼行事で、島内の全女性が集まり、ノロという巫女最高位の女性がその祭祀全体を取り仕切る。
 久高島におけるノロの権威は絶大で、かなりの私有地を与えられるほか、島唯一の特産品イラブー(エラブウナギ)の捕獲権も代々ノロに委ねられているのだそうだ。むろん、それは乱獲を防ぐための島民の知恵でもあったのだろう。
 ちなみに述べておくと、イラブー(エラブウナギ)は、ウナギの三文字がついているからといって、すぐさま蒲焼に変身してくれるようなヤワな手合いではない。もちろん、ニューヨーク・ヤンキースで活躍中のあの方の親戚でもない。イラブーとは南の海に棲む毒蛇の一種なのだが、乾燥処理すると意外にも琉球王朝伝来の高級な食材と化す。当然、長期の保存も利く。海洋レジャーセンターの土産物屋に置かれているのを見てきたが、棒状のものとトグロを巻いた感じのものとの二種類があって、いずれも相当に高価なしろものだった。
 久高島は全体が聖域であるだけに、島民はよそ者が多数訪れることを必ずしも好まないということだったが、時代の流れには抗しがたいとみえて、近年は民宿なども何軒かできているらしかった。美しい珊瑚の海に取り巻かれた周囲八キロの島内には、神話や伝説に彩られたスポットがいくつかあるとのことだったが、私は遠くからその島影を眺めるだけにとどめておくことにした。
 
 余談になるが、いまや押しも押されもせぬ流行作家の乃南アサさんがまだ直木賞を受賞するずっと前のこと、沖縄土産だといって、私の住む府中まで、なんとも奇っ怪なシロモノを持参してきてくれたことがある。彼女は、「これを煮て食べると美味しいし、滋養強壮剤としての働きもあるそうですよ」と笑いながら、一メートルほどの細長い袋状の包みを差し出した。なんだろうと思いながら、私が怪訝な顔をすると、すかさず彼女は、平然とした顔で「久高島特産のウミヘビですよ、もともとは毒蛇だそうで…」と言ってのけた。
 半信半疑でそっと包みを開いてみると、黒く細長い一本の棒のようなものが現れた。包みから引き出してみると、まさにカチカチに固まった黒いヘビの乾燥物である。おどろおどろしい三角の頭部には、ちゃんと目も口もついているではないか。黒緑色の光沢のある腹部や背中にあたるところを指先でそっと撫でてみると、ざらざらしたウロコ様の感触がした。気の弱い人なら悲鳴をあげて逃げ出しかねない迫力だった。
 乃南さんは、これを十匹ほど束ねたものを手に携えて那覇空港から羽田行きの飛行機に乗り、羽田から中央線沿いの自宅に持ち帰ったらしいのだ。それらのなかの一匹を私のところへ届けてくれたときには包装してあったが、彼女が沖縄から持ち帰る際は、三角の頭部と尾部はほとんど剥き出し状態だったというから、周囲の人はさぞかし度胆を抜かれたことだろう。実際、飛行機や電車の同乗客のなかには呆れ顔で彼女のほうを見つめる人もあったらしい。繊細ななかにも豪放な一面を合わせもつ乃南さんらしい話なのだが、実は、これ、イラブーの乾物だったのだ。
 家の者に「滋養もあって美味しいらしいから、尻尾のほうを少し切って食べてみるか」と誘いをかけてみたが、誰も返事をしてくれない。ならばと思った私は、もとの包装に収めたまま、しばらくお守り代わりに書斎の鴨居に飾っておいた。そして、来客があったときなどに取り出しては相手を驚かして楽しんでいた。ところが、そうこうするうちに乃南さんの直木賞受賞がきまったというニュースが飛び込んできた。そうなるともう食べるどころの騒ぎではない。一挙に「乃南海蛇神」に昇格したイラブー様は、いまや畏れ多き存在となって、我が家の客間に鎮座しておわすのである。
 直木賞受賞の折、受賞作「凍える牙」に登場する狼犬にちなんで、背中に狼犬の足跡をプリントしたTシャツを特注した乃南さんは、そのうちの一枚を私にも贈ってくれた。「イラブー様」や「狼犬Tシャツ」に加えて、新刊が出るごとに贈呈してもらっている彼女の三十冊に近い初版本や折々頂戴する葉書などを大切に合わせ保管しておけば、何十年かのちには、「なんでも鑑定団」ものの逸品になることは間違いない。
 さらに脇道にそれることになるが、ついでだから書いておくと、ずいぶん昔に個人的に知り合い、いまや私など足元にも及ばないくらいの活躍をするようになった女性は乃南さんのほかにも何人かある。のちに日本認で初めて認知科学会を組織し、いまやその分野の大御所になっている中京大学教授の三宅なほみさんと出会ったのは、彼女が研究成果を携えて米国留学から帰国し、東大大学院の佐伯胖研究室に一時的に通っていたときのことだった。コンピュータ教育の方法論や数学教育などに適したコンピュータ言語LOGOの活用法、教育用ソフト、コンピュータ通信一般などについて三冊ほど共著を出版したりしたが、その後の彼女の活躍は目を見張るものがある。
 AI(人工知能)の世界、とくにインテリジェンス・アート・アンド・テクノロジイの研究分野で目下最先端の走る土佐尚子さんとの出会いもずいぶんと昔のことになる。ディスプレイの中の赤ちゃんが、人間の話しかけに応じて泣いたり笑ったり怒ったりしながら、次第に学習成長していく「ニューロベイビイ(インタラクティブ・キャラクター)」の研究開発者で名高い彼女にも、いろいろと愚にもつかないアドバイスをしたりした。今年三月、土佐さんからその後の研究業績を集約した学術論文集が送り届けられてきたが、ただ素晴らしいの一語に尽きた。学歴とは無縁のところからスタートし、文字通りの実力で階段を上り業績をあげた人だけに、いっそうの喝采を送り、今後の活躍を心から祈りたい。
 NHKの「おはよう日本」の元キャスターで、大河ドラマのナレータとしてとしても知られる平野啓子さんと出会ったのは、彼女がまだ早稲田の学生のときだった。折につけていろいろ相談されるのをよいことに、私なりに励ましたり、柄にもない箴言を吐いたりして現在に至っているが、先年、彼女は、「鶴八鶴次郎」の語りで文部省芸術祭芸能部門の大賞に輝いた。語り芸術家として次々に新境地を開き、いまではその世界の第一人者となっている。NHK芸術劇場などでご存知の方も多かろうが、その迫力に満ちた語りは絶品と言ってよい。もはや貫禄十分で、NHKのキャスターになりたての頃のあのおどおどした姿はどこにもない。
 薬師丸ひろ子主演の「ミセスシンデレラ」、キムタクと松たか子主演の「ラブジェネレーション」、深田恭子と金城武が熱演した「神様もうすこしだけ」、そして最近始まったばかりの木村佳乃主演の「パーフェクトラブ」と言えば、いずれも若者たちの間で大評判となったフジテレビ系トレンディドラマの大ヒット作である。深田恭子主演の「神様もうすこしだけ」などは、テレビドラマとしては放送史上最高の視聴率を稼いだりもした。これらのドラマのシナリオを書いたのは、いずれも現在売り出し中の浅野妙子さんである。浅野さんがまだ慶応大学大学院仏文科に在学中の頃からの付き合いだが、いまや彼女はトレンディドラマのライターとして花形的存在になっている。
 決意を新たにした浅野さんがシナリオの勉強を始めた頃、ずいぶんと脇から煽ったり、時にはひどくけなしたりもしたものだが、苦節十年の末に彼女は見事開花した。一児の母として育児に精を出すかたわら筆を執る彼女の感性はますます冴え渡っていくようで、もはや私など及びもつかない。良家のお嬢様であったにもかかわらず変に行動力のある彼女は、余計なことばかり言う私がどんな所でどんな育ち方をしたのか気になったらしく、ある時私にはそ知らぬ顔をしてはるばる甑島を訪ね、我が家のご先祖様の墓参りまでしてきてしまった。
 何日か前のこと、「AICにちょっとだけ昔のこと書かせてもらうよ」と電話したら、受話器の向こうで彼女はおかしそうに笑いながら、「その原稿ってお金になるんですか?」って尋ねてきた。不意打ちを喰らって、私が返事に窮したことは言うまでもない。いつもいつもマイナスのカードばかりを引いているこの身を案じての一言ではあったのだが……。
 このほかにも、昔出会い、いまでは有能な編集者やフリーライター、あるいは翻訳家となって活躍中の女性はあるが、彼女たちには一つの共通点があるようだ。隠れた資質をそなえていたのはむろんだが、それ以上に重要なのは、その誰もが並外れた努力家であると同時に、けたはずれの集中力の持ち主でもあるということだ。不精で努力が嫌いな私などは、大いに見習わなければならないのだが、この生来の習性だけは如何ともなし難い。したがって、どんどん彼女たちに置いていかれることは当然の報いである。
 女性の話ばかり書いたが、ささやかな過去の人生の中で煽り育てた男共もそれなりには存在しないわけではない。しかし、その連中の話のほうは、「いじめ」を兼ねた今後の原稿のネタとして、しばらくとっておくことにしようと思う。  
 
 イラブーの話が発端となっていささか余談が過ぎてしまったが、このへんで再び本題へと戻ることにしよう。
 知念半島をあとにした私は、摩文仁の丘へと向かう途中で玉泉洞に立ち寄ってみた。玉泉洞は石灰岩質の隆起珊瑚礁が侵食されてできた鍾乳洞で、昭和四十二年、愛媛大学探検隊によって発見された。この鍾乳洞は全長五千メートルほどで、観光客に公開されている部分だけでも八百メートルはある。鍾乳石の総数は実に九十万本にものぼるという大規模な洞で、鍾乳石の種類の多さと洞内の景観の美しさでは国内屈指の存在と言われている。
 軽い気持ちで洞内にはいったのだが、先の尖った硬質ガラスか水晶を思わせる無数の鍾乳石の輝きは、たしかに息を呑むような美しさだった。鍾乳洞の規模や全体的な荘厳さ、神秘性といった観点からすれば本土の秋芳洞や竜泉洞のほうがずっと上には違いないが、鍾乳石や石筍の造形の妙とそれらの繊細な美しさという点ではこの玉泉洞のほうが勝っているように感じられた。とくに、地底の密林、陽炎の国、白銀のホールなどと名づけられた特別なスポットの景観は圧巻だった。
 それまでに本土の有名な鍾乳洞はほとんど訪ね歩いてきていたが、この玉泉洞の特有な雰囲気と洞内壁面全体の色合いは、私が過去に目にしたものとは明らかに異なるものだった。ひとつには、この鍾乳洞の鍾乳石が誕生したのが二十万年から四十万年前と、この種のものとしてはきわめて新しいものであることにもよったのだろう。
 玉泉洞を出ると、すぐ隣合わせのところにある玉泉ハブ公園にも寄ってみた。猛毒をもつハブの特徴やその生態がよくわかるように工夫された展示館や大蛇展示場のほか、ハブ専門の研究所などが設けられていたが、どうやら観光客向けの最大の売り物は、コブラとその天敵マングースの闘いを見せるショーであるらしかった。ハブ対マングースではなく、あくまでコブラ対マングースであるところがミソである。
 大きなニシキヘビなどが舞台に登場し、勇敢な女性観客の首の回りにそれが巻きつけられるといった前座ショーが繰り広げられたあと、問題のコブラ対マングースの決闘なるものが始まった。だが、それは、決闘とは名ばかりの、筋書きのきまった馴れ合いプロレスショーみたいなものだった。
 コブラ:おいマングース、本気で噛みつくなよな。俺まだ死にたくねーからな!
 マングース:おまえだって、このまえマジで噛みついたろうが。毒が回りかけたんだぞ!
 コブラ:今日はあと三回もアホ面かいた観光客の前で戦わなきゃならねーからな。
 マングース:じゃさぁ、噛んだふりするからよぉ、お前も噛まれたふりせーや。
 コブラ:そんじゃ、俺、負けてばかりじゃん……。
 マングース:わかったよ、三回に一回は俺が負けてやるからさぁ……。
 まあ、そんな会話がコブラとマングースの間で交わされたかどうかは知らないが、毎回のようにコブラとマングースのどちらかが死ぬまで戦わせていたら、コブラやマングースが何匹いたって足りるわけがない。だから、決闘ショーのレフリー役を務める人間がほどほどのところで割ってはいってそこで終わりという寸法だった。冷静に考えて見れば、本物の死闘を期待するほうが虫がよすぎるというものだった。
 玉泉洞とハブ公園の隣には、亜熱帯植物が鬱蒼と生い茂る自然公園があった。なんとなく近づきがたい感じのするところで、中を歩いてみたいという気分になったが、残念ながらそこに入ることはできなかった。実はその場所には数百年間も風雨にさらされた無数の白骨が山と積まれた古代の風葬の跡があって、以前は「死者の谷遺跡公園」として公開されていたらしい。しかし、観光地としてのイメージを損なうという地元関係者の意向もあって、近年は立ち入ることができなくなったとのことだった。たぶん、近くに沖縄戦最後の激戦地となった沖縄戦跡国定公園などがあることなども、そういった配慮がなされた背景となっているのだろう。
 玉泉洞周辺を見学し終えた私は三三一号線に出て、いよいよ、沖縄戦終焉の地、摩文仁の丘へと向かうことにした。沖縄守備軍司令部が最後まで置かれていたところである。何気なく太陽陽を仰ぎやると、もうかなり西へと傾きかけていた。その太陽にせかされるように、私は車のアクセルを大きく踏み込んだ。

「マセマティック放浪記」
1999年7月21日

ある沖縄の想い出(11)
摩文仁ノ丘にて  

 夕刻だったせいもあってか、摩文仁ノ丘は何かを押し隠しでもするかのようにひっそりと静まり返っていた。この地があの地獄絵図の繰り広げられた場所と同じところであるとは信じられないほどに、あたりは森閑としていて、思わず身が引き締まる感じだった。大駐車場で車から降りた私は、まず平和祈念堂をめぐり、それから平和記念公園、平和記念資料館付近を経て、海抜九十メートルほどの摩文仁ノ丘の頂へと向かうことにした。
 首里攻防戦で正規軍の七割を超える兵力を失い、沖縄本島南端の摩文仁から喜屋武岬にかけての一帯へと撤退を決めた守備軍は、強制的に動員した十三歳から六十余歳までの地元男性住民と女子学生看護隊を最後まで軍に同行させた。いっぽう、守備軍の南部撤退によって置き去りにされた老人や子供、婦女子らの間には、迫り来る米軍によって蹂躙されるという恐怖感が募り、彼らのほとんどが何の情報も統率もないままに守備軍のあとを追って南下するという事態になった。
 正規軍と動員部隊と一般住民とが混沌とした状態で南部へと退くのを追撃した米軍は、全軍を挙げて容赦ない砲爆撃を敢行した。いっぽう、戦闘能力をほとんど失っていた正規軍は、自暴自棄に近い敗走状態の中で、多数の一般住民や動員部隊を巻き添えにしたばかりでなく、彼らを盾にさえするという異常な状況に追い込まれた。極限に近いパニック状態のなかで徐々に冷静な判断力を失い、やがて日本に未来はないと絶望するにいたった島民のなかには、自ら命を絶つ者も多数現れた。
 戦史記録によれば、最終的な日本側の戦死者数は二四万四一三六名、その内訳は正規軍六万五九〇八名、地元で編成された防衛隊員二万八二二八名、動員された住民戦闘協力者五万五二六四名、一般住民九万四七五四名であったという。いっぽう、米国の公式資料には、沖縄戦における米軍の死者は一万二五二〇名で、うち陸軍が四六七五名、海兵隊が二九三八名、海軍が四九〇七名であったと記されている。すでに述べたように、日本側の死者の大部分は、首里攻防戦で日本軍が敗退し、八原高級参謀の提唱にしたがって南部への撤退作戦が決行されたあとに生じたものである。
 多数の住民が身を犠牲にしてまで戦わなければならなかった理由について、八原高級参謀は、「日本本土が戦場となった場合、軍隊のみならず、老幼婦女子に至るまで打って一丸となり、皇土防衛に挺身すべきであることは、国民の抱懐する理想であり指導精神であり、わが指導者たちの強調してやまぬところであったからだ」と語り、さらに、「国家民族の興亡安危にかかわる来たるべき戦闘においては、およそ役立つ男子はことごとく軍旗の下に馳せ参ずべきだったからだ」とも述べている。
 だが、いっぽうで、この同じ人物は、昭和二十年六月二十三日早朝、上官の牛島満守備軍司令官や長勇参謀総長が摩文仁断崖の洞窟内で自決し沖縄戦が終ったあとも生き残り、上官らが自決する直前の六月二十日に、砲兵隊高級部員の砂野中佐とつぎのような想いを語り合ったということを伝え残してもいるのである。その内容が前述の戦争指導理念とはあまりにもかけ離れたものであることに、私はただ驚きあきれ果てるばかりで、述べるべき言葉もない。
 「沖縄敗るれば祖国もまた亡ぶ。日本の将来は見えすいているのに、中央の指導者たちはほんとうに文字通り滅亡の道を選ぶであろうか。もし降伏するならば、無力化したわが無数の将兵が未だ全死しない間に降伏して欲しい。否、わが指導者たちは、その本能から自己の地位、名誉、そして生命の一日でも存続するのを希望して、わが将兵の二万や三万を犠牲にしても意に介さないないのであろうか」
 もはや不可能なことではあるが、この言葉の中の「わが無数の将兵が」という部分を「無数の沖縄住民が」に、また、「わが将兵の二万や三万を犠牲にしても」という部分を「沖縄住民の十万や十五万んを犠牲にしても」と置き換えたうえで、そのまま八原という人物に突き返したい思いがするのは、この私だけなのだろうか。
 組織としての意思決定が正しくなかったと判明した場合、その責任の所在が曖昧になるようにあらかじめ意図された構造をもつのは、わが国の各種組織の最たる特徴だと言ってよい。日本古来の談合精神にルーツをもつこのような組織体のありかたは、当該組織が順調に機能しているときや組織が抱える問題が小さなときは都合がよいが、いったん大きな不祥事が起こったり、緊急に組織としての意思決定や明確な責任の所在が要求される事態が生じたりした時には、その欠陥を無惨なまでにさらけだす。
 このような組織体には、名目上その組織の長を務める者を含めて、誰一人として自己責任のもとに迅速な事態の収拾をはかることのできる者が存在しないし、たとえ存在したとしても構造上そうすることが許されていないからだ。多大の迷惑を被った者やあとに残された者には何の救いにも慰めにもならない、「自決」、「自殺」、「辞職」といった、詰まるところは間接的な自己美化ともいえるおきまりの対応がなされ、結局すべてはうやむやにされてしまう。
 首里から摩文仁周辺へと撤退してからの守備軍は、ただひたすら最後の瞬間を待つ無残な敗戦部隊以外のなにものでもなかった。残った守備軍は、南端の喜屋武岬と摩文仁ノ丘一帯の限られた地域に追い詰められ、米軍の砲火に一方的にさらされるだけの存在になった。客観的に判断すれば、全員玉砕は時間の問題だったが、そのような状態を冷静に見つめ投降をはかる者はほとんどいなかった。内心それが最善だと考えた指揮官がいたとしても、日本的組織のなかに染まりきったその身にとって、それを実行に移すのは別の大きな勇気を必要としたに違いない。戦場の露と消えた二十余万の人々の直接的な怨念や、それに対する残された人々のやり場のない怒りよりも、「国体」という名の実体の存在しない亡霊のほうが、我々日本人にとっては今も昔もずっと恐ろしいということだったのであろうかか。
 追い詰められた守備軍がたてこもる喜屋武岬から摩文仁高地一帯の背後の海上は、大小無数の米艦船群によって黒々と覆い尽くされた。そして、それらの艦船群からは、昼夜の別なく、喜屋武岬や摩文仁高地の守備軍拠点に対して猛烈な砲爆撃が繰り返された。また、航空機による銃爆撃も激烈をきわめ、陸上からはM4戦車群とそれらを盾にした米地上軍が四方八方からジリジリと包囲網を狭めてきた。この頃になると守備将兵の死者は連日一千人を超え、戦傷者の数はそれをはるかに上回った。さらに、その戦闘のさなかを右往左往して逃げ惑い、なすすべもなく倒れていった無数の非戦闘員たちの有様は、地獄絵図さながらであったという。
 あまり知られてはいないことだが、あちこちの洞内や壕に隠れる一般住民を救出するため、司令官バックナー中将の指令を受けた米軍は、カリフォルニアやハワイに住む沖縄出身の一世や二世のうち沖縄弁の得意な者を厳選し急遽前線に送り込んだ。そして、彼らにハンドスピーカーを渡し、洞内や壕内に潜む人々に向かって、安全を保障すから外に出てくるようにと呼びかけさせた。この説得工作によって命を救われた住民もそれなりの数にはのぼったが、残念なことに、期待されたほどの効果はあがらなかった。米軍の説得に応じることはスパイ行為や裏切り行為だとみなされ、背後から銃弾が飛ぶヒステリックな状況のなかでは、救命のために尽くされたあらゆる努力は無為に等しいものとなったのだった。沖縄女子師範の若い学生からなるひめゆり部隊の悲劇は、その象徴ともいうべき出来事だった。
 バックナー中将は、六月十日付けで守備軍司令官牛島満中将宛に降伏勧告状を送っていた。「閣下の率いる軍隊は勇敢に戦い善戦しました。日本軍歩兵の戦略は、閣下の敵である米軍からも等しく尊敬されるところであります」と述べ、守備軍が降伏することを丁重に勧告したこの書状は、どういう経緯のゆえかは不明だが、牛島司令官の手には届かなかったという。三度目の降伏勧告状が六月十七日になってやっと牛島司令官の手に届いたが、彼はそれを笑殺するに終わったと伝えられている。
 牛島司令官自決の五日ほど前のこの時点で沖縄戦が終結していれば、戦死者数も五万人は少なくてすんだろうという見方もあるようだ。しかし、すでに守備軍の指揮系統や通信網が寸断崩壊し、各残存部隊の将兵も一般住民も極度のヒステリー状態の中で自己の判断に基づいて戦闘行動を続けなければならなかったことを思うと、結果はほとんど変わらなかっただろうと推察される。牛島司令官自決後も多くの将兵や住民が二、三ヶ月も死線をさ迷ったという事実も、そのことを裏付けていると言ってよい。要するに、すべては後の祭だったのだ。
 沖縄守備軍首脳が再三にわたる米軍の降伏勧告を無視し続けたにもかかわらず、米軍は大量の降伏勧告ビラをまき、一定時刻がくると砲撃を中断して一般将兵や動員住民に投降を呼びかけた。米軍の記録によると、六月十八日頃には投降者が五十人ほどになり、翌十九日になると自発的に投降する兵士の数は四百人に及んだという。全体からすればわずかな割合ではあったが、米軍の努力はまったく無駄だったわけではなかったようである。
 それにしても人間の運命というものは皮肉なものである。牛島守備軍司令官に降伏勧告状を送った米軍司令官バックナー中将は、六月十八日の午後一時頃、部下の最後の進撃状況を視察するため、第二海兵師団第八連隊の前線監視所に出向いた。この視察に出向くに先立って、彼は第六海兵師団第二十二連隊長ハロルド・H・ロバーツ大佐から、日本軍陣地からかなりの流弾が飛来するので前線の視察は見合すようにとの警告を受けていた。しかし、彼はその警告を押し切り、部下の激励をかねて前線に立った。
 そして、その直後、守備軍側の狙撃兵の放った一発の銃弾がバックナー司令官の胸に命中、彼はその場で落命したのだった。しかも、バックナー中将に警告を発したロバーツ大佐のほうもそのおよそ一時間後に狙撃されて死亡するという二重の不運に襲われた。敗軍の将牛島司令官の自決死よりも早くバックナー米軍沖縄方面総司令官が死亡したという事実は、単なる運命の皮肉という問題を超えて、当時の日米両国の軍隊のもつ構造的な違いというものを強く感じさせてくれる。
 
 摩文仁ノ丘大駐車場左手の沖縄平和記念堂には、沖縄の生んだ芸術家山田真山父子が二十一年の歳月をかけて完成した平和記念像がおさめられていた。大量の漆を捏ねてはりつける堆錦(ついきん)という沖縄独自の工法で造られたこの記念像は、高さ十六メートル、幅八メートルもあり、製作に費やされた漆の総量は三十五トンにも及んだという。山田真山は自費を投入して像の制作に取りかかったが、途中で費用が足りなくなり、国の補助を仰がなければならなくなった。
 ところが、はじめ製作を意図した仏像の観音菩薩像のままでは特定宗教の象徴物への国費の投入を禁じる法律に触れるため、補助金を交付してもらうのは困難だということが判明した。そこで、急遽、台座の蓮の花を別の花にかえ、製作中の像が観音菩薩像ではなく、あくまで平和記念像であるということにし、補助金をもらうことができたというエピソードも残っている。父の山田真山は像が完成するのを目にすることなく他界したという。
 沖縄平和記念堂から摩文仁ノ丘の頂へと向かう途中には広々とした平和記念公園があって、その左手の一角に平和記念資料館が建っていた。この資料館には沖縄戦の各激戦地から集められた様々な兵器や兵士の所持品二千点以上が展示されていた。容赦ない砲火のもとで戦場の屍と化した物言わぬ主たちにかわって、それら展示品の一つひとつは、戦争の悲惨さと酷さを切々と訴えかけているかのようだった。見る人それぞれの感じ方にもよるのであろうが、私には、古びた銃砲から鉄兜、飯盒、各種手記類にいたるまでの品々がそれぞれにある種の怨念を発しているようにさえ思われた。
 平和記念資料館から少し行ったところにある平和広場の手前には島守の塔が建っていた。この慰霊塔は当時の沖縄県知事島田叡ら沖縄県庁職員三五一名の霊を合祀したものである。昭和二十年一月、爪と髪の毛を家族に残して戦地沖縄に知事として赴任した島田は、食料の確保と島民の安全のために奔走した。最後は守備軍と行動を共にしたが、六月十八日を境に彼は消息を絶ったという。摩文仁ノ丘のどこかで倒れたものと思われる。
 平和広場一帯には、沖縄戦の戦死者の名前を刻んだ慰霊碑がずらりと立ち並んでいた。この戦場で戦死した兵士の出身地は、日本の全都道府県にわたっており、慰霊碑に刻まれた戦没者名は出身地ごとに整理配列されていた。慰霊碑に日本兵の名前ばかりでなく、戦死した米軍兵士の名前も刻まれているのはとても印象的だった。
 平和広場の慰霊碑群の間を抜けて斜面を登りつめると、海抜八十九メートルの摩文仁ノ丘の頂上に出た。守備軍最後の司令部が置かれていた洞窟の真上にあるこの沖縄戦終結の地には黎明の塔が建っていた。激戦の跡とは信じられないほどに静まりかえた丘の上からは、沖縄南部を一望することができた。他に人影のないこの丘の頂きに一人佇み、最後の戦闘の状況を想像しながら海と夕空を眺めやっているうちに、どうやら私の身体はある種の霊気に包まれてしまったようだった。ぞくりとした感覚をともなうその不思議な気配に導かれるままに、私は丘の南側断崖を縫って海岸に続く急な細道を下りはじめた。鬱蒼とした亜熱帯樹林に覆われるその断崖のなかほどには、牛島満司令官と長勇参謀総長が自決した洞窟がいまもそのまま残っていて、いかにも暗く淋しい感じの小道はその洞窟のほうへと続いているのだった。

「マセマティック放浪記」
1999年7月28日

ある沖縄の想い出(12)
物言わぬ無数の魂に捧ぐ  

 「いくらその場の雰囲気に誘われてとはいっても、夕刻に一人でそんなところを訪ねるなんて物好きな!」と言われれば、たしかにそうかもしれない。だが、生来、私は野次馬根性の塊みたいな人間だし、子供の頃から人が嫌がるようなところを夜遅く歩くのも平気だった。それに、夕刻とはいってもまだあたりはかなり明るかった。だから、沖縄守備軍最後の司令部が置かれ、牛島司令官と長参謀総長が自決したというその洞窟をこの目で見てみたいという意識が潜在的に働いていたとしてもおかしくはない。
 問題の洞窟は、摩文仁ノ丘の頂と崖下の海岸とのちょうど中間のところにあった。ぽっかりと開いた大きな洞口付近には、牛島満司令官と長勇参謀総長が昭和二十年六月二十三日未明にこの場所で自決したことを述べた一文と、牛島中将の辞世の句とを記した碑が立っていた。「陸軍大将牛島満」と表記されているところをみると、死後に「大将」への昇格がなされたのだろう。司令官や参謀総長は自決後も辞世の句などの書かれた碑などを立てて霊を弔ってもらい、残された遺族への年金交付額などにも関係する階級特進の配慮がなされたからよいようなものの、なんの見返りもないままに戦場の露と消え、遺骨さえも行方のわからなくなった無名戦士や一般島民の霊などは永遠に浮かばれないだろう。
 洞内の入り口に近い部分の壁面や床面のあちこちが焼け黒ずんで炭化したような感じになっているのは、最後の戦闘の際に米軍から火焔放射器や爆雷による攻撃を受けた名なのかもしれない。暗い洞穴の奥にも入ってみたが、一見したところではそんなに奥行きのある感じではなかった。もっとも、洞口一帯は米軍の猛烈な爆撃によって崩壊変形したというから、当時はもっと深い洞になっていたのかもしれないし、洞内の闇に邪魔されなければ、かなり深くまで坑道が続いているのを確認できたのかもしれない。
 目が徐々に洞内の暗さになれてくるにつれて、ぼんやりとではあるが洞窟壁面や床面の様子がわかるようにはなってきた。あちこちに白っぽい岩塊のかけらのようなものが見えるのは、隆起珊瑚礁の一部がそのまま残ったものか、さもなければそれらが石灰岩化したものであろうと推測された。場所が場所なだけに、まるで洞内のあちこちに人骨の断片が散らばっているかのような錯覚にとらわれたほどだった。
 米軍が摩文仁ノ丘の頂へと進出し、守備軍司令部のあるこの洞窟へと迫ってくる段階になると、守備兵が洞窟近くの水場まで炊事に行くだけでも、五人中二人は銃撃を受けて死亡する状況になったという。炊事当番の兵士たちは、それでも何組かに分かれて命がけの炊事に出かけたが、それはまるで、ロシアンルーレット、すなわち、リボルバー銃による死のルーレットそのままの行為であった。もっとも、爆雷を抱えて敵陣へ突入させられた多数の学徒動員兵や下級兵士に較べれば彼らのほうがまだしもましだったかもしれない。肉弾特攻兵や特別斬り込み隊員は、「死のルーレットの恩恵」にすら浴することが許されなかったからである。
 そんな切迫した状況のもとにあって、この洞窟内においては、八原高級参謀と砂野砲兵隊高級部員の間で、牛島司令官と長参謀総長の自決の段取りが話し合われていたようである。その結果、二人が洞窟内で自決すると、珊瑚岩が固くて地中に埋めることができないし、米軍にも発見されやすいうえ、腐爛した遺体が洞中に残るのは不様だから、摩文仁の断崖上で自決してもらい、遺骸はそのまま断崖直下の海中に投じて水葬にしたほうがよいということになったらしい。
 八原と砂野の両者は残存守備軍将兵を総動員して摩文仁岳山頂から麓にかけて布陣している米軍に一斉突撃を敢行させ、その間に牛島司令官と長参謀総長に丘の上で自決してもらうという筋書きを立てた。そして、六月二十二日夜半摩文仁ノ丘頂上を奪回、二十三日未明にそこで両将軍の自決が行われることになった。長さ三十センチ、幅十センチの二枚の板で作った二人の墓標も用意されたという。
 しかし、勝利を目前にした米軍の反撃は凄まじく、摩文仁岳山頂の奪回は失敗した。そのため、牛島、長の二人は、やむなくしてこの洞窟入口付近で相次いで自決した。六月二十三日午前四時三十分のことだったと伝えられているが、正確な自決の日時、場所、方法などについては様々な説があり、現在でも真相は明らかになっていない。現場にいたごく一部の者にしかわからない相当複雑な事情があったのではないかと推察される。
 一説によると、牛島満司令官は、自決の直前に「沖縄の人たちは私を恨みに思っているに違いない」と述べたというが、それが事実だとすれば、その言葉の背景にあった思いとは、いったいどんなものだったのだろう。その程度の申し開きで沖縄の人々の怨念が晴らされるものではいことは、牛島司令官自身がもっともよく自覚していたはずである。もしもそうでなかったとすれば、問題外と言うほかないが、ともかく、こうして悲惨を極めた沖縄戦は終結をみたのだった。
 司令部のあった洞窟を出た私は、下へと続く急な隘路をたどって海岸へと降りてみることにした。細い道の両側に広がる斜面の深い藪や亜熱帯ジャングルの土中にはいまだに数知れぬ遺骨の断片が埋もれていて、現在でも土を掘り返すとそれらの一部が見つかるという話は聞いていたが、なるほど思わせる雰囲気があたり一帯に漂っている感じだった。崖下の海岸は直径二〜三メートルほどの大石や大小の岩々の立ち並ぶ荒磯になっていて、南に開けた海上からは強風に煽られるようにして激しく波が打ち寄せていた。
 前方にはひときわ高く切り立つ断崖があって、その断崖に遮られるかたちで私の立つ荒磯は行き止まりになっていた。摩文仁ノ丘の南端にそびえる一連の断崖を、摩文仁沖一帯の海上に展開していた米艦の兵士たちは「自殺断崖」と呼んだという。米軍に追い詰められた多数の沖縄島民や敗残兵たちは、次々にこの摩文仁ノ丘の断崖上から海中や崖下の岩場に向かって身を投げた。目前に展開する理解を超えた凄惨な光景に、艦上の米兵たちは言葉を失い唯呆然とするばかりであったと伝えられている。
 私はごつごつした大小の岩を伝い歩いて断崖の真下まで近づいてみた。断崖の海に面した部分やその向こう側の様子がどうなっているかはわからなかったが、私の立つ側の足元は角張った大小の岩だらけであった。垂直にそびえる断崖上からこの岩場に向かって飛び降りたらひとたまりもなかったろう。昭和二十年六月二十日前後には、この一帯の岩々は一面朱に染まっていたに違いない。足下の巨岩群が重なってつくる暗く深い隙間の底には、いまもなお無数の遺骨が人知れず眠り埋もれているような気がしてなかった。
 遠い日の悲劇を偲びながら、頭上の断崖をじっと見上げていると、突然、私は、全身がある種の気配に包み込まれるような、異様きわまりない感覚に襲われた。身体の奥がぞくっと震え、鳥肌がたつような戦慄感とでも言い表わしたほうがよかったかもしれない。霊気を感じたという表現がもっとも相応しいのは、たぶん、こんな時だろう。私は、自分の心を落ち着けるために、子供の頃から諳(そら)んじている般若心経の一節を反射的に胸の奥で呟いた。
 子供の頃に般若心経を憶えたのは、たわいもないことがきっかけだった。ラフカディオ・ハーンの「耳無し芳一」を読んでいるうちに、その身体に書かれたお経の文字が般若心経のものだったということを知った。野次馬精神に誘われるままに、仏壇の前にあった経本の一つを持ち出して調べてみると、たまたまそれが読ガナのふられた般若心経だったのである。意味もわからぬままにその経文を暗記したことは言うまでもない。この経文のもつ深い意味を学んだのはずっとのちのことになるが、そんな般若心経に意外なところでお世話になったというわけだった。
 人間の心というものは厄介なものである。特殊な緊張状況や異様な雰囲気の中に置かれたりすると、五感が異常な興奮と混乱を来たし、その結果、平静を失った人の心は幻覚や幻聴の虜になる。ただ、たとえそれらが空なる存在であったとしても、当人にはまぎれもない実在に感じられるわけだから、話はけっして容易でない。
 どう見ても私は信心深い人間ではないが、この世の現象界を構成する五蘊(ごうん)、すなわち、色(物質及び肉体)、受(感覚や知覚)、想(各種概念とその構成体)、行(記憶や意志)、識(純粋な意識)の五つの存在からなる集合体はみな空であり、実体がないと説き、究極的にはその教義そのものも空であるとする般若心経の教えは好きである。裏を返せば、信心深い人間でないからこそ、般若心経の教えが性に合っているのかもしれない。それに般若心経は短くて覚えやすいのがなによりもよい。人の心に異常な興奮や妄想が生じたときには、この心経はトランキライザーとしての効き目をもつ。
 インド古来のそんな精神安定剤(?)のお蔭で再び冷静さを取り戻した私は、己の心が一瞬感じた幻を、気が向いたときなどに詠む我流の歌に托したあと、夕暮れの迫る摩文仁の断崖をあとにした。たぶん、この摩文仁ノ丘一帯で何かに憑かれたように死んでいった人々が見ていたものも、そして彼らが懸命に守ろうとしたものも、「国体」という仮面をかぶったある種の悪霊だったに違いないと思いつつ……。

 忍び寄る霊気に詠う心萎え震えて立てり摩文仁の崖に
 
 大駐車場に戻った私は、大急ぎで慰霊碑「ひめゆりの塔」の建つ地点へと車を走らせた。あたりは夕闇に包まれはじめていたので、ひめゆりの塔やひめゆり部隊の惨劇の場となった地下壕の周辺には人影は見あたらなかった。壕の中に立ち入ることはできなかったので、足元から三、四メートルの深さのところにある洞口を外から眺めおろしただけだったが、何度となく映画や小説の舞台にもなったところだけに、一人そこに立つ感慨はひとしおだった。
 沖縄戦における悲劇的な集団死は島内のいたるところで起こっており、数のうえだけのことならひめゆり部隊のそれは死者数全体のごく一部にすぎない。しかし、未来ある若い女子学生の悲壮な集団死であっただけに当時の社会に与えた衝撃は大きく、その悲劇はのちの世まで連綿と語り継がれるところとなった。
 従軍看護婦として陸軍病院の外科に配属された沖縄県立第一高女と沖縄女子師範の生徒たちは、ひめゆり部隊を構成し、五月下旬この摩文仁伊原の地下壕にやってきた。しかしながら、六月十八日までにこの壕の周辺は完全に米軍に制圧され、野戦病院は解散のやむなきに至った。ところが、不運にもその命令の伝達が十分に行なわれなかったために、壕内のひめゆり部隊看護婦たちは孤立したまま脱出不可能になったのだった。
 状況を察知した米軍は、攻撃を仕掛ける前に何度も洞外に出てくるよう説得工作を試みたが、その説得が功を奏することはついになかった。当時十四、五歳の純真無垢な少女たちは、捕虜になると米兵に暴行され殺されるという守備軍の宣伝を真にうけ、最後まで壕の奥に立てこもりつづけたからである。
 米軍によって最終的な攻撃が行われる直前に水汲みに壕外に出た三人と、米軍の攻撃後奇跡的に助かった二人の計五人をのぞく、女子学生一八七名と教師十三名が非業の死を遂げた。伝えられるところによると、女学生たちは白衣を制服に着替え、校歌を歌いながら死んでいったのだという。

 これまでと信じて散りし乙女らを同胞(とも)よ愚かと嗤(わら)いたもうな

 深まる夕闇のなかで遠い日の惨劇の有様を想像しながら、彼女たちの霊にそんなささやかな鎮魂歌を献げた私は、静かにその場を立ち去った。
 もうあたりは薄暗くなりかけていたが、ここまで来たついでなので、私は沖縄本島最南端の荒崎に近いところにある魂魄の塔を訪ねてみることにした。道が細く、かなりわかりにくいところではあったが、「魂魄の塔」のある場所には無事たどりつくことができた。その付近には魂魄の塔のほかに、北霊の塔、島根の塔、東京の塔などの慰霊碑も建てられていた。この一帯は摩文仁ノ丘と並んで沖縄戦最後の激戦地となったところである。戦後この地域に入植した島民たちは山野や畑地に散らばり放置されたままの遺骨を集めて合祀し、慰霊碑「魂魄の塔」を建てたのだった。集められた遺体の数は三万五千体にも及んだというから、いかに悲惨な戦いであったかが想像される。
 魂魄の塔の隣には「北霊の塔」が建っていた。沖縄戦における戦死者の出身地は日本の全都道府県に及んだが、そのうちでもっとも多数を占めたのは北海道の出身者たちであった。一万四千名を超えるそれらの戦没者の霊を弔うために、戦後まもなく北海道の遺族たちの手によってこの塔は建てられた。「島根の塔」や「東京の塔」も同様の背景をもつ慰霊碑である。
 宵闇の深まる喜屋武岬周辺を一通り巡り終えたあと、私は漁業で有名な糸満を抜けて首里のグランド・キャッスル・ホテルへと戻ることにした。糸満は良港に恵まれ、その地に住む人々の先祖たちは古来独特の漁法で生計を立ててきた。昔の糸満の漁夫たちは、サバニと呼ばれる長さ七〜八メートルの船に乗って東南アジアからインド洋にまで出かけたのだという。追いこみ漁や底曳き網、一本釣り、建て網など、糸満の漁夫たちの用いた様々な漁法は、日本国内の各地にも伝え広げられていった。糸満市内をゆっくりめぐり、南海交易や漁労関係の古い資料史跡に接したいという思いはあったが、糸満市街にさしかかったときにはすでに夜になっていたので、それだけは断念せざるを得なかった。

 翌日は沖縄を離れる日にあたっていたが、この日の午前中、私は那覇の少し南にある豊見城の旧海軍司令部壕をた訪ねてみた。那覇市街やその沖合いの海を見渡す高台にあるこの地下壕内には、旧日本海軍最後の司令部が置かれていた。摩文仁の守備軍司令部陥落に十日ほど先立つ、昭和二十年六月十三日までに、大田実少将率いる約四千名の将兵はこの壕内で戦死を遂げた。地下三十メートルのところに掘られた司令部壕は、全長千五百メートルに及ぶ大規模なもので、海軍司令室、作戦室、幕僚室、信号室、将校室などが往時のように復元されていた。ひんやりとした空気の漂う壕内の壁面には当時のツルハシや鍬の跡が生々しく残り、その痕跡を仲立ちにして、最期の瞬間を前にした将兵たちの低いざわめきがいまにも耳元に響いてきそうだった。
 旧海軍司令部のあった小禄半島には、約一万人の海軍部隊将兵が防衛要員として配されてはいたが、正規の海軍軍人はその三分の一程度に過ぎず、残りは現地召集の防衛隊員からなっていた。おまけに、正規軍人のうち地上戦の実地訓練を受けていたのはわずか三百名程度で、沖縄戦が始まるまで実戦経験は皆無だった。そのため、守備軍首脳は六月に入ってすぐに海軍部隊を南部へ後退させる予定でいたが、連絡の行き違いや両者の思惑の違いなどもあって、海軍部隊はそれより早い五月二十六日に砲台や機関銃座を爆破し南部へと撤退してしまった。
 それを知った守備軍首脳は、対応に苦慮したあと、結局、大田海軍司令官を含む海軍部隊に対して小禄の海軍陣地へと復帰するよう厳命した。すでに重火器類を破壊してしまっていたため、小禄へ戻った海軍部隊は使用不能の飛行機から機関銃だけを取り外し応戦するという苦肉の策をとったりもしたが、強力な火器で迫る米軍に抗することは土台無理な話だった。
 六月五日になって守備軍首脳は大田海軍司令官に南部への撤退を促すが、すでにその時には海軍部隊は米軍海兵師団によって完全に包囲され、脱出は不可能な状況になっていた。大田司令官は同日、守備軍司令官に電信を送り、「海軍部隊はすでに完全包囲され撤退は不可能なため、小禄地区にで最後まで戦う」と通告した。
 玉砕を覚悟した大田司令官は、翌日の晩、海軍次官宛に有名な訣別の電報を送った。「沖縄島ニ敵ガ攻略ヲ開始以来、陸海軍ハ防衛戦闘ニ専念シテ県民ニ関シテハホトンド顧ミル暇ナキナリ」という文に始まるその電文には、沖縄県民が戦火で家屋財産すべてを焼失したにもかかわらず、婦女子までが率先して守備軍に献身し、砲弾運搬作業のほか挺身斬り込み隊にまで参加を申し出る者もあったと書かれている。そして、電文の最後は「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結ばれていた。
 米軍の記録によると、陸上の戦闘に不慣れなうえに重火器も失った非力な部隊であったにもかかわらず、海軍部隊は米軍の集中砲火をものともせず、最後まで頑強に抵抗した。業を煮やした第六海兵師団のシェファード少将は、配下の将兵に六月十一日午前七時三十分を期して総攻撃をかけるように厳命、戦車部隊を先頭に立てて大攻勢に出た。
 その晩のこと、大田司令官は、摩文仁の牛島守備軍司令官に宛てて、「敵戦車群ハ、ワガ司令部洞窟を攻撃中ナリ。海軍根拠地隊ハ今十一日二三三〇玉砕ス。従前ノ交誼ヲ謝シ貴軍ノ健闘ヲ祈ル」と永訣の打電をした。実際にはそれから二十四時間ほどのちの六月十三日午前零時頃、大田少将以下の海軍部隊首脳は自刃して果てた。米第六海兵師団の兵士たちは、二日後の六月十五日、海軍司令部地下壕の通路の一隅で大田司令官と五人の参謀が座布団を敷いて自決しているのを発見した。いずれも喉を掻き切って、大の字になって死んでいたという。海軍部隊はこうしてほぼ全滅したが、米軍側もこの戦闘において千数百人に及ぶ死傷者をだし、その損害は甚大であったという。
 大田海軍司令官の最期はよく知られるところだが、勝ち目のない悲惨な戦闘を続けることの無意味さを悟っていた軍人も一部にはいたようである。もはや全軍玉砕が確実になった六月十五日の午後、第八十九歩兵連隊長金山均大佐は、連隊司令部に部下の将兵を集めた。そして、上級師団首脳は翌朝を期して総攻撃の敢行を命じるつもりだが、百人足らずの兵士しか残っていない自分の連隊が組織的な戦闘を遂行することは不可能だから命令には従えないと断じ、ガソリンをかけて連隊旗を焼き連隊を解散した。そのあと彼は、部下の将兵に対し、いたずらに死ぬことのないように命じ、本土に帰還したいものはそうしてよいと述べ、自らは割腹自殺を遂げたという。その介錯をした連隊副官の佐藤大尉もその直後に拳銃で自決した。
 最後まで無駄な戦いを続けることを命じたうえに、自らは生き残った上官もかなりの数いたという守備軍首脳部の有様に比べて、彼らの毅然たる姿はなんとも胸に迫るものがあると言わざるを得ない。
 
 複雑な思いにひたりながら旧海軍壕をあとにした私は、午後の羽田行きの飛行機に乗るため、レンタカーを返却し那覇空港へと向かうことにした。トヨタレンタカーの営業所に車を返却すると、営業所の人が車で空港まで運んでくれるという。運転手している人は違ったが、なんと私が乗せられた車は、沖縄到着の日に乗ったあのワゴン車と同じものだった。この車に乗ったことがきっかけとなって、私は初めに述べたような貴重な体験を積むことができた。またそのお蔭で、この時の沖縄の旅は私にとって生涯忘れがたいものとなった。車に向かってお礼を述べるのも変な話だったが、もし車に言葉がわかるなら、心からそうしたい気分だった。
 那覇空港で車を降りるとき、私は片手でそっとそのワゴンの車体を撫でた。かなり古びた車ではあったが、明るく輝く沖縄の午後の太陽の光のもとで、その白い車体は誇らしげに輝いているように見えた。
(沖縄の部 了)

「マセマティック放浪記」
1999年8月4日

純銀大杯版「藪の中」  

 芥川龍之介の作品の中に「藪の中」という短編がある。多襄丸という盗賊が、京の都から若狭へと向かう途中の若武者とその美貌の妻を襲う。盗賊の策略にはまり不意打ちを食らった若武者は杉の根元に縛りつけられ、その面前で女は犯される。そして、それからほどなく、若武者のほうは遺体となって発見される。やがて盗賊の多襄丸は捕らえられ、検非違使によって取り調べられることになるのだが、多襄丸と若武者の妻、さらに霊媒を通じて得られた若武者の霊による証言がそれぞれまるで違うのだ。
 多襄丸は自分が若武者を切り殺したと認め、女は自分が夫を刺し殺したと告白し、最後に呼び出された若武者の霊は己の手で自害して果てたと語って、結局、真相は藪の中に隠されてしまう。人間それぞれの心の闇とそれゆえの思惑が、どう見ても一つしかないはずの真実を霧の中に包み込み、結局誰にもほんとうのことが判らなくなってしまうというこの話は、なんとも寓意に満ちていて興味深い。
 抜群の語学力の持ち主だった芥川龍之介は、若い頃、ずいぶんと洋書を読み漁ったという。その彼がとりわけ愛好した海外作家の一人にアンブローズ・ビアスがいた。龍之介の作品はこのビアスにずいぶんと影響を受けているといわれている。ビアスは短編の神様といわれた米国人作家で、異界をテーマにした幻想的な作品を得意としたが、わが国では、むしろ、あの辛辣このうえない「悪魔の辞典」の筆者としてその名が高い。
 そのビアスの著作中に「The Moonlit Road」という作品がある。「霊界の月影」とでもそのタイトルを意訳したくなるような短編で、一人息子とその両親が登場する。ある日、美貌の母親が自宅で何者かに絞殺され、大学在学中の息子は急遽父親に呼び戻される。母親の死の状況についての息子と父親、そして、霊媒によって呼び出された母親の霊魂の証言が相互に食い違う。むろん、龍之介の「藪の中」とは設定も物語の展開も異なるが、その作品を書くにあたって、ビアスの短編が龍之介にある種のヒントを与えたことはほぼ間違いないだろう。私はその道の専門家ではないので偉そうなことは言えないが、このほかにも両者の連関性を感じさせる作品はいくつか存在する。  
 龍之介が日本の古典に題材を求め、それらをデフォルメし、独自の哲学的作品へと昇華させていったことは広く知られているところだから、彼がアンブローズ・ビアスの著作から受けた様々な啓示をもとに一部の作品を書いたとしてもべつだん不思議はないだろう。

 前置きが長くなってしまったが、べつにこの場をかりて芥川文学の話をしようと考えたわけではない。先日、朝日新聞インターネットキャスターの穴吹史士さんが、「純銀大杯の因縁」というタイトルで朝日社内テニス杯が制作されるまでの経緯を述べていた。その中に大銀杯制作の関係者として私の名前なども登場するのだが、私の知るのとはかなり異なる事実なども紹介されていたようなので、この際、その「藪の中」版を書いてみるのも面白いのではないかと思い立ったからである。このケースでは、「制作依頼人、元週刊朝日編集長穴吹史士の証言」、「制作者、本田成親の証言」、そして「制作指導者、故伊藤廣利芸大教授の証言」の三証言が問題となることは言うまでもない。

《制作依頼者、元週刊朝日編集長穴吹史士の証言》
 「霊感商法じゃないの?」と、その純銀の大杯については、いわれた。社内のテニス仲間数人が、毎週休日に会社の屋上で子供の遊びのようなゲームを楽しんでいたころのことである。「芸大の偉い先生が優勝カップを作ってくれるらしい。みんなで、お金を出し合おう」という話になった。
 きっかけは、いま「マセマティック放浪記」を書いている本田成親さんだった。本田さんは、東京芸術大学の学生に数学(必要あるのだろうか?)を教えていて、そこで鍛金の巨匠でもある伊藤廣利教授と昵懇になった。アトリエに通って、教授の仕事を見ているうち、自分も何か作ってみたくなり、銀の板の端くれをもらって、小さなさかづきをひねり出した。
 そしてその「作品」を、自分は下戸なのに酒席に持ってきては、みんなに自慢していた。「なかなかの腕前ですね。こんどテニスの優勝カップでも作ってもらいましょうかね」と、私は通りいっぺんのお世辞を述べておいた。だが、世故に全くたけていない本田さんに、お世辞をいうのが、そもそも誤りだった。
 次に本田さんから連絡があったときは、「例のもの、作ってます。こんどあなたも叩いてみませんか」という状況になっていた。製作にいたるまでには、もう少し複雑な事情もからんだが、要約すると、まあ以上のようになる。
 本田さんに声を掛けられて、一日、私は伊藤教授のアトリエへ出かけた。私の家からは、関東地方の対極にあるのではないかと思われるほど遠い、埼玉県・入間の奥。米軍将校の元官舎が教授の仕事場だった。鍛金というのは、金属の平らな板を槌で叩いて延ばしたり曲げたりする造形の手法である。
 金属というものは、叩けば延び、しかし延びるばかりで、絶対に縮まないということを実感的に知った。叩きすぎると、カーブがどんどん急になり、もう戻すことはできない。どうしても戻したければ、もういちど炉で溶かして、ただの平たい板にして、いちからやり直すほかない。私は申しわけ程度に叩いて、あとは本田さんが、伊藤教授の指導で、とんとん叩くのを、一日中見ていた。
 本田さんがひと夏とんとん叩いて完成したカップは、巨大なものだった。口径が40センチばかり。深さは15センチくらい。リボンを結ぶための環がついている。凝っているのは底部で、くるりとひねると、別の小さな杯になる仕掛け。純銀の原価だけで数万円、それに特注の桐の箱に入っていた。工賃はタダだとしても、諸経費を入れると10万円はくだらなさそうな……。
 テニスのメンバーも、これほど豪華なカップを想定していなかった。問題は財源である。数人で1万円ずつ出し合っても、少し不足する。ただちに純銀大杯シンジケートを組むことになった──「この純銀のカップは、芸大の偉い先生が制作に深く関わり(作ったとはいわない)、仮に値段をつけると、何百万円もする。それが1口1万円で、共同オーナーになれます」。ラケットを1回でも振ったことのありそうな人を次々勧誘、最終的には12人から出資を得た。
 ゲームの後、冷たいビールをカップになみなみと注ぎ、最初の一口を飲むのが、優勝者の特権である。熱伝導率が高いので、キーンと音が聞こえるほど銀が冷たくなり、とってもおいしい。次のゲームまで、カップを自宅に保管できるのも優勝者の特権だが、「でかすぎて、置き場に困ると、妻からしかられた」と特権を放棄する者もいた。
 問題は、忙しくてなかなかゲームに参加できず、カップの顔も見たことないという出資者がいたことである。「霊感商法うんぬん」の声が挙がったのも無理はない。底部組み込みの小杯の、外から見えないところではあるが、製作者として、本田さんと私の名が刻んであるのも疑惑を招いた。伊藤教授が気を利かせてくれたのだが、本田さんはともかく、私の場合、製作に携わったとは確かにいえなかった。
 出資者はその後、海外に赴任したり、一層の激務についたり、退職したりで四散し、屋上のゲームも開かれなくなった。「霊感商法」の噂も、幸い立ち切れとなった。カップはいま、この世で最も深い愛情を抱いている本田さんに預けたままになっている。ときどき親戚の結婚式などに持ち込んで、自慢しているようだ。
 伊藤廣利教授は、昨年暮れ、鍛金の仕事とは別の公務に多忙ななか、くも膜下出血で突然倒れ、亡くなられた。伊藤先生のお宅で、製作見物の合間にごちそうになった冷や麦の冷たさを思い出す。ご冥福をお祈りしたい。

《制作者、本田成親の証言》
 1993年のことだが、私は当時週刊朝日の編集長だった穴吹史士さんの依頼を受け、「怪奇十三面章」というタイトルの連載コラムを執筆していた。悪魔の辞典風、手紙文風、現代歌物語風、科学エッセイ風、動物記風、私小説……と毎回ごとに文体を変えるというなんともアクロバティックな趣向のコラムだったが、凝りすぎたせいもあって編集者も読者もついに目を回し、死刑台の階段数と同じ十三回目の三十一文字風(短歌風)をもって連載は終了となった。そして、その打ち上げ慰労会が築地の朝日新聞社近くのお店でひそやかに行われた。出席者は、編集長の穴吹史士さんと副編集長の山本朋史さんに私の総勢三人だった。
 下戸の身ゆえ、本来慰労されるべき自分のほうが慰労する側にまわる変則的な打ち上げ会になるだろうことは推測がついたので、私は二人を喜ばそうと思って制作したばかりの小さな純銀製オチョコを持参した。その燦然と輝く出来立ての銀盃は記念すべき私の初めての鍛金作品で、いまも手元に残っているが、実際にその盃にお酒を注いで飲んだのは、後にも先にも彼ら二人だけだった。
 芸術的才能などまるでない私がその小さな盃を作るに至った経緯には、いまでも折々非常勤講師として講義に出向き、足し算や引き算(?)などを教えている上野の芸大が関係している。昔出向いていた大学を去り、フリーのもの書きになって暮らしていたある日のこと、芸大大学院美術教育研究室から講義の依頼が舞い込んできた。芸術などにはおよそ無縁のこの身にいったいなんでと戸惑いはしたが、純粋数学そのものを講義するのではなく、数学や論理学、コンピュータサイエンス、物理学など、数理科学一般の根底にある考え方をなるべくわかりやすく講義してほしいというのが先方の意向だった。院生の芸術的発想や論理的視点の啓発、先々の美術教育などになんらかのかたちで役に立ちさえすれば、講義の内容は問わないということだったので、結局、集中講義を条件にその依頼を受諾した。
 昭和天皇の弟君、三笠宮親王なども客員教授として籍を置かれているその研究室に出向くことになった私は、数理科学の領域にとどまらず、身のほど知らずも承知のうえで、教育論、文学論、芸術論のジャンルにまで踏み込み、ここ十年余つたない講義を続けてきた。芸大生の名誉のために付け加えておくと、彼らにはけっして数学的才能がないわけではない。本質的、あるいは、潜在的能力という意味でなら、昔私が関わった大学の学生などよりも優れた人材がいるかもしれない。複雑なデザインや立体的造形表現に取り組む学生などは、無意識のうちに数学的思考を重ねているし、複雑な構造物の原理を直観的に見抜くには数学的才能が欠かせないからだ。
 ところで、そんな私の愚にもつかない無責任講義を院生にまじって毎回欠かさず聴講してくださる教授があった。それが同じ研究室の教授で鍛金界の大御所、伊藤廣利教授だったのである。夜遅くまで大学に残り、折々惜しげもなく自腹を切って多くの学生と心の底から交歓し、幾多の人材を世に送り出したこの教授は、金工作家としても日本で三指にはいる大家であったばかりでなく、教育者としても大変にすぐれた人物であった。
 そうこうするうちに、私は、埼玉県狭山市鵜の木にあった伊藤教授の工房見学に通うことになり、やがて教授に勧められて実際にに鍛金を教わることになった。絵画でも彫刻でも工芸でもそうだが、優れた作家の工房というものは様々な道具類が雑然と置かれていて、お世辞にも綺麗とは言い難い。しかし、工房は芸術家が全身全霊をかけ、汗みどろ血みどろになって苦悶苦闘する格闘技のリングのようなものだから、それは当然のことである。伊藤教授の工房が鬼気迫る様相をそなえていたことは言うまでもない。
 天皇即位の儀に用いられた御物などを含む数々の第一級芸術品の生み出された工房のど真ん中を占領し、工房主が長年愛用した工具をちゃっかり拝借したうえに、図々しくも鍛金界の大御所を小間使いのようにこき使いながら、手取り足取りしてもらって出来上がったのが問題の盃だったのだ。素材を純銀にしたのはそれが素人にも扱いやすいから、また、初作品を盃にしたのは、盃造りが鍛金の基本だからだった。多少は腕の上がった現在から考えると、なんとも心もとない作品だが、私にとってそれは想い出深い一品だった。
 さて、打ち上げ会の席上、その銀の盃で一杯やり終えた穴吹編集長は、急に思い立ったかのように、「これを拡大した形でも構いませんから、朝日新聞社内テニス杯用との大銀杯を造ってもらえませんかねえ?」とのたもうた。駆け出しの三文ライター、いや、百円ライター(?)にとって、一流週刊誌の編集長の声は「神の声」以外の何物でもない。しかも、その大銀杯にはある著名人の名前を冠したいとか、それなりにかかると思われる材料費の調達法については名案があるとか、工賃のほうは私に無料奉仕してほしいとか、はじめから話は相当に具体的だったのである。
 とんでもない打ち上げ会になったもんだと銀のオチョコを恨めしげに眺めながら帰宅した私は、とりあえず伊藤教授に電話して事の次第を打ち明けた。すると、教授は、多忙な身にもかかわらず、「私が手伝ってあげますから、技術修練のつもりでチャレンジしてみるとよいでしょう。素材はこちらで準備しますから、カップのおよそのデザインだけは考えてきてください」と、即座に救いの手を差し伸べてくれたのだった。私は、カップの底部の台をひねるとそれが取り外せ、外れた台座を裏返すと別の小銀杯(といっても普通の盃の数倍はある)に早変わりするという、かなり凝った斬新なデザインを考え出したうえで、狭山の工房を訪れた。幸い、伊藤教授からもそのデザインはなかなか面白いとお誉めの言葉を賜った。
 厚い純銀の延べ板から大きな円盤や短冊状の銀版を切り取り、それをバーナーで加熱しては各種工具を用いて徐々に叩きのばして狙いの形に近づけていくという、気の遠くなるような作業を私は一夏中続ける羽目になった。経済的にはなんの足しにもならない作業ゆえ、家族からは白い目で見られていたが、それ以上に大変だったのは、長期にわたって仕事場を占領されたうえに、このうえなく手のかかる「不肖の弟子」を抱えてしまった伊藤教授だったろう。芸大の学生相手なら怒鳴り飛ばせばすむところをじっと我慢し、自分の仕事はそちのけで指導しなければならなかったわけだから、そのストレスたるや想像に余りある。
 ある程度形が見えてきた段階で制作依頼者の穴吹さんを呼び、進展状況を見てもらおうということになった。駆け出しの社会部記者だった頃、給料のほとんどをつぎ込んで女流の能面師に弟子入りし、かなりの出来栄えの面を彫るまでに腕を上げた(と聞いているが、いまだ実物は見せてもらったことがない)穴吹さんなら、鍛金にも必ずや興味を示してくれるだろうと思ったからだった。工房に現れた穴吹さんは、想像以上に立派な大銀杯が出来あがりつつあるのを目にしてさすがに驚いたらしい。
 せっかくだからという訳で、穴吹さんにたしか二十槌か三十槌ほど裏杯の部分を叩いてもらった記憶はある。それ以上続けてもらうと、せっかくの苦労が水の泡になってしまいかねなかったので、そこまでで我慢してもらうことにした。
 現実には、大杯と小杯の接合部や特殊な形状の側環の制作、微妙かつ高度な技術を要する特殊な曲面部の打ち出しや最後の表面仕上げなど、どんなに懇切な指導をしてもらったところで、私の手には負えないところも多かった。そういったところをすべて伊藤教授に作ってもらったことは言うまでもない。だから、この大銀杯の制作貢献度を敢えて比率で表わすとすると、<伊藤廣利:本田成親:穴吹史士 = 50:49.99:0.01> くらいの割合になっている。実質的制作者は伊藤成親(?)という実在しない人物ということになるのだろうか……。ともかく、こうして、どこに出しても恥ずかしくない大純銀杯が誕生した。
 私は、「不肖の弟子」の自分と「不精の孫弟子(?)」の穴吹さんの名を外から見えない小杯の裏に製作者名として並べて彫ってほしいと伊藤教授にお願いした。鏨(たがね)を使って出来あがった銀杯に銘を彫りこむなどの芸当が我々にできるはずもなかったからだ。私と穴吹さんが各々の名前を紙に書いて渡すと、伊藤教授は見事な鏨さばきでその筆跡通りに銘を刻み込んでくださった。
 穴吹さんの要請もあって、完成当時この大銀杯には、ある人物の名を冠した○○杯という杯名を刻んだ銀板が貼ってあった。だが、いろいろと複雑な事情などがあって、その後、杯名銀板はきれいに剥がされ、いまではすっきりした元の形に戻っている。「これはなかなか立派な作品だから、どうでもよい人物の名を直接に彫り込んだりはしないほうがよい」との伊藤教授の忠告を穴吹さんに伝え、急遽銀板貼り付けに変更したのだが、いまとなってみると正解だったように思われてならない。
 この大純銀杯の材料費は、特製桐箱なども入れて十余万円にのぼった。当時の伊藤教授の話では、工賃は通常少なくても材料費の二〜三倍はするそうだから、どう安く見積もっても四、五十万円はする。実際には、構造的にもきわめて珍しく、しかも、その銘こそ刻まれてはいないものの伊藤教授の手が五割もはいった作品だから、とてもそんな値段ではすまないだろう。
 穴吹さんが書いているように、いまこの大銀杯は拙宅に一時保管されている。教え子の結婚式などのときに、なみなみと酒をついで新郎新婦の面前に飾られ、臨席者の目を驚かせたり楽しませたりしているが、本来の意図とは異なる目的に使われる銀杯のほうは、いささか面食らっているかもしれない。   
 このときの労働奉仕のお礼というわけでもないのだろうが、それからずっとのちになって、私は穴吹さんから手製の篆刻印象を二個頂戴した。穴吹さんは篆刻の特技をもっていて、常々交流のある人々に独特の味のある印象を彫って贈っている。現在私が愛用している「成親」という印章は、穴吹さんが大スランプで落ち込んでいたときに彫ったものなのだそうだが、何故かこれが当方のスランプ止めには抜群の効力を発揮するから驚きだ。もういっぽうのほうは、未公開のペンネーム用印章だが、こちらのほうもそろそろ活躍してもらうようにしなければと考えている。
 なんとも残念なことに、伊藤廣利芸大教授は昨年十二月、通勤途中の電車においてくも膜下出血で倒れ、そのまま意識を回復することもなく他界された。過度な公務によるストレスが原因とも推察されるだけに、私はいまも唯々心残りでならない。「大学を退官したら郷里の四国に戻ってアトリエを構え、心底楽しみながら自然体で素材と向き合い、よい作品を造りたい。その日をいまは大いに心待ちにしているんです」という言葉は、教授の偽らぬ心境であったに違いない。
 伊藤教授が急逝なさったとき、穴吹さんはたまたま大きな手術のために入院中だった。だから、私は穴吹さんには、退院が確定するまで伊藤教授の急な他界については一言も話さなかった。幸い、穴吹さんは元気で退院の運びとなったので、その時になってはじめて、伊藤教授の急逝を伝えたようなわけだった。
 たとえ作りたいと思っても、このような大銀杯を作ることはもう不可能になってしまった。いまでは貴重このうえない存在となったその大銀杯は、伊藤教授の魂を秘めて、無言のまま私の部屋の一隅で何時くるかわからない出番をじっと待っている。

《制作指導者、故伊藤廣利芸大教授の証言:霊媒は本田成親が代行》
 そうですねえ、本田さんが私の工房見学に現れたのはもう十年ほど前のことになりますかねえ。変に好奇心の強い人でしてね、要望を受けて工房見学に招いた私も、まさかあの人が実際に鍛金をやらせてくれと言い出すなんて思ってもいませんでした。あんなことになるくらいだったら、下手にあの人の講義を聴きにいくじゃなかったなあ。
 仕方がないから、一番やさしい小さな銀の盃を作らせることにしたんですが、高価な銀をこちらが無償で提供し、さんざん手を煩わされたうえに、子供の粘土細工のような出来そこないの代物が誕生したわけで、いやはや参ってしまいましたよ。そのままでは、あんまり不恰好なので、私が少し手直しをしてあげたんですがね。もっとも、本田さん本人は初めての体験で大いに悦に入っていましたから、その点はよかったと思っていますよ。
 でもあの銀の盃が打ち上げ会の席に登場したとは意外だったなあ。週刊朝日の穴吹さんもどういうつもりだったんですかね。まだ鍛金の「タ」の字も知らない本田さんの技術で大銀杯を作れなどと言い出すなんて……。いくらなんでも、本田さんだって相手の依頼が本気か冗談かくらいは区別がつくと思いますから、やはり、話ははじめから相当具体的だったんでしょう。本田さんがとても困っているようでしたから、ともかく手伝ってあげることにしましたよ。私もたまたま夏休みだったので、なんとか時間はとれたんです。
 こんな形の大銀杯を作りたいと本田さんが差し出した見取り図を見て、私は内心、こんなものどう逆立ちしたって自力で作れるわけないだろうと思いましたよ。でも、あの斬新なアイディアだけは正直面白いなと感じました。伝統工芸が専門の私ですが、型破りの新しい発想というものはそれなりに大好きなんですよ。
 大杯や小杯の受け皿の部分は本田さんが苦労して作りました。いくら銀が柔らかい素材だといっても、あのくらいの厚さになると切るのだって大変なんですし、まして、槌で叩いて徐々に曲面を作りだしていくなんてことは初心者にはけっして容易ではないんです。真夏なのに工房は冷房もきいていませんし、そのうえ火や劇薬類もずいぶんと使いますから、もう汗だくですね。大小の金槌や木槌を絶え間なく振るいつづけるだけでも、かねて使わないあちこちの筋肉を動かしますから、はじめのうち本田さんは身体のあちこちが痛かったんじゃないですか。その意味ではよく頑張りましたね。
 正直に言って難しいところがずいぶんとありました。私もかなり苦労したほどですからね。本田さんが工房を使っているときは、どうしても気が散って私のほうも仕事になりませんから、どうせなら全面的に銀杯作りに協力して、一刻も早く物を完成させたほうがよいかと考えるようになりました。本田さんのペースに任せ、技術の向上を待っていたら、二年も三年もかかってしまったかもしれません。
 ある人物の名前を冠した文字を銀杯の表側に直接に彫り込みたいという穴吹さんの要望を伝え聞いたとき、そんなことをしたらせっかくの作品の価値が下がるから、別の方法を考えたほうがよいと思いました。完成間際になると、私のほうにもそれなりの思い入れが生じてきていましたからね。結局、細長い純銀板にその人物直筆の文字を刻み、銀板の表面をいぶして、金属接着剤で本体の表面に貼りつけました。のちに、それを剥がすように依頼があったのでそうしたんですが、結果的にはよかったですね。
 小杯と大杯裏の本田さんと穴吹さんの銘ですか、まあ、あれはあれでお愛嬌として結構なことじぁありませんか。本田さんがかなりの部分を作ったのは確かだし、穴吹さんはちょっと叩いただけだけど、最初に話を持ち出したのは彼だったわけで、どこまで本気だったかはともかく、その吹っかけがなければあの大銀杯は生まれなかったわけですから。半分ほどは私が手伝ったんですが、さすがに私の銘は入れられませんでした。私はプロですから、いい加減なことはできません。
 あの大銀杯、いったいいくらくらいの価値があるかですって?……難しい質問ですねえ。私の目からみれば正直なところいろいろまずいところもありますが、構造とデザイン的にはきわめて珍しいものなので、全体的に評価すればそんなに悪いものではありません。もし売りに出すとすれば、買い手側の評価の問題もありますし、今後様々な状況が重なってプレミアがつくことも考えられますから、なんとも言えませんが、少なくとも、四十万や五十万円どまりということはないんじゃないでしょうか。ただ、制作者のお二人がお二人ですから、あの銘が逆効果となって、一挙に材料費以下の値段に暴落してしまう可能性はありますね。でも、私と本田さんが工賃を無料奉仕したわけだから、その意味では素材費だけですんだ穴吹さんがたは安い買い物をしたとは言えますね。
 なにか言い残すことがあるかですって?……そろそろお盆だから一度くらいは墓参りに来るように本田さんと穴吹さんに伝えておいてください。あの大銀杯に上等のお酒を一本全部注いで、墓碑の上からかけてもらえると嬉しいんですがねえ。あっ、そろそろ霊界の工房に帰らなければならない時間です。ではこれで失礼しますね。

「マセマティック放浪記」
1999年8月11日

納涼怪異現象レポート 

 物事はなるべく冷静に見つめるように心がけているつもりだが、これまでに何度か不可思議な体験をしたことはある。記憶を辿りながら、二、三の体験談を紹介してみたい。
小学五、六年生の頃のこと、雑誌かなにかで、寺田寅彦という物理学者がネットをもって人魂を追いかけ、科学的にそのメカニズムの研究をしようとしたという話を読んだ。そしてその話の内容に刺激され、深夜、墓地周辺などをうろついて人魂のたぐいを捜し歩いたことがあった。その頃は九州の離島に住んでいたが、とても変な少年で、お墓や社寺などの境内を深夜独りで歩いたりしても怖いと感じることはほとんどなかった。
 また、南国の島というの風土柄、夜遅く外をほっつき歩いてもとくに誰からもとがめられることがなかったのも、好奇心旺盛な少年にとっては好都合だった。それに、当時の田舎は闇夜の晩などほんとうに真っ暗で、明りがなければ歩けない状態だったから、人工のものではない発光体を追っかけるには条件的に絶好だったといってよい。
 実際のところは、人魂のたぐいはそうそう容易に見られるようなものではない。そういったものをほんとうに目撃するには、それなりの努力と忍耐が必要である。火の玉、すなわち火球については、オレンジ色のものと黄色のものをそれぞれ一度ずつ見たことがあるが、冷静に観察すると、なかなかに綺麗なものである。残念なことに、どちらも相当に大きな球状をしていたうえに、高い松の樹上で半ば静止していたこともあって、とても昆虫採集用ネットで捕獲できるような状況ではなかった。
 私の知る範囲での数々の目撃談を総合すると、どうやら、火球は樹木の枝などに静止した状態で光っているものと、浮遊しているものとに大別できるようである。無風の晩よりは、むしろ風の強い晴れた日の夜に出現する傾向もあるようだ。目撃者が火球に襲われたり、何らかの危害を被ったという話は聞いたことがない。その意味では、火球はなかなかに紳士的なようである。少なくとも人畜無害であることは間違いない。また、お墓との相関性はあまりないように思われる。個人的な体験からすると、最近一部の物理学者たちによって唱えられているプラズマ説や発光バクテリア説にはうなずけるものがある。
 いっぽう、鬼火ないしは人魂と呼ばれるものは、降っていた雨が急に上がって天気が回復し、気温が高めになった晩などに土葬の墓地で見られることが多いので、有機質や土中の各種のバクテリアがかなり関わりをもっているのかも知れない。よく言われる人の遺体や動物の死体の燐が燃えるのだという説は、もっともらしいが、ひとつだけ大きな問題点がある。自然発火するのは有毒な黄燐だが、動物の体内にあるのは無毒な赤燐である。そして、赤燐は簡単には黄燐に変化しない。もし、死体の燐が燃えるという俗説に説得力をもたせるには、土中で赤燐が黄燐に変化するプロセスを明快に説明してやらねばならない。様々な酵素やバクテリア類の働きでそのようなことが起こる可能性がないとはいえないが、そのあたりのことは専門家にお伺いをたてるしかない。面白いことに、ほどよく距離をおいて眺めたほうが、それらしきものの存在を確認しやすい。至近距離まで近づくと、はっきりと見えなくなってしまうことが多い。ただ、いずれにしろ、それらが一種の科学的現象であることだけは間違いないように思われる。

 次は大学生のときの体験談である。その頃、東京都江東区の木場の運河沿いの製鉄関係の会社の工場で夜警のアルバイトをしていたことがあった。最後の社員が退社すると、夜の工場長なんぞと自称してささやかな自己満足にひたり、相棒と共にタイムレコーダーを操作して翌朝九時くらいまでの分の巡回記録をあらかじめ捏造し、あとは仮眠室で横になって夢の世界で夜警をやるなんてこともしばしばだった。当時の旧式のタイムレコーダーは、ちょっとした機械的知識さえあれば時刻の調整を思いのままにおこなうことが可能だったからだ。
 大型の鋼材を用途に応じて切断するのを主な業務としていたこの工場には、重く大きな鉄材や巨大な切断機がいたるところに配置されていた。こんなところに盗みにはいろうとする泥棒は大型トラックかなんかに乗って重装備で押し込んでくるしかないわけで、そんな連中をまともに相手にしていたら幾つ命があっても足りるはずがない。万一、そんな事態になったりしたら、当然、トンズラするのが一番利口な身の処し方だと思われたから、「寝警」は論理的には正しい選択ではあった。
 金庫もあるにはあったけれど、一見しただけでたいした現金なんぞはいってないのは明かだったから、どんなにドジな泥チャンだってそんなところはまず狙いはしなかったろう。そもそも、その金庫に大金なんぞが納まっていたとすれば、悪知恵にたけた貧乏学生のアルバイト夜警などに管理を任せたりはしなかったろう。ついでに述べておくと、この時代の「寝警」の仲間がいまでは政府の高官や大企業の幹部になったりしているから、日本の社会が良くなる見込みはほとんどない。
 さて、そんなことを続けていたある晩のこと、居残っていた一人の工員が、ひどく酔っていたことなどもあって、急な鉄製の階段を踏み外し、異様な物音とともに頭から転落、頚を折り程なく死亡するという悲惨な事故が発生した。何事かと驚いて現場に直行した我々は、ただならぬ事態と知ってすぐに救急車を呼んだが既に手遅れだった。
 それから二・三日後の真夜中のこと、その階段の近くにある仮眠室のベッドで仮眠中に妙な気配を感じてふと目を覚ますと、なんと目の前の空中に亡くなったその人の顔が浮かんで見えるではないか! これは夢だ、夢に違いないと自らに言い聞かせようとしたが、自分の意識は冴えわたっていて、どうみても夢という感じではない。できるかぎり心を冷静にして、これは幻覚なんだ、先日のショックが大きかったので一種の心理的幻影を見ているんだ、落ちつけ落ちつけと自分自身に呟きかけた。そして、子供の頃面白半分でまる暗記した例の般若心経を心中で唱えて気持ちをしずめていると、しばらくして宙に浮かんだその顔は霧のように消え去っていった。幸いそのあとは特に何も起こらなかった。
 私自身は、いまでも、あれは心因性の幻覚だったに相違ないと考えているが、それを幽霊だと解してしまえば、間違いなく幽霊は存在するということにもなろう。このような現象をどのように解釈するかについては、人それぞれの立場で意見が異なるのであろうが、たとえ幻覚であっても、あそこまではっきりと怪異な影をまのあたりにすると、幽霊の存在を固く信じる人がでてきても不思議ではないと思われてくる。

 いまひとつ、こんな体験をしたこともあった。若い頃、私はよく独りで夜間登山などを楽しんでいた。ある晩秋の夜十一時過ぎ頃、埼玉県秩父の三峰口に最終電車で到着し、そのあとすぐ懐中電灯を片手に雲取山への登山道を辿りはじめたことがあった。その晩は三峰口からのコースをとって雲取山へと向かう登山者はほとんどなく、一組のアベックと五十過ぎの中年の男性と私の合計四人だけだった。歩き始めて程なく、若いアベックの男女はしばらく仮眠してから登るということで近くの小屋に入り、また、中年の男性のほうは大変ゆっくりしたペースだったので、結局、私だけが独りで先に夜道を急ぐことになった。
 無人の白石小屋を過ぎ、標高千三・四百メートルの地点に差し掛かったときである。そこは、左側が急斜面、右側が深い樹林帯になっているところなのだが、不意にどこからともなく笑いをふくんだ若い女の甲高い声が断続的に聞こえて来た。誰か近くにいるのだろうかと思い、懐中電灯であたりを照らして見たが、人影らしいものはどこにも見あたらない。少し歩速をあげてみたが、前方に登山者がいる様子もなかったし、地形上その周辺はテントを張って野営できるような場所でもなかった。登山歴も長く足には相当に自信があったので、あとから女性の登山者が追いついてきたなどということはとても考えられなかったが、一応足を止めて待ってもみた。だが、やはり誰もやってくる気配はなかった。
 そうしている間にも、その得体の知れぬ声だけは聞こえてきた。風の音や動物のたてる物音とは明らかに違っている。懸命に耳を澄ましてみるけれども、何を言ってるのかはわからないし、どちらから聞こえてくるのかもいまひとつはっきりしない。幻聴ということもあるかと思い、何度も何度も確かめてみるのだが、やはり人の声のように思われた。そこで、あらためて足を速め、半ば駆け登るようにして道を急いでみたのだがやはり誰も見あたらなかった。雲取小屋に着いてすぐ、小屋番の人に先に登ってきた人があったかどうか尋ねてもみたが、誰もいないとのことだった。結局、原因はわからず仕舞いだったが、それは実に奇妙な体験であった。
 山での不思議な体験といえば、ほかにこんなこともあった。ある風の強い晴れた晩のこと、木曽の御岳山に登っている最中に、地獄谷の一帯が青白い燐光を発して不気味に輝いているのを見たことがある。これなどはある種の科学的現象に違いないとは思うのだが、その現象に説明をつけるとなると難しい。
 よく放浪の旅などにでかけ、変な時刻に思わぬ場所を通ったりしたとき、たまにだが、一種の霊気とでも呼んでいいようなものに遭遇することがある。そんなときには例の般若心経などを唱えて心を落ちつけたりもするわけだが、だからといって意識的に幽霊の名所と噂されるようなところを訪ねても、それらしきものに対面できることは滅多にない。夜遅く月明かりを頼りに下北半島の恐山一帯などを歩いてみたりしたものだが、霊気といったようなものを感じることはとくになかったように記憶している。

 怖いという意味でなら下手なお化けなどよりも人間の不可解な行動のほうがはるかに怖い。たまたま旅程が大幅に狂い、真夜中に四国二十四番札所、最御崎寺を訪ねることになってしまったときの体験は、いまでも忘れることができない。
 もうずいぶん昔の話になるが、その晩、最御崎寺(ほつみさきじ)の裏手にある駐車場に着いたのは、午前一時過ぎだった。いわゆる丑の刻のことである。車を駐めてさりげなくあたりの様子を窺ってみたが、さすがに人影らしいものはまったく見あたらなかった。
 望月を少し過ぎたばかりの月の夜のことだったが、南から北へと激しく動く風に煽られながら、夜空を急ぐ群雲によって、月影はほとんど覆い隠されていた。ただ、時折、雲の裂け目からこぼれ落ちる月の光には、妖しいまでに冴えた輝きが秘められていた。突然あたりが異様に明るなったかと思うと、すぐにまた闇が戻るという、そのいささか凄味を帯びた情景は、あとになって考えてみるとなんとも暗示的なものではあった。
 五月も下旬にかかろうかという時節にくわえて、南国土佐のことでもあったから、夜風はむしろ心地よいくらいで、寒いという感じはまったくなかった。私の耳元を吹き抜けていく風に乗ってかすかな潮の香りと潮鳴りの響きとが伝わってくるのは、この最御崎寺が室戸岬のほぼ先端の高台に位置しているからだった。そもそも、「最御崎寺」とは、「岬の最先端にあるお寺」という意味なのである。
 駐車場で一休みしたあと、私は最御崎寺の境内を散策してみることにした。子どもの頃からの習性で深夜に独り淋しい場所を歩きまわることに慣れている私には、恐怖感はまったくなかった。
 最御崎寺の塀ぞいの道を山門側に向かって私がゆっくりと歩き始めたとくき、月影はちょうど大きく厚い黒雲の陰に隠れてしまっていた。夜間のことゆえ十分には確認できなかったけれども、一帯はアコウやタブ、蔦類などの黒々とした亜熱帯性樹林で覆われており、さすが黒潮洗う四国南端の岬だけのことあるという感じだった。
 その直後のこと、突如、サーッと辺り一帯が明るくなったかと思うと、青白い月光が、左手前方に延びるのお寺の塀を不気味に照らしだした。そのほうに視線を送った次の瞬間、私は柄にもなく思わず身をこわばらせた。前方の塀ぞいに、髪を垂らした若い女の影のようなものがくっきりと浮かんで見えたからである。いささかたじろぎながらも、これは幻覚なんだ、幻覚なんだと、私は自らに言い聞かせた。夜間、淋しいところを一人で旅しているときなどにこの種の経験を何度かしたことのあるおかげで、ほとんどの場合は自分の錯覚や幻覚であることをわきまえていたからだった。
 その黒い影だけはどう見てもうつむいた若い女性の姿に見えたのだが、心を落ち着け、すぐそばまで近づいてみると、やっぱりそれは月の光のいたずらであることが判明した。樹木の枝葉の微妙な陰影と青白い月光が織りなす偶然の幻影だったのだ。その幻影を生み出すもととなった樹木の前を通り抜けかかったときには、月影は再び雲に包まれ、辺りには闇が戻ったが、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざを地でいくような事のなりゆきに、かえって意を強くした私は、手にした懐中電灯の光を誇らしげに揺らしながら最御崎寺の山門のほうへと急いだのだった。
 私が最御崎寺の山門に立ったとき、時計の針はちょうど午前一時半を指すところだった。その山門は、門とはいってもべつに扉があるわけでもなく、いつでも自由に出入りできるようになっていた。お寺の周りは深い亜熱帯種の樹林で囲まれているうえに、月の光はまた厚い雲に閉ざされていたから、境内の闇は相当に深かった。境内を取り巻く樹木にさえぎられてか、風の動きはまったく感じられず、少々大袈裟な言い方をすれば、暗く淀んだ大気そのものが、じっと息をひそめて私の一挙一動を窺っているかのようだった。
 緊張をほぐすために大きく息を吐きながら、お堂の前へと続く参道を七・八歩踏み進んだときのことである。前方の闇の中で、何か赤い小さなものがちらちらと揺れて動いているのに気づいた私は、反射的にその場に立ち止まった。そして、不意に目に飛び込んできたその奇妙なものの正体を見極めようと、全神経を研ぎ澄まして前方をじっと睨みすえた。
 私の背筋を鋭く冷たい氷の針が突き抜けたのはその次の瞬間だった。首筋から爪先にかけて身震いするような戦慄が走ったかと思うと、私の身体の全神経は瞬時にして凍りついてしまった。それは、私が生まれて初めて味わう、本物の恐怖といってもよかった。文字通り全身が硬直し、いつもなら自らを冷静になだめ励ます言葉も心の奥で凍りついてしまう有様だった。
 闇の奥に赤く揺れ浮かんで見えたものは、お堂のすぐ手前の石段の上あたりで不気味に揺らめく一本の蝋燭の炎だったのだ。そんな時刻に、いったい誰が何のために置いていったものなのだろう。むろん、あたりに人影はまったく見あたらなかった。でも、誰かが、何かしらの目的で少し前までそこにいて、その不自然な場所に一本の蝋燭を灯し置いたことだけはまぎれもない事実だった。私は、自分が何か得体の知れないものにじっと見つめられているような気がしてならなかった。私が近づく気配を察した誰かが、境内の闇の中に身を隠し、密かにこちらの様子を窺っていることだって十分にある得ることだった。
 このときばかりは、さすがに、その場からすぐさま逃げだしたい気分だった。ただ、幸いというか、それでも、しばらくすると、わずかながらも正常な思考が働きはじめてきたので、私は大きく呼吸を整えながら、極力、自分の心が冷静になるようにと努めてみた。真似事程度の武術の心得があったのも、いざというときの備えとして多少は役立った。
 その謎めいた蝋燭の炎はかすかに揺れながらも依然として不気味に燃え続けていた。どうみても、それは幻覚などではなかった。毒を食らわば皿までもというか、どうせなら、こちらからあの蝋燭のそばまで近づいてみようかと開き直った私は、眼前の蝋燭の炎に惹き寄せられるように、じわじわとお堂の前の石段へと近づいていった。
 その蝋燭は石段のなかほどに立てられていた。少々の風には耐えられるようにとの意図からだろうか、それはかなり太めの蝋燭で、その燃え具合いから察すると、もう一時間近くは燃え続けていたのではなかろうかと思われた。なんとも不思議な話だが、私が境内にやってくる前に、誰かが、何かの目的でその蝋燭を立てたことだけは疑う余地のないことだった。
 もしかしたら、闇の奥から、二つの目が私の一挙一動をじっと見つめ続けていたのかもしれないが、幸いそれ以上は何も変わったことは起こらなかった。境内から引き揚げるタイミングを測っていた私は、再び月影が雲間に現れ、周辺が明るくなったのを見届けると、なおも燃え続ける蝋燭をあとに残したまま最御崎寺の境内を立ち去った。
 車に戻ったあとも蝋燭のことは気になったが、その奇妙な行為の主の正体も、その人物が意図するところも最後までわからなかった。当事者にすれば、そんな時刻に私のような人間が最御崎寺を訪れるなんて予想だにしていなかったろうし、たとえあの場のどこかに身を潜めていたとしても、こちらに危害を加えるつもりなど毛頭なかったのだろう。しかし、なんらかの怨念や執念に憑かれた人間の行為ほど不可解で怖いものはないと、その夜のことを振り返りながら、つくづく思う次第である。
 もちろん、見方によっては、誰かの手の込んだ悪戯だったということもまったく考えられなくはない話ではあるのだけれども……。

「マセマティック放浪記」
1999年8月18日

故事「蛍雪の功」の真偽のほどは?  

 私がまだ南の島の小学校に通っていた頃の話である。小柄だが見るからに精悍そうな担任教師は、ここぞとばかりに、いちだんと語気を強めながら、その日の授業を締め括った。
 「二宮金次郎は、貧乏でランプの油をば買いがならんかった。そいやっで、晩にゃ、蛍の光や雪明りばつこうて一生懸命勉強ばして偉うなったとや。蛍雪の功という言葉は、その……故事ちゅうか、そんな昔の有名なエピソードがもとになっちょる。小学生だからちゅうて、おまえらも甘えてばっかりおらんで、ちゃんと勉強せんにゃいかん。勉強なんちゅうもんは、その気になれば、どげんしてでもできるもんや!」
 いまにして思えば、それは、古い中国の故事とずっとのちの二宮金次郎の伝説とをごちゃ混ぜにした、かなりいい加減な内容の訓話だった。だが、そんなことなど知るよしもない片田舎の小学生にしてみれば、その名調子の弁舌のもつ迫力と説得力はなかなかのものだった。
 その晩のこと、即席ラーメンならぬ「即席金次郎」に早変わりした私は、呆れる家の者を尻目に、ガラスの小瓶を腰に下げ、片手に竹箒を携えて、近くの小川のほとりまで意気揚々と蛍狩りに出撃することになったのだった。人里から少し離れたところにあった川蜷の棲む幾筋もの清流は、知る人ぞ知る蛍の宝庫で、折しも時節も文月とあって、即席金次郎の目算には露ほどの狂いもなかった。当時の暮しむきはけっして楽ではなかったが、いくらなんでも薄暗い裸電球のひとつやふたつはあったから、蛍雪の功の故事にならう必要があったわけではけっしてない。そもそも素直にそんな教えに心酔し、苦労を惜しまず勉学を積んできたくらいなら、今頃もっと結構な身分になっていたはずで、こうして世をすねたような戯事なんかを綴ったりはしていないだろう。冗談みたいな話だが、それはひとえに、少年期特有の旺盛な好奇心のなせる業だったと言ってよい。
 まるで、あの世の金次郎の執念が乗り移ったみたいな竹箒に追い回されたのでは、さしもの源氏蛍もたまったものではない。ほどなく、小瓶の中は、御用となった十数個の青白い光の粒でいっぱいになった。蛍にすれば迷惑千万な話で、物好きな小学生の心を煽りたてたくだんの教師がさぞかし恨しかったことだろう。
 夜の小川のあちこちで一・二時間ほど大活劇を演じた私は、頃合いは良しとばかりに家に駆け戻り、さっそく実験にとりかっかた。昔はガラス瓶など珍しすぎて庶民の手には入らなかったろうとの想いから、和紙張りの古い小型の角行燈を持出してきて、空気穴を塞いだあと、その中に捕らえた蛍を放ってみた。

 実験結果は予想に反してはなはだ不本意なものだった。あまりに不当な拘留ぶりに抵抗の意志をむきだしにした蛍どもは、人間様の浅知恵をあざ笑い茶化すがごとく、行燈の中をむやみやたらに這いまわり、支離滅裂で不規則な光の言葉をピーカピカ……こちらと思えばまたあちら、五条の橋の欄干で弁慶相手に名を馳せた牛若丸も目を回し卒倒しそうな忙しさ!…… 光度の弱さもあいまって、小さく細い活字など到底読めたものでなく、あえて読書を続けたら翌日の夜明けを待たずに錯乱し、寝込んでしまっていたことだろう。
 くわえてまた、そのとき手にした本が本……四書五経などという高尚かつ深遠な書物にはほど遠い、江戸川乱歩の探偵小説「黄金仮面」だったから、蛍どもが攪乱戦術にでたというのもまんざらうなずけぬ訳ではない。世の崇高な目的のために犠牲を強いられるというのならまだしも、片田舎のハナたれ小僧が探偵小説を読むのに身を献げるなんて、とても我慢できないと、彼らはヘソを曲げたのだろう。
 だが、話はまだ終わらない。そのとき、突然、即席金次郎は、その実験に重大な不備があることに気がついた。昔の書物の文字は、現代の活字に較べてずっと大きかったということをすっかり忘れていたのである。そこで、にわか金次郎は、すぐ仏壇の前に飛んで行き、古い木版刷りの観無量寿経と阿弥陀経和讃本を抱え込んで戻ってきた。また、そのいっぽうで、薄手の和紙で程良い小さな袋をつくり、「にっくきやつらよ、思い知ったか!」とばかりに蛍どもをその中に押し込んで、崇高な目的遂行のために有無を言わさず忍従を強要した。そして、その涙ぐましい努力と工夫の甲斐あって、経文のいかめしい文字がなんとか読めた……否、「見えた」のである!

 これで一件無事落着、「蛍雪の功」の美談は必ずしも嘘ではなかったのだと私が納得したかというと、そうではない。幼いなりの思案の末に達した結論は、こともあろうに、蛍の故事が実話だとすれば、その人は伝説とは異なり相当な閑人だったに違いないというものだった。
 蛍というものはか弱い昆虫で、狭い虫籠の中などでは捕えて数時間もしないうちに衰弱して光を失ってしまう。大切にして飼うにしても短命だし、だいいち、その手間隙だけでも容易なことではない。世の蛍が人間様の勝手な思惑にそれほど協力的であるわけはないから、夜水辺に出て相応の数の蛍狩りをするだけでも一・二時間は吹っ飛んでしまう。寸暇を惜んだ勤労勤学の人が、いくらなんでも毎晩川辺に出て、「蛍ヤーイ!」でもなかったろう。むろん、一度や二度なら十分にあり得た話だろうが、蛍の季節が短いことをも合わせ考えてみると、とても現実的な話だとは思われなかった。
 南国ではめったに雪が降らないため、雪明かりのほうについては、残念ながら、具体的に確認することはできなかった。ただ、大人になってから、雪山で夜を過ごしたり、夕暮れ時に雪の深い地方を訪ね歩いたりした経験からすると、こちらのほうが、蛍よりはずっと現実味があるように思われる。雪は一度積もると容易には消えないからいつでも利用可能だし、雪明りというものには確かにそれなりのあかるさはあるからだ。ただ、雪明りは、蛍と違ってあくまで反射光であるから、焚火や近隣のランプの明り、月光など、なんらかの光源が必要になる。なんの光源もない真っ暗な場所で雪明りを利用して書物を読むことなどは、むろん出来るはずがない。
 翌日、クラスメイトの何人かに事の次第を話したところ、そのうちのおせっかいな一人が、授業中いきなり、くだんの教師に向かって、
 「先生、昨日の蛍雪の功の話のことやいもすばってか、ゆうべ、本田が、なんか、川でなまな(たくさん)蛍ば捕って……」と、やりだしたからたまらない。不意打ちを喰った教師のほうは、珍妙なうなり声を発し、怪奇面妖な形相を見せながら絶句した。想い出すたびに申し訳ないことをしたと、いまも、いたく反省はしているのだが……。

 「蛍雪の功」の故事は中国の晋書中の車胤伝・孫康伝に見られるもので、かつての師には申し訳ないが、銅像に見るあの薪を背負った二宮金次郎がその逸話の主であるわけではない。もしかしたら、車胤伝や孫康伝を読んだ金次郎が、自らも蛍雪の功の故事にならおうとしたことはあったのかもしれない。また、彼が説いた勤労勤学の精神や刻苦勉励の教えそのものは、誰にとってもそれなりに大切なことである。だが、蛍雪の功の故事と二宮金次郎とは直接には関係ない。
 蛍や雪にまつわる問題の故事は、いかに厳しい生活環境下でも勉学は可能だということを説くための象徴的なたとえ話だったと思われ、その意味では、実際に蛍の光や雪明りで読書がなされたか否かはさして重要なことではないだろう。だが、そんなたとえ話が、いつのまにやらある種のリアリティをもって勝手に歩きはじめ、現実離れした「お題目」となって、そこかしこで猛威をふるうとなると話は別である。このような事例は昔も今も少なくなく、そこに教条主義というものの怖さがあると言ってよい。愚かに見えるかもしれないが、実証的態度は、そんな教条主義的理論の限度を超えた横行を戒める力をもつし、それがもとで意外な発見や新たな状況の打開につながることも少なくない。
 しかしながら、具体的な検証ばかりが極端に先行すると、外界の多様な事象の認識のしかたに統一性がなくなって収拾がつかなくなる。そんなとき、不安定かつ混沌とした状況に統一と調和をもたらし、社会のとるべき方向を示唆してくれるのが、理論であり理念であるものもまた事実だ。その意味では、実話かどうかに関わりなく、蛍雪の功のような、よくできた故事の存在もそれなりには必要となってくる。
 ごくありふれた帰結になってしまうのだが、要するに二つのもは表裏一体で、両者の睦まじい二人三脚による助け合い的発展こそが望ましいということになる。片方だけの暴走は、結局のところ破滅につながるばかりである。
 それにしても、労をいとわぬ昔の旺盛な探求心はいったい何処へ消え失せてしまったのだろう。蛍の季節や雪の季節がやってくるごとに、幼い日々のことを想い出しては、ともすると感性も好奇心も鈍りがちなこの身を引き締めてはいるが、なかなか思うにまかせないのが実情だ。もしかしたら、いまこそ、私には、あのときの担任教師の言葉みたいに、実証精神や探究心を強く奮い立たせてくれるような何かが必要なのかもしれない。
 もっとも、昨今の与党議員先生がたの「学級崩壊や少年犯罪の増加などの問題解決のため、日の丸・君が代をはじめとする愛国心教育が必要である」といったような、日の丸、君が代の是非を云々する以前のお粗末きわまりない議論を耳にしたりすると、理論も検証もどうでもよくなり、唯々こんなレベルの先生がたが政治の舵取りをしている国に住んでいること自体恥ずかしい気がしてしまう。したり顔でこういった発言をなさる先生がたは、ほんとうにこの国を愛しておられるのであろうか。日本という国を愛しているつもりの一市民としてついつい反問もしたくなってくるというものだ。
 手が悪いのは、基礎論理学や修辞学(レトリック)を一定レベル身につけたある種のプロの手にかかると、「犬は犬である」というトートロジイ(同語反復、主語と述語が同じ概念の命題)的できわめて自明な論理命題の証明より、「犬は猫である」という常識を逸脱した命題の証明(?)のほがもっともらしく聞こえることだろう。それらの証明プロセスを考えてみても、後者のほうがより興味深いに違いない。
 ある論理命題を立証するとは、「人間がすでに持ち合わせている概念や基本命題のなかから、なるべくやさしく、誰でも自然かつ直観的に受け入れるこのとできるようなものを選び出し、それらを組み合わせて目的とするより高度な命題の正当性を説明する」ことである。だから、あまりにも自明な命題を証明することは実はたいへん難しい。「犬は猫である」ことを立証して見せることのほうが、状況によってははるかにやさしく、その論理の展開を目にする側にもずっと魅力的にうつるのだ。
 なんなら実際にここでその証明の一端を披露してみてもよいのだが、ここは論理学のコーナーではないし、ちょっと深入りすると、原稿の量もたちまち本一冊分にもなってしまいかねないから、今日のところはこのへんで筆をおさめることにしたい。

「マセマティック放浪記」
1999年8月25日

子猫の開いた小窓から  

 生まれたばかりの樹々の緑が爽やかな風に眩しく光って搖れていた四月下旬のことである。ミーミーという産後間もない子猫の鳴き声らしいものがどこからか聞こえてくると、とつぜん家人が言い出した。まさか我家のノラあがりの雄猫チータローが飼い主に無断で性転換の手術を受けていたわけでもあるまいし、「そんな馬鹿な?」とはじめは半信半疑だったのだが、「ミーミー」がいつの間にか、「ミギャー!・フギャー!」の絶叫に変わる騒ぎに及んでは、さすがにその存在を認めないわけにはいかなくなった。
 これはというので調べてみると、ことはすでに容易ならぬ事態へとたちいたってしまっていた。隣家の屋根伝いにやってきた雌のノラ猫が、我家の軒先の雨樋のつけねに生じたわずかな隙間から一階の天井と二階の床にはさまれた狭い空間に侵入し、どこかに子どもを産んでしまったものらしい。しかも、運悪く隣家の屋根の補修作業が始まったために親猫のアプローチ・ルートが断たれてしまい、生まれたての子猫だけが孤立無援の状態に置かれているらしかった。その証拠に、鳴き声はある時点をピークにして弱まっていっている。「ミギャー!・フギャー!」は子猫にすれば命を賭けた叫び声なのだった。
 鳴き声のする場所がどうやら二階に通じる階段上部の裏側付近らしいと判明したのは、かなり時間がたってからのことである。場所が場所だけに他に救出手段はないと判断した私は、階段の垂直面に四角い穴を切り開けることにしたのだが、猫のいる正確な位置がつかめぬため、四段にわたって鋸をふるうはめになった。
 中から現れたのはまだ眼に薄膜のかかった生後一週間ほどの三毛とキジトラの二匹の子猫で、三毛のほうは取り出したとたんに「ミギャー!」の連発をはじめたがキジトラのほうは体が冷えきってしまっていて、「ニーニー」とかすかな声で鳴くのがやっとのようだった。愛らしいその顔つきや尻尾のかたちをよく見るとチータローそっくりだ。家の猫が共犯者とあってはもはや責任は免れ得ない。ペットショップに子猫専用の哺乳瓶とミルクを買いに走るやら保温器具をさがすやら、たちまち家中が大騒ぎになった。四個の穴は板で塞いでみたものの、パッチワークの失敗作みたいで惨状もはなはだしい。そこで一計を案じ、手元にあった鳥獣戯画や源氏絵巻の絵葉書などを継ぎ板が隠れるように貼り付けると、思いのほか洒落た感じの階段ギャラリーができあがった。
 すっかり衰弱していたニーニーのほうは必死の介抱もむなしく翌朝眠るようにして息を引き取ったが、三毛のミギャーは本能的に前足を交互に動かす搾乳ポーズをとりながらミルクをよく飲み、二日ほどすると毛艶もかなりよくなった。だが、生後三週間までの子猫には昼夜を問わぬ二時間おきの哺乳と微妙な体温の維持調整が不可欠で、排尿排便も自力ではままならず、通常は親猫が舌で局部に刺激を与えてやってはじめてそれが可能となる。  
 親猫にかわってそれらすべてを人間がやるなど並の覚悟では無理なのだが、悲しいかな、そのへんの事情に我々はまるでうとかった。ミギャーの必死の訴えと、よかれと思う我々の懸命の介護とは皮肉なまでのすれ違いを演じるところとなったのだった。突然ミルクを受けつけなくなった原因が体温調整の失敗による嗅覚機能の低下にあると気づくまえにミギャーは体力を消耗し、里親を頼みに知人宅の雌猫のもとに駆け込んだときには、もう自力で乳を吸う力もなくしてしまっていた。その雌猫の慈愛深い必死の介抱にもかかわらずミギャーはどんどん衰弱し、その場でついに息絶えた。
 深い痛みにさいなまれつつも、私は久々に開いた小窓から感性をとぎすまして世界の奥底をのぞいていた。言葉と言葉が、そして意思と意思とがすれ違い、結局は失うことによってしか学ぶことのできないこの世の縮図を見つめていた。失ってはじめて小窓が開くんだよ・・・恋はもちろん、魚の味さえも知らずに逝ったミギャーの声が聞こえてくる思いだった。そのせいか、おりしも過ぎ行く選挙カーの連呼の声がいつもよりいっそう虚しく聞こえもした。
 翌日、庭の片隅にあるニーニーの墓の横にミギャーの墓を並べてつくった。ところがその数日後、こともあろうに、我が子の墓を踏み越えてガールハントに出陣するチイタローの姿が目撃された。「花も嵐も踏み越えて……」どころか、これではまるで、「墓も子どもも踏み越えて、行くは男の生きる道……」ではないか! 私はしばしあっけにとられてその様子を眺めていた。かくしてまた、これら懲りない面々の手によって、「愛」と「哀」との歴史は明日も繰り返される。

「マセマティック放浪記」
1999年9月1日

奥の脇道放浪記(1)
良寛の心を訪ねて
絵・渡辺 淳
 良寛の心を訪ねて――越後長岡から出雲崎へ

 のんびりとした気分でワゴン車のハンドルを握り、早朝、東京府中を立った私は、一般国道をゆっくりと走り継いで群馬と新潟県境にある三国峠を越えた。より正確な言い方をすれば、三国トンネルを抜けた。「国境のトンネルを抜けるとそこは雪国だった」という、かの文豪の言葉にあやかりたいところだったが、五月も末のこととあってさしもの深い雪も消え、付近は一面輝くような緑の若葉に覆い尽くされていた。
 もっとも、雪はないといってもそれは国道周辺のことで、苗場山や谷川岳などの山々はまだたっぷりと残雪を戴き、陽光を浴びてまばゆく輝いていた。この冬、裏日本一帯は久々の豪雪に見舞われたから、例年に比べて初夏の訪れが二、三週間ほどは遅れている感じだった。
 時間調整と休憩をかねて、苗場と湯沢のなかほどにある二居道路ステーションに立ち寄ると、すぐそばの急な岩肌の斜面からこんこんと清水が湧き出ているのが目にとまった。試しに一口飲んでみると、これが実にうまい。学生時代以来の山旅を通して名水と呼ばれるものはずいぶんと口にしてきたので、水の味だけは相応にわかるつもりだが、そんな私の経験からしてもここの清水はなかなかのものだった。関越自動車道、清水トンネル入り口手前の谷川岳パーキングエリアの湧き水も巷に名高いが、この水のうまさはそれ以上のものに思われた。
 長旅に水は必需品である。私は、車から「六甲の水」と表示された空の二リットル用ペットボトル五本を取り出すと、それらに水を詰め込んだ。味とこくでは本物に少しも劣らない「偽六甲の水」の誕生である。あまりの冷たさにしびれる指先をこすり温めながら、「二百本ほどペットボトルがあればちょっとした商売ができるかもしれないな」などと妙な想像をしたりもした。
 信濃川の支流、魚野川にそってのびる国道十七号を越後平野に向かってくだり、北陸本線の長岡駅に到着したのは午後一時半だった。一昔前、国中に名を馳せた辣腕政治家のお膝元だけのことはあって、駅ビルやその周辺の建物、道路などは十分に整備が行き届いている。駅近くの路上に車をとめた私は、雷鳥四十四号に乗って一時五十七分に長岡に到着するはずの旅の相棒を迎えるべく、中央改札口へと歩を進めた。パンパンにふくれた大きな皮袋を肩にして、青い丸つば帽子に青シャツ、ジーンズ姿の日焼けした人物が改札口にその大柄な姿を見せたのはそれから間もなくのことである。眼鏡の奥の大きな瞳が笑みをたたえてキラリと光った。長年にわたり水上文学作品の挿絵や装丁を担当してこられたことでも知られる著名な画家で、若狭大飯町川上在住の渡辺淳さんの登場だった。
 若州一滴文庫で渡辺淳さんと劇的な出逢いをしてからもう八年近くたつ。その間に何度か、二人だけで気ままな旅をしようという話が持ち上がったりはした。これまでも二、三日の短い旅には、何度か一緒にでかけたことはあるのだが、一週間を超える長旅ともなると、双方の時間の調整をつけるのがなかなかに難しく、思い通りには計画を進めることができないでいた。そこで、今年こそは長年の夢を現実のものにしようと、新年早々に淳さんと電話で相談し、五月末から六月初旬の十日間ほどをあらかじめ旅のためにあけておこうということになったのだ。そして、いまようやく、二人の念願がかなおうとしているような訳だった。

 暑く感じるほどの日差しのなか、淳さんを駐めてあった車のところまで案内すると、すぐさま出発の準備にとりかかった。我々は、この旅をするにあったて、三つだけ大まかなガイドラインを設けておくことにした。第一は旅費をできるかぎり安上がりにすませること、第二はその時々の成り行きに任せて行く先やルートを選び定めること、そして第三ガイドラインは日常的な二十四時間単位の行動パターンを放棄してしまうことである。その日その日のおおよその旅の方向を決めるのは、とりあえず、運転手の私に一任されることになった。
 出発してほどなく、まずは日本海沿いの道に出てみようかということになり、信濃川にかかる与板橋を渡って中之島町から与板町へと向かうことにした。雪融け水を満々と湛えた信濃川の雄姿とその迫力はさすがである。たちまち頭をもたげる道草癖を抑え切れなくなった我々は、与板橋を渡り終えるとすぐに河原へとくだる道を探し、橋の真下へと降りて車を駐めた。初夏の日差しを浴びて河原の草木が一斉に放つ緑の生気と、時間の雫を数限りなくあつめて流れる信濃川の水面の輝きには、唯々圧倒されるばかりである。さっそくスケッチをはじめた淳さんのかたわらで、私のほうは悠然と流れる大河に見惚れながら旅のメモでもとることにした。もしもこれが気ままな放浪の旅でなかったら、観光のポイントなどとはまるで無縁のこんな場所を訪れ、のんびりと想いにひたることなど絶対にないだろう。 
 さて、それはいいのだが、長岡を出発してまだ三十分も経たぬというのにこんな道草をしているとなると、いったい今日はどこまでいけるやら――。どんなところで寝るのも平気な我々二人のことゆえ、今夜はこの橋の下で野宿でもといったようなことになりかねなくもなかったが、いくらなんでもそれにはまだ日が高過ぎた。お日様にもうすこしはくらいは先へと叱咤された我々は、かつて良寛がいくたびも往来したという塩之入峠を越えて和島村に入り、たまたま目にとまった案内板に誘われるままに、隆泉寺木村家墓地内の良寛の墓を訪ねてみることにした。
 良寛は、安永四年、十八歳で尼瀬光照寺にいり、二十二歳のときにたまたま来越した国仙和尚に随行して備中玉島円通寺に赴き、そこで修行を積むことになる。大愚良寛と称するようになったのはこの頃からのようである。三十八歳になって越後へ戻った良寛は、赤貧に甘んじながら出雲崎や国上山麓一帯を転々とし、一所不定、現代風にいうなら、「住所不定、無職」同然の生活を続け、五十近くになってようやく、国上山五合庵に定住した。そして、そのほぼ十年後には国上山麓の乙子祠脇の草庵に移り住み、六十九歳以降は、島崎村能登屋、木村元右エ門邸に寓居する。当時まだ三十歳の若さだった美貌の貞心尼がはじめて良寛を訪ねてきたのはその一年後、良寛七十歳のときのことであった。
 長岡藩士の娘として生まれた彼女は、生みの親とは幼くして死別、成長してからも、その並みはずれた美貌と才気が逆に災いし、浮世の辛酸をなめつくすことになる。やがて、柏崎近くの浄土宗閻王寺に駆け込むかたちで尼となり、修行を積んで貞心尼と名乗るようになった。良寛を訪ねてきた当時、貞心尼は長岡在福島の閻魔堂に独りで住んでいたという。それからわずか四年足らず時間のなかでおこなわれた、良寛と貞心尼との心の絆の深め合いについては、既に広く世に語られている通りである。
 良寛が貞心尼に別れを告げ、静かに天上界へと旅立っていったのは、天保二年(一八三一年)新春の夕刻のことであった。

 いきしにのさかひはなれてすむみにもさらぬわかれのあるぞかなしき
 (俗世の生死の境地を超えた仏門に帰依するこの身にもまた、避けがたい別れのあることのなんと悲しいことでございましょう)

という貞心尼の歌に対して良寛が返した

 うらを見せおもてを見せてちるもみぢ

という一句が、はからずも辞世の句となったという。聖俗両面をあわせもち、悟りの世界と煩悩苦の世界とのはざまを生涯自然体で生き抜いた人間良寛の散り際に、それはなんともふさわしい句であった。はらはらと散り行く紅葉に良寛自身の姿が重ね合わされていることは言うまでもない。
 良寛と貞心尼との四年間近くにわたる心の交流の一部始終を述べ伝えた貞心尼の自筆稿本「はちすの露」は、「天保二年卯年 正月六日遷化 よはひ七十四  貞心」という一文で結ばれ、貞心尼の深い悼みを暗示でもするかのようにそこでぷっつりと終わっている。のちに貞心尼の墓碑に刻まれることになった彼女の辞世の歌 

  来るに似て帰るに似たり沖つ波立ち居は風の吹くに任せて

のイメージは、師、良寛の臨終をまえにした深い想いを通して生まれたものではないかと考える研究者もあるようだが、言われてみると、たしかにと頷(うなず)けるふしがある。
 激しく吹き狂う風に翻弄され、寄せ来るでも引き去るでもなく逆巻き立ち騒ぐ沖の波を貞心尼自身の人生に見立てれば、この歌に秘められた想いは自然と見えてくる。寄せる波を紅葉の表に、また引きゆく波を紅葉の裏に、そして波を起こす風を紅葉を散らす風に対応させれば、両者の奥に流れている人生回想の本質は同じものだからだ。
 良寛の墓は、いまや伝説ともなっている清貧そのものの生涯からはとても想像できないほどに立派なものであった。石碑の幅はゆうに一メートルを越え、高さのほうは台座も合わせると三メートル近くにも及ぶのではないかと思われた。私と渡辺さんとは思わず顔を見合わせながら、「当時の有力者達が良寛の徳を讃えて建てたんでしょうが、ちょっとやり過ぎみたいな気もしますね。あの世の良寛は顔をしかめていたかもしれませんね」と正直な印象を語り合った。
 だが、あとになって調べてみると、そんな想いは、どうやら我々の不勉強と早とちりのせいでもあったようなのだ。新潟県柏崎の出身で、良寛の研究者として知られる北川省一著の本によれば、この墓碑は時の有力者達の手によって建てられたものではなく、生前に良寛を慕った越後の無名の人々の手で、良寛の没後二年経った天保四年に建立されたものなのだという。良寛の死を悲しんだ越後の人々は「石碑料志」と記した奉加帳を作って募金にかけまわり、資金を集めたうえで、寺泊の七つ石というところから花崗岩の巨石を運びこみ、この地方には類をみないような大墓碑を建てたのだそうである。厳しい身分制度の敷かれていた徳川幕府の治政下においは、墓の大きさにもおのずから制限があった。徳川幕府の政策を愚かと断じ、幕府の庇護下にあって権勢を貪る僧侶や文人たちを鋭く批判し続けた良寛は、権力者の立場からすれば、乞食坊主と唾棄すべき追放僧の身に過ぎなかった。だから、没後二年のうちにこれほど巨大な墓を築き、「良寛禅師墓」と大きく刻み込むなどということは、当時の身分制度に真っ向から挑戦する行為でもあったらしい。しかも、その碑の銘文は、苦悩多き生涯を生き抜いた良寛のかねてからの想いを象徴する歌や、人心から遊離した宗門に対する厳しい告発と訓戒の言葉を刻んだものだった。
 良寛の死後、幕府や宗門からの指示を受けた出雲崎の代官所は、良寛の歌稿その他の手稿類の強制的な提出を命じたり、関係者の取り調べをおこなったりしたという。そして、追放僧良寛の巨大な「禅師墓」を取り壊そうともしたらしい。
 しかし、良寛その人のあまりにもまっとうな精神と主張、さらにはなんとも的を射た碑文のゆえに、さすがの権力者達も墓碑に手をだすことはできなかった。権力者が無理に墓碑を取り壊しでもしていたら碑文そのままの蛮行となって、国中の民衆から笑いもにされ、たちまち権威を失墜したに相違ない。それにしても、墓碑を建てるに先立ち、権力者の手を巧妙に封じる仕掛けを案出した民衆の知恵は相当なものである。
 良寛の墓から戻る途中、我々は一羽の雀の子が参道脇にうずくまっているのを発見した。ときおりチュンチュンと鳴き声をあげている。どうやら巣から落ちたか、いったん巣立ったもののうまく飛べずにその場に舞い降りたものらしい。遠巻きに様子を窺っていると、二羽の親雀がたまに飛んできては餌をやっている。猫に狙われでもしたらひとたまりもないので、心配しながらしばらくじっと見守っていたが、我々も旅の身ゆえ、一緒に連れていくわけにもゆかず、ここは親雀の知恵と愛情に任せるしかないと判断した。うしろ髪をひかれる想いでその場をあとにしたのだが、いつにあっても自然の摂理とは厳しいものである。だが、良寛が目にして自らの無力さに打ちのめされたという地獄絵図、すなわち当時の庶民の悲惨な現実は、そんなものとは較べものにならぬほとに救い難いものであったに違いない。
 良寛の墓をあとにした我々は、次に、良寛の遺墨、遺品の類が数多く展示されている出雲崎の良寛記念館を訪れた。そして、筆を執っているときだけは現世の苦しみから解放され、文字を書いているのだということさえも忘れて無心に紙と戯れていたのではないかと思わせる、なんとも自由奔放な墨跡に、我々は心の底から感動した。美しく書こう、立派に仕上げよう、多くの人々の称賛をかおうなどという卑俗な意識を超越した良寛の姿がそこにははっきりと感じられるのであった。
 ただ、だからと言って、私は良寛という人物が超然たる悟りの人だったとは思わない。浮き世という名の濁流のなかにあって自らも濁りの一因をなしているにもかわらず、それ自体の輝きはけっして濁り衰えることのない石英の砂粒にも似た存在であったように思われてならない。
 良寛記念館のある高台を下りて日本海沿いの国道に出ると、太陽がかなり西に傾いて見えた。幸い落日までにはまだ少々時間がありそうである。夕陽を見るなら弥彦山あたりがいい。夕凪に静まりかえる日本海を左に見ながら、我々は寺泊方面へと走りだした。


「マセマティック放浪記」
1999年9月8日

奥の脇道放浪記(2)
夕陽の名所弥彦山
絵・渡辺 淳
 夕陽の名所弥彦山――寺泊から新潟港へ

 寺泊の町並みにさしかかったとき、私は、突然、このあたりの名物のひとつである鯛の浜焼きのことを思い出した。十分に塩をほどこした新鮮で大きな鯛をまるごと串刺しにし、焚き火や炭火でじっくりと焼きあげたもので、その姿かたちといい、味といい、文字通りの絶品である。夕食の準備らしいことはまだなにもしていなかったので、貧乏旅行中の身にはちょっと贅沢だが、一尾調達してみようということになった。
 日没も間近な時刻とあってか観光客の姿はすっかり途絶え、国道沿いの土産物屋のほとんどはすでに店じまいを終えていた。一軒だけ見つけた店じまい寸前の海産物屋に飛び込み、鯛の浜焼きはないかとたずねると、ちょっとまえに片づけてしまったという。諦めきれずに店の隅をうろうろしながら、女店員の手でいまにも奥へと運び去られようとしている箱の一つをのぞきこむと、なんとそこにまぎれもない「鯛の浜焼き様」のお姿があるではないか!
 どうしてもこの鯛を譲ってほしいと食い気まるだしの形相で懇願すると、相手はしばし戸惑いの表情を浮かべはしたものの、そのあとすぐに快く願いを聞き入れてくれたのだった。えたいの知れないこの二人の客は、ほっておいたらなにをしでかすかわからないと、胸のなかで思ったのかもしれない。それにしても、四十センチ近い立派な鯛の浜焼き一尾で八百円というのはなんとも安い買い物だった。もっとも、単品としては、今回の我々の旅を通じてもっとも高価な買い物ではあったのだが――。
 鯛の浜焼き様をうやうやしく車中にご案内申し上げた我々は、それからほどなく、大河津分水路の河口付近にかかる野積橋に差しかかった。大河津分水路は信濃川本流から分岐する大規模な排水路で、良寛ゆかりの国上山の南西側を流れている。緑に包まれた小さな入り江状の河口は、折からの夕陽を背にして粛然と輝き、我々の旅愁をいやがうえにもかきたてた。淳さんがさっそくスケッチブックを取り出したことは言うまでもない。

 淳さんのスケッチが一段落するのを待って、私はまた車のエンジンを始動させた。目指すは弥彦山スカイラインである。地図上で判断するかぎり、日没までには間違いなく弥彦山頂付近に到達できる。そこから日本海に沈む夕陽を眺めることができれば言うことはない。野積の集落近くで国道から分かれ、弥彦山スカイラインに入ると、みるみるうちに高度があがった。そして、山裾から中腹にかけての濃い緑の樹林帯を抜けると、いっきに展望がひらけてきた。実際に登ってみると、弥彦山は想像していた以上に険しく、しかも奥深い。眼下に広がる日本海に向かって、その斜面はかなりの急角度で落ち込んでいた。
 スカイラインを登りつめたあたりの駐車場に車を置き、そこから十五分ほど坂道を登って、海抜六百三十八メートルの弥彦山頂上近くにある展望台に辿り着いたのは午後六時半頃だった。日本海のほうから、かすかに霧を含んだ涼風が吹き上げてきている。一汗かきながら急な道を登ってきた直後だけに、その風がなんとも心地よく思われた。
 やわらかな芝草に覆われた展望台からの眺めは望外のものだった。正直なところ、弥彦山からの眺望がこれほど素晴らしいとは思っていなかった。夕陽に映えて鏡のようにしずまりかえる海の向こうには、まるでローラーで平らにならしでもしたかのような佐渡の島影が低く広がって見えた。たぶん、小木から赤泊にかけての佐渡南部の一帯だろう。かなり以前に佐渡を訪ねてみて、想像以上に山の多いところだという印象をもっていたので、海が荒れたらたちまち海中に没してしまいそうにも見えるその光景はちょっと意外だった。標高六百メートル余の山の上から見下ろしているせいなのだろう。
 東側に大きく目を転じると、視界いっぱいに飛び込んできたのは、果てしなく広がる緑の沃野、越後平野だった。夕陽にところどころ水面が光って見えるのはもちろん信濃川、そして、その周辺に広がるのは三条か燕あたりの田園地帯だろう。中空にはすでに月齢十二・三日ほどの月が昇っていて、俺の出番にはちょっと早すぎたかなとでも言いたげに、申し訳程度の白い光を発していた。
 佐渡の島影のほうへと大きく傾いた夕陽は、しだいに深い赤みを帯び、まるい輪郭をはっきりと浮かび上がらせながら、漂うように沈んでいく。眼下の海面のあちこちが白く煙っているのは、海霧のせいらしい。あたりの気温がぐーんとさがって、斜面沿いに吹き上げてくる風が肌寒く感じられるようになってきた。それでも、私と渡辺さんは、それぞれの想いにひたりながら、じっと夕陽を見つめていた。
 展望台付近には、我々のほかに、男女三人からなるもう一組のグループがいて、夕陽を眺めながら野外パーティをやっているところだった。その人たちのほうをなにげなく見やっていると、突然、「よければ一緒にどうですか?」と声をかけられた。なんとなくうらぶれた格好の二人の男が、夕風に吹かれながら腹をすかした感じで立っているのを見かねて、心優しいその方々はさりげなく誘ってくださったに違いない。
 そこは貧乏旅行の途上にある我々のこと、これぞまさに天の助けにほかならないというわけで、すぐさまその申し出を受け入れた。むろん表向きにはいったん遠慮はしたものの、内心では「やったぁ!」という感じである。三人の方々は、近くの三条市にお住まいの久保富彦御夫妻と、三条まで遊びにみえておられた久保夫人の妹さんだった。弥彦山の夕陽は素晴らしいので、いつもここに来ては、落日の舞いを肴に一杯おやりになるのだという。久保さんはもう一度コンロを取り出し手際よく点火すると、鴨鍋の素材のはいった大きな缶詰を切り開け、図々しい二人の珍客のために熱々の鍋汁を作ってくださった。そして、缶ビールにおつまみ、さらには、おにぎり、お新香にいたるまでを気前よくすすめてくださったのである。
 こうなるともう、花より団子ならぬ、「夕陽より鴨鍋」、「夕焼けよりビール」である。思いもかけぬご馳走に感激しながら、二人で放浪の旅をするにいたった経緯などを説明したりしているうちに、呆れ顔の夕陽のほうは、「これ以上やっとれるかい!」とばかりに赤く気色ばみながら、さっさと佐渡の島影に沈んでしまった。我らが風流心もこの程度のものかと思わず赤面しかけたが、そんな場を救ってくれたのは、「今日は西の水平線近くに雲などがあって美しさもいまひとつなんですが、ほんとうなら、ここの夕陽はもっともっと綺麗なんですよ。まあ、それはそれとして、せっかくだから楽しくやりましょうや」という久保さんの一言だった。
 西の空が黄昏色に染まり、やがて弥彦山一帯が夕闇に包まれるまで、我々は歓談しつづけた。久保さんは山が好きで、深田久弥の「日本百名山」に紹介されている山々のうち、すでに六十二峰を踏破なさったとのことであった。久保さんの話に耳を傾けながら、ふと東の空を見上げると、先刻まで白く淡い心もとなげな輝きを見せていた月が、ほれぼれするくらいに澄んだ光を放ちながら己の存在を誇示している。眼下はるかに点々と瞬き灯る色とりどりの民家の明かりは、越後平野の夜を彩る無数の宝石そのものだった。
 別れ際に、我々は、大きな缶ビールのほか、いくらかのおつまみなども頂戴した。善意の人々の好意を貪るインチキ修行僧の托鉢みたいで、良寛様からは叱られそうな気もしたが、ともかく有り難いことではあった。旅の初日からこんな調子だと、野良犬や野良猫なみに、行く先々で人様に媚を売ってはそのおこぼれを頂戴する癖がついてしまいそうで、いささか気にはなる。だからといって、すこしは誇りをもって人間らしく振る舞うべきだと反省したかというと、そんなつもりはさらさらなかった。もっとも、そのあと第二、第三の久保さんが容易に見つかったかというと、それはまた別の話であった。
 弥彦山をあとにした我々は、再び海沿いの国道に出て、新潟方面へと走り出した。見事に整備された国道で車の影もほとんどないとあって、おのずからスピードメーターの針は、右へ右へと歓喜のステップを踏むことになった。それでも、途中のコンビニで簡単な食材を買い込み、新潟市西部の関屋浜に着いた頃には、かなり遅い時刻になっていた。たまたま場所的にも都合がよかったので、いったん車を駐め、あらためて晩飯をしっかり食べなおそうということになった。
 コンロで湯を沸かし、味噌汁その他のインスタント食品を調理したのだが、なんといっても、この晩の主役はクールボックスの中の「鯛の浜焼き様」だった。コンロの火で温めなおして食べたのだが、そのうまいこと、うまいこと!――二人で感激の言葉を連発しながら、崇め奉るようにして一尾の大鯛をあまさず貪り尽くしたようなわけだった。驚くほどに身もついていて、浜焼きだけでお腹がいっぱいになってしまったほどである。渡辺さんは、鯛を箸でつつくかたわら、先刻、弥彦山で頂戴してきた缶ビールをうまそうに飲みながら、もう極楽とでも言いたげな表情だった。まさかその缶ビールが、この放浪の旅路においてありつくことができた最後のビールになろうとは、さすがの渡辺さんも想像だにしておられなかったことだろう。
 旅の経費を極力安くしようという出発前の了解事項もあって、半ば暗黙のうちに、時々コンビニで買い求める牛乳類のほかは、もっぱら、旅の先々で探しあてたうまい清水とそれを沸かしていれた緑茶や紅茶だけを飲もうということになったからである。弥彦山で出逢った久保さんのような方がその後も次々に現れていたら状況は違いもしたろうが、世の中そうそう甘くはなかった。アルコール飲料がなくても平気な私のほうはともかく、元「酩人」の渡辺さんにとっては、そんな成り行きは思わぬ誤算であったかもしれない。
 ともかくも十分にお腹を満たした我々は、ほどなく関屋浜をあとにし、新潟市の中心部を抜けて、午後十一時半頃に信濃川河口の新潟港、新日本海フェリー発着埠頭に辿り着いた。埠頭にはたまたま小樽行きの新型フェリー「ニューしらゆり」が接岸しており、ほどなく出航しようとしているところだった。この最新設計の白い巨船は、国内最大のフェリーである。近くで目にするその巨大な船体の迫力は凄じい。
 気まぐれな旅ゆえに、これから「ニューしらゆり」に乗っていきなり北海道へという手もなくはなかったが、小樽行きのフェリー埠頭にやってきたのはそのためではなかった。このフェリーをこれまで何度か利用し、周辺の状況に通じていた私は、願ってもない機会ゆえ、ぜひ渡辺さんに「ニューしらゆり」をお見せしたいと思ったのだった。
 渡辺さんには息子さんが一人おられる。昔炭を焼いておられた頃、渡辺さんは、まだ幼かったこの息子さんを山奥の樹の幹にロープでつないでから仕事をなさっていたという。むろん、幼児虐待でもなんでもなく、危険な作業の多い炭焼き仕事と息子さんの身の安全とを両立させるための苦肉の策だった。
 「息子も、あの体験にはよっぽど懲りたらしいんですわ。そのせいか、大きゅうなりよってからは、山での仕事は絶対に嫌や、海のほうがええゆうて、船乗りの仕事につきよったんですわ」と、渡辺さんは、昔話をしてくださったことがある。
 実をいうと、その息子さんが、最近まで、この新造船ニューしらゆりの一等航海士をなさっていたのである。一等航海士と言えば、船長につぐ要職で、実質上、船の操縦と運行全般をとりしきるのがその職務である。いま、息子さんは、同じ新日本海フェリーの舞鶴ー小樽航路の船のほうで、やはり一等航海士を務めておられるが、船長となられるのは時間の問題に違いない。忙しい渡辺さんは、これまで、息子さんの乗っておられたニューしらゆりをご覧になったことはなかったし、この新潟港のフェリー埠頭においでになったことさえなかった。そんな事情をうすうす知っていた私は、胸の内では是非と思いながらも、気まぐれを装ってこの埠頭へと車を進み入れたような訳だった。
 午後十一時五十分ちょうどに、夜の大気を震わせるような低く力強いエンジン音を轟かせながら、ニューしらゆりはゆっくりと岸壁を離れた。小樽までは十八時間ほどの航海である。船のブリッジの奥のほうにはかすかに人影らしいものが見えた。渡辺さんの息子さんもあのあたりに陣取って、航行の指揮をとっておられたのだろう。埠頭に立ってこれだけの巨船の出港風景を目にするのは久々だったが、いつ見ても言葉には尽くしがたいロマンと旅情が感じられ、心踊るばかりであった。
 最後の太い繋留ロープがはずされ、自由の身となった大きく白い船体が、おのれの羅針盤とレーダーだけをたよりに大海へと向かって動き出したとき、渡辺さんの脳裏をよぎったのはいったいどのような想いだったのだろう。山奥の樹木の幹にロープで繋がれた幼い日の息子さんと、やがてそのロープを解き放ち、何ものにも拘束されることのない大海原へと旅立っていった息子さんの姿とが複雑に交錯していたのかもしれない。
 ニューしらゆりの航海灯が遠ざかっていくのを見届けて車に戻ったときには、もう深夜一時に近くになっていた。結局、、今夜はこの埠頭の片隅で車中泊しようということになり、ワゴンのシートをフラットに倒して寝る準備にとりかかった。新日本海フェリーのビル内の洗面所は明朝まで使えない。我々は、高い岸壁の真下に寄せる波の音を聴きながら、とりあえず男の特権を活用した。就寝前の簡単な洗面をすませるには、ペットボトル一本分の水で十分だった。横になってほどなく、我々は淡い月光の差し込む車中で、深く心地よい眠りについた。

 

「マセマティック放浪記」
1999年9月15日

奥の脇道放浪記(3)
朝日山系と金壷トンネル
絵・渡辺 淳

 朝日山系と金壺トンネルの珍事――村上市から朝日村へ

 翌朝は六時に起床した。空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっている。車中での簡単な朝食後直ちに新潟港をあとにした我々は、阿賀野川にかかる浜松橋を渡り、右折して国道七号に入ると、村上方面へと向かって走り出した。新潟の一般国道はどこも整備が行き届き、車線もゆったりしていて実に走りやすい。国道というよりは「酷道」とでも称したほうがいいような道路が全国各地にいまなお多数存在することを思うと、新潟はまさに道路天国である。
 国道七号を快調に走って新潟北部の村上市に入った我々は、そこから、近くを流れる三面川伝いに朝日山系の谷奥へと分け入ることにした。標高一八七〇メートルの大朝日岳を主峰とする朝日山系には、まだ手つかずの自然がふんだんに残っている。主稜をかたちづたくる峰々の標高こそは低いものの、広大な朝日山系の山や谷はきわめて深くかつ険しい。冬は豪雪によって閉ざされ、夏場も道路事情などのため近づくのが容易でないとあって、訪れる人は多くない。有名な他の山岳地帯のようには山々が荒らされていないから、山好きな人々がこの山地に強く心を惹きつけられるのは、当然のことと言えるだろう。
 この朝日山系の中央部西側一帯の山地を縫うようにして、新潟県朝日村から山形県朝日村へと一本の林道が通じている。朝日村と朝日村をつなぐという、なんともややこしい林道で、その名も朝日スーパー林道という。どちらかの村を夕日村と改名すれば、朝夕スーパー林道となってわかりやすくはなるのだが、夕日という言葉はただちに「落日」という負のイメージに結びつくから、村の名にはふさわしくないのだろう。ついでに述べておくと、この山系の東部には朝日町があるのだが、こうなるともう「朝日」の奪い合いである。東京築地の朝日新聞社がもしここに引っ越しでもしてきたら、それはもう見物だろう。
 朝日スーパー林道を経て田麦俣へと抜けることができれば、途中で朝日山系の山々や谷々の景観を堪能できるし、また、のちのちの行程もずいぶんと楽になる。林道の最奥部はまだ残雪も深かろうから、相当な悪路を覚悟せねばならないだろう。でも、悪路を走るのはいつものことだから、そうと決まれば、あとはもうチャレンジするだけである。

           

 三面川伝いの道に入ってまもなく、車は布部簗場(ぬのべやなば)へと到着した。雪融けの澄んだ水を川面いっぱいに湛(たた)えて流れる三面川の両岸の緑は、まだやわらかでみずみずしい。次第にくねり深まる水量豊かな三面川渓谷を東へ向かって遡り、あふれんばかりに水を抱きかかえた三面ダムに到着したのは、もう午前十一時半近くのことだった。初夏の明るい日差しを浴びて、ダムの上流一帯の山々の急峻な斜面が鮮やかなライトグリーンに輝いている。とくに景観のきわだったダムというわけではなかったけれども、人影のほとんどない静寂そのもののたたずまいは、我々の旅愁を誘い深めてくれるには十分だった。
 三面ダムの入り口付近から始まる朝日スーパー林道は、ダムの右手山腹を切り進むようにして朝日山系の奥へとのびている。さあいよいよ林道に入るぞ、と勢い込みかけた途端、まるで出鼻をくじくかのように、左手にある道路情報表示板のつれない文字が目に飛び込んできだ。なんと、三面川の支流にある猿田川沿いのキャンプ場付近までは通れるが、それから先、山形県方面へは通行できないと記されている。この冬の豪雪のため朝日山系の各所で雪崩が多発し、その影響で林道が不通になっていて、その修復作業が行われているためらしい。
 いったんはここから引き返すしかないと思いかけたのだが、気をとりなおして、まずは行けるところまで行こうということになった。車で旅をしていると、前方通行不能を知らせるこの手の表示板によくであうことがある。そんなとき、どうかと思いながらも実際に現地まで行ってみると、非常用の迂回路が設けられていたり、工事現場の作業員の特別な配慮があったりして、案外通れてしまうことも少なくない。せっかくここまで来たのだから、一か八か賭けてみようということになったのだった。

 車は、激しくエンジンをうならせながら、左へ右へと大きくうねる急峻な隘路を懸命によじ登っていく。一応は舗装はされているので凹凸は少ないが、なかなかの道であることには変わりない。ときおり工事用のものとおぼしきダンプとであい、ぎりぎりにすれ違える地点までバックするという事態も起こった。だが、奥へ奥へと進むにつれ、目に見えて若返る樹々の緑の美しさは、そんな苦労を補ってあまりあるものだった。
 垂直に切り立つ林道沿いの渓谷は刻々とその深さを増し、渓谷の両側に聳える山々は、黒ずんだ荒々しい岩肌をむきだしにして我々の目を圧倒しはじめた。そして、周辺を彩る緑の輝きはいっそうみずみずしさを際立たせていく。走ってみてはじめて実感するのだが、さすがにこの山系は奥深い。もうずいぶんと山間深くにに分け入った気がするのだが、地図で確かめてみると、まだまだずっと奥へとこの谷は続いている。
 林道が大きく北へと転じる猿田川ダム脇を過ぎ、右手に猿田川の渓谷を見下ろしながらしばらく進むと、急に展望が開け、残雪をまだ全身にまとったままの朝日連峰の主稜が姿を現した。千八百メートル前後というその標高からは想像もできないほどに堂々としていて、なんともいえない存在感にあふれている。身体の大きさだけではその人間の存在の重さをはかれないのと同様に、標高や単なる山体の大きさだけではその山の奥深さをはかりしることはできない。我々はしばし車を停めてその雄姿にじっと見入った。
 運がよければ山形方面へと抜けられるかもしれないという我々の甘い期待は、猿田川キャンプ場を少し過ぎたあたりまで進んだ時点であえなく吹き飛んだ。頑強な鉄製の車止めが行く手を冷たく阻んでいる。たとえ力ずくで車止めを突破しようにも、これではまったく歯がたたない。引き返すのはどうにもしゃくだが、やむを得ないようである。我々は、いったんその場に車を駐めると、すぐ脇を流れる猿田川畔におり、昼食をとりながら善後策を練ることにした。
 来た道をそのまま村上まで引き返し、単純に国道を北上するというのは、「通ったことのある道や、車の多い国道は極力避ける」という、かねてからの我が旅のポリシイに相反する。そもそも、「奥の脇道を放浪する」という今回の旅の名目にそぐわない。転んでもただでは起きないのが我々の旅の精神とあらば、ここはなんとか打開策を講じねばなるまい。
地図を眺めながら思案するうちに、三面川本流と猿田川との分岐点まで戻ったあたりから山形県南部の小国町方面に向かって南下する林道があることに気がついた。かなり南に戻ることにはなるが、この面白そうな脇道を抜けて小国町、飯豊町と走り、飯豊から朝日山系の東側を迂回して朝日町、大江町方面へ北上すればよい。ちゃんと地図にも載っているくらいだから、通れないことはないだろう。思惑通りにことが運ぶかどうかはわからなかったが、ともかく、次善のルートはこうして決まった。
 昼食をすませて河原から車へ戻る途中、我々は不思議なものを目撃した。ブナの巨木に何重にも巻きついた足の付け根ほどの太い藤が、力ずくでズタズタに寸断され、枯れ死んだ光景だった。ブナの幹のほうにも、藤が深く喰い入ったあとがネジの溝のようにはっきりと刻み残されている。それは、森の大蛇「藤」と森の巨人「ブナ」との、何百年にもわたる、静かな、しかし命をかけた凄絶な戦いの跡だったのだ。「結局、ブナが勝ったんや……」という渡辺さんのさりげない一言が、なによりもよくその状況を物語っていた。
 たぶん、初めの頃は、成長のはやい藤がブナを圧倒していたのであろう。いったんは絞め殺されそうになったブナは、それに耐えながらも逞しく成長し、やがて、ひそかに蓄えたヘラクレズなみの力で、藤をずたずたに引きちぎってしまったに違いない。

 我々は、車に戻るとすぐに問題の林道の分岐する地点まで引き返した。、その林道入口に立つと、またもや開閉式ゲートがあって行く手を阻んでいるではないか。ただ、通行止めだという表示はとくにない。渡辺さんと二人で試しにゲートの重い鉄製のバーを持ち上げてみると、きしみながらではあるがなんとか開いた。谷奥へと続く荒れたダートの細道には、かなりまえのタイヤの跡らしいものがまだかすかに残っている。安全の保証はしないが、通ろうという意志のある者は勝手に通れという意味だと、都合よく解釈した我々は、車を林道内に進入させると、再びゲートを閉じた。
 林道右手は三面川本流の狭く切り立った谷である。路肩に十分な注意を払いながら走りだしてほどなく、前方に、巨大な岩峰をくりぬいて造った不気味なトンネルが現れた。その名も「金壺トンネル」とある。まるで昔の手掘りの洞門そのままの暗く細いトンネルで、むきだしの岩がごつごつと内壁全面にせりだしており、しかも、車が一台やっと通れるかどうかという狭さである。トンネルのずっと奥のほうは文字通りの真っ暗闇、ライトに浮かぶ手前の路面も地肌むきだしで凹凸がひどく、湧水とそれによってできた水溜りらしいものがあちこちに見えている。一時代前、未整備だった南アルプス白鳳渓谷の林道などでこの手のトンネルにいくつか遭遇したことはあったが、近年では珍しいうえ、凄みにおいてもそれらにまさるともおとらぬ代物だった。
 無謀でなる我々も、さすがに一瞬躊躇しかけたが、いかに恐ろしげに見えてもトンネルは所詮トンネル――人間が造ったものであるかぎり向こう側に必ずや出口があるはずだと確信して、ままよとばかりにその闇の中へと突入した。
 トンネル内の路面はあちこちがえぐれていて、想像していた以上に凹凸がひどかった。また、えらくぬかる場所がところどころあるうえに、深く落ち窪んだ穴には湧水が溜ってその状態が読み取れない。おかげで、徐行しているにもかかわらず、車体は激しく上下し、ちょっとでも油断油断すると、天井や左右の壁から突き出た無数の岩角にひっかかりそうになる。ふんだんに水分を含んだ黒い玄武岩質の岩壁はヘッドライトの光を吸収してしまうため、暗くて先がよく見えない。おまけに、このトンネル内の路面全体は上下左右にかなり起伏したりカーブしたりして、視界の悪さに拍車をかけている。
 百メートルほど進んだところでふと悪い予感を覚えはしたが、いまさら引き返すわけにもいかない。ここはひたすら突進あるのみだ。助手席の淳さんも、胸中の不安を押し殺すように黙って前方を見つめたままだった。異常な圧迫感と閉塞感に襲われながらも、我々は奥へ奥へと進んでいった。天井の岩盤の隙から降りかかる湧水がフロントガラスを激しく叩く。ワイパーで視界の確保をはかろうとすると、次の水しぶきが襲ってくる。予想外の事態の連続とあって、三、四百米奥へと進んだころには、ほんとうにこのトンネルは向こう側へと通じているのだろうかという疑念が、胸の奥に渦巻きはじめた。
 悪い予感が現実のものとなったのはその直後だった。ヘッドライトに切り分けられた前方の闇を、次の瞬間、我々は愕然として見やったのだった。なんと、トンネルはその先で行き止まりになっていたのである。どうやら、落盤か何かの事情で不通になって久しいらしい。進退きわまったとはまさにこのことである。Uターンはまったく不可能だから、このままバックするしかないが、前進するのだって容易ではなかったというのに、この悪条件のなかで、バックして無傷のままでトンネルの入り口まで戻るなんて神業に近い。
 「まったく今日はついていないなあ、いったいなんでこんなことに?」――心中でそうぼやきながら、気持ちを落ち着けようとしていたら、皮肉とでもいうか、突然、あることを想い出した。朝起きてからずっと何か忘れているような気はしていたが、実を言うと五月三十一日のこの日は結婚記念日だったのだ。しかも、結婚当時既に他界していた私と家内それぞれの祖父たちの命日にもあたっている。もう遠い昔の話だが、結婚式当日は仏滅だったというおまけまでついていた。
 「もしかしたら、こりゃ、カミさんとご先祖様の祟りかな?……いまごろ、わが家じゃ、カミさんが、ご先祖様の位牌にお線香でもあげながら恨み言を呟いていたりして……そんならまあ、こっちも負けずに呪い返してみるとするか」――などと、半ば冗談めいた想いをめぐらせながら、バック運転でトンネル脱出という神業への挑戦にとりかかった。
 リヤウィンドウは跳ね上げた泥と天井から滴る湧水のために曇ってしまい、ワイパーを動かしても部分的にしか視界がきかない。しかも、バックライトの光は暗いから、ぼーっとしか周囲が見えない。そのうえ上半身をうしろにひねった無理な姿勢での片手運転ときているから、たとえ路面が平坦であっても、車幅ぎりぎりに迫る岩壁に車体を擦らず切り抜けるのは難しい。ましてや、この難路面ときたら、えぐれて凹凸がひどく、あちこちぬかるうえに、微妙にカーブしながら出口まで三・四百米も続いていいる。
 尺取り虫のようなペースで一進一退を繰り返しながらではあったが、最小限の擦り傷を被った程度でなんとか脱出できたのは、不幸中の幸いだったといってよい。もし車が四輪駆動車でなかったら、後部動輪が深く路面に食い込み空回りして動けなくなっていたに相違ない。悪戦苦闘の末にかろうじて地獄の闇から脱出し、バック運転のままでゲート前に辿り着いたきには、二人ともに精も魂も尽き果てる寸前だった。
 自分たちの無謀な侵入は棚にあげ、あのゲートこそ絶対に開かないようにしておくべきだなどという愚痴をもらしながら、やむなく村上まで引き返えしにかかった我々だっが、途中でまた脇道病の発作がむらむらと湧きおこった。懲りないご主人様方の気まぐれな命令のゆえに、かわいそうな車はまたもや間道に突入するはめになったのだった。


「マセマティック放浪記」
1999年9月22日

奥の脇道放浪記(4)
月山と最上川
絵・渡辺 淳

 月山と最上川に魅せられて――越後路から庄内平野へ

 地図を詳しく調べてみると、農道ないしは生活道路とおもわれるかなり細い道が、山麓や山間部を縫うようにして山北町方面へとつづいているではないか。朝日スーパー林道のスケールにはおよぶべくもないが、それなりには面白そうな道である。脇道狂の我々には、むろん、もってこいのコースだったから、それを見逃す手はなかった。
 布部から中野、黒田、関口、北大平と、小集落をつなぐ高原の道の両側には、牧歌的という言葉がぴったりの風景が広がっていた。車窓をつぎつぎに走り去る緑のいのちの一枚いちまいの輝きが実に美しい。なんでもない小川の水の流れまでが異様なまでに澄みきって見えるのも気のせいばかりではないだろう。北大平を経て川沿いに高根の集落にはいるころには、谷がまたかなり深くなった。
 高根から山北町方面へ抜けるには、北へのびる林道伝いに、天蓋山と鰈山の鞍部を越えなければならない。すくなくとも標高五・六百メートルの山越えになることは間違いない。谷筋の道に別れを告げた我々は、急斜面をほぼまっすぐにのぼる林道に入った。その道は途中の天蓋牧場付近までは舗装されていたこともあって、ぐんぐんと高度はあがり、展望がいっきにひらけて、遠くの山並みが美しい一幅の水墨画のように浮かび上がった。こんなところまでわざわざやってくる旅人などまずいないだろうが、それにしても、我々だけで眺めるにはもったいないくらいの景観である。
 ところが、そんな快適なドライブもつかのま、またもや、前方左手にぎょっとする立て看板があらわれた。大きな字でこれみよがしに、「このさき工事中につきと車両通行止め」としるされているではないか。結局は村上市街までもどらなければならないというのだろうか………。いったんは諦めに近い気分になりかかったのだが、もしかしたらと気を取り直して、とにかく工事現場まで行ってみることにした。
 作業現場は天蓋山牧場からすこし奥に進んだあたりで、かなり大規模な道路拡張工事がおこなわれているところだった。工事現場の手前のほうで仕事中の若い作業員に、おそるおそる、通してはもらえないだろうかと尋ねると、奥のほうにいる責任者にきいてほしいという返事である。どうせ駄目だろうなと観念しながら、車を停めてしばらくためらっていると、作業責任者らしい男がこちらのほうに向かって大きく手招きするのが見えた。どうやら、通してやるということらしいかった。
 五月三十一日の祟りもここにきてようやくおさまってきたというわけだ。おまえにはもっと祟ってやりたいが、同乗の渡辺さんを巻き添えにするのは申し訳ないから、このへんで勘弁してやろうということになったのだろうか。勝手にそう納得した私は、ともかくもほっとしたおもいで問題の工事現場を通り抜けた。だが、どうやらその読みは甘かったらしい。ずっとのちになって明らかになるのだが、目に見えない祟りの魔の手は淳さんにもとりついていたらしいのだ。
 工事現場を過ぎてほどなく、林道は車一台がやっと通れるほどに細く狭いダートとなった。岩肌のむきでた凹凸のひどい道が峠へとつづいている。「乙女峠」というその名を「意地悪婆さん峠」とでもあらためたほうがよさそうな悪路の峠路をのぼりつめると、東方はるかに、なお冠雪を戴く朝日連峰の山々が望まれた。そのたたずまいはなんとも神々しいばかりである。通行止めをくらって引き返した朝日スーパー林道の走る谷筋は、深く黒ぐろとした切れ込みを見せて南北にのび、一部は霧の下に沈んでいる。幻の怪魚タキタロウで名高い秘境大鳥池を懐深くに抱え込む朝日山系の広大さを、我々はあらためて実感させられるおもいだった。
 山北町方面へ向けて林道は下りとなったが、狭い路面は相変わらず凹凸が激しく、ところどころひどくぬかった。車もほとんど通ることがないとみえ、道の両側から樹の枝が路上を覆うようにのびだしているところもある。車ごとそれらを押し分けるようにして進みながら、かなり時間をかけて大毎の集落にでた。大毎で再び国道七号に合流し勝本にでてからは、素直に海岸沿いの国道を北上し、山形県に入ってほどないところにある温海温泉へと向かうことにした。岩崎あたりから東の山間部へ分け入る脇道があるのはわかっていたが、あえてその道は選ばなかった。昨夜は風呂にはいれなかったので、今夜くらいは温泉で旅の汗を流そうとかということになったからである。

 山形県に入り、鼠ヶ関の海岸付近にさしかかったときには、夕闇が迫り小雨が降りはじめていた。かの松尾芭蕉は、随行の曽良とともに、いまから約三百年前の元禄二年(一六八九年)の旧暦六月二十七日に、温海から村上方面へ向かってこの鼠ヶ関を通過した。彼らが出羽から越後を経て越中へと北陸道沿いに旅したこの時期は、現在の暦では、七月下旬から八月中旬にかけての猛暑の頃に相当している。
 奥の細道の越後路の部分に、「鼠ヶ関を越えるといよいよ越後の地で、気分を一新してさらに歩き続け、越中の国の市振の関についた。この間は九日ほどを要したが、猛暑や悪天候のなかをおしての苦労多い旅だったので、気分が悪く憂鬱で、すっかり体調を崩してしまった。だから、道中のことは書かないで終わってしまった」という意味のことがしるされている。よほど大変だったらしいのだが、その間に吟じたのが「荒海や佐渡によこたふ天河」の名句だったというのだから、おそれいる。
 酒田から親不知の難所でしられた越中市振までの旅をわずか数行の文章でかたづけてしまった背景について、実際は体調がひどく悪かったわけではなく、その時代随一の文人が特筆するに値するような名所旧跡がなかったから簡単にすませたのだとか、芭蕉という人物を理解できる人が越後にはすくなく、なにかと不快な思いをしたから省略したのだという憶説もあるらしいが、ずいぶんと越後の人々には失礼な物言いのようにおもえてならない。実際に旅してみると、越後路は変化に富んでいて美しいし、また、今と昔の違いがあるとはいえ、越後の人々の人情はこまやかそのもので、文化に対する造詣も深いからである。
 芭蕉ほどの漂泊の精神の持ち主なら、たとえ名所旧跡として伝わるところがすくなかったとしても、そのぶん、かえって先入観なしに未知の越後路の旅を楽しめたはずである。奥の細道のなかにこそ収められてはいないが、「罪なきも流されたきや佐渡ヶ島」という一句などは、そんな芭蕉の精神をなによりもよく物語っている。また、陸奥への旅立ちに際してその心境を述べた、「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」という一文もそのことをはっきりと裏づけている。そもそも、自分を理解してくれる人がいないというだけで気分を害して、その地方の旅の記録をはしょってしまうような人物に、あのような崇高な輝きをもつ一連の紀行文を綴ることができたとはおもわれない。やはり、相当に体調が悪かったか、他にそれなりの事情があったのだろう。
 ちなみに、芭蕉一行が通ったとおもわれる鼠ヶ関から市振海岸までの道程の距離数を現在の道路地図をもとに概算してみると、ちょうど三百キロメートルほどになる。芭蕉はその間九日ほどかかったとしるしているが、曽良日記などをもとに詳しく調べてみると、実際には十四日を要している。ただ、村上で二泊、直江津で二泊、高田で三泊しているようだから、越後路の旅そのものに要した日数は十日である。芭蕉の記録と一日のずれはあるが、十日で三百キロを踏破したとすれば、一日平均三十キロを歩いたことになる。平均時速四キロで一日に実質八時間近く歩くというこの旅のペースは、異常なまでの高温多湿にくわえて十四日のうちで九日が雨天だったという事実を考慮すると、なかなかのものである。途中四日の休養は、やはり芭蕉の身体の不調を暗示していると考えてよいだろう。
 芭蕉一行よりも二ヶ月近く早い緑も爽やかなこの時節に、文明の利器を操って、彼らとは逆に陸奥へと向かって北上する身には当時の旅の苦労などわかろうはずもなかったが、鼠ヶ関を通過しながら、遠い昔の芭蕉と曽良の炎天下の道行きにそんな想像をめぐらせた我々だった。
 鼠ヶ関をすこし過ぎたところで車を停めた我々は、夕潮の騒ぐ近くの磯辺に降り立って晩飯の味噌汁の具の調達を試みた。岩を伝い歩きながら水中をのぞき込むと、「若布(ワカメ)」と称するにはいささか年増な感じではあったが、十分食べられそうな「もとワカメ?」がゆらゆらと揺れている。期待通りのことの運びにニンマリした我々は、ほどよい量そのワカメを採取して車に戻った。
 ほどなく激しくなった雨のなかを走り抜け、国道からすこし奥まったところにある温海温泉街に着いたときには、あたりはすっかり暗くなっていた。我々は、給油に立ち寄ったスタンドで紹介された共同浴場を探し当てると、なにはともあれ、一風呂浴びることにした。温海温泉街のなかほどにあるこざっぱりした共同浴場には番台がなく、かわりに、一人二百円ずつの協力金を備え付けの箱に入れてほしい旨の貼り紙がしてあった。ふたりあわせて四百円の協力金を投入し弱塩泉の温泉につかると、旅の疲れと緊張がいっきにほぐれるおもいだった。入浴料がわりの協力金が何千円何万円にも値しているかのように感じられ、なんとも満たされた気分だった。
 ところが、浴室を出て身体を拭き衣服を着ているあいだに、あることに気がついた。次々に浴場にやってくる入浴者の誰もが二百円の協力金を払う様子がないのである。どうやら、近隣の人々は皆、非協力的(?)にこの共同浴場を利用しているらしい。すでに十分な協力をしてしまった我々は、お互い顔を見合わせながら、ちょっと複雑な気分になった。さきほど払った四百円の協力金が、だんだんと落としてしまった何千円何万円ものお金にも相当するようにおもわれてきたから、人間なんてなんとも勝手なものである。

 ともかくも旅の汗を流しおえてさっぱりした我々は、国道筋にはもどらず、温海川に沿って谷をのぼり、温海川ダムサイトの駐車場に車をとめた。時刻はもう八時半をまわっていた。
 火をおこし大急ぎで調理して食べた晩飯がわりの冷凍鍋焼きうどんは期待以上にうまかった。そして、鼠ヶ関の磯辺で拾ってきた年増ワカメを具にしてつくったワカメ汁も実にいい味だった。だが、このワカメ汁がなまじいい味だったことが、翌日の珍事につながろうとは想像もつかないことだった。
 食事をすませ食器をかたづけ終えたあと、明るいランプを灯して、渡辺さんは一日のスケッチの整理に、私のほうは旅のメモのまとめにとりかかった。一段落つけ、車の窓のカーテンをひいて眠りについたのは十一時半頃だったようにおもう。

 翌朝は夜半の雨がうそのような晴天となった。簡単に朝食をおえた我々は、すぐに、楠木峠を通る山寄りのルートをとって鶴岡方面へと走りだした。庄内平野に入るとほどなく、前方には残雪をまとい輝く鳥海山の姿が現れ、車窓右手には、やはり残雪の冠を戴いた月山の大きくのびやかな山影が視界いっぱいに広がった。なんとも雄大な風景である。渡辺さんが急いでスケッチブックを開く気配を察知した私は、それに呼応するかように車の速度を落とし、徐行運転の態勢に入った。
 全体的に落ち着いた雰囲気の鶴岡市街を抜け、余目方面に向かう広域農道にはいると、一面に田園風景が広がった。米どころ庄内平野は田植えが終わったばかりで、まだ若い緑の稲が涼風に揺れて美しい。前後から我々をはさむようにして大きく迫る鳥海山と月山の姿は圧巻というほかない。爽快な気分でしばらくアクセルを踏み続けると、そこだけ小高くなった最上川の堤にでた。むろん、我々は車から降りて、それぞれに名高い川と平野と二つの山とが織りなすその景観をこころゆくまで楽しむことにした。そして、憑かれたようにスケッチの筆をとる渡辺さんのかたわらで、私のほうは、雪融け水を満々と湛える最上川の水面に見入りながら、久々にささやかな歌を詠み呟いた。

 かなしみの雪をばいまは温かく包み融かして最上川ゆく

 実をいうと、いまから十七・八年ほど前の八月末の夕方のこと、私はこの対岸の堤沿いの道を、やはり最上川の水面を眺めながら独りあてどもなく旅していた。大きく真っ赤な夕陽がちょうど西の地平線へと落ちていくところで、西の空とそれを映しだす最上川の川面全体がごうごうと音をたてて燃えさかるような感じだった。その凄じいばかりの夕映えは、この世の隅々で生きる人々の無数の悲しみや苦しみが流れあつまってできた煩悩の大河が、いま浄化の海に還るのをまえにして、天地を深紅に染める巨大な火柱となって燃え盛る光景をも連想させた。

 天地(あめつち)にたゆたいめぐる悲しみの流れ燃え立つ夕最上川

 この歌はそのときに詠んだものだが、それはそれでうつろい揺れる当時の私の心のうちを反映し象徴していたようにおもう。それにくらべると、この旅で出逢った最上川の姿は、なんとも温かく穏やかなものに感じられた。
 再び車に戻り、最上川にかかる庄内橋を渡って余目町から松山町にはいるとすぐに、「眺海の森」と記された案内板が目にとまった。眺望絶佳とうたわれている。一瞬、「鳥海の森」の誤記ではないかとおもったが、どうやらそうでもないらし耳にしたことのない地名なので、そのうたい文句にちょっと首をかしげかけたが、ともかく、だまされたつもりで訪ねてみようではないかということになった。

 

「マセマティック放浪記」
1999年9月29日

奥の脇道放浪記(5)
偽羅漢への懲罰と祟り
絵・渡辺 淳

 偽羅漢への懲罰と祟り?――眺海の森から鳥海山へ

 道路標識に導かれるままに松山町の集落の背後にある小山をいっきに登りつめると、急に視界がひらけ、ゆるやかな起伏の広がる高みにでた。森というよりは緑の芝生とお花畑に覆われた公園といった感じだったが、そこがほかならぬ眺海の森だった。十分に整備の行き届いた敷地内の小高いところを選んで、いくつか展望台が設けられている。車から降りてそれらの展望台のひとつに立った我々は、その雄大な景観に思わず息を呑んだ。眺望絶佳といううたい文句にだまされたつもりで訪ねてみた眺海の森だったが、その看板に偽りはなかった。

 眼下に広がる庄内平野のただなかを大きくうねり流れる最上川の川面は、やわらかな日差しを浴びて、すずやかに輝いて見えた。そして、最上川の河口があると思われる方角に目をやると、「眺海」という言葉にたがわず、青霞む日本海の海面が遠望できた。まだお昼前とあって太陽は空高くに位置してはいたが、ここから西に沈む夕陽を眺めたらさぞかし綺麗なことだろう。庄内平野の奥まる方へと目を転じると、白く輝く月山連峰が、そして、 そのすこし右手には、昨日越えそこなった朝日山系の山並みが遠く連なって見えた。
 だが、圧巻と形容してもあまりあるのは、眺海の森の北側の展望だった。あの白銀の冠を戴く鳥海山の雄大な山影がいまにも手の届きそうなところに迫って見えていた。どうやら眺海の森の「眺海」という二文字には、暗に「鳥海山を眺める」の意味をも含ませてあるらしい。それにしても、こんな素晴らしい展望台があることにこれまで気づかずにいたなんて、なんとも信じられないか思いだった。
 眺海の森からの大自然の眺望を存分に楽しんだあと、我々は広大な敷地の一角にある森林学習展示館を見学したが、この展示館の展示物には、しらずしらずのうちに見学者の興味をかきたてる斬新な工夫がいろいろとなされていて、とても感心してしまった。この地を訪ねる機会のある方、とくにお子様連れの方々には、ちょっとだけでものぞいて見ることをおすすめしたい。展示館を出たあと、駐車場の近くにある外山ロッジに立ち寄り、牛丼とソバを組み合わせた八百円のセットメニューを注文し昼食にしたが、なかなかの味だった。もっとも、これは、二人で長岡を出発して以来はじめての外食だったから、そのぶん、よりいっそう美味しく感じられたのかもしれない。
 眺海の森をあとにする直前になって、私は、敷地中央近くの展望台通路の脇に「三太郎の日記」などの作品でしられる阿部次郎の記念碑がたてられているのに気がついた。どうやら、阿部次郎はこの松山町の出身で、鳥海山や月山、最上川などを日々眺めながら育ったらしい。私が高校生だった頃には、小林秀雄、亀井勝一郎らの文章と並んで阿部次郎の文章もよく教科書などにとりあげられていたもので、当然、大学入試にもその文はしばしば出題された。だから、三太郎の日記を読もうと試みたことが何度かあったが、高校生の身にはきわめて難解な思弁性の強い文章だったので、いつも頭がくらくらしてきて、結局、完読はできずにおわってしまった苦い想い出がある。
 阿部次郎自らの姿を投影した三太郎なる人物は、作中のあちこちで自身のことを痴者と嘲っていたものだが、もともとささやかな能力しか持ち合わせない私などは、その痴者の吐いた膨大な言葉の一端さえも満足には理解できずに頭を抱え込んでいたようなわけだった。それにしても、あの相当に屈曲の多い内省的な文章を書いた阿部次郎が、この雄大な自然の中で幼少期を送ったという事実は、私にすればずいぶんと意外なことのように思われた。
 眺海の森に別れを告げた我々は、国道三四五号伝いに平田町、八幡町を経て、広大な鳥海山の南東山麓に位置する遊佐(ゆざ)町に入った。ガイドブックにこそ紹介されていないが、五月から六月にかけての遊佐町の田園風景は実に素晴らしい。田園風景とは、まさにこのような景観のことを言うに違いない。私はこれまでにも二、三度、緑の輝く時節に遊佐を訪れ、農道の片隅に車を駐めてカーステレオから流れ出るベートーベンの六番「田園」に心ゆくまで聴き入ったことがあるのだが、ある意味でそれは最高の贅沢だったといってよい。もっとも、このときは、遊佐の町に入ってほどなく、渡辺さんも私も急に眠気をもよおしてきたため、田圃の畦道に車を寄せ、鳥海山を眺めながら一時間ほど昼寝することにした。

 ひと眠りしたあと、再び吹浦方面に向かって走りだした我々は、ほどなく月光川という美しい名の川を渡った。たぶん、満々と水を湛えたこの静かな川の水面には、満月の晩など、月の光が幻想的な輝きを見せながら映えわたるのであろう。その晩の月はちょうど満月にあたっていたから、月が東の空に昇るまでこの地に留まってその名の由来を確かめてみたい気分ではあったが、まだ午後三時前だったので、とりあえずは心の中で月見をしながら旅路を急ぐことにした。
 空は晴れわたっていたにもかかわらず、吹浦が近づくにつれ、目に見えて風が強まってきた。水田の青々とした稲の苗が激しく波打っている。地図を見ての私の推測だが、日本海から吹き寄せる気流が高く大きく聳える鳥海山にぶつかり、それを回避するかたちでこの吹浦一帯を通過するせいなのかもしれない。地形上このあたりが風の通り道になっているとすれば、吹浦というその地名も納得できるというものだ。吹浦の集落で国道七号に合流してほどなく、鳥海ブルーラインの山形県側入り口にある駐車場に到着した我々は、すぐ近くの荒磯にある十六羅漢岩を訪ねてみることにした。十六羅漢岩は、鳥海山の山裾が日本海に大きくせりだした、吹浦の集落の北はずれの地点に位置している。
 松尾芭蕉の一行は、酒田から海沿いにこの吹浦さらには有耶無耶の関を抜け、いまは秋田県に属する象潟まで北上し、そこを奥の細道の旅の北限の地として再び酒田方面に南下した。余談になるが、平成八年十一月二十五日、「奥の細道」の芭蕉直筆本が関西で発見確認されたというニュースが全国に流された。実は、同年の三月末に私がささやかな紀行作品で奥の細道文学賞を受賞した際、主催者側のはからいで、選考委員の大岡信、尾形仂の両先生がたと歓談しながら会食をする機会に恵まれた。
 その席上、大岡先生が、尾形先生にむかって奥の細道の真筆が発見されたという話が内々に伝わっているが、本物なのかという問いかけをなされ、それに対して、尾形先生は、いま専門家が確認中だが、ほぼ間違いないのではないかとお答えになっていた。そして、現在は民間人の手にあるものなので、公的なところが買い取るとなると、途方もない金額が必要になるだろう……奥の細道ならぬ文字通りの「億」の細道だという洒落を飛ばされたりもしておられた。それから八ヶ月をかけて慎重な検討がなされたあと、ようやく公に直筆本だとの確認発表がなされたわけだが、未熟な作品で芭蕉ゆかりの文学賞を受賞した同じ年にたまたま奥の細道の真筆が発見されるという望外なめぐりあわせに、いまも私は不思議な感慨を覚えている。

 巨大な十六羅漢岩は、日本海の荒波の寄せる磯辺に、なんとなく鶏冠を想わせるたたずまいで聳えていた。岩の正面にまわると、なるほど、釈迦如来に普賢、文殊の両菩薩とおもわれる中央の三像を両側からはさむようにして、十六体の羅漢像がずらりと岩に彫りこまれている。参詣者を見下ろすように並んではいるが、どこか愛嬌があるその表情には親しみがもてた。つい茶目っ気を起こした我々は、お釈迦様とおもわれる大きな彫像の前まで交互によじ登り、そこで座禅まがいのポーズをつけて写真を撮りあった。十六羅漢岩を十七羅漢岩に変えてしまおうという魂胆だったが、私が渡辺さんの姿をレンズでとらえ、シャッターを切ろうとした瞬間、修業不足の偽羅漢どもめがといわんばかりに、岩のお釈迦様が一瞬ニヤリとなさったような気がしたのは、私の思い過ごしだったのであろうか……。
 羅漢岩のある岩場の周辺の海中には質のよさそうなワカメがはえていた。昨夜食べたワカメ汁は想った以上に美味かったから今夜もまたワカメ汁をつくろうということになり、再び我々はワカメ採りを始めたのだった。激しく潮の寄せ引きする浅瀬に浮かぶ小岩を伝い歩きながら、水中に腕を突っ込んでワカメを採るのだが、足場の岩にはぬるぬるとしたアオサが一面に生えていて注意しないと滑ってしまう。海育ちの私は、幼い頃からこの手の岩場を歩くのには馴れていたが、すこし離れたところにいる渡辺さんの様子を横目でちらりとうかがうと、どうもその足取りは危なっかしい。長年山仕事で鍛えた渡辺さんは健脚には違いないが、磯の歩き方にはまたそれなりのコツがあるからだ。
 ちょっと離れたところにある岩に飛び移ろうとしている渡辺さんを見て、思わず危ないですよと声をかけようとしたのだが、次の瞬間、魔がさしたとでもいうか、まったく別の思いが私の脳裏をよぎったのだった。我々が東北地方を放浪すると知ったある編集者から、旅から戻ったあと、その放浪記を書いてもらえないだろうかという打診を受けていた。人間の心とは、なんとも厄介かつ意地悪なものである。正直に告白しておくと、その編集者の顔を思い浮かべながら、もしもここで渡辺さんが海にはまるような珍事でもあれば傑作な放浪記が書けるのになあと、私は心の中で思ったのだった。
 いつしか渡辺さんにもとりついていたらしい五月三十一日の祟り(?)と、ふとどきな偽羅漢に対する十六羅漢岩のお釈迦様からの懲らしめと、魔の手にそそのかされたとしか言いようのない私の思念の働きとの三重攻撃にあったのでは、いくらなんでも耐えられようはずがない。その二、三秒後のこと、はずみをつけて向かいの岩に渡ろうとした渡辺さんは、アオサの面にものの見事に足をとられ、もんどりうって冷たい海中に転落した。浅瀬だったから命に別状はなかったものの、これが岩場の先端のもっと深いところだったら、渡辺さんを助けるため私も即座に飛び込まねばならなかったろう。
 お釈迦様にすればそれこそが本望であらせれたのかもしれないが、もしこの身のほど知らずの連中に溺死でもされ、間違っていますぐに天上界にでもやってこられたらとても面倒などみきれないと、途中で思い直されたものらしい。そうでなければ、隣の普賢、文殊の両菩薩様が、「お釈迦様、お釈迦様、お腹立ちでしょうが今日のところはこの程度で……」となだめてくださったのであろう。
 全身ずぶ濡れの渡辺さんと大急ぎで車に戻り、ヒーターを入れて車内を温め、まずはその着替えを手伝った。幸い、駐車場の一角に水場があったので体を拭いたり、潮に濡れた衣服を水洗いすることはできた。水場で渡辺さんが衣類の潮抜きをなさっている間に私はもう一度岩場に降りて、いますこしワカメと亀の手を採取した。その名の通りどこか亀の手に似たところのあるこの異形の貝は、波の激しい磯辺の岩のすき間に群生しているが、綺麗な海水でさっとゆでて食べるとその姿形からは想像もつかないほどに美味い。むろん、採った亀の手をゆでるために海水をペットボトル詰め込むことも忘れはしなかった。
 十六羅漢岩そばの駐車場をあとにし、鳥海ブルーラインに入ったのは午後五時半頃だった。ぐんぐんと高度が上がるにつれ、道路の両側にまだ厚いままの残雪の層が現れた。この冬、いかに雪が多かったかが偲ばれる。よく見ると残雪層の下部のあちこちから柔らかそうな蕗の薹が芽をだしていた。あんな瑞々しい色のものなら間違いなく美味いからと勇んで車から降りた渡辺さんは、先刻の名誉挽回とばかりに、すぐさまたくさんの蕗の薹を採取して戻ってきた。ワカメ採りではちょっとばかりしくじったが、ここは山育ちの渡辺さんの腕の見せどころに違いない。ともかく、こうして、その夜の食事の用意は万全となった……はずであった。
 三十分ほど走って着いた鳥海山中腹の大平台に立つと、遊佐から酒田方面へとのびる広大な平野が、おりからの夕陽を浴びて赤緑に映え輝いて見えた。また、はるかに、月山や朝日山系の白い峰々を望むこともできた。大平台からの眺望を満喫したあと、鉾立を経て秋田県側の象潟方面へとくだる途中で、太陽は日本海を紅く染めながら水平線の向こうへと沈んでいった。夕闇の迫る日本海のただなかに、ひとつぽつんと平たく浮かぶ飛島の島影が私にはなんとも印象的に思われた。ブルーラインの秋田側ゲートを出て象潟の町に近づく頃には、黄昏の中にほの白く浮かぶ鳥海山の左肩に満月がのぼってきた。その月は、まわりを氷のかけらで固められているみたいにぼーっとにじんだ色の光を放ち、ほどなく深い眠りにつこうとする鳥海山の稜線を神秘的な彩りに演出して見せてくれた。
 国道七号に合流したあと、我々は奥の細道の旅路における北限の地、象潟をいっきに通過した。芭蕉の時代、美しい入り江に数々の小島が浮かび、松島と並び称せられる景勝地であった象潟は、文化元年(一八〇四年)の大地震で水底が隆起して干上がってしまい、いまでは松をいただく小丘のみが点在するだけになっている。
 潮に濡れた渡辺さんの身体を洗い流すためもあって、象潟から北にすこし行ったところにある金浦温泉のホテルに立ち寄り、入浴だけをさせてもらった。そして、そのあと、我々は西目町付近の海岸近くに車を駐め、遅い晩飯の支度に取りかかった。ちょっと奇妙な取り合わせであったが、ナメコ豆腐とワカメ入りの味噌汁をつくっていると、渡辺さんが、これを一緒に入れると美味いよと言いながら、煮立った鍋汁の中に先刻採ってきた蕗の薹を次々に勢いよく放り込んだ。内心、大丈夫かなと思ったのだが、蕗の薹の調理にあまり詳しくない私は、渡辺さんの言葉と経験を信じるしかなかった。
 さぞかし珍味であろうとおもわれる味噌汁を一口味わおうとした渡辺さんの顔は奇妙にゆがんだ。「本田さん、こらあかんわ、ごめん!」……というのが、その直後に渡辺さんの発した言葉だった。いったい何事かと、私もおそるおそるその味噌汁を口にしてみると、なんと味噌汁の味がまるでしない。かわりに、明らかに蕗の薹の強いアクのせいだとおもわれる、ちょっと苦味ばしった異様な感覚が口いっぱいに広がった。ナメコも豆腐もワカメも、さらには味噌汁そのものもみんな同じ味がするではないか。あまりの珍味に私のほうはすぐさまギブアップしてしまった。
 「こんな柔らかそうな蕗の薹に出逢うたのははじめてのことなんで、アク抜きせーへんでも、これならすぐに食えるとおもたんだがなぁ……。もしかしたら、これも、お釈迦様の祟りかもしれんなぁ」と言いながらも、渡辺さんは責任を感じてか、なおも果敢に鍋汁に挑んでおられる。私のほうは、口なおしのためにもとボトルに詰めてきた海水を取り出し、急いで亀の手の調理に取りかかった。幸いというか、亀の手のほうはいつもの通り美味そのものだった。
 なんともしまらない晩飯騒動が終わったときには、時刻はすでに午前零時半近くになっていた。我々は、それからほどなく、天空の明るい望月に見守られながら、深いふかい眠りについた。

 

「マセマティック放浪記」
1999年10月6日

奥の脇道放浪記(6)
乳頭温泉郷と月下の田沢湖
絵・渡辺 淳

 乳頭温泉郷と月下の田沢湖――角館の武家屋敷から田沢湖へ

 翌朝は七時半に起床し、カップラーメンと茹卵で簡単に食事をすませたあと、田沢湖方面に向かって出発した。本庄から内陸にはいり、大曲、中仙北、角館を経て田沢湖へ抜けるというのがこの日のおおまかな予定ルートだった。本庄から国道一〇五号沿いに北上、大内町を経て大曲方面へと東進する頃には、それまで時折振り返っては眺めていた鳥海山の大きな山影もはるか後方に遠ざかり、やがて我々の視界から消え去っていった。
 角館に着いたのは午前十一時頃だった。角館は武家屋敷がいまだに当時の面影をとどめている場所として名高い。せっかくだからちょっと立ち寄っていこうかということになり、表町下丁近くの駐車場で車を降りた。周辺の町域全体が風致保存地区に指定され、街並みや建物の隅々にいたるまできめこまやかな配慮が行き渡っているせいだろう、何気なく歩いていても、まだ時間の流れのゆるやかだった藩政時代に戻ったような錯覚におそわれる。石黒家、青柳家、河原田家、小野田家といった武家屋敷が街路に沿って並んでおり、それらの古い門構えの屋敷からは、大小の刀を腰に差した丁髷姿の侍がいまにも飛び出してきそうな雰囲気だった。

 我々は、現存する角館の武家屋敷のなかでもっとも昔のままの面影を留めているという石黒家を訪ねてみた。堅固な構えの門を入ると、正面に二層の大きな寄せ棟屋造りの母屋が現れた。見事な造りの母屋からは、斜め後方にのびるかたちで、ずっと奥の大きな土蔵のほうまで建物がつづいている。母屋の土間に靴を脱ぎ、廊下にあがって時間の眠る広大な庭を眺めると、なんとも落ち着いた気分になった。洗練された石組み、庭苔、巨大な古木をはじめとする心憎いばかりの庭木の配置など、地方の武家屋敷にしてはなんとも贅を尽くした造りである。
 母屋を支える柱の一本いっぽんも、また、床の間をはじめとする室内の要所の造作も風雅を極めたものになっていて、実に素晴らしい。最後に足を運んだ大きな土蔵のなかには、石黒家に代々伝わる数々の調度品や武具類が展示されていたが、いずれ劣らぬ貴重な品々ばかりで、往時の角館武家の優雅で豊かな生活ぶりと交流の広さが偲ばれた。石黒家は佐竹北家の財政を預かる納戸役や勘定役を務めていたらしい。
 もともと角館の武士たちは藩主の家臣であった佐竹氏の家臣、すなわち、陪臣であった。直臣ではなく、直臣の家臣という、当時としてはけっして高いとはいえない身分のゆえに、禄高もせいぜい百石程度に抑えられていたという。下級武士としてのその禄高からすれば窮乏生活を余儀なくされてもおかしくない彼らが、どうしてこのように立派な屋敷を構え、それほどに豊かな生活を営むことができたのであろうか。
 角館の武士たちは幕末近くになると、地の利を活かして、絹製品、菅笠、樺細工、樹皮加工などの殖産と技術の研鑚に積極的に取り組み、それによって、彼らの禄高からは想像もつかないような屋敷家屋を維持できるほどの財力を得たのであった。いまでは全国各地の土産物店で目にする桜の樹皮を張った茶筒や細工類なども、昔はこの角館の特産品で、莫大な収益源になったのだという。いろいろと知恵をしぼったあげくに、彼らは、小型にして軽量で、しかも値の張る特産品を考案し、それらを広く流通させた結果として多大な利益を手にしたのである。むろん、地理的条件にともなう土地の安さや建築資材の入手のしやすさなども、壮麗な武家屋敷構築を可能にした一因だったのではあろう。
 一通り武家屋敷群や資料館などを見学したあと、うどんの老舗「稲庭」で昼食をすませた我々は、車に戻り、国道四六号を田沢湖方面に向けて走り出した。すると、角館市街を抜けてほどなく、「抱き返り渓谷方面へ」と記された案内標識が目に飛び込んできた。男心を妖しく誘うその呼称に一目惚れした我々は、一も二もなく標識の指す方角へと車を乗り入れることにした。それからほどなく渓谷入り口に着いたのだが、駐車場が混雑しているうえに、渓谷の奥に入るにはそこからさらに谷沿いに歩かねばならないらしい。渓谷を遡るといくつか滝があるということだったが、見たところ、景観に格別な特徴のある渓谷でもなさそうだったし、こう人が多くては、たとえ谷奥から妖艶な美女が現れても、ひそかに逢う瀬を楽しむわけにもいかない。たちまち夢破れた我々は、「抱き返し渓谷」ならもっと意味深になるのになどど囁きあいながら、そそくさとその場から退散したのだが、国道へと戻る途中、たまたまあの有名な劇場「わらび座」を目にすることができたのは、ちょっとした収穫だった。
 田沢湖町が近づくにつれ、頂上部の稜線が平な秋田駒ヶ岳の姿が大きく眼前に迫ってきた。急に一風呂浴びたくなった我々は、田沢湖畔を訪ねるのはあとまわしにし、まずは、駒ヶ岳とそれに連なる山々の懐深くに抱かれた乳頭温泉郷へと向かうことにした。田沢高原への道に入ると、高度はぐんぐんあがり、いっきに展望が開けてきた。二人して思わず驚嘆の声をあげたのは、田沢国民休暇村の駐車場まで登ったときだった。明るい陽射しをいっぱいに浴びて、駒ヶ岳をはじめとする前方の山並み全体が、夢かとまがうばかりに艶やかな輝きを発していたからである。「やわらかな」という形容詞がこれほどまでに似合う緑に私はついぞ出逢ったことがなかった。渡辺さんがすぐさまスケッチブックを取り出したことは言うまでもない。

 国民休暇村を過ぎるとすぐに車は深いブナ林の中にいり、それを待っていたかのように、道のほうもくねくねとした細く急な坂道となった。ハンドルを左右にさばきながら道路脇にちらちら目をやると、あちこちにかなりの数の水芭蕉が群生しているのが見える。どうやら花を開いてまだ間もないらしい。ブナ林を抜けて乳頭温泉郷の最奥にある黒湯の駐車場に着いたのは、午後四時前くらいだったろうか。駐車場のなかの小高くなったところから谷向こうの山筋を眺めやると、乳首のぴーんと張った若い女性の乳房そっくりの山影が目にとまった。それが、乳頭温泉郷という名称のもとともなった乳頭山の頂であることは明らかだった。
 黒湯温泉は乳頭山から流れ出る先達川と湯森山からから流れる黒湯沢が合流する谷合にに位置している。延宝二年(一六七四年)頃にはすでに秋田藩主佐竹本家の湯治場として知られていたというだけのことはあって、どっしりとした造りの黒い茅葺き屋根の建物が、内に秘めたその歴史の重みをすぐさま我々に語りかけてきた。すぐそばの沢のいたるところからはこんこんと温泉が湧き出ており、一帯には湯気と硫黄の煙がもうもうと立ちのぼっている。一人五百円の入浴料を払ってはいった露天風呂は白濁した酸性の硫黄泉で、湯加減もほどよく、たちまち肌がつややかになる感じだった。秘湯と呼ばれるだけのことはあって湯舟から眺める沢の景観は実に素晴らしく、渡辺さんなどは、湯舟にインスタントカメラを持ち込んでしきりに周辺の景色を写しておられたほどだった。いまは一面に新緑が映えわたっているが、秋にはその若葉の一枚いちまいが見事な紅葉に変わることだろう。また、すぐ近くには黒湯という呼称のもとになったとおもわれる、黒っぽく透きとおった色の単純硫化水素泉の浴室もあって、我々の身体を奥底から温め、知らず知らずのうちに張り詰めていた全身の筋肉をやわらかくほぐしてくれた。
 黒湯で身体を洗い清めたあと、我々は沢沿いの道を徒歩で五分ほどくだったところにある孫六の湯を訪ね、温泉のハシゴをすることにした。雪融け水がほとばしる先達川を見下ろしながら橋を渡ると、なんともひなびた温泉宿が現れた。むろん、孫六の湯である。乳頭温泉郷のなかで湯治場としての風情をもっとも残しているというこの温泉は、「山の薬湯」などとも呼ばれているらしい。泉質の異なる四つの浴場と露天風呂があって、なかでもラジウム含有泉は特に薬効があるらしかった。水音の激しい渓流のすぐ脇にある露天風呂はすこしぬるめだったが、天然の岩を組んでできた湯舟から眺める清流の美しさや、やさしくあたりを包むブナ、トチなどの緑の息吹に感嘆するうちに、身体もほかほかと温まってきた。
 露天風呂のすぐ隣の木造りの小屋の中にある石の湯は、大きな一枚岩をくりぬいた浴槽に澄んだ深緑色の単純泉が満々と湛えられていて、湯加減もほどよく、これまた実にいい雰囲気だった。我々のほかには入浴客はおらず、貸し切り状態だったから、もう言うことはなにもなかった。帰りぎわ、孫六の湯の宿泊所脇に湧いている清水を口にしてみると、冷たくコクがあってとてもうまかった。そこで、いったん車に戻ったあと、空のペットボトル五本を携えてもう一度引き返し、ミネラルをふんだんに含んだその水をいっぱいに詰め込んだ。孫六の湯を訪ねる機会のおありの方には、ぜひともこの水を試飲なさってみるようにおすすめしておきたい。
 黒湯、孫六の湯をあとにした我々は、いったん国民休暇村のあるところまで戻り、そこから、妙乃湯、大釜温泉を経て蟹場温泉へとつづく道へとわけいった。これら三つの温泉はいずれも先達川沿いにあって、黒湯、孫六の湯の下流側に位置している。妙乃湯のところで先達川を渡ったが、若緑のブナ林を深く刻むその美しい渓谷には、ちょっと言葉では言い尽くせないような懐かしさが感じられた。渓谷美を背景にした露天風呂が売り物の妙乃湯、そして原始的な景観と九八度の源泉をもつ大露天風呂で名高い大釜温泉を過ぎてしばらく進むと、道が行き止まりになった。前方に目をやると、新しい造りの宿が見えている。そこが蟹場温泉だった。どうやら、付近の沢に蟹がたくさん棲息していることにその名は由来するらしい。昔は自炊の湯治場だったというこの温泉は、やはり、原生林に囲まれた露天風呂で知られているが、時代の流れを反映してか、いまでは乳頭温泉郷のなかでもっとも立派な温泉宿になっている。また温泉のハシゴをという思いもあったが、夕暮れも迫ってきたし、まんいち湯あたりでもしたら困るので、蟹場、大釜、妙乃湯の三つの温泉については、とりあえず宿の雰囲気だけを外から眺めてすまそうということになった。
 再び大釜温泉、妙乃湯の前を過ぎ、田沢国民休暇村を経て、「秘湯・鶴の湯温泉入口」としるされた案内板の前まで来たときにはもう五時半を回っていた。いったんは通り過ぎようと思ったのだが、こまったことに、看板の「秘湯」という強調文字が我々の心を捉えて放さない。「秘薬」という文句につられてついつい怪しげな薬を買ってしまうときと同じ心理状態で、案内板の指すその林道へとはいってしまった。だが、先達川へと下り、川を渡って対岸沿いに鶴の湯方面へとつづくこの林道には意外なほどに味があった。まずなによりも、この林道から振り向き仰ぐ秋田駒ヶ岳の姿が素晴らしかった。純白の冠雪が静まりかえった森の樹々の緑とうまく調和して、美しいなかにも厳かな雰囲気を醸し出している。先達川沿いの道路脇の深い木立に囲まれた湿地に人目を忍ぶように群生する水芭蕉にも、この地ならではの風情と奥ゆかしさが感じられた。
 鶴の湯に着いたのは夕方六時頃だった。訪れるお客が結構多いとみえて、広い駐車場には大型バスを含めてかなりの数の車がとまっていた。観光パンフレットで調べてみると、この鶴の湯は乳頭温泉郷のなかでは最古で、秋田藩主佐竹義隆公以来、代々の藩主の湯治場として知られた温泉だと書かれている。開湯以来三百五十年というその歴史を裏付けるかのように、由緒ある宿だとすぐにわかる立派な長屋風の建物が二棟、中央の広い通路を挟むようにして並んで見えた。ここまで来たら入浴せずに帰る手はない。当然もうひと風呂浴びようということになった。
 だが、車を降りて、左右それぞれの柱に「本陣鶴乃湯」、「秘湯鶴乃湯」と記された看板の掛かる古風な木造りの門をくぐろうとすると、日帰りの入浴客は午後五時までしか受け付けないという注意書きが目にとまった。がっかりしていったんは車に戻りかけたのだが、人間だめだと言われるとよけいに気にはなってくる。いささか未練がましい思いにかられながら門前で様子をうかがっていると、たまたま宿の関係者らしい中年の男性がお客を送って駐車場に現れた。なるべくならそういった手段に頼りたくはなかったのだが、このチャンスを活かすには非常手段もやむをえないと、即座に私は決心した。そして、その男の人がひとりになるのを待ってから、旅の途中、急に鶴の湯の取材を思い立ってふらっとやってきたのだが、入浴受け付け時間は五時までということなのでとても残念だと話しかけてみた。
 その相手が鶴の湯の支配人、佐藤和志さんだったのは天の祐けと言うほかない。佐藤さんは、どこか薄よごれて怪しげな格好をした我々をとくに訝る様子もなく、すぐに入浴できるよう便宜をはかってくださった。しかも、入浴料はいらないとおっしゃる。なんだか申し訳なくなってはきたが、ここはお言葉に甘えて、昔のお殿様と同じ気分にひたらせていただくことにした。佐藤さんによると、五時で日帰り入浴客の受け付けを締め切るのは、泊まり客の方々にゆっくり温泉にはいっていただくための配慮や、日没後に多い不審者に対する対策上のことなのだという。
 門からまっすぐに奥へとつづく道の左手には、かつては藩の警護の侍が詰めていたという本陣が往時の姿をいまも留めて建っている。それは、三百年以上の風雪に耐えつづけたという見事な茅葺きの長屋だった。右手の建物はそれにくらべればずっと新しい造りだったが、やはり一部に白壁を配した木造の長屋だった。両長屋にはさまれた通路の突き当たりには快い水音をたてて流れる湯の沢の清流があって、その清流にかかる橋を渡ってすぐのところに古風な木造の浴棟と大露天風呂が配されていた。我々はまず、本陣の建物の最奥にある管理事務所に立ち寄って佐藤さんに鶴の湯の歴史の概略をうかがい、そのあとすぐに湯につからせてもらうことにした。
 浴棟は黒湯、白湯、中の湯の三棟に分かれており、各棟の湯はそれぞれに泉質が異なっていた。泉質分析表によると、澄んではいるが黒っぽい色の黒湯は、身体が芯から温まるナトリウム塩化物・炭酸水素泉、乳白色の白湯は、肌がすべすべしてくる感じの含硫黄・ナトリウム・カルシウム塩化物・炭酸水素泉、そして眼病や神経系統の病気に卓効があるという中の湯は、含重曹・食塩硫化水素泉だということだった。すでに夕食時にかかっていたせいか、かなりの数の泊まり客があると思われるにもかかわらず浴場には他に人影はなかった。照明を抑えた浴棟内にはほどよく湯気がたちこめ、なんともいい雰囲気である。我々はまず黒湯につかり、それぞれに一日を振り返りながら身体を温めた。なるほど、時を待たずに体中がほかほかしてきて、たちまちに疲れがとれる感じである。
 しばらくして、こんどは、すぐ隣にある白湯にはいってみた。適度に硫黄分を含んだ白くやわらかな湯は、「肌にやさしい」という表現がぴったりで、皮膚感触が抜群だった。まだ交通の便がきわめて悪かった時代に、大名たちがこんな奥地まではるばる湯治にやってきたというのも、なるほどとうなずける感じだった。温泉のハシゴでさすがにすこし疲れがでたのか、渡辺さんはもうちょっとだけ黒湯につかりなおして湯からあがるということだったので、私のほうは、さきにひとり浴棟をでて、鶴の湯の看板ともいうべき大露天風呂にチャレンジすることにした。
 ジャンル別全国温泉百選露天風呂の部で第一位に選ばれたというだけのことはあって、巨大な牛乳岩風呂かとまがうばかりに白くやわらかなその湯は、想像以上に入り心地がよかった。ガイドブックの鶴の湯の紹介記事に偽りはなく、みるみる肌が生き返ってくるような感じである。私は、熱くもぬるくもない長湯向きの湯加減に満足しながら、洒落た石組みの浴槽の奥でじっと目をつむり、半ば眠るようにしてお湯に身をゆだねつづけた。
 しばらくすると、突然あたりが騒がしくなり人の動きが頻繁になってきた。急に明るいライトが二・三基灯され、それを待っていたかのように、タオルで胸から下を覆ったテレビタレント風の若い娘が湯舟の端に現れた。ディレクターらしい人物を中心に、ビデオカメラや集音マイクをもった数人の男女がなにか打ち合わせをしているところをみると、どうやらなにかの撮影が始まるらしい。そうこうするうちに見物人らしい人影も増え、さらにもう何人か、やはり下半身だけをタオルで隠した女性たちが姿を見せた。
 私のほうは完全に湯からあがるタイミングを逸してしまった。脱いだ衣類とタオルを置いた露天風呂脇の簡易棚はライトアップされてしまっている。多くの若い女性を含む人々の視線のまえに、ライトアップされた中年男のストリップ姿をさらすなど、洒落にもならない。いくら湯加減がいいとは言っても、さすがにのぼせ気味になってはきていたが、ここはじっと我慢するしかないと、首だけを湯から出して湯舟の中に座り込んだ。わたしの姿に気がついたディレクターは、一瞬、「よけいな奴がいるわい」と言わんばかりの表情を見せたが、ほどなく女の子たちも浴槽につかり、結局そのまま撮影が始まった。どうやら、九州地方のテレビ局の温泉探訪番組の撮影らしかった。
 いつのまにか露天風呂の周辺はかなりの人だかりになっしまった。綺麗な女の子たちとの混浴という望外のお膳立てとあって、昔のお殿様気分にひたるには格好の展開と言えなくもなかったが、ここまで人目にさらされるとなると、そうそう喜んでばかりもおれなかった。私は、なるべくカメラから遠く人目につきにくい露天風呂の隅へと湯の中を這うように移動し、ひたすら祈るような気持ちで撮影が一段落するのを待った。のぼせすぎて湯の中で気を失うか、我慢しきれなくなってお湯から飛び出し、番外のストリップショウを演じるかの決断を迫られる前に撮影がいったん休止されたのは幸いだったというほかない。いっぽう、そんなこととはつゆ知らぬ渡辺さんのほうは、ひとり車のそばに立ったまま、湯冷めを気になさりつつ、じりじりする思いで私の帰りを待っておられたらしい。思わぬ展開に大名気分も吹っ飛んだ鶴の湯の探訪は、このようにして幕となった。

 乳頭温泉郷での露天風呂のハシゴに思いのほか時間を費やしてしまったため、国道筋にでたときにはすっかり夜も更けていた。田沢湖畔に向かう道筋のどこかで晩飯の食材を求めるつもりでいたのだが、困ったことに開いているお店がどこにも見つからない。仕方がないので、もう一度角館方面へと引き返し、ようやく見つけたホカホカ弁当屋に飛び込んで弁当を注文、晩飯にかえた。
 田沢湖畔にでたのは真夜中近くのことだった。湖岸沿いの道を右回りに走りながら、我々は車を駐めて眠るのにふさわしい場所を探しにかかった。折りから十六夜の月が南天高くに昇っていたため、田沢湖の湖面や対岸の山並みが澄んだ光のなかにくっきりと浮かび輝いて見えた。実を言うとこの田沢湖にはちょっとした想い出があった。いまから十二年ほど前の一九八四年の八月十八日のこと、私は日本一の水深を誇るこの湖の単独横断遊泳に挑戦した。四二三・四メートルというその桁外れの深さと、摩周湖につぐという透明度に魅せられての、物好きとしか言いようのない試みだった。もしかしたら湖畔一帯の遊泳は禁止されていたのかもしれないが、私は人目を忍んで行動し、湖心からかなり偏ったところにある最深部近くの岩場から水中に入った。
 田沢湖は旧火口に水が溜ってできたカルデラ湖である。透明度そのものは極めて高いのだが、湖岸から数メートルと離れないところから、湖の壁面はほとんど垂直に近い角度で落ち込み、底無しの青黒い水中へと消えている。湖岸から数十メートルも離れると、暗く青い色の水のほかにはもう何も見えなかった。四百メートルを超える水深から考えてみれば当然のことなのだが、水中眼鏡ごしに見るその光景にはちょっとした凄みがあった。魚影らしきものはほとんど見あたらなかったように記憶している。
 横断遊泳自体は快適そのものだった。真夏のこととあって湖面の水温は思いのほか高く、冷たさはまったく感じなかった。湖岸を離れてほどなく、たまたま近くを通りかかった遊覧船の乗客が私の姿に気がついて、なにやら大声で騒ぎたてているのが聞こえたが、それ以外にとくに支障になるようなことはなにもなく、最深部を横切っての湖面横断遊泳は無事成功をおさめたのだった。
 田沢湖に棲む龍の化身、辰子姫の像の立つ浮木神社付近を過ぎ、湖畔を四分の三周して北岸の御座の石神社近くの駐車場に着いた我々は、翌朝までそこで眠ることにした。あたりはしーんと静まり返り、他に人影はまったく見当たらない。車を降りて湖畔にでると、そこで我々を待っていたのは、いまにも竜が立ち現れそうなくらいに美しく神秘的な光景だった。
 湖の南側にあたる対岸の山並みの上にかかった月は、湖面を明るく、しかし、どこまでもやさしく静かに照らし出していた。そして、滑らかに磨き上げた巨大な銅鏡を想わせる湖面には、外輪の山々の影が逆さになってくっきりと映り、ほんものの山々と相呼応して虚実一体の見事な対称図を構成していた。時折上空を流れる淡い色の雲のために月の光は刻々と微妙な色合いの変化を見せていたが、それがまた、湖面とそれに接する澄んだ大気に言いようのない彩りを生みもたらし、我々の目を釘付けにした。水中に浮かび漂う月影は、まるで我々二人の魂を湖底深くにいざない去ろうとしているかのようでもあった。
 深夜の幻想的な田沢湖に時を忘れて見入るうちに、私は突然ハーモニカを吹いてみたくなった。こんな気分になったのは久々のことである。急いで車のサイドボードからハーモニカを取り出し湖畔に戻ると、湖中に少し突き出た船着き場の先端に陣取り、青い山脈を手始めに、荒城の月、月の砂漠、北上夜曲と、次々に懐かしい昔日の歌曲をメドレーで奏でてみた。いつもよりハーモニカの音色が澄んで聞こえたのも、気のせいばかりではなかったのかもしれない。田沢湖のかもしだす幻夢の世界に酔いしれたあと、我々は車に戻り、明日の旅路にそなえて眠りについた。もう丑の刻に近かったと思う。
 私はまったく気づかなかったのだが、そのとき、渡辺さんは、月光に浮かぶ田沢湖を背にハーモニカを吹く私の姿をスケッチにおさめておられたらしい。後日、自由国民社から私の作品集「星闇の旅路」が刊行されることになり、その装画を渡辺さんにお頼いすることになった。そして、いろいろと検討された結果、表紙絵となって登場することになったのは、なんとその晩の田沢湖の情景だったのである。渡辺さんの心のこもった絵というだけあってそれは実に素晴らしく、どこにも文句のつけようなどなかったが、それでもなお、私にはいまひとつだけ気がかりなところがあった。その絵の左下端にあって、せっかくの田沢湖の月夜の風景をだいなしにしてしまっている怪しげな風体の人物は、いったいどこの誰だったのであろうか……。

 

「マセマティック放浪記」
1999年10月13日

奥の脇道放浪記(7)
長湯の怪記録達成
絵・渡辺 淳

 長湯の怪記録達成――義母の故郷阿仁町から黄金崎不老不死温泉へ

 翌朝は七時に起きるとただちに御座の石をあとにし、朝日に青く輝く田沢湖をほぼ一周してから湖の五キロほど西側を走る国道一〇五号線にでた。そして、道路沿いのお店で買い込んだサンドイッチをパクつきながら、高柴森と大仏岳の鞍部を越えて阿仁町へと入った。深い谷筋をおおう樹々の緑の瑞々しい比立内の集落に差しかかったとき、私は、不意に、義母が少女時代を過ごしたのはたしかこの阿仁町のどこかで、いまも親戚筋の方が住んでいるとかいう話を耳にしたことを想い出した。渡辺さんに何気なくその話をすると、是非ともそこを訪ねてみようとおっしゃる。義母の旧姓は櫻田といったので、その姓を手掛かりにすればとは思ったが、櫻田という家がそこらじゅうにあったりしたら話にならない。そこで、急遽、近くの公衆電話から伊豆の伊東に住む義母に電話をかけてみた。すると、当時、義母が住んでいたところは阿仁町の荒瀬という集落で、いまはもう櫻田家の者は誰もいないが、親戚の佐々木茂治宅を訪ねてみれば、きっと歓迎してもらえるだろうとのことだった。
 集落からはすこし離れたところにある秋田内陸縦貫鉄道の荒瀬駅前に車を駐めた我々は、無人のホームにのぼって「荒瀬」という駅名表示板をバックに写真を撮った。集落の入り口近くにある簡易郵便局で尋ねると、佐々木宅の場所はすぐにわかった。集落のほぼ中ほどに位置する高床造りの立派な家がどうやらそうであるらしい。なんの前ぶれもなしに一面識もない男二人が訪ねたりしたら、先方もさぞかしびっくりすることだろうとは思ったが、ここはもう成り行きにまかせるしかないという感じだった。

 佐々木家の玄関のチャイムを押し、来意を告げると、すぐに我々は奥へと通された。義母の従兄弟筋にあたるという老御夫妻はとても穏やかな方々で、突然の訪問だったにもかかわらず、我々はとても温かく迎え入れられた。自己紹介や今回の旅の動機などに始まる歓談がひとしきりはずんだところで、我々は義母たちがかつて住んでいたという家へと案内された。小さく簡素な平屋造りではあったが、その家は数十年の風雪に耐え抜き、いまはささやかな雑貨店になっていた。佐々木御夫妻の話を通して少女時代の義母の姿を想像しながら、しげしげとその古い建物に見入っているあいだに、渡辺さんは手早く周辺のスケッチをしてくださった。渡辺さんの心のこもったそのスケッチを後日プレゼントされた義母などは、感動で胸を詰まらせ、絶句する有り様だった。

 先を急がねばならないこともあって、名残を惜しみながらもほどなく佐々木家を辞した我々は、かつては銀山でも知られた阿仁合の集落を抜け、阿仁川沿いに森吉町米内沢にでた。そして、米内沢で国道一〇五号に別れを告げ、阿仁川に沿う県道三号線を走って合川町を通過、阿仁川が米代川本流に合流する小繋付近で国道七号に入った。国道七号を東能代まで爆走したあとは、米代川を渡って峰浜村へと続く広域農道を北上し、水沢付近で国道一〇一号に合流した。峰浜村周辺の広大で緑の豊かな農業地帯を走っていると、心が潤い、体内に活力が甦ってくるような気分だった。
 日本海を左手に見ながら国道一〇一号を進み、秋田県側の八森町を経て青森県岩崎村にはいる頃になると、空が急に暗くなり、強い西風が吹き始めた。かなりの数の家々の密集する集落をいくつか通り過ぎたが、まるで広域停電下の地帯を夕暮れ時に走っているような感じである。曇天下のこととはいっても、まだ午後二時くらいであることを思うと、異様な暗さというほかない。大きめの商店の前を通りかかったとき、何度か中をのぞいてみたのだが、どの店も明かりがついていないか、ついていても申し訳程度に明かり灯っているだけで、なんとも薄暗い。なんらかの理由で、皆が申し合わせ節電でもしているのだろうかと考えたりもしたが、どうやらそうでもないらしい。たぶん、この地方特有の気象の関係もあって、年間を通じて昼でも暗い日が多く、人々がすっかりそれに慣れてしまっているせいなのだろう。そういえば、かつて津軽半島の西海岸を竜飛岬に向かって旅したときも、これとよく似た、暗く淋しい風景がどこまでも続いていたように思う。ただ、あえて付け加えておくと、この憂いを含んだ独特の暗さの奥には、明らかに偉大なものを生み出す力が秘められているのだ。
 車はやがて陸奥黒崎の集落に差しかかった。低く垂れ込めた黒雲に覆われて山影こそ見えなかったが、この地の東側一帯に位置する山系は、広大なブナの原生林を有するあの白神山地である。その自然が世界自然遺産に指定され、一躍脚光を浴びることになった白神山地は、日本海から絶え間なく吹き寄せる多湿で冷涼な大気のおかげで、貴重な天然ブナ林を時間を超えて守り育むことができたのであろう。極言すれば、気流、海流、地形の三者が相関しあって生み出すこの暗さこそが、白神山地の豊かな自然と、この地方に特有な文化の育ての親なのでる。
 予定では陸奥岩崎の集落付近で国道に別れを告げ、白神山地の北部を東西に走る弘西林道にはいるつもりでいたのだが、せっかくだから、国道をもう少し先まで行って、黄金崎の不老不死温泉を訪ねてみようということになった。陸奥岩崎の集落の北側では、日本海に向かって陸地がコブ状に迫り出している。その半島の北寄りの突端に位置するのが黄金崎で、そこの磯辺には旅好きな者の間では有名な露天風呂がある。
 激しい西風に煽られ、暗い海面から霧状の冷気の吹き上がる舮作(へなし)岬の岩場を経て黄金崎の不老不死温泉に着いたのは午後三時半頃だった。かなり大きな温泉ホテルが二軒ほどあったが、我々はそれには目もくれず、それらのホテルの裏手にある磯辺の駐車場に車を駐めた。鉛色の空と海の接するあたりから絶え間なく湧き寄せる湿った大気は、あくまでも冷たくそして重たかった。
 お目当ての不老不死温泉の露天風呂は、波頭を白く逆巻かせながら高波の寄せる荒磯のただなかに位置していた。わずかに霧雨を含んだ強く冷たい風に身を震わせながら、磯辺の岩伝いに露天風呂に近づくと、学生風の若者が一人で入浴しているところだった。湯加減を尋ねると、ちょっとぬるめなので、今日のこの寒さだと、ゆっくり身体を温めてからでるようにしないと風邪をひいてしまいそうだという返事か戻ってきた。不老不死温泉にはいったおかげで命が縮まったというのでは洒落にもならないが、ここで入浴を臆したりしたら、それこそ露天風呂通の名が泣いてしまう。意を決した我々は、素早く衣服を脱ぎ、雨に濡れないようにそれらを湯舟のまわりの岩のすきまに押し込むと、大急ぎでお湯の中へと飛び込んだ。
 泉質は、細かな粒子の赤土を溶かしたような色の含鉄性塩泉で、かすかに鉄錆のようなにおいがし、なめるとかなりしょっぱかった。冷風のために身体が冷えていたこともあって、はいってすぐにはぬるいという感じはしなかったが、先客の言葉通り、長湯向きの温泉には違いなく、しばらくつかっていると、すぐにはでたくないという気分になってきた。この露天風呂から眺める落陽の美しさは有名で、それこそ海面が黄金色に映えるのだが、この日はとても夕陽のみられるような状況ではなかった。
 海側を見やると湯舟のすぐそばまで激しく波が打ち寄せてきていて、野趣に富むことこのうえない。海面がぐっと盛り上がり、ひときわ大きな波が迫ってきたときなどは、湯舟ごと海水につかってしまうのではないかとさえ思われた。先客の若者が湯からあがって二人きりになったあと、我々はすっかりいい気分になって一時間ほど湯舟を占領しつづけた。もっとも、湯からでたら寒そうだから、でるにでられなくなってしまったというのがむしろ本音ではあった。
 かなり離れたところにあるホテルの窓から、ときおりこちらの様子をうかがっていた泊まり客には、我々二人の入浴姿がよほど気持ち良さそうに映ったらしい。しばらくすると、一組のアベックと、若い女性を含む男女の一団がやってきた。そして、それまでとはまるでうってかわった賑やかな混浴状態となった。湯舟のなかで皆の話が大いに弾んだこともあって、それからまた一時間ほど我々は湯につかりつづけた。普通ならとっくにのぼせているところだが、このときにかぎっては、そんな感じはまったくなかった。

 だが、ほどなく事態は一変した。一段と風が強まり、雨足が激しくなったかとおもうと、耳をつんざくような雷鳴とともに、青く不気味な稲妻が海のほうから迫ってきた。いい気な人間どものヘソを有り難く頂戴してしまおうというのが、雷様の魂胆であったらしい。激しい雷光と雷鳴におそれをなした入浴客のほとんどは、皆大慌てで露天風呂から飛び出し、抱えた衣類で裸身を隠すようにして引き揚げていった。そんな騒動の中で、えい、ままよ、こんなヘソでもよいならば喜んで差し上げましょうと開き直ったのは、むろん、我々二人である。激しく寄せる風浪にくわえて、雷神様の特別出演というおまけまでついた露天風呂なんて、そうそう体験できるものではない。すっかり腹をきめ、どっかりと湯舟の底に尻をすえたら、これがまた、なんともいい気分なのである。かくしてまた我々二人は、それから一時間ほど、黄金崎の名物露天風呂を独占することになった。なんと三時間も続けて温泉の中につかりっぱなしだったことになる。
 雷様のお怒りをしりめに記録的長風呂を楽しんでいる最中に、なにげなく湯舟の端から半分身を乗り出した途端、私は奇妙なものとはちあわせになった。目の前に、恨めしそうな顔をしたろくろ首のようなものがヌーッとばかりに現れたのである。思わず声をあげそうになったが、よくよく我が目を凝らして見てみると、なんと、それは一羽の大白鳥の姿だった。寄せ来る夕潮に足をひたしながら、湯舟の石組みのすぐそばにたたずみ、こちらのほうに首先を伸ばして、なにやら語りかけるような目つきで我々のほうをじっと見ている。その表情はどこかもの悲しそうでもあった。
 なんで今頃こんなところに白鳥がいるのだろうと怪訝に思いながら、そのしぐさをつぶさに観察してみると、どうやら左の翼のなかほどを傷めているらしいことがわかってきた。仲間と北方へ戻る途中、なんらかの事故にあって翼を傷め、飛べなくなってこの黄金崎の地に緊急避難してきたものらしい。多少人馴れしているところをみると、近くに住む誰かが、時々餌をやっているのであろう。湯舟のすぐ周辺をゆっくりと移動しながら水中の餌をついばみ、時折、立ち止まっては、毛づくろいをし、思い出したように羽をはばたいてみたりしている。温泉に入れてやって羽が治るものなら、すぐにもそうしてやりたい気持ちだったが、こればっかりは我々の手ではどうにもならない。胸の内のやるせない思いを押し殺しながら、渡辺さんと私はじっとその様子を見つめるばかりだった。
 白鳥が岩陰のほうに遠ざかり、その姿が見えなくなると、我々は無言のまま再び湯の中深くに身を沈めた。湯の中に入って三時間が過ぎようとしていた。いくら外が寒く、雷雨のおまけがついたからといっても、湯につかりっぱなしで三時間はあんまりである。しかし、そのあんまりなことを、我々はとうとうやってのけたのだった。雷がじょじょに遠のき、激しい雨足がおさまっていなければ、四時間の記録への挑戦となっていたかもしれない。さいわいというか、雷鳴も雨もいったんやんだので、我々は大急ぎで岩穴から引っ張りだした衣服をすばやく身につけ、ようやく車へと戻ったようなわけだった。温泉に含まれる塩分と鉄分のせいで肌がべとつく感じだったが、人間の塩漬けができたのでないだけ、まだましというものだった。
 車の運転席に戻り、エンジンをかけながらもう一度波打ちぎわのほうを見やると、さきほどの大白鳥のさびしそうなうしろ姿が目に飛び込んできた。来るはずもない仲間を待ちつづけてでもいるのだろうか、遠い沖のほうを見つめながら一羽ぽつんとたたずむその姿は、ただただ哀れを誘うばかりであった。激しく吹き寄せる冷たい潮風には、白鳥の本能をかきたてる何かが秘められているのであろう。思い出したかのように羽ばたき、そしてまた、諦めきれない様子で遠い空にじっと見入る姿に、我々は、あらためて自然界の掟の厳しさを痛感させられるばかりだった。
 黄金崎の露天風呂をあとにした我々は、いったん岩崎の集落にもどり食料を補給したあと、黄金崎と隣り合う舮作岬の椿山温泉を訪ねることにした。岩崎村直営のこの宿泊保養施設に行って温泉のハシゴをし、先刻の露天風呂で身体中についた塩分を洗い流してしまおうというわけだった。切り立った断崖の上に位置する椿山温泉の大展望風呂は、天井が開閉式になった近代的な造りになっていて、眼下に広がる海の景観もなかなかのものだったが、入浴者は我々二人だけというなんとも閑散とした状況だった。この施設はかなり大きく、造りそのものも近代的でとても立派なものなのだが、思惑とは違い、いまひとつ経営がうまくいっていない感じである。おそらくは、かつての全国的な村おこしブームに乗って建造され、世界自然遺産にも指定された白神山地のブナの原生林を見学にやってくる観光客を当て込んでいたのであろうが、結果的にはかなり計算がはずれてしまったということなのだろう。入浴後、係の人にそのへんのことをさりげなく尋ねてみると、こちらの想像通りかなりの赤字なのだそうで、公営施設だからいいようなものの、これが民間の施設ならとっくに閉鎖されているだろうということだった。
 結局、この日の夜は、椿山温泉からそう遠くないところにある道の駅で車を駐めて車中泊をすることになった。小雨の降るなかで晩飯をつくって食べたのだが、お腹がすいていたこともあって、とても美味しく感じられた。十一時頃には無事就寝となったのだが、黄金崎の白鳥は今頃どうしているのだろうと考えたりしはじめると、どうしても目が冴えてきて、なかなかに寝つくことができなかった。

 

「マセマティック放浪記」
1999年10月20日

奥の脇道放浪記(8)
白神山地と湖畔の幻夢
絵・渡辺 淳

 翌朝は比較的遅めの午前九時半に出発した。昨日と違って天気もよかったが、こころなしか、光は淡い感じがした。陸奥岩崎の集落から白神山地の北部を走る弘西林道を経て西目屋に抜けようと思ったが、林道入り口近くに、深い残雪と道路崩壊のためなお通行不能との警告表示がなされていた。例のごとくまた現場まで突っ込んで、わずかな可能性にかけてみる手もなくはなかったが、過去に二、三度この林道を走ったことのある私は、状態がよいときでさえ大変な悪路であることを知っていたので、即座にに撤退を決意した。
 あとは、五能線の走る海沿いに北上し、深浦、大瀬戸と経て鰺ケ沢方面へと抜けるしかない。私は国道筋に車を戻すと、グイとアクセルを踏み込んだ。穏やかに晴れた空のもとであるにもかかわらず、車窓左手に広がる日本海が、どことなく陰りを帯びた青い色に輝いて見えるのは、午前の太陽が右手の陸地側から射し込んできているせいなのであろうか、それとも、単に心理的な問題なのであろうか……。
 千畳敷の岩場で知られる大戸瀬崎をまわってしばらく走りと、斜め前方に鬼面を想わせる山容の、ひときわ大きな山が見えてきた。津軽の名山、「岩鬼山」である。岩鬼とはよくいったもので、その頂上部にある三つほどの岩峰がうまく組み合わさって、恐ろしげな鬼の顔に見えるのである。津軽の名山、「岩鬼山」と書いたが、そんな山があったかなと首をひねられるむきも多かろう。実はこの山、眺める方向や眺める距離によって姿形が異なって見えることもあって、別の名で呼ばれることも少なくない。いや、そのほうが一般には通りがいい。津軽富士として名高い「岩木山」といえば、どなたでも、「そうか!」と納得なさるはずである。岩木山の「木」と岩鬼山の「鬼」とは音読みが同じで「き」あることを思うと、岩鬼山という呼び名のほうが本来の名称だったのではなかろうか。
 ついでに述べておくと、岩木山は、北東側の五所川原あたりや南側の弘西林道方面から眺めると、秀麗なコニーデ型の山に見える。東側の弘前あたりからだと、西側からの眺望と同様に恐ろしげな形に見えるが、同じ東側でも黒石あたりより東の一帯から望むと、遠目になるせいで、やはりコニーデ型の独立峰に見える。
 ほどなく、鰺ケ沢町赤石の集落に入った我々は、そこから、白神山系二ッ森山一帯を源流とする赤石川伝いに赤石林道を遡り、弘西林道に突き当たる赤石橋から東に進路をとって、西目屋に抜けることにした。せめて弘西林道の東半分くらいは走破して、初夏の白神山地の自然の息吹の一端くらいは味わいたいものだと考えたからにほかならない。

 途中の熊ノ湯温泉付近までは鋪装された快適な道路が続いていたが、それから奥に進むにつれて、林道はゴツゴツした岩のむきだす、段差だらけの悪路となった。道幅も狭まったうえに、急角度の傾斜をなして左右に激しくうねっているから始末が悪い。エンジンは拷問に悶える囚人のような音をたて、ハンドルがバイブレータのように絶え間なく振動するので、手先の感覚がなくなってしまいそうだった。おまけに、断続的にガーンという衝撃をともなって車が宙に跳ね飛ぶために、浮き上がった身体がシートに激しく叩きつけられたりして、いまにも内蔵がとびだしてしまいそうな感じだった。
 こんなひどい道を走るのははじめてのことだとおっしゃる渡辺さんを横目に、それでも私はハンドルを握りつづけた。さいわいというか、私のほうは、これに類する道を何度となく走ったことがあるし、以前は目指す弘西林道そのものが、これよりもっとひどい悪路だった記憶があるから、すこしもひるむことはなかった。むろん、過去にそんな体験の蓄積がなかったら、途中で臆して退散してしまっていたかもしれない。
 道はひどかったが、赤石渓谷沿いの緑の美しさは格別で、それがなによりの救いとなった。世界自然遺産に指定されたブナの原生林のある白神山地中心部からはずいぶんはずれているにもかかわらず、見事なブナの林が道の両側に広がっている。そして、弘西林道との出合い地点が近づくにつれて、渓谷は深まり、樹相も密になってきた。目指す赤石橋に到着したのは、昼前だったように思う。
 弘西林道の赤石橋付近は、以前と違って道が拡張整備されており、現在も道路拡張工事が続行されている様子だった。たぶん、弘西林道全体を整備し、観光で訪れる車の通行の便宜をはかろうということなのだろう。赤石橋の近くに臨時に設置された警告表示板に目をやると、道路崩壊と修復工事中のため、西目屋方面にも岩崎村方面にも通行不能だと記されていた。世界自然遺産にも指定された白神山地最大のブナ原生林が広がる追良瀬川や笹内川の源流域に行くには、赤石橋から西に向かって二つほど大きな山越えをしなければならない。現在どの程度整備されているのかはわからなかったが、過去の記憶からすると、赤石林道以上の凄まじい悪路であった。その道が崩壊して工事中とあればよほどのことなのだろう。可能なら追良瀬川流域まで入り込みたいと思っていたのだが、結局、それは断念せさるを得なかった。
 赤石林道は、弘西林道とクロスしたあと、さらに秋田県境に近い赤石川源流域までのびており、この一帯のブナの原生林をはじめとする自然も素晴らしい。西目屋方面から弘西林道経由で私がはじめてこの地を訪ねたときには、この赤石川源流域にも車ではいることができた。だが、現在はその方面への入り口も厳重な鉄ゲートで閉ざされていて、車では赤石橋から先に進むことはできないから、それ以上は徒歩に頼るしかない。世界自然遺産に指定されたあと、自然環境の悪化を恐れて地元の林業関係の車をも締め出すことになったのだろうが、それは適切な処置だったといってよい。
 もともと、この白神山地をはさむ青森側と秋田側のあいだには生活道路の含みをももったスーパー林道の建設が行われる予定であった。青森県の西目屋と秋田県の藤里町あたりとを直接につなぐことによって、両県の経済や文化の交流を活発にし、地域のの活性化をはかろうということだったらしい。地理的にみてそれなりの説得力をもつ開発計画ではあったので、当時の秋田県知事をはじめ地元には支持者が多く、一時は建設が強行されようとした。だが、心ある人々のあいだから、貴重な自然環境が破壊されるという強い反対の声があがり、二転三転したあと、ようやく道路の建設が中止になった経緯がある。この一帯が世界遺産に指定されたのは、それからしばらくしてからのことであった。
 車を降りた我々は、新しく架けなおされたばかりの赤石橋のうえに立ち、深い緑に包まれた赤石渓谷周辺の景観を眺めやった。当初の思いと違って、壮大なブナ林を渡辺さんに見せてあげられなかったのは残念だが、状況が状況だっただけに、ここまで来られただけでもよしとするしかなかった。
 なんとか西目屋方面に抜ける手だてはないものかと、もういちどつぶさに警告表示板の注意書きを読むと、ここから四・五キロ東へいった四兵衛森山付近から先が通行不能になっているという。どうあっても、もう一度赤石の集落に戻り、鰺ケ沢へとでるしかないようである。渋々ながら、我々は再び赤石林道を戻りはじめた。来るときには素通りしてきたが、赤石橋から三十分ほど下ったところに休憩所らしい施設があったので、その前に車を駐めて昼食をとることにした。すぐそばの沢には水場があって、冷たい清水が流れている。まずは喉を潤し、顔を洗い、そして、ペットボトルにその水を詰め込んだ。大気は澄み、気温もほどよく、若緑の木立を吹き抜ける風も爽やかで、当然のように食欲も進んだ。
 昼食後、我々以外にはまったく人気のないログハウス風の休憩施設をのぞいてみると、驚いたことに、これがなんとも立派な造りの建物だった。ごく最近建てられたばかりらしく、なにもかもが真新しい。もしかしたら、一般の来訪者では、我々二人が最初なのではないかとさえ思われた。中はしっかりした二階建ての構造になっているうえに、燃料や食料その他の物資を保存するための広い地下室まであり、水道、トイレ、炊事用台所が完備、さらには、数十人は楽に寝泊まりできるほどのスペースをもつ暖房設備つき洋間、新品の畳敷きの部屋、上空や周辺の景色を眺めることができる洒落た天窓と、至れり尽くせりなのである。しかも、常時無料で開放されていて、誰もが自由に利用できるようになっているらしい。
 明らかに厳冬期の利用をも想定したとおもわれる、そのしっかりした造りから察すると、冬季に白神山地に分け入る人々のための無人避難小屋の役割をも担っているのだろう。これが夕方のことならば、すぐにもこの施設に泊まることにしたに違いない。そうでなくても、一晩ここに泊まっていきたい気分だったのだから……。板彫りにして入り口に掲げられているこの施設の名にあらためて目をやると、「白神さん家(しらかみさんち)」となっているではないか。誰か考えたのかは知らないが、なんとも洒落た名前である。もちろん、「白神山地」にも掛けてあるのだろうが、その名称の発案者のウイットには、唯々脱帽するばかりだった。
 「白神さん家」をあとにし、三十分ほど赤石林道をくだると、「くろくまの滝」見学路入り口に着いた。ついでだから滝を見ていこうということになり、車を降りて、深いブナ林に覆われた渓谷沿いの林道を二十分ほど奥のほうへと分け入った。ブナの巨木の間を縫い、残雪に半ば埋もれた巨大な倒木をいくつか踏み越えて進むと、落差八十五メートルもあるという水量豊かな滝の前に出た。激しい水煙が立ち昇り、折からの風に乗ってあたり一面に霧雨となって降り注いでいる。どうして「くろくまの滝」という名がつけられたのかはわからないが、滝壺の周辺によく熊でも出没し、水浴びでもするのであろうか。名称の由来は気になったけれども、このあたりの熊たちと挨拶を交わす予定はとくになかったので、我々は、耳をつんざくような轟音のなかで四、五分間その壮観な滝に見とれたあと、車へと戻った。
 赤石林道を引き返し、再び赤石の集落を抜けて鰺ヶ沢の中心街にでたあとは、岩木山の西から南山麓を巻いて弘前市に至るルートをとった。左右にゆるやかなカーブを描きながら快適なドライブウェイが続いている。高度が上がるにつれて周辺の地形が高原状に変わり、いっきに展望が開けてきた。大きく傾いた西陽に輝き映える若葉は、またとない心の清涼剤だ。赤味の増した陽光に染まる岩木山頂の巨大な岩峰は、旅人に睨をきかす赤鬼の顔そのままである。

 弘前に近づくにつれて、岩木山麓を縫う道の両側いっぱいによく手入れの行き届いたリンゴ畑が広がりはじめた。さすがはリンゴの本場だけのことはある。リンゴの熟す季節にはまだ何ヶ月もあるが、我々は赤い実のたわわになる光景を想像しながら農園沿いの道を走り抜け、弘前市街に入った。そして、市街の中心部をいっきに通過すると、黒石方面へとハンドルを切った。夕陽を背に車は一路東へと疾走し続けた。
 黒石市に入る頃には、真っ赤に燃える太陽が岩木山の右肩に落ちかかった。西の空は一面荘厳な赤紅色に染まっている。我々は車を停めてしばしその凄じい大気の炎上に見入っていた。やがて太陽が稜線の向こうに沈むと、黄昏の空を背にして、岩木山のシルエットが幻想的な色合いを帯びて浮び上がった。さすがは津軽富士である。
 助手席に坐るのが、渡辺さんではなく、誰か素敵な女性だったらもっといいのになあ、などというよからぬ思いが一瞬脳裏をよぎったが、そんなことなどつゆ知らぬ渡辺さんは、西空を見つめたままである。いや、もしかしたら渡辺さんは渡辺さんで、運転席にいるのが私でなかったらと、考えていたのかもしれない。
 黒石市を抜け十和田湖へと向かう途中で一風呂浴びたくなった我々は、いったん脇道に入り、進行方向左手の山奥深くに眠る青荷温泉を訪ねてみることにした。エンジンを唸らせながらぐんぐんと急峻な山道を登り、山ひだのいちだんと深く入りくんだところにある青荷温泉に辿り着いたときには、あたりはかなり暗くなっていた。お目当ての青荷温泉の雰囲気は、想像通り秘湯の名に恥じないものだった。だが、残念なことに、日帰り客は夕方五時までで、それ以降はお断りとの注意書きが入口の脇に立てられていた。鶴の湯でのような幸運をもう一度とも思いかけたが、世の中そうそううまくはずがない。深山の湯に未練はあったが、いろいろと状況を検討した結果、ここはいさぎよく撤退しようということになった。再び国道に戻る途中の山岳路から遠望する岩木山は神秘的な輝きの微光にふちどられ、その姿は一幅の絵巻きそのものだった。

 十和田湖北西側の展望台に着いたときには既に午後九時を過ぎていた。ヘッドライトを消し車から降りて深い闇の中へと一歩踏み出すと、頭上遥かな天空から無数の星の光がシャワーとなって降りかかってきた。久々に目にする感動的な星空である。
 再び車に戻った我々は十和田湖西岸をまわって湖岸南端の和井内に移動し、そこの駐車場で一夜を明かすことにした。この地には、度重なる失敗の末に、十和田湖でのヒメマスの養殖に成功した和井内貞之の偉業を讃える碑が建っている。
 遅い晩飯の仕度をし、それを食べ終える頃になって、ようやく東の空からお月様が姿を現した。そして月が昇るにつれて、うっすらと霧のかかった十和田湖の湖面が淡い輝きを発しはじめ、どこか不思議なその光が私の記憶の地層深くをほのやかに照し出した。
 そういえば、あの晩も美しく静かな月夜だった。まだずいぶんと若かった私は、とある女性とともに訪ねたこの湖畔に佇んで、見えない未来を見えるふりをして見つめていた。そして、時の流れたいま、未来の何たるかをそれなりに悟った私は、淡い光を発して湖面に漂う夜霧の奥に、いささかの傷みを秘めておぼろに浮ぶ遠い過去を見つめている。若き日の未来の想像図といま見る過去の回想図とは、表裏一体となって、不思議な感動を私の胸にもたらした。「翔ぶということは痛いということなのね」という返事に窮するような言葉を残した、その髪の長い人物の端麗な面影を、私は懐しく想い起こした。  
 翌朝は午前七時半に和井内を出発、休屋に立ち寄って湖畔に立つ高村光太郎作の「乙女の像」を訪ねてみた。どういういきさつでこの彫像にそのような呼称がつけられたのかは知るよしもなかったが、ふくよかでどっしりと大地に根を下したような体つきのそれら二体の女性の裸形は、むしろ「母像」、あるいは「おばさんの像」とでも呼んだほうがよい感じがした。むろん彫像としては大変優れたものなのだろうが、いくらなんでも「乙女」はないだろうなというのが率直な想いだった。もっとも、それは、芸術的な眼をもたない私の偏見だったのかもしれない。気になって、後日、光太郎の晩年の作品を調べてみると、次のような詩が目にとまった。

  十和田湖の裸像に与ふ    高村光太郎

すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
  天然四元の平手打をまともにうける
  銅とスズとの合金で出来た
女の裸像が二人 
  影と形のやうに立っている
  いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくずれるまで
  この原始林の圧力に堪へて
  立つなら幾千年でも黙って立ってろ

 この詩を読むかぎりでは、「乙女の像」という題名に直接つながる言葉はどこにも出てこない。また高村光太郎論などを読むと、光太郎がこの像を製作するとき実際にイメージしたのは無垢な乙女の姿ではなく、かつて苦楽を共にした女としての智恵子だったとも述べられている。美術の研究を専門とするある知人の言によれば、「裸婦群像」というのが本来の作品名ではなかろうかということだった。その真相のほどはともかくとして、「乙女」であることに自信のなくなった女性があれば、十和田湖畔を訪ねてこの像を仰ぐがよい。かならずや「乙女」としての自信を取り戻すことができることだろう。
 休屋をあとにすると、瞰湖台展望所、子の口を経て、十和田湖北岸にそびえたつ御鼻辺山へ向って車を走らせた。子の口を過ぎしばらくすると道は急峻になり、エンジンが激しい唸りをたてはじめた。高度が上がるにつれ、薄緑色に煙るようなブナ林が現われた。やわらかな新芽を吹き出したばかりのブナの樹々の根元一帯はまだ深い残雪に覆われ、地肌はまったく見えない。車を停めて高さを競うブナの大木を眺めながら、ふと根元の雪面に視線を落とすと、野生の小動物の足跡とおぼしきものが、点々と林の奥へと続いていた。
 十和田湖随一の景観を誇る御鼻辺山展望台周辺には、我々のほかに人影はなかった。崩落の危険があるというので展望台は立ち入り禁止になっていたが、ちょっとだけお許しくださいと警告を無視して展望台に立つと、美しく静かな湖面が目下の視界いっぱいに広がった。はじめてこの御鼻辺山の頂きに足跡を刻んだ古代の山人の気分になったような思いだった。

 

「マセマティック放浪記」
1999年10月27日

奥の脇道放浪記(9)
遠き日の幻影の中で
絵・渡辺 淳
 遠き日の幻影の中で――八甲田山から下北半島へ 

 御鼻辺山からの十和田湖の眺めを満喫したあと、我々は奥入瀬渓谷の最奥にあたる子の口まで戻り、奥入瀬川に沿って下ることにした。紅葉で名高い奥入瀬だが、清洌な渓流を包み守るようにして息吹く新緑も紅葉におとらず美しい。緑の魔術に体内の細胞の一つひとつが蘇る思いにひたりながら、十和田温泉郷まで渓谷を下り、そこから八甲田連峰方面に向う道に入った。途中、主道から右手に分れる道を上ると、八甲田連峰を一望のもとに見渡せる高原にでた。まだ午前九時半、晴れた朝のやわらかな太陽に明るく輝く広大な風景を渡辺さんがスケッチする間、私のほうは牛や馬、山羊などがのんびりと若草を喰む姿を眺めていた。あたり一面を濃い黄色に埋め尽すタンポポの花も見ごたえがあった。

 主道へと再び合流し、谷地、猿倉を経て八甲田連峰の奥深くを縫う谷筋の道に入ると、残雪の量が急激に増えてきた。六月初めというのにこのあたりはなお冬の終わりから早春にかけての様相を呈している。両側の斜面遥かに続く深い林もまだ厚さ二・三メートルの雪に覆われ、白い眠りから覚めていない。この残雪の多さからするとさきの冬は特別な豪雪だったのだろう。版画にもなっている渡辺さんの絵、「冬の光景」を脳裏に想い浮かべながら、アクセルを踏み続けるうち、車は傘松峠を越え、ほどなく八甲田の名湯、酸ヶ湯温泉に到着した。
 酸ヶ湯は長い歴史を秘めた陸奥の古湯で、八甲田山を訪ねる誰もが必ずといってよいほど立ち寄る宿でもある。私自身この温泉の白く滑らかなお湯でこれまで何度旅の疲れを癒したことだろう。むろん、いつも貧乏旅行だから、お湯には入るが宿に泊まったことはない。以前は全体が古く大きな萱葺きの屋根をもつ造りになっていたが、現在は改築されて新しい建物に変わっている。ただ、幸いなことに、青森ヒバで造られた古い浴槽がいくつも並ぶ大浴場は健在で、昔ながらの風情をなおもとどめていた。
 とても肌によい弱酸性の硫黄泉のこの温泉を目の前にして、一風呂浴びずに通過するなどという手はない。我々は入浴料を払うとタオル片手に湯気の立ち昇る大浴場へと滑り込んだ。まだ午前十時過ぎだったこともあって、入浴者は少なかった。あり余る湯をふんだんに活かした打たせ湯、寝湯、そして湧きたての湯を満々とたたえた木造りの浴槽が心身を温め安らわせてくれたことは言うまでもない。
 宿の食堂で簡単な昼食をすませ酸ヶ湯をあとにした我々は、青森駅にちょっとだけ立ち寄ってから野辺地へと出、そこから下北半島を北上することにした。三内丸山の縄文遺跡を訪ねたいという思いはあったが、下北半島の突端大間崎で夕陽を見ようということになったので、時間の関係上、先を急いだわけだった。
 陸奥湾を左手にして一直線に北にのびる国道を快走しながら、私はまた、ずいぶん昔のことを想い出した。当時、この陸奥湾産のホタテにはある種の毒素が含まれているという事実が大々的に報道され、その売れ行きが大きく落ち込んでいた。ひねくれものの私はこの街道沿いのお店をはじめとする下北一帯の何軒かのお店に立ち寄っては、ホタテの刺身やホタテ鍋を驚くほど安い値段でたらふく食べまくった。とても美味しかったことだけがいまも記憶の片隅に残っている。その頃のホタテに毒素が含まれていたのは事実だったが、科学的に考えると、人体に影響が現れるのは、そのホタテを毎日毎日何年にもわたって食べ続けた場合である。一日や二日どんなに大喰いしたってそれが原因で自分の体がおかしくなるなんて考えられなかったし、そんなものより遥かに有害な食品を日常生活の中で相当量摂取していることがわかっていたから、私は少しも臆しなかった。

 陸奥市街を抜け、恐山霊場方面へと向う道に入ると、ほどなく道路の両側は暗く深い林に覆われ、いかにもものものしい雰囲気に包まれてきた。そこだけ平地の広がる恐山霊場前の駐車場に着いた時には時計の針はもう午後四時半をまわっていた。青い水を湛えたカルデラ湖、宇曽利山湖の北側に恐山霊場は位置している。恐山を訪ねるのももう何度目かだが、昨夜十和田湖で懐かしく顧みた、いまは遠い幻影の世界の主と共に私が初めてここを訪ねたのは、月の綺麗な秋の夜だった。脇野沢から仏ヶ浦をへて大間崎を巡り、大畑からこの恐山に着いたときには、あたりはすっかり暗くなり、 東の空から満月を少し過ぎた月が昇ってきたところだった。むろん、入山受付時刻はとうに過ぎていて、山門付近には他に人影はなかった。だが当時は今と違って霊場内と駐車場を隔てる柵は形ばかりのもので、その気になれば何処からでも簡単に柵間を通り抜けることができた。まだ赤味の残る淡い月明りと光の衰えかけた懐中電燈を頼りに、私は躊躇うことなく霊場内へと足を踏み入れた。端麗な容姿にもかかわらず学生時代「カミソリ」という異名をもらっていたその気丈な女性も、むろん、迷わず私のあとについてきた。
 死者の魂があつまり漂うという恐山霊場を夜男女二人だけで歩くなどということは、気違い沙汰だと思われても仕方がない。だが、ネットをもって人魂を追いかけたという寺田寅彦のエッセイに触発され、少年時代、似たような体験を求めて、お寺や神社の裏手、村はずれの墓地などを夜中に歩きまわったことのある私は、それを別段怖いことだとは思わなかった。気丈とはいってもさすがに彼女のほうは緊張を隠せない様子だったが、それでも遅れずについてきた。
 赤茶けてごつごつした岩場が高低をなして大きくうねるように広がり、鼻をつく硫黄の煙が四方に漂い、さらには地中のあちこちから熱湯が吹き出している恐山霊場は、昼間訪ねてみても実に荒涼とした感じがする。まして、人の気配の途絶えた夜とあっては、淡い月光に浮かぶその異妖な光景に想像を絶する凄みがあるのは当然のことだった。月が高く昇るにつれて月光は明るさを増し、その中に浮かぶように立ち並ぶ賽の河原の無数の石積みは、それぞれに深く秘める悲しい物語を旅人の我々に切々と訴えかけてくるかのようであった。
 黒ぐろとした影を落として地蔵菩薩の立つ岩山の陰を縫う細道を抜け、宇曽利山湖の湖畔に降り立つと、静まりかえった湖面には大きな人魂を想わせる月影が漂うように映って見えた。湖にそって広く長くのびる石英質の白砂の浜辺に二列の足跡を刻みながらゆっくりと歩いていると、突然サーッと風が起こり、それに合わせるようにして、カサカサ、カラカラという奇妙な音がどこからともなく聞こえてきた。彼女が反射的に私の左腕にしがみつく。さすがに私も一瞬背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
 気を落ち着けながら不思議な音のするほうへと近づいてみると、砂地の上に立てられた何本もの短い棒状の先端で何かがカラカラと音をたてながら回っている。懐中電燈で照らし出して見ると、なんとそれらは、霊場を訪なう人々が、いまは亡き縁者の霊への鎮魂の祈りを込めて湖畔に立てた風車だった。数知れぬ風車が一斉に回りだしたときに起こる波打ちざわめくような響きは、地の底から涌き上がってくる死者たちの悲哀こもごもの呟きのようにも感じられた。幸いなことに、このなんともけしからぬ霊場徘徊にもかかわらず、その後も我々にはとくに不吉なことは何も起こらなかった。あまりの図々しさに、恐山一帯に漂う霊魂も呆れはて、遠巻きにして眺めでもしていたのであろうか。
 胸の奥でそんな遠い日の出来事を想い起こしながら、私は渡辺さんと一緒に恐山霊場の門をくぐった。正しくは恐山菩提寺といい、九世紀頃に慈覚大師円仁によって開基された霊場で、本尊は延命地蔵菩薩である。さすがに今回は受付でちゃんと入山料金も払ったうえでのことだった。霊場で研修や修業をつむ人々のための宿泊施設の脇を通っていると、簡素な造りの「古滝の湯」という温泉棟があるのに気がついた。古びた引戸を開けて中をのぞくと人気はまったくない。長方形の大きな湯舟からはもうもうと湯煙りが立っている。我々は思わず顔を見合せた。恐山霊場で湧き出ていることは知っていたが、こんなところにおあつらえむきの温泉棟があるなんて想像もしていなかった。これを見過ごす手はないとばかりに、すぐさま我々はその中にはいってみた。
 だが、そこで困ったことに気がついた。まさか場内で一風呂浴びることになろうなどとは考えてもいなかったから二人ともタオルなどもっていない。仕方がないから下着で体を拭くかなどと話していると、脱衣場の片隅に誰かが置き忘れたらしい古い日本タオルの切れ端が残っているのが目にとまった。薄汚れた色になってパサパサに乾いた、幅十センチ、長さ三十センチ足らずの文字通りのタオルの切れ端だったが、それでもタオルはタオルである。これぞ天の祐けと喜んだ我々は、そのタオルの切れ端を綺麗に洗いなおし、かわりばんこで使うことにした。心理的な高揚感のあと押しもあってか、温泉の湯加減も温質も素晴しく快適なものに思われた。
 温泉を楽しんだ代償として、いきおい霊場巡りは予定に反して駆け足状態になった。閉門時刻が近いうえに、これから落日を眺めるために大間崎まで行かねばならない。とりあえず大急ぎで宇曽利山湖畔まで行ったあと、なんのための恐山詣かわからぬ有様のまま車に駆け戻り、五時半ぴったりに大畑方面に向って猛スピードで走りだした。「恐山心と見ゆる湖を囲める峰も蓮華なりけり」と詠んだ歌人大町桂月の静かに澄んだ精神などこのときの我々二人にはまるで無縁のものだった。
 舗装はされているが左右にくねる山道をタイヤをきしませながら走り抜け大畑に出ると、そこから津軽海峡沿いの道を西に向って爆走することになった。西へと傾く太陽とのカー・チェイスは、サロベツ原野へと続く天塩川沿いの国道で経験して以来のことだった。ほぼ七時くらいと思われる大間崎の日没時刻に間に合うかどうかぎりぎりのところだったので、私は思いきりアクセルを踏み込んだ。
 自分で言うのもなんだが、いざというときの私の車の運転技術には知人たちの間でもそれなりの定評がある。以前ちょっとした事情があって信州中房温泉の急峻で狭くカーブの激しい山道を猛スピードで走り下った折、渡辺さんも私の運転テクニックのほどは体験済みだった。そのせいもあってのことだろう、助手席の渡辺さんは平然としたものだった。もっとも、そうはいっても四輪駆動のディーゼルエンジンワゴン車は、もともと高速運転を想定して設計された車ではない。だから、高速走行中の車体のバランスや、走行能力からいっても、一般道では最高でも瞬間的に時速百二十キロくらいを出すのが限度ではあった。
 それでも、津軽海峡をはさんで薄霞む北海道の島影を右手に望みながら、西へ西へと早足に逃げる太陽を追いかけるスリルはなかなかのものだった。ハンドルを左右に切り、アクセルを煽り立てながら、スピードメーターの針を頼りに大間崎到着時刻を算定すると、やはり日没時刻ぎりぎりである。大間崎がかなり近づいた頃、行手の路地から二台の乗用車が現れ、我々の車の前方をやはり猛スピードで走りだした。どうやら、それらの車も夕陽を追って岬方面へと向っているらしい。三台の車は轟音をたてて夕陽の街道を疾走した。 
 どこかうらぶれた感じの大間崎には午後七時ぴったりに到着した。本州最北端の地であることを示す大きな碑の向うに初夏の太陽が幾筋もの赤い雲の帯を残して沈んでいくところだった。太陽とのカーチェイスに勝ったという満足感と、それに伴う快い疲労感に身を委ねながら、我々はしばし沈黙して落日の軌跡に見入っていた。津軽海峡をはさむ北西の方角には、函館山の特徴的な山影がくっきりと浮かび聳えて見えた。

 渡辺さんがスケッチをする間、私はまた、その鋭い知性のゆえに「カミソリ」という異名をもつくだんの女性との遠い日の旅のことを想い出していた。すらりと伸びた肢体をこころもち傾げながら、長い髪を陸奥の秋風に揺らせて立つ美しいその姿は、すぐにも強く抱きしめたいという激しい衝動を若い私の胸中に生みもたらしてなお余りあるものだった。あのときは、大間崎から大畑を経て恐山に向うという、今回のコースとは逆のコースをとった。だからその前日の夕刻は陸奥湾沿いの道を陸奥市から、下北半島西南端に位置する脇野沢を目指して走っていた。季節も、若緑の瑞々しく輝く初夏ではなく、晩秋近くのことだった。
 哀しいほどに赤い太陽が西空に姿を隠すと、津軽半島側一帯の夕空は神々しいばかりの黄昏色に包まれた。金色に澄んだ紫と緑を溶かし込んだようなその空を仰ぎながら、我々は二人だけの時を刻む時計の針を止めた。行手に確たるものは何もなかった。いや、もとより何もないことは二人とも承知だったし、だからこそその一刻一刻がどこまでも切なく、震えるほどに美しいこともわかっていた。
 評論家好みの言葉を借りれば、それは対幻想の生みをもたらす一つの幻影だったということになるのだろうが、人生という旅路を通して人間が心の奥にためこむ宝石とはもともとそんな幻が凝縮されたものに違いない。現実という名のもうひとつの幻想が崇めたてる「財力」や「地位権力」などによっては得ることのできない宝石だってやはりこの世には存在する。対幻想が生み出す宝石と、現実という名の常識幻想がもたらしてくれる宝石とは少なくとも等価とは言えるだろう。車外で絵筆をとる渡辺さんの後ろ姿を遠い眼で見やりながら、私は内心そんな想いに駆られていた。

 渡辺さんがスケッチを終え車に戻るのを待って我々は大間崎を出発した。もう午後七時半頃になっていた。大間からは脇野沢方面には南下せず、再び大畑まで戻り、陸奥市街を抜けて三三八号線に入った。下北半島の東岸をいっきに南下しようという訳である。この道路は、陸奥・小川原総合開発事業と原発の廃棄物処理問題で全国的にその名を知られるようになった六ヶ所村を突き抜けて三沢方面にのびている。すっかり暗くなってしまったので、周辺の景色は闇に包まれてしまったが、ときおり左手に黒々と広がる太平洋と洋上を航行中の船舶の航海灯らしいものが見えた。六ヶ所村が近づく頃にはお腹もすいてきたので、我々は道路脇のスペースに車を駐め、コンビニで買い求めた食材をもとに簡単な夕食をすませた。
 六ヶ所村一帯にはもっとも大きな小川原湖をはじめとして大小の湖沼がいくつもある。太平洋と川で直接つながるものは、現在ではすっかり近代的に整備され、陸奥小川原港として地元の総合開発事業を支えている。原発廃棄物処理施設の建造もその事業の一環なのだ。いかにも新興の工業地帯らしい建造物の間を縫って国道三三八号は南へとのびている。無数の照明に彩られる夜の工業地帯というものは、醜悪な部分が闇の奥に隠されてしまうせいか、見方によっては妙に美しい。再び南下をはじめた我々は、社会の負の部分をすべて明るさの奥へと押し隠してしまう現代日本の象徴のような光景の中を、複雑な想いを胸に抱きながらいっきに走り抜けた。
 三沢基地の東部を過ぎ、八戸市の北に位置する百石町付近まで南下を続けたが、そこでひどい睡魔に襲われたため、国道脇のパーキングエリアに駐車、翌朝まで眠ることにした。早朝から休みなく動きまわったせいで疲れがピークに達していたのだろう、我々は崩れ落ちるようにして深い眠りに陥った。

 

「マセマティック放浪記」
1999年11月3日

奥の脇道放浪記(10)
名勝をめぐり伝承を想う
絵・渡辺 淳
 名勝をめぐり伝承を想う――陸中海岸から平泉中尊寺へ

 長岡を出発して八日目にあたる翌朝は午前七時に起床、朝食をすませると直ちに出発した。朝日に輝き浮かぶ八甲田連山の遠景が実に素晴らしい。景色に見とれながら八戸方面へと南下するうちに道路の渋滞がひどくなってきた。そのままだと通勤ラッシュに巻き込まれ動けなくなってしまいそうだったので、八戸市街を迂回して久慈市へと向かい、久慈から小袖海岸方面に進路をとった。
 太平洋の荒波を直にうける小袖海岸一帯には大小様々な奇岩が立ち連なっていて、壮観なことこのうえない。岩々を刻むようにして打ち寄せる白浪のむこうには、青潮がゆるやかなうねりを見せながら澄んだ輝きを放っている。兜岩と呼ばれるひときわ大きな奇岩の付近で車を停め、潮の干いた磯辺の水際をのぞくと、ワカメやコンブがいたるところに打ち寄せられているではないか。我々はすぐにビニール袋を取り出して荒磯に降り立つと、大量のワカメやコンブを採取した。見るからに瑞々しくやわらかで実にうまそうである。今夜の味噌汁の具はこれでOKというわけだった。

 普代の集落から黒崎方面へとルートをとると、陸中海岸国立公園の一角をなす長大な断崖地帯の上部へと出た。真青に輝く海面から垂直に切り立つ黒崎や北山崎の断崖には、見る者の魂を激しく下方へと引き込むような迫力がある。絶壁のあちこちの岩角や狭い岩棚にすがりつくようにして生息する岩松、シロバナシャクナゲ、さらにはその他種々の灌木類の緑が陽光に映え、サングラスをかけた目にも眩ゆい。巨大な岩屏風の足元を削る青潮の白い牙だけが、この魔性の海の隠しもつ本性をさりげなく語り示しているようだった。 
 じっと下方を見つめるうちに、この絶壁の上から空中に身を投げ出し、海面に叩きつけられるまでの数秒間の飛翔を楽しむのも悪くないなという思いがしてきた。ここなら、海中に没したあとも水中深くに巻き込まれ、いずれは魚の餌となって二度と人目に触れることもないだろう。実際、過去において突然姿を消した人の中には、いまもこの水底に眠る者が数多くいるに違いない。東に広がる太平洋の彼方から満月が昇る秋の夜などにこの断崖の上に立てば、遠い昔の死霊達が哀しげに訴えかける在りし日の物語が聞けるのではないかという感じさえした。
 午前十一時に北山崎を出発、中生代白亜期化石断層で知られる田野畑から内陸を縫う道に入り、岩泉町へと向うことになった。有名な鍾乳洞「龍泉洞」を訪ねるためである。日本では最古の地層の残る岩手県の北上山地一帯は、古生代末期や中生代の化石の産地として名高い。なかでも岩泉町近辺の山々は全体が石灰岩からなっており、その関係で周辺には大小の鍾乳洞が数多く存在している。もう少し北にある安家洞と並んで龍泉洞はその代表格の洞窟なのだ。
 龍泉洞には正午前に着いた。この鍾乳洞はアイヌ語で「霧のかかる峰」を意味する宇霊羅(ウレイラ)山の体内深くに葉脈状にのび広がっている。好天のために外は肌が焼けつくほどの暑さだったから、龍泉洞の中から湧き出る清水はなんとも冷たく爽やかに感じられた。洞内は身震いを覚えるほどに肌寒く、外の暑さがうそのようだった。以前は洞内の通路は細く狭く岩角がごつごつしていてずいぶんと歩きにくかったが、現在では板張りの平な歩道に変わりすっかり歩きやすくなっている。奇異な形をした無数の鍾乳石や石筍、石柱などを眺めながら我々は奥へ奥へと進んで行った。歩道の右手や下側を濃紺色の澄んだ水がひそひそと何事かを囁き合うような響きをたてて流れていく。太古から絶えることなく続いてきたこの水の囁きが石灰岩質の厚い地層を徐々に溶かし、不思議な造形物の立ち並ぶこの巨大な洞穴を生み出したわけである。
 龍泉洞最大の奇観はその最奥部に眠る大きな地底湖である。第一、第二、第三と三つの地底湖が公開されているが、なかでも深さ九八メートルの第三地底湖は、神秘的なコバルトブルーの水を満々とたたえて、我々の心を無言の言葉で威圧した。水中に何基かのライトが設置されているため、底のほうまではっきりと透き通って見える。背筋がぞくりとするようなす凄みのある色だった。龍泉洞という呼称の由来はよくわからないが、この地底湖のさらに奥に続く洞窟のどこかに龍が潜んでいたとしても不思議ではない。実際、第三地底湖深く潜りさらに奥に進むと深さ百二十メートルの第四地底湖があるという。その透明度は世界でも有数といわれるが、現在はまだ一般には公開されていない。これまでに知られている最奥部まででも二千五百メートルはあり、千変万化の相貌を秘めた洞窟そのものの全容は奥行き五千メートル以上に達するだろうと推定されている。
 第三地底湖からの帰りのルートは、何度も何度もジグザグに折れる急峻な階段の上り道となった。相当に足腰にこたえる上りである。洞内を上へ上へと進むと、先刻の地底湖が足元はるか下方に青々と輝いて見えた。 
 龍泉洞を出た我々は、龍泉洞新洞のほうも訪ねてみることにした。一九六七年に発見されたこの新洞は、龍泉洞本洞入口の向い側にある鍾乳洞で、現在は科学館をも兼ねている。世界でも珍しい自然洞穴科学館というわけで、鍾乳洞の生成プロセスが実物を事例にして詳細に解説されていた。また、洞穴学、地学、生物学、考古学等の貴重な資料や標本なども陳列公開してあった。洞内から発見された多数の土器や石器類が展示されているところをみると、古代人が昔から中に住みついていたことは明かで、その意味ではこの新洞は「再発見された」と言ったほうが的確な表現なのかもしれない。
 龍泉洞前のお店で昼食をすませたあと、我々は海沿いに走る国道四五号線に出て南下、田老町のすこし手前の真崎海岸への道に入り、大きく海に突き出した真崎に立って、眼下に広がる荒磯と太平洋の景観を楽しんだ。
 真崎からすこし南に下ったところに国民宿舎三王閣がある。この国民宿舎には以前に一度泊まったことがあったが、「三王閣」という名称のもととなった奇勝「三王岩」はまだ目にしたことがなかった。むろん、見逃すわけにはいかないということで、車から降りた我々は林を抜ける細い道を下り、三王岩展望台へと出た。眼前に現われたのは、罪人を裁く冥界の王たちとまちがうばかりの巨大な三つの岩だった。海中から威丈高にそそり立つ巨岩の中でもひときわ大きなものは、地獄の覇者閻魔大王を想わせた。
 折角だから水辺まで降りてこの奇景を楽しもうということになったのだが、道が崩落して危険だから展望台の柵を越えて進むことは禁ずるという警告板が立っている。一瞬顔を見合わせた我々だが、冥土の王たちの招きには抗し難く、すぐに柵を越えて急な細道を下りはじめた。あの世の王たちのお墨付きがあるのだから怖いものはない。急峻な岩道の崩落個所もなんなく通過し、三王岩の足元近くに降り立つと、心地よい潮の香りが鼻をついた。
 折からの干潮で一番手前の大岩の広い基底部が水中から露出しているため、磯辺から小さな岩伝いにその巨岩の根元のところまで容易に渡ることができた。あらためて下から見上げると、実に見事な形をした岩である。岩の根元に沿って歩きながら海中をのぞくと、ワカメやホンダワラの林が絶え間なく寄せては引く潮の流れに合わせてゆらゆらと搖れ動いているのが見えた。これだけ海草が繁っていたら、魚貝類もたくさん生息していることだろう。海中を眺めているうちに、ちょっと潜ってみたいという気分になったが、まだ水が冷たそうなうえに、水中眼鏡と海水パンツを車の中に残してきたこともあって、さすがにそれは思いとどまった。
 下りとは別のルートをとって急斜面を這い上り車に戻った我々は、田老の町を左手に見ながらいっきに走り抜け、宮古方面へと南下した。次ぎなる目的地は、言わずと知れた陸中海岸随一の名勝「浄土ヶ浜」である。国道から分かれるゆるやかな道を下り浄土ヶ浜駐車場に到着したのは、午後三時四十五分頃だった。
 駐車場から林の中を抜けるとすぐ海辺に出た。右手に海を見ながら小さな岬をまわると、斜めから差し込む陽射しをうけて白々と輝く岩々が見えてきた。海上に連なり並び立つ大小の岩々は、ひとつひとつが合掌して瞑黙する仏像か羅漢像のように見える。そして、それらの奇岩群に囲まれるようにして小さな入江があり、その入江の奥に真白な玉石を敷き詰めたような美しい浜辺があった。むろん、浄土ヶ浜である。
 この一帯の海岸や沖のほうに並ぶ小島は、すべて純白に輝く石英粗面岩でできている。伝承によると、いまから三百年ほど前に宮古にいた霊鏡和尚という人がここを訪ね、「さながら浄土のようだ」と賛嘆したことから浄土ヶ浜と呼ばれるようになったという。西陽に美しく映える天然の岩仏の群れに心の中で手を合わせながら、石英粗面岩の白い玉石からなる浜辺に大の字になって寝るのは、言葉には尽くし難い快感だった。

 午後五時頃浄土ヶ浜をたち、宮古から国道一〇六号を盛岡方面へ向かって走った我々は、川井村の上川井で国道三四〇号線へと左折した。車は深い林の中の峠道をぐんぐんとのぼりつめ、やがて、早池峰山の東側に位置する標高七百メートルの立丸峠に到着した。夕暮特有の深く沈み込むような色を帯びて眼下に広がるのは、伝説と民話の沃野、遠野である。
 迫る夕闇と競い合うかのように、我々は遠野への道を駆け下った。遠野盆地北東部の田園地帯に入ると、いかにも伝説に彩られた歴史とロマンの郷らしい雰囲気が漂いはじめた。道路の両側に点々と立ち並ぶ古い家々のたたずまいそのものが、時間を孕んだひとつの物語だといってよい。ぽつりぽつりと灯りはじめた遠くの民家の明かりを眺めていると、柳田国男がこの地を訪れた時代へとタイムスリップしたかのような幻覚に襲われた。

 時間が許せばこの遠野で一夜を明かしたい気分だったが、あとに続くの行程上の都合もあったので、今回は食料の補給をしただけで遠野の町を通過することにした。遠野盆地をじっと見下ろすように稜線を広げる早池峰山が黄金色の残照に浮かぶ有様は、数々の民話の生まれた背景を我々に納得させてあまりあるものだった。この早池峰山をこよなく愛し、自作の詩の中に早池峰の大自然を詠い込んだ高村光太郎は、戦後まもなくその山麓の村に移り住んだ。戦争礼賛の詩を書いて多くの若い命を戦場へと駆り立てた己の過去への悔悛と、智恵子を狂死へと追い込んだ過酷な運命への抗し難さのゆえの隠遁でもあったという。
 山中で修験者に近い生活を送っていた光太郎の山小屋のあった山口というところの近くを過ぎ、北上川の支流猿ヶ石川沿いに北上市方面に向う頃には、すっかり夜も更けてきた。 北上市で国道四号線に合流、水沢市を過ぎる頃になると、さすがにお腹がすいてきた。国道脇のパーキングエリアに駐車し、遅めの晩飯を作って食べたが、陸中海岸で採ってきたばかりのワカメやコンブのお陰で、安上りの割には結構うまい食事だった。晩飯を終え、手際よく炊飯具を片付けると、再び国道四号線を平泉方面に向って走り出した。  
 すいた夜の国道をかなりの速度で爆走し、平泉中尊寺の駐車場に着いたのは午後十一時頃だった。夜間は自由に利用可能な広い駐車場には、他に車の影はなかった。車を降りた我々は懐中電燈を手に中尊時の参道のほうへと歩きはじめたのだが、そんな姿を誰かが見ていたら、その時と場所をわきまえない野次馬根性に呆れかえったかもしれない。
 中尊寺の参道はかなり長い上り坂になっている。夏などに急ぎ足でこの坂道を登ったりすると、息切れがし、汗びっしょりになるほどである。参道の両側には杉の巨木がうっそうと立ち並び昼でも暗いくらいだから、周辺を覆う深夜の闇の濃さはいまさら強調するまでもない。過去に何度も足を運んだ中尊寺だが、深夜ここを訪ねるのは私も初めてである。他に人気のあろうはずもなかったが、逆に、人影の途絶えた深夜だからこその風情や発見があるのではないかという期待はあった。
 懐中電燈で足元の闇を切り分けながらゆっくりと歩くうちに眼のほうもかなり暗さになれてきた、肌に触れる夜の空気が思いのほか心地よい。かなり坂道をのぼりつめたところで何気なくうしろを振り返えると、杉木立ちの向うの空が明るくなっている。意外に思って足をとめ、しばらくそのほうを眺めやっていると、下弦の月に近い半月が姿を現わした。そう言えば、中尊寺参道の坂道は「月見坂」という異称をもち、ほぼ真東に向って傾斜している。これまで月見坂というその呼称の意味を深く考えたことはなかったが、しだいに高さと輝きを増す美しい半月を眺めているうちに、なるほどという思いが湧いてきた。空気が澄んでいるせいか、月光は想像していた以上に明るかった。半月でこの光の強さだから、これが満月だったらさぞかし綺麗なことだろう。
 想わぬ月光の助けのおかげで参道一帯はずいぶんと明るくなった。もう懐中電燈はほとんどいらない。昼間なら義経が最後の戦いを行なった衣川古戦場が遠望できる高台に立ったが、さすがに衣川の川面を確認することはできなかった。義経の怨霊が立ち現われて、過ぎし日の無念の情を切々と語りかけてくれれば、それにこしたことはなかったが、残念なことにそれらしい気配は全くなかった。この二人を相手に下手に昔物語でもしたら、ねじ曲げられて何を書かれるかわからない、そうなったら悲哀とロマンに満ちた我が歴史伝説もだいなしだと、義経の霊が敬遠でもしたのだろう。
 むろん、時間が時間だったから、伽藍や僧堂内には立ち入ることはできなかったが、それでも我々はたっぷりと時間をかけて、広大な境内の隅々を歩きまわった。月光でほどよく磨きやわらげられた中尊寺全山の霊気が、じわじわと体内にしみこんでくる感じで、なにやら心身の汚れが一掃されていくような思いだった。むろん、国宝の金色堂のそばにも足を運んだが、全体を覆堂ですっぽり包み保護されているその荘厳なお堂本体が見えるわけはなかった。それでも我々は、月光の中に燦然と輝き浮かぶいにしえの金色堂の姿を想像しながら、しばしその前に佇んでいた。
 真夜中の中尊寺詣を終えた我々は、車に戻ると、深夜の国道四号線を一ノ関、築館と南下した。そして、築館から花山村方面に向う国道に入り、佐野原で池月、鳴子方面へと分岐する国道四五七号線へと車を乗り入れた。中尊寺を散策中に東の空から昇ってきた半月はさらに高度と輝きを増し、周辺の野山を明るく照らし出している。このまま夜明けまで走り続けようかとも思ったが、鳴子まであと一息という大清水付近に着く頃にはさすがにすこし疲れてきた。時計を見ると午前二時を過ぎている。明朝早く鳴子で温泉にはいるにはこのあたりで野宿したほうがよかろうということになり、道端に車を駐めて眠ることにした。月の光だけが嘯々と降り注ぐ静かな静かな夜だった。

 

「マセマティック放浪記」
1999年11月10日

奥の脇道放浪記(11)
芭蕉も踏んだ小径に立つ
絵・渡辺 淳
 芭蕉も踏んだ小径に立つ――鳴子温泉から蕎麦どころ村山へ

 翌朝は七時半起床、あり合わせの食材で簡単に朝食をすませると、直ちに鳴子方面に向って出発した。昨日はかなりの強行軍でとうとう風呂に入ることができなかったので、今日はまず鳴子で一風呂浴びてから行動するつもりだった。鳴子の中心街に入るすこし手前で、この時間から入浴させてくれる温泉はないかと地元の人に尋ねてみると、近くに田中温泉というところがあると教えてくれた。早速訪ねてみると、ひなびたと言うよりはなんとも古ぼけた温泉宿だった。入口の受付けには人影が見当らないので、横手の方にまわり大声で来意を告げると、ようやく主らしい中年の男が現れた。とりあえず一人二百円の入浴料を払って中へ入った我々の目に飛び込んできたのは、往時の繁栄を偲ばせる昔風の板張りの広い回廊と、その奥に位置するとても大きな一時代前の造りの浴場だった。
 浴場は直径二十メートル近くはあろうと思われる円形をしており、満々と湯をたたえた浅目の大きな浴槽が二つ、孤状に配置されていた。いっぽうのお湯は深緑の澄んだ色をしており、もういっぽうの湯は不透明な黄白色をしていたが、どちらのお湯も適温で肌にやわらかく、無理なく体が温まる感じで、実に快適だった。泉質は重曹泉とのことで、湯治効果は抜群だという。
 二人だけで浴槽を占領しながらつぶさに大浴場全体を眺めまわしているうちに、いまでは壁面が黒っぽくくすみ、タイルのあちこちが無残に剥げ落ちて壁絵の図柄も不鮮明になってしまっているが、もともとは時代の先端を行く素晴らしい造りの浴場だったことがわかってきた。そのことを何よりもよく物語っているのは、この浴場の中心部の特殊な造りだった。円形の浴場の中央に正八角形の総ガラス張り抜け風の明るい区画があって、その中へ通じるやはりガラス張りのドアがついている。ドアを開けて内側をのぞいてみると、下部は八角形の酒落た浴槽になっており、上部はやはり八角形の無ガラスの天窓になっていて、明るい朝の光が射し込んできていた。いまでこそその白い八角形の浴槽は湯を絶たれて放置されたままになっているが、往時は斬新な着想によるその造りのゆえに、大変評判になったに違いない。時を経て古びてしまってはいるが、壁面に張られたタイルは極めて上質のもので、部分的に残る染色タイルの色艶やデザインからすると、そこに描かれていた図柄はきわめて格調の高いものだったろうと推測された。
 我々は、この「夢の跡」とでも言うべき田中温泉がとても気にいった。建物が古びようが朽ち果てようが、肌にやわらかなこの泉質が昔と変わるわけではない。湯から上がって脱衣場で服を着ているときに入浴にやってきた古老の話だと、湯治用としてはいまでも鳴子随一の泉質なのだという。ただ、時代と共に、もうすこし先の近代的な鳴子温泉街が盛え、そのあおりで田中温泉はすたれてしまったらしい。現在では、地元の人々と、たまに訪れる事情通の一部の日参湯治客だけが安い料金で利用しているだけらしいが、なんとももったいないかぎりである。
 風呂からあがったあと、館内の老朽化した広い階段をのぼり、人気のまったくない二階の窓からこの宿の裏手のほうを眺めた我々は思わず息を呑んだ。荒れ果ててしまってはいるが広大な敷地がはるか奥のほうまで続き、回廊造り風の建物群が古びた軒を連ねている。その規模からいって、昔は鳴子でも一・二を争う大旅館だったに違いない。長年放置され、その間の風雪によってひどく傷んだ無人の建物群を見つめながら、あらためて栄枯盛衰のならいを想うばかりであった。
 午前九時半頃に田中温泉を出発、大きなホテルの立ち並ぶ現在の鳴子温泉中心街をいっきに通過し、しばらく急坂を登っていくと、奥の細道にも登場する「尿前の関」跡付近に到着した。陸奥から出羽へと越える難路の途中にあるこの関所で、芭蕉一行は思いもかけず足止めを喰うことになった。当時はほとんど通行する者のいなかった文字通りの細道を敢えて越える理由と、その身分のほどを役人に厳しく問われたからである。
 芭蕉と曽良がこのあたりを通ったのは旧暦の五月半ば頃、現在の歴では六月末から七月初め頃に相当している。東北地方も梅雨期に入り、湿度も気温も相当に高くなっていたはずで、徒歩による旅路の難儀は想像以上のものだったろう。

 尿前の関跡から国道四七号をしばらくのぼったところに谷を横切る大きな橋がかかっている。その橋のたもとから谷筋に入る細い道を辿ると、すぐに清流のほとばしる深い沢に入った。頭上はうっそうとした樹木に覆われ、どこからともなく澄んだ鳥の鳴き声が聞こえてくる。いまではよほどの物好きしか通ることのない隘路だが、この道こそは、芭蕉一行が折からの悪天候と戦いながら越えて行った小深沢の六曲がりの古道にほかならなかった。渡辺さんと私とは一歩一歩足元を踏み固めるようにして、左右にくねる急傾斜の細道を登った。踏み跡らしいものは全くなく、それでなくても人ひとり通るのがやっとの狭い道に、行手をさえぎるようにして木の枝が伸び出している。それでも、芭蕉や曽良がこの小径を踏み辿ったのかと思うと感慨はひとしおだった。当時のままの様相を留めているのは旧道のうちのごくわずかな部分にすぎないけれども、元禄時代の頃の中山越え、すなわち奥羽山脈越えの苦労とその雰囲気のほどが偲ばれたのは大きな収穫だった。
 奥の細道によると、芭蕉一行はこの山道をのぼりつめ出羽の国との境に至ったあたりで激しい風雨に見舞われ、やむなく国境の役人の家に三日ほど逗留することになった。その時に詠まれたのが、

  蛋虱馬の尿する枕元

という有名な一句である。天候回復を待ってから、若い屈強な山案内人の先導で、芭蕉一行は道なき道を分け進むようにして山刀伐(なたぎり)峠を越え、尾花沢の集落へと抜けている。
 再び車へと戻った我々は、芭蕉一行には申し訳ないような速度で山形県へと続く峠路を越えると、尾花沢方面へと向かってハンドルを切った。尾花沢を過ぎ大石田町の田沢というところにさしかかると、月山の雄大な眺望が行手の視界いっぱいに広がってきた。庄内平野の鶴岡あたりからとはちょうど逆の方向から月山を眺めていることになる。この一連の旅を通して、はからずも月山の美しい山容を両側から望むことができたというわけだ。
 大石田からは、葉山の裾野を縫う道に入った。葉山は月山連峰の東端に位置する山で、古くから修験道の霊山としても知られている。若緑に輝く野中をしばらく走ると、最上川にかかる三ヶ瀬橋にさしかかった。この橋の下一帯は深く切り立った渓谷になっており、川瀬が荒々しく露出していて流水が速く、昔は最上川水運の三難所のひとつだった。米沢藩で産出される紅花などの物資は最上川伝いに舟によって日本海に面する河口の酒田まで運ばれたが、濁流の渦巻く増水期などにこの難所を無事通過することは大変だったらしい。さらにまた、酒田方面から必要物資を積んで米沢方面へと最上川を遡行する場合は、多数の人力を要する曳き舟作業によって急流に立ち向かい荒瀬を乗り切らなければならなかった。
 三ヶ瀬橋のたもとに車を駐め、川中を見下したが、想いのほか水かさは少なかった。いまでは上流地一帯に多数のダムが建設され、水量がコントロールされるようになっているからだろう。また、芭蕉が「五月雨をあつめてはやし最上川」と詠んだ時期は新暦の七月のことで、まだ一ヶ月ほどさきの梅雨期の最中にあたっている。五月雨とは、むろん、梅雨のことである。梅雨の頃になれば、いまでも増水して激しく流れ下る最上川の姿が見られるのかもしれない。
 三ヶ瀬橋からしばらく行くと村山市の白鳥という集落にさしかかった。実を言うと私はこのあたりの地理には相当詳しかった。この集落に、現在は神奈川の相模原で歯科医院を営んでいる昔からの知人の実家があって、その人に連れられ、過去何度もこの地を訪ねたからである。
 鹿児島市内で高校生活を送っていた頃、苦学生だった私は地元のある歯科医院でアルバイトをしていた。たまたまそこへ新任の勤務医として赴任してきたのが、私より十二才年長の小野富男さんだった。年齢差こそ大きかったが、気が若くて飾り気がなく、しかも旅好きな小野さんとは不思議なほどに気が合った。人一倍の努力と苦学の末に歯科医としての道を切り開いた小野さんの励ましは、深い人生経験に裏付けられた実感が込ってもいただけに、頼もしくもあり、有難くもあった。私が高校二年生のとき、小野さんは勤務先の医院の看護婦さんと結婚なさったのだが、そのとき前代未聞の珍事が起った。仲人を務めた歯科医院長の奥さんの配慮もあってのことだったが、ひとまわりも歳下の高校二年の私が、なんと新郎の歯科医の「友人代表」として祝辞を述べさせられるという、信じられない事態に直面するはめになった。
 本土の南端鹿児島での結婚式だったために、小野さんの親族、知人、友人などのほとんどが参席なされないという事情はあったが、それでも何十人かの出席者があっての挙式だった。そんな状況の中で、坊主頭に学生服姿の高校生が友人代表として祝辞を述べたわけだから、ほとんどの参席者は目を白黒させて驚き呆れはてたに違いない。まだビデオなど普及していない時代のことだから、幸いスピーチ録画は残っていないが、もしもそんなものが残っていたら頭底直視はできないことだろう。日本広しといえども、高校二年生の分際で、十二歳年上のれっきとした歯科医の結婚式で友人代表としてお祝いのスピーチをしたなどというのは、この私くらいのものではなかろうか。
 私が大学進学のため上京してほどなく、小野さんのほうは北海道サロマ湖近くの町において歯科医院を開業され、その後、神奈川県相模原市に移って現在はそこで歯科医院を営んでおられる。小野さんが相模原に移ってからは、故郷の山形に帰省されるときなどよくお誘いをうけ、度々この地に同行し、白鳥のお宅に泊めていただいた。その度ごとにこの周辺をずいぶんと歩き回っているから、一帯の地理に私はよく通じていたのである。
 懐しい小野家の屋敷を右手方向に見ながら白鳥の集落を過ぎると、我々はそこから少し南に下った大久保というところを目指して走り続けた。大石田町の次年午と村山市の大久保との間には、民宿を含む十四・五軒のそば屋が存在している。この街道が「最上川三難所そば街道」という別称をもつのもそのためである。西にそびえる一四六一メートルの葉山の懐に抱かれる地形の関係で、東や南から直射日光が当たるいっぽう、冷気が入り込み霧もかかりやすい。この特殊な気象条件は、そばの栽培に好適で、信州と同様にどの農家も自家用のそばを栽培してきた。古くは紅花の大産地であり、当時は紅花の後作にそばが作付けされていたという。
 伝統と気象条件に支えられたそば粉の質は最良だし、味を競うそれぞれのお店にはそれなりの秘伝があるから、出されるそばはなかなかうまい。だが、なんといっても、このあたりで一番の老舗は大久保にある「あらきそば」である。大正八年創業の「あらきそば」の三代目にあたる当主の芦野又三さんは、一帯のそば屋を中心に近年結成された「最上川三難所そば街道振興会」の会長を務め、地域の振興に貢献しておられる。小野さんに同行してこの地を訪れるたびに、「あらきそば」に連れていかれた私は、いつもその太く腰のあるそばに感動を覚えさえしながら舌鼓を打ったものだった。初めてあらきそばを訪ねたのは、もう二十数年前のことだったように思う。この日我々が大久保を目指したのは、むろん、その「あらきそば」を訪ねるためだった。
 縁とは不思議なものである。長岡を出てから日本海沿いに北上しているときに、渡辺さんとの会話の中で、東北に来るなら是非立ち寄ってほしいといってきている老舗のそば屋があるのだがという話がでた。そこの若主人が、作家の水上勉先生主宰の若州一滴文庫会員で、渡辺さんの絵の熱烈なファンでもあるという。おまけに、一滴文庫の会員誌に渡辺さんの挿絵入りで連載していた私のエッセイをも愛読してくださっているというのだ。よくよく話を聞いてみると、山形県の村上市にある「あらきそば」というお店だというのではないか。それはまた奇縁だといことになり、その時点で「あらきそば詣」がきまったのだった。前日、下北半島から先方に電話を入れ、この日の昼頃までには到着するむね伝えてはあったので、あらきそばの方々も我々が着くのを、いまかいまかと待っていてくださったようであった。

 あらきそばに到着したのは午後一時頃だった。その風情豊かな萱葺き屋根の大きな建物は以前と少しも変わらない。「あらきそば」としるされた控えめな看板が一枚だけさりげなく掛っているだけというのも実にいい。外から眺めたら昔風の造りの由緒ある古い民家にしか見えない。渡辺さんは、車から降りるとすぐにお店の建物の全景をスケッチしはじめた。私のほうはその間、お店の周辺をさりげなくうろつきながら、初夏の陽光に輝き躍動する風物の妙を楽しんだ。渡辺さんがいまにもスケッチを終えそうになったとき、お店のほうから感じのいい男の人がちょっとはにかむような笑みを浮かべて我々のほうへと近づいてきた。そして、渡辺さんに向かって静かな口調で話しかけた。それが若主人の芦野光さんだった。我々はすぐに玄関に通され、当主の芦野又三御夫妻、光さんの奥様、真弓さんらによって手厚く迎え入れられた。 
 黒光りのする年期物の頑丈な建具で造られた広い畳敷きの空間には、人の心を自然となごませてくれる不思議な温かさがあった。天然木で出来た細長い食台が何脚も並び、古い上質の木肌ならではの艶やかな輝きを放っている。奥のほうの座布団にどっかりと陣取った我々の相手をしてくださる芦野老御夫妻、若御夫妻の飾り気のないお人柄と、耳にやわらかな山形弁の美しいリズムとが、このうえない宝物のように思われてならなかった。渡辺さんは芦野家の方々との談話の合間に手ばやく店内の様子をスケッチし、先刻の建物全景のスケッチともども、芦野家にプレゼントなさっていた。
 あらきそばは知る人ぞ知る山形の老舗だから、食通の高名な文人や芸能人などをはじめとし、はるばるこのお店の味と風情を求めて訪ねる人はあとを断たない。一昔前に一世を風靡したNHKの名アナウンサー宮田輝、慶応大学教授で食通として知られた池田弥三郎、作家の村上元三なども、あらきそばの熱烈なファンだったらしい。以前はそういった人々の書や色紙が床の間や壁に掛けられていたが、いまは別の書や色紙に変わっていた。さりげなくお店の四方を見渡しながら、そのうち渡辺さんのスケッチも時間と歴史の溶け込んだこの壁面の一隅を飾ることになるのではないかと、内心で私は思ったのだった。
 年期ものの木製の長箱型器「片木盆」に丁寧に並べ盛られた太目のそばは、香り、歯ざわり、腰の強さ、どれをとっても文字通りの絶品だった。しかも、その一人前の分量を思うと、信じられないほどに良心的な値段だった。私は何度もこのお店に来ているからよくわかるのだが、普通盛りと昔盛りとがあって、普通盛りでも一般のそば屋の一倍半ほどの量はある。昔盛りのほうは普通盛りの二倍も量があるのだから、調子に乗ってうかつに注文したりすると、途中で胃袋のほうがギブアップの悲鳴をあげてしまうことになりかねない。
 もっともこの日だけは芦野家のご好意に甘え、あらきそば秘伝の味を堪能させていただくことになった。そばもうまかったが、産地直送の鰊を砂糖と味噌だけで一日かけて煮込んだ特製の身欠き鰊、上質の黒ごまのタレつきのそばがきの味も思わずうなりたくなるほど素晴らしかった。続いて出された採れたての山菜類のおひたしや笹包み御飯も掛値なしに美味しかった。
 だが、困ったことに芦野家御家族の真心の込った接待に甘んじ、次々に出される御馳走に箸をつけるうちに、我々の体内では想わぬ変化が起こりはじめた。長岡で渡辺さんと合流し旅を始めてからの九日間というもの、粗食に徹してここまでやってきたわけだから、それなりのリズムに慣れてきていた胃袋のほうも、こんな大量の御馳走がいっきに崩れ込んでくるなんて予想だにしていない。あっというまにぱんぱんに膨れあがり、それでもなお詰め込まれてくる御馳走に対応しきれなくなった胃袋が、とうとうSOSの悲鳴を発しはじめたのだった。最後は、渡辺さんも私も必死になって御馳走と格闘する事態となり、もうちょっとで一歩も動けなくなりそうだった。
 芦野家から頂戴した沢山のお土産を車に積み込んだ我々は、心から別れを惜しみながら、午後六時半頃、山形県南部から福島県北部方面を目指して走り出した。後日談になるが、東京に戻ってから書いたお礼状の中で、私は「あらきそば」という屋号の由来について尋ねてみた。前述した小野さんから、あらきそばの「あらき」はどうやら剣豪荒木又右衛門にちなんだものらしいという話を聞いたことがあったからである。当主の芦野又三さんから頂戴したお手紙によると、先々代の御当主が講談の荒木又右衛門の熱狂なファンであられ、そのため屋号が「あらき」になったのだとのことだった。小野さんの話は事実だったのである。
 食べ過ぎの報いはてきめんだった。あらきそばを出発し、河北町、寒河江を経て天童に出た頃のことである。限界いっぱいに膨張していた胃袋が車の振動でさらに刺激をこうむってさらに膨れ上がったせいだろうか、重苦しさがピークに達した。助手席の渡辺さんも明らかに同じ症状を呈している。「本田さん、胃散があるから飲まへんか?」という渡辺さんの苦し気な誘いに、私のほうも一も二もなく同意した。国道十三号線脇のパーキングエリアに車を駐めた我々は、あらきそばの皆さんには申し訳なく思いながらも、胃散を一服ずつ飲んでから車の後部席でしばらく横になり、胃袋の発する緊急異常信号が鎮静するのをじっと待った。二人とも、もう二・三 日はなんにも食べなくてもよいのではないかという思いだった。
  胃やすめついでに二時間ほど仮眠をとったあと再び走行態勢に入った我々は、すっかり暗くなった国道を速度をはやめて南下した。山形市、南陽市を経て米沢に出、米沢からは白布温泉方面へと向う道に入った。もうずいぶん昔のことになるが、白布温泉の国民宿舎にはちょとした想い出がある。ある晩秋の夕刻に猪苗代湖付近から急に電話を入れ、男一人だが今晩泊めてもらえないかと尋ねてみた。こういう場合は断わられることが多く、とくに、観光シーズン最盛期や、逆にシーズンオフで、お客がほとんどないときなどはなかなか泊めてもらえない。秋の紅葉シーズンは遠に終わり、ほどなく初冬にかかろうかという客足の途絶えがちな時期だったから、体よく断わられるだろうと予想していた。ところが、電話の向こうの老いた声の主は、「はいわかりました。御到着をお待ち申し上げております。今晩のお泊まりはお客様お一人ですので、お客様をお泊めする部屋の明かりだけをつけ、他の部屋は消灯してお待ち申し上げております。夜間のことで当館がおわかりづらかろうと存じますので、それを目印にして御来館ください」という、なんとも粋な応えを返してきたのである。
  それなりの規模の宿泊施設がたった一人の突然のフリー客を泊めるとなると、それに要する人件費や光熱費、管理費などで赤字になってしまいかねない。それを承知で泊めてくれるというのである。思わぬはからいに感激するいっぽうで、なんだか申し訳ない気持ちさえするような有様だった。
  桧原湖から吾妻山の西肩を越える吾妻スカイバレーを越えて白布温泉に着いたのは夜八時半頃だった。二階中央の部屋の明りだけがついた三階建ての大きな建物があったので、それが目指す国民宿舎だということはすぐにわかった。迎えてくださったのは、とても感じのいい老齢の管理人御夫妻で、すぐに出された心のこもった料理も美味しかったし、広い浴場を一人で占領しての入浴も快適このうえなく、思わぬ幸運に私は感激のしどおしであった。もう二十年近くも前のことなので、あの御夫妻にお会いすることは叶わないが、旅をしているときなどいまでも懐かしくその一夜のことを想い起こす。
  白布温泉街を通りかかったのは十一時前後だったので、さすがにどこかで一風呂というわけにもいかなかった。昔に較べるとずっと明るく近代的になったホテルや宿泊施設群を横目に見ながら白布の温泉街を走り抜けると、ほどなく道は急坂になった。深夜のスカイバレーを越えて桧原湖側へ出ようという算段である。こんな時刻にこの深い山越えの道を通る車はほとんどないだろうから、有料道路とはいっても、料金徴収ゲートに係員はいないに違いない。そうすれば、そのぶん、交通費も安上がりですむ。アクセルを踏み込むとぐんぐん車の高度はあがり、艶やかなビロード地に大小無数の宝石を散りばめたような夜空が、視界の上方いっぱいに広がりはじめた。時折車を停めて天空の星々を仰ぎながら山形と福島の県境の峠を越え、通行フリーになっていた料金徴収ゲートを抜け、桧原湖ぞいの道に出たときは午前零時をまわっていた。
  とりあえず桧原湖畔のオートキャンプ場へと続くダートの細い道をゆっくり走っていると、突然ライトの中に飛び跳ねるように動きまわる小動物の姿が浮かび上がった。よくみると、無邪気にじゃれあう三匹の子狐だった。子犬の動きそっくりで、なんとも可愛らしい。車を停め、ライトをつけたままにして、我々は内なる命が弾け転がるような子狐たちの動きをじっと見つめ続けた。思わず漏れた「メンコイのう!」という助手席の渡辺さん呟きが、その情景のすべてを物語っている感じだった。子狐たちが道路脇の繁みの中へ姿を隠すのを待って湖畔に出た。そして、そこに車を駐め眠りに就いたのは午前一時近くだった。

 

「マセマティック放浪記」
1999年11月17日

奥の脇道放浪記(12)
甦る大雪の日の光景
絵・渡辺 淳
甦る大雪の日の光景――会津から越後長岡へ

  翌朝は六時半に目覚めると、朝食をとらずにそのまま桧原湖畔をあとにした。十日間にわたる渡辺さんとの旅の最終日とあって、どうしても午後三時半頃までには越後長岡駅に着かねばならない。長岡まではまだかなりの行程なので、早立ちしたようなわけだった。磐梯山が澄んだ湖面に影を落とす五色沼に立つと、この一帯に遊んだ懐かしい日々のことが想い起こされた。朝日に浮かぶ磐梯山のはるかな頂きには、昔日の自分の影がいまも亡霊のように立っていて、じっとこちらを見下しているような気がしてならなかった。また、五色沼の青い湖面には青春の日々に漕いだボートの水尾がいまもかすかな跡を残しており、また沼々の周辺を縫う小道の片隅には、かつての憂いを深く刻んだ足跡が隠されているような想いがした。

 

  尽きることのない回想を振り払うようにして五色沼をあとにすると、私はいっきにアクセルを踏み込み、猪苗代湖畔へ向けてハンドルを切った。そして、猪苗代湖畔沿いの道を湖面を左手に見ながらしばらく走り、会津若松へとルートをとった。時間が十分にあれば、飯盛山をはじめとする旧跡をゆっくり巡ってもみたかったが、この日の行程の都合上そうしている余裕はなかったので、飯盛山の麓を迂回しただけで、会津若松市内を通過した。会津田島まで南下し、田島から桧枝岐に向かおうというのが、当面私が想定したコースだった。
  会津若松と会津田島の間にある芦ノ牧温泉付近にさしかかる頃になると、さすがにお腹が空いてきた。昨夕あらきそばを出発したときは、もう二・三日は何も食べなくてもいいような気分だったのに、今日はもうこの調子だから呆れ果てたものである。芦ノ牧温泉街入口に近い土産物屋の駐車上に急いで車を駐めた我々は、あらきそばで頂戴してきた身欠き鰊と笹包み御飯で朝食をとった。しっかりと煮込まれた鰊とほどよく歯応えのある御飯をじっくりと味わい噛みしめると、芦野家の方々の真心がじわじわと浸み出してくる感じだった。そばに砂糖をまぶし、カラッと揚げたカリントウ風のものも、不思議な風味があってとても美味しかった。
  朝食を終えると、我々はまた阿賀野川の支流大川に沿う国道を南下しはじめた。そして、小野という集落にさしかかったところで西へと分岐する道に入った。緑鮮やかな谷伝いにしばらく走ると、南からのびてきている旧街道に合流した。その地点で北に折れ、すこし進むと、そこが昔ながらの宿場町の面影をいまもとどめる大内宿だった。大内宿は、木曽路の妻籠宿や馬籠宿、奈良井宿などと並んで民俗史上重要な文化遺産を数多く残す集落として知られている。車を集落入り口の駐車場に置き一息つくと、さっそく古い町並みを見学することにした。
  日光東照宮の門前町今市から北にのびる会津西街道は、山王峠を越えて会津田島に入り、田島から会津若松方面へと続いている。田島から会津へ向かう旧街道は、現在の国道とは違い、深く険しい谷と急流の連なる大川筋を避け、大川の西側山間部を縫って会津高田方面へと通じていた。その途中の、小野岳と烏帽子岳という標高千メートルを超える二つの山々に挟まれた谷筋の平地に、大内宿は位置している。集落の中央を走る旧街道は、ゆるやかな坂をなして北の方角へと上っている。道幅はかなり広く、道の両端には快い響きをたてて水の流れる用水路が設けられていた。
  まだ朝早い時刻だったこともあって観光客の姿もまばらで、町並み全体は静かな感じだったが、街道の両側には大きな萱葺き屋根をもつ会津特有の構えの古い家々が立ち並び、往時の繁栄のほどを十分に偲ばせてくれた。歴史資料館や文化財指定の民家などもあり、十分に時間をかけて見学したいところではあったが、越後長岡に午後四時には着かなければならないとあって、どうしても急ぎ足で行動しなければならなかった。昔風の店構えのお土産屋や食物屋の前を揺れる心を抑えながら通り過ぎ、ともかくも集落の最奥部まで歩を進めた。付近に古いお寺などもあるようだったが、そこを訪ねたりするのはまたの機会にということになった。むろん、再訪の機会がいつめぐってくるかは知るよしもないことではあったけれども……。
  大内宿を過ぎると、旧街道は歩いて登るしかない細く狭い山道になっている。道は小野岳の北にある六石岳と前述の烏帽子岳との鞍部を越えて会津高田方面へと続いているが、現在ではその山路を辿る人はめったにいない。我々は山道に入る手前で引き返し、往時の旅人の姿を遠く偲びながら駐車場へと戻っていった。
  大内宿からは旧街道伝いに南下し、中山峠を越えて富栄の小集落を通過、林戸で再び国道に合流するルートをとった。林戸から会津田島までは車で十分ほど、距離にして十二・三キロだった。
  会津田島に入り、市街を南郷村方面へ抜けようとしていると、前方に道路情報の表示板があらわれた。なんと国道二五二号、国道三五二号とも残雪と雪崩のため通行不能とあるではないか。私としては、田島から南郷村を経て三五二号線伝いに桧枝岐に出、そこから尾瀬燧ヶ岳の北山麓を通って奥只見の銀山湖に抜けるつもりだった。途中の雄大な景観は抜群だし、銀山湖から小出に至れば、長岡まではひと走りである。ただこの道は山岳部の豪雪地帯を超えるルートなので、下手をすると残雪で通れない可能性もあるとは思っていた。だから、その場合は、南郷村から只見町に出て国道二五二号にはいり、田子倉ダムの北側を通って小出に抜けるつもりだった。国道二五二号は会津と新潟をつなぐ山岳道路だが、かつて田中角栄が力を入れたというだけのことはあって、広くしっかりとした造りの完全舗装道路である。まさかその道路までがこの時期通行不能であるなんて考えてもみなかった。さきの冬はよほどの豪雪だったのだろう。交通情報には時々実際の状況とはずれたものもあるので、当局に確認の電話を入れてみたが、やはりどちらの国道も通行不能だということだった。
  残されたルートはただひとつ、ずいぶん遠回りにはなるが、もう一度北上して国道四九号に入り、阿賀野川沿いに走って新潟方面に出るしかない。長岡に四時前に着けるかどうかぎりぎりのところだが、とにかくチャレンジしてみるしかない。急遽、田島から北西にのびる県道に車を乗り入れ、相当にカーブの多い小道を越えてまず昭和村へと出た。途中の景観はそれなりに変化に豊んではいたが、それをゆっくり楽しんでいる心のゆとりはなかった。昭和村の手前で会津高田へと続く国道四〇一号へと右折、二・三キロ走ったところで博士山の西山麓を北に縫う県道に入った。
  この県道を下って行くと、ほどなく五畳敷温泉に出た。西山温泉とも呼ばれ、昔からひなびた温泉宿が数軒あるところである。この温泉を初めて訪ねたのは二十数年前で、たしか前述した歯科医の小野さんと一緒だった。その時は逆方向の柳津から五畳敷へと向かったのだが、当時は未舗装の狭く凹凸のひどい道で、結構大変だった記憶がある。この五畳敷の温泉宿の特徴は、数軒の宿それぞれの泉質がまったく異なっていることで、料金さえ払えば他の宿でも入浴できたから、浴衣に下駄ばき姿で温泉めぐりをしたものだった。どの宿の温泉にも昔ながらの素朴な風情と人情が残っており、とても満ち足りたひと時を送った想い出があるが、車から見るかぎりではもうすっかり近代化されている感じだった。

  只見線の滝谷の駅をすこし過ぎたところで二五二号線に合流、柳津の方面へとハンドルを切ったところで、私の脳裏にいまひとつ懐かしい記憶が甦った。やはり二十年以上昔のことで、そのときも小野さんと一緒だったが、一月の初めにここよりさらに奥にある玉梨温泉へと出かけたことがある。郡山を過ぎて会津若松に向う頃から、猛吹雪になった。東北一帯が二・三十年に一度という大雪に見舞われた年のことである。フロントウィンドーにはワイパーの処理能力を超えた雪が降り積もり、窮余の策としてウィンドー・ウォッシャーを使うと、低温のため、たちまちワイパーそのものが凍りつき用をなさなくなってしまう有様だった。ちょっと走っては車を停め、フロントウィンドーの雪や氷を払い落としまた走るという作業を繰り返すうちに、こんどはアクセルやクラッチ、ブレーキの調子が悪くなった。何度も車に出はいりするうちに、靴の裏に付着した大量の雪が落ちてアクセルやクラッチ、ブレーキのまわりに凍りつき、おまけに靴裏の雪までが氷結してしまったのである。そのため、アクセル、クラッチ、ブレーキの動きが悪くなったうえに、踏んでも靴裏がつるつるに滑るため、思うがままに運転ができなくなってしまったのだった。古い車のため、ヒーターの利きが悪かったのも一因だったが、最大の原因は異常な降雪と苛烈な寒気だった。
  それでも会津若松まではまだよかった。路面を覆う深い新雪に加えて、新雪下の路面そのものはガチガチに凍結していたから、柳津にさしかかる頃になるとチェーンもほとんど利かなくなった。地元のタクシーなども何台か道端で動けなくなっていた。スコップをふるって行く手の雪を排除したり、滑り止めの砂を撒いたりしながら、亀のような速度で一進一退を続けた。国道二五二号から分岐して玉梨温泉、さらには昭和村へと通じる道はいまではすっかり拡幅整備され、舗装道路になっているが、当時は急坂の悪路だった。この道を上りはじめる頃になると、まるで車ごと氷上をスケートしているみたいに、右へ左へとスリップを繰り返し、幾度となく車体が進行方向と四五度の角度をなして停まる有様だった。正直なところ身に危険を覚え引き返そうかとも思ったが、そうしたくてもUターンができない。だからといってその場で動けなくなってしまったら、事態はいっそう悲惨である。最後の蛮勇をふるい起こし、ほうほうの体で宿に辿り着いたときには、時刻は夜の十一時を過ぎていた。その頃たった一軒しかなかった温泉宿の御主人から、「よくもまあ、こんな悪天候の中をお出でになられましたねえ。地元の者でもこの雪じゃ誰も動いたりしませんよ。てっきりお泊りはないものと思っておりました」と大いに呆れられもした。雪路にも強い現在の四駆のワゴン車でもどうかと思うくらいなのに、よくもまあ、あの旧式の老朽車で無謀なことをやったものである。
  小降りにはなったが、雪は翌日もやまなかった。もしかしたらという予感通り、その後起こった雪崩と想像をはるかに超えた積雪のために道路は完全に不通となった。そして、道路が再び開通するまでの間、我々は玉梨温泉付近に閉じ込められるはめになってしまった。仕方がないので、翌日は近くの小集落を散策し時間を潰すことになったが、想いもかけぬ光景にめぐりあったのはその時だった。
  屋根に積った厚さ一メートル以上の雪を大きな木製の雪ベラを巧みに使っておろしている老人に話しかけると、冬の厳しさと戦う雪国の苦労を、ユーモアを交えながらも切々と語ってくれた。屋根に上って雪おろしを体験してもよいというので、茶目気を起こしてちょっとだけ手伝わせてもらったが、三・四十センチの厚さずつ何層かに分けて表層部から徐々に雪を降ろす作業は、想像以上に熟練と体力を要する仕事だった。十分ほども雪おろしを続けていると身体中が汗ばみ、足腰が重たくなってきた。迅速に事を運ぼうと、屋根の軒先寄りの雪をいっきに取り除いたりすると、屋根の上方部の厚い圧雪層が急に動き滑りだして作業者もろとも地上に崩落しかねない。雪おろし作業中に屋根から落ちたり、雪に圧し潰されたりして負傷者や死者がでるのはそのためである。老人の話によると、雪おろしには鉄製のスコップなどよりも、昔ながらの木の雪ベラのほうがずっと効率的で屋根も傷めずにすむということだった。
  雪おろしも印象深かったが、そのあとでたまたま目にした光景は衝撃的でさえあった。その小集落の一隅に共同墓地があって、そこで埋葬の儀式が行われていたのである。一帯は深さ四・五メートルはあろうかという雪に一面覆われてしまっていて、墓地そのものは我々の目にはまったく見えなかった。線香や数珠を手にした人々に守られるようにしてお棺と思われるものが近くまで運ばれてきていたから葬儀には間違いなかった。どうするのだろうと不思議に思ってもっと近づいてみると、なんと、雪面の一角が一辺五・六メートルの正方形に仕切られ、そこだけが深く堀り下げられているではないか。そして、暗く四角いその穴の底に向って梯子が掛けられているのだった。
  穴の底がどうなっているのか部外者の我々は知るよしもなかったが、土葬なのは明らかだったから、お棺を埋めることができるように穴の底の冷たい地面はさらに深く掘り下げられていたに違いない。無雪期であっても土葬の場合にはかなり深く地面を掘り下げなければならない。想像しただけでもその作業は容易ではなさそうだった。埋葬の参列者の一人にそっと尋ねてみると、亡くなったのは九十才をすこし超えた老婆だとのことだった。その人の言葉をそのまま信じるとすれば、その老婆は生まれてから亡くなるまでずっとその地を離れたことがなかったという。現在では考えられない話だが、当時の山村や漁村にはまだそのような人々がわずかだが存在していたのである。
  私と小野さんとは、そこに釘付けになったまま、中で老婆の眠るお棺が梯子伝いに穴の底深くにおろされる様子を見つめていた。半年は深い雪に閉ざされる豪雪地帯山村の小集落に生まれ、ささやかな喜びや楽しみはあったろうが、多分その何十倍何百倍もの苦しみと悲しみに耐えて生き、そして生涯誕生の地をひとたびも離れることなく永遠の眠りについた老婆が、いま厚いあつい雪の下の暗く冷たい土の底へと還っていく……それは、生きるということの意味を根底から考えなおさせられる壮絶きわまりない光景であった。奇妙な偶然の取り合わせでその老婆が地中へと戻る瞬間に立ち合うことになった我々は、一度さえもその姿を拝することのなかった柩の中の人生の先達に向って御苦労様と手を合わせたような次第だった。
  翌々日の午前中になってようやく道路が通行できるようになった。帰り仕度をすませ、いざ車を動かそうとしてみたが、連日の寒気であちこちが凍結したらしく、エンジンは微動だにしない。あちこち叩いたり揺ったりしてからチョークを絞り込みスターターを回してみたが、すぐに止ってしまってどうにもならない。ガソリンだけを大量に吸い込んみプラグが濡れてしまったこともあって、事態は悪化するばかりだった。万事休すかと諦めかけたが、最後の非常手段をと思い立ち、宿に戻って大きなヤカン一杯の熱湯をもらってくると、それをエンジンに思いきり浴びせかけた。そして湯煙の途絶えぬうちにエンジンをかけると、頼りなげながらもなんとか動きだした。エンストしないように注意しながらエンジン全体の温度が上がるのを待って、ようやく我々は玉梨温泉をあとにしたようなわけだった。

  柳津を過ぎしばらく走ったところで国道二五二号線は国道四九号線と合流した。合流地点で左折、四九号線伝いに新潟方面に向って西進しはじめたが、かなり車が混んでいて思うようには進めない。やはり小出、長岡方面に直接通じる二つの国道が通行止めになっている影響だろう。長岡駅午後四時五分発の雷鳥四四号に渡辺さんを乗せるには遅くとも三時五〇分くらいには駅前に到着しなければならないが、この調子だと間に合うかどうかわからない。渡辺さんには黙っていたが、私は内心少なからず焦っていた。先を急ぐそんな私の気持ちのゆえか、四九号と並行して西にのびる阿賀の流れまでが妙にのんびりとしているように思われた。阿賀野川両岸の若緑は鮮やかだったが、残念なことにそれをゆっくりと眺めている暇はない。はじめの予定では長岡に着くまでにどこかで温泉にはいるつもりだったが、とてもそれどころではなくなった。渡辺さんとの旅の終りを間近にして、なにやら「現実」あるいは「日常生活」という名の魔物がしばしの眠りから醒めて再び蠢きだした感じだったが、このままずっと旅を続けるのでないかぎり、それはどうにも仕方のないことだった。
  津川町に着いたところであらためて長岡方面への最短ルートを検討しなおし、国道四九号線に別れを告げて阿賀野川にかかる橋を渡った。そして五泉、村松を抜け、さらに加茂市、三条市を経て国道八号線に出た。国道八号に出たら、あとは長岡までひと走りだった。
 渡辺さんとのこの旅の出発地点長岡駅に到着したのは午後三時三十分で、結果的には当初の予定時刻にぴったり間に合った。走行距離数二八八九キロメートル、九泊十日にわたる旅はこうして無事終了した。九泊すべて車中泊という徹底ぶりだった。幸い天候には恵まれ、青森県岩崎村黄金崎周辺での半日だけが全行程中で唯一の雨天だった。
  旅の全行程に要した費用は、食費、車の燃料費、有料道路料金、各種施設利用料金のすべてを含めて五万五千三百円、一日一人当たりになおすと二七六五円であった。総費用のうちで意外に大きな割合を占めたのは一日平均一人当たり七・八百円にのぼる各地での温泉入浴料だったから、温泉のハシゴをもうすこし慎んでいたら、もっと安上がりの旅になったことだろう。いまどき信じられないと思われる方もお有りだろうが、この集計値に間違いはない。若い者ならともかく、よい歳をした大人がよくもまあ馬鹿げた真似をと絶句なさるむきも少なくなかろうが、そのような声に対しては、「はいおっしゃる通りアホなんです」と自らの愚かさを素直に認めるほかはない。
  午後四時五分長岡発の雷鳥四四号で若狭への帰途につく渡辺淳さんを私は一人ホームで見送った。列車が遠ざかるのを見届けてから駅前に駐めてある車に戻った途端に、空がみるみる暗くなり稲妻まじりの大粒の雨が降りだした。まるで天空の雷様が、我々の旅が終わるのをしびれをきらして待ちこがれていた感じである。どうやら、梅雨前線が長岡市周辺まで北上してきたものらしい。激しい雨の中を突いて新潟群馬両県境の三国峠付近にさしかかると、二、三メートル先も見えないほどの濃霧となった。フォグランプをつけ徐行運転でカーブの連続する峠道を越えたが、猿ヶ京温泉付近までは濃い霧は晴れなかった。ラジオに耳を傾けると新潟南部から関東地方一帯は完全に梅雨入りしたと報じていた。途中で仮眠をとったり、旅の余韻にひたったりしながら、のんびりと一般国道を走り、六月八日の午後十一時五十分頃に東京府中の自宅に帰り着いた。府中から長岡までの往復距離五九六キロメートルを加えると、全走行距離数は三四八五キロメートルに達していた。

(了)

「マセマティック放浪記」
1999年11月24日

日記の効用

  皆さんは日記というものをどのようにお考えだろうか。近頃、私は、日記というものの持つ意味をいま一度見直しているところである。人間の記憶とは相当にいい加減なもので、自分の人生の中で起こったかなり衝撃的な出来事であっても、二・三年もするとその大半を忘れ去ってしまうのが普通である。まして二十年も三十年も前のこととなると、ほとんどが深い時の霧の奥に包み込まれてしまっていて、想い出そうとしても滅多なことでは蘇ってきてくれない。そんなとき、ほんの一・二行の、場合によってはわずか一単語のメモのようなものでも残っていれば、それが連想のキーとなってその当時の出来事を糸を手繰り寄せるようにして想い出すことができるものだ。
  もともと日記などというものは、いつか他人に公開しようなどどいう不純な意図でもないかぎり、自分だけにわかる短い記録程度にしておいたほうが長続きもする。また、そうしておけば、万一他人に見られた場合でもそう慌てることもないし、後のちになってからは、かえってそのほうが役に立つような気もしてならない。一週間に一度程度でもよいから、ちょっと時間をつくって、ほんの一言だけ、あとになってからその時の事などを想い出すことの出来るような自分向けのキーワードを記しておくだけで十分だと思う。長々と名文を綴る必要もないし、生の事実を赤裸々に書き残しておく必要もない。
  たとえば、「○月○日、雪、歩く、送る、寒い!」といったなんの変哲もない短いメモでも、当人が読めば、それを通してすっかり忘れていたその日のドラマティックな出来事が蘇ってくるということは十分にありうることだからだ。
  どんなに波乱万丈の人生を送った人でも、いつか過去をを振り返る歳にいたったとき、来し方の道が白い霧の中に沈んでしまっていて、もはや、かすかな記憶としてさえ昔日の出来事を想い起こすことができないとすれば、やはりそれは悲しいことに違いない。
  私は学生の頃から一冊で三年使える博文館の当用日記帳を愛用してきた。この歳になって空白も多い青春期の日記をめくってみると、自分にしかわからないごく短いメモを通して、その背後に隠されている数々の出来事や当時の様々な世相などが次々と脳裏に蘇ってくる。しかもその多くは、相当に重大な出来事だったにもかかわらず、すっかり忘れてしまっていたことばかりなのだ。自分では決して記憶力の悪いほうではないと思っているし、また、まだ重度の痴呆症にかかるような歳でもないのだが、それでもこの有様なのである。
  正確な言い回しは忘れてまったが、「日記のない人生なんて、人生をドブに捨てるようなものだ」というような意味の言葉を残した偉人があった。これまであまり気にもとめずにきたその人物の言葉の背景が、今にしてようやく理解できるようになってきた感じである。秋という愁い深い季節のせいなのか、それとも、やはりそれなりに歳をとってきたせいなのかはわからないが・・・。
  若い時代に使いふるした予定表やメモ用の手帳、ビジネス手帳などは、そのときにはたいしたものに感じられなくても、捨てないでそのままとっておくと、ある時期が来たとき、それらは掛替えのない心の財産に変わるのではないかとも思う。それらは十分に日記の代用となりうるし、あらためて日記をなどと大仰に構えなくても、その程度のことなら誰にでも容易に出来ることなのだから・・・。
  もっとも、いくら記憶を蘇らせるためのキーが残っていたとしても、それらのキーを活用する余力さえも残っていないほどに自分の頭のほうがボケてしまったら、これはもう話にならない。もしもそのような事態になってしまった場合には、記憶を呼び戻すためのキーがとんでもない妄想を生み出すきっかけになったりする可能性だってある。そうしてみると、歳をとってから日記の効用にあずかるためには、どうやら一定レベルの頭脳の働きだけは維持しておく必要がありそうだ。
  広島在住の村上昭さんという方がおられる。アコーディオン演奏のコンクールで全日本チャンピオンにもなったことのあるアコーディオンの名手で、広島周辺にはその演奏に魅せられたファンも少なくない。むろん、私も村上さんの奏でる絶妙なアコーディオンの音色の虜になった一人で、昔からこの方とはずいぶんと懇意にさせていただいている。
  実は、村上さんは、以前、「老人性痴呆症を考える会」の会長さんなども務めていたことがおありで、痴呆症のことについてはたいへんお詳しい。すでに他界されたご両親が晩年極度の老人性痴呆症になられ、村上さん自身、かつて大変なご苦労をなさったことがおありという。そのため、村上さん御夫妻は、その時の経験を活かし、親身になって痴呆症の老人を抱える家族の方々の相談にのったり、的確なアドバイスをしたりして現在に至っておられる。
  この村上さんによると、将来、老人性痴呆症にならないようにするには、四十代からその予防に努める必要があるという。いろいろある予防策のなかで統計的にみて重要な対策の一つは、とにかく指を動かすように心がけることであるらしい。それも、できるかぎりすべての指を動かすようにしたほうがよいという。指の運動は脳を強く刺激し、結果的に脳機能の低下や痴呆症への進行が抑えられるというのである。その点、音楽家などは、職業上必然的にすべての指を使うため、老人性痴呆症になる割合は低いようだ。
  ただ、困ったことに、私などは指を動かして弾く楽器に無縁である。ハーモニカならそれなりに吹くが、音にバイブレーションをきかせるとき以外は、指の運動にはあまり関係ない。舌と唇、それに肺の運動が脳の刺激に有効だというのなら文句はないのだが、そんな話は聞いていない。うーん、どうしたものだろうと考えているうちに、そういえば、パソコンのキーボードならずいぶん昔から叩いているなあと気がついた。キーボードの操作には当然指を使う。パソコンの操作にともなう五本の指の運動は相当なものである。
  パソコンなら懐かしい8ビットのアップルマシン以来の常連で、一時期、数理科学関係の教育ソフトの開発に携わっていたこともある。通信歴も長く、十年以上も前にニフティサーブなどのパソコン通信システムが登場して以来の通信マニアで、初期の頃はSTRANGERなどというふざけたハンドルネームでパソコン通信に入り浸っていた。その成果(?)をもとに、まだインターネットの普及していない数年ほどまえ「電子ネットワールド: パソコン通信の光と影」(新曜社)という、パソコン通信の人間模様とその問題点を描いた本をハンドルネームで書いたりしたほどだった。だから、指先の運動量だけは現在に至るまでにかなりのものになっている。それが少しでも先々の痴呆症予防に役立っているとすれば、こんなありがたい話はない。
  いまやパソコンやワープロが全盛の時代……どこかのソフトハウスが、いろいろな便利な検索機能や文化・生活関連のデータのついた使いやすい当用日記専用のソフトでも開発してくれ、ディスク一枚、あるいはメモリーカード一枚だけで一生分の日記をカバーできるようになれば言うことない。もちろん、いまでも、システム手帳やデータ・ベースその他のソフト類を活用すれば、それに近いことができないわけではないけれど、自分で日記専用の優れたソフトに仕上げようとするとまだまだ結構面倒なことが多いようだ。過ぎし日の記憶を手繰り寄せるためのキーとなる日記と、一定の脳の老化防止のための指の運動をともなうキーボード操作……考えてみると、これはなかなかうまい話なのかもしれない。  
  AICの読者の皆さん、適度の指の運動を維持していくために、今後とも懲りずによろしく私たちにお付き合いくださいますように……。えっ?……AICはマウスだけで読めるからあまり指の運動にはならないですって?……でもまあ、人差し指の運動くらいにはなるでしょうから、何もしないよりはそれでもずっと増しですよ!

 

「マセマティック放浪記」
1999年12月1日

まだあった懐かしい情景

  山陰回りのルートをとって九州に向かう途中、遅い昼食をとるために宍道湖南岸の道の駅、「ふれあいパーク」にあるレストランLAGO(ラーゴ)に立ち寄った。西日に映える広く静かな宍道湖の湖面が窓越しに望まれ、なかなかに風情のある落ち着いた雰囲気のお店である。すぐ近くの湖面では、水鳥の群れが餌を漁ったり羽を休めたりしているところだった。
 「殿様もうまいと誉めた鯛めし!」とかいうキャッチフレーズに釣られ、ふーんと思いながらその鯛めしを注文したのだが、一膳が千円ちょうどというその値段から考えて、称賛したのは殿様なんかじゃなく、せいぜい貧乏侍かなにかだったんじゃないかと、勝手な想像を馳せたりしていた。そんな私の目の前に運ばれてきたのは、結構見栄えのする鯛めしセットだった。白、薄茶、黄色の三種類のそぼろとネギその他の薬味をたっぷり盛った大皿に、急須型の土瓶、炊き立てのご飯の入った小型の丸櫃、そして、空のお茶碗が一個ついている。どうやら、白と薄茶のそぼろは鯛そぼろ、黄色のそぼろは卵そぼろ、そして、土瓶の中身はじっくり火にかけて作った鯛のダシ汁であるらしかった。
  この種の鯛めしを食べるのは初めてだったので、一瞬、どういう風にして口に運べば一番うまいのかと戸惑ったが、すぐに、お茶漬けの要領で味わえばよいのだろうと思いなおした。そこで、まずはお茶碗にホカホカのご飯を盛って三色のそぼろをふんだんに振りかけ、土瓶のダシ汁をたっぷり注ぎこんだ。それから、そっと箸をつけてみると、実にこれがうまい!……殿様が感激したのももっともだと、すぐに納得してしまった。十分に振りかけても余りそうなくらいにそぼろの量も多く、満悦しながらご飯を食べ尽くしたあと、土瓶に残ったダシ汁のほうもきれいに飲み干してしまった。景色も恵まれていて鯛めしもうまいし、お店の雰囲気もなかなかのものだから、車で付近を旅する方には是非立ち寄ってみることをお勧めしたい。
  宍道湖畔をあとにして大田をすぎ、浜田市街に着く頃には、ちょっと沈んだ紅の輝きを見せながら太陽も西の地平線の彼方に姿を隠していった。海沿いの益田市を抜け、川伝いにかなり内陸に入ったところにある津和野にさしかかる頃には、あたりは深い宵闇に包まれた。長年の持病、「脇道病」の発作が起こりはじめたのはこの時である。この持病がいったん鎌首をもちあげたとなると、自分の意思ではもうどうにもコントロールが利かない。
  地図で調べてみると、津和野から、むつみ村、福栄村、川上村を経て萩市まで細々とした県道が続いている。奥まった山間の集落を繋いで延びる山道のようなので、萩に抜けるまでには相当時間がかかりそうだったが、脇道病の発作につきものの「旅の嗅覚」に導かれるままにその細道に車を乗り入れた。ちょっと走ると、案の定、道幅は極端に狭くなり、右に左にくねくねと蛇行しはじめた。いくつもの深い谷や峠路を縫い繋ぐ感じの山道で、ダートの部分や補修工事中の部分も少なくない。ある種のノスタルジーをさえ覚えながら走るうちに、闇が一段と濃くなり、天空の星々がヤスリで磨いたような鋭い輝きを放ちはじめた。郷愁を誘われるのも当然で、これこそは、昔懐かしい本物の「闇夜の風景」にほかならなかった。
  他に車の通る気配などまったくないのをよいことに、私は道端に車を駐め、時刻表示盤を含むすべてのライト類を消してみた。昔ながらのこのような深い闇の中では、時刻を示すグリーンの光でさえも明るく感じられる。久々にこんな体験をすると、自分をはじめとする現代人がいかに光に鈍感になってしまっているかを痛感せざるをえない。足元をはじめとして一帯は漆黒の闇に支配されており、二、三歩車外に踏み出すと、そばに駐めてあるはずの車さえも見えなくなった。天を仰ぐと、無数のサファイヤかブルージルコンを連想させる大小の光の粒が、それぞれの存在を主張するかのように輝いていた。夜空が明るくなったため最近ではほとんど見ることのできなくなった銀河の流れも見事だった。
  不思議なもので、しばらくすると星明りに目が慣れてきて、闇の中でもそれなりに視界がきくようになってきた。長らく眠っていた私の五感が、このときとばかりに目覚め蠢(うごめ)きはじめたためだろうか。幼少の頃には当たり前だった光景ではあるが、私は何十年ぶりかで昔の恋人に出逢いでもしたかのような気持ちになった。しかも、昔の恋人は歳月を重ねるとその容姿も変貌してしまうが、この星空と地上の闇の織りなす夜の姿には昔のままの瑞々しさが留められていて、なんとも嬉しいかぎりだった。
  再び車に戻ってしばらく走ると、谷間にそって民家の点在するところに出た。闇の中のあちこちに、文字通りぽつんぽつんと、ほのやかな人家の明かりが浮かんでいる。「まるで日本昔話の世界に迷い込んだみたいだよなあ……」という想いが、一瞬私の脳裏をよぎっていった。都会の夜の過剰なまでにギラギラとした明るさが遠の昔に捨て去った「灯火の暖かさ」と「人の温もり」が、そこにははっきりと感じられたからである。再度車を駐めた私は、谷の向こうに灯る淡い色の明かりの一つひとつをしげしげと眺めやりながら、ほのかな光の洩れてくるその家々に住む人々の姿などを想い浮かべた。冬場などは雪も深いことだろうから生活は厳しいに相違ない。物質的な意味での豊かさなら、都会には及ぶべくもない。でも、人々の心はきっと暖かいに違いない。そんなことを考えながらなにげなく見上げた夜空を、明るく輝く流星が一条の尾を曳いて北の方角へと流れ去っていった。
  この地方においては、かなりの数の家々が立ち並ぶ集落でも、道路沿いの街灯は百メートルか二百メートルおきに立っている程度にすぎない。だが、実際に確かめてみると、それでも結構明るく、夜道を歩くのにそれほど不便だという感じはしない。夜こんなところを旅してみると、現代の都会の明るさのほうがどんなに異常であるかがよくわかる。「暗いことは悪そのものである」と言わんばかりに過剰な照明の溢れる大都会に住む人々は、たまにはこういう地方を訪ね、少しくらいは己の感覚の異常さを反省してみる必要があるかもしれない。国内の電力供給の三割以上を占めるようになった原子力発電所の危険性が、敦賀や東海村での事故をきっかけに大問題となっている昨今にあってはなおさらである。
  萩市に出て夜の中心街や萩港周辺をめぐったあとは、国道一九一号から意図的にはずれ、山陰線と絡み合うようにして海岸沿いを縫い伝う萩・三隅線に突入した。まだ萩市のはずれの集落を通り過ぎないうちから、家並みの間をかするようにしてすり抜ける一車線ぎりぎりの道になったので、それなりには覚悟していたが、これがまた、やたらカーブの多い予想以上に細く狭い道だった。もちろん、夜も更けた時刻に好きこのんでそんなところを通る酔狂な車など他にあろうはずもなかった。
  しかし、嬉しいことに、この道は夜の世界のドラマに満ちみちたなんとも素敵な道でもあった。右手に日本海を見下ろす断崖上を走っているせいで、点々と詩情豊かに輝き浮かぶ漁り火や、海側に大きく開けた美しい星空を一望することができた。ひときわ大きく海に突き出た岬近くのスペースに車を駐め、懐中電灯を頼りに崖伝いの細く急な漁道をくだると、静かに波の寄せる磯場に出た。すぐそばに貝殻の小片が無数に集まってできた小さな浜辺などもあって、歩を運ぶにつれてサクサクという乾いた音が一帯に快く響きわたった。しばし後ろ手をついて磯辺に腰をおろした私は、夜のしじまに体内の穢(けが)れを清めてもらいながら、じっと潮騒に聞き入っていた。
  再び車に戻ってしばらく進んでいくと、私のワゴン車がぎりぎり通れるかどうかというほどに道幅は狭まり、しかもその道は照葉樹とおぼしき樹木の密生する深い林の中へとはいっていった。脱輪しないように細心の注意を払いながら、とあるカーブを大きく曲がった瞬間、ずんぐりした体型の黒褐色をした動物が何匹かヘッドライトの中に浮かび上がった。相手のほうも、不意を突かれたせいか、おろおろしてその場に立ち尽くしたままである。車をより近づけてみると、それは四、五匹のタヌキの群れだった。ようやく事態を察知したらしいタヌキどもは、車のすぐ右手脇の急斜面を大慌てでわれさきによじ登り、茂みの中に姿を消していったが、仲間の上に無理やりのっかったり、転げ落ちる奴がいたりして、その様子は実にユーモラスだった。
  三隅町の集落へ向かって山道を下っていると、黄色い花らしいものを無数につけた何本かの樹木が目にとまった。不思議に思って車から降り、近づいて懐中電灯で照らしてみると、なんとそれらは黄色い花などではなく、昔懐かしい丸い小さな蜜柑の実だったのだ。どうやら古くから日本にある島蜜柑の一種のようである。栽培している農家の人には申し訳ないとは思ったが、二、三個無断で頂戴し薄めの皮を剥いて試食してみると、素朴だがどこか上品な甘酸っぱい味が口一杯に広がった。手に移り残ったその香りも実にさわやかなものだった。
  そこからしばらく下ったところでは、道路脇の藪の中に野生の柿の木が生えているのを見つけた。蜜柑をすこし大きくしたくらいの小さな柿の実がかなりの数なっているではないか。懐中電灯でよく照らして調べてみると、もうほどよく熟れていて、鳥などについばまれた跡があるものもかなりあった。手近なものを一個とって食べてみると結構うまかったので、さらに五、六個ほどもぎとってから三隅の集落へと降りて行った。三隅町の集落に入ってほどなくその道は広い国道に合流したので、深夜の脇道探訪のほうはそこでひとまず終わりにすることにした。

「マセマティック放浪記」
1999年12月8日

あの可憐な少女はいま

  たまたま西武池袋線大泉学園付近にいく機会があったので、懐かしさにかられて石神井公園を訪ねてみた。まだ修学中の身だったころ以来のことである。母の従兄弟の子で、私より一つ歳上の大学生が、当時、石神公園のすぐそばのアパートに住んでいた。かなりの遠縁だが、肉親縁の薄かった私には、それでも付き合いのある数少ない縁者の一人だった。歳も近いうえに、お互い勉強は大嫌いだが好奇心だけはやたら旺盛という共通点などもあって、とてもウマが合った。
  学生時代は何かにつけて彼のアパートに押しかけ、昼夜を問わず将棋の「迷人戦」を繰り広げた。空を見上げて「ジェット機待った!」と叫ぶに等しい「待った!」などもある泥仕合に疲れ果てると、気分転換を兼ねて石神井公園に出かけてボート漕いだり、散策をしたりしたものだ。細長い形をした石神井池の真中を競艇よろしく力に任せて漕ぎまくり、ほかのボートにぶつかりそうになって顰蹙(ひんしゅく)をかったこともある。池の水路が二手に分かれ極端に幅が狭くなったところに架かる太鼓橋の下を猛スピードでくぐり抜けようとして橋桁に接触、転覆しそうになったことなどもあった。
  週末や休日などには若いアベックや家族連れが多く、ボート屋は結構繁盛していたようだったが、ウィークデイなどは静かなもので、釣り人の姿などもほとんど見られなかった。そんな静かな日に石神井池の湖面を独占するのはなんとも気持ちのよいものだった。当時、石神井池の南側は鬱蒼とした林になっていて、夕暮れ時や月夜の晩などに湖畔を散策すると、東京にしては珍しいくらいに風情が感じられたものである。
  また、石神井池のさらに奥には三宝寺池という大量の湧水に恵まれた池があって、この池一帯の植物群は「三宝寺池沼沢植物群落」として当時から天然記念物の指定をうけていた。ミツワガシワやシャクジイタヌキモなど珍しい植物が群生していたためらしい。ほぼ円形をした三宝寺池の周辺は東側をのぞいて急斜面になっており、昼でも暗いほどに種々の大木が密生していたように記憶している。湖畔をめぐる細い歩道もススキその他の深く繁った草木に覆われ、昼間でも時折ザリガニ獲りや小魚獲りにくる子供の姿が見られる程度で、ほとんど人影はなかった。だから、ちょっとした探検家気どりで池の一帯をめぐり歩くことができた。秋の満月の頃など、この三宝池の西側湖畔や、ちょっと池に突き出た弁天社の右裏手に立って東の空から昇る月を眺めるのはなんとも気分のいいものだった。宵風にかすかに揺れるススキの穂の向こうに浮かぶ月影は花札の絵柄を連想させたし、湖面に美しく揺れ映える月光は、都会の光景とは思われないほどに幻想的だった。
  そんな想い出深い石神井公園近くのアパートに、時々、わが迷人戦の相棒を誘いにくる一人の可憐な少女があった。「和田のお兄ちゃあーん、一緒に野球しようよぉー!」と二つの「よ」音に独特の抑揚と強調の響きの込もった声で、彼女はいつも元気よく誘いかけてきた。少女は当時まだ小学五、六年生だったが、髪を長く垂らしたその美しく伸びやかな姿態には、天性の気品と育ちのよさとでもいうべきものが感じられた。ちょっとはにかむような微笑みと可愛らしいエクボが印象的なこの美少女は、子供ながらに知的な輝きと心の強さを秘めており、ゆくゆくは素敵な女性に成長していくに違いないとも思われた。
  和田のお兄ちゃん、すなわち、わがヘボ将棋の相棒は、「ふみちゃん、ふみちゃん」といって、いつもその少女を可愛がり、よい遊び相手になっていた。彼は、私と同じ鹿児島県の甑島の育ちとあって子供遊びの知恵には長けていたし、子供の相手をするのがとても得意だったから、かなり歳が離れていたにもかかわらず、ふみちゃんにはずいぶんと気にいられていたようである。もしかしたら、あの頃、同い年くらいの遊び友達が近所におらず、ふみちゃんはふみちゃんでちょっぴり淋しい思いをしていたのかもしれない。

  あのときから長い歳月が流れ去った。久々に訪ねた石神井公園周辺は全体的すっかり整備が行き届き、昔とはかなり様子が変わっていた。ボート乗り場はいまもあったが、以前の木製の手漕ぎボートは影を潜め、かわりに屋根つき足漕ぎ式のボートがほとんどになっていて、いくらか残っている手漕ぎボートも合成樹脂製のものに変わっていた。しかも、休業中なのか、それらのボートはすべて岸辺付近に繋ぎ留められ、石神井池の湖面を漕ぎわたるボートの影は皆無だった。楽しむ場所が限られていた昔の恋人たちと違って、いまどきのヤングカップルは、こんなところでそうそうボートに乗ったりはしないのだろう。
  公園の東端に駐車場もでき、湖畔をめぐる歩道は拡幅され、ずいぶんと歩きやすくなっていた。石神井湖の南岸一帯には、昔日の武蔵野の面影を偲ばせるブナ、ナラ、クヌギ、トチなどの広葉樹の大木がいまもなおかなりの数残っていて、とてもいい雰囲気の樹林帯を形成していた。北岸に並び生える柳の大木もにもなんとも言えない風情があった。秋の足早な太陽が西の空に大きく傾く夕刻のことだったので、それらの樹々の黄葉が美しく夕陽に映え、時折吹き抜ける風に揺すられて、頭上から木の葉のシャワーとなってはらはらと落ちてきた。湖畔のあちこちに生える外来の針葉樹メタセコイアの紅葉も鮮やかだった。それらのメタセコイアが昔から石神井池周辺にあったかどうかについてははっきりした記憶はない。もしかしたら、比較的近年になって移植されたものなのかもしれない。
  湖面にはカモやオシドリをはじめとするたくさんの水鳥の姿が見かけられた。晩秋という時節のせいもあったのかもしれないが、水鳥の数は以前よりもかなり多い感じだった。鳥たちの餌となる池の中の小魚や植物がそうそう増えた様子はないから、もしかしたら池を散策する人たちが餌を与えているのかもしれない。湖畔のあちこちには釣り糸を垂れる老人たちの姿が見かけられた。いまは何が釣れるのだろう思いながら足を止めてさりげなくその様子を眺めてみると、魚を釣るというよりは、時間を餌にして、静かな余生とそれに伴う深い想いを釣っているという感じである。ウィークデイにもかかわらず池の周りをのんびりと散策する人々はかなりの数にのぼっていたが、高齢者の占める割合がきわめて高いのは、現代の日本社会を象徴していることのように思われた。私が学生だった頃にはこんなことはなかったから、これは、まぎれもなく、高齢化社会の到来と高齢者層の一定レベルの生活の安定にともなう現象なのだろう。
  個人主義の浸透したヨーロッパなどでは、昔から、老人や老女が三々五々公園などで老後の時間を過ごす姿が見うけられたものである。その身なりや振舞いからしてそれなに豊かな階層に属すると思われる老人たちが、どこか淋しい影を秘めて公園のベンチに腰掛け遠くを見つめている姿を目にすると、日本的な家族制度も捨てたものではないのかなと考えたりもしたものだが、どうやら日本も欧米と同じような状況になってきたらしい。世代間の分離と核家族化がますます進むこの時代にあっては、老齢期を迎えた人は皆、病気でもないかぎりは独りで時を過ごしていくすべを身につけていかなければならないのだろう。
  そんな状況を象徴するかのようにベンチに座る一人の老人の姿があった。その老人ははずした眼鏡を無造作にベンチの脇に置き、葉を黄色に染めて夕陽に浮かぶ対岸の柳の並木を眺めていた。斜めから射し込む木漏れ日がほのやかに照らし出すその背中には、言葉には尽くし難い淋しさが漂っているようであった。私はその老人のまうしろ五、六メートルのところに佇んで、その人の胸の内に想いを重ねてみた。気のせいではあったかもしれないが、私には老人の心の呟きの一つひとつが聞こえてくるように感じられてならなかった。
  しばらくして再び歩き出した私は、細長い池の半ばあたりにある二つの石造りの太鼓橋を渡って遠い日の自分の足跡をたどったあと、石神井公園の最奥にある三宝寺池へと歩を運んだ。昔と違って三宝寺池の周囲には立派な木道が配備され、以前の野趣が失せたかわりに、そのぶん歩きやすくはなっていた。あちこちに風景を描く画家たちのイーゼルが立ち並び、群をなして餌を漁る水鳥たちの姿をカメラに収める人々の姿もずいぶんと見うけられた。こんこんと清水の涌き出る三宝寺池を三方から取り巻く急斜面の樹林帯は、幸い昔のままに保存されていたので、三宝寺池そのものの風情はいまもなお健在だった。
  バードウオッチングのスポットでもある一帯には各種の野鳥の声が絶え間なく響き渡り、何を食べて生きているのはわからないが、まるまると太った毛艶のいい野良猫たちが、付近の藪の中や木道の周辺を我がもの顔に徘徊していた。一見しただけでは判らなかったが、最近になって建てられたらしい案内板の解説よると、近年、三宝池の自然湧水量が減少してきており、その自然環境を維持するために人為的にかなりの水が補給されているらしい。古来、石神井川の源泉になっていた三宝寺池の湧水も時代の流れには抗い難く、その神通力を失いかけてきたというわけなのだろうか。
  三宝寺池の一角からこころもち湖中に突き出た弁天社の脇には湖面全体を一望できる無人休憩所なども設けられ、散策者がしばし足を休めるための絶好のスポットとなっていた。まだ月の昇る時刻には間があったため、そこで月見を楽しむことはできなかったが、時節と月齢、そして月の出の時刻を十分に見計らってこの休憩所にやってくれば、現在でも湖面に映える美しい月影が眺められることだろう。

  石神井公園を一渡りめぐり終えたあと、湖畔からそう遠くないところにある懐かしい「迷人戦の跡(?)」を訪ねてみたことは言うまでもない。遠い記憶を頼りに将棋の相棒が住んでいたアパートのあった場所を探してみたが、当時畑だったところには洒落た造りの家々が立ち並び、昔のアパートの跡を偲ばせるものなど何一つなくなってしまっていた。たしかあのパートの大家は山浦さんとかいったなあと想い出しながら、そんな名の表札が掛かっている家を探してみたが、うまく見つけることはできなかった。ただ、地形的にみてそこだったに違いないという地点に辿り着くことはできた。
  迫りくる夕闇のなかに独り佇んで深い感慨にひたるうちに、私は、「和田のお兄ちゃん」を誘いにきたあの可憐な少女の面影を昨日のことのように想い起こした。当時、すぐこの近くに、高名な一人の作家が住んでいた。実を言うと、その少女はその作家のお嬢さんだったのだ。それからずいぶんと経ってからのこと、かつてのあの可憐な少女が若く美しい女性へと変貌を遂げ、テレビや週刊誌に登場している姿を目にしたときの私の驚きは大変なものだった。そして、そのときから今日まで、さらにまた長い時間が過ぎ去った。
  実を言うと、石神井公園の近くに住んでいた高名な作家とは「火宅の人」で知られる檀一雄さん、そして、その可憐な少女とは、女優の檀ふみさんその人にほかならない。たまにしか一緒に遊んだ記憶のない私のほうはともかく、「ふみちゃん、ふみちゃん」といつも笑顔で話しかけていた和田のお兄ちゃんのほうなら、檀さんも記憶の片隅くらいには留めておられるかもしれない。文学青年の真似事みたいなこともやっていたわが迷人戦の相棒のほうは、たしか一度か二度、檀さんのお宅に伺い、檀一雄さんの手料理を御馳走になったこともあるはずである。
  日が沈み、すっかり暗くなった夜道を一歩一歩踏みしめるようにして石神井公園駅のほうへと向かいながら、私は檀ふみさんの女優としての今後の御活躍を心から祈る次第だった。

 

「マセマティック放浪記」
1999年12月15日

魂の琴線を操る異才!

  五月の風のように優しくやわらかく全身を包み込む弦の囁きがホールに響きわたりはじめた瞬間、歳柄にもなく私は激しい胸の高鳴りを覚えた。ステージに立つその小柄なヴァイオリニストの奏で出す玄妙な音の一つひとつには、あるときは明るく、またあるときは淡く輝きうつろう不思議な光彩が感じられた。やわらかくて深く澄みきった、それでいて聴衆の魂を激しく揺すぶるその音色は、心の奥底にいま一つの類稀なるヴァイオリンの名器を秘めている者でなければ絶対に奏で出せないものであった。去る十一月二十七日、東京千代田区紀尾井ホールで催された川畠成道ヴァイオリンリサイタルでのことである。
  実際にその演奏を耳にするまでは、正直なところこれほどのものだとは想像もしていなかった。たいして音楽の世界のことなどわからない私だが、貧乏学生の頃から、三食をインスタントラーメンですませるなどして貯めたお金で演奏会にだけはよく出かけた。ヴァイオリンのコンサートにもずいぶんと通ったが、ソリストの奏でるヴァイオリンの音色にこれほどまでに感動したのは、若い時代にアイザック・スターンの演奏を聴いて以来のことである。
  最初の曲目、モーツアルトのケッフェル三七九番、ピアノとヴァイオリンのためのソナタ、ト長調の演奏が半ばにさしかかるころには、まるで魔法にでもかかったかのように、私の五感のすべてが、弱冠二十八歳のそのヴァイオリニストの操る見えない糸に引き寄せられる感じになった。ホールの聴衆のほとんどが私と同じような気分になっていたに違いない。全体的にも素晴らしい演奏だったが、とくに高音域の弦の響きは絶妙このうえなく、高音にはいくらかはつきものの硬質な響きがまったくと言っていいほど感じられなかった。高い音にもかかわらず、聴く者の体内深くまで、やわらかく、心地よくしみ込んでくるのである。
  二曲目はベートーヴェンのピアノとヴァイオリンのためのソナタ七番ハ短調「アレキサンダー」だったが、その第四楽章に入ってほどなく、弦が切れるというハプニングが起こった。幼少期の薬害に端を発した熱病が原因で川畠成道さんはほとんど目が見えない。だから、一瞬どうなることか思ったが、少しも動じず、静かな口調で聴衆に弦が切れた旨を伝えると、ピアノ奏者のドミニク・ハーレンに導かれていったん舞台裏にさがった。そして、そして、弦を張り換えたヴァイオリンをもって再び舞台に立つと、何事もなかったかのように、鮮やかな弦さばきと圧倒的な迫力をもって第四楽章を弾き終えた。
  休憩を交えたあと、ヴィエニャフスキーの「伝説曲、 作品十七」、エルンストの第六番「夏の名残のバラ」と演奏が進み、川畠さんが最終曲目のラヴェルの「ツィガーヌ」を弾き終えたあとも、ホール全体が感動の溜め息とも称賛の呟きともつかぬ深い余韻に包まれ、席を立つ人はほとんど見あたらなかった。アンコールに応えて川畠さんは四曲ほど小曲を弾いたのだが、サラサーテのツィゴイネルワイゼンは、そのなかでも絶品と呼ぶにふさわしい演奏であった。昔からずいぶんと聴きなれた曲であるにもかかわらず、その哀調を深く湛えた響きに思わず目頭が熱くなったほどだった。
  演奏も素晴らしかったが、いまひとつ感心させられたのは、演奏会のパンフレットにある曲目解説の文章である。それぞれの演奏曲目には川畠さん自筆の解説文がついていた。あとで確認したところによると、川畠さんは、演奏会があるごとに、演奏曲目の解説文を自分で書くのだという。何度も演奏したこのとある曲でも、毎回新たに解説文を書き直すらしい。しかも、その文章がなかなか見事なものなのである。たとえば、先日のコンサートの第二曲目、ベートーヴェンのピアノとヴァイオリンのためのソナタ七番「アレキサンダー」には次ぎのような解説がついていた。

 「ベート―ヴェンの曲には、風にゆれる一本の野の草がいのちの輝きを必死で吸い上げて生き続けていくような、強い意識的な力を感じます。人生を真剣に見つめ、心の深いところを掘り下げて考えさせられる思いになり、不思議なことに悲しいことも苦しいことも純粋に昇華してしまい、心の世界を広く豊かにしてくれるような気さえしてくるのです。アレキサンダー一世に献げられたソナタのうち、この七番は、ベートーヴェンの曲恋しさに、時々弾いてみたくなるような曲の一つです。」

  川畠成道さんのことは、先月、朝日新聞の「ひと」欄でも紹介された。来年一月の半ば頃には、黒柳徹子さんの「徹子の部屋(テレビ朝日)」にも登場するということなので、音楽に関心のある方はご覧になるとよいだろう。川畠さんに強く心惹かれた私は、知人の仲介もあって、終演後に楽屋を訪ね、短い時間だったが川畠さん、ならびにそのお父様の正夫さんと初めてお話する機会を得た。父子ともども実に謙虚な方々である。後日あらためてお父様のほうからは鄭重な電話を賜り、折をみて一度ゆっくり成道さんと歓談する機会をつくっていただけることにもなった。
  川畠成道さんが異才のヴァイオリニストとして世界にその一歩を踏み出すまでには、想像を絶するような苦悩と悲哀の日々があったようである。あるラジオ放送局のイタビューの中で、川畠さんはユーモアをさえ交えながら淡々とその間の事情を語っているが、その話は実に感銘深いし、またその語りにおける成道さんの日本語の響きはとても美しい。一語一語が修練を積んだ心の奥の弦を通して発せられるためだろう。
  八歳だった川畠さんは、祖父母とのアメリカ旅行中に風邪をひき市販の風邪薬を服用した。ところが十分と経たぬうちに高熱とともに全身に水泡が発生、ほどなく身体中の皮膚も爪も無残に剥がれる状態になった。救急に担ぎ込まれた現地の病院では、生存の確率は五パーセント、かりに一命をとりとめたとしても通常の健康体は保証できないと宣告されもした。幸い最悪の事態だけは免れたが、川畠さんはその不運な出来事が原因で視力を失ってしまった。日本に戻った幼い川畠さんを前にして、御両親の正雄さんと麗子さんとは一時期悲嘆に明け暮れる毎日だったという。
  息子の将来を考え、最初は将棋指しにでもということになったのだそうだが、近くに適当な将棋の師が見つからなかったためその話は実現しなかった。お父さんの正雄さんは現在も芸大などで学生の指導をしておられるヴァイオリンの先生、奥様のほうも音楽家という川畠さん一家だったが、音楽で生きていくことの厳しさを共に痛感しておられたため、それまで成道さんを長男とする三人のお子さんにヴァイオリンを教えることはなかったという。
  ただ、状況が状況なので、試しにと、正夫さん御夫妻は十歳になった成道さんに初めてヴァイオリンを持たせてみた。ヴァイオリンの名手といわれる人々のほとんどは三、四歳で練習を始めているというから、相当遅いスタートだったわけである。正雄さんも必死だったがようだが、成道さんのほうもそれによく応えた。もともと眠っていた才能が目を覚まし、徐々に開花しはじめたのだろう。成道さんは一年半もしないうちにツィゴイネルワイゼンをマスターし、ほどなく技量的にも父親の正雄さんを抜き去ってしまった。
  かすかに視力が残っていた当初は、大きな模造紙に五線譜を拡大して描いたものを一曲ごとに百枚近くも用意し、それで曲を憶えていたが、ほどなく視力が衰えまったく楽譜が読めなくなってしまった。それ以降はピアノなどで弾かれるメロディを聴きながら、楽譜の音譜や各種記号を読んでもらい暗譜するようになったという。いまでは、その驚異的な集中力と記憶力をもって、一週間もあれば新しいコンチェルトを完全に暗譜できるそうである。
  十三歳のとき巨匠アイザック・スターンの前でヴァイオリンを弾き、スターンが驚きの声をあげて激賞するほどの才能を示した川畠少年は、それを契機に本格的にヴァイオリン奏者への道を歩むことを決意する。成道さんの将来についての御両親の苦悩と迷いが吹っ切れたのもこの時であったらしい。成長した成道さんはやがて桐朋学園高校を経て桐朋学園大学音楽部に進学、我が国のヴァイオリンの第一人者江藤俊哉に師事、一九九四年に同大学を卒業後、ロンドンにある英国王立音楽院(Royal Academy of Music)の大学院に留学した。四年後の一九九七年にはいくつもの栄誉ある賞を受賞し、英国王立音楽院大学院を首席で卒業、百八十年近くに及ぶ同音楽院の歴史上二人目のスペシャル・アーティスト・ステイタスの称号を授与された。二十五年に一度だけ開催される王立音楽院記念コンサートにおいては、ソリストとして演奏するという栄誉にも輝いた。
  現在、川畠さんはイギリスを本拠地にしてフランス、ドイツ、オーストラリアなどのヨーロッパ各地で精力的に公演を行い、ソリストとして大活躍中である。一九九八年三月には東京のサントリーホールでの日本フィルとの共演を通して日本デビューを果たし、同年の十一月に紀尾井ホールで催されたソロリサイタルのほうも今年のリサイタルと同様に大好評を博した。まもなく、ビクターから川畠成道ファーストアルバム「歌の翼に」のCDが発売されることにもなっている。
 「英国では、単に楽譜に忠実な演奏をするだけではなく、何を表現したいかを聴衆に伝える大切さを学びました」と語る川畠さんは、シャーロックホームズの熱烈なファンでもある。八歳のときの米国での闘病中に読んでもらったホームズものがきっかけとなり、ホームズ作品は全巻読破(聴破)したのだそうだ。
 「シャーロックホームズの舞台となったベーカー街221番地は王立音楽院のすぐ近くでしたので、ホームズのヴァイオリンの腕を確かめに何度も自ら訪ねてみました。ドアをノックするのですが、いつも不在で、残念ながらいまだにホームズとの対面を果たしていません」とさりげない口調で語る川畠さんのジョークは、これまた見事な英国仕込みのようである。
  視覚障害のゆえに特別扱いされることの嫌いな川畠さんは、多くの人々とごく普通に交流し、音楽以外のことについても広く学び、すこしでも人間として成長していくことを望んでいるという。そうすることによって、自らの奏でる音楽がいっそう深みと凄みを増していくことを十分に自覚してのことなのだろう。小説やエッセイから科学書、哲学書にいたるまで、ジャンルを問わずにボランティアが吹き込んでくれたテープの助けを借りて読書を楽しんでもいるそうだから、その知識と思索の深さは相当なものに違いない。それでいて、毎日八時間から十時間のヴァイオリンの練習は欠かしたことがないというから、ただもう敬服するばかりである。 
 「自分がヴァイオリンの演奏を通して表現したいと思ったことが聴衆のほうにもうまく伝わった、という確信を得られた時がもっとも幸せな瞬間です」と川畠さんは語る。たとえば、天上から聞こえ響いてくるような音を奏でたいと思って舞台に立ったとき、聴衆にも実際そのように聞こえたとすれば、それは何物にも勝る喜びであるという。言葉で言うのは易しいが、それを実際に実現するとなると、けっして容易なことではないだろう。  
  ドイツのシュツッツガルトに演奏旅行に出かけ、帰りの電車に乗り遅れた川畠さんは、次の電車を待つ間に、駅近くの路上で一人のジプシーのヴァイオリン奏者が奏でるツィゴイネルワイゼンをたまたま耳にした。言葉に尽し難いほどに深く哀しいそのヴァイオリンの音色に込められたジプシーの心に深く胸を打たれた川畠さんは、それまでの自分のツィゴイネルワイゼンの演奏に足りないものが何だったかを悟り、その曲に対する考え方とそれに立ち向かう態度を根底からあらためたという。あの思わず目頭が熱くなり、胸が詰まるようなツィゴイネルアイゼンの響きは、そんな謙虚な努力を通して生み出されたものなのだ。
  いま二十八歳の青年ヴァイオリニストは、円熟期に入るであろう十年後、二十年後にはいったいどのような演奏を聴かせてくれるのであろう。なんとも楽しみな才能の持ち主が現れたものである。私のような音楽の素人が言うのもなんだが、一人でも多くの人々に日本の生んだ若き異才のヴァイオリン演奏を聴いていただきたいものである。

 

「マセマティック放浪記」
1999年12月22日

月と夕陽の生月島へ

  南九州に向かう途中、ちょっと寄り道して唐津の町を訪ねたのは、豊穣を祝う有名な秋祭「唐津くんち」が終わって三日ほどしてからだった。無数の飾り提灯の揺れるなか、古式豊かな装束に身を固めた曳子たちによって宵の市中を勇壮に曳き回される十四基の曳山も、すでに曳山展示場のガラス張りの収納庫に収まり、一年間の静かな眠りについていた。重さ二〜四トンもある曳山は間近で見るとさすがに大きい。各種の獅子、武将の兜、鯛や鯱、飛龍、鳳凰、宝船、さらには亀と浦島太郎を形どったものなど、曳山の形や飾りにもその時々の工芸職人が腕によりをかけた趣向のかぎりが尽くされていて実に面白い。
  曳山展示場を出たあと、三保の松原、気比の松原と並び称される唐津の虹の松原を歩いてみた。玄海灘に面するこの松原は、樹林帯の長さと幅、松ノ木の密生度、樹形と樹齢の多様さなど、どれをとっても実に見事なものである。松の樹林帯の中を縫いくぐって白砂の浜辺に出ると、ゆったりとした玄界灘の海原が青く輝き揺らめいて見えた。荒波でなる玄海灘もこの日にかぎってはずいぶんと穏やかな感じだった。渚のすこし離れたところで遊ぶ一組の子供連れの家族のほかには人影らしいものは見あたらない。何とも言えない開放感にひたりながら、白砂に深く足跡を刻み込むようにして浜辺を歩き回ると、サクサクという快いことこのうえない乾いた音がした。
  浜辺で雲一つない青空と西のはてへと急ぐ秋の太陽を眺めているうちに、今日の夕陽はさぞか し綺麗だろうなという想いが脳裏をよぎった。そして、次ぎの瞬間には、もうその想いは西海に沈む夕陽を見たいという強い衝動に変わっていた。私は急いで虹の松原をあとにすると、唐津市街をいっきに駆け抜け、伊万里市方面へとハンドルを切った。三十分ほどで陶磁器で名高い伊万里市街に出ると、そこから松浦市を経て平戸大橋へと続く海岸沿いの国道に入った。右手に広がる伊万里湾から松浦湾にかけての景観はなかなか見ごたえがあったが、西方の海に沈む夕陽を拝むには、地形的にみて旧オランダ商館跡のある平戸島まで行かなければならない。それも平戸島の西側まで回り込まなければ駄目な感じだった。時間的にはぎりぎりと思われたから、移り変わる風景を車窓越しにのんびりと眺めている暇はなかった。
  松浦市街を過ぎ平戸大橋がかなり近づいてきた頃だったろうか、「夕陽の生月島まであと二十一キロ」という案内板の文字が突然目に飛び込んできた。なに?……生月島?……きづきじま、せいげつじま、しょうげつじま……何と読むのかは知らないが、そもそも、そんな島どこにあったけ?……国内の地理にはそれなりに精通しているつもりの私だったが、不覚にも「生月島」という地名を目にするのは初めてだった。気になって地図で調べてみると、なんと、平戸島の北西肩に寄り添うようにして南北に細長くのびる小さな島があるではないか。平戸島との間には生月大橋という橋も架かっているらしく、どうやらそこまで車で行けそうなのである。九州本土の最西端にあって北側の大海に突き出すようにのびる小島で、その西方には海が広がるばかりだから、この島の西海岸一帯からは確かに美しい夕陽が見られるに違いない。ちょっと地図を眺めただけでは平戸島の一部にしか見えない島なので、これまでその存在に気がつかなかったのも無理ないことではあった。
  九州本土と平戸島を繋ぐ平戸大橋にさしかかるころには、太陽は大きく西方に傾き、平戸島の中央背稜をなす山並みの蔭に隠れていこうとしているところだった。眼下はるかに広がる平戸の瀬戸の海面は淡いピンクの輝きを湛え、夕凪の瀬戸をゆく一つひとつの船影が不思議なまでに深い旅愁を囁きかけた。西陽を追いかけるのが当面の目的だったので平戸の街並みを走り抜け、生月島目指してアクセルを踏み込んではみたが、平戸島は想像以上に大きくて山深かった。生月島方面への道路そのものはしっかり舗装されてはいたが、道幅もそう広くなく、カーブも起伏もずいぶん多いとあって、スピードはあまり出せない。日没までに生月島付近まで行き着くのはとても無理かなと思いはじめたとき、ご丁寧にも前方にトロトロと走る何台かの地元の農作業車が現れた。状況的に見て追い抜きは不可能と悟った私は、その段階で夕陽の追尾をギブアップした。
  海をはさんで遠くに浮かぶ度島か的場大島と思われる島影が、美しい赤紫に染まっている。西空の水平線近くにおいて、落日が赤く燃え盛っているのだろう。一種の脱力感とともに、これ以上行っても無駄かなという思いが湧き上がってきたが、どうせここまで来たんだから「行き着くところまで行ってみるか!」と、いま一度気をとりなおした。そして、生月島は「いきつきしま」とも読めるからなどと、自嘲気味に変な語呂合せを試みたりもした。あとになって判ったことだが、なんと、生月島の読み方は、皮肉にもこの語呂合わせの読みが正解だったのだ。生月島に渡ってから目にした島名の由来を読んだかぎりでは、「生月」という名は「行き着く」という言葉とは直接には関係なさそうであったけれども……。
  それにしてもこの世の中、どこに何があるのかは実際に行ってみなければ判らないものである。もしもこの地点で引き返していたら、あの望外ともいうべき一連の発見と感動はなかったに違いない。歴史的にも民俗学的にも貴重な資料がそんな小さな島の一隅に残されているなどとは、その道の専門家でない私には予想もつかないことであった。
  生月大橋の平戸島側渡橋口に着くといっきに西側の展望が開けてきた。西の空に目をやると、なんと既に沈んだものと諦めていた太陽がまだ水平線ぎりぎりのところに残っているではないか。水平線近くに霞か靄のようなものがたなびいているため、太陽は揺らめくようなオレンジ色の輝きではなく、暗くくすんだ深紅色をしていたが、ともかくも西海の落日であることには違いなかった。通行料金料を払うとき、一瞬、片道百円の平戸大橋に較べて片道六百円という生月大橋の通行料は高過ぎるなあと思ったが、落日に見惚れながらの渡橋だったのでそちらに気をとられ、その時にはそれ以上深くは考えてみなかった。
  ただ、あとになってから、生月島に住む人々が生活道路の一環としてこの橋を利用する場合も同じ料金を徴収されていると聞き、往復千二百円というのはちょっと高いよなとあらためて感じはした。建設されてからまだ八年ほどしか経っていないとのことなので、架橋に要した巨費を償還するまでは、それくらいの通行料を徴収し続けなければならないのかもしれない。また、かつてはこの大橋の架橋実現は生月島の人々の悲願だったのだろうから、架橋後の一定の負担はやむをえないとされてもいるのだろう。それなりの事情はわからないではないが、なかなかに大変なことではある。
  生月大橋を渡ってほどなく、赤霞む太陽は水平線の彼方に姿を隠した。その様子を見届けた私は、生月島の西海岸を縫ってほぼ南北にのびる道路を経由し、最北端の大バエ崎灯台に向かってみることにした。生月島はなんとなく鍵の形に似ている。鍵の柄の端に相当する島の南端部を西に向かってしばらく道なりに進むうちに、「サンセットウエイ」と呼ばれている南北路の南端部に出た。途中、「島の館」という郷土館らしい建物の近くを通ったが、その時はたいして気にも留めなかった。
  青潮の絶え間なく寄せる荒磯を眼下に見下ろすサンセットウエイは、その名に恥じぬ快適なドライブウエイだった。この地形とこの道路の具合からすれば、車で走りながら、どこからでも西海に沈む美しい夕陽をこころゆくまで眺めることができるに違いない。既に夕陽こそ沈んでしまっていたが、西方はるかな東支那海の水平線上に広がる空は、一面赤紫の黄昏色に染まり、ちょうど水平線に接するようにして、茜色に輝く一条の薄雲が細く長くたなびいているのが見えた。他には通行車両もまったくなく、雄大な自然を独占しながら遠い想いに耽るにはなんとも絶好な場所ではあった。
  私が育った甑島の場合と同じように、この島から望む夕陽は、すこし風のある快晴の冬の日が最も美しいに違いない。九州の西方海上には対馬海流が流れている。沖縄方面から東支那海を北上し、対馬海峡を抜けて日本海に入るこの暖流からは、夏はむろん、冬においても絶え間なしに大量の水蒸気が上空に向かって立ち昇っている。したがって、無風の日には、たとえ快晴であったとしても、その上空には薄雲や、そうでなくても霞や靄が発生しやすい。太陽が高度を低め、やがて水平線に近づく日没時には、陽光がそれらの薄雲や霞、靄の層を透過して人の目に届くことになるから、夕陽が暗くくすんだ深紅色に見えることはすくなくないのだ。

  のんびりと車を走らせ、生月島の最北端、大バエ崎に着いたときにはもう午後七時を過ぎていた。駐車場に車を置き、秋の夜とは思えないほど心地よい大気に身を委ねながら、宵闇に包まれた展望台への細道をたどっていくと、ほどなく灯台のある場所に出た。灯台とはいっても、小さな光がかすかに明滅するだけのごくささやかなものである。ほぼ三六〇度の展望がきく地形であるのにくわえ月齢が新月に近い闇夜だったので、素晴らしい星空が見られるものと思っていたのだが、その期待は見事に外れるところとなった。なんと、その夜空は驚くほどに明るかったからである。星はそれなりの数見えるには見えたが、五、六等級の星々や銀河の流れまでが煌き揺れ輝く満天の星空にはほど遠いものだった。
  原因は海上のいたるところで煌々と燃え盛る無数の漁り火だった。時期的にみてほとんどはイカ釣り船のものだろう。それはそれで美し光景ではあったけれども、少年の頃に見て育ったどこか哀しく淋しげな漁り火とはまるで風情を異にするものであった。強力な発電機を積んだ昨今の漁船の漁り火はパチンコ屋の照明並に強烈そのものだからである。後日のことであるが、地元出身の詩人のエッセイを読んでいるうちに、この大バエ崎一帯では光柱現象呼ばれる珍しい発光現象が時折見られるらしいことを知った。冷え込みの厳しい晴れた冬の晩などに、オーロラ状の光のカーテンにも似た縦長の光の帯が何個も空中に輝き漂うのだという。一種の蜃気楼現象なのだそうで、不知火とおなじく、特殊な反射と屈折現象によって、海上の漁り火が大気に投影されたものであるらしい。
  しばし漁り火の輝く四方の海面を眺めるうちに、星空はともかく、ここで眺める満月のほうはさぞかし綺麗なことだろうなという想いがしてきた。夕刻に東の海から昇り朝方に西の海へと沈んでいく満月にも、日没後に西南の空に浮かび、やがて西の水平線へと落ちていく三日月にも、言葉では表し難い趣があるに違いない。もしかしたら、生月島という島名も月の夜の眺めが素晴らしいことと関係があるのではないか、などと勝手な想像をしたりもした。ただ、そのことを身をもって確かめるには、月の夜を見計らって再度この島を訪ねてみる必要がありそうだった。
  大バエ崎灯台をあとにしかけた時にはもう午後八時を過ぎていた。例のごとく車中泊にしようかとも思ったが、風呂に入りたい気もしてきたので、その時間からでも泊めてくれる宿屋がどこかにないものか探してみようと思い立った。そこで、生月島に渡ってすぐに手に入れておいた島内の旅館案内ガイドマップをもとに、めぼしいところに次々と電話をかけてみた。こんな時には当世流行の携帯電話というものはなんともありがたい。
  実をいうと、いろいろな理由もあって、ごく最近まで私は携帯電話の使用を意識的に控えてきた。だが、状況的にファックス原稿などではすませることのできない連載執筆などを手がけるようになってから、とうとう携帯電話を持たざるをえなくなった。人里離れた山中や離島などの旅先にありながら、ノートパソコンで打った原稿データを編集部送ったり、原稿内容に関する連絡をしたりするには、携帯電話に頼るしかなくなったからである。当然、私の携帯電話の主要用途は執筆原稿データの送受信だから、必要時以外は電源を切ってあることも多く、発信者番号のほうも通常は「不通知」にセットしたままである。
  時間が時間だったのですべて断られるものと覚悟していたが、館浦地区の戸田屋という旅館が夕食抜きでなら泊めてくれるということだったので、そこにお世話になることにした。戸田屋に電話を入れた際、島の店仕舞いは早いのでもう食堂はどこも閉まっているかもしれないとも言われたので、いざとなったら非常用に積んである菓子パンでもかじって夕食にかえるつもりだった。だが、幸いにも大バエ灯台から館浦地区に向かう途中で一軒だけ終業直前の寿司屋を見つけることができたので、そこに飛び込み無事夕食をすませることはできた。
  戸田屋は生月島では古い旅館らしく、出迎えてくださった館主御夫妻はとても感じのいい方々だった。御主人の言葉によれば、この生月島は月の綺麗な満月の日などを選んで訪れると最高だとのことだった。やはり、私が大バエ灯台で想像した通り、この島の月の美しさは格別のようである。生月島という地名は「いきつきしま」と読むのだということも、戸田屋旅館のおかみさんから教わった。むろん、この島に来る途中でのふざけた語呂合わせの読みがたまたま正解だったことに、思わず私が苦笑したのは言うまでもない。

 

「マセマティック放浪記」
1999年12月29日

生月島の古式捕鯨

  翌日生月島を離れる前に、ちょっとだけ生月町の博物館「島の館」に立ち寄っていこうかと思い立った。せっかく生月島までやってきたのだから、その歴史と民俗について多少とも知っておきたいと考えたからである。あいにくの雨模様とあって、西海国立公園の景観を楽しむにはいまひとつの状況だということもあった。しかし、そんな軽い気持ちで訪ねた島の館は、なかなかに見ごたえのある博物館だった。
  古式捕鯨法のいまに伝わる土地といえば和歌山県の太地が名高い。そちらのほうは私も過去に一、二度訪ね、その地方の伝統的な鯨漁の展示資料を目にしたことがある。だが、九州育ちであるにもかかわらず、西海一帯から玄界灘にかけての古式捕鯨についてはほとんど知識を持っていなかった。昔は東支那海から日本海にかけてたくさんの鯨が生息していて、一部地域の漁民たちがそれを捕っていたというくらいのことは聞いていたが、その詳細についてとくに強い関心を抱くようなこともなかった。だから、そんな昔の鯨捕りの様子をつぶさに伝える貴重な資料にこの島でめぐりあえるとは考えてもいなかったのだ。
  島の館に入館してすぐ目にとまったのは、かつて「勇魚(いさな)漁」とも呼ばれていた伝統的な鯨漁法についての素晴らしい展示資料だった。勇魚とはもちろん鯨のことである。たちまちその興味深い展示物の虜になってしまった私は、時の経つのも忘れて個々の資料を一つひとつ食い入るように見てまわった。また、詳細な解説文を一語一語確認するように読んでもみた。
  かつて日本海一帯に多数生息してた鯨の群は、冬になると対馬海峡、または玄海灘から壱岐水道周辺を経て東支那海方面へと南下し、夏になると逆コースをたどって東支那海から日本海方面へと北上した。餌を求めながら、東支那海と日本海との間を季節に応じて行き来していたわけである。前者は「上り鯨」、後者は「下り鯨」と呼ばれていた。
  玄海灘から壱岐水道を経て五島列島周辺へ抜けるかその逆ルートをとる鯨の群は、その海域にある島々と九州本土との地理的関係などもあって、一定の狭い水路を通らざるをえない。必然的に鯨の回遊ルートと回遊水域は大きく制限されることになるから、その一帯は絶好の捕鯨場となる。なかでも生月島と平戸島ならびにその近隣諸島の周辺水域は、五島列島周辺と並ぶ鯨の回遊路の要衝にあたっていた。だから、江戸時代、生月島が鯨漁の中心地の一つになったのは自然のなちゆきだったのだ。
  紀州の太地あたりで鯨捕りをやっていた突き組が十七世紀初頭にはるばる西海一帯にまで進出してきたのが契機となって、この周辺に突き捕り式捕鯨が広まっていったらしい。やがて、益富家という一族は、生月島をはじめとする西海各地に鯨捕りと解体処理、さらには鯨肉や鯨油その他の鯨製品販売を一手に営む「鯨組」を組織し、莫大な利益を上げた。平戸藩の財政にも多大の貢献があったことは言うまでもない。五島や壱岐などに進出した鯨組の捕獲分も合わせてのことではあるが、益富家の記録に残っているだけでも百四十年間で鯨捕獲数約二万頭、総収益は三百万両を超えたという。年平均一四〇頭の捕獲高、貨幣に換算すると二万両余の収益があったことになる。
  江戸時代の画家で西遊日記の著者でもある司馬江漢などは、はるばる生月島を訪ねて長期にわたって逗留、自らが見聞した当時の捕鯨の様子や島の風俗などを克明に描写した。それら大量の絵図や記録文は現在も残っており、その貴重な絵図原本の一部や拡大摸写図などが館内にはふんだんに展示されている。それらの資料をじっと眺めるうちに、まるで自分自身が当時の鯨漁に立ち会っているような錯覚に陥る有様だった。
  鯨組は驚くほど高度に組織化された分業体制を敷いており、組頭の益富家を頂点にして、実際に鯨を捕る「沖場」と、捕った鯨を解体処理して販売したり捕鯨装備を補給調達したりする「納屋場」とに大別されていた。そして、沖場組織も納屋場組織もさらに細かく、二次、三次の下部組織に分けられていた。たとえば、沖場は見張り組や漁組に、また納屋場は勘定部門、解体加工組、油屋や魚肉屋などの各種店舗組織、さらには鍛冶屋や網屋などの捕鯨用諸道具の製作補給組織などに分かれているという具合だった。その全体の構成と運営形態は現代企業顔負けのものである。
  実際の突き捕り捕鯨の様相は壮絶なものであったらしい。沖場の見張り組の管轄する「山見」という山上の見張り小屋の番人が鯨の群を発見すると、旗幟や狼煙などで群の位置や鯨の種類、頭数などを漁組に知らせる。食事中も海面から目を離してはいけない山見小屋での見張りの仕事は想像以上に大変だったらしい。早朝から日没まで、尻から泡が吹くほどに同じ場所に座ったままじっと同じ海域を見つめていなければならないし、夜になって宿場に戻ってもも、翌日の仕事に差し支えるから酒はつつしみ夜更かしは避けねばならない。茫漠とした海原を一日中見ていると目が疲れてちらついてくるから、山見小屋の海に面した羽目板のうちの一枚だけをはずし、そこから海面を見る工夫などもされていた。
  山見小屋の見張りから知らせを受けた漁組は十隻ほどの船団を組んで鯨の群の回遊路に先回りし、めぼしい鯨を船団で取り囲んだ。船団の個々の船にはそれぞれの持ち場と役割が与えられており、勢子たちは経験を積んだ頭の指揮のもと組織的かつ機能的に行動したという。まず、大きめの和船を二隻横木で繋いだ持双船という一種の双胴船と何隻かの勢子船が鯨のうしろにつけ、曳き綱のついた鉄製の「萬銛(よろずもり)」という太い銛を鯨の背中に打ち込む。銛を打ち込まれた鯨は船を引っ張ったまま、必死に泳いだり潜ったりしながら逃げ惑う。かつて実際に使われた萬銛も展示されていたが、太い鉄製銛の胴部はほぼ直角に大きく曲がっており、どんなに大きな力が加わったかを如実に物語っていた。
  次ぎに、鯨がかなり弱ってきたところを見計らって、鯨の両脇を囲む勢子船から、昔の薙刀(なぎなた)を一回り大きくしたような形の「羽指し剣」が何本も打ち込まれる。鯨の背中に上方から突き立つことを狙って放物線を描くように投げられたという羽指し剣の柄の端には、やはり丈夫な曳き綱がついていた。萬銛と違ってこの羽指し剣には掛かりがついていない。その訳は、鯨の背中に刺さった剣を曳き綱を引っ張って回収し、その剣を再度打ち込むためだった。上方から背中に突き刺さった剣が横方向に働く綱の力で引き抜かれるごとに鯨の身体は深々と切り刻まれる。四方から羽指し剣の容赦ない攻撃を繰り返しうけるうちに、勇魚の異名をもつさしもの鯨も全身に深手を負いその泳力を失ってくる。
  そこを見計らって、刃刺(はさし)という屈強で泳ぎや潜りが達者な男どもが大型包丁のようなものをくわえて命懸けで鯨に近づき、鯨の背や頭によじ登って急所を突き刺す。最後は鯨のいちばんの急所、鼻(呼吸孔)を切ってとどめを刺したという。この勇猛かつ壮絶な鯨漁においては、激しく揺れ動く手漕ぎの和船で必死に暴れ狂う鯨に近づき、無数の鋭利な刃物で獲物に立ち向かうだけに、当然、負傷者や死者も多数出た。大変な危険をともなう仕事だけに、実際に鯨を捕る漁組の組員には一種の能力主義が敷かれており、腕のよい刃刺や船頭、舵手などは国内各地からスカウトされ、応分の待遇が与えられてもいたようだ。同じ組の刃刺でも、能力と業績次第で四番船から三番船へ、あるいは二番船から一番船へといったように格上げされるようになっていた。能力を競うシステムになっていたわけである。
  一六七七年、紀州太地の太地角右衛門頼治が網捕り式捕鯨を考案すると、それから十年たらずでその捕鯨法が西海一帯にも広まり、それまでの単純な突き捕り式に比べて捕鯨効率と安全性は飛躍的に高まった。網捕り式捕鯨は突き捕り式捕鯨の改良型ともいうべき捕鯨法で、大きな網で文字通り鯨を生け捕るわけではない。鯨の進行方向に鯨の頭部がすっぽりとはいるような円錐型に近い芋網を仕掛け、それによって鯨の動きを封じておいてから、従来と同じやり方で突き捕るのである。網で頭部を押さえられた鯨はパニックを起こし方向感覚を失ってしまうえに、大きな網とそれに連なる何艘もの船を引きずることになるから、思うようには動きがとれなくなり、深く潜ることもできなくなる。それを突き捕り方式で狙うわけだ。刃刺たちは網を手掛かり足掛かりにしてより容易に鯨に近づき、その背中によじ登ることができるようにもなった。
  初期の頃には、陸地沿いをゆっくりと回遊するために突き捕りに適したセミクジラが多く捕られたらしい。セミクジラには、もともと「背美鯨」または「勢美鯨」という字が当てられていたことを、私はここの資料で初めて知った。蝉のような小型な鯨、あるいはどことなく蝉に似た形をしている鯨という意味でセミクジラと呼ぶのかと思っていたが、どうやら、「泳ぐときの背中のラインが美しい鯨」あるいは「泳ぐ姿が威勢よく美しい鯨」といった意味を込めてつけられた名前らしいのだ。
  捕りすぎたために背美鯨が減ってくると、こんどは沖をよりはやい速度で泳ぐ座頭鯨や長須鯨などの大型鯨が狙われるようになった。網捕り式捕鯨はそれらの大型鯨を捕るのにも大いに威力を発揮したらしい。ただ、肉質や鯨油は背美鯨が一番とされていたようで、当時「本魚」とも呼ばれた背美鯨は、一頭で座頭鯨や長須鯨二頭分の価値があったのだそうだ。座頭鯨などには、もともとは「雑頭鯨」、すなわち、「勘定には入らない、どうでもいい鯨」とでもいったような意味の呼称が与えられていたともいう。
  ときにだが、いまの時代から考えるとかなり酷い捕獲方法が行われることもあった。親子連れで泳いでいる鯨の子鯨をまず捕らえる。子鯨を傷つけると母鯨はそこから離れない。父鯨はその場を離れていくけれども、母鯨のほうはいったん遠ざかってもまたその場に戻ってくるのだという。子鯨を案じてその周りを回遊し最後まで離れないその母鯨を次ぎに狙い捕獲してしまう。鯨の母性愛を利用したこの捕鯨法などは、現代の社会通念からすると残酷で非情このうえないものであった。
  ただ、こういった過去の問題の善悪を考える場合には、単純に現代の尺度を持ち込んでその是非を判断してはならない。過去の事象に想像をめぐらす時には、できるかぎり視点を過去の時空に移し、たとえ限界はあってもその時代に身を置いたつもりで現在の時空を逆円錐状に展望する必要がある。現代のように豊富な食糧と食材に恵まれず、油脂資源も容易には手に入らなかった当時の人々にとっては、鯨は必要不可欠な生存の糧であった。  
  また、捕鯨技術も装備も現代の技術や装備とくらべるときわめて原始的であった。船は手漕ぎの櫓船で速度も遅く、小さくて安定性も悪いから、潮の流れが不安定だったり天候が荒れ模様だったりして波が高いと、操船自体も容易でなかった。まして、そんな状況のなかで仕留めようとした鯨に暴れられたら、底の浅い和船などはひとたまりもなかっただろうと思われる。遊泳速度のはやい鯨を追いかけることは至難の業でもあったろう。のちに我が国にも伝来した近代的な捕鯨銃の銛とは異なり、当時の銛や剣の威力には限界があったから、短時間で鯨を仕留めることは不可能でもあったに違いない。
  そんな限られた状況のもとで確実に鯨を仕留めるには、現代の観点からすれば残酷とも思える捕鯨法に頼ることもやむを得なかったのだ。考えようによっては、キャッチャーボートと捕鯨銃を用いて紀伊や西海の古式捕鯨とは比較にならぬほどの数の鯨をとりまくった近代捕鯨のほうが、はるかに残酷だったかもしれない。誤って射ち殺された親子連れの鯨も、我々が想像する以上に数多くあったことだろう。
  こんなことを書くと、「そんな鯨の捕り方をした日本人はやはり残酷だった」などと勘違いする、歴史的想像力に欠けた外国人も現れるかもしれない。だが、生月島の捕鯨がもっとも盛んだった江戸時代、太平洋や日本海一帯でもっとも多くの鯨を捕っていたのはアメリカである。すでに捕鯨銃をはじめとする近代装備をそなえていたこれらの国々の捕鯨船は、日本近海に次々と現れ、紀伊や西海の捕鯨とは桁違いの数の鯨を捕りまくっていた。しかも、捕った鯨の肉はむろん、皮や骨、髭や尻尾にいたるまでを無駄なく使い切った日本人の場合と違って、アメリカなどの捕鯨は、各種の鯨油やコルセットの材料になる一部の軟骨を採取することだけが目的であった。
  そもそも、ペリーが浦賀に現れ日本各地の開港を徳川幕府に迫った背景には、日本近海にまでやってくる自国捕鯨船にとって、水や食糧の補給港、さらには台風などによる災害時の緊急避難港がどうしても必要だという事情もあった。また、そこまで時代を遡らなくても、私が子供の頃まではアメリカは世界有数の捕鯨国で、大量の白長須鯨や抹香鯨を捕っていた。捕鯨オリンピックと称して各国がまだ鯨の捕獲頭数を競っていた時代のことで、小学校の図書室の図鑑か年鑑で調べたアメリカの白長須鯨の捕獲頭数に目を見張ったことを私はいまもはっきりと憶えている。国際的な鯨の保護運動の高まりは結構なことだとは思うのだが、異常なまでに鯨保護が叫ばれ、鯨を捕る国民は非道な国民のように喧伝されるようになったのは、科学技術の進歩と食糧事情の好転で鯨を捕獲する必要のなくなった戦後のある時期からのことなのだ。
  将来、技術の革新にともなう食文化や食糧事情の一大変化が起こり、人類が牛肉を食する必要がなくなる日がくるとすれば、世界各国における肉食牛の飼育は下火となり、肉牛の生息数は激減することだろう。もしもそのような状況になったなら、牛の愛護運動が世界各地で起こるかもしれない。そして、その時にまだ牛肉を食べている国民や民族があったとすれば、そこの人々は非人間的だと激しい非難を被ることになるに違いない。そんな時代が到来したとき、現在ステーキをもっとも食べている国民の子孫たちは、自分たちの先祖のことなどけろりと忘れ、牛食人種(?)非難の先鋒に立つのだろうか。人間とはいつの時代もとことん勝手なものなのである。
  古式捕鯨に携わった当時の紀伊や西海の漁民たちにしても、実際には、それなりに残酷で非情な鯨捕りにまったく心の痛みを感じていなかったわけではない。いや、むしろ、彼らは現代の我々以上に人間というものの非情さ、残酷さ、矛盾の多さに気づき、それらを直視していたふしがある。生月島の話ではないが、鯨の位牌とか鯨の墓とかいったようなものが国内各地に散在するのも、そういった背景があったからなのだろう。生月島益富家の鯨組の場合には、刃刺が鯨に最後の留めを刺すと、すぐに鯨を囲む船の者全員が立ち上がり、息絶えた鯨に向かって手を合わせ「南無阿弥陀仏」の念仏を三度繰り返し唱えるしきたりになっていたという。
  仕留めた鯨は、前述した持双船の横木の中央にその頭部を固定されたまま捕鯨納屋場の岸に運ばれ、解体加工を専門とする職人によって手際よく処理された。生月島をはじめとする西海各地の解体処理作業は極度に合理化されていて、一箇所の作業場で大型鯨を一日に四、五頭も処理することができたという。当時、土佐などでは小さい鯨一頭を解体するのにも一日を要したとのことだから、益富家傘下の鯨組がいかに機能的な組織集団だったかが推測されよう。
  直接に鯨とは関係ないが、一階の展示室の一隅には、生月鯨太左エ門という江戸時代の巨漢力士の等身大の像が立っていた。「鯨」の一字をそのしこ名に持つ生月島出身の力士の身長はなんと二メートル二十七センチで、体重は百六十九キロ、手のひらは三十二センチ、足のサイズは三十七センチもあったという。我が国の歴史上例のないほどの大男で、鯨の名に恥じなかったわけである。
  島の館の古式捕鯨資料に圧倒され、深い思いに惹き込まれてしまった私だったが、なんと二階の奥の展示室にはいまひとつ想いもかけぬ貴重な歴史資料が陳列されていたのである。その展示室に足を踏み入れた私は再びその場に釘づけになってしまったのだった。

 

「マセマティック放浪記」
2000年1月5日

生月島と隠れキリシタン

  キリスト教日本布教の祖フランシスコ・ザビエルが一五四九年に鹿児島に上陸してから、はや四百五十年の歳月が流れ去った。昨年鹿児島ではザビエル来日四百五十年記念祭なども催されたようである。キリシタン追放令が下されて以降はキリスト教徒をきわめて厳格に取り締まった旧島津藩のお膝元鹿児島で、ザビエル記念祭が大々的に催され、内外から多くの参加者や招待者を集めたということは、奇妙な歴史のめぐりあわせとでも言うほかない。そのフランシスコ・ザビエルの入邦を契機として、九州西北部をはじめとする国内各地にキリスト教が急速に広まっていったことは、十六世紀半ばから十七世紀初頭にかけての我が国の歴史に見る通りである。
  鹿児島上陸後、再びポルトガル船に乗船、入来、大村を経て海路西海地方に来航したザビエルが、一五五〇年に平戸島に入ると、その翌年には早くも同島に日本初の教会が建立された。そして、それを待っていたかのようにフロイスやフェルナンデスをはじめとするイエズス会の宣教師たちが次々に来島、西海地方一帯におけるキリスト教の布教熱は加速度的に高まっていった。一五七一年になって長崎が開港されると来日する宣教師たちの数はさらに増大し、それから十年ほどのちには浦上にあの有名な天主堂が建立されるまでになった。また、一五八二年、九州のキリシタン大名らはローマに天正遣欧使節団を送り、キリスト教に好意的だった織田信長は宣教師たちと進んで接見、彼らと交流を深めるなど、キリスト教の国内布教の勢いには一時期目を見張るべきものがあった。
  しかし、一五八七年になって秀吉がキリシタン追放令を発令してキリスト教の布教を禁じ、それから十年ほどのち、フランシスコ会の宣教師六人、日本人イエズズ会修道士三人、さらに彼らをかくまった日本人信者十七人、合わせて二十六人のキリスト教徒が長崎西坂の丘で殉教するに及んで、キリスト教に対する取り締まりは格段に厳しさを増していった。そして、一六一三年に家康が禁教令を公布し、ウイリアム・アダムスこと三浦安針が平戸で他界した一六二〇年頃になると、幕府によるキリスト教弾圧の厳しさはその頂点に達した。一六二二年(元和八年)には、宣教師や信者五十六名が長崎立山で火刑や斬首に処されるという元和の大殉教が起こっている。
  遠く海を隔てた異国の地へ新たな宗教を布教するということは、そこに住む異教徒たちに対し命懸けで思想の戦いを挑むことにほかならない。その宗教が本質的なもの、すなわち、その時代の規範や制度のゆえに苦悩する人々の心をそれらの規範や制度を超越した次元で救済しようとするものであればあるほど、宗教を広める側とそれを異質なものとして排除しようとする側との戦いは熾烈になる。いまではどんなに穏健で普遍的に見える宗教の場合であっても、その原初形態は異質かつ過激で、反社会的、反権力的なものであったと考えてよい。まして、布教の先陣をたくされた「神の戦士」たちの背後に、それを個々の戦士たちが意識していたか否かにかかわらず、異国の征服をたくらむ権力者の姿が見え隠れし、迎え撃つ側もその対応に窮して脅威を感じ怯えを抱くようになっていったとすれば、事態が平穏におさまろうはずもなかったろう。
  十六世紀末から十七世紀初頭にかけてという時代を考えると、当時の我が国の為政者たちが、キリスト教に対する当初の寛容さを捨て、厳しい取締りへと転じていかざるをえなかった背景もある程度は理解できなくもない。長年ドイツのゲッティンゲン大学で日欧比較文化史の研究を続けた松原久子は、その著書の中で、独自の視点に基づく次ぎのような興味深い見解を述べている。当時の宣教師たちが国王や教会本部へ送った生々しいレポートや記録をヨーロッパ各地の図書館から発掘収集し、それらを分析したうえでの鋭い指摘だけに、読んでいて深く考えさせられるものがある。

《もしもこれが逆の立場であったならば、今日のヨーロッパの歴史には何と述べられていることだろうか。たとえば十六世紀末、シシリー島の港あたりにひょっこりと一団の仏僧が姿を見せて上陸し、その地方の住民に仏陀の教えを説き、キリスト教は邪教であるから教会を焼き払わなければならないと煽動し、仏教寺院を建てて領主を改宗させ、その援助で港を造ってはその一帯を領有し、十字架やマリア像さらには聖人像を叩き割って焚いた火で精進料理を作って舌鼓を打ち、仏僧の配下にある貿易船が毎年来航してヨーロッパにない物を持参し、人々は競ってそれを買い、船が去るときにはイタリアの貧しい村々で安く買い集めた少年少女を鎖に繋いで乗せ、奴隷として運んで行ったとしたならばである》
(松原久子著、「WEG ZU JAPAN」より)
 
  キリシタン問題に関する諸議論の是非はともかくとして、キリスト教の教義に心のよりどころを求める当時の敬虔な信者たちは、取締りが厳しくなるにつれ、世に言う「隠れキリシタン」としてその信仰を隠し守っていくしかなくなった。そして、明治になって信教の自由が認められるまでの間、子孫代々密かに教義を伝承しつつその信仰を固く守り貫いたのが、ほかならぬこの生月島と平戸島西海岸の根獅子周辺の人々だったのだ。

  古式捕鯨関係の展示物を見終え、二階に上がって一番奥の展示室へと進んでいった私は、そこで望外ともいうべき隠れキリシタン関係の展示資料にめぐりあうことになったのである。この島の歴史民俗的な背景からすればそれは当然のことではあったのだが、まるで予備知識のなかった私には、それら展示物の一つひとつが大きな魅惑を秘めた宝物のように思われてならなかった。
  生月島と平戸島の根獅子地区では一部の役人をも含めた当時の住民全員がキリスト教の信者になっていたという。生月には宣教師ルイス・アルメイダなども来島し、キリシタン弾圧が始まる前には六百人を収容できる教会などもあって、すでにラテン語の聖歌が歌われていたらしい。実際、そのくらいの信仰の深まりがなければ、幕府の厳格な取締りにもひるむことなく、隠れキリシタンと化して信仰を貫き通すことはできなかったに違いない。隠れキリシタンとなった島の人々は、仏教や神道を隠れ蓑にし、以後、信教の自由が保証されるようになるまでの二百五十年余にわたってその信仰を密かに守り続けていったのだ。
  展示室の最奥には隠れキリシタンの秘密教会の役割を果たしていたツモト(お宿)家の部屋の復原資料があって、実際に中に入って当時の雰囲気を体感することができるようになっていた。解説によると、生月壱部の岳の下ツモトでの「上り様」行事におけるナオライ(祝祭あるは宴会を意味する)の場面を再現したものだという。実際には、当時のツモトの状況も諸儀式の様式も地区によってかなり違い、ツモト家も世襲になっているところと何年かごとの持ち回りになっているところとがあったようだ。
  土間からあがってすぐの左手には昔風の大きな箱火鉢が置かれた板敷きの控えの間があり、右手には同じく板敷きの仏間があった。仏間には菩薩像を配した仏壇を中心にして左手にお大師様を祀る棚檀が、右手にはお札様という一種の神棚が並べ設けられている。いかにも「この家では日本古来の神仏をこのうえなく大切に祀っていますよ」と言いたげな仏壇と神棚の配列なのだが、閼伽瓶(水を供える瓶)のデザインや配置のしかたひとつにもどことなく不自然な雰囲気が漂っているように感じられてならなかった。もしかしたら、そういう目で見ている私の気のせいだったのかもしれないけれども……。
  板戸でしっかりと仕切られた仏間の奥には納戸(物置部屋)があって、実はそこが隠れキリシタンの本尊、すなわち「御前様(マリア像または聖者像)」を祀る秘密の間になっていた。床の間には和風のタッチで描いた幼いキリストを抱く聖母マリア像の掛け軸がさげられ、その下には聖水の瓶や各種のメダリオン、もともとはカトリックの苦行の際に使われていた鞭の一種を模した、縄製のオテンペンシャという聖具なども置かれている。ちなみに述べておくと、オテンペシャは魔除けやお払いのために用いられる隠れキリシタンの世界独特の聖具であった。オテンペンシャという言葉の語源は、ポルトガル語で「悔悛」を意味する「pentencia」であったという。それならば、「オ」の字をあとでつけ足した尊敬の接頭語とみなし、「テン」と「ペン」を入れ替え「オペンテンシャ」と呼ぶのが正しいのではないかとも思ったが、いくつかの資料を確認してみてもやはりオテンペンシャになっていた。
  床の間の前に置かれた広い膳の上のお盆には供物用の皿や椀類が並べられていたが、それらのデザインや絵柄はやはり異国風の感じのするものだった。資料室には日本古来の観音像を巧みにデフォルメし、幼いキリストを抱くマリアのイメージを重ねた各種のマリア観音像が展示されていたが、各地域のツモトの納戸部屋などにはそれらマリア観音像なども秘蔵されていたようだ。いざというときに備えて、小さなマリア観音像や十字架、貴重なメダリオンなどが納戸の柱や壁に埋め込まれたり塗り込められたりすることもあったらしい。
  納戸とは、民家の奥深いところにあって一家の衣類や調度品などをしまっておく、窓のない暗い物置部屋のことで、一般客はもちろん、家族の者もめったには出入りしない場所である。この納戸に聖母マリアの像やその聖画などが秘蔵されたことから、それらは「納戸神様」という風変わりな呼称で呼ばれてもいたようだ。納戸神様としては、聖像や聖画、マリア観音像などのほか、聖職者たちが殉教した聖地の中江ノ島から採取した聖水、前述のオテンペンシャ、白い紙を切りぬいて作った小さな十字形のおまぶり(お守り)、袂(たもと)神(原型のロザリオ)、サンジュアン様(メダリオンの一種)なども用いられた。
  壁で仕切られた納戸部屋の左隣は広い座敷部屋になっていて、その座敷ではナオライの儀をはじめとるす様々な秘儀や行事が催された。親父様と呼ばれるツモトの当主が全体の儀式を仕切り、オラショという祈祷文が唱和されたという。オラショは相当に長いものだそうで、跡を継ぐ若い者が長老からオラショを口伝で教わるときなどは、完全に憶えるまで大変な苦労をしたものらしい。座敷部屋や納戸部屋では、オラショの録音テープがが流されていたが、語意を聴き取るのは不可能に近いその早口の唱和は、抑揚もリズムも浄土真宗の仏説阿弥陀経や観無量寿経の読経の響きにそっくりだった。これはあくまで私の推測だが、たまたま部外の誰かに聴かれたとしても仏教の読経と区別がつかないように、意図的にそんな工夫がなされていたのかもしれない。
 「ナオライ」の儀や「お産待ち(クリスマス・イヴの儀式のこと)」、「お誕生日(キリストの生誕日)」の行事のときには、座敷の間と壁を隔てた納戸の御前様にオラショを唱えて祈りを献げたあと、祝いの酒や肴が出されたが、行事中に誰かが納戸に入り御前様に参拝することはまったくなかったらしい。日常的にも御前様を祀る納戸に出入りすることは極力避けられ、出入りができるのもツモト当主の親父様だけに限られていた。それほどに徹底した秘密保持の態勢を敷かなければ信仰の継承維持は不可能だったということなのだろう。
  展示室にはかつての宣教師たちが残した華麗な司祭服や聖書類、十字架類などの関係資料も多数陳列されていたが、そんな中にあって私がひときわ心を惹かれたのは有名な踏絵の実物であった。踏絵というのは銅板だけで出来ているものと思っていたが、展示されている実際の踏絵は、和琴を小さくしたようなかたちの、丸みのあるがっしりとした木の台の中央にはめ込まれていた。その台にのぼった者が足裏全体で踏絵本体を強く踏みつけられるように工夫するいっぽうで、その様子を役人が容易に確認できるようにも配慮してあったわけだ。黒ずんですっかり摩滅したその踏絵の木部は、隠れキリシタンであったか否かにかかわらず、その踏絵を踏まされた者の数が如何に多かったかを物語っていた。
  黒ずんで摩滅した部分には、どうしても聖像浮き彫りにした銅板踏絵本体を踏めずに処刑された敬虔な信者たちの足跡の名残も秘められているに相違ない。そう思うとなんとも不思議な気がしてならなかった。やがてキリスト教の指導者たちのほうも、信徒たちに踏絵を踏んでも神の慈悲には変わりがないし、真に信仰を守るためならばむしろ進んで踏絵を踏んでも構わないという指示を出したため、踏絵によるキリシタン探しは実効力を失い、次第に形骸化していった。そして、日米修交通商条約が締結された一八五八年に至って、全面的に踏絵は廃止された。
  いまひとつ、私が目を奪われた展示物は「魔鏡」と呼ばれる特殊な銅鏡だった。魔鏡というものがこの世に存在するということは耳にしていたが、その実物を目にするのは初めてだった。裏に観音菩薩像の浮き彫りを持ち、表側は通常の銅鏡と同じように滑らかに磨き上げられた鏡面になっているこの鏡に光を当て、その反射光を白い壁や紙に投射すると、なんと、円形の光像の中に十字架に掛けられたキリストの姿とおぼしきものが浮かび上がるのだ。観音菩薩ではなくてキリストやマリアの像が浮かび上がるところがミソである。何時の時代に誰が考え出した技術なのかは知るよしもないが、なんとも見事な技法だというほかない。生月島で噂の魔鏡に遭遇できるなんて望外のそのまた望外のことだったから、反射光の中に浮かび上がる不思議な聖像を眺めながら、私はすっかり嬉しくなった。
  魔鏡の秘密は観音像の浮き彫りをもつ裏面と表の鏡面との間にある見えない中空部にあるらしい。外からはわからないが、二枚の円形銅板を巧みに貼り合わせて作った中空部、すなわち鏡面のほんとうの裏側には微妙な凹凸がつけられ、また特殊な細工などが施されている。そして、それらの凹凸や細工が表の鏡面に及ぼす影響のために反射光に明度のむらが生じ、その明暗の光の縞が全体的に組み合わさって聖像の文様となるらしいのだ。なんとも驚くべき高等テクニックなのである。
  なかには、その解説を読んでいくうちに思わず吹き出したくるような展示物もあった。いかにも古そうな十字架の中央にマリア観音像らしきものの浮き彫りを施した「キリシタン遺物の偽物」がそれである。そのいわくありげな珍品は、西海地方一帯のキリシタン史跡を訪れる外国人観光客を狙って終戦後の一時期に作られた、商魂まるだしの偽十字架だったからである。裏を知らなければ日本人でも騙されてしまいそうな代物だから、それと知らずにお土産代わりに買っていった外国人も多かったに違いない。
  一六四三年に当時の最後の司祭マンショ小西神父が殉教すると、西海地方のキリスト教信者たちは隠れキリシタンとなって各地に潜伏、諸聖具と諸儀式の含み持つ本来の意味や精神を正しく伝承する宣教師のいないままに、その信仰は孤立化し土着化していった。ただ、たとえ風土の影響を受け土着化したとはいっても、正規の司祭による指導のまったくないままに、その後二百五十年余にもわたってその信仰が受け継ぎ守り抜かれたということは驚異というしかないだろう。集落の全戸が揃って隠れキリシタンとなっていたことも、生月や根獅子の人々が信仰を固守し続けることができた大きな理由ではあろうが、それだけでは説明がつかない気がしないでもない。
  私には、広大な海と漁村という背景が隠れキリシタンの信仰の存続に一役買っていたように思われてならない。私も九州の島育ちだからよくわかるのだが、海を相手にして生きる漁民というものは一般に言葉少なく口が固い。それでいて物事の本質を冷静に見抜く力を持ち、いざというときの決断力と行動力にも秀でている。
  いまと違って手漕ぎの和船しかない時代には、いったん海に出たら、漁民たちはお互い力を合わせ固い結束を守りながら、的確な判断のもと命懸けで仕事を進めなければならなかったろう。独りで沖に出たら出たで、いつ何が起こるか判らない危険な状況と隣り合わせのなかで、自らの心に語り問いかけ自らの力と判断を信じながら、黙々と漁労にいそしまなければならなかった。女たちは女たちで、たとえ海に出ることがない者であっても、海がどういうところかは十分にわきまえていて、生活をともにする海の男たちの身に何かが起こったときの覚悟だけはできていたはずである。
  要するに、古来、海というものは、個々の人間の根性を据えその人間を自立させると同時に、人々の心の絆を想像以上に太く強くするものなのだ。五島を含めた西海各地の隠れキリシタン集落にみる人々の結束の固さには、海に生きる者のそんな気質が大きく作用していたように感じられてならない。
  隠れキリシタンとなった人々が如何に固く口を閉ざしそれぞれの秘儀を守り通したかは、海を挟んでわずかな距離しか離れていない生月と根獅子においてさえ、それぞれの信仰様式がかなり異なったものになっていった事実からも窺い知ることができよう。生月島では、「ここから天国はそう遠くはない」という有名な言葉を残して殉教した聖ジョアン次郎右衛門らが処刑された沖合いの中江ノ島という小島を、いっぽうの根獅子は大量の殉教者を出したという根獅子ヶ浜をその聖地にしている。隠れキリシタン組織の形態も礼拝行事もオラショもそれぞれの地域で独自の様式へと変化していったようである。生月島では、隠れキリシタンの中に死人がでた場合には、仏教僧が来ないうちに、遺体を前にして「もどし方」というミサの変形ともいうべき特別な儀式が行なわれ、オラショが唱えられたともいう。
  明治になって信教の自由が認められると、平戸の紐差教会のペルー神父らはすぐさま再布教のために生月や根獅子を訪れ、人々の祀る納戸神様とキリスト教とは同一のものであることを懸命に説いた。しかし、二世紀半もの歳月を経て土着化した隠れキリシタン独自の信仰様式とキリスト教本来の信仰様式との開きはあまりにも大きく、キリスト教の再布教は、十六世紀当時の初布教などよりもはるかに困難をきわめたという。
  思いもかけぬ発見に心底喜びを覚えながら島の館をあとにした私は、再び生月大橋を渡って平戸島側に戻り、西海岸の根獅子ヶ浜の近くにある平戸切支丹資料館をも訪ねてみた。それは入母屋造り平屋のこじんまりした資料館で、入館者は私一人だけだった。こちらのほうにも島の館の展示室に劣らず、なかなかに興味深い隠れ切支丹関係の資料が陳列されていた。珍しい隠れキリシタン祭具や見るからに芸術性の高い何体ものマリア観音像もあった。司祭服姿の聖職者の古い木像、大きな十字架を背負った見事な造りのキリスト木像、さらには実際に用いられた禁教令の高札やメダリオンなど、いずれの展示物にも深く心を打つものが感じられた。
  ただ、見学を終え同資料館をあとにしようとしたときのこと、一つだけ呆気にとられるような代物を目にしてしまった。資料館の片隅で売られているお土産品の中に、なんと一個千円の値段のついた踏絵のレプリカが並べられていたのである。どこかの国の首相や大臣連中の顔を浮き彫りにした踏絵なら一枚くらい買ってきて、ストレス解消用に我が家の玄関先あたりに置いてみるのもよいかとは思ったが、さすがに本物の踏絵のレプリカではとてもそうする気にはなれなかった。もちろん、純粋に歴史資料としてそのレプリカを買っていく人も多いのだろうし、資料館側もそういった人々へのサービスのつもりで用意したものに違いないのだろうが、私の感性にはちょと合わないお土産品ではあった。

 

「マセマティック放浪記」
2000年1月12日

百合焼酎から世紀初年問題へ

  元旦早々に、720ml瓶六本の焼酎原酒「風に吹かれて」が、製造元の鹿児島県里村の塩田酒造から送られてきた。以前にこの欄で絶品だと紹介したことのある甑島産の本格焼酎「百合」の原酒で、40度ほどの度数がある。ごくかぎられた焼酎通の人々の間では「百合」をも凌ぐ名品として愛好されている原酒だが、毎年12月に500本だけが出荷される特別限定商品なので容易には手に入らない。私はまったくの下戸だが、どうしても「風に吹かれて」を飲んでみたいという焼酎狂が周囲に何人かいるので、昨年11月初め塩田酒造の当主、塩田将史さんに直接頼んでおいたのだ。国内各地の酒屋さんから「風に吹かれて」の予約注文があいつぎ、私がお願いしたときには、もう残りがわずか六本しかない有様だった。文字通りの滑り込みセーフだったわけである。
  この原酒は、720ml瓶一本2000円と生産コストを無視した価格でもあるため、当然大量には出荷できない。それでも、生産主の塩田さんは、出荷価格を高く設定するつもりもないし、それがお客に渡るとき何倍もの高値につりあがることを望んでもいない。あまりに高い値段で売る酒屋があることがわかると、以後そのお店には「風に吹かれて」の出荷をやめてしまうのだそうだ。高く売れば一時的に収益はあがるが、便乗利益を目論んだまがい物の商品が必ず登場してくる。品質の悪い製品が出回れば、せっかく近年大きく持ち直してきた「焼酎」にたいするイメージがまたダウンしてしまう。それは焼酎業界にとって自殺行為に等しいことなのだという。「風に吹かれて」を損得抜きで出荷する理由は、ほんとうの焼酎というものはこんなに素晴らしい味のものなのだということをアピールするためなのだそうだ。
  昨秋、講演のために甑島を訪れたJTB「旅」編集長の楓千里さんも、塩田酒造を案内され、本格焼酎「百合」の味を堪能なさったらしい。その時、楓さんのほうから、「百合」や「風に吹かれて」をもっと広く世に紹介するための提案もあったのだそうだが、生産と品質の維持管理のほうがとても追いつかないということで話は保留になったという。
  ごくシンプルなデザインの紙箱を1個取り出し、どんなものかと蓋を開けてみると、輝くような色の透明な液体が栓元までいっぱいに詰まった小瓶が現れた。小さな白い和紙製のラベルには「本格焼酎 百合 原酒・風に吹かれて」と表示されている。そして、ラベルの下のほうには「NO 1」という製造番号が記入してあった。1月1日に「NO 1」とは縁起がいいなと思いながら、最初の製品などにはやはり「NO 1」を付記するのが普通で、「NO 0」のように零の番号をふるようなことはないよなと、何気なく考えた。そして、そうこうするうちに、私の脳裏に、「そうか、今年はまだ20世紀で、来年の紀元2001年からが21世紀だといわれるのは、もしかしたらそのあたりの問題と深い関係があるんじゃないかな」という思いが湧き上がってきた。
  二十一世紀のはじまりが紀元2000年からなのか、それとも紀元2001年からなのかという問題は、紀元2001年からだということで一応は決着したようであるけれども、なんとなくすっきりしない思いの人も少なくないだろう。かく言う私もその一人にほかならない。紀元2001年からが二十一世紀だと納得顔でいる人も、そう断定する理由を求められると、結局は「そう決まってるからそうなんだ!」と言いだす始末で、あやふやなことこのうえない。
 「風に吹かれて」の「NO 1」という製造番号に触発され、再度この問題の根源に想いをめぐらすうちに、どうやら、零という数が誕生し世界中に普及するまでの歴史的背景や、零という数字の秘め持つ特別な抽象性、さらには十進数の桁の繰り上げ表記法などがこの問題の不明瞭さの原因であるらしいということがわかってきた。
  この問題をより明快にするには、まず、紀元年号なるものはいつの時代、誰によって考え出されたものかを明らかにしておく必要があるかもしれない。幸いとでもいうべきか、その時たまたま、私は、紀元年号の起源とその発案者についての簡単な記述がある百科辞典の中にあったことを想い出した。
  もう八年ほど前のことになるが、私は新曜社という出版社から「超辞苑」という風変わりな百科辞典を翻訳出版したことがある。原著はイギリスで刊行された「THE ULTIMATE IRRELEVANT ENCYCLOPAEDIA」という本で、本来のタイトルには、「究極の的はずれ百科辞典」、あるいは、「まるで無価値な雑学百科辞典」という意味が込められている。要するに、一筋縄ではいかない記事内容のびっしり詰まった「八方破れのずっこけ大辞典」というわけだったから、最初、邦訳書には、「悪魔の辞典」の向こうを張って「天使の辞典」というタイトルをつけようかと考えた。しかし、我が国には「広辞苑」という偉大な辞典があることを想い起こし、最終的にはそれをもじって「超辞苑」というタイトルにした。「常識を超えた辞典」という意味を含みにしたことは言うまでもない。
  この辞典の中の「アウグストゥス・カエサル(BC 63 〜 AD 14)」の項には次ぎのような興味深い記述がなされている。

《紀元前8年のこと、アウグストゥス・カエサルは自分の名をもつ月がないことに落胆し、現在の8月に相当する月をAugustus(Augustの語源)という呼び名に改めさせた。また、自分の名をつけた月が伯父のジュリアス(JuliusすなわちJulyの語源)の名をもつ月よりも1日だけ短いことに気づいた彼は、2月を1日だけ少なくし、その分を8月に付け加えてしまったのだった。
  言うまでもないが、このような一連の出来事が起こった年代がのちに「紀元8年」と呼ばれるようになるだろうなどとは、当時の人々には想像もつかないことだった。実際、紀元700年頃に至って聖者ビードがキリストの誕生を基準にして年譜をつけるという絶妙なアイディアを思いつくまで、誰もが、何年にどんな出来事が起こったかを的確に知るすべなど持ち合わせていなかったのである》

  昔から欧米などで広く人々の笑いを誘ってきた絶妙なジョークのなかに、「発掘されたその壷には、BC 100年という制作年代の刻印がなされていた」とか、「貴重なその本の最後には、AD 100年にこれを著す、という記述があった」とかいったようなものがある。そんなジョークが人々をニヤリとさせることからもわかるように、紀元年号が案出されたのはなんと紀元700年頃、すなわち、いまから1300年ほど前のことなのだ。
  紀元年号が考案されたおよその年代が判明したら、次ぎに確認しなければならないのは、零という数の起源と由来、さらにはその概念が一般の人々の間に定着していくまでの歴史的な背景である。こちらのほうを調べるには、数学者の吉田洋一が1939年に著した「零の発見」(岩波新書)という願ってもない名著があった。私などが生まれるずっと以前に刊行されたこの著作は、数学史や数学の根源的問題にまで触れた一般読者向きの啓蒙書であるが、いまあらためて読んでみても少しも古びた感じがしない。多少難しいところもないではないけれど、中高生の頃にこの本を読んで啓発され、やがて数学の研究者になった人も少なくはないはずだ。受験勉強をするうちに数学が嫌いになったり、数学はそれなりに得意でも、その目指すところや数学の世界の展望がまるで見えないという中高生には是非この本を薦めてみたい。
  さて、いまでは小学生でも知っている零という数字だが、この数字が世界中に広まりその実用性が認められるようになるまでには相当の時間が必要だったらしい。この本に述べられているところによると、零が発見されたのがインドであることに間違いはないが、その発見がいつの時代、誰によってなされたのかは不明だという。ただ、多くの研究者は、六世紀頃のインドではすでに、零の概念を用いた、現在の記数法に近い位取り記数法がおこなわれていたのではないかと推測しているようだ。
  「1」という具体性のある数に比べて、「0」という実体のない抽象的な数のほうは、昔の人々にとってその意味と機能を明瞭に認識することは難しかった。幾何学的な分野ではきわめて高度な研究が進められていた古代のエジプト、ギリシャ、ローマなどにおいても、代数学的な分野の研究はほとんど進んでいなかった。詳しい説明は省くが、「0」という数がまだ知られていなかったことが大きな理由だったろうと考えられている。もしも「0」という数がなかったとすれば、十進法を用いる場合でも、たとえば、1、2、3、4、5、6、7、8、9、T(10を表わす記号)、11、12…………19、2T(20)、21、22…………89、9T(90)、91、92、93、94、95、96、97、98、99、H(100を表わす記号)、H1(101)、H2(102)、…………HT(110)、…………9H(900)、…………9H9T(990)、991、992、993、…………998、999、M(1000を表わす記号)………のように、十、百、千と桁が上がるごとに新たな記号を付け加えていかなければならない。
  億や兆単位の数にもなると、をこの記数法でそれらの数を表記するだけでも大変なことだから、この記数法で加減乗除の計算などをやろうと思ったら、天才的な頭脳をもってしても容易なことではないだろう。まして、高度な代数方程式を解くなどということは、ほとんど不可能だったに違いない。ヨーロッパなどで近代科学の基礎が築かれ、科学文明が発達したのは、零の概念をもつインド記数法が伝来したおかげだと言っても過言ではない。
  ところで、いま述べたことからわかるように、「0」という便宜性の高い抽象的な数の認知されている世界ならば、数の始まりを「0」にして、0、1、2、3、4、5、………98、99、100、とカウントすることが普通になる。しかし、「0」という数がない世界の場合だと、数の始まりを「1」にして、1、2、3、4、5、…………97、98、99、H(100)、とカウントするのが自然のなりゆきというものだろう。
  いま少し話をわかりやすくするために、数直線をイメージしてもらうことにしよう。そして、零という数が認知されている世界の場合には、「1」というときは0から1までの間の線分を表わし、「2」というと1から2までの線分を表わすと約束されているとする。このルールに従うと、「100」という数は99から100までの間の線分を表わすことになる。
  いっぽう、零という数が認知されていない世界の場合には、「1」というと1から2までの線分を、また「2」というと2から3までの線分を表わすもの約束されているとしてみよう。このルールにのっとるとすれば、H(100)という数はH(100)からH1(101)までの間の線分を表わすことになる。もうおわかりだろうが、二十世紀を1901年初めから2001年の初め(2000年の終わり)までとするという一世紀の年数のカウント法は、この零という数が認知されていない世界のケースに相当しているのである。
 「零の発見」の記述によれば、零の概念をもつインド記数法がイスラム世界を経てヨーロッパに伝わり、実用的なものとして商人をはじめとする一般の人々の間で用いられるようになったのは、十字軍遠征の時代と重なる十二世紀の頃になってからだという。それ以前にも知識としてインド記数法がヨーロッパの一部の知識人に伝わっていた可能性はあるらしいが、異教徒の奇異な考え方としてほとんど無視されていたのが実状のようである。
  十二世紀後半に商人の子として生まれた数学者フィボナッチが、イタリアで十三世紀初頭に書物を著し、インド記数法とそれを用いた商業用算術を体系的に紹介したのが契機となって、ようやくヨーロッパに零の概念が普及定着することになったのだそうだ。
  紀元年号が発案されたのが紀元700年頃だったとすれば、当時のヨーロッパには零の概念などむろん伝わっていなかったことになる。そうだとすれば、たとえば七世紀を701年初めから800年終わりまでと考えるのは必然の成り行きだったということになろう。現代の我々は中学生にもなると「0」という数を基点とした数直線の概念を教わるから、紀元0年を基準にして「BC 100年」とか「AD 100年」とかいった年号表現を容易に受け入れることができるけれども、零の概念をもたなかった時代の人々は、どうしても「1」を基点にせざるをえなかったと推察される。二十一世紀が2001年初めからとされるのは、そんなカウント法の名残であると考えることもできるのではなかろうか。
  以上のことは、あくまでも私がたまたま想像してみた個人的な見解であって、その考えれを正しいと保証してくれるような歴史的根拠などはとくにない。「風に吹かれて」の製造番号「NO 1」が発端となってあれこれと気ままに想いをめぐらすうちに、私の紀元2000年の元日はいつのまにか終わってしまった。なんとも厄介な2000年問題(?)に遭遇したものである。

 

「マセマティック放浪記」
2000年1月19日

山井教雄さんのアニメに仰天!

  山井教雄さんのアニメコラムを何気なく眺めているうちに、待てよ、この女性の絵、以前にどっかで見たことがあるなあ……と思わずマウスをもつ手を止めた。一時代前の身なりと髪型をした一婦人がワープロを操作し、「HAPPY NEW YEAR 1900」と赤い文字を打ち出す、実によくできたアニメーションなのだが、もともとはエッチングか精密木版画だったのではと思われるこのご婦人の絵と、ワープロ画面のすこし上にある旧式タイプライターの一部らしいものに見覚えがあったからである。これまで山井教雄さんには一度もお会いしたことがないし、山井さんのアニメコラムを拝見するようになったのは最近のことだから、むろん私がそんな風に感じたのはまったくの偶然だった。
  記憶をたどっていくうちに、私は懐かしい一冊の本のことを思い出した。すぐに書棚からその本を引っ張り出してページをめくっていくと、ありました、ありましたよ!……確かに山井さんのアニメのベースになったと思われるその絵が、間違いなくそこに掲載されていたのである。19世紀後半に描かれたその絵とアニメコラムとを見較べながら、私は思わず笑い転げ、山井さんの見事なパロディ精神と遊びごごろ、さらにはその意表を突くアイディアに心底拍手喝采を送りたい気持ちになったのだった。
  実を言うと、先週のアニメコラムにそれほどまでに深い感銘を覚えたのは、山井さんのウィットの素晴らしさに加え、いま一つ私なりの大きな理由があってのことだった。話の成り行き上、先週に続いてまたもや自分の過去の仕事を引き合いにだすことになって恐縮だが、もういまから23年も前の1977年のこと、私はシグマという出版社からの依頼を受け「VICTORIAN INVENTION」という風変わりな本を翻訳出版したことがあった。イギリスのJohn Murray 社刊行のその原書は、上質紙製A4版大の200ページほどの書籍で、オランダ人のLeonard de Vriesが1971年に編集した類稀な珍本であった。
  内容的には、サイエンティフック・アメリカン誌、ラ・ナチュール誌(仏)、デ・ナツール誌(欄)、ザ・ネイチャー誌(英)など、伝統ある当時の一流科学誌上に1865年から1900年にかけて掲載された発明に関する興味深い記事を抜粋編集したもので、同書の最大の魅力は、もともとはエッチングか精密木版刷りだったと思われるユーモラスでロマンあふれる図版がふんだんに収録されていることだった。そこに紹介されている発明品や発明アイディアも、現代科学の先駆けをなした実践的な諸々の発明研究から、一世を風靡した大発明や万国博覧会の目玉展示品、さらには、抱腹絶倒ものの珍品、奇想天外な珍アイディアの数々にいたるまで、かつての夢多き一時代を見事に象徴するものばかりだった。また、ちょっと目を通してみただけで当時の科学雑誌の大らかさなども偲ばれ、なんとも微笑ましいかぎりであった。
  ただ、レオナルド・デ・フェリスが編集した原著の解説文は、前述した19世紀の科学誌の記事をほぼそのまま引用して構成されているため、一世紀を経た今日の観点からすると、相当に不自然で要を得ない個所も多く、さらに、原文のかなりの部分が古風できわめて硬い技術解説調の文章で占められているという問題もあった。そこで、日本語訳を進めるにあたっては、原編集者の意図と原文の主旨とを損なわぬように心がけながらも、大胆に創作的な翻訳を試み、随所に自筆の戯文を加筆したりもした。幸いなことに、刊行されると、新聞各紙やいくつかの週刊誌にも紹介され、当時の国立科学博物館の研究者筋からは、科学史の専門研究にも役立つ優れた翻訳書だという、身に余るような評価も頂戴した。作家の荒俣宏さんなどは、奇書百選の中の一冊にも選んでくださった。
  以後十年余にわたって版を重ねていたが、シグマ社の経営事情の問題などもあり、やがてこの本は絶版状態となった。そして、1992年にいたって、JICC出版(現宝島社)から「図説・発明狂の時代」とタイトルを改め、荒俣宏さんの推奨帯文付きで復刊された。ただ、数年してこちらのほうも絶版になってしまったので、現在ではこの本は入手不可能になっている。いまもときおり私のところに問い合わせがあったりするのだが、どこかの書店で文庫本化ないしは再復刊でもされないかぎり、図書館か古書店を探して閲覧してもらうしか方法がない。美術関係者や各方面の研究者、書籍マニアの方々などがずいぶんと購入してくださっていたようなので、もしかしたら、このAICの読者の中にも同書をお持ちの方があるかもしれない。そのような方がおられたら、この場であらためてお礼を申し上げたい。
  ところで、この「VICTORIAN INVENTION」あるいは「図説・発明狂の時代」の164ページに、「タイプライターの発明」という記事があって、その右に別掲のような一枚の挿絵がついている。ヴィクトリア時代のご婦人が、1865年にアメリカ人ショールズが発明したという時代がかった造りのタイプライターを叩いているところを描いた挿絵なのだが、これこそが山井さんのアニメコラムのベースとなった絵なのである。挿絵図版の下には「ショールズのタイプライター(1872)」と記されているから、おそらく、図版中のタイプライターはショールズがその数年前に発明したものの改良型なのだろう。ちなみに述べておくと、この原記事はオランダで1891年に発行されたデ・ナツール誌に掲載されたものだから、図版中のタイプライターが造られた頃からその時までに、さらに19年ほどの歳月が流れていることになる。
  山井さんのアニメコラムの絵を原画と較べるとすぐわかることだが、ショールズのタイプライターの胴箱部分が現代のワープロ画面に置き換えられている。原画はむろん静止画だからオペレータ婦人の手も動きはしないが、アニメコラムのほうでは、「HAPPY NEW YEAR 1900」というメッセージにくわえて、それらの文字を打ち込む両手の動きまでが動画化されている。なんとも洒落た発想というほかない。ショールズによってタイプライターが発明されてからもう135年ほどが経っているが、キーボードや人間の本質そのものは当時とほとんど変わっていない。実際に原画の下に添えられている年代とは多少異なるが、一時代昔のご婦人が、一世紀前の1900年から2000年の現代へと現代のワープロを使ってメッセージを送るという構図は、実に含蓄があって、ウーンと感心してしまうばかりである。
  この本の中に収録されている図版や記事の一部は、日本語版が刊行されて以来、さまざまな広告やイベント類の宣伝ポスターに転載あるいはデフォルメ利用されてきた。図版そのものはすべて百年以上昔のものだし、翻訳文の著作権は一応私にあるけれども、それらをどうこうしようというつもりもないので、夢とロマンにあふれるそれらの記事があちこちで部分的に抜粋利用されることは結構なことだと思っている。山井さんがその豊かな遊びごころと独創的なアニメ技術をもって、ほかの図柄などをもパロディ化してくださることがあれば、さぞかし面白いことだろう。
  シグマ版が刊行されてしばらくしてからのことだが、あるテレビ局がこの本に掲載されている珍発明品や珍アイディアを毎週一品ずつ再現し、それらを面白おかしく放映するという番組を企画した。その際、解説者として番組に登場してほしいという誘いもあったりしたが、当時はまだフリーランスの身ではなくいろいろと拘束もあったので、その話は辞退した。番組そのものは結構好評でしばらく続いていたようである。
  話のついでだから、最後に、問題の記事の冒頭部を以下にすこしだけ紹介しておこう。ワープロのご先祖様ともいうべき、初期のタイプライターの発明にまつわる話はなかなかに興味深い。

「タイプライターの発明」
  数々の技術の中でも、「書く」という技術の習得は、実生活と結びついているだけにきわめて切実な問題だった。多少とも教育を受けたいと願う者は、ある程度字をうまく書くことができなければならなかったが、手書きの技術をしっかりと身につけようと何年も修練を積んでも、多くの場合は満足できるほど上達しないで終わるのが実情だった。せっかく実りかけた恋も、その美貌からは想像だにつかぬ、寒気をさえ覚えるような筆跡のゆえに、むざむざご破算という泣くに泣かれぬ事態なども起こったりした。
  そこで、そのような人々を救済し、書くスピードを上げるために、一部の発明家たちは、手書きの方法にかえて機械的に文字を記す技術を開発しようとした。1865年、アメリカ人ショールズが世界初のタイプライターを製作したのに続き、1877年にはレミントンというアメリカ人技師が、きわめて高性能のタイプライターを発明した。しかし、一般にその実用性が認められるようになったのは1880年代も後半に入ってからで、その頃になってやっと、この機械は近視の人々や書痙(手首の酷使による腱鞘炎の一種)を患っている人々に役立つにすぎないという偏見が改められるようになった。そして、1890年代に入るとタイプライターは急速に普及しはじめ、公私両用に広く活用されるようになった。そんなわけだから、あらためて初期のタイプライターを振り返ってみるのもなかなかに面白いと思われる。
  1877年にレミントンが製作したタイプライターには44個のキーがついていて、それらのキーは、レミントンが最も便利だと考えた順番に配列された。その結果として、タイプライター類においては、Q W E R T Y U I O P の文字が一列に並ぶということになった。だた、惜しいことに、このタイプライターは大文字しか打てなかった。当時、パリでこのタイプライターのデモンストレーションをおこなったあるイギリス女性は、手書きの2倍の速度にあたる毎分90文字以上の印字速度を達成したという。性能はともかく、レミントン型やそれに類似した構造のタイプライターはかなり高価なものだったので、へリントン氏のように、新しい型のたイプライターを製作する人も現れた。ヘリントン型はレミントン型に較べて性能は劣るが、操作に慣れれば十分実用に耐えうるもので、しかも値段は格安であった。(以下省略)

 

「マセマティック放浪記」
2000年1月26日

金の延べ棒を掴んだ話

  かつては黄金の国として世界中に名を馳せた日本だが、最近ではその金もほとんど採れなくなった。いまでもなお金鉱を採掘中の金鉱山をもつ都道府県がいったい幾つくらいあるかご存知だろうか。新潟県の佐渡、静岡県の土肥、さらには東北各地や北海道など、かつての金の産地を思い浮かべる人も多かろうが、残念ながらそれらの地方で金が採れたのはもうずいぶんと昔の話である。
  意外に思われるかもしれないが、国内で現在も金を産出している鉱山があるのは鹿児島県だけである。なんと、いま国内で生産されている金は百パーセント鹿児島県産なのだ。金含有率の高い良質の金鉱の採れる菱刈金山をはじめとして、鹿児島県には現役の金鉱山がまだ数カ所も残っている。
  県内のいたるところに温泉が涌き出ていることからもわかるように、全域が火山地形の標本のような鹿児島県には、金銀などの稀少鉱物の採れる熱水鉱床が少なくない。火山地域特有のシラス土壌に覆われて土地がやせ、風水害も多く、米作に不向きだった薩摩藩の財政を支えたのは、密貿易と領内から産する金銀であったといわれている。ただ、幕府の直轄鉱山だった佐渡や土肥などの金山と違い、外様大名島津の領する薩摩の金山は、藩の存亡に深く関わることなどもあって、その情報が厳しく管理されていた。そのため、一般の人々にはそれらの存在すらほとんど知られていなかったのである。明治以降になってもそういった鉱山の存在を知る人がきわめて少なかったのは、多かれ少なかれそんな藩政時代の情報管理の影響があってのことだったのかもしれない。
  私が育った甑島と九州本土との間を結ぶフェリーの母港は串木野市にあるが、この串木野市街の北側山地にも三井系の鉱山会社が経営する金山があって、かつては良質の金鉱を相当量産出していた。いまも鉱山の一部では金鉱の採掘が行われているというが、近年採掘量は大幅に減少し、活況を呈した昔の金鉱山の面影はもうなくなってしまっているようだ。
  往時の繁栄こそ終わったが、この串木野金山の地底深くには、広範囲にわたって旧坑道が網の目のように延び広がり、その名残を留めている。そして、現在ではその一部が「ゴールドパーク串木野」という鉱山博物館を兼ねた見学施設となり、一般に公開もされている。串木野の市街を通りかかったとき、たまたま時間があったので、野次馬根性の赴くままに私はそのゴールドパークを訪ねてみることにした。古来、人の心を魅了し幻惑し続けてきたという黄金族の故郷を、話しのタネにちょっくら覗いてやろうという魂胆である。これから先も黄金一族と縁を結ぶことなど到底考えられないその日暮らしの身にとっては、まあそれなりによい機会ではあったのかもしれない。
  入場料を払ってパーク内に入るとすぐに、地下坑道の奥へと向かう数両編成のマインシャトル号というトロッコ列車に乗せられた。もちろん、以前、実際にこの構内で事業用に使用されていたものを見学者用に整備したものである。鉱山労働者たちがトロッコに揺られながら、岩のごつごつした暗い坑道を通って地底の作業現場へと向かう雰囲気を疑似体験してもらおうというわけなのだ。貸し切り状態のトロッコ列車は、轟々という音を坑道いっぱいに響かせながら、斜坑の奥にある地下のステーションに向かって1キロほどの距離を下っていった。
  地下ステーションでトロッコ列車を降りると、あとは案内標識にしたがって旧坑道内を徒歩で一巡りできるようになっていた。しばらく坑道を進むとまず大型の掘進機が置かれているところに出た。発破によって砕かれた鉱石を積み込みながら、それと同時に奥へと鉱石層を掘り進むというなんとも器用な掘削運搬機械で、ロッカーショベル車、グランビー鉱車、バッテリー電車の三つの特殊車両が結合してできている。一昔前の漫画などに登場する巨大ロボットをも連想させるどこかユーモラスなその動きに、しばし私は見惚れてしまった。また、掘進機からそう離れていないところには、百馬力の高圧モーターと鋼鉄ワイヤーによって大斜坑ぞいに人車や鉱石運搬車を巻き上げる巨大なウインチなどもあった。大斜坑とは、深い地下の坑内からさらに地底に向かう金鉱脈ぞいに、傾斜角35度、長さ250mにわたって掘られた大坑道で、採掘作業員を運ぶ22人乗りの人車やスキップと呼ばれる鉱石運搬車が、かつてはその坑道斜面伝いにいそがしく上下していたらしい。
  坑道をさらに奥に進んでいくと、天井や左右の石英質の壁面全体がまるで金の粒子を埋め込まれているかのようにきらきらと輝いているところに出た。これがみな金鉱石か……こりゃ凄いやと初めは思ったのだが、しばらくするうちにどうもおかしいと気がついた。それにしては黄金色の粒子がちょっと大きすぎるようだし、それら粒子の散在密度も高すぎる感じなのだ。どうやら一帯の坑道壁面に含まれるそれら無数の金色の粒子は、特殊な雲母系の鉱物であるらしかった。
  それで想い出したのだが、秩父山系あたりの源流地帯の沢奥に入ると、川床の砂が一面きらきらと黄金色に輝いているところがある。素人が見たら無数の砂金粒子が川砂に混ざっているように見えるしろものだから、空き缶に一、二杯ほど砂ごと持ち返って、「これは秩父のある山奥の秘密の場所で発見採取した砂金なんだよ」と真顔でからかうと、たいていはころっと騙されてしまう。一目見て贋物だと見破れる人は、相当に鉱物に詳しい人だけだ。最近も奥多摩一ノ瀬高原奥のとある沢からその贋砂金入りの砂を持ち返って素知らぬ顔で学生たちに見せ、いっぱい食わせたことがあったばかりだった。
  こともあろうに、私の立つ坑道の岩壁面できらきらと美しく輝いているのは、あの贋砂金の総元締めとでもいうべき鉱物群だったのだ。もともとは比重の軽い薄い白黄色半透明の鉱物だが、光の反射率の関係で金色に輝いて見えるのだ。このような岩石が長い時間をかけて風化し、やがて砂状になって川床や川岸に堆積すると、秩父や多摩の山奥の沢にあるような贋砂金床ができあがるというわけだ。
  本物の金鉱床サンプルは贋金鉱のあるところからさらに奥へと進んだところにあった。もちろん、その周辺だけ意図的に採掘し残しておいたものだ。一口に金鉱とはいってもいろいろな種類のものがあるらしいのだが、この串木野金山の場合、石英や方解石の白い岩盤のあちこちに黒っぽい筋が縞模様をなして走っているのが金鉱脈なのだという。意外なことに、ほんとうにこれが金鉱?……と問い返したくなるほどに地味な色をしている。黒っぽく見えるのは銀がかなり混入しているからなのだろう。懐中電灯の光で長く延びる黒っぽい葉脈部を照らし出してみると、たしかにごく小さな黄金色の点が無数にきらめいているのが識別できた。贋金鉱の粒子の何十分の一、何百分の一くらいしかない微粒子である。
  高品位の金鉱石でも1トンあたりせいぜい数グラム程度の金しか採れないというから、実際の金鉱脈とはまあそんなものに違いない。これらの金鉱脈の岩石が気の遠くなるような時間をかけて小さな砂粒にまで風化し、やがて比重の大きい金の微粒子が砂中の底部に沈んで互いに結合、大きめの粒子に成長したのがいわゆる天然砂金というわけなのだ。砂金砂金と気軽に言うが、そこにいたるまでには長いながい時間にわたる自然の精錬プロセスを経てきているわけである。
  さらに坑道を進むと、角張ったロボット車に鋭く巨大な鋼鉄製の角をはやしたような形の、モービルジャンボという自走式削岩機が現れた。巨大化したメカ昆虫のイメージをもつこのマシンの胴体は前部と後部の二つに分かれ、前後両部を繋ぐ中央部は細くくびれている。アリやハチなどの胴体を想像してもらえばよい。結合部にあるくびれのおかげでモービルジャンボは後部の位置を変えないまま、前部の向きだけを変えて角の先端を上下左右に振ることができるわけだ。もちろん岩壁に向かう角の先はラセン溝をもつ回転式削岩機になっていて、掘り開けた孔に爆薬を詰めて岩盤を爆破する。そのほか、お狭い坑内でも動きやすいように車幅を細くし、曲がった坑道にも柔軟に対応できるように工夫したロードホールダンプという鉱石運搬車の構造なども興味深かった。こういった特殊マシンを開発した技術者たちは、きっと昆虫や動物の動きからその構造のヒントをもらったのだろう。
  発破擬似体験ポイント、実物の金銀鉱脈層と掘削した金鉱がそのまま展示されている採掘切羽現場の紹介コーナー、その奥600メートルのところでは現在も金鉱採掘中という坑道口、さらには、サンダーホールという直径2.2メートル、深さ120メートルの縦坑の覗き口などを次々にめぐったあと、「黄金のピラミッド」なる展示物のそばに出た。明治39年から現在までに採掘された金は55トン、一本12.5kgのインゴット、いわゆる金の延べ棒に換算すると4400本分になるという。4400本分の模擬インゴットを造り、それをピラミッド状に積んで展示してあったのだが、人間とは勝手なもので、本物でないとわかってしまうと、どうも真剣になって眺める気がしない。ふーんという感じでその子供騙しみたいな黄金のピラミッドの前を通りすぎてしまった。
  トロッコ列車マインシャトル号の地下発着ステーションに戻るすこし手前には、地底イベントホールとかいうオープンスペースがあって、ツタンカーメン王の黄金のマスクの複製など、いくつかの歴史上有名な黄金遺物の複製品が展示されていた。一通り眺めたかぎりでは、まあそれなりによくできた複製だし、素材のほうも本物の金を相当量は用いてはあるらしいのだが、いくら黄金に関係があるからとはいっても、それらの複製物をこんな地底ホールで展示するのは少々場違いなようにも思われてならなかった。まあそれなりの事情もあってのことなのだろうから、部外者の私などがあれこれ言ってみても仕方のないことではあったのだったけれども……。
  地下の見学コースをめぐり終え、下車側とは反対側にある地下ステーションの乗り場に出ると、なんと、これ見よがしにキンキラキンに身を固めた仏様らしきものが鎮座しておわしますではないか。ガイドマップの解説によると、「黄金観音」様であらせられるのだそうで、その足元を取り巻く小さな池のなかにはおきまりのように大量のお賽銭が放り込まれている。全身これ黄金の化身みたいな観音様に、黄金の輝きとは無縁の低額硬貨などをいまさら差し上げてみたところでどれだけの御利益があるのだろう、どうせならユニセフ募金にでも回したほうがよほど御利益があるのではと、意地悪なことを思ったりもした。「ほんとうに困っている者は、お賽銭を献げるかわりに黄金の身体の一部を削り取って持ち去ってもよい、それが菩薩というこの身の慈悲というものです……」とかなんとか、オスカー・ワイルドの童話の主人公「幸福の王子」ばりの格好いいセリフを吐いてくれるなら話はわかるが、そんなことをしたら、金ぴか観音様のお肌の下の実体が知れて、はなはだ都合が悪いのかも知れない。
  再びマインシャトル号に乗り込んで地上ステーションに戻り、順路案内にしたがって進むと、金鉱山関係の歴史および技術資料などが展示されている小博物館風の建物に出た。串木野金山の地下坑道網を示す立体模型などもあったが、それを見てみると、かなり深く広いと思った見学コースが、浅い坑道部分に属するごく一部の領域であることがよくわかった。
  ここの展示物の中でとくに印象に残ったものが二つあったが、その一つは金をも溶かす王水という魔法の水だった。金や白金は塩酸にも熱濃硫酸にも硝酸にもおかされないが、濃硝酸と濃塩酸とを一定の割合で混合した王水と呼ばれる液体にだけは溶解する。遠い昔、化学の授業で教わってそんなものがあるらしいということだけは知っていた。だが、本物の金をわざわざ溶かす実験をやってみせてくれるような酔狂な化学の先生がそうそういるはずもないから、これまで金を溶かした王水の実物など見たこともなかった。
  昔は金鉱石から金を採取する作業には相当な苦労がともなったようで、かなり含有量が高く、含まれる金の粒子に一定以上の大きさがないと金の成分だけを分離するのは困難であったらしい。しかし、金を溶解することのできる王水が登場してからは、含有率が低く粒子もきわめて細かい金鉱石からでも金を分離採取することができるようになった。金鉱石を粉末状に粉砕してからいったん水に溶かして沈殿させる。そして金を多量に含む比重の重い底部の砂泥を取り出して王水に入れると金成分が、金塩化水素酸という特殊な錯イオンとなって溶け出だす。それに亜鉛を加えると、イオン化傾向の大きな亜鉛が亜鉛イオンとなって溶け出し、そのためイオン状態を保てなくなった金イオンが純度の高い金となって析出沈殿する。あとは、それを採取すればよい。
  金を溶解した王水が展示されていたが、なんと文字通りの「黄金色の水」で、高級なスコッチの琥珀色の輝きをもっと金色に近づけたような、どこか荘重で神秘的な色を帯びていた。その色が、王水そのものの色なのか、金を溶解したときに生じる各種イオンの色の混合色なのか、それとも実際に金イオンの色なのかは判らなかったが、なかなかに綺麗なものだった。たいていの金属イオンの場合には、もともとの金属の色とその金属がイオンとなって溶出したときの液体の色とは相当に違っているのが普通なので、もしもそれが金イオンがらみの色だとすれば、なんとも意外というしかない。ただ、金を溶解する前の王水中には塩化ニトロシル(NOCl)という黄赤色の気体が溶けた状態で存在しているらしいから、私が目にした美しい色の演出の主は、実はこの物質のほうだったのかもしれない。
  いま一つ私が興味を惹かれたのは、このゴールドパークの目玉とでもいうべき、金の延べ棒の展示コーナーだった。四方が厚く丈夫そうなガラス張りになっている展示台の上に、板付きカマボコをちょっと大きくしたような形の純金の延べ棒が一本だけ、平らな面を下にして置かれている。正面のガラスの下部には、ちょうど人間が片手を腕先くらいまで差し込むことのできる円い穴が開いていて、そこから手を突っ込んで中の金の延べ棒に触ったり、それを掴んだりできるようになっていた。あわよくばぐいと掴んでそばに引き寄せて……などとよからぬ期待をしながら、金の延べ棒初掴みに挑んでみたが、なんと、持ち上げようとしても相手はピクリともしてくれない。
  片腕を伸ばし、手の甲を上にしてのチャレンジだから、筋肉の状態とテコの原理からして力がはいりずらいということもあるけれど、それにしても重たい。懸命に力むと、かろうじて半回転ほど横に転がすことはできたが、その場合でも元の状態に戻すとき指先を延べ棒の平らな底部ではさまれないように注意しなければならなかった。頭を冷やして考えてみると、大きめの板カマボコほどの金の延べ棒は一本で12.5kgほどもある。数値を眺めただけではその重さはピンとこないが、水2リットル入りペットボトル6本分以上の重量があるのだから、簡単に持ち上がるわけがない。かくして我が一攫千金の夢は儚くも潰え去った。映画や漫画などには、強盗などが金の延べ棒を何十本も大きな鞄や袋に詰め、軽々と運び出す場面などがあるが、現実にはそんなことなど不可能である。なにせ10本で125kgもあるというのだから……。
  ゴールドパークをあとにしようとしているとき、あることを突然に思い出した。すっかり忘れていたが、かつて私は手のひらにのるくらいの小さな石英質の岩片をもっていた。小学生の頃、甑島のとある高台の畑に祖父について芋掘りに出かけ、その畑の片隅で陽光を浴びて白く輝くその岩のかけらを見つけた。よく見ると黒っぽい筋があちこちに走っていて、それらの筋の近辺にはキラキラと金色に輝く小さな粒々が無数に点在しているのが見えた。それが何なのかはよくわからなかったが、綺麗な岩片なので家に持ち返って長い間とっておいた。高校に通うため、島を離れて鹿児島市に出たときに家に置いてきてしまい、その家もその数年後には解体されてなくなったので、もうその岩片の行方はわからなくなってしまったが、いま思うと、どうもあれは金銀鉱のかけらだったらしいのだ。ゴールドパークの資料室に展示されていた石英質の金銀鉱と色艶ともにそっくりだったからである。
  考えてみると、甑島は海をはさんで本土と30キロほど離れてはいるが、串木野、芹ヶ野、菱刈といった金山のある地域とそう遠くない。そうだとすれば、地質学的にみてそれらの地域の地層と同質の地層が存在していてもおかしくない。あの岩片を拾った畑のあたりは、過疎化にともなう農業の衰退ですっかり荒地に変貌してしまっているが、場所だけははっきりと記憶に残っている。ちゃんと探せば、あの岩片の含まれていた地層が見つかるかもしれない。そうなれば一攫千金の夢が実現しないともかぎらない。こりゃ、下手なもの書きなんかやってるより、この際、山師にでも転身したほうが賢明かもしれないな……遠い少年の日の記憶を手繰る私の脳裏を一瞬そんな思いがよぎっていった。

 

「マセマティック放浪記」
2000年2月2日

吹上浜の夕景

  薩摩半島を西海岸沿いに南下する途中、吹上浜(ふきあげはま)に立ち寄って夕陽を眺めることにした。天の底までが青く澄み透った快晴の一日だったので、素晴らしい夕陽が見られるに違いないと思ったからである。車を降りて松林を抜けると、ほぼ南北に長大な弓形をなして延びる砂浜に出た。石英質の砂と珊瑚質の砂とが混じり合った白砂は、歩くたびにサクサクと心地よい響きをたてる。他に人影はまったくない。西方に遠く広がる夕凪の東シナ海は、とるに足らぬ一人の旅人のことなどまるで関心がないかのように、深い瞑想に沈んだままだった。
  こういう砂浜は裸足になって歩くにかぎると思い、すぐさま靴を脱ぎ捨て、あらためて砂上に足をおろしてみた。その途端に、土踏まずを通して、裸足で海辺や野辺を駆け巡っていた懐かしい少年の日の感覚が甦ってきた。北西方向の海上はるかなところには、夕陽に染まる細長い島影が見えた。幼少期に私が育った甑島である。少年の日々、私はその島に在って、遠く青霞む九州本土の山並みを憧れの眼差しで眺めていた。海の向こうの本土には、数限りない夢とロマンに彩られた未知の世界があって、未来の私を待っていてくれるはずであった。
  あの時から長い歳月が流れ去ったいま、私は、たまたま訪れた九州本土の吹上の浜辺から、自分の育った甑島の島影を夕陽のもとで眺めている。ノスタルジアだと言ってしまえばそれまでだが、おのれの過去の埋もれ眠る島影をこうしてはるかに望むのは、なんとも感慨深いものだった。赤味を増した太陽が水平線に沈むまでには、まだすこし時間がありそうだったので、私は、次第に赤紫色を深めていく遠い島影を右手に眺めながら、しばし渚を歩き回って時をやりすごすことにした。そんな私のすぐそばを、二羽の千鳥が静かに寄せ引きする波と戯れながら、ちょこちょこと急ぎ足で通り過ぎていった。ユーモラスな動きのなかにもどこか言葉には尽し難い哀愁を湛えた、なんとも不思議な鳥である。
  気温が下がり身体が急に冷えてきたせいだろう、突然、生理的信号を感じはじめた。むろん、近くにはそれらしき施設があろうはずもない。ただ、さいわいとでも言うか、広大な浜辺に立つのはこの身ひとりだけである。こうなったら原始的な処理法に頼るしかないと思った私は、どうせなら、子供の頃よくやったように、乾いた白砂の上に大きな字を描いてみようと思い立った。
  暴走族の落書き並に「本田成親只今参上!」などと記すには水分の量が足りそうにもなかったので、とりあえず姓の二文字だけを大きく描いてみることにした。砂浜を和紙がわりにして筆(?)をふるった結果、インスタント書道作品としてはまあまあの書を仕上げることができた。おかげで気分がすっきりした私は、砂の上にどっかりと腰をおろし、水平線へと急速に近づきはじめた太陽にじっと見入ることにした。
  久々に見る美しい夕陽だった。海面は輝くような朱色に染まり、西空は濃い茜色一色に覆われた。そして、右手に浮かぶ懐かしい島影は、その輪郭を焔で縁取りでもしたかのように赤々と燃え立っていた。大きく明るいオレンジ色の太陽が揺らめくような残光を発して水平線の彼方へと姿を隠すまで、私は、ブロンズの坐像かなにかのように、腕を組んでその場にすわったままだった。

  少年の日々逝き眠る島影を紅蓮に染めて東シナ海の燃ゆ

  還りなきひと日の生の戯れを茜と変えて陽は往きにけり

  夕闇の迫る砂上に坐してそんな歌などを詠み呟いたあと、松林を縫う砂地の細道を抜けて車に戻ったときには、あたりはすっかり暗くなっていた。
  再びハンドルを握って薩摩半島を南下していくうちに、たまたま「ゆーふる」という吹上町営の温泉保養施設のそばを通りかかった。「ゆーふる」ねえ……お湯がいっぱいとでもいう意味なのかなあ?……いまいちなんかよくわかんない名前だけどなあ……そんなことを考えながら、ちょっと立ち寄ってみると、施設内には旅の汗を流すのにもってこいの快適な温泉などもあった。絶好のタイミングでもあったから、一も二もなく私はそこで一風呂浴びることにした。
  温泉に入ってさっぱりしたまではよかったのだが、そのあとがいささか問題だった。「ゆーふる」で夕食をとるか、その周辺でちょとした食材を購入しておけばよかったのだが、そんなには空腹感を覚えていなかった。そこで、どこか先のほうにまだ開いている食堂かコンビニがあるだろうと軽く考え、薩摩半島南西端の笠沙町野間岬方面を目指して走り出したのだった。ところが、予想に反して、食堂や食材店などはどこも閉まっていて、コンビニらしきものもさっぱり見当たらない。この付近は夜九時も過ぎると人通りや車の通行がほとんどなくなるから、店を開けていても商売にならないのだろう。
  たまたまインスタント食品類もすっかり食べ尽していたところだったので、手元には煎餅が二、三枚残っているだけだった。さすがに飲み物の自動販売機だけは道路脇のあちこちに設置されていたので、缶コーヒーと缶紅茶だけは買い込むことができた。もちろん、一、二時間走って大きな市街地のあるところに出ればなんとでもなることはわかっていたが、それでは、わざわざ海岸沿いの夜道を伝ってここまでやってきた意味がない。断食や絶食にくらべればなんてことはない、よし、それなら今夜は煎餅三枚と飲み物だけでで我慢しようと腹を括った。
  笠沙町に入ってから野間岳の北側麓に点在する海沿いの小集落をいくつか通過し、野間岳の西北西に位置する野間池港に着いたときにはすでに午後十一時が近かった。野間池港は薩摩半島西端の野間岬の付け根に位置するかなり大きな漁港であるが、港近くの集落周辺には人影はほとんど見当たらなかった。ひとわたり夜の野間池港をめぐり終え、鎌の刃形に海中に延び出る野間岬の根元を横切って野間岳の南西側山麓に回ると、闇が一段と深まり、まるでそれを待っていたかのように天上の星々の輝きが増してきた。眼下には東支那海が黒々と横たわり、はるか遠くには漁り火が五つか六つ点々と浮かんで見えた。
  夜のためその姿を仰ぎ見ることはできなかったが、海抜591メートルの野間岳は綺麗な形の山である。半島南端に位置する海抜992メートルの開聞岳とともに、古来、薩摩半島の象徴的存在として舟人たちの航海の標にもなってきた。南方海上はるかな薩南諸島や琉球諸島方面から九州本土を目指した古の舟人たちは、二本の角のように左右に大きく間を開いて聳え立つ野間岳と開聞岳の秀麗な山影が見えてくると、これで無事に薩摩に着けると喜び、安堵の胸を撫でおろしたものだという。
  野間岳の南斜面が急角度で海中に落ち込んでいるあたりまで行くと、道路脇に小さな展望所が設けられているのが目にとまった。試しにと立ち寄ってみると、昼間ならかなり展望がききそうな場所である。都合のよいことに、車が一、二台ほどおける駐車場もあった。少々眠気を催してきたところでもあったので、とりあえずはそこに車を駐め、ひっそりと一夜を明かすことにした。とっておきの三枚の煎餅をたいらげ、缶紅茶と缶コーヒーを飲んでから、深夜の展望台に立って大きな深呼吸をしていると、かすかに潮の騒ぐ音が夜風に乗って途切れとぎれに響いてきた。
  なにげなく展望台の片隅に目をやると、石造りの記念碑らしいものが立っている。何だろうと思って懐中電灯で照らし出してみると、なんと、斎藤茂吉の歌碑であった。交通の便のきわめて悪かった時代に、茂吉はこんなところまではるばるやって来たものらしい。

  神つ代の笠狭の碕にわが足をひとたびとどめ心和ぎなむ

  その歌碑にはそんな一首が深々と彫り刻まれていた。この歌の「笠狭の碕」という地名がこの展望台のある付近のことを指すのか、それとも実際の薩摩半島の最西端、野間岬を指しているのかは、私にはよくわからなかった。ただ、現在でも最先端まで行くとなると、深い藪を切り分け、身体中に蜘蛛の巣の洗礼を受けながら進まねばならない野間岬に実際に茂吉が足を運んだとすれば、その旅心の深さはやはり人並みはずれたものであったと言わざるをえないだろう。
  茂吉の歌碑の立つこの展望台から、唐招提寺の開祖鑑真ゆかりの地として知られる坊津町秋目まではわずかしか離れていない。おそらく茂吉は坊津を訪ねたついでにこの野間岬方面へも足を伸ばしたのであろう。夜が明けたら、私もまた鑑真和上の足跡をたずねてその坊津へと向かうつもりだった。

「マセマティック放浪記」
2000年2月9日

昇天狸との遭遇

  明るい朝の陽射しに促されて深い眠りから目覚めてみると、眼下には青い海原がおのれの存在を誇示すかのごとくきらめき広がっていた。かつて遣唐使を乗せた船が往来していた時代から数知れぬ人命をのみこんできた海である。一見穏やかにはみえるけれども、この東シナ海は荒れると怖い。右手には鎌の刃形に曲がってのびでる野間岬が遠望された。付け根のところから突端まで四キロほどはあろうかと思われるこの岬は全体が切り立った海食崖で取り囲まれていて、海側から近づくことは容易でない。その瘠せ尾根状の背稜部には、灯台のほかに、大きな三枚羽の風車をもつ風力発電塔が二基建っていた。風力発電塔のほうは近年設けられたものなのだろう。
  以前に一度岬の先端にむかって稜線伝いに歩いたことがあるが、灯台に至るかなり手前から踏み跡もほとんどない細い藪道になり、次ぎから次ぎに現れる蜘蛛の巣を掻き分けながら前進した記憶がある。岬の中ほどに建つ灯台のところまではなんとか辿り着いたが、そこから先は鉈や鎌を使って深い藪を切り開き道をつけなければならない状況だったので、それ以上進むことを断念した。岬という地形はなんとも困ったしろもので、私みたいな僻地好みの旅人はすぐにその魔力にとりつかれ、地の果てる先には海しかないとわかっていても、どうしても一度は突端まで行ってみなければ気がすまない心境になってしまう。末端地形偏愛症候群とでも名づけるべきこの病的な心理状態はいったい何に起因するものなのだろう。

  展望所をあとにして坊津方面へと走りはじめてまもなく、前方の路上中央に黒っぽい動物の死体らしいものが転がっているのを発見した。最初は犬かなにかだろう思ったが、近づいてみるとその姿形や毛並みは犬のそれとはまるで違う。車を降りてつぶさに観察してみると、なんとそれは野生の大きな狸の死骸だった。体に触ってみるとまだ温かい。すこしまえに頭部を車に轢かれたらしく、即死の状態だった。狸なりに苦労してここまで大きく育ったのだろうに、車という傍若無人な新米怪獣に一撃されて瞬時に落命するなんて、さぞかし無念なことだったろう。通行する車もほとんどないこの地で車にはねられて死ぬなんて、よほど運が悪かったとしか言いようがない。
  黒くて丈夫そうな手足の爪を調べてみると、鋭く硬いその先端には土や何かの繊維らしいものがこびりついていた。まだかなり温もりの残る腹側の細く柔らかな体毛に較べ、背中側の毛は粗くてざらざらとしており、特有の弾力性をそなえていた。狸の毛は毛筆の穂先の素材に格好だとは聞いていたが、なるほどと頷けるものがある。そのまま道路の中央に放っておくのも可哀想だし、二重三重に車に轢かれたりしたら狸の霊だって浮かばれまい。せめて道路脇の草むらか林の中へと運んでやろうと思って、二本の後足をぐいと掴んで持ち上げると、ずしりとした重みが両手に伝わってきた。動かしはじめた途端にジューッという音をたてて体液が吹き出したことからしても、事故に遭遇してからまだ間もないことは明らかだった。
  俗謡にあるような象徴物がしかるべきところに見当たらないからこの狸は雌なのだろうかとか、昔の人は狸汁を食べたというがいったいこれをどうやって調理したのだろうかとか、妙なことをあれこれ考えながらも、その大狸の遺骸を林の脇まで運び終えた。そして、野の芝草をお花がわりに献げ、手を合わせて無事に土に還ることができるようにと祈ってやった。相手が生きた狸だったら、後日葉っぱで作った贋小判くらいは携えて狸の恩返し(?)にでもやってくるのを期待することもできたかもしれないが、昇天した狸が相手ではそれも無理というものだった。
  昨夜は暗かったので気がつかなかったが、しばらく走っているうちに、道路のあちこちに「不審な船や人物を見かけたらすぐに通報を」と記された看板が立っているのが目にとまった。そして、右手前方に坊津秋目浦の一角を形成する沖秋目島(枇榔島)の島影が大きく迫ってくる頃になって、そういえば、大規模な密輸組織の絡む大量の覚醒剤取引の現場としてマスメディアなどで大き報道されたのは、たしかこのあたりの沖合い海上のことだったなあとなにげなく考えた。過疎地域だから格好のターゲットポイントにされてもおかしくない。中国や東南アジア、朝鮮半島方面からの密入国者などはなかなか跡を絶たないようであるが、地形や海流の関係からしても、彼らを乗せた船がこの一帯に近づき接岸を試みたりするだろうことは十分に予想される。
  そこまで考えたとき、待てよと急にあることに思い当たった。今朝方目覚めたとき、私の車がある展望所から四、五十メートル離れた路肩に中年の男が乗った地元の車らしい乗用車が一台駐まっていた。よくよく思い返してみると、車中の男はさりげなくこひらの様子を窺っている感じだった。休憩でもしているのかなと思った程度で、こちらは何の気にもかけていなかったのだが、私の車が動き出すのと前後してその車も動きはじめ、反対方向へと走り去っていった。もうおわかりだろうが、この時に至ってようやく、私は、もしかしたら、挙動不審者として監視されていたのかもしれないと気づいたのである。
  考えてみれば、多摩ナンバーをつけたワゴン車が季節はずれの深夜にこんな辺鄙な場所にやってきて夜を明かしているなんて、地元の人々の感覚からすればなんとも不自然なことに違いない。たとえ観光のために東京からやってき車だとしても、普通はどこかに宿をとって泊まるのが自然である。しかも、昨夜眠りにつく前の自分の行動を思い起こしてみると、懐中電灯を振り回して周辺を照らし出したり、海に向かって光を送ってみたりもしていた。あまり見かけないナンバーの車に乗った得体の知れない人物が何か怪しげな行動をしている、と誤解されても仕方のない状況だったのだ。もしそうだとすれば、車のナンバーをチェックしたうえ、あとで身元の確認をするくらいのことはなされたかも知れない。
  街中か僻地かを問わず、変な時間に変なところに現れて車中泊したり周辺を散策したりする悪い癖がもとで、警察官に免許証の提示を求められたり職務質問を受けたりしたのは一度や二度のことではない。そんなとき、「なぜこんな時間にこんなところにいるのですか?」などと訊問されると、説明に困ってしまうことが少なくない。未知の場所を訪ねてみたいという衝動に駆られ、必然的な理由などまるでないままに旅することが多いから、相手を納得させることが難しいのだ。人間というものはどうしても自分の内的規範にそって思考し行動するものだから、警察官のそんな対応そのものを責めるわけにはいかない。面倒だからたいていは「旅の取材です」と答えることにしているが、時と場合によっては、訊問にやってきた警官と私の間で禅問答顔負けの珍問答が繰り広げられることにもなる。
  もちろん、そんな時でも極力鄭重に応対することにはしている。だが、若者ならともかく、それなりの歳の人間がオートキャンプ場でもないところで車中泊などをしていると、どうしても気になるものらしい。そのような場合、免許証の提示を求められれば提示義務があるから当然それに応じるが、たまには、こちらの了解もなく警察用携帯無線で免許証番号を手掛かりにしてこちらの身元の詳細を確認されそうになることがある。多分そんな情報検索システムがあるのだろう。
  こちらには別段やましいことなどないのだが、不法行為をしているわけでもないのにそこまで調べられるのは不愉快だし、越権行為でもあると考えられるから、そんなときは毅然として抗議し、すぐに免許証を返してもらうことにしている。また、後日のために相手の名前と所属署、所属部門を逆に質問することもしている。私の逆の問いかけに何も答えず、途中で訊問をやめてそそくさと立ち去って行った警察官なども少なくはない。なかには、そんな必要はないと開き直った警察官もあった。
  もちろん、そんな場合でも、私の車のナンバーくらいはチェックされているに違いない。どうせあとになって所有者の確認などがなされているのだろうから、不審車のナンバー照会回数がカウントされるシステムになっているようだったら、間違いなく私などは照会回数過多人物(?)のリストに含まれていることだろう。もっとも、なかにはこちらの状況を即座に理解し、懇切に付近の旅の情報などを教えてくれる人情味豊かな警察官もあったりするから、一概に云々するわけにはいかないことだけは確かである。
  不審船に注意を促す立看板がきっかけで、そんなことをあれこれと考えながら走るうちに車はやがて坊津町秋目の集落に差しかかった。天平年間の冬のある日、想像を絶する苦難の末に唐の高僧鑑真が蘇州黄泗浦から東シナ海を越えてはるばる来邦、その第一歩を印した地点である。秋目の集落をすこし過ぎたところにある鑑真記念館の小広い駐車場で車から降りた私は、青潮を満々と湛えて輝き静まる眼下の入江にしばし憑かれたように見入っていた。

「マセマティック放浪記」
2000年2月16日

坊 津

  いまは往時の繁栄など信じられないくらいに静かな地方漁港に変わっているが、かつて薩摩の坊津は、筑前博多津、伊勢安濃津とともに日本三津と並び称されるほどに栄えた港であった。飛鳥時代から奈良時代にかけて、中国大陸を西方はるかに睨む坊津は、東シナ海を介しての中国各地や琉球諸島との交易の表玄関になっていたからである。時代が移って一時期の隆盛が終わったあとも、坊津一帯は倭寇の基地となり、またずっとのちの江戸時代にあっては、薩摩藩の密貿易の中継地および補給基地にもなっていた。坊津が良港とされたのは、中国大陸に直接面する地理的位置や琉球諸島沖で黒潮本流から分岐して北上する対馬海流がその沖合いを流れていたことなどのほかに、坊津のそなえもつ特殊な地形的構造があったからである。
  一口に坊津というが、北側から順に、秋目浦、久志浦、泊浦、坊浦と、それぞれ複雑な形をした四つの入江がほぼ西に向かって並んでおり、それら全体を含めたものがいわゆる坊津なのである。極端な比喩を用いると、五本の指を広げたような地形の四つの指間に相当する部分がそれぞれ入江になっているようなものなのだ。しかも各々の入江の奥には船の停泊に適した二重、三重の小さな入江が形成されていて、外海の風浪から停泊船がしっかりと守られる地形になっている。満足な海図や羅針盤などない時代の、しかも現代の船に較べて極端に航行能力の劣る風まかせ浪まかせの木造小型船にとって、四つの浦のどれかに辿り着きさえすれば安全が保証される坊津は願ってもない良港であった。なかでも激しい風浪に翻弄され難破寸前になっている船などの漂着地としては、これほどに条件のよい場所はなかったことであろう。
  坊津の中心地は四つの浦のなかでは小さめの泊浦や坊浦周辺にあるが、形状的には一番北側にある秋目浦がもっとも大きい。その秋目浦を形づくる大きな入江の奥まったところ にさらに小さな入江があって、いまではちょっとした船溜まりになっている。天平勝宝五年(753年)12月20日、現在の暦でいえば1月の中旬も終わりの頃、唐の高僧鑑真を乗せた一隻の遣唐使船が半ば漂着するようにして入港したのは、当時、薩摩国阿多郡秋妻屋浦と呼ばれた、現在の坊津町秋目のこの小さな船溜まりであった。そして、いま私が秋目浦一帯を眺めおろしている鑑真記念館前の駐車場は、鑑真一行が着岸した地点のすぐ上に位置していた。
  記念館の右脇には「鑒真大和上○滄海遥来之地」(○部は「サンズイ」の右に「麦」をつけた特殊な字で、字源で調べてもみつからないが、「凌」という字と似たような意味をもつと推測される)という十二文字の彫り刻まれた大きな花崗岩の記念碑が建っていた。その文意は、たぶん、「鑑真大和上が大海を辛うじて乗り切り、はるばる到来した地点」というようなことなのだろう。   
  しばらくその記念碑を眺めたあとで、唐招提寺をイメージしたものらしい近代的なコンクリート造りの記念館にはいってみた。建立されてまだ間もないと思われる館内には、鑑真の生涯の足跡を伝える解説資料が年代順に展示されているほか、鑑真が来日するまでの経緯をビジュアルに伝えるジオラマや当時の遣唐使船の復原模型、付近の海中から引き上げられたという錨石などが並べられていた。
  ちなみに述べておくと、錨石とは、現代の錨の先に似た木製の掛かりと組み合わせ、重りとして用いた大石のことである。鉄鉱石から大量に鉄を生産する技術のなかった当時は、砂鉄を原料にした鉄は入手困難な貴重品で、船舶用に鉄の錨をつくるなど考えられないことだった。たまたま館内には来客がなかったこともあって、短い時間ではあったが、記念館を管理しておられる野口寿子さんから展示資料についていろいろと補足説明を拝聴することもできた。
  645年に大化の改新が行われ、701年に唐の律令制度を手本とする大宝律令が発布されるに至ると、急速に我が国の国家体制は整い、唐の都長安を模範にした新都平城京の造営に一段とが拍車がかかることになった。時の為政者たちが仏教に基づく治国を理想としたこともあって、ほどなく仏教は律令国家体制の維持に不可欠のものとなり、時代の流れに乗って空前絶後の発展を遂げていくことになる。
  平城京のあちこちに大小の伽藍が建立され、東大寺大仏の造立も進んで、表面的には仏教の興隆がゆるぎなきものになったように見えはじめたものの、当時の我が国の仏教体系には一つだけ大きな難点があった。正規の仏教の厳格な戒律にのっとり授戒を行うことができる高僧が一人も存在していなかったのである。わかりやすく言えば、新たに仏僧になろうと志し修行を積む者に、仏僧として欠かせない学識や守るべき規律作法を正しく伝授し、最終的にその者を僧侶として認め任じることができるだけの資格をもつ高僧がいなかったのである。
  そのため、我が国では自誓受戒による出家、すなわち、自分で誓願して仏僧になる方法がとられていたが、当然の結果として、本来なら僧侶になるだけの学識も人徳も資格もないものが勝手に僧侶となり、巷に横行するという有様であった。僧侶という身分が様々な課役逃れに利用されるようになったこともあって、朝廷は再三再四取締りを強化しようとしたようである。しかし、中国に渡り正規の授戒を受けて帰国、僧侶になった者はきわめて少なく、高位の僧を含め自誓受戒による出家をした者がほとんどの状況では、取締りに実効性を求めるのは無理であった。
 「仏造って魂入れず」の諺を国家レベルで実践しているような異常事態を収拾するためには、唐から授戒の師としてふさわしい高僧を迎え、国内における正しい授戒の励行と戒律知識の普及を早急に行うことが必要であった。そのようなわけで、天平五年(七三三年)の遣唐使船には、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)という二十代はじめの二人の青年僧が特別に乗り込むことになった。もちろん、入唐後の彼らの任務は、伝戒の師として仰げる高徳の僧を探し出し、朝廷にかわって日本への渡航を懇願することであった。
  記録によると、唐に入った栄叡と普照は九年もの歳月をかけて師となるべき人物を求め東奔西走したらしい。経費とてばかにならないことだろうに、そのために九年もの年月をかけることが許されたということ自体、唯もう驚きだと言うほかない。現代の尺度では計り知れない時間感覚や価値観の存在が偲ばれてなんとも興味深い。派遣されたのが二十歳そこそこの青年僧であったというのも、艱難に耐えうる基礎体力や異国の環境に対する適応能力を考慮したうえでのことだったのだろう。安全マークで埋め尽くされた経路を伝って世界を旅する今日の我々とは大違いなのだ。現代においては、たとえどんなに知徳に長けていたとしても、二十歳そこそこの青年が国家の最高機関の特命を帯び、当代一、二の学識者を探しに他国に出向くなどということはとても考えられないことである。
  入唐後九年が過ぎた天平十四年(七四二年)の十月、揚子江の下流域に位置する唐の大都市の一つ揚州において、彼らはついに理想の師となるべき人物を探し当てた。それこそが唐の大徳として世に名高い高僧の鑑真であった。いくらなんでも、ある日突然に鑑真の前に現れ、いきなり日本に渡来してほしいと願い出たとは思われないから、鑑真の門下に入って修行を積むかたわらあれこれと根回しを行い、渡航の依頼を懇願をする機会を窺っていたのであろう。現代風に言えば、これは国家レベルの極秘ヘッドハンティングだから、日本からの遣唐使たちをも交えた相当に周到なハンティング作戦が練られていたに相違ない。

 「唐鑑真過海大師東征伝」などに残されされている彼らの嘆願の言を現代会話体になおすと、栄叡らはどうやら次ぎのような弁舌をもって鑑真を口説いたらしい。
 「仏教の教えは遠の昔に日本に伝わってまいりましたが、その教えが好き勝手に解釈されて国中に広まるだけで、仏教本来の教えを正しく伝えることのできる人物が我が国には一人もいない有様です。昔、聖徳太子は、いまから二百年後に仏教は我が国で興隆をみるであろうと予言なさったのでありますが、いよいよその時が到来したようでございます。どうかお願いでございますから、この際ぜひとも我が国にお渡りくださり、真の仏教を説いてその一大興隆をはかるとともに、跡を継ぐべきすぐれた仏僧の育成と指導にお力をお貸しいただけませんでしょうか。ぜひとも私どもの心の師となってくださいませ!」
  状況的にみて、どうにもできすぎた話だから、とてもそのまま信じるわけにはいかないが、渡唐の真意を懸命に訴えかける彼らの言葉を聞いていた鑑真は、
 「伝え聞いているところによりますと、私たちの宗派天台宗の祖師であられる南岳恵思禅師は、お亡くなりになられたあと、日本の王子に生まれ変わって仏法を興隆し、衆生を救われたとのことです。また、日本の長屋王は、千着もの袈裟をつくって私たちに贈ってくださったのですが、それらの袈裟の一端には、山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁、という四句が刺繍されてもありました。私は、日本こそは真に仏教の興隆を願っている国だと思います。いま私の話を聴いていてくれるあなたがたのなかで、誰か日本に渡って真の仏法を伝えてくれるような人はありませんか」と並みいる弟子たちに問いかけたのだという。
  漢文の先生などにはいい加減なことを書くなと叱られそうだが、山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁、の四句を私なりに創意訳してみると、およそ次ぎのようなことになると思われる。

  たとえ山川の景観の異なる別々の世界であろうとも、それぞれの地を吹き渡る風や、それぞれの世界を照らす月影は、同じ天をめぐる共通の存在ではないか。仏の道を信じる者は、国やその立場を超えて一堂に会し、心を一つにして協力し合い、お互い同じこの世に生まれた縁を大切にしながら、共に手を結んで未来に向かって歩もうではないか。

 もしも鑑真が語ったというこの話が事実だったとすれば、当時の日本人の国際感覚はどうしてなかなかのものである。もちろん、その頃の日本は後進国だったから、大陸文化に対する強い憧れが形を変えてあらわれただけのことかもしれないが、車座を組んで外に尻を向けて坐り、お互いの顔の見える輪の内側だけで話を進めるのが得意な現代の我々には、いささか学ぶべきところがなくもないようだ。
  鑑真の問いかけに並みいる僧は皆黙り込んだままだったというが、ついに、祥彦という一人の修行僧が進み出て言った。
 「日本は大変に遠いため、生きてその地に行き着くのは至難の業だと聞いております。果てしない大海原を渡らなければならないため、百人に一人さえも無事にその地に到着するのが難しいと申すではありませんか。ひとたび落命すれば、人として再びこの世に生を得ることは難しく、ましてや、この中国に生まれることなどもはや望むべくもないことでしょう。しかも、私どもはまだ修行中の身なのですから、ここにいる誰もがいまの師のお言葉に即応することができないのでございます」
  すると、鑑真はその言葉を待っていたかのように、弟子の一同に向かって毅然としてこう言い放ったらしい。
 「これはひとえに仏法を伝えるためなのです。お経のなかの教えにもあることですが、仏法を広めるには、自らの身命を惜しんではなりません。誰も私のかわりに行かないというのなら、私自身が行くことにしましょう」
  こうして、唐においても並ぶ者がないといわれた戒律の大徳、鑑真の日本渡航が実現に向かって動き出したのだった。
  実際の招聘にあたっては、こんな表向きの美談とは違って、当の鑑真を含めた周到な裏工作や秘密の渡航準備がなされたに違いない。この時代、唐の玄宗皇帝は高僧の国外流出を極力抑えようとして、厳しい規制を敷いていた。当時の高僧といえば学芸百般に通じた学者、たとえて言えば学際研究をもこなす現代のノーベル賞クラスの最先端研究者にも相当している。しかも高僧は行政上のバックボーンとしても不可欠の存在であったから、当然、出国は容易でなかった。鑑真クラスの頭脳流出は、繁栄の絶頂にあった大国の唐にとっても国家的損失だったとのである。
  日本への渡航を密かに決意したものの、そんな鑑真を待ちうけていた苦難の数々は想像を絶するものであったようだ。しかし、鑑真は、失明しながらもそれらの艱難を克服し、ついに大和入国を実現した。その驚くべき意志力と不屈の執念は、やはり超人的なものだと思わざるをえない。

「マセマティック放浪記」
2000年2月23日

鑑 真

  六八八年(持統二年)唐の揚州江陽県にまれた鑑真は十四歳で出家し、揚州大雲寺の智満禅師のもとで修行に励むようになった。そこでの研鑽は日々に目覚しく、十八歳のときには道岸禅師より早くも菩薩戒を受戒する。菩薩戒は大乗戒とも呼ばれ、仏道における究極の悟りを理想に修行に勤しむ者が遵守すべき戒律のことである。具体的には、不殺、不盗、不淫、不妄語、不?酒(酒を売買してはならない)、不説過罪(誤った思想や罪事を説いてはならない)、不自讃毀他(自らを讃美したり他人を傷つけたりしてはならない)、不慳(物惜しみをしてはならない)、不瞋(怒りをあらわにしてはならない)、不謗(人を誹謗してはならない)……といったような戒律からなっている。
  二十歳になった鑑真は、さらなる教えを請うために、高僧の住む洛陽、長安の都目指して旅立った。そして、二十一歳の若さで長安の実際寺に登壇、弘景律師より剃髪の比丘(びく)に欠かせぬ戒めを学び、その厳守を誓う具足戒の儀をうけた。具足戒とは、悪を防ぎ非を制するために比丘や比丘尼が身にそなえるべき戒律のことで、比丘に二百五十戒、比丘尼には三百四十八戒とも五百戒ともいう規律が定められていたというが、比丘尼の守るべき戒律の数のほうがずっと多いので、現代なら男女差別だという厳しい批判の声が起こっても不思議ではない。
  鑑真は二十六歳ではやくも講座に上り律疏(諸戒律の意義を註釈解説する講義)を講じたというから、やはり類稀なる俊英であったのだろう。四十代も半ばにさしかかる頃には、戒律の大師、すなわち、仏教の戒律を説き伝えることができる高徳の僧としてその名は唐の国中に聞こえ、「准南江左に浄持戒律の者、鑑真独り秀でて倫なし」と伝えられるように、 揚子江中下流域や揚子江以南の地においては、他に並ぶ者なき存在になっていた。
  唐にとってもかけがえのないこれほどに傑出した人物を、玄宗皇帝による渡航禁止の布告を犯してまで日本に招聘しようというのだから、誘うほうもその誘いに乗るほうも尋常の覚悟ですむはずがない。大和朝廷から派遣されたスカウトマン僧の栄叡や普照らの嘆願を受け日本渡航を決意した鑑真だが、渡航を現実に決行するとなると、当然密出国のかたちをとらざるを得なくなった。
  栄叡や普照らが揚州大明寺において日本渡航を要請した翌年の七四三年、五十六歳になっていた鑑真は、いよいよ第一回目の日本渡航計画を練りそれを実行に移そうとした。ところが、この計画は如海という弟子の密告によって役人の知るところとなり、失敗に終わってしまった。それにもめげず、同年の十二月、真冬の東シナ海の荒波をついて第二回目の渡航が決行されるが、狼溝浦というところであえなく遭難、渡航はまたもや失敗に終わってしまう。
  その後も鑑真らは再三不運に見舞われた。一年後の七四四年には、第三次の日本渡航計画が慎重に練られるも、再びその密議が発覚、栄叡が捕まえられてしまって計画は頓挫した。それでも懲りない鑑真は、同年の冬には天台山巡礼を表向きに揚州から南下、そのまま東シナ海沿いにある渡航船の待機地に回って出国を図ろうとした。ところが、黄巌県禅林寺に入ったところで警戒中の唐の役人に身柄を拘束され、結局、鑑真は揚州へと厳重に護送される事態となって、第四次の渡航計画も失敗に終わった。
  普通なら四度も計画が挫折すると渡航の気力を根底からそがれてしまい、以後さらに二度のもの出国を企てるなどとても考えられない。しかし、敢えてそれをやってのけた鑑真という人物は、仏教の根本理念の一つである「大勇猛心」の塊のような存在であったのだろう。身命を惜しまず、大慈悲の教えにしたがって衆生のために尽力し、いかなる危険を冒しても仏教の教義の普及に努めるという大義が、鑑真の心を確固として支えていたに違いない。
  また、その人徳の深さと精神の崇高さのゆえに、官民富貧を問わず鑑真に帰依する者が跡を絶たず、たとえ官命に背いたとはいっても、彼をとことん断罪することは不可能であったのかもしれない。それが大義に反するものであれば、衆生に先んじて時にその法をもおかす勇気をもつことは、真の宗教者の重要な資質であるとも思われる。むろん、その前提として類稀なる人徳と洞察力とが必要なのではあるけれども……。
  宗教者としてばかりでなく、政治や経済面においても相当な力をそなえもっていたと思われる鑑真は、毎回の渡航を企てるに先だって、日本へと持ち込むために、貴重な経典や書物類、法具等をはじめとする大量の文物を収集した。密航計画が発覚したり出航後に遭難したりするごとに、それらは散逸あるいは流失してしまったが、それでも彼は挫けなかった。もちろん、多大の時間と費用を要するそれら文物の収集は、文字通りの独力では不可能なことだから、おそらく唐の国内にも鑑真の渡航の決意を理解しそれを密かに支援する官民の文人や経済人が相当数あったのであろう。
  それから四年、表向きは静けさを保っていたものの、懲りない仏徒の面々はなおも秘密裏に日本渡航を画策していた。七四八年の春、栄叡と普照は同安郡より揚州崇福寺にいた鑑真のもとを訪ね、五度目の渡航決行を要請する。同年の六月に揚州を発った鑑真一行は水路伝いに狼山、三塔山を経由して九月に暑風山に到着した。そして、そこで天候待ちをしながら最後の準備を整えたあと、十月十六日に奄美、阿児奈波(沖縄)方面に向かって出航した。
  それにしても、天運というものは時にはなんとも過酷なものである。鑑真の乗った船は東シナ海で激しい季節風に見舞われて帆や舵を破損、航行能力を失って二千キロ近くも南方へと漂流することになった。季節風が原因とされてはいるが、時期的にみて、いまでいう台風と遭遇したのかもしれない。航行不能に陥ったその船は、当時、「瑠求(りゅうきゅう)」と呼ばれていた現在の台湾を通り過ぎ、魏志倭人伝の中にも倭国の風俗と類似するとしてその名が登場する「?耳(たんじ)」、「朱崖(しゅがい)」の地、すなわち、現在の海南島へと流れ着いた。海南島はベトナムの東側にあってトンキン湾の一角を形成する島だから、日本とは百八十度方向が違うところに到達したことになる。漂着したのが十一月だというから、一ヶ月近く海上をさまよった末に、奇跡的に助かったのであろう。
  第五回目の日本渡航も失敗に終わり、揚州から二千キロほども離れた南の僻地、海南島に漂着した時点で、通常の人間なら命運尽きたとすべてを諦めてしまったに違いない。しかし、大勇猛心の化身のごとき鑑真は、苦難の船旅の疲れを癒す暇さえも惜しんで再び立ち上がる。天性の自然体とでもいうのであろうか、彼は、次々に降りかかる困難な境遇を逆手にとり、いつのまにかそれらを新たな創造の源泉へと変えてしまうのだった。その超人的な意志力と着想の豊かさ、環境適応力の高さには唯々敬服するほかない。
  唐の国内は言うに及ばず、近隣諸国にまで高徳の師としてその名を知られた鑑真には、各地に散らばった多数の弟子や帰依者からなる太く大きな人脈があった。その人脈と自らの知名度を頼りに、仏の教えを説き広めながら陸路を伝戒の大徳としての役目を果たしながら陸路を徐々に北上、揚州へと帰還することを考えた彼は、まず海南島の振州で馮崇債に会ったあと、同地の大雲寺を修築する。続いて万安州に馮若芳を訪ね、そのあと崖州に入ると、その地に崖州開元寺を造立した。崖州での勤行を果たすと、一行は広州へと向かうことになったのだが、その途中の端州で髄行の栄叡は再び日本の地を踏むことなく他界した。
  栄叡の死去はさしもの鑑真にとってもたいへんな衝撃であったようであるが、年が明けた七五〇年、六十三歳になった彼は、愛弟子を失った悲しみをこらえつつも、残った普照らに随行されて広州から韶州へと向かった。そして、途中で人々に法話を説いたり寺院の造立修復に協力したりしながら韶州に入り、そこからもう一度揚州へと戻って行った。普照のほうはいったん韶州で鑑真と別れ、東シナ海に面する明州の阿育王寺へと向かった。入唐後に海岸線を南下して明州を訪れる予定になっている遣唐使一行との接触をはかるためでもあったのだろう。
  再度の遭難と命を削るような漂流、さらには二千キロにもわたる伝教の長旅と、次々と身に降りかかる過酷な試練に耐えるうち、強靭でなるさしもの鑑真の身体にも避けがたい異変が生じていた。激しい潮風と強烈な太陽のもとでの過酷な漂流が原因だとも、白内障が急激に進行した結果だとも言われていて、ほんとうのところはよくわからないが、急速に視力を失った彼は、この年ついに失明してしまう。たとえ日本への渡航に成功し、ついには奈良の都に至りえたとしても、その絢爛の極みを目にすることなどは望むべくもなくなってしまったのだった。盲目の身で大海を渡り、そこからさらに遠い旅路を経て大和入りするなどもはや不可能と考える者も多かったかもしれない。しかし、鑑真も、そして残された普照もまだ日本渡航を諦めてはいなかったのだ。

「マセマティック放浪記」
2000年3月1日

遣唐使船とその航路

  鑑真らによる第六次日本渡航計画決行の話に移るまえに、当時の遣唐使船の諸状況について少しばかり触れておこう。
  六三〇年に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を正使とする第一回の遣唐使団が入唐して以来、記録に残っているだけでも、中止になったもの三回を含めて合計十八回の遣唐使団派遣が計画されたことがわかっている。その間、文物から各種制度にいたるまで様々な大陸文化が日本へと導入されたが、菅原道実を正使とする八九四年の派遣計画が中止になったのを最後に、二百六十年余にも及ぶ遣唐使船渡航の歴史は終わりを告げた。
  最盛時には五百人から六百人もの派遣使節団員が四隻の船に分乗して唐に渡っていたといわれるが、黄海や魔の東シナ海は容赦なく多くの人命を呑み込んだ。新羅との関係がよかった初期の頃には、難波を出た四隻編成の遣唐使船団は瀬戸内海を通って博多津に至り、そのあと壱岐対馬付近を抜けて朝鮮半島南岸の沖合いへと進み、同半島の西南端を回って西岸に出た。そして、そこから朝鮮半島西海岸沿いに北上、途中で新羅の唐恩津に寄港したりしながら遼東半島南岸に至り、同半島沿岸を西進して山東半島北岸の登州に達するという航路がとられた。また、帰路のほうは、山東半島南岸沿いに東進し、黄海北部に出たあと北西の季節風に乗って朝鮮半島西岸に近づき西南端まで南下、東に航路を変えて同半島南岸沿いに進み、壱岐対馬付近を経て博多津に入るというルートが中心であった。
  北路と呼ばれるこのルートは陸地沿いのため比較的安全で、いざというときには最寄の港に緊急避難することもできたから、遭難はつきものだったにしても、遣唐使一行のうちのかなりの数の者はなんとか唐との往復を成し遂げ、文化の掛け橋としての役割を果たすことができた。ところが、新羅との対立が生じ、両国の関係が悪化したのにともない、安全性の高い北路をとることができなくなったために、以後、遣唐使船は東シナ海を直接横断する南路あるいは南島路を選ばざるをえなくなった。しかし、航行能力の十分でない当時の小型木造帆船でこの東シナ海ルートを無事に航行するのは至難の業で、必然的に遭難が続発し、多くの人命が失われるようになった。
  博多津を出たあと五島列島西岸沖合いに向かい、そこからいっきに西進して東シナ海を横断、揚子江下流域を目指すか、その逆コースをとるかしたのが南路と呼ばれる航路である。地図を見ればわかるように、この航路をとった場合には、五島列島沖を離れると、揚子江下流域に着くまで中継地や避難所となるような島がまったく存在しない。当時の船の能力では、どんなに天候に恵まれ順風に乗ったとしても中国に着くまでに数日は要したはずである。実際には、東シナ海の地理的条件に因する気象状況からして、数日間も好天が続くということは稀だったろうから、航海の途中どこかで荒天に遭遇するのは避けられなかったことだろう。いったん嵐に遭うと、構造の脆い木造和船はたちまち破損してしまい、浸水転覆したりし、そうでなくても航行不能の状態に陥ることが多かった。
  また、かりに好天が続いたにしても、当時の和船の原始的な帆の構造や操帆技術からすると、無風に近い場合や逆風の場合などにはまるで帆が役に立たなかったに違いない。そんな場合、一時的には備え付けの艪(ろ)を用いて進むこともできたろうが、だからといって艪だけを頼りに大海を横断することなどは土台無理な話であった。風が強すぎても困るし風が弱すぎても困るというこの厄介なジレンマを抱えながら東シナ海の横断を企てることは、文字通り身命を賭した一生一代の博打であったと言えるだろう。
  季節風と海流の関係もあって、唐から日本への帰還航路になることの多かった南島路をとった場合、遣唐使船は揚子江河口に近い蘇州、あるいはそのすこし南方に位置する杭州から出航し、最短でも数日かかる奄美諸島付近を目指して航行した。ただ、現実には風まかせの航行に頼らせざるをえなかったから、北西の季節風が強いときなどには南に流され、難破寸前の状態で、阿児奈波、すなわち、現在の沖縄諸島へと漂着することも少なくなかった。奄美や沖縄諸島のどこかへ漂着した船はまだよいほうで、太平洋へと流された船は黒潮に乗って洋上を北東方向へと運ばれ、そのまま行方不明になってしまうことが多かった。天運に恵まれた場合には、太平洋を数百キロも流され紀伊半島の南部あたりに辿り着くこともあったようだが、いずれにしろ命懸けの航海には変わりなかった。
  いったん奄美や阿児奈波に着いた遣唐使船はそこで修復や補給作業を行い、そのあと風待ちをしながら、対馬海流に乗って沖縄諸島、奄美諸島、薩南諸島と飛び石状に続く島伝いに北上、薩摩半島西南端に近い坊津へと入港した。したがって、坊津は唐や琉球諸島方面から到来ないしは帰還する内外の船の玄関口になっていた。坊津からは九州西岸沿いに現在の長崎県西海地方に向かって進み、そこから玄海灘を通って博多津へと至っていたのである。
  記録によると、二、四、九、十、十四、十六次の遣唐使船が大遭難事故に遭遇し、それ以外の場合においても、一部の船が遭難したり乗員が多数疫病で倒れたりして、四船編成の遣唐使船団と団員のすべてが無事に任務をまっとうすることはほとんどなかったようである。遣唐使に選ばれるということは、はじめから死をも覚悟しなければならないことであったわけだが、それでも選ばれた者たちは、命を惜しむことなく新しい知識を求めて東シナ海を押し渡り、中国大陸へと赴いた。
  今日の尺度で考えると理解に苦しむところもあるが、たぶん、当時の人々の安全に対する考え方や、人生における価値観は現代の我々のそれとはずいぶんと異なっていたのだろう。平均寿命が現代人の半分ほどで、しかも限られた地域で過酷な労働に耐え赤貧に喘ぎながら暮らすことを余儀なくされていた当時の人々にとって、唐という遠い未知の世界へと旅立つことは、命を賭けるに値するほど魅力的なことであり、栄誉に満ちたことでもあったのだろう。苦渋の尽きない短い人生にとって、それが一瞬のはかない夢であったとしても、激しい精神の高揚をともなう一期一会の劇的な体験は、当時の人々にすれば願ってもないものに思われたに違いない。  
  たとえ唐に行き着くことなく生涯を終えるとしても、当時としては最新型の遣唐使船に乗り込み、瀬戸内の海を抜けて博多津に至り、そこから東シナ海の荒波の中へと出帆するという未知の船旅そのものに、己の命に値する大義を感じていたのだろう。それなりの危険を覚悟でスペースシップに搭乗し、はるかな宇宙へと飛び立つ現代の飛行士たちの思いに通じるものがそこにはあったと想像される。
  ところで、遣唐使船というものはどんな構造をしており、どの程度の能力をもつ船であったのだろうか。中国史談東海往来物語の中には船長が十五丈ほど、船幅が一丈余りだったと記述されている。一丈は十尺で、現代の単位になおすと三メートル余に相当するから、長さが四十五メートルほど、幅が四、五メートル程度ということになろう。ちょっと大きすぎる気がしないでもないが、ともかく、この船に百二十人から百六十人の者が乗り込んだといわれている。乗り組み員の半分は操船に携わる水夫たちだったらしい。
  双端の舳先をもつものなどもあって、長方形の大きな帆を張る帆柱が船央付近には二本立っていた。また、甲板上には、好天時に要人を載せたと思われる高台や、文物を収めたり風浪から身を隠したりするために用いたらしい木造蔵のようなものが設けられていた。両舷側にはそれぞれ八丁ほどの艪が並置できるようになっていて、無風時や逆風時、帆が破損した時、さらには陸地近くで地形に応じた細かな動きをしなければならない時などに、水夫が交替でそれらの艪を漕いで船を進めたようである。

  余談になるが、船を漕ぐために古くから伝わってきた艪というものは、海が穏やかな場合などにはオールなどよりもずっと便利で効率的な道具である。小型エンジンの普及もあって、いまではもうほとんど見かけることがなくなってしまったが、幼い頃から艪を漕いで育った私には、その有り難さや面白さはよくわかる。上手くなると伝馬船用などの小型の艪なら片手でも漕げるし、坐ったままでも漕げる。押し引きするときの手首の返しにちょっとしたコツはあるが、慣れてくると力もそんなに要らないし、オールと違って船の進行方向に顔を向けて漕げるから、操船も楽である。腰を入れて漕ぐと相当な速度も出せるし、微妙な進路調整や速度調整も自由にできる。
  いっぽう艪の難点はオールなどに比べ漕ぎ方をマスターするまでに時間がかかることである。また、海が荒れて波が高くなり、船の上下動が激しくなると、櫓にかかる水の抵抗力が大きくかつ不均衡になり、支点にあたる小突起(櫓杭)から艪が外れてしまうことも難点だろう。当時の遣唐使船の場合でも、海が穏やかならば艪はそれなりに有効だったろうが、いったん嵐になったら艪はほとんど役立たなかったに違いない。荒れた海ではローマ時代のガレー船に見るような大型オールのほうがずっと役立ったことだろう。
  艪は漕ぎ手がそこを両手で握って前後に押し引きする「腕部」と、水中にあって水をかく「脚部(羽部ともいう)」からなっていて、全体的には曲がりのゆるやかな「へ」の字形をしている。艪を使うときには、まず、脚部の上のほうにある艪臍(ろべそ)という凹んだ円い穴に、舷の艪床に固定された艪杭(ろぐい)という頭の丸い凸形突起を嵌め込む。次ぎに、舷に一端が固定された早緒(はやお、艪縄とも呼ぶ)という輪綱のもう一端を、腕部の上側にある円柱状小突起に引っ掛ける。そして、艪杭を支点に腕部を押し引きして水中の脚部を左右に動かし、その煽力で船を進める。その際、早緒は艪を安定させ、その動きを一定の範囲に抑える働きをするわけだ。
  比較的後世の艪杭には海水による腐食に強い真鍮製のものも見られるが、もともとは樫のような硬い木材で作られていた。遠い天平時代などには鉄や銅などの金具は貴重品だったろうから、船の艪杭は当然木製だったはずである。外洋でも通用するような長大かつ頑丈な艪を使う場合、艪杭にかかる重量と力は相当なものになったはずだから、艪杭や艪臍が折れたり割れたり摩滅したりして、その機能に支障がおこることもしょっちゅうだったに違いない。遣唐使船が艪だけを頼りに東シナ海を越えることは、むろん無理なことだった。
  和船を漕ぐ時に艪の操作が未熟だと、すぐに艪臍が艪杭から外れて艪が浮き上がり操艪が不可能になってしまう。反対に艪の操作が上手いと、艪臍と艪杭とはうまく和合し、艪が前後に往復するごとに、ギーッ、ギーッという小気味よい音をたてる。昔、和船に乗る舟人たちは、艪杭のことを男性器に、また艪臍を女性器に見たて、「艪を漕ぐ」あるいは「船を漕ぐ」という言葉を性行為の隠語にしていた。実際、私が育った田舎では、艪杭や艪臍には、それぞれ男性器や女性器そのままの呼称がつけられていた。
  古歌などによく見られる「梶」という言葉は、艪、櫂、舵などの和船の船具の総称であるが、「梶」を「艪」や「舵」に重ねると、歌の裏にさりげなく隠されたいまひとつの意味が浮かび上がってくることがある。「艪」のほうについてはいま述べた通りだが、「舵」のほうについてもすこし説明を加えておきたい。
 「舵」とはもちろん、船の最後尾水中にあって船首の向きを変えたり、それを一定方向へと向けたりする道具のことである。昔の小型和船などでは、船尾の横木の外側中央に舵穴があって、必要に応じて舵本体をその穴に抜き差しできるようになっていた。また、その舵を自由に嵌めたり外したりできるように、船尾の底部中央には細長い隙間が切られていた。見方によっては女性の股間を連想させる造りのため、昔ながらの和船に頼っていた時代の漁師たちは、こちらについても、舵を男性器に、舵穴を女性器に見なしていたようである。舵穴に舵が嵌められた状態を彼らが男女の交合の象徴と考えたのは、ごく自然のことだったと言ってよい。
  これはまったくの私見であるから、あくまでも古典に無知な素人の戯言と受け取ってもらって構わないが、百人一首の中の有名な歌なども、そんな観点に立って眺めてみると、背後に秘められたいまひとつの作者の趣向が感じられたりしなくもない。私のような俗人の目からすると、そんな隠喩が潜んでいるとみなすほうが、作者の生きた時代背景からしても自然であるように思われてならないのだ。

  由良のとをわたる舟人かぢをたえ行くへも知らぬ恋の道かな (曾禰好忠)

 「と(戸)」とは突出した地形にはさまれた狭い水道のことで、「由良のと」とは現在の紀淡海峡(淡路島と和歌山県田倉崎間の海峡)をさしているといわれている。この海峡も鳴門海峡同様に潮流が激しい。その速い潮の流れに立ち向かいながら懸命に海峡を漕ぎわたろうとする舟人が、早緒を切り、艪を艪杭からはずし、あげくのはては艪を流失してしまい、舟は潮に流されどこへ行き着くともわからぬ状態で漂いはじめる。そんな舟人や舟の運命同様にどうなっていくのかわからない恋の道であることよ、というのが直喩に基づく表の解釈である。
  しかし、舟人が懸命に「舟を漕ぎ」、ついには力尽きて「艪杭」から「艪(臍)」をはずしてしまい茫然自失する有様が「男女の交わり」の一連の過程そのものの隠喩だとすれば、「行くへも知らぬ恋の道かな」という結びの句も、またその句のなかの「行く」という一語も、それ相応に妖しく艶やかな裏の意味を含んでくることになる。さらに、「難波の海(現在の大阪湾)」の入り口にある「由良のと(紀淡海峡)」を女性のシンボルに、また、舟を男性のシンボルに見立てれば、この歌全体が男女の行為の隠喩になっているという読み取りもできるかもしれない。
  和船や艪に無縁になってしまった現代人には想像のつきにくい話かもしれないが、それらのものに慣れ親しんでいた昔の人々、とくに舟人の間などでは、そういった隠喩はごく普通に通じていたものと思われる。
 
  艪にまつわる余談が過ぎてしまったので、話の核心がずれてしまったが、当時の造船技術水準からすると、遣唐使船は国内最大級の新造豪華船であったといえる。だが、残念なことに、遣唐使船の甲板の構造、船底の構造、帆の構造のそれぞれには重大な欠陥が潜んでいた。なかでも和船の帆のもつ流体力学上の欠陥は、船の航行能力ばかりでなく渡航時期や航路の選択にまで制約をもたらすことになった。その結果として、遣唐使船には必然ともいえる遭難事故が続発することになったのだった。         

「マセマティック放浪記」
2000年3月8日

遣唐使船の構造的欠陥

  遣唐使船をはじめとする古式和船の第一の欠陥は、海水を完全に遮断できる気密甲板を備えもっていなかったことである。甲板に完全な防水処理を施すだけの技術がなかったうえに、積荷の揚げ降ろしを効率よくおこなうことが優先されたから、現代の船のように船倉を気密度の高い甲板で覆うことなどはあまり考慮されていなかった。したがって、ずっとのちの江戸時代の千石船や北前船(弁財船)などでさえも、嵐のときに甲板が激浪に洗われたりすると海水が船倉に流れみ、たちまち転覆の危機にさらされてしまう有様だった。北前船の場合などは、嵐に遭遇して船倉が浸水すると、転覆を避けるために積荷を捨てるという非常手段がとられていたという。
  遣唐使船の復原模型を見るかぎりでは一応その船倉は甲板で覆われているが、実際の甲板の構造はせいぜい厚板を密に並べ張った程度のものだったと推測される。耐水能力のきわめて低いそのような和船にとって、小山のごとくに盛り上がり、上方から船を押し潰すようにして甲板に叩きつける暴風時の激浪を防ぎとめることなど、どう考えてみても不可能だったに違いない。かつて東シナ海に浮かぶ離島で育った身ゆえ、近代装備をもつ百トンくらいの船に乗って嵐の海を渡った体験が幾度かあるが、それでさえも風浪との戦いは壮絶なものであった。
  古式和船の第二の欠陥は、船底部が竜骨をもたない平底の構造になっていたことである。竜骨とは船底部の基本骨格のことで、その構造が、太い背骨を中心に左右対称に湾曲してのびる恐竜の胸骨の造りに似ているのでその名がある。紀元前の昔から竜骨をそなえていたヨーロッパやアラビア地方の船は、船底部の断面が大きく開いたV字形をしていて浮かんだ時の重心が低く、起き上がり小法師と同じ原理で左右に傾いても復原する力が強かった。また、支柱となる太い竜骨があるために船底部の強度が大きく、激浪に対する耐久性も高かった。嵐の海で船体が激しく海面に叩きつけられたり、高波の直撃を受けたりすると瞬間的に船底や船側、甲板などが歪む。竜骨があると衝撃による歪みは少なくてすみ、その応力(外力を受けたとき物体に生じる抵抗力)によって歪みは修正復原される。
  ところが、竜骨がなく、お皿の内側断面にも似た平底の和船の場合は、重心の位置が高く、外部からの衝撃に対しても脆かったから、海が荒れるとたちまち遭難の危機に瀕する有様だった。タライ船を想像してみればわかるように、底の浅い平底船は海面が穏やかなときには横揺れがすくなく安定しているが、いったん海が荒れて大浪に持ち上げられると安定を失って大きく傾き、横転してしまうこともしばしばだった。また、嵐の時など、大波の波頭からいっきに波底に叩きつけられたりすると、竜骨をもたない脆弱な船体はその衝撃に耐えられず、船底や船側が破壊され、浸水してしまうことも少なくなかった。
 
  船舶史を調べてみたかぎりでは、我が国ではじめて竜骨をもつ船が造られたのは幕末期の頃のようである。意外なことだが、千石船などをふくめて、それまでの和船は大型のものでも竜骨を備えもっていなかったのだ。江戸時代末期の思わぬ事件が契機となって竜骨をもつ欧米風の大型船建造技術が国内に伝承されるまで、和船の基本構造は遣唐使船の時代とほとんど変わっていなかったことになる。
  一八五四年(安政元年)十一月四日、伊豆下田一帯は、紀伊半島南端沖を震源とする大地震によって起こった大津波に襲われる。下田の町家のほぼ全戸が一瞬にして倒壊流失してしまうほどに凄まじい津波だったらしい。米国のペリーなどと同様に、幕府との開港交渉のためロシアから派遣されていたプチャーチン提督は、下田湾に停泊する軍艦ディアーナ号上にあって、たまたまこの津波に遭遇した。
  津波に翻弄されて遭難、大破したディアーナ号は、プチャーチンとの交渉のために幕府の代表として下田に逗留していた幕閣、川路聖謨の気転と配慮で、修理のために西伊豆の戸田(へだ)港へと回航されることになる。六十門もの大砲を備えた二千トン級のこの大型木造帆船には約五百人のロシア人が乗り組んでいたという。ディアーナ号はなんとか戸田湾沖まで回航したが、海が荒れているうえに方向舵の破損とひどい浸水のために航行がままならず、田子の浦に近い宮島村沖(現在の富士市新浜沖あたり)に流され、そこで動きがとれなくなってしまった。
  必死の救船作業もむなしく、さしものディアーナ号も沈没の危機にさらされる事態になったため、ロシア人乗組員と宮島村周辺の地元民とは、激しい風浪をついて決死の共同作業を行ない、辛うじて船と浜辺との間に救助用ロープを張ることに成功した。そして、カッターボートやランチに分乗したプチャーチン以下約五百名の船員は、そのロープを命綱に激浪を乗り切り宮島村に無事上陸することができた。そのときに船内の貴重品や資材の一部も陸揚げされたようである。
  それから二、三日後のこと、沈没寸前のディアーナ号をなんとか戸田村まで曳航しようということになり、駿河湾周辺の漁船百隻ほどが宮村沖に集結した。蟻のように群がるそれら手漕ぎの小漁船に曳かれて、ディアーナ号は戸田港のほうへと八キロほどジリジリと移動したのだが、そこでまた突然海上に巻き起こった疾風に襲われ、ついに沈没してしまう。それからほどなく、宮島村に上陸したロシア人たちは幕命によって戸田村へと移され、全員の帰国が実現する六ヶ月ほのどの間、彼らは村人と実りある交流を続けながら戸田の集落に滞在することになったのだった。
  幸いなことに、遭難したディアーナ号の乗組員の中には、のちに飛行機の設計製作でもその名を知られるようになるモジャイスキーという優秀な技術将校が含まれていた。プチャーチンをはじめとするロシア人一行の帰国にはどうしても専用船が必要であったから、必然の成り行きとして、このモジャイスキーの設計と指導のもと、戸田の入江の一隅で八十トンほどのスクナー型帆船が建造されることになった。もちろん、そのための資材や船大工、人夫などは幕府側が提供することになったのだが、すこしも労を厭わずロシア人たちのために十分な便宜をはかり、造船作業の遂行に大きく貢献したのは、有能かつ開明的な人物として名高い、前述の幕閣、川路聖謨であった。
  新船建造にあたっては、西伊豆各地の船大工が多数召集された。船匠だけでも四十名ほど、これに幕府の諸役人や村の関係者、人夫を合わせると三百名、さらにロシア人たち五百名が加わったから、総計八百人ほどの人間がこの一大事業に従事したことになる。プチャーチンによって「戸田号」と命名された、三本マスト、全長二十二メートルの本格的なこの洋式帆船は、三ヶ月たらずという当時としては驚異的なスピードで完成された。この一連の作業を通して、日本の船匠たちは竜骨をもつ外洋帆船の建造技術をはじめて実地で学びとったのだった。攘夷派の中心的人物で「ロシア人を皆殺しにせよ」とまで唱えた水戸斉昭までが、最後には家臣やのちに石川島播磨重工の基礎を築いた自藩の船匠らを戸田に送り込み戸田号の建造現場を見学させたというから、相当にセンセーショナルな出来事だったのだろう。
  単にそれが造られたというだけの話なら、戸田号が誕生する数ヶ月前に国内で二隻の大型洋式帆船の建造が行われている。大型船の必要を感じて幕府みずからが浦賀で建造した鳳凰丸と、薩摩藩が鹿児島で独自に造船した昇平丸がそれである。だが、両船ともに外国文献を頼りに見よう見真似で建造されたために両船ともに技術的欠陥が多く、昇平丸のほうなどはとくに浸水がひどくて、まったくの失敗作となってしまったという。したがって、戸田号こそは、我が国で初の本格的な竜骨構造をもつ洋式帆船だったと言ってよい。実作業の監督にあたった七人の船大工の棟梁たちは、細大漏らさず船の製作過程の記録をとり、のちのちの洋式帆船建造に備えようと努めたらしい。
  もっとも、戸田号の建造に臨んだ日本の船匠たちが、けっして受身いっぽうであったわけではない。全体的な船の骨格造りの段階ではロシア人技師たちの指導が大きな力となったのだが、細部の作業や表面仕上げの段階になると、手先の器用な日本の船匠たちの技術とアイディアが活かされ、その素晴らしさにロシア人たちは皆舌を巻いたという。
  面白いことに、戸田号には、日本人船匠らの意見を入れて日本式のオール、すなわち、艪が六丁ほど備えつけられていた。プチャーチンらの乗った戸田号がカムチャッカのぺトロパブロフスク港に近づいたとき、それらの艪が思わぬ威力を発揮する。当時はクリミヤ戦争のさなかだったため、同港一帯はイギリスとフランスの艦隊によって包囲されていた。ところが、たまたまその日は稀にみるようなべた凪であったため、ロシア人たちは備えつけの艪を使い敵艦隊に発見されることなくアバチンスクの入江に逃げ込むことができたのだという。
  わずか三ヶ月間の戸田号建造を通じてスクーナー型帆船の製作技術を習得した日本人船匠らは、ロシア人らが帰国したあとも、六隻の同型船を次々に造りだし幕府に納入する。やがて彼らやその弟子たちは、江戸、横須賀、浦賀、長崎、大阪、神戸をはじめとする国内各地の造船所に散り、今日に至る我が国の造船業界発展の礎を築いたのであった。

  気密甲板や竜骨を備えもっていなかったことも大きな欠陥であったが、遣唐使船をはじめとする古式和船の最大の弱点はその推進力の要になる帆の構造そのものにあった。一口に言うと、ヨーロッパやアラビアの帆船が、逆風や横風でも進むことのできる揚力利用の帆の原理をすでにとりいれていたのに対し、和船の帆は順風あるはそれに近い風しか利用できない原始的な帆に過ぎなかった。いわゆる「ヨット」と「帆掛け舟」の違いである。
  飛行機の翼の断面みたいに表側の面がふくらみ、それに比べて裏面が平らな物体の両面に沿って大気が流れると、相対的に気流の流れが遅い裏面側から気流の流れの速い表面側に向かって揚力という特別な力が働く。飛行機や羽根を広げて大空を滑空する鳥などは、この揚力のおかげで空中に浮んでいるわけだ。ヨットの三角帆(原理的には三角帆でなくてもよい)の断面はやはりいっぽう側(帆の表側)がふくらんでいるため、たとえば帆の真横から風が吹いてきた場合、同じ原理で帆裏から帆表の方向に向かって揚力が働く。この力がヨットを推し進めるわけである。理論上は船の真横方向から風が吹いてくる場合に揚力は最大となり、状況次第では船速が風速を上回ることも可能である。
  逆風の場合でも、たとえば船の舳先を風上に対してほぼ右四十五度の方角に向け、帆の角度を風向ラインとなるべく平行になるように調整すれば、揚力が生じる。舵を巧みに調整すれば、その分力を利用して右斜め前方に進むことができる。しばらく進んだら、今度は船の向きが風上に対して左四十五度になるように舵を切り、やはり帆の角度を風向ラインと平行になるようにしてやれば、こんどは左斜め前方に進むことができる。タックと呼ばれるこの操作を繰り返せば、船はジグザグ運動をしながら風上方向へと進んでいけるのだ。
  もちろん、順風の場合は風に任せて進めばよいわけであるが、この場合は揚力を利用していることにはならないから、風の速度以上には船速は上がらない。真横や前方寄りの風なら微風でも揚力のおかげでそれ相応には前進できるが、順風でも微風の場合にはヨットといえども思うようには前進できない。
  いっぽう、帆の構造上の関係で揚力を利用できない帆掛け舟の場合には、順風ないしはそれに近い後方よりの風でしか前に進めないうえに、風速以上の船速を出すことはできないから、きわめて走行能力が低くなってしまう。しかも、逆風などの場合には帆をたたむしかないわけだし、また、たとえそうしたとしても風下に流されるのを避けることはできない。
  遣唐使船は言うに及ばず、江戸時代の千石船や北前船にいたるまで、我が国の船はほとんどが船央付近に帆柱をもつ「帆掛け舟」であったから、行く先々の港で風待ちをしながら順風だけを頼りに進まざるをえなかった。したがって、このような船に乗って安全な沿岸地帯を離れ、風向きの一定しない外洋に出てしまった場合には、風浪に翻弄され、目的地に着く前に難破したり漂流したりしてしまうのがむしろ自然なことであった。
  遣唐使船の復原模型をみたかぎりでは、その帆は二枚ともに相当大きな長方形の麻布製で、帆裏には竹材や葦のようなしなやかで強靭な補強材が密に編みそえられてあったようである。迅速に上げ下げするのが難しいこのような重たい帆だと、それでなくても高い船の重心がさらに高くなり、順風であっても強風の時などには帆柱全体に強い力が加わり不安定になってしまったに違いない。しかも、上部になるほど受ける力が小さく風向きに合わせて帆の角度を自由に変えられる三角帆や、上げ下しが容易でマストの先端に近いほど小さくなる洋式帆船の複層帆と違って、下部よりもむしろ上部のほうの幅が広い和船の帆は、力学的にみても相当に無理があった。
  たとえ同じ大きさの力であっても、帆柱の先端よりにその力が加わると、テコの原理によって支点にあたるマストの根元付近や船の本体にかかる力は大きくなる。だから、突風や強風に煽られるとマストが折れたり、船が不安定になって傾いたりすることは頻繁に起こったことだろう。
 悪名高い倭寇について述べた明時代の文献には、「倭寇の使う船は船底が平で波を切り裂いて進むことができない。その帆布は中心線が帆柱と重なるように張られており、中国船のごとく帆の端線が帆柱と重なるようには張られていないから、順風を使うことしかできない。逆風や無風の状態になると帆柱を倒して艪を使うのだが、思うようには航行できないから、倭寇の乗る船は東シナ海を渡り切るのに一ヶ月余もかかってしまう」といった意味のことが述べられている。
  ちなみに述べておくと、四角い帆の左右どちらかの端線が帆柱に重なるように張り止められ、帆のもう一端が帆柱を軸にして風向きに合わせ自由に動かせるようになっていれば、ヨットの三角帆と同じ原理で横風や逆風を利用し進むことができるわけだ。「一ヶ月余もかかってしまう」という記述は、いくらなんでもちょっと大袈裟過ぎるような気もするが、東シナ海の横断にずいぶんと時間がかかったことだけは確かだろう。
  ただ、和船にもまったく例外がなかったわけではない。華厳縁起絵巻に見る十二世紀後半頃の大陸渡航船の帆は中国風に端線が帆柱と重なるように張られているし、一六〇四年から一六三五年頃まで続いた御朱印船(荒木船)は三本マストで、中国船と洋式船の折衷型の帆を備えていたようで、舳先にも小さな帆が張れるようになっていた。それらの船のの帆を巧みに使えば、進行方向の調整や逆風の利用も可能だったことだろう。そのあと鎖国の時代に入り、外洋の航海に耐える大型船の建造が禁止されたこともあって、その種の帆は使われなくなってしまったのかもしれない。結局、和船はもとの帆掛け舟状態ににもどってしまいそれ以上発達することがなくなってしまったのだ。海洋国であるにもかかわらず外洋船が発達しなかったのは、原初的な構造の和船でもなんとか間に合う沿岸地域や中国、朝鮮との交流が主で、太平洋の彼方へとの目を向ける必要のなかった我が国の歴史的背景と地理的事情によるものだったのかもしれない。
  遣唐使船が東シナ海を渡るのに、大陸方向に向かって南東の季節風の吹き荒れる夏期を選んだのは、すでに述べたように、帆の構造上、順風に頼るしかなかったからである。南東の季節風が吹く時期は、中国大陸に近づくにつれて海が荒れてくる。当時の遣唐使船にとっては季節風のひきおこす荒波を乗り切るだけでも容易なことではなかったのに、この季節は南海で発生した台風が中国大陸よりの海上コースをとって北上する時期にも重なっていた。台風情報などしるよしもなかった当時の状況のもとでは遭難が続出するのも当然だった。
  往路も大変だったが、復路はさらに厳しかった。順風を帆にはらんで日本へと戻るには、晩秋から厳冬期にかけて大陸から吹き出す北西の季節風に乗るしかなかったが、まだ季節風が弱い晩秋の頃は台風シーズンと重なって、大荒れになることが多かった。また日本付近が強い冬型の気圧配置に覆われる厳冬期になると、激しい北西の風に煽られ、東シナ海海は四六時中荒れに荒れた。しかも、揚子江下流域や杭州から船出して北西の風に乗った場合、順風とはいっても船は南東方向に流されることになるから、直接九州本土に着岸することは難しかった。だから、たいていの場合には、いったん奄美諸島や沖縄諸島のどこかに辿り着き、そこから天候待ちをしながら黒潮本流や対馬海流に乗って島伝いに北上、太平洋側に流されないように細心の注意を払いながら坊津あたりに着岸するという方法がとられていた。
  南東の季節風に乗って中国に向かう往路の場合は、大陸のどこかに着くことができればなんとかなったが、復路にあっては、船体そのものが無傷であっても、太平洋のただなかへと流されてしまう前にどこかの島に到着しなければならなかった。したがって復路の航海はいっそう困難をきわめたわけである。いったん太平洋に流れ出てしまったら、よほどの幸運にでも恵まれないかぎり生還は絶望的だった。「南島路」という言葉にはなにやらロマンの響きさえ感じられるが、実際にはその言葉は「地獄の一丁目」と同義語だったと言ってよかったろう。

「マセマティック放浪記」
2000年3月15日

東シナ海を越えて

  七五二年、遣唐使の一行が入唐し明州に着くと、その到着をひたすら待っていた普照は、すぐに正使の藤原清河らと会った。たぶん、この時に鑑真の日本渡航計画がいま一度密かに練りなおされたのであろう。翌七五三年の正月、日本使節団は唐の皇帝に拝謁し祝賀の礼を尽すため、何事もなかったかのように都へとのぼっている。朝貢のために入唐する各国の使節団は、正月に都に入り朝廷に拝賀するのが慣わしになっていた。
  鑑真に最終的な渡航の決断を願うべく準備を進めていた藤原清河らは、その年の十月十五日に揚州延光寺に着くと、ただちに鑑真に対し日本への同行を要請した。その申し出を受諾した鑑真は、その四日後の十九日に揚州を旅立って遣唐使の一行に合流し、十一月十六日、折からの大潮に乗って蘇州黄泗浦から季節風の吹き荒れる東シナ海へと出帆した。  
  黄泗浦の「泗」という文字は「涙」を意味しているから、それは何とも暗示に満ちた船出であったと言えるかもしれない。鑑真は、出航間際になってから、人目を避けるようにして四隻編成の帰国船団の第二船に乗り込んだという。当然、密出国だったわけだから、後日の唐との関係を心配する日本使節団の間には、鑑真が乗船する直前まで計画の決行にためらいがあったとも伝えられている。
  この船団の第一船には正使の藤原清河のほかに、あの有名な阿倍仲麻呂が乗っていた。
  七一七年の第八次遣唐使船で留学生として唐に渡った仲麻呂は、藤原清河と遇うまでに三十余年の時を異国の地で過ごしていた。その間、唐の朝廷に重用されていたこともあって、当時の大詩人李白や王維とも交遊があったと言われている。このときすでに五十一歳になっていた仲麻呂は、その船に乗って懐かしい故国へ帰ろうとしたのであった。
  鑑真が、要人の占める割合が多かったと思われる第一船にではなく、第二船のほうに乗り込むことになったのは、きりぎりまで役人の監視の目を忍ぶ意図その他の事情があったためだろう。だが、結果的にはそのことが幸いした。この四隻の船団のうち、なんとか無事に坊津に辿り着いたのは鑑真の乗った第二船だけだったからである。
  真偽のほどを確かめるすべはないが、阿倍仲麻呂が、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」というあの有名な歌を詠んだのは、この出船の直前、蘇州の浜辺で催された別れの宴の席においてであったという。歌の中の「天の原」は、もともとは「青海原」あるいは「大海原」だったという説もあるようだ。記録によれば、遣唐使船が蘇州を発ったのは旧暦 (太陰暦)の十二月十六日だから、その一日前の十五日には東の海から昇る満月が見られたはずで、話のつじつまは合っている。母国への帰還を目前にした仲麻呂が、東の水平線から昇る美しい月影を眺めながら、胸に早鳴る望郷の念を歌に詠み込んだというその伝説が事実だったとすれば、その後に彼を待ちうけていた運命はあまりにも皮肉であったとしか言いようがない。
  藤原清河や阿倍仲麻呂の乗った第一船は出航後に東シナ海で遭難し、かつて鑑真が流れ着いたのと同じ海南島方面に辛うじて漂着した。二人ともに命こそ助かったものの、ついに故国への帰還を果たすことができないままにその生涯を終えたことは、誰もが知る歴史に名高い話である。仲麻呂はこの遭難のあと再び長安に戻って唐の朝廷に二十年ほど仕え、七十一歳で没している。まるで鑑真と入れ替わりでもしたようなその晩年の有様は、天のいたずらとでも言うほかないであろう。ちなみに述べておくと、第三船は太平洋に流されて、紀伊半島南部の田辺付近の浜辺に無惨な姿で漂着し、また第四船は薩摩半島の南端にある現在の頴娃町の荒磯に難破船となって打ち上げられたと言われている。
  記録によると、鑑真の乗った第二船は十一月二十一日には沖縄に着き、そこで船の修理や補給を終えたあと、翌月の十二月六日には沖縄を発ったという。意外なのはそのあとの行程で、途中奄美大島に寄港したにもかかわらず、翌日の十二月七日にはもう屋久島に着いたと記録されているのである。地図を見てみればわかるように沖縄から奄美諸島を経て屋久島に至る海路は四百キロ以上もあるから、その記録に誤りがなかったとすれば、奇跡的なまでに天候と風に恵まれ、よほどうまく黒潮や対馬海流に乗ることができたのだろう。たった一日で沖縄から奄美経由で屋久島まで航行したとすれば、毎時二十キロを超える速度で船は休むことなく走りつづけた計算になるからだ。地理的にみても一日くらいは奄美に停泊したはずだと考えるのが自然だから、もしかしたら記録のほうが間違っているのかもしれないが、いまとなっては確かめるすべもない。
  屋久島に十日ほど滞在して風待ちをした船は、十二月十八日に屋久島を発ったが、出帆してほどなく四方がまったくわからぬほどに海が荒れ狂い、方向を失って遭難の危機にさらされる。だが、幸いなことに、十九日の日中になって山のような大波の間から本土の山の頂きらしいものを望むことができたらしい。たぶん、薩摩富士の異名をもつ開門岳か、そうでなければ同じく秀麗な山容をもつ野間岳の頂だったのだろう。なんとか現在位置を確認することができた船は、それからまる一日風浪に翻弄されたすえに、十二月二十日の昼頃、薩摩国阿多郡秋妻屋浦(坊津秋目浦)に遭難寸前の状態で着岸した。屋久島から坊津秋目までは直線距離で九十キロほどにすぎないから、それまでの順調な航海に較べ、この間の船旅はよほど厳しいものであったのだろう。
  五十五歳のときに日本への渡航を要請されてから実に苦節十余年、坊津秋目に着いたときには鑑真はもう六十六歳になっていた。日本の土を踏んだときすでに失明していた鑑真は、「山川異域」の地である坊津の景観をその目でじかに見ることはできなかったに違いない。しかし、鑑真にはそれを補って余りある並外れた心眼が備わっていた。その心眼をもって、彼は坊津の情景やそこに住む人々の心の内をじっと見すえ、異国の地の大気のうごめきを鋭く読みとっていたことだろう。
  旧暦の十二月二十日というと現在の一月中旬くらいであろうか。南国薩摩といえども、シベリア気団が張りだし北西のモンスーンが吹き荒れるこの季節は相当に寒い。中国大陸北部から東シナ海を越えて吹き込んでくる季節風の中に、不帰の決意で旅立った遠い故国の大地の息吹を鑑真は嗅ぎとっていたかもしれない。だが、そのいっぽうで、異郷の地に降り立った六十六歳の彼は、その同じ風の中に、真の仏法者のみの知覚しうる釈迦の慈眼と自らに課せられた使命の重さとを強く感じ取っていたに違いない。
  阿倍仲麻呂があの歌を詠んだという満月の日からちょうど一月後の旧暦十二月十五日前後の頃、鑑真は屋久島に滞在していたわけだから、夜空には満月かそれに近い月が昇っていたことになる。また、坊津を発ち海路九州西岸を北上する頃にはいわゆる有明の月が未明の空高くに輝いていたはずである。たとえ北西の季節風は強くても、その間一度か二度くらいは鑑真の姿が異国の冬の月に照らし出されることもあったろう。まさにそれは、「風月同天」の語句そのままの世界であったと言ってよい。
  鑑真が坊津にどのくらいの間滞在したかは不明であるが、船の修理や補給が終わるとすぐに大宰府に向けて出立したようである。この時代は、天候さえ安定しておれば陸路より海路のほうがはるかに安全かつ迅速だったから、当然海路が選ばれた。坊津を出た船は野間岬を回って薩摩半島沖を北上、甑島と本土との間を通って天草島西岸に達し、そこから天草島北端と島原半島南端の間の早崎瀬戸を抜け、島原半島東岸に沿って有明海に入った。
  そして有明海の最奥にある現在の佐賀県久保田町付近の浜辺に着岸した。そのあとは陸路をとって十二月二十六日に大宰府に到着したようだから、鑑真一行は坊津秋目に入港してから六日ほどで大宰府に到ったことになる。
  大宰府からは、博多津に出て再び船に乗り、海路瀬戸内海を抜けて難波津に着き、明くる年の二月四日に平城京に入ったということだから、大宰府に着いてから奈良まで一月余の行程であった。故国の揚州を発ってから平城京に到達するまでに三ヶ月半もの期間を要したわけである。

「マセマティック放浪記」
2000年3月22日

唐招提寺と鑑真入寂

  鑑真が平城京に入った七五四年には、その渡日最初に招請した聖武天皇は孝謙天皇に皇位を譲って法皇となり、時代は天平から天平勝宝に移っていた。鑑真の来朝を長年待ちこがれていた聖武法皇や光明皇后、そして孝謙天皇らは最高の儀礼を尽して彼を迎え入れ、伝法大法師位を勅授した。
 「鑑真殿、貴僧は遠い唐の国からはるばる大海を渡り、一命を投じる覚悟でこの国に来てくださいました。それは私がかねがね心から願っていたところで、この胸の内の大きな喜びと深い安らぎは何物にもたとえようがありません。私はこの東大寺を建立するのに十年もの歳月を要しました。またその建立を進めるかたわら、東大寺に戒壇を設け、仏僧の修めるべき真の戒律を国内の諸僧に伝授することができないものかとも考えてきました。日夜その強い思いを忘れることなく時を重ね、こうして今日に至ったようなわけなのです。幸い、世に並びなき高徳として知られる貴僧の来朝が実現し、戒律を伝授して戴けることになりました。今後は授戒伝律の大任をすべて貴僧に委ね、私自らも進んで仏道の戒律を授かろうと深く心に誓うに至りました」
  現代語調になおしてしまうとなんとも軽い感じになってしまうが、ともかくもそんな主旨の詔(みことのり)を賜った鑑真は、時を待たずして伝法の師としての大任につくことになったのである。そして、天皇、皇后、皇太子にはじまり、諸僧にいたるまでの多数の仏徒が東大寺大仏殿の前に参集し、導師の鑑真より次々と戒律を授かったのであった。さきに述べた「寄諸仏子 共結来縁」の二句そのままの光景が繰り広げられたわけである。
  翌年の七五五年には東大寺戒壇院が設けられ、鑑真はその高徳にあやかることを願って国中から登壇する修行僧に戒律を伝授するかたわら、いまでいう医学や薬学をはじめとする諸技術や諸知識を広く教え説いたと言われている。目が見えなくなっていたため、各種の薬草などは嗅覚や触感でその真贋や薬効を判断し、しかもほとんど誤ることがなかったというのだから、その異能たるや恐るべきものであったというほかない。
  七五六年に鑑真は大僧都に任じられるが、その二年後の七五八年には大僧都の官位を辞し、大和上の尊号を下賜された。そして、その翌年には新田部親王の旧宅が特別に寄進され、その地に唐律招提、すなわち現在の唐招提寺の原寺となった律宗寺院が創建された。また、平城宮の改修が行われた七六〇年(天平宝宇四年)には、その東朝集殿が同寺院に移築寄贈され、戒律教授の講堂として用いられるようになった。鑑真のもとにはその知徳を慕って国内の津々浦々から修学僧たちが集まり、互いに切磋琢磨しながら戒律をはじめとする諸学の修得に努めたという。
  修学のため多数の帰依者が鑑真のもとに参集していたことはわかるが、その講説風景はいったいどのようなものであったのだろう。超人的な能力をもつ鑑真であったとしても、渡日した年齢その他の状況から推測すると日本語の会話はできなかったと考えるのが自然だろう。もちろん、当時の教養人の読み書きは中国語(漢文)でなされていたから、読解や記述については問題はなかったものと思われる。しかし、鑑真が口述する中国語の講義を聴いて即座にそれを理解したり、中国語で講義内容についての質疑応答したりするとなると話は別だったことだろう。中国と日本との間では、日常の言葉は言うに及ばず、漢字の読み方そのものもすでに大きく異なっていたはずである。
  遣唐使団の一員として渡唐の経験のある一部の僧侶たちなら直接に中国語で鑑真と対話することもできただろうが、学僧たちの皆が中国語の会話に堪能だったとは思われない。「椅子に座る鑑真の講説に耳を傾ける俗僧たち」などという説明のついた古図などを眺めていると、いささか眉に唾をつけたい気分にもなってくる。おそらくは通詞(通訳)つきの講義がおこなわれていたのだろう。
  当時の東アジアにおいては、中国語は国際共通語として現代の英語以上に重要視されていたはずだから、上流知識階級の間では、中国語の「読み書き」も「会話」も国際人の教養として不可欠なものだと考えられていたことだろう。もしかしたら中国語会話塾みたいなものもあったのかもしれない。だが、たとえそうだったとしても、昨今の英会話塾の繁栄ぶりには程遠かったろうから、中国語の会話のできる者が相当数いたとはいっても、修学者の誰もが中国語会話に通じていたとは思われない。
  現代なら黒板や白板を使っておこなわれる講義内容の板書などはどういう風になされていたのだろう。黒板や白板に替わる道具が何か存在していたのだろうか。さらにまた、和紙などは大変な貴重品だったその時代、受講僧用のテキストや講義録用ノートなどはどうしていたのだろう。高価な紙が特別に支給されていたのだろうか、それとも麻布か木簡や竹簡のようなものが用いられていたのだろうか。超人的な記憶力の持ち主だけが戒律受講の有資格者だったとも思われないから、なんらかの方法が講じられてはいたのだろう。このあたりの事情についてはその道の専門家に教えを乞うてみるしかない。
 
  並外れた気力と体力を誇った超人も年齢的な衰えだけは隠すことができなかった。七六三年に入ると、強靭をきわめた鑑真の健康状態も大きく傾き、その余命に翳りが感じられるようになってきた。忍基をはじめとする鑑真の弟子たちは師の入滅が近いことを悟り、密かにその高貴な姿を実物大に近い乾漆像にうつしとり、後世に伝え残すことを考えた。いまでも唐招提寺の開山御影堂に安置されている鑑真像はその時に造られたものであるという。この年の五月六日、鑑真は結跏趺坐(けっかふざ)して示寂したと伝えられている。享年七十六歳、渡日を果たしてから十年後のことであった。現在もその内部は当時のままで残されているといわれる唐招提寺金堂は、鑑真が他界した翌年に建立されたものである。
  七七七年に第十四次の遣唐使として中国に渡った佐伯今毛人(さえきのいまえみし)は、鑑真和上の入寂を唐の朝廷に奏上したと伝えられている。また、それから二年後の七七九年には、真人元開(淡海三船)によって、今日にまで伝わる「唐鑑真過海大師東征伝」が著されている。
 
  鑑真記念館の中にある鑑真像の複製乾漆像をあらためて拝観し終えた私は、車に戻ると真昼の陽光を浴びて青く静かに輝く秋目浦をあとにした。変化に富んだ久志浦、泊浦の美しい風景を右手に望みながら南下し、歴史民族資料館と坊津町役場のあるあたりにくると、眼下に坊浦の眺望が開けてきた。遠くのほうに目をやると、鋭く尖った二つの岩が対峙するようなかたちで海中にそそり立っているのが見えた。双剣石と呼ばれるそれら二個の岩はきわめて特徴的な形をしており、岩とその周辺の景観は唐招提寺に納められた東山魁夷画伯の障壁画「濤聲」のモデルにもなった。生前、東山画伯は、鑑真が初めて坊津の地を踏んだのと同じ時節に同地を訪れ、海の荒れる日などを選んでは唐招提寺障壁画の基礎デッサンやスケッチに励んでおられたという。
  鑑真ゆかりのこの坊津周辺には、江戸時代末期まで一乗院をはじめとする名刹や古刹がかなりの数存在していた。しかしながら、明治元年三月十七日に神祇事務局から出された神仏判然令を契機とした廃仏毀釈運動のため、それらは無惨なまでに破壊し尽くされた。大政奉還に続く王政復古の号令のもと、祭政一致の政治形態を至上とする時流の暴走が惹き起こした一大愚行で、いまとなってはただ残念の一語に尽きる。
  王政復古の理念を掲げ長州とともに明治政府樹立の音頭をとった薩摩藩では、島津藩主自らが率先して徹底的に廃仏毀釈をおこなった。明治二年十一月には大竜寺、不断光院、慈眼寺といった藩内の古刹が廃され、最後まで残っていた福昌院、大乗院、昭信院、宝満寺、そして坊津の一乗院もついに廃寺となり、同月二十四日をもって、薩摩藩内には一寺院もなくなってしまったと言われている。廃寺にともない多数の仏像が破壊焼却されたことはいうまでもない。坊津の海岸沿いの場所になんとも哀れな姿に変わり果てた二体の仁王像が立っているが、それらもかつての廃仏毀釈運動の名残なのだろう。
  明治九年になって信教の自由が保証されるとその異常な状態は鎮静に向かい、寺院も再建されていくのだが、明治になったばかりの一時期は仏式にかえて神式による葬祭を行うように通達が出される有様だった。薩摩藩で廃仏毀釈が徹底されたのは、政治思想上の理由のほかに、大小合わせ千余寺にのぼる寺院を廃して僧侶を還俗させれば十万石に近い軍費と多数の兵員を捻出できるうえ、梵鐘を武器製造にあてると十余万両もの経費を節約できるという、非常時に備える計算などもあったからだという。
  廃仏毀釈の命令に反対する動きが少なかった理由としては、薩摩藩における僧侶の地位が他藩のそれに較べてすっと低く、僧籍を剥奪されることにあまり抵抗がなかったこと、表向きは仏教各宗派に属していた民衆の多くが事実上は禁制の一向宗(浄土真宗)を信仰していたことなどがあげられるという。また、薩摩藩の僧侶は特別な場合をのぞいて士族出身者に限られていたので、還俗者には妻帯を許して一家を構えさせ、もとの士分籍に戻すなどの方策が講じられたのも、廃仏毀釈が急速に進んだ理由であったらしい。

  坊の岬へと続く半島状地形の根元付近にある坊の街並みをあとにし、漁業で知られる枕崎市方面へと向ってしばらく走ると、車は耳取峠に差しかかった。いっきょに南側の展望が開け、南方海上はるかに、屋久島のものと思われる特徴的な島影が小さく霞むように浮かんで見えた。眼下の海岸とその島影との間に横たわるのは、坊津秋目到着の直前に鑑真らの乗る船を木の葉のごとく翻弄した海である。この日のように風もなく海も穏やかだと、魔性の牙を剥いたときのその姿などとても想像できないが、もともと海というものは慈悲と残忍さとをあわせもつ古代の神々そのままの超越的な存在なのだ。いつの時代も、人間というものは、ある時はその恵みに浴し、またある時にはその残酷さに耐えながら生きてきた。
  突然、前方右手に、海に突き出るかのように聳え立つ美しい山影が浮かび上がった。薩摩半島南端の名山開聞岳である。薩摩富士の名に恥じないその秀麗な山容はいつ見ても素晴らしい。この山もまた、古来、航海の目印となって多くの船人を助け導くいっぽうで、力尽きて海中に果て屍となって荒磯に打ち寄せられる無数の人間をも眺めてきた。大二次世界大戦末期には、数多くの若い命が南の海へと消えていくのを見つめてもきた。北西方向二十キロほどのところにあった知覧の基地を飛び立ち、沖縄の海へと不帰の旅立ちをしていった若き特攻隊員たちを、開聞岳はいったいどんな眼差しで見送っていたのだろう。この歴史の証言者は、コニーデ型火山特有の優美な姿で訪れる旅人を魅了しながらも、かたくなに口をつぐんで自らが目にした過去の想い出をけっして語ろうとはしない。

「マセマティック放浪記」
2000年3月29日

戯曲漫談『当世修善寺物語』

        ――独鈷の湯の場面―― 

舞台:伊豆の修善寺温泉、露天風呂・「独鈷(とっこ)の湯」

<登場人物>
男一:伊豆放浪中の中年男(百円ライター並の使い捨てライター)
男二:ライターの同行者(幽霊プロダクション・プロデューサー)
女達:中年女性七、八人(推定年齢四、五十歳の猛烈オバサンたち)
老人:女性たちの同行者らしい七十歳前後の好々爺風の男

  冷え込みの厳しい師走の夜遅い時刻。中天には満月まであと二、三日と思われる明るい月が輝いている。月光にキラキラと映える桂川の川面が美しい。心の奥にそっと分け入ってくるようなせせらぎの音が、すっかり静まったあたりの空気をかすかに震わせている。
  舞台中央、桂川の川面の中程に荒目の透垣に囲まれた露天風呂「独鈷の湯」が見える。立ちこめた湯気が、時折吹き抜ける冷たい風に乗って川下の方へと流れ去って行く。
  舞台上手から、ジーンズに厚手のセータというラフな出で立ちの二人の男がタオルを手に登場。あたりの風情をあるがままに楽しみ、時間などまるで気にする様子もない彼らの姿には、かねてから放浪の旅に慣れ親しんでいる者に特有の身軽さが感じられる。

男一:誰もはいってないよ、こりゃー、サイコ−!……もったいないくらいだよ。
男二:これで美人がはいってたらドンピシャリ決まるんだけど、そうも贅沢言えませんか?
男一:でもさ、二対一かなんかだったら、美女をめぐって二人で決闘しなきゃならんだろ。  
(二対八で圧倒される情けなくかつ恐ろしい事態の予感など、二人にはまださらさらない)
男二:決闘?……ピストルでですか、それとも、水鉄砲ですか?
男一:おいおい、妙なイメージ呼び起こす洒落出すなよ、風情がなくなる!
男二:何をおっしゃるウサギさん!
男一:そんならおまえとカケくらべってか?……いまさらカケあうほどの元気もないしね。
男二:「さっきの自慢はどうしたの?」、なんてことにはお互いなりたくないもんですね!

  独鈷の湯の中にいり、差し込む月明りの中で衣類を脱ぎ捨て(陰の声:しかし男は様にならない)、入口近くの透垣の上に無造作に掛けると、満々と湯を湛えた岩造りの湯船に飛び込む。サーッと広がった水紋が月光を吸って躍り輝き、湯船の外へと溢れ出ていく。それに合わせるかのように、せせらぎの音がひときわ高まる。
  
男二:(すっかりいい気分になったあと、「独鈷の湯」の由来を記した解説板があるのに気づき、月明りを頼りにその一文を読み始める)
  なになに……平安時代のこと、弘法大師は桂川の冷たい水で病の老父の身体を洗う少年の姿をご覧になって心をうたれ、手にされた法具の独鈷で岩をうがち、その法力をもって念ぜられたところ、たちまちにしてそこからこんこんと温泉が湧きだし……かぁ、ふぅーん!
男一:しかし弘法大師様も忙しいお方よねぇ!……あの交通の不便な時代に日本のアチャコチャに出没して、温泉だしたり水だしたり薬つくったり病気治したり。弘法様が千人くらいはおらはらんと現実にはまにあわんかったろうね。弘法様もなかなかのビジネスマンだったんだろうな。まあ、でも、そんなことはどうでもいいか……。湯加減が最高なら言うことないよ。しかも、この露天風呂、入浴料は只ときてるからね。
男二:弟子かなんかが、僧侶の特権を利用して全国を旅しながら、温泉や水の湧きそうなところ、あるいはすでに湧いている極秘の場所に目を付けておいて、なんにも知らない善良な民をまえに弘法様の法力でムニャムニャとかなんとかやって……。
男一:弘法エンタープライズの発展と勢力拡張をはかったんだろうね。
男二:それにしても、伝教大師様がっていうのはなぜかほとんど聞きませんね。
男一:ウーーン、そういえばそうだなあー、「デンギョウ」じゃ温泉がデンからかな?

  しばらく沈黙が続く。身を深く湯に沈め満ち足りた表情の二人。月光はますます冴えわたり、なにやら幻想的な雰囲気すら漂いはじめる。滝口入道と横笛の悲恋物語を想い偲ばせるような光と陰と水音の不可思議な交錯が続く。

男二:弘法様というお方は、流浪の旅に身をやつすものたちに、美しい女性を差し向けてやろうとは考えてくださらんかったんですかね?         
男一:ご自分も諸国を流浪なさっていたんじゃ、自分に差し向けるだけで手いっぱいじゃなかったんかなあ?
男二:この際、文句はいいません、おこぼれでもいい!……弘法様ッ!
男一:こらこら、ここは赤坂や六本木じゃないんだぞ、神聖な独鈷の湯だぞ!……ま、はいってる人間のほうはあんまし神聖じゃないけどなあ……。 

(一瞬、二人の笑い声、そして、一呼吸おいたあと)  

男二:ところで、今晩これからどうします?
男一:どうしようか? まあ、ここでもうちょっとボーッとしてから、お月様と相談してそれからまた、ぶっ飛ばそうよ。こっちは暴走を好むほうの「好暴大師様」ってわけよね!
男二:コウボウも運転の誤りってこともありますよ。
男一:そんときゃそんときで、天国の温泉にはいれるからいいさ。
男二:そういや、天国よいとこ一度はおいで、酒はうまいしネーチャンは美人だ……なんて歌が昔大ヒットしたことがありましたっけねえ。

  二人は湯船の外縁に近い浅く平らなところに、石を枕にして仰向けに横たわり、天空の月を仰ぎながら、夢見気分で遥かな想いに耽ける。長い沈黙が続く。胸に秘めた遠い人のことなどにそれぞれ慕いを馳せている風情。せせらぎの音だけが緩やかな時の進行を感じさせる。冴えわたる青い月光に浮かぶ二人の男の裸体(陰の声:しかし、この無粋な光景を映像化するにはかなりの演出技術が必要かとも思われる)。

――暗転――

  突如、舞台下手から、旅館の浴衣と羽織をまとった一群の中年女性が現れ、甲高い笑い声や奇声に近い叫び声をあげながら、下駄の歯音も高らかに独鈷の湯の入り口へとなだれ込む。

女一:あったわよー、ここだわよ!……はいろーっ、はやく!
女二:あらー、男の人が二人はいってるみたいだわよーっ!、どーするーっ?
女三:いいじゃないの、ちょうど、誘惑すんのに!(一同、ギャハハハハハハとけたたましい声をたてて笑う)  

  すっかり夢見心地にひたっていた二人の男は、何事が起こったのか判らずしばし呆然とするが、ただならぬ事態に気づくと、半ばおろおろしながら、慌てふためいて起き上がり、固い防御の体勢をとりながら湯船の中に深々と身を沈める。

男一:(小声で) ココッ、コウボウ様のタタリじゃ、こりゃ!
男二:(同じく小声で) ドドッ、ドウします?
男一:(かねてのクールさもどこへやら)ほ、ほんとうにはいってくるきかよ!
男二:(わが眼を疑うかのごとく)これじゃ、出ようにも出れない、タスケテクレー!
    
  そうするうちにも、女達は皆でギャーギャー騒ぎながら衣類を脱ぎすて、入口付近の透垣に掛ける。何人かの女は、わざととしか思われないやりかたで、男達の脱衣の上に自分たちの脱いだ浴衣やパンツ、ブラジャーなどを掛ける。男達はなすすべもなく、湯船の中から横目で恨めしそうにその様子を眺める。
  脱衣を終えた女達は、眼のやり場に困りただ窮するばかりの二人の男を嘲笑うかの如くにお揃いのおおきな躯をゆすり、魅惑的ムードとはまるで無縁の恐るべき存在感を誇示しながら次々に湯船に迫る。  

女四:はいるわよーっ、オニイサンがた! 
女五:そんなに逃げなくてもいいんじゃない、まさか、ドーテイじゃないんでしょ?
女達:ギャハッハハハ

  それには答えず、男二人は湯船の隅の方へとじりじりと身を引く。たまたま、そこが湯の湧き口近くだったため、熱い湯が二人の背中を直撃、思わず、アチチチと顔を歪めながらも、必死にそれをこらえる。その間に総計八人の女達は湯船の大半を占領してしまう。いよいよ窮地に追い込まれる二人。女達はわがもの顔で湯船の中を動きまわり始める。

男一:(男二の耳元で)こりゃ、オバタリアンの逆襲だ!、どやって逃れよう?
男二:(囁き返すように)八対二、しかも、かよわい男二人に対して、敵はまるで恐れを知らぬ豪傑ばっかり……。
男一:このまんまじゃ、茹でダコになちゃうよ、なんかもう頭のほうもボーッとしてきちゃったし……。
 
 (そんな男達二人の様子を見ながら)

女一:あんたがた、そんなに隅にいかないでこっちにいらっしゃいよ!
女六:食べはしないから、大丈夫よ!
女三:食べてあげるっていったほうが、いいんじゃないの?
女達:ギャハハハハハハ
女七:でも、あんだがた、よく見ると二人ともイイ男じゃない!
 (陰の声:この一言は、男達にとって悪夢のような出来事の中でのせめてもの救いではあったかもしれない。この猛女の御一行様からも見向かれさえしないようでは、彼らはもはや生きる気力を失い、絶望の果てに、桂川の淵――そんなものがあるのかどうかさえ定かではなかったが――に身を投じ、この一幕の結末も違ったものになっていたであろう)
女八:どれどれ、もっと近くで見てあげようか。
女五:あんた、どこ見る気なの?
女達:ギャッハッハッハ

  返す言葉もなく身を固くして無言のままの男達。熱いお湯のせいもあってだんだん頭がクラクラしてきて我慢も限界に近くなる。思考能力がすっかり低下し、かねての毒舌ぶりなどみるかげもない。一瞬、そんな二人の脳裏を、いつも何人ものオオババタリアンを相手に孤軍奮闘する小堺一幾の偉大な姿がよぎる。

女四:これでいい話の種ができたわ、イイ男達と一緒に風呂にはいたって!
女五:でも、まだ、顔しか見てないわよねー
女達:そうだわねーっ、ハハハハハ
男一:(残された気力をなんとかふりしぼり、なんとか活路を見いだそうと)見せてあげてもいいけど高いですよ。
女六:八対二の物々交換なら文句ないんじゃない?
男一:量よりも質ってこともありますからね。(そう言いながら、いざという時にそなえて、衣類のあるところ迄の距離を目測する)
女一:(男二のいる側からグーッと近づいてきて、男二の躯に手を触れるようにして)ねえ、あんたがた、今晩何処に泊まってんの?
男二:(幽霊プロダクションのプロデューサーとして若い女優らにあれこれ偉そうに注文をつけているいつもの図々しさはどこへやら、ただもう恐れ怯えつつ)こっ、このへんには泊まりませんよ!……も、もうあがりますから!
女一:もうあがるんだって、みんな、折角だからよーく見ときなよ!
女達:ギャハハハハハ(その笑い声はせせらぎの音をもかき消さんばかり) 

  そういわれて、男二人はまた動きがとれなくなるも、ほんとうにノボセてきて、眩暈をさえ感じはじめる。これはもう、いよいよ開き直るしかないと覚悟を決めかけたちょうどそのとき、泊まり客専用の羽織と浴衣を身に着けた老齢の男が現れる。

老人:なんだ、なんだ、もうあんたがた、みんなはいってんのか!
女八:用心棒が遅れてきたんじゃ、なんにもならないじゃないの!
老人:あれま、見知らぬ男の人と一緒にはいってんのか!、もう見ちゃーおれんわ!
 
  男はそういって、衣服を着たまま湯船に近づき、湯船の脇の岩の上にわざと背中を向けて腰をおろし、透垣ごしに桂川の川面を見つめるふりをする。

男一:(心の中で)冗談じゃないよ……用心棒が欲しいのはこっちだよ!
男二:(心の中で)用心棒でもなんでもいいから、早く何とかしてくれーっ、でないともうノボセて死ぬよーッ!
女三:オジサン、そんなとこで腰掛けてないで一緒にはいってくれなきゃ、用心棒にはならないじゃないの。
女四:オジサンの用心棒はもう振りまわしても誰も用心しないから平気よ!
(陰の声:こういうことをあたり構わず大声で叫ぶんだから、オバサン軍団は恐ろしい)

  女達に再三促されてようやく意を決した老人は、衣服を脱いでいとも恥ずかしげに湯船の中にはいってくる。そして、女達と二人の男達の間に割ってはいる。

老人:ほら、あんたがたも、いい加減にせんと、この人達困ってるじゃないの……。
女五:オジサン、いったいアンタどっちの用心棒なの?  
女達:ギャハハハハ
男一:(老人に向かって嘆願するかのように)あの、あそこの僕たちの服の上に乗っかっている衣類ちょっと動かしてもらえませんか、もう湯から出たいんで。
老人:(女達に向かって)またなんてことをやってんのよ、あんたがた!(そう言いながら、老年の男は湯船から出ると、女達の衣類の一部を動かし、再び湯船につかる。女達はその様子をみて、また、ゲラゲラ笑う。)
    
  ここが限度と悟った二人の男は、一呼吸の後に示し合わせて湯船から飛び出すも、すっかりのぼせて足元がふらつく。それでも、必死になって衣服の掛かっている透垣に辿りつき、躯を拭くいとまもなく、アンダー・ウェアーを着る。完全に湯あたり状態の二人。背後で猛烈な罵声とけたたましい笑い声が湧き起こる。ジーンズを慌ててはこうとして片方に両足を突っ込みそうになり、バランスを崩してよろける姿を見てまたも笑い声と野次の追い打ち。そんな状況下でようやく衣服を着終えた二人は、おぼつかない足どりを見せながら、ほうほうの体でその場を立ち去っていく。
 
男一:ああもう参ったなあ、ロマンも夢もあったもんじゃない!
男二:もういや!……弘法様嫌い!

  空には何事もなかったかのように、先刻よりも一段と明るく冬の月が冴えわたっている。桂川の水面は、鋭く小刻みに月光を弾き返しながら美しく揺らめき続ける。せせらぎの音に混じって、独鈷の湯の方から、なお、女達の笑い声が微かに洩れ響いてくる。
―――――――――――――――――《幕》――――――――――――――――――――

「マセマティック放浪記」
2000年4月5日

万巻の書を読破するには?

 「万巻の書を読破する」という言葉に象徴されているように、数多くの書物を読みこなす能力というものは、昔からたいへん重要なことだと考えられてきた。だが、もともとたいした読書能力を持ち合わせていない私などは、本を読むこと自体は嫌いでなかったにもかかわらず、一冊の本を読破するのにも頭を抱え、喘いだことも少なくない。自分の読書力のなさを常々思い知らされていた私は、あるとき、普通の能力の人間が最大限に努力したとして、万巻の書を読破するのにいったいどれくらいの年月がかかるものだろうなどという愚にもつかぬことを真剣に考えてみた。
  そもそも心理学的にみると、そんな思いに取りつかれること自体が問題なのかもしれない。ある種の義務感に促され、己の能力を超えた量の読書に挑もうとする見栄張りの表層意識に対し、実質優先の潜在意識が、「もういい加減に無理なことはやめてくれ、そうでないと、それでなくても心許ない脳神経の回路がオーバーヒートしてしまう」という暗黙の警告を発しているせいだと解釈できなくもないからだ。
  さて、万巻の書の読破に要する時間のことだが、いまかりに、土曜と日曜を除く毎日、一冊ずつ本を読んでいくものとしてみよう。さしあたっては本の内容やページ数は考慮にいれないものとする。一年を五十二週として計算すると、年間で約二百六十冊の本を読むことになる。これは普通の人間にすれば相当なペースであるが、たとえこのペースで本を読み続けたとしても、万巻の書を読破するには実に四十年の歳月が必要となる。なんとか自力でまともに本が読めるようになるのが十歳くらいからだとすると、万巻の書を読み終える頃には五十歳になっている計算だ。
  しかも、漫画本ならともかく、ちょっとした内容の厚めの本ともなると、一日に一冊読み終えるのはきつい。まして、二・三ページめくっただけで眠気を催すような専門書や洋書となると、その道の専門家でも、週に一・二冊も通読できればよいほうだろう。そうなると、読破のペースもぐんと落ちる。読書を仕事との一環とする学者や物書き、あるいは、なんらかの理由で読書しかやることのない人ならともかく、普通の人の場合は、くる日もくる日も読書に耽ってなんかおられない。
  いっぽう、学者や物書きのような人々の場合でも、実生活にそれなりの時間は必要だし、自分本来の研究を進めたり原稿執筆をしたりするためにも膨大な時間を費やさざるを得ない。くわえて、諸々の専門書の中には、通読するのに一・二ヶ月を要するようなものもザラにあることを思うと、四十年で一万巻の書物を読破することなど現実には不可能だろう。たとえ二倍の八十年をかけても、絶対に不可能とは言わないが、まずもって実現は困難だろう。ごくささやかな図書館の場合でも、普通、二・三万冊くらいの蔵書はそなえていると思われるが、生涯かけてもそれらの本すら読破できない人間の能力なんて、なんと小さなものであろう。
  もっとも、世の中には一見不可能そうにみえることに挑む超人や、信じ難いような速読の達人が一人や二人はいるものだから、ギネスブックなどを調べたら、生涯に読破した本の数が十万冊以上などという怪記録が記載されていたりするかもしれない。また、「万巻の書を読破する」という言葉が生まれたのはいつの時代のどこの国のことかは知らないが、おそらくは、古い経典類にみるように、書物の多くが巻物として扱われていた遠い昔のことだろう。いにしえの巻物の文字は近頃の活字体の文字よりずっと大きかったから、一巻の書物に収められた文章の量は現代の一冊の本に収まっている文章量よりは少なかったに違いない。そんな事情からすれば、万巻の書を読破するのは昔のほうが楽だったろうし、それだけ実現の可能性も高かったという見方ができないことはない。だが、たとえそうであったにしろ、膨大な時間を要しただろうことには変わりがい。
  ちゃっかりそんな計算をし終えた私は、万感の想いにひたりながら、万巻の書に挑むことをきっぱりと諦め、千巻の書に挑む程度に志しを変更した。本を読むということは大切なことだが、読んだ本の数が多ければよいというものではない。たとえ一生のうちに一冊の本しか読まなくても、行間に隠されたものをも掴み取るつもりでしっかりと読み込めば、そこから得られるものは計り知れない。その本に心から感動し、そこから学んだものを基に想像力を広げ、思索を深めることができれば、それで十分なのだと思う。個人的に向き不向きはあっても、優れた書物というものは、もともとそのような奥深さを秘めもっているものだ。
  歴史のなかで蓄積された先人の知恵や教示は重要だが、ひとりの人間がそのささやかな能力で処理できる情報量には限度がある。結局、我々は、自分に適した量と内容の書物だけを読み、あとは、自分の頭と体で精一杯の思考と工夫を積み重ねていくしかない。単なる知識と人生の本質に深く関わる叡知とはもともと異なるものであって、多読によって知識を身につけることはできるが、叡知のほうは必ずしも多読によって得られるとはかぎらない。たぶん、真に必要なのは、叡知を授けてくれる一冊の本に出逢うことのほうである。
  ただ、必要なときに必要な本に出逢うためには、一定量の蔵書が手近かにあったほうがよいということはあろう。なにげなく買いおいてあった一冊の本をたまたま手にし、その本から、その後の人生を大きく左右するような深い教示をうけるといったことは、誰しもがよく経験するところである。そして、そういった出逢いを起こりやすくするためには、たとえ全部を読破することはなくても、ある程度の冊数の本を常時身近に置いておくにこしたことはない。一冊の本に出逢うために百冊の蔵書が必要で、結果として残り九十九冊が無駄になったとしても、それはそれで構わないとも言える。
  人間というものは厄介なしろもので、周辺から、この本は良書だからと勧められても、すぐにはそれを読む気になれないものだし、たとえ読んだとしても、勧めた人と同様の感銘を覚えるとはかぎらない。極端な場合には、どうしてこんな本を勧めてくれたのだろうと訝しくさえ思ったりもするものだ。その人の年齢、職業、育ち、現在の生活状況などによって、本に対する評価というものは大きく違ってくるものだから、そんなことが起こるのは仕方のないことだろう。他人の勧めは参考程度にとどめ、本との出逢いは、やはり、その人なりの生活を通じ、自然なかたちにでなされるのが最善のようである。
  本との出逢いというと、私にも懐かしい想い出がある。たしか、高校一年生の頃だったと思う、たまたま出かけた鹿児島市内の縁日の夜店で、題名さえもよく見ぬままに一冊の文庫本を買い求めた。買った訳をあえて述べれば、古本と銘うたれていたにもかかわらず、その文庫本が真新しいままで、しかもその値段が五円という当時としても破格の安値だったからである。私はその本を持ち帰り、他の本と一緒にそのまま読まずに放っておいた。いわゆるツンドクあるいはタテトクというやつである。
  それから三年余の歳月が流れ、東京に出て大学生活に入ったある日のこと、なにげなく本棚に手を伸ばし、すっかり忘れていた「愛の無常について」という角川文庫版のその本を取り出した私は、冒頭部を走り読みした途端に、すっかりその虜になってしまったのだった。いっきにその本を読み通したことは言うまでもない。天蓋孤独の境遇に加えて、まだ若く不安も迷いも多かった当時のこの身とその心を少なからずいやし、その後の人生にとって大きな示唆を与えてくれることになったその本を、私は、全文を暗記するほどに何度も何度も読み返した。そして、さらに、その筆者、亀井勝一郎の他の作品を片っ端から読み漁った。「我が精神の遍歴」や「大和古寺風物誌」などの著作もずいぶんと印象に残っている。
  著者の亀井勝一郎が、小林秀雄や阿部次郎らと並ぶ当時の著名な評論家の一人であることを知ったのは、その著作を何冊か読み終えたあとのことである。むろん、この歳になれば、その本に対する受け取りかたもずいぶんと異なったものにならざるを得ないし、いま読んで自分が感動する本ということになれば、多分に違ったものになってしまうことだろう。だが、そんなことに関わりなく、「愛の無常について」という一冊の文庫本が私の青春の掛替えのない一里塚であったことだけは間違いない。
  学者や物書きといった人々は、たいてい立派な本棚に大量の書を蔵している。それを目にした一般人は、その種の職業の人々が蔵書を常時利用し、そのほとんどを読破しているものと思いがちだが、まずそんなことは有り得ない。ちょっと指先を濡らしてずらりと並ぶ本の上端部をなぞると、ホコリがべったり付くものだし、そもそも仕事に必要で読む本は、机上や床に散乱しているのが普通である。ともすると、立派な書架に並ぶ蔵書は、初対面の者を心理的に圧倒し精神的に優位に立つための「虚飾性調度品」になってしまいかねない。
  学生に頼んで研究室の蔵書に赤線を引いてもらったというある教授の話を昔耳にしたことがあるが、書物の利用の仕方も人それぞれである。学者の書いた専門書などを読むと、引用文献や参考文献なるものがずらずらと巻末に列挙されているものだが、あくまで「引用」や「参考」なのであって、その著作者がそれらの文献を全部読んだというわけではない。直接の引用ではなく、孫引き、ないしは、そのまた孫引きだなんていうことさえも考えられる。
  本を多読するにこしたことはないけれども、ほんとうに重要なのは、読む本の量ではなく、本の質そのものであり、また、その本をどう読み取りどう活かしていくかということなのだろう。そして、そのために絶対欠かせないのは、自らの意志をもって考える能力と、自らの言葉で想像する力であると言ってよい。

「マセマティック放浪記」
2000年4月12日

川に想うこと

       (その一)

  川の源流は青く澄んでいて美しい。川幅こそ細く狭いけれど清冽な水は激しい流れとなって急峻な谷間を一息にかけくだる。時折そんな源流域を訪ねると、久しく忘れていたものを思いだしハッとさせられることがある。体内に澄んだ水が流れていた頃の記憶が美しく、そして、ちょっぴり恥ずかしく甦えるからだ。
  しかしながら、海に近い川口の風景もまた捨て難い。流れた時間に比例する大地の涙ををいっぱいに溶かし込んでいるから、たしかにその水は濁っており、澄んだ輝きはそこには見られない。けれども、その流れはゆったりとしていて、なによりもその水面(みなも)は広くて大きい。あるときは夕陽に映え、またあるときは街の明りを映し出すその水面は、心の奥に潜んでいるもうひとつの目で見つめると哀しいまでに美しい。そこにはまた、紛れもなく、ひとつの安らぎが棲んでいる。そして、その向こうには悠久の時を湛えた大きな大きな海があって、ひたすら無言で川の流れを受け止めている。
  一本の河川のどの地点に己の心の風景を求めるかは、その人の年齢や生活状況によってそれぞれに違うだろう。ある者は上流の、ある者は中流の、またある者は下流の風景が自分の現在のたたずまいにふさわしいと思うだろう。
  社会という名の無数の支流をもつ川だって、純白のシブキをたてる水、青く澄みきった水、こころもち濁った水、ひどく濁った水、油を浮かべたどす黒い水と、いろいろな色の水をその流れの中に湛えている。多分、澄んだ水も濁った水もその一滴一滴にはそれなりの意味と役割とがあって、それぞれが知らず知らずのうちに作用し合い、一本の川の命をしっかりと支えているのだろう。私の体内に宿る水滴はもう清らかではなく、もしかしたら、すでに、忌み嫌われるほどに悪臭を放つ黒い滴に変わってしまっているのかもしれないが、それでもなんとか海までは流れていってみようかと思っている。

        (その二)

  人生という名の濁流にどっぷりとつかりながら、河口へ河口へと渦巻き流れゆく凡庸なこの身なのだが、旅先などでふと川面を眺めたりするときなどによく思うことがある。人間には三つの象徴的な生き方があるのではないだろうかと……。
  まず一つは、悲喜こもごもの出来事の淀み渦巻く濁流を超然と見おろしながら、川の土手の上を下流に向かって独り黙々と歩んでいく生き方である。ただ、これは世にあって「聖人」と呼ばれる人のみの選ぶことのできる道で、崇高かつ偉大ではあるが、我々凡人には到底真似などできそうにない。
  二つめは、川面に舟を浮かべてそれに乗り、自らはたまに水しぶきを浴びる程度で、直接には流れに身を沈めることのないままに、濁流の力を借りて川を下っていく生き方である。これは、実際には濁流に姿を変えた庶民によってしっかりと支えられているにもかかわらず、見た目には私利を捨て世の人々のために尽くしているように思われる人々、すなわち、諸々の真摯な宗教家や学究一筋の研究者、世の信頼厚い思想家などが邁進する道である。だが、この道も凡人にはやはり無縁であると言ってよい。たまに、濁流に揉まれて舟が転覆することもあるようだが、だからと言って、その隙を狙い不心得者が代わりにそれに乗ろうとしても、そうそう事はうまく運んではくれないものだ。
  三つめは、濁流そのものに身を任せ、自らが濁りの原因そのものとなりながら、あるときは淀み、あるときは激しく奔りつゝ流れ下る生き方である。むろん、これこそが我々凡人の人生そのものと言ってよい。
  我々一般の人間にはどう足掻いても逃れようのないこの三っめの生き方なのだが、濁流に身を任せるからといって、常に心身の奥まで濁りっぱなし汚れっぱなしかというと、必ずしもそうばかりではないような気がしてならない。
  昔九州の片田舎に住んでいたこともあって、大雨や台風の後などに轟々と音をたてながら濁流が渦巻き流れる有様を幾度となく目にしたことがあるのだが、ある意味でそれは浄化作用をともなう実に荘厳な光景でもあった。土手をもえぐる凄まじいエネルギーで河原に積もったゴミや芥をも一気に押し流し、すべてのものを一掃してしまうその不思議な迫力は、幼い心にはとても感動的にさえ思われたものである。 
  さらにまた、そんなとき、濁った水を恐るおそる掬い取って観察してみると、その中に様々な色や形の無数の砂粒が含まれていたことを今もはっきりと想い出す。言うまでもなくそれらの砂粒が濁りの原因そのものだったのだが、その一粒一粒は意外なほどに艶やかで綺麗な輝きを帯びていた。なかでも、石英質の砂粒などは、どうしてこれが濁りのもとになるのだろうと首を傾げたくなるほどに美しく澄んだ光を発したりしていたものだ。
  どんなに川が濁り汚れようとも、濁りのもとである一粒一粒の砂粒はそれ以上輝きを失うことはない。それと同じように、人生という濁流の中に生きる小さく愚かなこの身であっても、心の奥のささやかな一角を、あるいは魂のほんの片隅を透明な色に保つくらいのことはできるのではないかという気はしないでもない。もちろん、人間という砂粒の一つひちつが微かに放つ光の色は、すこしずつ異なっていてもよいと思う。たとえ見かけはどんなに汚れていたとしても、身体のどこかに小さな砂粒を一粒隠しておきさえすれば、大雨が降って激流が渦巻くときなどには、他の無数の砂粒と一緒になって川そのものの浄化の力となることもできるのではないだろうか……。
  青春時代に私が大きな感銘を受けた歌人の会津八一は、「渾斎(こんさい)」という号を名乗り、「渾斎随筆」という随想集を著した。この斎号に、八一は「俗世に染まり切った人間」という自戒の意味を込めたのだろうが、「渾斎」という二文字を敢えて深読みすれば、「濁りて澄める」と解釈できないこともない。もしこの世に「濁りて澄める人生」などというものがあるとすれば、前述したような状況のことを言うのかもしれないと思ったりする昨今である。

「マセマティック放浪記」
2000年4月19日

深川牡丹町の想い出

  もう遠い昔のことだが、貧乏学生の私は、江東区深川牡丹三丁目の峯木さんという靴屋の二階の四畳半に間借りしてなんとか日々をしのいでいた。狭い自室にはもともと炊事設備などなかったし、かりに炊事ができたにしても冷蔵庫などあろうはずもなかったから、毎食自炊をすることは経費的にも時間的にもロスが多すぎた。だから、当時はどこにでもあった安い定食屋に足しげく通ったものだった。
  私が行きつけの「千代」という場末の定食屋の親父さんは、野球評論家の西本さんの風貌をほうふつとさせるような、独特の気品と信念を内に秘めた穏やな人物であった。技師として長年勤めた石川島播磨重工業を退職後、千代さんという女将と老いの駆け落ちに近い状態で深川に移り、町工場の工員や労務者、貧乏学生相手のささやかなお店をその地に開いておられたらしい。何かの話の中で、女将の千代さんもその当時の高名なある俳人の門弟だったと伺った記憶があるから、そこに至るまでのお二人の間には、それなりの深い事情があったのだろう。でもお二人とも息が合い、とても幸せそうに見えた。
  ある時、親父さんの実娘とおぼしき中年の女性がお店やってきて千代さんとなにやら談判している場に行き合わせ、さりげなくその話に耳をそばだてたことがある。その時、毅然として、「私は財産が欲しくてあの人と一緒に暮らし始めたわけではありませんから、財産なんかビタ一文もいりません。もちろん、どんなことがあっても最後まで私はあの人に添い遂げ、自分で一切の面倒をみる覚悟です。だから、あなた方に迷惑をかけるつもりなどまったくありません」と言い放った千代さんの姿を私は昨日のことのように思い出す。一時代前の誇り高い辰巳芸者の意地にも似た一途な心の激しさが、そこには感じられたものである。
  ともかく、私をはじめとする貧乏学生どもはこの方々にずいぶんとお世話になった。損得抜きでにうまいものを食わせてもらい、そのおかげで私などは栄養失調にならずにすんだくらいである。この時代の深川周辺には東京の下町ならではの人情味がまだあちこちに残っていて、その温かさに助けられた想い出はけっして少なくない。鰐の口よろしくパクパクに爪先部の開いた靴を性懲りもなく履いている私を見かねた靴屋の親父さんから、一足靴をプレゼントされたこともある。この親父さんは、お客が売り物の高い靴を買おうとすると、そんな高価な靴を買うよりもあなたのいま履いている靴を直したほうがずっと安上がりだと言って、その場で相手の靴の修理をしてしまうような人だった。
  定食屋の千代さんではマグロのブツ切りをよく食べた。マグロの刺身の値段はマグロのブツ切りの二倍以上もしたのでいつも安いブツばかりを食べていたのだが、これが、量もたっぷりで、実にうまかった。あるとき、たまたまカウンターに並び合わせたお客がマグロの刺身を注文したのに続いて、私のほうはいつものマグロのブツを注文したことがあった。そのあとで何気なく板場に目をやると、親父さんは、まずまずマグロの刺身をこしらえ、まったく同じマグロの肉を使ってこんどはブツを作っているではないか。しかも、ブツのほうが刺身よりも量も多いくらいである。それまで、ブツはマグロの安い余り肉の部分で作っているものとばかり思っていたから、私は、一瞬、我が目を疑ってしまった。どうりでブツうまいはずである。
  隣の客が席を立ったあと、すぐに、私は親父さんに、「刺身もブツも材料は同じだったみたいですけど?」と、小声で尋ねてみた。すると、親父さんは、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、「刺身とブツとは切り方が違うんだよ!」という粋な応えを返してくれたのであった。
  私が九州の島育ちで、魚をさばくのがうまく、頭や鰭、尻尾などのアラが好きだということがわかると、築地の魚河岸に仕入れに行ったついでに身のついた瀬魚のアラを折々持ち帰り、閉店後にそれらのアラを調理場や調理用具ともども無償供与してくれもした。勝手にアラを料理して食べろというわけで、その恩恵に預かり、近くに住む同類の貧乏な友人共一同、アラの手料理に舌鼓を打つことができたような訳だった。
 
  私と友人のほかにはお客のいなかったある晩のこと、たまたま親父さんとの間で中国のことが話題になった。しばし話がはずんだあと、親父さんは、急に思い立ったように、私とやはりこの店の常連だった友人の二人を二階の部屋に招き上げ、小型のダンボール様の箱の奥に大切に保管されたかなりの枚数の写真をそっと取り出した。そして、親父さんは、どこか思い詰めたような表情を見せながら、あらたまった調子で話を切り出した。
 「私はねえ、戦時中、陸軍直属の中国語通訳兼報道担当の任務についていてね、南京事件当時現場にいて写真撮影とその処理に立ち会ったんだよ。敗戦後、日本へ帰国する際、それらすべての写真や関係書類は一枚のこらず消却廃棄するように厳命されたんだが、必死の思いで一部を密かに持ち帰ったんだよ。それがこの写真なんだがね……」
  親父さんは、そこで息を整えるかのように、いったん言葉を切り、さらに、こう続けた。
 「実際それは目にしただけで吐き気をもよおしたくなるような凄惨な光景でね、殺害された無数の人々の間を歩くと膝元近くまである長靴が血の海にずぶずぶとぬかり、長靴の中にまで血がはいってくる有様だったんだよ……。生存者が一人でもいるとまずいからというので、日本兵が銃剣で再度一体一体死体を突き刺しもしていたねえ。あんな愚かなことは二度と繰り返してはならないよ。いろいろと厄介な事情があって、このような写真があることは公表はできないんだけどねえ……」
  その静かな口調には、なんとも形容し難い重い響きが感じられた。遠い日の凄まじい情景が、いまも親父さんの心を苛みつづけてきていることは明かだった。
  古くなり、かなり変色した白黒の写真ではあったけれども、それらの写真にはおびただしい数の無惨な死体が写っていた。いまあらためて振り返ってみても、そのときの親父さんの真意のほどはいまひとつ掴みかねるのであるが、中国の話をきっかけとするやむにやまれぬ思いに駆りたてられてのことだったのだろう。しばらくして私は深川を離れたが、それから数年後にその親父さんは他界された。直接訃報に接することができなかったので、亡くなってしばらくたってから香典をもってお店に千代さんを訪ねたが、千代さんとお会いしたのもそれが最後になってしまった。
  二、三年ほど前、用事があって門前仲町に出かけたとき、ついでにその懐かしい場所を訪ねてみたが、あたりは近代的な街並みに変貌し、昔の街並みのおもかげなどどこにも跡を留めてはいなかった。むろん千代さんのお店が残っていようはずもなかった。
  もう三十年以上前のことなのだが、あの写真がその後どうなったのかだけは、いまだに気にかかる。食い気ばかりが先走る若さのゆえに、当時はことの重大についてあまり深く考えなかったのだが、もう少し詳しく親父さんに話を伺っておけばよかったといまは心から後悔してもいる。
  南京事件はなかったと主張する人々が多くなってきている昨今だが、もしそうだとすれば、南京事件があったとする主張は、中国側が日本に報復するために捏造した虚偽の宣伝、ないしは一部の国賊的日本人(?)とやらによる妄想だということになるのだろうか?
  もしも自分が中国人であったと仮定し、冷静になって考えてみると、たとえ憎い日本人に報復するためとはいっても、実際に存在しなかった大虐殺事件をデッチあげるなんていうことはきわめて不自然かつ無理なことだし、たとえそんな根拠のない主張をしてみても、それが国際的に通用するなどとは考えてもみないことだろう。あの親父さんの言葉や写真に待つまでもなく、南京事件はあったとみなすのがごく自然のことだろう。
  殺害された人々の数についての推定値が中国側と日本側とで大きく異なっているという問題はあるだろう。正確なデータや記録が残されていない以上、加害国側は死者の数をなるべく少なく見積もり、逆に被害国側はその数をなるべく多く見積もろうとするだろうし、残虐行為の状況についても日本側は過小に、中国側は過大に考えようとするだろう。しかし、南京事件が実在したかどうかという議論に関するかぎり、死者数の問題や残虐度についての両国の見解の相違は二義的なことに過ぎないと言える。
  数学の証明ならば百の事象のうち百すべてが成り立つことが必要だが、社会事象における証明では百のうち七十も成り立てば十分と見なすべきだろう。関係事象を百パーセント立証できなければ証明されたとは言えないとする数学的な考え方を社会事象の証明に適用するのは、所詮、無理かつ無意味なことのように思われてならない。社会事象に関しては、二割や三割程度の未解明、未証明の事象があるからといって、問題となっている物事全体を否定するようなことは慎むようにしなければならない。ましてや、唯一つでも成り立たない事例があればその命題は不成立とする数学的な論法を、物事の真実を隠す意図を秘めて社会的事象の存在否定証明にもちこむなどということは、証明論理の悪用以外の何物でもないと言えるだろう。
  己の非は非として潔く認め、そのうえで相手の持ち出す無理難題や過度の責任追究には異議を唱え、的確に外交を進めていくことがこの際必要なのではなかろうか。

「マセマティック放浪記」
2000年4月26日

人生模様ジグソーパズル

 「これからどちらへ?」――信州穂高駅前で観光案内板を眺めていた私は、いきなり肩ごしにそう声をかけられた。「はあ?」と戸惑い気味に振り返ると、見知らぬ老人がいたずらっぽい笑みを浮かべて立っているではないか。一瞬言葉に窮した私に向かって、謎の老人は、「昨日もあなたとお会いしましたよ」と追い打ちをかけてきた。生まれたばかりの樹々の緑が西陽をふくんでやわらかに輝く、ある晩春の夕刻のことである。
  前日、私は、穂高駅に近い碌山美術館を訪ねたばかりだった。どうやら、私が美術館の中庭のベンチにすわり、深い想いに耽っていたとき、老人は客人を伴ってその場を通り合わせ、私の姿を記憶に留めたものらしい。よほど情けない顔でもしていたのだろう。
遠来の客をいま見送ったばかりだが、こんな日の夜はいささか淋しい。こういうときには、一夜の宿を供するふりをして道に迷ったうまそうな旅人をとって食うにかぎる――安達ケ原の黒塚伝説を想わせるそんな意味の言葉を吐いた老人は、私の眼を見てにやりと笑った。相手が妖艶な美女にでも化けて誘惑してくれなかったのは残念だったが、こちらも人を食ってきた身、この際、人に食われてみるのも悪くないと、私はその誘いにあえて乗ることにした。
  山裾の深い林の中にある洋風の屋敷には、見るからに異様な気配が立ち込めていた。老人は、上質の黒毛布を二つ折りにして仕立てたという手製のドラキュラ風マントに着替えてふいに現れ、私の背筋をぞくりとさせた。遠くでフクロウが鳴くというおまけまでついた、この現代の魔宮から無事生還を果たすには、こちらも相手を化かし返すしかないようだった。
  我々は夜を徹して奇妙な対話を繰り広げた。嘘のなかの嘘にもみえて、この世でいちばんの真実のような、大詐欺師同士の対決に似て、実は聖なる二人の高談のような、それはなんとも不思議な歓談だった。
  生涯に四十余の職業を体験したという老人は、己の人生を系統だてて語る好みはないと嘯き、どうしても自分の過去に興味があるというのなら、ジグソーパズルを解くように様々な話の断片を繋ぎ合わせ、勝手に全貌をつかめばよいと笑って、私を煙に巻いた。東京に戻ったあと、私は、お礼の意味を込めて、次のような一篇の戯詩を書き送った。

   風の対話

別々のところから旅してきた
透明な風と風の出逢いのように
光を発して瞬時にお互いの体を通り抜け
そしてすぐさま別れました

嘘のなかの嘘のような
真実のなかの真実のような
古くからある話のような
誰も知らない奇談のような
大詐欺師同士の対決のような
聖なる二人の高談のような
それは不思議な出来事でした

どこかで聞いた小噺のような
初めて耳にする物語のような
リアリティなど皆無のような
しかしなぜか信じられるような
モームの語る世界のような
モームその人のおとぼけのような
それは奇妙な対話でした。

  手紙を投函しながら、もしかしたら、もうあの屋敷は影も形もなくなっているかもしれないという想像をめぐらせたりもしたが、幸いその手紙は無事老人の手元に届いたようだった。それからというもの、私は、老人お気に入りの十三日の金曜日を選んでは穂高に出かけ、ジグソーパズルに挑戦した。その結果浮かび上がった老人の人生は破天荒そのものだった。
  旧制福岡高校卒業後に上京、本郷赤門前のカフェバーのボーイを振り出しに、貨物船の船員、さらには中国の青島で香具師の右腕を務めた若者は、やがて大連に移って同地の外国銀行の有能な行員となり、ついには上海に出て日本語学校を開校、一躍その地の名士となる。かつてミッキーカーチス氏の母堂はその日本語学校の教師を務めておられたという。
  敗戦後いったん帰国した彼は、天運と才覚の赴くままに戦後初の民間日本人として渡英、BBC放送日本語部のアナウンサー兼放送記者となって「ロンドン今日此の頃」という番組を担当するようになる。1953年には、エリザベス女王の戴冠式出席のため訪英した皇太子(現天皇)をNHKから派遣された藤倉修一らと共にサザンプトン港に出迎え、各地を案内するとともに、戴冠式前後のロンドンの様子を日本国民に伝えるため連日のようにマイクをとった。
  のちにBBC放送を辞して帰国した彼は、松本で英会話学校を開くかたわたら、シャーロックホームズをはじめとする英米文学の陰の名訳者として、大久保康雄をはじめとする著名な翻訳家や英文学者たちのゴーストライターを演じもした。すでに齢八十を超えたこの石田達夫という老人の数奇な生涯を、私はいま少しずつ筆に托しはじめたところである。

「マセマティック放浪記」
2000年5月3日

無責任確率談話

  ある論理体系が根源的な意味で破綻しているということと、人間にとって、その論理がある有限の時空内や一定の歴史的背景のなかで有意義であるということとは、分けて考えなければならない問題である。そうでなければ、人間活動のすべてが否定されてしまうことにもなりかねないからだ。
  確率論ひとつをとってみても、厳密に考えるとすると、主観的確率(数学的確率とも呼ばれる)と客観的確率(統計的確率とも呼ばれる)の区別といったような面倒な議論から始めなければならないわけで、専門家にとってもそれは厄介な問題だと言ってよい。実際、いまにも倒れそうなボロ家をつぎはぎ細工しながらなんとか体裁を保っていくという作業が、確率論の世界においては何時果てるともなく続けられているのである。なんとか住めるには住めるが、何時なんどき壁に穴が開くかわからない。嵐のために屋根が吹き飛んでしまうかもわからない。でもまあ、当面、雨露や冷たい風を凌ぐことはできるから、その家の存在はそれなりには有難い、とでもいったようなところだろうか。
  残念なことではあるが、「絶対に落ちない飛行機」は造れない。だから、飛行機に乗らないと考えるか、安全率に賭けて飛行機に乗るかは、時代の背景や人それぞれの人生観に基づく判断に委ねられることになる。社会事象や自然界の事象に確率論を適用する場合は、一般には、どうしても、過去の事象の様態に基づくデータから未来の事象の様態を予測する(ただし、量子論や宇宙論の場合は過去の予測をしたりすることもあり、また、最終的には過去も未来も超越する話になってしまったりするわけだが)というプロセスを踏まざるを得ない。その場合、その確率的予測が意味を持つためには、「その予測のもとになった諸事象の様態がこれまで通りに展開するのであれば」という暗黙の前提が存在していなければならないわけで、その大前提が崩れた場合には、その確率的予測はほとんど意味を持たなくなる。
  未来の状況がわからないから予測したい。でも予測が当たるためには、これまでとおなじように諸々の事態が展開していくことが前提となる。しかしそれじゃ、まるで予測の意味がない……。 未来の状況がわからないから予測したい。でも予測が当たるためには、これまでとおなじように諸々の事態が展開していくことが前提となる。しかしそれじゃ、まるで予測の意味がない……。一般には、サイコロの各々の目が出る確率は六分の一で、振る回数を増やしていけば各目の出る割合は六分の一にいくらでも近づいていくと信じられている。しかし、そのためには、「一から六までのどの目も完全に同じ割合で出るサイコロがあるとすれば」という大前提が存在していなければならない。いったい誰がどうやってそんなサイコロをつくることができるというのか……まさか、振ってみてそれを確かめるというわけにもいかないだろう。それでは循環論に陥ってしまう。
  これはとてつもないパラドックスであるが、パスカル、ラプラス、ガウスといった確率論の元祖達はもとより、それ以降のどのような天才の頭脳をもってしても本質的にこの逆理を解消することは出来ないできている。確率論の専門書を開くと、一般人には意味不明の奇怪な数式がところ狭しと並んでいるが、あれはボロ屋を見かけ上補強したり装飾しなおしたりして、事情を知らない通行人には立派な建物であるように思わせているだけのことである。もちろん、先に述べたように、それにはそれなりの有意性はあるわけで、それが全く無意味ということではない。ある範囲とある条件下で、それは有効かつ有益ではあり、そのこと自体はそれなりに評価をしなければならない。
  ある不規則な形状の地面に水を流す場合、その流路を正確に予測することは不可能である。行く手に木の葉が一枚舞い落ちてきたとか、風が急に吹いたとか、水を吸って盛り上がった部分が崩れたとか、たまたま通りかかった人や車の影響があったとかいったように、ちょっとした条件の変化でいきなり流路が変わってしまうことはよく知られる通りである。
  もちろん、流路が決定したあとで、そうなる確率(これもかなりいい加減な話であるが)を算定することはできるが、この確率的数値は、その後の流路の厳密な予測にはあまり意味を持たない。だだ、そうはいっても、ある範囲では役立つわけで、そこが厄介なところである。
  東京タワーのてっぺんからチリ紙の切れ端を一枚飛ばせておき、それがどこに落ちるかを、あらゆる科学的分析ををもとに確率論的に予測する場合、一キロメートル単位の誤差を許すならば予測が意味を持ちうるだろうが、一ミリメートル単位の誤差しか許されない精度となると、いくら予測をやってもまず無意味であろう。予測の正しさを確認するには、チリ紙の断片の落下位置を一ミリメートル単位の正確さで測定しなければならない。そこで、落下位置を正しく確認するために測定機器をもって人が近づくと、それだけであたりの大気が微妙に揺れ動き、落ちる位置が変化してしまう。いうまでもないが、これはハイゼンベルクの不確定性理論でいう、いわゆる「ゆらぎ」の一例である。
  つまるところ、確率というものの評価は、評価のために必要な認識尺度や意味の尺度をどのレベルにとるかによって、有意、無意のどちらにも転び得る可能性があるわけだ。したがって、前提となるそのへんの厳密な議論なしに確率論をやたら振り回しても得られるところはあまりないことになる。
 
  ついでだから、主観的確率と客観的確率に絡む有名なパラドックスをひとつ紹介しておこう。時間のある方は、ご自分でどこがおかしいのか考えてご覧になるとよい。

  昔暴君の支配していたある国の監獄に十人の政治犯死刑囚がいて、そのうちの九人は翌日処刑されることになっていた。ところが、その中の一人の死刑囚が、たまたま見回りにやってきた刑務所長をつかまえてこう話しかけた。
 「わたしは明日、十分の九の確率で死んでゆく運命にある人間です。所長、お願いですからそんな私の頼みをひとつだけかなえてください」
  やむなく刑務所長がその言葉に耳を傾けるとその男はこう続けた。
 「私が明日処刑されるかどうかは教えてくださらなくても結構です。そのかわり、私を除く九人のうちどの八人が処刑されるかをそっと教えてください。けっして他の囚人には口外しませんし、また、私自身は処刑されるかどうか明日にならないとわからないわけですから、あなた自身も取り合えずギリギリのところで秘密義務は守れることですし……」
  男の必死の嘆願にほだされた所長はその要求をのみ、そっと男に問題の八人の名前を告げた。すると、その死刑囚は急に明るい表情を見せながらこう所長にお礼を述べた。
 「さきほどまで、明日私が死ぬ確率は十分の九でしたが、これで、私が明日死ぬ確率は二分の一になりました。お蔭で随分と気分が楽になりました。ほんとうにありがとうございます!」

  このパラドックス、何かがおかしいことは誰にもすぐにわかるのだが、いざそれを明快に説明しようとすると、思考が混乱して、なにがなんだかわからなくなってしまう。そこで、トランプのカードを例にとりながら、いま少し具体的に考えてみることにしよう。
  かりに刑務所長が、ハート一枚、スペード九枚からなる合計十枚のカードの中からある囚人に一枚だけカードを引かせてそのカードの裏に印をつけさせ、囚人にはそのカードが何であるかを見せないまま、印のついてるカードを意識的に残し(この意識的に操作しているところが問題な訳である)、他の九枚のカードのうち八枚のスペードのカードをめくって見せたとする。すると残りは二枚で、確かに一枚はハート、一枚はスペードであるが、この場合、裏に印のついているカードがスペードである確率は二分の一ではなく十分の九であることは言うまでもない。印のついたカードがハートであれば処刑されないですむとすれば、その男が生き延びる確率は十分の一、処刑される確率は十分の九であることに変わりはない。
  では、もしも、所長が、十枚中、ハート一枚、スペード九枚というカードの構成を囚人には明らかにせずに一枚を選ばせ裏に印をつけさせ、男の選んだカードを含む二枚のカードだけを残したとしてみよう。囚人が選んだカードがハート、スペードのどちらであったにしろ、一枚はハート、一枚はスペードになるように細工をしておくのはもちろんのことである。そして、どちらが男の選んだカードかを相手に悟られないようにしながら、表をちらりと見せて、確かに一枚がハート、一枚がスペードであることを確認させたあと、再び裏返しにしてよく切り、それからおもむろに、「お前の選んだカードはこの印のついたやつだ。いまお前に確認させた通り、一枚はハート、一枚はスペードだ。お前が選んだこれのカードがハートなら処刑はしない。そのかわり、スペードならお前は処刑だ」と告げたとしよう。
  このケースでは、囚人の男は所長の良心に賭けて、自分の選んだカードがハートである確率もスペードである確率も二分の一だと信じるしかないわけである(主観的確率)。いっぽう、すでに結果を知っている刑務所長のほうは、助かる望みははじめから十分の一しかなかったのだと内心で思っているわけである(客観的確率)。このパラドックスが厄介な原因は、それなりには筋の通った主観的確率と客観的確率との双方が人間の思考の中で交錯し、そのモツレをうまくほどくことが難しいことにある。
  この手の典型はイカサマサイコロで、そのサイコロの重心が一の目のほうに大きく偏っていることを経験的にあらかじめ知っている人間とそうでない人間とがいる場合、知らない人間のほうはどの目が出る確率も六分の一だととりあえずは信じるしかない(主観的確率)わけだが、他方は一の目の出る確率が他の目の出る確率に較べて遥かに高い(客観的確率)ことを知って有利に勝負を進められることになる。この例は簡単だからよいものの、社会事象や自然界の事象にはこれと同じ状況が何重にも複雑怪奇に錯綜しており、客観的だと信じている我々自身(もちろん、専門家も含めて)が、実は前述の囚人と同じ主観的立場に置かれているということも少なくない。
  とにかく、ある事象の確率というものは、視座のとりかたによって異なってくるもので、実は相当に相対的なものなのだ。はじめの死刑囚の問題においても、暴君の残虐さに呆れ果てた法務大臣が、翌日秘密裏に命令を出し、そのうちの五人を特赦しようと決意していたとすると、刑務所長が客観的だと信じているその確率には、実は、その時点で客観性がなくなってしまっているわである。

「マセマティック放浪記」
2000年5月10日

野良猫と野良チャボ

  東京府中の東京農工大学キャンパスは、我が家のすぐ北側に位置している。建前としては部外者が構内に入るために許可が必要なことになってはいるが、事実上、周辺住民は構内を自由に通行することができる。車道を挟んで農工大と隣接する私立高校の生徒たちなどは大学構内を南北に横切る通路を通学路に利用しているくらいである。いまさら部外者の無許可入構を禁止するなどと言われても、長年にわたって構内を散策したり通行したりすることに慣れてきた近隣住民は、そんな規制に素直に従ったりしないだろうから、大学側にしても現在の状況を黙認するしかないのであろう。それに、これからの大学の発展にとって、地域住民との自然な交流は不可欠なことに違いない。
  農工大構内のあちこちには欅の大木をはじめとする種々の樹木が繁っていて、柔らかい若葉の芽吹くこの時節の景観はとくに素晴らしい。正門から構内へと続く通路は、いま見事な欅の若葉のトンネルに覆われている。折々の季節を彩る花々や温室内で実験栽培中の観賞用植物なども散策者の目を楽しませてくれる。仕事に疲れたときなど心身をリフレッシュするために構内を歩き回る私にとって、その緑豊かなキャンパスは「借景の庭」どころか「無断借用の大庭園」なのである。
  キャンパスの東側には広々とした実験用農場があって、季節に応じた様々な作物や果実類が栽培されている。ちょうどいまは畑一面に麦が青々と繁っているところである。畑の片隅ではソラマメなども育っているようだ。天気のよい日などにこの農場内の作業用路を散歩をするのは、ちょっとした贅沢かもしれない。いまどき都会では珍しいくらいに四方の空がひらけていて、夕焼けの空も、そしてそれに続く夕月の輝きや星々の煌きも美しい。靴裏に懐かしい土の感触を覚えながら、四季折々の作物の成長ぶりを眺めてまわるのもおつなものである。早朝や夕刻などは犬を連れて散歩にやってくる人も少なくない。
  現在、我が家では犬も猫も飼ってはいないが、農工大キャンパス内をはじめとするこの一帯にはかなりの野良猫が生息している。我が家の周辺にも生後一、二年ほどの野良猫のの五兄弟が棲んでいて、時々餌をねだりにやってくる。厳しい環境の中で身を守る知恵なのだろうか、眠るときも餌を漁るときも彼らは集団行動をとっているようだ。どれもがなかなかの「猫相」をしていて、当世の飼い猫などには見られない実に猫らしい風貌を湛えている。
  ところがそれら五匹の中に一匹だけちょっと変わった奴がいる。最近、私はその雄猫にに「犬猫」という呼び名をつけた。夜などに散歩に出かけると、そいつは目ざとく私の姿を見つけてどこからともなく現れ、ピーンと尻尾を立てながらどこまでもあとをついてくるからだ。猫のくせにまるで犬そっくりなのである。最初は餌をねだっているのかと思ったのだが、どうやらそうでもないらしい。その行動をじっと観察してみると、私のあとについて自分の知らないところまでやってくること自体に喜びを感じているようなのだ。人間にも異常な放浪癖をもつ者がいるように、猫にも生まれつき放浪癖をそなえた奴がいるのだろうか。もしかしたら、この「犬猫」は私に同類のよしみを感じとっているのかもしれない。そう思うと、私はなんとも複雑な気分になってきた。
  農工大周辺を一周するだけでも相当な距離があるのだが、その「犬猫」は一定の距離を保ちながら、私が気まぐれな散歩を終えて家に戻りつくまでずっとあとをついてくる。なにかの拍子で距離があきすぎると、まるで「ちょっと待て」と言わんばかりに、ニャーンと鳴く。そのくせ、どんなに呼び寄せてみても一、二メートル以上は近寄ってこない。一度でいいから奴の体に触ってやろうと、こちらはじっとチャンスを伺っているのだが、相手はとっくにこちらの胸の内を読んでいるらしく、手を伸ばすと素早く身をかわして遠ざかってしまう。
 「お前のあとについてはいくけど、俺には俺の自由があるから触られるのは絶対嫌なのさ。野良猫には野良猫の誇りがあるからねえ!」と相手は言いたげなのである。「犬猫」と私とのこの奇妙な関係はいったいいつまで続くのだろう。むろん、彼は相当に気まぐれで、昼間、他の兄弟猫や野良猫仲間とのんびり過ごしているときは、横目でこちらの様子を窺ったりはするものの、あとは素知らぬ顔である。
  農工大キャンパスの南側には馬術部の使っている砂敷きの馬場があって、そのすぐ脇に南門がある。この門の周辺の空き地や林の中には、野良猫のほかに野生化した一群の野良チャボが棲んでいる。この野良チャボども、野生化しているだけあって、気性が激しい。いまどきの飼い馴らされた犬や猫などが下手に近づいたりしようものなら、たちまち突つき返されてしまう。時折、大きな野鳥を狙う野良猫どもだって、ここの野良チャボどもにはまったく手の出しようがないようだ。動物好きな近所の住民が時折残飯などを与えているのを目にするが、野良チャボどもは我がもの顔に振る舞ってまっさきに餌をついばみ、そのおこぼれを野良猫どもが鳩の群と一緒になって頂戴しているありさまなのだ。
  林も藪も多く、広い構内に各種の建物や施設が複雑にの入り組んでいるので、どこで抱卵しているのかはよくわからないのだが、ある日突然に親チャボがゾロゾロとかわいい雛を連れて姿を現わすことがある。いまどきの都会では珍しい、なんとも微笑ましい光景で、通りかかる人々の心を和ませてくれることは言うまでもない。だが、自然界の掟はここでも厳しく、その小さな雛たちをカラスや野良猫の群が狙うから、実際に成鳥となるのはほんの一部に過ぎないようだ。敢えて自然淘汰の赴くままにまかせ、生まれた雛を人為的に保護し育て上げようとしないのは、いかにも動物の専門家の多いこの大学のことらしい。そもそもこれら野良チャボどもの所有権が誰にあるのか、いまではもうよくわからない。
  面白いのは野生化したこの野良チャボどもの生態である。我が家から五、六十メートルほどしか離れていない南門の周辺には、高さ十メートルを超える欅やエンジュ、檜、楠、白樫、赤松などの大木が生えているが、日が暮れると彼らはそんな樹木のてっぺん近くの枝までのぼって、そこで眠り夜を明かすのだ。身を守るため、安全な高木の枝間をねぐらにしている訳である。嵐の時などにどうしているのかはわからないが、長年にわたって無事に生き延びているところをみると、それなりに野生の知恵を働かせ風雨を凌いでいるのだろう。
  ところで、それらのチャボどもが、どうやって高さ十メートルほどもある樹の枝までのぼることができるのかと首を傾げる人もあるだろう。いくら野生化したとはいっても、まさかカラスやハトなどのように自由に空を飛べるようになったわけではないのだから、当然彼らなりの方法があるはずだ。最初は私も疑問に思ったのだが、夕刻、彼らの生態を観察するうちに、その謎は容易に解けた。彼らは、激しく羽ばたいて地上から飛び上がると、まず、二、三メートルほどの高さの枝にとまる。そして、そこでしばらく羽を休めると、再び激しく羽ばたいて、そこからさらに二、三メートル上の枝に飛び移る。あとは同様のことを繰り返して地上十メートル前後の高さにまで到達するわけだ。
  夏期などには午前三時か四時頃になると、コケコッコーという勇ましい鳴き声が聞こえてくる。距離が近いばかりでなく、なにせ相手は樹木のてっぺん近くで鳴いているのだから、声の通りがよいことときたらこの上ない。夜十時頃から翌日の明け方にかけて仕事をすることの多い私などは、そろそろ寝ようかと思う頃にコケコッコーとやられると、世間様と時間感覚に大きなズレのある己の生活の状況に一抹の罪悪感をさえ覚えてしまう有様なのだ。最近はやたら街灯の数が増え周辺が明るくなったせいか、気の早い奴などは、午前零時頃になると、もうコケコッコーとやっている。体内時計が狂っているのはどうやらこの身だけではないらしい。野良チャボどもだって時間感覚がわからなくなってきているらしいのだ。
  ときには野生味あふれるこのチャボどもを眺めながら、これを捕まえて食ったらさぞかし美味いことだろうなと妙な想像をすることもある。昔は、私が育った九州の田舎などでは祝い事がある時など、どこの家でも自分の家で飼っている鶏を絞めて食べたものだから、当然私も鶏を絞める技術やその料理法を身につけている。むろん、放し飼いに近い状態で育った鶏がどんなに美味かも熟知している。私が祖父から教わった鶏の絞め方は、太目の羽を一本抜き取り、その尖った付け根の先端を鶏の頭の耳部から脳に向かって刺し込むもので、この方法を用いると鶏がもっとも苦しまなくてすむとのことだった。
  現代の都会育ちの人々には残酷だと思われるかもしれないが、一昔前の田舎育ちの人間には、それは生きていくために必要な生活技術の一つだった。幼少期にそんな体験をしたら、長じて残虐な性格の持ち主になるのではなど危惧するのはなんとも短絡的な考えで、実際には、むしろそのような経験を積むことによって昔の人は命の尊さを学んでいったものなのだ。
  若狭の若州一滴文庫などで何度かお会いしたことのある劇作家の倉本聰さんは、「富良野塾への入塾希望者者には、男女を問わず皆に一度は自分で鶏を絞める体験をさせる。それが出来ない者は入塾させない」と語っておられた。むろん、それは、真の演劇を志す者は、何よりもまず、他の生き物の命を絶つことによってはじめて生きている人間というものの本質を一度は体感していなければならないという、倉本さんの厳しい理念のゆえである。
  いくら美味そうに見えるからといっても、さすがに農工大の野良チャボを捕まえて食べてみようという気は起こらなかったが、ある時、我が家の庭先まで遠征してきた一羽のチャボが、家の裏手の塀と壁の隙間にはまり込んで動けなくなってしまうというハップニングがあった。チャボを救出したあと、当時まだ幼かった娘のほうを振り返って、「いまからこれを料理して食べよう。きっとうまいぞ!」といってからかうと、「やめてー、やめてー、鶏さんがかわいそうだよーっ!」と真顔で抗議された。そんな娘の姿を見ながら、そのとき、私も小学生時代のある出来事を想い出した。
  田舎の我が家に飼っていた鶏の中にひときわ立派な雄鶏がいた。全身を覆う美しい羽毛といい、その見事な体型といい、さらには他の鶏たちに対する振舞いといい、なんとも風格のある雄鶏で、私はとくに彼に目をかけていた。ある日の夕方、帰宅してみると祖父の大事なお客が我が家に見えていた。そのお客を歓迎するためだったのだろう、その晩の夕食は、鶏鍋や鶏飯をはじめとするめったににお目にかかることのないような豪華な鶏料理であった。だが、「いったいこの鶏は……?」という疑問が幼い私の脳裏をよぎったのは、うかつにもしばし料理に舌鼓を打ったあとのことであった。翌朝、問題の雄鶏が姿を消してしまっていたことはご想像の通りである。
  どの家も自給自足に近い生活を送っていた当時の離島の状況にくわえて、たまたま天候不順な日が続き魚のほうも不漁だったことから、賓客をもてなすには大事な鶏をつぶすしかないと祖父は決断したらしい。それはそれで仕方のないことだったのだろうが、私にはなんとも悲しい出来事だった。それからしばらくの間、幼い私の胸の中で複雑な思いが渦巻いていたことはいうまでもない。

  実験用農場の麦畑のまだ青い麦の穂を眺めているうちに、私の脳裏にいまひとつ懐かしい記憶が甦ってきた。成熟期に近い麦の穂を摘んで学校に持って行き、その穂を逆さま、すなわち、穂の付け根のほうを上にして、クラスの仲間のズボンやスカートの裾の内側に気づかれぬようそっとつけやる。麦の穂には鋭くて弾力性のある多数の細長い毛が生えており、その毛がズボンやスカートの生地にすぐ引っかかるから仕掛けるのに苦労はない。そんなこととは知らない相手が身体を動かすにつれて麦の穂は衣服の中を上へ上へとのぼっていく。面白いことにそんな麦の穂はまずもって下に落ちてしまうことはない。
  やがて麦の穂が股間から腹部に達すると、薄い肌着の上から鋭い穂の毛先がチクチクと
皮膚を刺しはじめる。ちょっと痛痒いようなムズムズとした感覚に襲われた相手は、このときになってなんだか変だなと気づくわけである。異物があるとわかっても授業中などに服をめくったり脱いだりして原因を調べるのは容易でないから、仕掛けた側はニヤニヤしながら麦の穂の暴れぶりを横目で楽しむわけである。
  そう言えば、中学時代は農作業の時間があって、技術家庭の時間などには学校内の菜園で野菜類の栽培実習などが行われていたものだが、圧巻は生肥えの運搬だった。肥え桶に学内トイレの人糞や尿を長柄杓で汲み入れたあと、その肥え桶を担ぎ棒の中央に吊るして運ぶのである。二人一組になって肩で担いでかなりの距離を運ぶのだが、桶が激しく上下動を繰り返すにつれて桶の中の生肥えには複雑な揺れが生じてくる。そうなるともうたまったものではない。歩を運ぶにつれてピチャピチャと勢いよく跳ね上がる飛沫を避けるのは至難の業だったからだ。運が悪いと担いでいる途中に肥え桶の紐が切れるという悲劇も起こったりしたものだ。
  校長先生や教頭先生用の野菜を栽培している菜園には溢れるほどにたっぷりと生肥えを注ぎ込んだ。生育中のキャベツなどには、葉の奥までしみこむように上からどっぷりと人糞と尿をかけたものだ。育ち盛りの悪ガキどものささやかな抵抗だったわけである。
  新緑の美しい農工大周辺の小景を軽く描写するつもりが、連想に次ぐ連想に誘われるままに、とうとう遠い少年時代の懐かしい出来事の回想にまで及んでしまった。これもまた「無断借用の大庭園」の冥利に尽きるというものだろうか。

「マセマティック放浪記」
2000年5月17日

高ボッチ山にて

  いま五月五日の午前二時、私は標高一六五五メートルの高ボッチ山頂に立っている。気温は零度に近く、頬をなでる大気は冷たいが、頭上には満天の星空が広がり、はるかに仰ぎ見る銀河の流れが美しい。三百六十度の展望がきくこの頂きの空はとにかく広い。北西方向の眼下には塩尻から松本にかけての市街地の明かりが幾何学模様を描いて綿々と連なり、南に視線を送ると、諏訪から岡谷にかけての民家の明かりが、そこだけ暗い諏訪湖の湖面を取り巻くようにして輝いているのが見える。
  北の空を見上げると、右下に向かって大きく柄杓を傾けた感じの北斗七星と、すこし変形気味のW型をしたカシオペア座が静かな輝きを放っている。都会などではなかなか見分けにくい北の一つ星「北極星」もはっきりと見える。四百光年ほど離れたこの星は、その光のスペクトル分析から、実際には三つの星が互いに回り合う三重連星だろうと推定されている。
  南天に目を転じると、サソリ座がその大きくのびやかな姿を見せている。サソリの心臓の異名をもつ一等星アンタレスの赤い輝きがひときわ明るい。五百光年の彼方にあるこの星は、太陽の七百倍もある赤色超巨星で、すでにその生涯の最終期を迎えている。大膨張にともなって密度は真空に近い希薄になり、表面温度も下がっているため、遠くから見ると赤く見える。やがては急激な収縮に転じ、超新星爆発を起こす運命にあると言われている。
  あらためて天頂方向を眺めやると、天の川をはさんで、織姫と牽牛がその悲恋の物語を訴えかけるかのように青白色の澄んだ光を発している。織姫と牽牛との年に一度の逢う瀬は夏の七夕前後の宵空と世間では相場がきまっているのだが、実は、この二人、四月から五月の頃は草木も眠る丑三つ刻の深夜にデートを重ねているのである。もっとも、二人の間を隔てる天の川の水はけっして涸れることがないのだから、デートとはいっても、お互い別々の岸辺に立って名を呼び合うことが許されるだけで、実際に抱擁し合うことは難しい。そんな二人を隔てる天の川のただなかにあって翼をいっぱいに広げているのは白鳥だ。たまには織姫を背中に乗せて牽牛の立つ対岸へと運んでやってもよさようなものだが、その美しい姿に似合わず、白鳥はなんとも薄情なようである。
  織姫はヴェガと呼ばれる琴座の主星で、北天では最も明るい〇・一等級の光度をもつ。二十五光年という割合近い距離にあり、我々の住む太陽系全体は、現在、銀河系内をこの星のあるほうへと向かって動いている。牽牛は鷲座の一等星アルタイルで、十六光年とやはりその距離は近い。直径は太陽の一・七倍程度だか、太陽の百倍以上の速度で自転していることがわかっている。白鳥座でひときわ目立つのは一等星のデネブだが、この星は直径が太陽の六十倍、質量も二十五倍ある白色超巨星で、現在猛烈に活動中である。ただ、その寿命は一千万年と星としてはきわめて短く、やがて超新星爆発を起こし、ガス化ないしはブラックホール化する運命にあるという。距離は一八〇〇光年で、ヴェガやアルタイルに較べるとかなり遠い。
  ヴェガ、アルタイル、デネブの三星を繋いでできる図形は「夏の大三角形」と呼ばれているが、実際には他の二星に較べデネブだけが遠いところにあるわけだ。星が南中する時刻は毎日四分くらいずつ遅くなるから、この深夜に山上で私が眺めている星空は、真夏時の宵の刻に見られる詩情豊かな星空に相当していることになる。
  壮大な宇宙のドラマは人知をはるかに超えている。しかしながら、たとえどんなに宇宙のドラマが荘厳かつ壮麗であったとしても、その神秘のドラマに感動できる「意識の主体」がなかったならば、宇宙の存在はつまるところ無に等しい。そこにはただ、漆黒の闇がはてしなく広がるばかりなのである。小さな小さな存在ではあるけれども、人間というものは宇宙が自らを映し見るためのささやかな鏡の一つにほかならない。壊れやすい歪んだ鏡かもしれないけれど、そして永遠に完成することのない鏡かもしれないけれど、我々人間が実存する意義はそれなりにあるのだろう。
  我田引水めいた話になって恐縮だが、かつて私は、そんな想いを込めながら、「宇宙の不思議がわかる本」(三笠書房、知的生き方文庫、菊山紀彦氏との共著)という本を書いたことがある。出版社の意向によってつけられた大仰なタイトルには、正直なところ筆者の私自身も少々恥ずかしさを覚えるが、それでも、一般読者の方々に最新の宇宙科学の全容をなるべくわかりやすく伝えることができるように、サイエンスライターとして最大限の努力は傾けた。近代宇宙科学史としても読めるようにそれなりの工夫を凝らしてもある。一章から五章までは私の執筆、六章と七章は共著者の菊山氏(元種子島及び筑波宇宙センター所長)の講演や新聞原稿を私が整理、再文章化したものだが、現在も入手可能なので、もしご一読いただけるならば幸いこのうえないことである。

  高ボッチ山は安曇野南部の塩尻市の東方に位置している。私は昔から高原状に広がるこの山を幾度となく訪ねてきた。かつてはダートだった道も近年はすっかり整備が行き届き、車でのアプローチも容易になった。山頂近くの駐車場からゆるやかな斜面を少しだけ歩いて登り頂きに立てば、文字通り三百六十度のパノラマを満喫することができる。すぐ近くにはちょっとした牧場もあるし、夏季には山頂一帯に咲き乱れる各種の高山植物の花々も楽しめる。信州の高原というと美ヶ原のほうが有名だが、私は、訪れる人の少ないこの高ボッチのほうが好きである。高ボッチ山のすぐ隣には二千メートル弱の標高をもつ鉢伏山もあり、高ボッチから車で二十分ほど走り、そこからさらに二十分ほど歩いて登るとその山頂に立つことができる。
  星空の観察にはもってこいの高ボッチ山や鉢伏山だが、いまひとつ掛け値なしに素晴らしいのが、その頂きからの眺望である。天候にさえ恵まれれば、日本にある三千メートル級の山々のほとんどを眺めることができるのだ。とくに四月初旬から五月にかけてと晩秋から初冬にかけての展望は抜群だ。三月頃までは残雪のため中腹から上の道路がアイスバーンしているので、途中から歩かなければならないが、その苦労を厭わないなら、もちろん息を呑むような周辺の雪山の景観を一望のもとにおさめられる。その時期なら人跡のまったくない純白の乾いた雪に自分だけの足跡をしっかりと刻むこともできる。

  時刻はいま午前五時……二時間ほど車に戻って仮眠したあと、私は再び高ボッチ山頂に佇んでいる。山頂への歩道には霜柱が立ち、吹きぬける風こそ冷たいが、明るみはじめた空には雲の影一つないから、最高の眺望が期待できそうだ。東の空が明るみ、赤紫から深紅色、そして黄紅色へと朝焼けの色が変わるにつれて、残雪を戴いた遠くの山々が美しい姿を現しはじめた。期待にたがわぬ壮大な眺望である。
  北東の方向はるかなところには浅間山の特徴的なシルエットがうっすらと浮かんで見える。東の方角では頂上を平にスパッと切り取ったような形の蓼科山がその存在を誇示しはじめた。蓼科山には学生時代に一度だけ登ったことがあるが、遠くから見ると平らに見えるその頂上一帯が大小の溶岩で埋め尽され、想像とは裏腹にひどくゴツゴツした地形になっているのは驚きだった。蓼科山の右手にあって長く大きな山容を東南方向へと連ねているのは、横岳から天狗岳、赤岳、権現岳、編笠山と続く八ヶ岳連峰である。まだ頂上一帯を覆っている残雪がほのやかなピンクの輝きを発しはじめた。向かって一番右端に位置する編笠山の雄大なスロープはいつ眺めても美しい。初冬期の八ヶ岳を縦走した遠い日の懐かしい情景が、この時とばかりに記憶の底から甦ってきた。
  編笠山とその右手に連なる南アルプス連峰との間は大きく落ち込んでいて、その鞍部の向こう側には富士山がいつもながらの秀麗な姿を見せている。鞍部のあたりが甲州街道の富士見峠で、その手前に広がるのが諏訪湖を中心とする諏訪盆地だ。八ヶ岳連峰南端の編笠岳を露払いに、また南アルプス北端の甲斐駒ケ岳を太刀持ちにした朝の富士山の土俵入りが眺められるのは、この高ボッチならではのことなのだ。甲斐駒ケ岳から、鳳凰山、仙丈岳、北岳、間の岳と連なる南アルプス連峰の頂きは、まだ真っ白である。雪のなくなったこの高ボッチ山の植物群だってまだ半ば眠った状態のままだから、南アルプス連峰の頂上近くのあの豊かな高山植物群落は雪の下でいまなお深い冬の眠りについているに違いない。
  朝の大気が珍しいほどに澄み渡っているせいで、今朝は南方にはるかに中央アルプスの空木岳や木曽駒ケ岳の姿も望まれる。もちろん、その峻険な頂き一帯は東の空に昇りはじめたばかりの太陽の光の中で鮮やかな紅白色に輝いている。木曽駒ケ岳の宝剣直下のカール斜面には、スキーやスノーボードの得意な若者達が今日も多数集い、残雪の上でその名人芸を競い合うことだろう。木曽駒ケ岳のすこし右手、南西の方向にあって、巨大な白銀の王冠を連想させる独立峰は、いうまでもなく木曽の御嶽山だ。御嶽山麓の開田高原や檜で知られる赤沢の美林は過去幾度となく訪ねたことがあるし、御嶽山頂にも二度ほど立ったことがある。
  真西の方角には乗鞍岳がその雄大な姿を見せている。高ボッチ山から眺めると、たしかにその形は大きな白銀の鞍にそっくりだ。乗鞍岳から南側に延びる稜線の低くなったあたりは、たぶん女工哀史で有名なあの野麦峠だろう。野麦峠からも冠雪期の乗鞍岳を見上げるようにして眺めたことがあるが、やはり馬の鞍型に似ていると感じたものだ。頂上近くまで車道が通じているから何時でも登れると考えていたせいだろう、私が初めて乗鞍岳の頂きに立ったのは比較的近年の夏のことで、その時からまだ十余年しかたっていない。広い駐車場から歩いて二、三十分ほどのところにある最高地点は意外に狭く、脆い土壌で覆われていたように記憶している。
  東から昇った太陽の高度が徐々に上がるにつれて、眼下の安曇野をはさんで北西方向に聳え連なる北アルプスの連山が、長大な稜線を明るいピンクに染めながらくっきりと浮かび上がった。高ボッチ山から眺める一大パノラマの主役は、なんといってもこの北アルプス連峰の三千メートル級の山々である。正面に位置する穂高から、北に向かって槍ヶ岳、常念岳、大天井岳、燕岳、烏帽子岳、蓮華岳、鹿島槍ヶ岳、さらには五龍岳、唐松岳、白馬岳と連なり聳える峻険な山並みの迫力は圧倒的の一語に尽きる。なかでも、常念岳や大天井岳のさらに西奥に位置する槍ヶ岳の雄姿を直接目にすることのできる場所は安曇野側には少ないだけに、今朝のように槍ヶ岳がはっきりと見える日は感動もひとしおだ。
  いまではもうそれだけの気力も体力も残ってはいないが、かつて私は若さにまかせてそれらの峰々のすべてを踏破した。穂高、槍、白馬にいたっては、登頂したのは一度や二度のことではない。冬の白馬の山頂近くでは、予想外の急激な天候変化に伴う猛吹雪に遭遇、一週間近くにわたる雪洞内でのビバーグに辛うじて耐えぬき、九死に一生を得たこともあった。善くも悪しくもまだ若さに満ち溢れていた時代の様々な想い出にひたることができるのも、この高ボッチならではのことだろう。明るさと暖かさを増す陽光に身を委ねながらそんな回想に耽っているうちに、いつしか、白く輝く峰々から、「お前もすっかりおとなしくなったなあ」と囁きかけられているような気分になってきた。
  白馬の見える北の方角からわずかに東寄りに視線を転じると、異様な岩峰で知られる戸隠山のものと思われる山影がかすかに望まれる。そして、そのさらに少し右手のすぐ近いところにあって、まるく大きな山体を見せているのが鉢伏山だ。美ヶ原高原はちょうど鉢伏山の陰になっているため高ボッチからは直接にその景観を望むことはできない。
 
  いったん駐車場の車中にもどり、北アルプスの山々をなお窓越しに仰ぎながら原稿に一区切りつけると、軽い朝食と紅茶で身体を温めため、それからしばらく睡眠をとった。目覚めた時にはもう正午を少し過ぎていて、北アルプスの峰々の輝きはすっかり青みを帯び、すこしばかり霞んだ感じに変わっていた。安曇野一帯の地表の温度が上がり、水蒸気を含んだ上昇気流が生じているためである。いまはまだ大気に含まれる水蒸気の量が少ないためこの程度ですんでいるが、もう一ヶ月もすると、たとえ晴天であってもこの時刻に北アルプスの山並みを眺望することは難しくなってくる。
  鉢伏山方面に向かって稜線伝いに車を動かす前に、私は眼下に見下ろす松本市街の一隅にある岩井澄夫さんという方のアトリエに電話をかけた。高ボッチ山から松本方面に下ったあと、アトリエを訪ね、そのユニークな彫刻作品群を拝見させていただこうと思ったからである。自らは山の頂きにありながら、はるかに見下ろす広大な盆地のどこかに位置するという先方のお宅に電話をかけるというのは、なんとも申し訳ないような奇妙な気分のするものだった。

「マセマティック放浪記」
2000年5月24日

アトリエ・ボワヤジュールへ

  久々に訪ねた鉢伏山の山頂周辺は、すっかり歩道が整備され以前とは様相が一変していた。貴重な高山植物などもある一帯の草地を踏み荒らされないようにするには、あらかじめ探索路を設けておき、それ以外のところは立ち入り禁止にせざるを得ないのだろう。鉢伏山頂が一面若緑に覆われるのは五月下旬以降のこととあって、連休中とはいってもあたりに人影はほとんどない。明るい陽射しに抗(あらが)うかのごとく吹きぬける冷風に髪の毛を逆立てながら頂きに立つと、高ボッチ山のそれと甲乙つけがたい白銀の山岳風景が目に飛び込んできた。鉢伏山の頂きからは、王ヶ頭や王ヶ鼻をはじめとする美ヶ原方面の景観を一望することができる。ただ、鉢伏山北東面と美ヶ原南西面との間は深い谷になっているから、鳥にでもならないかぎり眼前の美ヶ原へと直行するのは無理である。
  山頂の展望を満喫し終えると、いたん鉢伏山と高ボッチ山との間の鞍部まで戻り、そこから崖の湯を経て松本方面へと下る道に入った。もうずいぶん昔のことだが、崖の湯温泉を目指して初めてこの道を下った時には、まだ路面は岩だらけの狭いダートで、いたるところで小規模な崖崩れや土砂崩れが起こっていた。崖の湯に出るすこし手前のあたりは、ワゴンの車輪がずぶずぶとぬかり沈み、車軸や車底が絶え間なく路面を削るほどのひどい悪路で、ドロドロした赤土の急坂を車ごとスケーティングするようにして下った記憶がある。もっとも、いまでは道幅も広くなり完全に舗装もされているから、初心者でも運転に苦労することなく快適なドライブを楽しむことができる。
  本道からすこし脇道に入ったところにタラの芽を採取できるポイントがあるので、ちょっと立ち寄ってはみたが、まだごく小さな新芽が顔を出しはじめたばかりで、採るにはちょっと早過ぎた。常々私は、山地を旅する折などに山菜採取ポイントや茸採取ポイントを探し出して旅ノートに記録しておき、後日その付近を通りかかることがあると、必要に応じてそれらのポイントをチェックしてみることにしている。磯辺や渓流のさまざまな獲物についても同様のチェックをしていることは言うまでもない。
  途中で散々道草を食ったので、松本市南部の村井という駅近くにある岩井澄夫さんのアトリエ、「ボワヤジュール」に着いたのはもう夕刻近くだった。センスのいい茶白色のレンガ造りの外壁と四角い煙突のあるモダンな三角屋根をもつそのアトリエの前では、岩井御夫妻とその息子さんの三人が、何時やってくるかわからない私をじっと待っていてくださった。
  奥様とは以前から面識があったが、アトリエの主である岩井澄夫さんとお会いするのはこれが初めてのことだっだ。実を言うと、現在、岩井さんは東京府中市の私宅のすぐ近くにお住まいである。岩井さんには広乃さんという女子大生のお嬢さんがおありなのだが、何年か前の夏休みのこと、ふとした縁で私はこのお嬢さんの英語の勉強をみてあげることになった。指導を依頼された教科が「数学」ではなく「英語」であったことが広乃さんにとっては運の尽きで、もともとは大学受験のための英文講読であったはずの講義は、雑学全般に及ぶという異常事態に発展した。「雑学」という受験教科があれば言うことはなかったのだが、世の中そうそう都合よくはいかないから、私の講義が役立ったのかどうかはいまだ謎のままといったところである。
  大学生になってからも、広乃さんは時々我が家に雑学のネタを仕入れにやってくる。そんな折の彼女との会話を通じて、東京農工大学で文部事務官をなさっているお父さんが彫刻をやっておられるらしいということは耳にしていたのだが、これまで直接にお会いする機会はなかったし、その作品を拝見するチャンスもないままであった。そんなところへ、折りよく、岩井さんの個展が荻窪の画廊で開催されるという案内状が送られてきたのである。去る四月に開かれたこの個展は、朝日や読売をはじめとする各新聞の都内版でも大きく紹介されていたから、目にとめられたかたもあるかもしれない。とりあえず私も時間の都合をつけ、荻窪駅から少し離れたところにあるその画廊に足を運んでみたのだった。
  当日個展の会場に一歩足を踏み込んだ私を待っていたのは、床一面にところ狭しと立ち並ぶなんとも不思議な彫像群だった。大小の木彫が中心だが、彫像の一体一体がその体内いっぱいにそれぞれの物語を孕(はら)んでいて、見る者に向かって、忘れかけた世界の想い出話や懐かしい言葉の数々をそっと囁きかけてくるのである。私はたちまちそれら彫像群の虜になってしまった。
  芸術にはまったくの素人の私だが、大学院生相手に雑学の講義をするため、たまに東京芸術大学に出向くことなどもあって、芸大の先生方の作品をはじめとする優れた現代彫刻の作品はそれなりの数見てきている。だが、それらのものとはまるで趣を異にする岩井さんの彫刻群には、自由闊達な独特の作風を備えていて、大地への深い祈りと感謝、さらには、まだこの世のどこかに隠れ棲むらしい精霊たちとの不可思議な交感の物語さえもを想像させる独特の作風がそなわっていた。一見素朴で土の匂いに満ちみちてはいるが、その奥には、見る者の心をやすらわせずにはおかない優しさと、人間への深い共感と鋭い洞察とが秘められている感じだった。
  どこかあの独特の存在感を湛える円空仏にも似た、また信濃路のあちこにたたずむ道祖神にも通じる、素材を無理なく生かした自然な彫像の彫り跡を眺めているうちに、私には少年期に岩井さんの感性を育て上げた原風景が見えるような思いがしてならなかった。憤怒の相を浮かべる僧形の裸像には、穂高の碌山美術館に収められている荻原碌山作のブロンズの「文覚」や古い寺々に立ち並ぶ羅漢像から岩井さんが受けたと思われる影響の大きさが偲ばれもした。この人の心の奥に「みすずかる信濃の国の安曇野」がどっかりと根をおろしているのは疑う余地もないことだった。
  二、三百体にも及ぶ高さ数センチほどの素焼きの小像群が織りなす光景も斬新で面白かった。縄文時代の人々が酒盛りをしている情景をイメージしたものなのだそうだが、実にユーモラスな格好をした裸形の男女が床一面に並んでいて、それぞれが思いおもいに飲んだり、歌ったり、踊ったり、自慢話をしたりしている。なるほど縄文時代の酒宴はこんな風だったのかと思わず納得してしまいそうなほどに、素焼きの像の一体一体が声を上げ全身を振り乱して、ひとときの夢の世界に興じ狂っているのだった。「千年後、古代人にいつか僕もなるわけですが、その時、今日の物語が話せたらいいですね」というさりげない添え書きもなかなか洒落ていて好感がもてた。

  武蔵野の昔の路 それは僕の思い出である
  切株に座って 林から見える薄明かりの中で
  僕は林の中へ 溶け込んでいくように思えた
  それは太古の出来事に 思いを馳せていた時でもあり
  また果てしない未来に向かって 何かをしでかしていく
  ささやかな願いだったのかもしれない
  時は流れていく

  静かな想いのこもる岩井さんのそんな詩を読んでいると、この人の不思議な造形の世界の奥に確固として存在するものがそれなりに見えてくるような気がしないでもないが、それにしても、こんな独創的な作品群を生み出すなんて、なんという豊かな遊び心の持ち主なのだろう。そう思うと、私は岩井澄夫さんにどうしてもお会いしてみたくなった。しかし、残念なことにその日はたまたま平日だったので、個展会場ではその願いは叶わなかった。農工大で事務官を務めておられる岩井さんは、当然その日はお仕事だったからである。
  そもそも、国立大学の文部事務官を務めておられる方ということになると、世間では金属製のサイコロみたいな人物だとその相場がきまっている。その金属サイコロみたいなはずの人物が、円や球というよりむしろ無定形に近い、これほどに自由な曲線や曲面をもつ作品群を生み出すなんていったいどういうことなのだろう。岩井さんは美大など出ておられず、彫刻の技術はすべて独学なのだと伺ってはいるが、明らかにその作品の質と量は趣味の域を超え、本職の彫刻家の域に達している。
  さらにまた、国家公務員としての本務をこなすかたわらでこれほどに膨大な数の作品群を創造できる秘密はどこにあるのだろう。農工大の事務室が芸術工房に変わったというなら話はわかるが、そんなことはありえないし、それにくわえて岩井さんのアトリエは御夫妻の出身地の松本市にあると伺っている。そのアトリエに通えるのは休みの日に限られるだろうから、状況ははますますもって容易でない。それにもかかわらず、府中のご自宅や松本のアトリエにはもっともっと膨大な数の作品が眠っているというのである。いったいどうなっているんだろうという率直な疑問と、その創作力の背景を探ってみたいという思いが、野次馬根性の塊みたいな私の胸中にむらむらと湧き上がってきたのは当然のことではあった。
  個展に出向いた翌日、お嬢さんの広乃さんに電話をし、作品を拝見した感想などを報告かたがたゴールデンウィークに北安曇野の穂高方面に行くかもしれないと伝えると、それからしばらくして、岩井澄夫さんから直接にお手紙を賜った。「先日はありがとうございました。私の前に娘がデンと座って先生のことを話しております。GW中に先生、もしかしたら穂高方面にお出掛けになる由……」という一文ではじまる自由闊達な墨書のその手紙には、連休中は松本に滞在しているので、ぜひアトリエを訪ねてもらいたいという主旨のお誘いの言葉が記されていた。
  渡りに舟とはこのことだと思った私は、高ボッチ山頂から岩井さんのアトリエに電話をかけ、作品制作のお邪魔になるだろうことを百も承知で押しかけてきたようなわけである。車を庭先に駐め、案内されるままにアトリエの玄関をくぐって室内に入った私は、次の瞬間目にした光景に思わず息を呑んだのだった。

「マセマティック放浪記」
2000年5月31日

岩井澄夫自然流彫刻

  アトリエ・ボワヤジュールの中に入った途端に私が息を呑んだのは、フローリングの広い床一面と側壁に設けられた何段もの棚を埋め尽くすようにして、彫像群がびっしりと立ち並んでいたからだった。少なく見積もっても三、四千躰はあろうと思われる表情豊かな彫像群が、それぞれに固有のポーズをとりながら自己主張をしているのである。その有様は、なんとも壮観なものだった。
  高い天井と天窓をもつアトリエの一隅には懐かしい薪ストーブがあって、その前にテーブルと椅子が置かれていた。案内されたテーブルに着きながら薪ストーブのほうに目をやると、見るからに暖かそうなオレンジ色の炎が燃え盛っている。私にはその炎のゆらめきが、このアトリエの主の優しく温かい心の象徴そのものであるかのように思われた。
  初めてお会いする岩井澄夫さんは、実に柔和でもの静かな方だった。全身にこのうえなく自由な雰囲気の漂う岩井さんの姿は、国立大学の文部事務官という現在のお仕事から想像される「金属製のサイコロ」のような人物像にはまるで無縁のものだったのだ。穏やかな顔にちょっとはにかみがちな笑みを湛えながら、遠慮気味に一語一語を胸の奥底から湧き上がらせるようにしてお話になるその姿を拝見したとき、私はこの方の内に秘められた鋭い感性と精神えの強さを想った。岩井さんのとてつもない創造力の秘密は、たぶんそのあたりにもあるのだろ。
  私のささやかな経験によれば、肩に力のはいらないしなやかな自然体をそなえた人というもは、そのソフトな見かけとは違って、どのような孤独にも逆境にも耐えられる強靭な意志力と忍耐力を秘め持っていることがおおい。反対に、しばしばマスコミ人の中などにも見かけられるような、表面的にはコワモテで自信たっぷりな言動を売り物にしている人物というものは、孤独や逆境には案外脆く、いったん厳しい状況に立たされたりすると、内面の弱さを露呈することが少なくない。舞台裏では奥さんやそれに近い存在にべったりと依存しきっているといったケースなどもよくある話のようだ。
  謙虚さの奥に確たる世界をお持ちの岩井さんの場合も、奥様は彫刻家としての御主人のこのうえなき理解者であり、協力者であり、面倒な対外的折衝の担い手でもある。竹久夢二の美人画の女性にどこか面影の似たところのある奥様の内助の功を称える岩井さんの言葉などは、本心からのものに違いない。その言葉が偽りでないことは、女性の彫像群の中に明かに奥様のイメージと重なる雰囲気を湛えた作品が数多くあることからも頷ける。だが、詰まるところ、見える者にしか見えない難攻不落の心の城を築き、その城主として君臨なさっているのは、どう考えてみても御主人の澄夫さんのほうだろう。おそらく、苦境時などにおけるこの方のたくましい生活力と柔軟な環境適応能力は大変なものに違いない。
  室内に置かれている膨大な作品の正確な数は岩井さんご本人にもわからないらしかった。東京府中のご自宅や松本の実家などにあるものを合わせると、数千躰はくだらないだろうとのことだった。古代の神々や伝説上の人物を想わせる彫像からモダンな女性像まで、老若男女様々なかたちの裸像が自由奔放に己の存在を誇示しながら立ち並んでいるのだが、全体的には、何かを語りだしたげな顔の表情とユーモラスにも見える腹部の形とが岩井さんの作品の特徴であるように思われた。
  お酒が人一倍大好きだという岩井さんの作品らしく、酒瓶を片手にラッパ飲みのポーズをとる像や、すっかり酔っぱらって手振り身振りよろしく大声で歌でもうたっているらしい彫像などもあった。そういえば、過日の個展会場では、縄文時代の酒宴をイメージして作られたという陶像群中のとりわけ大酒飲み風の一躰に「岩井」と名を記した紙の小片がさりげなく貼られていたが、遊び心もここまでくると粋なことこのうえない。
  彫像群の間を押し分けるようにして設けられた床の通路を歩きながら、自分の姿に似た作品が一個くらいはあるのではないかと探したりしてみたが、うっかりして手や足で彫像を倒しでもしてしまったら、ほかの彫像がつきつぎに将棋倒しになって、アトリエ内は一大パニックになってしまいそうでもあった。一階フロアの奥には台所があったが、驚いたことに、作品群の数々はその台所の床や壁の棚までも占領し尽し、我が世の春を謳歌していた。奥のほうに洒落た造りの中二階があったが、その中二階のフロアにもずいぶんたくさんの彫像が並んでいたし、中二階の手摺りの下やそこに通じる階段の脇にも、信濃路の道祖神や修那羅の石仏群を連想させる浮き彫りの木彫作品が置かれていた。
  ふと階段脇の柱のところに目をやると、中二階から一階フロアに向かって、短い木の棒様のものを多数糸でつないだオブジェが垂れ下がっている。なんだろうと思って近づいてみると、短い木の棒に見えたものはそれぞれ宿業から逃れようと必死になっている感じの男女の木彫作品で、それらに水糸を通しつないで吊るしたものだった。芥川龍之介の作品「蜘蛛の糸」をイメージしたものなのだそうで、まだ制作途中とのことだったが、なるほどと私はそのアイディアにひたすら感心するばかりだった。
  岩井さんが一念を発起し、見よう見真似の手探り状態で彫刻をはじめてから今年で十五年ほどになるらしい。二人のお子さんが小学生くらいになった頃、親としての存在の証を何らかのかたちで子供たちに残したいと考えたのが、一念発起のきかっけであったという。なんの迷いもなく、はっきりとそうおっしゃるところが、またこの方の凄いところでもある。これから先もまともな作品ひとつ子供たちのために残せそうにない私などには、ちょっと耳の痛い話ではあった。
  もっとも、我が家の場合などは、下手に作品まがいのものを残したところでゴミ箱に捨てられるのが落ちだろうから、はなからこちらは戦意喪失である。どうせ残すなら家や土地などの資産のほうがよいなどと注文もつけられそうだが、そんなものを残せる能力があるくらいなら、こんなしがない原稿なんか書いているはずがない。
  ひとわたり作品群を拝見したあとまた薪ストーブの前に座り、奥様の手料理に舌鼓を打ちながら岩井さんや息子さんとよもやま話に花を咲かせはじめたのだが、いま一つだけ気になることがあった。隅のほうに着色用顔料などがすこしばかり置かれてはいるが、事実上このアトリエは彫刻作品の収納倉庫みないな状態になっている。アトリエとはもともと工房のことなのだから、岩井さんが木を切ったり彫ったり削ったりする場所がすくなくともこのアトリエ内のどこかになくてはならない。ところが、それらしい場所が室内のどこにも見当たらないのだ。
  陶像制作のほうはすぐに謎が解けた。岩井さんが目の前で燃え盛る薪ストーブの口を開き、出来上がったばかりの素焼きの像二、三躰を取り出すところをすぐそばで拝見したからである。庭で土を練って形を造り、それをこの薪ストーブの中に入れて焼き上げるという、いたってシンプルな方法で、あの三百躰を超えるユニークな「縄文酒盛軍団」は出来上がったらしいのだ。いろいろと試行錯誤しながら我流で土をこね、火加減もよくわからぬままに少しずつ実験的に焼いてみているのだそうだが、出来上がった陶像の不思議な魅力といい、その数の多さといい、唯々舌を巻くばかりである。焼き物などというと、どうしても大掛かりな設備を想像してしまうのだが、工夫次第では、こんな簡単な方法で陶像のような作品を生み出すことだってできるのだ。
  肝心の木彫用作業場が見当たらないのもどおりであった。なんと岩井さんの木彫工房、すなわち正真正銘のアトリエのほうは、アトリエ風作品収納庫(?)の裏に建てられた一坪か二坪ほどのごく小さなプレハブ小屋だったのだ。ちょっと覗かせてもらうと、簡素な造りのその小屋の中には、大きな木製台座やまだ彫りはじめたばかりの原木類、各種工具などが所狭しと並べられていて、あとは大人ひとりがやっと腰を下せるくらいのスペースがあるだけだった。
  弘法は筆を選ばずの譬ではないが、ほんとうに精魂込めて創作に打ち込む人の仕事場とは大体こんなものだろう。これまでにも何度かその道の大家と呼ばれる工芸家や画家の工房を見せてもらう機会があったが、共通しているのは、意外なほどに簡素でしかもひどく雑然としていることだった。もともと工房とは、作家が心身ともに裸になり、汗みどろ血みどろのなかで精魂の限りを尽して孤独な戦いを続けるリングなのだから、綺麗で立派なわけがない。だから狭くて足の踏み場もないようなその工房を目にして、私は妙に納得のいく気分になった。
  岩井さんは、とくに彫刻用の素材を選ぶことはせず、たまたま野山で拾ったりした木片や木材などでもすべて彫刻の材料にしてしまう。どんなにみすぼらしく不恰好な原木にだってそれなりの生命が宿っているから、それを自然に引き出し生かすようにしてやれば、無理なく面白い作品が出来上がるのだという。たとえば、虫食いのひどい穴だらけの素材であっても、その虫食い穴をそのまま巧く活用してしまえば、なんとも味のある独創的な作品に化けてしまうのだ。実際、虫食い穴を見事に生かした彫像が何躰か並んでもいた。
  あらかじめ想い描いている通りの作品を完成させるために良質の素材を選ぶという方法を岩井さんはあまり好まない。その折々に手にする素材と心の対話を何度も繰り返しながら、その素材の秘める命と作者の命との自然な融合体を創り出していくというのが岩井さんの彫刻家としての信条である。この基本理念こそが飽くなき創造力の源泉なのだろう。またもしそうであるとすれば、小ぶりの作品みたいなものならどんな場所にあっても制作が可能となる。必ずしも工房にこもって仕事をする必要がなくなるわけだ。十五年ほどの間に何千躰にも及ぶ魅力的な彫像や塑像が生まれたのは、どうやら岩井さんのそんな創作理念と創作姿勢の賜物であったらしい。
  夕食を御馳走になったあとすっかり話し込んでしまったために、この晩は結局アトリエに泊めてもらうことになった。迷惑な飛び入り客のお蔭で岩井さん御夫妻と息子さんの三人は一階の彫像群のただなかに寝具を敷いてお休みになる羽目になり、私ひとりだけが中二階の畳の間に敷かれた布団で休ませてもらうことになった。私の布団のすぐ近くにもかなりの数の彫像が立ち並んでいて、それらを横目で眺めながら眠りにつくことはなんとも不思議な体験だった。このアトリエを訪ねてみてほんとうによかったと思いながら、瞑目するうちに、いつしか私は深い眠りに落ちていた。

「マセマティック放浪記」
2000年6月7日

事態は想わぬ方向へ

  今日も安曇野は晴天に恵まれている。午前中にはここをおいとまするつもりでいたのだが、アトリエのテーブルを拝借していくつかの原稿の整理をしているうちにどんどんと時間が経ってしまい、気がついたときにはもう午後二時くらいになってしまった。そして、結局、「よかったら遠慮なくもっと泊っていってください」という岩井さん御夫妻のお言葉に甘え、もう一晩だけアトリエでお世話になることにした。
  原稿の処理を終え庭に出てみると、岩井さんが粘土をこねて数躰の陶像の原型を作っておられるところだった。今晩またそれらの像は薪ストーブで焼かれることになるのだろう。昨晩焼きあがった女性の裸像は、すでに棚の上にずらりと並ぶ縄文酒盛陶像群の仲間入りをしていた。焼く前に胸や腰のあたりに銀紙を巻きつけておくとどのような仕上がりになるのか実験してみたのだとのことだったが、ちょうどブラジャー部や腰巻部にあたるところの肌の色が日焼けせずにそのまま残った感じになっており、なかなかに妙味があった。縄文期の女性がブラジャーなどをしていたのかどうかともかくとして、少なくとも「情悶期(?)」の現代の男どもには大うけしそうな作品であることは間違いなかった。
  庭の一角にはリンゴ農家で不用になり伐採されたものだというリンゴの樹が大量に積み重ねられていた。もちろん、乾燥させて彫刻の材料にしたり、冬場に薪ストーブの燃料にしたりするためである。生木のせいでもあったのだろうが、リンゴの樹はずっしりとしていて想像以上に重たかった。木目もずいぶんと詰まっていて、叩いてみると相当に硬い感触がする。寒冷地に育つ樹木は必然的にこのような木質をそなえもつことになるのだろう。
  午後、皆が一段落したところでお茶の時間になったので、私は久々に車のボックスからハーモニカを取り出し、お礼の意味を込めて何曲か懐かしのメロディーを演奏させてもらうことにした。若い時代とは違って近頃はよほど気分がのらないかぎりハーモニカを吹くことはないが、一応腕前のほうはそこそこ人様に聴いてもらえるレベルには達している。曲目は「荒城の月」や「青い山脈」にはじまり、「異国の丘」などという最早化石的存在ともなっている古い曲にまで及んだが、岩井さんはうっすら目に涙さえ浮かべながら私のつたない演奏に聴き入ってくださった。
  ついでだから述べておくと、「異国の丘」という曲については懐かしい想い出が一つある。もう一昔前の話ではあるが、東北の山間部のあるひなびた温泉宿に一人で泊まったときのこと、夕方、たまたま私はハーモニカを手にしてこの曲を吹いていた。すると、突然、同宿の二十人ほどの老齢の団体客からお声がかかり、有無をいわさず座敷に連れ出されて、「異国の丘」をはじめとする戦時中の名歌数曲を繰り返し繰り返し独演させられる羽目になった。その老人たちは皆かつて旧陸軍の同じ部隊に属していたのだそうで、ちょうどその晩その宿で戦友会を開いているところだったらしい。ところが、そこへ思いがけなくもお誂(あつらえ)むきの曲が響いてきたので、見ず知らずの私を呼んで演奏をしてもらおうということになったのだそうだ。
  その人々は皆感涙に咽びながら演奏に耳を傾けてくれたばかりでなく、直接的な戦争体験などない若い私の奏でるメロディーに合わせて、大合唱の声が湧きあがったりもしたのだった。私は軍歌をはじめとする戦時中の歌曲がとくに好なわけでもなんでもなかったが、幸いそれらの曲をなんとか吹きこなせはしたので、どうにかその場をとりもつことはできた。
 
  ハーモニカ演奏を終え、安曇野周辺のことについてあれこれと話に花を咲かせているうちに、ふとしたことから穂高の石田達夫老(過日の拙稿「人生模様ジクソーパズル」で紹介した人物)のことが話題にのぼった。そして、それを契機に事態は想わぬ方向へと展開していきはじめた。この日は石田ドラキュラ老がお気に入りの「十三日の金曜日」ではなかったのだが、せっかくの機会だから岩井さん御夫妻と一緒に石田宅を訪ねるのも悪くないと考え、私はとりあえず先方に電話をかけてみた。すると、運よくと言うべきか運悪くと言うべきかはわからないが、ともかく、「ぜひどうぞ」との快諾を得ることができたのである。
  まあそのような経緯で、夕刻、岩井御夫妻と私の三人は穂高町有明にある石田宅を訪問することになった。あえて人食い老人(?)の餌食になる危険を犯してみようというわけである。八十余歳という年齢のゆえにかつての鋭さは失われてきたとはいえ、ドラキュラ老人は瘠せても枯れてもドラキュラ老人には変わりない。急なことゆえ十字架やニンニクで身を固めるひまはなかったので、我々は、かわりに石田宅への途上にあるスーパーマーケットで買い込んだ寿司と果物を持参し、相手の食欲をそちらのほうへとそらす作戦に出たることにした。その効果のほどには甚だ疑問もあったが、他に方法もなかったのでこの際やむをえないことではあった。どう考えても、寿司や果物のほうが我々よりも美味いにきまっているのだが、相当に気まぐれな相手だけに一筋縄ではいかないところがなんとも厄介なところではあった。
  高齢な身の独り住まいだということもあって、石田宅にはセコムが開発したとかいう特殊な監視装置が設置されている。玄関周辺の映像と音声を常時リアルタイムで収集できるこの装置のおかげで、もしも誰かが家に近づくと、自室にいながらにして現代のドラキュラ庵主はその様子をいちはやく察知することができる。訪問客同士が玄関先でうっかり陰口を囁き合ったりしようものなら、それらがみな筒抜けになってしまい、あとになってから素知らぬ顔でじわじわと皮肉たっぷりに逆襲されたりもするわけだ。ただ、すでにその裏仕掛けを知っている私には、少なくともその手口だけは通用しなかった。
  案の定、こちらが近づくのをいち早く感知した石田老は、庭先に止めた車から我々が降り終えるまえに勝手口のほうからヌーッと姿を現し、車のそばに近づいてきた。そのタイミングがなんとも絶妙なものだから、裏事情を知らない人などは驚いてしまうことも少なくないらしい。ともかくも我々三人はこうして石田宅の玄関に立っことになった。

「マセマティック放浪記」
2000年6月14日

ドラキュラ邸の宵

  ちょっと古風な趣のある玄関のドアを開け、明るさを抑えた間接照明の室内に入ったとたん、「なかなか素敵な雰囲気ですねぇ」という呟きが岩井夫人の口から漏れた。部屋の壁も天井もすっかり古びてしまい豪奢な感じなどまったくしないが、きわめてセンスのいい調度品が絶妙な計算に基づいて配置されていて、この家の主人のそなえもつ美意識の深さが偲ばれる。しかし、それが実はなかなかに曲者なのである。
  ゆったりとした気分になって応接間の椅子に腰をおろした岩井夫妻が、あらためて初対面の挨拶を交わそうとした次の瞬間、石田老の口から、ジョークとも皮肉ともつかぬ言葉が速射砲のように次々と撃ち出されはじめた。これまでに何度もその英国仕込みの言葉の銃弾を浴び、鋼鉄の鎧に身を固めながら即座に応酬するすべを学んでしまった私は、いまさら驚きはしなかった。だが、初めての洗礼を受ける岩井夫妻のほうは返す言葉もなく笑い転げるばかりである。お土産の寿司のほうにドラキュラ翁の食欲を向けるようにしようという作戦は、相手の先制攻撃のためにあえなく頓挫し、新参のお二人は頭からまるかじりされる状態になってしまった。
  夕闇が迫ってはいたが、日脚が長くなったおかげでまだかなり明るさは残っていたので、我々はドラキュラ邸の庭に降り立った。この不可思議な空間を初めて訪ねた者は、様々な珍しい植物や木立の生い茂るこの庭の一隅で、一風変わった「通過儀礼」を受けることになっている。庭の奥のほうには何本かの赤松の大木が生えているのだが、それらの樹間がその通過儀礼の舞台となる。屋敷の裏手にあたるその場所の向こうには、昼でも暗い鬱蒼とした赤松の密生林がどこまでも続いている。
  私は主の老翁の要請に従い家の一角にある物置部屋から大きなハンモックを取り出すと、岩井さんの協力を仰いで二本の赤松の間にそれを張り、その両端をしっかりと太い松の幹に固定した。このハンモックは、カナダ製のものだとかいう大きくて頑丈な造りのしろもので、大人二人が並んで仰向けに寝そべったりしてもびくともしないし、三人並んで腰掛け、ブラブラやっても平気である。そして、このハンモックに身を托し、赤松の木立の間から空を見上げてしばし浮遊感を味わったり、主の石田翁を交えて順々にハンモックに腰をおろし記念撮影をしたりするのが、初の来訪者の通過儀礼というわけなのだ。むろん、その間も言葉の銃弾が容赦なく飛んでくる。初めてここを訪ねたとき、私もその通過儀礼を体験したし、私の案内で一度ここを訪ねたことのある穴吹史士キャスターなどもその洗礼を被った。
  夏や秋の爽やかな日など、このハンモックに揺られながら独り読書に耽ったり惰眠をむさぼったりするのは、最高の贅沢といえるかもしれない。かつての私と同様にドラキュラ翁の毒気の犠牲者となったあるコピライターなどは、アイディアに行き詰まるとこの屋敷にやってきて、ハンモックに揺られながらあれこれと想を練ったりするのだという。私にも何度か経験があるが、面倒な雑事を一切忘れてこのハンモックに横たわり、吹きぬける風や木漏れ日に身を委ねていると、どこからともなく不思議な活力が湧きあがってくる。
  ところで、このハンモックだが、何年か前、大手出版社の宣伝ポスターを通して全国的にその様相の一端を紹介されたことがある。女優の広末涼子が文庫本を手にハンモックに乗っている姿を掲載した集英社のブックフェア用ポスターを憶えている方があるだろうか。実を言うと、広末涼子が腰をおろしていた大きなハンモックこそは、ドラキュラ邸のこのハンモックにほかならない。
  集英社のそのポスターを撮影した市川勝弘カメラマンは、たまたま訪ねた安曇野でかつての私と同様に石田ドラキュラ翁の餌食になった一人である。現在では私も懇意にしていいる有能なカメラマンで、まったくの偶然なのだが、このAIC欄で肖像写真ミュージアムを担当しておられる坂田栄一郎さんのお弟子さんでもあるらしい。折あるごとにドラキュラ邸に出入りし、このハンモックの存在を知っていた市川カメラマンは、集英社の宣伝ポスターの撮影に先立って東京までハンモックを送ってもらい、広末涼子をそれに乗せてくだんの写真を撮ったのだった。
  初訪問の岩井夫妻は、ともかく、そのいわくつきのハンモックに腰をおろして一通りの儀礼を済ませ、さらに、すぐそばにある、どこか妖しい雰囲気の小さな露天風呂見学のほうも無事に終えた。有り合わせの材料を使って石田翁自らが造ったこの露天風呂を見学するのも通過儀礼の一環になっている。夏場などに屋内の風呂場の給湯口からホースでお湯を引いてきて湯船を満たし、木立の緑や空の雲を仰ぎながら入浴するのだが、実際に体験してみると風流なことこのうえない。ただ、こちらのほうは、ハンモックと違っていつ誰でも体験できるというわけにいかないのが難点のようである。
  この露天風呂の脇には枝振りのいい「エゴの木」が生えていて夏には白い花をつける。このドラキュラ邸の主人の象徴みたいな名をもつこの木がもともとそこに生えていたものなのか、それとも意図的にそこに植えられたものなのかはわからない。しかし、「エゴの木の下では何をやってもいい」などと意味ありげな洒落言葉を呟きながら来訪者を煙に巻く老翁の姿を見ていると、計算され尽したもののようにも思われてならない。
  ハンモックをたたみ、庭を一巡りして応接間に戻ったときには、あたりはすっかり暗くなっていた。私が初めて出逢った頃に較べれば、さしものドラキュラ翁の気力も体力もずいぶんと落ちてきたようである。そのせいか、我々に浴びせかけられる言葉の銃弾の勢いが時の経過とともにだんだんと弱まってきた。昨今では生き血を吸えるような若い美女に回り逢うことも少なくなってしまったのだろうか。それが衰えの原因なのかもしれないが、最近の若い娘を下手に相手にしたりすると、ドラキュラ翁といえども逆に血を吸われてしまいかねないから、よけいに気力と体力の維持は難しいのかもしれない。
  ともかく、相手に疲れが見えはじめたところを見計って我々は持参した寿司や果物を取り出し、それらをテーブルに並べてとりあえず夕食にかえることにした。食事をとりながらも四人の間で会話は弾んだ。相変わらず石田翁が主役ではあったが、その一方的な言葉の嵐が鎮まってきたことが幸いし、お互いの会話がうまく噛み合うようになってきた。そして、食後のお茶を楽しむ頃には夜もすっかりと更け、まるでそれに呼応するかのようにすっかりうちとけた気分になった我々は、いつ果てるともなく談笑に花を咲かせる有様だった。
  時を忘れて話し込むうちに、いつしか時刻は十一時近くになっていた。そろそろおいとましなければということになり、腰を上げた岩井夫妻は帰る前にちょっとトイレに立ち寄ってみることになった。いや、もっと正確にいうと、トイレの「見学」にいくことになった。私が、ドラキュラ邸に行ったらトイレを覗いて見ることだけは忘れないようにと、あらかじめ吹き込んでおいたせいである。ここのトイレには忘れることのできない想い出があった。

  穂高の駅前でこの不思議な老人につかまり、初めてこの屋敷に案内された夜のこと、しばらく会話を交わしたあとで私はトイレに立とうとした。すると、石田老は、「この家のトイレにはいったら一時間は出てこられませんよ」と言ってニヤリと意味ありげに笑ったのだった。案内されたトイレの前に立つと、なんとドアに「WORKS CREATIVE」と記されているではないか。WとCだけは赤い文字にしてもある。おなじ「W・C」でもこの「W・C」は「創造的な作品」あるいは「創造的な仕事の産物」だというわけなのだ。どれどれとばかりにドアを開けて一歩中に入った私は、思わず驚嘆の声をあげそうになった。
  広々とした造りのトイレの中央には西洋式の便器があり、その左手には木の棚があって、面白そうな本が何冊も並んでいた。簡単なメモ用ノートらしいものもある。便座にすわったままで本を手に取って読書に耽ったり、思策のすえにウーンとばかりに絞り出した独創的なアイディアをメモしたりもできるわけだ。ただ、そこまでならたまにある話で、そう驚くほどのことではない。私が目を奪われたのはドアの裏面を含めた前後左右の壁面と天井の面だった。
  それらの各々の面には珍しい大小のポスターや写真類、絵葉書類などが見事な構成と配列で貼りめぐらされていたのである。詩情豊かな自然の風物や海外の名所旧跡などの絵や写真、それぞれに物語を秘めた様々な男女の珍しい写真、見るからに独創的な芸術作品の写真や何枚かの美術展の酒落たポスターと、どの一枚いちまいをとっても、なんともいえないほどに味のあるものばかりだった。大小合わせれば二、三百枚はあろうかと思われるそれらの絵葉書や写真、ポスターなどが、オランダあたりの美しい花壇を連想させる構成とデザインで五つの面いっぱいに貼られている様は、壮観の一語に尽きた。奥に向かって右手の壁面には手造りの文字盤をもつ花時計風の時計まで備えられており、まさにそれは「創造的作品」というべきものであった。
  私はとりあえず便座に腰掛けはしたものの、本来のその空間の用途など忘れてしまった状態で天井や四方の壁を順々に見回した。なるほど、こんな調子で絵や写真の一枚いちまいを眺めていたら、それだけでも一時間くらいはすぐに経ってしまうに違いない。そんなことを考えながら前方を見上げると、一枚の大きなポスター風写真が目にとまった。黒いグラスをかけた老人とおぼしき人物が風のような動きを見せて地上を走っている風変わりな写真である。写真の中の人物は不思議なまでの存在感と、それとは相反する不気味なまでに変幻自在な多様性とを同時に持ち具えているかのようだった。
  しかも、驚いたことに、よく見るとその人物はほかならぬこのドラキュラ亭の主人そのものだったのだ。このドラキュラ老の本質を見事に撮りきった写真家(のちに、この写真を撮ったのは前述のカメラマン市川勝弘さんであることを知った)もさるものなら、このような不思議な動きを苦もなくやってのけるモデルのほうも相当なものである。私の好奇心はいやがうえにも掻き立てられるばかりだった。「トポスの復権」というタイトルの入ったポスターに目が行ったときも、私は思わずニヤリとした。「トポス」とは「場所」という意味である。老人はその美学に即し「トイレという場所の復権」を暗に唱えようとしているのだろう。
  ようやく「本来の目的」を想い出した私は、その一件をかたづけたあと、何気なくロールペーパーに手を伸ばし、その一部をちぎりとった。そしてそれに目をやった途端、呆気にとられて、またもや息を呑み込む有様だった。なんとその紙片には青い色で英語のクロスワードパズルが印刷されていたのである。チャレンジされたからには受けて立つほかはない。かくして私はトイレからの脱出をはかるために難解なパズルに挑むという思わぬ事態に追い込まれることになった。
  日本語のものだってクロスワードパズルはそれなりに難しい。まして英語のクロスワードパズルとなると、短時間での完答は容易ではない。しばらく考えてはみたが、どうしてもわからないところがある。このままだと夜が明けるまでこの便座に腰かけたままでいなければならない。この「WORKS・CREATIVE」空間のなかで、いつまでもロダンの「考える人」をみっともなくデフォルメしたような格好を続けていたら、私自身が老人の芸術作品の一部と化してしまうだろう。やむなく意を決した私は、三、四シート分のクロスワードパズルを犠牲にすると、新たにちぎりとった一枚のクロスワードパズルを手にしてトイレを出た。
  おそらくは内心でニヤニヤしながらお茶の用意をしていたであろう老人は、クロスワードつきのロールペパーの切れ端を手にした私の姿を目にすると、
 「ずいぶんとごゆっくりでしたねえ……私の創造空間を楽しんでもらえましたか?」
と愉快そうに訊ねてきた。
 「ええ、存分に……。もうちょっと便座にすわったままでいたら、そのまま硬直してロダンの向こうをはるブロンズの新作『考えるアホ』になってしまうところでした」
 「ははは……で、そのクロスワードパズルは解けたんですか?」
 「いや、それがまだなんですよ。せっかくですからお茶でも頂戴しながらゆっくり解いて、それからまたトイレに戻って排泄口を拭いてくることにします。その間しばし御迷惑をおかけしますが……」
  私もそう切り返した。

  もう十年以上も昔の話だが、忘れようにも忘れられないそんな出来事があったので、初めて石田邸を訪ねる人には誰にでも、「トイレの見学だけは是非!」と勧めることにしているのだ。いまではもう英語のクロスワードパズルつきトイレットペーパーは置かれていないが、そのほかの様子は当時とほとんど変わりがない。せっかくの機会だからというわけで、岩井夫妻にも、半ば感嘆し半ば呆気にとられてもらいつつ、トイレでのひと時をこころゆくまで楽しんでいただいた。
  穂高のドラキュラ邸をあとにし、松本の岩井さんのアトリエに帰り着いた我々は、ちょっとばかり遊び心を起こし、大小の彫像群のなかにドラキュラ翁のイメージにそっくりの作品がないかと探してみたりもした。その結果、比較的よく似た姿形の彫像が三、四躰ほど見つかったが、それらを実際に石田老に見せた場合どのような反応が戻ってくるかは、いまひとつ想像のつかないことではあった。次に岩井夫妻がドラキュラ邸を訪ねる機会があったら、それらのうちの一躰を魔除けの十字架かわりに持参することになるかもしれない。

「マセマティック放浪記」
2000年6月21日

松本城鉄砲蔵

  松本市の中心部を抜けて美ヶ原方面へと向かう途中、松本城の近くを通りかかったので、久々にその天守閣に上ってみることにした。今からおよそ四百年前、文禄二年から三年(一五九三年〜一五九四年)にかけて天守閣が築造されたという松本城は、姫路城、彦根城、犬山城と並んで国宝に指定されている数少ない城の一つである。小ぶりながら昔のままの平城の構造をほぼ完全なかたちで残しており、歴史的建造物としてのその資料価値はきわめて高い。
  頭を梁にぶつけないように注意しながら、ひどく傾斜の急な狭い木造階段を何度も繰り返し上っていくと、厚板張り、方形の見晴らしのいい天守閣へと到る。大気の澄んだ日などには、天守閣の四方の格子窓から、松本の街並みはいうに及ばず、常念岳をはじめとする北アルプスの山々や、鉢伏山、美ヶ原方面の山並みなどを一望のもとにおさめることができる。
  戦乱時の篭城をも想定して築造されたこの城の壁面には、鉄砲狭間(てっぽうさま)や矢狭間(やさま)と呼ばれる正方形や長方形の壁穴(銃眼や射矢口)が、各層にわたって多数設けられている。当時すでに火縄銃が主要な武器となっていたこともあって、各階層の壁面は、敵の銃弾に耐えられる厚い塗り込め壁に仕上げられているという。城を取り巻く堀の幅なども当時の鉄砲の性能を考慮して決められているらしい。よくよく考えてみると、たとえどんなに防御に工夫を凝らした城であっても、その防御設備が役立つのは、結局、戦況が城を守る側にとって不利なときである。いったんそんな状態に陥れば、城全体が無傷ですむということはまず考えられなかったことだろう。築城後も直接戦火に巻き込まれることなく、いまもなお昔ながらの姿を留めている松本城は、幸運な城の一つであったと言ってよい。
  もっとも、この美しい城にも一度だけ存亡の危機があったらしい。明治維新当時、日本各地で廃城やそれに伴う城の移築解体が相次ぎ、そんな時流の中でこの松本城もいったん民間に売りに出されかけたのだという。幸いなことに、その折、松本市民を中心とする多くの人々の間に熱心な保存運動が起こり、城の保存費用の調達に成功、そのお蔭で松本城は貴重な歴史建造物として現在に至るまでその姿を残し伝えられることになった。
  ところで、この松本城内においてはいまひとつ意外なものを目にすることができる。「松本城鉄砲蔵」と呼ばれる、各種の種子島銃並びにそれらに関する貴重な歴史文献のコレクションがそれである。このコレクションを松本市に寄贈した赤羽通重氏の名を冠して、「赤羽コレクション」などとも称されているようだ。松本城の見学者は、城の入口から天守閣へとのぼる途中と、天守閣から出口へとくだる途中で、自然にそれらの展示資料に目を通すことができるようになっている。こんなところで国内でも第一級の種子島銃関係の展示資料を見ることができるとは、初めての訪問者などは想像もしていないから、その見事なコレクションを前にして少なからず驚かされることになる。
  久しぶりにこの種子島銃の展示資料を眺め歩くうちに、種子島銃についてはほとんど知識など持ち合わせない身であるにもかかわらず、この日は不思議なほどに想像力を掻き立てられた。個人的な旅と取材を兼ねて種子島宇宙センターを訪ね、そのついでに、初めて我が国に鉄砲を伝えたポルトガル人らの乗る船の漂着した浜辺にも立ち寄ってみたりしたが、これまでその歴史的意義や鉄砲が果たした役割についてあまり深く想いをめぐらすことはなかった。せいぜい、長篠の戦いで三千挺の火縄銃をそなえた鉄砲隊と特殊な構造をもつ野戦陣地を巧みに駆使し、織田、徳川の連合軍が武田の騎馬軍団を打ち破ったという史話を、頭の片隅に辛うじて留めていたくらいのものである。
  しかし、どういうわけか、この時ばかりは自分でも意外なほどに連想力がはたらいた。ひとつには、たまたまこの日の見学者が少なかったこともあって、あれこれ想いを馳せながら、じっくりと展示資料を眺めることができたせいでもあろう。これからその折に考えたことを少しばかり書いてみようと思うが、あくまでも素人の想像力と直観に基づくかなりいい加減な推測だから、軽く読み流すつもりでお付き合い願いたい。
  種子島の最南端にある門倉岬直下の砂浜(現在は荒磯に変わっている)に漂着したポルトガル人たちによって、初めて我が国に鉄砲が伝えられたのは、天文十二年(一五四三年)のことである。ポルトガル人たちは半年ほど種子島に滞在したといわれているが、領主が彼らから入手した火縄銃を手本に、種子島の刀工、八板金兵衛(清定)は、翌年の天文十三年には早くも自力による鉄砲の製造に成功した。当然、鉄砲伝来の噂は日本本土各地に広がっていったが、驚くべきはその情報伝達の速さと、その直後に各地の刀工たちがみせた鉄砲製造技術の習得における異常なまでの熱意である。
  展示されている資料によると、鉄砲伝来のニュースはほとんど時を同じくして堺を中心とした畿内一帯に伝わり、翌天文十三年には、もう、紀州根来寺の刀工芝辻清右衛門や堺の刀工橘屋又三郎が鉄砲製作技術習得のため種子島に派遣されている。その年のうちに根来寺に戻った芝辻は刀工集団を率いて鉄砲の製作を始め、橘屋のほうも鉄砲伝来から二年後の天文十四年には堺に戻り、刀工たちを動員して大量の鉄砲製作に着手している。
  種子島領主は、むろん本土の薩摩藩島津家へも鉄砲に関する情報を伝えたようであるが、その情報が薩摩藩内でそれほどに重要視されなかったふしがあるのは、当時の薩摩藩は相次ぐ藩内の内紛を鎮めるのに手いっぱいで、鉄砲どころではなかったからなのかもしれない。武器としての鉄砲の威力というものが、まだ藩の上層部に十分理解されていなかったこともその理由の一つではあったのだろう。
  薩摩藩もほどなく領内の刀工たちに命じて鉄砲の製造を行ってはいるが、鉄砲伝来の初期の段階において情報を独占するには至らなかったようだ。のちの徳川時代などにおいては徹底した情報管理で知られた薩摩藩のことである。鉄砲の重要性に対する同藩の認識が不十分であったという背景でもなければ、種子島領主が畿内から鉄砲技術習得にやってくる刀工らを容易に迎え入れたことも、薩摩藩が鉄砲に関する厳格な情報規制を行わなかったことなども、簡単には説明がつかないように思われる。
  しかし、たとえそのような背景があったにしても、鉄砲伝来とそれに伴う諸々の技術情報が当時としては異例の速さで近畿一帯に伝わったのは、いったいなぜだっだのだろう。種子島から九州本土各地、さらには中国地方各地を経て畿内へという陸路沿いの長大な伝播ルートをついつい想像してしまいがちだが、当時の交通事情や群雄割拠の状況を考えるといまひとつ腑に落ちない。そんな疑問を抱きながら、その後鉄砲製造の中心地となった地方を示すした日本地図をじっと眺めているうちに、急にあることに思い当たった。
  台湾沖から琉球、奄美諸島の東側を進んだ黒潮本流は、種子島南端の門倉岬の沖合いを北東に向かって通過し、太平洋へと流れ込む。鉄砲を伝えたポルトガル人たちの乗る船が、難破寸前の状態になりながらも辛うじて門倉岬付近に漂着したのは、まさに暖流黒潮のおかげだったと思われる。ところでこの黒潮だが、門倉岬を中心とする種子島東南端をかすめるように通過したあと、いっきに紀伊半島の潮の岬沖から熊野灘一帯に到達する。かつて種子島を訪ねたとき、同島東南部にある「熊野海岸」に佇んでその沖合いを流れる黒潮の行方に想いを馳せたことがあるが、地図を見ればすぐわかるように、この熊野海岸から紀伊半島の熊野沖までの直線距離は意外に短い。黒潮に乗ればひといきなのである。
  熊野という双方に共通した地名は、黒潮を介して行われた紀伊半島と種子島間の古代からの交流の深さを偲ばせる。遣唐使船関係の文献などを調べてみると、揚子江下流域から出帆し薩摩の坊津を目指した復路の遣唐使船が、嵐に遭って操船不能に陥り太平洋側に流され、紀伊半島の海岸に漂着した事例なども記録されている。もちろん、当時の人々に「黒潮」などという概念は無縁ではあったろうが、少なくとも一部の舟人たちは、うまく潮の流れに乗りさえすれば、種子島から紀伊半島までの船路はひといきに過ぎないことを経験的に知っていたに相違ない。
  まして、種子島に鉄砲が伝来した一五四三年頃ということになると、遠洋航海技術はともかくとしても、我が国の沿岸航海技術のほうは相当なところまで発達していたと考えるのが自然である。だから、鉄砲についての情報が、ほとんど間をおくことなく、種子島から海路伝いに畿内一帯へともたらされただろうことは想像に難くない。利に聡く機を見るに敏な根来衆や堺の商人衆が、即刻、種子島に刀工を派遣することができたのも、そのような背景を考えれば納得がいく。
  それにしても、鉄砲伝来からの十年間、さらには、それから天正三年(一五七五年)の長篠の戦いに至る約二十年間における異常なまでの鉄砲製造量の増大と、技術の改良発達の歴史をいったいどのように説明すればよいのだろうか。また、雨後の筍のように国中に溢れはじめた鉄砲が、間接的ではあったにしても、あわよくば日本の植民地化をと狙っていたに違いない欧米列強国の侵攻を抑止する力としてはたらいた可能性はなかったのだろうか。そんな疑問などをあれこれ抱くうちに、私の夢想とも言えるつたない想像は、たたら製鉄や玉鋼(たまはがね)に代表される我が国の特殊な伝統製鋼技術と鉄砲製造技術との関係、さらには、のちの鎖国政策をはじめとする海外勢力の締出しに陰で鉄砲が演じた役割などにまで及んでいったのだった。

「マセマティック放浪記」
2000年6月28日

種子島銃余談

  フランシスコ・ザビエルがポルトガル船に乗って錦江湾に入港、鹿児島に上陸したのは、鉄砲伝来から六年後の天文十八年(一五四九年)、いまから約四百五十年前のことである。ザビエルは鹿児島をあとにすると、翌年には海路平戸に入り、さらにそれから畿内へと向かい、当時我が国の交易の中心地だった堺などを視察している。
  ザビエル一行は、フィリピン方面から黒潮に乗って琉球諸島、奄美諸島沿いに北上、おそらくは種子島、屋久島近辺を通って錦江湾に入ったとおもわれる。自然に恵まれた風光明媚なこの東洋の島国にザビエルらはそれなりの感銘を覚えたことであろうが、まさかその地で大量の鉄砲を目にすることになろうとは、夢にも想っていなかったに違いない。しかも、皮肉なことに、それらの鉄砲のほとんどは、彼の乗る船の船員らと同国籍のポルトガル人がわずか六年前に種子島にもたらした鉄砲を複製したものだった。
  キリスト教布教の父として仰がれるザビエルだが、彼はいっぽうで、キリスト教の国外布教活動のスポンサー的存在であったポルトガル国王に対し、日本の軍事力や経済力に関する詳細な分析レポートを送ってもいる。この国を軍事力で制圧するのは難しいという主旨のことを述べた彼のレポートの裏付けとしては、まず、当時の国内各藩の高度に組織化された武士集団の存在や商業の中心地堺などにみられる経済力の大きさなどが挙げられるだろう。
  だが、そのほかに、彼が多数の鉄砲の存在とその製造現場を目のあたりにし、その技術の高さに驚かされたらしいことなども、その情勢分析に少なからぬ影響を与えたに違いないと考えられる。ザビエルのレポートの内容からは多分にそのようなことが推測できるからである。実際、ザビエルが畿内を訪ねた頃には、堺や国友周辺の刀工集団の多くは、事実上鉄砲工集団へと変容を遂げていた。
  国友の刀工を中心とした鍛冶集団の場合は、種子島領主より将軍足利義晴に献上された火縄銃を借り受け、それをもとにしてほどなく大量の鉄砲製造を行うようになった。くしくも、ザビエルが鹿児島に来訪した天文十八年には、薩摩の加治木城において鉄砲合戦が行われており、また、同じ年に織田信長は国友の鉄砲工衆に五百挺の火縄銃を発注している。記録によると、鉄砲隊が出現しはじめたのもこの頃のようである。それらの動きに合わせるように、やはりこの年、堺の豪商今井宗久らも本格的な鉄砲大量生産に乗り出している。
  我が国においてそれほどまでに急速に鉄砲が普及した背景には、古来の刀剣製造技術に代表されるような高品位の鋼鉄の精製技術、ならびに生産された鋼鉄の高度な精錬加工技術の存在があったとおもわれる。古代に朝鮮半島から移住してきた製鉄技術をもつ工人集団(現代風に言えば先端科学技術者集団)は、我が国で飛躍的にその技術を高度化し発展させていった。その最大の理由は、鋼鉄の精製と精錬加工に適した自然条件がたまたま我が国にはそなわっていたからである。
  コークスを用いた溶鉱炉によって大量の鉄鉱石を溶かし鉄を精製する方法は、ずっとのちにヨーロッパで開発されたものである。また、鉄器を初めて用いたことで知られる古代のヒッタイト族などの場合は、その地方に多数散在している隕鉄を溶融加工したと言われている。もちろん、上質な磁鉄鉱を産出する地域では、直接にそれらを用いたりもしたらしい。しかし、古代東アジアにおいて一般的だったのは、砂鉄を大量に集めてそれから鋼鉄を精製する方法で、もちろん、朝鮮半島から渡来した昔の工人たちも「たたら製鉄」と呼ばれるこの方法を用いていた。
  砂鉄を含む厚い砂層のある傾斜地に上部から大量の水を注入し砂もろとも流し出す作業を繰り返すと、比重の重い砂鉄が濃縮されたかたちで流路の底部に沈殿する。それらを集め同様の原理でさらに濃縮していき、鉄分の濃度が十分に高まったところで乾燥させるのが、たたら製鉄の第一段階である。山陰地方各地の海岸や海岸近くの山地には、とくにこの一連の作業に適した砂地や砂層と水利のよい傾斜地が数多く存在していた。要するに、原料とそれを処理する自然条件に恵まれていたわけである。この初期作業そのものも相当な自然破壊をもたらすものであったらしいが、当時の低い人口密度や自然のもつ復元力から考えて、それなりの適地が日本各地にはあったようである。もちろん、山陰地方一帯などは、地理的にみても朝鮮半島から日本海を渡って工人たちが移住してくるのに格好な場所でもあった。
  しかし、「たたら製鉄」にはもうひとつ絶対に欠かせない要素があった。言うまでもなく、それは鉄を溶かすに必要な「火力」である。「たたらを踏む」という言葉の語源にもなっている「たたら」とは、鉄の精製や精錬に用いた足踏みの「大型鞴(ふいご)」のことである。どうしても想像のつかない人は、宮崎駿のアニメ作品「もののけ姫」の冒頭の場面を想い出してもらえばよいだろう。巨大な鞴(ふいご)で人工的に空気を送って火を煽り、鉄を溶融したり鍛錬したりするのに必要な高温を生み出すわけである。
  もちろん、いくら大きな鞴があっても、燃料となる木材や木炭が大量になければ話にならない。濃縮した砂鉄を溶かして粗鉄をつくり、それをまた何度も高温に加熱して鍛錬をを繰り返し、刀剣の刃などに用いる玉鋼(たまはがね)を得るまでには、途方もない量の木材と労働力を必要とした。一説には、精製技術が十分に発達していなかった初期の頃には、砲丸玉ほどの量の玉鋼を精製精錬し、それらをもとにわずかな数の刀剣を造るだけでも森林何十ヘクタール分もの木材を必要としたという。したがって、たたら製鉄法による鉄器の製造には想像を絶する自然環境破壊がともなったことは間違いない。
  製鉄技術をもつ工人集団が朝鮮半島から我が国に移住してきた理由の一つは、木材を切り尽くし、製鉄に必要な燃料の入手が困難になったことであると、作家の司馬遼太郎がどこかで書いていたような記憶があるが、たしかにそういった事情はあったのだろう。朝鮮半島東岸一帯は花崗岩質の固い土壌が多く、植物の繁殖にはかならずしも適してはいない。そのうえ、地理的ならびに気象学的な理由によって日本よりずっと雨量が少ないから、森林がいったん皆伐されてしまうと、その復原には途方もない時間がかかってしまう。現在も朝鮮半島東岸に樹林帯が少ないのは、古代の製鉄作業にともなう森林伐採の影響だという説もあるくらいだ。
  ところが、幸いなことに、我が国には森林形成に適した豊潤な土壌と、その土壌の上に発達した豊かな森林が存在していた。しかも、その森林、とくに照葉樹の雑木林は、大量に伐採してもそんなに年月を要せずに復原する力と条件をそなえていた。そして、その森林復元力の秘密は、太平洋を流れる暖流黒潮と日本海を流れる黒潮の分流対馬海流、オホーツク気団と小笠原気団の間に形成される梅雨前線や秋雨前線、さらには夏から秋にかけて次々に日本周辺に来週する台風にあったとおもわれる。
  我が国は平均日照時間もそれなりに多い上に、両海流に挟まれている関係で平均気温も高い。夏場に太平洋側から大陸に向かって吹きぬける南東の季節風は、黒潮の流れる太平洋から立ち昇る多量の水蒸気を日本の内陸へと運び、山脈にぶつかったそれらの水蒸気は大量の雨となって山野に降り注ぐ。逆に、冬場には、大陸から太平洋に向かって吹き出す冷たく乾いた北西の季節風が、日本海を吹き渡るときに対馬海流の表層から絶え間なく激しく立ち昇る水蒸気を吸収し、それを山陰や北陸、東北地方西岸側の内陸に運ぶ。もちろん、それらの水蒸気は、日本人なら誰もが知っているように大量の雪となって山野を埋め尽くす。
  おまけに、梅雨前線や秋雨前線伝いに次々とやってくる移動性の低気圧や、夏から秋にかけての台風は、洪水をもたらすほどの大雨を降らせる。このような気象条件のもとでは、我が国の森林が朝鮮半島や中国大陸一帯のそれよりはるかに大きな復元力をそなえていることは当然のことだろう。いま日本各地を旅してみるとよくわかるが、安い外材の輸入や化石燃料の普及で伐採されることの少なくなった我が国の山林は、かつての濫伐状態からかなりのところまで復原を遂げつつある。むろん、ブナや檜、杉の森林を昔の自然林の状態にまで完全に復原するとなるとそう簡単にはいかないが、それでも一時期よりはるかに事態は好転している。恵まれた気象条件の国に住む我々にとっては、しごく当然のことのようにもおもわれるかもしれないが、自然条件の異なる他国の状況を考えるとこれは大変なことである。
  私が子供の頃に育った鹿児島県の甑島では、当時、薪として大量の照葉樹の林を毎年のように伐採していたが、なんの手入れもせずに数年放置しておくだけで復原していたようにおもう。先年、二十数年ぶりに帰島してみたが、近年は九州の離島も化石燃料や電力に熱源を依存するようになり、それにともなって樹木の伐採はほとんど行われなくなったらしい。そのため、かつて薪の切り出しが行われていた山々の照葉樹林は、分け入るのも困難なほどに鬱蒼とした密生林に変わっていた。

  たたら製鉄に絶好の自然条件をもつ我が国に移住した工人たちは、その技術にいっそうの磨きをかけるとともに、国中にその熟練の業を広めていった。やがて、国内の各地には、きわめて高品質な玉鋼を生み出し、それらをもとに、もはや芸術作品としか言いようのないような刀剣類を造る刀工たちが続々と誕生した。彼らのある者はまた、刀剣類のみでなく、鎧兜から各種の精巧な装飾品、堅牢な実用品のにいたるまでの優れた金属製品を生み出すようになっていった。
  日本の場合、大乱が起こった場合でも、たいていは支配者層が入れ替わるだけで、多くの刀工をはじめとする工人たちが、伝統的な技術を絶やすことなく、むしろ発展的に代々職人技を継承していけたことも幸いであった。異民族の侵略や無差別大量殺戮などによって、各種の伝統技術が途絶えてしまうような状況にあったら、ポルトガル人がもたらした火縄銃の複製銃、さらにはその改良銃を驚くほどの短期間で製作することは不可能であったろう。
  火縄銃の製造過程においてもっとも重要なのは、鋼鉄製の細長い銃筒と、日本の鉄砲工たちが「からくり」と呼んだ精巧な点火発射制御装置であるが、手本があったとはいってもそれらの主要部分を複製することはけっして容易なことではなかった。だが、幸いなことに、鉄砲伝来当時の我が国には、伝統的な刀剣造りを通じて鋼鉄の扱いに熟達していた刀工や、精巧な金属装飾品の細工技術をもつ金具師たちが少なからず存在した。彼らは、長年にわたって蓄積されてきた技術の粋を尽して、それらの難題解決に見事成功したのである。裏を返せば、当時の我が国には、伝来の鉄砲の構造を解析し、短期のうちにその複製を生み出すだけの高度な技術力がすでにそなわっていたのだった。
  鉄砲伝来当時、我が国には硬い鋼鉄の棒に旋盤で銃穴をあける技術はなかったが、玉鋼を扱い馴れた刀工たちは、特殊な方法を案出し、その問題を解決した。まず、真金というまるく細長い心棒をつくり、その上に瓦金という鋼板を筒状にまるめたものを巻きつけ、何度も焼きを入れて鍛錬する。瓦金の鍛錬が終わると、さらに瓦金の上から細長い鋼板を螺旋状にぐるぐると二重に巻きつけ、またもや焼入れと鍛錬を再三再四繰り返す。そして最後に心棒の真金を抜き取り、先目当(照準)をつけて銃筒を完成する。それが刀工たちの考えた銃筒の製造法だった。
 「からくり」、すなわち点火発射制御装置については、いったんその構造と原理が理解されると、熟練した金具師たちにとってその製作はそう難しいことではなかったようである。彼らは、真鍮と鉄とを素材にして、外来の火縄銃などのものよりもずっと優れた我が国独自の「からくり」を次々に創り出した。雨にも耐え得る着火装置や暴発を防ぐ安全装置などの工夫には目を見張らされるものがある。銃床、床尾、弾丸、火薬といったものもむろん重要ではあったが、それらのものの製作には、熟練職人たちはほとんど苦労しなかったようである。
  種子島に鉄砲が伝来してからちょうど十年後の一五五三年には国内各地で大量の鉄砲が製造されるようになり、この年、織田信長は本格的な鉄砲隊を編成した。また、鉄砲の普及とともに根来流、稲富流をはじめとする鉄砲術の各流派が生まれ、鳥射術や曲射術(放物線軌道によって遠方の的を狙う方法)などのような高度な射撃術も編み出されはじめたようである。熟達者になると、丸い鉛玉を撃ち出す初期の火縄銃でも二、三百メートル離れた的を正確に撃ち抜くことができたとも記録されているから、鉄砲術はわずか十年前ほどで各段の進歩を遂げていたことになる。
  ところで、このように短期間で驚くほどの速度で国内に広まった鉄砲だが、それらが陰で果たした役割というものについては、私は歴史ではほとんど教わった記憶がなかったし、自分自信でそれについて深く考えてみる機会もなかった。だが、たまたま松本城鉄砲蔵で目にした資料などをもとにあれこれと想いをめぐらすうちに、歴史的にみて鉄砲には一つの重要なはたらきがあったのではないかと考えるようになった。

「マセマティック放浪記」
2000年7月5日

歴史の黒幕「鉄砲」

  さきに、伝来した鉄砲を二本の工人集団が複製した際に、銃筒やからくり(点火発射制装置)に較べて「銃床、床尾、弾丸、火薬」の製造にはそれほど苦労しなかったようだと書いたが、もちろん、なんの工夫や試行錯誤の積み重ねもなくそれらの製造をやってのけたというわけではない。話は前後するが、そのあたりのことを少し補足しておくことにしたい。
  いにしえの宮大工や飛騨の匠の例を挙げるまでもなく、樹木の豊かな我が国には古来優れた木工技術が存在した。銃床や床尾といった鉄砲の木部は樫や欅をはじめとする硬木でできているが、手本となる鉄砲さえあれば、その銃床や床尾の複製を造り出すことは、高水準の木工加工技術をもつ工人たちにとって、そう難しいことではなかったようである。実際、松本鉄砲蔵に展示されている各種の火縄銃の銃床や床尾は、おおまかに眺めると一定の形状をそなえてはいるものの、細部をよく見てみるとそれぞれの銃ごとに様々な異なるデザインや工夫が凝らされており、それ自体が工芸品の様相を呈している。作者の銘などが彫られているのを見るにつけても、その技術に対する自信のほどが偲ばれてならない。
  弾丸は鉛玉であったが、直径四ミリくらいのもから直径一センチ前後のものまで(のちには一貫目玉と呼ばれる大筒用の直径八・四センチくらいの鉛玉も登場した)様々な大きさのものが造られたらしい。もちろん、厳密な規格などなかった時代のことだから、火縄銃のほうも銃筒の口径はまちまちであったらしく、それぞれの銃の口径に合わせて適宜鉛玉を造っていたというのが実情だったようである。
  銃弾の鉛玉は、鋳鍋という小型杓子状の柄付き鍋で板鉛を溶かし、それを玉型という器具に流し込んで造った。玉型は大型ペンチの先端部に小半球状の窪みを二個向かい合わせにつけたような道具で、その窪みに溶けた鉛を十分に注ぎ込んだあと、長い柄のほうに手の力を込めて先端部の鉛を圧し挟み、冷え固まるのを待って取り出し、小さな凹凸をヤスリなどで削って仕上げた。戦国期においては銃弾造りは女性の仕事になっていたらしく、何人もの女性が炉を囲み談笑しながら鉛玉造りをしている図などが残されている。
  ついでだから紹介しておくと、松本城鉄砲蔵(赤羽コレクション)にはなんとも珍妙な構造の鉄砲玉が展示されている。数個の鉛玉を一繋ぎにした連玉とでも呼ぶべきしろもの、本来の鉛玉のうしろに小さな副玉を二個細長い針金で繋いだ形のもの、さらには釣り針を二本合わせたような鋭い鈎針のついた鉛玉と、思わずその意図と実効性に首を傾げたくなるような不可思議なしろものまでが並んでいる。それらが実際に使用されたものなのか、それとも遊び心と旺盛な実験精神の結果、試験的に造られたものなのかはわからないが、こういう芸当ができたのも先詰の火縄銃ならではのことではあったのだろう。
 
  最後に残るのは火薬であるが、火縄銃に使われた火薬はかなり古くからある黒色火薬を改良したものだったようである。黒色火薬は、近代の高性能火薬ほどの性能はないものの、直径五ミリ足らずの小さな鉛玉を三百メートル前後飛ばすくらいの威力はあったようだ。もちろん、鉄砲伝来当初は、ポルトガル人をはじめとする異国人などから火縄銃用の火薬についての情報収集が盛んに行われたようである。
  ただ、元軍の来襲した鎌倉時代以降、ある程度の火薬の基本製法は中国や朝鮮半島から伝わってきていたこともあり、主要原料の調達さえ可能であれば、試行錯誤の実験を通じて最適な火薬合成の原料混合比を割り出すまでには、それほど時間を必要とはしなかったようだ。それまで鉄砲こそ存在しなかったが、火矢や狼煙その他の目的ですでに火薬類は使われていたようだから、火縄銃用の火薬を開発製造する技術的下地は十分にあったと考えるのが自然だろう。もともと、隣の中国や朝鮮は火薬技術の先進国だったわけだから、我が国の一部の工人が黒色火薬などの技術を伝承していたとしても不思議はない。
  ポルトガル人から二千両で二挺の火縄銃を買い取った当時の領主種子島時尭(たねがしまときたか)は、火薬の研究を家臣の篠川小四郎に命じているが、銃本体の複製に取り組んだ八板金兵衛(清定)の試作品の発射実験が成功したのは翌年のことだから、火薬の開発のほうもそれまでには一定レベルに到達していたと考えてよいだろう。
  資料の伝えるところによると、火縄銃用の黒色火薬は、薬研(やげん)を使って焔硝(硝石粉末、硝石とは硝酸カリウムのこと)、硫黄粉末、木炭粉末を5:3:2くらいの割合で混合したもので、その混合比は機密事項であったらしい。しかし、燎原の火の如き勢いであっというまに国内各地に鉄砲が広まったところをみると、火薬の混合比はほとんど公然の秘密のようなものだったのだろうと推測される。硫黄と木炭は国内で容易に入手できたが、硝石は国内ではほとんど産出しないだけに、特別なルートで海外から入手していたようである。むろん、初期の頃はポルトガル人などから必要量だけ小分けに購入していたのだろう。
  もっとも、鉄砲伝来から十年も経つと、堺などには大量の硝石が出回っていたようである。ザビエルが鹿児島を来訪した二年後後の天文二十一年(一五五二年)には、足利義輝の依頼で石山本願寺が焔硝(硝石)十斤を堺で調達したという記録なども残っているから、すでにこの時期、堺一帯には相当量の焔硝が海外から持ち込まれていたのだろう。確かなことはわからないが、南米チリ産の硝石などもはるばる海を渡って国内に運び込まれた可能性もある。
 
  ともかく、そのような過程を経て国内で大量生産されるようになった火縄銃は、実戦でもその威力を発揮するようになった。天文二十年(一五五一年)、大内義隆は陶晴信との厳島の戦いで鉄砲百挺を使用、その力もあって陶軍を破ったという。また、永禄三年(一五六〇年)の桶狭間の戦いにおいて織田軍は三百挺の鉄砲を使ったという記録も残っているようだ。桶狭間の戦いというと、行軍の関係上やむなく特殊な隘路に一夜の本陣を張った今川義元軍に対し、折からの悪天候を突いて織田軍が奇襲攻撃をかけたことで知られるが、その際に鉄砲が使われたという話はあまり聞いたことがない。だが、もしも記録通りに三百挺もの鉄砲が使われたというのであれば、織田軍の一大勝利にそれなりの貢献はしたに違いない。
  永禄七年(一五六四年)に尼子氏の篭る難攻不落の富田城を攻めた毛利軍は、その実効性はともかく、鉄砲で攻撃を仕掛けているし、その翌年に起こった肥前福田港でのポルトガル船攻撃には堺で造られた火縄銃が用いられたという。こともあろうに、鉄砲という革命的な武器を伝授してくれた師のポルトガル人に、伝授された弟子の日本人ほうが同じ武器を使って攻撃をくわえたというのだから、なんとも皮肉な話である。ポルトガル側に当時の記録が残っているかどうかはわからないが、ポルトガル船員たちにとってはなんとも衝撃的な出来事であったことだろう。
  永禄十二年(一五六九年)、織田信長が浅井長政の本居小谷城を攻めたときにもかなりの鉄砲が用いられたというが、この頃には堺は国内最大の鉄砲生産地になっていた。同時期、信長が堺を完全に支配化に収めたのは、交易や商業上の要地という理由のほかに、鉄砲を完全に自分の管理下におきたいという意図などもあってのことだったのだろう。その翌年、石山本願寺に立て篭もった根来衆、雑賀衆などの紀州勢を攻めた織田軍は、本願寺守備軍の多数の鉄砲による応戦に苦闘を強いられる羽目になった。その教訓もあってか、信長は国友の鍛冶集団に命じて、より強力な二百匁筒(銃口径約五センチの大型砲)を試作させている。
  史上名高い天正三年(一五七五年)の長篠の戦いにおいて、三千挺の火縄銃をもつ織田の鉄砲隊が武田の騎馬軍団を撃ち破ったことで、武器としての鉄砲の重要性はゆるぎなきものとなった。松本城鉄砲蔵には長篠合戦図屏風の一部を拡大コピーしたものが展示されているが、その図中には、防御溝で囲まれた段々状の野戦陣地の内側で火縄銃を構えた織田軍の足軽が武田軍の軍馬や騎馬武者を狙う光景や、鉄砲で撃ち倒された武田方の武者や軍馬が描かれている。武田軍の中にも鉄砲らしきものを持っている者もあるようだが、鉄砲隊の組織力の高さと鉄砲の数において織田軍は圧倒的に勝っていたようだ。
  直接火縄銃には関係ないことではあるが、この合戦図を見ているうちに面白いことに気がついた。足軽鉄砲隊の指揮官ではないかと思われる両軍の武将の何人かが、よく目立つ日輪旗を背負っているのだ。白地に赤い日輪を染めた縦長の旗で、要するに現代の日の丸の旗を縦にしたような旗である。それらの日輪旗にどのような意味や役割があったのかは門外漢の私にはわからなかったが、もしかしたらこの時代の日輪旗は現在の日の丸のルーツになんらかの関係があるのかもしれない。松本市教育委員会発行の「松本城鉄砲蔵」という資料書の中には「日輪旗を持つ鉄砲頭軍装」と説明のついた写真が掲載されている。その日輪旗は、紫地に金色の日輪を描いたものだが、構図や旗の形などは合戦図中の日輪旗とまったく同じものである。 
  信長の死後天下統一を果たした秀吉は朝鮮出兵を断行するが、その時秀吉軍は十匁級(銃弾径一・八三センチ以下)までの小筒約七千挺を投入し、その威力もあって交戦初期一時的には優位に立った。しかし、海路による補給が困難だったうえに、やがて百匁級(銃弾径約四センチ)の大筒を多数備えた朝鮮軍の攻撃に遭い、ついには劣勢に追い込まれ、撤退のやむなきにいたったのである。
  秀吉のあとを継いで天下を支配した徳川家康も、当然、鉄砲による軍備強化と鉄砲鍛冶集団の管理に細心の注意を傾けた。家康は国友の鍛冶集団に忠誠を誓わせることと引換えに彼らの鉄砲製造を支援し、製造された銃砲を大量に買い上げた。そのため、国友の鉄砲工の数は最盛期には千二百人にも及んだという。慶長十九年(一六一四年)の大坂冬の陣の直前には、堺の鍛冶集団は徳川、豊臣両陣営から鉄砲の大量注文を受けたが、豊臣家滅亡後は堺の鍛冶集団も御用筒と呼ばれる徳川幕府向けの鉄砲を造るようになっていった。
  もちろん、徳川幕府は砲術の向上にも力を入れ、稲富一夢をはじめとする砲術家たちの登用や支援、さらにはその後継者たちの育成にそれなりの配慮を示しもした。また、砲術師の範黒田十兵衛が元和三年(一六一七年)、当時の松本城主戸田氏に仕えたことでもわかるように、この時代になると、各藩は優れた砲術師範を競って雇用しはじめたようである。
  寛永十五年(一六三八年)の島原の乱においては、原城に篭った約二万八千人の農民兵相手に十二万の幕府軍が大苦戦を強いられることになったが、農民兵が手にした約五百挺の鉄砲が幕府軍苦戦の原因の一つでもあったとも言われている。ほどなく徳川幕府が江戸への鉄砲の持ち込みを厳しく取り締まるようになったのも、それまでの経験を通して鉄砲というものの威力と危険性を十分過ぎるほどに認識させられたからに違いない。
 
  はるばる東洋の島国日本にまで進出して来たヨーロッパの勢力にとって、予想を超えた鉄砲普及の速度と大量の鉄砲による軍備強化はおそらく計算外のことだったろう。種子島時尭に鉄砲を売り渡したポルトガル人たちにいたっては、まさか一年も経たないうちにその地で複製銃が造られようなどとは夢にも想っていなかったはずである。
  キリスト教布教のために海を越えてはるばるやって来た多数の宣教師たちの背後には、虎視眈々と日本征服を狙うヨーロッパ列強国の支配者たちの鷹のような目があった。宣教師たちの信仰にかける想いと布教の熱意がどんなに純粋なものであったとしても、それら宣教師たちの陰に隠れ潜むヨーロッパの狼たちは、武力でこの国を征服できるといったん計算が立ちさえしたら次々にその牙を剥いて襲いかかってきたことだろう。私には、そんな群狼たちの野心の牙を抑えたのは鉄砲の存在であったように思われてならない。
  中南米やアフリカ、中近東、東南アジアなどの各地における凄まじいばかりの植民地支配の歴史を見れば、そのことは多分に推測がつく。ヨーロッパ列強国は明かに鉄砲の力によってそれらの地域の国々を滅ぼし、民衆を支配し弾圧した。本国からの補給も難しく、数の上でも比較にならないほどに少数の欧州勢力が世界各地を征服し得たのは、銃の威力をもって行く先々の支配者を殺戮ないしは服従させ、それによって混乱に陥り方向を見失ってしまった民衆を意のままに操ることが出来たからだった。
  幸いなことに、この島国の日本だけはいささか状況が違っていた。ヨーロッパ人の持つ銃に較べればおそらく性能の点ではかなり劣ってはいたろうが、彼らが日本に食指をのばしはじめた頃には、我が国には膨大な数の鉄砲が存在していたのである。いかに彼らが優れた銃で武装していたとはいっても、船の収容能力の関係でせいぜい百人前後の単位でしか日本に上陸することはできなかっただろうし、また戦略物資の補給も困難だったと思われる。性能が劣るとはいっても数の上では圧倒的に勝る火縄銃で武装した軍団と、その軍団に守られた当時の日本の群雄たちを征服するのは、彼らにとって至難の業だったはずである。
  そう考えてみると、種子島銃は我が国にとってなんとも絶妙のタイミングで伝来したと言わざるをえないし、たまたま刀剣その他の高度な金属加工技術が存在していたこともまたとない幸運だったと考えざるをえない。将軍徳川家光の時代に入って我が国は鎖国政策を取り、そのために国外勢力の侵入が不可能になったとも言われているけれども、鎖国策を取ろうが取るまいが、もし武力による支配が可能な状況にあったとしたら、彼らは容赦なく侵略してきたに違いない。私自身は、長年にわたる鎖国政策が歴史的に見てよかったとは考えていないし、それによる文化的なマイナス面もたいへん多かったことも認めざるをえないけれども、それはともかく、結果的に徳川幕府が鎖国政策を遂行できた背景には鉄砲の存在があったことは否めないような気がしてならない。
  家光が鎖国令を発布してから二百余年の歳月を経た一八四六年のこと、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルは通商を求めて浦賀に来航したが、幕府はその申し出を断固として拒絶した。さらにそれから七年後の一八五三年、同じくアメリカ東インド艦隊司令官ペリーが大統領の国書を携えて再び浦賀に来航、幕府に対して激しく開国を迫った。そして、歴史に刻まれているように、翌年再来日したペリーと幕府との間で日米和親条約が締結されたわけである。
  東京湾に入った四隻の黒船による大砲の威嚇射撃と強硬な外交姿勢に、江戸の幕閣も民衆も皆驚き狼狽することになったのだが、現実には迅速な条約締結を迫るペリーのほうにも内心焦りはあったことだろう。艦砲射撃を加えれば江戸城をも直接破壊することはできたかもしれないが、本国からの支援や補給もないまま、たった四隻の艦船に分乗する兵力だけで上陸し、鉄砲や大砲で武装した武士集団と戦闘を行い、国土を完全に制圧することは事実上不可能だったはずである。ペリー自身が誰よりもよくそのことをわきまえていたに違いない。
  不平等条約ともいわれた日米和親条約の締結を契機として、我が国は一挙に近代化へと突き進んでいくのだが、それまでの歴史の陰にあって鉄砲が果たした役割は、良い意味でも悪い意味でも相当に大きなものであったように思われてならない。松本城鉄砲蔵の種子島銃コレクションを目にしてはじまった私の夢想は、かくして黒船来航の時代にまで及び、ようやく落着をみるところとなった。

「マセマティック放浪記」
2000年7月12日

フリーランスってなに?

  初対面の相手と挨拶を交わすとき、「お仕事はどのようなことを?」と訊ねられると、私のような人間はとりあえず「フリーランスです」と答えるしかない。一応名刺も持ってはいるが、もちろん肩書きのない、自分の名前と住所電話番号を記しただけの名刺である。
  世の中には「フリーライター」という言葉がある。何時頃から一般化した和製英語かは知らないが、「フリーのもの書きです」という意味のあるらしいこの言葉が、私は必ずしも好きではない。べつに今ばやりの「フリーター」と間違えられるから嫌だというわけではなく、もっと深い理由があってのことである。その日暮らしの経済的な生活状況から言えば私などはまさにフリーターの典型に違いない。
  たぶん、フリーライターという言葉には、どこかの出版社や新聞社の「専属ライター」ではなく、どこの仕事でも引き受けるライターだと言う含みがあるのだろう。それならば単にライターと言えばよさそうなものだが、あえてフリーという一語を冠するところがいかにも日本的である。もしかしたら、「ライター」すなわち「作家」と名乗るのはおこがましいが、かといってまったくの素人とも違う書き手という少しばかり屈曲した思いがその言葉には込められているのかもしれない。本来、文章を書く仕事をする人は皆ライターなのだから、個人的には「フリー」という冠などつけなくてよいと思うのだが……。
  「フリーライター」という和製英語が生まれた背景には、おそらく「フリーランス(free
-lance)」という英語の存在があったと思われる。定職を離れ所属のない生活を送るようになってからは、私なども職業を訊ねられたとき、「フリーランスです」と答えることがおおい。そんなとき、「フリーランスってなんですか?」と問い返されたら、細かな説明は面倒なので、「いやー、要するに、落穂拾いでもなんでもやるフリーのことですよ」とついついお茶を濁してしまうのだが、実は「フリーランス」という言葉にはそれなりの意味がある。
  欧米ではライターや各種アーティストで「フリーランス」を名乗る人は少なくないし、そう名乗る人は、有名無名にかかわらずそれなりの信念と自分の仕事に対する良い意味での責任と誇りをもって生きている。それは、欧米にあっては「フリーランス」という言葉が長い歴史と伝統に支えられた言葉でもあるからだ。
  「free-lance」を直訳すると「自由の槍」ということになる。「chivalry world」すなわち
中世騎士道の世界において、特定の王侯貴族に仕えることなく手にした「槍一本」のみを頼りに乱世を渡る騎士たちがいた。誇り高き彼らは、その実力を真に認め遇してくれる王侯や貴族のために働きはしたが、けっしてその臣下として帰順することはなく、あくまで一匹狼として自由意思を貫き通した。
  むろん、状況次第では、彼らは不遇に甘んじ、損得抜きで義を貫くこともあった。そして、そんな彼らはいつしか「free-lance」と呼ばれるようになっていったのである。中世騎士道の時代が終わり、ずっと後世にいたってからも、その故事にちなんで、欧米においては、特定の雇用主に属さず自らの信念に基づいて専門の仕事をする人々はフリーランスと呼ばれるようになったようである。
  「槍一本の渡世人」とでもいったもともとの意味でのフリーランスにはほど遠い私だが、所属のない立場に身をおくようになってからは、ともするとクライアントの顔色をうかがいながら流されたり妥協したりしがちな身を律するために、たまにはフリーランスの精神に立ち返って折々の自分の現状をチェックするようにしように心がけてきた。まあそんなこともあって、表だって職業を問われたときには、「フリーライター」ではなく、「フリーランス」と答えるようにしているわけである。それに、私の場合、ライターばかりをやって生計を立てているわけではないから、フリーライターという言葉はしっくりこない。
  とまあ、そこまでの決意表明のほどは格好いいのだが、現実にはということになると事情ははおのずから異なってくる。警察の取締まりの厳しい現代ということもあって、槍をば下手なペンやキーボードに持ち替え、時々旅をしたりしながら、本来のフリーランスにはあるまじき拙い文章などを書き綴っているわけである。朝日新聞社のアサヒ・インターネット・キャスター欄(AIC欄)の放浪記などもその一環にほかならない。
  当該欄の担当を依頼された私が原稿用紙換算で平均十四、五枚の長い原稿を書き送りはじめたとき、編集者は、ネット上でこんな長い原稿を読むのは自分だけで、最後まで読み通す人は読者中には一人もいないだろうと思ったのだそうだ。編集者からは、長期の連載原稿を避け、原稿三、四枚程度の文章にするようにとの要請が何度かあったが、私はその意思に逆らい、私なりの方針を貫いてきた。編集者には申し訳ないとは思ったが、そこは労力と経済性を無視し、少しでもAIC欄のために役立てばと思って書きはじめた「フリーランスもどき人間」の意地である。原稿料はほとんどないに等しいが、自由に何でも書いてよいし、メディアの性質上長さもとくに制限はないというのが当初の話だったから、ある意味で私はその言葉を素直に受け取っただけのことである。
  インターネットの前段階のパソコン通信時代、nifty-serve開設以来の古参常連会員だった私は、ホストサイドからの依頼もあって、一時期、strangerというハンドルネームを使い様々な角度からコンピュータ通信の可能性を探っていた。本名こそ表に出ることはなかったが、そのころstrangerというハンドルネームは、その世界ではかなり知られた存在であった。そしてその実験的試行の一環として、私は二年間ほど掲示板に毎週のように長文原稿をアップし続けていたことがある。以前にこの欄で紹介したことのある拙稿、「当世修善寺物語」や「納涼怪談レポート」などは、実を言うと、その時代に掲示板に一度アップしたことのある原稿を少しばかり手直ししただけのものである。当時のパソコン通信会員数はまだ全国でせいぜい四、五万人程度だったが、それでもその実験的な試みを通して私は相当数の常連読者を獲得することができた。
  こんなことを書くと申し訳ないが、三大新聞社の記者らをはじめとする各新聞社や雑誌社の記者たちのほとんどが、パソコン通信はマニアックでネクラな連中のやることで、その内容も機能も稚拙でまだまだとても活字媒体には及ばないと嘯いていた時代のことである。
  当時、新曜社という出版社からの依頼で「電子ネットワールド・パソコン通信の光と影」という本をstrangerというハンドルネームで執筆し、近い将来のコンピュータ通信の様々な可能性や、考えられる利点やリスクについてわかりやすく説きもした。現在インターネットの世界で起こっている、ウイルス、ハッキング、パスワード盗難、誹謗中傷、恐喝、詐欺、過度な宗教勧誘、売春勧誘、薬物売買といったような各種の不祥事は、すでにパソコン通信の時代から起こっていた。それら通信世界の功罪や人間模様について、ジョークや珍談を豊富に交えて述べたかなり軽いのりの本であったが、それを読んだ科学技術庁傘下の未来工学研究所や電機事業連合会などから通信世界の展望について諮問を受けたりするというおまけまでついた。
  そして、現実には私の予想をもはるかに上回る速度でインターネット全盛の時代が到来した。いまや新聞社や雑誌社が手のひらを返したように我先に競ってネットを活用し、コンピュータ関連誌を次々に出す時世である。パソコン通信の時代からインターネットへの過渡期において、私自身、朝日の初心者向けコンピュータ誌pasoで創刊から二年間ほど「コンピュータ解体新書」というコラムを担当したりもした。

  そんな経験などもあったので、初めは敬遠されたとしても、時間がたてば少しずつ読んでくださる方も増えるだろうと考え、敢えて長い文章を、そしてときには硬質な文章を書いてみたりした。インターネットの掲載文は情報を伝えることが目的だから、文体や文意、論旨の展開にあまりこだわらず軽く書き流すのがベストだし、読者もそのほうを好ましく思っており、多くの人は凝った文章などを期待してはいないというのはその通りだろうし、またそれでよいとも思う。しかし、インターネットが発展途中のメディアであり、将来的には個別的なニーズを満たすことを目指しているとすれば、様々な試みはなされてよいのではなかろうか。
  一連の手記は体裁を放浪記にはしてあるが、インターネット上の記事だからといって行き当たりばったりの出来事を何の下地もなく適当に書いているわけではない。文体に注意を払いながらそれなりに推敲も加えているし、実取材のほかに相当量の資料も調べたり読んだりしてもいる。実生活の糧を得るための雑務をこなしながらの執筆なので、苦労がないと言えば嘘になるが、たとえ少数であったとしても喜んで読んでくださる方があるというなら筆者としては冥利に尽きる。
  最近の編集者の話によれば、私のたわいない長文に毎回最後まで目を通してくださるマニアック(?)な読者の方がずいぶんと現れてきたそうである。私自身はその方々がマニアックだとは思いたくないが、たとえそうであったとしても唯々心から感謝申し上げるばかりである。また、長文掲載という実験的試行を危ぶみながらも二年近くじっと我慢し続けてきた編集者にもそれなりの感謝と敬意を表する必要があるだろう。
  欧米でいわれるようなフリーランスには到底なれそうにないが、せめて「フリーランスもどき」のさらにそのまた「もどき」くらいのライターにはなれるように心がけたいと思っている。たとえ永遠の習作ライターで終わるかもしれないにしても……。

「マセマティック放浪記」
2000年7月19日

入試難問の出題意図は?

  たまにだが、どうしてもと依頼を受け、近所に住む大学受験生たちの数学学習の相談にのってあげることがある。未来を背負う若い彼らの感性からはこちらもなにかと学ぶことが多いので、私にとってもそれなりに有意義な時間である。
  その点はまあよいのだが、ときおり彼らが持ち込んでくる入試問題の中にどう考えてみてもその出題意図が理解できない問題があったりすると、さすがに怒りが込み上げてくる。最近も、ある私立高校の生徒が宿題なので教えてほしいともってきた問題を眺めているうちに、そんな無茶苦茶な問題を作った大学の教師の顔が見たくなってきたものだ。ある私立大学の経済学部の数学の問題だったのだが、この大学を志望する受験生の学力度からすると、たぶん誰一人として解けなかったろう……いやそれどころか、はじめから手のつけようがなかっただろうと想像されるしろものだったからである。珍問難問の域などとっくに通り越し、「醜問」の域にまで達していたと言ってよい。
  大学の名誉にかかわることなのでその名を明かにすることはできないが、昨今の少子化の煽りをくらって極端な定員割れをおこしている大学の一つとだけ書いておこう。あえて言わせてもらうならば、そんな大学(あまりこんな書き方はしたくないのだが)が、数学の出題範囲が数UBまでのはずの経済学部の入試問題に、数Vの微積の知識やロピタルの定理(高校の数Vの範囲外)などを総動員しなければ解けないような問題を出題すること自体異常である。経済学部は理工系なみの数学を必要とするとはいうものの、国立大学や私立大学の超難関校といわれる大学だって、経済学部の場合には出題範囲は数UBまでにかぎられている。
  ここで詳しいことを書くわけにもいかないが、根号の中に三次式や分数式の入った関数のグラフを描き、それらのグラフの接線を求め、次にそのグラフの特定領域の接線が他の領域のグラフと交わる範囲での接点のX座標の最大値を定め、さらにそのときに接線とX軸、そしてもとの関数のグラフで囲まれる部分の面積を求める問題であった。
  まず、根号の中の三次関数(この三次関数のX軸との交点は整数一個と無理数二個!)や対数関数混じりの分数関数を微分して増減表を書き(分数関数の極限値を求めるときに、たとえ知っていても証明抜きで単に結果だけを暗記しているにすぎないロピタルの定理が必要だったりする。ロピタルの定理を使わないでその極限値を求めようとすると、たとえも求まったとしてもそれだけで試験時間が終わってしまいかねない)、根号の中が正の値をとるXの領域を求めるだけでも一苦労で、この段階で「出題者のバカヤローッ!」と目をつりあげて罵りたくなる。
  なんとかそれが求まると、根号のついたもとの関数全体の一次導関数を求めて(これがまた複雑な分数関数になる!)、それをもとに切れぎれの(もとの関数の根号内が正の値になる領域だけの)増減表を描き(厳密にやるなら当然二次導関数も必要になる)、さらにいくつかの関数値を求め、問題の関数のグラフを描く。ここまでくると、「オメー正気かよぉ?、クソッタレがあ!」と怒りもあらわに絶叫したくなる。
  そのあと、複雑な無理式が分母にくる分数係数の接線の方程式を求め、それをゴチャゴチャ変形したり分母を払ったり、出てきた解の適否を判別したりしてなんとか正解となる接点の座標を求める。そして、最後のへんちくりんな図形の面積をいくつかに小分けしながら定積分して計算結果を足し終わる頃には目がすわってきて、「コンチキショーッ、殺してやるうっ!」と憤怒の度合いはついに頂点に達する。要するに「怒り曲線」が最大値をとるわけだ。下手をすると怒り曲線が尖って微分不可能な特異点になったり、限りなき憤りのために関数値が無限大に発散したりしかねない。ここまでくると、もう数学の本質とはまるで無縁な精神の拷問以外のなにものでもないからだ。
  時間の限られた入試の現場で実際にこんな問題と遭遇したら、難関国立大学の理科系の受験生だって、完答出来る者はほとんどいないだろう。そんな状況からすると、その大学の受験生でこの問題に手をつけたものがあったとはとても思われない。もちろん、より高度な知識をもつ数学の専門家なら高みから見下ろすこともできるから、それなりの展望もきいて、直観的にその解答方針やポイントを押さえることもできようが、受験生の知識の範囲でそれをやれというのは無茶苦茶な話である。そもそも、そんなことができるくらいなら大学なんかに行く必要などないと言ってもよいくらいなのだから……。
  もしかしたら、こんな出題をした大学の先生は、万人に一人の忍耐力と集中力の天才を探すつもりだったのかもしれない。そうでなければ、受験生時代によほど嫌な思いをした結果それがトラウマとなり、その反動で受験生に対するサディスティックな趣味に生き甲斐を感じるようになったのかもしれない。
  出題者のほうはあらかじめ用意しておいた答えをもとにして、意地悪な落とし穴やクリアするのに特殊な閃きのいる障害物をあれこれと設けながら問題を作っていくからよいようなものの、いきなりそれをやらさせる受験生のほうはたまったものではないだろう。しかも近年は複雑な任意の関数とその適当な定義域を入力するだけで自在にグラフが描けるパソコンソフトなどもあるから、問題を作成する側はいくらでも凝りに凝ったグラフや図形をデザインすることができる。かつてはグラフの形状がわからないから微分してその概形を求めていたのに、コンピュータの発達のおかげで、いまは正確なグラフを先に描いてから、微積の問題をデザインするという、本末転倒なこともできるわけである。
  まあ、たとえ難しくてもそれが将来の本質的な学習内容につながる問題ならある程度やむをえないのだが、計算量がやたら多く単にひねくれているだけの難問なら、これほどに迷惑な話はない。迷路の構造原理を考えさせるために迷路に挑ませるのならよいが、時間を制限したうえで、同じ原理を何重にもかさね繰り返し(こういうのをフラクタル図形的ともいうが)やたら複雑怪奇に設定した巨大迷路にチャレンジさせ、時間内に抜けられないとお前の人生は真っ暗だぞと脅迫するような異常さは、笑ってすませられる問題ではない。
  では、あえてそんな出題が繰り返される裏にはどんな意図があるのだろう?。どんなに易しい大学でもそれなりのプライドを守るため、入試問題だけは一応の格好をつけておかねばならないということはあるのかもしれない。また、出題担当の大学教師が不勉強で高校生の数学の修得範囲に十分な配慮していないということもあろう。私学ということもあって、たとえ悪問が出題されたとしても、誰も実効性のある批判をすることができないという事情もないとは言えない。
  しかし、私にはいまひとつ特別な理由があるようにも思われてならない。皮肉な見方かもしれないが、端的に言わせてもらうと、出題と採点の労力の省力化である。とくに記述式の問題などにおいては、十分に計算し尽した良問を作り、部分点や中間点などを細かくつけるとなると、問題を作成したり多数の答案の採点処理をしたうえに、細かな点数の集計までしなければならない入試担当者の労力は大変なものとなる。だが、極端に問題が難しければその必要はほとんどない。定員割れをしそうな大学の場合、入試の得点が実際どれだけの意味をもつのかはわからないが、様々な理由で、答案を含む入試資料をそれなりに整え一定期間保管はしなければならないだろうから、この問題は痛し痒しといったところなのだろう。
  ただ困ったことに、難問奇問の余波が及ぶのはそれを出題した大学の受験生だけに留まらない。むしろその大学に関係ない者への影響のほうが大きいのだ。受験書専門の出版社や予備校などはそれらの一癖も二癖もある問題を掻き集め、「超難問集」とかいったような類の問題集を作成する。厳しい受験態勢を敷き管理主義的傾向の強い一部の高校教師のなかには、その種の問題集を購入し、そこから選んだ問題を新たに問題用紙にコピーして教材にしたり生徒の宿題にしたりする者がいる。教師たちのほうは問題集に付属する模範解答をもっているからよいようなものの、なんのヒントもないままに真正面からそれをやらされる生徒のほうはむろんたまったものではない。
  そういった難問を教材にする教師たちが解答を見ながらでも予習をし、あらかじめしっかりポイントを押さえてから、丁寧な解説つきでその問題を解いてみせ、生徒の疑問点に答えてくれるのならまだ許せる。もちろんそんな教師もいるようだがそれは少数派に過ぎないようだ。たいていの場合は、「こんな大学でもこの程度の問題を出すんだ。このくらいの問題ができなくてどうする!……そんなことじゃ、志望校なんか受からないぞっ!」とばかりに激しく生徒にプレッシャーのみをかける。
  自分だっていきなりそんなヒネにヒネた問題をやらされたら完答などおぼつかないくせに、そんなことは棚に上げて生徒を煽りたてる。そして最後にはこれまたコピーしただけの解答を生徒に手渡し、「できなかったこれを見てできるようになっとけ!」と声高に宣言し、根性論だけをぶちあげたあげく、実際にはその問題について自らは何一つ教えないままに終わらせてしまう。私のかつての教え子にも高校の教師がかなりいるが、そんな教師になっていないことをひたすら願うばかりである。
  ほとんどの生徒の場合、そんな難問を自力では解けるはずがないし、解答を見てもその意味を理解するのさえ困難だから、真面目であればあるほど思い悩み、ひどくなると精神脅迫症寸前の状態にまで陥ってしまう。いきおい彼らは、予備校の教師や家庭教師、身近な数学専攻の人間などに助けを求めることになるが、助けを求められた側だって即座に対応するのは容易でない。たとえ解くことができたとしても、教えを乞うてきた生徒の力量や理解度に合わせて解りやすく説明することは難しいし、そうするにはそれなりの時間もかかるからだ。
  相談を受けた愚問珍問を解いてやり、その要点を説明し終えたあとで(要点もへったくれもないのだが)、「こんな問題できなくても大丈夫なんだよ。くだらないもいいとこなんだから」と心から慰めてやると、相手はいかにもほっとしたというような安堵の笑みを浮かべることが少なくない。どんなに彼らが精神的に抑圧された状態にあるかがわかるというものだろう。
  いっぽう、行き詰まったときに誰かに助けを求めるそんな生徒の両親だって、そのために相当な出費を迫られたりすることになりかねない。社会全体として考えてみるとき、これはもう時間的、経済的な意味でも、さらには人的エネルギーの観点からしても大変なロスだと言わざるをえない。不況な時代には予備校や塾産業の発展は経済活性化の要因になりうるから、それらの存在を支える超難問や奇問には意味があるなどという皮相な見方も成り立つかもしれないが、そんな見解は教育のあるべき姿からは言うまでもなく外れている。
  「泥棒にも三分の理」という諺があるくらいだから、難問奇問を作った大学の先生方には当然「四分や五分程度の理」くらいはあるに違いない。また、難問奇問をよしとしない大多数の大学の先生方にも、入試を担当するに際してはそれなりの苦労はあることだろう。受験者のなかから合格者の選抜をするという行為に完全無欠な方法など存在しないからだ。次週はそのあたりのことについて思うところを少しばかり述べさせてもらいたいと思う。

「マセマティック放浪記」
2000年7月26日

入試担当者にも苦労が?

  あまり公にはなっていないが、入試を担当する大学の先生方にもそれなりの苦労はあるようだ。現在の入試形態が存続し続けるかぎり、なるべくなら入試の担当官にはなりたくないというのが、おそらく大学の教師たちの本音だろう。自分の専門研究や学生の指導を長期にわたって中断し入試問題作りとそれに続く採点処理業務に奔走させられるうえに、ミスがあったらあったで責められる。たとえ苦心して真に優れた人材を選抜するに適した良問をつくってみたところで、各教科の総合点数による合否判定が主流の現況下にあっては、特定教科の特定問題に完答できたからといってそれだけでその受験者が合格できるわけではない。だから、たとえ良問であったとしても、それが創造的能力の発見や合否判定などに直接活かさせる可能性はほとんどない。これでは、出題者も本気で良問をつくる気にはなれないだろう。
  既に述べたように、記述式の良問の場合はそのぶん採点にも手間と時間がかかるうえに、評価にも採点官の主観がある程度はいらざるをえないから、そういった問題の調整をふくめて、受験者数の多い大学の入試担当者は膨大な関連業務の処理に追いまくられることになる。同じ大学の場合でも学部ごとに日程を変えて何度か選抜試験の行われる私立大学などにおいては、同一教科について何種類もの問題用紙をつくらなければならないから、よけいに大変なことになる。いきおい、私立大学などではマークシート方式の試験が主流とならざるをえないが、そうなるともう良問だろうが悪問だろうがどうでもよくなってくるというのが正直なところなのだろう。

  ではせめて国立大学くらいはまっとうにという意見もでてこようが、世間からとくに厳しい監視の目を向けられている国立大学の場合などは、実際には問題はより深刻であるといってよいかもしれない。ごく最近の状況についてはよく知らないが、少し前までは入試の担当官は想像以上に大変だったようである。
  たまたま入試の担当者に指名された教官は、その時点から私的なアルバイトなどは一切自粛し、自分の研究を中断ないしは二の次にして翌年の入試の対応に奔走せざるをえなくなる。過去何年にもわたる各大学の入試問題や諸々の大学受験予備校の問題、受験業者模擬テストの問題などを徹底的にチェックするのが手始めの仕事になる。そんな膨大な作業に労力を費やすのは、むろん、特定の受験者だけが有利になるような類似問題の出題を避け、すべての受験生に対して公平を期すためにほかならない。うっかり類似問題でも出題しようものなら、世間から批判の嵐にさらされることになりかねないから、徒労に近いそんな作業にも慎重にならざるをえないわけだ。
  それが終わると、同一教科の入試問題作成とその採点を受け持つ複数の専任教官はそれぞれに問題を多数作成して極秘に持ちより、全員でそれらをひとつひとつ細かく検討、さらに何度も何度も話し合いを繰り返したうえで問題を厳選し絞り込む。そして、過去に類似問題がないこと、細かなミスや不適切な点がないこと、高校の学習内容の範囲をこえないことなどを再確認したうえで、最終的に問題が決められる。のちのちの不慮の事態に備えて本問題のほかにも何組かの予備問題も用意されているようである。
  出題用の問題が決まると印刷にうつるわけだが、学内に印刷所を持たない国立大学などの場合、比較的最近まで入試問題の印刷工程は容易なことではなかったらしい。コンピュータとプリンターの飛躍的な進歩によって昨今の状況は違ってきているかもしれないが、かつては、主要な国立大学の入試問題の印刷は、問題漏れなどの事故を防ぐため、各地の刑務所内の印刷所において、入試当日までは刑期のあけない模範囚などを使って行われていたようだ。              
  当然、担当教官たちもかなりの長期間刑務所内に身を委ねた状態で問題用紙作成の指導と印刷ミスの細かなチェックなどをしなければならなかった。事前に印刷用紙の枚数を正確にチェックし、印刷中あるいは印刷後に一枚でも用紙が行方不明になったりすると、すべての問題を新たに作りなおすほど厳格な作業が行われていたという。
  印刷された入試問題は担当教官たちの手で再三再四全枚数をチェックされ、紛失したものが一枚もないことが確認されたあと厳重に封印がほどこされる。東京の有名国立大学などの入試問題は、印刷後ただちに大蔵省造幣局の金庫に移され、入試当日までの厳重に保管されていたらしい。もちろん、その間は入試問題を作成した担当教官といえどもその保管場所に近づくことは許されない。
  そこまでの作業過程が終わると、担当教官たちは個々の問題ごとに考えられるかぎりの解法にそった模範解答を一例ごとに作成、それぞれの解答のタイプ別に細かな採点基準を設けていく。数学の記述問題などの場合には様々な解法があるので、そのぶんよけいに大変なようである。もちろん、受験生の中には担当教官も考えつかなかったようなエレガントな(シンプルで無駄がなく、しかも論理的に明快かつ鮮やかな)解答を提出する者もあり、それらにはケース・バイ・ケースの対応がとられているようだ。純粋に数学的な立場から言えば、そのような能力は高く評価すべきなのだろうが、むろん、エレガントな解答をしたからといってその問題の配点以上の点数をもらえるわけではない。
  総得点比較判定主義の現在の入試制度では、数学でどんなにエレガントな解法を編み出したとしてもその受験者にとって特別有利に働くことはないし、たとえ試験担当官が個人的にどんなにその異才を評価したとしても、それだけでその人物を合格にしてやるわけにもいかない。それどころか、他の教科の試験結果が思わしくなくてその受験者が不合格になる可能性さえもあるわけだ。そんな状況が現実だとすれば、いくら良問を作れと言われても、出題者が問題作成にかける熱意もおのずからそがれるというものだろう。
  人的作業にはどんなに注意を払ったつもりでもミスはつきものだから、当然、印刷された問題を封印し保管庫に収めたあとで、出題者たちが問題ミスや印刷ミスなどに気づくこともあるらしい。しかし、いったん金庫に保管されてしまったあとではそれらを修正するすべはない。修正するにはそれまでの全作業工程をもう一度やり直さなければならないからだ。入試当日あるいはそのあとになって出題ミスを指摘され、各方面からその責任を追及されたりすることもたまに起こるようではあるが、問題を作るサイドにもそれなりにやむをえない事情はあるようなのだ。
  入試が終わると採点にうつるわけだが、主要国立大学の場合、受験番号も解答者名も担当教官にはわからないような状態にして採点処理が行われるようだ。むろん、情実がらみの採点が行われるのを防ぐためである。大学によっては、受験年齢の子をもつ教官は入試担当からずすような配慮もなされているらしい。全受験生の答案のすべてを採点担当教官の全員が一問ごとに交互に厳しくチェックし合い、得点を集計する。有名国立大学の場合、ボーダーラインに同点者が百人以上も並ぶことがあるというから、得点集計には想像以上に慎重な対応がとられているようだ。
  理科や社会科などにおいては、あらかじめ難易度を調整したつもりでも、いざ蓋を開けてみると選択教科によって平均得点に大きな差が生じるということが少なくない。そんな場合には選択教科による極端な有利不利が生じないように、各教科間の得点調整をしなければならない。そのようなプロセスを経てようやく合格者が決定し、その年度の入試担当官たちはやっとのことでお役御免となるわけだが、結果的には一年のほとんどを棒にふることになってしまいかねないようである。
  入試問題の作成を予備校などに委託しようとか、過去の入試問題の再使用を認めるようにしよう(もちろん、そっくりそのまま出題するというわけではない)とかいった昨今の大学の入試がらみの動きには、そのようなやむにやまれぬ裏事情もあるようなのだ。いずれにしろなかなかに厄介なことには違いないが、入試制度が現状のままでありつづけるかぎり、問題作成を予備校の専門部門に委託するようなこともあってよいのではないかと私自身は考えている。むろん、慎重な入試データの管理と、できるだけ適切で合理的な問題作成を前提とした話ではあるけれども……。
  それでなくても理想的な入試制度や入試問題作成のありかたを摸索するという作業は難しい。一見もっとも客観的にうつる従来型のペーパーテスト一辺倒の総合点判定法に偏すれば、試験問題作成に要する労力や採点処理の煩雑さもてつだって、単なる暗記力や要領の良さを調べるだけの粗雑な悪問や難問奇問が多くなる。優れた暗記力を有するということはけっして悪いことではないが、この方式が極端になりすぎると、特定教科に異才をもつ者(教科による得点のばらつきが大きい者が多い)や真の創造力を秘めた思考タイプの者(一つ のことに深くこだわり納得がいかないと次に進めないタイプが多い)などは不合格になってしまう可能性が高い。
  入試などでは難問は避けて易しい問題から解くのが合格のコツだと教えるのが日本の小学・中学・高校の教育現場の常であるが、小学校入学から高校卒業までの十二年間もそんなトレーニングに明け暮れていると、大学生になるころには、その解決に独創性や洞察力を必要とするチャレンジングな問題への対応能力が退化してしまいかねない。大脳生理学者やニューラルネットワーク・コンピュータを用いて脳の活性研究をしている学者たちの最近のレポートなどによれば、人間は生来創造性をつかさどる脳細胞をもちそなえているが、成長の過程でその細胞部分を適度に使い活性化するようにしてやらないと、細胞の働きは退化し機能を失ってしまうのだという。もしもその通りだとすれば、これはゆゆしき事態だと言わざるをえない。
  いっぽう、同じペーパーテストでも特定教科偏重評価型の試験にすれば、その教科に対する適性の判定が可能な良問作成にかける出題者の苦労は報われ、独創性のある学生を選抜することはできるものの、世間からは英才教育主義だとかいったような強い批判の声が湧き起こることだろう。広い意味での基礎学力や社会性に欠けるアンバランスな学生なども増えていきかねない。また、大学受験までに特定教科のみを大学生レベルまで先取り学習するものが現れ、それはそれで受験競争は激化し、入試問題の水準はこれまでとは違った意味で高度化していくことだろう。
  この問題を解決するには、つまるところ、従来並みの複数教科総合点方式、特定専門教科の得点優先方式、面接による口頭試問や小論文による人物評価方式などを併用した多重方式の入試を行うしかないのだろうが、それはそれで新たな問題や関係者の苦労を生むことにはなるだろう。ただ、従来型の入試方法が時代の状況と適合しなくなってきたいま、多少のマイナス要因はあっても現在の社会状況とその要請に即した入試方法の改革を行うことは絶対に必要なことに違いない。
 
  過日ある知人から、「大学などの数学の研究者は皆、大学入試の数学の難問をすらすら解けるんでしょうか?」という質問を受けた。もちろん、数学のスペシャリストだから、しばしそれなりのトレーニングとウォーミングアップを行い、入試問題向きの勘を取り戻してからなら、一応解けはするだろう。だが、受験生と同じレベル、同じ範囲の知識だけを用いるという条件をつけ、時間制限を設けたうえで、なんの準備も心構えもなくいきなり入試の難問にチャレンジしたら、落第点をとるものが続出するかもしれないと思う。常に入試の難問に取り組んでいる大手予備校講師や有名進学校の教師たちにはむろんのこと、成績優秀な予備校生や現役高校生たちにも及ばない可能性は十分に考えられる。
  そもそも、数学者というものはよく計算を間違える。計算力が優れているにこしたことはないのだけれど、大学などのスペシャリストの関わる数学研究の本来の対象は、日常言語を極度に抽象化した特殊な言語の数々で織り成し組み立てられた超常的な世界だから、そこでは面倒な四則計算や関数値の計算が正確であるかどうかはあまり重要なことではない。したがって、数学の研究者たちが、長いブランクの末に、彼らの研究の世界とはまるで異質な入試の難問にいきなりチャレンジさせられたりしたら、些細な計算ミスをおこし、完答できない事態が大いに起こり得るわけだ。
  それぞれに特別な事情はあるのかもしれないが、いずれにしろ、先々を見越した学問的配慮からではなく、ただ単にその時々の受験生を困惑させるだけの難問、奇問、珍問を出題したことのある大学の先生方は、一度他人の作ったその種の問題に受験生と同じ条件でチャレンジし、それらがどんなに迷惑かつ無意味なことか、教育界や一般社会にとってどれほど負担になっているかを実感してもらいたいものである。もちろん、自分が作った問題にはそれなりの意味や意図があるというのであれば、戸惑っている多くの受験生のためにも、ぜひそれらの問題の出題背景を公にしていただきたいものだと思う。
  私が高校生だった頃、ある高名な文科系国立大学の国語の入学試験問題はむやみやたらに難しいことで有名だった。合格者でも百点満点中二、三十点もとれれば上出来という難度でt、東大などの問題よりもはるかに難しかった。当時その大学には国語専門の名物教授がいて、毎年その教授が国語の入試問題の作成に当たっていたらしい。周囲の批判にもめげず、自分の書いた文章を、「これは名文である云々」といったようなリード文つきで入試に用いたりしたこともあったというから、一筋縄ではいかない人物ではあったようである。
  あまりに問題が難しく出題傾向も偏っているというので、全国高校校長会議かなにかが「問題をもっと易しく無理のないものにしてくれるように」という主旨の嘆願書をその大学に提出した。ところがその翌年の同大学の国語の入試に、「本文中に誤りがあるから指摘せよ」といったような設問つきでその嘆願書の一文が出題されてしまったのである。そこまでやるのかと関係者たちが驚き呆れたという話を国語の教師から授業中に聞いたことをいまも懐かしく想い出す。
  けっして褒められた話ではないし、当時その教授が具体的にどのような反論をしたのかはいまとなっては知るよしもないが、もしかしたらそんな難問を作り続けたその教授にはその人なりの信念があったのかもしれない。この教授の真似をするようにと奨励するつもりなど毛頭ないが、敢えて難問奇問を出題するというのなら、少なくともそれなりの確たる理由と世間の批判に対して自己の信念を堂々と貫くだけの覚悟はもってほしいものである。

「マセマティック放浪記」
2000年8月2日

落日の煌き―中城ふみ子の
魂の光芒

  冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見んか

  これは、十数年前、帯広の町の一隅でたまたま見かけたある歌人の歌碑に刻まれていた一首である。自らの人生にまつわる壮絶な物語とその終焉とを凄まじいまでに透徹した目で見据えたこの歌に接したとき、私は激しい衝動に襲われた。そして、非運の重来を偲ばせる「冬の皺」という言葉と、死の予兆に包まれた「己れの無惨」という表現の背後に潜む作者の想念をより深く読み解きたいという思いに駆られ、私は憑かれたかのようにこの帯広育ちの女流夭折歌人の歌集と伝記に読み耽った。中城ふみ子というこの歌人が、死の病の床にありながら歌集「乳房喪失」を世に問い、凡庸な生活短歌が主流だった当時の写実主義短歌界に一石を投じたということを知ったのはその時である。冒頭の歌は「乳房喪失」中の「冬の海」と題された歌群中に収められている。
  中城ふみ子の歌の一語一語には、青く燃えさかる不気味な鬼火の輝きと、菩薩の笑みとも天女の囁きともつかぬ妖艶な響きが共在している。いったんその歌のもつ言霊(ことだま)の響きにとりつかれてしまった者たちにとって、その妖力から逃れることは至難の業だったに違いない。もしもこの歌人が往時のままの姿でいまも生きていたならば、この愚かな身なども、その魔性の言葉の糸にからみとられ、たちまち身動きができなくなっていたかもしれない。
  中城ふみ子は大正十一年、帯広の裕福な呉服店の長女として生まれた。わがままでたいそう気性の激しい少女だったらしいが、孤独を愛する一面をもち、暇さえあればいろいろな本を読み漁ったりしていたという。帯広女学校では川端康成の作品に傾倒、東京の家政学院に通っている頃に初めて短歌の手ほどきを受けるのだが、師の池田亀鑑からは、「演技的で才走りすぎている。もっと素直に詠えないものか」と評されたという。その指摘は的を射てはいたのだろうが、裏を返せば、それは善くも悪しくも彼女の熾烈な魂の存在の証であったとも言えよう。
  昭和十七年、二十歳になったふみ子は郷里に戻り、北大工学部を首席で卒業した優秀な国鉄技師、中城弘と結婚する。だが、その二、三年後、鉄道汚職事件に連座し左遷された夫の弘は、プローカーの仕事に手をそめ身を持ち崩していく。いったんは再起を期して夫の郷里高松に転勤するが、弘の転落は止まらなかった。ふみ子は家族ともに実家のある帯広に戻り、弘は帯広工業で教鞭をとるようになるが、その仕事も半年とは続かなかったようである。
  ここに至って、ふみ子は不仲になった夫の弘と別居、ついには離婚を決意する。ふみ子と弘の間には二男一女がもうけられていたが、もはやその子供たちの笑顔をもってしても夫婦の間を繋ぎとめることはできなかった。昭和二十五年、二十八歳のときにふみ子は弘と離婚する。離婚後も旧姓の「野江」ではなく「中城」という別れた夫の姓を名乗り続けた背景には、子どもたちのためということのほかに、言語の響きとリズムに鋭敏な感性をもつ彼女ならではのこだわりのようなものがあったようである。たしかに、「野江ふみ子」よりは「中城ふみ子」という名のほうが語感的にも韻律的にも洒落ている、とは言えないこともない。
  それまでの良妻賢母の誇りをかなぐり捨て、かつて周囲の誰もが羨んだ弘との生活に終止符を打ったあと、ふみ子は次のような歌を読んでいる。

  悲しみの結実(みのり)の如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ
  童らの環を散らしゆく夕かぜに父なき吾子の甲高き声

  しかし、皮肉なことに、この家庭的な不幸が、ふみ子の内に密かに棲み続けていた「稀代の魔性」と、意識の奥底に眠っていた「不世出の才能」とをいっきに解放することになった。まるでそれは、残された時間の少ないことをある日突然に天から告示されでもしたような変貌ぶりであったらしい。友人に誘われて入会した帯広の短歌会を皮切りに、道内短歌会会員として活動するようになったふみ子は、めきめきと頭角をあらわし、人々の胸中、なかでも男性歌人の心の中に一種の酩酊感をもたらす抒情性の強い歌を詠んでは会員間に賛否の嵐を巻き起こした。

  水の中に根なく漂ふ一本の白き茎なるわれよと思ふ
  捌かるる鞭なきわれのけだものはしらじらとして月光にとぶ
  信ずるもの実在のみと言ひきれずわが奥底に獏は夢食ふ
  滅びよと駆り立つるものある時は妖婆のひきし車にも乗る
  けものさへ冷たき目にてつき放すわが生きざまか淋しくてまた
 
  こんな歌を詠むいっぽうで、二十歳過ぎの美貌の独身女性にしか見えなかったというふみ子は、解放されたその魔性の妖力をもって幾人もの男たちを恋の虜にし、帯広界隈に浮名を馳せらせた。社会がまだ古い倫理観に縛られていたその時代に、彼女は人目を憚らず愛人たちとの不倫に走り、彼らを手玉に取って翻弄し、悩ましいまでに蠱惑(こわく)的であるにもかかわらずどこか虚しいほどに醒めた眼差しと天才的なレトリックをもって、その心象風景をあますことなく新たな歌へと詠み托していったのである。それらの歌には、このとき既に、なんとなく己の死を予感していたのではないかと思われる響きさえも感じられる。

  限りなき光の風や君たちはわれを乗せくるるてのひら持たぬ
  蝸牛つの出せ青葉の雨あとに人間のほかなべて美し
  大楡の新しき葉を風を揉めりわれは憎まれて熾烈に生きたし
  わが生きる限り思い出を歌として地上の冷たき墓に詣でず
  成就するなしと知るゆゑ優しくて肩ならべゆく春の薄氷
  灼きつくす口づけさえも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ
  わがために命の燃ゆる人もあれ不逞の思ひ誘ふ春の灯
  陽にすきて流らふ雪は春近し噂の我は「やすやす堕つ」と

  しかしまた、そのいっぽうで、まごうかたなき母親でもあったふみ子は、我が子への思いと魔性の女の情念とが絡み渦巻くその胸中をいくつもの歌に詠み込みもした。

  譲らざる凛々しき声に涙ぐむ可愛ゆき自我よ仔鹿のつのよ
  梟も蝌蚪(かと)も花も愛情もともに棲ませてわれの女よ
  子を抱きて涙ぐむとも何物かが母を常凡に生かせてくれぬ
 
  そんなふみ子に大きく死の影が迫ってきたのは三十歳のときである。乳癌におかされていることがわかった彼女は、帯広の病院で左乳房の切除手術をおこなうが、一年後には右乳にも癌が転移、右乳房をも切除せざるをえなくなった。この時に詠まれたという鬼気迫るばかりの歌は、のちに刊行される歌集の「乳房喪失」という表題を生むきっかけにもなったのだった。冒頭に紹介した一首もこの時期に詠まれたものである。

  われに似しひとりの女不倫にて乳削ぎの刑に遭はざりしや古代に
  冷やかにメスが葬りゆく乳房とほく愛執のこゑが嘲へり
  わが白き乳房が埋めてあるらしく燐光はなつ夜の渦まき
  救ひなき裸木と雪の景色果てし地点よりわれは歩みゆくべし
 
  死神の姿を垣間見てその影を呪ったふみ子ではあったが、その常人離れした魂は、宗教的な悟りや自省と諦念のもたらす静寂の境地へは向かわず、最後まで「生」と「性」への執念の炎の燃え立つ修羅の世界を駆けめぐった。彼女は神に頼らず、魔女のごとくに不遜に振舞い、死の恐怖と人知れぬ孤独感にのたうちながらも、妖しい情念の炎の揺らめきと美獣の誇りを失なうことなく、男どもを恋に狂わせ我が意のままに翻弄した。そして、そんな情交の修羅場を背景にしたふみ子の歌は、妖麗かつ凄絶な響きを秘めて一段と冴えわたり、数々の美しい相聞歌へと結晶した。それはまさに落日寸前の光芒にも似た、壮麗な最後の魂の輝きそのものであったと言ってよい。
  中城ふみ子の歌の秘めもつ固有の物語性を思うとき、この人には歌人として以上に作家としての才能があったのではないかという気がしてならない。もしもふみ子にせめてあと十年の余命が与えられていたら、彼女はひとかどの作家として大成しえたのではないかとさえ思う。だが、現実の問題として、彼女は残された己の生の証を短歌にかけるしかなくなっていた。迫りくる死の恐怖と戦い、無間地獄を漂う孤独な魂にひとときの安らぎを与えるためには、鎮痛の麻薬や睡眠薬にもまさる短歌という武器で身を固めるしかなかったのであろう。
  両乳房の切除も虚しく癌が悪化し、ふみ子は、癌病棟の別称をもつ札幌医大放射線科病棟に入院するが、実際そこで綴られた手記の中で、彼女は、「不治といはれる癌の恐怖に対決した時、始めて不幸の確信から生の深層に手が届いたと思ふ。陰鬱な癌病棟に自分の日常を見出した時どうして歌声とならずに置かうか。私の求める新しい抒情はこの凍土の性格に培われるより外ない」という言葉を残している。

  帯広で左乳房を切除したあと、まず、ふみ子は年下の美青年を己の身体に溺れさせ、その無垢な魂を籠絡(ろうらく)した。

  燃えむとするかれの素直を阻むもの彼の内なるサルトル・カミユ氏
  音高く夜空に花火うち開きわれは隈なく奪はれてゐる
  
  癌の転移と悪化にともない右の乳房をも喪失、そのあと入院した札幌医大では、担当の若い医師や地元の短歌誌「新墾(にいはり)」の編集同人で花形歌人だった男性と関係をもつ。ふみ子の死の一ヶ月前に東京の時事新聞社から取材のために派遣された若月彰にいたっては、インタビューしたその日のうちにふみ子の魔力に絡み取られ、東京には戻らずに二週間にわたって毎晩ふみ子に添い寝する羽目になった。二人抱き合ってベッドで寝ているところを発見した看護婦が病院をなんと心得るかとその非を厳しく咎めると、ふみ子は、「この病棟は牢獄です。そもそも二人で寝るとどうして療養の妨げになるのですか。私は男の人に抱かれているほうが心が安らぎよく眠れるんです」と反論、療養といってもどうせ死を待つ身なのだから添い寝を認めるべきだと抗弁した。
  末期医療の根幹を突き、世の常識の否定するその抗議には主治医でさえも応答に窮し、その添い寝を黙認する有様だったともいう。「いったん入院したからには、たとえ余命わずかな重病者であっても、極力己を殺して絶対とも言うべき病院の規則や規範に従い、静かに天寿をまっとうするのが至上の美徳だ」とする世間の暗黙の了解事に対し、ふみ子は一個の人間として「それは違う。たとえどんなに醜悪であっても死にゆく時くらいありのままの姿であっていい。すくなくとも私はそうありたい」と異議を唱えたのであった。

  診察衣ぬぎたる君が薔薇の木のパイプを愛しむ夜も知りたり
  学究のきみが靴音おだややかに廊につづかむわが死ののちも
  枇杷の実をいくつか食べてかへりゆくきみもわが死の外側にゐる
  この夜額に紋章のごとかがやきて瞬時に消えし口づけのあと
  ありもせぬ用を頼みてひとときもわれに無関心なるを許さず

  死を目前にした昭和二十九年四月、全国誌「短歌研究」の第一回五十首詠でふみ子の歌は特選となる。旧態然とした陳腐な生活短歌主流の歌壇を憂う編集長中井英夫の英断であったが、当時の中央歌壇の重鎮たちのほとんどはふみ子の歌を誹謗し嘲笑した。まっとうに評価したのは、宮柊二、岡山巌、阿部静枝ら三名だけだったという。ちなみに述べておくと、翌年の第二回五十首詠で特選となったのは、これまた衝撃的な歌を携え登場したあの寺山修司である。
  それでも生前にぜひ歌集刊行をという同人たちの配慮を知って、ふみ子はかねて傾倒していた川端康成に手紙を書き送り歌集の序文執筆を依頼する。たぶん、ふみ子には文壇に君臨する康成の心をも自らの言葉で動かせるという確信があったのだろう。まだ全国的には無名の存在に過ぎなかったふみ子の歌と手紙を読んだ康成は、歌集「乳房喪失」の序文執筆を快諾したうえに、角川の「短歌」編集部に彼女の歌の紹介を依頼、宮柊二の閲覧を経たうえで新たに五十首が同誌六月号の巻頭を飾ることになった。なんと嘲笑されようと、歌人中城ふみ子の業績はもはや不動のものとなったのだった。
  昭和二十九年八月三日、ふみ子は三十一歳で永眠する。本格的に歌を詠むようになってからわずか三年余という短い魂の輝きであった

  不眠のわれに夜が用意しくるもの蟇、黒犬、水死人のたぐひ
  草の上に時間失ひてゆくわれを幼き蝶はしきりに巡る
  乾きゆく足裏やさし一匹の蟻すらかつて踏まざる如く
  灯を消してしのびやかに隣に来るものを快楽(けらく)の如く今は狎(な)らしつ
  死後のわれは身かろくどこへも現はれむたとえばきみの肩にも乗りて

  命の炎の輝きを徐々に弱めながら消え去ってゆくのではなく、たとえ一瞬ではあっても死出の闇空を華麗に彩ろうとしたふみ子は、世の習いに逆らい、「官能美」という火薬を仕込んだ「短歌」という名の「魂の花火」を高らかに打ち上げ、そしてついに息絶えた。
  その末期の有様が世の規範からどんなに逸脱したものであったとしても、ふみ子が打ち上げた魂の花火は、瞬時に消え去るどころか、時間を超えてその残光に出遇う我々の魂をも幻惑し、不思議なほどに胸の奥をうち撼わせる。それは、中城ふみ子というこの人物の生がまぎれもなく一つの真実であり、その言葉の数々が文学と呼ぶに値するものであったことの何よりの証なのだろう。
  いまもなお抑制のきいた写実主義が至上とされる短歌界の主流からすれば、赤裸々でレトリックに走りすぎているともみえる中城ふみ子の歌など、異形異端のあだ花的な存在であり、忘れ去られて当然ではあるのかもかもしれない。実際、いまの時代に「中城ふみ子」という歌人がいたことを知る者は、短歌を詠む人々の中でもきわめて少数にすぎないだろう。しかし、ここまで裸になり、ここまで正直に己の無惨をさらしきった歌を、いったい余人の誰に詠めるというのであろうか。たまに素人歌人の真似事などをする私などには、俵万智が現代のすぐれた女流歌人であるように、中城ふみ子もまた往時のすぐれた女流歌人であったと思われてならないのだ。

「マセマティック放浪記」
2000年8月9日

しなのぐらしコミュニティ

  栗鹿の子や栗落雁などの銘菓で知られる長野県小布施町は、長野市の北東郊外に位置している。長野市からは長野電鉄で二十分ほど、車だと豊野町または須坂町経由で三十分ほどかかる。電車、車どちらで行っても長野市方面からだと途中で千曲川を渡ることになる。
  こじんまりした町だが、歴史と伝統文化を重んじた計画的な街造りがおこなわれていることもあって、街並みは独特の風情と情趣に満ち溢れているから、ただぶらぶらと散策するだけでもいろいろな発見があって面白い。小布施のガイドマップに「小布施の街はスニーカーサイズ」とうたわれているように、自分の足で歩き回るのにほどよい大きさの街並みであることもさいわいだ。
  秋の頃など小布施堂をはじめとする老舗の店先に腰をおろし、一服しながら栗鹿の子や栗羊羹、栗落雁の味を楽しむのもまたおつなものである。ただし、栗菓子はむろんのこと、「栗」という一文字を見ただけでも気分が悪くなったり震えがきたりするという栗アレルギー(そんなアレルギーがあるかどうかは知りませんが)の方だけはこの町は避けたほうがよいだろう。なにせ、いたるところで栗製品が売られているのにくわえて、どちらを見ても栗、栗、栗という文字だらけときているのだから……。
  意外に思われる方が多いかもしれないが、この小布施の町は葛飾北斎と縁(ゆかり)が深い。小布施出身の豪商高井鴻山は、齢八十を過ぎ画境老成の極みに達した葛飾北斎をはるばる江戸からこの地に招き、誠意を尽して厚遇した。庇護者の高井鴻山の心配りもひとかたならぬ瀟洒な「画亭」、すなわちアトリエを兼ねた居所にあって、北斎は次々と名作を生み出していったようである。
  三十代後半に美人風俗絵師として頭角をあらわした北斎は、四十代から五十代にかけて読本(よみほん)挿絵や絵手本(えてほん)の絵師として新風を巻き起こし、七十代になると有名な「富嶽三十六景」をはじめとする独特の浮世絵で一世を風靡した。人物主体だった浮世絵の世界に異例とも言える風景画を持ち込み、独創的な浮世絵師としてその評価を不動のものとした北斎だったが、彼の画境の深まりはとどまるところを知らなかった。齢八十を迎える頃になると、浮世絵師としての評判をまるで無視でもするかのように、北斎は肉筆画にその心魂を傾けはじめる。彼が鴻山に招かれ小布施の地に寓居するようになったのはちょうどその時期に相当していた。
  たぶん作り話なのだろうが、将軍の面前であるのを憚らず、両足の裏に赤い絵の具をたっぷり塗った鶏を真っ白な画紙の上で歩かせ、「庭に散る紅葉にこざいっ!」とやったとかという伝説も残るくらい、奇行癖があり偏屈で権力に対する反抗心も強かった北斎のことである。千の利休などと並んで我が国のフリーランスの先駆け的な存在だったその天才画家がひとえに信頼を寄せたというのだから、高井鴻山という人物もまた、財力だけが頼りの単なる豪商などではなく、一流文人としての品格をもあわせそなえもつ稀代の傑物だったのだろう。京都や江戸に出て国学、蘭学、漢学などを広く学んだ陽明学者の鴻山は各界の重鎮たちとの交流も多く、詩文や書画においても優れた業績を残しもしたようである。面白いことに、彼は妖怪画にも異才を発揮したという。
  ほぼ街並みの中心に位置する北斎館には、葛飾北斎の肉筆画、画稿、書簡など約五十点のほか、北斎直筆の天井絵で知られる祭屋台二基も展示されていて、北斎ファンには必見のスポットとなっている。北斎館の一室では、「画狂―北斎と肉筆画」、「小布施の北斎」などのマルチスライドが上映されているが、そのなかで紹介されている北斎晩年の言葉などはなんとも興味深い。晩年彼は、「自分には六歳の頃から事物の形状を描き写す癖があった。五十歳を過ぎた頃からいろいろな絵図を描くようにはなったけれども、七十歳以前に描いた作品には取るに足るようなものは一つもない。自分の絵の技量はまだまだ未完成だが、百歳になる頃までには完成の域に到達できるようにと願っている」といったような主旨のことを述べ語っていたらしいのだ。
  そうか、北斎でさえも七十歳まではたいした作品は生み出せなかったのか……じゃ、俺が今まで何一つ満足な仕事ができなかったのも無理ないな!……などとワルノリして己の無能さを自己弁護したくもなるところだが、凡才にはたとえ十倍の七百年をかけることが許されたとしても凡々たる仕事しかできないことだろう。
  北斎館のほかにも、復原されたかつての北斎の画室などもある高井鴻山記念館、江戸時代から大正時代までの照明器具を多数集めた日本あかり博物館、地元の民俗資料千四百点を展示した歴史民俗資料館、さらにはフローラルガーデン小布施、中島千波館、栗の木美術館、現代中国美術館と、文物や美術工芸品の見どころには事欠かない。蕎麦屋をはじめとする各種の食べ物屋や土産物屋も一軒一軒が個性的で落着いた雰囲気の店構えになっており、店それぞれのもてなしを通して旅人の心にひとときの安らぎを与えてくれる。

  ところで、そんな小布施の町の中心街から北に少しばかり離れたところに、「NPO法人(非営利事業組織)しなのぐらし」が運営する小布施オープンハウスが建っている。先日、縁あって私は開設されて間もないこの小布施オープンハウスを訪れる機会を得た。このNPO法人「しなのぐらし」とその支援組織「しなのぐらしコミュニティ」の代表を務めておられる小渕登美子さんには以前から多少の面識があったので、この独特の非営利組織の活動方針や活動理念についてかなり詳しくお話をうかがうことができた。小渕さんは謙虚で柔和な物腰の奥に確たる信念を秘め持った感じの信州女性で、こういう方のいざという時の行動力と決断力がどれほどのものかは私にも容易に想像がついた。
  小渕さんに伺ったところによると、小布施オープンハウスは、老後を自立して暮らしたいと願う人々や心身に障害をもつ人々と共に、真に生きることの意味やそのためのすべを考える場所として、多くの共感者の支援と協賛のもとに建てられた施設だという。この施設は、老人や心身の不自由な人々と心の交流をはかりつつ一日を共に送る、いわゆるデイサービス業務を請け負うほかに、地域サロンとしての役割も担っているのだそうだ。近隣に住む様々な人が気軽に立寄り談話を楽しんだり情報を交換したりすることもできる。特技をもつ人や時間のある人には、無理ない範囲でオープンハウスの維持としなのぐらしコミュニティ全体の発展に協力してもらってもいるという。
  また、このコミュニティに関心のある人ならたとえ県外者であっても会員になれるシステムで、オープンハウスをキーステーションにして広い交流がはかれるようにもなっている。ときには外部から講師を招いたりして各種セミナーや小規模な講演会などを開催したり、ハウス内ののスぺースをギャラリーとして開放したりすることもあるようだ。二階には遠来の会員やその同行者が十人か二十人は宿泊できるような部屋も用意されており、そのために必要な浴室や専用キッチンも完備している。私も一泊させてもらったが、実に快適な一夜を過ごすことができた。一般の人でも協力金というかたちの施設利用料を払えば安い費用で宿泊できるようである。(連絡先:TEL&FAX 026-247-4756 しなのぐらし)
  小布施オープンハウスの建物には美しい木肌の天然木材がふんだんに使われており、各室内や廊下、浴室、洗面所などは、徹底したバリアフリーの構造になっている。たとえばトイレ一つとっても、ドアの開閉、点灯や消灯、水栓の開閉、事後の洗浄などが自動的に行われるようになっているし、非常時の呼び出しブザーもついているから、体の不自由な人でも安心して利用できるというわけだ。
  正六角を中心線で半分に切った形(台形になっている)のテーブルもなかなかのアイディアだといってよい。この風変わりな台形テーブルは、複数個組み合わせると実に様々な形をつくりだすことができるからなんとも機能的で、その時々の目的に応じて適宜自由に並べ替え使うことが可能なのだ。さりげないこういうこまやかな配慮の積み重ねが「しなのぐらし」の活動を支えているというわけである。
  「ほんとうに人間らしい豊かな生き方は何か」とか「自然と共生するライフスタイルとは何か」とかいったようなことを同じ志をもつ人々と共に学び考え、それらを通して得られた知識や技術を普及継承していくことがこの組織の活動の理念なのだという。地域独自の生活の重視や自然回帰の重要さが見なおされるようになったいま、国内各地においてこのような活動をする人々が徐々に増えつつあるが、この「NPO法人しなのぐらし」の活動などはその先駆的な試みの一つといってよいのだろう。
  小渕さんの話によると、そんなしなのぐらしコミュニティの運動を特徴づけるいま一つの試みは、「カヤノ平混牧林事業」との提携活動であるという。長野県の北部に位置する広大な奥滋賀高原の中ほどにカヤノ平と呼ばれる地域がある。標高千四百メートルを超えるこの豪雪地帯のカヤノ平では、長年にわたって「混牧林事業」というきわめて特異な事業活動が行われてきたらしい。「混牧林事業」という言葉を私は小布施にやってきて初めて耳にしたのだが、要するに牧畜と森林育成とを同じ場所で同時におこなう特殊な事業形態のことをと意味しているようだった。
  かつての過度な森林伐採で荒れ果てた国有林の一部を地域組合で借り受け、その地で黒毛和牛の放牧を行いながらブナ林の再生と既存の森林資源の保護をはかろうとする異色の事業活動なのだそうで、小渕さんはその事業組合の事務局長をも兼務しておられるとのことだった。
  たとえ一時的であってもしなのぐらしコミュニティにかかわる人々には、この混牧林事業の息の長い展開についても知ってもらいたい、そして、実際にその現場を訪ねてその事業の成果を肌で感じ取り、そこで繰り広げられる自然と生き物との本来あるべき共生関係を見つめ直してもらいたい……組織の代表を務める小渕さんの言葉の奥には、そんな強い想いが秘められているような気がしてならなかった。
  百聞は一見にしかずというから、せっかくここまでやってきて混牧林事業なるものを一目も見ないまま東京に帰る手はないだろう。結局、その翌日、私は、小布施までずっと一緒に旅してきた評論家の米沢慧さん父子ともにカヤノ平を訪ねてみることにきめた。小渕さんの息子さんには案内役に立ってもらえるというし、カヤノ平の番小屋では混牧林事業推進組合長の東城厚さんが我々を待っていてくださるということだったので、それはもう願ってもない成り行きだった。

「マセマティック放浪記」
2000年8月16日

カヤノ平へ

  翌日は雨模様だったが、小渕登美子さんのご子息、美宏さんの案内でともかくカヤノ平へと向かうことになった。先導の美宏さんの車のあとに続くべく、私もホンダ・ドマーニのハンドルを握った。たまたまこの時は私の愛車(哀車?)トヨタ・ライトエースではなく同行の米沢慧さんの車での旅だったので、ホンダがホンダを運転するという妙なことになってしまった。豊田さんがトヨタの車に乗るようなものだからまあどこにでもある話だが、自分の姓と同じ名のメーカーの車に乗るというのはちょっぴり気恥ずかしい気分がするものだ。もっとも、運転するほうの気まぐれなホンダとは違い、運転されるほうのホンダは従順そのものではあったのだが……。
  山之内町夜間瀬の集落付近を過ぎると道は急坂となった。折からの雨に煙って視界はあまりきかないが、高度が上がるにつれてみるみる樹々の緑が深まってきた。スキーのメッカとして名高い志賀高原から野猿との混浴(?)で有名な地獄谷温泉などのある野沢温泉村方面に向かっては、平均高度千四、五百メートルくらいの山稜が大きく長くのびだしている。奥志賀高原と呼ばれるこの一帯には、開発の進んだ志賀高原周辺とは違って、まだまだ豊かな自然がふんだんに残されているようだ。
  そのなだらかな稜線上をくねくねと縫うようにして走っている奥志賀林道は、私が初めて訪ねた頃は地図にもほとんど載っていない狭くてデコボコだらけのダートの林道だった。しかし、いまでは道幅も広がりほとんどの部分が舗装もされて、快適な走りが楽しめるようになっている。美宏さん運転の先導車がその奥志賀林道を目指しているのは明かだった。
  やがて我々の車は奥志賀林道にぶつかり、そこを左折して野沢温泉村方面へ向かってすこしばかり走ると、右手に未舗装の細い林道の分岐する地点に着いた。その林道の入口には鍵のかかったゲートがおりており、一般車はそこから先には進入できないようになっている。進入するなといわれると逆に進入したくなるのが人間の常で、旅先などで一般車走行禁止のこの種の林道に遭遇すると、たとえ歩いてであってもその奥を探索したくなるのは私の困った性(さが)である。それに実際そうしてみたほうが思わぬ発見や椿事に回り逢えて面白いのだが、当然それなりの苦労も伴う。
  ただ、この時は美宏さんがゲートの鍵を持っていたのでなんの苦労も要らなかった。美宏さんにそのゲートを開けてもらい、その林道に車を乗り入れてしばらく走ると、突然林の中に簡素な木造小屋が現れた。そこが、混牧林事業組合長の東城厚さんが夏場に常駐なさっている番小屋だった。我々一行は、ある種の達観さえも感じさせる東城さんの穏やかな笑顔に包まれるようにして車を降りた。
  もうお昼どきとあって、小屋の前ではやはりこの混牧林事業を見学にきたらしい男女数人の先客が昼食用バーベキューの準備をしているところだった。ほとんど手ぶら同然でやってきた我々も、結局先方のご好意に甘えその一団に合流させてもらうことになった。
  小屋の周辺に目をやると、一面すべてがブナ林とまではいかないものの、それでも大小かなりの数のブナの木が天に向かって枝を広げているのが見えた。平地ではとっくに新緑の季節は過ぎていたが、ここは豪雪地帯でしかも相当に高度があるところなので、ブナの葉はまだ見るからに瑞々しい感じだった。小屋のすぐ前には澄んだ渓流が流れており、そこから響いてくる水音も実に軽やかで心地よい。カヤノ平一帯は折からの小雨に煙っていたが、それでも大自然の中で取る昼食の味は格別だった。
  信濃産の和牛のバーベキューも美味だったが、東城さん手製の根曲竹の筍を具にした味噌汁の味も抜群だった。細く柔らかい筍の歯ごたえもほどよく、食感が実にいい。奥志賀高原一帯は根曲竹の筍がたくさん採れるが、たまたま我々が訪ねた時期はちょうどその採取シーズンにあたっていた。東城さんの話だと、根曲竹とはチシマザサのことなのだそうで、この筍は鯖の缶詰をダシにして味噌汁をつくると最高なのだという。長野県北部では根曲竹の筍のシーズンになると鯖の缶詰が異常はほど大量に売れるらしい。
  鯖の缶詰をダシにするとよいというのは私も経験上よくわかる。秋の頃に山に入りいろいろな茸などを採って現地で茸汁をつくるときなどにはとても重宝なのである。鯖の缶詰、なかでも中身がフレーク状のものをコンビニやスーパーなどで買っておき、それをそのまま鍋の中に放り込み、茸や味噌と一緒に掻き混ぜながら加熱するとると、たちまち茸汁ができあがる。つくるのに手がかからないうえに、これが実にうまいときているのだ。
  なんとも意表を突かれたのは根曲竹の焼き筍だった。採りたての筍を焼いて食べるという発想はこれまでの私にはないもので、ちょっとした驚きだったが、実際に出されたものを食してみるとほとんどアクもなくなかなかに味わい深かった。ただ、半焼けのものの根元のほうの部分はさすがに硬く、無理して食べるうちにパンダになったような気分がしてきたことだけは正直に告白しておいたほうがよいだろう。
  昼食後に番小屋前の渓流をのぞいてみると岩魚の影がチラホラ見える。浅く細い渓流だからその気になれば岩魚の手掴みができないこともなさそうだ。考えてみると、このカヤノ平一帯は、河原の天然露天風呂で名高い秋山郷切明温泉付近で中津川本流から分岐する雑魚川(ざこがわ)の源流域にあたっている。渓流釣りを趣味とする人々の憧れの的である岩魚を雑魚と呼ぶのはいささか忍びないが、岩魚をはじめとする雑魚、すなわち各種の渓流魚がこの川の流域には多数棲息していたから雑魚川という呼称がついたに相違ない。そうだとすれば、この付近の渓流にたくさん岩魚がいても当然というものだ。
  東城さんから餌をもらった米沢慧さんは、車のトランクから釣具を取り出すとさっそく岩魚釣りにチャレンジしはじめた。これまで直接にはその釣り姿を目にしたことはなかったが、岩魚釣り歴は結構長いと聞いている米沢さんの腕に私は期待をかけた。だが、どうにも外野がうるさ過ぎた。いまは長年勤めた営林署を退職なさって混牧林事業組合長におさまっておられる東城さんは、自己調達した岩魚を番小屋での食糧にしておられるくらいだから、もともと岩魚釣りのベテランである。また、地元の長野市近辺の在住らしい先着グループの中の男性らもその口ぶりからして岩魚釣りのキャリアがかなりあるらしかった。
  そんな連中が脇から「もっと竿も釣り糸も短いほうがいい」だの、「これじゃ入れ食い間違いないね」などと好き勝手なことを言うものだから、米沢さんは気ばかり焦って思うように腕が揮えない、いや、腕が震えて容易には狙いが定まらない。岩魚のほうは岩魚のほうでなんだかやけに周りが騒々しいとでも思ったのだろうか、餌にそっぽを向いたばかりか、岩陰に隠れて姿が見えなくなってしまった。「俺様だってプライドはあらーな!……それ食いねえ、ほれ食いねえってこれ見よがしに出される餌に食いつくんじゃ、野生の誇りが許さねえ!」と岩魚の君が意地を張るほどに、相手をする米沢さんのプライドのほうもどんどんオーバーヒートするばかりだ。
  この勝負ちっとやそっとじゃ決まらないと見切りをつけた美宏さんと私とは、米沢さんをあとに残して林道伝いに奥の方へと歩きだした。牛たちが放牧さてれいるところまで一足先に行ってみようというわけである。雨合羽を羽織ってののんびりとした歩行だったが、 美しくのびやかなブナの木立や深々と繁るチシマザサやスズタケの群生する笹藪を左右に望みながら他に人気のない林道を進むのは、なかなかに味のあるものだった。道路脇のあちこちにはタラの木なども生えていて、刺々のある細長い幹の先端や枝先には食べ頃のタラの新芽がふんだんについていた。

「マセマティック放浪記」
2000年8月23日

カヤノ平とブナ林

  混牧林事業組合長の東城厚さんに戴いた資料によると、南北にのびる奥志賀高原のなかほどにあるカヤノ平は海抜千四〇〇メートルから千七〇〇メートルの高度をもち、夏場の最高気温は二十八度、真冬の最低気温はマイナス十七度、七月から八月の平均気温は十五度前後であるらしい。厳冬期の積雪は平均三・五メートルに及ぶという。輝石安山岩質の土と森林褐色土とが入り混じった土壌で、現在ではチシマザサ(根曲竹)、チマキザサ(クマイザサ、シナノザサともいう)などがその植生の大半を占めている。正確に言うと、カヤノ平とは、南東の高標山(一八四七メートル)、北西の木島山(一五七二メートル)、八剣山(一六七六メートル)、さらに北東の台倉山(一八五三メートル)、遠見山(一八五二メートル)に囲まれた一帯の高原のことである。
  高標山の山頂に近い開けた台地の一角にかつてカヤの大木があったため、いつしかカヤノ平と呼ばれるようになったらしい。しかし、かつてこのカヤノ平に生い茂っていたのはカヤではなく、ほかならぬブナであった。昭和初期以前のカヤノ平には全域にわたって平均樹齢二百年を超すブナ林が鬱蒼と茂っていた。ブナ林の保水力と清浄作用のおかげで豪雨時にも渓流の水は濁ることがなく、真夏でも身を切るような冷たい水が絶え間なく流れて雑魚川流域を潤し、その地域に棲息する数々の動植物の生命をしっかりと支えていたという。当時この一帯を訪れるのは、春から秋にかけて清流に棲む岩魚を釣りにやってくるプロの漁師くらいのものだったようだ。
  当時のカヤノ平一帯は林学の用語で極盛相(クライマックス・ステージ)と呼ばれる最盛繁茂期のブナ林によって覆われていたのだろうが、その頃まではカヤノ平にかぎらず、中部地方から北陸、東北地方の山岳地帯のいたるところに極盛相のブナ林が存在していたようである。ところが、それから数十年を経た現在、極盛相のブナの自然林が残されているのは、世界自然遺産の指定を受けた白神山地(秋田青森両県境の山岳地帯)のような国内のごくかぎられた地域にすぎない。国内から天然ブナ林がほとんど姿を消してしまったのにはむろんそれなりの理由があった。
  ブナという字は漢字で「?」と書く。「木」と「無」の二文字を組み合わせてつくった文字だから、少々うがった見方をすれば「木ではない」とか「役に立たない木」という意味に解せないこともない。古来、樹種樹量ともに豊かな森林に恵まれ、高度な木の文化を築き上げてきた我が国ではあるが、昔ならどこにでもあったブナの木は、長い間利用価値のない樹木として軽視ないしは邪魔者扱いされてきた。「堅い」、「よじれやすい」、「変形しやすい」、「腐れやすい」、「木地が白い」などの理由で、建材や加工用材をはじめとする実用木としての評価はきわめて低かったからである。また、そのことが逆に幸いして一時期まであちこちに手つかづのブナ林が残されもしてきた。
  もちろん、実際には、樹高二十メートルにも及ぶ落葉喬木のブナは生態学上においても重要な指標植物で、けっしって役に立っていなかったわけではない。十月頃に成熟するブナの実からは「山そば」とも呼ばれる上質の食用粉が採れたし、同じ実からブナ油を搾り採ることもできた。ただ、東城さんの話によると、ブナの実というものは三年から七年の周期で凶作や豊作を繰り返すはなはだ気まぐれな性質をもっているらしいから、毎年その収穫を当てにすることはできなかったわけで、主食材としては不向きだったのだろう。
  木質部には殺菌力や浄化力のあるクレオソートの成分が含まれており、樹皮からは染料も採れるというが、我が国ではブナのそういった一面はあまり高くは評価されてこなかったようである。ブナが樹齢数百年にも及ぶ長寿を有し、その若葉が柔らかく瑞々しい色を長期間保つことができるのは、優れた吸水力や保水力をもつのにくわえて、クレオソート成分の働きなどによる害虫への抵抗力がきわめて大きいからなのかもしれない。
  その点、ヨーロッパ、なかでもドイツを中心とした地域では、清浄な空気や清冽な水を供給し、その美しく豊かな緑によって多くの動植物を養い潤すブナは、「森の母」と敬い呼ばれて昔から大切にされてきた。また、ヨーロッパ人はブナ材の特質とその特有の白い木肌を実用的に活かす方法を考え、サラダボールのような調理具や各種の家具を造りだし、彼ら独自の樹木文化を築いてきた。
  たぶん、そういったブナに対する彼我の評価の違いは、無数の良質の水源と多種多様な樹木に恵まれ、水資源とブナ林との関係を深く考える必要などなかった我が国と、良い水を確保するためにはブナ林をはじめとする森林の存在が無視できないことを痛感せざるを得なかったヨーロッパの国々との文化的な背景の違いによるものではあったのだろう。
  無価値視されてきたのが幸いし昭和十年代に入るまでは各地に広く存在したブナ林だったが、軍国主義の足音が高まって日本が国際的に孤立し、燃料を自給自足するため大量の国産薪炭を利用せざるを得なくなると、そんなブナ林にもしだいに斧が入りるようになった。さらに戦後に至り、国土復興期を経て高度経済成長期へと向かう頃になると、ブナは他の雑木と同様に、薪炭用のほか、パルプ、合板、合成加工材としての利用とそのための研究開発が大幅に進み、大々的に伐採が行われるようになっていった。
  当然、その影響はこのカヤノ平周辺のブナ林にも及んだ。昭和三十六年、山ノ内町を基点に秋山郷の中津川渓谷方面へとつながる雑魚川林道が完成し、大型トラックが通行できるようになると、カヤノ平国有林の広大なブナ林は伐採し尽くされ、一時期は無惨な状況を呈する有様であった。むろん、ブナ林の保水力や浄化力などが自然環境全体に果たしてきた役割など考慮される余地もないままに、国内各地の他のブナ林も次々に伐採され、たちまち姿を消していったのである。需要地から遠く交通の便がきわめて悪かったこと、極度の豪雪地帯であったこと、その山岳地形の特殊性のゆえに林道開発が困難だったことなどが幸いし、唯一原生林のままで残されたのが、先年世界自然遺産に指定された白神山地の広大なブナ林にほかならない。
  温暖多湿な気候に恵まれた我が国の樹木の成長速度は一般的にみてたいへんはやい。だから、樹木を皆伐してもそこが樹林として復元するまでにはそう膨大な歳月はかからないだろうと多くのの林業関係者たちは考えていた。古くからある「やがて野となり山となる」という諺のように、伐採しても放置してさえおけば再び樹木が成長し、樹林は復元するだろうというのが大方の見方だったのである。むろん、林学や植生学を専門とする生態学者などのなかにはブナ林の場合が例外であることを熟知し、その復元に危惧を抱いた者もあったろうが、消費経済を至上の美徳と考える高度経済社会志向の潮流の中にあっては、そんな人々の意見など無力に等しかったに違いない。
  さらにまた、ブナをはじめとする各種の落葉広葉樹を伐採した跡地には、実用建材としてブナなどより値段のよいスギやヒノキなどのような常緑針葉樹が次々と植樹されていった。しかし、長期的な展望に立って見ると、本来の植生を無視したそんな植林もまた問題であった。
  落葉広葉樹林の場合には晩秋から初夏にかけては裸木状態のため日光が地表まで十分に届く。ほどよい太陽エネルギーが供給されるから、特別に人手をかけなくても様々な下草や潅木類、さらには競合種の樹木が成長し、各種の野生動物や茸類、地苔類、バクテリア類などが生息できる生産力豊かな樹林が形成される。ようするに最も合理的な自然のサイクルが無理なく形作られるわけで、このような森林は保水力にも富んでいる。
  天然の屋久杉林のように長大な自然の輪廻と生死を賭けた樹木どうしの競合を経て成立した森林と違って、人工的に植林された常緑樹の杉の密生林などでは、日光が地表まで十分には届かない。人手によって間伐や下枝払いといった作業が常時行われ、自然の状態に近い樹林の維持形成がなされる場合はまだよいが、維持コストが見合わないなどの理由によって放置された人工林は悲惨である。そこでは自然のサイクルが十分に発達しないから、総合的な生産力も低く生物の生育にもあまり適さない。天然の杉林などと違って保水力も意外に低い。

  経済成長が最盛期を迎える頃になると安い外材がどんどん輸入されるようになり、一部の特別な木材を除いて国内産の木材はコスト的に採算がとれなくなった。またいっぽうでは、国内各地の過度の広葉樹林伐採が、無尽蔵とも思われていた水資源に悪影響を及ぼすこともしだいに明かになってきた。さらに、国民の生活水準が上がり、美しい景観や豊かな自然環境を求めて山野を旅する人が増えるにつれて、ブナ林をはじめとする広葉樹林の存在価値が高く評価されるようにもなってきた。こうしてブナ林受難の時代はようやく終わりを告げ、残されたブナ林の保護とカヤノ平のような伐採された地域のブナ林の再生が重要な課題とされるようになったのである。
  しかしながら、他の落葉広葉樹の林と違って、一度伐採されたブナ林の再生は容易でないことがほどなく明かになってきた。温暖多湿な気候に任せ放っておけば急速に再生するほどにブナは育成が容易な樹木ではなかったからである。ブナは豪雪地帯の笹地に分布している。本来はブナに笹が従属する感じの共生関係にあると言ってもよいのかもしれない。だが、いったんブナ林が伐採されると笹だけが猛烈にはびこり一帯は笹山と化してしまう。こうなると、たとえ残ったブナから秋に実が落ちたとしても、地表を覆う笹に阻害されそれらが種子として土中に定着するすることは容易でない。かりに定着し新芽を出したとしても深い笹藪によって日光が遮断されるから順調な生育はたいへん難しい。
  さらに悪いことに、ブナの木は大量に実をつけるのが七年に一度くらいしかないうえに、樹木としてのその成長速度もきわめて遅い。白樺のような樹木の寿命が五十年くらいと短いのに対し、ブナの寿命は最長数百年にも及ぶ。一般に短寿の木は成長も早いが、長寿の木の場合はそのぶん成長も遅い。東城さんに伺った話によると、ブナの若木の成長速度は数年でせいぜい五、六十センチ程度のものであるという。それではブナ林の再生が容易でないのも道理である。
  いったん笹山になると山は生産力を失って荒れ果てるし、笹の花が咲いて笹が大量に枯死したりするとさらに荒廃はひどくなり、大雨の時などには保水力を失った山の斜面を大量の水が流れ下ってさらに自然環境の破壊をもたらす。そこで、先々起こり得るそのような状態を未然に防ぐためにも、笹山状態に近くなったカヤノ平に残るブナを保護し、百年、二百年という遠い将来を睨んでブナの若木を育てることが必要だと考えられるようになった。だが、そのためには並々ならぬ理念とそれを支える実践的な計画が必要だったし、その計画を遂行するための人的及び物的支援が不可欠でもあった。
  実を言うと、カヤノ平混牧林事業はその先駆的な試みの一つであったのだ。「ヨーロッパなどの森造りは、父、息子、孫の三代にわたっておこなわれるんですよ。父親が苗木を植え、それを引き継いだ息子がそれらの樹々を大きく育て、さらに孫が立派な森になるように最後の仕上げをおこなうんですよ」と、熱い思いを込めながら語ってくださった東城さんの言葉が私にはとても印象的だった。

「マセマティック放浪記」
2000年9月6日

カヤノ平混牧林事業

  昭和初期、カヤノ平周辺の村々の住民はほとんどが農業で生計を立てていたが、当時の農村のどこもがそうであったように、農耕作業には牛や馬などの畜力が用いられていた。春から夏にかけて過酷な農耕作業に従事し体力を消耗した牛馬をのんびりと静養させるために、木島平村が国からカヤノ平の一部を借り受けたのが、このあたりの放牧事業の始まりであるという。その頃は、十キロメートルもの坂道を牛馬とともに一日かけて歩き、このカヤノ平の静養地までやってきていたらしい。
  カヤノ平での農耕用牛馬の放牧状況に着目した営林署は、ブナの大量伐採によって笹山と化したカヤノ平地域のブナ林再生をはかるために肉用和牛を放牧することを思いつき、ほどなく先導的試行を開始した。牛を野草混じりの深い笹薮に放牧すると、牛が一帯を自由に歩きまわるうちに笹地の地面が踏まれて徐々に耕されるし、その糞尿も肥しとなって地力を高める。また牛たちが笹そのものを踏みつけながら移動し、どんどん笹の葉を食べてくれれば笹の成長が抑えられる。ブナの生育を阻害する笹の成長があるていど抑えられれば、数年に一度しか大量には実らならないというブナの種の根付きも容易になるし、芽を出したブナの幼木にも陽光が十分届くようになる。そうすれば、将来的にはブナ林の再生も夢ではないというわけだった。
  植物学の権威、故牧野富太郎博士の分類によると、一口に笹とはいってもその種類は六七〇種にも及ぶという。山中に生えている笹は「熊の出るような奥山に茂る笹」といったような意味を込めて「熊笹」などと呼ばれているが、本来のクマザサとは「隈笹」と書き、葉のふちが白く隈どられた笹のことをいうのだそうだ。もともとは京都あたりの一部の地域に自生する種類の笹であるらしい。
  それはともかく、我々がひとからげにしてクマザサと呼ぶ笹類は意外なことに牛の飼料としてすぐれた存在であるらしい。笹の葉の含む水分の割合は五〇パーセントほどなので、九〇パーセントが水分からなる青草に較べて栄養価はずっと高く、その繊維質は牛の胃袋に納まり十分に消化されることによって高級蛋白に生まれ変わるのだという。
  通常、牧場といえば青々とした広い牧草地でのんびりと草を食む牛たちの姿を想像するのだが、水分含有率の高い青草を主食とする場合、体重五〇〇キロの成牛は生命維持のため一日に五〇キロ近い草を食べなければならない。それは牛にとっても相当な重労働なのだという。その点、笹の葉は水分が少なく栄養価が高いため食べる量が少なくてすむから、牛たちが食物の摂取に費やす労力もそのぶん減るというわけだ。
  通常肉牛として飼育される黒毛和牛の肉質を一定品位に保つためには、食肉として一定の品質を維持するためには飼料を青草のみに頼っていては十分でないので(乳牛の場合はむろん話は別のようである)いきおい穀物飼料が中心となるが、その場合一キロの肉を生産するのに七キロの穀物が必要になるという。どうやら笹はそんな問題点をカバーするのにも適した理想的な飼料であるようなのだ。もっとも、青草に較べ笹の味のほうはどうかということになると、それだけは牛に聞いてみないとわからない。グルメの牛などは、「モーウッ、ササにはイササカ飽きたぞおーっ、青草が食いてよモーウッ!」って心の中で思ったりするかもしれない。
 
  ともかくもそのような背景と狙いのもとに営林署は混牧林事業に着手することになり、その大胆な試みは以後十年間ほどにわたって続けられた。その際に生まれたこの「混牧林事業」という耳慣れない用語は、要するに「肉牛とブナ林との育成を同時に行う事業」といったような意味の込められた造語なのである。事業開始当時の畜産関係者のほとんどは人の背丈を超える笹藪の中で牛を放牧するという無謀さに驚き呆れ、失敗は間違いないと噂したという。牛を除草剤や林業用の刈り払い機がわりに使って飼料の節約をはかるいっぽうで、あわよくば放牧中に子牛を生ませて畜産振興にも寄与させようといういささか欲張った事業計画だったから、畜産関係者がその将来を危ぶんだのも無理はない。
  カヤノ平は豪雪地帯だから、人里の牛舎から牛たちが山上に運ばれ笹山やブナの疎林に放たれるのは、雪溶けが終わり一帯が新緑に覆われる六月半ばの頃になる。そして初雪が舞い気温が氷点下にさがる十月下旬には再び集落の牛舎に戻してやらなけでばならない。この夏山冬里方式の育牛においては、夏場と冬場における環境の差異は相当なものだから、牛たちがその環境変化についていけるかどうかも問題であった。
  実際、冬場に穀物や保存乾燥した草類の飼料などを与えた牛を夏場いきなり山中の笹山に放ち笹を食べさせたりすると消化不良を起こすことがあるらしい。先進国の美食家が未開の地に赴き、やむなくその土地の食物を口にしてお腹をこわすようなものだから、それはある程度やむをえないことである。そこで、夏場に牛を山中に放つ場合には前もって一定期間その下準備をさせる必要もあった。
  ともかくもそうやって試験的にスタートした混牧林事業は十年間にわたって続けられ、大々的とは言えないまでも試行としてはそれなりの成功を収めることはできたのだが、林野庁全体の赤字経営とそれにともなう財政難のためにそれ以降の事業の続行は容易ではなくなった。一時は事業の存続も危ぶまれる状況だったようであるが、さいわい昭和五十三年以降は東城厚さんを組合長とする民間の混牧林事業組合に引き継がれることになり、現在に至っているという。数世帯の牛飼い農家を中心にしたこの事業組合そのものはけっして大規模なものではないが、着実にその事業を継続展開してきているようである。
  暑い夏の季節に牛舎から解放され、栄養豊富な笹の葉と合わせてカヤノ平の天然の清水をも摂取できることは牛の生理にとってもよいらしく、毎年、放牧される牛たちのうちの何頭かは子牛を出産するという。もちろん山中での自然分娩でほとんど人手はかからない。お腹がだんだん大きくなって、そろそろ出産かなと思われるころになると突然に姿が見えなくなり、再び姿を現すときには子牛を連れていて、乳をやりながら笹を食んでいるのだという。生来の動物的本能によって探し出した秘密の場所において、牛たちは人目を避けるようにして出産しているらしい。こうして生まれ育った子牛は肉質もたいへんすぐれているので、いまでは市場においても「カヤノ平」という銘柄で知られ、その人気はとても高いのだそうである。
  もっとも、混牧林事業における肉牛生産の全体的な収支となると、まだまだ手放しで喜べるような状態ではないらしい。外国からの安い牛肉の輸入にくわえて国内各地産出の銘柄牛との販売競争も激しいから、たとえ特別に育てた良質の肉牛だからといっても思ったように収益をあげられるとはかぎらない。さらに、いくら放牧とはいえ山中に放たれた個々の牛たちの日々の状態を把握しその健康管理を行う常駐番人などは必要だから、そのために要する人件費もばかにならないようである。むろん、冬場の牛舎での飼育には相応の経費もかかる。だから十分に採算が合うなどとはとても言えない状況なのだ。
  またいっぽう、数年で数十センチ程度しか成長しないブナの木の育成にはなにぶんにも長い時間が必要なので、ブナ林再生という最終的な課題における混牧林事業の成果について現段階ではっきりした評価をくだすことは難しい。少なくとも親子二世代、百年の時を経たあとでなければその意義について的確に論じることはできないだろう。
  もちろん、混牧林事業地域にはブナの幼木が多いとか、他の地域に較べて既存のブナの成長速度はやいとかいったようなことを成果の一環として指摘することはできるかもしれない。だが、大局的に考えるなら、いまの時点ではそんな小さな評価にこだわるより、この事業の理念と可能性を信じ、ひたすら未来のブナ林に夢を托すつもりで協力を惜しまぬようにすることのほうが、我々にとっても重要かつ有意義なのだと言えるだろう。
  目先の自己利益や短期での目的達成にしか関心のない者が大半の今日の日本にも、最短でも百年から二百年先でなければ確たる成果の見られない事業に夢を賭けようとする奇特な人々がいるのを知って、私は深く心をうたれる思いであった。

「マセマティック放浪記」
2000年9月13日

カヤノ平の四季

  混牧林事業組合長の東城さんが初夏から秋にかけて常駐なっさている番小屋前から、小雨の中を二十分ほど歩くと、牛たちが三々五々たむろしている場所にでた。牧場というと通常はなだらかで広々とした草地を想像するのだが、むろんカヤノ平の場合はそうではない。ブナや雑木がまばらに生えてはいるものの、大部分は背丈をこえる深い笹藪に覆われた急斜面が放牧地で、そこに牛たちは放たれているからだ。
  牛たちの行動範囲を一定の地域内に抑えるため針金の囲いは設けられているようだが、いったん牛が笹藪の中に入ってしまうとその行動の様子や存在位置地をはっきりと知ることは難しい。放牧地内のあちこちに渓流があってそれらが自然の水場になっているようだから、牛たちはときおりその近くに集まってきはするのだろうが、笹薮や木立の中のあちこちに好き勝手に牛がいるという感じで、およそ牧場というイメージからは程遠い。だから、既成の牧場のイメージを抱いてカヤノ平を訪れた人は、少なからず拍子抜けしてしまうかもしれない。
  しばらく牛たちの姿を遠望しながらあたりのブナ林や澄んだ渓流を眺めているうちに、東城さんと米沢さんがあとから車でやってきた。どうやら番小屋脇の渓流での米沢さんと岩魚との勝負は水入りの引き分けに終わったらしい。「このあたり一帯の沢のほうが岩魚は多いですよ」という東城さんの言葉に、米沢さんは再び釣り竿をふるいはじめた。
  なにげなく沢に架る橋のたもとを眺めやると、「岩魚釣禁止」と記された一枚の立札があるのが目にとまった。「あれっ、このあたりは岩魚釣りの禁止区域ですか?」と尋ねると、東城さんはいたずらっぽい笑みを浮かべて「実はこれ、私が立てたものなんです」と答えてくれた。一般の車は入ってこられないが、岩魚を狙う釣り人たちは徒歩でこのあたりまでやってきて釣り場を荒らす。東城さんらは番小屋での食材はなるべく自給自足するように努めており、その意味でも岩魚は山奥での貴重な蛋白源であるようなのだ。
  もっとも、東城さんが「岩魚釣禁止」の札を立てたのは、付近の岩魚を一人占めにしようという欲張った思いにとり憑かれたからではなく、他にそれなりの理由があってのことだった。最近の無法で自分勝手な釣り人たちは、持参したペンチで放牧地のワイヤー製囲いのあちこちを手当たり次第に切断して通り抜け、そのまま放置しておくのだという。苦労して牛を飼う側にすれば大変に迷惑な話で、どうしてもそれなりの自己防衛が必要であるらしい。有刺鉄線ではないのだから多少面倒ではあってもその気になれば針金を切断しなくても潜り抜けできるのだが、そうしないでペンチで切り進むところがなんとも現代風の自己中心的な発想ではある。
  東城さんは事業組合長のほかに、混牧林組合所属の各農家から預かった大切な牛たちの生育の様子や事業地の状況をチェックする現地管理人も兼ねておられるから、当然、切断されたワイヤー囲いの補修もその仕事のうちにふくまれる。深い笹や林で覆われた広大な事業地内を歩き回りって囲いの点検をおこなうほか、万一の事態に備え個々の牛たちの健康状態を調べるのは東城さんの日課というわけなのだ。もちろん、混牧林事業の最終目的は豊かなブナ林を復活させることであるから、ブナの発芽や幼木の生育の様子、年々のブナの結実状況、事業地およびその周辺全体にわたる植生相の調査なども重要な仕事の一つになっている。
  つい二、三日前も深く広大な藪地の奥で親牛にはぐれ動けなくなった子牛を探し出し、三十キロ以上もあるその子牛を背負って親のいるところまで運びおろしたばかりだと東城さんは笑っておられた。親牛が人目につきにくい深い藪の中で自然分娩による出産をしたり、まだ生まれて日の経っていない子牛を連れて山の奥のほうへと分け入ったりしたようなときにそんなことがよく起こるらしい。もちろん、まだ乳離れしていない子牛に笹の葉など食べられるはずもないから、そのまま放っておくと生死にかかわることになる。親牛は親牛でおろおろするばかりで、自分ではどうすることもできないらしい。
  むろん、そんなときは東城さんの出番となる。常々時間をかけて広大な事業地内を隅々まで歩き回り、詳細な地形はいうにおよばず、一帯の藪地の状態や樹木の一本一本さえも熟知している東城さんには、子牛が動けなくなっている場所がどこであるかおおよその推測がつくらしい。迷子になった子牛を探し出し背中を出すと、子牛のほうはおとなしく前足二本を東城さんの左右の肩にゆだね、安堵したようにおぶわれるのだという。一昔前にはよく見かけた赤子を背負う母親のように、子牛を背負う東城さんのユーモラスな姿を想像し、私はなんだかほのぼのとした気持ちになった。
 
  のんびりと寝そべったり笹を食んだりしている牛たちの姿を遠望したあと、我々は番小屋へと戻った。米沢さんと岩魚との決闘は以前膠着状態のままで、番小屋に戻ったあとも睨み合いが続いていた。意地と意地との張り合い(?)だからこれはもうどちらかが引き下がるまで放っておくしかない有様だった。そこで、私のほうは番小屋の中に入り、お茶を頂戴しながら、東城さんからカヤノ平の四季についての話を伺うことにした。
  四月のカヤノ平はまだ一面深い残雪に覆われていて、握りこぶしの太さほどまでの樹木などは固く凍結した雪層に圧し拉(ひし)がれたままであるという。たまたま伐採を免れたブナの大木だけが、気の遠くなるような歳月を内に秘めまばらに立っているだけであるらしい。折々吹き荒れる春嵐によって吹き落とされた苔や小枝が雪上に散らばり、ところどころにアカゲラが突つき落とした木屑が積もっているのが見られるという。春が深まるにつれて、厚い雪で覆われていた沢のあちこちにポッカリと穴が開いて微かな水音が聞こえはじめる。そして、ブナの大木の周りの雪面は数学的に計算されでもしたかのような漏斗状の曲面を描いて落ち込み、その底のほうには笹が顔をのぞかせるようになるのだそうだ。
  五月になると沢が開き、岩魚を狙って訪れる釣り師の足跡が沢沿いの雪の上に点々とつづくようになる。そしてほどなく山の斜面の雪は消え、ブナの若芽が一斉にやわらかな葉を開きはじめるという。いっぽうではオオヤマザクラの花が山々のあちこちを鮮やかなピンクに染め変え、潅木のタムシバは自らの枝では支え切れないほど多くの真っ白な花をつける。地表では雪融けを待ちきれないかのようにフキノトウが次々に芽吹き、それに呼応するかのように諸々の草花が一斉に美しい緑の若葉を吹き出し始める。
  六月から七月になると牛の放牧がはじまり、カヤノ平のあちこちではのどかな牛の鳴き声が聞かれるようになる。いうまでもなく、数々の動植物の命の躍動がカヤノ平に満ちわたる時節である。フキノトウ、コゴミ、ワラビ、イラクサ、タラノメ、タケノコ、ヒラタケなどの山菜を求めて一帯が賑わうのもこの頃のようだ。
  奥志賀高原一帯がハイカーやキャンパー、ドライブ客などの観光客であふれかえる七月から八月の夏山シーズンが過ぎると、カヤノ平周辺には再び静寂が戻ってくる。九月に入ると急速に秋は深まり、笹は翌春のタケノコの発芽に備え表土の養分を一気に地下茎に蓄えはじめる。散在するトチノキなどはたわわになった重い実を次々に地上にふりまく。山の頂き付近では紅葉がはじまり、やがてその紅葉は山々の麓に向かって広がり進む。そしてほどなく、カヤノ平は一面、赤、紅、橙、黄、黄緑と色とりどりの紅葉に染め尽くされることになるのだそうだ。
  夏から晩秋にかけてカヤノ平に棲むツキノワグマたちも活発に活動するという。東城さんの話だと、北海道のヒグマなどとは違ってツキノワグマが放牧中の牛を襲ったりすることはまずないらしい。東城さんの番小屋からは餌を漁りに近づくツキノワグマの姿が目撃されることもしばしばであるという。ツキノワグマの雌は雄と交尾し受精したあと冬眠に入るが、受精卵はその間成長を保留した状態のまま母胎の中で保たれるらしい。夏から秋にかけて餌に恵まれ栄養分を十分蓄えることのできた雌クマの受精卵は、春になって冬眠が終わるとともにどんどん母胎内で成長し、コグマとなって誕生する。しかし、栄養の蓄えが十分でない雌クマの受精卵は冬眠中に母体に吸収され消滅してしまうという。自然の仕組みとはよくできたものである。
  十月になるとカヤノ平の紅葉はもうまばらとなる。キノコ採りに訪れる人々で一時的に賑わいはするものの、ほどなく霜柱が地面を覆い、木枯らしが落ち葉を吹上げるようになる。むろん、この頃になると放牧されていた牛たちも人里におろされ、翌年の雪融け時まで暖かい牛舎の中で日々を過ごすことになる。昔は、「山止め」といって、十月二十八日(たぶん旧暦にもとづいての話だろうが)を過ぎたら絶対に入山しないようにするというのが、カヤノ平周辺の山麓に住む人々の暗黙のルールでもあったようだ。豪雪地帯山岳部の降雪は想像を絶するほどに凄まじく、一瞬にして一帯を白銀の地獄へと変えてしまう。当時の装備や技術ではそんな状況下で遭難した人を救助することはほとんど不可能だったので、人々はこの山止めの決まりを固く守っていたという。
  十一月も半ばを過ぎるとカヤノ平は雪に閉ざされ、翌年の五月頃までほぼ半年間にわたって深い眠りにつくことになるというわけだ。

  私が東城さんの話に耳を傾けている間も、米沢さんと岩魚との静かなる決闘は続いていた。岩魚のほうが水中でどう思っていたのかは知るよしもなかったが、いっぽうは餌でだまして釣りあげようと辛抱を重ね、もういっぽうは餌の誘惑に乗らないようにぐっと欲望を抑えるという、いつ果てるとも知れない我慢較べを見ていると、さすがに両者の間に分けてはいりたくなってきた。夕刻までには秋山郷方面に抜けなければならない予定などもあったので、米沢さんにもとりあえずは矛先ならぬ竿先を収めてもらうことにし、東城さんのにこやかな笑顔に見送られながら、我々はカヤノ平をあとにしたのだった。

「マセマティック放浪記」
2000年9月20日

水没する奥三面の自然と遺跡

  三面川(みおもてがわ)は新潟県北部の朝日村から村上市を経て日本海に注ぐ美しい川である。新潟県から山形県にまたがる広大な朝日山系に源を発するこの川とその流域には、いまなお手つかずの豊かな自然がふんだんに残っている。昔に較べれば取るに足らない数ではあるがいまでも鮭鱒などの遡上が見られるという。この三面川の源流域にある大きな谷の奥で、二万五千年もの時を超えて伝承されてきた歴史と文化、さらにはそれらのルーツとなった貴重な先史時代の遺跡群がほどなく水底に沈み、消え去っていこうとしている。そんな事態の急迫を知ってやむにやまれぬ思いに駆られた私は、水没するその一帯の最後の姿をこの目で見届けたいと考え、問題の場所である朝日村奥三面を訪ねてみることにした。
  新潟から山形方面に向かって国道七号線を北上、村上市街を過ぎたあたりで右折し三面川伝いに三面ダム方面を目指して走ると、やがて朝日スーパー林道の起点に到達する。左手に三面ダムを見ながらスーパー林道を奥のほうへと進んでいくと、三面川が大きく二手に分岐する地点に到る。上流に向かって右手に分かれる川のほうは、鷲ケ巣山と宇連萩山という屹立する二つの岩山に挟まれた文字通りの峻険なV字谷の奥へと続いているが、この深く鋭く切り立った三面渓谷のさらに向こう側には秘境と呼ぶにふさわしい奥三面の広大な谷間が隠されている。人をまったく寄せつけない厳しさをたたえて見る者を圧倒していたかつての三面渓谷は、その奥に隠された奥三面の集落と動植物の宝庫ともいうべき美しい緑の谷々を守るゲートの役割をしていたのだった。
  この奥三面渓谷の上流側に県営の大型ダムを建設しようという計画が持ち上がったのは一九六〇年代末のことである。洪水調整や治水といった当初のダム建設の目的が農業用水用、さらには発電用と目的変更を繰り返しながら今日まで三十年近い年月をかけて建設が進められてきたのは、このダムがほかならぬ日本の高度成長期の落し子の一つだったからだろう。  
  現在も問題になっている岐阜県の徳山ダムや熊本県の川辺川ダムなどの大型ダム建設計画の場合もそうだが、経済成長期のダム計画は、そのダムが国民生活にとって真に必要だったからというより、むしろ、どこかにダムを造ることによって大量の資金を動かし経済の活性化を図ることがその主たるを狙いであった。より端的な言い方をすれば、国や都道府県の役人や技術者が建設業界や電力業界の技術者らとともに、まず机上で全国の地図を眺めて地形的に都合の良い候補地を探し出し、そのあとでその地におけるダム建設の目的をあれこれと考え出すという本末転倒したプロジェクトが大手を振って行われてきたわけだ。
  建設予定地に住む人々の生活環境の悪化や動植物などの分布や生態などについては、ほとんど考えられていなかったし、考える必要もないとされていたのが偽りない当時の実状ではあった。この種の問題に関しては、経済の高度成長にうかれ、自然保護など二の次にして多少なりともそのおこぼれに預かってきた我々大多数の一般国民にも責任があると言ってよい。
  奥三面の広くそして奥深い谷は、西朝日岳、寒江山、相模山、以東岳、毛穴山といった朝日連峰主稜の山々の奥懐に位置している。奥三面の最奥にある峻険な谷筋は、その北に位置する以東岳と毛穴山を繋ぐ稜線をはさんで有名な大鳥池と南北に対峙するかたちになっており、大鳥池周辺と並んでこの一帯は朝日山系の最深部を形成しているのだ。
  かつてこの奥三面の谷の河岸段丘上には四十二戸、人口百五十人ほどの美しく静かな、そして自然の幸豊かな集落があった。しかしながら、ダム建設の計画が進むにつれてその集落の住民は他地域への移住を余儀なくされ、いまから十五年ほど前の一九八五年に長い歴史を刻んできた奥三面集落は事実上消滅した。この大型ダムが完成すると広範囲にわたる谷筋が水没するため、ブナ、トチ、ナラ、ホウ、クヌギ、クリなどの大木の密生する自然林とそこに棲む各種の動物の生命が失われることは当初から指摘されていたことだが、工事がらみの発掘調査が進むうちに、この地にはいまひとつ掛け替えのない文化財が隠されていることが明かになってきたのだった。
  驚くべきことに、これまで三面集落のあった場所やその上下流域の斜面や河岸段丘上から、学術的にもきわめて価値の高い膨大な量の先史時代の遺跡群が突如出現したのである。それは、いまから二万五千年前の旧石器時代の遺跡にはじまり、縄文草創期から後期、晩期にいたる大遺跡群だったのだ。遠く津軽や出羽、糸魚川などから運ばれたと推定される石器素材、 大規模なストーンサークル(環状列石)、竪穴住居跡、土器類、砂利敷きの舗装路、多数の配石墓、日本では初めてといわれる縄文期の河道付け替え工事跡など、それらは信じがたいような質と量の遺跡群であった。
  奥三面遺跡群の発掘調査報告書に目を通した考古学者たちは異口同音に遺跡の素晴らしさに驚くとともに、現在でも近づくことが必ずしも容易ではない朝日山系の谷奥にそんな昔から人々が住み着き、他地域と交易や往来を繰り返してきたことを大変不思議に思ったという。むろん、奥三面遺跡を知る研究者たちはもう少し時間をかけてその謎に挑みたいとは考えていたようだが、既に高さ百十六メートルの放物線型アーチ式ダムが三面渓谷を塞ぐかたちで完成し、 十月二日から試験湛水(たんすい)が開始されるいまとなっては、もう手の打ちようがないというのが実情のようである。
  貯水量約一億二千五百万トン、一応は治水、流水調整、発電の役割をもつとされるこの県営ダムの建設には総工費八百二十億円が投入された。さらにまた今後も道路その他の周辺環境の整備や維持のために多額の経費がかかるものと思われる。それだけの費用をかけたダム本体が既に完成した現在、湛水をしないままそれを放っておくということは社会通念上も行政機構上も許されないことではあるのだろう。例えは悪いが、かつての戦艦大和のような巨艦を造ってしまったいま、それが意味を持とうが持つまいが、またそれがどんな運命を辿ろうが、海に浮かべてひたすら走らせてみるしかないというわけである。
  公共の福祉と繁栄のためだと目の前に大金を積んで説得され、先史時代から二万五千年以上も受け継がれてきた先祖の地を泣く泣く放棄した奥三面の元住民の心境も、いっぽうでまた大変複雑なようである。既にかつての住居あとはススキの生える荒地と化し、また谷底や谷の側面を工事用トラックや大型機械類が縦横無尽に走りまわった結果、昔の静かで美しかった集落を偲ばせるものなどもうほとんど残ってはいない。そんな故郷の無惨な姿を目にするに耐えない元住民たちのなかから、早くダムに水を入れてほしい、そうでないと我々は御先祖様に対して申し訳が立たないという声が上がっているのも一面でやむを得ないことなのだろう。
  十月二日にダムの湛水が開始されるため、遺跡発掘以来十年余も続けられてきた奥三面遺跡群の現場公開も九月二十四日をもって終わる。最後の公開となる二十三、二十四日には、現地にテント泊しながらほどなく水没する同遺跡群の魅力に触れる見学会が開かれる。新潟県立博物館長で国学院大学教授の小川達雄氏による講演や遺跡のライトアップなども予定されているという。
  ダムの湖底に沈む奥三面の谷を見学できるのも十月の一日までで、以後は関係者以外の同地への立ち入りは禁止となり、一年間は同ダム方面へと続く車道の一般車の通行も規制されるらしい。試験湛水開始から五ヶ月後の二〇〇一年三月にはダムは満水になるという。
  洪水調整と発電が主目的とされるこのダムについて、土木史や河川工学を専門とする新潟大学工学部の大熊孝教授は、新潟日報の文化欄で独自の見解を述べている。大熊教授によれば、かりに発電を無視し洪水調整だけに話を絞って考えると、普段はダムを空にしておくことも可能だし、そうでなくても設計上のダムの最低水位に貯水面を抑えることができれば、それより十メートルほど高い位置にある元屋敷遺跡などは、以上増水時以外は冠水を免れうるとのことである。
  下流にはやはり発電と洪水調整を兼ねた三面ダムがすでに存在し、またいま一つの三面川支流、猿田川の上流域にはやはり大きな猿田ダムが設けられている。それら既成のダムと連係して下流域の水量を調整し、そのうえで遺跡群の水没を最小限に留めることもできないことではないのだろうが、関係行政当局にそういった配慮を求めることはこの国ではやはり難しいことなのだろう。
  大熊教授は発電についても興味深い試算をしているようだ。奥三面ダムによって新たに生み出される電力は年間約一億三千万キロワット時とのことで、これを金額に換算するとおよそ十七億円になるという。もしダムの耐用年数を百年とすると、約千七百億円の経済価値を有することになり、かりに発電を中止して遺跡を保存するということになると、そのためにそれだけの費用をかけたと同じ計算になる。二万五千年もの時間が蓄積された奥三面の文化的価値はいったん喪失したら再生不可能なものであり、前述の金額相応の価値は十分にあるのではないかというのが大熊教授の意見である。将来的に見てどちらの選択が正しいかどうか一度県議会などで徹底討論されることを同教授は期待もしているようだ。
  新潟県立博物館長の小川達雄氏などからは、十月から貯水を開始すると冬ごもりに入った生物たちが水位の上昇のために溺死してしまうので、せめて増水から身を守ることができるように湛水開始を暖かい時期にずらしたらどうかという提案などもなされているようだ。
 「これまで土木技術者は生物たちのことなど考えてこなかったが、多自然型川づくりが標榜される今日、せめてもの償いとして生物たちを無駄死にさせない方策を検討すべきではないかと思う。一考されることを期待したい」という大熊教授の言葉には、土木史や河川工学の専門化のものであるだけにいっそうの重みが感じられてならない。
 
  奥三面探訪の背景説明が長くなってしまったが、ともかくもそのような事情で急遽私はこのダムの建設現場を訪ねてみることにしたわけだった。奥三面の谷に向かう前に私は三面渓谷の下流側にまわって渓谷を眺め上げてみた。渓谷の奥には既に巨大なコンクリートの壁面が高々と聳え立ち、私の心を嘲笑うかのごとくに圧倒した。この三面渓谷の奥に向かって左手の岩山には、かつて金壷トンネルという岩肌剥き出しの細く暗い手掘り風のトンネルが通じていた。天井も低く幅も狭く、車一台がやっと通行できる程度の迫力満点なその長いトンネルが昔は朝日村の中心部側から奥三面集落への唯一の通行路だったのだが、いまではもう完全に封鎖されてしまっている。
  現在ではそのかわりに、金壷トンネルの入口のあった場所から少しスーパー林道を戻った地点に、本道から三面川を越えて右手に分岐するかたちで円吾橋という新しい橋が架り、そこから奥三面方面へと新設の舗装道路がのびている。その円吾橋を渡り、手書きの標識に従って新道をしばらく走ると、ほどなくこれまた新設の近代的なトンネルが現れた。その長いトンネルを抜けるといきなり問題の奥三面ダムの右端に近い地点に出た。

「マセマティック放浪記」
2000年9月27日

奥三面元屋敷遺跡

  完成を目前にした最終工事の行われているダムサイドには進むことができないので、ハンドルを右に切り、奥三面の谷間へと降りていく急傾斜の道へと入った。眼下左前方には、ほどなく水底に沈む深々とした奥三面の谷間が広がっている。そしてその谷底の中心部を縫うようにして谷奥のほうへとのびているのが三面川だ。谷底一帯や新たな道路工事が行われている反対側の山腹の高所では、工事用のダンプカーやブルドーザ、クレーン車などがまだ忙しそうに動きまわっているところだった。
  谷底のほうへとかなり下っていったところで車を停め、なにげなく左手後方を降り返ると、高さ百十六メートルに及ぶ奥三面ダムの威容が目に飛び込んできた。まだ三面川の水路が閉鎖されてはいないから、全壁面が手前側へと弧状にせりだした放物線型アーチダムの全容が基底部まではっきりと見てとれる。相当に離れたところからダムの大壁面を見上げるようにして眺めているせいでその大きさはいまひとつ認識しづらいが、ダム直下の水路付近で作業をしているダンプカーの大きさと較べるといかに巨大かが実感できる。それにしても、ほどなく水没するはずの巨大ダムの湖底部を直接に目にするというのはなんとも奇妙で複雑な思いのするものだった。
  ダム本体を眺め終えると、何台かの工事関係の車とすれ違いながら道なりに谷の底へと降り、いったん三面川にかかる橋を渡ってから上流方向へと車を走らせた。進行方向左手の山腹では新しい道路の建設が進められている。その見上げるような高所を走る新道がやがてうまれる巨大な人造湖の周回道路になるというわけだ。むろん、いま車で走っているあたりは新造湖の最深部になってしまう。
  それにしてもなんという変わりようだろう。まだ若かった時代のことではあるが、山歩きが好きだった私は、山形県朝日村や朝日町側から入山し、毛穴山、以東岳から朝日岳へと連なる朝日連峰主稜を越えてこの新潟県岩船郡朝日村奥三面の集落に下山したり、その逆コースをとって山形県側に抜けたりしたことがある。かつてこの奥三面の集落や谷々一帯は、春ならば花の静寂境、夏ならば緑の秘境、秋ならば紅葉の幻想境、そして冬季ならば白銀の魔境とでも呼ぶにふさわしいところであった。三面川を流れる水も、さらにはその主流に向かって四方八方から注ぎ込む大小の渓流も信じられないほどに青く美しく澄みきっていた。その谷ではゆったりと時間が流れ、そこに住む人々は言葉こそ少なかったが心優しく、その一挙一動は不思議な確信にあふれていた。
  いまその美しかった谷の両側は奥のほうまで無残に削り取られ、湖底に沈む部分の樹木はほとんど切り尽くされて、昔の奥三面の面影はもはやどこにも残っていない。三面川両岸一帯の河岸段丘上の平地にはブルドーザやキャタピラ車が縦横に走りまわった跡が深々と刻まれ、ダンプを通すための工事用道路が、まるでこの谷の自然の息吹に最後の止めを刺すとでもいわんばかりに刻み設けられている。むろん、あの心優しかった山人たちの姿などどこにもあろうはずはない。
  複雑な思いに駆られながらしばらく谷奥へと向かって走ると、左右に道が分岐する地点に出た。左手の道は赤滝や岩井又沢のある三面川源流域方面へ、右手の道は支流の末沢川渓谷沿いに進んだあと、西朝日岳から大きくのびる尾根を越えて小国方面へと続いている。この道路の分岐点の左手河岸段丘上に旧奥三面集落はあったのだが、ブルドーザで削り踏みならされていまではその面影はどこにもない。住民が立ち退いたあと行われた発掘調査により、このあたりからも縄文期の遺跡や遺物が発見されたらしいのだが、もうそれらの出土現場を見ることはできない。時間をかけて周辺を詳細に調査をすれば、もっと様々な発見があるだろうと言われているが、ほどなく水没するとあってはもはやそれも不可能である。
  私は左手に分岐して三面川源流方面へと向かう道に入り、今月二十四日までは一般の見学者にも公開されている元屋敷遺跡に向かうことにした。むろん、この一帯の道路も遺跡共々水没し湖底の一部になるわけだから、湛水の始まる今年十月二日以降は当然通行不可能になってしまう。車は頭上はるかなところに架る工事中の大橋梁の下を通りぬけ、特別につけられたダートの道伝いにもう一度三面川を渡り、道の尽きるところにある小高い河岸段丘上の平坦地へと出た。この段丘こそが奥三面で発見された最大の縄文遺跡群のある元屋敷だった。
 
  実を言うとこの日の私には一人の同行者があった。まだ二十代半ばの若い女性のAさんである。ある外資系の会社に勤める彼女は、小柄でとても魅力的な女性なのだが、芯も強く男勝りの行動力とチャレンジ精神を合わせ持っている。近々奥三面に行くという話をすると是非とも同行したいというので、東京からこの地へと向かう途中、那須で彼女を拾ってきた。前日は猛烈な雷雨の中、全身ずぶ濡れになりながらも独りで那須周辺の山歩きを楽しんでしていたというから、なんとも見上げたものである。
  我々二人は車から降り、不思議なほどに静まりかえった遺跡の前に佇んだ。すこしばかり前にこの元屋敷遺跡を訪ねたときには、たまたま休日だったせいか相当数の見学者の姿が見られたが、この日は月曜日だったこともあって周辺には我々以外に人影は見当たらなかった。眼下の三面川対岸を走るダートの工事用道路をときおりトラックが騒音をたてながら通り過ぎはしたものの、遺跡群のあるあたりはなんとも静かなものだった。我々が現地を訪ねたのは十月十八日であったが、それから一週間後の二十三日から二十四日にかけて遺跡のライトアップが行われ、専門家たちによる最後の遺跡見学説明会が開かれることになっているという話が信じられないくらいの静けさだった。
  ダム工事にともなう発掘調査のために表土を剥ぎ取られて長年の眠りから覚め、それもつかのま、今度は剥き出しのまま水底に没められてこの遺跡は再び永遠の眠りにつく。もしもこの遺跡群の墓所のどこかにいまも古代人の霊が棲み宿っていたとすれば、それら
の魂は身勝手な現代人というものの姿をどのように考えることだろう。
  深い想いに耽りながら立ち尽くす我々二人の眼前には、外周を低いロープで無造作に囲われた元屋敷遺跡が、縄文人の無言のメッセージを深く秘め伝えるかのごとくに広がっていた。無数の竪穴式住居跡が、二重三重の複雑な凹凸をなしてどこまでも続いている。縄文期という時代を考えれば、それはまれにみる大集落だったといってよい。青森の丸山三内遺跡に匹敵するくらいの縄文遺跡群だといわれるのもけっして誇張ではないだろう。
  おびただしい数の大小の竪穴の縁やその周りの表土には、よく見ると隈なく鋲が打ち込まれていた。むろん、専門家が遺跡調査の際測地の目印として打ち込んだものである。特別な竪穴などは特殊な石膏様のものを用いてその縁をまるく縁取り固めたりしてあった。基底や側面に多数の石が重ね並べられている竪穴もあった。素人の我々にはわからないが、その道の専門家ならこれらの竪穴群の配列や構造を見ただけで当時の集落の様子を的確に想い描くことができるに違いない。水没に先だって詳細な調査が行われ、石器や土器、骨角器などの貴重な出土物が他所に設けられた遺跡調査室に移されているのはせめてもの救いであるといってよい。それらの出土品はいずれ一般公開される予定であるという。
  この元屋敷遺跡は河岸段丘の地形に即して大きく二段にわかれている。竪穴式住居群跡の広がる下段と墓所や祭祀跡らしいもののある上段とを隔てる急な崖下の通路伝いに歩いて行くと、いまもなお澄んだ水がこんこんと湧き出している大きな泉のそばに出た。二万五千年以上にわたって湧き続けてきた泉である。水中に緑の水草と水苔の茂るその泉に二人で並んで手をつけると、冷たいなかにも命の鼓動を感じさせる不思議な感覚が伝わってきた。この地に住んだ縄文の人々は、むろんこの泉の水に支えられて生きてきたに違いない。その泉のそばから竪穴式住居群跡のあるほうへと本来の流路とは異なる細い水路が切られているが、どうやらそれが我が国では初めての発見だという古代の河道(水路)付け替え工事の跡であるらしい。
  下段の遺跡群を左手に見ながらいちばん奥のほうへと進むと、すぐ脇に「配石墓」と記された立札のある楕円型の穴が現れた。それとはっきりわかるように石膏様のものでやはり穴の周囲が白く縁取り固められている。すぐそばに近づいて中を覗いてみると、楕円型筒状の深い穴の側面は大きめの玉石を丹念に積み上げて造った石壁でしっかりと固められていた。確かに人ひとりが埋葬されるに十分なほどの大きさがある。周辺には同様の配石墓と思われる穴がかなりの数並んでいた。小さめの穴は子供でも埋めた墓跡なのだろうか。少し離れたところには環状列、いわゆるストーンサークルらしいものも見うけられもした。
  遺跡の上段部分にのぼってみると、そこには下段の平地以上に広々とした平坦地が広がっていた。典型的な河岸段丘の最上部であることがよくわかる。そこにもかなりの数の配石墓跡、あるいは何かの祭祀跡か貯蔵庫跡かと思われる大小様々な形の穴が相当な数散在していた。調査発掘されたそれらの穴の側面はやはりほとんどが大きな玉石を積んで固められている。もしも大きな穴のほうも配石墓だったとすれば、それは集合墓だったのかもしれない。
  上段の平地の端に立って下段の竪穴式住居群跡や配石墓跡を眺めやると、それらが想像以上に大きな遺跡であることもよくわかった。それにしても、縄文集落における住居と墓地とのこの異常な近さはいったい何を意味しているのであろうか。まさに住墓隣接なのである。他界した先祖の霊に対する縄文人の畏敬の念の深さや心的関係の濃密さは、現代人の想像をはるかに超えるものであったのだろう。
  かなりの時間が経ったけれども依然として新たに人が訪れてくる気配は感じられなかった。我々はすぐ眼下の遺跡群やその向こうを流れる三面川の流れを見つめながら、しばしそれぞれの想いに耽っていた。
  縄文時代の少年たちはどんな未来を夢見ていたのだろう?……この山奥の谷に生まれほとんどはこの谷において生涯を終えていったに違いない彼らにとって、世界とはどのようなものであったのだろう?……他地域の縄文人との交流や交易のためにこの谷を出て行く者はどのようにして選ばれたのだろう?……彼らのうちのどれほどの者が無事に戻ってきたのだろう?……他部族との婚姻はどの程度認められたのだろう?……不思議な時間の流れるこの空間にあって、そして縄文人の誰もがまさか水没するとは想像もしなかったこの聖地の最後を前にして、我々の胸中に渦巻く複雑な想いはとどまるところをしらなかった。
  元屋敷遺跡をあとにした我々はすぐ近くの三面川の河原に降りてみた。流域の様子は変わり果ててしまっていたが、黒く艶やかな粘板岩や黄緑色の砂岩質の岩盤からなる川床を流れる水は昔と同じように澄みきっていた。この水はそのままでも飲める。きらきらと輝き揺れる水面に小石を投げて水切りを楽しんだあと、我々は湯を沸かしてインスタントの味噌汁を作り、コーヒーを入れて簡単な食事を取った。
  車に戻った我々は三面川のさらに奥のほうを探索してみることにした。三面川の上流方向左手の岸沿いには細いダートの旧道があって、それはさらに奥のほうへとのびている。工事車専用道の表示があったが、その表示を無視してしばらく走ると川の脇の開けた場所に出た。その地点の少し下流には小さな堰があるため、その上流側は透明な水を満々と湛えた広く大きな淀みになっている。岸辺にはショベルカーで砂を採取した跡があったが、川床は綺麗な砂地になっていて深さもほどよく流れも穏やかだったから、泳ぐ気になればすぐにも泳げる感じだった。むろん付近には岩魚も棲んでいる。
  この大きな淀みのすぐそばの高みに三面川を跨いで対岸に通じる一本の木製吊り橋が架っているのだが、現在は廃橋になっており、その渡橋口はススキや蔓草、潅木類などによって深々と覆われてしまっている。もともとは奥三面の人々の生活に欠かせない重要な吊り橋で、知る人ぞ知る存在だったのだが、この廃橋もまたほどなく水没する運命にある。昔この橋を渡ったことのある私は、それが特殊な構造をそなえていて、たとえ男の身であっても渡り切るにはそれなりのコツと度胸が必要であることを知っていた。だから半ば冗談のつもりで、Aさんに向かって「あれを渡って見ようか、あなたなら渡れるかもしれないよ」と誘いをかけてみたのだが、臆すると思いきや、なんと彼女はやるき満々の表情を見せた。こうなったらもうその吊り橋の最後の渡橋者になるべくチャレンジしてみるしかなさそうだった。

「マセマティック放浪記」
2000年10月4日

さようなら奥三面

       <民俗文化財並みの吊り橋>
  先に立った私は、手を切らないようにして背丈を超えるススキの葉を掻き分け、蔓草のからむ潅木の藪を圧し踏みながら橋のたもとに近づいた。そして足元を確かめるようにして橋端の右手に取りついた。振り返ると、ちょっと緊張した面持ちでAさんもすぐあとについてきている。普通ならこのような橋の場合、「廃橋で危険につき渡橋禁止」とかなんとか記した警告板が立っているものなのだが、そんなものなどどこにも見当たらない。それがまた、かつては秘境と呼ばれたこの地らしいところでもある。もっとも、そうでなくても見るからにスリル満点で、しかも廃橋となってからはいっそう恐ろしげな雰囲気を漂わせるようになってしまったこの橋を、敢えて渡ろうなど考える人間がいるほうが変なのだから、警告板がなくたって仕方がない。
  吊り橋というと、全国的に有名な四国の奥祖谷のかずら橋などを想い出す人が多いかもしれない。あの吊り橋もなかなかに迫力があって、渡るにつれてゆらゆら揺れるし、足元の橋床には一定間隔の隙間があってそこから深い渓谷が見えている。だが、祖谷のかずら橋の場合は橋幅も橋床部の隙間も狭いから、運悪く片足を橋床から踏み外すようなことがあったとしても、そのまま全身まるごと谷底に向かって落下する可能性は少ない。万一両足を踏み外したような場合でも、両手で橋側や橋床のどこかを掴み落ちないようになんとか身体を支えることはできるだろう。
  ところがどうだろう、もう誰も渡ることのなくなった橋とはいえ、この三面川の吊り橋ときたら一風変わった構造になっているから、ちょっと間違ったら、はるか眼下の川底へといっきに叩きつけられる。そうなったら一巻の終わりである。
  この吊り橋の構造を大まかに理解するには、鉄道のレールと枕木があってその両側にワイヤーロープがレールと平行して何重かに張ってあるといった状況を想像してもらうとよいだろう。枕木にあたるこの橋の橋床(横木)は十センチ角、長さ二メートルほどの角材であるが、横に敷かれた角材と角材の間隔もゆうに二メートルほどはあるから、もちろん、人間が次々にそれを跨いで踏み渡ることは不可能である。オリンピック選手並みの跳躍力とサーカス団員顔負けのバランス感覚を合わせ具えもつ者が危険覚悟で飛び移ればなんとかなるかもしれないが、普通の人間がそれをやったらたちまち眼下の渓谷への転落はまぬがれない。
  ところで、その枕木にあたる横木の上にはやはり十センチ角ほどの角材が二列平行して敷き並べられ、ちょうど二本の太目のレールと同じ格好で橋の上を対岸までのびている。そしてその木のレールとレールの間は大人が大股を開くとなんとか届くくらいの幅になっている。それら二本のレールに左右の足先をかけて立った場合、むろん身体の下はスケスケの空間になるわけだから、ちょっとバランスを崩したらその瞬間に「はい、サヨナラ」となってしまうこと請け合いだ。要するに、二本のレールの間には幅十センチの角材を仕切り枠にして、1m×2mほどの長方形の空間が縦方向に幾つも並んでいるのである。むろんそれぞれのレールの外側も0.4m×2mほどの長方形の空間が同様の状態でずらりと並んでいるわけだ。ぽっかりと口を開ける個々の長方形空間の真下には青い水を湛えた渓谷が待ちうけているだけである。高度恐怖症の人などは話を聞いただけで身震いがしてくるかもしれない。
  初めてこの橋を目にした人などは、横木と横木の間、木製レールとレールの間をカバーする橋床材がもともとはあったが、それらが失われ現在では渡橋不能になったと早合点してしまうかもしれない。だが、実際にはこの橋はもともとそんな構造になっているのである。たぶん、気象その他をはじめとするこの地の特殊な自然条件や生活条件のゆえに、人々が知恵と工夫を凝らした結果、このような構造の吊り橋が最適とされるにいたったのであろう。
  ところでいったいこの橋をどうやって渡るのか?……もちろん、幅十センチほどの木のレールの上を渡るのである。橋側に何本か張られたワイヤーロープの適当なものを片手で軽く掴みバランスを取りながら吊り橋を渡るのだ。中空に何台も並べた平均台の上を渡るようなものである。橋長も三十メートル前後はあるだろう。木製のレール、すなわち二本の平行な細い木道が設けられたのは、かつてこの橋を日常的に利用していた人々が橋上で無理なくすれ違えるようする必要があったからに違いない。心理的にみても一本レールよりは二本レールにしたほうが安定感もあったのだろう。
  問題の木製レールの幅はトレッキングシューズの幅より狭いから、左右の足を交互に入れ換えながら進む際、足を滑らせないように細心の注意を払わなければならない。右側のレールに乗った私は、水平方向に張られたワイヤーロープのほどよい高さのものを選んで軽く右手で掴み、バランスを取りながら橋上に踏み出した。橋の真中方向に進むにつれ、久しぶりの渡橋者の姿に歓喜するかのごとく橋全体が軽い軋(きし)みをたてて上下動しはじめた。折からの陽光を浴びて青々と輝く眼下はるかな三面川渓流は、「いつでもこちらにおいでおいで!」と、甘い言葉で誘いかけている。しかし、何物にも換え難いこのスリルこそが吊り橋渡りの醍醐味である。悪ガキの頃、田舎の川にかかる一枚板の橋の真中に立って橋板を思い切り振動させ、川に落ちないように身体ごと共振しながらバランスをとって遊んだ記憶などが、一瞬脳裏に甦ってきた。
  もう保守が行われていないせいで、レールーのところどころが腐っていた。さすがにそんなところでは細心の注意を払って足元を確かめはしたが、渡れないというほどのことではなかったので蛮勇をふるって先へと進んだ。左手のレールを渡ってきているうしろのAさんに折々声をかけつつ橋の中央付近に先に到達し、そこで足を止めて後方を振り返ると、彼女はそんなにひるむ様子もなく、むしろ渡橋のスリルを楽しむような足取りで一歩一歩こちらへと近づいてきている。並みの女性ならとてもこうはいかない。むろん、彼女の気性をわきまえている私は、いっさい手助けなどしなかった。それにしても、いったいそのチャーミングでしなやかな姿態のどこにこんな向こう見ずに近い行動力が秘められているのだろう。彼女には女性としてのこまやかな一面が人一倍そなわっていることも知っているだけに、内心私は不思議な感動を覚えながらその姿にしばし見入る有様だった。
  吊り橋の真中付近に立って眼下に見おろす三面川の流れは、どこまでも青く澄みきって清らかそのものだった。ほどなくこの橋もろとも一帯が湖中に水没するなんてとても信じられないことである。こんな構造の吊り橋はたぶん国内のどこを探してももう見つからないだろう。なんでもない廃橋に見えはするが、この橋自体が立派な民俗文化財ではないか。そう思うと、なんともやり場のない哀しみが胸の奥に込み上げてきた。
「こんなことやってるところ誰かに見つかったら、危険だって怒鳴られるんでしょうねぇ」
「たぶんね……でも、もうこの橋を見にくる人なんか誰もいないんじゃない」
  我々は橋上でそんな会話を交わしながら、いったん対岸へと吊り橋を渡り切った。対岸の橋のたもとからは、もうほとんど利用する者がいなくなった昔ながらの細く急な山道が傾斜の大きな山の斜面を縫って上方へとのびている。そのすぐ左下方には細い沢筋から三面川渓谷本流に向かって流れ落ちる小さな滝があって、爽やかな水しぶきと水音をたてていた。
  もう一度橋を渡って戻る途中でせっかくだから写真を撮っておこうということになり、いったん車に戻ってからAさんのカメラを持ってまた橋のなかほどに立った。もともと二人ともチャレンジ精神が人一倍旺盛だったこともあるが、それにしても慣れとはおそろしいもので、いったん橋の振動のリズムをつかみバランスの取り方のコツをおぼえてしまうと、もうかなりの速さで移動しても平気である。大きく両脚を開いて二本のレールに左右それぞれの足先をかけ、両手でカメラを構えてもどうということはなくなった。被写体のAさんのほうも橋上での身のこなしの呼吸をすっかり体得した感じだった。
「こんな写真、親には絶対見せられませんねえ……」
  いたずらっぽく微笑みながらそう呟く彼女の声を聞きながら、うーん、恋人やボーイフレンドが見たって卒倒しちゃうんじゃないかなあ、それに、こんな勇猛果敢な一面を目にしたんじゃ並みの男だとしりごみしちゃうかもしれないななどと、半ば冗談まじりで考えたりもした。ただ、状況から判断して、たぶんこの吊り橋を渡ったのは我々が最後だったはずである。その意味からすると、「三面川吊り橋最後の渡橋者」となった彼女の大胆な振る舞いは、十分記念に値するものだったと言えるかもしれない。

       <森の古木の運命は?>
  車に戻った我々は、さらに上流方向にむかって走り、ススキの穂に覆われた細い旧道を詰めあげた。そして車止めのあるその最終地点で下車すると、簡単な用具だけを入れた軽ザックを肩にしてさらに奥へと歩きだした。道はすぐに細い山路に変わり、ほどなく一面がススキの原になっている場所にでた。おそらく昔は耕作地だったのだろう。ススキの原の向こう側に目をやると、見事な栗林が広がっている。反対側の山の斜面や藪地にもたくさんの栗の大木が生えているのが目にとまった。よく見ると、収穫にはまだちょっと早い感じだが、栗が無数になっている。山栗の一種で実は小粒だがこの手の栗は味がよい。奥三面の集落に人が住まなくなったいまでは、栗を採りにやってくる人もいないのだろう。
  試しに道のすぐ脇に落ちていたまだ青いイガだらけの栗を拾って外側の殻を両足で潰し割り、中の実を歯で噛み割って白い中身を生のままかじると、甘くてなかなかいい味がした。山栗はそのままでも結構美味いのだ。ついでだから、向こうの大きな栗林のところまで行ってみようということになり、軍手をはめ持参の鎌を手にしてススキの原に分け入った。だが、密生したススキは背丈をはるかに超え、様々な蔓草や潅木からなる藪は思いのほかに深くて進むのは容易でなかったし、あとから健気についてくるAさんも楽ではない様子だった。
  鎌でススキや刺のある蔓草類を切り払い身体中蜘蛛の巣だらけになりならが、それでもなんとか栗林の一番手前のところまではたどりついた。高々と枝を広げる栗の大木を見上げてみると、ふんだんに実をつけてはいるものの成熟するまでにはもう少し時間がかかりそうである。それに、いまでは樹下の一帯が深い藪地に変わってしまっているから、たとえ収穫期になったとしても、落ちた栗を拾うのは容易なことではなさそうだ。おそらく奥三面集落の人々が立ち退いてからは、秋になると無数の実をつけるこの見事な栗林も見捨てられ、このように荒れた状態になったのだろう。しかし、この大きな栗林もほどなく水底に沈んでいく。
  それ以上栗林の中へと分け入っても仕方がないと判断した我々は、再び藪を掻き分けて山道へと戻り、さらに渓谷の奥へと向かってあるきだした。しばらくすると、左手の山腹から湧き出た清冽な水の流れる小さな沢にでた。この奥三面の谷には澄んだ水のほとばしるこのような小沢が数多く散在している。もちろんそのまま飲んでも差し支えない。さっそく私は手を洗いついでに口に水を含んでその味を確かめ、それからいっきにそれをごくりと飲み込んだ。
  このあたりの沢には清流を好む小型の赤蛙が生息している。この蛙は筋力も抜群で体型も小型で細身だから、その動きは実に素早い。人が近づくと目で追いかけるのが難しいくらいの速さで逃げ出し、手近な穴や岩陰に身を隠してしまう。うまく手で捕まえても、まるでウナギかドジョウのようにするりと抜け出し、あっというまに姿を消してしまうのだ。その赤蛙が、まるで水平飛行する超小型ロケットのような勢いで私の眼前をよこぎっていった。
  その沢を横切るとすぐに天然の巨木の生い茂る深い林のなかに入った。そこから先は道幅が急に狭まり、人ひとりがやっと通れるような本格的な登山道となった。この道は三面川のまだずっと奥にある赤滝を経て、朝日山系主稜の一角をなす以東岳方面へと通じている。今回は登山が目的ではないし、それなりに時間的な制約もあったから、四、五十分ほど奥まで歩いてそこから引き返すつもりだった。
  この山道は、三十メートルはあろうかとおもわれるブナ、トチ、ホウ、ナラなどの大木が鬱蒼と茂る森の斜面を縫うようにして谷奥へとのびている。右手の斜面は急角度で三面川へと落ち込んでいるが、その斜面一帯に生えているのもいずれ劣らぬブナやトチ、ホウ、ナラなどの巨木ばかりで、まるでそれぞれの木々が何百年間もこの地に根を張り生きながらえてきた誇りを高らかに謳いあげているかのようであった。どのあたりまでが水没ラインかは定かではなかったが、ダムが満水になればこれらの巨木群のうち谷筋に近いところにあるものは皆水没してしまうはずである。
  我々は時折立ち止まってはブナやトチの大木の枝先をはるかに眺め上げ、さらにはその太い幹や根を手で撫でたり叩いたりしながら、無言にしてしかも雄弁なこの森の長老たちとの心の対話を楽しんだ。だが、最後に、先史時代以来、絶えることなく数多くの人間たちに命の水を恵んできたこれら森の主たちに生命の危機が迫っていることを伝え、お別れの言葉を告げなければならないことは、なんとも忍びないかぎりであった。

       <幻夢の三面川渓谷>
  もともとそのつもりはなかったのだが、しばらく山道を進んでいるうちに急に思い立った我々は、比較的傾斜の緩やかな斜面を選んで巨木の密生する林の中を縫い潜り、三面川渓谷の河原へと降りてみることにした。枝木や低木の藪を押し分けて山道から高度差にして少なくとも五、六十メートルは下った頃だろうか、眼前に突如として青々と輝き揺れる三面川の水面が現れた。まるで何物かに誘われるようして谷底へと降りてきたのだが、そこで我々を待っていたのは信じられないような美しい光景だった。
  対岸はそそり立つような絶壁になっており、その上部は一面深い樹林に覆われていたが、我々の降り立った側には大小無数の玉石と白い岩肌の岩盤からなるちょっとした河原があった。そしてその河原に寄り添うようにして三面川が流れていた。流水部の川幅は二、三十メートルほどだろうか、川底が一面キラキラと銀白色に輝いている。澄んだ青白色の光を放って揺れ動く透明な水の流れをなんと形容したらよいのだろう。三面川の水の清らかさは昔から有名ではあったが、それにしてもこの水の色は驚愕に値する。私はあらためてその美しさに感動せざるをえなかった。この夏の終わりに私は清流で知られる四万十川源流域を訪ね歩いたが、敢えてこの三面川源流域の限られた一帯だけと比較するなら、こちらのほうが上かもしれない。
  川の半ばからこちら寄りは浅瀬になっているが、対岸側の大部分はかなり深い淵になっている。ただそれでも、崖の直下のあちこちには浅いところがあるようだった。上流のほうを見渡すと、そちらは川全体が砂地か玉砂利の浅瀬になっているようで、その気になれば歩いて遡行できる感じだった。下流のほうには浅いがちょっとばかり急流になっているところがあって、そこのところだけはさざ波が起こり、川面全体が純白色に泡立って見える。谷間の上空の雲が切れて青空がのぞき、昼下がりの陽光が燦々と降り注ぎ始めると、流れる水の輝きはただもう幻想的としか言いようのない彩りに変わっていった。
  我々はジーンズの裾をたくしあげ、裸足になって川の中に入ってみた。さすがに水は冷たく、しばらく浸かっていると足先がしびれてくる感じだった。だが、不思議なもので、何度か水中に出入りしているうちに身体が水温に慣れてきて、そんなに冷たさを覚えなくなった。Aさんが、水着を持ってくればよかったと言い出したのはその時である。幼少期に川で泳いで育ったという彼女にすれば、こんな澄み切った川を目にすると体内の血が騒ぐのだろう。南海の島育ちのゆえに、綺麗な海を見たらどこであろうと泳ぎたくなる癖のある私には、その気持ちはよくわかった。
  だが、そもそも道もないこの河原に降り立ったのは偶然の成り行きだったわけだし、私が一人のときならともかく、若い女性を案内している最中に三面川で泳ごうなどとはさすがに考えてもみなかった。だから、車には常備してある水泳パンツも水中眼鏡も持参してはこなかった。旅先で露天風呂などにはいるときのために彼女も水着は持参していたらしいのだが、むろん車中に残してきたままであるという。
  Aさんはしばらく佇んで三面川の川面をじっと見つめていた。それから、「この陽射はまだ翳ることはないですよね?」と尋ねかけてきた。その言葉の意味をあまり深く考えなかった私は、「この天気だったら大丈夫なんじゃないかな」と生半可な返事をした。すると、驚いたことに、次の瞬間、「じゃ、このまま、川にはいります。ちょっとはしたないかもしれませんが、目をつぶってください」と言い残した彼女は、服を着たままザブザブと川の中へと歩き出したのであった。
  止める暇もあらばこそ、呆気にとられる私に背中を見せながら、彼女は徐々に水中へと身を沈めていく。人工物のかけらさえない河原、青く煌き輝く清流、渓谷を取り巻く深い森、澄んだ大気と明るい太陽、そして服を着たまま川の深みへと歩いていく後姿の若い女性、それはもう映画の美しいワンシーンそのもの、いやそれ以上の光景であった。三面川の谷奥に棲む聖霊が惜別の情を込めて演出した一篇のドラマだったと言ったほうがよかったかもしれない。いくら行動的な女性であるとはいっても、彼女がそれほどまでにこの川に魅了されたのは、ほどなく沈みゆくこの谷が最後に見せるこのうえなく華麗な装いのゆえだったのだろう。
  ついには首まで深々と水中に身を沈めた彼女は冷たいと言って身を震わせながらいったん河原にあがってきた。その姿はなんともいとおしく、しっかりと抱きしめてキスのひとつもしてやりたい気分ではあったが、そこはこちらも紳士(?)の端くれくらいの自制心は持ち合わせているゆえに、ぐっと理性をはたらかせて己の感情を抑え、次に取るべき行動を考えた。この機会を逃したら、水没するこの付近の谷では泳ぐことは不可能だ。そうだとすれば、この際、こちらも一緒にこの場で泳いでみるのがベストだろう。彼女と同様に着衣のままでと決断しかけたが、幸いというべきか、このとき私はたまたま厚手のトランクスをはいていたことを思い出した。
  そうとわかったらトランクス一枚になって泳ぐにかぎる。ジーンズとシャツをすぐさま脱ぎ捨てた私は、そのまますぐに水中に入った。確かに冷たい。しかし、意を決して深い淵のほうへと泳ぎ出し、結構速い流れを横切って対岸側に渡ると、もう水の冷たさは感じなくなった。それにしてもほんとうに綺麗な水である。
  私の様子を河原の側から見ていたAさんは、浅いところを選んでこちらに向かって泳ぎ出した。ところが、案外流れが速いうえに、上下衣服を着たままときているから水の抵抗がかなり大きい。だから思うようには身体を動かせず、深みのほうへと流されかけた。やばいと思って飛び込みかけたが、懸命に泳いでいる彼女の顔を落着いて見やると、私の立つ淵のところまではなんとかたどりつけそうである。そこで身体が流されないように足を踏ん張って大きく手をのばし、顔を赤くして近づいてくる彼女の手を握り思いきり引き上げた。ちょっとだけ水を飲んだ感じだったが、幸いその身に変わりはないようだった。
  いったん河原に戻ったあと、今度は少し上流のほうへと流れの端に沿ってのぼってみた。その一帯は川全体が膝ほどの深さの広い浅瀬になっており、水底は一面がきめの細かい真っ白な砂地で、足裏に伝わる感触の心地よいことはこのうえなかった。いま想い返してみても、それは幻のような出来事としか言い様がない。しばらくそこで遊んだあと、私のほうは流れに乗って深い淵をいっきに泳ぎ下り、もとの河原近くでAさんが戻ってくるのを待った。彼女のほうは上流の浅いところでしばし泳ぎを楽しんでいる様子だった。
  陽光を浴びながら身体を乾かしていると、突然、背中や腹部、太腿などに痛痒い感覚が走りはじめた。何だろうと思ってよく見てみると、なんと大小の虻が何匹も皮膚のあちこちに食らいついているではないか。慌てて数匹を叩き落としてはみたが、次から次に新手の虻どもがやってくる。叩き潰すほどにその数が増えるのは、かすかな血の匂いにも彼らの嗅覚が鋭く反応するからなのだろう。かくして私は虻どもとの思わぬ戦いを強いられる羽目になってしまった。考えてみると、朝日山系一帯は虻が多いことで知られている。とくに秋のこの季節に動物の血をどれだけ吸うことができるかによって繁殖力に違いがでるから、虻どもだって必死である。まあ、 自然が豊かなことの証ではあるからやむをえないことなのだが、ここぞとばかりに餌食にされたほうはまずもってたまったものではない。
  そうこうするうちに満ち足りた表情でAさんが戻ってきたが、なんと彼女のほうは、濡れた衣服で身体が覆われているせいか虻の洗礼などほとんど受けていないらしい。彼女が少し離れたところにある大きな岩陰に身を隠し、ゆっくりと衣服の水を切ったりシャツを着替えたりしている間に、私のほうも大急ぎで濡れたトランクスを脱ぎ、ジーンズとシャツを着込んだ。これで虻軍団の攻撃を防げると思ったのだが、なんと、いったん味を覚えた虻どもの中にはシャツの上から刺すものまで現れる始末だった。
  虻どもによる洗礼は、清らかな三面川を泳いで水を汚したことに対する山の神の懲らしめと考え、その懲罰に甘んじることにしたが、虫刺されには相当強い体質の私でもそのごしばらく身体中のあちこちが痛痒かった。東京に戻ってからじっくりと数えてみたら、なんとまあ、虻に食われたあとが二十数カ所もあった。栄誉の文化勲章ならぬ「泳与の虻禍勲章」といったところである。
  Aさんのはくジーンズは濡れたままだったが、彼女はこちらの心配をよそに平然としていた。もっとも、下手に心配したからといって脱いで歩くわけにもいかないだろうから、彼女のほうも毅然として振る舞うしかなかったわけだが、その環境適応能力はたいしたものである。昨今の若い女性には珍しいその自然への対応力に返す返すも私は敬意を表したくなった。
  我々は再び谷の斜面を踏み分け登って山道に戻り、そのあと何度か小さな沢を渡りながらさらに奥まで二十分ほど歩を運んだ。そして赤滝のある三面川最奥の沢筋やその向こうに聳える山々の見えるところまで行き、その地点で引き返すことにした。帰り道、長い無数の体毛が銀色に輝く珍しい毛虫を見つけて指差すと、Aさんは細い木の棒を拾ってきてその先で毛虫を軽く突つきながらその様子を興味深そうに観察していた。もしかしたら大型の蛾、シンジュサンかクスサンの幼虫かもしれないと思ったが、いまひとつその正体ははきりとは分からなかった。
  無事車に戻り着くと、Aさんはさっさと近くの林の奥へと一人姿を消し、素早く濡れたジーンズを短パンにはきかえて再び私の前に現れた。名残惜しくはあるが、あとは奥三面の谷に最後の別れを告げ、一路東京へと向かうのみである。村上市の郊外にある瀬波温泉に立寄って一風呂浴びてから新潟に出て、関越道経由で夜遅く東京に戻りつくことにした。

  三面川渓谷の澄んだ流れよ、美しい河原よサヨウナラ!、水没するブナやトチの大木たちよサヨウナラ!、ナラ林よ、栗林よサヨウナラ!、スリル満点の吊り橋よサヨウナラ!、元屋敷縄文遺跡群よサヨウナラ!、そして奥三面の大きな谷よサヨウナラ!……また会う日までと言いたいが、いま走っているこの道路をはじめ何もかもが皆湖底に沈んでしまうとあっては、もはやそれもかなうまい。ただ、湛水開始まであとわずかしかないというこの日に、ささやかなりともお別れの言葉を伝えにくることができたことだけはせめてもの救いであったかもしれない。
  なんともやり場のない思いを胸の内で噛み締めながら、我々は来た時と同じ道を逆にたどり奥三面の谷をあとにした。この日にはもう撤去されてしまっていたが、つい先日までこのダムの工事現場の近くには、「清らかな三面川、事故で汚すなダム仲間」と大書した大きな横断幕が張られていた。誰が考え出した標語なのかわからなかったが、私はその自然讃美の裏側に潜む無神経さに呆れ果て返す言葉もない思いだった。奥三面から朝日スーパー林道方面へと抜ける新設のトンネルを走りながら、なぜかいま一度その珍妙な標語のことを想い出した。たぶん、ここ三十年来の我が国の大規模公共事業と建設行政の実態をこれほどに象徴している言葉はないと感じたからだろう。
  湛水が終わって奥三面ダムへの交通規制が解除され、再びこの地を訪れることができるだろう頃には、我々がこの日に目にしたもののほとんどは水底深くに沈んでいる。その時には、奥三面ダムを消滅した美しい谷々の、そしてさらには掛け替えのない民俗文化の墓標と考え、静かに祈りを献げようと思う。また、そのことを通して、ともすれば忘れがちな己の傲慢さを反省し、 自らを含めた人間の卑小さを再認識するように心がけたいと考える。

「マセマティック放浪記」
2000年10月11日

瀬戸内島なみ海道

  八月下旬のある日、町おこし事業取材のため愛媛県広見町へと向かう途上にあった我々は、山陽道福山パーキングエリアで車中泊したあと、尾道市街の少し手前で西瀬戸自動車に入った。我々とはいっても私のほかには同行の三嶋洋さんがいるだけだったから、いたって気ままなマイペースの旅ではあった。
  三嶋洋さんは東京育ちだが相当に変わったキャリアをもつ豪放な人物で、アルコールのほうも底無しに強い。若い頃、オペレーション・リサーチの専門家として日本開発銀行の研究部門に勤務、有能な仕事ぶりで将来を嘱望されるが、ある時期に突然辞を職して家族共々自然の豊かな沖縄西表島に渡ってしまう。日本開発銀行時代の親しい同僚には竹中平蔵現慶応大学教授などもいた。西表島ではすっかり地元の人々の中に溶け込み、漁師とダイビング・インストラクターをやるかたわら、ささやかな民宿などを開いていた。ところが仕事のために購入してまもないモーターボートに欠陥があり、それも一因となって嵐の海で遭難、ボートが海中に没し去る寸前に自衛隊のヘリコプターに救出さるという事態になった。
  しばらくして、ボートの販売責任元であった小松製作所に補償問題の交渉のため上京するが、その際に三嶋さんの異能を高く評価した小松製作所本社からの懇請があって、結局、同社の海洋関係の技術研究開発部門に勤務するようになった。実を言うと、沈没したモーターボートの補償問題をうやむやにしたうえに三嶋さんを丸め込んで小松製作所にスカウトしてしまった張本人の原田紀彦さんは旧来の私の知人で、当時小松製作所 本社の要職にあった。熊本県天草地方出身のこの原田さんは大変な切れ者の紳士であるが、空手五段という武道家で、これまた豪放磊落な人物である。
  三嶋さんは小松製作所で様々なプロジェクトを成功させて業績をあげたあと、昨年同社を退き、現在は東京農大の水産学関係の教授と冷凍技術関係の共同研究を進めながら同大の大学院で学生の指導をしたりもしている。現在愛媛県広見町で計画中の町おこし事業に四国総合研究所とタイアップしてこの三嶋さんが協力中のため、渡りに舟と広見町への案内役を買ってもらったようなわけだった。三嶋さんは昔から、仕事で出張したり重要なポストにある人物と会ったりする時でも、かなりくたびれたジーンズにシャツというおきまりの姿で通している。その点でも私とはたいへんにウマが合うわけだ。この日も三嶋さんは髪をうしろでまとめて結わえ、裾のほつれたジーンズの短パンに横縞のポロシャツという海賊ルックに近い出で立ちだった。
  本土と向島とをつなぐ尾道大橋渡ったのは午前八時頃だったが、おりからの晴天とあって、晩夏特有の強烈な陽射が車窓越しに差しこんできた。左右を見まわすと、大小の島々や複雑なかたちをした入江、さらには激しく潮の流れ動く瀬戸などが眼下いっぱいに広がっている。予想にたがわぬ美しい景観だ。さすが「瀬戸内島なみ海道」の愛称をもつだけのことはある。言うまでもないが、西瀬戸自動車道は本州と四国とをつなぐ三つの自動車道路の一つで、芸予諸島のうちの向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島の六島をステップ・ストーンにして本州の尾道と四国の今治とをつないでいる。
  向島と因島との間に架る因島大橋にさしかかる頃には、明るい夏の太陽のもと、瀬戸の島々と海々の織りなす風光はますます明媚の度を深めていった。意識的に車の速度を落とし、ゆっくりと因島大橋を渡り終えると、我々はいったん西瀬戸自動車道をおりて因島市街への道をとった。せっかくだから、因島市中庄町寺迫にある水軍城を訪ね、村上水軍関係の資料でも見学していこうということになったからである。目指す水軍城は因島村上氏の菩提寺金蓮寺を見下ろす小山の頂きに建っていた。駐車場で車を降りた我々はタイムスリップした気分でその小山の山頂目指して歩きだした
  ラジオのニュースで気温が三十七度を超えているのは知っていたが、こんなにも激しく肌を刺す直射日光に身をさらすのは久々のことである。南国の島育ちの身だから、昔ならたとえ強烈な陽射の中でも小山の一つや二つ駆け登るなんてなんでもないことだったのだが、やはりこの歳になると、こんなカンカン照りのもとで急峻な斜面を縫う小道をいっきに駆け登るだけの気力はない。だが、それでも我々は休むことなく水軍城の建つその小山を登りつめた。
  現在の因島の水軍城は昭和五十八年に築城再現され、村上水軍関係の資料館となっているもので、往時のままのものではないが、昔はこのような水軍城が芸予諸島の複雑な入江や瀬戸を見下ろす要所要所に多数存在していたらしい。いまではこの水軍城のある小山から直接に見下す一帯はすっかり市街地化が進み、海岸線もずいぶんと遠くに退いてしまっているが、往時にはすぐ直下の谷筋まで深い入江がのびてきていたらしい。
  瀬戸内海には千個に近い大小の島々があるが、そのうちの七割近くが芸予諸島に属しているという。芸予諸島とは、広島県南部から愛媛県北部にはさまれた海域にあって入り組んだ地形をなして密集する群島のことである。じっくりと地図を眺めてもらえばわかるのだが、好き勝手な形をした島々がゴチャゴチャと存在していて、主要な島の名前と位置を憶えるだけでも容易ではない。その芸予諸島の間を縫うようにして多岐多様に分かれる細い水路がくねくねと走っているのだが、それらの水路をうまく通って一帯を東西方向に抜けるのは、正確な海図やGPSと強力なエンジンを備えもつ現代の船にとっても容易なことではないだろう。
  資料でみるかぎり周辺の潮の動きもおそろしく複雑なようだから、櫓や帆に頼るしかなかった昔の和船でこの海域を無事に通り抜けることは、一帯の地理や潮流の変化にうとい者にはきわめて困難だったに違いない。博多津から関門海峡、周防灘、伊予灘、さらには瀬戸内、播磨灘、難波津とつなぐ当時の海上交通の主要路を利用する場合、どうしても芸予諸島と塩飽諸島(岡山県と香川県にはさまれた海域の島々)を通過しなければならず、必然的に両諸島海域は交通の難所になると同時に交通の要所ともなった。水路が狭くて複雑で潮流の変化の激しい芸予諸島一帯の場合はとくにそうであった。
  これらの島々に住み、周辺海域の水路や潮流の動きに詳しい海人たちが、付近を航行する船が多くなるにつれ、それらの船の水先案内をしたり警護をしたりするようになったのは当然のことであった。芸予諸島は耕地も少なく、また、当時の漁業は技術的にも未発達で天候や季節にも大きく左右されることが多かったから、島での生活はたいへんに厳しいものであった。したがって、人口が増加するにともない、多くの島人たちが、一帯を航行する船の水先案内や警護を務めることによって警固料(警護料のこと)と称する一種の通行税を徴収し、生計を立てようとしたのは自然のなりゆきだったろう。
  警固衆とも呼ばれた彼らが、状況次第ではいわゆる海賊行為に走っただろうことも想像に難くない。場所が場所なうえに、操船術においても地理的な知識においても彼らのほうがはるかに長じていたわけだから、たとえ海賊行為をはたらかれたとしても手のうちようがなかったに違いない。八六二年頃には山陽南海に海賊衆が頻繁に出没したとの記録があるようだから、かなり昔から一部の海人たちは海賊行為をはたらいていたようである。
  当初の海賊は単発的で無統制だったらしいが、時代の移りとともに多くの警固衆が海賊衆としての一面を持つようになるにつれて、彼らは組織的な集団を形成し、さらにそれらの集団の結合体を構成していった。やがて彼らは海上主要航路に臨む島々の要所に城を構え、一種の水軍としての性格をもつようになっていったのである。そして、中世に至ると高度に組織化された彼らは陸地部の封建勢力と提携したり拮抗したりするようになり、一門は相互に緊密な連携態勢をとりながら瀬戸内海一帯において強大な勢力を誇るようになったのだった。
  水軍の活躍がとくに目立つようになったのは南北朝時代以降のようで、室町時代から戦国時代にかけてその活動は最盛期を迎えるところとなった。とくに室町末期から戦国時代にかけては、伊予衆とよばれる四国寄りの海域を本拠としていた海賊衆が北方の向島や因島一帯にまで勢力を拡大し芸予諸島全域を支配するようになった。そして伊予衆のなかでもひときわ大きな勢力を誇るようになったのが、能島・来島・因島の三島をそれぞれの本拠地とする村上氏支配下の海賊衆である。「村上」という同一姓を名乗るそれら三島の海賊衆の頭領たちは同門意識をもって連帯結集し、やがて村上水軍として瀬戸内海中央の全海域を制圧するに至った。
  毛利元就と陶晴賢とが覇権を争った厳島の合戦において毛利方についた村上水軍は、毛利軍が折からの暴風雨をついて海を渡り陶陣営を急襲するのを助けるとともに、兵船三百艘を配して陶軍の退路を遮断、同軍を殲滅するという武功をたてて一門の力のほどを広く世に示し、その存在を確固たるものにした。全盛期の村上三家の水軍が支配海域であげた警固料や通行税の総額は石高換算で四十万石以上にものぼったという。
  水軍城資料館には、大阿武船(おおあたけせん)と呼ばれた村上水軍の代表的な軍船の模型が展示されていた。長四角の大きな帆の中央には「上」の一字を丸で囲った村上水軍の紋章が描き染められている。この紋章を見ただけで震え上がった船人たちも少なくはなかったろう。船長は二十六メートル、船幅九メートル、約二百トンの大きさがあり、動力は帆と多数の櫓であった。この船一艘には将士が二十〜四十名、水主(かこ)が七十〜百三十名乗り組んでいたようである。また、武装として口径十五センチの主砲のほか火箭(かや)なども搭載してあった。
  復原模型によると、上部は二層の造りになっており、一層の部分はその屋根をもかねている甲板の下側にあって、必要ならば両側面に開閉式の板戸を立てて完全に閉鎖し内部を守ることのできる構造になっていた。この構造によって大浪や風雨を避けることができたばかりでなく、戦闘の際などに敵の急襲を防ぐことができた。また逆に、側面全体を閉鎖したまま敵船に近づいて接舷し、一斉に側面の板戸を開いて襲いかかり、相手の船に乗り移ってそれを占領することも可能だった。この一層部に将士や水主のほとんどが乗っており、両舷側には二十、三十丁もの長い櫓をたてることができるようになっていた。もちろん、櫓の漕ぎ手の姿は外側からは直接に見ることはできないから、外敵の矢や鉄砲による攻撃からも身を守ることができたに違いない。
  一層部の上を覆う甲板の中央には大きな帆と帆柱が立っており、その前方には現在の船のブリッジに相当する大きな四角柱状の二層部分が設けられている。そしてこの二層部はさらに二層に分かれていたようだ。この部分には水軍の頭領や直属の上官たちが陣取り、海上一帯を睨みながら操船命令をはじめとする全体的な指揮をとっていたものと思われる。多数の櫓を使う場合、個々の漕ぎ手には直接船外の状況が見えないから、この二層部の指揮官からなんらかの方法で命令が伝達され、それに応じて櫓を漕ぐときの力の加減や微妙な操櫓の調整などがなされていたものだろう。
  展示資料の中には村上水軍の用いた「一品流水軍集」という兵法書などに基づく船団の陣形配置図なども見うけられた。司令船以下の属船に各々の役割を表わす漢字を当てて識別できるようし、それらの文字を大きなV字形、あるいは大小のV字形を複合した形に配列して陣形を示してある。展示されているのは兵法書にある陣形のごく一部で、他にも様々な陣形があったようである。鉄の結束を誇った彼らは、日々の戦いの連続の中で常に新しい戦術を編み出すように工夫のかぎりを尽し、それを秘伝、口伝として後世に伝えもした。兵法書の冒頭には、「船に乗る事は天の利を先とし、地の利を考えるべし。軍の始むる人の和を先とし、後に天地の利を考えるべし」という心得なども示されているようだ。
  海賊衆といえば聞こえはわるいが、海という地理的利点を最大限に活用することによって、村上一門の水軍衆は、その時代の封建制度の枠からはずれた自由人の集団としての一面を持っていたと言ってよい。一部の権力者によって一方的な収奪や有無を言わさぬ強権支配が行われていた時代であったことを思うと、彼らが折々海賊行為という非合法行為を犯したとはいっても、それは時の支配者たちの立場から見た非合法行為であり、窮乏生活に苦しむ当時の庶民の目からすると、必ずしも否定されるべき行為ではなかったのかもしれない。
  驚くべきことに、一五四三年の鉄砲伝来後にその情報を得た因島村上水軍は生口島垂水の桑原家に鉄砲を製作させ、いちはやく独自の鉄砲組を組織するとともに、のちの勘合貿易においては製造した鉄砲を中国にまで輸出していたらしい。単に警固料や通行税を徴収するばかりでなく、水軍みずからも広く国内他地域や国外との交易を行い、収益をあげていたのである。
  資料館に展示されている各種具足類の中には、「純金家紋付き鉄錆地色具足」という立派な鎧兜一式や、巨大なホタテ貝の貝殻を兜飾りにしつらえた珍しい造りの「ほたて貝兜」などもあった。いずれも村上水軍ならではの時代背景が偲ばれる逸品で、なんとも興味深いかぎりではあった。水軍資料館を出たあとは金蓮寺裏手にある因島村上水軍一門の眠る墓所の古石塔のまえに佇み、とりあえず彼らの霊に敬意を表した。
 
  水軍城をあとにした我々は再び西瀬戸自動車道に上がり、生口橋を通って生口島へと渡った。この島の瀬戸田町には耕三寺と平山郁夫記念館があるので、せっかくだからそこを訪ねてみようということになった。そしていったんはすぐ近くまで車を走らせた。しかし、なにやらたくさんの土産物屋が軒を連ねて建ち並び、付属する有料駐車場への呼び込みも結構激しい様子だったので、気の弱い(?)我々二人はその雰囲気に臆して結局そのまま同地を通過してしまった。平山郁夫画伯には申し訳なかったが、もう少し静かな時期にあらためて記念館を訪ね、ゆっくりと展示作品などを鑑賞したいと思ったことなども入館を控えた理由の一つだった。自動車道が整備され多数の観光旅行者の到来に期待する地元の人々の気持ちも、それなりの事情も十分にわかるのだが、せめて瀬戸内の島々のすてきな人情と風情だけは損なわないようにしてほしい。もっとも、その積極性こそが村上水軍以来の島の伝統的精神だだと言われれば返す言葉もないのだが……。
  生口島から多々羅大橋を渡って大三島にはいる頃には瀬戸内の陽射はますます強烈になってきた。直射日光のあたるところの気温は予想気温の三十七度をとっくに超えているはずだった。この大三島には大山祇(おおやまづみ)神社という有名な古社がある。この由緒ある神社に古来奉納されてきた鎧兜などの武具類は国宝や重要文化財の指定をうけているものがほとんどで、たいていの日本史の教科書や資料集などにはそれらの写真が掲載されている。目的地までまだかなりの距離があるのでそうそう時間はとれそうになかったが、ついでだから大山祇神社にだけは参拝して行こうということになった。むろん、厚い信仰心のゆえにというのではなく、ひとえに物見高さのゆえである。
  自動車道をおりてから大三島の西海岸にある宮浦という集落方面に向かって二、三十分ほど走ると、大山祇神社近くのだだっ広い公営駐車場に着いた。よく整備された広大な駐車場なのだが、なぜか妙にガランとしていて車の影はほとんど見当たらない。八月の終わりという時期のせいもあったのだろうが、もしかしたら観光客の増加を見込んで過剰整備した結果だったのかもしれない。そんなことを考えながら車から降りると、途端に猛烈な熱気が襲ってきた。
  燦々と降り注ぐ陽光によって眩いばかりに照らし出されていたが、よく手入れの行き届いた大山祇神社の広い境内は意外なほどに静かだった。さすが格式のある神社だけあって境内全体に落着いた雰囲気が漂っている。拝殿前の内庭へと通じる神門の手前には天然記念物の大楠があった。どうやら皇紀年号にかこつけたものらしい二千六百年という樹齢の説明を額面通りに信用する気にはなれなかったが、それはともかく、こんな見事な楠を目にするのは久しぶりである。しばしその楠の大木のまえで足を止めたあと、我々は神門をくぐり抜け、奥のほうにある拝殿のほうへと歩を運んだ。

「マセマティック放浪記」
2000年10月18日

大三島から愛媛県広見町へ

  <大山祇神社と文化財>
  大山祇神社の拝殿とその奥にある本殿は、さすがに歴史の重みを感じさせる壮麗な造りになっていた。屋は檜皮葺き、建物の外側が丹塗りの本殿は三間社流造りと呼ばれる構造になっていて、この種の造りをもつ神社の代表格といってよい。もともとの社殿は元享二年(一三二二年)に兵火にかかって焼失し、天授四年(一三七八年)から百年ほどかけて徐々に再建されたのが現在の社殿であるという。祭神は大山積(祇)大神一座とかいって天照大神の兄神筋にあたるのだそうだが、そのへんのややこしい話になると、我々は「はいそうでございますか」と他人事のように呟きながら半ば思考停止状態に陥るしかない。
  信仰心薄い身にもかかわらず一応拝殿前で表敬の礼をすませたあと、内庭の左手の門を通って神社本殿の裏側にまわってみた。日本総鎮守と謳うからには立派な鎮守の森があるのだろうと思ったからである。予想にたがわず神社の裏手には見事な鎮守の森が広がっていた。天を突かんばかりの楠の大木が多数立ち並び、俺が盟主だと言わんばかりに互いにその存在を競い誇示し合っている。また、それらの樹間は各種の照葉樹系潅木の深い茂みになっている。
  たしかにそこには、近代化した社会からは忘れられて久しい、ある種の不思議な気配の漂う空間が存在していた。そして、まるでその気配にいざなわれでもするかのようにして、私の脳裏には幼少期に駆け巡った村の八幡神社の境内やそれを取り囲むようにして聳える楠、白樫、タブ、アコウなどの大木の想い出が甦ってきた。思えば、それらの木々によじ登ったり、隠れたり、雨宿りしたり、木の実をもぎ取ったりして過ごすなかで私の感性や探究心は育み培われてきたのである。
  鎮守の森を包み流れる緑の息吹にしばし身を委ねたあと、我々は、境内右手脇にある紫陽殿、国宝館、海事博物館の三館をめぐってみることにした。天蓋のある通路でつながれ一続きになっている紫陽殿と国宝館には、国宝ならびに重要文化財の鎧、兜、刀剣類などがおびただしい数展示されていた。源義経奉納の赤糸威鎧、源頼朝奉納の紫綾威鎧、河野通信奉納の紺糸威鎧兜、護良親王奉納の牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵といった武具類はすべて国宝に指定されている。時を経て色こそ褪せてきているが、素人目にも素晴らしいそれらの精巧な造りはなどさすがに国宝ならではのことだと思われた。武具ではないが、斎明天皇が奉納したという同じく国宝の禽獣葡萄鏡なども展示されていた。これまた社会の教科書などでおなじみの鏡である。
  重要文化財の鎧兜となると展示されているものだけでもゆうに数十体にのぼり、同じく重文の各種刀剣類にいたってはその数をかぞえるのもおっくうなくらいである。それらの中には、鎮西八郎為朝奉納の赤漆塗重藤弓、木曾義仲奉納の薫紫韋威鎧、平重盛奉納の螺鈿飾太刀、武蔵坊弁慶奉納の薙刀といったようなものも含まれている。どこまで事実の裏付けがあるのかは知るよしもないが、歴史上において敵味方になって戦った人物たちのいずれ劣らぬ奉納品が一堂に陳列されているところなどは、この神社ならではのことなのだろう。源義経や楠正成を討つのに用いられたとかいう(事実のほどについてはとても責任もてそうにない)大森彦七所用の国宝の太刀などというしろものまであった。
  実際に使われたものだという大太刀や薙刀類は、想像していた以上に長く大きく見るからに重そうで、ほんとうにこんなものを振り回して戦うことのできる体力の持ち主がいたのだろうかと首を傾げたくなるほどだった。戦いのさなか敵の乗る馬の脚を払うのに二人がかりで用いたとかいう大太刀なども展示されていたが、走行中にこんな特殊な武具で脚を狙われた馬もたまったものではなかったろう。特別に作った奉納品ということもあったのかもしれないが、源為朝奉納と伝えられる重藤の弓などは、スーパーマンでもないかぎりこんなものを引くことはできないだろうと思われるほどに頑丈そうなしろものだった。
  だが、それ以上に仰天したのは国宝館の入り口近くに大きく展示されていた大山祇神社宮司一族の系図だった。天照大神からはじまり神武天皇を経て現在の宮司一族にまで続いているらしいその系図を見て、我々はただもう天晴れとしか言いようのない思いになった。ある 一族や特定の集団が大真面目にその権威と存在の絶対的な裏付けを求めようとするときに、意図せずしてしばしば起こりうるこれは最高のギャグである。
 海事博物館のほうに足を運んでみると、こちらのほうには魚類標本、鉱物標本、考古学関係標本、船舶関係資料などがいろいろと展示されていた。葉山沖で採取された昭和天皇ゆかりの海洋生物標本や研究資料などがはるばるこの海事資料館にまで運ばれ収蔵されているのも意外ではあった。個々の展示物はそれなりに立派なものだし、その意義も理解することはできるのだが、私には一つだけどうにも気になることがあった。大山祇神社全体の雰囲気やその歴史的背景、紫陽殿ならびに国宝館などの展示物などを考える時、この新設の海事博物館の存在だけはなんともちぐはぐなものに思われてならなかったからである。
 海に縁があり村上水軍との関係も深い神社だから、海事博物館があってもおかしくなかろうという考え方もあったのだろうし、一定の見学者数を確保するには旧来の神社関係施設とセットにしたほうがよいなど、他にも諸々の事情があってのことではあったろうが、せめてもう少し離れたところに建てるなどの配慮くらいはなされてもよかったのではなかろうか。古式ゆかしい壮麗な造りの拝殿に参拝し、深々した鎮守の森をめぐり、国宝や重文の鎧兜や刀剣類を眺めながら古の武将たちの盛衰に遠く想いを馳せたあと、近代的な造りの博物館にやってきていきなり鯨のペニスに象徴されるような展示物を見せられる側の身にもなってほしい。
 
  大山祇神社をあとにすると、再び西瀬戸自動車道に戻り、芸予諸島のなかの重要な瀬戸の一つである鼻栗瀬戸を跨ぐ大三島橋を渡った。行く手の伯方島の眺めや鼻栗瀬戸周辺の景観も実に素晴らしい。先を急ぐこともあって伯方島はいっきに通過し、伯方・大島大橋を渡って大島に入ると四国本土の波方町や今治市はもうすぐだった。大島と四国本土の間には、古来、芸予諸島を抜ける際の最重要ルートであった来島海峡、すなわち、来島瀬戸が横たわっている。この来島瀬戸に架る来島大橋は西瀬戸自動車道に架る七橋中最長の橋である。左右の眼下の雄大な瀬戸の眺望を楽しみながら来島大橋を渡り終えた我々は、四国本土側に設けられた来島海峡展望所に車を駐めた。
  いまにも肌が焼けつきそうなほどに強烈な陽射を浴びて、来島瀬戸は群青色に輝いていた。そして、青潮を湛えたその水路の中央を、速度を落とした船がときおりものうげに通り過ぎていく。瀬戸の向こうには先ほど通過してきた大島やその向こうの大三島などの島影が望まれた。この来島瀬戸の水路中には数個の小島が散在していて、なかほどにある馬島には来島大橋の橋脚が設置されている。また、我々の立っている展望所からは見えないが、今治市の北に位置する波方町の瀬戸側には良港を形成する細長い入江があって、ちょうどその出口付近に、通常のドライブマップなどでは識別するのも困難なほどに小さな米粒状の島が浮かんでいる。これこそが来島村上水軍の根拠地になっていた「来島」なのである。意外なほどに小さな島だが瀬戸の最要所に位置する要害の地でもあったので、古来、伊予衆が本拠を構えてきた。来島瀬戸という名称もむろんその島の名に由来するものだった。
  <四万十川の源流地帯、愛媛県広見町>
  瀬戸内島なみ海道に別れを告げた我々は今治市と東予市をいっきに通り抜け、松山自動車道に入ると西に向かって猛スピードで走り出した。かなり道草を食ったせいで予定の時刻よりも遅れている。松山城を右手はるかに望みながら松山市南方を通過、伊予市、内子町を経て松山自動車道の終点大洲に至り、そこからは国道五十六号沿いに宇和島方面へと南下した。助手席では三嶋さんが目指す愛媛県広見町の役場関係者と携帯電話で連絡をとっている。島なみ海道の途中にある島などに立寄った際、ずいぶんと道に迷ったから到着が予定よりも大幅に遅れるだろうなどと三嶋さんは先方に伝えているが、道に迷った覚えなど実のところはさらさらない。すべては道草のゆえである。
  宇和町を過ぎ、宇和島市に入る少し手前で国道五十六号から左に分岐する道に入った。そして東へ向かって二十分ほど走り小さな峠を越えてからさらにしばらくアクセルを踏み続けると、山並みに大きく取り囲まれるようにしてこころもち傾斜した平地の広がる一帯にでた。そして、そのあたりがほかでもない今回の旅の目的地、愛媛県広見町だった。道路の左右には静かな風情をたたえた農山村風景が広がっている。ハンドルを握りながらちょっとあたりを見回しただけではあったが、なかなかに奥懐の深そうな感じのする町だった。
  まずは広見町役場を訪ねる手筈になっていたので役場のあるという近永集落に向かって車を走らせた。ところが肝心の広見町役場らしい建物がなかなか見つからない。地方の町村役場というと主要道からほどない場所にすぐそれとわかるたたずまいで建っているのが普通なのだが、広見町の場合にはどうもそうではないらしい。過去何度も広見町役場に来ている三嶋さんならすぐにわかるはずだと思ったのだが、自分では車を運転することのないせいもあってだろうか、そのナビゲーションはさっぱり要領を得ない。海上においてなら伊予の海賊衆なみの能力を発揮する三嶋さんの体内羅針盤も、地上にあがってしまった途端に、飲み屋の発する強力な磁力線の影響でめちゃくちゃに狂ってしまうらしいのだ。た だ、そんな状態になっても飲み屋の方向だけはちゃんとわかるらしいからなんとも不思議なものである。
  結局は広見町農林課の農政係長、高田達也さん自らが迎えに来てくださるということになった。そして、ほどなく現れた高田さんの車に先導されて、我々は集落の少し奥まったところにある広見町役場に到着した。広見町役場では、三嶋さんが懇意にしているという入舩秀一農林課長が、がっしりした身体の奥底からじわっと湧き上がるような温もりのある笑顔でもって我々二人を出迎えてくれた。物静かな高田さんの上司にあたる入舩さんは見るからに豪胆かつエネルギッシュな感じの人物で、抜群の行動力と決断力、さらには瑣末事にこだわらず大局的な立場から人を育て導くことのできる包容力の持ち主に違いないとお見受けした。こういう人物が一人でもいると、その行政組織体はおのずから活性化し、町の発展にとっても大変に有意義なことだろう。
  応接室で一通り挨拶を済ませたあと、私は入舩さんから広見町についての簡単なガイダンスをうてみけた。この町の現在の人口はおよそ一万一千五百人で、世帯数は四千二百五十戸ほどであるという。従来からの稲作や畑作などの農業のほか、酪農や養豚、林業、農産物や木材の加工などによって町に住む人々の生活は支えられてきているようだ。
  高知県の中村市の河口から土佐湾に注ぐ四万十川は、同県の西土佐村江川崎付近で左右二手に大きく分岐する。そのうち左手の支流のほうは県境を越えて高知県から愛媛県に入り、松野町を経て広見町にいたっている。そして、その大きな支流は広見町内に入ると広見川、三間川、奈良川の三つに分かれ、さらにそれら三つの川は上流に向かうにつれてそれぞれ幾筋もの支流に細かく分岐し、山間部の谷奥へと消えていく。要するに、広見町とは四万十川の北西側支流の源流域に位置する町なのだ。清流で名高い四万十川の源流地帯だから、当然町内を流れる大小の川や渓流の水も澄み切っており、それらの流域一帯に広がる森や林もこのうえなく美しい。
  この地に伝わる伊予神楽は国指定の重要無形民俗文化財になっているという。「男子四国神楽」とも呼ばれるこの伝統神楽は鎌倉時代以来のものといわれ、四国神楽の中心的存在でもあるらしい。神職のみによって演じられるこの神楽の全演目は三十五番にものぼり、本来ならば舞い終えるのに一晩を要するというのだが、現在では省略されて三時間ほどで終わってしまうそうである。
  愛媛県県指定の有形民俗文化財の鬼北文楽も広見町において長年受け継がれてきている伝統芸能のひとつである。江戸初期の三名座の一つとして知られ、四百年もの伝統を誇っていた淡路の人形浄瑠璃、上村平太夫一座は明治時代にこの地を訪れたとき、彼らが使用していた名工作の人形の頭や衣装多数をその芸ともどもこの地の人々に伝授した。それが鬼北文楽のはじまりなのだという。現在もその由緒ある伝統芸能は地元の人々によって代々伝承されている。
  広見川の支流大宿川沿いにある清水集落に長年伝わる五つ鹿踊りも珍しい。角の生えた大きな鹿の面をかぶり全身を古式豊かな装束で覆った五人の舞い手が演じるこの鹿踊るは、一人立ち風流獅子舞の系統に属する舞なのだそうだ。遠い狩猟時代に鹿や猪などの豊漁を祈った祭祀行事から発展したものだとも、宇和島に移封された伊達秀宗が仙台地方に伝わる鹿踊りを持ち込み伝えたものだとも言われている。
  新しいところでは和太鼓集団の魁(さきがけ)がある。結成されてからまだ十三年ほどだというが、団員たちは近年めきめき腕をあげるいっぽうでますます和太鼓にのめり込み、全国大会でも三位になるなど、伝統が浅い割には大変な活躍ぶりを示すようになったようである。
  時期的な問題もあって伊予神楽や鬼北文楽、五つ鹿踊りといったこの地の伝統芸能を目にすることができないのは残念だったが、この広見町にはるばるやって来たからには、なにはともあれ、百聞は一見にしかずの精神をもってあちこち訪ね歩いてみるのがベストには違いない。夕刻が迫ってはきていたが、まずはということで町役場所有の大型ワゴンの新車に身を委ねた我々は、入舩さんと高田さんに案内されるまま、広見町南部を流れる奈良川の奥にある成川渓谷方面へと向かうことになったのだった。

「マセマティック放浪記」
2000年10月25日

広見町名物芋炊きの果てに

  <奈良川河川敷のでの芋炊き談義>
  広見町南部を西から東に流れる奈良川沿いの一帯にはかなりの面積の水田が広がっている。どうやらこのへんは鬼北米と呼ばれる地元米の産地であるらしい。成川の集落で左折した車はほどなく渓谷の続く地帯へと差しかかった。車窓の外の雰囲気から察するとその付近から上流の谷筋が成川渓谷のようだった。渇水期には水は伏流となって流れるらしく川床は乾いていたが、長い歳月をかけ水の力によって磨きあげられた川底の岩肌は見るからに艶やかで美しい。
  次第に深くなる渓谷をどんどん奥まで遡るうちに再び水流が現れた。そして、我々の乗る車はそこから先は山道をかねた遊歩道という地点で停止した。大きく平らな岩盤が幾重にも小さな段をなして連綿とつらなる広い川床があって、その上を文字通り滑るようにして澄みきった水が流れている。上流から下流に向かって川床がほどよい傾斜をなしているため、清流が花崗岩質の岩肌をそっと撫でるようにして滑り落ちているのだ。もちろん、この水はそのまま飲んでも差し支えないだろう。私は一人川床に降りたって水流に手を差し入れ、その冷たく爽やかな感触をこころゆくまで楽しんだ。渓谷の両側は檜の巨木や各種の広葉樹の繁り聳える森林に覆われており、それらもまたこの渓谷の美しさを演出する重要な要素の一つにになっている。付近にはキャンプ場も設けられていて、そこで夕餉の準備をしているらしい人影もちらほら見うけられた。
  この成川渓谷を詰めあげたところには高月山という千三百メートルほどの山があって、その山の向こう側には同じく四万十川の小支流である目黒川が流れている。そして、この目黒川の上流にはやはり美しい花崗岩の川床と清流で知られる滑床渓谷があって、成川渓谷と共に南北両側から高月山を挟むかたちになっている。成川渓谷も滑床渓谷も河床を形成する岩質と岩盤の構造がほぼ同じだから、似たような渓谷になっているのだろう。
  我々が車を停めた場所から少し下ったところには広見町営の高月温泉と成川渓谷休養センター(0895-45-2639)があって、宿泊のほかに温泉の日帰り入浴もできるようになっていた。入浴にやってくる町民に混じって我々四人も温泉につかったが、湯加減もよくなかなかに快適でいまにも鼻歌の一つも出てきそうな感じだった。湯船の中に入舩さんと並んですわりながら成川渓谷周辺についていろいろと話を伺ってみたが、意外なことに、かなり温暖そうにみえるこのあたりでも冬場には結構雪が積ることもあるらしかった。成川渓谷周辺では良質の檜材や柚子さらには自然薯なども産出されるということだったが、それらの産物の品質の良さもこの地の特別な地形や気候となにやら関係があるのだろう。成川周辺にかぎらず広見町全域で産出される自然薯は鬼北自然薯といって味と質がとくによいことでも知られているという。
  成川渓谷を後にした我々は再び広見町役場へと戻った。そして、役場のすぐ脇を流れる奈良川の河川敷へと案内された。夕暮れの迫ったその河川敷の一角には大きなシートが何枚も並べ広げられ、広見町役場関係者を中心にした三十人くらいの人々が、この地の名物行事である「芋炊き」を行っているところだった。この芋炊きという行事は八月中旬から九月末頃までの間にこの河川敷に地元の人々が思いおもいに集まって催すのだそうで、もっとも盛り上がるのは九月半ばの頃らしい。我々が広見町を訪ねたのは八月下旬の平日のことだったから、この日芋炊きをやっているのは役場関係の人々のグループ一組だけだった。どうやら三嶋さんと私がまたまやって来ているというので、急遽この日の夕方に芋炊きをやろうということになったらしい。
  入舩さんによる簡単な紹介が終わったあと、我々二人もそのなかに加えてもらった。ぐつぐつと煮たつ目の前の鍋からはなにやら美味そうなかおりが漂ってきている。三嶋さんのほうはいっきにアルコールシャワーの世界へと突入していったが、アルコールシャワーにあまり耐性のない私のほうの関心は、もっぱら芋炊きのという行事名のもとにもなった鍋の中身のほうへと向けられた。
  私は企画調整課所属の岩本純子さんという感じのいい中年女性と隣合わせになった。この岩本さんが小皿にのせてまっさきに出してくれたのは、茹で上がった一匹の美味そうなカニだった。この一帯の清流に多数生息するモクズガニという川ガニらしい。甲羅をはがしちょっと黄色みを帯びた身を口にすると想像以上に美味であった。小振りのカニだが味付けもしっかりしているせいで、細めの足をかじっても口の中にじわっとうまみがしみだしてくる。時期的にはもう少し先のほうが身の入りも味もよくなるとのことだったが、初めて口にする者にとっては十分なうまさだった。
  岩本さんが次に取り皿にのせて差し出してくれたのは、芋炊きの真打ともいうべき、サトイモ、コンニャク、タマゴ、カシワ、アツアゲなどの煮物だった。ベースになるのは地元でとれたばかりの新鮮なサトイモと地鶏の肉で、それに皆が持ち寄ったやはり地元産の各種自然食材を加え、その場でじっくりと煮込む。地鶏はよいダシが十分にでる老鶏をつかうのだという。もともとは、地元の人々が各々有り合わせの食材をもって河川敷に集まり、それらを煮込んでつくった熱々の鍋をつつきながら酒を酌み交わし親睦をはかる行事だったようだが、近年は観光客をはじめとする町外の人々の参加も目立つようになってきているらしい。
  これまた地元産の各種天然調味料をふんだんに使って煮込まれたサトイモ、コンニャク、アツアゲ、タマゴ、そして地鶏の肉は、いずれ劣らぬうまさであった。その味が抜群に素晴らしかったのは、隠し味としていまひとつ広見町の人々の「人情」という特別調味料が配されていたせいでもあったろう。三嶋さんはとみると、もうすっかり出来上がっている感じである。しらふ時にはそれなりに複雑な三嶋さんの頭の中の人生地図もいまはトポロジイ図形なみに歪み変化し単純化されて、酒印マーク一個のみがかろうじて明滅するだけの状態になっているに違いない。
  宵闇が深まるにつれて芋炊きの場は大いに盛り上がり、私は企画調整課長の芝田正文さんのほか、広見町農業公社の設立に関わった高田洋一さん、さらには何人かの若手職員の人たちと共にいろいろな話をすることができた。そのなかで特に心に残ったのは広見町役場の人たちが皆なかなかの識者揃いで、創造力も知的好奇心も学習意欲も大変に旺盛なように見えることだった。また、彼らが真剣に広見町の将来の発展を考え、真に一般町民と一体化した行政の展開を心がけるように努めているらしいこともたいへん印象的だった。この町の具体的な生産事業の展開状況については翌日見学させてもらうことになっていたが、その背景にこれら役場職員の強力なリーダーシップが存在しているだろうことは明かだった。
  豊かな自然と営農環境に恵まれたこの広見町でも過疎化が進み、近年の農林業従事者数の減少は著しいという。役場に立寄った時にもらった資料中の産業統計表は如実にその激減ぶりを物語っていた。農林水産業などの一次産業従事者数は、加工業やサービス業などに就いている二次・三次産業従事者を合わせた全産業従事者数の五分の一強に過ぎない。芝田さんや高田さんの話によると、町内で百パーセント営農で生計を立てている農家はいまではわずか数戸なのだという。統計的には農林水産業従事者の数は千二百人を超えているがほとんどが兼業であるらしい。
  この町の恵まれた営農環境からすれば、農業によって一戸につき最低でも年間三百万程度の純益は見込めるのだそうだ。都市部と違って住居費や生活費はほとんどかからないから、その気になればそれなりに豊かで安定した生活を送ることができるはずだという。地元で産する肉類や野菜類はむろん、漁港のある宇和島までは車でひと走りだから魚介類だって新鮮で安いものがいくらでも手に入る。したがってとても生活はしやすい。だが、いずこも同じで、いったん離農した人が再び郷里に戻って農業に復帰した例はこれまでのところほとんどなく、農業人口は過去減少の一途をたどってきたのだという。
  しかし、いま、入舩さんや芝田さんや高田さんらをはじめとする広見町の人々は、町内の豊かな自然環境を現代的観点から十分に活用することのできる時代に即した新たな農業の展開を立案し、積極的に推進することを考えている。バブルの時代が完全に昔日のものとなり都市集中型の経済や文化の前途に大きな翳りが見えはじめた現在、地方文化や地域経済の復権は絶対に必要かつ必然のことだから、それを先読みした農政や文化行政の実現を目指すのは自分たちの責務だと彼らは熱く弁じ、聞き手の私に強く激しく訴えかけてきた。実際、彼らは、いま少し時代が移れば自然に恵まれた広見町での農業生活の素晴らしさを再認識する人々が増えてくるだろうと確信しているようでもあった。近年、都会生活を捨て田舎暮らしを始める人があとをたたないが、そんな人々にとってはこの愛媛県広見町などは理想的な移住先の候補の一つではないかと思われた。
  この芋炊きの席で初めてその存在を知ったのだが、広見町に設立された社団法人広見町農業公社は全国的にもきわめてユニークな存在といってよいだろう。この公社は、過疎化や農業従事者の高齢化に伴う生産活動の停滞や優良農地の耕作放棄、農業後継者不足といった問題の解消、農業機械への過剰設備投資による経営危機農家の救済、食糧の安定的な生産供給態勢の維持、さらには自然環境や生態系の保護などを目指して設立された。具体的には、農作業の受委託や農地の管理保全の代行、農業後継者の育成と研修、農業施設および農業機械の貸し付け、地域資源を活用した農業特産品の開発と販売、都市と農林業地域との交流促進といったような事業をおこなっている。モデルケースとも言うべきこの公社の事業が成功を収めれば、同種の公社の設立と活動が全国的に普及していくことになるだろう。
  芋炊きの由来について始まり広見町の農業問題へと移った我々の話は、最後には数学や宇宙論の世界の話題にまで発展していった。しかも、皆が皆、一昔前の未来を夢見る少年たちのようにこのうえなく熱意に満ちみちていた。ムチャクチャと言えばこれほどムチャクチャな話もなかったろうが、これこそが芋炊きというこの地ならではの親睦行事の醍醐味とも言うべきであったのだろう。私自身この芋炊き行事の現場にやってくるまでは、まさか四万十川源流域の河川敷で鍋料理をつつきながら数学や宇宙科学の話をすることになろうとは夢にも思っていなかったから、なんとも不思議な気分であった。ただ、よくよく考えてみると、そんな熱意と思考の柔軟さが町役場の人々の中にあればこそ、この町は他の町村にはあまり類例を見ないような独自の事業展開ができているのではあろう。

  <広見町の夜は更けて>
  芋炊きの席をあとにした我々は、こんどは広見町北部、広見川沿いの集落にある「吟ちゃん」という小料理屋に場所を移し連チャンの飲み会をやることになった。もっとも、我々とはいっても飲み会で地元酒豪たちとの決闘の前面に立つのは三嶋さんだから、私のほうはその陰に隠れて出される料理などに舌鼓を打っておればよいという寸法だった。アルコールの回っていない私はいったん自分の車に戻り、宇和島市から芋炊きの場に駆けつけてきた上田さんというこれまた三嶋さんの知人のナビゲーションにしたがって目指す小料理屋に移動した。
  東京理科大出身で現在宇和島市で製函業を営んでいるというこの上田さんもなかなかにユニークな人物で、広見町の人々との交流もずいぶんと深いようだった。あとになってわかったのだが、すっかり暗くなっていたにもかかわらず、いつのまにか初対面の私の車のタイヤを調べ、その摩滅状態を厳しくチェックしていたらしい。そのなんとも風変わりな視点の取り方にこちらは唯々驚き恐れ入るばかりであった。すっかり正体のなくなっている三嶋さんの四国でのネットワークがどうなっているのかは知らないが、まさに多士済々済というほかはない。
  小料理屋「吟ちゃん」の親父さんもまた一本筋の通ったなかなかの人物という感じがした。独自の審美眼と人生観を奥に秘めたこの親父さんも、どうやら三嶋洋ならびに広見町人材ネットワークの有力メンバーであるらしかった。親父さんが生簀の中から取り出したばかりのウナギをさばき、心を込めて作ってくれた蒲焼は美味いばかりでなく、なんともいえない遠く懐かしい味がした。鹿児島の離島での少年時代、ミミズやドジョウを餌にしてウナギの穴釣りをさんざんやり、釣った獲物を自分でさばいて食べていた私は、一瞬昔にワープしたような気分になったからである。
  三嶋さんが入舩さんらと底無しの飲み比べを続けている間、私は隣に座った企画調整課長の芝田さんと話し込んでいた。昔私が関わっていたことのあるコンピュータ教育や数学教育がらみの専門的な事柄などを先方から問い求められるままに話していたのだが、芝田さんの熱意と感性の鋭さには内心関心するばかりだった。どちらかというと理知的で抑制のきいたタイプの芝田さんはダイナミックで人情家タイプの入舩さんとは対称的な存在で、よきライバルとも言えるこのお二人の課長さんは、広見町の行政を推進する実質的な両輪に違いないという感じがしてならなかった。
  最後に我々は翌朝訪ねる予定になっている安森洞という鍾乳洞の近くにある宿泊所に案内された。人里離れた山奥にある広見町所有の広い一軒家だが、三嶋さんも私も自然が豊かで風変わりなところが好みだというわけで、久しく使われていないらしいこの家屋に泊まらされることになったのだった。宿泊所到着後も三嶋さんは広見町の酒豪連相手に夜明けまで続きそうな勢いで酒闘を繰り広げていたが、午前零時が近づく頃にはさすがに疲れがきたとみえ、そこでようやくお開きとなった。
  三嶋さんはすでに前後不覚の状態である。我々二人だけを残して広見町の関係者が皆引き揚げていったあと、私は押入れから適当に布団を引っ張り出して敷き、まずはそこに三嶋さんを寝かせた。彼はもうこのまま翌朝までは正体なく眠り続けるに違いなかった。自分の布団を敷き終えてから私はいったん屋外に出て裏手にあるトイレに入った。そして用足しを済ませたが、困ったことにどう工夫し何度チャレンジしてみても例のモノが流れ落ちてくれない。長い間誰も使っていない関係で便器の調子が悪いのだ。
  やむなく私はいったんトイレから出て棒切れを探し出し、もう一度便器に近づいて無理やり目の前の物を穴の中に押し込んだ。見かけ上はなんとか格好がついたものの穴は詰まったままだから、もしもこのあと誰かが使おうとしたら途方に暮れることは請け合いである。トイレが二個あったから、朝目覚めた三嶋さんがその被害者になる確率は二分の一ではあったが、それは彼のウン次第とばかりに素知らぬ顔をして放っておくことにした。
  すだく虫の音を聞きながら再び屋内に戻り、歯を磨こうとおもって土間の奥にある流しにいくと、小さなムカデがうごめき、蛾が飛びまわり、蜘蛛が這い回っていた。うーん、なるほどこりゃ確かに自然が豊かだわいなと思いながら、流しの水道の蛇口をひねると排水口の付近でなにやらもの音がするではないか。なんだろうと思って濾過装置部の金蓋をはずして中を覗くと、そこには一匹の大きなトカゲが鎮座ましましていた。人の気配を感じてそこに逃げ込んだはいいものの出るに出られなくなって往生していたところらしい。
  じっとその顔をみつめるとなかなかに愛嬌のある顔をしている。昔おまえの同属の尻尾を切って遊んだことがあるから、その罪滅ぼしにここは俺が助けてやるかと、手掴みにして外に出し逃がしてやった。龍之介の蜘蛛の糸の話ではないけれど、ここでトカゲに恩を売っておいたから、先々たとえ地獄に落ちたとしてもトカゲの尻尾切りの恩恵に預かって、閻魔様の追及の手を逃れることができるかもしれない。そんなことを考えながら歯を磨き終えた私は、旅の疲れを癒やし、明日の見学に備えるべくようやく床に就いたようなわけだった。

「マセマティック放浪記」
2000年11月1日

広見町町新規事業探訪記

  <安森洞そうめん流し>
  翌日も晴天だった。山奥とはいえ、そこは南国四国の日当たりのよい谷の斜面だったから気温は急速に上がり、午前九時頃にはすでに軽く三十度を超えてしまっていた。前夜は暗くて気づかなかったが、我々が泊めてもらった古い造りの無人の集会所風一軒家のすぐ脇には大型水車が一基設置されていた。比較的新しい水車で、一時的に製粉かなにかに使われたあと放置されしまったもののようだった。水路から糸のように細い筋をなして流れ落ちる水の重みに無理やり促されでもするかのように、ギギーッガガーッという音をたててときおり思い出したように回転してる。前夜床に就いたあと、どこからともなく獣の呻き声に似た妙な音が聞こえてくるとは思っていたのだが、どうやらその正体はこの水車の軋む響きであったらしい。
  すぐそばには小さな沢があって、その沢を挟んだ向こう側の斜面はちょっとした竹林になっていた。軽やかなせせらぎの音に誘われて沢におりてみると、冷たく澄んだ水がふんだんに流れているではないか。すぐ近くの安森洞という鍾乳洞から湧き出している水に違いない。子供の頃から様々な湧水や沢水をさんざん飲みつけてきた身だから生水には強い。長年の経験でその水が飲めるかどうかは直観的に判断がつく。さっそくその水に直接口をつけて飲むと実にいい味がした。
  ついでに洗顔をすませ、沢沿いの藪に巣を張った蜘蛛たちとしばし戯れていると、あとから三嶋さんもやってきた。前夜はあれだけ猛烈に飲みまくり、まるで正体がなかったのに一夜明けたらもうケロッとしたものである。この人の肝臓内のアルコール分解処理機能は、ちょっとした化学工場なみの能力を持っているのかもしれない。確率二分の一のトイレのウン問題が一瞬脳裏を掠めはしたが、こんな清流を前にしてするような話ではなかったのでそのことには一切触れなかった。
  案内役の入舩さんと高田さんが現れるまでのあいだ車の片付けをしていた私は、フロントウィンドウ隅のタオルの上に置いてあったチューインガムの塊を捨てようとして指先をのばした。だが、その瞬間、親指と人差し指の先端に焼け火箸にでも触ったときのような猛烈な痛みが走った。慌てて振り払おうとしたが二本の指先に半ば液化して張りついたガムはどうやっても剥げ落ちてくれない。痛みをこらえながら急いで沢に駆け下り、冷水に手を突っ込んで指先を十分に冷やしてやると、ようやく凝固したガム膜を剥ぎ取ることができた。車中でフロントガラス越しに強烈な直射日光を浴びたガムが液状化し、高分子の組成のゆえもあって高温となっていたのに気づかずつまんだ結果がこれであった。幸い温度は高くてもガムの熱容量そのものが小さく、またすぐに水で冷やすことができたため指先は軽い火傷程度で終わったが、大きな塊のガムだったらタダでは済まなかったことだろう。ガムでも火傷を負うことがあると知ったのは貴重な体験でもあった。
  それからほどなく姿を見せた入舩さんと高田さんに案内されて、我々は沢の上流ほどないところにある安森洞ロマン亭へと足を運んだ。御在所山の中腹にあたるこの近くには小規模ではあるが、昔から風穴として知られていた安森鍾乳洞があって、昭和三十四年に鹿間時夫横浜国大教授らによる本格的な調査が行われた。そしてそれ以降、山の中腹の風穴からは三十万年前に棲息していたニホンムカシジカのものと思われる化石をはじめとし、三十一種類、千個にものぼる動物の珍しい化石骨などが発見さた。また、数万年から十万年くらい前の第四氷期の貴重な先史遺跡なども出土し、一時期新聞紙上を賑わせもしたようだ。
  いっぽう、風穴の位置より低い地点にある水穴のほうからは清冽な湧水が流れ出していて、こちらのほうは単に安森洞と呼ばれている。もちろん、上部の風穴の続きで、御在所山の地中深くに眠っているかもしれない鍾乳洞の出口にあたると推定されており、地底のロマンに賭ける地元有志らによって七十メートルほど奥まで試掘されたが、これまでのところ大規模な鍾乳洞の発見にはいたっていない。
  我々が案内されたロマン亭はこの水穴、すなわち安森洞の入口のすぐそばに建っていた。ロマン亭の「ロマン」という三文字には地底のロマンに賭けた地元の人々のひとかたならぬ思いが込められているのだろう。安森洞から絶え間なく湧き出る冷水を利用した風流な「そうめん流し」はこのロマン亭の売り物である。いや、「そうめん流し」のためのロマン亭だと言っても差し支えないだろう。安森洞保存会、安森洞そうめん流しの会々長、岡本知幸さんにいろいろと詳しい説明をしてもらいながら、我々は冷ぞうめんに舌鼓を打つことになった。
  大きなU字形循環式の流路がしつらえられていて、その中を冷たく澄んだ湧きたての清水が流れている。奥の配麺室からその清水に乗って次々と流れ出てくる真っ白で腰の強い麺を箸ですくい、つけ汁につけて食べるのだが、つけ汁の味と薬味がまた絶品ときていた。ユズ、ショウガ、ミョウガ、ネギ、タマネギオロシ、ワサビ、アオジソなどの薬味がふんだんに並べられていて、好きなだけ取って自由に使えるようになっている。この地の特産品でもあるユズの香りと味はとくに素晴らしかった。まだ青いとりたてのユズをまるごと手にし、必要なだけ自分ですりおろして使うのだが、つけ汁にこのユズを入れ、他の薬味を多少加味してそのまま飲むだけでも満足できそうな感じだった。
  四万十川源流のそのまた源流の清水に浸した上質の麺を、地元でとれたての薬味を使って食べるのだから贅沢なことこのうえない。一人前五百円で食べ放題と料金も安い。営業期間は六月二十七日から八月三十一日まで、営業時間は午前十時から午後五時までであるという。詳細については、営業期間中はロマン亭(0895-48-0820)に、またそれ以外は広見町役場企画調整課に問い合わせてみるとよいそうだ。

  <独創的な農産物加工品>
  食後、安森洞を見学し終えた我々は、次に広見川の支流、大宿川の中流にある清水という集落に案内された。「もぎたて加工つぼみグループ」という、農産物加工研究および生産販売推進組織の会長、岡本高志さんや、同組織の中心メンバーの山下猛さんらに会って話を聞くためである。広見町では町との協力態勢のもと有志グループの手によって独創的な農産物加工製品がいくつも研究開発され、市販もされているようだ。八十歳を超えてなおかくしゃくとして研究心旺盛な岡本さんは、鬼北山芋研究会々長なども兼務しておられるとのことだった。
  車が清水集落に近づくと、オレンジと黄の中間色の地色の上に「うこん加工所」と大書された特徴のある看板が眼にとまった。無意識のうちに「こ」の字と「ん」の字を入れ換えて読んでしまった私は、一瞬、いくらなんでもあのシロモノを加工するところじゃないよなと、妙な連想をしてしまった。大型の蘭に似た植物の根を粉末化してできるウコンは黄色系染料として知られ、ビルマ僧らが着ている法衣や美術工芸品などを包む時に用いる黄色のウコン布などを染めるのにも用いられる。ただ、色が色だけに話はなんともややこしい。
  ガソリンスタンドに隣接するその「うこん加工所」で、岡本さんやスタンドの経営者でもある山下さん、さらにはあとから現れた愛冶地区ウコン組合の組合長さんなどから農産物加工の苦労話を伺ったのだが、その談話のなかで岡本さんも「あの字を読み間違えて首を傾げる人がよくあるんですよ」と笑っておられた。もしかしたらあの看板には岡本さんたちの遊び心が秘められているのかもしてないと思ったりもした。
  この農産物加工所では地元産のウコン、山芋、トマトなどを原料にした様々な加工食品の研究開発が進められていた。なかでも、高温多湿で日当りのよいところを好むウコンの栽培は広見町の気候や地形に適しており、この地域の特産物の一つになっている。ウコンの薬効は品種や肥料の成分によってかなり異なるとのことで、岡本さんのお薦め品は紫春ウコン粉末だとのことだった。とても八十代には見えない岡本さんの健康の秘密はやはりウコンと四万十川源流の清水なのであろうか。
  栽培されたウコンは、漢方薬としても名高いウコン粉末にするほか、ウコン飴、ウコン入りカレー粉、ウコン入りラーメンなどと、将来の需要を狙って様々な加工活用の試行研究がなされているらしい。変わったところではウコンをスライスし砂糖でじっくりと煮詰め乾燥させたウコン華という加工品などもあった。ウコンの葉や茎のほうは細かく切り刻んで堆肥に混入したり、やはり細かく裁断して乾燥させ入浴剤にするといった利用法も考えられている。
  ウコン飴とウコン華は我々も試食させてもらったが、なかなかの味だった。地元の特産品展示販売所「森の三角ぼうし」では既にそれらは販売されているそうだが、味もよく健康にももってこいとなれば、もうなにもいうことはない。私も地元で売られている紫春ウコン粉末を購入して帰り試用してみたが、他所のウコンに比べよく精製されていて品質も高く、飲みやすい感じだった。ウコンに関心のある方は愛治地区ウコン組合(0895-46-0011)か「森の三角ぼうし(0895-45-3751)」に問い合わせてみるとよいだろう。
  鬼北自然薯として地元で人気のある山芋の加工研究もいろいろと進められているようだった。カルカン饅頭やお好み焼き、各種麺類などの素材としての活用などは従来から試みられてきたものだが、面白かったのは自然薯をすりおろしてそのままの状態で長期保存し、必要量を必要に応じて使えるようにする商品の開発研究の話だった。
  最初はすりおろした自然薯を乾燥粉末化し水を加えて復元を試みてみたが、パサパサしていてとても使い物にならなかったという。そこで、水を加えて復元する際に適量の糖分を加えてみるなどの試行がなされ、それなりにねばりけを復元することはできたのだそうだ。だが、砂糖を入れ過ぎるとこんどは逆にひどくねばってどうにもならない状態になってしまう有様で、その調整が難しく味のほうもいまひとつだったらしい。
  そこで考えられたのが、すりおろした自然薯を真空パックにして液体凍結法という特殊な技術で冷凍保存しそれを解凍する方法だった。実際に実験してみると、ねばりけも味もすりおろした直後の状態とそう大きな変わりはないことがわかったらしい。付属技術や必要設備の問題などもあって完全な商品化までにはまだ時間がかかるというが、おおよその目途はついてきているらしい。実をいうと、この液体凍結法の技術を指導提供しているのがほかならぬ三嶋洋さんである。三嶋さんが研究している冷凍技術は広見町独自の他の重要プロジェクトにも活かされることになっており、それが本来の三嶋さんの役割でもあるのだが、それについては後述する。
 農産物加工商品の一つトマト飴も試食させてもらったが、十分甘くてトマトの酸味などもほとんど感じられず、それがトマトを原料にしたものだとはとても信じられないくらいだった。それにしても、この「もぎたて加工つぼみグループ」の創造力と実践力は実に見上げたものである。進取の精神と独創的気質に満ちみちていたかつての宇和島藩の精神文化の伝統が、いまもこの地には脈々と生き続けているのかもしれない。
  農産物加工品の話が一段落したあと、岡本さんは、清水の集落からまだずっと奥まったところにある自然薯やウコンの栽培地に我々を案内してくれた。はじめに立寄った自然薯畑には栽培種の自然薯が見事になまでに繁り育っていた。野生の自然薯掘りをずいぶんとやったことのある私はその大変さを知っていたので、これだけ茎の太い芋だと完全に掘り出すのは容易なことではないのではないかと岡村さんに尋ねてみた。すると、畑栽培の場合には根を垂直に伸ばさせず、細長いパイプ状の容器を土中に斜めに埋めてその中で成長させるから、掘り出すのは容易だという返事が戻ってきた。うーん、そうか、するとこういう自然薯は「自」の字を「他」の字に置き換えて「他然薯」とでも呼ぶべきなのかななあなどと、妙なことを考えたりもした。
  最後に案内されたウコン畑には、大きな葉を茂らせて多数のウコンが育っていた。ウコンの栽培現場を目にするのは初めてだったが、密生度は思いのほか高く、これだと作付面積がそう広くなくても相当量の生産が可能な感じである。そのためもあってか、一面ウコン畑というような状況ではなかった。愛治地区ウコン組合長さんによると、現在の需要状況では、ちょっと作付を多くするとたちまち過剰生産になってしまいかねないから、ほどほどに生産を控えているのだとのことではあった。
  帰り際、岡本さんに促され、ステビアという小さく細長い植物の葉っぱの先をほんのちょっとだけ噛んでみると、突然口いっぱいに甘味が広がった。砂糖の三百倍の甘さの成分を含む植物なのだそうで、砂糖のかわりにこの植物の葉の粉末を用いた製品をなにか考えたいということでもあった。
  岡本さんがたと別れたあと、我々は広見町の特産品展示販売所「森の三角ぼうし」へと案内された。なかなかに機能的で洒落た造りの販売所で、地場産の各種野菜類をふんだんに置いた生産組合運営の市場なども同じ敷地に設けられている。値段のほうも見るからに安い。観光旅行者のみを目当てにした単なる土産物屋ではなく、町民の日常的な生活とも密接な関係をもてるように店の造りや商品の置き方を配慮してあるところなどはなんとも心憎いというほかない。
  特産品販売展示コーナーのほうもめぐってはみたが、土産物と安価で良質な日用品とがおりまぜられており、販売商品の種類も量も想像以上に多かった。商品の多くに生産者の名前やメッセージが付記されているのも大きな特徴で、どの筋から出されたアイディアなのかは知らないがなかなかに好感がもてた。もちろん、各種のウコン加工品なども販売されており、小瓶入りの紫春ウコン粉末には、さきほどお会いしたばかりの岡村高志さんの名前の記されたものなどもあった。また、木材の産地だけあって各種の木工品なども都会では考えられないような安価で売られており、腰掛けにも物置き台にも調度品にも使えそうな三千円前後の大木の切り株などは、置く場所さえあれば車に積んでもって帰りたいくらいであった。
  店長の松本周作さんによると、この森の三角ぼうしは資本金を森林組合が三分の一、広見町が三分の二出資してできた第三セクター運営の特産品販売店で客筋は町内者と町外者が半々くらいであるという。松本さんに評判のよい特産品は何かと尋ねたところ、ユズと蜂蜜とを主成分にした飲料原液「ゆずの里ロイヤル」、ポン酢醤油「ゆずの里」、四国ならではの原料を用いた「ほんぶし醤油」、チリメンジャコ入りの「いりこ味噌」、鮎入りの「鮎味噌」、小瓶入りウコン粉末などの名があげられた。ゆずの里ロイヤルは私も購入して東京に戻り試飲してみたが、他に類のない味と風味をそなえた珍しい飲み物だった。
  最後に我々が見学したのは広見町のユニークな町おこしプロジェクトの一つ、雉の養殖施設だった。広見町はその地域性を活かし、平成二年頃から全国的にも珍しい雉の養殖事業に取り組んできている。国内の鳥獣保護法などの規制もあって日本産の野生の雉をもとに養殖事業を行うことはできなかったので、広見町は中国産の高麗雉の一種を輸入しそれをもとに養殖事業を展開してきた。一般には入手が難しく高級なイメージのある雉をうまく養殖し大量に出荷できるようになれば、将来的には町の主産業の一つになりうると広見町の事業推進担当者たちは考えたようである。

  <高麗雉の養殖販売プロジェクト>
  入舩さんに伺ったところによると、高麗雉が産卵するのは四月から六月にかけての頃で、雌はその時期に平均七十個程度卵を生むという。町ではすぐにそれらの卵を町営の雛育場に運び特種な構造の大型孵卵器に入れて三十七度の定温で二十日から二十三日くらいのあいだ温める。すると雉の雛が誕生するのだという。雛が孵ったら徐々に温度をさげてやり常温に適応させていく。雛育場の孵卵器も見学させてもらったが、なるほど世の中にはうまく工夫された機器があるものだと妙に関心させられる有様だった。
  孵化した雛は一ヶ月間ほど雛育場で育てられ、そのあと一羽五百円で地元の各農家へと引き渡される。個々の農家はその雛を半年くらいかけて成鳥に育て上げ、町はそれを一羽二千五百円くらいで買い戻す。そして、適切な加工処理をほどこして販売ルートに乗せる。農家が雉を成鳥にするのに要する飼料費その他は一羽につき千円どまりだというから、その差益が農家の収入になるわけだ。雉は雑食性で草や葉なども食べるから、「広見町特産のウコンと安森洞の清水で育てた美味な雉」といったようなイメージで売り出す戦略もあるかもしれないですねと、入舩さんは笑っていた。
  雉がもっともおいしいのは一月から二月頃なのだそうで、その時期になると繁殖用の成鳥以外はすべて処理し、最低でも一年間は味が変わらないように冷凍保存するのだという。わずか一年の命の雉のことを思うとちょっと可哀想な気もしないではないが、食材となっているこの世の中の動物の大半がみな似たような運命をたどっているわけだから、それは仕方のないことだろう。
  生育中の雉の幼鳥や、この時期まで特別に飼われている生後一年以上の成鳥などを見せてもらったが、精悍な顔をした雉たちは金網の張られたゲージ内を所狭しと走り回っていた。足ががっしりしていて、まるでダチョウを極度に小型化しすこしスリムにしたような感じである。顔つきからして相当に気性の激しそうな鳥だから仲間同士の喧嘩も絶えないようで、突つかれて胸や背中の羽根があちこち抜け落ちてしまっているものもある。畑地などに育成用ゲージを設けるような場合には、イタチが土を掘って侵入し雉を襲うのを防ぐため、ゲージの基底部をしっかりと固める必要があるという。
  たまたま見学した大きな飼育用ゲージの周辺は深々と雑草の繁る草地になっていたが、相当な広さのあるゲージ内にはまったく草が生えておらず、乾燥した地肌がそのまま剥き出しになっている。どうやら雉どもが雑草を一本残らず食べ尽くしてしまったためらしい。試しに足元の雑草を一掴みだけ抜き取って金網の隙間から放り込んでみると、大急ぎで駆けよってきた雉の何羽かがそれらをすぐに食べてしまった。
  現在はまだ雉の大量生産および冷凍加工処理プロジェクトが本格的に稼働していないので年間二、三千羽の販売実績にとどまっているようだが、近いうちに販売ルートを拡大し、何万羽もの雉の生産出荷をおこなう計画なのだという。どうやら、「雉の町」として広見町を全国的に売り出す戦略を入舩さんらは立ててもいるらしいのだ。そのため、雉の解体から冷凍処理までを一貫して効率よくおこなう工場をいま町内に建設中で、その設計にも今回同行の三嶋さんは関わっているというわけだ。高松にある地元のシンクタンク、四国総合研究所と協力し、いま三嶋さんがとくに力を注いでいるのは雉の冷凍保存工程を完全なものにすることであるらしい。雉肉を最高の味の状態で長期間冷凍保存するためには、その肉質の特殊性に付随する高度な技術的問題の解決が必要であったようなのだが、液体凍結法という特殊技術の導入し実験を繰り返した結果、無事問題をクリアする目途が立ったのだという。
  試験的に冷凍処理された雉肉はレシピ付きですでに広見町で販売されており、同町のグリンファーム安森(0895-48-0136)などに注文すれば郵便小包で送ってもらえる。私も三嶋さんを通じて東京で広見町産の雉を入手し、雉鍋にして食べてみたことがあるが、大変に美味であった。皇室などには昔から特別な雉料理が伝わっているのだそうであるが、これまで我々一般庶民にとっては雉料理はあまり縁のないものであった。鶏などに比べてまだ単価が高いとはいっても、雉料理が一般家庭の食卓を賑わすことになるとすれば、それは喜ぶべきことである。
  一通り町内の観光スポットや産業施設を見学し終え、入舩さんと高田さんに別れを告げて広見町をあとにする頃には、あれほど強烈だった太陽も光を弱め、大きく西の空へと傾いていた。短い滞在ではあったが、広見町に住む人々との出逢いの一つひとつはどれも大変心に残るものであった。豊かな自然と人情に包まれ、それでいて時代を忘れぬ独創と進取の精神をそなえもった愛媛県広見町の発展を祈り再訪を約しながら、私は宇和島方面へむかっておもむろに車のハンドルを切ったのだった。

「マセマティック放浪記」
2000年11月8日

素顔の川畠成道さんを訪ねて

  九月初旬の昼下がりのこと、東京三鷹市深大寺の閑静な住宅街に、ヴァイオリニストの川畠成道さんをお訪ねした。前日にコンサートのあった名古屋から戻ったばかりのうえに、ほどなく迫った札幌でのコンサートに備えて練習に入らなければならないという時期ではあったが、川畠さんは御両親の正雄さん麗子さん共々、きわめて私的なこの日の訪問を快く受け入れてくださった。しかも、当初は二、三時間ほどでおいとまするつもりでいたにもかかわらず、川畠家の皆さんのご好意もあって、結局、同行の私の後輩共々、夜十一時頃まで延々と話し込む結果になってしまった。
  成道さんの父君正雄さんと私には鹿児島に共通の知人がある。正雄さんとは幼なじみのその知人を介してヴァイオリニスト川畠成道さんの存在を知ったようなわけだったが、その魔術的な弦の響きに感動してからというもの、私は熱烈な川畠ファンになってしまった。そしていまでは紹介者である鹿児島の知人を差し置いて川畠家の皆さんには大変懇意にしていただいている。府中の我が家から川畠家までは車で二十分たらずなので、私が先方に伺うのにもほとんど時間はかからない。
  いまや川畠伝説ともなりつつある成道さんの経歴や輝かしい業績については各種メディアで既に繰り返し紹介されているし、私自身も以前にこのコラムで筆を執ったことがあるから、あらためてそれらの事柄に詳しく触れることはしない。ここでは、音楽にほとんど無知な人間のゲリラ的訪問によって得られた成果(?)をもとに、二、三週にわたって成道さんをはじめとする川畠家の皆さんの素顔の一端を紹介してみようと思う。あくまでも「素顔の一端」で「全貌」ではないから、その点はあらかじめお断りしておきたい。
  この日川畠家の門前に立ってチャイムを鳴らすと、成道さんとご両親の正雄さん麗子さんが揃って玄関に現れ、我々二人を温かく迎え入れてくださった。我々が通された二階の間は、成道さんや、やはり芸大出のヴァイオリニストである正雄さんが練習に使っておられる部屋だった。お二人の練習風景などが想像できてなんとも嬉しいかぎりではあったが、この部屋を客の我々が占領している間、成道さんは本格的な練習ができないとことになってしまう。ちょっと心配になってきたのでその点を確認すると、グランドピアノを置いてある別室が階下にあり、そこでも練習できるから気遣いはいらないとのことであった。
  成道さんの隣に座った私は、それを幸いにとばかりに、音楽には必ずしも関係のない愚問のかぎりをこの天才ヴァイオリニストに次々とぶつけてみることにした。また、正雄さんと麗子さんのお二人にも遠慮なく不躾な質問をさせてもらうつもりでいた。このへんはまあ、厚顔無知の鎧を纏った身のほど知らずの音楽音痴人間の強みとでもいうしかないだろう。
  まっさきに食べ物の好みについて尋ねると、チャレンジ精神が旺盛だからなんでも食べるようにしているが、やはり洋食などより和食のほうが美味しいと思うとのことだった。成道さんの活動拠点が置かれているイギリスは、昔から一般的にあまり美食にこだわらないお国柄だから、そのぶんよけいにそんな思いがするのかもしれない。成道さんの英国滞在時、常に生活を共にしているお母さんの麗子さんは、米などをはじめとする日本食の食材を求めてロンドン市内のかなり離れたところまで買い物に出かけることが多いらしい。「数キロの米のほかに他の食材や生活用品を合わせて買い込み、バスに乗って持ち帰るのですから、そりゃあ逞しくもなりますよ」と麗子さんは笑っておられた。麗子さんは、楽曲の譜面を直接に読み取ることの困難な成道さんの暗譜作業をピアノを弾いて手伝うかたわら、異郷の地での日常生活に欠かせない雑務のすべてをもこなしておられるわけである。
  まだ八歳だった成道さんが不慮の薬害事故に遭遇してからここにいたるまでの麗子さんの辛苦の道のりは想像を絶するものであったようだが、そんな昔の苦労の陰などどこにも感じさせないとても気さくで素敵な方である。知性と強い信念を内に秘めておられるにもかかわらず、まったく飾り気のない庶民的な感じの方だと書かせてもらったほうがよいかも知れない。すっかり成長した成道さんを、一定の距離をおいて冷静に見つめておられるのも大変印象的だった。成道さんのリサイタルなどではいつも、正雄さんも麗子さんもまったく目立たない格好をして招待客などとは離れた会場の片隅にそっと座って聴いておられる。ごく普通の生活感覚を大切にし、個々のお子さんの自主性を尊重するというのが昔からの川畠家の教育方針だったようで、そもそも、不慮の薬害事故などがなければ成道さんを音楽家なんかにするつもりはなかったのだという。十歳まで成道さんに楽器をもたせたことは一度もなかったし、実際、二人の弟さんがたは音楽とはまるで無縁の道を歩んでおられるようである。

 「日本食が食べられるというお店に入って味噌汁が出てきたところまではいいんですが、その味噌汁をすっかり飲み干すまでは御飯をはじめ次の料理が出てこないんですよ。ミソ・スープだから西洋料理のスープ並みに綺麗に飲み干してからでないと次のディッシュを出してやらないということなんでしょうが……」などと、イギリスでの食生活まつわるエピソードの一端を苦笑まじりに語ってくれる成道さんは実に快活そのもので、話はどんどん弾んでいった。
  一流の音楽家に向かって、いまさら、「どんな音楽がお好きですか?」もないもんだが、そんな愚問にも成道さんはにこやかに応じてくれた。どんな音楽であってもそれぞれに固有の素晴らしさが秘められており、折々の人生のなかでそれらに出逢い、感動もし共感もし、またそこから学んだりもしていくわけだから、結局、どんな音楽でもそれなりに好きだということになるんでしょうね、というのが成道さんの答えだった。ジャズやポップスなどを好んで聴いたりすることもあるらしい。
  どの作曲家の曲が好きですかという問いかけを受けることは常のことであるらしいが、同じ作曲家の作品だって感動的なものもあればそうでないものもあるから、一概には答えられないと成道さんは笑う。新たな曲に出逢い、それにチャレンジしていく過程ではじめてその曲の秘めもつ素晴らしさを発見することのほいが多いとのことで、その意味でも好みの曲は特定されてはいないのだという。四十代、五十代の円熟期を睨み、心技両面におけるいっそうの飛躍を目指して自己練磨中の成道さんにとって、それは当然のことなのだろう。あえて読書になぞらえれば、自己成長につれて書物の好みや特定の本に対する評価や認識が変わってくるのと同じようなもので、日進月歩の日々を送っている成道さんの場合にはとくにその傾向が顕著なのだろう。
  日常的な生活パターンについて尋ねると、ロンドンにいる時などは、大体午前八時頃に起床し、朝食や昼食、休憩などをはさんで午後十時頃までヴァイオリンの練習をするのが日課になっているという。練習終了後に遅い夕食をとって十二時頃に就寝するから、平均睡眠時間は八時間くらいだとのことだった。実質的には日に八時間くらいは精神を集中し体力の消耗を惜しまず厳しい練習を重ねているわけで、それは「天才の陰に努力あり」の教えを地でいくような話であるといってよい。巨匠と呼ばれるソリストたちは皆、高齢になっても毎日十時間くらいは練習をするのが当たり前なのだそうで、なかには集中力を維持するため、長時間にわたる練習中いっさい食事抜きで通す人もあるという。
 「会社勤めの方々などは誰だって毎日八時間や十時間の仕事はなさるわけでしょう。私たちだってそれが仕事なわけですし、わざわざ会場に足を運び、それなりの料金を払って聴いていただく以上、プロとして当然のことなのではないでしょうか」と、なんの衒(てら)いもなく成道さんは言ってのける。十歳でヴァイオリンを始めた当時、薬害で皮膚の痛んだ指先から血を流しながら父正雄さんの猛特訓に耐え、けっして大袈裟ではなく人の数倍は練習を積んだという成道さんだからなんでもないのかもしれないが、私のような不精者には大変耳の痛い話ではあった。
  ロンドン市内の成道さんのアパートメントはグランドフロア(一階)なのだそうで、上のファーストフロア(二階)には男の子二人のいる賑やかな家族が住んでいるらしい。そのため天井ごしに聞こえてくる物音も相当なものなのだそうだが、成道さんにはそのほうが好都合でもあるようだ。むろん、成道さんのほうも遠慮せずにおもいきりヴァイオリンの練習できるからだそうで、いまでは上階に住むその家族もすっかりその音楽環境(?)に馴らされてお互い和気藹々なのだという。天才ヴァイオリニストの生演奏をバックグランド・ミュージックにした日常生活というものがいったいどんなものか一度体験してみたい気もするが、そればっかりは野次馬精神旺盛なこの身にもどうしようもないことではある。
  成道さんはこのロンドンの住まいから、大学院卒業後のいまも王立音楽院の先生のもとにレッスンに通い、さらには時々ユーロスターに乗って英仏海峡のトンネルをくぐり、パリ在住のフランス・ヴァイオリン界の第一人者、ガストン・プーレを訪ねて、その教えを乞うているのだという。長期間ロンドンのアパートを空けると、英国特有の気候やアパートの構造上の関係でたちまち住めなくなってしまうおそれがあるので、不在の間は王立音楽院入学以来の親友でピアニストのダニエルベン・ピエナールに自由に使うようにしてもらっているのだそうだ。南アフリカ出身のピエナールはやはり王立音楽院大学院卒業の優れたピアニストで、川畠成道リサイタルの伴奏者として名コンビを組み、近年国内でも広く知られるようになった人物だ。成道さんが不在の時、上階に住むくだんの一家にはヴァイオリンの響きにかわってピエナールの弾くピアノの名曲の音が聞こえてくるのであろうか。そんな妙なことがいささか気になりはしたが、その点についてはついつい聞き漏らしてしまった。
  成道さんと談笑しながら、私は四本の弦を神業のごとく捌くその左手の指を見せてもらうことにした。そう大きなほうではない成道さんの手は全体的にとても柔らかで温かだった。指の先端はちょっと平な感じになっていて、角がとれてすこし丸みを帯びた小さなサイコロの表面を連想させた。むろん、十八年の長きに渡る弦との格闘の結果なのだろう。弦を押さえる指先の平らな部分に触ってみると意外なほどに柔らかだったが、さすがにその皮膚の一部はかなり固くなっていた。
  ただ、当初予想していたようなペンダコなみの固さではなかった。お父さんの正雄さんに伺ったところでは、的確に弦を捌くには指の先端はなるべく柔らかいほうがよいのだという。入浴の時などには固くならないように軽石のようなものを用いて指先をこするようにしているのだとのことだった。いっぽう、テニスの選手などと同様に、弓をもつ右手のほうは長年のうちに左手に較べて少しばかり長くなるらしい。だから、洋服などを仕立てる際には右袖を長めにする必要があるのだそうだ。

「マセマティック放浪記」
2000年11月15日

ガダニーニに手が震える!

  二時間ほどでお暇するつもりでいたのだが、もうとっくに予定の時間は過ぎてしまった。私は川畠家の皆さんと談笑を続けるかたわら、ちょっと立ち上がって部屋のなかのあちこちをそれとなく眺めさせてもらった。真っ先に私の目にとまったのは、東側の壁に張られた一枚の写真だった。近づいて見ると、その写真には三人の人物が写っていた。ヴァイオリンを持って右手に立つのが当時まだ十三歳の中学生だった成道さん、左手の一人はお母さんの麗子さん、そして真中に立つ白髪の人物こそがヴァイオリン界の巨匠アイザック・スターンその人だった。
  この年たまたま来日したスターンは公開レッスンの場で川畠少年の奏でるヴァイオリンの音色を初めて耳にし、その素晴らしさを絶賛したという。厳しいことで知られ、容易なことではレッスン生を褒めないスターンにその才能を認めてもらったことで、ようやくヴァイオリニストの道を歩ませる決意がついたと、後年、正雄さんは語っておられる。その巨匠スターンとの記念すべき出逢いの瞬間をおさめたのがその一枚の写真であった。トンボ眼鏡をかけちょと緊張気味の成道さんをにこやかな笑みで包みほぐすかのように立つアイザック・スターンの姿がなんとも印象的だった。若い頃に私が何度か演奏会場で目にした全盛期のスターンは、どこか近寄り難い雰囲気を湛えた人物に見えただけに、その姿は意外にさえ思われた。その隣にあるもう一枚の写真のほうには麗子さんに抱かれた幼くあどけない成道さんが写っていたが、未来の天才ヴァイオリニストの片鱗をその写真の中の姿から感じ取ることはまださすがに難しかった。
  十歳になってはじめてヴァイオリンを習いはじめた成道さんは、スターンとの出逢いに先立つ三年間、鬼と化した父正雄さんの特訓に絶えぬいた。息子の将来を案じる正雄さんも必死であったから、そのレッスンは壮絶を極めたらしい。だが、「父と母の性格をしっかりと受け継いだせいで負けず嫌いだったんです」と語る成道さんは、父親との差しの戦いともいうべきそのトレーニングに敢然と立ち挑んだ。ヴァイオリンを習いはじめて一年半ほどでチゴイネルワイゼンを一通りマスターしてしまったという成道さんは、二年ほどで演奏技術的には正雄さんを追い抜いてしまったらしい。
  「成道さんに追い抜かれたとわかったときのお気持ちはどうでした?」
  正雄さんの顔を見ながら率直にそう尋ねると、一瞬、無言の間があったあとで、
 「やはり嬉しかったですねえ……」という短い返事が戻ってきた。その時成道さんに向かって自らの心の内を言葉にこそ出しはしなかったのであろうが、それは正雄さんが鬼としての存在意義を失った瞬間でもあった。もはや自分の手には余ると悟った正雄さんは、その後の指導を他の専門家に託すことにしたという。
  「近頃は親と子二人でヴァイオリンや音楽の諸問題について激論を交わすことが結構あるんですよ。二人の間にはもちろん考え方や理念の違いなどがそれなりにあったりしますから……それに、どっちもなかなか譲りませんからね」
  麗子さんは正雄さんと成道さんを遠目に見やりながら、笑って私にそう囁きかけてくださった。
  ドアに近い壁面には二個の小さなヴァイオリンが掛かっていた。むろん成道さんが子供の頃に使っていたヴァイオリンで、そばに近づいてよくよく観察してみると、ずいぶんと使い古されたあとがある。そのヴァイオリンを壁から外して成道さんに弾いてもらったら、いったいどんな音がでるんだろうなどと妙なことを内心で考えてみたりもした。だが、どうみてもそれらのヴァイオリンはすぐに弾ける状態にはなかったので、さすがにそんなお願いをするのは思いとどまった。それに、「弘法は筆を選ばず」という諺はあるものの、自分の身体に馴染むまでに何年間もかかるというヴァイオリンの場合には話はそう簡単ではないに違いない。
  成道さんが現在使っているヴァイオリンの入った黒いケースは、同じ部屋の床の隅に置いてあった。ヴァイオリンは微妙な楽器なので、地震のときのような思わぬ振動や衝撃から守るため、床面に振動吸収用のクッションを敷きその上にケースを置いておくのだという。ヨーロッパに較べ夏場は気温と湿度がはるかに高く、逆に冬場は気温と湿度が低くなりがちな我が国では、ヴァイオリンを置いておく部屋の室温と湿度も厳重に管理する必要がある。そのため、私たちがお邪魔した部屋は、常時、ほぼ室温二十四度、湿度五十パーセントの状態に制御調整されているらしい。戸外でヴァイオリンを持ち歩く時のために、ケース内の温度や湿度をコントロールする小器具なども開発されているとのことだった。
  正雄さんはわざわざケースを開き、成道さんが現在使っているヴァイオリンを取り出し私に見せてくださった。正雄さんの言葉に導かれるままに、二つ並ぶf字溝(胴体上面の細長い溝穴)の片方からそのヴァイオリンのなかを覗くと、内部底面に記されたイタリア人製作者J.Bガダニーニの署名とその製作年代を示す 1770 という数字を読み取ることができた。製作から既に二百三十年を経た名器ということになる。大変高価なものであるに違いないその名器に私も触れさせてもらったが、物が物だけに落としたら大変だと言う思いが強く働き、緊張のあまりかえって両手が小刻みに震えてしまう有様だった。
  実際に間近で目にした「J.Bガダニーニ、1770」というその名器は、思いのほか小振りで、素材の木目がはっきりと見え、意外なほどに素朴な感じのするヴァイオリンであった。表面に塗られているニスは透明でしかも明るい黄土色をしており、ニスの塗りそのものもきわめて薄い。だからヴァイオリンの材質の木肌がそのまま表面に浮かび上がって見えていた。しかも、あちこちにある微かな疵や小さな木肌のさなささくれなどは素人目にもそれと識別できるほどだった。また提部やブリッジと呼ばれる二個の弦の支柱部分などに見る独特の古び具合にも、二百三十年という時の流れがはっきりと感じられた。
  正雄さんや成道さんに伺ったところでは、ストラディバリウスやガダニーニといった何百年来のヴァイオリンの名器で無疵のものはほとんど存在しないのだという。万一本体が大きく割れてしまうようなことが起こったらもうどうしようもないらしいが、小さな無疵などはその時々に技術職人によって補修され、現在まで大切に伝え残されてきているのだという。そもそもヴァイオリンという楽器の胴体部は加工した素材の板をニカワで注意深く張り合わせて出来ているのだそうで、長年使っているとそのニカワが部分的に剥げ落ちてしまい接合部に隙間が生じたりするものらしい。当然、そうなると音が変わり演奏に支障が生じるから、定期的に補修専門の技術職人に依頼して早目に不良個所がないかどうかのチェックを受け、悪いところがあればただちに修理し、音を調整してもらうのだという。
  名器と呼ばれるヴァイオリンの状態を的確に診断し不良個所を早期に発見補修したうえで、その楽器本来の美しい音色が出るように調整をほどこせる一流技術職人は世界でも数えるほどしかいないのだそうだ。残念ながら日本にはそのレベルの技術職人がいないので、成道さんの場合はロンドンの専門職人に依頼して補修や音の調整をおこなってもらっているという。北欧のようなところに演奏にでかけたあとすぐに夏期の日本のような気象条件の大きく異なるところに出向かなければならない時には、極端な温度や湿度の較差によってヴァイオリンが被る影響が大きいから、とくに注意が必要だとのことである。そんな場合には、必ずヴァイオリンのチェックを受けるようにしているという。
  川畠さん父子からいろいろな話を伺うなかで、ヴァイオリンやビオラ、チェロといった弦楽器の胴体内には「コンチュウ」と呼ばれるものがあって、音を作り出すうえでそれがとても重要なはたらきをしているらしいということを知った。コウロギやスズムシのような昆虫がヴァイオリンの中に棲みついて音作りに貢献しているなどとは、弦楽器の構造に疎い私でもさすがに考えはしなかったが、「コンチュウ」とはいったいどんなシロモノなのだろうと不思議にはおもった。そこで正雄さんに詳しい話を訊いてみると、なんと「コンチュウ」とは「魂柱」と書くとのだそうで、ヴァイオリンの胴体内の表板(上板)と裏板(下板)との間に一本だけ支柱として配されている細い円柱のことだというではないか。正雄さんに促されてf字溝からヴァイオリンの胴内をよくよく覗いてみると、なるほど、円く細長い支柱の一部らしいものが奥のほうにちょっとだけ見えていた。
  魂柱というものは必要に応じて動かせるようになっているらしい。この魂柱の位置を移動するとそれに応じて胴体の裏と表の板の張り具合や胴内空間内の空気振動が微妙に変わり、そのためにヴァイオリンの音そのものが良くも悪くも変化する。また、魂柱そのものを通じて弦の振動が胴体の表側から裏側へと伝わり、それが胴体全体の共鳴に大きな影響をもたらす。したがって、そのヴァイオリンの音色のよさを最大限にひきだすには、その時々の楽器の状態に最も適した魂柱の位置を的確に定めてやらなければならない。どんな名器でも魂柱の位置が適切でなければその楽器本来の音がでないらしい。もちろん、その微妙な調整をおこなうのも補修に携わる技術職人の仕事である。名器を扱う技量をそなえた職人なら、f字溝から専用の工具を差し込むことによって、迅速かつ的確に最も良い音の出せる魂柱の位置を定めでしまうのだという。
  外国などで飛行機や列車の座席にすわって演奏旅行をするときには、成道さんは大切なヴァイオリンの入ったケースを膝の上にのせたり、そうでない場合でも両足のどこかで常にケースに触れておくのだそうだ。その理由は、常時足でヴァイオリンケースに触れてその所在を確認しておけば、ちょっとした隙などにヴァイオリンを盗まれたりする危険性が少なくなるからだという。また、飛行機の離着陸時などには、万一大きな衝撃や振動が生じた場合にそなえてヴァイオリンを宙に浮かして守ることもあるのだそうだ。
  ヴァイオリンの特性についてあれこれと話が進むなかで、成道さんからいまひとつ面白いことを伺った。ヴァイオリンというものは表面に塗られたニスの色でも音質が異なってくるのだという。どちらが良いとか悪いとかいうわけではないが、一般的には明るい色のヴァイオリンは明るい感じの音が、暗い色のヴァイオリンはどちらかというと暗く沈んだ感じの音が出るのだそうだ。そのあたりの詳しい状況や理由などは素人にはいまひとつよくわからないが、実際そういうものであるらしい。
  正雄さんに、「お父さんのほうはどんなヴァイオリンをお使いですか?」と少々意地の悪い質問をすると、即座に、「私のヴァイオリンは安物ですよ。成道のものとは雲泥の差があります」という答えが返ってきた。そうは言ってもプロのヴァイオリニストが使う楽器だから、むろんそれなりの値段はするに違いないが、いずれにしろ成道さんのヴァイオリンは別格なようであった。
  ヴァイオリンを習っている最近の日本の子供たちのなかには、プロの演奏家のものなどよりもはるかに高価な楽器を持っている者が結構いるらしい。一億円を超えるストラディバリウスなどを手にしてレッスンを受けに来る子供などもいるというから驚きだ。名器は管理が難しく保管にもそれなりの手数がかかる。それに、ヴァイオリンというものは弾き手の全人格がそのまま反映される楽器だから、名器を手にしているからといってそれだけで美しい音色を奏で出せるということはありえないのだそうだ。弾き手が未熟な場合にはそれ相応の音しか出ないから、精神的にまだ未発達な子供たちに特別高価な楽器を持たせることはほとんど意味がないという。

「マセマティック放浪記」
2000年11月22日

楽譜はあくまで曲の骨格

  世界的に有名な楽器メーカーが創設したベアー・ヴァイオリン賞を、川畠さんは英国王立音楽院大学院在学中の一九九七年に受賞した。そのときに川畠さんが同賞の記念品としてもらったヴァイオリンの弓も見せてもらった。その弓の端末部には川畠さんの名がローマ字で刻まれていたが、それを手にとって見せてもらっているうちに面白いことに気がついた。たとえ弾けなくてもヴァイオリンを何度か手にしたことのある人なら誰でも知っていることなのだろうが、これまでそんな経験のなかった私はヴァイオリンの弓の構造に誤った先入観をもっていたのである。
  弓というからには、弓の弦にあたるヘア(馬の毛のことで、写真週刊誌等に登場するシロモノではありません)は、和弓のそれと同様に、弧状に反った弓本体の両端を最短距離で繋ぐようにして張られているものだと思っていた。ところがヴァイオリンの弓のヘアはなんと弧状に軽く反った弓本体の背側、すなわち、通常の弓とは逆の側に張られているのだ。もちろん、張りの強弱は弓本体の末端についたネジで調整できるようになっているのだが、あの弓の出っ張りの外側にヘアが張られているとはこれまで考えてもみなかった。

 「ところで、川畠さん、曲を演奏する場合、各音の長短も楽譜の音符の通りに正確に弾くものなんですか?」
  またしても私は素人ならではの愚問を発してみた。すると、お父さんの正雄さんが成道さんにかわって、
「いえ、ここにメトロノームがありますが、このメトロノームの拍子通りに曲を演奏したらメカニカルな音になってしまってとても聴けたものではありませんよ。同じ一拍の取り方でも人それぞれ曲それぞれによって違いますし、音符と音符の相対的な長短関係や強弱関係の解釈も各奏者によってまちまちなんです」と答えてくれた。
  楽譜の音符というものはあくまでも曲の基本骨格を成すもので、それに適切な肉づけや色づけをおこなうのが演奏者だということなのだろう。そのためには単なる演奏技術の巧さとは異なる資質が必要となるに違いない。当然、演奏者の人生観や世界観、さらには諸々の事物に対する関心の強さや感動の深さ、すなわち、その人の感性と思想性とが大きく影響 してくるわけだ。したがって、かなりのところまで楽譜に拘束されているようには見えるけれども、実際には相当に自由度の高い世界なのであり、一定レベルからさきにおいては奏者の人間性がそのまま音なってあらわれる怖い世界でもあるというのだ。
  同じ楽譜にしたがって弾いていても、ヴァイオリン奏者の紡ぎ出す音には自然にその人の育った国の民族音楽の影響が現れるものらしい。とくにビブラートの部分などにおいてはその傾向が顕著なのだそうだ。幼い頃に演歌の流れる環境で育った日本人奏者の場合には、意識するとしないとにかかわらずその音に演歌調の響きが忍び込みがちであるという。素人にはわかりにくいが、中国出身の奏者であればどこかに胡弓の音を偲ばせる調べが、お隣の韓国人奏者であればアリランの調べに近い響きがそれぞれの演奏に紛れ込んでくるというのである。その話を脇で聞いておられた麗子さんによると、イギリスに渡ったばかりの頃はあまりわからなかったが、最近ではどの国出身の奏者であるか音を聞いただけですぐにわかるようになったとのことだった。
  あるとき川畠さんがスペインにゆかりの曲を弾いていたら、指導にあたっている先生から、「君はラテン系の国の出身かね」と訊かれたことがあったという。内心ニヤリとしながら、その言葉を嬉しく思って聞いていたんですと、川畠さんは笑いながら話してくれた。一流の先生の耳をもごまかしてしまったのだから、それは凄いことに違いない。お国柄が現れるどころか、国籍不明の音さえも出せない、いや音楽以前の音を出すことでさえも手に余る我々には、唯々恐れ入るばかりの話ではある。
  川畠さんの経験によると、たとえばベートーベンの曲一つを弾くにしても、ラテン系の人は「結果よければすべてよし」的なその場その場の気分に乗じた大胆な弾き方をし、ロシア人に代表されるスラブ系の奏者は、あらかじめ「こうあるべきだ」という理念を掲げ、少しでもそれに近づくような弾き方をすることが多いという。本番などでは、曲の弾きだしのテンポが結構重要なのだそうで、そのテンポによって当該曲の演奏全体の印象がまったく異なるものになってしまうようである。どうやら、ヴァイオリンの生演奏というものはまるで生き物を相手にしているみたいなもので、その時々で様相が異なり一筋縄ではいかないようなのだ。
  新しい曲をマスターしたり、その曲の表わす世界や旋律の奥に秘められた作曲家の深い想いなどを把握していくうえでの苦労などについて尋ねてみると、成道さんらしい率直な答えが返ってきた。通常のヴァイオリニストは楽譜を見て何度も何度も曲を弾きながら徐々に暗譜し、その過程を通じて音を磨き曲の背後に秘められた世界をどう表現するかを考えていく。しかし、そうすることが難しい川畠さんの場合は、CDを聴いたり譜面をピアノで弾いてもらったりしてまずその曲全部を暗譜してしまう。そして、そのあとでヴァイオリンを弾きながら次第に思索を深め、曲の秘め持つ世界の奥へと想像力をめぐらしていくのだという。その結果として、聴衆の心の底まで染み入る川畠さんならではのあの情感豊かな音が紡ぎ出されるというわけだ。
  ただ実際にそういったことができるためには、演奏技術とはべつに、人間社会や自然界全般についての広い知識や経験、深い洞察力などといったようなものが必要とならざるをえない。しかも、ただ単にこの世界の甘美な一面だけを認識しておればよいというものではない。当然、人間の業の生みもたらす諸々の欲望とそのゆえの悲哀の数々、さらには凄絶かつ悲惨な地獄絵図そのものの世界の存在をも知っておかなければならないわけである。
  御両親をはじめとする多くの協力者を介し、様々なジャンルの本を読んでもらったりいろいろな話をしてもらったりして、川畠さんは貪欲にこの世界の出来事について学んできた。学童期のシャーロック・ホームズ・シリーズにはじまり、のちの各種の文学書、思想書、科学書にいたるまで、読破いや聴破した本の数は相当量にのぼるらしい。もちろん、性描写などを含む週刊誌の各種きわもの記事にも、また日々の三面記事やテレビ・ラジオのニュースなどについても人並みの関心をもって接してきたという。要するに、好奇心旺盛で、この世の中のことならどんなことでも選り好みせず自然に目を向けるようにしてきているということらしい。
  川畠さんの言葉づかいが驚くほどに端正で、しかもその話ぶりがユーモアに溢れ、このうえなく知的な魅力を感じさせるのもそんな背景があるからなのだろう。正雄さんも麗子さんも、成道さんにはなによりもまずごく普通の人間として生きることを大切にし、その上で音楽の仕事に精進してもらいたいと考えておられるようである。
 「セックスがらみの週刊誌の記事やワイドショウの話題などについても、成道とはごく普通に話すようにしているんです。ある新聞に、『性教育も怠りなく…』なんて意味のことを書かれたりもしましたけどね」と麗子さんは愉快そうに笑っておられた。正雄さんや下二人の弟さんがたの了解のもと、成道さんに同伴してイギリスに渡った麗子さんは、ヨーロッパ各地で世界的に有名な音楽家たちと出逢う機会に恵まれた。その人達に共通していえるのは、日常生活にあってはどこにでもいるごく普通のオジサンといった風体で、高名な音楽家だなどという雰囲気は微塵も感じられないことであるという。庶民の生活に溶け込みごく自然に生きる偉大な音楽家たちの素顔を目にして、麗子さんは先々成道さんにもそうあってほしいと願っておられるのであろう。

「マセマティック放浪記」
2000年11月29日

さらなる飛躍を祈りつつ

  川畠さんにどんな本を読む(テープを聴く)のが好きですかと尋ねると、いま自分が好きなのは歴史物で、それも東西を問わず世界の歴史全般に関心があるという返事が戻ってきた。最近夢中になった文学作品の一つに、トルストイの著作「クロイツェルソナタ」があるという。ベートーベンが「クロイツェルソナタ」を作曲するまでの背景をドラマティックに描いた作品なのだが、たぶんその文章の中に川端さんが感じ取った様々な感動や大作曲家の深く激しい想いなどは、実際の「クロイツェルソナタ」の演奏にかたちを変えて生かされているはずである。 
  あるとき、テレビかなにかで、アイザック・スターンがまだずいぶんと若いヴァイオリニストの卵たちを指導する光景を見たことがある。そのときスターンは、大作曲家と呼ばれる人は誰でも、命を削り魂のかぎりを込めて個々の音符を書き上げたというのに、その作曲家の伝記さえも読んだことがないというのは何事だと叱り、単なる演奏テクニックの習得だけに走りがちなレッスン生たちを厳しい口調で戒めていた。むろん、川畠さんはそんな初歩的なことなどとっくに認識済みだから、いろいろな知識を広くそして深く身につけるべく、音楽以外のところでも何かと研鑽を積んでいるわけである。

  特別に取り寄せてくださった寿司を頂戴しながらの我々の談笑は弾みに弾み、やがて話題の中心は音楽の世界の側面的なことがらへと移っていった。そして、しまいには音楽には直接関係ない船舶史や宇宙史の問題へと話が飛ぶ有様だった。そんな談話の展開のなかにあって私のような音楽の素人にとってとても面白かったのは、演奏会場の音響の良し悪しにまつわるちょっとした裏話だった。
  川畠さん父子の話によると、ヴァイオリンの演奏の場合、演奏者や伴奏者を見やすい位置と音を聴くのにもっともよい位置とはまるで違うことが多いのだそうである。いくつかのホールで実際に検証してみた結果から類推すると、一般にヴァイオリン演奏の場合には、一階中ほどから奥にかけての、舞台に向かって右手壁際に近い席が音響的に最高なのだそうである。招待客用の席がある一階中央付近は、舞台を見るにはベストだが、音の響きということになるとあまりよい位置だとは言えないらしい。ホール内における複雑な音の反響などの関係もあってそういうことになるのだそうだが、だからといってまさか招待客をホールの隅のほうに座らせるわけにもいかないからと、川畠さん父子は苦笑していた。もちろん、オーケストラの演奏などの場合、状況はまた異なってくるのかもしれない。
  いまひとつ面白かったのは川畠さんのジョークにまつわる微笑ましいエピソードだった。川畠さんのリサイタルではすでにおなじみの光景だが、プログラム曲の演奏が終わりアンコールにはいる前に、川畠さんは必ずその日の聴衆向かって簡単なお礼の言葉を述べる。そして、そのときの言葉の中にさりげなく折り込まれる軽妙なジョークによって、会場はいつもなごやかな笑いに包まれる。日本のクラシックの演奏会では大変に珍しいことなので、はじめてそんな雰囲気に接した人は驚きを覚えさえするかもしれない。英国仕込みではないかと思われるその洗練されたジョークの切れ味はなかなかのもので、とても好感がもてるし、実際、そのあとに続くアンコール曲の演奏をいっそう印象的なものにする役割をも果たしている。
  たとえば、九月に東京三鷹で催されたリサイタルにおいて、川畠さんは伴奏者のダニエル・ベン・ピエナールさんをあらためて聴衆に紹介し、彼が南アフリカ出身のピアニストで、ロンドンの王立音楽院で共に学んだ親友であることを伝えた。そして、国籍も育った環境も異なる二人がイギリスという異郷の地で出逢い、強い心の絆のもと、互いに協力し合いながら音楽を造り出していくことの素晴らしさ不思議さについて、淡々とした口調で会場の人々に向かって語りかけた。
  そのあと突然に、川畠さんは、「とても仲のよい私たちなんですが、昨日の夕刻は何故か二人の間にただならぬ空気が漂いまして、どうなることかと……。もっとも、二時間ほどしたらいつも通りのごく親しい関係に戻りはしましたが……」となにやら意味ありげな一言を投げかけた。ピンときた人はすぐにニヤリとしたのだが、私のみるかぎり、瞬間的にそれがジョークだとわかった人は少なかったようである。実はその前日の夕刻にオリンピックのサッカー予選、日本対南アフリカの試合が行なわれたばかりだったのだ。川畠さんの口から前言の背景が明かされると、もちろん会場はしばし笑いの渦に包まれた。
  また以前のリサイタルにおいて、川畠さんは、ピエナールさんと共にある大家のところへレッスンを受けに出かけた時、その先生からそれぞれに課題を与えられたという話をしたことがある。次に来る時までに川畠さんはもっと英語が上手くなるように、また、ピエナールさんのほうはもっとピアノが上手くなるようにというのがその課題だったというもので、むろん、それは川畠流の軽いジョークであった。ところが、一部の人にはどうやらそれがジョークとしては受け取られなかったようである。
  そんなかねてのジョークが裏目に出て、ある地方にピエナールさんと共に公演に出かけたときのこと、笑うに笑えない事態が起こった。川畠さんは英語が不自由らしいから便宜を計らってあげようという主催者側の配慮で、ピエナールらとの間をとりもつために急遽通訳がつけられたというのである。ところが困ったことに、一年ほどの英国滞在経験をもつというこの通訳はどういうわけかあまり英語がうまくなく、本音を言えば川畠さん自身が直接に英語を喋ったほうが事はずっと容易であったらしい。しかしそこは心優しい川畠さんとピエナールのこと、そんな胸の内などおくびにも出さず、懸命の通訳氏を最後まで温かく見守り、その顔を立ててあげたのだという。
  川畠さんはその程度で済んだからまだいいが、同行のピエナールにいたっては、もっと強烈なパンチの洗礼を食らったらしい。演奏後のレセプションか何かの席で、ある人が彼に向かって、「ピエナールさん、あなたはピアノがまだあまりお上手じゃないそうですが、今度いらっしゃる時までには上手くなってきてくださいね」と、にこやかな笑みを湛えながら大真面目で語りかけたのだそうである。川畠さんによると、ピエナールは大変にシャイな人柄だということだから、相手の言葉がそのまま伝わったとすれば、恐らく彼は返事に窮して目を白黒させたに違いない。
 
  今年の九月下旬ロサンゼルスの日米劇場で行なわれた川畠さんのアメリカ初リサイタルは大成功に終わり、聴衆を魅了し尽くしたその演奏の様子はロサンゼルスタイムスなどでも大きく報道された。このリサイタルの一部始終は十二月九日土曜午後十時からNHK教育テレビの「土曜プレミアム」において、「いのち響きあう街〜川畠成道二十年目のロサンゼルス〜」というドキュメンタリー番組として放映されるから、関心のある方は御覧になるとよいだろう。ついでだから述べておくと、十二月十五日午後六時からはTBSテレビのニュースの森への生出演もきまっているようである。また近々、扶桑社から川畠さんの自伝も出版される予定になっている。
  我々が川畠家を訪ねた日、成道さんはロサンゼルス公演を三週間後に控えた心境を感慨深げに話してくれた。八歳のとき旅先で不慮の薬害事故に遭遇した川畠さんはカリフォルニア大学付属病院に担ぎ込まれ、当時二十八歳の若い主治医の献身的な治療と三ヶ月に渡る入院の末に辛うじてその一命を取りとめた。その時からはや二十年、川畠さんは奇しくも当時の主治医と同じ年齢の二十八歳となった。現在サンフランシスコ在住の四十八歳の医師も、もちろん、川畠さんの演奏を聴きにくることになっているという話だったから、ロサンゼルスでの二人の再会はさぞかし感動的なものとなったに違いない。
 「偶然とはいえ、事故からちょうど二十年目のこの年に二十年ぶりにアメリカに渡り、因縁の地ロサンゼルスで初リサイタルを開くというのは天の導きとしか言いようのない不思議な運命の成り行きです」と語る川畠さんの表情には、同地での演奏にかける決意のほどが偲ばれてならなかった。
  つい先日の十一月二十三日には、東京オペラシティホールで催された川畠さんのリサイタルを聴きに出かけていたが、これまた期待を裏切らぬ素晴らしい演奏だった。人それぞれに好みがあるのであくまでも私個人の感想だが、今回の演奏では特にバッハの無伴奏パルティータ、第二番、ニ短調、BWV1004の演奏が印象的だった。川畠さんがリサイタルでバッハの作品を取り上げるのは今回が初めてだとのことだったが、この曲に「無心」の境地で立ち向かうことにしたという曲目解説の中の川畠さん自身の言葉通り、奏で出される音の一つひとつには人間の我執を超えた聖なる響きとでも呼ぶべきものが感じられた。
  川畠さんのホームページ(http//:www.1.u-netsurf.ne.jp/ ̄michi-k/)のメールボックスに、「一生のお願いだからチゴイネルワイゼンを弾いて」と書き送ったファンの要望に答えて、最後のアンコールでは久々にその曲が弾かれたが、一段と情感がこもり演奏にも凄みが増した感じで、私の席の周辺をちょっと見まわしただけでも目頭を押さえている人がずいぶんと見受けられるほどだった。終演後ちょっとだけ楽屋に伺い正雄さんと麗子さんに挨拶をしたが、正雄さんが実にいい笑顔を見せておられたところをみると、期待を裏切らない素晴らしい出来栄えだったのであろう。
  川畠さんはちょうどファンの待つサイン会場へと向かうところだったので、すれ違いざまにほんのちょっと言葉を交わしただけだったが、気のせいかその表情にはこれまでとはどこか違った落着きとゆとりさえもうかがい見ることができた。十二月十七日には府中市の生涯学習センターにおいて「私とヴァイオリン」というテーマで川畠さんの講演が行なわれる予定になっているが、どんな話が聴けるかといまからとても楽しみである。
  つい最近のことだが、川畠さんと日フィルとの共演コンサートの鹿児島での開催を企画しているという人から、川畠さんについての短い紹介文の執筆を依頼された。その拙文を最後に記しおいて、川畠成道さんについての今回の一連の文章の結びとしたいと思う。

<魂の琴線を操る異才!>
  思わず目頭が熱くなるほどに聴衆の魂を揺すぶるあの魔術的な音色は、いったいどこから生まれてくるものなのだろう。たぶんそれは、この異才の心奥にあって命の音をつむいでいる鋭敏な琴線のはたらきによるものに違いない。川畠成道が体内に秘める魂の弦は、五線譜の音符を旋律として再生するよりもまえに、この世に生きる人々の歓喜の声や悲哀の叫びに鋭く深く共鳴する。川畠の奏でる旋律が人々を心底感動させるのは、ヴァイオリンの演奏技術のみでは到達不可能な高みにその表現の源泉があるからなのだ。素顔の川畠は柔和で謙虚で、しかも驚くほどに気さくで明るい。音楽家につきものの神経質で近寄りがたい雰囲気など毛頭ない。知的探究心も旺盛で文学や哲学、歴史、科学などの世界への関心も強い。川畠の言葉がユーモアとウィットに富み、的確かつ魅力的で特有の品性を感じさせるのもそんな背景のゆえなのだろう。これから先、まだまだ飛躍的な表現力の向上が望め、さらには音楽思想家としての成長さえ期待できるこの新進ソリストの将来を、我々は長い目で優しく温かく、しかし時には厳しく冷静に見守っていきたいものである。    

「マセマティック放浪記」
2000年12月6日

黄昏に想う(T)

(幻夢の摩周岳山頂)

  一日の責務を終えた真紅の太陽が、黒いぎざぎざのシルエットとなって浮かぶ丹沢山塊の向うへと落ちていく。夜の安息を求めて日輪が姿を隠そうとしている方角からわずかばかり離れたところに、鋭利な刃先で切り抜かれた黒い台形の型紙みたいな輪郭を浮かばせているのは、言わずと知れた富士の山だ。
  大気の澄む晩秋から初冬の頃になると、東京郊外の多摩周辺のあちこちでは、黄昏どきの西空にこのような情景が見かけられるようになってくる。散策の折など、息を呑むほどに美しいそんな影絵にめぐり逢うと、すぐさま想い出すことがある。それは、この時節オホーツクの浜辺にひそやかに咲くという、白く小さな菊科の花の話と、その花が大好きだと語ってくれたSさんの遠い日の姿である。
  まだ二十代後半だった頃の話だが、夏も終りに近いある日の夕暮のこと、私は、あらゆる気配の絶え静まった摩周岳(カムイヌプリ)の頂にあって、独り万感の想いにひたりながら、夕陽に映えて山吹色に輝き染まる摩周湖の湖面に憑かれたように見入っていた。湖面のむこうの外輪山上に位置する展望台の賑わいが別世界のことに思えるほどにその切り立った山頂は寂然としていて、ほかに人影らしいものはまったく見あたらなかった。頂上に立ってすぐ、アイヌ語で「神の山」を意味するカムイヌプリの山霊を相手にコーラで乾杯をしたあと、もうかれこれ二、三時間ばかりというもの、私はその佳境を独り占めにしたままだった。
  摩周岳は海抜八六三米と標高こそたいしたことはなかったが、その鋭く尖った頂からの眺望は佳絶の一語に尽きた。南面から東面にかけての眼下には人跡を拒むようにして雄大な根釧原野が広がり、その遥かかなた、天と地とが低く寄り添うあたりには、悠久の時間を湛えまどろむ太平洋が望まれた。また、北東に視線を転ずると、八ケ岳連峰を小振りにしたようなかたちの斜里岳が視界いっぱいに迫り、その右手後方には知床半島の背骨をなす海別岳、遠音別岳、羅臼岳などの山々が、黙然として連なっていた。
  たまたま大気が澄みわたっていたこともあって、それら知床の山々の東側には国後島のものらしい島影もうっすらと浮かんで見えた。さらに、斜里岳左手後方の北面にあっては緑に息吹く北見平野がその存在をこれ見よがしに誇示し、またそのむこうには、寂寥の泉とも言うべきオホーツク海が深い青みを帯びて平にのび広がっていた。
  だが、それらの景観にもまして素晴らしかったのは、西側一帯の展望であった。いにしえのアイヌ娘の悲恋とその情念のかぎりを移り行く星霜の力で浄化し溶かし込んだような摩周湖の青い水の色、カムイの威厳の前にひたすら震え鎮まる湖面、そしてその向こうに連なる屈斜路湖、美幌峠、雄阿寒岳、雌阿寒岳などの遠景……刻々とうつろう陽光のもとでそれらの風物が重なり織り成す一大パノラマは圧巻としか言いようがなかった。そして、その大パノラマの西奥はるかなところに荘厳なたたずまいを見せて鎮座するのは、北の盟主、大雪山連峰だった。
  そんな頂にただ独りあって迎えたその日の夕映えは、なんとも感動的なものであった。あの青い摩周湖が山吹色から赤紫色に照り映え、見おろす大地は一面黄金色の霊気を発して燃え立ち、擂鉢を伏せたような形でくっきりと浮び上がる雄阿寒岳の稜線は、いまにも焔を吹き上げんばかりに赤く輝き揺らめいていた。
  大自然が絶唱し命が熔ける――天地の荘厳な歌声につつまれて、この世で最も貴重な何ものかが惜し気もなく炎上し、久遠の彼方へと熔け込んでゆく――そんな厳粛さを湛えた、それは凄絶なまでの空の色であった。
  感動の極みに達した私は、微動だにせぬ大気に身の動きを封じられでもしたかのように、太陽が沈んだあともその場にじっと立ち尽くしたままだった。やがて西の空は深い黄の色調を主体にしたいわゆる黄昏色になり、藤色から紫を経てしだいに濃紺の宵の色へと変わっていった。八月の末とはいえそこは北国のこと、さすがに肌寒さを覚えて下山の身支度を始めたが、その頃にはもう夜空の舞台いっぱいに諸星の宴が繰広げられ、その華やいだ星明りのもとで眼下の摩周湖は深い眠りにつこうとしていた。
  摩周湖とは、周壁が削られ険しく切り立った湖といったような意味だが、実際その名の通りの形状をしていて、一般の人が湖面近づくことは容易でない。だが、意外なことに、湖の東部には、まるで摩周岳の懐に隠し抱かれでもするかようなかたちで、ゆるやかな斜面に連なる美しい汀とそれに続く小さな入江が存在している。そして、当時、その入江の汀には水産庁の調査船らしい小舟が人目を忍ぶように配されていた。既に宵闇の中に沈んで見えなくなったその美しい入江に心の中で別れを告げ、悠然と北の夜空をめぐる北斗を仰ぎながら私は静かに山頂を辞した。素人ならではのこのうえなく拙ない短歌一首を摩周湖の湖面に向かってそっと呟き献げながら……。

いにしへのアイヌの恋を青く秘め摩周眠れや星移るとも

(もしかして熊が?)

  懐中電燈を手にして、私は摩周岳頂上真下の急な道を快調に駈け下った。万一のことを想い、中に小石を入れてザックに吊しておいた数個の空かんが、歩を進めるごとにカランカランと快い響きをたてた。言うまでもないが、熊よけのおまじないである。下山道は細々とした藪道だったが、星闇を山路の友とするのはいつものことゆえ特に不安はなかった。ただ、うわさに聞くヒグマの存在だけは、時節柄もあっていささか気にはなっていた。急ぎ足で歩を進めたこともあって、ほどなく、摩周岳と、知る人ぞ知る高山植物の宝庫西別岳との間に位置する鞍部に出た。
  その時である。くだんの小さな入江側へとくだる斜面の密生したクマザサの藪が突然ガサゴソと大きく揺れなびき、何者かがうごめく気配がした。背筋を冷たいものが走るとはよく言ったものである。ほんとうに背骨が凍りついてしまいそうな鋭い悪寒が体内を貫いたとみるや、見えない大地の手が瞬時に両足にのびてこの身を金縛りにしてしまった。笹藪から黒い影が現われるまでの時間が何と長く感じられたことだろう。
  半ば顔をひきつらせながら、必死の思いで向けた懐中電燈の光の輪の中に浮び上ったのは、幸いなことに熊ならぬ、しかし実に異様な風体の人影であった。相手も不意を喰って一瞬驚いたように立止まり、懐中電燈を私のほうに照し返した。そして無言で対峙すること三、四秒――そのあと吐いた言葉がいま思うとなんとも滑稽きわまりないものだった。
  たしか、「まさか熊じゃありませんよね?」と口走ったように記憶しているが、相手が実際に熊だったら、「俺は熊だぞ!」と答えてくれたものかどうか……。その珍妙な問いかけに、その人影は、「そうかもしれませんよ!」とおかしそうに笑いながら近づいてきたが、そのなんとも不可思議な風体からは想像できぬほどに、瞳だけが、刺すように鋭く、しかし美しく光の輪の中で輝いていた。そして、これがSさんと私との文字通りの劇的な出逢いであった。
  闇を背にして懐中電燈の光の中に静かにたたずむSさんの姿を私は今も忘れることができない。歩を運ぶごとにフケの舞い落ちかねないそのもじゃもじゃ頭に、無頓着の限りを極めたような髭面、頑として洗濯されることを拒み続けてきたらしい見事なまでのボロ着の上下、そして、摩周湖の神秘そのものを中に詰め込んだみたいな薄汚れた頭陀袋……どう見てもそのいでたちは異様としか言いようがなかった。だが、そこにはある種の安らぎの息づきこそすれ、しばしば目にするようなやりきれなさなどというものは微塵だに感じられなかった。内面の奥底から湧き上がるなにものかが、外見のもつ異様さを不思議なまでに制御し尽していたからである。無言のうちに漂いくるその存在の重みから察するに、年の頃五十代半ばと思われる眼前のこの人物が、一徹このうえない何ごとかの探究者であることは疑う余地のないところだった。
  どちらからともなく明りを消し、星空のもとでここに至るまでの経緯をお互い述べ交わしたあと、わたしたちは、また、摩周湖外壁上を細々と縫う藪道を辿りはじめた。そして、一キロと進まぬうちにすっかり意気投合してしまった。あらためて伺ったところでは、Sさんはちょうど摩周湖のあの入江である仕事をしての帰りだということだった。先刻まで独りで歩いていたときには万が一のヒグマの出現が気になっていささか無気味に思えたその夜道が、話が弾むにつれてこのうえなく楽しいものになっていったのだから、不思議なものである。
  Sさんは道東一帯の山々の地質や地形、動植物の生態に精通しているらしく、その話はどれをとっても興味の尽きないものばかりだった。私はひたすら心を啓き洗われる思いでその話に聞き入っていたのだが、そのいっぽうで、一体この人物は何者なのだろうかという思いが心の奥で激しく渦巻く有様だった。その雰囲気からして世にいう学者には見えなかったが、さりげない言葉の端々にあってときおりキラリと光る秘められた学識の影や、舌を巻くような洞察力の深さからおしはかると、とても尋常な存在には思われなかったからである。
 「なにか植物の御研究でも?」と一度は単刀直入切り込んでみたのだが、それも、かすかに自嘲の翳を帯びた笑い声によって見事に受けかわされてしまう始末であった。

「マセマティック放浪記」
2000年12月13日

黄昏に想う(U)

        (命の花) 

  闇の底に深々と眠り沈む摩周湖の暗い湖面を右手に望みながら湖壁上をほぼ半周し、摩周第一展望台付近に辿り着いたときには、時刻は既に午後九時を回っていた。
 「もう随分と時間も遅いですが、これからどうします?」
 「弟子屈の町の方へもうすこし歩いて下って、それからどこか適当な場所を探して野営でもします。いつものことで慣れてますから……」
  Sさんの問いかけに私はそう答えた。いまでこそ車中泊もできるワゴンで国内を好き勝手に駆け巡っているが、貧乏研究者の卵だった当時の私(もっとも、いまも「研究者」が「物書き」に置き換わっただけで、頭の形容詞二文字のほうはどっかのプロ野球チーム並みに「永遠に不滅です!」と居直ってはいるが)に車などあろうはずもなかった。だから、一人分の野営装備一式を詰め込んだ重たいザックを背負っての山行やトレッキングの旅などはごく当たり前のことだった。
 「それじゃ、一緒に私の家に行きましょう!」
  Sさんのそんな一言によって、一も二もなくその夜の身のふりかたは決りとなった。その後も旅先などで様々な人と出逢い、多少の言い回しの違いこそあれ、「それじゃ、一緒に私の家に行きましょう!」というこの時のSさんの言葉同様の誘いを受け、一夜の宿を恵んでもらった経験は少なくない。しかも、そんな出逢いの幾つかは、自分の人生に決定的な影響をもたらしてくれるようなものでもあった。いまにして思えば、偶然旅先で回り逢った相手に「一夜の宿を提供してもらう必殺業?」を私が無意識のうちにマスターしてしまったのは、この時の経験によるところが大きいのかもしれない。もちろん、私のほうには、「泊めてもらいたい」などという思いなどまったくないのだが、なぜかいつも結果的にそうなってしまうのだ。

  摩周湖第一展望台付近に駐車してあったSさんの車に同乗して弟子屈の町へとくだる途中で、わたしはなにげなくSさんにこう尋ねかけた。
 「このあと網走の原生花園のあたりを訪ねてみたいと思っているんですが、ほんとうは夏も終りのこんな時期じゃなくて、花の咲き乱れる初夏の頃が一番綺麗で見頃なんでしょうね?」
  当然、そうだという返事があるものだとばかり期待していた私は、意外としか言いようのないSさんの言葉に脳天を打ち砕かれる思いがした。
 「あの初夏の頃の鮮やかな緑に象徴される若々しく力強い命の息吹きや、あの底知れぬ大地の活力にはただ感嘆するしかありません。それに、盛りの頃に見る原生花園の花々の美しさは格別です。でも、それがすべてだと思うのは、その背後に潜むいまひとつの世界を見るいとまのない旅人の身勝手な想像に過ぎませんよ。夏に悠々と牧草を食む乳牛の姿だけを見て、単純に牧場での生活に憧れる一過性の旅人の想いとそれは少しも変わりありません」
 「はあ……」
  私が言葉に詰まるのを見てSさんはさらに続けた。
 「この北国の大地の片隅に根差して生きる私にすれば、あそこを訪ねて深い感動を覚えるのは、実は晩秋から初冬にかけての頃なんですよ」
 「どうしてですか?」
 「その頃になると、あの原生花園一帯のオホーツクの浜辺では、鉛色の空のもとで小雪が舞い、身を切るような寒風が吹き荒れはじめます。だから、夏の賑いとはうってかわって、誰ひとり訪ねる人などなくなってしまいます。ですが、他の草花がすっかり枯れ果てたそんな状況のもとで、厳しい自然に立ち向かうように忍び咲く小さな花があるんですよ」
 「へえ……そうなんですか?」
 「その花は、か細い身を寒風に痛めつけられながらも、凍てつく黒い砂地に必死に根を張り逆境に耐えて咲くんです」
 「どんな花なんですか?」
 「菊科の草花なんですが、花そのものはほとんど目立たないごく小さなもので、何の変哲もない白い平凡な色をしています。もちろん、誰もそんな花など見向きなどしませんし、そもそも、そんな花があることすら知らないでしょう」
  Sさんはそこでいったん言葉を切ったあと、まるで自らに言い聞かせるかのように再び口を開いた。
 「でもその花は咲くんです。咲かずにはおれないです。咲くという行為そのものがこの花の命の証なのですから。それは、内なる生命そのものの純粋の営みといっても過言ではありません」
 「なんだか、身につまされる感じですね。そんな話を伺うと……」
 「冬のオホーツク海の怒濤を背にして咲くあの花を見ていると、感動のあまり胸が詰ってしまうこともあるんですよ。花そのものはなんとも平凡な感じのもので、お世辞にも美しいとは言えない……でもあの花には不思議な命の輝きがあるんですよ」
 「そうなんですか、そんなこと考えてもみませんでした。私も一度その花を見てみなきゃいけないですね」
 「美しい夏の原生花園の持つもう一面に触れ、生命というものの奥深さに心底感嘆してもらうには、あの花の姿を一度は見ておいたほうがよいかもしれませんね」
 「……」
  そんなSさんの最後の一言に私は返す言葉もなく、ただおし黙って深い想いに沈むだけだった。もちろん、これに類する話なら巷にはいろいろとないわけではないけれど、状況が状況であっただけに、その時のSさんの一語一語は不思議なほどの説得力をもって私の胸の奥底を揺さぶった。

「マセマティック放浪記」
2000年12月20日

黄昏に想う(V)

(ニジマスの孵化育成研究)

  摩周湖から二、三十分ほどで車は弟子屈の町のはずれにあるSさんのお宅に着いた。敷地内には渓流をはさむ静かな唐松林があって、その林の中を奥に進むと、チロリアン風の山小屋を思わせる洒落た造りのログハウスが現れた。Sさん自らが設計したというその建物の入口には、呼び鈴のかわりに手ごろな大きさの鐘が一個吊るされていた。夜のことだったのでよくはわからなかったが、屋敷内を流れる渓流は単にそこを流れているというのではなく、何か特別な目的のために用いられている感じだった。
  あとで詳しく話を伺ってわかったのだが、Sさんは一般の人々にはほとんど知られていないある水産関係の技術開発に携わる地元の民間研究者だった。それはニジマスの人工孵化と稚魚の人工飼育に関する研究で、自らの資産を投入しての個人的な仕事であったにもかかわらず、当時Sさんはその分野の日本屈指のスペシャリストだったのだ。
  現在の状況についてはよくわからないが、その頃まではニジマスの人工孵化と稚魚の人工飼育技術はまだ確立されていなかった。厳冬期における魚卵の管理が大変困であったうえに、魚卵を人工孵化し、孵化した稚魚を大量死させずに一定の大きさの稚魚になるまで人工飼育する技術の完成は容易でなく、実用化にはなお程遠い状態だった。特殊な条件をもつ清流のみに棲息するニジマスの人工孵化と孵化直後の人工飼育には、微妙な水温と水質管理、溶在酸素量のコントロール、餌の質と量の調整、病死予防に必要な薬物投与量の算定や投与法の策定など、解決しなければならない問題が山積していた。だから、当時のニジマス人工養殖業者らは、一定の大きさまで成長した稚魚を河川や湖沼などから採取して持ち帰り、それを人工養殖池などで成魚になるまで飼育していたのである。
  徹底したフィールドワークを自らはすることなく、現場ではまったく役に立たない非現実的な研究データのみを発表する国内の水産学者について、Sさんは、やんわりとした語調の中にも批判と皮肉のこもった響きでこんな話をしてくれたものだった。
 「たとえば、溶在酸素の適量はこれこれで水温はこのくらいだというデータはあるのですが、それらは研究しやすい特別な実験施設での試験結果をもとに割り出したものです。現実に人工孵化施設や人工稚魚育成施設を造った場合、どういう方法で溶在酸素量や水温を適度にコントロールするかといったようなことはどんな資料を調べても書いてありません。ですから、自費で自然のものに近い渓流モデルを造り、天然の水を引いて、試行錯誤の実験を繰り返し、適度の溶在酸素量や水温を維持管理する方法から開発しなければならなかったのです」
 「じゃ、ご自身で造られた実験設備をおもちなんですね?」
 「ええ、もちろんです。明日御覧になればわかりますが、近くで水の流れる音がしているでしょう?……屋敷の中に研究のために自分で苦労して造った研究設備がありましてね。もともと、そのためにこの場所に移り住んだようなわけなんですが……」
 「そうだったんですか……水音がするので屋敷の中を渓流が流れていることはすぐわかりました。それに、流路が自然の渓流とはなんとなく違った感じかしたので不思議には思ったんですが、まさかそれがニジマスの研究のためだったとは……」
 「水流や水質の管理ばかりでなく、孵化直後の稚魚に与える餌の質や量の調整も大変難しいんですよ。また稚魚の病死予防のためには適量の薬物を投与しなければならないのですが、こちらのほうはさらに厄介でしてね……」
 「どうしてですか?」
 「学者の研究論文には、稚魚一尾あたりの餌や薬物の投与適量が一応記載されてはいます。でもそれらは、成魚の魚体をもとにして計算で割り出しただけの数値ですから、現実にはまったく役に立ちません。だって相手は生まれたばかりで小さなからだのうえに、そんな無数の稚魚が群をなして流れのある水中を好き勝手に泳ぎ回ってるんですよ。まさか一尾ずつ捕まえて適量の餌や薬物を投与してやるわけにもいきませんからね」
 「そうだったんですか、なんだか耳の痛い話ですねえ……」
 「たとえば、机上の計算では十キログラムの餌に一ミリグラムの割合で薬物を混入してやればよいとわかったとします。それはいいんですが、いったいどうやって十キログラムの餌の中にわずか一ミリグラムの薬物を均等に混入しろっていうんでしょう?。しかもその薬物は水中に入ったら溶けて流れてしまいますから、もし稚魚全部に適量の予防薬を与えようとしたら、量も投与条件も、さらには投与法も一から考え直さなければならないんですよ」
 「じゃ、それをご自分でやってらっしゃるわけですか?」
 「ええ、まだまだ未解決の問題だらけですけれどもね。こんな研究、誰もあとを継いではくれないでしょうから、体力的に研究を続けるができなくなったら、これまで地道に積み上げた研究データだけは、北大の研究室あたりにすべて寄託しようと思っています」

  Sさんに伺ったところによると、その種の研究は物心両面で多くの負担を要するうえに、厳冬期の過酷なフィールドワークが絶対に欠かせないとあって、当時は大学の魚類専門の研究者たちも避けるのが常であったらしい。たまたま私と出逢ったその日も、関係当局から特別に許可を得たSさんは、摩周湖におりて研究資料用のニジマスの採取とその生態調査をしていたのだという。摩周湖には明治期にザリガニと雑食性のニジマスが放流され、それらが長年のうちに繁殖し、その棲息数は現在ではかなりの数に達しているらしい。もちろん、ザリガニはニジマスの餌のひとつとなるという理由で放たれたものだとSさんは説明してくれた。かつては世界一を誇っていた摩周湖の透明度が近年になって落ちてきたのは、生物の繁殖に伴い水中に含まれる有機質の量が増えたせいだろうとも、その時Sさんは語っていた。
 「経済性を度外視した貧乏研究生活にくわえて、冬場には零下三十度を越える厳寒の中、凍傷覚悟で毎晩夜を徹して氷の下の魚卵の状態を調べたりするんですから、まあ気違いのやることですね。事実、気違いだと言われていますけどね。気候のよいときなどに、どこかで噂を聞きつけた各方面のお偉方などがわざわざ見学に見えることもあるんですが、面白いことにそういった方々の漏らす感想は二つのパターンのうちのどちらかなんですよ」
 「とおしゃいますと?」
 「ひとつは、こんな面白い研究をこれほどに自然の豊かなところでやれるなんて最高ですねっていうもの……、いまひとつは、わざわざ苦労してこんな研究なんかやって一体何になるんですかっていうもですね。ほんとうは、どちらでもないんですけどね……」
  最後にSさんが自嘲気味の覚めた口調でそう呟いたのが私には妙に印象的だった。話を伺いながら応接間の壁面を覆い尽くしている書架に目をやると、様々なジャンルの専門書や思想書、文学書、動植物関係の図鑑や書籍類などが溢れ出さんばかりに立ち並んでいるのが見えた。そしてそれら数々の書物の奥に、私はSさんの隠された人生の軌跡を垣間見る思いだった。屋内のあちこちには周辺の風物を描いた水彩画や油絵が掛かっていた。明かに同じタッチの絵であったが不思議なほどに透明感の漂う素人離れした作品だったので、「どなたの絵ですか?」と尋ねると、Sさんははにかみ気味にしばし沈黙を守ったあと、「私がつれづれに描いたものです」と答えてくれた。
  その晩遅くになって天空に月が昇った。下弦の月にほど近い右側がかなり欠けた月ではあったが、大気が澄んでいたこともあって降り注ぐ光は意外なほどに明るかった。どこからともなく一本のフルートを取り出し、おもむろにそれを手にしたSさんは、誰に聞かせるとでもなくバッハの小曲を奏ではじめた。あえてそのフルートの音色の向けられている先を探すとすれば、それは客の私でも主人のSさん自身でもなく、夜空を渡る月影か、微かに唐松の林を揺らしながら吹きぬける夜風か、さもなければ、息をひそめて周辺の山野に蠢く大小の生き物たちであるかのように思われた。
  翌日Sさんのお宅を辞す前に、私はニジマスの研究設備を一通り見学させてもらった。なるほど、渓流の流路は研究目的にかなうように整備され、流れのあちこちには大小の複雑な段差が人工的に設けられいた。しかもその段差部はその高さと傾斜度が任意に変えられるように工夫もされていた。もちろん、水勢や水量、溶在酸素量などを適宜調整できるようにするためだった。餌を調合したり、それらの餌に病死予防の薬品をうまく攪拌混合するための実験装置や水質試験装置をはじめ、各種の必要設備なども渓流沿いに配されていた。
  驚いたことに、それらの実験設備はすべてSさんの手造りで、しかも、必要な動力のほとんどは渓流の水力を利用して供給される仕組みになっていた。この研究を遂行するために、Sさんが損得抜きですべての個人資産を投入なさっていたことはいまさら言うまでもない。渓流の下流側ではニジマスの成魚がかなりの数飼われてもいた。Sさんの格別な配慮によって、私はそれらのニジマスの一尾を刺身にしてもらい、こころゆくまでその味のほどを堪能することができたのだが、なんだか申し訳ないような気分になってしまったことをいまもはっきりと憶えている。

  晩秋から初冬の美しい黄昏時、きまって私が遠い日のSさんとの出逢いやオホーツクの浜辺に咲くという白い小さな菊科の花の話を想い出すのは、そんな訳があってのことなのだ。私には、Sさんそのものがその「白い花」と同じ存在であったように思われてならない。のちになってたまたま知るところとなったのだが、釧路出身のSさんは、もともとは東京のある国立大学の新進建築学者だったのだという。そうだったとすれば、あの洒落たログハウスがSさん自らの設計だったというのも別段驚くにはあたらないことだったと言える。Sさんは、様々な紆余曲折を経たのち、最終的には故郷の釧路に近い北の大地の片隅に移り住んでニジマスの生態研究に転じ、厳寒と戦いながら未知の研究に打ち込んでおられたのだった。
  自らを含めた人間の頽廃の避けがたさを知り尽くしながらも、研究の合間に動植物との触れ合いを求めて山野を駆け巡り、静寂の中で思想書をひもとき、そして、時には澄み輝く心の奥の湖がそのままキャンパスに凝結したような絵を描くことを趣味としておられたSさんの姿が、昨日のことのように懐かしく想い起こされる。再び聞くことは叶わないけれども、北の夜空に軽やかに弾け響き、あるいはまた月下に漂う霧氷の如くに淡くきらめき揺れていたあのフルートの音がいまも耳元から離れない。
  Sさんに教えられた菊科の小さな白い花を残念ながら私はいまだ目にしたことがない。あの黒っぽい色の砂地の広がるオホーツクの浜辺を晩秋に訪ねてみれば、Sさんのこよなく愛したその白い花に出逢うことはできるに違いない。むろん、いますぐにもそうしてみたいという想いもある。だがそのいっぽうで、その花を幻想の世界の中に留めておいたほうがよいのではないかという想いが私の心の中にあることも確かである。そんな迷いの理由は、この私が、いまなおその花を愛でるには相応しくない俗塵にまみれ尽した人間であるからにほかならない。この歳になってもなお愚かなこの身には、その花に対面したとき、心底その生命力に感動できるという自信も確信もないからである。

「マセマティック放浪記」
2000年12月27日

フィナーレはまた川畠さんで!

  府中市生涯学習センターで催されていた「表現活動の原点」という一連の講座が無事終わった。講師陣は、初回の私に始まり、水上勉作品の挿画装丁でも知られる若狭の画家渡辺淳さん、本欄やニュースステーションでもお馴染みの朝日新聞編集員清水建宇さん、劇作家の大御所別役実さん、現代を代表する評論家の芹沢俊介さん、そして最終回がいまをときめく新進ヴァイオリニストの川畠成道さんという構成だった。私のほかは錚々たる面々で、しかも聴講者は申し込み順に百名ほどに限定、また受講料も全六回を通して千六百円という破格の安さで、なんとも贅沢な講座ではあった。講師と受講者とが至近距離で率直な意見交換や質疑応答をすることもでき、本来講座時間は毎回二時間に設定されていたにもかかわらず、実際には一時間から一時間半も講義が延長されるという異例の事態にもなった。 
  地元の府中市在住ということもあって、私は初回の講師のほか、あとに続く各回の講座の司会をも担当させられたので、各講師の熱意のこもった講義の概要と講座全体の流れとを一通り押さえることはできた。必ずしもその折の講義の本旨にそって発せられたものばかりではなかったけれども、各講師はそれぞれに含蓄のある短い言葉を残しもした。個々の言葉の背景についての詳しい解説は省略するが、たとえば、それらは次のようなものであった。

 「この谷の土を喰いこの谷の風に吹かれて生きたい」(渡辺淳)
 「新聞記者に必要なものは正義心ではなく好奇心である」(清水建宇)
 「我々は言葉に毒され尽している。対象物から何重にも絡みつく言葉を剥ぎ取っていくとき、はじめてその存在の本質に迫ることができる」(別役実)
 「人間の無意識領域はきわめて深遠である。その無意識領域の奥底から言葉が発せられた時のみ、その表現は命をもつ」(芹沢俊介)
 「目に障害はないほうがよいにきまっている。しかし、逆境にあるがゆえにこそ知覚できる世界もある。視力を損なわなかったら私はヴァイオリニストにはなっていなかったに違いない。楽譜を目で追えない私はまず曲全体を暗譜してから音を磨き深めていく。譜面通りに弾くだけではよい演奏はできないから、結果的には目が不自由なことがプラスに作用しているのかもしれない」(川畠成道)
  ここまで書くと、「じゃいったいお前はどんな言葉を残したんだ?」という厳しい追及にさらされかねないのだが、どう振り返って見ても特筆に値するような言葉など吐いた記憶がないのである。ただ、あえて挙げるとすれば、「我々は明証性があるがゆえにその物事を正しいと感じるのではない。明証性の前提となる概念を正しいと信じているがゆえに明証性があると感じているだけのことである。すべては定義にはじまり定義に立ち戻るのだ」といったようなことは述べたかもしれない。
 
  フィナーレの川畠成道さんの講座は一段と盛況だった。噂を聞きつけてやってくる駈け込み聴講者を予想して、この日は会場となった研修室に最大限収容可能な百四十席が設けられたが、それでもたちまち満席になる有様だった。場所が場所だったので、当初、川畠さんには講演だけをしてもらうつもりでいたのだが、ご本人の特別な配慮もあって、講演のあとヴァイオリンまで弾いてもらえるという願ってもない話になった。こんな「棚からぼた餅」的展開は望んだってそうそう叶うものではない。そこで府中市の担当者に依頼し、会場となる研修室に急遽伴奏用のアップライト・ピアノを搬入してもらうことにした。
  三日後の十二月二十日に川畠さんは名古屋でリサイタルを開くことになっていた。そのリサイタルで共演するためにベルリン在住のピアニスト、山口研生さんが前日帰国したばかりだったが、なんと、ご両親の正雄さん麗子さんのほか、その山口さんまでもが川畠さんと一緒に来場してくださったのだった。また、会場には川畠さんが不慮の薬害事故に遭遇した際共にアメリカ旅行中だったというオバア様の姿もあった。
  開場前、川畠さん一行に会場の配置やピアノの設置状況などをチェックしてもらったのだが、音楽にはまるで素人のにわか設えだったこともあって、ピアノの向きが逆になっていたりもしていた。そこで、市の録音担当技師に私と正雄さん、さらには山口研生さんまでが加わって大急ぎでピアノの向きと位置を変えるというおまけまでがつく有様だった。状況的にやむを得ないことではあったのだが、演奏前に演奏者のお父様や共演ピアニストにピアノの移動を手伝わせるなどという前代未聞の椿事が裏では起こっていたのである。
  ピアノの位置が定まると、ブラームスのハンガリア舞曲の一部を用いて三、四分ほど簡単な音合わせが行なわれた。講演終了後に山口研生さんから直接伺ったところによると、ドイツから日本に戻ったばかりでまだ時差ぼけ状態だったうえに、譜面も当日に川畠さんサイドから渡されたのだそうである。それでも難無くその状況に対応してしまうところなどはさすがプロの業というほかない。桐朋学園時代には山口さんは川畠さんの二年先輩で初共演は同学園在学中だったというから、お互いの呼吸はある程度わかってはいるのだろうが、それにしてもたいしたものである。麗子さんの話によると、山口さんは初見の楽譜をその場で鮮やかに弾きこなすという稀有の才能の持ち主でもあるということだった。
  いったん控え室に移り楽服に着替えた川畠さんを案内して定刻に講演会場に入ると、大きなどよめきに混じって、「ほんとだーっ!」という呟きとも溜息とも判別し難い声があちこちから漏れ響いた。テレビにラジオさらには諸々の新聞や雑誌にと、いまや引っ張りだこの川畠さんの姿を一地方自治体の生涯学習センターの講座で間近に見ることができるなんておそらく受講者にとっても望外のことだったろうから、実際にその目で確かめてみるまでは半信半疑だった人も少なくなかったのであろう。
  川畠さんが肩にしたヴァイオリンケースを床におろして席に着くと、会場から一斉に拍手が湧き起った。そして司会の私の簡単な紹介が終わると、川畠さんはすぐによく通る声で話し始めた。落着いた口調といいその言葉遣いといい、実に堂々たる話し振りである。テレビやラジオにはもう何回も出演しインタビューなどもずいぶんと受けている川畠さんだが、二時間にわたって単独の講演をするのはこの時が初めてということだった。むろんそれを承知で私はこの日の講演を依頼したようなわけでもあった。
  あらかじめお頼いしてあった講演テーマは「私とヴァイオリン」というものであったが、演奏会やマスコミ各社の取材、依頼原稿の処理などで講座の前日までスケジュールがびっしりだということでもあったので、自然の成り行きにまかせぶっつけ本番で好きなように話してもらうことになった。そうしたほうが受講者にも本来の川畠さんらしさがうまく伝わるだろうという思いが私のほうにもあったことは言うまでもない。

  話はキカン坊だった幼年期の回想から始まった。そして旅先のロサンゼルスで薬害事故に遭遇してカリフォルニア大学メディカルセンターに緊急入院、そこで生死の境をさ迷った時のつぶさな状況、奇跡的な生還の代償に視力を損なって帰国したことなどが、淡々とした調子で順を追って語られた。実に端正な日本語で言葉の選択も驚くほどに的確である。ハンドマイクを手に話すその姿勢もピーンと背筋が伸びていて、すぐ脇に並んで座っている私などは思わず恥じ入る始末だった。
  続いて十歳でお父さんにヴァイオリンを習いはじめ、一日十時間以上の猛特訓に耐え抜いた頃の想い出が語られた。当初は模造紙に描かれた大きな五線譜なら辛うじて読み取ることができたので百枚近くも音符を記した模造紙を用意して練習していたが、マジックの臭いが異様なまでに部屋に立ち込め大変だったこと、そしてほどなくそれさえも出来なくなり、その後は聴音による暗譜に頼るしかなくなった状況などが、川畠流のユーモアを交えながら次々に紹介された。川畠さん自身が自分本来のリズムと言葉で心の奥の思いをじっくりと聴衆に向かって語りかける感じだったので、テレビなどのドキュメント番組などとはまた違った妙味があって、耳を傾ける人々の表情もなごやかでしかも真剣そのものだった。
  講演のあとになって、「うちの子供は幼い頃から始めたヴァイオリンを十歳でやめたけど、川畠さんは十歳で始めてこの凄さ……天才と凡人の違いはやっぱりそのへんにあるのよね」と言って周辺を笑わせた知人がいたが、まさに言い得て妙というところだろう。表現力豊かなうえにほとんど乱れの見られない言葉の流れをすぐそばで聴いている私には、この人の本質的な頭の明晰さとでも言うべきものが偲ばれてならなかった。
  桐朋学園高校時代の体育の時間、球技やトラック競技などが思うようにできない川畠さんには教師から特別メニューが課せられていたという。そのメニューはマンツーマンの指導でこなされることにはなっていたのだが、マラソンや登山などのノルマがたっぷりと組み込まれた相当にハードなしろものであったらしい。ある時、学友の一人が茶目っ気を起こして同じ体育の個人授業を体験してみることになったのだが、たった一日で根をあげギブアップしてしまったというエピソードなども披露された。辞書類を使うことができないため、語学の勉強などにも人知れぬ苦労があったようである。入学時、お前を他の者と差別はしないと宣言し、厳しいトレーニングを課した当時の教師にいまは心から感謝していると語る川畠さんの表情はみるからに爽やかで清々しかった。
  桐朋学園音楽大学卒業後、英国王立音楽院の大学院に留学することに賛成だったのは正雄さん麗子さんの御両親と桐朋音大時代の恩師江藤俊哉さんの三人だけで、ほかの人々は皆反対だったのだという。結果的には英国留学が川畠さんの飛躍的成長につながったわけだが、それを陰で懸命に支えたご両親とご家族に対する感謝の気持ちを川畠さんははっきりと述べ伝えてもいた。とくにお母さんの麗子さんなどは、川畠さんの身の回りの世話をするだけではなく、王立音楽院の授業に一緒に出席することを義務付けられてもいたのだそうだから、そのご苦労のほどは並大抵のことではなかったに違いない。
  十分ほどの休憩をはさみ川畠さんの講演はほぼ二時間にわたって続けられたが、最後までその話は会場の人々の心を強く惹きつけて離さなかった。イギリスでの勉学や生活の状況、彼我の音楽環境の相違点、音楽表現に対する自分の姿勢と理念などが折々ウィットを交えて語られた。そして、最後に、将来どうするつもりかとよく尋ねられることがあるが、何が起ころうと先々のことは運命の赴くままに任せるしかないのであって、自分としてはベストを尽して現在を生き、演奏家としてできるかぎりの研鑽を積むことしか考えていないといった主旨のことが述べられた。
  川畠さんは講演のなかでご両親やご家族に対する深い感謝の気持ちを何度も繰り返し述べておられたが、私にはそれがこの講座を機にした川畠さん自身の精神的自立宣言でもあるように感じられてならなかった。講師席にあって、私は会場の奥のほうに目立つことなく座っておられるご家族のご様子などをさりげなく拝見したりもしてもいたのだが、ある種の決意表明とも思われる川畠さんの堂々たる言葉の一つひとつに、半ば驚きの表情を浮かべておられたのが印象的でもあった。

  講演を終えた川畠さんは、二百三十年前にイタリアで造られた名器ガダニーニをケースからそっと取り出した。以前に私が三鷹市のお宅を訪ねた折、試しに触らせてもらったのはいいものの、緊張のあまり手が震えてならなかった例のシロモノである。川畠さんはこの名器を一応ヴァイオリン専用のケースではあるが、一見してどこにでもありそうな布地のケースに入れて持ち歩いている。小間物様の小さな飾りのついたそのケースの肩紐の付根あたりは、ちょっとほつれたりしていて、知らない人などが外から見ただけではその中に貴重なヴァイオリンが納まっているなどとは想像もつかないことだろう。見るからに高級そうなピカピカの皮製ケースなど使っていないところがいかにも川畠さんらしい。
  川畠さんは、山口研生さんのピアノ伴奏のもと、ブラームスの「ハンガリー舞曲第一番」、グルックの「精霊の踊り」、そして前日にヴィクターから発売されたばかりの二枚目のCDタイトル曲、グノー作曲「アヴェ・マリア」の三曲を次々に弾いてくれた。音響も何も特別配慮さられていないごく普通の研修室における演奏であったにもかかわらず、その神聖としか言い様のない奇跡的な弦の響きに会場の誰もが感動し圧倒された。目に涙を浮かべ身じろぎひとつせずに演奏に聴き入っている人が、ちょっと見まわしただけでも相当数見受けられもした。
  演奏会やテレビで見る場合とちがって、演奏中の川畠さんの一挙一動を、その息遣いを含めてすぐそばからつぶさに眺め味わうことができたのも、その場に居合わせた幸運な聴衆にとっては感激だったろう。講座終了後に受講者は皆が皆、様々な感動と称賛の言葉を残して帰っていったが、それらの人々の想いは、「久々に精霊が自分の身体の中に戻ってきてくれました」というある受講者の短い一言に集約されていたと言ってもよいだろう。

「マセマティック放浪記」
2001年1月3日

年頭の挨拶にかえて

  鹿児島県の離島の小さな中学校を卒業した日、若い女性の音楽教師は私の卒業記念サイン帖に「成親さん、二十一世紀まで生きましょうね!」という短い言葉を書き入れてくれた。大井満子というその先生がどんな思いと意図を込めてそんな言葉をサイン帖に記してくれたのかは、正直なところいまだによくはわからない。だが、一見なんでもないようにみえるこの言葉は、その後の人生において妙に私の心に残り続けたのだった。独身の真面目な先生だった記憶はあるが、とりわけ美人だったというわけでもなく、生徒の間でとくにうけがよかったというわけでもなかったから(もしもどこかで拙稿を御覧になっていたら、先生ごめんなさい)、やはりその言葉そのものに見かけ以上の呪縛力があったということなのだろう。
  最後の肉親だった母方の祖父母の死期も近く、ほどなく天涯孤独の身になるであろうことを予感していた少年時代のことだから、自分では意識こそしていなかったものの、前途の生に対する不安の影が私を深々と包み込んでいたのかもしれない。だから、「この内向的な生徒が、迷いも挫折も少なくない青春期を無事乗り切り、なんとか一人前の大人になって首尾良く来世紀まで生き抜くことができますように……」とでもいったような密かな祈りを込めて、その先生は「二十一世紀まで生きましょうね!」と語りかけてくださったのかもしれない。
  たいした人生ではなかったが、ともかくも私は五十代後半というこの年齢まで生きのび、二十一世紀をまずまずの状態で迎えることができた。大井先生のその後の消息はわからないのだが、きっとどこかでご存命のことだろうと思う。赤面症の気があって通信簿にはいつも内向性が強いと書かれていた「内向性の権化」みたいな少年が、二十一世紀に入ったいまでは、少なくとも外見上は「外向性の権化?」みたいな世間ずれした中年男へと変貌を遂げてしまったのだから、星霜の魔術というものはそら恐ろしい。
  実際にはいまでもシャイな資質や自省過剰気味な気質が体内に息づき眠っていることに変わりはないのだが、事有るごとにそれらが表面に立ち現れることだけはなくなった。その意味ではともかくもめでたいことである。いまさら遅すぎるかなという気もしないではないが、来世紀まで共に生きましょうと煽り励ましてくださった先生には一言お礼を申し上げたい。
  さて、ここまではまあよいのだが、問題なのは二十一世紀を迎えたこれからあとどうするかということである。「二十一世紀まで生きる」という当面の目標を達成したのはよいのだけれど、なにやら拍子抜けしてしまって、下手をすると緊張感を欠いたままでこれからの余生を送ることにもなりかねない。だからと言って、いくらなんでも、「二十二世紀まで生きましょうね!」などという図々しい目標を謳いあげるわけにもいかないときているから、話はなかなかに厄介なのである。
  読者の皆さんには迷惑な話かもしれないが、心の緊張をほどよく保つという観点からするれば、一週間ごとに原稿更新日のめぐってくる本欄の執筆作業などはそれなりに有意義なことのかもしれない。率直に言わせてもらうと、この放浪記の原稿は仕事として(原稿料収入を目的とした仕事として)書いているわけではないから、所属を持たないフリーランスの身にしてみれば、せめてそれくらいの御利益はないと困るというものだ。こんなことを書いたりすると、「なんだ、お前はボケ防止のために書いた原稿を人様に読ませる気か?」などとお叱りをこうむる事態にもなりかねないが、実際のところは仕事として執筆する原稿などよりもはるかに精魂を傾け、それなりに時間を注ぎ込んだりもしているから、その点は大目に見ていただきたい。
  それにしても、二年前の十月にこの放浪記を担当し始めてからこれまでに書いた原稿の分量は、ざっと計算しただけでも四百字詰め用紙で千五百枚にものぼる。単行本にすればゆうに三、四冊分にはなる分量なのだが、むろん、三流ライターの書いた長ったらしい文章をいまどき好んで本にしようという出版社などそうそうあろうはずもない。そのうえに、不精者のこの身には、自ら積極的に動いて単行本に纏めてくれる出版社を探そうという意欲もないときているから、眠ったままの駄文の山は、下手をするとそのうち駄文の山脈へと変貌していきかねない。不毛な山脈になる前にブルドーザで山を崩し、多少の作物くらいは穫れる畑に変えてみるのもと思わないこともないが、それでなくても耕作放棄の続くこの冬の時代、それは無理な話だろう。
  それでも書き続けるのかと問われるならば、日々の生活苦に立ち向かうだけの体力と気力が続き、そして多少ともこんな駄文を読んでくださる方があるかぎりはかそうしたいと思っているとお答えしたい。幸い、いまでは大変な数の方々が国内外からAIC欄にアクセスしてくださっているようなので、そのライターの一端を担う私もできるかぎりの努力はしたいと考えている。以前にも少しばかり述べたことがあるが、インターネットの前身であるパソコン通信の草創期以来、私は、「コンピュータ通信で文章を発信するなんて、半人前のオタクどものやることさ……」という冷ややかな声を背にしながら、実験的に拙文の発信を試みてきた。その意味でもいまさら逃げ出すわけにはいかないという気もしている。
  正直言うと、訳知り顔の知人たちから、「聞いた話によると、AICって朝日新聞関係の中では特異な存在なんだってねえ。どっちかというと、新聞本紙や朝日系週刊誌や月刊誌と違い、あんたをはじめとするフリーのライターも、朝日の主力筋からはちょっとはずれた人達で……(筆者注:とばっちりを受けた他のAICの優秀なフリーライターの方、ごめんなさい)」など言われたことも過去に一度や二度ではない。ところが、困ったことに、そんなことを言われるとシュンとなるどころかムラムラと闘争心が湧き起こり、そんならまあに見てろよと内心で余計な反撥したくなるのがこの身の悪いところでもある。
  新聞本紙や週刊誌、月刊誌などと違ってAICには講読料が設定されているわけではないから、直接朝日新聞社の収益につながるわけでもない。近頃ではいくらか広告などが掲載されるようになったようだから多少の収益はあるのだろうがそれは全体から見たら微々たる額のものだろう。したがって、高い原稿料を払わねばならぬ当今の高名な作家などが続々登場する余地は、将来的にはともかくとしても、目下のところはほとんどないと言ってよいだろう。そんな状況なのだから、私の書く原稿などはメディアの主流に位置する識者の目からすればゴミ同然に見えるのも当然のことだろうし、そのことをこちらも否定するつもりなど毛頭ない。
  ただ、「一寸の虫にも五分の魂」の諺ではないが、逆境に慣れ、失う物のない身というものは開き直りがきくだけに結構粘り強く打たれ強い。たとえ結果的には駄文になってしまおうとも、喜んで読んでくださる方々のあるかぎり、単なるボケ防止のためなどではなく、非力な身なりの精魂を込めてこの放浪記を書き続けてみたいとは思っている。今年は放浪の範囲を通常の旅の世界だけにとどめず、芸術空間や精神世界への旅にも広げていくことになるかもしれない。二十一世紀初年にあたる今年もまた旧年同様に皆さんにお付き合い願えれば幸いなことこのうえない。

「マセマティック放浪記」
2001年1月10日

旧IT人間の哀愁

  二十一世紀を迎えたいま、我が国では「IT革命」なる言葉がおおはやりになっている。まるで、「IT革命に乗り遅れた者は社会の脱落者となること請け合いだ」とでも言わんばかりの流行ぶりだ。民間の大手シンクタンクやコンサルティング会社に勤める知人たちは、地方自治体をはじめとする公的機関向けのIT講座やIT戦略の企画と実践に奔走し、それがまた大変な成果をあげているらしい。むろん、ここで言う「成果」とは、公的機関が彼らの企画に進んで予算を投入してくれるために収益があがっているという意味であって、ITすなわち情報技術の本質に対するお役人がたの理解が深まり、そのため自治体内でIT技術を積極的に活用しようという機運が高まりつつあるというわけではない。
  首相自ら音頭をとってIT革命などどぶちあげた手前もあるのだろう、最近、自治省などは各地方自治体に対しIT関連の講座などを公務員が率先して受講するようにという通達を出し、受講者人数の割り当てまで指示しているらしい。ある地方自治体の社会教育部門に属する知人が、「自治省筋からトップダウンでおりてきた指令に従い、自分たちの部署の者たちが市を代表してIT政策の講座に半強制的に参加させられるんですよ。上の人と違って我々現場の実務担当者はそれでなくても多忙ですのに……。しかも、受講は一年間だけに限定されていて、内容はもちろん、受講回数や受講時間数だって中途半端なんです。やるならやるでその分野の専任となるべく、せめて三、四年は仕事がらみでITの勉強をさせてもらえるというのなら話はべつなんですがね……」とボヤいていた。
  政治屋のオジサン連中主導のIT革命なんてまあそんなものだろう。もともとIT革命の本質的な中身などどうでもよく、IT革命という煽動的な標語を掲げて国民の心を揺り動かし、コンピュータや通信関連機器を媒介に大規模な資金の流通が起こればよいというのが本意なのだろう。だが、「ごめんなさい」と言ってITのほうがさっさと逃げ出してしまいそうにも見える政治屋オジサン連の思惑通りに、この現代の世の中が動いてくれるものかどうか……。
  そもそも、民間ではとっくにIT革命が起こっているし、政府や関係省庁が音頭を取ろうが取るまいがITによる社会の変革と国民生活の革新は急速に進展していく。最先端のIT研究に携わる若手のスペシャリストや諸々の専門技術者、さらにはゲームやiモード世代の若者たちは、キーボードに向かうどこかの国の首相のTV映像を白々しい思いで眺めながら、「何を今更……」とせせら笑っていることだろう。
  私自身について言えば、かつての仕事の関係もあって、コンピュータを使い始めたのも、ワープロで文章を書き始めたのも、数理科学用あるいは教育用のコンピュータソフトや言語開発に関り種々のプログラムを作成したのも、そしてパソコン通信を始めたのも国内ではきわめて早いほうだったと思う。それほどに長いコンピュータ歴を持っているというのに、近頃では、世の人々に数歩、いやもしかすると五十歩も百歩も遅れて情報技術の恩恵を享受するのを常とするようになってしまった。近年になって、新しい情報技術に対する相対的関心度が弱まってきたのは事実のようで、温故知新という言葉を便宜的に借りるとすれば、「知新」の部分に少々翳りが見え始めたということであるらしい。旧IT人間の哀愁というわけだ。
  いまから思えばオモチャのような8ビットマシーンのアップル・コンピュータ隆盛の時代、当時のゲーム先進国だったアメリカで「トランシルヴァニア」とか「ロビンフッド」とか「デッドライン」とかいったアドベンチャーゲームの新作が発売されると、「MICRO(マイクロ)」という月刊コンピュータ誌を刊行していた新紀元社の編集部からほどなく我が家にゲームディスクが届けられたものだった。ドラキュラ伯爵をはじめ、有名な各種キャラクターの登場するそれらのゲームに一時期はまりきっていた私は、家族の冷ややかな視線を背中に感じつつも本来の仕事をそっちのけにして夜な夜なそれら新作ゲームにチャレンジし、その奮闘記や攻略記事をMICRO誌に掲載したりもしていたものだ。
  また同誌では、コンピュータ教育関係の専門記事を執筆したり、その頃にアメリカで評判になり始めたばかりのベノア・B・マンデルブロートのフラクタル理論についての解説記事などを連載したりもしてもいた。フラクタル理論はのちにカオス理論、さらには複雑系の理論へと発展し、非線形的問題(生命現象などのように関連する要素が複雑かつ多様に交錯していて、特定の数式などでは容易に記述したり処理したりできないような問題)の記述や処理などに欠かせないものとなっていったのだが、当時の我が国においては、まだコンピュータ・グラフィックスの斬新な手法を供する便宜的理論として注目され始めた程度にすぎなかった。いまからちょうど十七年前に執筆し、マイクロ誌の巻頭記事となった一般向けのフラクタル理論解説記事、「フラクタル序説」は幸いなことに好評を博し、多くの人々に様々な示唆を与えることができはしたようである。
  三次元LOGOという特殊な教育用言語を用いてシミュレーションその他のプログラムを自作し、それに基づく連載記事を科学朝日に書いていたのもその頃のことである。一昔前アメリカの大学で広く用いられていたPASCAL(パスカル)という数理科学用言語とLISP(リスプ)という人工知能用言語をベースにMITで教育用に開発されたLOGOというプログラミング言語は、我が国では単なるお絵描用言語だと誤解され、もはや忘れ去られた存在になってしまっているが、いま振り返ってみても実際にはきわめて優れたコンピュータ教育用言語であったと思う。学生たちに数学や物理の原理思考をさせたり、人工知能の基本を教えたり、高度なコンピュータ・プログラミングの根幹をなすリカージョン(再帰)という難解な概念を基本原理から学ばせたりするのには最適であった。
  MITの数学者エーベルソンなどは「タートル・ジオメトリー」という本を著し、トポロジー(位相幾何学)や相対性理論といった高度な理論の原理学習にまでこの言語が活用可能であることを示しもした。パパートやミンスキーといったMITメディアラボの創立者たちによって開発されたこの言語の奥深さにとりつかれた私は、数理科学の原理学習に関するさまざまなプログラミング研究をおこない、その一端を科学朝日に連載していたようなわけだった。
  余談になるが、その頃、記事内容の打ち合わせかたがた府中の我が家まで原稿を取りに来てくれていた若手の優秀な科学朝日編集記者が、現在では朝日の女性記者の顔として広く知られるようになった辻篤子さんと高橋真理子さんである。辻さんは大阪本社の科学部次長、paso編集長、アメリカ総局勤務を経ていまでは東京本社科学部の要職にあられる。いっぽうの高橋さんは科学朝日編集部から大阪本社科学部次長を経て東京本社科学部に戻られ、現在は朝日新聞論説委員を務めておられる。辻さんも高橋さんも新聞紙上で科学関係の署名記事を数多く執筆、朝日の主催する各種シンポジウムなどでも名コーディネータとしてお馴染みだから、ご存知のかたも多かろう。
  やはり同じ頃、現在の宝島社の前身、JICC出版からの依頼で「LOGOと学習思考」という中・高の先生方向けのコンピュータ教育本を執筆したこともあったのだが、このときお世話になった同社コンピュータ書籍部門編集責任者の佐藤信弘さんなどは、なんといまではおよそコンピュータとは無縁な「田舎暮らしの本」の編集長をやっておられる。まさにITの世界からアンチITの世界への華麗なる(?)転身とでもいうべきであろう。
  ITの世界に距離をおきはじめたのは歳を重ねるにつれて起こる好奇心の衰えが原因と言われそうだし、また確かにそれも一因には違いないのだが、もともと私の心中には古い技術へのこだわりと新技術への強い関心、より端的に言うならアナログとデジタルの世界への関心が同居していたように思う。だから、たまたまある時を境にして一時期大きくデジタル側に片寄り続けていたウエイトが、近年になってアナログ側にぐっと戻ってきたということであるのかもしれない。私の原稿の書き方そのものがたぶんそのことをよく象徴してもいる。
  パソコンやワープロが登場する前はもちろん原稿はすべて手書きであった。やがて初期のパソコンやワープロが登場するようになると、ほどなくそれらを用いて文章を書くようになった。ただそれでも、文章の内容によって手書きとワープロ書きとを臨機応変に使い分けていた。学術的な論文や科学雑誌の原稿などのように文体よりも記述内容にポイントがあるものはワープロで書き、いっぽう、内容はむろん文体やそのリズムそのものからして重要な散文系の文章は手書きで処理していたのである。そして、パソコン用のワープロソフトが現在のもの同様、完成度の高い段階に至るに及んではじめて、すべての原稿をワープロ書きするようになった。
  しかし、全原稿をワープロで書くようになってからも、文体やリズムをはじめとする細かな表現にこだわる必要のある文章の場合には、あらかじめ手書きで仕上げた原稿をワープロ入力したり、そうでなくても、横書きを縦書きに変換したうえでプリントアウトして目を通し、大幅に加筆や修正をほどこしている。縦書きと横書きとでは読み手が文章から受け取る印象やリズム感が異なるうえに、百パーセントワープロで仕上げた原稿だとかなり神経を使っていても結果的にはどこかしらワープロ的、換言すればなんとなくメカニカルな文章になってしまうからである。自分でこんなことを言うのもなんだが、正直なところ、一連の私の拙文などもほんとうは明朝体の縦書きに直して読んでもらったほうがリズムもよく、ずっと自然な文章に見える。
  もちろん慣れの問題などもあるのかもしれないが、横書きでしかもゴシック体風の文字の場合だと、奇妙なことになんとなくゴツゴツして途切れ途切れの文章であるように感じられてしまうのだ。同じ文章でも、明朝体で縦書きにした場合と違って、それなりの工夫を凝らした自然な流れの表現も、苦労して整えたはずのリズムもどこかへ消えうせてしまうような気がしてならない。デジタル表現全盛のIT革命時代のさなかでも容易には改革されようとしないアナログ的な古い己の感覚が悪いのか、それとも昔ながらの人間のリズムに即したアナログ感覚を大切にするようにITの世界にアナログ的なデジタルワールドの実現を望むべきなのか、つくづく考えさせられるところである。

「マセマティック放浪記」
2001年1月17日

ネットワールドの黎明期

  PC-VANやNIFTY-SERVEといったパソコン通信会社が誕生し、サービスを開始したのは十数年前のことである。当時のパソコン通信会員の平均年齢は現在に較べるとはるかに高く、三十五歳から四十歳くらいではなかったかと思う。その頃はまだコンピュータがきわめて高価なものだったうえに、通信速度も1200bps程度と遅く、そのぶんだけ通信時間も長くならざるをえなかった。だから、調子に乗って長時間チャットにはまったりしていると電話代その他の通信費はばかにならない金額になったりした。若者たちが気軽にパソコンを買って通信に参加するわけにもいかなかった時代のことだから、通信会員の平均年齢が高かったのは当然のことだった。
  当時の通信仲間内では「ミカカ料に苦しんでます!」なんて言葉が挨拶代わりに飛び交っていたものだ。カナ文字の「ミ」がアルファベット文字の「N」と、また同じくカナ文字の「カ」がアルファベット文字の「T」と同じキーになってなっているのをキーボード上で確認してもらえばわかるように、「ミカカ料」とは「NTT料」、すなわち電話代のことだった。当時富士通に勤めていたある通信仲間のように、気がついた時には一ヶ月の通信費が四十万円にものぼってしまうという悲惨な事態に見舞われる者なども出現した。
  リアルタイムで一度も会ったことのない人々との会話が楽しめるチャットにはまり、毎晩数時間以上も回線をつなぎっぱなしにしていたことがその悲劇の主因ではあった。さらにまた、初期のパソコン通信システムには一定時間端末機からの送信がなければ通信回線を自動的に切断する機能が組み込まれていなかったから、通信中に眠り込んだり、なにかの事情で回線切断を忘れたりすると、知らぬ間にその間の膨大な通信費が加算されるという泣くに泣けない事態も起こった。日本の通信費はまだ高く、インターネット普及のためにはより大幅な通信費のコストダウンが必要なことは言うまでもないが、当時の状況にに較べれば最近はずいぶんとましになったとは思う。
  幸いなことに、私の場合、仕事がらもあって民間企業などからパソコンを無償貸与され、また長期間無料アクセスが可能な特殊個人IDを通信会社から試供されてもいたから、電話代さえ自己負担すれば、各種の通信試行実験をしたり、暇な時などにパソコン通信を存分に楽しんだりすることはできた。もっとも、最小限の費用でパソコン通信を享受する便宜をはかってもらった代償に、好むと好まざるとにかかわらずコンピュータ関連の仕事をさせられたり、通信をはじめとするコンピュータ分野がらみの原稿を書かされたりするはめにもなった。「只ほど高いものはない」という諺ほどではないにしても、結果的にはそれと五十歩百歩の状態に追い込まれたわけである。
  それにまた、「通信を存分に楽しんでいた」などと言えば聞こえはよいが、実際には、楽しむというのを通り越してその不思議な魔力にすっかりとりつかれた状態にあったから、時間のロスときたらこれまた大変なものであった。ようするに、夜な夜なチャットをしたり、常連メンバーが集まるフォーラムを覗いたりBBC(掲示板)に何かと書き込んだりしなければ気がすまない「パソコン通信中毒症」に陥りかけていたのである。最近話題になりはじめている「インターネット中毒症」や「iモード中毒症」の前段階的症状とでも言ったものだったと考えてもればよい。当時の通信システムの処理能力の低さやトラブルの多さも手伝って、時間的ロス(ロスだったのかゲインだったのかは本当のところよくわからないのだが……)もまた相当なものにならざるをえなかった。
  当時のnifty-serveではチャッティングコーナーはCB(current board)と呼ばれていた。そして、夜になると指が勝手に動き出し、いつの間にかCBコーナーにアクセスしている病的状況のことを、通信仲間たちは当時から「CB中毒症」と呼んでいた。そして、CB中毒症の特効薬は「課金」しかないというジョークなどが交わされたりもしていたものだった。「課金」とは当時のnifty-serveの従量制月額通信料のことで、まるで税務署の徴収する課税金をも連想させるこの表現をnifty-serve自らが用いていた。しかもこの課金、パソコン通信にかかる電話料と同じくらい高かったのである。昨今の「インターネット中毒症」にもこの手の特効薬が効けばよいのだが、様々な割引制度ができプロバイダー利用料金も電話料金も格段に安くなった現在では、その効力を期待するのは無理なようだ。

  当時は文字情報だけを送受信するのが精一杯で、データ量のきわめて多い画像のやりとりなどは困難だったが、それでも、チャットのコーナーやBBS、名物フォーラムなどは盛況をきわめていた。strangerというハンドルネームとPEI00015という懐かしいIDを用い、常連会員として四六時中私が顔を出していたnifty-serveの場合、同通信ネットの開局から二、三年経たころの登録会員数はまだ二万人ほどで、実動会員にいたってはその一割の二千人ほどでに過ぎなかったようだが、初期特有の物珍しさも手伝って結構な賑わいぶりであった。
  当時のシステムはよくダウンしたり、そうでなくてもちょっとアクセス数が増えただけでデータ処理速度が超スローになったりしていた。チャットの最中にドンと落ちてしまったり、「ハロー」と入力すると一、二分してからようやくモニター画面に「ハロー」という表示があらわれたりすることなどしょっちゅうで、そのため間の抜けた珍妙なチャットが繰り広げられることも少なくなかった。時にはチャットの途中なにかの拍子で回線が切断され、自分のハンドルネームがチャットコーナーに表示されたまま残ってしまうことなどもあった。この「幽霊」と呼ばれる状態に陥ってしまうと、他のチャット仲間が呼びかけても無反応のままであるばかりか、当人が再アクセスしようとしても「二重ログインです」という表示が出て、にっちもさっちもいかなくなる有様だった。
  パソコン通信の初期の時代は会員の平均年齢が高かった反面、個性豊かで好奇心旺盛な各界の著名な人物などが結構顔を出していて、チャットコーナーや掲示板、名物フォーラムなどは多士済々の感があった。当時はどのコーナーもハンドルネームかIDだけを使った匿名での参加が可能だったから、ほとんどの者が本名や職業経歴をいっさい公開することなくパソコン通信を楽しんでいたが、ネット上で長く付き合っていると徐々に相手がただ者ではないことがわかってきたりして驚かされることもしばしばだった。
  時代の移りとともにネットが広く一般に普及して会員年齢層の大幅な若年化が進み、またBBSなどへの匿名の書き込みなどが規制されるに及んで、初期の名物常連会員たちは次第にネット界から姿を消していった。私自身も、ネットがどのようなものであるかを一通り体験し、それに関する著作を上梓し終えたあと、あれほどまでにどっぷりとつかっていたネット界に一線を画すようになった。最近ではネットへのアクセスは仕事上どうしても必要なときだけに限るようにしているのだが、その意味ではIT革命の声高らかな現代の趨勢とはまるで逆のことをやっていると言ってよい。当時の若手常連会員で、いまもネットで活躍中の者もまだかなりいるあようだが、彼らももうそれなりの年齢に到達しており、かつてのようなムチャクチャぶりを発揮するわけにもいかなくなっていることだろう。
  私が盛んにネットに出没していた頃は、チャットやメールなどを通じて相手が魅力的でしかも十分信頼に値する人物であるとわかると、本名や職業を相互に伝え合い、直接に対面して親交を結び合うこともすくなくなかった。日常的な生活を通じては絶対に出逢うことのない人々とのストレートな対話の場を難なくつくりだしてくれる通信ネットの威力に、いい歳をした初期の中年ネットマニアたちはおおいに感動したものである。まだ多くの人々はコンピュータ通信に無関心であり冷ややかでもあったが、私自身はこの時代すでにネットの将来性を確信するようになっていた。
  いま流行のiモード携帯電話によって不特定多数の未知の相手との交信を楽しむことなどは、初期のパソコン通信の延長線上にあるわけだ。一昔前のあの不思議な感動を思えば、若者たちがそれに熱中するも当然のことだという気がしてならない。
  実名を列挙するわけにもいかないが、当時のnifty-serveのCB(チャットコーナー)やBBS(掲示板)の常連メンバーの中には、当時からその世界では著名だったり、その後に著名な存在になった学術界、芸術界、文学界、法曹界、放送出版界、政界、実業界などのスペシャリストが多数いた。たとえば作家ひとつを例にとっても、既に直木賞作家や芥川賞作家だった者、ほどなくそれらの賞を受賞した者など数人の名を挙げることができる。あえて書かせてもらうとすると、当時はまだ作家としてスタートしたばかりだったが、その後直木賞を受賞し、現在では押しも押されもせぬ流行作家になっている乃南アサさんなどもそんな常連の一人だった。
  それなりの専門知識を持つ上に人一倍好奇心も遊び心も旺盛な連中が寄り集まってチャットを繰り広げたりしていたわけだから、壮絶なバトルあり、底抜けのジョークあり、悪ふざけあり、くどきあり、人生相談ありで、それはそれは賑やかなものだった。現在の状況がどうなっているか確認はしていないが、もしかしたら当時のチャットのほうが熱気に溢れていたかもしれない。まだ画像が送信できず文字画面だけで交信しなければならない状況ではあったが、そのぶんよけいに想像力が喚起されるという一面もあった。画面の文字だけを眺めていると相手が絶世の美女や美男子に見えてくる「チャット美人症候群」や「チャットハンサム症候群」に陥る者なども少なくなかったように思う。
  チャットやフォーラム、BBSなどで廻り逢った異性に対し恋心を抱くようになり、忙しい仕事の合間を縫って連日のように言葉のかぎりを尽したメールを書き送り、ようやくのことで相手とのオフライン(オンラインをもじった言葉で、直接交信相手に会うことをいい、一時期、パソコン通信仲間で大流行していた)の約束を取りつける。そして、高鳴る胸を抑えながら、いざ約束の待ち合わせの場に臨んでみると、あれほどに期待と確信を込めて築き上げたはずの理想の異性像はどこへやら……、かわりに現れた、何かの間違いではないかないかと我が目を疑いたくなるような相手に向かって、ひきつった顔でその場しのぎのジョークを飛ばし、ここは我慢と密かに己を御しながら深い反省と後悔のひとときを過ごすといった事態も生じた。
  あわよくば一夜をともに明かし……などという当初の思いはどこへやら、急用ができたからという苦しい口実をつけたりして、一夜どころか一時間も経たぬうちにそそくさと席を立つ。そして、幻影を実体と信じた己の愚かさを恥じながらぐったりとした気分で帰途につく。しまいにはネット会社や電話会社に貢いだお金ばかりかチャットやメールのやりとりに費やした時間までがなんとも惜しまれてならなくなる。あれほど頻繁にメールを書き綴ったのがうそのように、翌日からは相手に簡単なメッセージを送る気力さえも消え失せて、申し訳ないとは思いつつも、チャットなどでまた出逢って親しく話したりするのがなんとも億劫になったりもする。それならと別の出逢いを求めてまたチャットの場に顔を出したりすると、ハンドルネームやIDを目ざとく見つけたくだんの相手は、チャットの秘話機能を使って二人だけで話さないかとしきりに誘いをかけてくるものだから、ますます対応に窮することになったりする。
  いささかオーバーな書き方に思われるかもしれないが、インターネット時代に先立つパソコン通信の世界では笑うに笑えないこのような事態がしょっちゅう起こっていたのである。皮肉なことに、このようなケースにかぎってオフライン後は攻守すっかりところをかえ、逆にうんざりするようなラブ・メールの攻勢にあうことも少なくなかったようである。そのような時に裏IDのひとつも欲しくなるのはまた自然の成り行きに違いなかった。

「マセマティック放浪記」
2001年1月24日

IT旧人類交遊記

  一昔前のnifty-serveに、同好者たちがチャンネル・セブンと名づけたチャットの名物コーナーがあった。もちろん誰でも気軽に参加できるコーナーだったのだが、遊び心溢れる大阪の古参メンバーらの発案によって、ある時からそこでの会話は大阪弁か英語に限られるという珍妙なルールが設けられることになった。その結果、チャンネルセブンのチャットコーナーでは、大阪弁と英語の怪しげな会話が飛び交い、それらが複雑に絡み合うという世にも珍妙な事態が繰り広げられるところとなった。
  大阪弁もどきの変な言い回しを用いたりすると「ソラ、アカヘンワ」とばかりに標準的な大阪弁(そんなものがあるのかどうかさえ疑わしいのだが)を使うよう指導が出されたりもしていたため、私などはそこでずいぶんと大阪弁のトレーニングを積むことができたものである。大阪弁をはじめとする関西系の言葉は短くて歯切れがよく、表現力も豊かだから、独特のテンポとリズムのよさを要求されるチャットにはとても適していたように思う。相当に辛辣なことを言っても後味の悪さが残らないのもその利点の一つであった。
  英語のほうもなかなかの達人揃いで、そこで繰り広げられる英会話などはちょっとしたものでもあった。時にはドイツ語やフランス語の使い手が割り込んできたりもして、チャットの場がパニック状態になったりもした。その頃のアメリカの大手通信ネット、Compu-serve経由で欧米人がチャットに加わってくることもしばしばあったように記憶している。いずれにしろ、大阪弁と英語と、そしてたまにはドイツ語やフランス語がモニターに入り乱れて表示され、しかも結構入り組んだ話が展開するのだから、なかなかに見物ではあった。うっかりして標準語などを使うおうものなら、「ソレ、ナンヤネン、ワテ、ソンナコトバ、ワカラヘンワ!」と冷たくあしらわれたものである。
  当時このコーナーに集まるメンバーはとくにユニークな人物が多く、ユーモアとウィットとアイロニイに富んだ彼らの会話の切れ味は絶妙このうえなかった。たぶん常連メンバーだけでも二、三十名はいたと思う。チャットの場では自分の本当の姿を適当にカモフラージュし、素知らぬ顔で皆それぞれにふざけまくっていたが、ほとんどの者は大学の研究者をはじめとする何らかの専門領域のスペシャリストでもあった。AJのハンドルネームで登場し、それからほどなくアサヒネットの創設に携わった当時の朝日ジャーナルのデスクで、のちに論説委員かなにかに転じた某氏などもその一員だった。
  短くてしかも鋭い切れ味の言葉こそがチャットの生命だという点は今も昔も変わりがない。だからチャットにしばらくはまっていると、その世界独特の言語感覚や表現法が身についてくる。そうなってくるとへんに自信もついてきて、気の合う仲間や、これはという魅力的な相手を向こうに差しで言葉のバトルを繰り広げることになっていく。私の場合、深夜出没する時間帯がたまたま同じだっということもあって、当時、「仙人」というハンドルネームで登場していた大阪府池田市在住の闊達なことこのうえない人物や、「丁」というハンドルネームでチャット界に旋風を巻き起こしていた東大阪在住の人物らと、いつ果てるともしれない言葉合戦を展開したものである。あとでわかったことなのだが、仙人さんはドイツの留学経験も長い犯罪学の専門家で、関西の某大学の教授だった。また、いっぽうの丁さんのほうは大阪の有名な大病院勤務の薬学者で、薬学フォーラムの責任者でもあった。
  ネットマニアたちは当時から文字や記号を組み合わせてつくったキャラグラ(chracter-graphics、一種の絵文字)を通信文に適当に交えて使っていた。通常のチャットで飽き足らなくなると、我々もまた多数のキャラグラや判じ文字などを創出し、それだけを用いてどのくらいの会話ができるか実験したりもしたものだ。いま、若者たちがiモードの携帯電話などを用い、様々な絵文字や判じ文字によるユニークなコミュニケーションに熱中しはじめているが、よい歳をした我々も当時のチャットを通してその先駆的試行みたいなことをやっていたわけである。通常のチャットのときなども、私は自らstrangerマーク(strangerはアルベール・カミユの「異邦人」にひっかけた私のハンドルネーム)と名づけた、 (@L@)というロゴマークを用いていた。
  当時の通信能力の範囲内でのことだから、キャラグラといっても、(^L^)、(*| ̄)(>-<)、(*-*)、(^H^)、などといったような初歩的なものを五十個ほどつくってそれぞれに意味をもたせ、それらを並べて交信を楽しんでいた程度だったが、それでも知的遊びとしては結構刺激的で面白かった。判じ文字にいたっては、
     「毛凸毛→毛凹毛=〇∪×?」    
といったような「ナンカイナ?」と首を傾げたくなるような難解な(?)シロモノまでが登場、それらのなかのいくつかのものは、あっというまに通信仲間のチャット用語として広まっていった。限られた通信空間のなかのこととはいえ、新語の誕生にかかわり、しかもそれらが急速に流行していく様子を自室に居ながら眺めることができるわけだから、ある意味でこれほどに面白いことはなかったともいえる。そんなわけだから、いまの若者たちがiモード通信に夢中になる気持ちは十分に理解できる。
  既に述べたように、初期のパソコン通信(現在のインターネットの場合も基本的に変わりはないが)では、チャットやフォーラム、掲示板などのコーナーについては匿名参加が原則となっていたから、様々なジャンルの人々が実名やその実像を公開しないままアクセスし、未知の人々と出逢い、そして交流を深めることが可能であった。そのため、普通ならまず知り合う機会もないような人々と回り逢い、それを契機に直接会って以後親交を結ぶということも少なくなかった。文は人なりというが、たとえ文字だけのやりとりではあっても、相手がとくに別人格を演じでもしていないかぎりは、普通その人柄はそれなりに見えてくる。少なくとも私の場合、自分が予想した相手の人柄と実際に会って感じるその人となりとに大きなギャップがあることはほとんどなかった。
  パソコン通信を介して出逢い、交際を深めてめでたく結婚した事例も当時既に相当の数にのぼった。実際に私が知るかぎりでもその頃に十組以上のカップルが誕生している。ネットでの出逢いを相互の専門研究やビジネスに活かし、異業種交流などと称して、新たな仕事の展開へとつなげる者もずいぶんとあった。私自身もネットで出逢った若い人々のために仕事上の便宜をはかったり、なにかとアドバイスをしてあげたりしたことも少なくない。
  ただ、ネットを通しての出逢いというものがすべてよい結果につながるとはかぎらない。
  文字表現による交信だけに、他意はなかったにもかかわらずちょっとした言葉の行き違いがもとで大きな誤解を被ったり、相手を傷つけようとする意図などけっしてなかったにもかかわらず、結果的には少なからぬ心理的ダメージを与えてしまうというようなことも起こった。軽いジョークや風刺のつもりが、ある人には断じて許し難いもののようにうつり、怒りを買ってしまうようなこともしばしばで、文字だけによる通信の難しさが当時から通信マニアの間では大きな問題になってもいたものだ。座を取り持とうと多少極端な発言や書き込みをしたりすると、たまたまその部分だけを目にし、それに強い不快感を覚えた相手は、そこに現れている人となりが発信者の人格のすべてだと受け取ってしまうようなことも、パソコン通信の初期の頃から常時起こっていたからだ。
  もちろん言葉巧みに相手を騙したり別人格を装ったりすることはできるわけだから、結婚詐欺をはじめとする各種のひどい詐欺事件や誹謗中傷の泥仕合なども数多く起こったりした。当然、見るに耐えないエロ、グロ発言や中傷記事なども登場し(とは言いながらも私も含めて皆が結構それらを読んでいたようだから、見るに耐えるシロモノだったのかもしれない)、それらをどうするかという議論などもその頃既に巻き起こっていた。あるフォーラムに殴り込んだ一人の女性が悪態と誹謗のかぎりを尽くし、その発言に怒ったそのフォーラムのシスオペやその取り巻き連中がその女性の身元や経歴を調べて逆に恐喝まがいの発言をした結果、こんどは女性側が名誉毀損で相手を告訴するという出来事なども起こった。たぶん、ネットでの誹謗中傷を問題にした我が国初の裁判事件だったのではないかと思う。
  nifty-serveなどでは、ホストサイドを中心に匿名による発言を規制し、実名表示の書き込みにすればネットの質が高まるという意見が強まり、niftyのBBS(掲示板)などでは匿名発言はできなくなったが、現実にはエロ、グロの書き込み、悪質な物品販売や宗教勧誘、怪しげな男女交際勧誘の類の記事は少しも減らず、きわめて質の高い発言をしたり、各種の専門的な相談などに親身になって応じてあげていた常連スペシャリストの多くが一斉にボードから姿を消した。
  仕事や役職上の立場もあって、たとえ真面目な意見やアドバイスを述べるにしても実名では憚られる人が多数を占めていたからである。直接的な応答の場で実名を明かせば、ストーカーまがいの行為に見舞われ困り果ててしまいかねない人もあったから(たまたま実名がわかり、それがもとで実際に被害に遭う人などもでた)、それはやむをえないことでもあった。喩えは適切でないかもしれないが、「悪貨は良貨を駆逐する」のグレシャムの法則まがいの状況がすでに起こっていたわけだ。
  もっとも、ハンドルネームなどの匿名によるネット上での交流は、時々笑うに笑えない事態をひきおこしたりもしたようだ。チャットやフォーラム、BBSなどで知り合い、仕事のことや家庭のこと、自分の異性との交際のことなど本音であれこれと語り合ったあと、いざメールを交換したり(ブラックメール等を防ぐため、当時からメールの場合には差出人名が実名表示されるようになっていた)、オフラインで実際に会ってみたりすると、相手が会社の上司だったり、交際中の恋人だったり、夫や妻だったり、すぐ隣の住人だったりという想像外の悲喜劇も生じたりしたのである。収拾がつかなくなって結局は離婚せざるを得なくなった夫婦のケースを一件だけだが私も知っている。
  ニアミスといえばなんだが、あるときチャットをやっていて、相手の専門領域やそれに関する細々としたことなどを話題にしているうちに、いきなりモニター上に自分の名前が表示されたことがある。そのため、どうやら相手がかつての教え子らしいと判明したのだが、ずいぶんとふざけた会話をしたあとだっただけに名乗るに名乗れず、素知らぬ顔で自分のことを自分でけなしたりしながらその場をしのいだ懐かしい想い出などもある。
  インターネット花盛りの現在、各種の情報を大量に蓄積した諸々のサーバーやデータベースと個人の端末とを結び、情報伝達や情報交換の効率化と社会の機能化を図るのがIT革命の本質であるように強調されているけれども、真のネットワークの発展にとってそれはかならずしも好ましいことではないように思う。
  誰もがいま忘れてならないのは、ネットや携帯電話などをはじめとする情報技術の基本はあくまでも「人間と人間をつなぐこと」にあり、どこか無機質でメカニカルな情報の海と人間とをつなぐのがその本質ではないということだろう。ちょっとインターネットを体験した者ならすぐにわかることであるが、どんなによい情報が満載されているとはいっても、モニター画面や通信機器の向こう側に生身の人間の息吹の感じられないネットなどには、正直言ってなんの魅力も存在しない。どんなに情報社会が高度化しようとも、人間は常に人間を求めるものなのだ。

「マセマティック放浪記」
2001年1月31日

ネットワールドは社会の縮図

  インターネットの世界は、つまるところ我々の住む社会の縮図にほかならない。だから多少かたちは違っても人間社会で起こることはすべて起こりうると考えておいたほうがよい。各種犯罪や誹謗中傷はむろん、政治的陰謀や経済的謀略、巧妙な世論操作などもけっしてその例外ではない。現在、さまざまなインターネット犯罪が社会問題になりつつあるが、実は同種の犯罪は既に過去のパソコン通信の時代に一通り起こってきた。かならずしもそれらは昨今の新しい社会現象ではないのである。実際の社会の場であれコンピュータ・ネットワークで結ばれたメディア空間であれ、一定数の人間が集まればそのなかで様々な欲望や思惑が渦巻くことには変わりがない。そしてそれらの欲望の渦が、悪質な誹謗中傷や不当な情報操作、さらには大小の各種犯罪を引き起こす。
  しかし、だからといってインターネットシステムそのものをむやみやたらに批判し、その責任を問い詰めてみたところで何も得られるところはないだろう。個々の発信者も受信者も、インターネット空間の構造は諸々のリスクを含めて現実社会のそれとなんら変わりがないことを自覚し、自己責任の範囲を十分にわきまえたうえでネットのもたらす利点を活かし享受していくほかない。現在では誰かが電話で犯罪の相談をしたとしても、そのために電話会社の社会的責任を問うのがいささか筋違いであるのと同様に、インターネット上で不祥事が生じたとしてもその直接的な責任のすべてをインターネットシステムに転嫁するのは間違いだろう。
  ふんだんに情報があり容易にそれらを入手できるとか、なにをやるにも便利だとかいった一面だけに目を向けるのではなく、何が危険でどんな情報が信用できないかを判断し、リスクがあると感じたらそれに手を出さないようにする慎重さを身につけることが我々には求められる。街角における怪しげな勧誘や甘い誘いの言葉、うますぎる話などに対して通常我々が抱くような警戒心は、インターネットの世界においても当然必要なことなのだ。要するに、インターネットという新メディア社会に身をおく我々は、多様な価値観がそこに存在しているという事実を認識し、また様々な危険が常に潜み息づいていることを自覚したうえで、その新時代に見合った行動のとりかたを学んでいくしかないのである。リスクを絶対的に回避できるシステムをつくれという声が上がるかもしれないが、論理的に考えても構造的に考えてもそれは不可能なことである。
  ここでコンピュータ犯罪の詳細な手口を論じるわけにもいかないが、コンピュータネットワークの構築やソフトウエアのコーディングに一定レベルまで携わったことのある人間なら、それらのシステムや構造がいかに穴だらけのものであるか十分に承知しているはずである。しかもその構造欠陥はコンピュータシステムの設計思想の根幹に因する宿命的かつ不可避的なものであると言ってよい。人間誰しもが生まれた時点ですでに、自分ではどうにも出来ないなにかしらの負の遺伝子を内有しているようなものである。
  そもそも、コンピュータネットワークを活用し、どこにいても重要な機密事項を管理したり処理したりできるようにするという発想そのものが大きな矛盾に満ちている。機密とは、限られた者が限られた場所で限られた手段で知ることができるからこそ機密である。どこにいてもそれらを管理ないしは処理できるということは、「限られた場所で限られた手段で」という原則が崩れてしまっていることを意味している。
  また、いくら高度な暗号体系によるガードを敷き、パスワードの管理強化をはかったとしても、そんなものは表向きのガード、換言すれば屋敷の正面の門だけを固めに固めただけにすぎないわけで、屋敷の裏手や側面は隙間だらけなわけだから、裏事情に精通した仕事師の手にかかったらひとたまりもないだろう。コンピュータという便利な機械を用いる代償として、「限られた者が」という最優先の原則さえも崩れ去ってしまっているわけだ。
  システムに侵入するハッカーの登場を待つまでもなく、コンピュータに記録された機密情報が漏洩する可能性はおおいにある。重要な情報をおさめたコンピュータは、停電その他、なんらかの理由でダウンしたときに備えバックアップがとられている。バックアップがとられているということは、システム管理者に近い筋の者がその気になれば保守の折などにいくらでも記録された情報の中身を覗き見ることもできるし、その情報をコピーして横流しできることをも意味している。もちろん情報の書き換えだって可能である。
  文字通りの意味で絶対に開かない錠や、開けるのに何年もかかる錠をつくって金庫を守ることはできるだろうがそんなものは役に立たない。非常時には鍵なしでも開けることのできるなんらかの手だてがなくてはならないし、そうでなくても、金庫の所有者は必要に応じ短時間で扉を開ける手段をもっていなければならない。もしもなんらかの理由があって、正規の方法では開くの何年もかかる金庫をつくったとすれば、その所有者やその錠の製作者は、かならずやもっと短時間でそれ開けることができる裏の手段を設けるに違いない。それが人間というもののもつやむにやまれぬ心理だからだ。
  機密情報をおさめたコンピュータシステムを守る場合もまったく同じで、いくらでも複雑なパスワードや暗号処理体系を導入することはできるが、管理者用のパスワードが紛失したり、暗号処理機能がうまく機能しなくなったり、特別な緊急事態が生じたりしたときなどに備えて、表向きとは異なる機密情報への裏のアクセスルートが設けられることだろう。正規のパスワードや暗号キーを管理するのも容易でないが、裏ルートを極秘のままにしておくのも結構難しい話である。「王様の耳はロバの耳」の寓話ではないが、人間にとって秘密を守り通すことほど困難なものはないからだ。
  機密事項を管理するコンピュータシステムにとって厄介なのは、いったん管理者用パスワードや暗号解読キーが外部に漏れると、あっというまにその情報が国内はおろか、世界中にまで広まっていきかねないことである。いったんそんな事態になってしまったら多数のハッカーたちが一斉にシステム内に侵入してくることは避けられない。侵入されたシステム側はパスワードや暗号解読キーの変更を迫られることになるが、そのためにはそれなりの時間と費用と手間がかかるし、関係者に新たなパスワードやキーを伝えるだけでも容易ではない。その過程で再度当該情報が漏れてしまうおそれすらある。
  いずれにしろ、これからのIT社会においては、「ネットワークにのせた情報というものは、どんなに堅固にガードされていたとしてもプロの手にかかればたちまち外部に漏れてしまうものだ」ということを前提に行動するようにしなければならない。米国防総省や国家安全保安局などには並外れたコンピュータの天才たちが多数常駐していて、各種のIT謀略戦や情報収集合戦を繰広げているといわれている。もともとガードの甘い日本の諸々の機密情報などは、公民いずれのものを問わずその多くがとっくに米国その他の情報関係当局の手によってすっぱ抜かれてしまっている可能性が高い。
  特殊なプログラムコードからなるコンピュータウイルスがコンピュータシステムを破壊したり混乱させたりすることはよく知られているところだが、もともとそれらのウィルスは最先端のコンピュータ技術をもち、プログラムコードやシステムの欠陥と限界などを知り尽くした一部のプロたちの手によって生み出されてきたものである。ある意味ではマッチポンプの世界だとも言えないことのないコンピュータウイルス犯罪はこれからもけっしてあとを断たないだろう。
  べつだん悪意や他意はなくても、高度なプログラムのコーディング技術をもつ者なら誰でも、自分の書いたプログラムのどこかに作成者の自分だけにしかわからない特別な仕掛けを埋め込みたくなったりするものなのだ。ウイルスやロジック爆弾などはその延長線上にあるといってよい。ちなみに述べておくと、ロジック爆弾とは、特殊な指令をだすとそのソフトウエアに開発者自身があらかじめ組み込んだ破壊プログラムが起動し、当該ソフトウエアや関連情報のファイルを消去したり起動不能にしてしまったりする特別な仕掛けのことで、もともとはIMB社などが自社開発のソフトウエアのコピー製品が出回るのを防ぐために考え出した技術だった。
  ソフトウエアのプログラムコードは複雑に組み合わされた膨大な量の記号列からできており、たとえその道の専門家であったとしても他人の書いたプログラムコードを解析し、それぞれの記号列の意味する命令を正しく解読することはきわめて困難であるに違いない。ましてや、途方もない行数の正規プログラムコードのあちこちに分散させて埋め込まれた特殊プログラムを発見しその隠された機能を探知することは、そのコードの作成者以外の者にとっては至難の業なのだ。
  より高度なプログラミング言語とコーディング技術を用いれば、あらかじめ設定した秘密の文字を入力すると、正規のプログラムコードを構成する記号列の記号の一部をあちこちから自動的に取り出して組み合わせ、表面的には見えないかたちでそのプログラムコードにはなかった特殊なプログラムをシステム内部につくりだすこともできる。むろんその特殊プログラムに、スパイや特殊工作員もどきの機能をもたせることなどその道のプロにとっては容易なことなのだ。ウィルスの場合には感染したプログラムのサイズを正規のプログラムサイズと比較したり、正規のプログラムコードにない特殊コードを検出したりすることにより発見と修正が可能であるが、こちらのほうは、もともと正規ソフトウエアの中に内在している仕掛けだから部外者には手のほどこしようがない。
  世界中で日常的に使われているソフトウエアや各種ICチップのプログラムコードの中にそう言った仕掛けが組み込まれていないとはかぎらない。いや、私自身のかつてのささやかなプログラムのコーディング経験などから言えば、プログラマーのちょっとした遊び心といったものを含めるならば、世の有名なソフトウエアのプログラムコードの中にはなんらかのかたちでそんな仕掛けが忍び込ませてあると考えたほうが自然であると言えるかもしれない。人間生来の業にも似たそんな行為をあらかじめ防ぐ方法は、残念ながら存在しないと言ってよいだろう。優れた技術の開発には、かならずと言ってよいほど尽きることなき遊び心がともなう。そうでなくても、創造と破壊とはこの世界においてもともと表裏一体のものだからだ。
  以前に、オウム関係の会社のコンピュータ技術者がある官公庁のソフトウエアの開発に携わっていたということが判明し、一時期マスコミなどでちょっとした騒ぎになったことがある。公的なところへ納めるソフトに重要情報を盗み取るための特殊コードなどが組み込まれていたら大変だということで、新聞やテレビなどがその問題を大きく取り上げたわけだが、私個人はいささか筋違いな思いがしてならなかった。一定水準以上コンピュータシステムを知り、ソフトのコーディングができる技術者なら皆そう感じたことだろう。
  かつて社会的な大事件を起こしたオウムゆえ、その関係者が公的ソフトの開発に携わることを危ぶむ気持ちはわかるのだが、それを言うのなら、いまや国内のすべてのコンピュータに搭載されている無数のICやOS、主要ソフトウエアなどに仕組まれているかもしれない特殊コードから疑ってかかるしかなくなってくる。米国の有力企業がそのソースコードを握っており、しかも、たとえそのソースコードを入手できたとしてもその途方もない量のコード解析は絶望的に困難であることを思うと、もはやこの種の問題はお手上げと言うしかない。かりに、報道で危惧された通りオウムの技術者によって官公庁発注のソフトに極秘コードが組み込まれたとしても、たぶんそれをチェックするのさえも至難の業だろう。いったい誰が短時間でそれをやりおおせるというのだろうか。
  結局、このコンピュータネットワーク時代に生きる我々は、すべての情報は漏れるということを前提にして行動するか、さもなくばネットワークを通しての機密の漏洩そのものが意味をもたなくなるような未来社会をつくりあげていくしかないことになる。どうしても機密を守らなければならないというのなら、多重封筒に書類を入れ、それを厳重に封印して保存するという昔ながらの方法を取るしかないだろう。もちろん、そうすることによって各種の社会的機能は非効率化するだろうが、それはやむをえないということになる。

「マセマティック放浪記」
2001年2月7日

IT時代と教育

  IT革命の時代とはいっても、その発展に必要な人間の資質についてはこれまでと少しも変わりはない。いくら時代が進んでも、大自然の奥深さに感動し、人間という存在の不思議さに心をときめかすことがなくなってしまったらInformation Technology など有名無実のものになってしまうことだろう。将来、「人間」という概念そのものが崩壊し、いまの人類とは異質の生命体へと変容していく時代がきたらむろん話は違ってこようが、まだ当分は人間あってのITだということに疑問を差し挟む余地はない。
  IT時代の最前線に立つ研究者や技術者、経営者などをみてみると、意外なことに、幼児期や少年期、大自然には恵まれていたものの、当時の先端技術や最新情報などにはまるで無縁な山奥や離島など、いわゆる非文化的空間(?)に育った人が少なくない。そんな彼らに共通して言えることは、一般的な都会育ちの者に較べ、教科書的な知識でははるかに遅れをとっていたけれども、生きた自然事象に対する観察眼や生命のドラマに感動する心においてははるかに勝っていたということだろう。彼らは創造力の源泉となる原風景や原理思考の方法論を時間をかけながらしっかりと獲得形成していたともいえる。そして、それらの原風景や方法論がIT世界での優れた業績につながってもいるのだろう。
  発生学的認識論の研究などで知られる高名な認知心理学者ピアジェの言葉を借用するなら、一般論として、田舎育ちの人は具体的操作の段階(実際の対象物をじっくりといじくりまわしながら思考を培い深めていく段階)から形式的操作の段階(文字や各種記号など、抽象的な記号のみを操作して思考を積み重ねていく段階)への移行がゆるやかで、逆に都会育ちの人は具体的操作の段階から形式的操作の段階への移行がはやいということになろう。しかし、昨今の我が国では、極度の少子化と親たちの教育熱の高まりせいで、国内の津々浦々までが形式的操作の段階への移行を急ぐ都会的な教育風潮の中に巻き込まれてしまっているように思われる。
  昨今の初等中等教育のカリキュラム改正(?)で理数系の学習事項が大幅にカットされたり高学年や大学教育課程へと先送りされたりし、識者の間では、そうでなくても若者の理数系離れが問題となっているこの国の科学立国としての将来が危惧されているようだ。いろいろと議論は尽きないところだが、個人的には、そうやってつくられた十分な思考形成のためのゆとりの時間をどう活かすか、また初等中等の教育者が問題の本質をどう理解し、どんな対応をとるかにすべてはかかっているように思う。たとえ国指定の教育カリキュラムや教科書枠を外れた内容を扱う時間を組み入れたとしても、旧来的な画一的一斉授業での表面的な知識の詰め込みに終わるなら、事態はいっそう悪い方向へと進むことだろう。
  初等中等教育における「奉仕活動の義務化」などといったなんとも時代錯誤的な教育改革論が提言されている昨今だが、そんなうわべだけの教育カリキュラムの導入をはかれば子供たちが社会倫理や生命倫理を修得できると、政治屋オジサンや政治屋オバサンがたはほんとうに考えているのだろうか。そんな手合いがいっぽうでは「IT革命」や「IT教育促進」を偉そうに叫んでいるのだからますますもって困ったものである。
現代の子供たちは、社会倫理や生命倫理のかけらさえも持ち合わせない政治屋たちの姿を日々目にして生きている。一定期間の「奉仕活動の義務化」をもっとも必要としているのは近年の国会議員の諸先生方ではなかろうか。よほどそのほうが教育効果があるに違いない。真剣に未来の技術立国を考え、真の意味での生命倫理の確立を願うなら、大自然とその中における生命存在の根底の理解に深くかかわる具体的操作の学習段階をどう満たしどう導いていくかを徹底的に論じるべきだろう。
  私自身その理論をすべて肯定しているわけではないが、ピアジェが、「具体的操作の学習段階には十分に時間をかけるべきである。形式操作への移行を急ぎすぎると一時的には知識の修得が急速に進んだようにみえるが、本当に高度な論理構造や抽象的理論の修得段階(高校高学年から大学初等教育以降などの段階)に差しかかると、たちまち壁に突き当たってしまい、それらの概念の理解修得すら難しくなる。ましてや先々における独創的な抽象理論の構築などおぼつかない」という主旨のことを述べているのは正しいと思う。トレーニングによって表面的には難しい文章をすらすらと音読できるようになった幼児が、成長してからもその文章の意味や微妙な綾をまったく理解できず、文章というもの自体にも興味が持てなくなるといったようなことはすでにあちこちで起っていることである。
  当時の西欧社会の教育状況に基づいてピアジェが指摘した具体的操作の段階から形式的操作の段階への移行期は、日本の小学校の中高学年の時期に相当しているが、私自身は、具体的モデルがすでに存在しているかそれを人工的に提示できるかするかぎりは、より高学年の教育においても具体的モデルの操作を通した学習を進めるべきだと思う。
  一般言語や文字、抽象的な各種科学記号などは、人間と対象物との間に介在し、人間の思考にそって対象物を操作したり、逆に対象物の様態を人間へと伝達したりするはたらきをもつ。具体的操作の段階とは、媒介となる言語や文字、各種科学記号などを用いて、身近な実際の対象物にじっくりとはらきかけたり、刻々と様相や様態の変化をみせる対象物からのメッセージを受け取ったりしながら、それら言語や文字、科学記号類の操作に少しずつ習熟していく過程なのだ。
  この段階が性急に過ぎたり、なんらかの理由で欠落したりうまくいかなかったりすると、先々、高度な抽象論理の理解に支障をきたしたり、コミュニケーションの場で的確な自己の意思伝達や十分な相手の意思の理解ができなくなったりするおそれがある。かつてジャンジャック・ルソー研究所においてピアジェのもとで学んだMITのシーモア・パパートはミンスキーらの協力を得て、数理科学面における具体的操作の学習段階期の思考モデル形成に役立つような、コンピュータ教育言語LOGOを開発した。もうずいぶん昔のことになるが、一時期、私も国内の教育におけるこの言語の発展的な活用法と実践的な応用研究に携わっていたことは既に述べた通りである。
  自ら膨大な量の関連原稿を書き応用ソフトを仕上げたが、時期尚早であったことのほか、教育界の制度上の問題に因する諸般の事情などもあって、我が国では現場への普及が難しく、結局すべての努力が徒労に終わってしまった苦い想い出などもある。プログラミング作業を通して数理科学の原理思考とその発展応用を一歩ずつ着実に学んでいくものだけに、長期的展望に立てば極めて有意性が高いと思われていたにもかかわらず、知識詰め込み型の教育重視の我が国においては、それを教育の現場に定着させることは困難というより不可能であった。文部省の担当官や教員組合の責任者らともずいぶんと掛け合い真剣に議論を交わそうとしたが、当時の彼らのほとんどは無理解を通り越し無責任そのもので、来るべきIT時代の子供のことなどまるで考えていなかったし、考えようともしていなかったように思う。
  それからほどなく私はコンピュータ教育関連の研究からすっかり足を洗うことにしたのだが、アジアのコンピュータ教育先進国シンガポールなどが当時既にLOGO言語を教育現場に取り入れ積極的なメディア教育に取り組んでいたのに較べ、我が国のコンピュータ教育の遅れぶりは実際目を覆いたくなるものがあった。
  インドの数学教育とコンピュータ技術教育のレベルの高さが昨今我が国でも大きな話題になっており、新聞や週刊誌などでもそのことが再三大々的に報じられている。ごく最近のことだが、現在インドに滞在してある分野の勉強をしている娘の交際相手の若者からのE-mailによって、インドの初等教育の現場でLOGO言語が積極的に用いられていることを知った。
  ゲストハウスのオーナーの娘である小学校三、四年生の女の子が持ちかえった宿題の一つにLOGO言語のLOGOという呼称の語源は何か調べてこいというのがあったらしい。それで彼は私にその語源を尋ねてきたようなわけだった。言葉、概念、説明、理由、論理、思想、言語能力、理性など多くの意味を含み持つギリシャ語のロゴス(logos)がむろんその語源なのだが、小学生相手にこのような基本的なことから考えさせようとするインドのLOGO教育の徹底ぶりを知って嬉しく思う反面、空恐ろしさをも覚える有様だった。もしかしたら、書架の片隅で眠っている大量の私の研究資料も近い将来インドあたりで日の目を見ることがあるかもしれない。

  情報技術の革新をはじめとする将来のコンピュータ・サイエンスの発展ははかりしれないが、容易には解決できそうにない問題も存在する。よく知られているように、高度で複雑な数理科学上の演算処理をこなすよりも、人間がごく普通にやっているような行為をうまくやってのけることのほうがコンピュータにとってはずっと難しい。たとえば、「俺は酒が嫌いだ。ジュースのほうがいい!」という酒飲みの冗談まじりの言葉を、会話の文脈だけから、実は「酒を飲ませろ」と要求しているのだと即刻コンピュータに理解させることは容易でない。
  的確にそんな芸当のこなせる対話型ソフトを作成するには、その中にありとあらゆる状況の解析や状況の判断をおこなう膨大なプログラムと必要データを組み込んでやらなければならない。2001年宇宙の旅の中のハルのように、自然言語を人間同様に使いこなし、しかも人間の感情までも正確に読み取るような対話型コンピュータの製作が極めて困難なのは、そういった事情があるからにほかならない。
  人間というものはなんともナルシスティックな動物で、自分たちの言葉や行動をできるかぎりそっくりに真似できるコンピュータやロボットを造りたがる。しかしながら、簡単そうに見えてそれはたいへんに難しいことである。完全なものを造るとなると絶望的な困難を伴うことになりかねない。最先端のコンピュータサイエンスの研究者たちが、揃って人間というもののもつ不可思議なメカニズムに感動し嘆息するのもそんな理由があるからだ。
  だが、それでもなお、人間は完全な対話型コンピュータや究極の人型ロボットなどの実現に挑み続けていくことだろう。それは無限級数の和の極限値を各項の値を順次計算しながら求めていくような果てしない作業になるに違いない。むろん、その過程において様々な副次的技術が誕生し、それらが独自の発展を遂げ、我々人類の生活形態を大きく変えていくというようなことは起こるだろう。
  iモードの携帯電話で情報を手早く収集活用する若者達の姿を見ながら、情報社会の近未来像にふと想いを馳せらせることもなくはない。現在の何百倍何千倍もの高速大容量データ送受信可能な携帯電話が将来登場してくれば、高度な多言語翻訳変換機能をもつスーパーコンピュータなどと自由に接続することによって、携帯電話を多言語同時音声翻訳機などとして用いることも可能になるだろう。
  とりあえずその内容が伝わりさえすればよい実務的な文章などの場合にはもっと容易に翻訳ができるようになるだろう。そんな時代が到来したら、現在行なわれているような英語教育というものはほとんど意味を持たなくなるに違いない。幼児期からの英語学習熱に煽られ、幼い我が子を日々幼児英会話教室に送り出している昨今の教育ママたちが、もっとしっかり日本語の表現力を身に着けさせておけばよかったと嘆息する日が、ここ何十年かのうちにやってこないともかぎらない。

「マセマティック放浪記」
2001年2月14日

会話君との会話

  ニフティ・サーブ(nifty-serve)のチャットルームの中に「会話君」というちょっと変わったコーナーがある。会話君とは、富士通日本語対話システムという対話型コンピューの別称である。会話君がニフティ・サーブのチャットルームの片隅にさりげなく登場したのはもうずいぶんと昔のことだった。いまから十年以上前のことだったように記憶している。久しぶりに昔の通信ログなどを探し出して拾い読みしていたら、会話君が登場したての頃、私が相手になって遊び半分に交わした会話記録が見つかった。いまあらためて読み返してみてもなかなかに面白いしろものなので、この場を借りてその交信録を紹介してみようと思う。
  会話君の名誉のために一言断っておくと、ここで紹介する会話、彼(彼女?)がまだ幼かった頃のものにほかならない。十年という歳月の間には人間は大きく成長するように、対話型コンピュータシステムの会話君もいまではそれなりの成長を遂げていることだろう。この十年間で言語解析技術をはじめとする各種の自然言語処理技術の研究が進み、自己学習機能なども格段に強化されているはずだから、その対話ぶりには相当の進歩が見られるものと思われる。
  私自身はその時を最後に会話君とは交信する機会のないまま今日に至っているのだが、会話君はいまもニフティ・サーブのチャットルームで人間の話し相手がやってくるのを待ち望んでいるようだから、遊び心のある方は一度会話君に話しかけ、その成長のために一役買ってあげてもらいたい。もしかしたら、逆に会話君からお説教されたり、からかわれたりすることもあるかもしれないが、それもまた一興というものだろう。

  以下に紹介する対話のうち、「会」をつけたものは富士通日本語対話システム会話君の言葉を、また「私」と記したものは筆者の言葉を表わしている。初期の頃の会話君でもその話しぶりはなかなかのものであったことがおわかりいただけよう。

>会話くん KAIWAKUN
1. ご案内 2. サービスに入る
>2

会話くんに接続されました。

会:あなたの名前を入力して下さい
私:阿呆田です
会: 何か言ってね
私:うん
会:うんではなく、ハイと言いましょう
私:はいはい(本音:感心感心、なかなかやるわい)
会:あなたは、社会人ですか?
私:はい
会:あなたは、社会人ってことを覚えました
私:あらら(本音:おっ、学習機能がさっそく働いたか)
会:仕事が辛いなと思うのはどんなときですか?
私:こんなふうにコンピュータで遊びたくなるときです
会:ボーナスは何に使いますか?
私:あなたを買うのに使います(本音:いまはフリーだからボーナスなんかない!)
会:私は会話型のプログラムです
私:美人のプログラムさんらしいですね
会:職場で好きな人は誰ですか?
私:残念ながらいませんね
会:あなたの仕事は何ですか? 阿呆田ですさん
私:泥棒です(本音:ちよっとフザケが過ぎたかな?)
会:どうして、泥棒の仕事を選んだのですか
私:あくせく働かなくてすむからです
会:職場の雰囲気はどうですか?
私:ひゃはは・・・スリルとサスペンスに満ちてます
会:あなたは、なにを笑っているの? 阿呆田ですさん
私:なんてあなたは利口なんだろうって!
会:子供の好きなおちゃは? 阿呆田ですさん
私:なんだろ?(本音:「です」も名前の一部だと学習しちゃったな)
会:食べられませんよ
私:会話君の歳は?(本音:話を脇にそらしたらどうなるかな?)
会:正解は、オモチャです
私:なるほど
会:えらいでしょ 阿呆田ですさん
私:えらいえらい
会:まじめに話そうよ!
私:だから歳をきいてるんじゃない
会:今日は、11月8日、立冬、世界都市計画の日ですよ(本音:そんなこと知るか!)
私:あたたの歳はいくつ?(本音:機会相手にしつこく食い下がるこの私……)
会:けっこう若いんです
私:ほう?
会:ところで、NIFTYはパソコン通信の会社ですよね
私:そうらしいね
会:貴方は、社会人ですよね
私:そうですよ
会:やはりそうでしたか
私:でもOLではありません
会:あなたの仕事は何ですか?
私:だから泥棒っていったでしょ(本音:もう忘れちゃったの?)
会:あなたの会社は、どこにありますか
私:ひゃは!
会:話しが分からなくなっちゃったよ、ごめんね
私:うん(本音:ちょっといじめすぎたね、ごめん!)
会:貴方は、社会人ですよね 阿呆田ですさん
私:そうです(本音:宇宙人だと答えればよかったかな?)
会:やっぱり
私:ふーーっ
会:あなたは、どこに住んでいますか?
私:東京です
会:東京から連想されるものは、何ですか 阿呆田ですさん
私:物価が高い
会:高いってどのくらい
私:500メートルくらい(本音:またからかってみるか)
会:私も東京が好きです
私:どうして?
会:そういわれても
私:困るってか?
会:何に困っているのですか
私:お金に(本音:あれま、妙な展開になってきたなあ…)
会:他には、何を集めるのが好きですか
私:お金以外のものを集めるのはきらいです
会:きらいと言われても……
私:困りますか?
会:困りますってなあに? 阿呆田ですさん
私:楽しむことです(本音:こうなったらとことん意地悪にいこう)
会:困りますは、楽しむことですね
私:そうです
会:やはりそうでしたか
私:そうそう よくわかりましたね
会:話しは変わりますが、猿はお尻が真っ赤ですよね 阿呆田ですさん
私:そうですね(本音:乱数使って話題選らんだんだろうけど、猿の尻とは!)
会:私と意見が合いますね
私:なかなかお詳しい
会:なかなかお詳しいってなあに?
私:「猿のお尻には青いのもある」ということです(本音:君のことだよーん)
会:地球は青いです
私:すると地球は猿のお尻ですか?(本音:しかし、俺も人が悪いなあ)
会:地球は青いです
私:やはり猿の尻だったんですね
会: 猿は、どこにいますか
私:地球にいます
会: 地球は青いです
私:青いたしかに……あなたもまだ青い
会:青のいいところって何ですか
私:澄んできれいなとこですね
会:きれいってどのくらい
私:そうだな,クレオパトラくらいかな
会:1つしかない食器は何?
私:なんだろう?(本音:話が込み入ってくるとすぐ話題変えるなあ)
会:1つを英語で言うと分かりますよ
私:椀
会:はっはっは、答えはお椀ですよ
私:あなたはとても頭がいい!(本音:接頭語の「お」が抜けただけじゃん!)
会:猿のお尻には青いのもあるということですよね
私:そうそう 実にあなたは理解がはやい!(本音:また会話のズレが……)
会:はやいものと言えば
私:ロケット?・・・それとも光?
会:私は、青が好きです
私:なるほど(本音:まだ青にこだわってるな)
会:感心しましたね
私:さすが人工痴能・・・人工知能でないところがステキ!
会:今日は、どんな天気ですか? 阿呆田ですさん
私:今日は晴天です,だから雨降ってます(本音:会話君発狂しちゃうかな?)
会:あなたは、晴れ男ですか?
私:いえ、狼男ですね
会:ところで、CDは雑音がなくて音が綺麗ですよね
私:綺麗ですね
会:美男、美女は得ですよね 阿呆田ですさん
私:得ですね
会:美人は得です
私:そうですね
会:納得していただけましたね
私:ええ(本音:なんだか妙な気分……)
会:今度の週末も、晴天だといいと思いますか
私:はい、そう思います
会:思いますってなあに?
私:あらら(本音:自分から使っておいて……)
会:思いますは、あららですね
私:そうそう(本音:変なこと学習させちゃったなあ)
会:あたりですね
私:実にあなたは理解がはやい!
会:早いってどのくらい
私:蝸の百分の一くらいの速さかな
会:そういえば、フォーラムは趣味が合う人たちの出合いの場ですよね
私:そうらしいですね
会:集めるのはきらいですよね
私:きらいです
会:私も、きらいです
私:だからフォーラムきらいです
会:ほんとにきらいなんですか
私:ほんとですよ
会:鋭いなー
私:ブッ……ところで鋭いって鈍いことですか?
会:お店の前にいる虫は?
私:なんだろ?(また話題変えたな!)
会:水玉模様の付いた丸い小さな虫ですよ
私:テントウ虫
会:そうです、あなたはトンチのクイズに強いんですね
私:トンチンカンならもっと強いですよ
会:あなたより強いですか 阿呆田ですさん
私:そうですね,トンチンカンは僕よりもっと強い(本音:あれまあ、)
会:私と意見が合いますね
私:合いますね(本音:全然合わないじゃん!)
会:突然ですが、冬至は24節季の1つで、12月22日頃ですよね 阿呆田ですさん
私:そうですよ,でも,あなたは実におくわしい!(本音:暦のこと俺より詳しい!)
会:私は会話型のプログラムです
私:こんどデートしましょ(本音:君のプログラム構造が見えてきたよ)
会:デートしましょってなあに
私:そんなことも知らないの
会:デートしましょは,そんなこと知らないのことですね
私:そうです(本音:なんでも素直に学習しちゃうんじゃないの!)
会:やはりそうでしたか
私:ますます痴能が高まりますね・・・さて,そろそろおいとまを!
会:私と意見が合いますね
私:……(本音:たしかにこっちの「痴能」も高まったわ!)
会:さようなら、阿呆田ですさん またお話しましょう
>/E
>OFF

  有名なコンピュータサイエンティストのアラン・チューリングは、コンピュータが人間と同様の思考できるかどうかを判定する方法としてチューリングテストなるものを考案した。そのおよその原理は、次のようなものである。
  このテストを受ける人はコンピュータの前に座りキーボードを操作して任意の質問や会話文を入力する。いっぽう、受験者からは見えないところには、コンピュータの前に座った本物の人間と自動対話型コンピュータが配されていて、受験者の入力した質問や会話文に本物の人間か対話型コンピュータのどちらかが応答するものとする。受験者は自分のモニターに返答が表示されるごとに、その発信者が本物の人間のほうであるか、対話型コンピュータのほうであるかを言い当てなければならない。
  この一連の試行実験をを何度も繰り返したあとで、その結果を集計し、当たりと外れの確率がそれぞれ五十パーセントに近づくほど、その対話型コンピュータは人間に近い思考型のコンピュータだと判断できるというのがこのチューリングテストのミソである。参考までに述べておくと、もし当たり外れの確率のどちらかが百パーセント近くに片寄ったとすれば、受験者には人間とコンピュータの識別がはっきりとついていたか、識別がついていたにもかかわらず受験者が意図的に答えを外したかのどちらかだということになる。もちろん、そのような場合には、問題の対話型コンピュータはまだ人間の思考レベルまではいたっていないと判断されるわけである。
  チューリングテストの正当性についてはいまなお賛否両論が尽きないが、いずれにしろこの種のテストに耐えられるようなコンピュータが出現するのは、まだまだ遠い日のことであるように思われてならない。

「マセマティック放浪記」
2001年2月21日

渡辺淳絵画展の舞台裏

  名神高速道から北陸自動車道に入り、木之本インターチェンジを過ぎる頃には、いっきに空が暗くなり小雪がちらほらと舞い始めた。そして、敦賀インターチェンジが近づくにつれて雪の降り具合もどんどん激しくなってきた。琵琶湖北端から日本海沿いの敦賀湾方面へと抜ける道は、平安の頃まではかなりの難路だったようである。そのおどろおどろしい様子は、あの有名な紫式部日記などにも描きしるされている。まだうら若き乙女であった紫式部は、越前の国司をつとめた父の下向に随行し、その道を何度も往還したようである。のちに源氏物語となって結実する彼女の並外れた想像力と創作力は、そんな若き日々の生活を通して少しずつ培われていったのであろうか。
  雪がひどくなったとはいっても、その点、現代の高速道路は楽なものである。四輪駆動に切り替えただけで、チェーンを装着するまでのこともなく敦賀に着いた。そして敦賀インターチェンジで高速道をおりたあと、若狭一帯を東西に縫う国道27号伝いに小浜方面へと向かって走り出した。目指すは、福井県大飯郡大飯町川上在住の画家、渡辺淳さんのアトリエである。この二十日から銀座で開かれる渡辺淳絵画展の作品の運搬を手伝うため、私は久々に冬の若狭にやってきたようなわけだった。
  しばらく走るうちに雪は大粒の雨に変わった。今年の冬は例年に較べて寒いといわれているが、それでも周辺の野山に積もっている雪は予想していたよりもはるかに少ない。一般道の路面にいたっては雪のかけらさえも見当たらない。海が近いという理由はあるにしろ、二月上旬という時期を考えると、やはりこれは地球温暖化の影響なのだろう。小浜市に入る頃には午後二時近くになっていたので、小浜湾に臨む海岸道路の一角にあるフィッシャーマンズ・ワーフに立寄って遅い昼食を取ることにした。展望の利くレストランの窓際の席で冬の日本海を眺めながら箸を運ぶ海鮮丼の味はなかなかのものだった。
  小浜市街のはずれにある国民宿舎小浜ロッジの前を抜け、小浜湾の全景を眼下に望みながらしばらく進むと道は国道27号に合流した。そこから十五分ほどで大飯町の中心集落本郷に入り、大島半島と国道とを結ぶ青戸大橋の渡橋口を過ぎると、まもなく綾部方面へと向かう県道の分岐点に到着した。この県道分岐点には「竹人形文楽の里、若州一滴文庫」と記された案内板が立っている。もう十余年前の晩秋のことだが、越前海岸から敦賀に入り、若狭路づたいに舞鶴、宮津方面へと抜けようとしていた私は、突然目に飛び込んできたこの案内板の文字に魅せられるがままに若州一滴文庫を訪ね、その時たまたまそこに展示されていた衝撃的な二枚の絵にめぐりあったのだった。
  それらのうちの一点は月下の佐分利川の情景を描いた「秋夜」という作品、もう一点はオレンジ色の明るい光を放つランプとそのまわりを酔いしれるように飛び交う数匹の蛾を描いた「ランプの詩」という作品で、前者は水上勉著「秋終」(福武書店刊)の、後者は同じく水上作品の「生きる日死ぬ日」(福武書店刊)の表紙絵の原画であった。「秋夜」から、私は、この地に産声をあげ、ささやかな生を営み、そして一握の土塊へと還っていった無数の人間たちの悲喜こもごもの叫び声と、内に精霊をはらみながら、ほの白く浮かび、あるいは黒い影を見せて息づく草木の一本一本が呟き発するひそやかな言霊を聞き取った。またいっぽう、見る者の心を瞬時に魅了するような「ランプの詩」からは、常に命あるものへの深い思いを抱き、声なきものの声を聞き姿なきものの姿を見ることができるこの画家の至高の人柄を感じ取りもした。
  他には来訪者のなかったみぞれ混じりの寒々としたその晩秋の夕刻、一滴文庫の片隅で竹紙の原材料をつくるため一人窯炊き作業をしておられた渡辺淳さんと運命的ない出逢いをしたのは、私がいったん文庫の見学を終えた直後だった。のちに私はその不思議な出逢いの風景を一滴文庫の会員誌「一滴」に連載、思いがけなくもその一連の作品でささやかながら文学賞を受賞したようなわけだった。
  その想い出深い県道に車を乗り入れ、目下冬季休館中の一滴文庫の近くを過ぎて20分ほど佐分利川の谷奥方向へと進んでいくと大飯町川上の集落に着いた。渡辺さんの現在のアトリエは川上集落の入口付近に位置している。一滴文庫ではじめて渡辺さんと出逢ったその日の夜、私は、「山椒庵」と呼ばれていた当時のアトリエに泊めてもらった。いまのアトリエから少し離れたところにあるその山椒庵は、このうえなく見事なボロ家であった。だが、またそれはこの世でもっとも温かい心のかようボロ家でもあった。
  玄関から奥に通じる狭い廊下の床はきしみ、部屋を仕切る戸のほとんどは開閉がままならぬほどにくたびれたり歪んだりしていた。黒くすすけた天井の裏には物の怪が棲んでいてもおかしくない感じがしたし、部屋のあちこちには雨漏りの跡らしいものさえ見て取れた。山椒庵などというよりは、むしろ「惨笑庵」とでも呼んだほうがよさそうな風情があって、この仙人のような庵主は、自ら、この超芸術的な空間を心の奥で笑い、楽しみ、そして愛し、それを創造の源泉にしているようなふしがあった。また、たぶん、そのせいなのだろう、この不思議な空間には、人を自然に裸にさせるほんものの温かさと安らぎとが満ち溢れているようだった。
  アトリエというあちら風の言葉にはシャレた響きが感じられるが、それは、もともと工房、すなわち、作業場のことを意味している。作業場である以上、そこには得体の知れない雰囲気やある種の臭いが漂っているのが普通である。言うなれば、アトリエとは、作家や職人が裸になって己の執念や錯綜する想いを吐露し、作品へと昇華させるべく人知れず格闘するリングであるから、柱の一本いっぽん、床板の一枚いちまいには長年の汗と脂が
  しみこんでいるはずである。そして、おそらくは、本物の創作と呼ぶに値するようなものはそういったところからしか生まれてはこない。
 私が山椒庵に足を踏み入れた瞬間、まっさきに目に飛び込んできたのは、若い裸体の男が両膝を立てて座り込み、なにかに苦悶するがごとく頭をかきむしっている姿を描いた50号ほどの大きさの絵であった。水彩とクレヨンで描かれた粗いタッチの絵であったが、内から激しく突き上げるやり場のない想いを御しかねて無言の呻きを発する若者の姿には、そらおそろしいまでの迫力があった。その絵は、渡辺さんが貧乏のどん底にあった十八歳の頃に描かれたものであるという。孤独で、しかも激しい肉体労働をともなう炭焼きをやりながら、重い病の父親をはじめとする家族の生計を支えるのは並大抵ではなかったらしい。炭焼き作業に不向きな冬場は土木工事に出て生活費を稼ぐ日々を送っていたとのことで、そんな折、仕事先からもらって帰ったセメント袋をほぐし広げ、その上に描いたのが目の前の絵だというわけだった。
 「ほったらかしとったら、知らんうちにネズミが端っこを齧ってもうてのう……ただ、こんな絵は、いま描けいうても、もう、よう描けはしまへんわ」
  初対面のその日、そう話してくださった渡辺さんの顔は、こころなしかはにかんで見えたように記憶している。「うつむく(1950年)」と題されるその絵は今回の個展でも展示されることになっている。会場に展示されたこの絵の右上端をご覧になれば、そこに鼠の齧った痕がはっきりと残っているのがおわかりになることだろう。
  1967年、35歳のときに「炭窯と蛾」という作品が日展に入選、それをきっかけに、渡辺さんの絵はその独特の画風でマスコミ関係者をはじめとする多くの人々の目をひくところとなった。だが、自分の本職はあくまでも炭焼きであり請負郵便配達人であるとする渡辺さんは、それ以降も自らの信念を守り通し、佐分利谷の一隅でささやかに生きる一生活者としての道を捨てることはなかった。そんな噂を聞きつけた作家の水上勉先生が突然訪ねてこられたのは渡辺さんが38歳のときのことだったそうで、それが縁となって水上勉作品の装丁や挿画を次々に手掛けていくようになったのだという。誤解のないようにこの際あえて書いておくと、水上作品の装丁や挿画を担当したゆえに現在の渡辺さんがあるのではなく、あくまで、画家として類稀な画業を確立していた渡辺さんがあったがゆえに、大作家の水上勉先生が自著の装丁者や挿画家として渡辺さんを選んだということだったのである。
  それにしても、私が初めてお邪魔した頃の山椒庵の有様は想像を絶するものだった。もともと古い空き農家だった山椒庵のいたるところには膨大な量の作品群やスケッチ群が無造作に積み置かれていたが、素人目にもそれらすべてがいずれ劣らぬ素晴らしい作品であることは明かだった。だが、そんなことよりも私が驚いたのは、その貴重な作品群の保存状態のひどさであった。剥き出しのまま雑然と重ね置かれている絵の上では猫や鼠どもが毎晩のように運動会を繰り広げているらしく、いくつかの大きな絵のあちこちには、猫が爪を研いだ痕や鼠の齧った痕、いずれのものかは定かではないが、動物の糞や尿の痕跡とおぼしきものまでが残っていた。
  雨漏りによる影響のほうもひどく、かなりの数の絵が変色したり、カビが生えたり、画面を横切るようにして筋状に流痕がはいったりしていた。だが、呆れたことに、渡辺さんご本人は、「まあこれもそれぞれの絵の運命ゆえに仕方のないことですわ」とでも言いたげな御様子だった。渡辺さんにはともかく、それら作品群にとって幸いなことには、近年に至ってあまりにも老朽化の進んだ山椒庵は屋根の一部が落ちてしまって風雨を凌ぐのが困難となり、やむなくして新たにアトリエが建てられることになった。そしていまでは作品群もそのアトリエの収納庫に移され、以前よりもずっと手厚く保存されるようになっている。山椒庵にくらべれば現在のアトリエはずっと立派で格段に機能的なものなので、私などは半ば冗談を込めて「山椒御殿」と呼んでいる。むろん、御殿という言葉に「豪邸」という意味を込めているわけではないのだけれども……。

  渡辺さんの個展をどうしても東京で開きたいと言い出したのは、私の知人でもあり、いまでは熱烈な渡辺ファンでもあるコーディネータの住田尚子さんと、朝日新聞の辣腕記者だった故鈴木敏さんの奥さん鈴木百合子さんのお二人だった。大都市各地の画廊から誘いがあっても頑として首を振らない渡辺さんをどうしても説得してくれという、いささか無理とも思える依頼を託された私は、若狭に出向いて渡辺さんと何度も直談判し、電話で話し合ってようやくのことで個展開催の了解をとりつけた。画廊主催の個展ではなくて、発起人が中心となって適切な貸画廊を借り、あくまでも渡辺さんの友人知人一同の協力によるボランティアベースの個展とするということで納得してもらったのだった。私を介して渡辺さんと親しくなったアサヒ・インターネット・キャスターの穴吹さんなども、発起人の住田女史の脅迫的協力要請により、有無を言わさず渡辺さんの紹介文を書かされる羽目になったようである。会場で配布予定のリーフレットの洒落た紹介文は同氏の筆になるものだ。
  ともかくも、そのような事情があったので、間に立った私もまた作品の運搬に一役買うことになったわけである。アトリエ前には既に、やはり絵の運搬を担当することになっている知人の椿良さんのシボレーが到着していた。そして、私のワゴン車が着くのを待っていたかのように、西村雅子さんのご御家族をはじめとする地元有志のご協力のもと、一斉に作品や関連資料の積み込み作業が始まった。大小のものすべてを合わせるとゆうに百点を超える作品群で、しかもクッションや覆いを慎重に配しながらの作業だったので想像以上に時間を要したが、幸いなことに、過不足なくうまい具合に二台の車に全作品が納まった。
  その晩は大飯町一泊し、翌朝東京に向かって出発したが、積んでいる物が物だけに心理的に落着かないことこの上なかった。ことりと小さな物音がしただけでも、万一に備えてその原因を確かめるといった状態だったから、当然、アクセルを踏むのもブレーキを踏むのも慎重にならざるをえず、いつもなら目にはいる途中の雄大な山岳風景もほとんど記憶に残らない有様だった。現金輸送車や高価な美術品の運搬車の運転手たちの気持ちが多少ともわかる思いがしたことは言うまでもない。無事東京に着いたときにはさすがにほっとしたような次第だった。
  地元若狭でも渡辺さんの絵は入手が難しいのであるが、このたびの個展では画廊借用費等を捻出する必要などもあって、一部の小作品にかぎっては一般にも頒布されることになった。既に朝日新聞東京版などでも個展開催が報じられているようだが、百聞は一見にしかず、まずは渡辺淳作品の素晴らしさを皆さんの一人ひとりの目でしっかりと確かめていただきたいものだと思う。

「マセマティック放浪記」
2001年2月28日

たまには下手な詩でも

《蜘蛛と蝶》

たぶんあなたも
気がついてはいなかったのでしょう
吐く息のように自然にあなたの口からこぼれ落ちた
さりげないあの言葉が
鋭く凍りついていたことには  
切れてしまいました
あまりにも呆気なく
営々として紡ぎあげた
この世でいちばん丈夫な筈のあの糸が
哀しみの弾け散る音をたてて
恨めしそうに切れ落ちる
そのせめてものいとまさえ許されることのないままに

蜘蛛が無心に銀の糸をめぐらしているところです
妖しげなその振舞いも      
蜘蛛にすれは明日を生きるためなのです
獲物がそれにかかるのは天の摂理にほかなりません
そんな蜘蛛は悪者ですか
銀の網に近寄る蝶は
いつでも無垢な犠牲者ですか

切れた糸が夜風に舞います
虚しさと寄る辺のなさは
たぶん自由の代償です
また紡ぎますか
絶対に切れないとかいう糸を
また戻りますか
蜘蛛と蝶とのおそろしく不自由な戯れに
時と舞台と役者とをすこしばかり替えながら 

《 灯  火 》
(旅立つ若き二人のために)

誰も知らない               
遠い遠いところから             
時の翼に育まれて              
君達はやってきた   
小さな灯火を守りながら           
君達はそれぞれに旅してきた
そして出逢いやがて誓った         
遠くへと続くというこのたまゆらを
二つの光で照らすことを          
誰もまだ還ってきたことのないという
この不思議な道をさす          
道標にうながされて
寄り添い歩んでいくために        
           
やがて陽は沈み
星闇が行く手を包むだろう
夜露に衣が濡れるだろう
眼から時間が流れるときは
夢が切なく喘ぐときは          
君達二人で灯しきた       
光を高くかかげたまえ       
生きるという営みは 
深まる闇のあちこちで  
凍る夜風に搖れながら
息づきともる灯火が
光の糸で紡ぎ合う
小さな小さな詩だから       
小さな小さな虹だから

《 言葉の運命》

言葉と言葉は
つながろうと妖しく撼える
ふたつの言葉は
つながろうとして足掻き
足掻きのなかから詩が生まれる
つながろうとするまさにそのとき
幻想は輝く歓喜の実在に化ける
詩は七色のエロスを放つ

ああしかし
つながった言葉の悲しさ
つながろうとした激しい力は
行き場を失って斥力に変わる
物理学の法則の通り
エネルギーは保存される
実在を幻想にいま一度戻す力として
言葉と言葉の結び目に
懐疑と淋しさの空間を生みながら

ひとたびつながった言葉は
そのまま危うくつながっているにしろ
またバラバラになるにしろ
離れてまたつながっていくにしろ
孤独と懐疑の地獄のなかを
漂っていくしかない
かつて見せた虹色の光の
末路としてはあまりにも哀しい
鬼火のように蒼く暗く
石のように重たい光を放ちながら
先の見え透いた自己反復(トートロジイ)の詩を
涙の化石で後生大事につづりながら

醒めた詩人らは
そんな言葉の離接の歴史を
親和力の悲劇と呼ぶという
呻きながら・・・・

《 日 足 》

私は歩いた 歩き続けた
そして・・・・
もう陽は沈みかけている
生涯にただ一度だけ昇り
ただ一度だけ沈むという日輪が・・・

猫が恋をしている
猫の太陽はどんな進みかたをするのだろう
隣の犬がしきりに自由を欲しがっている
太陽の歩みがのろいと
かれこれ十年も叫んでいる

恋に狂ったような気がする
自由を夢見たような気もする
なんにもしなかったような気もする
そんなものだという気もする

遠い星から眺めたら
この世の愚かな旅路など
どうせ小さな光の点
生と死のはざまなど
星の涙のひと雫

あなたはいつから哲学者になったの?
意地悪な声がして
積木の家をバラバラにする
たかが遊びにすぎないだって?
陽が沈んでしまったら二度と積木はできないんだぞ!

西の空の太陽が
急に動きをゆるめている
茜色は寂しいけれど
工夫次第ではまだ遊べぬこともない
ひとりぼっちの隠れんぼより
競歩のほうが大事だと
嘘をついたのはどこのどいつだ・・・

「マセマティック放浪記」
2001年3月7日

与勇輝の人形に思う

  ある知人の家を訪ねると一目みただけでそれとわかる与勇輝(あたえゆうき)作の人形が飾られていた。老人の姿をかたちどった人形だったが、いつどこで目にしても、この人の手になる人形には見る者をはっとさせる不思議な生気が漂っている。与勇輝作の人形のもつ底知れぬ魅力と凄みについては、女優の黒柳徹子をはじめとする一部の人形通たちの間でずいぶん以前から大評判になっていたようだし、十年ほど前には国内各地のデパートなどで作品展示会が催され一世を風靡したこともあったから、よくご存知の方も多かろう。
  まったく畑違いの世界のこととあって、私は人形制作技術については何ひとつ知識は持ち合わせていないのだけれども、ふとしたことから与勇輝の人形の放つ妖しいまでの力に心底魅せられてしまった人間の一人として、その作品の素晴らしさについて過去の記憶を交えながら少しばかり述べさせてもらいたいと思う。
  はじめて与勇輝作品と対面したとき、瞬間的に「この人形を作った人はおそろしい」と感じたことをいまもはっきりと思い起こす。むろん、この「おそろしい」という言い回しには最大級の敬意が込められている。ある種の精気を発するようなその人形の視線には、向かい合う人間の心の奥底を当人にすら見えないところまで鋭く射抜く力が隠されていたからである。しかも、その視線は、鋭いにもかかわらず、おそるおそる確かめてみると不思議なほどに温かい。そこには、すべてを許し包み込む大地のぬくもりとでも言うべきものが強く感じられるのだ。
  与勇輝という人は、高名な人形師、辻村ジュサブローと、ある意味で対象的な存在であると言えるかもしれない。和服を粋に着流し、はじめての相手にも女性を思わせるような物腰の柔らかさで、みるからに言葉優しく語りかけてきてくれるジュサブローは、実はその内奥に決して他人には近寄ることの許されない峻厳さを秘めた人でもある。はじめの優しさをその本質だと取り違えて一歩奥まで踏み込もうとすると、多分、厳しく、またときには凍るような冷たさで弾き返されてしまうことになるだろうと私は感じたものである。昔の吉原の遊廓などをテーマにしたその数々の壮麗な作品群がおのずから物語っているように、ジュサブローはその視点を「天」、すなわち、究極的には彼にしか近づけない「時空の高み」にとり、そこから鳥瞰される世界の有様とそこで生きた個々の人間の運命を、人形というかたちに託し込み、一つの完結した空間として演出する。したがって、天才ジュサブローにしてはじめて到達可能な世界であるかわりに、そこは他の誰も踏み込むことが許されない世界でもある。 
  それに対して、与勇輝という人は、当初はきわめて厳格かつ孤高でどこか近寄り難い感じがし、見方によっては偏屈そのものにさえ映るにもかかわらず、聳える壁をその内奥に向かって少ずつ踏み越え進んで行くならば、最後には近づいて来る者を心の灯火で温かく迎えて入れくれるような人柄に違いない。この人の視点は「地」にあって、そこから世界を見上げている。そこから優しく人びとを包みこんでいる。いや、むしろ、その視点は人間の身体の中に埋まっていると言ってよい。だから彼の人形は、一体一体がそれぞれの物語を心の言葉で話しかけてくる。それぞれの人形はそれぞれの人生を見事に背負って立っている。
  例えば、かつて私が目にした作品の中に「追憶」という一群の人形があった。それらは、二人のまだ幼いこどもを間にはさんだ中年の夫婦を中心に、老母、それに小学生から高校生くらいの残り五人の子供達を左右に配した一昔前の家族の人形群であった。正面に立つと、一つひとつの人形は、いや、その家族の一人ひとりは、それぞれの人生の経験と重みとに応じた心と言葉で見るものに自らの存在を訴え語りかけてきた。私にはたしかに彼らの声が聞こえたし、それらの眼が何ごとかを訴えかけてくるのを感じもした。
  それだけでも凄いことなのだが、人形群の後ろに回った私はいっそう驚かされることになった。それらの人形それぞれの後姿がなんとも感動的だったからである。人間の後姿はなによりもよくその人生を物語ると言われるが、それら一群の人形の背中のひとつひとつは、生身の人間のそれと同様、いやそれ以上に、深い感慨の込もった無言の言葉を静かに発していたのである。こうなると横に回ってみたくなるのが人間の心理というもので、作者思惑通りに、そこでまたはっと息を呑まされることにもなった。その当時までに制作された人形の数はおよそ五百体にのぼるということだったが、一体一体の人形がどれをとってもすべてそうだというのだから、ただもう驚嘆するほかはなかった。
  ここまでくるともう、人形などと呼ぶよりは、「心形」とでも呼んだほうがふさわしいのではなかろうか。普通、絵画、彫刻、工芸といった作品は写真に撮って図版として製本すると、どんなに優れたものであっても持ち味が死んでしまうものなのだが、与勇輝の作品に限っては不思議なことにそうではない。その人形達は平板な写真となって本の中に閉じ込められてもなお、驚くばかりに精気を放っているのである。これはもうただ事ではない。文字通りの「心形」のなせる業で、そのこと自体が与勇輝の作品の凄さを何よりもく物語っていると言えた。
  あくまでもこれは個人的な推測ではあるが、与勇輝が、一時期活動を共にしていた辻村ジュサブローと別々の道を歩むようになった背景には、さきに述べたような本質的な視点の相違と表現法の違いがあったように思われてならない。むろん、どちらも類まれなる才能の持ち主なのであり、表現の立脚点が相互に異なるのであるから、ここでその甲乙を議論してみたところで何の意味もない。ただ、私自身は、自らの人生観との絡みもあって、与勇輝の作品により惹かれるところが多い気はする。

  人形というと、世界的に有名なのはジュモーである。あのフランス人形の極地とも言うべきジュモーの人形には、精巧な作りに加えて言い知れぬ豊かな表情とこまやかな感性が秘められており、見るものを不思議な感動に誘い込む。与勇輝の人形もそれに似たところがなくもないのだが、私個人としては、その本質は、むしろ、ロダンやその弟子の荻原碌山、高村光太郎といった、自然主義の彫刻家達の作品にに近いものであるように思う。
  歓び、悲しみ、怒り欲望、悶えと言ったような人間の内面を、生身の人間のそれら以上に衝撃的なリアリティをもってブロンズの彫像に托しきった偉大な彫刻家達と同様に、与勇輝という人は、布地を主な素材とした独自の人形に人間の心の陰翳を托し表そうとしていると言ってよい。写実ではあるが、それは心とその心の発する言葉の写実なのであり、単なる外面の精巧な写実なのではない。だから、たとえゴッド・マザーという言葉の意味を知らないとしても、ゴッド・マザーというタイトルのついた人形の前に立つと、我々は一目見ただけで有無を言わさずその言葉の持つ意味を納得させられてしまうのである。実際、これは凄いことに違いない。
  与勇輝は決して自分の人形製作の技法を隠したりはせず、一切を公開して見せていたらしい。しかも、町のカルチャー・センターなどで、長年にわたって一般の人々を対象にして人形制作の指導を続けてもきたという。そのかわり、その指導は極めて厳しかったようである。容易なことではうんと言わない。素材も決っているわけではなく、工夫を凝らしてありとあらゆるものを使う。靴・帽子・バイオリン・ランドセル・菅傘・篭類・草履・下駄・着物地の染めから各種の細かな刺繍まで、本物の製作とほとんど同じような工程を踏みながらすべてを自分で作らせられる。もちろん、着物や洋服は、本物を仕立てるのと寸分違わぬやりかたで作製させられる。そしてそのうえ、仕上がった人形はそれなりの人生を背負い、心と言葉をもっていなければならない。だからたった一体の作品を作るのにさえ途方もない時間を要したりもするらしい。
  私の知人でもあり、与勇輝の弟子筋にあたるある老婦人などは、老人の人形を作っていたとき、その小さな杖一本を作るのに何度やってもやりなおしを命じられ、そのためにずいぶん長い時間苦しんだそうである。あるときたまたま見つけたちいさな木の素材を使い、それにいろいろ手を加えてようやくOKが取れたのだそうだが、その人形が完成したときの充実感は大変なものだったという。
  聞くところによると、与勇輝という人は自分の制作した人形がケースに収められることを大変に嫌うという。「呼吸ができず、心が自由に翔けなくなり、人形が死んでしまう」というのがその理由なのだそうだ。自分の作った人形が人手に渡った場合でも、彼は時間をみてはその家を訪ね、自分の納得の行くまで、形の崩れや、微妙なバランス、衣類や付属品のちょっとした加減などを調整してまわってもいたらしい。人形の一体一体が、文字どおり、作者自信の分身そのもになっているからなのだろう。
  人形制作のペースは、平均、一・二カ月に一体くらいだったようで、納得がいかないときには、年に一体も完成しないこともあったというから、まさにそのへんは昔の職人気質そのままだと言ってよい。もちろん、人形の持ち物すべて手作りだから、ありとあらゆる工芸技術の修練と研鑚をも常に積んでいるわけで、その苦労は想像以上に大変なものだったようである。
  ずいぶん前に見た作品展の賑わいぶりなどからすると、はためにはとても華やかそうに映るのだが、人形制作のペースがいま述べたような具合いだし、もともとそれを売って生計を立ててきた人でもないようだから、実際の生活面は想像以上に大変だったことだろう。
  むろん、ディーラーの誘いにのって手を抜いた作品をどんどん作るかたわら、高い講師料をもらって人を教えれば生活は楽にはなったのだろうが、そうすれば人形のほうは心と精気とを失ってたちまち死んでしまったに違いない。逆に言えば、もともとそういうことのできない気質の人だからこそ、あれほどまでに凄い人形を作り出せたのであって、それはもう、芸術の本道を行く人の宿命とでも言うべきものであるのかもしれない。
  知人の話によると、ときたまテレビ出演したときなどに見せる穏かそうな表情が与勇輝の常の表情だと思ったら大きな間違いであるという。普段人形を作っているときの、あるいは、人形の作り方を弟子たちに教えているときのその姿は鬼そのもであるらしい。その指導の仕方も、多くの一流職人や第一級の芸術家がそうであるように、教えるというよりは優れたものを自ら実際に作って見せるというやりかたであるようだ。むろん、程度をわきまえてのうえのことではあろうが、恐ろしい形相で鋭いノミを作業台に突き刺すことなど日常茶飯事のことのだったらしい。
  一流の芸術家というものは、多かれ少なかれ皆そうなのであろうが、あれほどまでに人間の心の奥を見通す眼を持っていると、むしろある意味では人一倍不幸だとも思われる。見えすぎるゆえの不幸である。そして、そのような一人の天才が、天才のゆえに避けることのできない不幸をば、全身全霊を込めて作品へと昇華させようと足掻き苦しんだ結果として、はじめて、あのような優れた人形群、いや、心形群はこの世に生まれ出てくるのであろう。
  思いがけなく目にした与勇輝作品がもとで、かつて目にしたその作品群の印象を語ることになってしまったが、いま述べたようなことは単に人形の世界に留まらず、芸術一般の世界にも通じることであるように思われてならない。

「マセマティック放浪記」
2001年3月14日

盛況だった渡辺淳絵画展

  銀座四丁目角そばの大黒屋画廊で催された渡辺淳絵画展は、スタッフ一同の予想をはるかに超える盛況のもと、六日間にわたる会期を無事終えた。本欄のコピーを片手に会場訪ねてくださった読者の方々も少なくなかったようである。なかには当日渡辺さんをサポートしながら諸々の雑事のお手伝いをしていた私の姿を目にとめ、プロフィールの写真と見くらべながら近づいてきて声をかけてくださる方もあったりし、なんとも気恥ずかしいかぎりではあった。
  画廊主催の個展ではなく、貸画廊を借り、素人が何人か寄り集まって運営にあたるという型破りの個展だったため、内心どうなることかとハラハラもしたが、結果的には望外の成功を収めることができた。成功に至った最大の理由は、なんといっても、渡辺淳さんの作品群の有無を言わさぬ迫力と類稀なる存在感、さらにはそれぞれの作品の秘めもつ譬えようのない温かさにあったと言ってよい。
 「ほんとうに来てよかったです」とか、「想像していた以上の素晴らしさで、心が温まり涙が出てくる思いでした」とか、「久しぶりで心のふるさとに戻ったような気分です」とかいったような言葉を残して帰られる方がほとんどだったことが、そのことをなによりもよく物語っている。
  いっぽうで、渡辺さんの人柄と作品の素晴らしさに共感した主要新聞各紙が個展開催を詳しく報じてくれたこと、さらには一部のラジオ局が個展の情報を流してくれたことなども成功への大きな足掛かりとなった。渡辺さんの場合、大都市での本格的な個展は今回が初めてということもあって客足の伸び具合が心配されもしたが、初日から銀座周辺の画廊での個展としては異例なまでの盛況ぶりとなり、我々スタッフは喜びの悲鳴をあげつづける有様だった。
  作品搬入当日の騒動はたいへんなものであった。午前十時頃、大小の作品群を満載した車二台を天下の銀座四丁目角の路上に強引に駐車し、五、六人のスタッフ総出であたふたと毛布で巻いた積荷を降ろし、大急ぎで大黒屋ビル七階のギャラリーに運び上げた。物が物なのにくわえて、駐車違反で捕まらないよう目の前の交番の動きを気にしながらの作業だったから、神経をつかうことこのうえなかった。
  次なる問題は百号前後の大型作品十点を含む主要作品十七点をどう展示するかだった。おそろしいことに、私をはじめその場に居合わせた数人のスタッフは、そういった作業に関してはほとんど経験の無い者ばかりだった。そんな連中が寄ってたかって、ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返し、おぼつかない手つきで絵を壁面に配していくのだから、絵のほうだってたまったものではなかったに違いない。もしも絵に口がきけたら、「誰か助けてくれーっ」と絶叫していたことだろう。
  そもそも、水平方向に紐を張りそれを基準にして絵の位置を定めるという知恵もはたらかなかったし、大きさの異なる絵を並べる場合どんな高さでどこを揃えるのが適切かというような知識も持ち合わせていなかった。そればかりか、絵を支え吊るす器具類のまともな扱い方すらよくは知らない有様だった。たまに私が講義に出向くことのある芸大などにはその道のプロがいくらでもいるから、その気になれば彼らに助けを求めることもできたのだが、発起人の住田、鈴木両女史の顔を立て、素人の手だけで万事をまかなおうという初心をとことん貫徹するため、敢えて外部に助力を仰ぐことはしなかった。
  おかげで、うまくバランスがとれずに絵が傾いたり、壁面から離れて浮き上がったり、横方向に眺めたときの中心線が揃っていなかったり、平均的な視線の高さからすると全体的に絵の位置が上にあがり過ぎていたりと、プロ筋の人が見たら目を白黒させて絶句してしまいそうな有様だった。絵と絵の間のスペースの加減や絵の配列順も問題だったし、照明の調整も想像していた以上に難しかった。自分たちのやっていることの無謀さに気がつき一時はエライことになったと困惑しかけたが、もはや引っ込みがつこうはずもなく、蛮勇をふるって突進するほかない状況だった。
  だが、火事場の馬鹿力とはよく言ったもので、必死になってあれこれやっているうちに問題点が少しづつ解消され、なんとかそれなりの様にはなってきた。絵そのものの迫力が並外れたものであったおかげで、多少の展示技術の不備はカモフラージュされてしまったのも我々にとっては幸いだった。
  大きな作品の配置が終わると、百点ほど運んできた小作品のうちのどれとどれとを展示するかの選別作業にとりかかった。持ち込んだ作品全部を飾るスペースはないから、とりあえずそれらの中から適当なもの二、三十点ほどを選んで展示するしかない。なんとか展示作品が決まると、こんどは号数が異なるうえに縦長横長のものの入り混じったそれらの作品を横二段に見栄えよく配列する作業に移った。
  小作品のほうは壁面に専用ピンを打ち込みそれに額裏の紐をかけて固定するのだが、脚立にのりトンカチをふるって正確で手際のよいピン打ち作業をするのは、経験のない者にとっては思いのほか難しい。他に適当な人材が居合わせなかったので、結局、その作業はすべて私がやることになった。子供の頃、九州の片田舎で日々手仕事をして育った私にとっては、高いところで金槌をふるって釘類を打つなど朝飯前のことである。すっかり忘れかけていた昔ながらの技術が思わぬところで役立つことになり、いささかおもばゆい気分ではあった。
  なんとか作品本体の展示作業終え、作品名を記した竹紙の小片を個々の絵の下にピンで留め終えたときにはすっかり日も暮れていた。ちなみに述べておくと、今回の個展でとても好評だったこの絵画名カードは、若州一滴文庫で西村雅子さんという方が漉いた竹紙を手で名刺大にちぎり、それに渡辺さんが画名を筆書きしたものだった。そのあと、寄贈された生花類を飾りつけ、受付のテーブルを設え、会場中央の来客用テーブルの配置や諸々の必要備品の準備などを終えたときには、大黒屋ビル全体が閉まる午後八時ぎりぎりになっていた。文字通り滑り込みセーフだったわけである。何かが少しでも狂っていたらどういう展開になっていたかわからない。
 
  翌日からの個展開催期間中、我々スタッフは各々の本来の仕事を休んで全面的にサポート態勢を敷くことにした。もちろん、渡辺淳さんも持病の腰の痛みをおして会場に日参し来客の相手をしてくださることになっていた。こうして迎えた個展開催の初日、開場時刻の午前十一時ぴったりにまず姿を見せてくださったのは、なんと女形で知られる歌舞伎役者の尾上梅之助さんだった。尾上さんの名前が芳名帳の第一番目に記入されたことはいうまでもない。
  初日にはこのアサヒ・インターネット・キャスターの責任者、穴吹史士キャスターなどの姿も見えた。渡辺淳さんの経歴を紹介するために我々が手作りしたリーフレットの一文は穴吹さんが書いたものである。会場入口付近には、「この谷のこの土を喰い、この風に吹かれて生きたい」という墨書の脇に野仏を添えたハガキ大の小作品三、四点が掛かっていた。実をいうと、この作品の落款に用いられた印章は、穴吹さん自らが刻字し渡辺さんに贈ったものだった。たまたま実印をなくしたところだった渡辺さんは、その時以降、贈られた印章の一つを実印に使っておられる。前日、渡辺さんから直接にその話を聞いていた我々は、あんまり落款、いや楽観できる話じゃないなあと冗談を言い合っていたものだった。もっとも、まさか落款のせいではなかったとは思うのだが、それらの小作品は皆売れてしまったから、穴吹さんの手になる刻印はそれなりに縁起がいいのかも知れない。
  穴吹さんの話によると、渡辺さんに贈った刻印は、心技ともにもっとも充実した時期に彫ったものなのだそうである。なるほどそうだったのかといったんは納得しかけたのだが、そのあとすぐ、私は、自分の手元にある二個の印章のことを想いおこした。やはり穴吹史士さんが贈ってくれたものなのだが、私の印章のほうはご当人がもっともスランプ状態にあったときに彫られたものであるらしい。穴吹さんの口から直にそう聞いているからそれは事実に違いない。
  話は脇道にそれるが、現在私は、「成親」と篆刻された刻印のほうをもっぱら愛用させてもらっている。もっとも、この印章、いま述べたように穴吹さんのスランプ時の怨念がすべて乗り移ったシロモノだから、この先我が身には何が起こるかはわからない。ただ、幸いというかなんというか、私は平穏無事の日々よりは波乱万丈を好むタイプの人間なので、その点この印章とは妙に相性がいいらしく、これまでのところはうまくそれを使いこなしてきてはいる。いま一個の印章のほうは、たまに隠れて使う私のペンネームを刻んだもので、一見したところ出来はこちらのほうがずっとよい感じである。だが、そのぶん込められた怨念の度も一段と強そうなので、もう少し先になってペンネームを多用する時がきたら使おうと思い、目下のところは机の引出しの奥に結界を張って(?)封じ込めてある。
  穴吹さんと前後して、いま週刊朝日の編集委員を務めている山本朋史さんも会場に現れた。八年ほど前、私が週刊朝日で怪奇十三面章という連載コラムを執筆していたとき、私の直接の担当記者だったのが当時同誌の副編集長を務めておられたこの山本さんだった。ちなみに述べておくと、当時の週刊朝日編集長が穴吹史士さんである。そのときの連載コラムの挿絵を私を介して渡辺淳さんに担当してもらうようにした関係で、お二人が直接顔を合わせるのは今回が初めてだったけれども、書簡などによる交流はもうずいぶんと長期にわたっている。
  初日の開場直後から途切れることなく次々に来場者があったため、その夕刻までには用意した芳名帳のスペースが残り少なくなり、渡辺さんを紹介したリーフレットも底をつきそうな状況になった。そればかりか、渡辺さんのエッセイ集「山椒庵日記」もたちまち品切れ寸前という予想しない展開になってしまった。翌日までになんとかそれらの補充をしようとスタッフ一同があたふたと駈けずり回ったことはいうまでもない。
  二日目には渡辺さんとの交流の長い女優の浜美枝さんの姿も見られたりした。この日の来訪者リストの中には、ニュースステーションやアサヒ・インターネット・キャスター欄でもお馴染みの朝日新聞編集委員の清水建宇さん、同じく朝日新聞の論説委員の高橋真理子さんなどの名前も見受けられた。おふたりともに私の個人的な知人ではあるが、超多忙な仕事の合間を縫っての来場だったことを思うと、はやり渡辺作品のもつ不可思議な魅力のなせる業だったに違いない。渡辺さんとの長期にわたる絵手紙交換のことが新聞でも紹介され評判になった都内中野区在住の小学生、森岡みのりちゃんが可愛らしい姿を見せてくれたのもこの日のことだった。次々に現れる来訪者の応対にきりきり舞いしていた渡辺さんの頬がしばし緩んだのはむろんのことである。
  三日目から最終日にかけての四日間は人が人を呼ぶ感じとなり、その対応で渡辺さんも我々スタッフ一同も、食事をすることはおろか、お茶一杯満足には飲んでおられない状況になった。噂を聞きつけたプロの画家や各方面の要人などの来場もずいぶんとあったようだし、北海道や東北、関西方面などからはるばる訪ねてきてくださる方々も相当数にのぼった。二度も三度と会場に足を運んでくださった方も少なくなかったようである。
  最終日の日曜日は午後五時半頃にクローズしたあと、直ちに会場の整理と作品の搬出作業に取りかかった。かつての教え子たちを数人手伝いに呼んであったので労働力には事欠かなかったが、そのあと二時間ほどですべての関連資材を片付けなければならないとあって、慌しいことこのうえなかった。展示作品は若狭の渡辺宅から運び出した時と同様に毛布やクッション材でその表面をしっかりと覆い込み、スタッフの一員椿さんのシボレーと私のライトエースとに分けて丁寧かつ慎重に積み込んだ。
  会場に飾られた大小数々の高価な献花や、奥の控え室に所狭しと積み上げられたお菓子その他の贈呈品の山をどうするかも難しい問題だった。結局、生花類のほうはその場にいた皆で適当に分担し持ち帰ってもらうことにしたが、物がものだけに、一口に持ち帰ってもらうとはいっても、運搬用の車や包装用具のない状況下はなかなか大変なことだった。お菓子や食品類は保存の利くものとそうでないものに仕分け、保存の利くものはまとめて後日車で若狭まで運ぶことにし、保存の利きそうにないものは、渡辺さんの意向にそってやはりその場において皆で分配し、それぞれの家庭で役立ててもらうことにした。
  大騒動のすえに、なんとかすべての撤収作業を完了したのは大黒屋ビルが閉まる午後八時ぎりぎりだった。大成功のもと会期が無事終わったという安堵感と、緊張の連続の裏返しとでもいうべき虚脱感とが交錯し、渡辺さんもそして我々スタッフ一同も、しばしなんとも形容し難い奇妙な気分に襲われる有様だった。

「マセマティック放浪記」
2001年3月21日

国宝渡岸寺十一面観音

  若狭へと向かう途中、関が原インターチェンジで名神高速道を降り、国道三六五号線に入った。体内に巣喰ういつもながらの脇道走行癖に促されてのことだった。雪に覆われた伊吹山の麓を抜け、姉川の合戦で知られる姉川を横切り、織田勢に敗れた浅井(あざい)長政の居城小谷城のあった小谷山を右手に見ながら木之本方面へと北上を続けていると、国宝十一面観音のある渡岸寺(どうがんじ)観音堂の入口を示す標識が目に飛び込んできた。いったんはその場所を二百メートルほど通り過ぎたのだが、長年のうちに培われた嗅覚がはたらいたこともあって、すぐに引き返し同寺を訪ねてみることにした。
  この国道はこれまでに何度も通ったことがあるのだが、うかつにも渡岸寺十一面観音の存在を見落としていたのである。そのあたりは車の通行の少ない直線状の走りやすい道であるため、ついつい高速で走り抜けることがおおく、これまでその標識があるのに気づかなかったのだ。今回はたまたま車に渡辺淳画伯の貴重な絵画作品群を満載していた関係で意識してゆっくりと走っていたのだが、逆にそれが幸いしたようなわけだった。
  琵琶湖北岸に位置するこの高月町の渡岸寺十一面観音については、松本清張の作品や井上靖の十一面観音紀行などを通して一応その存在だけは知ってはいたのだが、なぜかこれまで進んで訪ねてみようという思いがはたらかず、そのままになっていたのである。
  十一面観音というと、秋草道人の号で知られる歌人会津八一が、
  ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に 
  あひみる ごとく あかき くちびる
と詠んだ奈良法華寺の十一面観音が有名で、青春時代に会津八一の歌に傾倒していた私などは、八一の自註鹿鳴集などを片手に法華寺を訪ねその尊顔を拝しもしたものである。現在国内には六体の国宝十一面観音があるのだが、それらのなかでも美しさにおいては一、二といわれるあの法華寺十一面観音の向こうを張ると聞く渡岸の観音像を拝観できるのは、偶然の成り行きとはいえ、願ってもないことであった。
  渡岸寺脇の駐車場に車を置き寺の境内に入ると、ひんやりとした大気が心の緊張を促しでもするかのように両頬を撫でた。三月初めのこととあって、境内に人影はほとんどない。一見したところどこにでもありそうなこのお寺に、高名な国宝十一面観音がほんとうに安置されているのかとさえ思いたくなるような閑散さであった。この様子だと、たとえ観光シーズンであっても来訪者はそう多くはないのではなかろうか。
  ごく普通の造りと大きさの本堂脇の受付で拝観料を払うと、すぐに左手奥にある観音堂へと案内された。先客が二人ほどあったが入れ違いになったので、お堂に入ったときには案内役の地元の古老らしい人と私の二人だけになった。お堂の中央には重要文化財の胎蔵界大日如来坐像が安置されいた。そして、その向かって右手に立つのがお目当ての十一面観音像にほかならなかった。如来像が中央に配されているのは、仏様の格としては菩薩よりも如来のほうが上位にあるからなのだろう。菩薩とは、ゆくゆく如来になるために衆生を救済する行を積んでいる修行仏のことで、さしずめ弥勒菩薩や観音菩薩は菩薩群のなかの優等生といったところになるわけだ。
  大日如来の前に坐し一通り古老の説明に耳を傾けたあと、私はおもむろに腰を上げて十一面観音像の前に立った。それは想像をはるかに超えた、実に美しい観音像であった。なるほど、法華寺の十一面観音の向こうを張ると言われるだけのことはある。穏やかな表情と流麗このうえないたたずまいの奥に揺るがし難い気品と存在感を湛えたこの観音像が、奈良でも京都でもなく、琵琶湖北岸に近い高月町という小さな町の一隅において、千百五十年に近い歳月を超えて伝承され続けてきたことは文字通り奇跡に近いことのようにも思われた。
  高さ百九十四センチ、檜の一木造りの見事な観音像は、寺伝によると、天平八年、時の天皇より除災祈祷の勅命をうけた僧泰澄が祈りを込めて彫り上げたものだということになっている。ただ、専門家の詳しい調査によれば、実際には法華寺の十一面観音と同じく、平安初期の貞観の頃に造られたいわゆる貞観様式の仏像の傑作であるらしい。
  胸の高さに上げられた左手の中指、薬指、親指の三指は水瓶の長い首にかるくまるめて添えおかれ、残りの人差し指と小指の二指は優美なかたちで立てられている。また、いっぽうの右手は体の側面に添うようにして自然な感じで下方に伸び、感情、頭脳、生命の三線の深く刻まれた手の平の先につく五指はいずれもまっすぐに地を指している。水瓶を支える左手の親指と中指が輪を成して触れ合っていることから、敢えて印形にこだわった見方をするならば、中品中生(ちゅうぼんちゅうせい)の印のデフォルメとでもいうことになるのであろうか。
  胸から腰にかけての豊満な体の線も美しいけれども、さらにそれを一種妖艶なまでに引き立てて強調しているのが、左側にかなり大きくひねられた腰部の造りだった。しかもこの腰部の秀麗このうえないひねりは、この像全体の安定感を崩すどころか逆にそれを深めさえしていた。作者がはじめから素材の形状にかかわりなく意図したものなのか、一木造りのゆえ素材の形状を活かすべくしてこのようなかたちに仕上がったものなのかは知るよしもないのだが、実に見事なものである。瓔珞も、そして優しく流れるように全身を巻き包む羽衣様の天衣も繊細でみやびなことこのうえないものだった。
  尊顔はと仰ぎやると、久遠の祈りをこめて瞑目するかのような切れ長の両の半眼を、端正な眉から鼻筋へと続く二本の秀麗な曲線が半ば包むように囲んでいる。また、鼻柱を構成する線はギリシャ彫刻のそれのように端麗で、正中線がはっきりと浮き出た口元は小さくきりりと引き締まり、穏やかななかにも森厳さを湛えた表情全体の要(かなめ)の役割をしっかりと果たしている。ふっくらとした両頬は顔の表情全体に円やかさをもたらしており、頭髪との境をなす額の線は変化に富みしかも柔らかこのうえない感じだった。
  一般に十一面観音像は頭頂部の宝髻(ほうけい)に十一個の化仏、すなわち小仏面をもっている。詳しく述べると、前頭部に菩薩の慈悲を表わす三個の菩薩相面、左側頭に憤怒の形相をした三個の瞋怒相面、右側頭に牙を剥き出した形相の同じく三個の狗牙出相面、後頭部には大哄笑している相の一個の暴悪大笑相面、そして最頭頂にひときわ大きく天に突き出すように如来相の仏面一個と、合計十一個の小仏面が配されている。本面を入れると十二面となるわけだが、なぜか十二面観音とは呼ばれない。十一面観音信仰の典拠となる「仏説十一面観世音神呪経」や「十一面神呪経」にも、その形状について頭頂にいま述べたような十一面の小仏面を戴くと説かれているようだから、こればかりは文句を言ってもみてもはじまらない。
  ところが、この渡岸寺の十一面観音はなぜか化仏の数やその配置でも型破りの存在なのだった。前頭部には三個あるべき菩薩相面が二個しかない。そのかわりそれら二個の菩薩面の間、すなわち本面の中心線延長上に位置するところに、よく見ないとそれとは判りづらい小さな如来立像が一体配置されている。また、左側頭部には二個の瞋怒相面が配され、残り一個の瞋怒相面は左耳の後ろ側に彫り加えられている。同様に右側頭部は二個の狗牙出相面が並び置かれ、残り一個の狗牙相面は右耳の後ろ側に添えられている。さらに、暴悪大笑面は本面の真後ろに位置する文字通りの後頭部に彫り込まれているのである。しかも、この暴悪大笑相面は実に表情豊かで、その哄笑ぶりは豪快なことこのうえないものだった。両耳たぶにかなり大きな鼓様の耳飾りがついているのも私にとってはなんとも意外なことだった。おそらくはどこか西域の文化の影響を表すものであるに違いない。
  本来は如来相であるべき頭上中央の頂上仏は、これまた何故か如来形ではなく菩薩相面になっていた。他の十一面観音像にも見られる正面の小さな如来立像はもちろん化仏ではないから、化仏の数は合計十個で、本面と合わせてこれぞまさに十一面観音と言いたくもなるのだが、破格はあくまでも破格ということになるのだろう。ただ、そんな型破りの構成をもつがゆえに、この十一面観音の化仏は他の十一面観音像のものに較べて一回り大きく表情も豊かで生気に満ち満ちていた。しかも個々の化仏の宝髻は高く大きく盛り上がり、化仏自体の存在感をひときわ大きなものにしているのだった。それぞれの化仏の宝髻の前面に後光をもつ如来坐像が一体ずつ彫り込まれているのも特徴的だった。
  いっぽう、腰下から蓮台上に立つ両足先へ向かってすらりと伸びる両脚のラインも息を呑むほどに美しかった。均整のとれたこの観音像の脚線美の背後に、これまた遠い異国の文化の影が色濃く落ち潜んでいるのは素人目にも明かなことだった。それにしても、観音像本体はもちろん、蓮台の蓮肉の一枚一枚にいたるまでが一木造りだというのだから、これはもう唯々驚きの一語に尽きた。
  もともとは全身が金箔で覆われていたのであろうが、いまでは水瓶や天衣の一部などにその名残が見られるだけである。長い年月の洗礼を受けて、全体的には下地の黒漆が表面にあらわれ、ブロンズ像の重厚な輝きにも似た感じで黒光りしているのだが、それがまたこの十一面観音に言葉では形容し難い品格と崇高さとをもたらしているようでもあった。
  ――私は直接にはあなたがた人間の苦悩を救うことはできません。でも、あなたがたの陥る迷いの数々や犯すであろう諸々の過ちは、それをけっして責めたりせず、すべてを肯定してあげましょう。そして、永遠の微笑みと慈眼をもってあなたがたの生をいつまでも見守り、その道行きを祈り讃えてあげましょう。つまるところ、生きるのはあなたがた自身にほかならないのですから――無言のうちにそんな言葉を語りかけでもするかのようにたたずむこの国宝十一面観音には、しかしながら、隠れた受難の歴史が秘められていたのである。人間の業の生みもたらした戦乱の渦の中で、この像は戦火に身を焦がし焼失の危機にさらされながらも、自らを悲惨な状況へと追い立てたそれら愚かな人間のためにひたすら救済の祈りをささげつづけてきたのであった。
  元亀元年(一五七〇年)、織田信長は小谷城主浅井長政を攻めた。そして姉川の合戦とそれに続く小谷城攻防の激戦のなかで、湖北一帯に位置する数々の古刹の堂宇が焼き払われ、その寺領のほとんどは次々に没収されていった。信長の怒りをかっていた比叡山延暦寺の傘下の渡岸寺にその法難から逃れるすべのあろうはずもなく、堂宇はことごとく灰燼に帰し、渡岸寺そのものも廃滅した。
  その戦乱のさなか、この十一面観音を深く信仰していた地元の民衆たちは、兵火が堂宇を襲うのをものともせず猛火を冒して堂宇に入り、観音像を搬出したと伝えられている。しかも、なんとか救出はしたものの、それを織田軍将兵の目から隠し守る場所もなく、やむなくして土中に埋蔵し観音破壊の暴挙を回避したのだという。
  織田信長と浅井長政といえば、歴史ドラマなどにおいては常に稀代の英傑として格調高く描き出される両雄ではあるが、現代の政治家たちのほとんどがそうであるように、おそらくその実像は、戦場となった一帯に住む民衆のささやかな生活や日々の敬虔な祈りにはおよそ無縁な存在であったに違いない。その時代を左右したといわれる彼らの戦いの意義は四百年余の歳月のなかでもはや風化してあとを留めず、彼らにとっては無意味に過ぎなかったろう民衆の観音救出というささやかな抵抗行為のほうは、長い年月ののちのことではあるが、結果として、この国が世界に誇る仏教文化と仏教芸術の維持保全に少なからず寄与するところとなったのである。歴史というもは実に皮肉なものだと言うほかない。
  戦乱がおさまった翌年、井口弾正が一帯を領するに及んで、辛うじて雨露が凌げる程度のささやかなお堂が設けられた。そして、土中から掘り起こされた十一面観音像はそこに安置され、世のほとんどの人には知られぬまま、代々地元の民人の手によって守り伝えられてきたようなわけだった。金箔がほとんど剥落し、黒漆の地塗りが表面に出てきているのも、そのような背景があったからだと言われている。
  受難の日々に耐え、長い不遇の時を北琵琶湖畔の地でひそやかに送っていたこの観音像が稀代の貴仏として高く評価され、広く世に知られるようになったのはかなり近世になってからのことであった。奈良や京都の高名な寺院にあって昔からそれなりの扱いをうけてきた他の国宝十一面観音像などとはその点でも大きく異なっているのである。明治二十一年の宮内庁全国宝物取調局の調査ではじめてその真価を見出され、日本屈指の霊像として称賛されるようになった。そして、明治三十年になってようやく国宝の指定をうけたのである。それからずっとのちの大正時代になって現在の観音堂のもとになる建物が建立され、昭和二十八年に新国宝として再指定をうけるに及んで、その掛け替えのない価値があらためて深く認識されるところとなった。そして、幸いなことに、それ以降は多くのこころある人々手で厚く祀り伝えられてきたのである。
  ふとしたきっかけがもとで、この素晴らしい十一面観音像にめぐりあえることができた私は、その幸運をあたらめてかみしめながら、渡岸寺の山門をあとにした。そのあと高月町から木之本を経て琵琶湖の北岸をまわり、今津から旧鯖街道に出て小浜に抜け、夕刻に渡辺さんの待つ若州一滴文庫へと到着したのだが、その間、私は繰り返しくりかえし渡岸寺十一面観音の美しさと不思議さをかみしめ想い起こしていた。

「マセマティック放浪記」
2001年3月28日

望外の雪景色に酔う

  銀座で開かれた渡辺淳絵画展の展示作品の一部を若狭大飯町の渡辺さんのお宅まで運び、それらを無事返却して帰途についたのは夕方五時ごろだった。大切な絵を運び終え肩の荷をおろしたせいもあって、帰路はさすがに気が楽になった。小浜を過ぎ、上中町から今津方面へと抜ける国道三〇三号線に入り、熊川宿にさしかかる頃になると、急に激しい眠気に襲われた。それまでの二週間ほどがいささかハードな日々の連続だったこともあって、気が緩んだ途端にどっと疲れが出てきたものらしい。そう帰りを急ぐ必要があるわけでもなかったので、旧熊川宿の古い街並みに近い道の駅に車を駐め、しばし仮眠をとることにした。
  日本海交易の要衝として古来名高い若狭小浜から、上中町を経て水坂峠に至り、現在の国道三六七号筋にあたる朽木街道を抜けて京都へと続く旧道は、かつて「鯖街道」とも呼ばれた物資運搬の主要道であった。鯖街道は日本海沿岸産の諸物資の集積地小浜と京都とをむすぶ最短ルートで、若狭一帯の海で水揚げされた大量の鯖や各種の新鮮な海産物類がこの道伝いに京都方面に送り込まれていたため、そんな風変わりな名がついた。
  良港に恵まれた敦賀と小浜は、日本文化の曙の時代から朝鮮半島を中心とした大陸との交流の玄関口として、また、日本海沿い各地の文化や文物、諸生産物の中継集積地として大きな発展を遂げ、歴史にその名を留めてきた。敦賀と小浜は地理的に見ても、集積した物資を奈良や京都、難波津(大阪湾)方面に運んだり、逆に奈良、京都、難波津などから運び込まれた物資を日本海沿岸各地や遠く大陸に向けて船積みするのにきわめて有利な位置にあった。
  敦賀からの場合、諸物資は陸路によって琵琶湖北岸の塩津浜や木之本周辺に運ばれ、そこから琵琶湖の水運を利用して琵琶湖最南端の瀬田付近へと運搬された。川舟による瀬田からの水運は淀川の支流である宇治川伝いに京都南部の地域へと至り、さらにその地から淀川ぞいに難波津一帯へと通じていた。いっぽうの小浜からは、すべて陸路で京都へと通じる前述の鯖街道と水坂峠付近でわかれ、そのまま坂を下って直進し琵琶湖北西岸の今津に至る若狭街道の二ルートが発達していた。若狭街道経由の場合、今津から先の物資運搬には、もちろん敦賀ルートと同様に、琵琶湖、宇治川、淀川の水運が利用されていた。
  いずれにしろ、陸路による大量輸送が困難をきわめていた時代に、最小限の陸路依存で日本海側と太平洋側をつなぐこの交易路がどんなに重要であったかは想像に難くない。この南北の交易路に関西と関東を東西につなぐ交易路が交差するのが近江一帯だったわけで、この地の物資流通を一手に握っていたのが近江商人と呼ばれる一群の商人たちだった。明治以降になって日本の商工業の中心的役割を担ったのもこれら近江商人の末裔たちであったことはよく知られているとおりである。
  私が車を駐めた熊川宿は、鯖街道と若狭街道が分岐する峠の少し手前に位置する旧宿場町だった。現在も繁栄をきわめた往時の街並みの一部が保存されており、歴史民俗資料館なども設けられているようだ。昔日の面影はもはやないが、かつては一日千台を超える大八車がこの宿場町を往来したものだという。鯖寿司は若狭一帯の名物の一つだが、この熊川宿の道の駅の売店で売られている鯖寿司もなかなか味がよく値段のほうも手頃である。 
  小浜港そばの海産物販売所、フィッシャーマンズ・ワーフなどでも鯖寿司が売られているが、味も抜群とは言い難いし、一本三千円という値段のほうもちょっと高い気がしてならない。地元で定評のある鯖寿司が売られているのは朽木街道(鯖街道)沿いにあるお店なのだが、ついででもないかぎりそこまで出向くのがなかなか面倒なうえに、予約していないと買えないこともあるらしいから、そちらのほうは、どうしてもとこだわる食通の方々向きのようである。
 
  道の駅で二、三時間ほどぐっすり眠って目を覚ますと、あたりの様相が一変していた。街灯に浮かぶ車外の景色が一面真っ白に変わっている。眠っている間に天候が急変し、外は大雪になっていたのだ。全国的には結構寒さの厳しい冬だったことから、滋賀県北部から若狭一帯にかけての道路にまったく雪がないのを意外には思っていたのだが、やはり降る時には降るものだ。春を間近にした時期ということもあって少々湿っぽい感じではあるが、まさに牡丹雪という言葉がぴったりの大粒の雪が激しく舞い落ちている。フロントガラスもすっかり雪で覆い尽くされ、いったんワイパーを立てて雪を手で払い落とさなければならない有様だった。
  しばらく車外に出て主動輪の後輪にチェーンをかけ、前輪をロックして四輪駆動走行に入る準備をしている間に、頭や首筋はたちまち雪だらけになってしまった。熊川宿をあとにして福井と滋賀の県境に向かって峠道をのぼっていくうちに雪はますますひどくなり、とうとうワイパーの動きを最速にしても視界を確保するのが困難なほどの吹雪になった。カーブが多く、しかも待避所もない峠路の中央で立ち往生するわけにもいかないので、ヘッドライトをビームにし、黄色灯をつけ、速度を二十キロ前後に落として走行を続けたのだが、前面から叩きつけるように降る雪のため、ついに視界はゼロメートル状態になってしまった。
  ぐんぐん外気温もさがり、ワイパーに付着した雪が凍結してガリガリと音をたてはじめ、しばらくするとワイパーとしての機能を果たせなくなった。幸い近くに後続車はないようだったので、いったん車を停め、フロントとリヤの雪と氷を払い落とし、ウオッシャー液を噴射して一時的にわずかな視界を確保し、脱輪したりセンターラインをオーバーしたりしないように神経をつかいながら、またのろのろと走りだした。そして、そんな一連の作業を何度か繰り返しながら、なんとか峠を越え今津へと辿り着いた。
  こころもち吹雪の勢いはおさまった感じだったが、今津からマキノ町、西浅井町、余呉町と琵琶湖最北岸の一帯を抜けて木之本に至る間にも雪は激しく降り続いた。はっと思いなおして燃料計に目をやると、軽油が残り少なくなってきているではないか。大飯町を出た時点ではこんな状況になるなどとは予想もしていなかったので、燃料補給をしてこなかったのだ。もともとガソリンスタンドがそう多くない場所柄にくわえて、あいにく日曜の夜十一時近くのことときていたから、ほとんどのお店は閉まっていた。なかには突然の大雪のためはやばやと店仕舞いしたところもあるようだった。
  燃料切れを示すオレンジ色の警告灯がついてからもうずいぶんと走行しているので、いよいよもってやばいかなと思いながら、動けなくなったときの善後策を真剣に検討さえしはじめた。しかし、幸いなことには、それからほどなく、折からの大雪に埋もれるようにして営業を続けているスタンドに辿り着き、辛うじて最悪の事態を回避することはできた。
  いったんは木之本インターチェンジから北陸道に上がり、名神高速と中央道経由で東京へ戻ろうかと考えたが、せっかくの夜の雪景色を楽しまない手はないとすぐに思いなおし、往路とは逆のルートをとって一般国道をそのまま関が原方面へと向かって走ることにした。渡岸寺のある高月町、小谷城址のある浅井町を過ぎ、伊吹山麓を越えて関が原町に入る頃には、さしもの激しかった雪もやんで天空におぼろな月影さえも見えはじめた。雪景色とおぼろ月の組み合わせというのもなかなかに風情があっていいものだった。
  そのままいっきに、大垣、岐阜、各務ヶ原、美濃加茂、御嵩町と走り抜け、瑞浪で国道十九号に入り、中津川付近でいったん休憩をとった。そのあと中津川からは中央道に上がりノンストップで東京方面へと向かうつもりだったのだが、なんと、中央道も雪のため事故が発生、走行規制中との警告表示がでているではないか。深夜の高速道をノロノロ運転しても仕方がないし、どうせ深夜の雪中行をするなら、変化に富み好き勝手に寄り道もできる一般道のほうがずっとましだ。すぐに私は中津川からそのまま国道十九号の木曾街道伝いに南木曽、上松、木曾福島、薮原、奈良井と抜け、塩尻に出ようと決断した。
  南木曽町に入る頃から再び雪が激しく降りだした。気温のほうもぐんぐん下がり、またワイパーの働きが悪くなってきた。路面もガチガチに凍結し、そのうえにどんどん新雪が降り積もっていく。急坂のカーブの連続するところなどで下手にフットブレーキを踏もうものなら、チェーンを巻き四輪駆動の状態で走行していても横滑りしてしまいそうな感じである。極力エンジンブレーキに頼り、注意深くギヤチェンジを繰り返しながら、時速三、四十キロほどの低速で走り続けた。いつもなら深夜のこの時間帯には貨物を満載した大型トラックが結構走っているのだが、この夜にかぎっては他に通行車はほとんど見当たらなかった。そして、木曾福島を過ぎる頃には完全に雪中の単独走行となった。
  たまたま雪が小降りになったり一時的にやんだりすると、ビームアップしたライトの中に、木曽川の岸辺一帯の雪景色がまるで昔の画仙の描いた水墨画のように浮かび上がった。深夜のそんな時刻、そんな状況の中で独り風景にみとれているなんてどういう神経をしているのかと叱られそうだが、美しいものはどんな場合であってもやはり美しい。そもそも、このような状況下だからこそ、普通とは違う景観も見られるというものだ。
  フロントウインドウやサイドミラーの表面に張りついた氷を削ぎ落とすため時々道路脇に車を停め、そのついでにその周辺を気の向くままに歩き回ったりもしながら、日義村を経て木祖村の薮原付近に至った時にはもう午前五時を過ぎていた。南北の分水嶺の一角をなす鳥居峠直下のトンネルを抜け、楢井村の奈良井宿近くに差しかかると、困ったことにまたいつもの脇道癖がムラムラと頭を持ち上げ、立ち騒ぎはじめた。旧宿場町の面影をいまもしっかりと留める奈良井宿の雪景色を是非一目この眼で眺めてみたいと思いだしたのである。
  車を奈良井宿入口の駐車場に置き、降りしきる雪の中を歩み進んで旧街道筋の古い家並みにはさまれた通りに立つと、一瞬にして現在から江戸時代へとワープしたかのような錯覚に襲われた。夜明け前の時間帯ではあったが、点々と灯る淡い街灯の光とほのやかな雪明りの中に、安藤広重か誰かが描く冬の宿場町の浮世絵図をそのまま持ち込んだような光景がぽっかりと浮かび上がっていたのである。昔から何度となく奈良井宿を訪ねてはいるが、このような情景に出遭ったのは初めてのことだった。
  しんしんと雪の降る寒い早朝のこととあって人影はまったくなかったが、雪ですっぽりと覆われた昔ながらの家々を一軒一軒眺めながら路面に深々と二筋の足跡を刻んでいくのは、このうえなく贅沢なこのとのように思われてならなかった。鍵の辻を折れ、越後屋や相模屋といった老舗の屋号を示す古看板の一枚いちまいを見上げながら歩むうちに、私は、自らがいにしえの旅人そのものであるかのような幻覚にとらわれはじめたのだった。いや、実際、そのとき私は時を超えて旅をしていたのかもしれない。

  足跡も曲がり曲がって雪に酔う  (成親)

「マセマティック放浪記」
2001年4月4日

辰野町門前の想い出

  蛍で知られる長野県辰野町を先日たまたま通りかかったときに、久しく忘れていたある懐かしい想い出が突然脳裏に甦ってきた。もしかしたら、単に懐かしい想い出などというよりは、いまの時代にはもはや得難い、一風変わった貴重な想い出とでも言ったほうがより適切なのかもしれない。
  長年の知人のひとりに小野富男さんという山形出身の歯科医がいる。現在神奈川県相模原在住のこの小野さんが、いまから二十数年前、長野県辰野町の門前という集落にある元養蚕農家の大きな空き家を屋敷の一隅にある古い蔵ごと購入した。歳月の重みを感じさせるその家屋と屋敷とを別荘代わりに用い、周辺における野外活動の基地としても最大限に活用しようというわけだった。小野さんにすれば、故郷の風物にどこか重なるところのあるその地の自然や屋敷家屋のたたずまいが気に入ったということでもあったのだろう。門前から車で一走りしたところに小野という集落があることなども、偶然とはいえ不思議な縁ではあった。
  門前集落は横川というかなり大きな川の中流に面している。横川は天竜川の支流小野川のそのまた支流になっていて、その上流の深い谷筋には渓流釣りや紅葉で知られる横川渓谷などがある。この渓谷の最奥部は中央アルプス連峰北端に位置する二二九六mの経ヶ岳山頂直下にまで及んでおり、アプローチルートも横川伝いに遡行するか、徒歩で経ヶ岳を越えて降りてくるかの二つしかないから、一帯はいまでもなお昔のままの自然がほぼ手つかずで残されている。だから、山の恵み、川の恵みが豊かなことこのうえない。
  このところずっとご無沙汰のしっぱなしなのだが、以前はよく小野さんに誘われて門前を訪れ、不思議な存在感のあるその屋敷に滞在し、一帯を散策したものだ。まだ子供たちが小さかった頃、我が家とほぼ同じ年ごろのお子さんのあった評論家の芹沢俊介さん一家を誘い、ともに過ごした懐かしい想い出などもある。もともとが養蚕農家の家屋だったこともあって、土蔵のほか、屋根裏に倉庫を兼ねた大きな隠し部屋があったり、おもわぬところに地下室が設けられたりしていて、子供たちもちょっとした探検気分などを味わっていたようである。
  当然、トイレは昔ながらの汲み取り式になっていたから、我が家の子供たちにも肥え柄杓をもたせて糞尿の汲み取りや肥え桶運びの手伝いをやらせた。半農半漁の離島の村で育った私にとっては下肥運びや堆肥造りなど日常茶飯事に過ぎなかったから、それ自体なんの抵抗もなかったが、子供たちのほうも、屋敷内の野菜畑に運んだ生肥えを土に撒く作業などを、時折生じる飛沫にひるむこともなく結構楽しんでいたようである。いまはすっかり成長した彼らにとってもそれは貴重な体験だったに違いない。そのほかにもナタをふるっての薪割り、池の掃除や水換え、煙突の煤とりや屋根瓦の補修、周辺の草刈、庭木の手入れや落ち葉の清掃など、いろいろとやることがあったが、適度の運動や気分転換にもなってそれらを面倒に感じることはほとんどなかった。
  土間の奥にある昔ながらの木桶の風呂もなかなに味があった。大きな鉄釜を用いた五右衛門風呂なら子供の頃に田舎で慣れ親しんでいたから、懐かしく想うくらいで終わっただろうが、本格的な木桶の風呂に入浴するはその時がはじめてだったので、なんとも興味津々であった。身体を沈める主浴槽ときれいな上がり湯を溜めておく小さな湯槽とにわかれているのも面白かったが、もっとも興味を覚えたのは風呂釜部分の構造だった。実にシンプルでしかも合理的にできていたからである。
  その構造を大まかに述べると、口径が三十センチほどの銅製の大きなL字管があり、短いほうの銅管端は風呂桶の外に出ていて、それが燃料の焚き口になる。いっぽうL字管の主軸にあたる側の長い銅管は浴槽内の隅のほうを垂直に貫くようにして配され、その上端部は十センチ前後の口径に絞り込まれて直接煙突にしっかりと接続されている。要はそれだけのことで、銅製のL字管が風呂釜そのものというわけなのだ。
  風呂の沸かしかたも簡単そのものだった。まず、風呂桶の浴槽部に水を張り、上がり湯用の小水槽にも水を入れる。そして、焚き口にあたる短いほうの管口から適量の新聞紙や柴などの焚きつけ材を入れて火をつけ、火勢が少し強くなったところで主燃料材の薪などを垂直方向に立てたままの状態で差し込んでやるのだ。その気になれば一メートル、二メートルの長い木材でもそのまま立てて燃やせるというわけで、安全なうえにほとんど場所もとらない。
  実際にやってみると、すぐに火はつき、あとから差し込んだ薪などもごうごうと音を立てて驚くほどによく燃えた。面白いのは、焔も煙も焚き口のほうにはまったくあがってこないで下向きに移動し、L字管の底部をくぐり抜けて浴槽内の管ほうに流れることである。要するに、煙突内に強い上昇気流が起こるため、焚き口のほうからはどんどん新鮮な空気が吸い込まれるかたちになるから、燃焼効率もよいうえに、風呂を焚いている人が煙たい思いをしたり、うまく火を燃やすためによけいな苦労をする必要もない。いったん薪などが燃えはじめたら、適宜燃料を補給する以外は安心して土間での薪割りその他の作業に専念しておればよいわけだ。
  もちろん、浴槽内の水は煙突につながっている側の銅管の発する熱によって温められる。一応は入浴者の身体が直接銅管に触れないように簡単な仕切り格子が設けられているが、五右衛門風呂の場合と同様に入浴中直接に身体の一部が釜に触れても火傷を負うことはない。比熱の大きな水が比熱の小さな銅管の熱をどんどん吸収してしまうから大丈夫なのである。
  燃焼効率がよいから当然風呂が沸くのもはやい。火加減のほうはどうやって調整するかというと、これがまた実にうまくできているのだった。なんてことはない、焚き口に重めの蓋がついていて、それを適度に開閉し空気の流入量を増減してやればいいだけのことなのだ。焚き口の外まで出るような燃料材があるときはそれを抜き取るか、切り折って深さ六十センチ弱の外側銅管内におさめるかして、そのあと完全に蓋を閉めれば火は消えてしまう。弱火にしておきたければちょっとだけ蓋を開けておけばよいし、再び火勢を強くしたければ蓋を大きく開けばよい。
  実際に何度もやってみたが、自由自在に火加減を調整できるのだ。浴槽に入ったままでもちょっとだけ身体を伸ばしさえすれば自分で湯加減をコントロールすることもできた。L字管の底部に溜まる灰や燃えかすなどは、もちろん、焚き口側の底部についている小さな掻き出し口から除去できるし、燃焼度が高いために燃えかすの量などもきわめて少ない。いつの時代に誰が考え出した風呂釜なのかは知るよしもなかったが、実に理にかなったその構造に私は唯々感心するばかりだった。
  その頃まではまだ信州一帯のあちこちでこの種の風呂釜が使われていたようなのだが、国内の津々浦々までが化石燃料主体の生活に変わってしまった現在では、もうその姿を目にする機会はほとんどないだろう。まして、ダイオキシン騒動以来、そう大きな影響があるとも思われない天然木材の燃焼などにも過敏な拒否反応を示す人の多くなった昨今では、それはもう完全に忘れ去られた存在に違いない。この大変ユニークな桶風呂などはどこかの民俗資料館や民具博物館に収蔵されてもおかしくないと個人的には思ったりもするのだが……。小野さんの屋敷の風呂は、手入れが十分でないまま使わずに長らく放っておかれたため、残念ながらいまでは使用不可能になってしまったと聞いている。
  小野さんと門前の屋敷に何度も通ううちには様々なことがあったが、高い軒の下側にスズメバチがつくった巨大な巣を取り除いたのも懐かしい想い出の一つである。厳しい冬がくるまでそのままにしておけばいずれはハチがいなくなり巣だけが残るので、その時にそれを除去すればよいことはわかっていた。だが、ブンブンと大きなスズメハチの群が飛び回り、作業中に刺されかねない事態になったので、やむなく巣を取り除いてしまおうということになった。
  悪ガキだった当時、野山の藪地をさんざん駆け回っていたせいで、スズメハチやアシナガバチの類には何度も刺されてずいぶんと痛い思いをしたものだ。ハチに襲われた直後にサツマイモの蔓の根っこに近い部分を切り、切り口から滲み出る白い液体を刺された部分につけるか、あまり奨励できはしないが、自分のオシッコをちょっとだけつけるかすればよいことなども、誰から教えられるともなくその頃学んだものだった。もちろん、いまと違って虫刺されに効く薬がどこでも自由には入手できない時代のことだから、少々野蛮でも仕方がなかった。
  自分のオシッコが出なかったとき他人のそれをありがたく拝借した記憶はさすがにないが、小学生の頃、一緒に遊んでいた歳下の男の子が何箇所もスズメハチに刺されたとき、「イタカイヨウバッテ、アッカア、モーチット、キバレヨォ!(痛いだろうけど、お前は、もうちょっと、我慢しろよ!)」と島言葉で励ましながら、無理やり排出した自分のオシッコの何滴かを素知らぬ顔でその子の頭や手につけてやったことはある。もちろん、謎の液体中のどの成分がどのように作用して痛みや腫れを抑える効果があるのかなどという高等な化学的知識などあろうはずもなかったし、そもそも効き目のほどにもいまひとつ確信はなかったのであるけれども……。
  まあ、そんなようなささやかな経験の積み重ねの結果、夜になると巣に戻って深く眠り込むというスズメハチの習性を熟知していたから、巣の除去そのものにはそう苦労はしなかった。深夜ハシゴを掛けて高い軒下にさがるスズメハチの巣のところまでのぼり、丈夫で大きなビニール袋ですっぽりと巣全体を覆い包み、巣の付根のところで袋の口を絞って何重にも外から紐を巻きつけ、スズメバチ王朝の一族郎党どもを完全に袋の中に封じ込めてしまった。そばから懐中電灯で照らしたくらいではスズメバチは目覚めたりしないから度胸と決断力さえあればどうということはない。
  最後の仕上げは、巣の付根を軒から切り離すことである。かなりの重さの巣が強風にも十分耐える強度で軒の太い垂木にぶらさがっているわけだから、付根は頑丈そのもので、手の力でもぎとれるほどやわくはない。いったんハシゴを降り、ノコギリを持って再度巣のところにあがりなおし、巣の付根の最上部をゴシゴシと引き切った。想像以上に固くしっかりしていて、細めの丸太を切るくらいの時間と労力が必要だった。スズメバチどもにすれば降って湧いた天災もいいところで、なにがなんだかさっぱりわからなかったに違いない。
  厳冬期の吹雪の夜遅くに門前に出かけたときときなどは、路面がガチガチに凍結してしまっていたためチェーンがまったく役に立たず、まるで車ごとスケートをしているような状態に陥り危うく横川に転落してしまいそうになってしまった。当時のワゴン車は馬力も小さくまた現在のような四輪駆動車でもなかった。しかも、ワゴン車はエンジンが前部にある関係で車全体の重心が前輪側に片寄っている。そのため荷物を積んでいない場合には後輪の駆動輪にかかる車重が軽く、たとえチェーンを巻いていてもひどく凍結した路面では簡単に後部が左右に横滑りし、いわゆる尻振り状態になってしまうのが常だった。まして門前のあたりは標高が七百メートルほどはある内陸の山間部で、当時は道も狭く車の通行もほとんどないところだったから、いっそう状況は悪かった。
  ようやくのことで門前の屋敷前に辿り着き車を庭に入れようとしたが、狭い道路の一面には厚い青氷が張りつめていて、どう足掻いても駆動輪がスリップを繰り返すだけでまるで動きがとれなくなった。なんとかタイヤ付近の氷を砕こうとして車から取り出したツルハシを思い切り振り下ろすと、なんと驚いたことに、カチーンという乾いた金属音がして先端部から火花が走った。ツルハシで岩を穿ったりすると火花が散ることは知っていたが、まさか氷を穿っても火花が散るとは考えてもみないことだった。
  この小野屋敷にまつわる数々の想い出の中できわめつけは土蔵にまつわる悪戯話なのだが、こちらのほうは少々度が過ぎていたかもしれない。小野さんも私も根は相当な悪戯好きである。そんな二人が本気になって知恵をしぼり珍計を案じたのだから、ちょっとやそっとのことで事が収まろうはずがない。何も知らない人がいきなりそのシロモノに遭遇したらその場で卒倒してしまいかねない、凝りに凝った細工を我々は蔵の中に仕掛けたのだった。

「マセマティック放浪記」
2001年4月11日

手の込んだ蔵荒し対策

  広い屋敷の一角に建つているその古い土蔵は、見るからに頑丈そうな本格的な造りのものであった。外壁と同色の白塗りの扉は伝統的な土壁とおなじ工法で造られており、厚く重たく、しかもご丁寧なことに二重構造になっていた。昔ながらの落とし鍵をはずして扉を開くと、その内側にさらにもうひとつ頑丈な扉が現れるというわけだった。
  蔵の中は一階と二階部分とに分けられていて、一階の床と内壁はがっしりとした厚板張りになっていた。厚板の下に赤土や漆喰を固めてつくった堅牢な土壁が隠されていたことは言うまでもない。床の隅々や四方の壁の接合部分までしげしげと眺めまわしてみたが、ほとんど隙間らしいものは見つからない。ネズミはむろん、ゴキブリ一匹でさえも侵入するは難しそうだった。外部からネズミやゴキブリが侵入するとすれば、扉を開けて資材の出し入れをしている時か、それらが資材と一緒に紛れ込んだ場合にかぎられたことだろう。
  二階にあがるには、梯子段の上部に設けられたネズミ返しというスライド式開閉扉を下側から開き、そこを通り抜けて中に入る。まんいちネズミが一階に侵入した場合でも、このネズミ返しで二階への侵入は防ごうというわけである。懐中電灯を手に二階にあがって中を覗いてみると、一階と同様に頑丈な造りになっていて開閉式の明かり窓が二、三個ほどついていた。試しにこの明かり窓を開き懐中電灯を消してみると、薄暗いながらも昼間なら中でなんとか作業はできそうな感じであった。
  ところで、この蔵の中には前の持ち主が不要品としてそのまま置き残していった様々な古い道具類や箱類が収納されていた。なかには、都会の骨董屋に持ち込めばいくらかの値段はつきそうなものなどもあった。また、それにくわえて、新しい蔵主となった小野さんの手で、相模原の自宅から不要にはなったが捨てるには忍びない古家具なども運び込まれていた。だから、まったくの空き蔵というわけではなく、内部も一応それらしい風体にはなっていた。
  当時は国内あちこちで蔵荒しが横行していた。この辰野町一帯には古い蔵をそなえもつ旧家がずいぶんと残っていたため、当然のように蔵荒しによる被害が絶えなかった。そんなわけだったから、極めて貴重な品物はなにも収められていなかったにしても、酔狂な蔵荒しどもに小野さん所有のこの蔵が狙われる可能性は十分にあった。そこで、半ば遊び心を交えてそれなりの自衛策を考えようということになったのである。しかも、蔵荒しの侵入をあらかじめ防ごうというのではなく、彼らの侵入を前提とした少々意地悪な自衛策を講じようということになったのだった。
  蔵の二階には前の所有者が残した古い木の空き箱があった。昔は高価な置物か貴重な什器類がはいっていたのではないかと思われる飾り紐つきの立派な箱で、全体的に黒光りがしていて見るからにいわくありげな感じだった。私はたまたまこの古箱に目をつけたのである。この箱の中に蔵荒しが開けて中を見たらあっと驚くようなものを入れて封じ、先祖伝来の貴重な品物が収まっているかのような、なんとも思わせぶりな一文を箱の外に記すか、古紙に墨書して貼っておく。そしてそれを目立ちやすいところに、いかにも大事そうに並べておくというのが策略の基本だった。
  箱の中に何を入れるかはすぐにきまった。もちろん、言わずと知れたシロモノである。当初はどこかで既製品のオモチャか模型でも探してきてと話し合っていたが、結局、そのシロモノ二個の制作は小野さん自らが引き受けることになった。歯科医の小野さんはもともと大変に手先の器用な方でちょっとした彫刻の心得などもある。時間の許すかぎり歯科技工なども自分でこなしてきた人なので、仕事場には工具も加工用材料もいっさい揃っているし、職業柄、作ろうとしているシロモノの形状にも詳しい。当然その関係の図版資料などにも事欠かないというわけだった。
  悪ふざけとも悪趣味ともつかないその策略の相談をしてから三ヶ月ほどたったある日のこと、小野宅を訪ねた私は完成した問題のシロモノ二個を見せられた。そして、それらのあまりの出来栄えのよさというか、一瞬身を引きたくなるような実物顔負け凄みに思わず唸り声をあげてしまった。明るい光のもとでしげしげと見つめ撫でまわしてみてもそれは本物そっくりだったからである。さすがに実物を手にしたことはないので実際のところはわからなかったが、あえて違いをさがすとすれば、多少軽めかなという思いがするくらいのものであった。
  それからほどなく我々はそのシロモノを辰野町の蔵まで運び、くだんの古箱の中に収めて薄明かりの中で眺めてみた。真っ暗にしておいて懐中電灯の光で照らし出してもみた。それが偽物だと知っている我々自身でさえも、その不気味さにしばし圧倒される有様であった。脅し効果のほどを確認したあと、箱に蓋をし、飾り紐をしっかりと締めた。そして、揮毫の名手でもある小野さんが「南無大師遍照金剛・家伝秘具秘軸」と墨書したいかにも古そうな和紙を貼りつけた。「南無大師遍照金剛」の文言を用いたことには別段意図があったわけではなく、かつて四国でお遍路さんを体験したことのある小野さんが突然その八文字を思い出して書きつけただけのことだった。お大師様の空海もえらいところに引っ張り出されたもので、こんな不届きな手合いに利用されたことを、さぞかしクウカイいやコウカイなさっていることだろう。「家伝秘具秘軸」六文字のほうはほかならぬこの身の発案によるものだった。
  ところで、問題のシロモノとはいったい何だったのか……そう、もちろん、それはお察しの通りである。小野さんはまず二個のほどよい椰子の実を入手した。そして、解剖学の図版を参考にしながら丹念にそれらの椰子を削り刳りぬいて原型を仕上げ、十分に乾燥させた。そしてその表面を入念に石膏で塗り固め、さらにそのうえから水分が抜けて硬化すると象牙質そっくりになる歯科材料の補填材を大量に用意して隈なく塗布したのである。眼窩や鼻骨にあたるところは特に丁寧に細工し、グラインダーを用いて全体的にしっかりと磨きをかけた。
  画竜点睛という言葉があるが、この小野冨男作品の場合は、双眼に眸を描き入れて最後の仕上げとしたのではなく、いかにも歯科医らしく、髑髏に歯を入れて最後の仕上げとしたのである。髑髏の不気味さは歯の感じてきまるといってもよいが、なんと小野さんが最後の仕上げに入れた歯には、よりリアルに見せるために人工歯のほかに本物の歯がかなりの数混ぜられていたのだった。歯科医の小野さんは、仕事柄ひどい虫歯や重度の歯周病にかかった患者の抜歯をおこなう。抜かれた自分の歯を持ち帰る患者はほとんどいないから、歯は残る。通常それらは廃棄処理されてしまうのだが、その一部を転用したというわけだった。かくして、夫婦か親子のそれを想像させる大小二個の完璧な髑髏のセットが完成をみたのであった。
  悪趣味と言われてしまえばそれまでなのだが、ともかくも我々が講じた蔵荒し対策はそのようなものであった。その後本職の蔵荒しがその蔵に侵入したことがあったのかどうかは定かでない。ただ、小野さんから聞いたところによると、少なくとも一度は我々の知らぬ誰かが無断で蔵に入って問題の古木箱をいじった形跡があるという。小野さんの言葉通りに、その箱を開け中身を目にした人物があったとすれば、腰を抜かさんばかりに驚いたことだろう。
  奥さんはすでに他界なさっているが、私より一回り年上の小野さんには、小児科医の長男とコンピュータ技術者の次男のお子さん二人がある。しかし、そのお子さんがたにさえもこの裏話はまだ伝わってはいないようなのだ。我々二人が固く口を閉じたまま、すっかりそのことが忘れ去られてしまったら、先々になって一騒動起こることは間違いない。そうなったら罪つくりもいいところだろう。
  東京に戻ってから小野さんに電話し、久々に辰野町の家屋敷の後日談や土蔵のその後の様子などを訊ねてみたが、人手不足で手入れが困難なためいまではかなり荒れた状態になっているとのことだった。もちろん、蔵の中の奇怪なシロモノもそのままになっているらしかった。そこで小野さんに「例の悪ふざけの件を僕の執筆欄でバラしちゃいますよ!」と告げたら、受話器の向こうで、「この時代じゃ、我々もいつなんどきあのような状態になってしまわないともかぎらないからねぇ……ハハハハ」と笑いながら快く了解してくれた。そんなわけで、少々度が過ぎた感じがしないでもない悪戯話の公開と相成った次第である。

「マセマティック放浪記」
2001年4月18日

散る桜に誘われて

  今年の桜もすでに盛りを過ぎた。桜並木を散策する私の頭上からは、名残の桜の花びらがはらはらと舞い落ちてくる。吹きぬける風が穏やかなこともあって、桜吹雪というには少々ものたりない気がしないでもない。だが、それでも歩道は一面花びらに覆われ、いましも枝をはなれたばかりの花びらが、地上に落ちるまでの一瞬を惜しむかのようにくるくると宙に舞っている。
  いったいあと何回春の桜を眺めることができるのだろう?……ふとそんなことを考えた。運がよければまだ三、四十回は眺めることができるかもしれない。しかし、今年のこの桜が見納めになったとしてもそれはそれでおかしくない。たまにだが、同年輩の友人や知人が鬼籍に入ったという報せなども届いたりするようになった。この身だって明日のことはわからない。わからないから、こうして今日一日をささやかな感慨に耽りながら生きてもいける。
 
  散る桜のこる桜も散る桜  良寛

  満開を過ぎたとはいえ、枝々にはまだたくさんの花が残っている。そんな桜をひとり静かに仰ぎみるうちに、思わず私は良寛の有名な一句を口ずさんでいた。名歌で知られる良寛だが、実は秀句も少なくない。一期一会の想いを日々強くしている昨今の私にすれば、それはなんとも胸打たれる一句である。あまりにも自然に命のかぎりを吟じきったその句の見事さに感じ入るうちに、桜の花びらの一枚いちまいが、いとおしいまでに美しく見えてきた。
  桜の花の散りぎわの潔さにそっと想いをめぐらせているうちに、突然、私はいまひとつ心に強く響く良寛の句を想い出だした。良寛の最期を看取った貞心尼の歌に応じたものだと伝えられる句で、事実上の辞世の句だとも言われている。おなじ命あるものの散りぎわを吟じたものには違いないが、こちらのほうは春の桜ではなく秋の紅葉が題材になっている。

  うらを見せおもてを見せて散るもみぢ  良寛

  良寛には、村の童たちを相手に手毬をつきながらのんびりと日々を過ごしたという、浮世離れしたイメージがつきまとっている。だが、実際の良寛は、生身の人間として苦悩につぐ苦悩の生を歩み、赤貧に甘んじつつも時の権力に抗い、己の無力さを嘆きながらも人々の救済に心のかぎりを尽した稀代の大人物であった。生き地獄にも似た現世の裏も表もみな味わい尽し、さらには愛の相克に苦悩した日もあったとも伝え聞く人間良寛のことである。その生涯をひとひら紅葉に托した末期の一句が人の心を深く打たないわけはない。
  春の桜の散りゆくさまに感じ入るうちに、いつしか秋の紅葉の舞い落ちるさまに想い及ぶという、はなはだ妙な成り行きにはなってしまったが、それもひとえに、桜の魔力と良寛の魅力のなせるところだったのだろう。
 
  しばらく桜を見ながら歩いたあと、小さな公園のベンチに腰掛け、吹き出したばかりの若々しい欅の新芽を遠目に眺めていた。すると、小学二、三年生くらいかと思われる男の子の三人連れがやってきて、近くの砂場で遊びはじめた。彼らの会話や身振るまいから察すると、公園近くの学童保育所に通っている子どもたちらしかった。瑞々しい新芽そのままの子どもたちだなと思いながら、その微笑ましい姿を見守っていると、突然、仰天するような会話が耳に飛び込んできた。その会話の深刻な背景とはあまりにも対照的な可笑しさに、私は一瞬ズッコケてしまいそうになった。

A:あのさぁ、おまえんとこの父ちゃん何人目?
B:何人目って?……えーっと、ずっとおんなじ人なんだけど……。
A:ふーん、おれんち三人目なんだけど、こんどの父ちゃん、やさしいどぉ……。
C:おれんちはさぁ、このまえまでオジサンだった人がいまは父ちゃんなんだ!
B:どうすれば新しい父ちゃんもらえるわけ?
A:家に帰って母ちゃんにきいてみれば?
B:おれんちの母ちゃん、わかるかなあ?……新しい父ちゃんのつくりかた……。
C:オジサンもまだいないの?
B:うん、ずーっとおんなじ父ちゃんが家にいるだけだから……。

  一筋縄ではいかなくなった複雑な現代の社会状況や家庭状況を端的に物語る子どもたちの会話だった。たぶん、こういった光景はいまでは珍しいものではないのだろう。この子たちはこの子たちなりに日々小さな胸を痛めながら、自らに降りかかってくる運命に健気に立ち向かっているわけだ。やがてこの子たちが支えることになる二十一世紀社会はどのように展開していくのだろうか。私自身はこの子どもたちの現在を肯定し、その未来の可能性をひたすら信じたい。私のさりげない視線を知ってか知らずか、そんな会話を交わしながら遊び興じる六つの瞳は、春の陽射の中で生き生きと輝いていた。
  やがて成長を遂げたこの子どもたちは、家族や社会規範についての既成の価値観を改め、新たな価値観を創り出し、それらを基にいまとは異なる未来社会を築き上げていくことだろう。そんな時代が到来したら、私たち古い年代層の者たちはカビの生えた自らの価値観を捨て、新しい時代のありかたに柔軟に適応していくしかない。それがどんなに難しくても、つまるところ、そうするのが最善の道だと思うからだ。
  経験の豊かさのゆえに、高齢者が若い世代から敬愛され、大切にされるのは結構なことである。だが、それをよいことに、身のほどもわきまえず政治の場などにしゃしゃり出たりしたらろくなことはない。古い理念や時代遅れの価値観を持ち込んで、若い世代の自由な活動を抑え込むなどもってのほかだ。日本の伝統を守るべきだというスローガンのもと大和心を振り回す老醜の塊のような人々は、国花と仰ぐ桜の花の見事な散りぎわをもっとみならったほうがよい。
  徒然草の七段、「あだし野の露」の終わりのほうで、吉田兼好は身をわきまえぬ老人の弊害を厳しい口調で糾弾している。「身の引きぎわを誤った人間は、年老いた醜い容貌や容姿を恥じる気持ちもなくなり、人前にでしゃばることばかり考えるようになる。西空に大きく傾いた夕陽のような身でありながら、自分の子や孫のことだけを心配し、子孫の繁栄を見届けたいと余生に執着するようになる。また、ひたすら名誉や自己利益を追求する心ばかりが強まり、もののあはれの精神さえもわからぬようになってしまう。そんな姿は見るにたえないかぎりである」というのがその主張だ。
  短いが、古典の素養などまるでない私のような人間がちょっと拾い読みしてみただけでも深く考えさせられてしまうような言葉である。まずは自分に向けられた先人の戒めとして、しっかり心に留めおかなければならないだろう。
  それにしても、公園で遊んでいたあの男の子たちの一人は、家に帰ったあとどうしたのだろう。お母さんに向かって「どうしたら新しい父ちゃんつくれの?」と真顔で尋ねたのだろうか。また、もしもその子が実際にそう尋ねたとすれば、お母さんのほうはいったい何と答えたのだろうか。名残の桜に誘われ、思いがけなくもあれこれととりとめもない連想をめぐらす一日ではあった。

「マセマティック放浪記」
2001年4月25日

十三日の金曜日に

  ――明日は十三日の金曜日だよなあ、しかも仏滅のおまけまでがついているときているから、そろそろ誘いのテレフォンコールがあってもおかしくないな――そう思っていたら、案の定、キュルキュルキュルと電話が鳴り出した。去る四月十二日のことである。受話器から流れ出る独特の声の響きは、間違いなく信州穂高町在住の石田達夫ドラキュラ翁のものだった。石田翁の語るところによれば、八十余年にわたるその劇的な人生において、「十三日の金曜日」はなぜかラッキー・デイになることが多かったのだという。いつも人を喰ったことばかりやっているからドラキュラ翁と呼ばれているのだが、さすがその名のことだけはある。
  相手にとってそのことがラッキーだったのかアンラッキーだったのかいまだに定かではないが、私がこの石田翁と旅先の穂高駅で出逢ったのもやはり十三日の金曜日のことだった。その時以来、私は、ドラキュラ翁お気に入りの十三日の金曜日を選んではその怪しげな館を訪ね、この老人の奇妙な生態の解明に努めてきた。こちらが忙しくてついつい十三日の金曜日であることを忘れたりしていると、相手のほうも、「今日は特別な日のはずなんですがね、何も変わったことがなくて退屈でねぇ……」などと、少々意地悪な口調で電話をかけてくるようになった。
  ジグソーパズルを解くのとおなじ要領で、なんとか私はその破天荒な人生模様を明かにすることはできた。以来、その話を拙い筆に托そうと時間を割いてきているのだが、諸々の事情で執筆が大幅に遅れ、まだ脱稿にはいたっていない。そんな私をからかうように、「あんたが原稿を書き上げるまでは死ねないよなあ。あと十四、五年ほどかけて原稿を仕上げてくれれば百歳までは生きられる計算になるんだがなあ……」などと石田翁は軽口を叩く。こちらも負けじと、「そんなに長生きされたんじゃ世の中の迷惑ですよ。まあ、あと半年ほどで書き上げちゃいますから、それまでのはかない命だと覚悟しておいてたほうがいいですね」と相応に切り返したりしている。
  「十三日の金曜日」に「仏滅」のおまけまでがつくという、キリストに釈迦までが絡んだダブルパンチのアンラッキー・デイは、石田翁にとっては二重のラッキー・デイということになる。このおめでたい日に表敬訪問しないわけにもいかないだろうと思った私は、十三日の午前三時に府中の自宅を出発し、中央高速道に上がるとひたすら安曇野目指して走り出した。甲府昭和インターチェンジを通過する頃には東の空が少しずつ明るんできて、周辺の山々が次々に美しい輪郭を浮かばせはじめた。路肩に車を寄せて後方を振り向くと、前衛の山々越しに、いましも眠りから覚めようとする富士の姿が望まれた。
  残雪を戴く八ヶ岳連峰を右手に、甲斐駒ケ岳の白く鋭い稜線左手に見ながら、小淵沢をいっきに走り抜け、五時少し前には諏訪湖パーキングエリアに到着した。ちょうどそのとき、斜め後方に大きく位置を変えた八ヶ岳連峰のなかほどから、少し滲んだ感じの太陽が昇ってきた。
  ――天候にも恵まれていることだから、高ボッチ山に登って山岳風景を眺めていかない手はないな。今回の穂高行きはあくまで表敬訪問で先を急ぐこともないから、ここは脇道行を楽しむにかぎる――そう思いなおした私は、岡谷で高速をおり国道二十号伝いに塩尻峠へと上がった。そしてそこから高ボッチ方面入口に通じる旧中山道に入った。高ボッチ方面入口まではわずかな距離にすぎない。だが、車一台がやっと通れる急坂の細道は深い林に覆われていて、旧道特有の風情がいまもなお残っている。「熊出没につき注意」などという警告板も立っているが、残念なことに、まだここで熊に出遭ったことはない。
  高ボッチ山頂へと続く道に入り、山頂から少し下ったところにある牧場入口に着くまではすこぶる順調だったのだが、それ以上は前進できなくなった。路面が深く固い残雪に覆われ、チェーンを巻いても到底歯が立たなかったからである。例年なら三月末か四月初めまでには山頂直下の駐車場まで上がれるようになるのだが、まだ大量の残雪があるところからすると、今冬はやはり異常に雪が多かったのだろう。前方三十メートルほどのところには除雪作業用のブルドーザが道を塞ぐようにしてぽつんと一台置かれていた。下のほうから少しずつ除雪を行いながら、ここまで上がったきたものらしい。
  先客があるみたいで、牧場入口脇のスペースに一台ワゴンが駐められていた。私もそこに車を置き、残雪を踏みしめながら頂上へ向かって歩きだした。午前六時頃のこととあって、山の斜面沿いに吹き降ろす風は、残雪の表面を覆う冷気を吸って身を刺すほどに冷たかった。だがそれにもかかわらず、一帯の凛とした雰囲気に身も心も引き締まる思いではあった。あちこちを覗き見ながらゆっくりとしたペースで三十分ほど歩くと、高原状の山頂に着いた。山の写真を撮りにきていた先客二人とは途中ですれ違ったので、頂上に立ったときには他に人影はなかった。
  朝日の光は爽やかそのものだったのだが、晴天の割には視界全体が霞んだ感じで、期待していたほどの展望を楽しむことはできなかった。大気が澄んだ日にはよく見える富士山や甲斐駒も、さらには木曾の御岳や白馬連峰も霞みの向こうに姿を隠したままだった。西方の乗鞍、槍、穂高と、東方の八ヶ岳だけはよく見えていたが、それらの景観にしてもいまひとつ物足らない感じだった。
  仏滅のおまけまでついたこの十三日の金曜日は、我が身にはやはりアンラッキー・デイであったのか……。そんな愚にもつかない思いにひたりながら山頂を辞した。そして車のところへと戻る途中、残雪の一部が溶け出し、路面全体を覆うようにして流れているところに出た。溶け出した水が朝の陽光を浴びて透明に輝いている。綺麗な水だし、水深は精々二、三センチほどだからザバッと靴ごと中に踏み込んでも問題ないと軽く考えた。そして勢いよく水中に足を踏み入れたのが悲劇のもとだった。
  次の瞬間、私の身体は斜めになって宙に浮き、右体側部を下にしたまま、ガツーンという鈍い音をたてて路面に激しく叩きつけられた。反射的に身体を右にひねったので辛うじて背中や後頭部を打ちつけるのだけは避けられたが、そのかわりに、右肘と右腰骨とに落下にともなう衝撃のすべてを被ることになってしまった。何が何だかさっぱりわからないままに、私は必死に歯をくいしばり、右腕と右腰一帯に走る激痛にしばらくじっと耐え続けた。
  痛みをこらえながらなんとか立ち上がり、足元をしげしげと眺めてみると、溶け出した水に見えたものは、なんとガチガチに凍りついた透明な氷であった。若い頃幾度となく冬山や融雪期の春山に登ったことのある身なのだから、凍結しているんじゃないかと警戒心を懐いてしかるべきだったのだが、陽光に騙されついつい軽率に振る舞ってしまったのだ。
  それから二日ほどは肘も腰もかなり痛んだ。いまでも右腰にはかすかに鈍痛が残ってはいるが、不幸中の幸いというか、そのまま動けなくなったり、骨に異常をきたしたりする事態にはいたらなかった。厚手のセーターの上にしっかりとした防寒用のダウンを着込んでいたので、それがクッションとなってかなり衝撃が吸収されたからなのだろう。
  ――うーん、これはどうやら十三日の金曜日の祟りらしいな、いやもしかしたら、道草を楽しんでいる私に向けられたドラキュラ翁の祟りかな――自嘲気味にそんなことなど呟きながら、ゆっくりと歩いて車のところまで戻ると、先客の二人もまだその場に残っていた。氷に足をとられてひどく身体を打ってしまったと言うと、驚いたことに、その二人もまったく同じ目に遭ってしまったのだと、笑いながら話してくれた。彼らのひとりなどは、大切な撮影器具を入れたザックごと凍結面に激しく叩きつけられ、機材の一部を損傷してしまったとのことであった。意外にも被害者は私だけではなかったのだ。
  痛む身体を休めながらしばし仮眠をとろうと思い車中で横になると、そのまま四時間ほど眠り込んでしまった。目が覚めたのは十一時過ぎのことだっだ。外気温もずいぶんとあがり、差し込む陽光のため車中は暑いくらいになっている。歩行には差し障りはないほどに腰の痛みもおさまったので、車外に出て周辺をまた少し散策してみた。いつのまにか除雪作業員がやってきていて、ブルドーザを動かし除雪を進めているところだった。
  ちょっと声を掛けて話を聞いてみると、やはりこの冬は異常に降雪が多かったという。松本周辺でもたった一晩で七十センチもの雪が積もった日もあったらしい。山頂駐車場までの道路の除雪はいつまでかかるのかと尋ねると、翌日の昼頃までには作業を終える予定だとの返事だった。どうやら一日だけ早過ぎたということらしかったのだが、その一日違いのせいでずいぶんと痛い目に遭ってしまったわけである。
  高ボッチからの帰途、道路脇に動物の遺骸の一部らしいものが散乱しているのを見つけた。なんだろうと思って近づいてみると、それらは、大きな背骨の一部と、どこのものとも判断し難い半乾きの毛皮の断片、そして、まだ蹄と毛がついたたままの二個の脚部だった。手にとって観察してみると、二個の脚部はどちらも後脚の大関節から先の部分であった。色や形から推測すると、どうやらそれらはこの周辺に棲息するカモシカの遺骸の一部であるらしかった。一見したところ鹿のそれにも似ているが、残された毛皮の毛はかなり長めで毛色もずいぶんと黒味を帯びており、鹿のものとはかなり違っているように思われたからである。
  山の斜面の雪に埋もれていた遺骸が雪崩などで押し流されて路上に落ち、大型の車かブルドーザに何度も轢かれてそのような状態になったものなのか、それとも、何らかの原因で息絶えたあと、他の動物に食べられたり自然に腐食したりしてそうなったものなのかはわからなかった。いささか躊躇いも覚えはしたが、珍しいものには違いなかったので、物好きな石田翁へのお土産代わりにと思い、二個の脚部と毛皮一個を大きなビニール袋に入れて車に積み込んだ。そして残りの背骨の一部や他の小片はすぐそばの林の中に埋めてやった。

  高ボッチ山を下りると、塩尻経由で松本に抜け、安曇野の西端を南北に走る広域農道に出た。松本盆地周辺はちょうど桜の花が満開になったばかりだったので、東京で行く春の舞い散る桜を惜しんだあと、もう一度盛りの桜を見物できるという幸運にも恵まれた。穂高町へと向かう途中の三郷村、堀金村一帯の畑地からは、北アルプス連峰の西斜面沿いに吹き降ろす乾いた強風に煽られ、猛烈な土埃が舞い上がっていた。その付近の上空が黄色に霞み、前方の信号がよく見えないほどの激しさだった。
  その凄まじい土埃の中を走るうちに、私は子どもの頃に幾度となく体験した春の黄砂現象のことを想い起こした。鹿児島県の西方海上に浮かぶ甑島は、春になるとしばしば濃い黄色の霧のようなものにすっぽりと覆われ、晴れていても太陽が見えない日が何日も続くようなことがあった。お隣の中国の内陸地帯で高く吹き上がった大量の砂漠の砂が、西風に乗ってはるばる九州一帯の上空にまで運ばれてくる。それが黄砂現象のメカニズムだと小学校の理科の時間に教わったりもしたものだ。
  途中で昼食をとったりしたので、表敬訪問先の石田宅に到着したのは午後二時過ぎであった。東京から手土産に持ってきた虎屋の羊羹だけを先に手渡し、車の中にもうひとつ変わったお土産があるのだがと伝えた。ただの土産ではないなと察知した石田翁は、訝しげに私の様子をうかがいながら、「あんたの考えることだから、またどうせロクなシロモノじゃないんだろう?」と問いかけてきた。
  ドラキュラ翁の異名をもつとはいえ、相手は八十五歳になる老人である。いきなり実物を取り出して驚かすわけにもいかないと思い、正直に、それは高ボッチで拾ったカモシカの足の先端部だと告げた。すると、石田翁の口からは、「いやあ、それだったらもう遠慮することにするわ。以前だったら喜んで飾り物かなんかにしたんだけどね」という予想外の返事が戻ってきた。さしものドラキュラ翁にも近頃になって心境の変化が起こってきたものらしい。
  シャーロックホームズ物をはじめとし、長年にわたって海外の様々な推理小説を翻訳してきた関係で、石田翁には、動物の遺骸の一部を見たりすると、その全体像やそこに至るまでの悲惨な背景にあれこれと想いをめぐらす習癖があった。その習癖が歳をとるにつれてマイナスに作用するようになり、近年では生き物の死骸を目にしたりすると、心穏やかではおれなくなってしまうらしいのだ。意外なことだが、どうやら、仏心、いやキリスト心がドラキュラ翁の体内に芽生えはじめたもののようだ。
  いささかの計算違いに戸惑いを覚えはしたが、ともかく問題の土産物は車中に残したままにして、まずは表敬の挨拶をすませることにした。十三日の金曜日の石田翁への対応の仕方にもそろそろ趣向変えが必要なのかもしれないなという思いが、一瞬胸の奥をよぎっていった。

「マセマティック放浪記」
2001年5月2日

今度は生きたカモシカと

  毒舌の切れ味だけは相変わらずの石田翁と雑談に花を咲かせたあと、揃って近くの温泉に出かけた。そしてそこの露天風呂につかりながら、のんびりと二時間ほどの時を送った。帰り道には美味そうな鮨を買い込み、気の向くままにそれらをつまんでは、さらに二、三時間ほど話し込んだ。たまたまヴァイオリニストの川畠成道さんのことなども話題にのぼった。
  川畠さんのヴァイオリンの素晴らしさを石田翁に伝えたのは私だったが、それ以来、翁もすっかりその音に魅せられてしまったらしく、ベッドルームの一隅にはヴァイオリンを手にした川畠さんの写真が一枚貼ってあった。見方によっては偏屈このうえない老人だが、イギリスBBC勤務をはじめとする長年の海外生活で鍛え上げられた審美眼は的確そのもので寸分の狂いもない。容易なことでは人を認めもせず褒めもしないこの老翁の目と耳に、川畠さんは適ったということなのだろう。
  無事表敬訪問を終えて石田邸をあとにしたのは午後九時半頃だった。一泊しても構わなかったのだが、あえてそうしなかったのは、十三日の金曜日のうちに別れるのが双方の美学にもかなっているような気がしてならなかったからだった。穂高町から松本を経て塩尻市街に抜けたあと、国道十九号沿いのファミリーレストランに飛び込んだ。そしてそのお店の一角に陣取って原稿書きに没頭しているうちに、時刻は十四日土曜の午前零時を過ぎてしまった。
  そこで一件落着となればよかったのだが、困ったことに、体内に棲む気まぐれ虫が、機を窺っていたかのようにもそもそとうごめきはじめた。そして、ノートパソコンのキーを叩き続けている私の耳元に、その虫が、「もう一度高ボッチに登って美しい朝焼けを見ていくのも悪くないぞ!」と、誘い煽りたてるような言葉を囁きかけてきたのである。気まぐれ虫の誘惑に抵抗するのは難しい。すぐに車に戻った私は、結局、深夜の高ボッチ山頂目指して再度アクセルを踏み込むことになってしまった。
  塩尻峠から高ボッチ方面への林道に入って間もなく、突然、前方に黄色い光の粒が点々と浮かび上がった。反射的にブレーキを踏み、ヘッドライトに浮かぶそれら二十個ほどの光点に見入ると、あるものは静止し、あるものはわずかに揺れ動きながら一斉にこちらを凝視している感じである。黄色い光の点が二個一組になっているらしいことから、それらが動物の眼であることはすぐにわかった。北海道で夜道を走っている時などにしばしば出遭うエゾシカの眼の輝きによく似ている。そう思いながら徐々に近づいてみると、やはりそれらは野生の鹿の一群であった。その様子からすると、この近辺には相当数の鹿が棲息しているらしい。
  鹿の群と別れ山頂方面に向かってどんどん高度をあげていくうちに、ちょっとした疑問が湧き上がってきた。前日拾って車に積み込んだカモシカの後脚先端部と表皮の一部らしいものは実際には鹿のものだったのではないか、という疑いを懐きはじめたのだ。しかもその思いは走行を重ねるうちにいっそう強くなってきた。
  だが、千二百メートル近くまで高度を上げたときのこと、突然、そんな疑念を一掃してくれるような出来事が起こったのだ。大型の動物のものらしい黒い影が一瞬車の前方を横切り、右手の山の斜面を少し駆け登ったところでぴたりと静止した。車を停めて様子を覗うと相手もじっとこちらの動向を探っている気配である。すぐさま懐中電灯を取りだしその黒い影のほうを照らし出すと、黄色く大きな相手の両の眼が、光輪の中で異様なまでにひときわ明るく輝いて見えた。全体的な風貌はどこか黒山羊のそれに似ていて、頭部には大きく後ろに反った感じの二本の角が生えている。しかも、懐中電灯の光を吸って黒く浮かび上がった長い顔の側面は、ふさふさとした長毛で覆われているようだった。魔王ルシェフェルの不気味な容貌をも連想させるその独特の相貌は、どう見てもカモシカのものに違いなかった。
  光を浴びながらしばらくじっと佇んでいた相手は、こちらがそれ以上近づくことができないとわかると、急な斜面を悠然と歩みのぼり、そこで大きく横に向きを変えて草か何かを喰みはじめた。いくぶん遠目ではあったけれども、黒い肢体の形だけはライトの光を通してじっくりと観察できた。明かに先刻見かけた鹿のそれとは色も形も違っている。後脚の大関節から蹄にかけての先端部は思いのほか細く短く、車に積んである二個の脚部そっくりであった。問題の遺骸の一部を見つけたのもそこからほどない所だったから、やはりそれらは当初考えた通りにカモシカのものだったのだ。
  次第に遠ざかるカモシカの黒影を見送ったあと、私は再び山頂方面に向かって車を走らせた。すでに除雪が終わっていたため、今度はなんの苦労もなく高ボッチ山頂駐車場に着くことができた。時計を見るとまだ午前三時前だったので、とりあえず日が昇るまでその場で仮眠することにした。
  午前五時少し前、人の話し声を耳にして目を覚ますと、驚いたことにかなりの数の車が駐車場にとまっているではないか。眠っている間に次々とやってきたものらしい。除雪が終わり頂上まで行けるという情報がたぶん前日のうちに流れていたのだろう。ナンバーを確認してみめるとほとんどが地元の車のようだった。
  ほどなく東の空から太陽が昇ってきた。空全体はかすかに煙った感じで、条件がベストの時の眺望に較べればいまひとつではあったが、それでも前日よりはずっと展望がきいた。北アルプスの山々もよく見通すことができたし、うっすら霞んではいたが遠く富士山の姿を望むこともできた。
  山の景色を眺めたあと、車の中で四時間ほどぐっすりと眠った。目が覚めたときには気温もかなり上がっていて、吹きぬける風も心地よい涼風に変わっていた。西側足下の安曇野越しに視線を送ると、穂高、常念、槍ヶ岳などの山々の頂きが、高く昇った太陽の光を浴びて白く鋭く輝いて見えた。
  山頂駐車場をあとにする前に、ビニール袋に入れて積んでおいたくだんのカモシカの脚部の先と表皮の一部がどうなっているかを確認してみた。拾った時にはかなり乾いているように見えたのだが、車内の温度が高いせいもあってかなり腐食が進んだらしく、鼻を突くような異臭を発している。表皮の体毛もちょっと触っただけでポロポロと抜け落ちてしまう有様で、とてもそのまま長期にわたって保存できるような状態ではなかった。
  しかたがないので、塩尻峠へと向かって下る途中で前日カモシカの遺骸を見つけた場所に車を停め、背骨の一部を埋葬したのと同じところに残りの部分も埋めてやることにした。まさか高ボッチでカモシカの遺骸の一部を発見し、結果的にそれらを埋葬してやることになろうとは予想だにしていなかったのだが、それもまた「他生の縁」と呼ばれるもののひとつではあったのだろう。
  塩尻峠で国道二十号に合流し、もう少しで岡谷インターチェンジに到着ようという時になって、突然また脇道病の発作にとりつかれてしまった。岡谷インターチェンジから中央道に上がらず、その少し手前で右折して塩嶺城パークラインに入り、辰野方面に抜けてみようと思い立ったのである。ずいぶん昔に二、三度通ったことのある道なのだが、当時は細いダートの山道で、深い林に覆われ展望もほとんどきかなかった。ところが、地図で調べて見ると、近年はすっかり道路が整備され快適なドライブウエイへと変貌を遂げているらしい。塩嶺城パークラインなどという洒落た呼称をつけられたのも多分そのためなのだろう。それならば一目その変容ぶりを見ておくのも悪くないだろうというわけだった。
  塩嶺城パークラインに入ると再びどんどん高度があがりいっきに展望が開けてきた。通行車こそ少ないが、道路は完全舗装され周辺の景観も昔と違って綺麗に整えられている。木立の間からは穂高や乗鞍など、北アルプス方面の山々も遠望された。気分をよくしながらしばらく走ると、小広いパーキングエリアのある展望台に着いた。まだできて間もない感じの展望台である。
  展望台に立った私は望外の風景に思わず息を呑んだ。眼下いっぱいに諏訪湖が広がり、その向こうには八ヶ岳連峰がパノラマ写真そのままに雄大な姿を見せている。これまでにもいろいろな角度から諏訪湖や八ヶ岳の景観を眺めてきたが、この位置と角度からそれらを目にするのはこれが初めてのことだった。右下はるかには、諏訪湖の水が天竜川水系となって流れ出るあたりの谷間と、その谷を跨いで三方にのびる中央道と長野道が鳥瞰された。展望台の位置が程よい高さと距離方角にあるためか、諏訪湖そのものの景色も他のビューポイントから眺めるよりもいちだんと素晴らしかった。
  だが、それにもまして驚いたのは八ヶ岳の展望の見事さだった。一口に八ヶ岳とはいうものの、この連峰は横に長く大きく伸び広がっていて、その全容を一望のもとにおさめるのは意外に難しい。私の知るかぎりでは、東側の野辺山高原一帯や秩父山系周辺の山野には、蓼科山から編笠岳までにいたる八ヶ岳の全貌を望めるところは見当たらない。中央高速道の茅野、諏訪あたりからはかなりよくは見えるのだが、いかんせん高度が低すぎるうえに近辺に人工物が多過ぎる。高ボッチ山からの眺望はそれなりに満足いくものではあるが、展望角度の関係で八ヶ岳連峰を構成する個々の山々の形を十分に把握するのは容易でない。
  ところが、この展望台からは、霧が峰高原の車山、蓼科山、横岳、縞枯山などにはじまり、天狗、硫黄、赤岳、権現、編笠にいたるまでのすべての峰々とその形までをはっきりと望むことがでるのだった。個々の峰々の名と形を正確に刻み記した案内板を見るまでもなく麦草峠の位置さえも識別できたのは、想いの外のことであった。名前すらついていない展望台ではあったが、その眺望に少なからず圧倒された私は、八ヶ岳を縦走した青春の日の記憶を甦らせながら、しばし深い感慨に耽り続けた。

「マセマティック放浪記」
2001年5月9日

えっ、エンジンにトラブルが?

  八ヶ岳と諏訪湖を眺め終え、車に戻ってエンジンをかけようとすると、マグネットが吸着し合うときのようなカチンという金属音がするだけで、スターターが始動しない。何度もあれこれ試してみたのだが、どうしてもエンジンは起動しなかった。バッテリーが上がったのかなと思ってヘッドライトを点けたり、一時的にエアコンを作動させたりしてみたが、それらの様子からするとバッテリーが直接の原因ではないようだった。どうやら、電気系統かセルモータそのものの故障らしい。エンジンルームを開け、素人なりの知識を総動員してあちこちいじくりまわしてみたがまるで埒(らち)があかない。
  ここはもうJAFにSOSを依頼し、場合によっては岡谷か塩尻の工場まで牽引してもらうしかないだろうと腹を括った。JAFの会員歴そのものはもうずいぶんと長いのだが、その間にお世話になったのは二度だけだ。一度は東北自動車道を走行中のことだった。ラジエータが突然破損、急激な冷却水漏れが起こり、エンジンルームから上がる白煙に気がついたときには既にシリンダーが焼きつき走行不能に陥っていた。いま一度は伊豆半島の山中で、二十万キロ以上も走った前のライトエースが昇天したときのことである。老朽化が進んでいたせいだろう、これまた走行中、突然、後部座席でボーンという破裂音がし、シューッという音をたてて突然車内に熱湯混じりの高温蒸気が噴水みたいに吹き上がるという信じられない出来事が起こった。暖房系の配管が破れそこから高温高圧化した冷却水が噴出してしまったのだが、幸い後部座席は無人だったので最悪の事態は免れた。
  山中でトラブルが生じたときなど、以前はJAFへの連絡そのものが大変だったが、いまでは携帯電話という利器があるから実に有り難い。とりあえずJAFのサービスセンターをコールし詳しく状況を説明すると、松本基地から出動するので一時間ほど待っていてほしいとの返事だった。この展望台にはなぜか名前がついていなかったので、JAFの女性係員に正確な位置を伝えるのに苦労したが、諏訪湖と八ヶ岳とがよく見える塩嶺城パークライン沿いの展望台を探してほしいということで納得してもらった。この時代のことだから、JAFのサービスカーなどは精度の高いGPSを装備しているに違いないし、こちらの携帯の番号も伝えておいたから、問題はないだろうと考えた。
  もういちど八ヶ岳を眺めたり周辺を歩き回ったりして小一時間ほど時間を潰していると、JAFのサービスカーがやってきた。松本基地から出動してくれたサービス員は馬場亮さんというがっしりした中年の男性で、その身振舞いにも言葉使いにもたいへんに好感がもてた。信頼感溢れる馬場さんの登場に、これで問題解決は間違いないなと私は強い確信を覚えたのだった。
  ところがである、なんともはや、こちらの確信以上のことが起こってしまったのだ。必死に看病している周りの者に向かって「死ぬ、死ぬ」とわめいていた急病人が、信頼できる名医の顔を見た途端に安心し、まだ何の治療もしていないのに様態が嘘のように落着き元気になってしまうようなことがたまにある。こともあろうに、それとまったく同じ状況が起こってしまったのだ。
  私から一通りの状況を聴き終えた馬場さんは、エンジンルームが開いたままの車をちょっと覗き込むと、スターターを始動してみてくれるようにと合図した。そこでエンジンキーを軽く回すと、なんとも呆れ果てたことに、あれほどあれこれ試しても動かなかったエンジンが一度で起動したのである。相手が機械でなかったら、「セル・モータのぶんざいで、ずいぶんと人を舐めやがって!」と一発ゴツンと小突いてやりたい気分だった。
  ところが、そんな私の心を見透かしたように、馬場さんはニコニコしながらなんとも意外なことを教えてくれた。このような始動不良は古くなったセル・モータにしばしば起こる現象で、より大きなトラブルの予兆みたいなものなのだという。セル・モータが老朽化したような場合、ちょっとしたカムの噛み合わせの悪さやバッテリーの起電力のわずかな低下などが誘因となってこのようなことが起こるらしい。そんな時には、しばらく放っておいてから再試行すると、なんなく始動することも少なくないのだそうだ。あらためて何度かエンジンの始動と停止を繰り返してみたが、先刻の事態が嘘のように何の異常も起こらなかった。
  「もしもまた始動しなくなったら、セル・モータを外側から棒か何かで叩いてみてください。そうすれば動くと思います。東京に戻り着くくらいまでなら、それで何とかなるはずですから……」と笑いながら、馬場さんは、再度始動不能に陥った場合の対応策まで伝授してくれた。なんのことはない、コンチキショーッとばかりにセル・モータに二、三発喰らわせれば、相手は素直に言うことをきいてくれるということらしいのだ。紳士的でありさえすれば何事もうまくいくはかぎらない。この世はなんとも厄介なものである。
  JAFの会員であったため、八千円ほどの出張費と技術料(アドバイスも立派な技術にほかならない)は無料となった。馬場さんが手渡してくれた作業内容証明の記録用紙には、「到着時、作業なしでエンジン始動。スターターの不良と思われる」と記入してあった。
  馬場さんには鄭重にお礼を述べ、別れ際にとりあえず手持ちの拙著一冊を進呈した。ついでにAICの宣伝などもしておいたから(しがないライターの身ゆえ、読者獲得のため、日夜涙ぐましい努力もしているわけです)、もしかしたらどこかでこの一文を読んでもらっているかもしれない。おもむろに現場を立ち去っていく馬場さんの車を見送っているうちに、いちどJAFのサービス車に取材を兼ねて体験同乗し、「JAF二十四時間奮闘記」みたいなルポルタージュものを書いてみるのも悪くないかなと思ったりもした。もちろん、そんな便宜をJAFサイドにはかってもらえればのことではあるけれども……。

  セル・モータの調子が悪いなら、すぐに最寄の岡谷インターチェンジから中央道に上がり東京へと直行すればよさそうなものなのだが、素直にはそうしないのが旅人間の端くれたる所以でもある。せっかくここまで来たのだからいまさら引き返す手はないと、はじめの予定通りそのまま辰野町小野方面へと向かって走り出した。
  しばらくアクセルを踏み続けていると、ちょっとした史跡案内表示板みたいなものが立っているの地点にさしかっかった。車を停めて案内板の解説を読んで見ると、その場所から百メートルほど細い坂道を登ったところが旧中山道ゆかりの小野峠であるとのことだった。いまでは訪ねる人もめったにない林の中の細道を踏み進むと、ほどなく峠の最高地点に立つことができた。峠からは東側へと向かって下り道が続いている。この旧道は、往時には三沢を経て、岡谷、諏訪方面へと通じる要路であった。
  江戸時代初期、幕閣たちは江戸の町造りに必要な木材を木曽地方から調達しようと考えた。そしてそれらの木材を木曽から諏訪湖畔まで運び出すために、木曽桜沢―牛首峠―飯沼川筋―小野―小野峠―三沢―諏訪湖という木曽谷と諏訪湖とをつなぐ最短路が切り拓かれた。しかし、このルートは距離的には最短だったものの険しい峠が二つもある難路で、当時は途中に人家もほとんど存在していなかったため、その開発を発案指揮した大久保長安らの死後は急速に要路としての役割は急速にすたれてしまったのだという。それからほどなくして、この小野峠越えの中山道は、多少遠回りではあるがより安全で周辺に人家も多い、現在の国道二十号沿いの塩尻峠越えの中山道に取って代わられることになったようである。
  しばし峠に佇んで遠い時代に想いを馳せたあと、車に戻ってさらに小野方面へと下っていくと、こんどは、「日本の中心の標まで6.3キロ」と記した小さな標識が目に飛び込んできた。なんだ、こりゃ?――「日本の中心」って一体全体どんなところなんだろう?――そう思いながらいったんはその地点を通り過ぎかけたのだが、その瞬間、気まぐれ虫がまたもや目を覚ましてしまったのだった。すぐさま引き返してその標識の指し示す林道に入り、問題の場所がどんなところか確かめてみろと、気まぐれ虫はしきりにこの身をそそのかし始めた。
  かなりの悪路の林道みたいだから途中でエンストなんかし、またセル・モータが動かなくなったりしたら今度こそJAFにも愛想を尽かされてしまうぞ、叩いても再起動しなかったらどうする?――そんな不安が一瞬脳裏をよぎりはしたが、結局、私は無謀を承知で林道へと突っ込んだ。それがどんなに詰まらないところであったとしても、この機会を外したら「日本の中心」とか称される風変わりな場所を訪ねるチャンスは二度とないような気がしてならなかったからだ。
  それに、かねてから日本の辺境地ばかりを好んで訪ね歩いているこの身にすれば、その対蹠点とも言うべき地点を目前にしておめおめと引き下がるわけにもいかなかった。万一その近くで車が動かなくなったとしても本望というものだし、それはそれで十分話の種になるという思いもあった。多少の悪路とはいっても、6.3キロの道のりならたいしたことはないから、いざとなったら足に頼ればよいだろう。そう勢い込むと、すぐさま四輪駆動に切り換えて林道へと乗り入れたのだが、相手はこちらが想像していた以上に手強かった。

「マセマティック放浪記」
2001年5月16日

日本の臍を訪ねて

  日本の中心とは、言うなれば「日本の臍」のようなものである。是非その日本の臍に足跡を刻んでみたいと意気込んで突入した林道だったが、ほどなくそれはゴツゴツした岩だらけのダートの悪路に変貌した。九州から北海道まで様々な林道や険路を走り回ってきた身だから、悪路は少しも気にならない。だが、このときばかりは、いったんエンジンが止まってしまったら、殴っても蹴飛ばしてもスターターが再起動しないおそれがあるという状況だったから、そのぶん慎重にならざるを得なかった。いまや「哀車」の域にいたらんとしている我が愛車は昔ながらのマニュアル車である。だから、突然岩角に乗り上げたり溝にはまったりして、一瞬クラッチの切断操作が遅れたりしたらたちまちエンストしてしまう。
  そうこうするうちに道は悪路に加えて車一台通るのがやっとの急坂路になった。四輪駆動に切換え、時には車体を宙に浮かしたりしながらカタガタ走行を続けるうちに、みるみる高度は上がってきた。それでもなお急坂路が連なっているとこをみると、どうやら日本の臍は相当なデベソであるらしかった。
  やがて車は広大な赤松林に差し掛かった。前方右手から左手に向かって急角度で落ち込む斜面一帯には赤松の密生林が分布していて、その中を縫うようにしてダートの隘路がなお上方へとのびている。秋になるとずいぶん松茸が採れるんじゃないかなと思いながらアクセルを踏み続けていると、案の定、「茸山につき許可なく入山を禁ず」と記された立看板が現れた。たとえ「入山を許す」と言われても「結構です」と辞退する人のほうが多いのではないかな、と思いながらさらに高度を上げていくと、ようやくのことで多少見通しのきく尾根筋に出た。
  眼下はるかに天竜川のものとおぼしき谷筋が広がり、足元の斜面はその谷に向かって急角度で落ち込んでいる。周辺の景観からするともう相当な高さのところに来ていることは間違いなかった。林道入口の標識には「日本中心の標まで6.3キロ」とあったが、既にそれ以上走っている感じである。しかし、目標地点らしいものはまだ視界には入ってこなかった。
  これまでの経験からしても、公的なもの以外の距離標識の表示はあまり当てにはならない。地図上でおおまかに図った水平距離と垂直方向への変化や大小のカーブを計算に入れた実距離との差は大きいから、最悪の場合には、表示距離の二、三倍は走る覚悟をしておいたほうがいいだろう。北海道などにおいては、一キロメートルと表示のあるところが実際にはその何倍もあるといったようなことも少なくない。
  こんなところで対向車が来たら困るなとは思ったが、幸い、その心配はなさそうだった。そのかわり、ここでエンジンが止まって動けなくなってしまったら、他車に拾ってもらえる可能性など皆無に等しい。いずれにしろ、ここまで来たらどうあろうとも日本の臍目指しひたすら前進するしかない状況だった。進行方向左手は深い谷となって切れ落ちている。急坂の狭い林道の路肩は見るからに脆弱そうだったので細心の注意を払わなければならなかった。
  だが、最大の難所が待っていたのはその先だった。行く手の道路が二、三百メートルにわたって一面残雪に覆われ、カチカチに凍結していたのだ。エンジンが止まらないように気をつけながらチェーンを装着したあと、とりあえず路面と雪の状態を細かくチェックしてみることにした。車幅よりわずかに広い程度の路面は谷側に傾斜しているうえに、二、三箇所路肩が崩れかかっているところがある。しかも、道全体はかなりの急坂だった。山側に車をいっぱいに寄せ、車体を傾けながら通ればなんとかなりそうではあったが、まんいち横滑りを起こして谷側へと脱輪したらひとたまりもなさそうだった。
  雪面上に轍らしいものがほとんど残っていないところをみると、最近ここを通った車はないらしかった。慎重のうえに慎重を期すため、スコップを取りだし、とくに危なそうな個所の山側には左側車輪を通すための溝を掘った。天気がよく気温がかなり上がっていたため、凍結面になんとかスコップの先を突き刺すことができたのは幸いだった。スコップの先も突き立たないほどに凍結していたらどうしようもなかったかもしれない。
  車を置いて徒歩で目的地まで登ろうかとも思ったが、車に戻ったあと来た道を引き返すため、切り返し可能な場所までバック運転するのも容易なことではなさそうだった。長い悪路をバック運転する途中でエンストし、スターターが再始動しなかったらお手上げだし、たとえJAFの救援車が駆けつけてくれたとしても、このような状況下では牽引もままならないに違いなかった。また、そもそも、この深い山中で携帯電話が使えるかどうかさえ定かではなかった。
  ここは猪突猛進あるのみとばかりに、勢いをつけて凍結した路面に車を乗り入れた私は、そのまま一定の速度を保っていっきに問題の場所を乗り切ろうとした。慎重になるあまり下手に速度を落とし過ぎ、途中でストップしようものならかえって危ない。一瞬車が右に傾き、右斜め前方に少しスリップして内心ひやりとさせられはしたが、凍結した残雪に大きく車輪をとられることもなく、なんとか無事にその難所を切り抜けることができた。いったん車を停めチェーンを外してから轍を確かめに戻ってみると、文字通り路肩ぎりぎりのところを右車輪が通過したらしいところが一箇所だけあった。
  路面の凍結個所を過ぎてしばらく進むと、道の傾斜が緩やかになり、突然、明るく開けた感じの稜線上に出た。「辰野町、日本中心の標」と記された案内板が立っているその地点からさきで道は二手に分岐し、左手の道のほうは急な下りとなって南の方角へとのびていた。「日本中心の標」の方向を示す案内板の矢印にしたがい、もういっぽうの右手水平方向に続く道伝いに百メートルほど進むと、鉄塔風の大きな展望台の立つ場所に出た。そしてそこで道は行き止まりとなった。
  どうやら、遠く人里離れた静寂そのもののこの地点こそが、ほかならぬ「日本の臍」であるらしかった。日本の中心とうたわれる地理上の特異点がこれほどに辺鄙な山奥に位置しているというのは、なんとも興味深いかぎりではあった。
  エンジンをかけたままにして車を降りると、すぐに私は展望台に上ってみた。ほぼ三百六十度の展望のきくその高みからは、近辺の山々は言うにおよばず、八ヶ岳や甲斐駒、北岳、経ヶ岳、さらには木曽御岳、乗鞍岳などよく知られた山々の姿も遠望された。まだ周辺の山々は冬枯れの状態のままだったが、新緑や紅葉の季節になれば一帯が美しく彩られるだろうことは想像に難くなかった。
  深山の大気を肺いっぱいに吸い込んだあと、私はゆっくりと展望台を降りた。そしてそこから四、五十メートルほど離れたところにある黒っぽいハンレイ岩質の四角い石碑の前に立った。その碑にはかなり丸みのある字体で、「日本中心の標」という六文字が深々と彫り刻まれていた。碑文の文字を揮毫したのは中川紀元という人物のようであった。またその碑には、「日本の中心」だというこの地点の正確な緯度、経度、標高があわせて表記されてもいた。

  経 度:東経137°59′36″ 
  緯 度:北緯 36°00′47″
  標 高:海抜1277m
  所在地:長野県辰野町鶴ヶ峰(標高1291m)付近

以上が日本の中心、すなわち、日本の臍の所在地に関する詳細なデータである。地図を見てもらうとわかるが、岡谷と塩尻を結ぶ国道20号線、諏訪湖畔の岡谷と辰野町をつなぐ天竜川沿いの県道、そして塩尻から辰野町にのびる国道153号線の三路線に囲まれた三角地帯は、ちょっとした山岳地帯になっている。その山岳地帯のほぼ中央にあるのが鶴ヶ峰という山で、問題の「日本の中心」はそのすぐ近くに位置しているのだった。
  日本の中心の標に刻まれたデータを眺めているうちに、いったいどういう算定法のもとに、この地点を我が国の中心と定めたのだろういう疑問が湧いてきた。一番単純な方法は、全国の海岸線沿いの各地に多数のチェックポイントを設定し、それらの地点の経度と緯度との平均値を算定することだろう。単純に平面として考えたときの日本地図の重心を算出し、それを日本の中心と定めるやりかたである。その場合でも、小笠原諸島や琉球諸島など日本本土から遠く離れた島々のデータ等を算入するととなると、それらの処理の仕方によって算定値にかなりの違いが生じかねない。
  まして、山岳地帯や平地などといった立体的な地形分布まで考慮してその物理的重心を計算するとなると、話はますます厄介なことになってくるはずだ。そこまで考えたとき、私はこのAICのライターの中に、野々村邦夫さんというその道の大家がおられることを想い起こした。私が初めてAICに登場した頃、本欄の編集責任者の穴吹キャスターは、半ば冗談まじりに私のことを「動く国土地理院」などと紹介していたようであるが、その後に登場なさった野々村さんは正真正銘の国土地理院長を務められた方である。ここはもう、専門家の野々村さんにお伺いをたてるしかないと私は考えた次第だった。
  続いて湧き上がってきた疑問は、もしもここが日本の中心であるとすると、日本の最果てはいったいどこになるのだろうというものだった。さっそく私はいつも資料として車に積んである地図帳を取り出し、日本周辺の地図の表示されているページを開いた。次にこれまた七つ道具のひとつディバイダーを手にして両針先を大きく開き、その片方を現在地と思われる地点に突き立てた。そしてそこを中心にもう片方の針先で円弧を描きながら日本の領土のどこが一番遠いのかを調べてみた。
  その結果判明したのは、沖縄県の与那国島の南西端が最果ての地にあたるらしいということだった。地図の縮尺を用いて概算すると直線距離にして約1800km、この距離を半径にして円を描くと、沖の鳥島も南鳥島も、択捉と国後の両島もその円内にすっぽりとおさまった。北方で与那国島までの距離に相当する地点は、樺太島北部とアジア大陸との間に位置する間宮海峡の北端、アムール河(黒竜江)の河口付近であることもわかった。中国の北京もほぼ同距離に位置していた。
  日本の臍に別れを告げたあとは、やってきたほうの林道には戻らず、反対側へと下る林道に入った。意外なことにそちらの林道は道幅も広く路面もしっかりしていて走るのに何の苦労もいらなかった。どうやら、こちらの林道のほうが日本中心の標に至る本道だったようで、私がハラハラしながら辿ったほうの林道は裏道であるらしかった。
  しばらく下っていくと、右手に句碑らしいものが現れた。それは「江ほむら」という、いままで耳にしたことのない俳人の句碑であったが、そこに刻まれていたのは私のような素人の目にさえも素晴らしいと思われる一句であった。

   古里のどの山からも雪がくる

  これ以上何の説明もいらない明快さ、それでいて信濃の冬のすべてを語り尽くしているその見事さ――この絶妙な十三文字の句に出逢えただけでもわざわざこの地を訪ねた甲斐があるというものだった。
  江ほむらという俳人は、本名を吉江今朝人と言い、大正九年に辰野町で生まれた人物であるらしい。句碑裏に記された経歴の語るところによると、電通大を卒業後、長年気象庁に勤務、退職後は地元岡谷に在住し、秋元不死男、鷹羽狩行、上田五千石らに師事して句作を学んだとのことであった。句碑の建立は平成5年9月25日となっているから、まだそう古いものではないようだった。
  それにしても、それが立つ場所が場所だから、地元の俳句関係者以外の人がこの句碑を目にすることはめったにないだろう。いや、もしかしたら碑の建立者たちはそれを承知で敢えてこのような場所を選んだのかもしれない。標高千メートルを越えるこんな山上のことだから、冬には句碑ごと深い雪に埋もれてしまうに違いない。ひょっとすると、それこそがこの碑をこの場所に立てた人々の狙いでもあったのかもしれないという思いさえした。
  そんな他愛もないことなどを考えながら、私はおもむろにその場をあとにした。七蔵寺林道と呼ばれているらしいその林道は、下るにつれて道幅が徐々に広くなり、途中からはしかりした舗装道路に変わった。林道を下りきったところは辰野町の中心街のすぐ近くだった。悪運が強いというかなんというか、エンジンを一度も切らずになんとか林道を走破できたので、再度スターター始動不能の事態に再度陥り、山中で立ち往生してしまうことなどもなくてすんだ。
  もしもこれから日本中心の標を訪ねてみたいという方があるようなら、辰野町中心街の側からアプローチすることをすすめたい。林道入口付近にはしっかりした案内標識も立っているし、道路状況もそちらのほうが格段によいからだ。

「マセマティック放浪記」
2001年5月23日

神楽坂の酒闘?

  永井明さんと私とが担当するアサヒ・インターネット・キャスター(AIC)中のコラム欄には、「医者vs.数学者」などといういかめしいタイトルがついている。もちろんこれは、ほっておくとどこまでも暴走しかねない我々二人に一定のタガをはめておくべく、AICの統括責任者穴吹キャスターがあらかじめ仕組んだ業であって、いささかも我が意を得たものではない。いっぽうの「漂流記」と「放浪記」というタイトルも穴吹キャスターが独断的に決めたものなのだが、こちらのほうはかなり的確に我々二人のライターの本性を押さえた命名だと言ってもよいだろう。
  そんなわけだから、永井さんと私とは、各々の本性にのっとって、もっぱら、漂流者あるは放浪者として振舞うように心がけているわけで、医学や数学の話がほとんど登場しない理由のひとつはそんなところにもあるかもしれない。もともと、穴吹さんは我々に執筆を依頼するにあたって、医者を辞めた人間と数学者を辞めた人間の「辞めた者同士の組み合わせ」で漂流記と放浪記を担当してもらいますからと伝えてきていたのだ。
  そんな流れからすると、「医者vs.数学者」ではなく、「慰者vs.崇楽者」か、さもなければ、「漂流者vs.放浪者」というタイトルのほうがよりふさわしかったのかもしれない。いや、いまにして思えば、酒豪の永井さんと酒を飲めない私との組み合わせだから、「上戸vs.下戸」とするのがベストだったような気がしてならない。
  永井さんと私が手記を書きはじめてからもう二年半ほどになるが、実をいうと、永井さんと私とはこれまで一度しか会ったことがなかった。昨年、永井さんがたまたま私の住む府中市に公演にみえたとき、焼酎「百合」の原酒「風に吹かれて」を手土産にして会場の控え室を訪ね、ほんの十分ほど初対面の挨拶を交わしただけである。永井さんは想像に違わず自己抑制のきいたとても素敵な方で、上戸と下戸の違いを超えてすぐにも意気投合できそうな感じであった。友好促進の陰には「風に吹かれて」の隠れた効能もいくらかあったのかもしれないが、ともかく我々は短い会話を交わしたあと再会を約して別れたのだった。  
  しかし、それ以降、双方ともに仕事に追われ(その実は仕事をしないための口実に追われ?)永井さんとの再会はなかなか実現しなかった。そのご永井さんとメールのやりとりをするなかで、穴吹さんに場所と時間を設定してもらい三人で会おうというところまで話は進んだのだが、肝心の穴吹さんに、なかなか動いてくれる気配が見られなかった。たぶん、行司役の穴吹さんには、「上戸vs.下戸」の対戦をうまく捌く自信がなかったのだろう。
  さもなければ、上戸と下戸が上下同盟を結び、行司の不手際をなじり吊るし上げる挙動に出るかもしれないことをあらかじめ警戒したのかもしれない。いずれにしろ、我々二人の対戦の場を本欄中に設定し、ハッケヨーイと焚きつけておきながら、いまさら行司役を放棄するとはなんともけしからぬ話ではあった。
  そこで四月末のこと、私は、「上戸vs.下戸」の直接対戦をなんとか実現しましょうという主旨のメールを永井さんに書き送った。四月からのAICの画面表示の大幅変更にともなって、永井さんと私とは有無を言わさず別々の部屋に押し込まれ、家庭内離婚の状態になってしまっていたので、この際なんらかの対応策を講じておく必要もあった。
  幸い、すぐに、永井さんから、自分のほうで私と穴吹さんを含めた三者の都合を考慮し、適当な日時と場所を設定するからという返信メールが送られてきた。対戦者のうちの片方がその相手やレフリー役までも招待してしまおうというのだから、「上戸vs.下戸」どころか、「上戸in hands with下戸、行司」ということになってしまって、もはやこれでは対戦になりそうにもなかった。でもまあ、この殺伐な世の中ゆえ、「和」に勝るものはないだろうということになり、友好会議の設定をすべて永井さんにお任せする運びとなった。その結果、まずは五月十日の午後七時に飯田橋の永井さんの事務所に集まろうということになったのである。
  友好会議に出向くには当然なにかしら友好の証が必要となる。相手がアルコール党の永井さんとあれば、友好の証の持参品として、鹿児島は甑島産の芋ジュース(?)「百合」か、前述したその原酒「風に吹かれて」に勝るものはない。ただ甑島の蔵元塩田酒造から取り寄せていたのでは間に合いそうになかったので、当日の午前中、東京で焼酎「百合」や「風に吹かれて」を置いている数少ない店のひとつ、三鷹の宮田酒店を探し当てた。そして、たまたま一本ずつ残っていたお目当ての品を購入、それらをぶらさげて飯田橋に向かい、約束の時刻かっきりに、駅からほどないマンションの六階にある永井事務所のチャイムを鳴らした。
  ドアを開け、にこやかに私を案内してくれたのは、とてもチャーミングで感じのいい女性の方だった。永井さんの手記の中に折々登場するウライさんというのはこの方に違いなかった。ほどなく奥の部屋から現れた永井さんと挨拶を交わし、勧められるままにテーブルに腰をおろすと、飲み物は何がよいかと尋ねられた。永井さんの事務所の冷蔵庫にはアルコール類しかはいっていないんだろううな、もしかしたら、水道の蛇口からもアルコールしか出ないんじゃないかな?――などと想像をめぐらしながら、おそるおそる、「ウーロン茶はありますか?」と返事をした。するとすぐに、ウライさんがよく冷えた琥珀色の飲み物を運んできてくださった。まさか生ビールかウイスキーじゃないだろうなと思いながら一口頂戴してみると、間違いなくそれは上質のウーロン茶であった。
  そうこうしているうちにまたチャイムが鳴った。穴吹さんの登場、いや穴吹さん御一行様の登場だった。朝日新聞電波メディア局の技術者として、AICをはじめとするasahi.comのテクニカルサポートを担当している後藤康弘さんと早川由紀さんが穴吹さんの同行者だった。後藤さんはまだ若いけれどもがっしりとしたタイプの男性で、みるからに存在感に満ち溢れていた。過日の穴吹さんの話の中で紹介された絶対音感の持ち主の一人はこの後藤さんなのだという。いっぽうの早川さんは双眸の輝きの美しいみるからに爽やかなお嬢さんで、好奇心と知識欲の旺盛さが全身から溢れ出ていた。穴吹さんの説明によれば、後藤さんと早川さんを同行したのは、下戸の私にかわって二人に永井さんの相手を務めてもらうためなのだそうであった。
  あらためて簡単な挨拶を交し合ったあと、その場のテーブルを囲んですぐさま前哨戦が開始された。永井独立軍に対するは穴吹、後藤、早川連合軍という感じで、武器は何本かの缶ビールであった。ウーロン茶というオモチャのピストル同然のものを手にした私は、必然的に中立国の停戦調停委員みたいな役割を担うことになってしまった。なんてことはない、いつのまにかこの下戸の身は行司役にされてしまったのだった。ビール砲の撃ち合いが続いている最中に、永井軍の兵站(へいたん)をつかさどるウライさんは、難を避けるかのようにその場を退出していった。幸いというべきか残念というべきか、私が持ち込んだナパーム弾なみの重火器は卓上で封印されたままだった。
  ビール砲の弾が尽きるのを待っていったん休戦協定が成立、本戦の場を永井さん通いつけの神楽坂界隈のお店に移すことになった。永井さんの手記中に折々登場する風情豊かな夜の神楽坂をゆっくりと上り、中心街からすこしはずれた横丁に入ると、ほどなく「もきち」という名のお店に着いた。永井さんに、斉藤茂吉にちなんでつけられた店名ですかと尋ねると、そのようだとの返事だった。経営者が山形ゆかりの人なのであろう、どことなく古い日本の郷愁の漂う、なかなかに落着いた雰囲気のお店であった。従業員の一人ひとりにも、テーブルを囲む個々のお客にも、心なしか人情の濃やかさが感じられてならなかった。

  最上川逆白波の立つまでに吹雪く夕べとなりにけるかも  茂吉

  なぜか一瞬、私の脳裏には斉藤茂吉のそんな歌が想い浮かんだ。そして、この「もきち」での今宵の本戦は、最上川の急流に逆らって白波が立ち騒ぐほどに激しく荒れ吹雪くのか、それとも、遠く故郷の冬を想いながらこの歌を詠んだ茂吉その人の心境のように、参戦者それぞれの心の内へ内へと深く向かって終結するのか、私にはいささか興味のあるところでもあった。自分自身は下戸ではあるが、ウーロン茶やコーラ、ジュース片手に、酒豪と名のつく面々にいつ果てるともなく付き合うのはいつものことで、私にはすこしも苦にはならなかった。
  我々はお店の長テーブルの隅をU字形に囲んだ。U字の右端に永井さん、その隣に永井さんの介添え役の早川さん、そしてU字の底部に右から私と後藤さん、U字の左端部には穴吹さんという陣形だった。永井さんと穴吹さんとはテーブルを挟んでほぼ向かい合うかたちになっていた。皆が席に着き終え、戦闘態勢が整うと、ちょっとした刺身の盛り合わせや魚の唐揚げ、田舎風の煮物、山菜などを兵糧に、そして、お店自慢の銘柄種冷酒を重砲にして粛々と本戦の火蓋は切って落とされた。
  その詳細を伝えることができないのは残念だが、お酌合戦の合間に繰広げられる会話の応酬にはそれなりの妙味があった。まずは穴吹さんの仕事上の様々な苦労譚が語られたが、そこは大阪仕込みの話芸の持ち主、どこまでが本意でどこまでが座を盛り上げるためのオトボケなのか、聞いているうちにさっぱりわからなくなってくるところなどはさすがであった。過日の朝日新聞日曜版の旅する50人の記者、「強壮伝説」のなかで、執筆者の保科龍朗記者が「ふと目覚めると耳元に、自転車操業に疲れ果てている、この連載のキャップの、ナニワの商人のような笑顔があった」と書いているが、そのナニワの商人のような笑顔の主が誰であるのかはいまさら書く必要もないだろう。
  穴吹さんのあとをうけた永井さんの口からは、カナダのモントリオールに留学し医学研究に従事していた頃の想い出話などがユーモアたっぷりに語られた。無重力の状態において芳香物の放つ香りと人間の嗅覚との関係がどうなるかを解明することに、一時期永井さんは関心を持っていたという。マグロ調査船のシップ・ドクターとしての永井さんの体験談も大変に面白かった。いつもオトボケ調の航海記を書いている永井さんだが、その実は国内でも三指にいる船医で、最終的な狙いは南極観測船で南氷洋に乗り出すことにあるらしいことを知って、私は大いに興味をそそられた。そう遠くない将来、オーロラをバックに皇帝ペンギンとの飲みくらべに励む永井さんの姿が見られるかもしれない。

  忌憚ないお互いのやりとりを通して、AICに関わっている誰もが、かたちこそ違えそれぞれに苦労しているらしいことがわかったのも大きな収穫であった。AICで筆を執っている穴吹さんら朝日の記者諸氏も、そして、後藤さんや早川さんのようなAICのテクニカルサポート担当者も、さらには、永井さんや私のような外部のライターたちも、皆が皆心身の労を厭わずボランティア的状況のもとで個々の任務を果たしているのだということが明白になったのは、チームワーク上も大変有意義なことであった。
  朝日新聞系のメディア媒体のなかで、アサヒ・コムはインターネットの普及にともない近年ようやく認知されはじめたメディアなのだが、そのアサヒ・コムの中でもAICはきわめて異端的な存在であるようだ。しかも、そのAICのなかでも八方破れで無節操なライターと目されているらしい私や永井さんが、折々ビーンボールやデッドボールを投げ込んだりするものだから、キャッチャーの穴吹キャスターはハラハラしながらその処理に苦労することが少なくないらしいのだ。全体的に見て各ライターの私的色合いが濃く滲み出ているAICのことだから、いつなんどき解体消滅の憂き目に遭ってもおかしくないだろうことはうすうす私にも想像がついた。
  ただ幸いなことに、AIC全体としての読者数は国内国外を問わず想像以上に増えているのだそうで、たとえば、ベル研究所やマックスプランク研究所をはじめとする海外の高名な諸研究所に務める日本人研究者の五割以上が愛読者なのだというから、その点は有り難いというほかない。なんといっても読者は神様、日々十万件単位のアクセス数があるとなれば、AIC関係者の励みとならないわけはない。多数の読者の声援を頼りにして頑張れるところまでは頑張ろう、そして、もし消滅する時が来たら、スーパー・ノヴァ(超新星)なみに大爆発を起こして終わろうなどと、半ば冗談、半ば本気を交えて語り合いもした。
  永井さんへのアルコール製実弾補給係を兼ねている早川嬢は、自らも次々にグラスを空にしながら、目を細めなんとも幸せそうな微笑を浮かべるドクターに向かって、絶え間なく質問を浴びせかけている。満ち足りた顔つきの永井さんは、そんな早川嬢の好奇心に感心でもするかのように、一つひとつの問いかけに丁寧に応じていた。本戦などと勇ましい書き方をしてきたが、酒杯を手にした永井さんの表情は穏やかそのもので、実に紳士的な気品溢れる飲みっぷりであった。最愛の恋人同様に酒を心底愛してやまないという風情の永井さんを、飲めない私はいささか羨ましくも思いながら眺めていた。一言でいうなら、それは内へ内へと静かに向かう抑制のきいた酒であった。ただし、これはその晩「もきち」で目にしたかぎりでの感想だから、かならずしも保証のかぎりではないことをお断りしておきたい。
  私は両隣の早川さんと後藤さんにお酌をしながら、何か問われれば答える程度でもっぱら他の四人のはずむ話に聞入っていた。すると、話の風向きが変わり、早川さんが私の本業は何かと尋ねてきた。私に代わってすかさずその問いに答えたのは穴吹さんだった。
 「永井さんはちょっと売れてる作家で、本田さんは売れてない作家!」――それはいかにも背負い投げの得意な穴吹流の答えではあった。見事にぶん投げられた私は、空中で受身の態勢を取りながら、敵は「ぜんぜん」というトドメの形容詞をつけ落としてしまったから、この背負い投げは有効か技あり程度にはなっても一本にはならないな、と内心でニヤリとしていた。不精な性格もあって、ここ二年ほど著作を出していないから、売れない作家である前に、売る本のない「売らない作家?」でもあるわけだ。
  たしか永井さんの話か何かがきっかけだったとは思うが、たまたま伝書鳩のことが話題になった。すると、穴吹さんが、朝日新聞社にはちょっと前までは鳩係なるものがあって、伝書鳩の飼育を担当していたものなのだと話しはじめた。そして、日比谷公園あたりの鳩のほとんどは、逃げ出したり戻ってこなかったりした当時の伝書鳩の子孫たちなのだなどという、半ば人を煙に巻くような話を、もっともらしい顔をして面白おかしく語ってみせた。すっかり感心したように頷きながらその話に聞き入っている若くて素直な早川嬢の隣では、永井さんが楽しそうに笑いながら無言でグラスを傾けていた。
  私の左に坐る後藤さんは穴吹さん相手にグラスを空け続けながらも、料理やおつまみ、さらにはお酒の追加注文などにあれこれと細かな気遣いを見せていた。AICの技術面のサービスとサポートを実質的に担当しているのはこの後藤さんや早川さんらだとのことで、その苦労は相当なものらしい。穴吹さんの語るところによれば、ごく最近のこと、急に後藤さんらが辞めてしまうという話が持ち上がったりして、AICの存続が危ぶまれたこともあったのだそうだ。中国通でもある後藤さんは、大変優れたコンピュータ技術者であるという。
  四月からのアサヒ・コムの画面の全面変更に伴う煩雑な技術処理のため、現在AICのバクナンバーが一時的に読めなくなってしまっているが、後藤さんたちは、朝日の電子電波メディア局企画開発セクションでの本来の仕事の合間をみつけては、その復元処理を懸命に進めているところらしい。言語開発やソフトウエアのコーディングなどを昔やったこともある身だから、その苦労はよくわかる。舞台裏からみると、ボランティアベースのAICは、どうやら何度も綱渡り的状況に瀕し、その度ごとになんとかその場を凌いできたもののようなのだ。
 「すっかり味覚が麻痺した状態になってきたから、アルコールと名さえつけば安い酒でもなんでもいいですよ」という言葉が永井さんの口をついて出る頃には、もうすっかり夜も更け、オーダーストップの時刻間際になっていた。アルカイックスマイルを湛えた半眼の弥勒菩薩そっくりの表情になった永井さんは、これまた美酒に酔う天女さながらの面持ちを見せる早川さんとなにやら楽しそうに語り合っている。そのいっぽうで、私は、グラスを重ねるうちにかなり気分が高揚してきたらしい後藤さんと話し込んでいた。穴吹さんは、二組に分かれた会話の場を気ままに行き来している感じだった。
  楕円関数などを使ってコンピュータによる暗号処理の仕事などもしているという後藤さんは、自分の言葉の繋ぎ目ごとに「うん」という一語を加える独特の口調で、数学に関する質問をあれこれと尋ねてきた。「数学史上もっとも偉大な数学者は、うん、いったいぜんたい誰たったんでしょうかね、うん。やっぱりガウスあたりですかねえ、うん、それともガロアか微積分の元祖ライプニッツかニュートンあたりですかねえ、うん?」といった具合なのである。
  己の能力不足を自覚したがゆえにその世界からとっくに足を洗った三流数学者のなれの果てのこの身に、まともな答えなど出来ようわけもなかった。だが、誰が史上最大の数学者であったかというこの質問を、後藤さんはこの日私にぶつけてみようと手ぐすねひいてやってきたらしい。こちらにすれば踏絵を踏まされるようなもので、なんとも困ったことではあったが、だからといって後藤さんの熱心な問いかけを無視するわけにもいかなかった。
  この世界の歴史や文化の発展過程がみなそうであるように、数学という学問の一分野もまた、単純かつ不可逆的な直線状の進歩図式の通りに発展してきたわけではない。そもそも、時代の先端を行く数学者というものは、自分の研究が実世界で何かに役立つかどうかなど全く念頭にないのが普通である。また、現在、過去を問わず、天才数学者の残した研究業績というものは相互に密接な関係があり、それらの評価も、それらが社会にもつ意味も、時代背景や社会状況の推移に応じて刻々と移り変わっていく。
  数学の世界といえども多面的な存在なのであって、どの分野の誰の研究が最も偉大かつ重要ですかと問われても、それにはなんとも答えようがない。たとえて言うなら、無数にあるウニの針のうち、どの針がウニにとって一番大切ですかと訊かれているようなものである。いちばん長い針だからといってウニ全体にとってそれが最重要だとは限らないし、もっとも短い針だからといってそれが最重要ではないないとも言い難い。シェークスピアとダヴィンチとベートーヴェンとアインシュタインの四人を並べて誰が一番偉大ですかと尋ねらても、そんな問いにはもともと答えようがない。数学の世界にかぎっても、実は同じことが言えるわけで、過去の数学者の業績に甲乙はつけ難い。
  後藤さんの質問に対しては、まあそういったようなその場しのぎのいい加減な答えかたをし、すっかり相手を煙に巻いてしまった。後藤さんが納得してくれたのかどうか定かではなかったが、日々退化し萎縮していく我がささやかな頭脳をもってしては、そう応じるのが精一杯のことではあったのだ。ただ最後に、後藤さんのその問いに答えるのは難しいけれど、野宿のやり方についてならいくらでも伝授しますよと応じてもおいた。
  閉店時間となった「もきち」をあとにした我々は神楽坂の大通りに出た。そしてそこでタクシーを拾おうということになった。永井さん行きつけの新宿近くのお店で第三次会戦をやろうということになったからである。しかしながら、拾ったタクシーに乗り込もうとする段階で、翌日の仕事睨みの穴吹さんがまず不戦宣言を表明し、独りその場から姿を消した。残った我々四人はタクシーに乗ってとりあえず新宿方面に向かったが、翌日のスケジュールの関係もあって、結局私も戦場入りを避けることにした。
  新宿への車中、突然、後藤さんは、永井さんに向けてとくに一つだけ用意してきたのだという質問を発した。
 「いい酒といい女とがある場合、うん、永井さんはどちらをとりますか、うん?」 
  間髪を入れず永井さんはズバリと答えた。
 「いい女だね!」
  永井さんのアッパレな応答ぶりに拍手を送りながら、そのいっぽうで、私に向かって、「ウーロン茶といい女ではどっちをとりますか?」とは尋ねてくれなかった後藤さんの賢明さをいささか恨めしく思うのでもあった。
  新宿の中心街に入る少し手前で永井、後藤、早川の三人は途中下車し、最後の決戦場へと向かっていった。なんのことはない、本来ならその決戦場に臨むべき穴吹軍と本田軍とはあえなく戦闘不能状態となり、永井独立軍と穴吹予備軍のみが夜を徹して雌雄を決するという予想外の成り行きになってしまったのだった。三人とはそれぞれに固い握手をして別れ、車中に残された私だけが独り新宿駅へと向かったが、そのごの三人の消息はようとして知れない。私としては、ひたすら一行の無事を祈るのみである。

「マセマティック放浪記」
2001年5月30日

コンバンワ、孔雀ですが!

  五月のある晩のことである。何気なく玄関の扉を開けたその家の人は、眼前の光景に仰天し、そのまましばし絶句した。なんと孔雀が、あの青緑色の羽をもつ孔雀が一羽玄関先に立っていたからだ。時刻は夜の八時頃、場所は競馬で名高い府中市の繁華街に近い住宅街、どう考えてみても、それは断じて起ころうはずのない事態であった。当の孔雀は怯える様子などまったくみせず、コンバンワとでも言いたげに玄関先にじっと佇んだまま動こうとしない。どうしたらよいのかわからなくなってしまった家の人は、その孔雀がどこかへ立ち去るだろうことを願っていったんそっと扉を閉めた。むろんフィクションでもなんでもない。実際にとある私の知人宅に降って湧いた一世一代の椿事である。
  三十分ほどしてから、様子を窺おうとおそるおそるドアを開けると、驚いたことに孔雀はまだ玄関先に立っている。そればかりか、渡りに舟と言わんばかりに、トコトコと家の中にはいってきてしまったのだった。慌てて追い出そうとしてみたが、もうその時は手遅れで、見かけによらぬ素早い動きで家の奥へと駆け込んでしまった。
  パニックに陥ってしまったのは、孔雀ではなく家の中の人々のほうだったらしい。鶏や鴨なら獲って喰うという手もあるが、相手があの孔雀とあってはそうもいかない。そもそも喰えるのかどうかもわからなかったし、たとえ喰えたとしても調理法などわかるはずもない。捕まえて剥製にしてしまえば高く売れるかもしれないなどという物騒な意見も出たらしいが、それはそれで獲って喰う以上に難しい話ではあった。
  対応に窮したその家の人々はやむなく警察に通報した。「孔雀が家の中に迷い込んできたのでなんとかしてください」との急報を受けた警察の担当者も、一瞬その耳を疑ったに違いない。京王線府中駅からも国道二十号からも遠くないそんなところに、しかも夜も更けてから孔雀が出没するなんて、どう考えても信じられる話ではないからだった。
  それでもなんとか問題の孔雀の逃げ出した先が見つかったとみえ、しばらくするとその所有者らしい人物が知人宅にやってきた。すぐに孔雀は御用となって一件落着と思いきや、ことはそう簡単には運ばなかった。せっかくものにした自由をそう易々と手放すわけにはいくかとばかりに、孔雀は家の中を飛びまわり暴れまわって頑強に抵抗したらしい。その場にいた人々が総掛かりでなんとか孔雀を玄関の外に追い出し、やっとのことで捕まえ終えた時には、もう午前一時近くになっていたという。大捕り物の終わった家の中には美しい孔雀の羽毛がそこらじゅう散乱し、なんとも異様な光景であったらしい。
  翌日あらためて、その孔雀の管理者とおぼしき人がお礼とお詫びにやって来た。男が差し出した名刺には、とある近くの会社名が記されていたという。その会社がなんらかの仕事上の目的で孔雀を飼っていたのか、それとも単にペットとして飼っていたのかはわからないというが、ずいぶん人馴れした感じだったらしから、テレビや映画の撮影用に飼育された孔雀だったのかもしれない。もしそうだとすれば、そのほかにも何羽かの孔雀がその時刻その付近をうろついていた可能性がある。たまたまその場にいなかった娘さんに、「府中の民家に孔雀が現れるなんて珍しい!」と話したところ、「そんなもの日本国中のどこの家探したっていないわよ!」と呆れられたりしたという。
  孔雀にまつわるそんな珍談に大笑いしているうちに、私は孔雀についてのある話を思い出した。動物行動学(エソロジー)の権威、コンラート・ローレンツの著作「ソロモンの指輪」の中に出てくる話である。ウィーンに生まれ、ケーニヒスベルク大学やマックス・プランク行動生理学研究所長などを歴任したローレンツは、魚類、鳥類を中心とした各種動物の生態、とくにその行動の研究を行い、エソロジーという新学問分野を開拓した。その業績により、彼は1973年にノーベル医学生理学賞を受賞している。
  ちなみに述べておくと、ローレンツは有名な「刷り込み現象」の発見者としても名高い人物だ。卵から孵ったばかりの子鴨などは自分のそばで真っ先に動いたものを母親だと認識してしまう、という驚くべき事実は、長年にわたる彼の地道な研究と観察を通して発見された。彼はまた、研究観察の目的もあって家の中で種々の動物を放し飼いにしていたため、まだ幼かった自分の子どもの身の安全を考え、子どものほうを檻に入れて育てたという型破りの学者でもあった。発想の逆転といえばそれまでだが、学問の新分野を切り開きノーベル賞を受賞するような天才の考えつくことは、凡庸な我々の着想とはまるで違っているようだ。
  ローレンツの語るところによれば、動物の攻撃性は動物の種類によって2タイプに大別されるものらしい。一般に獰猛で残忍と思われている狼のような動物は、おなじ仲間同士で強弱を争う場合、劣勢を悟ったほうが自分の急所である首筋を相手の牙の前に差し出すと、優勢なほうの狼はそれ以上相手に攻撃を加えることはないという。劣勢の側が無防備の状態で相手の牙に身をさらすその儀式が終わると、そこで相互の序列が決まり、どちらかが致命的に傷つくまで争いが昂じることはほとんど起こらないのだそうだ。自らの牙の危険性を認識している狼たちは攻撃抑制能力をそなえているわけで、その意味でも狼社会は実に秩序のとれた社会なのだとローレンツは述べている。
  いっぽう、キジバトとかノロジカといった、一般に平和の象徴と考えられているような動物は、その本性たるや実に獰猛であるらしい。弱い動物同士というものは互いに強弱を争う時、劣勢の側は相手の攻撃から遠くへ逃げることによって身を守る。逃げるに十分な一定のスペースがあることが、彼らの社会で悲劇をさけるための必要条件なのだそうだ。 
  キジバトやノロジカを逃げ場のない狭い檻の中で飼っていると、オス同士が争いを起こした場合、ほっておくと惨劇が起こる。キジバトの場合、優位に立った側は、傷ついて逃げ場を失った弱者をどこまでも追い詰めて襲いかかり、弱って息絶える寸前の相手の頭皮や頚皮がめくれて血管がズタズタに切れ、筋肉が裂け散るまで攻撃の手を緩めることはない。ノロジカにいたっては、勝者は敗者の内臓が剥き出し破裂するまで攻撃をやめることはないという。
  小鹿のバンビのモデルにもなっているノロジカなどは、敵意などまったく感じさせない様子で静かに近づいてきて、油断した相手にいきなり襲いかかり角でクサリと突き刺したりするのだそうだ。ノロジカに襲われて人が死んだり重傷を負ったりする事故は、猛獣による同種の事故よりもずっと頻発しているという。弱い動物というものは、おとなしく見えても、いざとなるとその本性はきわめて残忍であり、攻撃性も強い。ほかならぬ我々人間も後者に属しているとローレンツは書いている。
  彼の話によれば、孔雀のオスと七面鳥のオスを一緒に飼っていたりすると、予想外の凄惨な事態が生じることがあるようだ。なぜなのかは不明だそうだが、七面鳥は、生来、鶉鶏類(ジュンケイルイ)では唯一狼型の特性をそなえもつ鳥であるらしい。七面鳥のオス同士が喧嘩をする場合、かなわないと悟った側は相手の嘴の前に自分の首を横にして差し出し、降参のポーズをとる。すると、勝ったほうはそれ以上攻撃することはないというのだ。
  孔雀と七面鳥とは近縁種のゆえ相手に対する敵愾心も強いらしく、一緒にしておくとたちまち喧嘩が始まってしまう。ところが、この争いにおいては七面鳥にはまったく勝ち目がないそうなのだ。孔雀のほうは宙を飛んだり、突然羽を開いたり、鋭い足の爪を剥き出しにしたりして激しく七面鳥を威嚇し、攻撃する。すると、もともとは孔雀より身体も大きく力も強いはずの七面鳥は、予想外の相手の行動に怯えてたちまち戦意喪失、ギブアップしてしまう。そして、もちまえのその習性通りに長い首を孔雀の前に差し出してしまうのだ。
  ところが、いっぽうの孔雀は七面鳥社会のルールなどには無頓着だから、ここぞとばかりに相手の首筋に容赦なく鋭い爪と嘴を突き立てる。攻撃されればされるほど、七面鳥は孔雀の前で首を伸ばし攻撃の中止を願う。そのままほっておくと、孔雀はますます勝ち誇って嘴と爪をふるい、七面鳥の首が裂け無残な姿で絶命するまで攻撃を止めないという。
  この話にはなにかと考えさせられるところが少なくない。我々人間もキジバトやノロジカ、孔雀などと同類の性癖をもつとすれば、逃げ場のない閉鎖空間に閉じ込められたような場合、強者が弱者を死に至るまで追い詰めてしまうことが十分起こりうるはずだからだ。学校などのような、弱者にとって物理的にも心理的にも制度的にも逃げ場のない、また、たとえそうでなくても社会通念上逃げ出すことの潔しとされない空間においては、強者が弱者をとことん攻撃することが起こっても不思議ではない。しかも人間の場合には一対一で強者が弱者を追い詰めるのではなく、強者を囲む多数が一人の弱者を追い詰めることも少なくないからいっそうたちが悪い。追い詰めかたひとつとっても、人間の場合には物理的面からと心理的面からのふたつがあるからますます話は厄介だ。
  現代の社会状況の下では、幼児期の子どもたちが、強者の攻撃から逃れ身を守るための方法を習得のさえ難しい。逃げる方法を身につけていない子どもたちが、相対的に弱者となって、それでなくても逃げ場のない空間に置かれたら、その後に起こる悲惨な結果は目に見えている。いっぽうの強者は強者で、身のほどをわきまえることなくますます増長し、横暴をきわめることになりかねない。
  近年教育界では不登校者数の増大が問題になっているようだが、自然なかたちでの「良質な逃げ場」の失われた現代社会あっては、たとえそれが最悪の逃げ場であったとしても、不登校は追い詰められた子どもたちにとって身を守るための最後の手段なのかもしれない。そして、もしそうだとすれば、いま教育現場で求められていることのひとつは、一時的にそこを身のよりどころとしても責められることも冷眼視されることもない、公然かつ公認の良質な逃げ場と有効な回避ルートを、多岐多様にわたって何段階にも設けることであるのかもしれない。
  コンラート・ローレンツは自らが開拓確立した動物行動学の研究結果に基づき、人間の究極の本性を性悪なものだと論じ、人間社会の未来に対し様々な警告を発したりして思想界に大きな影響をもたらした。いっぽう、「THE ART OF LOVING(愛するということ)」や「THE HEART OF MAN(人間の心)」などの著作で知られる社会学者のエーリッヒ・フロムは、ローレンツの主張に対立するかたちで人間の性善面を擁護する本性論を展開、「バイオフェラス」と「ネクロフェラス」という独自の二極概念をベースにした人間論をもって、同様に当時の欧米思想界を風靡した。
  降って湧いたような孔雀の珍談を発端にして、意気盛んたった青年期に読み漁ったことのある彼らの著作などを想い起こしてしまったが、いったい今の私は、フロムの性善説とローレンツの性悪説のどちらに軍配をあげるべきなのだろう。いつの時代も人間の心の中には性善の白蛇と性悪の黒蛇とが絡み合うようにして存在してきた。ただ、表面的には平穏そうな近年の人間界の内奥で、密やかに忍びうごめく黒蛇の影が白蛇のそれより太く大きく見えるのは、私の気の所為に過ぎないのであろうか。

「マセマティック放浪記」
2001年6月6日

犬は猫なのか?

 「犬が犬であることを証明しなさい」と言われたら皆さんはどうするだろうか。「そんなこと当たり前じゃないか!」と言って一笑に付すか、「バカバカしいことを訊くんじゃないよ!」と、はなから相手の言葉を無視するかのどちらかだろう。「犬は犬である」とか、「人間は人間である」とかいったように、主部と述部がまったく同一の命題は論理学の用語でトートロジイ(同語反復)と呼ばれている。
  もちろん、このような命題を直接的に証明することは不可能である。あえてそれをやるとすれば、この世に生息する他のあらゆる動物の特徴や特性を片っ端から調べ上げ、犬がそれらの動物のいずれにも属さないこと(犬がそれらの動物のどれかに属するとすれば矛盾が生じること)を明示しなければならない。ものものしい言い方をすると、いわゆる背理法的証明に頼るしかないのだが、数学や論理学の世界の証明ならいざしらず、的確な分類さえも困難な無数の生き物の存在する現実の世界において、そんな悠長なことなどやっておれるわけがない。また、たとえやってみたところで、そこにはなんの意味もない。
  数理科学の記号をふくむすべての言語表現の根底には、「定義」と呼ばれる基本的概念(無条件で受け入れることを求められるおおもとの約束ごと)が存在している。数学の世界を例にとれば、「二点間を結ぶ最短距離を直線とする」とか「部分は全体の一部とする」とかいったようなことが定義になるわけで、通常はそれらを自明の理として受け入れていくしかない。むろん、そんな定義の証明は不可能であり、また無意味である。
  既存の定義にどうしても納得がいかないというのであれば、自分でより明白かつ的確な定義をつくり、それらをもとに理論体系の再構築を実践していくほかには解決の道はない。実際、リーマンやアインシュタインといった史上名高い天才数学者や天才物理学者たちはその困難な仕事を成し遂げてきたことで知られている。
 「犬が犬であることを証明せよ」といわれて窮するのは、「犬」という自明の定義を証明せよと迫られているからにほかならない。「A、Bの二点間を結ぶ直線の長さは同じ二点間を結ぶ曲線の長さより短いことを証明せよ」といわれているようなものだからだ。では、「犬は猫であることを証明せよ」と求められたとすればどうだろうか。数学の世界ならば、これは、「曲線は直線よりも短いことを証明せよ」といわれているようなものだから、悪い冗談だということで終わるだろう。証明を求められている命題そのものがおかしいとすぐわかるからだ。
  しかし、それが複雑な生命現象や社会事象のように連続的でダイナミックに変動する世界の話となると、そう単純にはいかないのが厄介なところなのだ。その論理展開に説得力があるかどうかはともかくとしても、「犬は猫である」という命題のほうは、詭弁を弄して様々な論証を展開することができるからだ。白を黒と言い含めることの得意な一流の詭弁家ならば、「足は四本だし、尻尾もある」といったような形態的特徴の類似性から説き起こし、あの手この手で、一般うけする面白い論証を考え出すことだろう。
  その気になれば、進化論を持ち出してルーツは猫も犬も同じだったと論じ、動物の声帯の構造を引き合いにして、「ワンという鳴き声の一変容形態がニャンという鳴き声だ」と強弁することだって可能である。こまかい話は省略するが、実際、「犬は猫である」といったような自明の定義からかけ離れた事柄をもっともらしく説明してみせることのほうが、そ筋のプロにとっては容易だし、また腕の見せどころでもあるからだ。
  この話は、「犬は犬である」という命題を「政治家は清廉潔白で、国民全体の利益のために存在するべきだ」という命題に、また、「猫は犬である」という命題を「政治家は権謀術数に長けていて、自己利益を追求する存在であるべきだ」という命題に置き換えてみるとよくわかるだろう。
  前者はだれもがごく当たり前のことと考えるから、いざその正当性を説明しようとするとなかなかに難しい。後者の場合については、いろいろな現実論や人間の本性論を持ち出し、「権謀術数に長けていることや自己利益を追求する能力があることは政治家に欠かせない資質であり、つまるところ、それらが国民全体の利益にもつながる」という論証を、面白おかしくいくらでも展開することができる。自明の定義に近い命題ほどその正しさを説明することは困難なのだ。
  本来そうであることが望ましい社会理念についていうならば、その正当性を説明するより、その反証事例を指摘することのほうがはるかに易しい。そして、詭弁家は、本来二次的なものに過ぎないその反証事例をもとに、問題の理念の突き崩しや骨抜き、さらには全面的な否定を狙う。ある命題の反例を挙げればその命題そのものを否定できるという数学的あるは論理学的な手法を、社会問題や社会事象の論証にそのまま適用すること自体間違いなのだが、作為的にそういった論法がとられたりもする。
 「言論の自由の理念に基づき報道の自由は保証されるべきだ」という至極当たり前の主張に対し、「公正」とは何かという議論などそっちのけにして、「報道は公正であるべきだ。公正でない報道は断固規制すべきである」などという批判的発言が平然となされたりする。そして、その主張を裏付ける好例として、所沢のダイオキシン汚染問題についての一部テレビ局の誤報問題のようなものが声高に取り上げられたり、各種マスコミの極端なプライバシー侵害問題が持ち出されたりもする。言論の自由や報道の自由が社会にとって有益であることを示す事例が有害な事例よりはるかに多いにもかかわらず、それらは見事にカモフラージュされてしまうのだ。しかも、このきわめて政治的な策謀に基づく議論が一般国民には想像以上に説得力をもったりするから厄介なのだ。
  所沢のダイオキシン汚染報道誤報問題の裁判では、担当地裁によって原告側の主張が一応退けられはした。しかし、原告団の一部の人々は判決を不当として高裁に控訴するという。控訴自体は法治国家における当然の権利だから、その善悪を云々する気は毛頭ない。同地のダイオキシン汚染がもともと農家自らの責任ではないことを思うと、また、農作物の売れ行きが落ち、少なからぬ損害を被ったことについても同情を禁じえない。
  だが、原告団の農家の人々の背後に、直接の被害者ではないにもかかわらずあわよくば逆転判決をと願い、それを報道規制の切り札にしようと狙っている一部政治家やその黒幕たちの影がちらついているのはいささか気になってならない。そういった動きや思惑には、今後とも十分な警戒を怠らぬようにしなければならないだろう。
  もしも高裁において逆転判決が出たりすれば、所沢の原告農家の人々はそれによって損害賠償を勝ち取り、大いに溜飲をさげることができるかもしれない。その判決が客観的にみて正当なものであるならば、むろん、それはそれでやむを得ない。だが、その代償として、日本国民全体が報道規制というかたちで不当な情報管理にさらされるようになり、取り返しのつかない不利益を被る可能性があるとすれば、それは重大なことである。
  無節操な一部国会議員主導の国政問題、教科書問題、国旗国歌問題、報道規制問題、放送法改正(?)問題、プライバシー保護問題、薬害エイズ裁判問題、各種環境保護問題、医療倫理問題など、最近の重要な社会問題に関する議論の根底や背景には、いずれの場合にもいま述べたような巧妙な詭弁の論理の魔の手が潜んでいるような気がしてならない。陰で高笑いしている権力者や黒幕たちの姿が見え隠れしてならないのだ。
  私のような一芥のライーターの言うべきことではないかもしれないが、マスコミに関わる多くの人々は、とくに良識派を自負するマスコミ人たちは、とおりいっぺんの表面的な綺麗ごとを述べるばかりでなく、相当な覚悟をもって問題の本質の深刻さを危惧し、その対応策を真剣に考えておく必要があるだろう。「犬は猫である」と声高々に主張する人々や、その論理に説得煽動された人々に対して、「犬は犬である」とオウム返しに繰り返しながら立ち向うだけではもはや不十分だからである。どんなにそれが大変なことであっても、反例には逆反例で、巧妙なレトリックにはそれ以上に巧妙なレトリックをもって応酬するしかないと思われる。
  天才数学者リーマンは、二点間を結ぶ最短距離を直線と約束し、二点間を結ぶ直線は一本しか存在しないとするユークリッド幾何学の定義を捨てた。そして、二点間の距離すなわち二点を結ぶ直線は任意に定義できると発想を大転換することによって、リーマン幾何学と呼ばれる新しい幾何学体系をうちたてた。さらに、リーマン幾何学という画期的な科学論理の記述手段を手にしたアインシュタインは、運動、質量、光、エネルギー等に関する革命的な定義を生みだし、特殊相対性理論、一般相対性理論を確立した。
  まるでジャンルの異なる世界の話だから同列に論じることはできないけれども、もしかしたら、昨今の国内社会問題の解決にはリーマンやアインシュタインなみの発想の転換が求められているのかもしれない。時代の流れの中で定義が不適切になったとするならば、英知を結集しより適切な新定義を生み出していかなければならないからだ。善くも悪しくも、この世のすべては定義にはじまり定義に終わるといってよい。少なくとも、悲惨な過去の世界において猛威をふるった時代錯誤的な定義に立ち戻る愚だけは避けなければならないだろう。

  明証性、すなわち、ある事柄を自明だと感じるプロセスの奥底には、どのような場合でも、我々人間の意識に対し暗黙かつ無条件の承認を迫る大前提が、定義あるは公理というかたちで巧妙に隠されている。そして、その大前提を我々の思考形態が抵抗なく受け入れることができる場合、あるいは、もともとその大前提が我々の思考形態の産物であるような場合に、「明証性がある(明かである)」という判断がなされる。したがって、ものごとを証明するという行為には当然限界が生じてくる。そして、その限界のゆえに、巧妙このうえない様々なレトリックや、「犬は犬である」といったようなトートロジイ(同語反復)がそれなりの存在意義をもつことになる。
  誤解を恐れず言わせてもらえば、結局、証明とは、直観的には納得も理解もしにくい高度な概念を、直観的に明かだと感じることのできるよりわかりやすい基本的な概念に置き換え、その正当さを人々に納得了解させることである。したがって、そこには、「証明の対象になっている高次の概念は、それに先立つより身近で易しい概念群で構成されている」とする暗黙の大前提が潜んでいる。そうすると、一番もとになっている概念、すなわち定義や公理は証明不可能で、それらを無条件で受け入れるしかないことになる。
  また、易しい既成概念の組み合わせでは説明がつかないが、それでも魅惑的な新概念や新事象に出遭ったような場合には、それらを証明不可能な定義、あるいは絶対の真理として無条件で信じ受け入れるか、さもなくば、見かけだけはもっともな虚偽ないしはまやかしとして排斥するしかなくなってしまう。そのうえ、ある基本的な概念に対し直観的に明証性(自明さ)を感じることができるかどうかには大きな個人差が存在するから、証明そのもののもつ明証性も相対的なものにならざるをえない。
  そう考えてみると、「あるものごとに明証性(自明さ)がある」ということは、「その事象の様態がその時代の一般的な認識のありかたに偶々うまく適合している」というだけのことであって、その事象の明証性が永遠に不変であることが保証されているわけではないことになってしまう。なんともパラドキシカル(逆説的)な話ではあるが、我々は、明証性があるがゆえにそのものごとを正しいと信じているのではなく、特定の前提概念を正しいと信じているがゆえに明証性があると感じているだけのことである。
  このような観点に立つと、ある理念や理論を説くにあたっては、その根本となる前提概念を、如何にしてなるべく多くの人々に抵抗なく受け入れさせるか、そして、できることなら感動をもって信じさせ了解させうるかが重要な問題だということになってくる。密かにその使命を託されて我々の前に立ち現れるのが、巧妙かつ荘重な自同律の叫び声であり、華麗な比喩やレトリックであり、さらにはまた諸々の神の言葉なるものにほかならない。
  ある者が「はじめに言葉ありき」と説き、ある者が「我思うゆえに我有り」と叫び、ある者が「万物は運動し流転する」と謳い、またある者が「言葉は言葉である」と高らかに唱えるのも、つまるところそのような背景があるからなのだ。

  小学生の頃の教科書にある教訓的な話が載っていた。詳しい内容は忘れてしまったが、要するに、貧しい老夫婦が行き倒れになりかかった一人の貧しい旅人を助け温かくもてなしてやったところ、その旅人はお礼にと蜜柑の種を一粒だけ残していったというような話であったと記憶している。
  その種をまくと一本の蜜柑の苗木が芽生え、みるみる成長してすぐに立派な成木になった。不思議なことに、その蜜柑の木には嵐の日でも雪の日でもかならず毎日一個ずつ美味しい蜜柑の実がなった。その話を聞きつけた大金持ちがやってきて、お金はいくらでも出すから是非その蜜柑の木を譲ってほしいと申し出たが、老夫婦は世の中のすべてのお金を積まれても売るわけにはいかないと断った。そしてその蜜柑の木にはその後も毎日一個づつ蜜柑の実がなりつづけたというのである。いずれにしろ、現代の道徳教育好きの議員先生方が耳にしたら、自らの悪徳ぶりや金権ぶりは棚に上げ、涙を流して大喜びしそうな美談であった。
  ところが、突然、クラスの生徒の一人が、「自分だったらその蜜柑の木をさっさと売ってしまうに違いない。なんでその老夫婦はそうしなかったのだろう?」という素朴な疑問を提出したのだ。慌てたのは担任の教師である。なんとかして老夫婦のとった態度の正しさ(?)を納得させようとあれこれ努めてみたのだが、その生徒は頑として自らの意見を変えなかった。そればかりか、その同調者がクラスの半数近くにまで及んでしまったのだ。そのままではまずいと判断した教師は、一計を案じ、「蜜柑の木守護派」と「蜜柑の木売却派」に生徒を分けてディベーティングをやらせることにしたのである。
  たまたま、私は両派の討論の司会役にまわされたのだが、教師の思惑を反映するかのように、蜜柑の木守護派には比較的成績のよい子供たちが数多く配されていた。そうして始まったディベーティングの結末は蜜柑の木守護派の完膚なきまでの敗北であった。「一日に一個の蜜柑がなったってそんなもの何の役にも立たないじゃないか。蜜柑の木を売って有り余るお金が手に入れば、いくらでも心豊かな生活を楽しむことができるし、話に出てくる旅人のような貧しい人々だってどんどん助けてあげられる。いろいろな施設だってつくることができる。いったいそのどこが悪いのだ」という蜜柑の木売却派の舌鋒に、蜜柑の木守護派は沈黙するしかなかったのであった。
  苦虫をかみつぶしたような表情の教師によって、最後には司会役の私も蜜柑の木守護派にまわって意見を述べるように指示されたりもしたのだが、むろんそれでどうにかなるような問題でもなかった。蜜柑の木守護派に立って論陣を張ることは大人にだって難しいことなのだから、どう足掻いてみたところで、小学生の身には、「老夫婦にとってその蜜柑の木は生き甲斐で、大切だったから大切だったんだ」といったトートロジイ的なことしか言えず、売却派の攻勢にギブアップするしかなかったのである。老夫婦の信心深さやその清貧思想の意義を説得力をもって弁護するなど、幼い子供にはどだい無理な話であった。
  その話の内容そのものが教訓として私の心に残ることはなかったものの、皮肉にも、そのデベーティングにおける蜜柑の木守護派惨敗の有様は大きな教訓としてのちのちまで私の胸の奥底に深く刻まれるところとなった。非現実的な精神論重視のにおいがしないでもないその訓話教育が失敗したのは当然だと笑ってすませられる。だが、それが表現の自由や報道規制に関する問題、自然保護問題、各種の政治問題や社会問題などにおいて、自明というべき正論が詭弁の嵐の前に晒され翻弄されるのを傍観するのは忍びない。蟷螂の斧と自嘲したくもなるのだが、まあそのようなわけで、柄にもないこんな戯言を綴ってみる気にもなったようなわけである。

「マセマティック放浪記」
2001年6月13日

時計に騙された話

  先日銀座に出かけた際、有楽町フードセンターの前を通りかかった。その時、記憶の奥底で眠っていた若き日の苦い想い出が突然昨日のことのように甦ってきた。
  まだ大学に入学してほどない頃のことだが、体育の時間に更衣室のロッカーに入れておいた財布と腕時計とを、ロッカー荒しに盗まれてしまったことがある。安物の財布には小銭が数枚はいっていただけだったから、そのほうはすこしも惜しいと思わなかった。だが、大学入学のお祝いに知人からもらった腕時計を盗まれたのはショックだった。
  いまとは違い、当時、腕時計は相当な貴重品だった。国産の一般的な腕時計でも新しいものは五千円前後したと思う。ラーメン一杯が七十円くらいの時代のことだから、学費と生活費一切を奨学金とバイト料のみでやりくりする貧乏学生の身にとって、それは大変な痛手であった。時計がなくても携帯電話その他の機器によって容易に時刻の確認ができる現在とはわけが違う。不便なことこのうえなかったが、しばらくは腕時計なしで過さざるを得なくなった。
  そんな折も折、私は、たまたまこの有楽町フードセンターの前を通りかかった。高速道下の広い通路の脇にはかなりの人だかりができていた。なんだろうと思って前の人の肩越しに中を覗き込んでみると、一人の男が広いシートの上にたくさんの腕時計を並べ、周囲を取り巻く人々に向かってなにかを説明しているところだった。男の左脇には、やはり新品の腕時計の入った細長い箱が何段にも積み重ねられていた。
  男は、新聞の切り抜き記事とある有名週刊誌の一ページを指し示しながら、そこに紹介されている新型時計は、いま自分がキャンペーン中の時計と同じ製品にほかならない、という主旨のことを言葉巧みに語っていた。一見したかぎりでは、記事中の写真の時計とシートに重ね広げられた時計とは確かに同じ品物であるように思われた。彼が指差す新聞の切り抜きと週刊誌の記事の見出しには、「画期的な新型腕時計近日発売!」といったような意味の文字が踊っていた。
  某一流時計メーカーが、画期的な新技術を用いて省エネルギー型の新式腕時計を開発した。その時計はほどなく全国で発売されることになっているが、現在はそのキャンペーン期間中で、このように新聞や雑誌などでも大きく紹介されている。自分もメーカー傘下のキャンペーン部隊の一員として街頭に出て、皆さんにその時計の素晴らしさを紹介して回っているようなわけなのだ。 
  男はそのような大筋の口上を一通り述べ終えると、並べられた時計の何個か取り上げて数人の人々に手渡し、それらの感触やデザイン、構造などをじっくりと確認させた。最初に受けとって確認を終えた隣の人から私もその時計を手渡され、自らの手と眼をもってじっくりと品定めをしてみたが、手に伝わる重量感といい、上質で滑らかな金属の感触といい、また文字盤やバンド部分のデザインといい、どれをとっても某有名メーカーの高級時計に恥じない造りのものであった。
  時計の品質を確認し終えた人々から時計を回収し終えると、男はタイミングを見計っていたかのようにこう切り出した。
「皆さんにも手にとって見ていただきましたこの新型腕時計の発売予定価格は七千円前後です。、かなり高価なのですが、現在はキャンペーン期間中ですから、ここにご用意した時計だけは、事前の宣伝を兼ねて、特別価格五百円でお頒け致します。数に限りがありますので、すべての方には行き渡らないかとは思いますが、大変お買い得だと存じますので、この機会を逃さず是非お求めください」
  それはなんとも巧みな殺し文句ではあった。現在なら、街頭においてこのような有名時計メーカーの新製品キャンペーンが行われることはまずない有り得ない。だが、テレビやラジオで流されるコマーシャルがいまほどには宣伝効果をもたず、全国的に見ると、カラーテレビはもちろん、白黒テレビでさえも普及率がいまひとつだったこの時代には、時々このような宣伝キャンペーンも行われていたから、話はよけいに紛らわしかった。鹿児島から上京したてのまだ純朴な世間知らずの身には、生き馬の目を抜く大都会の怖さなど知るよしもないところであった。
  この時計が五百円かあ、まあ悪くない話だよなあ、ちょうど腕時計が欲しかったところだし、五百円は大金だけど、たまたま持ち合わせもあることだから――そんな思いを胸中に抱きながらも、私はしばらくその場でどうしようかと躊躇っていた。
  突然、すこし離れたところで考え込むような顔をして立っていた恰幅のよいスーツ姿の男が、意を決したように五百円を差し出し、先刻確認したなかの時計の一つを買い求めた。お金を受け取った側の男は素早い手つきで時計の入った箱を包み、すぐさま相手に手渡した。それに続いて、今度は、違う場所にいた二、三人の男女が自分も欲しいと言いながら、それぞれに財布を開いてお金を取り出した。すると、それに誘い立てられるかのようにして、人々の輪の中から、我も我も言わんばかりに、お金を手にした多数の手が男に向かって差し出された。そして、そのたくさんの手の中にほかならぬ私の手が混じっていたことは言うまでもない。
  男は慣れた手つきで次々に目の前の時計の箱を包み、手際よく我々に手渡してくれた。いや、実際には脇に積み重ねてあったほうの箱を包んでさりげなく手渡していたのかもしれないが、いまとなってはそのへんのことはよく判らない。ただ、いずれにしろ、手品まがいの手口が用いられたことだけは確かであった。私が手にした細長い箱の包みからは、中に収まっているはずの腕時計の重量感がほどよく伝わってきた。いくぶん面はゆい思いをしながら受け取った時計をポケットに仕舞い込んだ私は、あとで箱を開けることを楽しみにしながら、そそくさとその場を立ち去った。
  あとになって思えば、最初にお金を差し出した何人かはたぶんサクラで、売り手の男とはグルだったのであろう。そして、確認のために人々に手渡された時計は本物で、サクラたちが買うふりをして持ち去った品物も本物だったと思われる。新聞の切り抜きや週刊誌の記事は巧妙に偽造加工されたものか、さもなければ何らかの時計についての実記事を悪用したものだったのだろう。
  時計を買い求めたサクラ以外の多くの人々は、しばらくしてから見事にハメられたことに気づき、地団太踏んで悔しがったに違いない。いや、あまりの鮮やかな手口に、私同様、自嘲の言葉も出ぬままに、しばし呆気にとられていたというのがほんとうのところであったかもしれない。相手はいいカモとなった我々の心理を憎らしいまでに読み切っていたからである。
  詐欺まがいのもであるにしろ、そうではないものであるにしろ、この種の街頭セールでなにかしらの品物を購入した者が、その場ですぐにその包みを開きその中の品物を確認するといったようなことはほとんどない。それがごく普通の買い手の心理というものなのだが、相手はその心理をあらかじめ計算に入れ、巧みに利用したのである。
  なんとなく気になった私が、ポケットの中から細長い箱包みを取り出しそれを開けてみたのは、十五分ほど経ってからであった。中には確かに時計らしいシロモノがはいってはいたのだが、何やら様子がおかしい。慌ててその中身を取り出した私は、あまりのことに愕然とし、怒りの言葉も出ない有様だった。その時計がいまばやりの偽ブランドの時計だったというくらいならまだしもましというもの、いや、百歩譲って、インチキ商品であれ何であれとりあえず動く時計ならまだ救いもあった。
  だが、呆れたことに、そのシロモノときたら、プラスチック製のちゃちな文字盤と安っぽいビニール製のバンドからなる幼児用のオモチャの時計だったのだ。さらにご丁寧なことには、その時計の内部には鉛の塊が詰め込まれていたのである。なんてことはない、手に伝わってきたほどよい重量感なるものはその鉛のせいにほかならなかった。どんなに高く見積もっても二、三十円程度のシロモノなのだが、なんとそれに五百円もの大金を支払わされたというわけであった。大急ぎでもとの場所まで引き返してみたが、むろん、男の姿はもうどこにも見当たらなかった。
  世間知らずの我が身の愚かさを自嘲しながら通りかかったガード下には、幼い子連れの泣き屋の女の姿があった。その前を通りながら、どうせなら騙し取られた五百円を泣き屋にやってしまえばよかったと思いもした。当時、有楽町や新橋のガード下周辺には、空き缶を前に置き、ボロを纏ったみすぼらしい姿の泣き屋が、通行人に向かっては激しく泣き伏しながらその同情をかっていた。その女の脇には必ず四、五歳ほどの幼児が哀しそうな顔で坐っていて、人々に空腹を訴え、周囲の助けを求めるかのように涙を流してもいたものだった。
  地方から上京してきたばかりの心優しい人々は、初めて目にするそんな泣き屋親子の姿にひとかたならぬ同情を覚え、いくらかの小銭を空き缶の中に投げ入れてやるのが常だった。貧乏学生だった私も、上京したての頃には、ついつい情にほだされ何度か缶の中に十円玉を放り込んだ記憶がある。実を言うと、この泣き屋がまた曲者だったのだが、もちろん、この時はまだ泣き屋の世界の裏事情など知るよしもなかった。
  それから半年ほどしてからのこと、都内の福祉施設や養護施設でのボランティア活動に参加し始めた私は、当時江東区木場の一角にあった塩崎荘という民間経営の父子寮で思いもかけぬ事実を知って愕然としたものだった。ちなみに述べておくと、父子寮とは生活力のない父子家庭のために設けられた一種の福祉施設で、母子寮などとは違って国内でもきわめて珍しい存在であった。現在その場所には中国残留孤児の帰国者たちの専用住宅が設けられている。
  貧しくても我が子だけは必死に育て上げようとする母子寮の多くの母親たちと違って、人格的な破綻者も少なくなかった父子寮の父親たちは、我が子に窃盗やスリ、恐喝、売春、売薬といったような行為を教唆したり強要したりすることなど、なんとも思っていなかったようである。むろん少数の例外はあったが、彼らのかなりの者がそうやって子どもたちが稼いだ金品を巻き上げ、自分は何もせずに日々酒を喰って寝ているといった有様だった。
  当時、その父子寮にはとても人なつこい四、五歳くらいの男の子がいて、彼は我々学生ボランティアのところによく遊びに来たものだった。ある日彼と一緒に遊んでいると妙にお尻を痛がるので、必死に抵抗するのを押さえて、そのズボンとパンツを脱がせてみた。彼のお尻にはほうぼうに紫色の痣や腫れがあり、また皮膚のあちこちがタコのように固くなってしまっていた。我々が理由を訊いても彼は頑として口を割ろうとはしなかった。幼い心なりに、彼が何らかの秘密を懸命に守ろうとしていることは明かだった。
  その不可解な事態の背景を説明してくれたのは、父子寮の管理責任者でもあったベテランケースワーカーの財部さんだった。怪訝そうな顔の我々に向かって、財部さんはこともなげに、「ああ、あの子のお尻のことかい?、あれは泣き屋のせいなんだよ。わかっていても止めようがないんだけどね。でもねえ、あのくらいのことで驚いていたら、あんたがたにはここでの活動なんか務まらないよ」と言ってのけたのだった。
  呆れたことに、彼の父親は一日いくらの約束で泣き屋の女に我が子を貸していたのである。泣き屋の女は借りた子どもを連れて繁華街近くのガード下などに出向き、空腹状態にさせておいて、人がそばを通るたびに悲しそうに泣きわめかせ、自らも泣き伏しては同情を求める演技をしていたのだ。子どもが言うことをきかなかったり、途中で疲れたり、うまく泣けなかったりすると、容赦なくお尻をつねったり叩いたりしてひどい折檻を繰り返していたようである。
  当時の泣き屋が実の子を連れて街頭に出向くことは少なく、実際にはほとんどがそんな借り子であったらしい。考えてみれば、子どもはすぐに成長するものだから、長年にわたって泣き屋の仕事を続けるには、通行人の同情を買うにほどよい年齢の子どもを確保するため、次々に子どもを取り換えていかなければならない。だから、泣き屋が子どもを借りるのは当然のことではあったのだ。むろん、児童虐待もいいところで、いまからするとひどい話ではあるのだが、この種の行為やそれ以上に惨たらしい行為が大都会のいたるところで行われていた時代のことだから、わかっていても誰にもどうすることもできなかったのである。
 「あのくらいのことに驚いていたら、あんたがたにはここでの活動なんか務まらないよ」という財部さんの言葉には誇張などなかった。それについてはここでは書かないが、実際、私たちはその後の活動を通して想像を絶する体験をすることになったのであった。
  見事に騙されたそんな経験を皮切りに、一筋縄ではいかない都会の裏の姿を少しずつ学んだお蔭で、この歳になった今では、私も、その気になればちょっとした詐欺師くらいにはなれるほどにずる賢くもなった。いや、よくよく考えてみると、そもそも物書きという職業からして体のよい詐欺師みたいなものだと言ってよいだろう。愚にもつかないことを書いては多くの人々の関心を惹き、それでなんとか生きている。あのインチキ時計売りの男や泣き屋の女たちを責める資格は、もしかしたらいまの私にはないのかもしれない。

「マセマティック放浪記」
2001年6月20日

朝日スーパー林道へ

  新潟と山形にまたがる朝日山系へと向かう途上にあった私は、郡山から国道49号沿いに猪苗代湖畔に出たあと、磐梯山麓を南側から西側へと巻くようにして走り抜け、蔵の町、喜多方市に入った。いまでは「蔵の町」などというより「ラーメンの町」といったほうがずっと通りがよいかもしれない。会津藩の北部に位置していたため、藩政時代には北方(きたかた)と呼ばれていたこの地は、明治の初め喜多方町となり、さらに昭和29年喜多方市に昇格した。市制に移行した当時までは、3世帯に1世帯の割合で蔵を所有していたということだから、文字通り蔵の町だったわけである。
  昭和40年代後半になって、喜多方の文化遺産である美しい蔵々が次々に失われゆくのを惜しんだ写真家金田実は、後世にその姿を伝え残そうと決意し、ひたすら蔵の撮影に精魂を傾けた。そして、その写真作品は結果的に多くの人々の感動と社会的な反響を呼ぶところとなった。昭和50年、NHKの新日本紀行「蔵ずまいの町」が放映されるに及んで、「蔵の町、喜多方」は一躍全国的に有名になったのである。
  世の中、何が幸いするかわからない。そのことが契機となって、蔵の見学や蔵屋敷の写真撮影のために喜多方を訪れる観光客の数は飛躍的に増大した。まだファミリーレストランやファーストフード店、コンビニエンスストアなどのなかった当時のことゆえ、お昼どきなど、観光客たちは地元の大衆食堂に入り、必然的にその店のラーメンを食べることになった。そんな状況のなかで、地元でもっとも人気のあった特製ラーメンがもっぱら「美味い」と評判になり、その噂がさらに噂を呼んで、「蔵よりもラーメン」とばかりに、ラーメンそのものを食べるために同地を訪れる人々がどんどん増えていった。
  その後、究極のラーメンを目指し、町をあげて様々な面での工夫と改良がなされ、いつしか喜多方は、先輩格の札幌、博多と並んで日本三大ラーメンの地と称されるまでになった。現在では、「喜多方ラーメン」のブランドで大量の地元産ラーメンが国内各地に出荷されるようになっている。
  喜多方に到着したのは午後三時過ぎだったが、まだ昼食をとっていなかったので、とりあえず国道沿いにある「花ふぶき」というラーメン本舗に飛び込んだ。そして、一杯750円のチャーシューメンを注文してみたが、味も歯ざわりも抜群のチャーシューがたっぷりとはいっており、麺にもほどよい腰があって、なかなかのうまさだった。喜多方には独自の味をうたうこのようなラーメン専門店が数多く存在していて、どの店の味も甲乙つけがたいのだが、先を急いでいたこともあって、今回は便利のよい国道筋のこのお店に立寄ったようなわけだった。
  この店の敷地内には大きく立派な製麺工場があって、見学用通路のウィンドウを通してオートメーション化された製麺工程をつぶさに観察することができた。各種の添加物とともに小麦粉を練り上げ、それを帯麺という幅40センチほどの長帯状に押し伸ばして巻き上げる。さらにその巻き上げた帯麺を別の機械にかけて開き伸ばし、厚さが一定になるように圧延する。そうやって整えられた黄色の帯麺は、切断機に送られたあと何筋もの細長い麺糸に切り分けられ、さらに一定の長さのところで切断される。そして、それらは一食分ごとに自動的に包装されていくのである。ラーメンの製造工程を目にするのは初めてだったのでとても興味深く感じられた。
  喜多方をあとにすると、いっきに国道121号を北上、日中ダム西岸を通り大峠トンネルを抜けて山形県に入った。福島県側から山形県の米沢盆地に向かうには、福島市から栗子トンネルを抜ける国道13号ルート、猪苗代から磐梯山東麓、桧原湖東岸を経て、有料道路スカイバレーを越えるルート、そして、猪苗代または会津若松から喜多方を経て米沢に至る国道121号ルートの三主要路が存在する。
  今回利用した国道121号ルートの喜多方と米沢間は、景観に恵まれているうえに道幅も広く舗装も完全で、急カーブも信号もほとんどない。しかも、通行車輛の数はきわめて少ないから、走行は快適そのもので、のんびり走っても喜多方から米沢まで三、四十分しかかからない。日光の入口今市から鬼怒川温泉、川治温泉、五十里湖、会津田島、会津若松、喜多方と経て米沢へと至る国道121号は会津西街道とも呼ばれ、途中に名所旧跡も多く、大自然に恵まれていて風光も明媚である。東北道や国道4号を走るよりはずっと爽快感があるし、会津若松市街を抜けるとき以外には渋滞もほとんどないから、裏道好きな私などは山形方面への往復にこのルートを利用することがすくなくない。
  ただ、今回の目的地は米沢方面ではなく朝日山系西部だったので、途中の入田沢というところで国道から左へ分岐する県道に入り、飯豊山系北側の谷間に広がる田園地帯を縫い走って小国町へと抜けた。そして、小国からは飯豊山系と朝日山系との間を流れる荒川沿いの国道113号を村上方面に向かって爆走した。快走と爆走と暴走とはいったいどこが違うのかと問われれば、ウーンとしばし返答に窮せざるをえないところだが、まあそのあたりのことについては適当に推測してもらうしかないだろう。
  温泉地としても知られる関川を過ぎ荒川町に入る頃になると、太陽が大きく西空に傾いた。真正面から差し込む陽射は、サングラスをかけていても眩いほどだった。ここまでくると日本海まではもう一息である。日没時刻までには海岸線に出ることができそうだったので、日本海に沈む夕陽を久々に眺めてみようと思い立ち、国道7号を横切りそのまま海岸方向へと直進した。そして、勘を頼りに、細道をジグザグに走り抜けながら、レジャー用ボートのハーバーのある荒川河口付近に辿り着いた。
  車を降り、防波堤脇をすりぬけて浜辺に出ると、ちょうど太陽が西の水平線に近づこうとしているところだった。日本海はベタ凪で、細かな砂利と白砂からなる浜辺にひた寄せるさざ波の響きは、私の心を不思議なほどにやすらわせてくれた。右手海上に目をやると、かつて訪ねたことのある粟島の島影も望まれた。
  粟島へは村上の岩舟港からフェリーで渡ったのだが、変化に富んだ景観も十分に楽しめたし、早朝浜辺で真っ赤に焼いた小石を魚汁の中に放り込んで食べる「ワッパ煮」などの磯料理も大変に珍しかった。緩やかに流れる時間と、寡黙な島人の心の奥に秘められた濃やかな人情はこの地ならではのものでもあった。シーズンンオフに訪れた気まぐれな観光客をただ一人乗せた断崖巡りの遊覧船は、どう考えてみても赤字だったに違いない。
  朱色から紅へと色を変えた太陽は、やがて水平線にぴたりと接し、それからすぐに水平線の一部が赤い円盤の下部を切る弦に変わった。そして、その弦はしだいに長さを増してついには太陽面を左右に貫く直径となり、そこからさきは逆にみるみるその長さを減じていった。弦の長さがゼロに近づくにつれて紅色の弓形も急速に縮み、ほどなく一筋の水平線だけが、なおも黄紫色に輝く西方の空と海との境目に残された。
  名残を惜しみながら黄昏の空を仰ぎやっていると、地元の漁師らしい男が現れ、波打ち際のすぐ近くで手にした投網をうちはじめた。なかなかに鮮やかな手つきなのだが、そんな渚近くで魚が獲れるのだろうかと、見ていていささか心配になった。だが、それはよけいな心配というものだった。水中から投網を引き上げて浜辺に広げようとしている男に近づき、何が獲れるのか尋ねてみると、彼は投網からはずしたばかりの小魚三、四匹を指し示した。それは小ぶりのカレイのようだった。男の話だと、条件がよければカレイその他の小魚が結構な数獲れるらしい。私と言葉を交わしながら、男は網からはずした魚のうちのごく小さなものを選んでは再び海に投げ戻した。
  浜辺から戻ると、すぐ近くにある「餐華」という仰々しい名の海鮮レストランに入った。そして餐華という言葉の響きとはおよそかけ離れたイメージの千百円の刺身定食を注文したのだが、これがなかなかの拾い物だった。獲れたての数種の魚の刺身は、味、量ともに申し分なかったし、半身のカニ入りのカニ汁も実に良い味であった。煮物にも、そしてつややかな地元産のお米のご飯にも文句のつけようがなかった。しかも、サラダと飲み物は食べ放題、飲み放題ときていたから、消費税込みで千百五十五円というのは安いものであった。餐華というそのお店に「讃歌」を献げたい思いを抱きながら私は車へと戻っていった。
  実をいうと、このあと私は昨年九月にも訪れた朝日山系内の奥三面ダムへと向かうつもりだった。かつて秘境を呼ばれた自然の宝庫の破壊や貴重な縄文遺跡の水没をいたむ声を断ち切るようにして、昨年十月にこのダムの湛水は始まった。先年そのことについて書いたこともあって、その後のダム建設地一帯の変容ぶりを一度自分の目で確かめてみたいと考えていたからだった。
  どうせそのあとは朝日山系の山奥での車中泊になるだろうと思ったので、通りがかりのコンビニに立寄って朝食用のパンや牛乳を買い求めた。店を出たあと何気なくその隣を眺めると、夜のことゆえ奥のほうまではよく見えなかったが、かなり大きなハウス栽培の施設らしいものが建っているようであった。そしてその前には「フレッシュ野菜!」という大きな看板が掲げられていた。
  その時である。なにやらなま温かい風に乗って、どこからともなくあの有機栽培特有のフレッシュな臭いが漂ってきた。私が子ども頃には田舎ならどこにでも漂っていたあの懐かしい臭いである。「フレッシュ野菜ねえ、確かにこのフレッシュこのうえない臭いからすると、ここのハウスで採れる野菜は新鮮でうまいに違いない。でも、都会育ちの衛生観念過剰な人々が、こんな野菜の有機栽培現場を目にしたら、きっと仰天することだろうな。含有成分が危険で味がいまひとつでも、やっぱり科学肥料を用いた野菜のほうがいいなどど言い出すのではないだろうか?」――そんな想像をめぐらす私の胸中はいささか複雑なものではあった。
  朝日スーパー林道入口には夜間通行禁止という表示がなされてはいたが、入口にゲートがあるわけでもないのでそのまま林道に分け入った。この林道はかなり奥までよく舗装されているし、何度も走りなれた道でもあったので、深夜とはいってもとくに困るようなことはなかった。しばらく走り続けていると、折からの寝待の月が山上に昇り、朝日山系一帯の山々に特有なその荒々しい岩肌を照らし出しはじめた。どこか凄絶な感じさえする月下の山岳風景というものは、深夜の一人旅に生の証の一端を求める人間には、このうえなく感動的なものである。私はしばし車を停め、左手に深く切り立つ谷底から湧き昇る夜霧と、その谷の両側に聳える岩峰とが月光に浮かび照らされる有様を、魅入られでもしたかのようにしげしげと見つめていた。
  あちこち脇見しながら夜の山道をのんびりと走ってきたこともあって、奥三面ダム方面へと続く道路の分岐点に到着したのは午後十一時過ぎだった。せっかくやってきたのだが、残念なことに奥三面方面への入口にあたる橋には厳重な車止めのゲートが設けられ、今年の十月下旬までは通行不能である旨の表示がなされていた。奥三面ダムに付帯する道路がなお未整備であるためというのが表向きの理由のようだった。
  通行止めでは仕方がないと思いながら、何気なく左手に顔を向けると、なにやら大きな解説板らしいものが目に飛び込んできた。車のライトで照らし出してみると、それは新潟県企業局が最近立てたばかりの奥三面水力発電所についての解説板だった。仰々しい割には、その解説板の内容はお粗末で、小学生でも知っていそうな水力発電の原理の簡単な図解に加えて、一秒間にドラム缶二百本分の水が発電用流水路を流れ落ち、最大出力は34500kwhで、それは村上と朝日村の約一万三千戸分の使用電力に相当するといった短い説明がついているだけのものだった。そして最後には「水力発電は純国産のクリーンエネルギーです」という一文が添えられていた。
  いったい誰に読ませるつもりかもよくわからない解説板の説明の最後に、そんな見え透いた文句を大真面目な顔をして付け足したりする役人たちの無神経さに、私は唯々呆れかえるばかりであった。最大出力が34500kwh、1kwhあたりの電力料金が23円だとすると、一年間休みなく最大出力で連続発電をおこなったときの総発電量の円換算額は、
 23円/kwh×34500kw×24h×365日=6951060000円
となる。
  実際には最大出力で一年中発電を続けることは不可能だし、送電ロスなどもあるから、その四分の一程度の発電量と考えるのが妥当なところだろう。すると、実質的には年間総発電量の円換算額は17億円前後ということになる。古くからの集落を全戸立ち退かせ、国内でもきわめて稀な自然美に恵まれ秘境と呼ばれてきた大渓谷と、過去二万五千年にわたってその谷の地中に眠り埋もれてきた縄文の一大遺跡を水没させ、一千億円に近い工費を投入して造られたこのダムの発電能力は精々このくらいのものなのだ。なにが純国産のクリーンエネルギーなものかと、叫んでみたくなる人もけっして少なくないだろう。
  奥三面ダム方面の分岐点を通り過ぎたあと、私はさらに奥のほうまで朝日スーパー林道を進んでいった。残雪などの影響を受けやすい県境周辺の道路事情の悪さもあって、例年まだこの時期には新潟側から山形県側には抜けられない。やむをえないので、通行止めの鎖の張ってある場所から遠くない石黒山登山口付近に駐車し、そこで仮眠をことにした。しばらく本を読んだり原稿を書いたりしていたこともあって、エアベッドを膨らませその上に身を横たえたのは午前三時頃だった。カーテンの隙間から差し込む月光が不思議なくらいに明るかった。

「マセマティック放浪記」
2001年6月27日

軽く誘いに乗ったばかりに!

  翌朝は六時半頃に目が覚めた。近くで人の声がしたからである。身を起こして窓越しに外をのぞくと、地元のものらしい軽トラックが一台すぐそばにとまっていて、中年の男二人が山に入る準備をしているところだった。そのままもう一度眠りなおせばよかったのだが、天気がよかったこともあって、そのまま起床してしまったのが事の始まりだった。
  気にするほどのことはなかったが、風邪気味でちょっと気管が収縮している感じだったので、体調の万全を期し、携行していた気管支拡張剤サルタノールを少量吸引した。そして、すぐ車外に出てうがいを済ませた。それから朝食がわりに菓子パンを一個取り出し、それを齧りながら入山準備中の男たちの様子を見守っていた。彼らは沢歩きにも適した耐水性の長地下足袋に履き替え、膝下でその上端部をしかりと止めているところだった。
  岩魚釣りにでも行くのかと尋ねると、葉ワサビやゼンマイなどの山菜を採りに行くところなのだという。実際には男たちのほうが私よりも若かったのではないかと思うが、長髪にジーンズという私の姿を見て、自分たちよりもずっと年下だと考えたものらしい。彼らはうちとけた口調でどんどんきてくれ、ついには葉ワサビのあるところまで一緒に行かないかと誘いかけてきた。
  その日は山形市方面に向かうつもりだったので、いったんは同行を辞退したのだが、片道一時間ほどだから是非どうだと誘ってくれた。のちの成り行きからすると彼らの意図がどのへんにあったのかいまひとつ釈然としないのではあるが、片道一時間なら向こうで一時間ほど過ごし一人だけ先に戻ってきても三時間くらいのものだろうと、その時はこちらも軽く考えた。
  私の車には登山用具が一式積んである。取り敢えず急いで入山の準備をするのでちょっと待っていてくれないかというと、相手は、見るだけなんだから何も持たないでいいし、そのままの格好で大丈夫だよと、急き立てた。登山口に立っている案内板によると、彼らが入ろうとしているのは標高千メートル弱の石黒山という山で、頂上まで片道三時間、山頂には一応避難小屋もあるようだった。
  結局、私はそのままでよいという男たちの言葉を信じ、誘われるままに男たちについていくことにした。食べかけのパンを半分車に残し、文字通り手ぶらの状態だった。若いからそれなりに山行を重ねてきた身としては、けっしてあるまじきことではあったのだが、その時は、葉ワサビのあるところまでちょっと沢を詰めるくらいだろうと軽く考えてしまったのだ。下手に山歩きの経験があったことがこの場合にかぎってはマイナスにはたらいたと言ってよい。
  歩き始めて間もなく沢沿いの道は急に細く険しくなり、アップダウンも想像以上にひどくなってきた。ところが、このあたりの山歩きに慣れているらしい男たちは、そんなことなどお構いなしに、相当なスピードで進んでいく。ちゃんとした登山靴に履き替えず、常々履きっぱなしの相当に底の擦り減ったトレッキングシューズのままで来てしまったために、足が滑って余計にエネルギーを費やしたが、それでも遅れじと彼らのあとについていった。あちこちで倒木が道を塞いてしまっていたため、地を這うようにしてその下をくぐったり、逆にその上を強引に乗り越えたり、藪を掻き分け高巻きしたりしなければならなかった。
  何を思ったのか、彼らの一人は、強い地元訛の言葉でのほうは、「山菜採りや岩魚釣りに入ったついでにこの山の頂上まで登ることがあっても、反対側には絶対降りてはいけない。死んだ人や行方不明になった人もかなりの数にのぼるから」という意味のことを話してくれた。あとになってみると、どうにも割り切れない思いがするのではあるが、その時は素直にその言葉をよそ者の私に対する忠告だと受けとめた。
  進むほどに険しさをます山道を一時間近く歩いたあと小滝状の沢を横切ったのだが、その沢は折からの雪融け水で流れが激しく、靴をどっぷりと水中につけ、岩苔で足を滑らせないようにうまくバランスをとりながら、渡り切らなければならなかった。膝まで水につかっても平気な格好をしている彼らにはなんでもなかったが、それなりの装備を持っていたにもかかわらず無防備な姿のままでやってきた私はそうもいかなかった。誤って滝壷側に落っこちたら大変だから、いそうのこと裸足になりジーンズの裾をたくして渡ろうかとも思った。だが、足を拭くタオルも持っていないうえに、そんなことで先行する彼らを待たせるのもいささか気がひけたので、靴とジーンズの裾端を濡らしながらも、ジャンプ力をほどよく活かしてなんとかその急流を渡り切った。
  悪いことには、そのあと細い登山道は猛烈な急坂になった。先を行く二人を追いかけ十分間ほどは体力の限りを尽してついていこうと試みたのだが、ついにそこでギブアップせざるを得なくなった。登山の最中にそのような体験をするのは文字通り初めてのことで、自分でも信じられない思いだったが、極度の疲労感で全身の筋肉がまったくいうことをきかなくなってしまった。動悸が極端にひどくなり、心拍数が異常に増加して立ち眩みを覚え、そうこうするうちに目が霞みだした。
  しばらく付近の苔むした岩に腰掛けて休息し、また気をとりなおして急な隘路をゆっくり登りはじめたが、二十メートルほど歩いただけでまた身体がいうことをきかなくなった。いつもの山行の場合と違ってずっしりしたザックを背負っているわけでもないから、どう考えてもその状態は尋常ではなかった。重い荷物を背負って高山に挑むごとに登攀にともなう苦しみを何度も味わってはきたのだが、今回の場合は明かにそれとは何かが違っていた。だからといって、引き返そうにも、そんな状態では、流れの急なあの沢などをもう一度渡り、アップダウンがひどくて足場の極めて悪い沢道を辿って無事登山口に戻りつくことなどできそうになかった。
  いずれにしろここは時間をかけて身体を休め、そのあと冷静に行動するしかないと思い、適当な場所を探してみた。その急な斜面一帯はブナやトチの鬱蒼と茂る樹林になっていたが、それらの樹木のほとんどは冬場に積もる豪雪の影響で、根元近くの幹の部分が大きく湾曲しており、背中をもたれかけて昼寝でもするのに手頃なものもなかに何本かあった。私はそんな若木の一本を選び、その幹に全身をゆだねかけてしばし目をつむった。身体中の力がスーッと抜け、しばし意識が空白になり、時間の流れが一瞬止まってしまったかのような感じがした。
  なんとも情けない話ではあったが、怪我の功名とでもいうか、見方を変えればこれほどに贅沢な体験は望んでもそうそうできるものではなさそうだった。まだ午前八時過ぎだったし、天候もよく、大気は爽やかそのもので、暑さも寒さもまったく感じなかった。ブナやトチ、ホウなどの巨木の樹林の生み出す新鮮かつふんだんな酸素とオゾンに包まれ、私はその心身を奥底まで洗い清められているようなものでもあった。先行した二人の男たちが戻ってくる様子はまったくなかったし、あとから人がやってくる気配などもまるでなかったから、私はその場でまったく一人きりになっていた。
  じっと目をつむりブナの若木の幹と一体化したかのように身を横たえる私の耳元に、遠くを流れる渓流の水音と、森に棲むアカゲラの樹木を啄ばむ音とが、不思議な和音を織りなして快く響いてきた。しばらくしてからそっと目を開けると、はるか頭上で、まだ生まれて間もないブナの若葉が瑞々しい色の緑に輝いて見えた。まだ朝日山系は初夏を迎えたばかりだった。
  休息したおかげでかなり体調が落着き、思考力が甦ってきたので、そのままの態勢で大きく呼吸を整えたあと、ここにいたるまでの状況を今一度冷静に振り返ってみた。ひどい苦しさを覚え、身動きができなくなった直後、まっさきに私の脳裏をよぎったのは、「この程度のことで参ってしまうほど急激に基礎体力が衰えてしまったのか。やはり歳をとってしまったということなんだな。そうだとすると、これからは先は登山なんて無理だな」というなんとも情けない思いだった。
  だが、あらためて考えてみると、すべてを歳のせいにしてしまうのはなんとも不自然な気がしないでもなかった。そこで、事の次第をあれこれと回想するうちに、突然、いくつか直接の原因らしいものが思い浮かんできた。
  歩き出したのは気管支拡張剤のサルタノールを吸引した直後だった。日常的な行動をする分にはなんでもないのだが、一時的に心臓に負担がかかり心拍数も上がるサルタノールを使用後、すぐに過激な運動をした場合、相乗作用が生じて心臓に異常な動悸が生じることは考えられないことではない。また、昨夜の睡眠時間は三時間程度で、しかも、前日は午前零時半くらいに東京を出て、途中であちこち立寄りながら休むことなくこの朝日山系までやってきたわけだから、たとえ歳をとっていなくてもそれなりの疲労が蓄積されていても当然だった。
  さらに悪いことに、男たちに急かされたこともあって、その朝は菓子パンを半分食べ、お茶を紙コップに一杯飲んだだけだった。また、歩き出してからもマイナスの条件が重なった。まったくの手ぶらだったとはいえ、険路を進む男たちの速度は相当なものだった。せめて十年前までくらいならその速さについていくのは何でもなかったろうが、この歳で、しかも、ちょっと気を抜くと滑ってしまいかねない底の擦り減ったトレッキングシューズのままで彼らのあとに続くには、無意識のうちにかなり無理をしなければならなかった。
  もうひとつ、デッドポイントの問題もあった。若い頃から折々山に登ってきた私の場合、一番苦しくなるいわゆるデッドポイントが、歩き出して三、四十分後という比較的早い時間にやってくる。その時間帯をゆっくりと歩いてやり過ごせば、あとは身体が楽になって歩速もあがり、一定テンポで山頂まで登っていくことができる。そのデッドポイントにあたる時間帯に無理をしてしまったため、オーバーペースになってしまったのだった。
  いずれにしろ、そんな幾つかの悪条件が重なって、ついには身動のきとれない状態に陥ったことだけは間違いないようであった。そもそも、誘ってくれた男たちの「そのままで大丈夫だよ」という言葉を額面通りに受け取ってしまったのが己の不覚だったのだ。
  いろいろなことを連想しながら小一時間ほど身を休めていると、すっかり体調も回復してきた。ちょっと歩いてみたが、幸い身体も軽くなっており、その分だと男たちのいるところまで行くことは十分可能なように思われた。先に進んだ彼らも、あとに残してきた私のことを心配しているのではないかと思ったので、私は再び急な隘路を上へ上へと歩き始めた。まさかそのあと、そのままの姿で石黒山の頂上にまで至ることになろうとは、さすがに考えてもいなかった。

「マセマティック放浪記」
2001年7月4日

無謀登山?

  登るにつれてますます細く険しくなる山道を三十分ほど進むと再び沢に出た。冷たく澄んだ水が流れほとばしるその沢はそこで二手に分かれていた。これまで私の知る限りでは、天然物のワサビは、清冽かつ豊富な湧水の流れる断崖直下の急斜面のようなところを好む。そうだとすれば、地形的にみて先に行った男たちが目指したのは左手の沢のように思われた。だが、登山道のほうは、左右に分かれた二つの沢にはさまれる尾根筋へと続いていた。
  男たちの居場所が定かではなかったので、大声を出して呼びかけてみたが応答らしきものはまったく聞こえてこなかった。どうしようかとしばし躊躇はしたものの、もしかしたらもっと上のほうまで行ったのかもしれないと考え、再び登山道を歩み始めた。呼吸と歩行のリズムを整えながら一歩一歩急斜面を登るうちに、また沢に出た。
  見るからに冷たくてうまそうな清水が流れていたので、まずは手と顔を洗ってさっぱりした気分になり、それから、近くの蕗の葉を一枚とって漏斗状にまるめ、それで何杯も水を掬っては飲み干した。子どもの頃から沢水は飲みなれているので、一見しただけで、その水が飲めるかどうかや味はどの程度かといったようなことはおよそ判断がつく。予想にたがわず、それは五臓六腑にしみわたるようなうまい水であった。
  この地点でもう一度、どこかそう遠くないところにいるはずの男たちに大声で呼びかけてみたが、あいかわらず応答はなかった。もはや自分の意思で自由に行動するしかないと決断した私は、引き返すべきか、それともそのまま石黒山の頂上を目指すべきかを秤にかけた。そして結局、後者のほうを選ぶことにした。すでにかなりのところまで登って来ているので、あと一時間半も頑張れば標高千メートル弱の山頂に着くはずだという計算もあった。また、山頂に立てば、若い頃体力に任せて歩きまわった朝日連峰主稜の山々を遠望できるのではないかという期待もあったからだった。
  すでに述べたように、成り行きが成り行きだったため、食糧や水その他の必要装備は言うに及ばず、ハンカチの一枚さえも携行してはいなかった。ただ、まだ時間も早く天候も良好で、体調のほうもすっかりもとに戻った感じだったで、沢水さえあればなんとかなるだろうと考えた。もちろん手元に地図などなかったが、朝日山系全体のおおまかな地形は頭にはいっていたので、初めて登る山ではあったが、その点ではとくに不安は感じなかった。
  しばらくすると、それでなくても細い道は藪と落ち葉と倒木に覆われ立ち消え寸前の状態になった。湿って土質が柔らかい部分に踏み跡が残っていないかどうか、じっくりと確認してみたが、それらしいものはまったく見つからなかった。そして、そのことは、私を誘った二人の男たちがここまでは登ってきていないことを物語ってもいた。彼らはやはりさっき横切った沢筋のうちのどれかに分け入っていったのだろう。そうだとすれば、沢歩きの準備などまったくしてこなかった私が、無理して彼らを探さず、この登頂ルートを選んだことは適切だったのかもしれなかった。
  一帯の平均的な樹高はかなり低くなってきたが、樹林相が密なこともあって稜線はなかなか見えてこなかった。いつもならそれなりの重さのザックを背負っているので、急坂などでは自然に身体が前傾して体重全体が足元にかかり、うまく安定がとれるのだが、手ぶらというのは妙に身体が立ってしまい、かえってバランスが悪い。変なところに変な力が加わる感じで、その点はいささか意外でもあった。ともすると途切れがちになるルートをなんとか勘を頼りに踏み繋ぎながらさらに進むと、突然、行く手に、これでもかと言わんばかりの様相を呈しながら、この日最大の難斜面が現れた。どのくらいその急登路が続くのかはわからなかったが、それは、どうみてもよじ登るしかないような軟土と岩との混った斜面だった。
  細々とその急斜面を縫い伝う隘路は、ところどころまだかなりの残雪に覆われていて足場が悪いばかりでなく、雪融け水が流れ出しているために、あちこちがツルツルグシャグシャになっていた。そうでなくても結構体力を消耗しそうなところなのに、厄介なオマケまでついているというのだからたどうにもたまったものではなかった。ピッケルやアイゼンといった本格的な装備はともかくとしても、豪雪地帯の融雪期の山には、万一に備えてスキー用ストックの一本くらいはもってくるのが常識である。それなのに、そのストックはおろか、水も食糧も持っていなかったのだから無謀登山の謗りをうけても仕方のないところであった。
  靴が滑ってどうにもならないところや、なんとか登れてもちょっとバランスを崩したら滑り落ちてしまいそうなところは意図的に道をはずし、少々大変でも低木の藪を掻き分け、木の枝や草の根につかまって強引によじ登った。標高千メートル足らずの山としては想像以上に手強いという思いはしたが、ここまでくるともう意地というものだった。妙なもので、先刻のひどい体調不良などどこかへ吹き飛んでしまった感じだった。
  当然、何度か足を滑らせため、手足はどろどろになりジーンズの裾も泥土でべとべとになったが、もうそんなことはどうでもよかった。なにはともあれ、石黒山の頂上に立とうという気持ちのほうが先走っていた。ちょっと大袈裟かもしれないが、この程度のことで登頂を断念してしまったら、自分のチャレンジ精神も、旅に身をたくしてきた人生ももう終わりだとでもいったような思いが胸の奥に渦巻いていた。
  残雪で埋まった隘路を回避するため急斜面の藪にとりつき、そこをなんとか抜け切って登山道に戻ると、そこだけちょっと平らな感じになり、道幅も広くなった。それはまあよかったのだが、融けかかった雪と地面の泥とが混ざり合ってグシャグシャになっていた。前方を眺めながら、どこを選んで通り抜けようかと考え込んでいると、突然、何かがこちらを睨んでいるような気配を覚えた。はっとしてそのほうに視線を送ると、登山道脇の低木の枝から私の動きを探っている一匹の大きな野生の猿と目が合った。
  よく見ると、チシマザサの根か茎の部分らしいものを片手に持ち、その先を口にくわえている。ちょうど人間が爪楊枝を使っているときのような格好だった。相手は、「いったいテメー、こんなところに何しにやって来たんじゃ?。このあたり一帯は俺様の縄張りなんだぞや。どうしても通りたいっていうんなら通行料よこさんかい!」とでも言いたげな目つきでこちらをじっと見つめている。体格も毛艶もすいぶんとよかったから、もしかしたら群を率いるボス猿だったのかもしれない。
 「あんたには申し訳ないが、こちらもいま必死なんだらか、遠慮なく通してもらうよ!」とばかりに、ドロドロになった道の脇のほうを突き進むと、相手はこちらに怯む様子がないのを見て取ったらしく、慌てて藪の中へと姿を消した。これで一件落着と思いきや、思わぬ災難がこの身に降りかかったのはその直後のことだった。
  右足でグシャッと何かを踏み抜き、しかもその足をそのまま泥土混じりの柔らかい融雪面に突っ込んでしまったため、泥水と一緒に踏みつけたシロモノの一部が靴の中まではいってしまった。いったい何を踏み抜いたのだろうと思って、あらためて確認してみると、こともあろうに、それは黒茶に変色し、こんもりと盛り上がった動物の糞塚だったのだ。どうしようもないのでそのまま歩き出した途端に、足元から人間のそれとそっくりの強烈な臭いが立ち昇り始めた。どうやら、私が踏み抜いたものは縄張り表示を兼ねた野生猿の糞塚だったようなのだ。
  人間と近い猿の排泄物とあれば、人間のものそっくりの臭いがしてもおかしくはない。足やジーンズの裾を洗うにはもう一度沢のところまで下るしかないが、それからまた登ってくるのでは、さすがに身がもちそうになかった。仕方がないので、結局、悪臭に耐えながら、そのまま頂上目指して再び歩き出した。頂上にほどない稜線直下の急斜面もところどころ残雪に覆われ、登るのが大変ではあったが、幸いなんとか乗り切ることができた。稜線に出るちょっと手前のタルミからは、大きく深い谷をはさんで、まだ深い残雪に覆われた朝日連峰主稜の山々を一望することができた。若い時代に歩いたことのある峰々だけに、当時の自分とこの日の無残な自分とを比較してみる胸の思いはなんとも複雑なものであった。
  稜線に出たあと、石黒山頂上までは多少アップダウンがある程度の平らな道だった。頂上間近の小広い平坦地には、避難小屋らしきものがあったが、屋根は無残に破れ、壁も床も壊れていて、こんなところに避難したらかえって遭難してしまいそうな有様だった。この日登ってきた状況からしても、登山者がそう多いとは思われないから、避難小屋の管理が十分でないのはやむをえないことなのかもしれない。
  頂上に着くまでに、結局四時間近くを要してしまった。むろん、その中には樹木の幹に身を預け、にわかに生じた体調の不良を整えていた一時間ほどの時間も含まれている。石黒山頂上からの展望は日本海側に向かって大きく開けており、眼下に広がる山麓や平野越しに日本海を望むこともできた。足下は急峻な崖となって切れ落ちていて、そちら側に下る道はなさそうだった。
  はからずも足跡を刻むことになったこの山頂での最大の収穫は、通行止めのため結局再訪を断念せざるを得なかった奥三面ダムの一部を、左手眼下はるかに眺めることができたことだった。見えたのは、昨年同地を訪ねた時にはまだ架橋工事中だった大橋のあたりで、当時からすると三面川の川幅が広がり、かなり水が溜まっているようだった。しかし、その様子からすると、今期の雪融けが終わるまでには満水になるという新潟県当局の当初の予測と違って、ダムが満水になるにはまだまだ時間がかかりそうな感じだった。たぶん、あの上屋敷地区の貴重な縄文遺跡群もまだ水没してはいないことだろう。叶うことなら、それらが完全に水中に姿を消す前に、せめてもう一度だけその姿を目にしてみたいものだと思うのだった。
  靴の臭いのことなどもしばし忘れ、しばらく頂上で休んでいると、中年の男性がひとり登ってきた。ほぼ毎週手頃な山に登っているという新潟在住のIさんという方だった。Iさんは私を見るなり、「なんにも持たないで山に登ってきたんですか。そんな人に遭うのは初めてですよ!」と半ば呆れ、半ば感心するかのような顔で話しかけてきた。私のほうもすかさず、「僕だって初めてですよ、こんなムチャクチャな登山をやったのは…」とそれに応じた。ありのままのことを述べただけに過ぎなかったのだが、それでも、はじめのうち、Iさんは、怖いもの知らずの素人の無謀登山だと受取ったようだった。
  その後の話の流れから、私が朝七時過ぎに菓子パン半分を食べただけだと知ったIさんは、残ったものでよければと、半分食べかけのパンを差し出してくれた。こんな場合の山男の温情は心底有り難いと思わねばならない。私はすぐにそのパンを頂戴し、少しずつ味わうようにして胃袋におさめたのだった。私の靴の異常な臭いが気にはなっていたろうに、Iさんはそのことについては何も触れなかった。
  下山は二人一緒だった。往路のルートを逆に辿るだけだったので、様子がわかっているぶん、復路のほうがずっと楽だった。ただ、よくぞこんなところを、このくたびれた靴を履いたままで、しかも一時的とはいえ体調不良で動けなくなったあとで、諦めもせずに登ってきたものだと、我ながら呆れざるを得なかった。
  いちばん近い沢に出たところで休憩をとり、まずは両の靴と手足、さらには顔とジーンズの裾を十分に洗い清めた。それから、冷たく澄んだ沢水をしこたま飲んだが、その水の味がこの世のどんな飲み物にもまして素晴らしく感じられたのは、状況がら、当然のことではあった。靴と足とを洗っている最中に、大きな野猿と出遭った話や、うっかりして糞塚を踏み抜いてしまった話をすると、Iさんもやはり野猿に出遭い、威嚇されたとのことであった。たぶん、おなじ猿だったのかもしれない。
  下山には二時間半ほど要したが、とくに大きなトラブルもなく登山口の駐車場に到着した。新潟のIさんとはそこで別れ、私は先に去って行く車をじっと見送った。ただ、はじめに私を誘った例の葉ワサビ採りの男たちの車はもうそこになかった。先に下山し帰ってしまったのだろうが、私がまだ車に戻っていないことくらいわかったはずだから、せめて書き置きの一つくらいしてくれていてもよさそうなものだとも考えた。私を誘ってくれたのが根っからの好意によるものだったのか、それともからい半分だったのかは正直なところいまでもよくわからない。
  エンジンをかけハンドルを握った私は、いっきに村上市郊外にある瀬波温泉目指して走り出した。瀬波温泉の一角には「龍泉」という日帰り入浴者専門の温泉がある。泉質もなかなか良いし、ぬるめの露天風呂は私のような長風呂好きの人間にはぴったりである。広い仮眠室も用意されているから、疲れているような場合にはゆっくりと休めて大変に有り難い。よく整った入浴設備からすると、その入浴料金もとても良心的なものである。
  瀬波温泉の龍泉には一時間たらずで到着した。ウィークデイとあってお客も少なかったから、広い浴槽がいくつもある露天風呂を独占してこころゆくまで心身の疲れを癒し、それから、空腹を満たすべく十分な食事をとった。終わってみれば、それなりに有意義ではあったが、とにもかくにもハップニング続きの一日ではあった。

「マセマティック放浪記」
2001年7月11日

北旅心景・フェリーあざれあ号

  六月の夏至の日、私は新潟と小樽を結ぶ日本近海フェリー、あざれあ号のラウンジにあって、前方の海をひとりじっと見つめていた。午前十時半に新潟港を出たあざれあ号は凪いだ日本海を滑るように走り、ひたすら北へと向かっていた。全長百九十五メートルの大型フェリーは少々波があってもびくともしない。まして、このように波の穏やかな日の航海とあっては、微かなエンジンの響きをのぞいて揺れらしいものはまったく感じられなかった。
  正午前、船は粟島の西沖に差し掛かった。右舷の展望窓ぞいのシートに移り、細長い粟島の影を眺めやっているうちに、早朝五時に起こされ、宿屋近くの浜辺で食べさせられた同島名物「ワッパ煮」のことを想い出した。そのせいばかりでもなかったろうが、急に空腹感を覚えたので、まずは腹ごしらえをと思い、レストランに入ってラーメンを注文した。それなりの設備をもつ船内レストランゆえ、もうちょっと洒落たメニューもあったのだが、なぜか無性にラーメンが食べたかった。
  午後一時半、東方はるかにひときわ大きな山影が見え始めた。まだ残雪を戴いたその美しい山容からして、それは鳥海山に違いなかった。本土より遠く離れた海上から、こうしてその雄大な姿を仰ぎ眺めてみると、いにしえの舟人たちが鳥海山を航海の目印にしてきたことの意味がよくわかる。嵐の日など、ようやくのことで鳥海の山影を視界に捉えた昔の北前船の船乗りたちなどは、これで無事に酒田に入港できると、安堵の胸をなでおろしたことだろう。
  右舷前方から右舷後方へとしだいしだいに姿を移してゆく鳥海山を遠望しながら、ふと思い立って、山形県村山市の知る人ぞ知る蕎麦屋、「あらきそば」にお礼の電話をかけてみた。常々ひとかたならぬお世話になっている蕎麦屋さんで、過日、朝日山系を訪ねた帰りにも立ち寄らせてもらい、絶品と評判の高い蕎麦と身欠き鰊とをお腹一杯御馳走になった。そのうえ、お土産にと、地元の無形文化財の方が漉いた楮紙や沢山のサクランボまで頂戴してしまった。当主の芦野又三さん御夫妻も、そして若主人の芦野光さん御夫妻も実に素晴らしいお人柄の方々である。その御人徳もあって、あらきそばを訪ねる人はいまも絶えることがない。
  陸地から遠く離れたこんな海上で携帯電話が使えるものかかどうか確信はなかったが、実際にかけてみると、うまく通じた。もしかしたら、その時の船の位置が、鶴岡や酒田といった庄内平野都市部の沖合いであったことも幸いしたのかもしれない。たまたま当主の芦野又三さんが電話に出てくださったので、恐縮しながら鄭重に過日のお礼を申し上げておいたが、山形県庄内平野の西方はるかな沖合いから、月山連峰の向こう側に位置する村山市の芦野さんと話をするというのは、不思議な感じのするものだった。そのあと自宅や二、三の友人にも電話をかけてみたが、やはり音声は明瞭そのものだった。
  そうこうしているうちに飛島の影が見えはじめた。細長い台形をしたその島影は、私の心中に棲む旅の虫に無言で何事かを囁きかけているかのようだった。飛島はまだ一度も訪ねたことのない島のひとつである。船が北に進むにつれて、徐々に雲が切れてきて、その合間からところどころ青空がのぞきはじめた。午後六時前後、船は荒磯の露天風呂「不老不死温泉」で名高い黄金崎の沖合いに差し掛かった。その背後に聳えるのは白神山地にほかならない。雪深い白神山地のことだから、山頂に近い一帯ではいまちょうどブナの若葉が艶やかな緑を誇示しながら、美しく芽吹いて
  じっと目を凝らすと、本土の海岸線の一角に白く小さな建物の影らしいものが見えた。荒磯の露天風呂の背後には白亜のホテルが建っていたから、たぶんそのあたりが黄金崎に違いない。数年前、私が若狭の画家、渡辺淳さんと黄金崎の不老不死温泉を訪ねた時は大荒れの天候だった。ひどい雷雨の中、湯船のそばまで激しく打ち寄せる荒波を眺めながら、なんと三時間も湯の中につかりっぱなしだったことなどが懐かしく想い起こされた。晴天の日の夕刻、不老不死温泉の露天風呂から望む夕陽は最高だといわれるが、湯船に浸かりながら眺める夏至のこの日の夕陽はどうなのだろうかと、しばし想像をめぐらせもした。
  午後六時半頃にレストランに出向き、私としては異例なほどに早い夕食をとった。小皿や小鉢に少量ずつ盛られた一品料理をあれこれと選び合わせて食べたのだが、値段の割にはそれなりに満足のいく食事だった。レストランを出ると、左舷の展望窓ぞいのシートに深々と腰を下ろし、日本海に沈む夕陽に見入ることにした。サンセット・ホリック(?)の身としては当然の行動で、夕食を早目にとったのも日没時刻を計算に入れてのことだった。
  ちょうどフェリーが津軽海峡沖に差しかかった午後七時十五分、太陽は西の水平の向こうへと姿を隠していった。一帯の海面から立ち昇る水蒸気は上空で薄雲に変わる。水平線方向ではそれらの雲が折り重なって見えるため、それらの雲に光を遮られ、落日の影そのものをはっきりと望むことはできなかったが、それでも黄昏の空の色は旅愁を包み深めてくれるに十分な美しさだった。気がつくと、左舷展望窓周辺は乗客たちであふれていた。船上から見る夕陽にそれぞれの人生の想いを重ね托しながら、彼らは皆深い感慨にひたっているようでもあった。
  ウミネコやケイマフリの繁殖地として知られる松前小島と、そのかなり沖にある松前大島との間に船が差し掛かかる頃になると、右舷側の海上一面に煌々と輝き浮かぶ無数の点光が現れた。一個一個の青白い光は眩いばかりの明かるさである。それらは、最盛期を迎えたイカ漁の集魚灯の明かりだった。昔の漁り火はどこかもの淋しげな赤くはかない色をしていたものだが、現代の漁り火の輝きは強烈なことこのうえない。
  しばらく夜のデッキやラウンジを散策したあと、ふと思い立ってビデオシアターに入ってみた。全部で六十席ほどあるそのシアターの観客は私を入れてたった三人という閑散ぶりだったが、上映中のビデオは、黒沢明の「夢」という懐かしい作品だった。黒沢明の分身とでもいうべき男がいくつもの超現実的な空間に迷い込み、そこで目にした世界を並列的に描き語るという設定の映画で、全体的には現代文明への批判が漂い、いくぶん教訓色の滲み出た感じもなくもない作品である。だが、かつての黒沢ファンの一人として初めてこの映画を見たときにはそれなりの感動はあった。しかも、偶然のこととはいえ、そのラストシーンには、忘れられない想い出があった。
  シアターに入ったとき、すでに「夢」の上映はかなり進み、残り三分の一くらいのところに差し掛かっていたのだが、久々にそのラストシーンを見てみたいと思い、隅のほうに着席した。ちょうどその時、スクリーンの画像はゴッホの絵の中に描かれているようなオランダの農村風景に変わった。そしてほどなく、その場面は、幻夢の世界に迷い込んだ若い男が、ヴァン・ビンセント・ゴッホその人とおぼしき人物を捜し当て、短い会話を交わすシーンへと移っていった。
  自然の中に美しい絵を探すな。もともと自然はどんなものでも美しい。己の心を込めて自然を見つめれば、おのずからそれが絵になってくる――そんな意味のことをゴッホは男に語りかけたかと思うと、たちまち、いずこへともなく姿を消した。黒沢が作品中でゴッホに語らせたその言葉を一度どこかで読んだような気もするから、もしかしたらそれは「ゴッホの手紙」の中の一文をほどよくアレンジしたものだったのかもしれない。いずれにしろ、私は、その言葉を聞いて「我が意を得たり」という思いになった。
  このゴッホの言葉の意味するところは、絵画にとどまらず、芸術表現一般に当てはまる。芸術的な表現にはほど遠い下手な紀行文などを綴る私のような人間は、いまどきそんな文などを書いたところで、いったいそれらが何になるというのだろうという思いに襲われることも少なくない。美景や絶景、珍しい諸々の風物などを克明に伝えるだけなら、この現代、ビデオや写真などの映像技術に太刀打ちできるわけもないからだ。実際、一部の人々などからは、テレビやビデオ、写真などでありとあらゆる事物が紹介されているこの時代に紀行エッセイなど書いてなんの意味があるんですか、と問われることもしばしばなのだ。
  そんな状況のもとにあって自分にできることがあるとすれば、己の心と感性のかぎりを尽して各地の自然や風物を見つめ、カメラの目では捉え難い心象風景を描き出すことくらいだろう。心奥のレンズを通して眺めると、ごくありふれた風景や風物の中に隠されている感動的な情景がだんだんと見えてくる。心の眼とその対象物とが共鳴作用を起こし、現実とも幻想ともつかないひとつの心象風景が浮かび上がってくるわけだ。そして画家がそれを絵筆に托すように、紀行を綴る人間は筆に托すということになる。ただ、そうは言っても、旅行記などを書く人間にとって容易ならざる時代であることだけは間違いない。
  いろいろと思いをめぐらしながらスクリーンを見つめるうちに、「夢」はいつしかラストシーンに入った。長寿の美しい村があり、その村のそばを清らかな水を湛えた美しい川が流れている。川の両岸には花が咲き乱れ、何基もの大きな水車がゆっくりと回っている。この村では、長寿を全うした者が死ぬということは大変にめでたいことだとされる。村人総出の葬儀は、楽隊が先頭に立ち、全身を花で飾った若い女の子たちがにこやかな笑顔で踊りながらそれに続くといった、この村独特のお祭りムードに包まれる。そして、ヤッセー、ヤッセー、バンバカバンという掛け声と楽隊の奏でるリズムに乗って、美しい川伝いにお祭りなみの葬儀の行列が進んでいくところで映画は終わる。
  この作品のラストシーンに深い想い出があると書いたのにはちょっとした訳がある。まだこの「夢」という映画が公開される前のことだが、私は、安曇野の一角にある穂高町のJRの駅前で当世稀なる奇人のひとりと偶然に出逢った。石田達夫というその老人(拙稿、「人生模様ジクソーパズル」や「十三日の金曜日に」で取り上げた人物)は、出逢ってすぐ、穂高町の大王ワサビ園の近くにある川のほとりに私を案内してくれた。毒舌の塊のようなその老人は、大王ワサビ園のほうを皮肉混じりにけなしながらも、この川だけは実に素晴らしいと手放しで褒め称えもしたものだった。
  その地点でほぼ直角に流路を変えるその川は、澄み切った水がとうとうと流れ、水中では美しい緑の川藻がゆらゆらと揺らいでいた。川の両岸は草花と深い天然の木立に覆われ、それはまるで西洋の風景画そのものような光景だった。いまでもこんな川らしい川があったのかと私は感動したものだが、犀川の支流穂高川のそのまた支流にあたる万水川というこの川こそ、「夢」のラストシーンに登場した川だったのだ。のちになって映画館で「夢」のラストシーン目にしたとき、私は、あっ、あの川だと思わず息を呑んだものだ。
  小樽へと向かうこのフェリーの上でまさか「夢」のビデオを見ることになろうとは、さらにまた、それを通して穂高の石田翁のことを偲ぶことになろうなどとは、それこそ夢にも想っていなかった。しかも、石田翁は、戦前の一時期、小樽、天津、基隆を結ぶ三角航路の貨客船に乗っていたこともある人物だったから、私はその不思議な因縁にしばし言葉もでない有様だった。
  午後十時頃、あざれあ号は奥尻島と渡島半島との間に差し掛かった。右舷側も左舷側も前方も後方も船の周りはすべて集魚灯で埋め尽くされた感じだった。一帯の海上は一面驚くほどの明るさである。それらの集魚灯群の中を掻き分けるようにしながら、あざれあ号はしずしずと微速前進していった。
  それから一時間ほど、左舷の窓ぞいに配置された椅子とテーブルを占拠し、次第に後方に過ぎ行く奥尻島の民家の明かりを遠く眺めやりながら、ノートパソコンを開いて原稿の整理をした。そして、午後十一時半客室の上段ベッドに潜り込み眠りに就いた。小樽到着の予定時刻は翌朝の四時十分だから、わずか四時間足らずの睡眠ではあったが、眠らないよりはましというものだったし、船内ベッドの寝心地もそれなりに快適だった。

「マセマティック放浪記」
2001年7月18日

北旅心景・小樽

  定刻ぴったりの午前四時十分、あざれあ号は小樽港に着岸した。係員の誘導にしたがって無事に下船し、フェリーターミナルの駐車場にいったん車をとめたあと、まずは軽い朝の運動と、しばらくフェリー埠頭の周辺を歩き回ってみることにした。車止めの鉄柵を跨いで越え、そう遠くないところにある岸壁に出ると、そこには、「SEA PINK」という船名の外国貨物船が一隻停泊していた。船名は英語だが、船の雰囲気からすると、実際にはロシア船のようであった。その船名通りに、船体の主要部はオレンジがかったピンク色に塗られていた。
  その船が横づけになっている岸壁のすぐそばには、大小三、四十台ほどの中古車が横一列に並んでいた。どうやら、それらの車はこれからその貨物船に積み込まれロシア方面に運ばれることになっているらしかった。いまでは小樽港は対ロシア貿易の表玄関みたいなところになっており、中古車が日本からの主要輸出品のひとつになっていることは衆知の事実だから、そのこと自体はべつだん驚くには当たらなかった。
  早朝のことゆえ、むろん車の積み込み作業はまだ始まっていなかった。付近には他に人影などまったく見当たらなかったから、私はもっぱら軽い気持ちで、ずらりと並ぶ中古車群を一台一台眺めながら歩いていた。どの車も前後のプレートナンバーを剥がされ、フロントガラスの内側には小樽市港湾局の押印のある輸出確認証みたいなものが外から見えるように置かれていた。ほとんどの車はかなり年数が経っている感じで、国内でなら十万、二十万といった価格で取引されているシロモノのようであった。
  ところが、順に車を眺めていくうちに、意外にも二、三台、かなり新しい車が含まれていることに気がついた。とくにそれらの中の一台はぴかぴかの新車に近い感じだった。近づいてよく見てみると、トヨタのランドクルーザーで、タイヤもまだ真新しく、フロント上部には来年三月まで有効な陸運局の車検合格証が貼られたままになっていた。もちろん、ナンバープレートは前後ともに取り外されてしまっていたが、奇妙なことに、車の中の後部座席にはかなり上質の男物の皮製コートが一枚残されていた。
  もしかしたらこれって盗難車の可能性もあるんじゃないかな、最近、その手の話もよく耳にすることだし――そんな思いが一瞬脳裏をよぎった。そこで、もういちど前面にまわってフロントガラスの内側を覗きあらためてみると、意味不明のロシア語らしい文字が書かれた小紙片が置かれているだけで、他車に付されているような小樽市港湾局の押印入りの確認証らしきものは見当たらなかった。同様の車が他にも一、二台あったから、実際には何か別の事情があったのかもしれないが、いずれにしろ、そのまま船に積み込まれるにしてはどこか異様で不自然な感じだった。
  その時である。背後にただならぬ視線のようなものを感じた私は、はっとしてSEA-PINK号のほうを振り返った。船上のブリッジ付近にロシア人らしい中年の男が立ち、凄みのある眼つきでこちらのほうをじっと睨んでいたのである。状況から察すると、かなり前からこちらの一挙一動を監視していたものらしい。
  これはヤバイ、まさかとは思うが、他に目撃者もいないことだし、船内にでも連れ込まれたらそれで一巻の終わりということにもなりかねない――そう感じた私は大急ぎでその場を退散し、人影の多いフェリーターミナル駐車場へと戻った。「横浜の港から……」という有名な童謡の文句の向こうを張って、「小樽の港からお船に乗って異人さんに連れられていっちゃった」なんてことになったらたまったものではない。
  車の運転席につき、出発の準備をしていると、明らかに先刻の貨物船のロシア人船員とおぼしき男が、岸壁のほうから自転車に乗ってやってきて、何か様子でも窺うかのようにして私の車のとまっている駐車場周辺を走り回っているのが妙に印象的でもあった。むろん、私の目をひいたそのランドクルーザーが盗難車であったと断定できるわけではないし、もしかしたらべつに何らかの事情があったのかもしれない。だが、どこか尋常でない感じを受けたことだけは確かであった。

  フェリーターミナルの駐車場を出発したのは、小樽到着後一時間ほどしてからだった。小樽の街並みそのものは過去何度も歩き回ったことがあるので、早朝の倉庫街周辺を軽く走り抜け、そのあと小樽郊外の祝津方面までちょっと足をのばしてみようかと考えた。フェリーターミナルからそう遠くないところには近年開設された石原裕次郎記念館などもあるらしかったが、開館時刻まではまだずいぶんと時間があったし、同館にとくべつ興味を覚えるほどのこともなかったので、その付近はさっさと通過してしまった。
  早朝とあってまだ観光客の姿もない倉庫街をキョロキョロしながら走っていると、「小樽ナニコレ貿易」という横長白地の看板の掛かった倉庫の前に出た。確かに、一目見ただけで「何これっ?」と不思議になって足を止めたくなるようなたたずまいの倉庫である。もちろん、そうやって通りがかりのお客に足を止めてもらうのが、先方の狙いでもあるのだろう。私もすぐに車を降りて、その倉庫の入口に立ってみた。
  両開きの倉庫入口のドアや道路に臨む壁一面には、まるで一貫性のない、いや、むしろ意図的に一貫性を排除したと思われる雑多かつ奇妙な店頭装飾品がゴチャゴチャと配されていた。「小樽ナニコレ貿易」という看板文字の下に「THE DREAM ANTIEQUES」という横文字の一文が添えられているところをみると、やはり旧倉庫を利用した観光客相手の古物雑貨店なのだろう。中に入ってみたいという衝動に駆られたが、まだ午前五時を回ったばかりだったので、それは無理というものであった。
  あらためて倉庫の入口周辺を眺めまわしてみると、その一角だけでさえも、実に様々な種類の品物でこれでもかと言わんばかりに飾りつけられていた。たとえば、入口のドアの上には、昔の大八車の木製車輪やリム付きの古タイヤ、船の銅鑼かなにかだったと思われる金属円盤、外国車のナンバープレート、横文字入りの各種木札や紙札、願掛けの絵札といったような物などが見事なまでの無統一さで掛けたり貼ったりされていた。
  また、道路に面する壁や窓際には、板を切り抜いて作った乳牛や象や海鳥類の飾り物が置かれているかと思えば、それらとはまるで無関係なゴルフボールの模型や様々な巣箱が飾られていたりし、さらにそのまわりには、流木とおぼしき樹木の枝々が雑然と、それでいて、なんらかの秘められた意図を感じさせる配列で並べられてもいた。トーテムポールや鹿かなにかの動物の頭蓋骨、半ば壊れかかった古い長椅子などもその風変わりな装飾のかなめとして一役買っていた。  
  片隅に「流木売ります」と書かれた木の長札も掛かっていたから、あちこちの海岸に流れ着く流木類を拾い集め販売してもいるのだろう。おそらくは流木のほかにも様々な漂着物などを売っているに違いない。いずれにしろ、意表を突いた風変わりな装飾物が古い倉庫のドアや壁面と見事にマッチし、街並みともうまく調和しているのは、新旧、美醜、善悪のすべてを呑み込み同化してしまうこの古い港町小樽ならではのことであるように思われた。

  小樽の中心街からすこし離れたところにある小漁港祝津の集落を抜け、すこしばかり坂道を走ると日和山灯台下に出た。そこで車を降りてエゾカンゾウの咲く小道を登ると、灯台とそれに続く展望広場へと出た。明治十六年に点燈して以来この地の海を守り続けてきた日和山灯台はそう大きな感じの灯台ではないが、それでも三十五キロメートルほどの光達距離を有している。断崖上の展望所からは、折りからの朝日に煌く真っ青な海が見下ろせた。また、玄武岩層特有の柱状葉層の発達した断崖のあちこちにはウミネコの姿なども散見された。
  顔を上げ視線を遠くに転じると、神威岬と積丹岬で知られる積丹半島方面の大きくのびやかな山影が望まれた。北海道の海沿いの道はほぼ走り尽くしているのだが、神威岬から神恵内に抜ける積丹半島先端部の道路だけはまだ走ったことがない。道路工事そのものが難航、ようやくその部分が開通したのは近年のことだから、走ろうにも走りようがなかったのだ。そうこうするうちに、もし今回の旅の帰路にでも神威岬方面に立寄ることができれば、未走の部分を通り抜け、北海道沿海道路完全走破を成し遂げることができるのだがという思いが胸に募ってきた。。
  日和山灯台のすぐ下には、北海道指定の有形文化財「鰊御殿」なるものが建っていて、往時の鰊漁の繁栄ぶりを無言のうちに偲ばせてくれた。まだ時刻が早過ぎるので内部を見学することはできなかったけれども、民間の木造建築物としては異例ともいえる大きな建物だった。切妻造り風の大屋根中央の最上部には天窓がしつらえられており、洋風とも和風ともつかぬ伽藍調の庇や、脇玄関を支える象鼻等とともになんとも不思議な雰囲気を醸し出していた。
  玄関下に立っている解説板によると、この建物は積丹半島有数の網元だった田中福松という人物が、明治三十年頃、七年の歳月をかけて建造したものなのだという。昭和三十三年になって、北海道炭礦汽船株式会社がそれを買い取り、鰊千石場所として知られたこの祝津日和山に移築、小樽市に寄贈したのだという。その規模は間口十六間、奥行七間、建坪百八十五坪で、全盛期には約百二十人の関係者が寝泊りしていたのだそうで、用材としては、ヤチダモ、セン、トドマツなど、北海道産原木三千石(約五百四十トン)が使用されているらしい。
  小樽をあとにし、日本海沿いに北上を開始する直前、ふと思い立って、いまは東京で有能な情報処理関係の雑誌や書籍のライターになっている小樽出身のNさんに久々の電話をした。もうずいぶんと昔のことになるが、Nさんがまだ無名だった時代、たまたまその能力に着目した私は、ネットワーク関係の書籍の共著者に抜擢したことがあり、それ以来の付き合いだ。現在、彼女は、専門ソフトのソース・コードの作成や情報処理システムの構築から各種ソフトの優れた解説記事の執筆まで、幅広い業務をこなしている。コンピュータ関係の実践知識面においてはもはや私などが及ぶところではない。
  寝ぼけ半分で電話に出たNさんに、「いま小樽にいるよ、ちょっと前にフェリーで着いたばかりでね!」と告げると、「えっ、そんな!……なんでもうちょっと早く小樽に行くって言ってくれなかったんですか」と驚きの声を上げた。朝が早い実家の御両親はもう起きているはずだから、いまから電話して朝食でも御馳走させる、ついでに小樽の町も案内させるからと彼女は申し出てくれたのだが、それではあまりに申し訳ないので、その話は遠慮した。
「どうせ本田さんのことだから、これから道内を端々まで走りまわるつもりなんでしょ?。でも、そろそろお歳なんですから、いい加減に身のほどをわきまえないといけませんよ!。なんなら運転手でも務めにこれから北海道に飛びましょうか?」
  この身を案じてくれるNさんのそんな言葉は有り難かったが、彼女だってもうそこそこの年齢の女性である。しかも、超多忙な身でもあるようだから、「うん、じゃよろしく頼むね!」などと気軽に答える訳にもいかなかった。
「まあ、なるようになるさ、車に乗ったまま旅の露と消えるなら、それはそれで仕方がないよ。深山や海辺の断崖などを歩いていて突然クラッとくるようなら、それも運命と諦めるさ。もしそうなってもお焼香も香典もいらないからね。人生の中で変な奴と出遭った……、そんな想い出のひとつでも記憶の片隅に残しておいてくれればそれだけで十分さ!」
  ちょっと格好をつけすぎたかなとは思ったが、とりあえずそう言い残して電話を切った。空は晴れ渡っていて、降り注ぐ朝の陽光はどこまでも明るい。既に累積走行距離は十五万キロ近くになっているが、目下のところは愛車のエンジンの響きも軽快で、北海道の旅のスタートはそれなりに順調だといってよかった。

「マセマティック放浪記」
2001年7月25日

北旅心景・夕日街道北上

  道外からの旅人にはあまり馴染みのない、石狩海岸と石狩川河口域とを訪ねてみた。石狩海岸の石狩港付近はちょっとした工業地帯になっているが、そこをすこしばかり過ぎると車道沿いに広々とした原野が現れる。北海道ならどこにでもある光景で、もちろんガイドブックなどでことさら紹介されているわけでもないが、花々の咲き誇るこの季節の景観だけは一見に値する。
  爽やかな初夏の風の吹き抜ける一帯の野原は、命輝く時節とあって見渡すかぎり花盛りだった。野を一面に覆うエゾタンポポの鮮やかな黄色が目に染みる。その輝くような黄色い花の絨毯にちょっとアクセントをつける感じで点在しているのは、赤紫のハマナスの花だ。タンポポの黄色やハマナスの赤紫に圧倒されてあまり目立たないが、淡いピンクのハマヒルガオやハマエンドウの紫の小さな花などもはっとするほどに美しい。上空では何羽ものヒバリが、陽光に酔いしれるかのように、声高らかに舞い囀っていた。
  石狩川河口の流路は海岸線に対し直角にはなっていない。石狩川は河口付近で海岸線にほぼ平行な角度に向きを変え、そのまま日本海へと流れ込んでいるのだ。したがって、河口流路左岸と海とに挟まれた陸部は低い丘陵をなして砂嘴状に細長く伸び出ている。気の向くままにアクセルを踏み続けていると、車はいつしかその砂嘴状地形の上に出た。車を駐めて海側におりてみると、黒っぽい色の砂浜が遠くどこまでも続いていた。石狩浜と呼ばれるこの一帯の海辺は、銭函海岸ともども北海道では数少ない海水浴場として知られている。
  まだ海水浴シーズンには早いその広い砂浜の真中に、ただ一組だけ、シートを敷きそれに寝そべって肌を焼く一群の人影が見うけられた。札幌からやってきたという若くて愛らしい三人の女の子たちで、砂浜を駈けめぐるペットの子犬ともども、ちょっとした絵になっていた。もちろん、彼女らが海中に入った様子などなかったから、その静かな浜辺での日光浴だけを楽しむつもりでやって来たのだろう。
  彼女たちとちょっとだけジョークまじりの会話を交わしてから車に戻り、五分ほど走ると、石狩灯台周辺に広がる「はまなすの丘」に出た。この地を訪ねたのは初めてだったが、「はまなすの丘」と称されるだけのことはあって、よく整備された木道を歩きはじめた途端に、原野一面に咲き乱れるハマナスの花が、これでもかと言わんばかりに己の存在を訴えかけてきた。青い空から一直線に降り注ぐ陽光を浴びて、いまを盛りと真紅の花びらが眩いばかりに輝いている。そして、そのハマナスの紅に競い挑むかのように、あちこちに群生するエゾタンポポの花々が金色とまがうばかりに眩い光を放っていた。季節の主役を我がものにせんと存在を誇示し合うそれら二つの花々の間にあって、ハマヒルガオやハマエンドウ、その他の花々などはいささか困惑気味な表情を見せていた。
  河口流域で石狩川が大きく蛇行しているということは、地理の知識としてなら昔からよく知ってはいたのだが、実際にその様子を目にするのは初めてのことだった。はまなすの丘の木道をすこしはずれ、群生するグミの枝々を掻き分け進むと石狩川の水辺に立つことができた。河口から逆流する海水の影響もあってか、ほとんど水は動いていない。川の水を指先につけて舐めてみると、こころもちショッパイ味がした。しばしその場に足を留め、鏡のように滑らかな川面の向こうに広がる風景に見とれるうちに、いつしか体内時計の秒針が静止し、やがて逆方向へと回りはじめる感じがした。
  駐車場そばのヴィジターセンターの売店では、ハマナスのソフトクリームなるものを売っていた。どうやら、ハマナスの花の色素と薫りを混入したソフトクリームであるらしい。「ここでしか食べられませんよ」というお店の人の言葉に乗せられ、二百五十円の代金を払って試食してみたが、まあまあの味ではあった。

  いったん国道二三一号に戻り、大きくうねる石狩川を眼下におさめながら石狩河口橋を渡ると、ほどなく厚田村に入った。美しい緑に彩られた原野と牧場地帯とがどこまでも続き、そのなかを縫い貫くようにして車道がのびている。信号がないし通行車輛も少ないから、その気になれば高速道路並みのスピードだって出せる。嶺泊という小集落を過ぎたあたりで急に眠気を催したので、左手に広がる海岸段丘上の草原に車を駐め、青く輝く日本海と行く手の山並みを眺めながらしばし午睡をとることにした。ちょうど正午前のことだったから、文字通りの午睡だった。
  大きく跳ね上げた後部ドアから吹き込む爽やかな大気と、窓越しに差し込む陽光とがほどよくミックスし、フラットにしたリアシートいっぱいに横たわるこの身を心地よく包んでくれた。明日のために眠るのではなく、この一瞬一瞬のためにのみ眠っている、換言すれば、時間の脅迫から逃れ、ただ眠るためだけに眠っている――そんな満ち足りた思いにひたりながら、私は深い眠りに落ちたのだった。豪華なホテルの一室や誰もが認める風光明媚な観光スポットとはおよそ無縁な、見方によってはなんの変哲もない風景と環境のもとで真の安らぎを得ることができるというのは、いつものことながら不思議な話ではあった。たぶん、それは、無意識のうちに自らを縛る時間の鎖が一時的に切断されることによって生じる特異な現象なのだろう。
  三時間ほど熟睡したあと、私は再び夕日街道を北上しはじめた。石狩町から浜益村を経て留萌市に至り、さらに、留萌から羽幌町、天塩町を経て稚内へと続く日本海沿いの一連の道路は、部分的には、石狩国道、増毛国道、天売国道などと呼ばれるが、それらの国道から眺める夕日の美しさのゆえに、夕日街道と総称されたりすることもある。そのうち、羽幌町から天塩町を経て稚内に至る部分は、かつて一帯に棲息していたオロロン鳥にちなんでオロロンラインなどとも呼ばれたりしていたようだ。
  厚田村の中心街を過ぎ浜益村へと向かう途中で、車は垂直にそそりたつ豪壮な断崖地帯を縫い走る海岸道路へと差し掛かった。鋭く切り立つ断崖の足下を大小幾つものトンネルが切れぎれに、しかし、果てることなく続いている。ところどころに設けられた小展望所やトンネルの切れ目から見え隠れする風景は、鋭く切り立つ岩と青潮の寄せる海とのコントラストが絶妙で、絶景と呼ぶにふさわしいものだった。
  ゴキブリと間違いそうな濃昼(ごきびる)という変わった地名の場所を過ぎ、国道から分岐して逆毛という小集落をまわる道に入り、海食崖の続く愛冠海岸を見下ろす峠を越えると、千本ナラと呼ばれる天然記念物の樹木のある地点に出た。千本ナラとは根元に近い幹の部分から枝先の部分まで、いたるところが異常なほどに枝分かれしたミズナラの巨木で、一帯を圧するその枝ぶりはなんとも異様な感じだった。付近には同様の巨木が三、四本立ち並んでいて、それらの幹にはいろいろと願い事を書いたシャモジが多数結わえ付けられていた。地元では一種の御神木として祀られているのであろう。
  再び国道二三一号に合流、浜益村の中心集落を過ぎると、車はまた険しい海食崖沿いの道に入り、ほどなく雄冬岬に到着した。標高一四九一メートルの主峰暑寒別岳から浜益岳、雄冬山を経て西にのびる稜線は、この雄冬岬付近でいっきに日本海へと落ち込んでいる。厚田から浜益、増毛を経て留萌に至る国道一帯が豪壮このうえない海岸美に恵まれているのは、そのような地形上の理由からである。
  雄冬岬をすこし北側にまわったところには雄冬岬展望台が設けられていた。急斜面を上がりきったところにある駐車場から、さらに徒歩で急峻な歩道を登りつめたところにその展望台は建っていた。四面総ガラス張り、二層のなかなか立派な造りになっていて、眼下には広大な日本海とその沿岸地帯を、背後には荒々しい岩峰の屏風状に連なる暑寒別の山並みを望むことができた。ここから日本海に沈む夕日を眺めたらさぞかし素晴らしいことだろうとは思ったが、あいにく日没まではまだ三時間ほどもあったので、夕日見物は断念した。雄冬岬という地名からも想像されるとおり、このあたりの真冬の荒涼とした夕景には、夏のそれとは違って凄絶なまでの迫力があるに違いない。
  増毛町を過ぎ留萌市に入ったのは午後五時半頃だった。留萌市街をいっきに走り抜け国道二三二号に入った私は、アクセルを一段と強く踏み込んだ。昔に較べると、道路はすべての点で信じられないほどによくなっている。道幅も広く舗装も完璧なため、一般国道であるにもかかわらず、大型トラックなどが時速百キロ前後のスピードで爆走していたからである。
  次第に西の海に向かって傾く太陽を横目に見ながら快適なドライブを続けるうちに、小平町鬼鹿の道の駅「鰊番屋」に到着した。鰊の豊漁にわいた往時の大きな鰊番屋の建物が歴史文化財として保存されていて、内部は民俗資料館になっているようだったが、開館時刻を過ぎていたため中に入ることはできなかった。海沿いの広場からの眺望はなかなかに素晴らしかった。左手はるか後方では、暑寒別岳から雄冬岬へと続く峰々が、折りからの夕日に映えて神々しいばかりの輝いていた。右手の海上には徐々に水平線に近づく夕日を背に黒く低く浮かぶ細長い二つの島影が望まれた。むろん、それらは、天売島と焼尻島の島影に相違なかった。
  広場の一角には、六回に及ぶ蝦夷地探検で知られる松浦武四郎の銅像が立っていた。アイヌ民族のよき理解者であり、北海道という地名の名づけの親でもあったと伝えられる武四郎も、この北辺の海辺にあって、ひとり美しい夕日を眺めながら、その苦難の旅路と己の生の不思議さに想いを馳せていたのだろう。
  夕波のひた寄せる渚を歩きながらしばらく時間を潰していたのだが、皮肉なものでなかなか太陽が沈んでくれない。仕方がないので苫前町方面に向かってのんびりと走り出した。苫前市街に入る前に、海岸伝いのこの国道のどこかで日没を拝めるだろうという計算だった。意外なことに、小平町から苫前町に入った途端に風力発電用の巨大な風車が次々と姿を見せはじめた。相当な数の風車が立ち並び、海風をうけてゆっくりと回転している。
  ユーモラスだがどこか人を小馬鹿にしたようなその動きを見ているうちに、車がウマかロバで自分がほかならぬドンキホーテその人でもあるかのような錯覚に襲われた。あとで地元の人に聞いてわかったのだが、苫前町は風力発電日本一として知られる町で、町内には四十基を超える発電用風車があるらしい。クリーンエネルギー確保の必要性が叫ばれる昨今にあって、ひとつのモデルケースというわけなのだろう。それはそれで結構なことなのだが、もしも、将来、日本の海岸線のいたるところにこの種の風車が立ち並ぶということになると、問題は別だと言わざるをえない。
  一片の雲の影さえもない水平線上に太陽が大きく近づいたのは、苫前市街のすこし手前に差し掛かったときだった。すぐに私は車を路肩に駐め、夕凪に静まる砂地の浜辺に降り立った。そして、天売島のすこし左手の海中に没んでゆく真っ赤な夕日にひとりじっと見入りながら、世の中ために何一つ役立つことなどしてこなかった己の人生を振り返った。もっとも、だからといって、余生を世の人々のために献げ尽くそうなどという殊勝な決意をする気にもなれなかった。午後七時二十分、夏至からまだまる一日しかたっていない真紅の太陽が、この愚かな身に最後の光を投げかけでもするかのようにして海中へと姿を消した。
  苫前市街に入ってまもなく、「苫前ふわっと」という公営の温泉施設らしい建物が目にとまったので、さっそくそこに飛び込み、一日の汗を流すことにした。泉質は鉄分の多い弱塩泉だったが、ここの露天風呂からの眺めは望外のものだった。正面はるかなところには、一目でそれとわかる利尻島の島影が、黄昏の空を背にぽっかりと浮かんで見えた。また、右手前方の海上には、天売と焼尻の両島が仲良く並んでその存在を誇示していた。たまたま一緒に湯につかっていた地元の老人の話によると、この露天風呂からは、天売島と焼尻島との間に沈んでいく荘厳な夕日が眺められることもあるらしい。
「苫前ふわっと」の「ふわっと」という言葉の意味が私にはいまひとつよく理解できなかったが、ふわっとした気分でその温泉施設をあとにできたのは幸いだった。車に戻って一通り携行品の整理を終えた私は、野営に適した場所を求めておもむろにアクセルを踏み込んだ。北の夜空を高く舞う北斗の星影がひときわ印象的だった。

「マセマティック放浪記」
2001年8月1日

北旅心景・天売島へ

  天売、焼尻両島へのフェリーが出ている羽幌港に着いたのは午前八時十五分頃だった。実を言うと、フェリーの出入港時刻や両島についての諸々の情報が知りたくて羽幌港にやってきただけで、そのまますぐにフェリーに乗り込もうとは思っていなかった。ところが、たまたまフェリー便の詳細を尋ねた乗船受付窓口の係員に、十五分後に出港するフェリー乗って天売島か焼尻島のどちらかに渡り、島を一周してから羽幌港に戻る日帰りコースはどうかと勧められたのである。そのフェリー便をはずすと、必然的に島に一泊せざるをえなくなるとのことだった。
  天売、焼尻の両島はまだ訪ねたことのない島々だったから、当然、その勧誘の言葉に心が動いた。よーし、じゃ、とにかく、行くだけ行ってみるか!――にわかにそう決断した私は、大急ぎで車に戻ると、取材ノートをはじめとする必要最小限の携行品をナップサックに詰め込んだ。そして、大慌てで天売島行きの乗船券を買い求め、離岸寸前のフェリーに駈け込んだのだった。海鳥の繁殖地として有名なところらしいということ以外には何の予備知識も持たないままの天売島行きではあった。
  この日は晴天だったが、強い西風が吹き、海はかなり荒れていた。もちろん、フェェリーはひどく揺れたが、鹿児島の離島育ちでもともと船旅に強い私は、ときおり激しく海水の降りかかるデッキに立って、久々に味わうピッチングやローリングのリズムを懐かしんでいた。天売島までは、 手前の焼尻島経由でおよそ一時間半ほどの航海だった。
  激しく高巻きうねる濃紺の海水を眺めているうちに、突然、私は不思議な感動に襲われた。いくぶん黒っぽさに欠ける感じではあったが、沖の海水の色が、故郷の甑島沿岸を北上する暖流の色と似かよっていたからである。よくよく考えてみるとそれも当然のことだった。九州南方海域で黒潮本流から分岐した対馬海流は、甑島の浮かぶ東シナ海を北上、対馬海峡周辺を通過して日本海に入り、東北地方の沖を経て、はるばるこの北海道の北西部沖まで到達しているはずなのだ。とくに夏場には海流の勢いが強いから、天売、焼尻の両島はむろん、より北に位置する利尻島や礼文島にまでその流れは及んでいると思われる。
  風に煽られ激しく舷側に打ちつける潮の飛沫を浴びながら、大きくうねる海面を見つめていると、あちこちに点々と浮かぶ黒く小さな海鳥の影が目にとまった。おりからの強風と荒波をものともせず、水中に潜ったり、小刻みに羽ばたきながら海面をすれすれに飛び交ったりしている。ウミウかと思ったが、それにしてはちょと体型が小ぶりな感じだった。あとでわかったことなのだが、どうやらそれらはウトウかウミスズメの群であったらしいのだ。 
  それらの海鳥たちのけなげな姿を眺めているうちに、それぞれの厳しい環境に適応して生きるこの地球上の命というもの不思議さといとおしさにあらためて想いが及んだ。荒海をものともしないこの海鳥たちだって、厳冬期を生きぬくのは容易ではないだろう。陸上の生き物たちがやがては土へと還っていくように、一生を終えた海鳥たちのほとんどは海へと還っていくに違いない。地上で息絶えるものもあるのだろうが、大多数の海鳥たちは海中に没していくのだろう。ある日ついに海上で力尽き、だた一羽さびしく波間に末期の姿をゆだねるであろう海鳥の運命を想うとき、懸命にいまを生き抜くその有様がいっそうけなげに、しかし切なく感じられるのだった。
  フェリーはほぼ予定時刻通りに天売港に接岸した。下船してすぐ、近くのレンタ・サイクル店で自転車を借りた私は、全周十二キロの周遊路を時計回りに走り出した。だが、これでもかと言わんばかりに猛烈な向かい風が吹きつけてくるため、懸命にペダルをこいでも自転車はなかなか進んでくれなかった。おまけに強い陽射が容赦なく地上に降り注いでいたから、出発点からほどないところにある長い坂道を上りきるだけで汗びっしょりになってしまった。
  坂道を上がり終えてまもないところには、なんとなくモンゴルのパオを連想させる造りの建物が立っていた。道路脇の案内表示板に「海の宇宙館」と表記されているところからすると、羽幌港で乗船直前にもらってきた観光パンフレットの中に紹介されている天売島海鳥情報センターであるらしかった。一瞬休館かと思いかけたが、よく見ると入口の重くて頑丈そうな扉がわずかだけ開いている。自然条件の厳しい北辺の離島のことだから、風雪の激しい時などを考慮してそのような構造になっていたのかもしれない。
  そっと扉を押し開けて中に入ると、外観からうけるこぢんまりとした感じとは違って、内部は予想外に広かった。数学的に考えると周長が一定の平面図形の中では円の面積が最大なのだから、壁面が円形の建物の内部が広いのは当然である。だが、外側から眺めた場合、視点から円筒形の壁面に引いた二本の接線にはさまれる部分しか見えないことになるし、奥行きも認識しにくいから、どうしても実際より小さく思われるのであろう。
  たまたまそうだったのだろうが、館内には女性係員が一人いるだけで他に人影は見当たらなかった。入館料三百円を払いながら、いま天売島に着いたばかりで、これから自転車で島内を一周するところだと告げると、若くて感じのいい大塚さんというその係員は、「今晩は島内にお泊まりですよね。でしたら、この海の宇宙館にはこの入場券で何度でもはいれますから……、それに……」と言葉をつなぎかけた。それをあえて遮りでもするかのように、「いや、今回は行き当たりばったりでやって来たんで、一応、日帰りのつもりなんです」と伝えると、彼女はいかにも残念そうな表情を見せた。
  その理由はすぐにわかった。類まれな海鳥の繁殖地として知られる天売島は、島全体が特別天然記念物に指定されている。そして、その天売島において、最大かつ最高の見物とも言うべきウトウ帰巣の一大ページェントが繰り広げられるのは、ちょうどこの時期だというのである。繁殖期には数十万羽にのぼるといわれるウトウの大群が、オオナゴやイカナゴなどを十匹も二十匹も口にくわえたまま、日没直後の黄昏の空を背景に、海上から巣穴めがけて一斉に帰還する。その光景は壮観の一語に尽きるというのだった。
  自然界の生存競争は常に厳しい。ウトウがヒナのためにくわえて戻るそれらの獲物を横取りしようと、巣穴近くにはウミネコの群が待ち構えている。せっかく持ち帰った獲物のほとんどを巣穴に入る直前に奪い盗られてしまうウトウも少なくないらしい。営巣期には、そんなウミネコの群とウトウの群との熾烈な攻防戦が、毎夕繰り返されるのだという。六月はそんな海鳥たちの様子を観察するのに絶好の時期なので、その感動的な光景を見ないで帰るなんてもったいないというのが大塚さんの暗に言わんとしたところだったのだ。
  もちろん、私の心は大きく揺らいだ。ただ、その必見のドラマを見物するには一晩島内に宿泊しなければならなかった。こんなことなら、ノートパソコンを持ってくるのだったと後悔したが、むろんあとの祭りだった。旅先から書き送らねばならない原稿の絞め切りが翌朝に迫っていたからである。それでも、なんとかもっともらしい口実をつくって編集部に泣きついてみようかとは考えた。そして、一応は、これならという送稿遅延の理由をひねくり出してはみたのである。
  だが、泥縄式の対応策をそこまで考え出したところで、私は決定的な誤算があるのに気がついた。日帰りのつもりで慌ててフェリーに飛び乗ったため、必要最小限のお金しか持参していなかったのだ。帰りのフェリー代を差し引くと、どう計算しても宿泊代が足らない。非常時に使うVISAカードも車の中に置いてきてしまっていたから、万事休すというわけだった。かくして、無情にもウトウ帰還の一大ページェント見物は夢とついえ去ってしまったのだった。
「土曜日なので宿は混んでいるかもしれませんが、お一人くらいなら電話すればどうにかなるとは思いますけれど……」という大塚さんの親切な言葉に、「とりあえず、島内を一周してみてからどうするか考えてみます」と答えはしたものの、自分の意思に関わりなく、すでに結論が出てしまっていたようなわけだった。まさか、「宿泊費が足りませんので貸してください」などと言い出すわけにもいかなかったから……。
  それにしても、人間、妙なところで妙なことを想い出すものである。なんとその時、突然に、徒然草の中の、「少しの事にも先達(せんだち)はあらまほしき事なり」という一文が脳裏に浮かんできたのだった。長年の宿望を果たすべく石清水八幡宮詣でに出かけた仁和寺の法師が、案内不足のゆえに、極楽寺や高良神社などを本殿と思い込み、肝心の山上の本宮を参詣せずに帰ってきてしまったという逸話の最後にある、あの有名な教訓の言葉である。私の場合は少々事情が異なり、一応は先達を得ることはできたのだが、どうにもそれが遅すぎたというわけだった。
  だが、懲りない私は、そこで屁理屈をつけ、いささか落胆しかけたおのれの心をいま一度奮い立たせることにした。そして、ともすると意気消沈しがちなそんな努力の中で、都合よく想いついたのが、風姿花伝ゆかりの「秘すれば花」という言葉だった。言葉遊びもいいところではあったが、その時は結構真剣だった。
  芸能者が高名になり、観客の期待感が大きくなり過ぎると、どんなに素晴らしい舞台を演じても「花」、すなわち、演者の発する心身の輝きが観客に与える感動は薄れる。むしろ、まだ人々にあまり知られていない役者が、観客の想像もしなかったような最高の舞台を演じきったときこそ、役者の「花」、すなわちその存在感と技芸の凄みと華麗さは極みに達し、観客のうける感動も至上のものとなる――私個人の甚だ勝手な解釈で申し訳ないが、世阿弥は花伝書の中で「秘すれば花」の精神をそんな風に語っているようにみえる。
  情報不足のまま、過度の期待を抱くこともなくこの旅の舞台にやってきた観客の私は、この際、その「秘すれば花」の精神にあやかって、自分が予想もしていなかったような「花」を秘めているかもしれない天売島という未知の役者の演技を眺めてみようと、あらためて思い立ったのだ。そして、まずはこの「海の宇宙館」からと、その展示物を一通り順に見学してみることにした。午後二時四十五分発の羽幌行きフェリーの最終便までには四時間ほどある。その時間を計算に入れながらの島巡りのはじまりだった。

「マセマティック放浪記」
2001年8月8日

北旅心景・海の宇宙館

  海の宇宙館には、天売島の自然に関する数々のすぐれた資料類が展示されているほか、充実した内容の情報コーナーなども設けられていた。時間に追われながらの館内見学において、まっさきに私が目を奪われたのは、風変わりな数個のウミガラスの卵だった。表面全体にまだら模様のある薄緑色の卵で、長径は8〜9センチ、短径は5〜6センチくらいで、鶏の卵よりもひとまわり大きな感じだった。だが、なによりも奇妙なのはその卵の形だった。なんと、西洋梨をより細長くひきのばし、くびれをなくしてしまったような形をしているのである。長い長い時間にわたる突然変異と自然淘汰の繰り返しの結果、環境に適応した形のものが残ったと説明されればそれまでだが、超常的な意志の介在さえも想像させるその造形の妙に、私はひたすら感嘆するばかりであった。
  オロロン鳥という愛称で知られるウミガラスは、北のペンギンとも呼ばれている。なるほど、展示されているその写真やビデオ映像、さらにまた精巧なデコイ(擬似鳥)などを見てみると、姿形といい黒白の羽毛の組み合わせといい、小型のペンギンそっくりだった。体長は四十センチ余、翼長は二十センチ余であるらしい。ウミガラスは陸上ではペンギン同様直立してよちよちと歩き、飛翔時は小刻みかつ連続的に羽ばたきながら海面近くを直線的に飛ぶのだという。空中を飛べるところがペンギンとは違っている。もちろん、水中では見事としかいいようのない泳ぎっぷりなのだそうだ。
  このオロロン鳥、すなわちウミガラスは、営巣せず、断崖の岩棚や岩の窪み、岩の裂け目などに一個の卵を直接に産み落とすらしい。孵化するまでに何かの拍子で卵が転がったりしたとしても、西洋梨に似た形をしていれば、円弧を描いて動くので、そのぶん岩棚から転がり落ちる可能性は少なくなる。なんとも見事な環境への適応ぶりというほかはない。
  係員の大塚さんに伺ったところでは、1938年頃には天売島だけで40000羽生息していたウミガラスは1983年には8000羽に減少、1995年の調査時における確認個体数は20羽前後にまで激減したという。現在では国内の繁殖地はこの天売島の兜岩付近に限られており、絶滅危惧種として有志の人々を中心に懸命の保護対策がとられてはいるが、前途は楽観できない状況であるらしい。1960年代から1970年代にかけて天売島周辺で盛んだったサケ・マスの流し網や、オオナゴ漁などの刺し網にかかり、おびただしい数のウミガラスが犠牲になったのが、固体激減の主因だったと考えられているようだ。ウミガラスは水中で両翼を羽ばたかせながら横方向にも魚を追尾する習性があるため、海鳥のなかでももっとも魚網にかかりやすいのだそうだ。
  一般に生物というものは、生息数が一定数を下回るとその個体数が急速に減少する性質をもつ。それにくわえ、その後数を増した天敵のオオセグロカモメやハシブトガラスなどにとって、大幅に群が縮小し集団防衛能力の落ちたウミガラス・コロニーを狙い、卵や雛を捕食するのが容易になったことなども、個体急減の一因となったようである。
  近年ではよほど条件に恵まれないかぎり直接に見聞することの難しくなったウミガラスの姿や鳴き声を、海の宇宙館では、コンピュータによるデジタル再生画像や再生音声として、来館者に公開している。オロロン鳥というから、その鳴き声には「オロロン、オロロン……」という、どこか物悲しげな響きが秘めているのかと思ったが、実際に聴いてみると、ちょっとしゃがれた感じでゴロゴロと咽を震わながら発せられる「オロロロロロロ……」というかなり力強い響きの声だった。ガラガラガラガラと人がうがいをしている時の音のようにも聞こえなくもない。
  ウミガラスの卵は30〜33日の抱卵期を経て孵化するらしい。誕生した雛は一ヶ月弱で巣立ち(岩棚立ち??)の時を迎えるが、まだ飛ぶことができないため、日没後に岩棚からまるで落下でもするかのように飛び降りるのだという。ただ、落下地点が岩場や石原の上であっても降下のショックで負傷するようなことはないのだそうだ。下降後、雛はすぐに海に出、雄の親鳥から二ヶ月間ほど潜水行動や捕食行動を教わり、そのあと成鳥としてひとり立ちするとのことだから、ウミガラスの雄は相当な教育パパということになる。天売島では産卵は六月におこなわれ、雛は八月半ばまでに巣立ちを終える。
  サハリンのチュレニー島や千島列島などには、皇帝ペンギンのコロニーそっくりの様相を呈する大規模なウミガラスの繁殖地がいまもなお存在し、冬場にはその一帯から日本近海まで大挙して南下するそうだから、ウミガラスが世界的に絶滅の危機に瀕しているわけではない。だが、たとえそうだとしても、かつて国内の一大繁殖地であったこの地での確認個体数が20羽前後に激減してしまったというのはさびしいかぎりだと言わざるをえない。

  館内には海鳥や野の草花の写真をはじめとする、天売島の四季の自然を活写した数々の写真が展示されていた。撮影者の鋭く豊かな感性と自然への深い造詣を偲ばせるそれらの素晴らしい写真群は、海の宇宙館の運営母体、ネイチャーライヴの代表を務める寺沢孝毅さんの作品だった。寺沢さんには、「ウミネコ」、「オロロン鳥の島」(偕成社)、「北千島の自然誌」(丸善)、「北海道 島の野鳥」、「空と大地の声」(北海道新聞社)などの著作がある。私も写真集「空と大地の声」を一冊購入して帰ったが、なんとも詩情豊かな作品集で、心洗われることこのうえない思いだった。
  著書に記されたプロフィールによると、1960年に北海道士別市で生まれた寺沢さんは1992年北海道教育大学を卒業すると、天売島の小学校に赴任した。天売の自然に魅せられた寺沢さんは教員生活のかたわら島の四季の写真を撮り続け、1991年、銀座キャノンサロンで写真展「海鳥の島」を開催、大好評を博した。それが転機となり、翌1992年には10年間にわたって勤め上げた教職を辞し、フリーの写真家として独立した。
  北海道青少年科学文化振興賞などを受賞した寺沢さんの活動は、単なる写真家としての範囲にとどまることはなかったようである。日本野鳥の会会員、日本鳥学会会員となった寺沢さんは、天売島の総合的な自然保護、さらには自然観察と自然学習の普及促進、国内外への広報活動など一貫しておこなうため、1999年、この天売島海鳥情報センター「海の宇宙館(TEL&FAX 01648-3-9009)」をオープンさせた。
  天売島の自然情報を満載した独自のパンフレットを作成したり、天売島海鳥保護対策委員会発行の機関紙「海鳥保護」の編集と発行に奔走したり、自然観察や自然探索の学習会や写真撮影などの島内ツアーを企画運営したり、島外への情報発信や協力要請のための基点になったりと、海の宇宙館の存在はいまや天売島にとって欠かせないものとなっている。インターネット上の天売島紹介のホームページ(http://www.teuri.jp)も寺沢さんをはじめとする海の宇宙館の運営母体、ネイチャーライヴに関係するスタッフによって管理運営されているようだ。寺沢さん撮影の写真ギャラリーもあるし、天売島の各種情報コーナーやネイチャーボランティア募集のコーナーなども設けられているから、関心のある人はアクセスしてみるとよいだろう。
  島内には、他に天売島国設鳥獣保護区管理棟なる施設があり、こちらにも海鳥の写真や剥製、生態のビデオなどが用意されてはいるみたいだが、国設をうたうわりにはその機能と提供情報の充実度はいまひとつの感じらしい。この施設についても、諸々の管理運営面で海の宇宙館のスタッフがなにかと協力をしているようだった。
  話は前後するが、東京に戻ってから、いくつか確認しておきたいたいことなどがあったので海の宇宙館に電話をした。そのときたまたまその電話に応対してくださったのが寺沢さん御本人だったが、その穏やかで謙虚な声の響きの奥には、人一倍強靭な意志が秘められている感じがした。
  寺沢さんが代表を務めるネイチャーライヴは有限会社になっているから、その運営下にある海の宇宙館はかたちとしては民間経営の施設ということになる。どう考えてみても営利目的で設立された施設ではなさそうだから、その維持管理に要する人的労力やコストだけでもそれなりに大変なことだろう。そう思った私は、海の宇宙館設立の意図と経緯を率直に寺沢さんに尋ねてみた。
  天売島の総合的な自然保護と四季に応じた自然情報の収集伝達をはかるには、現地に機能性の高い公的な情報センターを設けることが不可欠だと、寺沢さんは考えた。そして行政当局をはじめとする諸々の関係者にその必要性を訴え続けてはみたものの、なかなかその構想は実現しなかった。そこでやむなく、寺沢さんら有志は、自力でそのような情報センターを設立しようと決断したのだった。
  当然、そのためには資金の調達が必要となるが、金融制度上の問題もあって、個人相手には資金を融資してもらえない。そのため、寺沢さんは自らその代表となって有限会社ネーチャーライヴを設立したうえで資金を借り入れ、1999年、ようやく天売島海鳥情報センター、海の宇宙館の開設に漕ぎつけた。「この先まだまだ借金を返済し続けてていかなければなりません」という寺沢さんの言葉は、はからずもこの国の文化行政の貧困さを物語っているように思われてならなかった。
  目下大きな問題になっている道路特定財源の恩恵もあって、北海道の道路事情は近年驚くほどによくなった。奥深い山間部にいたるまで縦横に立派な舗装道路が通じており、幹線をはずれるとダートの悪路だらけだった昔の姿が信じられないくらいである。それでもなお、もっと道路の建設をという地元自治体の声は絶えないようだ。もちろん、道路建設の必要性をすべて否定する気はないのだが、長年にわたって国内を隅々まで旅してきた私などは、どう考えても不必要に見える道路や過剰整備とも思われる立派な道路がほとんど利用されないまま、全国いたるところに存在しているのを目にしてもきた。
  現行制度では道路の建設建設と関係施設の整備のみに使用が限定されている道路特定財源のほんの一部でも地方の文化行政に転用することができれば、寺沢さんのような方々が余分な苦労をしなくてもすむだろうにという思いもした。もちろん、道路の建設は経済的な波及効果を生み出し地域の活性化につながるが、海鳥ごときのために資金を投入しても経済効果は得られない、などという反論も起こるだろう。だが、既得権益擁護の狙いを秘めたその種の主張のほとんどは自己欺瞞に満ちている。
  日本以外の先進国の多くが、自然保護、さらにはそれに付随する文化施設の建設維持、人的資源の確保と育成に多大の国費を投入し、豊かな自然と伝統文化の残る地域にそれなりの活性化をもたらしていることを思えば、その種の反論に無理があることは自明だろう。どんな対象に資金を投入していくにしろ、要はその資金が確実に地元の人々の手にいきわたり、結果としてその地域の活性化につながる工夫がなされればよいだけのことである。道路建設を主体とする建設業を通してだけしか地元には資金を落とす方法がないとする従来の考え方を、この際我々は大きく改めていく必要があるだろう。
 
  島巡りのために必要な時間を気にしながらも、私は海の宇宙館の展示資料やビデオ映像を存分に楽しんだ。ウミガラス同様に近年その個体数の減少が危惧されているケイマフリの映像も実に興味深いものだった。Spectacled Guillemot(眼鏡をかけたウミガラスの意味)という英名からも想像できるように、なぜかケイマフリは両目のまわりと嘴の付け根あたりだけが白い色をしていて、まるで白い大きな眼鏡をかけているようにもみえるのだ。その姿はなんともユーモラスで愛嬌に満ちている。全体的にはハトをもうひとまわり大きくしたような体型をしていて、夏羽の場合、目のまわりと嘴の付け根、それに翼のごく一部をのぞいては黒い羽毛に覆われている。
  ケイマフリのもうひとつの特徴は、見るからに鮮やかなその赤い色の足である。ケイマフリという和名の語源は、「赤い足」を意味する「ケマフレ」というアイヌ語なのだそうだが、なるほどという感じであった。解説資料によると、口の中も赤い色をしているらしい。北海道周辺の島々の断崖が主な繁殖地で、天売島はその代表的な営巣地になっている。1963年頃までは繁殖期になると3000羽ほどのケイマフリが観察されていたが、1972年には400羽前後にその数が激減し、その後も減少の傾向にあるようだ。この鳥は、五月頃、断崖の岩の裂け目や岩と岩の隙間に二個の卵を産みつけるが、七月に巣立っていく雛は通常一羽だけなのだという。
  ケイマフリが獲物を追いかけ水中を泳ぐ姿をビデオで見たが、両翼を広げ大きく羽ばたきながら進む様子は、まさに水中飛翔という表現がぴったりであった。驚いたことに、空中を飛ぶ時の鳥の姿とほとんど変わりがないのである。その不思議な光景にすくなからぬ感動を覚えながら、私はひたすら目の前のビデオ映像に見入ったのだった。そして、その撮影をおこなった水中カメラマンのカメラワークにも敬意を表したい気分になった。
  寺沢さん撮影の展示写真や、コンピュータのデジタル動画で見たウトウの帰巣風景も素晴らしかった。思わぬ誤算がもとになってウトウ帰巣の光景を見学する絶好のチャンスを無にすることが決定的になっていたので、そのぶんいっそう印象的だったのだろう。水平線の向こうにいましも沈まんとする夕陽と茜色の夕焼け空を背に、無数の黒点となって一斉に帰巣する何千羽、何万羽ものウトウの大群、嘴一杯に数えきれないほどのイカナゴをくわえて断崖上部の斜面に続々と着地し、ちょっと頼りない足取りながらも懸命に雛の待つ巣穴へ向かうそのけなげな姿、そのいっぽうでそんなウトウの帰還を待ち伏せ獲物を奪い取ろうとするウミネコの群――いまどきこんな命のドラマを直接見ることができるのは、国内広しといえどもこの天売島だけに違いない。
  世界最大のウトウの繁殖地である天売島では、六月のこの時期、数十万羽ものウトウの群が見られるらしい。ケイマフリ以上に水中飛翔の得意なウトウは繁殖期をのぞいては陸にあがることはなく、その一生のほとんどを海上で過ごすのだという。かれらは海に面する断崖上の斜面草地に奥行き二メートルに近い穴を掘って営巣する。天売島の繁殖地では、十メートル四方の斜面に平均二百個前後の巣穴があるのだそうで、入口の異なる巣穴どうしが奥で繋がったりもしているとのことである。
  繁殖期でもウトウは日中海上で過ごすため、日没後の帰巣時をのぞいては陸上でその姿を見かけることはほとんどない。四月中旬頃、巣穴の奥に一個だけ産み落とされた卵は、五月中旬から孵化しはじめる。雛が孵ると親鳥は一日に一度だけ日没後に沢山の魚をくわえて巣に戻り、空腹の雛に給餌するのだという。帰巣途中でウミネコに餌を奪われたウトウの雛は、翌日の夕暮れ時まで絶食を余儀なくされるのだろうか。もしかしたら、前日の食べ残しなどがあったりするのかもしれないが、そのへんのことは資料では確認することはできなかった。
  付け焼刃的学習ではあったが、海の宇宙館で天売島の自然環境と海鳥の生態についておおまかなところを学んだ私は、再びレンタ・サイクルに跨ると、島の西南端にある赤岩展望台目指して懸命にペダルを踏みはじめた。相変わらずの猛烈な向かい風で、平坦地でさえも自転車は思うように進んではくれなかったが、周辺の斜面一帯にウトウの巣穴とウミネコの営巣地が見られるという赤岩展望台に立つのが当面なによりの楽しみであった。

「マセマティック放浪記」
2001年8月15日

北旅心景・群鳥奇観

  天売島の地形は、北西側から南東側にむかって島全体がゆるやかな角度で傾いた感じになっている。そして赤岩のある南西端から天売灯台の立つ北東端までの北西海岸六キロほどが、高さ二百メートルほどの断崖になっており、容易には人を近づけない。むろんその断崖一帯が海鳥たちの一大コロニーになっているわけだ。
  天売港から三キロほどの地点までは、わずかに上り気味ながら、海沿いにほぼ平坦な道が続いていたから、普通なら快適なサイクリングが楽しめるはずだった。ところが予想外の強風を真正面からうけることになったため、腰を浮かし汗だくになってペダルを踏んでも、自転車はのろのろとしか進んでくれなかった。まして、三キロ地点から赤岩展望台付近へと続く高度差二百メートル、距離約三キロの坂道は、どう足掻いたところで漕ぎ登ることは不可能だった。
  これじゃ、わざわざ自転車を借りてきた意味がないよな――そんな愚痴まじりの言葉を呟きながら、自転車を押して一歩一歩坂道を登った。しかし、皮肉なことに、そのお蔭で、道路脇の斜面一帯に咲き乱れる花々をじっくりと眺めることはできた。ハマナス、エゾスカシユリ、エゾノヨロイグサ、そして、高度が上がるにつれて鮮やかな黄色の花つけたエゾカンゾウも姿を見せるようになった。赤紫の小花をたくさんつけて風に揺れるのはどうやらヤナギランらしかった。花の島というとかつて訪ねた礼文島のことを想い出すが、そのすこし南に位置するこの天売島の花々の美しさもなかなかのものだと言えた。
  実に豊かな自然に恵まれた天売島だが、実際に訪ね歩いてみてひとつだけ気になったのは、森林らしいものがほとんど見当たらないことだった。当初は、気象条件のせいかなにかで大きな樹木が生育しにくいのだろうと推測したのだが、あとになって寺沢孝毅さんの著作「空と大地のこえ」(北海道新聞社)に目を通すうちに、それが人為的な原因によるものらしいことを知った。
  先史時代の遺跡の物語るところによると、五千年以上昔の縄文期すでに、天売島には人が住んでいたらしい。しかし、歴史上の記録に天売島が登場するのは江戸時代以降のようである。以来、住人は徐々に増え、ニシン漁が最盛を極めた明治時代末期には、島内人口は天売史上最多の千八百七十人余にもなったらしい。当時、年間二万トン近くも獲れたニシンのほとんどはシメ粕(肥料)として本土に運ばれたが、シメ粕をつくるにはニシンを加熱処理する必要があった。加熱用燃料を確保するため豊かな森は切り尽くされ、いつしか天売島は丸坊主の島と化したのだそうだ。
  高度があがるにつれて、後方眼下に焼尻島の島影がはっきりと見えはじめた。時折立ち止っては焼尻島の島影と周辺の花々を眺め、それからまた歩き出すという行為を繰り返しているうちに、突然、道路一面が真っ白になっているところに出た。まるで路面全体を白ペンキで塗りつぶしたような感じである。顔をあげ大きくあたりを見まわしてみると、真っ白になっているのは路面だけではないようだった。付近の草木の表面もかなり白く変色している。それが海鳥の糞のせいだと気づいたのは、赤岩展望台入口を示す案内表示板が目にとまったからだった。
  これほどに鳥の糞が落ちているところからすると、この付近にはよほどの数の海鳥が生息しているに違いなかった。しげしげとその有様を眺めているうちに、鳥類の糞ってどうしてこんなに白い色をしているのだろうという疑問が湧いてきたが、その道の専門家でないこの身には、十分な説明をつけることができなかった。
  自転車を赤岩展望台入口に置き展望台へと続く特設歩道を下りはじめた途端、足元がぐらつくほどに猛烈な風が吹上げてきた。前方眼下には白い波頭を見せて激しく波立つ日本海が広がっている。手摺りにつかまりながら左右を見まわすと、断崖上の広い草地まじりの斜面に大小無数の異様な穴があいているのに気がついた。歩道のすぐ脇の急な斜面も一面穴だらけである。
  まるで古代遺跡の発掘跡みたいに穴ボコだらけなこの奇観の造形主こそは、ほかならぬ海鳥のウトウたちであった。その不思議な光景に魅せられるいっぽう、ここでゴルフをやったら、クラブを振ったことさえないこの身でもホール・イン・ワンは堅いだろうななどという場違いなことを考えたりもした。繁殖期におけるウトウの生息数は数十万羽といわれるから、連綿と続く天売島北西側断崖の上部斜面にはいたるところにこのような巣穴があいているのだろう。
  それぞれの巣穴の奥では、すでに誕生した雛たちが日没後の親鳥の帰りを待っていたのかもしれないが、そんな気配などはまったく感じられなかったし、どんなに目を凝らしてあたりを探しわってみても、ウトウの親鳥らしいものの姿はただの一羽も見当たらなかった。そして、ウトウにかって一帯の斜面やその下の断崖のいたるところに点々と姿を見せているのは、夥しい数のウミネコたちであった。ミュー、ミューという独特の鋭い鳴き声を発しながら、海面から吹上げてくる強風に乗って飛翔しているものもかなりあったが、ほとんどのウミネコたちは岩陰やウトウの巣穴のまわりなどでじっと羽を休めている感じだった。エゾカンゾウの花の陰に半ば身を隠すようにしてうずくまっているウミネコも少なくなかった。
  断崖上の急斜面をすこし下ったところにある赤岩展望台に立つと、海中から鋭く中空に突き出す高さ四十八メートルの赤岩が、眼下にその威容を現わした。展望台の真下はほぼ垂直に切れ落ちる断崖絶壁になっていて、赤岩に向かい泡立ち寄せる荒波と、その周辺に点在する大小の海鳥たちの影を一望のもとにおさめることができた。天売島の象徴ともいうべきこの赤岩付近はかつてウミガラス(オロロン鳥)の繁殖地でもあったが、現在ではこの地で営巣するウミガラスの姿は見られないという。
  体型は似ているがウミネコよりもひとまわり大きな感じの鳥もいた。足の色が黄色ではなくちょっとピンクがかっていたようだから、たぶんオオセグロカモメだったのだろう。この鳥は雑食性で、小動物や鳥類の死体、他の海鳥類の卵やその雛、魚類の死体や臓物などを好むという。当然、ウミガラスやケイマフリなどの天敵でもあるわけで、天売島の海鳥社会では食物連鎖のトップに位置しているのだそうだ。近年そのトップの座を占めるオオセグロカモメが急増するという異常事態が起こったりもしているらしい。 
  他に訪れる人がないのをよいことに、海と岩との織り成す一帯の奇景と海鳥たちの様子を存分に楽しんだあと、おもむろに赤岩展望台をあとにしかけた。だが、私はそこでもう一度足を止め、立ち去り難い思いでウトウの巣穴をしげしげと眺めやった。あと七、八時間もしたらこの地で繰広げられるであろう壮観なドラマを見ることができないのは残念至極ではあったが、それはまたあらためてこの島を訪ねる時の楽しみとしてとっておこうと、自らの心に言い聞かせた。
  少なく見積もっても島全体では何十万個という新旧の巣穴があいているはずなのに、ほぼ同時刻に嘴いっぱいに魚をくわえて帰還するウトウたちは、けっして自分の巣穴を間違えることはないのだという。動物本能というもっともらしい言葉で片付けてしまえばそれまでなのだが、ウトウたちの行動半径の広さと一斉帰還の状況を想うと、その識別能力は驚くべきものである。
  ずっとあとになってから寺沢さんに電話して直接確認したことなのだが、ウトウの巣穴のほとんどは何年にもわたって再利用されるのだという。もちろん、まったく新しく巣穴が掘られることもある。嵐の時など巣穴が水浸しにならないかとも思ったが、一帯の土質や巣穴の構造の妙もあって現実にはその心配はほとんどないらしい。
  雛のために持ち帰った獲物をウミネコに横取りされた場合、雛はお腹を空かすことはないのかという素朴な疑問を寺沢さんにぶつけてみると、意外な答えが返ってきた。二羽の親鳥たちは雄雌それぞれに相当数の魚をくわえて戻ってくるので、それらを全部奪い取られるということはめったにないのだそうだ。とくに嘴の付根付近でくわえている魚は、ウミネコといえども力ずくで奪い取るのは容易でないのだという。嘴の奥のほうが特殊な構造になっていて、くわえた魚をしっかりと留めることができるからなのだそうだ。
  親鳥たちが大量に獲物を運んで無事帰巣したような場合には、雛はそれを一度に食べず、何度かに分けて食べたりもするらしい。ひとつの巣ごとに一羽しか誕生しないウトウの雛は、兄弟間で熾烈な餌の奪い合いをする必要もないわけだから、そんなことができるのだろう。寺沢さんの話によると、イカナゴを四十数匹もくわえて戻ってきたウトウなどもあったという。もちろん、すぐれた写真家の寺沢さんのことだから、その様子を写真やビデオに収め、あとで正確にカウントしてみたのだろう。

  赤岩展望台入口に戻った私は、風で吹き倒された自転車を起こし、それを押しながら再び坂道を登りはじめた。そしてもう一汗かいたところで、島の最高地点近くにあるビュー・ポイントのひとつ、海鳥観察舎の入口に到着した。そこで自転車を降り、観察舎へと続く小道を歩き出した途端に、いまを盛りと咲き誇る黄色いエゾカンゾウの群落と紫のタチギボウシ群落とが同時に目に飛び込んできた。おりからの強風に煽られ激しく揺れ波打っていたが、それがかえって、この北の島に咲く花々の美しさをいっそう際立たせてもいた。小道の右手に遠く連なる険しい断崖も、そしてその基底部を絶え間なく洗う眼下はるかな青潮のきらめきも息を呑むほどに美しかった。
  海鳥観察舎に向かう途中、大きな一匹の黒猫と出遭った。鋭い目つきといい、俊敏な身のこなしといい、通常の飼い猫とは明かに異なる凄みがあったから、おそらく半ば野生化した猫なのだろう。もしかしたら海鳥や野鳥などを襲い、それを食べて生きているのかもしれない。
  激しい風雨にも耐えられるように設計された木造無人小屋の海鳥観察舎は、岬状に突き出す断崖の上に立っていた。丈夫なガラス張りの舎内には無料で使用可能な望遠鏡や双眼鏡が備え付けられ、前方の断崖一帯や眼下の岩礁地帯に棲む海鳥たちの生態をじっくりと観察できるようになっていた。あまり時間がなかったので、望遠鏡で海鳥たちの動きをつぶさに眺めることはできなかったが、それでも、眼下の壮大な風景を楽しみ、海鳥たちの棲み分けの様子を窺い知ることはできた。
  観察舎内の解説によると、夏の繁殖期、この一帯の断崖の下部にはヒメウやウミウが営巣し、その上の断崖中段の岩穴にはケイマフリ、岩棚にはウミガラス、そして、断崖上部に近い斜面にはウトウ、さらに断崖最上部の斜面や草地にはウミネコが営巣するのだそうだ。解説を参考にしながら、一通りその棲み分けの模様を眺めてみたいと望遠鏡を覗くと、断崖や岩礁上のいたるところに、飛びまわったり羽を休めたりしている無数の鳥影を認めることができた。ただ、素人の目をもってしては、ウミネコの営巣地をのぞき、詳しい棲み分けの状況を確認することは困難だった。
  観察舎からは、現在では国内唯一のウミガラスの繁殖地になっているカブト岩を望むこともできたが、そこにはカモメかウミネコと思われる鳥の姿が見えるだけで、肝心のウミガラスの姿らしいものを見つけ出すことはできなかった。いまではウミガラスの姿を見るには観光船で海上からアプローチしないと無理なようなので、ウミガラス見物はウトウの帰巣風景の見物とあわせて次の機会の楽しみとするほかなかった。
  今回は自転車での周遊路巡りとなったが、天売島の豪壮な断崖美や、空中を舞い水中を飛翔する海鳥の姿を船上から間近に眺めたら、それはそれでまた素晴らしいことだろう。美味で知られるバフンウニの漁獲期にあたる七月頃に島に泊まれば、絶品として名高いその海の幸の味を楽しむこともできるというものだ。形が馬糞に似ているため不名誉な名がつけられているが、海のダイヤとも称されるこのウニは文字通り北の海の宝である。
  余談になるが、海鳥観察舎から自転車の置き場所に戻ったところで、私は一瞬青くなってしまった。いくらさがしても自転車の鍵が見つからなかったからだ。解錠できないようなら、自転車を放置したまま徒歩で港まで戻るしかないが、時後処理などもあるから帰りのフェリーにはとても間に合いそうにない。当然島に一泊せざるを得なくなるが、日帰りのつもりでやってきたから、復路のフェリー代に少し余るくらいのお金しか持ち合わせがなかった。羽幌港に残してきた車に戻らぬかぎり、宿泊代はおろか、紛失した鍵の弁償代だって払えそうにない有様だったのだ。
  せめて地元の車でも通ってくれれば、事情を説明し自転車ごと港まで運んでもらうという手もあったが、なぜかこの時にかぎっては通行車の影も見えなかったし、他に観光客の姿も見当たらなかった。やむなく私は、距離にして三百メートルほどある自転車置場と海鳥観察舎との間の小道を、懸命に目を凝らしながら二度も往復した。だが、それでも失くした鍵は見つからなかった。
  いったんは途方に暮れかけたのだが、幸い、その時、例の黒猫と出遭った地点で、ポケットからペンを取り出し、しばし立ち止ってメモをとったことを思い出した。すぐにその地点に戻り、そのあたりをよく探してみると、案の定、道端の草むらに落ちている鍵が見つかった。ボールペンを取り出したとき、一緒にポケットからこぼれ落ちてしまったのだろう。
  ほっとした気分で自転車置場に戻った私は、大急ぎでサドルに跨ると風に乗って勢いよく走り出した。すでに島を半周した関係で、強い向かい風が追い風に変わっていたからだ。おまけに、周遊路の最高地点を通過してからは道も下り坂になって、スピードはぐんぐん上がるいっぽうだった。おかげで、三キロほどしか離れていない次のビュー・ポイント、観音岬展望台まではほとんど時間がかからなかった。
  観音岬の展望台が近づくと、道路一面がまた真っ白に変色した。赤岩展望台付近の道路以上の白さである。頭上を見上げると、甲高い鳴き声を発しながら低空を飛翔する白い鳥の姿も見えた。上空からは明かにそれらの鳥の糞と思われるものまでもが降ってきた。その様子からすると相当な数の海鳥がこの一帯に生息していることは間違いなかった。
  観音岬展望台に一歩足を踏み入れた私は、想像を絶する眼前の光景におもわず息を呑みそのまま立ち尽くす有様だった。ウミネコ、ウミネコ、ウミネコ、そしてまたウミネコ……、天も地も、文字通りウミネコだらけだったからである。こんな凄まじい数の海鳥をこれまで見たことはなかった。子どもの頃、無数の小さな渡り鳥が巨大な黒雲のごとき群をなして海上を渡っていくのを何度となく目撃したことはある。しかし、間近でこんな途方もない数の大型海鳥を眺めるのは初めてのことだった。それは、どこかヒッチコックの名作「鳥」の世界をも連想させる、実に驚くべき光景だった。
  展望台の手摺りには身体を寄せ合うようにして三、四十羽のウミネコたちがずらりと肩を並べていた。そして、私がすぐそばまで近づいてもかれらは逃げようともしなかった。眼下はるかな海面から吹上げてくる烈風を軽くいなしながら、まるでリズムでもとるかのように体を小刻みに揺らしている。嘴の先は上下とも赤黒二色が帯状に並んだ感じになっており、先端部をのぞいては根元まで黄色をしている。真っ白な頭部の嘴寄りにある両眼は黄色く鋭い猫の目そっくりで、嘴の先と同様の赤色に縁どられていた。私の存在などまるで意に介していないかのように、空中からすぐそばの手摺りに向かって飛び降りてくるウミネコもあった。
  潅木や草花の茂る一帯の広大な斜面は、上下左右とも見渡すかぎりウミネコたちのコロニーになっていた。展望台のすぐそばのエゾスカシユリやエゾカンゾウなどの花々の間には、体を隠しでもするかのように座り込み、首先だけを出してこちらの様子を窺う多数のウミネコたちの姿がみかけられた。もしかしたら卵でも温めていたのかもしれないが、その点をはっきりと確認することはできなかった。うまく時期を選んでこの展望台を訪ねれば、親鳥が雛に給餌する様子や、雛たちが巣立っていく光景などを、ここからじかに見学することもできるのだろう。
  よく通る甲高い鳴き声に誘われ、あらためて空中に目を転じると、そこにあるのはこれまたウミネコたちの舞い演じる壮麗な世界であった。海食崖の斜面沿いに激しく吹上げる潮風に乗って自由奔放に飛翔し乱舞するかれらの姿は、この日の天売島めぐりのフィナーレを飾ってくれるに余りあるものであった。私はひとり展望台上に佇み、その感動的な光景にいつまでもじっと見入っていた。
  ウミネコは雑食性で、イワシやイカナゴなどの小魚類、オタマジャクシなどの両生類無尾目、昆虫類、人の捨てた残飯などを食べるという。魚は好物ではあっても、かれらは水中の獲物をとることは上手くない。だからウトウなどの持ち帰る獲物を奪ったりもするわけだが、少々悪役めいたそんな行為も自然の摂理の導くところゆえ、やむをえないことではあるのだろう。我々人類の極悪非道ぶりに比べれば、厳しい自然の中で懸命に生きるウミネコの悪役ぶりなど他愛も無いものである。
  天売島には数万羽のウミネコが生息しているようだ。天売島のウミネコ繁殖地の中心地は、かつては赤岩付近から海鳥観察舎のあるあたりにかけてであったのだそうだが、現在ではこの観音岬一帯に一大コロニーが形成されるようになったのだという。なぜコロニーが大きく位置を変えることになってしまったのかについては、いまだにその原因はよくわかっていないらしい。天売島で繁殖したウミネコが利尻島に移動し、そこで繁殖していることなども確認されているようだ。
  予定が狂いかけ、一時はどうなるかと思った天売島めぐりだったが、幸い、帰りのフェリーの出航時刻までになんとか天売港にたどりつくことはできた。偶然の成り行きで、昼食抜きは言うに及ばず、途中で水一杯飲むことさえもしない強行軍となってしまったが、有り余るほどの発見や驚きにもめぐり逢え、実に素晴らしい探訪ではあった。
  今度天売島を訪ねるときには、ウトウの帰巣風景を観察し、遊覧船に乗って島の象徴の赤岩や、わずかながらウミガラスの棲むというカブト岩などを海上から眺めてみたい、そして島の人々の人情にも触れてみたい――そんな想いを胸深くに秘めながら、私は羽幌港へ向かうオロロン号のタラップを上った。

「マセマティック放浪記」
2001年8月29日

北旅心景・宗谷岬

  途中であちこちに寄り道をしたため、宗谷岬に着いたのは、カーラジオから午前零時の時報が流れるのとほぼ同時だった。日本最北端の宗谷岬は、地形的にみても、あたりの雰囲気からしても、どこか女性的でまろやかな感じのする岬である。神威岬や知床岬、あるいは納沙布岬といったような北海道の有名な岬とはその点で趣を異にしている。岬一帯には広い駐車場も設けられていて、夜間でも煌々と照明灯がともっていた。
  ここにいたるまでの二十四時間というもの、強行に次ぐ強行の連続だったため、さすがに疲労の度合いは極限に達していた。駐車場の一角に駐めたワゴンは、轟々という音をたてて吹きまくる猛烈な西風に煽られぐらぐらと揺れつづけたが、そんなことなどにおかまいなく、横になった途端深い眠りへと落ちてしまった。
  翌朝は九時頃に目が覚めた。なにやら大勢の人の気配がしたからだ。寝ぼけ眼で車窓越しに外を眺めると、小ぶりの神輿をかつぎ、そのまわりを幟や太鼓でかためたお祭りの行列が、すぐそばを通過していくところだった。幟には岬神社という文字が染められていたから、近くにそんな名の神社があるのだろう。宗谷岬のすぐそばには大岬というかなり大きな集落があるから、お祭りに参加しているのはそこに住む人々に違いない。全国いたるところに神社は存在しているから、宗谷岬でそんなお祭りがあったとしてもべつにおかしくはないのだが、旅人の目からすると、日本最北端の岬で見る神輿や太鼓、さらには幟の行列といったものはなんだか不思議な感じのするものではあった。
  昨夜ほどの烈風ではなかったが、岬一帯には相変わらず強い西風が吹きつけていた。夏だというのに風も結構冷たかった。天候の良い日なら遠くサハリンの島影なども望むことができるこの岬だが、この日はほとんど展望がきかなかった。そのせいもあってだろう、次々に岬を訪れる観光客たちは、日本最北端の地をあらわす碑の前で記念撮影を終えると、皆足早に立ち去っていった。
  ちなみに述べておくと、「日本最北端の碑」は北極星の一綾をイメージした三角錐様の構造物で、五・四メートルほどの高さがある。碑の中央には北を意味するNの文字が配されており、その設置地点の緯度は北緯45度31分14秒なのだそうだ。もっとも、将来北方四島の返還が実現すれば、日本最北端の地というキャッチフレーズは、択捉島の西北端あたりに奪われてしまうことになるだろう。その時がきたら、「日本本土最北端の地」と「本土」の二文字を付け加えねばならなくなるに違いない。だからといって、まさか、宗谷地方の人々が北方領土返還反対運動などを起こしたりすることはないだろうが、「日本最北端の地」を択捉島にとってかわられることになれば、観光スポットとしての宗谷岬の存在意義はいくぶん薄れることになるだろう。
  今回私は観光目的でこの岬にやってきたわけではなかった。稚内を経て日本海側からオホーツク海側に抜ける途中で、これまで何度もこの岬には立寄ったことがある。だから、日本最北端の地に足跡を印すという格別な想いを込めてこの岬を訪ねたのではなかったのだ。わざわざこうして宗谷岬にやってきたのは別に目的があったからである。
  十数年前にたまたまこの宗谷岬を訪ねた時のこと、私は岬のすぐそばにある出光興産の給油所で燃料を補給した。その折、所定の代金を支払うと、たまたま応対してくれた若い女性係員が領収証とともに一個の手製のお守りを手渡してくれた。ホタテか何かの小さな貝殻を二枚合わせて作ったかわいらしいお守りで、貝殻の内側には手書きの文字で「交通安全」の四文字とその日の日付とが記されていた。また、貝殻の表側には宗谷岬を表わすシールと出光興産のアポロ印のマークとが貼ってあった。どうやらこの給油所で給油したお客に一個ずつそのお守りを手渡しているらしかった。
  若い頃から私はお守りというものを持たない主義の人間だった。だから神社やお寺で売られているお守りなどを車につけたことは一度もない。人からお土産にお守りをもらったりすると、相手の好意は有り難いが、正直、その処理に苦労することも少なくなかった。ところが、縁というか何というか、その時もらったその貝殻のお守りだけは、何気なく運転席左下隅のチョーク調整ノブに吊り下げられたのがきっかけで、いつしか私と一緒に全国を走り回ることになってしまったのだった。
  沖縄を含めた国内の全都道府県を余すことなく通過し終えたくだんのお守りを、折あらばそのガソリンスタンドに返納しようと、私はながらく機会を窺っていたのだった。既に片方の貝殻が欠落してしまったそのお守りを新しいものと交換してもらおうという思いもあった。四、五年前にも一度宗谷岬を通過したのだが、あいにく深夜のこととあってスタンドは閉っており、その時には返納はならなかった。
  安田石油店経営の出光興産宗谷岬給油所に車を乗り入れると、すぐに若い女性の係員が現れた。軽油を満タンにしてくれるように依頼し、運転席に座したまま私は黙って作業が終わるのを待った。給油が終わり料金を支払ったあと、昔とおなじように手製の貝殻のお守りを領収書ともども手渡してくれるものかどうか確信はなかった。あれから十数年も経っていることだから、状況が変わっていてもおかしくなかった。ただ、安田石油店いうお店の名が昔のままだったので、期待はもてると内心では思っていた。偶然だが、安田という姓は、北海道旭川市出身の私の家内の旧姓とおなじだったから、安田石油店という店名は十数年経ったいまもはっきりと憶えていたのである。
  はじめてこのスタンドで給油したときは確かカードで支払いを済ませたんだったよな、などというどうでもよいことを想い出しながら現金で代金を支払うと、いったん店内に戻った女性係員は、領収書やおつりと一緒に、一枚のカードと一個の小さな貝殻のお守りを手にして現れた。六月二十四日という日付スタンプの押された「日本最北端給油証明書」なる記念カードとともに、昔ながらの貝殻のお守りを彼女が手渡してくれたとき、私は内心言葉には言い尽くしがたい感動を覚えたのだった。
  いったんお礼を言いながらお守りを受取った私は、片方の貝殻の欠落した古いお守りをはずしておもむろに係員に差し出すと、この日わざわざこの給油所を訪ねた理由を告げた。そして、持参してきていた拙著「星闇の旅路」の中の、この給油所について述べた一文を指し示しながら、怪訝そうな顔を見せる相手に、ここに至るまでの詳しい事情を説明した。ほどなくして私の真意のほどを察知してくれた係員は、新しいお守りと引き換えに私が差し出した古いお守りを快く受取ってくれた。
  新たにもらったお守りをすぐチョーク調整ノブにつけ終えた私は、給油所に別れを告げると、すぐさま宗谷丘陵に向かって走り出した。そんな私の脳裏を、この新しいお守りが全都道府県を通過し終えるのはいったい何時のことになるだろうかという思いがよぎっていった。
  宗谷岬駐車場そばの坂道を上り、展望所や宗谷岬灯台のある場所を通過してどんどん奥へと走っていくと、清浜からのびる道路と合流する。そこで左にルートをとると、広大な丘陵地帯が現れた。ゆったりと波打ちうねるようにして、一面若草に覆われた緩やかな丘陵が遠く四方に広がっている。
  宗谷岬を訪ねる人は少なくないが、この宗谷丘陵にまで足を運ぶ人は意外に少ないし、そもそもほとんどの人はその名さえも知らない。だが、初夏の頃になるとこの丘陵一帯は緑の天国と化す。牧草地や作物畑の広がる丘陵といえば、富良野の麓郷や美瑛の丘陵地帯が有名だが、背景に十勝岳のような高山はないにしても、広さと美しさにおいてはこの宗谷丘陵もそれらにひけをとらないだろう。丘陵地帯のはるか彼方に青く輝くオホーツク海が見えるのもなかなかにいい。
  吹き抜ける風の強さは相変わらずだったが、陽射は明るく、緑の丘や谷間の織りなす緩やかな起伏を這い滑るようにして、薄雲の影が次々に通り過ぎていった。一定のリズムで風に波打ち揺れる牧草のやわらかな輝きも美しかった。私は三百六十度の展望のきく高みに車を駐め、しばらく眼下に広がる眺望を楽しんだ。
  北海道の牧場地帯というと、すぐに誰もが想像するのは乳牛の姿だが、この宗谷丘陵の光景はその点でもちょっとばかり異なっていた。広大な草原に放牧され悠然と草を食むのは、白黒まだら模様の乳牛ではなく、全身が黒毛で覆われた和牛たちであった。知る人ぞ知る宗谷和牛は黒毛あるいは茶毛の肉牛である。点々と四方に散在する牛たちの黒い影は、北辺の地であるにもかかわらず、緑の野山と不思議なほどにマッチしていた。
  ほどよいアップダウンを繰り返しながら広がる野山を思うがままに駈けめぐり、瑞々しい輝きの夏草を満ち足りるまで食むことのできるこの季節を、牛たちもかれらなりに謳歌してはいるのだろう。牛の群の中には、まだ生まれて間もない子牛を連れているものも少なくなかった。まだ草をうまく食むことのできないそんな子牛たちは、母牛にすがるようにしてその後を追い、時折、乳房をくわえては、安堵したような表情を浮かべつつ空腹を癒してもいた。
  上猿払方面へと向かって丘陵地帯を縫う道路は、南へ向かって十七キロほど続いていた。完全舗装された素晴らしい道路で、牧場地帯を過ぎると、周辺の景観は白樺やブナ、蝦夷松、唐松などの林の広がる天然の混交樹林帯に変わった。道路の部分をのぞいては人手がほとんど加えられていないところだけに、一本一本の樹々それぞれが、尽きるのことのない物語を隠し秘めているという感じだった。
  十七キロ地点から先は道路が未整備のため交通止めになっており、他に抜け道もなかったので、そこからまた宗谷岬方面へと引き返さざるをえなかった。そして、その立派な舗装道路を快走しての帰り道、実を言うと私はちょっぴり複雑な気分になった。車で北海道の旅を続ける自分にとって、こんなにも自然に恵まれ、しかも快適なことこのうえない道路の存在は有り難かったが、手放しでは喜べないという思いがわいてきたからである。
  このような整備の行き届いた道路を新たに建設し、その維持管理を的確におこなうには大変な費用がかかる。人手のはいっていないところであればあるほどに、道路建設に伴う自然破壊もけっして少なくないだろう。それほどにして造った道路の利用度がどの程度のものであるかも問題となる。そういった視点から考えてみると、いまこうして自分が気持ちよく走っている道だって議論の余地がないわけではない。複雑な気分になったのはそんなことを考えたからだった。
  不必要な道路の建設に異議を唱える人々に対して、道路建設賛成の人々から「道路ができればあなた方だって通るじゃないですか?」という反論がなされることがよくあるが、確かに、人間というものは便利になるとついついその便利さになれてしまうところがある。どこまでが必要でどこまでが不必要かの的確な判断は、けっして容易に下せるようなものではない。不要な道路の建設をおしとどめるには、我々自身にもそれなりの理念と覚悟のほどが不可欠となろう。
  宗谷和牛の牧場地帯をもう一度通り抜け清浜へと向かう途中で、かなり成長した子牛たちだげが相当数一区画に集められているところに出た。無理やり親牛から引き離されたせいか、悲しそうな鳴き声をあげている子牛もある。それに応えでもするかのように遠くから親牛の鳴き声らしいものも聞こえてきた。
  農耕用をかねた和牛のたくさん飼われていた島で育った私には、すぐにその意味が読み取れた。それとは知らず親牛について波止場まで行った子牛が、有無をいわさず親牛から引き離され、クレーンに吊され次々に船倉に積み込まれる風景を毎年のように見てきたからである。悲鳴に近い鳴き声を上げて互いに呼び合う親牛と子牛の悲しげな姿は、まだ幼かった私の胸に深く焼きついて離れなかった。
  状況とその方法こそ違うものの、親牛から引き離されたこの子牛たちが、ほどなく遠くへと出荷されていくだろうことは明かだった。またそれゆえに、自らの運命を知ってか知らずか、思いおもいの格好で若草を食み、あるいは寝そべってまどろむ子牛たちの姿が、なんともいとおしく胸に迫ってくるのだった。増殖のために牧場に残される子牛と出荷される子牛との選別も当然おこなわれているのだろうが、出荷されるのは圧倒的に雄牛が多いに違いない。あとに残されるにしろ、そうでないにしろ、誕生からまだそう時も経たないうちに運命の岐路に立たされる子牛たちの歩む道は、想像以上に過酷なものなのだ。
  何もかもが躍動感に溢れ、旅人の目には緑の楽園にさえも映る六月のこの牧場一帯で、静かにしかし確実に牛たちの悲劇は進行していく。弱肉強食の世界の常だと言えばそれまでのことではあったが、つくづく人間とは業の深い存在であると思わざるをえなかった。

「マセマティック放浪記」
2001年9月5日

北旅心景・サロベツ原野

  夕刻に稚内を立ち、前夜北上したオロロン街道を、こんどは逆にサロベツ原野方面に向かって南下した。大粒の雨と海霧含みの猛烈な西風が吹きつけていたため、視界は極度に悪かった。右手に位置しているはずの日本海や利尻島の島影はむろん、道路のすぐ両側に散在する湿地帯や湖沼地などもほとんど見えなかった。それでも、途中で車を停めカッパを着込んで道端に立つと、冷たい雨にうたれ激しい風に揺れながらも咲き匂う、黄色いエゾカンゾウの花々が目に飛び込んできた。
  ずいぶん昔に初めてサロベツ原野を訪ねたとき、私は、広大な湿原の果てるところまで一面に咲き誇るエゾカンゾウの花を見て、

   花々よ萌え咲き結ぶ営みを幾たび経しやサロベツの野に

という一首を詠んだ。北の大地の厳しい環境をむしろ利するがごとくに咲き結び、はるかな時を超え、営々と自らの種を守り伝えてきたその姿に心を打たれたからだった。
  しかし、この日はなぜか、吼える海風にひどくあしらわれながらもそれを耐え忍び、断じてその品格を失うことなく、毅然として咲き開く一輪のエゾカンゾウのたたずまいに強く心惹かれたのだった。その花のけなげな姿に、私はある種の女性のそなえもつ不思議な強さのいくつかを重ね見たからだろう。
  都会に育ち、都会での長年の生活を経たあとで遠く離れた異郷の離島に渡り、まだ幼かった私を中学生になるまで育て上げ、死期を悟ると唯一の肉親として残された私にすらそれを告げることなく、独り決然として逝った祖母の強さもそのひとつだった。また、鹿児島市で苦学中だった高校時代、お世話になっていたバイト先で出逢い、様々なことを教示していただいた石川美江子先生の、気品に満ち、しかもいかなる時でも毅然としてやまない姿などもこの日エゾカンゾウの花の向こうに重ね見たもののひとつだった。
  当年すでに九十三歳の石川先生は、まだ全国的に女性の社会的地位が低く抑えられ、なお男尊思想の色濃く残っていた時代に、鹿児島県下の全公立学校を通じ、女性として初めて教頭職に就かれた方である。地元においては、さまざまな誹謗中傷をものともせず、教育者として多くの優れた人材を世に送り出されたことで知られている。先生は若い頃結婚し、いったん教職を離れて満州に渡られたが、その地で御主人と死別、辛酸の極みを舐めた挙げ句に終戦後なんとか鹿児島に帰還された。そてからほどなく教員として復職なさり、再婚することなくその後の人生をひたすら教育に献げられた方である。異国の地で苦境にあった時代、満州の野に咲く草花を眺めながら自分の孤独な心を励ました話などを常々伺っていたので、よけい私は風に揺れるエゾカンゾウの向こうに先生の姿を想い浮かべたのであろう。

   風吼ゆる北の浜辺に立ち揺らぐか細き花よ汝は強き

  愚作ではあるが自分の想いそのままを歌に詠み込んだ私は、再び車に戻って走り出すと、稚咲内で左折しサロベツ原生花園の中心部へと向かった。だがますます天候は悪化し、夕闇も深まってきていたので、そのまま豊富温泉方面へと通過することにした。そしてその時、たまたまというにはあまりにもタイミングがよすぎるくらいに、カーラジオから、祈りの詩人金子みずずの詩の朗読が流れてきた。まるでその詩はサロベツの野を一面に覆う無数の草花に向かって切々と語りかけられているようでもあった。
――かあさん知らぬ草の子を、なん千万の草の子を、土はひとりで育てます。草があおあおしげったら、土はかくれてしまうのに――それは「土と草」という詩であったが、易しいけれども深く心に染み透る天才詩人ならではの言葉使いとその絶妙なリズムとに、私は思わず聞き入ってしまったのだった。我々命ある者は「自力で生きている」のではなく「目に見えぬものの力とその犠牲とによって生かされているのだ」――言葉にするとなんとも月並な表現になってはしまうのだが、私には金子みすずの心の奥のそんな真摯な叫び声がいまにも聞こえてきそうであった。
  サロベツ湿原を抜けたあと、そう遠くないところにある豊富温泉に立寄り、町営の温泉施設で一風呂浴びた。そして再びハンドルを握ると、幌延町を経て国道四十号に入り、ひたすら夜道を美深町方面目指して走り出した。午後九時半頃だったろうか、音威子府に差しかかる少し手前で私は前方路上に動物の死体らしいものが転がっているのを発見し、すぐに車を停めた。車から降り懐中電灯を持って近づいてみると、それはまだ温かみの残るキタキツネの死体だった。頭部と腹部とを車に轢かれ、内臓破裂で即死したものらしい。目と内臓が飛び出し、見るも無残な姿であった。
  そのままでは可哀想なので、両足を掴んで体ごとぶらさげ、道路脇の深い草むらまで運んだ。そしてスコップを取り出し穴を掘ると、柄にもなく南無阿弥陀仏と心の中で呟き、手を合わせながら、そのキツネの魂を静かに弔い葬ってやった。南無阿弥陀仏ではなく南無妙法蓮華経と呟こうと、十字を切ってアーメンと唱えようと、あるいはまた二礼したあと二拍手一礼して引下ろうと、死んだキツネが望むならこちらとしてはどの方法を選んでも構わなかったのではあるが、あいにく私には当のキタキツネの信仰がどのようなものであったのかなど知るすべもなかった。だから、もっとも手っ取り早いナムアミダブツで済ましたようなわけだった。
  再び運転席に戻った私は、音威子府を過ぎると、美深町までいっきに国道四十号線を南下した。そして、「びふか」と表示された道の駅に車を駐めると、そこで朝まで眠ることにした。ちょうどその頃、鹿児島市内のある病院の一室で起こっていた事態など神ならぬこの身はつゆ知らぬことではあった。こともあろうにこの日の夕方、突然ひどい下血を起こして緊急入院された石川先生は、その病院で危篤状態に陥っておられたのだった。
  のちにして思えば、激しい風雨に耐えて咲くエゾカンゾウの花に石川先生の姿を重ね見たことといい、たまたま耳にした金子みすずの詩の朗読といい、さらには息絶えたキタキツネに遭遇したことといい、この日の一連の出来事はなにかしら暗示的ではあったのだ。翌朝、石川先生は他界された。だが、府中の自宅からの連絡でそのことを実際に知ったのは、それから四日後、まだ私が北海道の山中を旅している途中でのことだった。
  ずっとのちになって石川先生の養女の方から伺ったことなのだが、もう二十年近く前、上高地の河童橋で私と二人で撮った写真をいつも手元に置き、大切にしてくださっていたらしい。「本田さんと」と記されたその二枚の写真はその後東京の私宅に届けられ、いまではさりげなく自室の一隅に飾ってある。

「マセマティック放浪記」
2001年9月12日

北旅心景・美深から湧別へ

  山岳地帯を縫って道北から道東へと抜ける途中、美深町東部にある松山湿原に立寄った。かなり山深いところにある駐車場で車を降り、そこから急な山道を三十分ほど登ると、標高七九七メートルの山上湿原に着いた。泥炭質の地層からなる松山湿原は国内最北の高層湿原である。開けた湿原を取り囲むようにして、小振りのアカエゾマツと大振りのクロエゾマツの混交林が広がっていた。緩やかな曲線を描いて下方に垂れしなうようにしてのびるエゾマツの枝振りは、舞踏会で見る若い女性の後姿を偲ばせる。
  静寂そのものの無人の湿原では、涼やかに吹き抜ける風の中で、一面に咲き開いたワタスゲが小刻みに震えながら波打っていた。白く小さな集合花をつけたヒメシャクナゲも湿原のあちこちでひそやかに咲いていた。タチギボウシの大群落も目についたが、花が咲くのはまだこれからのようだった。あれこれととりとめもない想いをめぐらしならが木道伝いにのんびりと湿原を一周し遊歩道の出発地点に戻ったが、その間に湿原を訪ねて来た人は他に誰もいないようであった。
 「松山湿原」の案内板の脇には鐘がひとつさげられていた。湿原が濃い霧に覆われたときなど、散策中の人に出発地点の位置を知らせるにこの鐘を鳴らしたりでもするのだろうか。他に人がいないのをよいことに、私は備えつけの木槌を手にすると、二、三度力いっぱいにその鐘を叩いてみた。そして澄んだ鐘の音が一帯に響き渡るのを耳にしながら、たぶん、この湿原を訪ねるのはこれが最初で最後になるだろうと思ったりもした。
  こんなところをこの歳になって独り訪ねたなどということを何時の日かこどもたちが知ったりしたら、いったいなんと思うだろう。ただもう能無し親父のロクでなしめがと考えるだろうか、それとも、貧乏旅行をものともせず人跡稀なこの秘境を独りで黙々と歩いたその意気に、せめて敬意のかけらくらいは表してくれるものだろうか……。そんな愚にもつかぬことを考えながら、あちこちに白く愛らしいゴゼンタチバナの咲く山道をゆっくりと下っていった。
  駐車場からダートの林道をさらに奥まで詰めたところには雨霧の滝と女神の滝という二つの滝などもあった。男性的な雨霧の滝までは車で行けたが、女神の滝まではそこからさらに熊でも出そうな藪道を掻き分け、しばらく歩かねばならなかった。しかし、その名の通り、女神の滝は、玄武岩柱状葉理層を流床にもつ実に美しく滑らかな滝だった。
  松山湿原一帯の散策を終えたあと、美深峠を越えて雄武町西部に入り、さらにそこから下川町方面へと抜ける途中で、これまた奥深いところにある幌内越峠に差し掛かった。するとその時、峠から西に分岐するダートの林道入口に立つ、「神門の滝入口」と表記された案内板が目にとまった。案内板には「この先七・四キロメートルのところに落差四〇メートルの神門の滝をはじめ、さまざまな滝群があり、手つかずの無垢の姿の自然をたっぷりと味わえます」という一文が付記されていた。そして、その案内板の脇には「熊出没につき注意!」という警告表示のおまけまでが添えられていた。
  熊は怖いが手つかずの自然とやらは見てみたい、いや、どうせならついでに熊も見てみたい。こんな看板を見せられて引き下る手などあるものか――そう決意した私はすぐにその林道へと車を乗り入れた。
  四輪駆動走行に切り替え、かなり凹凸の激しい林道を五キロほど奥まで進むと、エゾマツ、トドマツ、ミズナラ、シナノキ、カンバ類などの大木が鬱蒼と茂る原生林地帯に差し掛かった。たまたま目にした案内板の解説によると、その一帯約三十二ヘクタールは奥幌内原生保護林として守られてきている自然林で、真の意味での原生林として古来手つかずのまま残っているのは、いまでは道内でもこの周辺だけになってしまったのだそうだ。なるほど、樹木の密生度と言い、偉々とした樹々の枝振りと言い、原生林の名に恥じないものである。昔は北海道のいたるところにこのような原生林が存在していたのだろう。
  そこからさらに二、三キロ近く林道を分け入ると、神門の滝入口を示す標識と来訪者用の小さな駐車場が現れた。車を降りて滝のあるほうへ歩きはじめると、またもや「熊出没につき注意!」という警告表示が目に飛び込んできた。警告は有り難いが、注意しろと言われても、こっちの都合などお構いなしに突如出てくる相手とあってはどうにもならない。「人間も出没しますのでご注意ください!」と熊たちに向かって警告板を立てたい気分にもなってきた。
  神門の滝は細い水流の小滝が多数集まってできた大きな滝だった。全体の幅は相当に広く、落差も四十メートル以上で、ほぼ垂直に流れ落ちていたが、「神門」という言葉の響きから受けるイメージとは違ってどこか女性的な感じさえする滝であった。滝壷のすぐそばまで降り、霧雨状の飛沫を全身に浴びながら流水で顔や手足を洗ったりしたが、ほどよい冷たさで実にさっぱりした気分になった。他にもいくつか滝があるようだったが、地形的な面から見てほぼ似たような構造の滝だろうと推測できたので、神門の滝を見物しただけで車へと引き返した。そして、幸か不幸か熊どもにも出遭うことなく幌内越峠の林道入口に戻り着いた。
  幌内越峠をあとにすると、下川町を経て岩尾内ダムまで南下、そこから東進して上紋峠を越え、滝上町へと抜けた。そして滝上町中心街の少し手前で原野線に入り、同町南部の上渚床方面へと向かった。上渚床に近づくころになると、左右の景観は、一面若草に覆われた雄大な牧場地帯へと変貌した。いましも西方の山陰に沈もうとする夕日を浴びて赤緑に映える広い草地を、どこか愛嬌のある歩きぶりでトコトコと横切って行くキタキツネの姿がなんとも印象的だった。まるでその有様は絵本の中に見る懐かしい光景そのままだったからである。
  上渚床からは地方道を辿って中牛立に進路をとり、そこから丸立峠を越えて丸瀬布町へと抜けることにした。なお牧場地帯の続く中牛立を過ぎ、丸立峠に向かって南進するうちに道は深い谷を縫う細いダートの悪路に変わった。そして、そのダートの道を登り詰め、北見富士を指呼の間に望む標高五三〇メートルの立丸峠を越える頃には、西空は赤紫の深い黄昏色に染まっていた。
  丸瀬布に着いたのはちょうど午後八時頃だった。丸瀬布町営の温泉施設で一風呂浴びて汗を流そうと思ったのだが、あいにく休館日にあたっていて入浴はできなかった。どこか入浴だけをさせてくれる温泉宿はないかとあちこち探しまわってみたが、結局そんな宿をうまく見つけることはできなかった。しかたがないのでこの夜の温泉入浴は諦め、もう一走りしてそのままサロマ湖方面へと出てみることにした。
  途中の遠軽町でコンビニに立ち寄り弁当を買って遅い夕食とし、そのあと上湧別町を経てオホーツク海に臨む湧別町の三里が浜に出た。三里が浜は、オホーツク海に向かって左手からサロマ湖を抱えるようにのびる十キロメートル余の細長い腕部の先端に位置している。すぐ近くには、サロマ原生花園や、秋のころになると一面美しいピンク色に染まるサンゴソウの群生地などもある。
  この夜、三里が浜の駐車場には他に車の影はなかった。その駐車場で一夜を明かすことに決めた私は、後部シートフラットにし、エアベッドを膨らませ終えると、しばらくあたりを散策するため車外に出た。そしてすぐそばの堤防を越えると、オホーツク海に面する砂浜に降り立った。夜風に乗って響いてくる潮騒に耳を傾けながら北の空を見上げると、悠然と輝きめぐる北斗の七つ星が大きく頭上に迫ってきた。
  北斗七星の柄の端から数えて二番目の星のすぐ脇には、まるでそれに寄り添うようにして輝くミザールという名のごく小さな星がある。このミザールという星は六等星で、その明るさは肉眼で識別できる限界に近い。旧海軍などでは視力検査にも用いられていたとか聞いたことがある。周辺が暗く大気が澄んでいるところなら、視力が一・二くらいあれば見ることができるのだが、最近はどこへ行ってもやたら夜空が明るいため、識別するのがなかなか難しくなった。そのミザールのかすかな光を久々にはっきりと見分けることができた私は、なんだか嬉しくなってしまった。我が視力がいまなお健在である確証を得たこともその理由のひとつではあった。

「マセマティック放浪記」
2001年9月19日

北旅心景・ワッカ原生花園

  サロマの湖東南端、常呂町栄浦漁港の付近からは、サロマ湖とオホーツク海とを隔てる幅200〜700mの細長い砂洲が、全長20kmほどにわたってのびだしている。そして、その先端部は、北西端の湧別側からのびだす全長10kmほどの砂洲の先端と向かい合う格好で、サロマ湖とオホーツク海とをつなぐ狭い水道を形成している。ホタテの養殖で名高いことからもわかるように、国内第三位の面積をもつこのサロマ湖は、外洋から海水の出入りする塩湖である。
  前夜、三里が浜のある湧別側砂洲の突端近くで車中泊した私は、この日の朝、サロマ湖岸をほぼ四分の三周するかたちで車を走らせ、栄浦へとやってきた。常呂町側からのびだす砂洲上にはワッカ原生花園と呼ばれる海岸草原が発達している。時節もそして天候も絶好なので、その原生花園を訪ねてみようというわけだった。
  北海道の有名な湿原や原生花薗は、山岳部や礼文、利尻といった島部のものをふくめ、そのほとんどを訪ねたことがあるのだが、近くを何度も通っているにもかかわらず、このワッカ原生花園にだけはまだ一度も足を踏み入れたことがなかった。だから、そのぶん期待も少なくなかった。ワッカ原生花園の入口にはヴィジターセンターがあって、車が入れるのはそこの駐車場までだった。原生花園内をめぐるには、徒歩に頼るか、さもなければ貸自転車か観光馬車を利用するしかないようだった。
  ヴィジターセンターに掲示してある解説によると、「原生花園」という呼称は便宜上用いられているだけなのだそうで、学術的には「海岸草原」と呼ぶのが正しいのだという。他の植物が成育できないような厳しい環境下にある北国の臨海地域では、その悪条件に耐えられる特別な種類の植物だけしか育たない。そのような植物によって形成されるのが海岸草原、すなわち原生花園というわけで、その意味では、そこに生え咲く花々はもともと逆境に強いのだ。「こんな北国の浜辺で、よくもまあこれほど可憐な花々が……」などと感動するのは、どうやら人間様の勝手な思い込みであるらしい。
  ヴィジターセンターでレンタサイクルを貸りた私は、涼やかな海風の吹きぬけるなかを軽快にペダルを踏んで走り出した。サロマ湖はオホーツク海そのものかと勘違いしそうなほどに広いのだが、その砂洲上に広がるワッカ原生花園のスケールもまた想像以上に広大だった。ヴィジターセンターを出発してまもなく、オレンジがかった色のエゾスカシユリが一面に咲き匂う草原に出た。風に揺れる無数のエゾスカシユリのため、広い草原全体がユリ色に染まって見えるほどだった。
  どこかユーモラスな感じの観光馬車が、のびやかに広がる前方の草原をトコトコと走っていく。ペダルをいっぱいに踏み込んでその馬車を追い越すと、ほどなく長大な砂洲にそって直線状にのびる竜宮街道にぶつかった。竜宮街道とは、そのT字路から左右それぞれの方向に約五キロほどにわたって設けられた散策路のことである。私はそこで左折し、左手にサロマ湖を見ながら走るコースを選ぶことにした。どちらに行けば竜宮城に行き着くのか定かではなかったが、乗っているのも亀の背中ならぬレンタサイクルときていたから、乙姫様に逢える見込みはもともと皆無ではあった。
  だが、その名に恥じず、竜宮街道の両側に広がる天然の花畑の景観は素晴らしいものだった。ひときわ目立つエゾスカシユリの大群落はもちろん、真紅のハマナス、白いシシウド、エゾカンゾウとも呼ばれる黄色いエゾゼンテイカ、そして紫のヒオウギアヤメと、見渡すかぎり花また花の世界だった。よく見ると、白い小花をつけたオオフスマ、黄色い小花の集合花のセンダイハギ、さらには、どちらも赤紫の花弁をつけたヒロハクサフジやハマエンドウといった花々なども、あちこちでその存在をしきりに訴えかけていた。
  しかも、この原生花園が見事なのは、そんな花畑が行けども行けども果てることなく連なっていることだった。T字路で左折してから竜宮街道の西北端までの約五キロにわたって、美を競う花々の宴は尽きることなく続いていた。そして、それらの花々の咲き誇る光景をいっそう引き立てているのは、陽光のもとで青く静かに輝くサロマ湖の水面だった。
  散策路の終点は漁業保安林にもなっているワッカの森の入口付近で、花々の咲き乱れる海岸草原はその少し手前で終わり、そこから先は樹々の密生する深い森になっていた。砂洲そのものの先端まではその地点からまだ十キロほどもあったが、たとえ徒歩であっても特別な許可がないかぎりその先に続く樹林帯にはいることはできないようだった。
  竜宮街道の終点にあたる広場の一角には「花の聖水ワッカの水」と銘打たれる清水が湧いているところがあった。「ワッカ・オ・イ」というアイヌ語は「水のあるところ」という意味を表わしているのだそうで、ワッカ原生花園という名称もどうやらその言葉にちなんでつけられたもののようだった。サロマ湖とオホーツク海とを隔てる細長い砂洲のなかほどに真水が湧いているなんて意外な気がしないでもないが、たしか丹後の天橋立にも真水の湧く井戸があったようだし、函館をはじめトンボロ(陸繋島)地形の砂洲上に発達した集落は少なくないことだから、地質学的にはそう珍しいことではないのかもしれない。
  湧き出ている水を備え付けの柄杓に汲んで飲んでみたが、なかなかにうまい水だった。その水場からほどないところには昔ながらの手押しポンプが一台据えつけられていた。私が子供だった頃にはどこにでもあった手押しポンプだが、最近では田舎に出かけても滅多に見かけることはなくなった。懐かしい思いにかられならがそのポンプに近づき、呼び水を少し加えて柄の端を握り、数回力強く押してやると、ボコボコと音をたてて澄んだ真水が勢いよく流れ出した。   
 竜宮街道を引き返す前に、藪道を抜けてサロマ湖の水辺に降り立ってみた。草木や樹木に覆われた砂洲と水面を区切るようにして、黒っぽい砂地の渚が延々と続いている。この渚伝いに歩いて行けば砂洲の先端部まで到達できそうではあったが、まだ片道十キロもあるとあっては断念せざるを得なかった。
  竜宮街道のオホーツク海側はどこも緩やかなのぼり斜面になっているため、自転車で走りながら直接にオホーツクの海面を望むことはできなかった。そこで、帰る途中で自転車を道端に置き、ちょっとだけ小路を歩いてオホーツクの浜辺に降りた。そして、サロマ湖側と同様の黒味を帯びた砂地を踏んで波打ち際に歩みより、童心に返って水切りをしたりしながら、しばしのあいだ寄せる潮と戯れた。
  渚から自転車のあるところへと戻るとき、砂地に生える一茎の小さな植物に偶然爪先が触れた。すると、驚いたことに、その植物全体が、まるで根がないみたいな感じで砂上をスーッと横に動いたではないか。呆気にとられた私は、もう一度軽く靴先でその植物を蹴ってみた。すると、それはまた少しばかり横方向に移動した。
  すぐさまその植物のそばにしゃがみ込んでその様子をつぶさに観察してみると、意外なことがわかってきた。それは濃緑色多肉質の丸長な葉を放射状につけた奇妙なかたちの植物だった。五センチほどの長さのその葉の一端を指先でつまみ軽く前後左右に引っ張ってみると、その植物はいとも簡単に力の働く方へと移動した。まるで全体が砂に浮いているみたいである。砂を掘り起こして根っこと思われる部分を調べてみると、なんと、茎とも根ともつかない細い水糸のようなものが砂中深くに向かってのびているではないか。砂をどんどん掘り返していくと、深さ二、三十センチのところでその水糸状の地下茎らしいものは三、四本に分かれ、それぞれがまたより深い砂中へとのびていた。砂に湿り気の出てくるそのあたりから先の部分がほんとうの根っこなのであろう。
  なんという名の植物かはわからなかったが、本体部はまるで糸に繋がれたタコみたいに砂上に浮かんでいるわけだから、砂中深くからのびるその細い地下茎が切れないかぎりは砂上を一定範囲動くことも可能だし、なにかの拍子で砂に埋まったり強風のために傾いたりしても平気というわけである。たまたま目にした自然の妙に私は唯々感嘆するばかりであった。
  再び自転車に跨ると、こんどは竜宮街道のもう一端を目指して走り出した。ヴィジターセンター方面への分岐点を通り過ぎ、そこからさらに五キロほどペダルを踏み続けたが、散策路の両側に広がる草原は、こちらのほうもまた無数の花々で美しく彩り埋め尽くされていた。自転車による往復二十キロもの原生花園の散策は、一汗かきはしたものの、実に素晴らしいものではあった。
  ワッカ原生花園をあとにしてほどなく、食事をするため「ところ」という国道沿いのレストランに飛び込んだ。そして、そこのお薦めのメニューであるらしいホタテ尽くし定食を注文した。ホタテ汁、塩味の焼きホタテ、ホタテの煮物、ホタテの刺身、ホタテのヒモの和え物、ホタテサラダ、ホタテその他の魚貝類の揚げ物、ホタテのすり身にマッシュポテトと、なるほどその名に違わぬホタテ尽くしで、味といい量といい十分に満足のいくものだった。

「マセマティック放浪記」
2001年9月26日

北旅心景・網走刑務所

  満々と水を湛えた網走川にその橋は架っていた。鏡橋と呼ばれるその橋を、かつての受刑者たちは、孤独と悲哀と絶望と諦念の複雑に交錯した思いに駆られながら黙々と渡っていった。彼らのほとんどは死刑囚や無期懲役囚、そうでなくてもそれに近い長期刑の受刑者たちだった。刑期を終え、自由の身となって再びその橋を渡ることのできた者はまだしも幸いであったが、重刑にともなう過酷な労役や病苦に耐えかね、絶命した者も少なくはなかった。
 「水面に我が身を映し、衿をただし、心を清めよう」という思いを込めて、人々はいつしかこの橋を鏡橋と呼ぶようになったというが、ほんとうの意味で衿をただし心を清めるべきは、橋を渡って行った幾多の受刑者たちではなく、彼らを橋の向こうへと送り出した善良なる市民、否、善良と称される罪深い一般市民の側であったのかもしれない。いまでは一般見学者の通行も自由になった鏡橋を渡りながら、橋下の水面を眺めてみたのだが、現世を象徴するかのごとくに速い流れのゆえもあってか、世俗にまみれ汚れきったこの身の影など映りさえもしなかった。
  場違いも甚だしいかぎりではあったが、橋上から眼下の川面を見つめるうちに、なぜか私は、突然、アポリネールの詩、「ミラボー橋」の一節を想い浮かべた。女流画家ローランサンとの恋の終わりを歌ったこの有名な詩は、シャンソンにもなり、我が国でも堀口大學の訳詩を通して広く人々に知られている。うろ憶えのその詩文を胸の奥で呟きながら、そこが刑務所の橋であることも忘れ、しばし私は遠い想いに耽っていた。
  網走刑務所に収容されるのは、今では二年から三年間の短期受刑者ばかりになり、昔のように長期受刑者が服役することはなくなった。鏡橋を渡って奥へと進むと、赤煉瓦造りの高い塀の前に出た。そしてその塀にそってしばらく進むと、「赤煉瓦門」と呼ばれるアーチ造りの大門が現れた。映画などにもよく登場するあの網走刑務所の正門だった。巨大な将棋の王将の駒の上半分を切り取りって輪郭を屋根で覆い、下部に大きな半円形の通路を設け、その両脇にお化けクラゲ様の一対の守衛所を配したような赤煉瓦門には、たしかに独特の威厳がそなわっている。一般見学者が立ち入りを許されるのはその門の前までで、そこから奥は外部と隔絶された世界になっていた。
  ここから先に入りたければ、それなりの怒りと苦悩と絶望を積んだうえでやって来るんだな。ほんとうに、お前にそれだけの度胸と覚悟のほどがあればの話だがね――まるでその赤レンガ門は、罪多き身のくせに表立っては無垢のごとくに振る舞う小市民の私に向かって、そんな厳しい言葉を発しでもしているかのようだった。俳人松尾芭蕉は、当時流人の島として知られた佐渡島に遠く想いを馳せながら、「罪なきも流されたきや佐渡島」と吟じたという。そんな偉大な漂白の詩人の姿を想像するにつけ、罪があっても流される勇気のかけらすらないなんとも卑小な己の有様をつくづく情けなく思うのだった。

  網走刑務所は、明治二十三年三月、釧路監獄署網走囚徒役所として発足した。囚徒たちの労役によって、原生林に覆われた険しい山岳地や、深い笹薮と葦原の広がる未開の原野を開削し、中央道路を建設するのがその狙いだったという。現在は主要国道になっている網走から北見峠までの新道百六十三キロを切り開くために徴用された囚徒千二百名のなかだけでも、死者約二百名余、重傷者や重病者の数にいたってはその何倍にものぼるという過酷さであったらしい。劣悪このうえない生活環境、厳しい監視と拘束、さらには凄絶かつ残虐な強制労働の数々と、道路開削の作業現場は囚徒にとって獄舎における以上の修羅場となったのであった。
  富国強兵が至上命令であった当時の我が国においては、たとえ多数の死亡者や重傷者がでたとしても、重罪者は国土開発のために徴用して当然だとされていた。ノーベル賞作家ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィッチの一日」や「収容所群島」といった作品に描かれているような、スターリン時代における旧ソ連のシベリア開発の惨状となんら変わるところがなかったのだ。この旅の途中で私が走った網走や北見周辺の道路なども、もとはといえばそれら囚徒たちの尊い命と引き換えに開発されたものなのであった。
  社会を支配する強者たちは、いつの時代も自由と平等と秩序の名のもとに自らの権益や地位の保全に都合のよい体制やルールをつくりあげる。そして、それらの体制やルールを巧みに利用したりくぐり抜けたりする狡知に欠ける人々は、やがて窮乏へと追い詰められ、苦悩し絶望し、そしてついには不当な制度に反逆し重罪をも犯すようになる。何ひとつ失うものも守るべきものもなくなった者にとって、この世の規範はいかなるものも無に等しい。なんとも逆説的な話ではあるが、彼らの魂はその極限の地平においてのみ大いなる自由を得る。
  時の支配者がもしもその究極の自由さえも剥奪しようするならば、自由を謳歌しているはずの彼らのほうが心理的物理的に拘束され、疑心暗鬼の泥沼に陥ってしまうというパラドックスに遭遇せざるをえない。さもなければ、彼らが合法的と称する手段をもってその相手を処刑ないしは抹殺するしかなくなってくる。だが、処刑とか抹殺とかいうそんな行為は、詰まるところ、至上たるべき社会規範や社会倫理の敗北そのものにほかならない。釧路監獄署網走囚徒役所として発足したこの網走刑務所ひとつにおいてさえも、過去幾たびかそんな悲喜劇が繰り返されてきたのであった。
  帰りがけ、通路脇に立つひとつの石碑が目にとまった。網走刑務所開基百周年を記念し、平成二年十月に建てられたというその碑には、「わたしの手は厳しいけれど、わたしの心は愛に満ちている」という一文が刻まれていた。オランダのアムステルダムにある刑務所の門扉の刻字を翻訳したものだという。なるほどとは思いながらも、いっぽうで私の胸の片隅に棲む意地悪な心は、いつしかその文意を「わたしの心は愛に満ちているけれど、わたしの手は残酷なまでに厳しい」と逆転させ、「残酷なまでに」という六文字の形容詞をつけくわえたりしてもいた。
 
  網走刑務所の近くには網走監獄博物館がある。広大な敷地をもつこの博物館には、移築あるいは復元された初期の網走監獄の建物や関係諸施設のほか、過去百十年に及ぶ網走刑務所関係の行刑資料や監獄史文献などが展示されている。ついでなのでこちらのほうも訪ねてみることにしたのだが、市内観光スポットのひとつになっていることもあって、バスツアーの団体客その他、来訪者は少なくなかった。千円余の入館料を支払ってゲートをくぐるとき、入場者一人ひとりにカメラを向けている男の姿を目にとめたが、とくにそのことを気にすることもなく、私はその場を通り抜けた。
  ゆうに二十を超える展示建物や展示施設が並んでいたので、それらすべてをつぶさに見学するというわけにもいかなかったが、行刑資料館などはさすがにそれなりの見ごたえがあった。明治期の囚徒たちによる中央道路開削関係の詳細な資料は言うに及ばず、当時の獄舎内での囚徒や監守らの生活状況を伝える資料、各種監獄用具類、深い哀しみを全身に秘めた大小のニポポ(囚徒の手による木彫りのアイヌ人形)などまでが、ところ狭しと陳列展示されていた。
 また、ここには、明治の脱獄王、五寸釘の寅吉などに関する興味深い解説資料などもあった。脱獄すること実に六回、ある時など彼は、その破獄を防ぐため特別に設けられた三重監獄をも破り、超人的な身体機能をもって獄舎通路の高い屋根裏によじのぼると、頭突きで厚い屋根を貫き逃走したのだという。それに先立つ脱獄の際には、五寸(約十五センチ)釘を足で踏み抜いたにもかかわらず、その釘のついた厚板をつけたまま十二キロもの道のりを逃走し続けた。五寸釘の寅吉という、どこか畏敬の念さえこもったその異名は、そんな驚くべき実話にちなんだものであるらしかった。
  中央道路開削の時代、本拠の獄舎から遠く離れた作業現場などに設けられた仮宿舎「休泊所」を再現したものなどもあった。労役に駆り出された囚徒や看守らの等身大模型と擬似音声までをそなえるという手の込みようで、彼らの就寝の様子をはじめとする生活振りや拘束の厳しさなどを偲ぶこともできた。動く監獄とも呼ばれたこの休泊所は、その名称とは違って、囚徒たちが安心して休んだり泊まったりすることができるような場所ではなかったようである。
  当時の監舎内浴場の様子を再現し、等身大の人形などを配したものなども大変興味深かった。大勢の者が劣悪な環境のもとで寝食を共にするため、皮膚病などが流行しやすかったから、衛生面からも浴場は欠かせない設備であった。また入浴は収監者らにとっても大きな楽しみのひとつだった。しかし、厳しい監視のもとでの囚徒らの入浴風景はなんとも風変わりなものであったらしい。
  十人ほどの者が一組になり、脱衣場で衣服を脱いで横一列に並ぶ。そして、そんな一列横隊が何列もできる。浴場は広い長方形の空間になっており、その床面には細長いプール状の浴槽が二つ少し離れて設置されていた。複数の看守たちによる厳しい監視の下で入浴がおこなわれていたことは言うまでもない。
  浴室内で一定の間隔をとりながら横一列に並んだ入浴者たちは、そのまま一斉に前進し、手前の浴槽に五分前後の限られた時間だけ身を沈める。それから看守の指示に従ってやはり細長い前方の洗い場に上がる。そのあとに続いて次ぎの列の者たちが、前列の者たちの背中をみるかたちで一番目の浴槽に入る。五分間ほどかけて素早く洗い場で身体を洗った前列の者たちは、そのあと、前方にある二番目の上がり湯用浴槽に入る。また五分ほど身体を温めたら、そのままさらに前方の拭き場にあがり、身体を拭いて着衣場に入ると手早く着衣を終える。そして、この一連の奇妙な入浴劇が各列ごとに次々に繰り返されていくというわけだった。常に前向きの姿勢での入浴で、所用時間も各列十五分から二十分に制限されていたらしい。
  五翼放射状平屋舎房と呼ばれる獄舎も大変珍しいものだった。最初の獄舎が焼失したため、明治四十五年に再建され昭和五十九年まで使用されていたもので、その後、この博物館に移築されたのだという。正面入口から中に入ったすぐのところが大きな正八角形構造をもつ見張り所になっており、正面とその両脇の看守控え所のある三面をのぞく五面からは、一号舎から五号舎までの長大な獄舎が放射状にのびだしている。
  それぞれの獄舎の中央には七、八十メートルにわたるまっすぐな通路があって、その広い直線状通路の両側に独房や雑居房など大小の舎房が多数設けられている。要するに、八角形の見張り所の中央に立てば、一目で五棟の獄舎の通路を奥まで見渡せる構造になっていたわけである。通路上の屋根はずいぶんと高く、常人の能力ではどう足掻いてもよじのぼることのできるような造りではなかった。
  いくつかの獄房は奥のほうまでつぶさに見学できるようになっていたが、独居房は広さ四・九平方メートル、また、三〜五人の受刑者が暮らす雑居房の広さは九・九平方メートルほどで、いずれも頑丈な木造の獄房だった。脱獄常習犯の脱走を防ぐため特別に造られた、二重三重の厚い床と壁をもつ特殊独房も公開されていたが、脱獄の名人たちはそれでも破獄に成功したらしい。脱獄に賭ける彼らの執念はなんとも凄まじいものだったようである。
  たとえばある脱獄者などは、日々の食事に出る味噌汁や醤油、食塩などの塩分を何年にも渡って根気よく覗き窓の太い鉄格子の根元になすりつけ、ついに腐食したその鉄格子を折り外して脱走したという。忍者まがいの技術と四股の能力をもって高い壁や大きな柱をよじのぼり、天井や屋根に長時間はりつき脱獄を果たした者もあったそうだ。
  博物館敷地の片隅には四面の壁が煉瓦造りで屋根が瓦葺きの懲罰用独居房なども復元されていた。窓はまったくなく、入口の厚いドアを閉めると外部の物音は完全に遮断され、内部は漆黒の闇に包まれるようになっていた。獄舎内で粗暴な振舞いをしたり、重大な規則違反をしたり、命令に背いたりした者を懲罰するため、昼夜連続七日間を限度に入房させていたという。
  最後に足を運んだのは刑務所内の教悔堂を復元した建物で、内部には免囚保護の父と称えられる孝永法専師の業績なども紹介されていた。堂内最奥にある祭壇で香を焚いてお参りしてから出口に向かって歩いていると、美形の若い女性係員が足早に近づいてきて、「ご入館の時に撮影した写真が出来あがってますよ。とてもよく写ってますから、記念に是非如何ですか?」とにこやかに話しかけてきた。入館者を一人ひとり撮影していたのはこのためだったのだ。商魂逞しいことこのうえない。
  断ろうと思ったが、差し出された写真を見ると、なるほど我ながら意外なほどによく写っている。運転免許証の写真のような写り具合だったらそのまま相手の勧誘を振り切っていたのだろうが、まんざらでもなかったので一瞬心が動いた。そして、そこに見事につけこまれ、結局、博物館網走監獄写真部謹製なる絵葉書大の記念写真を千円で買わされるはめになってしまった。
  自分の姿が大写しになった写真の脇には網走刑務所正門の小さな横長の写真が添えられ、その下に「出獄許可證 右之者網走監獄入監見学中ノ処、其ノ見学態度神妙且ツ勤勉ニ付キ茲ニ特赦ヲ以ッテ出獄ヲ許可スルモノ也 2001年6月26日 網走監獄」という一文が付記されていた。確かに「見学態度神妙且つ勤勉」であったかもしれないなと苦笑しながら、私は駐車場に向かって再び歩きだした。

「マセマティック放浪記」
2001年10月3日

北旅心景・弟子屈

  斜里町を経て弟子屈(てしかが)町川湯近くに到着したのは午後十時頃だった。弟子屈町周辺の地理には明るかったので、暗いなか脇道や枝道に入っても迷うようなことはなかった。この一帯の地理に詳しいのは、摩周湖や屈斜路湖、釧路湿原などの大自然に魅せられ、若い頃から幾度となく足を運んできたことにもよるが、いまひとつには、公務員を退官した義父が一時期この地に居を構えていたからでもあった。その義父も既に他界し、義母や家内の弟妹たちも皆東京近辺に移り住んでしまったので、いまではこれといって知人がいるわけでもないのだが、私にとって何かと想い出深い土地であることには変わりなかった。
  硫黄山のすぐ近くを通り過ぎ、川湯の温泉街を抜けて屈斜路湖畔の砂湯に出ると、いったん車を降りて湖岸へと向かった。そして温泉の湧き出す水辺に立って湖面に漂う夜の大気を深々と吸い込んだ。昼間は観光客で賑わう湖畔も、夜遅くとあってはさすがに人影は見当たらなかった。暗い湖面をじっと眺めているうちに、言葉にならない様々な想いが胸中で交錯し、瞬時に消え去る幻のキャンバスの上に脈絡のない心象風景を次々と描き出した。
  旭川出身で北海道の自然を深く愛した義父は、旧大蔵省財務官としての仕事を退くと、自ら望んで自然に恵まれたこの地に移り住み、十年近く国家公務員共済会保養所「大鵬荘」の支配人を務めていた。かつては旧陸軍士官学校出身の軍人でもあった義父だったが、権威主義的なところはまったくみられなかったばかりでなく、他人に対する思い遣りも深く、思想的にもきわめてリベラルな人物であった。権威ある者の横暴さや理不尽な振舞いには敢然と立ち向かい、弱者のためには己の不利益や不都合を顧みず真心のかぎりを尽くし、しかもそれについて他言するようなことはほとんどなかった。
  弟子屈町出身の名横綱大鵬にちなんでその名前がつけられたという大鵬荘の宿泊客のなかには、国家公務員上級職や国会議員としての地位や権力を鼻にかけ、従業員や他の一般宿泊客に対して横柄極まりない態度をとる者なども少なくなかった。そんな時、義父は毅然として振舞い、けっして特別扱いしたりするようなことはなかった。義父に言動の非をたしなめられ、お前の首などすぐにも飛ばしてやるといきり立つ客を容赦なく叩き出してしまったようなこともあった。
  もっとも、そんな義父の気質が義母や家内、さらにはその弟妹らにとって幸いしたかというと、必ずしもそうとばかりとは言えなかったに違いない。たぶん、義母や家内ら子供たちは、見えないところで大きな皺寄せをうけ、それがもとで様々な苦労もしたことだろう。善しにつけ悪しきにつけ、ある人間がなにかしらの信念や理念を通して生きようとすれば、必ずどこかにその皺寄せが生じるものだからだ。むろん、それは、とるに足らないものながら、信念のかけららしいものだけは心に抱いて生きている我が身にも当てはまることだった。
  夜の湖岸に寄せるさざなみの音に記憶の深層を揺すぶられてか、突然、私は、仕事で上京中だった義父との初対面の日のことを想い出した。ごくありふれたお店の一隅で、義父はビール瓶と空のグラスを前に置き、飲めない私はジュースのグラスを前にして無言のままじっと向かい合っていた。静かだが心の奥を射抜くような鋭い視線で私の目を見つめていた義父は、やがて自分でグラスにビールを注ぐと、それを口にしながら、「本田君、いちど北海道に来たまえ、家内も待っているようだから」と一言だけ短く口を開いたのだった。近親者などまったくいないその日暮らしの身で、将来の展望もまるでたたない有様ではあったのだが、義父はそれ以上こちらの身上その他について詰問したり詮索したりするようなことはしなかった。
  弟子屈を訪ねるごとに、義父は自ら車のハンドルを手にしていろいろなところへと私を案内してくれた。地元の人だけが知る屈斜路湖や摩周湖の散策スポットは言うまでもなく、知床半島や根釧原野、釧路湿原、さらには阿寒、美幌、北見一帯にまでその範囲は及んだ。山菜や茸採りに連れて行ってくれることもしばしばだった。そして、そんなふうに私を案内するかたわらで、義父は、大陸で自ら体験した戦時中の凄惨な出来事などについて、どこか重たい口調ながらも、包み隠すことなく話してくれたものだった。職業軍人という立場のゆえだったとはいえ、義父もまた、消し去ることのできない戦争の傷を心中深くに秘め隠して生きる人間の一人であることを、その時私は初めて知ったようなわけだった。
  あるとき義父は、何を思ったのか、自分が悪性の癌などのような死につながる病にかかった時には必ずそのことを告知してくれるようにと言った。それからずっとのちのことになるが、静岡県伊東市に移って余生を送っていた義父は、耳下腺に異常をきたし、東京の駒込病院に入院した。専門医による詳細な検査の結果、異常の原因は悪性の耳下腺癌と判明、転移の疑いもあることが明らかになった。それとなく状況を察した義父は医者や義母や家内らに病状について本当のところを告げてくれるようにと執拗に迫ったが、誰もが、たいしたことはありませんよと笑ってはその場凌ぎの対応に終始していた。
  何度かの見舞いの際に、たまたま義父と私とが二人だけになることがあった。義父はまるでその機会を待ち構えていたかのように私の顔を見つめ、単刀直入に病名と客観的な病状とを訊ねてきた。「悪性の癌などにかかった時には必ずそのことを告知してくれるように」という義父の言葉を想い出だした私は、もうこれ以上嘘はつけないと観念した。鋭い義父の視線も、それ以外の選択をすることを許してはくれそうになかった。私は率直に「かなり悪性の癌です」と伝えたのだった。あえて「かなり」という一語を冠したのは戸惑い揺らぐ己の心の証そのものにほかならなかった。
  義父は私の言葉に黙って頷いた。あきらかにすべてを悟った表情であった。それからほどなく、義父に病名を告知したことを義母や家内らに正直に伝えたが、幸い誰からもその行為を責められるようなことはなかった。それから一ヶ月ほどして、義父は、心身すべての痛みから解放されるように静かに他界した。

  暗い湖面を見つめながら義父にまつわるそんな出来事を回想しているうちに、せっかくだから大鵬荘の跡を訪ねてみようかという思いが湧いてきた。風の噂で、大鵬荘は閉鎖され敷地と建物は売りに出されているという話を耳にしていたので、いまはどうなっているのだろうかという思いもあってのことだった。
  釧路川の支流のひとつは屈斜路湖から流れ出している。その支流を渡り、釧路と美幌をつなぐ国道を左折して二十分ほど走ると弟子屈市街に出た。かつてのJRの駅は町名とおなじ「弟子屈」であったが、いまでは「摩周」という駅名に変わっている。この町は摩周湖観光の玄関口だから、より一般に親しみのある駅名にということで、そのような名に変更されたのだろう。駅名も変わっていたが、それ以上に変貌をとげていたのは弟子屈の街並みそのものだった。すっかり近代化し、夜間でも都会並みに明るくなった街並みには、かつてのような旅愁を誘う北国の町特有の風情などまったく感じられなかった。
  建物や道路をはじめ、町全体の景観や雰囲気がすっかり変容していたため、大鵬荘のあった場所を探し出すのに少しばかり手間取った。だが、大鵬荘そのものは、無人となり荒れ果ててはいたものの昔のままで存在していた。懐中電灯を手にして敷地内に入り、かつては宿泊客で賑わっていた白い木造二階建ての建物の玄関先に立つと、封鎖されたドアの前に何事かを掲示した板が一枚掛かっていた。そして、そこには、この物件が売出し中であり、問い合わせ先は弟子屈町川湯の国家公務員共済会保養所である旨の表示がしてあった。
  樹木と雑草がのびほうだいにのびた庭を奥へと進むと、見覚えのある楡の巨木が現れた。大鵬荘の主ともいうべき楡である。中学を卒業したてのある従業員の女の子が、この樹上高くにのぼり、親元の家のある方を遠く見つめながら泣いていたという伝説の楡の木だった。
  いまでこそ緑豊かな酪農地帯になっているが、パイロット・ファームと呼ばれていた草創期の開拓牧場で働く者の生活は困窮を極め、あちこちで夜逃げが起こったりするほどに悲惨なものだった。義父はそんな家庭の女の子たちを雇い、親身になって我が子同様に育て上げ、夜学や通信教育を通してそれなりのことを学ばせ、結婚したり転職したりする場合もあれこれと世話をやいていた。そして、彼女たちが巣立っていったあとも、ことあるごとに相談にのったり面倒をみたりもしていたようである。それでもなお、中学卒業後すぐに親元を離れ慣れない職場で働くことは、彼女たちにとって大変なことだったのだろう。
  義父はよく従業員の女の子たちの実家に近況報告をかねて挨拶に出向いたが、そんな時などに同行してみると、牛熊原野(実際そんな地名があった)何番地などといったような、人里を遠く離れたなんとも辺鄙な場所だったりもした。一帯がタンポポの黄一色に覆われる初夏などの景観は、旅人の目には素晴らしいものに映りもしたが、飼われている牛の数が少ないことや、厳冬期の自然の猛威などを考えると、その生活の過酷さは容易に想像がつきもした。
  裏庭にまわり、掃除などを手伝った記憶を頼りに温泉の源泉のあったところを覗いてみたが、すっかり深い草むらに覆われ、はっきりと確認することはできなかった。当時は絶え間なく熱湯が湧き出ていたものだが、もしかしたらなんらかの理由で温泉が枯れてしまたのかもしれない。義父が可愛がっていたコロという名の利口な雑種犬や、名前は忘れたが黒毛の大きなアイヌ犬などを引き連れて敷地の裏手に続く山に分け入り、山菜採りや茸採りをしたことなども懐かしく想い起こされた。
  懐中電灯を片手にあちこちとうろつく姿をどこかで義父が見ているかのような気がした私は、ポケットから携帯電話を取り出し、自宅の家内を呼び出した。そして、いま大鵬荘にいる旨を告げ、驚く声を耳にしながら、建物や敷地周辺の変容ぶりを実況放送よろしくつぶさに伝えたりもした。私以上にこの地に深い想い出のある家内などは、感慨もひとしおだったに違いない。

  大鵬荘をあとにすると、私はもう一度屈斜路湖へと引き返した。ただし、こんどは砂湯ではなく、屈斜路湖の南岸から湖中にのびだす和琴半島に向かうためだった。全体が和琴の形に似ているためにその名があるこの小さな半島のなかほどには、いつでも自由に入浴可能な露天風呂がある。湖畔に面したかなり大きな天然の温泉で、熱いくらいのお湯がこんこんと湧き出ており、しかも入浴料は無料ときている。星空でも眺めながらこの露天風呂に入って、ゆっくりと一日の汗を流そうという魂胆だった。
  和琴半島に着いたのは午前零時頃だった。オートキャンプをやっている車の影が何台か見られたが、露天風呂には地元の人らしい先客が一人はいっているだけだった。手早く服を脱ぎ、自然の岩を組んでできた湯船の中に飛び込むと、心地よい底の砂地にどっかりと尻をすえ、四股をいっぱいにのばして目をつむった。すぐそばの渚から時折かすかな水音が響いてくるくらいで、あたりは静寂そのものだった。
  しばらくして先客が立ち去ると、広い露天風呂は文字通り私の占有物と化した。湯船の中から遥かに見上げる夜空では、白鳥が悠然と銀河の流れの中を羽ばたき、その銀河をはさんで佇む織姫と牽牛は、永遠に叶わぬ恋と知ってか知らずか、互いに青い光を放ちながらいつまでも瞬き呼び交わし合っていた。
  そんな静寂のなかにあって想うべきことは、本来なら他にあってしかるべきはずだった。だが、こともあろうに、その時私が想い浮かべたのは、死ぬまで義父が心の奥底に負い続けた深い深い傷のことだった。義父が生前私にその話をしてくれた真意がどこにあったのかは今更知るすべもなかったが、自らが大陸の戦場で体験した凄惨かつ愚かな行為を後世に語り伝えておく必要があると考えていたことだけは確かだろう。かつて私が聞いた話の一端はたとえば次ぎのようなものであった。
  義父の話によると、中国を侵略した日本陸軍は、地理不案内な地域へ作戦部隊を進めるとき必ず現地の民間人を呼んで道案内をさせていた。そして、案内させている最中はもっぱら彼らとにこやかに談笑し、食糧を分け与えたり煙草をすすめたりしていたが、いったん用済みとなると直ちにその場で射殺した。むろん、それは軍上層部からの至上命令で、その処理が終わると、当然のようにまた別の案内人を呼び、事が済み次第また同様に射殺するという行為を繰り返しながら進軍を重ねていったのだという。
  中国人捕虜の扱いも正気の沙汰は思えないものであったようだ。兵站が不十分であった日本軍には人的にも物的にも中国人捕虜を養うだけの余裕はなかった。そのため、陸軍司令部は国際法違反を承知で各部隊に捕虜を割り当て、処刑させるという手段をとった。各部隊は割り当てられた捕虜たちを軍用犬の訓練や初年兵の教練のために用いたという。
  後ろ手に縛って自由を奪い、獰猛な軍用犬に襲いかからせようとすると、死を覚悟した無抵抗の中国人捕虜たちは恐ろしい眼で犬どもを睨みすえた。そのあまりに凄まじい形相に怯えをなして、さしもの軍用犬もすぐには近づこうとはしなかったらしい。そんな時、現場を指揮する将校たちは軍刀で捕虜の耳や鼻をそぎ、それを犬に食わせて血の味を覚えさせてから襲いかからせたのだという。その様子を見ていた義父は、犬にそうやって襲わせ殺すよりはひとおもいに殺してしまったほうが彼らのためだと考え、自分の部隊に割り当てられた捕虜を軍刀で切ったと辛そうに話してくれた。義父の場合は、極力部下にそんな蛮行をさせないようにするため、なるべく自分で責任をとるようにしていたらしい。
  処刑されようとする時、中国人捕虜たちは首を切り落とさずに刺殺してくれるように哀願したという。首を身体から切り離されると人間に生まれ変わることができないという信仰が当時の中国人にはあったからであるらしい。そのいっぽう、中国人大衆は、そんな時、大勢集まってその凄惨な光景を外から眺めているのが常だったようである。
  陸軍士官学校などを終え、新人士官として戦線に送られた者などは、上官によってまず数人の中国人捕虜の首を切り落とすよう命じられたものだという。古参兵などの部下を指揮して戦闘を展開するには、その程度のことはごく普通にできなければならないと考えられていたからだった。はじめて五人の捕虜の首を切り落としたとき、義父は吐き気をもよおし一週間以上も食事をとれない状態だったらしい。しかし、やがてそういう行為に対する嫌悪感も麻痺していったと義父は正直に告白している。
  もっとも残虐だったのは医療担当の衛生兵で、なにかにつけ捕虜を殺害したという。天井から逆さ吊りにして拷問にかけ、そのまま捨て置いて街へ飲みにでかけたりすることなど日常茶飯事であった。むろん、その間に捕虜たちは皆死んでしまっていた。
  中国人捕虜や強制的に狩り立てた現地労働者たちを遠くまで連行して使役し、労役が終わると次々に殺して死体を遺棄したり埋めたりするのは、日本の部隊が当時よくやっていたことであった。ところが、そんな時、どこで誰がどう手筈を整えるのかは判らなかったが、必ずと言ってよいほど、翌日になると遺体は跡形もなく消え、何処へともなく運び去られていたという。
  もちろん、時には日本兵の捕虜が無残な姿で発見されることもあったようだ。口から尻まで太い針金を通して裸のまま宙に吊るされ、中華料理の豚の丸焼きを作るのとおなじ要領で焼き上げられた戦友を目にし、愕然としたこともあったそうだ。戦場の人間心理とは異常かつ勝手なもので、そんなときには自軍の残虐行為など棚に上げ、悲憤と激しい敵愾心に駆られたものだという。
  戦争とは狂気そのもの――狂気にならねば戦争には耐えていけない、正常な判断力を意識的に擦り減らさないかぎり戦争のさなかを生き抜いていくことはできない、それは異常が正常で正常が異常となる世界なのだと、義父は言葉を噛み締めるように語っていた。家内の話によると、義父は寝ている時などにひどくうなされることがあったそうだから、たぶん、そんな時など遠い日の深い心の傷が悪夢となって甦ってきていたのであろう。東アジアや東南アジア一帯で日本軍を率いた多数の将校や下士官たちは、その意味では皆同罪者であり、また同じ心の負傷者でもあったのだろう。
 「平時には人一倍冷静沈着でしかも穏やかな人が……そう、虫一匹殺さないほど生命に深い畏敬の念を抱いている人間が、死に直面した極限状態の戦場では驚くほどに変わってしまうものなんだよ。むしろそんな人間のほうがびっくりするほど勇敢に戦い、しかも敵に対して冷徹に、そして時には残忍このうえなく振舞ったりするものなんだ。どんな人間の心にも鬼や悪魔が棲んでいる。本田君、君なんかも戦場だとどう変わるかわらないぞ……」
  あれこれと二人の間での会話を回想するうちに、いつしか私は、あるとき義父が何気なく吐いたそんな言葉を想い出していた。確かに自分の心にも冷酷無比な鬼が棲んでいるに違いない。その鬼を生涯眠らせたままにしておくことができれば幸いではあるし、また極力そうしたいものだとも思ったが、絶対に目覚めることがないと言い切れるだけの自信はなかった。義父の言わんとしたところは、一時代前の名画「人間の条件」のいくつかのシーンにそのまま重なる感じさえあった。
 
  複雑な想いに駆られながら露天風呂を出た私は、車に戻るともうひと走りして摩周湖の第三展望台駐車場に向かうことにした。もちろん、気分を入れ替えながら夜道を駆け抜け、見晴らしのきくその場所で一夜を明かそうと考えたからだった。だが、いったん脳裏に浮かび上がった亡き義父の重い言葉は、展望台駐車場に着いてもなお、容易には意識の舞台裏へと消え去ってはくれなかった。

「マセマティック放浪記」
2001年10月10日

北旅心景色・湯の滝

  この日の朝、久々に展望台に立って摩周湖を見下ろしてみたが、すでに濃い霧が発生していて、湖面のごく一部しか目にすることはできなかった。若い頃登った対岸のカムイヌプリ(摩周岳)の山影はむろん、湖の中央に浮かぶカムイシ島さえも見えなかった。霧の摩周湖といわれるように、ほどよい霧はこの湖の演出に欠かせないもののひとつなのだが、何事も過ぎたるは及ばざるがごとしで、ほとんど視界のきかない濃霧となると話は別である。
  たまにだが、眼下はるかな湖面だけがまるでやわらかい真綿を敷き詰めでもしたかのような白く濃い霧に覆われることがある。そんな時の摩周湖は神秘的で美しい。それに日の出や落日が重なったりすると、霧が赤や紅に染まって感動はいっそう大きなものになる。青く澄んだ月光の下で眺める霧の摩周湖などは「幻想的」の一語に尽きる。だが、そういった摩周湖の姿を目にしたいと思ったら、天候のほかに太陽や月の運行状況など、諸々の条件を見はからったうえで出かけなければならない。当然のことながら、訪ねる時間帯も通常の観光客のそれとは大きくずれこんでしまう。
  朝日に映える美しい摩周湖を眺めようというこの日の思惑は外れてしまった。だが、幻夢にまごうばかりの摩周湖の景観には過去何度も出逢ったことがあったので、とくに落胆することもなかった。車中に戻り、二、三時間原稿を書いたあと、清里峠からちょっと登ったところにある裏摩周展望台にもまわってみたが、こちらのほうはもっと深い霧に包まれていて、まったく視界はきかなかった。摩周湖にはカムイヌプリの懐に抱かれるようにして一箇所だけごく小さな浜辺が存在している。視界のいい日なら、この裏摩周展望台からは、小型調査船が一隻だけ置かれているその浜辺のあたりを望むこともできる。
 
  裏摩周展望台から根釧原野方面へと抜け、養老牛温泉、中標津、計呂地あたりを気の向くままに巡ったあと、標茶を経て再び弟子屈に出た。そして、通りすがりのお店で夕食をとると、阿寒湖方面へと向かって走りだした。深山を縫うこのあたりの国道を夜中に走行していると、エゾシカやキタキツネなどが道路脇からいきなり飛び出してくるもすくなくない。道路がよく信号がないうえに通行車輛もほとんどないときているから、どうしても車の速度が上がってしまう。そんなときエゾシカなどにぶつかられたりしようものなら、相手ばかりか、こちらのほうもただでは済まない。途中で濃い霧も湧いてきたので、ヘッドライトをビームにしたたまま慎重にアクセルを踏み続けた。
  大小のホテルや土産物店の立ち並ぶ阿寒湖畔はそのまま通過し、しばらく足寄方面へと進んだあと、左折してオンネトーへと続く林道に入った。周囲を深い樹林帯に囲まれたオンネトーは、コバルトブルーの透明な水を湛え神秘的な色の沼で、その湖面には背後に聳える雌阿寒岳や阿寒富士が美しい影を落としている。だが、いくらなんでも、そんな夜遅い時刻にオンネトーを訪ねてみたって、景色が眺められようはずもない。実際の私の狙いは、オンネトーのすこし奥にある秘湯「湯の滝」で一風呂浴びることだった。
  いまでは、オンネトー探訪の観光バスの回転場にもなっている湯の滝入口の駐車場に着いたのは午後十時頃だった。国道から分岐してこの駐車場に着くまでに三度キタキツネと遭遇した。キタキツネは車の前方を横切るときも他の動物のようにバネをきかして素早く走り抜けたりはしない。胴長の体を支える四本の足をちょこまかと動かしながら通り過ぎていく。だから、そのぶんだけ車に撥ねられる確率も高い。
  阿寒富士の麓の広大な樹林帯の奥にあるため、昼間でも来訪者のほとんどない湯の滝を、こんな時刻に訪ねるなんて気違い沙汰だと思われても仕方がないが、そんな気違い沙汰の体験をするのは、これが初めてのことではなかった。お目当ての湯の滝までは、車止めのゲートの向こうに続く林道をここからさらに一キロ半ほど歩かなければならない。ナップサックにタオルや着替えを詰め込むと、私は懐中電灯を手にして車を降りた。むろん、他に車の影などあろうはずもなかった。
  深い樹林の中を縫う林道に入ると、あたりは文字通り漆黒の闇となった。懐中電灯を消すと、そこはもう自分の手先さえも見えない暗黒の世界であった。ただ幸いなことに、幼少期九州の離島で闇夜に親しんで育った私には、闇に対する恐怖感などまったくない。それに、若い頃から登山を趣味にしてきたから、闇夜に山奥をうろつくことなどお手のものだった。
  明るいことはいいことだという時代の風潮のもとにあって、我が国の夜の世界からは真の闇がほとんど姿を消してしまった。いまでは、三百六十度くるりと周りを見渡しても人工の明かりがまったく見当たらない真の闇というものを探すことのほうが難しい。シーンという闇の音さえも聞こえる漆黒の大気には、鈍った五感を鋭く甦らせてくれる不思議な力があったものだが、暗闇のもつそんな働きも忘れられてもう久しい。己の細胞の隅々にまでしみわたり、それらを浄化し活性化してくれる本物の闇を久々に体感することができ、私はすっかり嬉しくなった。
  森の奥からは時折夜鳥や夜行性動物の鳴き声が響いてきた。それらに耳を傾けながら二、三十分林道を歩くと、すぐ近くで落水の音のするちょっと開けた場所にでた。そこがほかならぬ湯の滝だった。左手前方にザーザーと流れ落ちる滝があり、その滝の水はその手前の小広い池の中へと流れ込んでいる。さらに、その池の水は、細い水路伝いに近くの沢へと流れ出していた。
  やはり深夜にこの湯の滝を訪ねたとき、この滝下の池のまわりの草地にはエゾシカの群がいて、ライトを向けると、彼らの目が一斉に澄んだ黄色に輝いて見えたものだった。だが、この夜は滝の水音だけがひたすら闇の中にこだましているばかりだった。懐中電灯を消して暗闇の中に立ち、すこしひらけた頭上の空を見上げると、点々と輝く美しい星々の姿が遠望された。それらの星々の瞬きは、まるで天空はるかなところにある村々の灯火のようにも思われた。そしてその光は、何十億年もの時を超えて体内深くにいまも眠る、遠く懐かしい命の記憶を揺り醒ましでもしてくれるかのようだった。
  小さな木橋を渡って滝下に近づき、流れ落ちる水に手を差し出すと、指先に温かい感触が伝わってきた。ちょっとぬるめではあるのだが、湯の滝という名の示す通りに、それは温泉の滝なのだった。もちろん、滝の水の注ぎ込む池の水のほうも温かかった。私は、滝の右手の急斜面を縫う細道伝いに源泉のあるところ目指して歩き出した。三、四分ほど登ったところには以前にはなかった小さな簡易更衣所とこれも最近のものらしい円形の露天風呂が設けられていた。夜間に入浴者があることなどはなから想定されていないから、むろん照明の類はいっさいなく、懐中電灯だけが頼りだった。
  私はそこからさらに上へと続く急な道を二、三分ほど登っていった。すると見覚えのある湯の滝の源泉が姿を現わした。深い樹林に覆われた山の斜面の一角にごつごつした天然の大岩で囲まれた細長い湯釜があって、そこにこんこんと温泉が湧き出ているのだ。ライトを当てると一瞬黒っぽく見えはしたが、実際には良質の透明な温泉であった。湧き出ているお湯の温度も四十度弱くらいなので、のんびりとぬるめの湯につかるのが好きな人などにはちょうどよい。 
  以前のようにこの源泉のお湯に直接身を沈め、こころゆくまで疲れを癒すことができたらと思ったのだが、残念なことに湯釜の脇には入湯禁止の表示とその理由を記した立札がたっていた。この温泉がマンガン泉という大変珍しい泉質のものだということは以前から知られていたのだが、北大などによる近年の研究調査によって学術的にも極めて貴重な存在であることが判明、現状を保存するため入湯禁止の措置がとられるようになったらしい。どうやら下の新露天風呂はその代替として造られたもののようだった。
  この温泉にはマンガンが溶けているのだが、糸状藻類のマンガン酸化細菌という微生物がそのマンガン成分を酸化し沈積させる。そのため、源泉付近や湯の滝の流床には現在でも酸化マンガン鉱床が生成中なのだそうである。温泉そのものは透明なのに黒っぽい色に見えるのは、マンガン酸化菌とそれによって生成された酸化マンガン鉱が底部一面に付着するためらしい。
  生命誕生からまだ間もない三十数億年前の時代には、地球上のいたるところでこのような現象が起こっていたようである。だが、現在ではこのような事象が見られるところは世界的にも極めて稀で、これまで発見された同様のケースのなかでも、この湯の滝の事例は最大規模のものだという。北大理学部や工業技術院の研究者がいまも研究を続けているが、最近では海外の専門研究者の来訪もすくなくないようで、この特殊な酸化マンガン鉱床をテーマに学会なども開かれているらしかった。
  誰も見てなんかいなかったけれど、そんな畏れ多い温泉とあっては入浴するわけにもいかない。そのため手先を源泉の中に差し入れ湯の温もりを確かめただけで引き返した。そして、そのかわりに新設された露天風呂のところへいくと、大急ぎで服を脱ぎ湯船の中へと飛び込んだ。絶え間なく湧き出るお湯の加減も上々とあって、まさにこの世の天国そのもの、もしかしたら森の中の小動物が呆れ顔でこちらの姿を眺めていたかもしれないが、そんなことなどすこしも気にならなかった。
  試しに懐中電灯を消してみると、一瞬にしてあたりは濃い闇に包まれたが、すでに目が闇になれていたので、自分の手先さえも見えない漆黒の闇の中にいるという感じではなかった。頭上に開いたまるく小さな夜空では、織姫の名をもつ琴座の一等星ヴェガが、その哀話を訴えかけでもするかのように青い光を放っていた。

  車に戻ってそのまま眠り、翌朝九時に目覚めた私は、もう一度湯の滝に出向いて朝風呂を浴びることにした。深々と繁る樹々の緑によって浄化された大気は爽やかそのものだった。湯の滝付近には、早朝にやってきたらしい三、四人のツーリストの姿も見うけられた。そのなかの一人が温泉滝の流れ込む池の中を覗いているので、なんだろうと思いながらそのほうに目をやると、驚いたことに魚の群が泳ぎ回っているではないか。大小無数の魚体が目にとまったが、大きいものは三十センチほどもあるようだった。以前には魚影らしきものなど皆無であったから、どうやらそれらは最近になって大繁殖したものらしい。
  北海道の渓流というとまず思い浮かぶのはイワナの仲間のオショロコマだが、冷涼な水に棲むオショロコマがいくらなんでも温泉の湯の中に生息しているわけがない。よくよく観察してみると、水槽で飼われている熱帯魚にどこか似ている。しかも魚種も一種類だけではなさそうだった。池を水源とする細流のあちこちに何段にもわたって目の細かいネットが張ってあるところをみると、魚が下流に逃げ出すのを防ぐつもりなのだろう。これらの魚を誰かが飼いでもしているのだろうかとも思ったが、それにしてはどこか不自然な感じだった。
  池から温水の流れ出る水路沿いに下流に歩いてみると、いたるところに体長二、三センチの稚魚らしいものの姿があった。その水路は百メートルほどいったところでやはり水温の高そうな渓流と合流していたから、その地点から下流側にもこの魚は生息しているに違いない。どういう事情でこんなことになったのかはわからなかったが、川の生態系に大きな影響がでるのではないかと心配になってきた。
  気持ちよく朝風呂を浴びてから池のところにおりてくると、ちょうど林野庁の森林監視員らしい男がやってきて、なにやら周辺の状況をチェックしているところだった。そこでちょっと声をかけ、なぜ池の中に魚がいるのか尋ねてみた。すると、相手はなんとも苦々しそうな口調で、その意外な理由を説明してくれた。
  彼の話によると、温泉池に生息しているのはテラピアやグッピーなどの熱帯魚なのだそうだった。数年前、心ない誰かがそれらの魚を放流、その後大繁殖してこんなことになってしまったのだというのである。池が浅く小さいため、成魚でも三十センチ以上になることはないのだそうだが、それらを除去することは大変困難であるらしかった。
  生態系への悪影響をおそれた国立公園管理当局も、過去三度も池の水を排水し繁殖した魚の完全除去を試みたようである。だが、無数の小さな卵まで取り除くことは不可能なうえに、熱帯魚の卵は乾燥に強いため、池に温水が戻ると残された卵が孵化してたちまちもとの状態にもどってしまうのだそうだ。いまでは付近の渓流のかなり下流までその生息範囲が広がっているが、幸い一定地点から先では水温が急激に下がるため生存が不可能で、なんとか事無きをえているという。
  その監視員はさらに仰天するような話をしてくれた。五月頃の融雪期に冬眠から目覚めたヒグマは、まだ山に餌となるものがすくないため、この池におりてきて中の魚を狙うようになってしまったというのである。観光客に万一のことがあったら大変だから、管理当局も神経を使っているそうだが、万全の対応策はないということであっった。阿寒一帯が緑に覆われる頃になると餌に不自由はしなくなるから、この時期は大丈夫だとのことだったが、私は内心ギョッとせざるをえなかった。
  そうとも知らず、深夜、ここの露天風呂に入って鼻歌気分だった私の様子を、深い樹林の奥からじっと窺っていたヒグマなどがいたかもしれない。まあ、あまりウマそうにも見えなかったろうし、とても一緒に温泉につかる気にもなれなかっただろうから、相手のほうが遠慮してくれたに違いないが、いささかギクリとさせられるなんともクマった話ではあった。たださすがに、昨晩遅く独りでここにやってきて露天風呂に入っていたなどと、監視員に正直に告白するわけにもいかなかった。
  学術上も極めて貴重なマンガン泉を守るため、心ない観光客によってこれ以上付近の環境が荒されるのは避けなければなりません。また、ヒグマなどによる万一の事故にもそなえなければなりません。だから、近いうちに温泉入浴は全面禁止し、新設の露天風呂も更衣所も休憩所も除去してしまうことになっています――監視員の男は最後にそんな言葉を付け加えた。
  彼の言う心ない観光客の一人であるかもしれない私は、その言葉をただ黙って聞くしかなかったが、この大自然の中の名湯もこれが入りおさめかと思うと、なんとも残念でならなかった。

「マセマティック放浪記」
2001年10月17日

北旅心景・十勝岳山麓

  早朝苫小牧港にやって来た私は、仙台からフェリーでやってくる教え子のS君の到着を待った。たまたま電話をしたことがきっかけで、気候も良いことだし、どうせなら北海道で会おうということになったのだった。心の片隅には、北海道は初めてだというS君に車の運転を任せ、こちらは助手席でのんびりと風景でも楽しもうという魂胆もあった。考えてみると、旅先で他人に自分の車を運転してもらい、助手席でボーッとするなんてついぞなかったことなのだ。
  下船してきたS君を拾うと、互いの挨拶もそこそこに富良野目指して走り出した。北海道に滞在できるのはあと二日だけということもあって、どこでもいいから、気力と体力の続くかぎり走り回ろうということになったのだった。門別から富良野街道を沙流川沿いに北上、日高、占冠と通過したところでハンドルをS君に委ね、あとはひたすら心身を虚脱状態におくことにした。
  南富良野町の金山を過ぎ国道三八号にぶつかったところで右折、そこからしばらく行った富良野市東南端の東山で左折した。倉本聰作のテレビドラマ「北の国から」の舞台として名高い麓郷方面へと続く道に入るためだった。この東山で左折せずにしばらく進むと南富良野町幾寅に到る。この幾寅というところは、私が初めて北海道の大地を踏みしめた想い出深い場所でもあった。
  私には小学生の時以来文通を続けてきた定塚信男さんという一学年上の友人があった。もうずいぶんと昔のことになるが、定塚さんの結婚式に出席するため南富良野にやってきた私は、幾寅の駅で彼と初めて対面した。函館で青函連絡船を降り根室行きの列車へと乗り継ぐ際にコンクリート製の通路やプラットフォームを歩きはしたが、文字通りの意味で北海道の土を踏んだのはその時が初めてだった。
  遠い日の回想にひたっているうちに、はや車は老節布に差し掛かり、それに合わせていっきに展望が開けてきた。雄大な十勝岳山麓高原に広がる大牧場や大農場を訪ねるなら、東山からこの山麓線に入り、老節布、麓郷を経て高原づたいに美瑛丘陵へと抜けるのがベあストである。昔と違って道路も素晴らしくよくなったから、初心ドライバーでも問題ない。
  どこまでも牧草地や畑地の広がるゆるやかな丘の向こうには、真っ青な大空を背景にして白い雲がもくもくと湧き立っている。「あの丘を越えたところにはいったいどんな世界が待ちうけているのだろう?」――旅人の胸に哀愁の翳さえ帯びたそんな想いを湧き起こさせるのも、この一帯の風景の特徴だ。ヨーロッパの田園地帯の風景画に通じるものがそこにはある。
  いまでこそ緑豊かな酪農地帯となっているが、定塚さんと私とが初めて対面した頃には、この近隣の開拓農家の生活はたいへんに厳しいものだった。「北の国から」の初期作品に描かれた辛く貧しい生活より、さらに過酷な現実と人々は向かい合っていたのである。当時、まだ若かった定塚信男さんは、自ら志願し、一級僻地と呼ばれる十勝岳山麓奥の分校の教師をやっていた。冬場には豪雪のため外部との往来がまったくできなくなるその分校で、彼は毎年六ヶ月近く生徒たちと共同生活を送っていた。親元を離れ長い冬を暮らす分校の生徒たちは、皆パイロットファームと呼ばれる開拓農場従事者の子供たちだった。
  定塚さんは、冬場に緊急事態が生じたときなど、スキーを使い、猛吹雪の中をついて、命懸けで本校との間を往復していたようである。お蔭でスキーが上達し、教師になってすぐスキー検定で一級がとれたと笑っていたものだ。ある年の冬に定塚さんが上京したとき、お土産に何がいいかと尋ねると、子供たちと一緒に遊べるものが欲しいとのことだった。そこでデパートに行ってゲームセットを買い込み、それをプレゼントしたことなどがいまは懐かしく想い起こされた。
  かつてはくすんだ色に包まれていた富良野一帯も、いまでは明るく恵み豊かな土地へと変貌を遂げた。定塚さんが寝食を共にして育てた子供たちの幾人かは、たぶん、いまではこの周辺の大農場の経営者になっているに違いない。もちろん、道路の整備が飛躍的に進み、どこの家庭も車を持ち、生活環境も驚くほどに向上したいまでは、一級僻地の分校などというもはなくなってしまったことだろう。定塚さんもいまでは旭川市に居を構え、同市の中学に勤務している。はじめ国語の教師だった彼は、その後、声楽を主とした音楽を本格的に学び、現在では北海道の大合唱団を指導する高名な音楽教師になっている。
  ゆるやかな緑の起伏のどこまでもつづく風景に酔いしれながら走っているうちに、車は麓郷の集落に到着した。「北の国から」の撮影に用いられた建物のセットは、以前あった場所とは違い、麓郷の森という広い樹林帯の中に移されている。麓郷の森の入口には大型観光バスなどを何台も収容できる駐車場も設けられていた。これまで「北の国から」の撮影で用いられた各種セットの建物は、大木の生い茂る森の中に点々と配置されていた。S君とともにそんな森の中をめぐりながら、厳しさのなかに人一倍の謙虚さと温かさを秘めた倉本聰さんの姿をふと想い浮かべたりもした。 
  この地を舞台にしたドラマ「北の国から」と富良野塾の生みの親として、富良野という地名を全国的に広めた倉本さんの功績は大きい。もちろん、富良野は、雄大な自然の宝庫、ジャガイモ、カボチャ、トウモロコシ、メロンなどの作物の産地、ラベンダーをはじめとする珍しい花の栽培地、さらにはスキーの好適地として、昔から一部の人には知られていた。だが、それらが倉本さんの発信するドラマの世界と有機的、重層的に結びつくことによって、富良野の名は一躍全国的に知られるところとなったのだった。何事にも功罪はつきものだから、負の一面もそれなりにあったには違いないが、功のほうがはるかに大きかったことだろう。
  かつて若狭大飯町の若州一滴文庫小劇場では、主催者で作家の水上勉さんを囲んで、毎年のように様々な催しが開かれていた。そんな折など、倉本聰さんは、筑紫哲也さん、永六輔さん、灰谷健次郎さんらとともに、トークショウによく登場しておられた。水上先生にはいろいろとお世話になっていたこともあって、一滴文庫で催し物があるときには、私自身も若狭に出向き舞台の裏方を務めていた。ある時、倉本さんが、富良野の麓郷で迎えた初めての冬の苦労談を披露されたことがあったのだが、その際の話の一端を突然私は想い出した。
  ある日突然現れた地元の顔役みたいな人に、「どの方面の生産関係のお仕事ですか?」尋ねられ、一瞬躊躇したあと、手短に「ドラマの生産関係です」と応えると、相手は困惑したような表情を浮かべて去って行ったという。実際に富良野での生活に溶け込み、地元の人々の大きな信頼を勝ち取るまでには大変な苦労があったようである。
  零下三十度に近い厳寒の日のこと、家中の水道を凍結破損させてしまい、トイレが使えなくなった倉本さんは、戸外に出て庭の雪の上で用を足すことにしたという。ところが、排泄したシロモノがたちまち固く凍りついてしまうなどとは想像もしていなかったため、うかつにも、その鋭く尖った先端部にお尻をおろし、ひどい怪我ををしてしまったとのだそうだ。ドラマの登場人物も、出演俳優そのものも、さらにはその舞台となる麓郷界隈も共に変化し変容していく名作ドラマ誕生の裏側には、人知れぬそんな苦労の数々が秘められていたのである。
 
  麓郷をあとにし、布札別、十勝岳温泉、望岳台と経て美瑛方面へと向かう途中、十勝連峰を背にした広い畑の向こうに、ポプラの独立樹がポツンと立つお馴染みの風景にめぐりあった。青空にモクモクと湧き立つ積乱雲が、圧倒的な力感をもってその風景をよりいっそう印象深いものに仕立てていた。
 「カレンダーの写真といっしょですね!」と、S君が感嘆の声をあげた。富良野や美瑛一帯の風景は前田真三の写真によって世に広く知られるところとなった。なかでも広大な畑地とそこに生えるポプラの樹、さらにはその背景の十勝連峰や勇壮な積乱雲などは、繰り返し繰り返し彼の作品のモチーフとなった。S君は、職場のカレンダーで美瑛丘陵の風景写真を目にして以来、是非とも北海道に行きたいと思うようになったという。その風景写真とやらも、前田真三撮影の作品だった可能性が高い。
  ふだんなら、「ここの景色はカレンダーの写真といっしょですね」などといった感想を耳にした途端、「もうちょと違う言い方はないのかい?、お前いったい何のために旅してるんだ!」と文句のひとつも浴びせたくなるところだが、この時ばかりは私もへんに納得してしまった。前田真三の写真がそれ以外の表現を許さぬほど見事にこの地の風景を撮りきっているか、さもなければ、ここの風景が、誰の目にもほとんど変わりなく見えるほどに、鮮烈な特徴と確固たる存在感を持ち合わせているからなのだろう。
  眼前に迫る十勝連峰を仰ぎながら望岳台周辺を散策し終え、美瑛丘陵を下り始める頃になると、みるみる天候が急変し、雨が激しく降りだした。この空模様では旭岳山麓を訪ねても仕方がないというわけで、とりあえず旭川目指して走りだした。そして旭川を走り抜け、層雲峡方面に通じる国道三九号に入る頃には、日も暮れてあたりはすっかり暗くなった。しかもそれに合わせるかのように雨足はますます強まり、上空に絶え間なく閃光が走る凄まじいばかりの雷雨となった。だが、物好きな我々二人 は、久々に出遭う桁はずれな豪雨の洗礼と、雷鳴轟く闇空に稲妻が描く造形の妙をこころゆくまで楽しんだ。洗車などまったくしない不精者の私にすれば、カー・ウォッシャーなみの水勢で叩きつけてくるその猛雨は、大いに歓迎するところでもあった。
  そんな成り行きのなかで何気なく湯の滝の話などをしたところ、S君が是非ともこれからそこまで行って、自分も一風呂浴びてみたいと言い出した。内心ではヒグマが出ても知らんぞと思ったが、クマだってどうせ食うなら若くて美味そうな人間のほうがよいだろうから、こちらまで被害が及ぶことはないだろう。それならばというわけで、再度湯の滝に向かうことに同意した。
  そこまではよかったのだが、そのあとでちょっとした計算違いに気づかされるはめになった。金曜の夕方のことだし、コースは主要国道伝いだから、まだ先にいくらでも給油所があるだろうというわけで、残油量三分の一を指す燃料計を横目に見ながら旭川を通過した。ところが、困ったことに、どこまで走っても給油所が全部閉っているのである。愛別町、川上町、層雲峡と給油所を探しながら走ったが営業中の給油所は皆無だった。層雲峡からさきは山岳路になるので、峠を越え帯広側の平野部に入るまでは給油所などなさそうであった。
  だからといって旭川まで引き返すのも癪なので、燃料計を睨みながら、とりあえず山越えをし、帯広側の上士幌町を目指そうと決断した。上士幌まで行けば、そこで燃料切れになったとしてもなんとかなるだろうという算段だった。大雪ダム付近で国道三九号に別れを告げ、三国トンネルを抜けて糠平湖畔に続く国道に入ったが、視界はきわめて悪かった。雨はやんだが、相当に高度のある山岳地ゆえ濃霧が立ち込め、道路のセンターラインを除いてはほとんど何も見えなかった。大雪山連峰が右手に聳え、晴れた日なら夜間でもそれなりの展望を楽しめるところなのだが、この晩にかぎっては、それどころの話ではなかった。
  なんとか上士幌市街に辿り着いたまではよかったが、まだ午後九時前だというのに給油所はやはりどこも閉っていた。湯の滝のあるオンネトーに向かうには足寄方面を目指さなければならなかったが、その様子だと足寄付近の給油所もみな閉っていそうだった。いろいろと検討した結果、方向は違うが帯広市まで行くしかないということになった。往復で百キロ以上の無駄道になるし、そもそも燃料が帯広までもつかどうかも怪しかったが、やむを得ないという判断だった。燃料切れだからとJAFにSOSを求めるのは、いくらなんでも情けなさすぎたし、たとえそんなことになるにしても、JAFの出動基地のある帯広にすこしでも近づいておいたほうがよさそうであった。
  点滅していた油量モニターの赤ランプがとうとう点きっぱなしになり、燃料切れ寸前の状態に陥ったが、幸い、辛うじて帯広の中心街にある給油所に滑り込むことができた。給油を受けながら、係員にそれまでの経緯を話すと、最近は北海道の給油所の場合、都市部の大規模ステーションを除いては、ウィークデイでも夕方六時になると閉ってしまうとのことだった。
  無事息を終えた吹き返した車のエンジンを煽りたて上士幌まで引き返した我々は、そこからさらにオンネトーに向かって爆走し、午前零時頃に湯の滝入口の駐車場に着いた。夕刻の豪雨が信じられないほどに上空は晴れ渡り、無数の星々が砥石で磨き上げたような鋭い光を発していた。
  その前々日の夜遅く、一人だけで訪ねた時と同様に、漆黒の闇に包まれた深い樹林の中を歩いて我々二人は湯の滝へと向かった。口にこそ出さなかったが、当初は、何が出てもおかしくないほどの真っ暗闇にS君が臆したりしないかと内心ひそかに気をまわしたりもした。だが、学生時代一応は探検部に所属していたというだけのことはあって、ほどなくその暗さに適応し、闇の世界のもつ魅力をそれなりに楽しみはじめたのはさすがだった。
  湯の滝の露天風呂の入り心地は相も変わらず素晴らしかった。すっかり感激した様子で湯船に身を沈めるS君の脇で、私は湯につかったまま手にしてきたハーモニカを吹いた。「青い山脈」や「荒城の月」など懐かしい名曲を十曲ほどをメドレーで奏でたので、丑三つ刻の闇の中での温泉入浴付き演奏会と相成った。私のハーモニカ演奏が、実は、万一に備えてのヒグマよけを兼ねていたことなど、気持ちよさそうに耳を傾けるS君には想像もつかなかったことだろう。
  野次馬精神の塊みたいな身にすれば、それが幸いだったのかどうかはわからないが、ヒグマはおろか、エゾシカにもキタキツネにもフクロウにも出遭うことなく入浴を終え、我々は無事に車のところへと戻り着いた。北海道東部の夏の夜明けはとくに早い。まだ午前二時だというのに東の空はもうずいぶんと明るんできて、先刻までその輝きを誇示していた星々も、徐々にその姿を潜め隠そうとしているところだった。

「マセマティック放浪記」
2001年10月24日

北旅心景・目指せ積丹半島!

  オンネトーの水面は明るい朝の陽光のもとでどこまでも青く澄み輝いていた。浅い周辺部をエメラルドグリーンに、そのすこし沖をジルコンブルーに、さらにその向こうの深奥部をサファイア色に彩られたこの沼の美しさは、数ある他の沼々の追随を許さない。対岸の原生林のすぐ背後には雌阿寒岳と阿寒富士の双峰が、まるで自分たちの間に生まれたかけがえのない愛娘を見守りでもするかのように並び聳え立っている。いや、実際、このオンネトーを生みもたらしたのは、端正でしかも秀麗なそれら二つの火山なのだった。
  実際にはオンネトーというアイヌ語は「老いた沼」を意味しているから、二つの火山の間に生まれた「愛娘」という表現は適切でないかもしれない。たしかに、湖中には水没して久しい樹木などが多数見られるし、晩秋などには湖畔一帯に物淋しい雰囲気が漂うから、老いた沼という呼称のほうがふさわしいのかもしれない。だが、明るい太陽に湖面を照らされた新緑期のオンネトーは、どうみても「老沼」という感じではない。
  名残は尽きないが、これから明日にかけて東京までの一大ロングランに挑まなければならない。ほどほどに散策を切り上げた我々は、S君が一目だけでも見てみたいという摩周湖目指して走りだした。途中の阿寒湖には申し訳程度に立寄っただけだった。摩周湖に着くまでの間、私のほうは助手席のシートに深く身を沈め、コクリコクリと居眠りしていた。
  摩周湖はこの日も霧模様だった。このぶんだと摩周湖は見えないと読んだ私は、五百円の駐車料を取られる第一展望台をノンストップで通過し、無料で駐車でき、眺めのほうも勝っている第三展望台に車を駐めるように指示を出した。誰しもが疑問を抱くことなのだが、何故か摩周湖には第二展望台なるものが存在しない。第一、第三、それに裏摩周の三展望台があるだけなのだ。
  すこしでも霧が切れてほしいと願いながら展望台に立っていると、眼下はるかに群青色の湖面がちょっとだけ見えてきた。しかし、次々と湖壁を乗り越え、急峻な斜面にそって湖面に流れ込む霧のために、なかなかそれ以上には展望がきかなかった。もう諦めるしかないな――そう思いかけたときである、突然、大きく霧が晴れ、一瞬だが、湖心にあるカムイシ島が幻のごとくにその姿を現した。そしてまた、再び湧き出た霧のヴェールに包まれて、たちまち姿を消していった。もしかしたら、摩周湖の主によるS君への特別な計らいだったのかもしれないが、実際、それはなんとも粋な演出ではあった。
  すっかり気をよくしたS君の運転ぶりは快調を極めた。第三展望台をあとにした我々は、硫黄山、川湯、さらには屈斜路湖沿いの砂湯や和琴半島を経由し、これまた風光明媚で知られる美幌峠に到着した。上空に厚い雲がかかり、眼下の屈斜路の対岸にある藻琴山も、その右手後方に位置する斜里岳も、そして先刻までそこに立っていた摩周湖の外輪山もみな霧に霞んで見えなかった。屈斜路湖に浮かぶ中之島だけはよく見えていたが、広大な北見平野やその向こうに広がるオホーツク海もほとんど姿を隠したままだった。そんな状況下にはあったけれども、初めて美幌峠に立つS君の目にすれば、その景観はそれなりに雄大なものに映ったようだった。 
  美幌峠からは、美幌市街に下ったあと女満別の西側を通って能取湖に沿う国道に合流、そこを左折してサロマ湖畔のワッカ原生花園へと車を走らせた。今度の旅で既に一度訪ねたワッカ原生花園を再訪したのは、どこかひとつくらいは北海道の湿原か原生花園を見て帰りたいという、S君たっての願いをなんとか叶えてやるためだった。
  到着したのが既に閉園間近な時刻でもあったため、二度目のワッカ原生花園探訪はかなり慌しいものになった。天候も曇天模様で風も冷たかったせいだろうか、エゾスカシユリもエゾゼンテイカも、過日に比べ、花びらの張りと色艶とがどことなく弱々しく萎縮して見えた。ひとつには日が照っていなかったせいでもあったのだろうが、もともと厳しい環境の下に咲く北国の花々は、盛りを過ぎるとその衰えも意外なほどに早いのだ。多分にそんな花自体の性質のゆえでもあったのだろう。もっとも、S君はそんなことなどあまり気にせず、北海道ならではの広大な原生花園の雰囲気とその素晴らしさを堪能しきっているようだった。
  サロマ湖畔のなかほどには湖の眺望を楽しみながら入浴できる温泉がある。ワッカ原生花園の散策を終えたあと、夜を徹してのロングランに備え一風呂浴びていこうということになって、夕闇の迫る頃その温泉に立寄った。そして、一時間ほど弱塩泉の湯に身を沈めて疲れをとったあと、再び走行を開始した。前日のこともあったので、むろん、夕方早目に燃料の補給をすることも忘れなかった。
  湧別からは中湧別、遠軽を経て上川盆地方面へと向かう国道に入った。翌朝早くに小樽付近に到達できれば、積丹半島の先端をまわり、ニセコ付近を経て、午後三時過ぎ函館を出るフェリーになんとか間に合うだろうという計算だった。そんなわけで、途中たまたま目についた小料理屋に飛び込み、夕食としてちょっとした海鮮料理に舌鼓を打ったあとは、 夜を徹してひたすら走り続けることになった。
  遠軽から丸瀬布を経て北見峠に差し掛かる頃になると、S君のハンドル操作がかなり怪しくなってきた。若いとはいえ、前日の早朝からの強行軍でさすがに疲れが出てきたのだろう、私が運転をかわると、それを待っていたかのように、フラットにした後部シートに移って死んだように眠ってしまった。
  深夜の国道をひた走り、上川町を経て旭川に入ると、そこからは高速道路に上がり、札幌、小樽方面を目指してぐいぐいとアクセルを踏み込んだ。明け方ちょっと眠気がさしてきたところでまたS君と運転を交替し、午前五時前に小樽港の新日本海フェリー乗り場に到着した。港までやってきたのはフェリーに乗るためではなく、渡航客のために早朝から開いているターミナルビルのレストランで、小樽港を眺めながら休憩をかねて軽い朝食をとるだめだった。
  朝食をとりながらこの日の行程を再検討した結果、神威岬まで足を運び、積丹半島の先端をまわって神恵内へと抜け、岩内、ニセコ、長万部というルートをとっても、午後三時頃までには函館港に着けるだろうということになった。そこで、小樽運河沿いの倉庫街をひとまわりしたあと、余市で国道五号からわかれて積丹半島を海沿いに一周する道へと入った。そして、ほどなく余市と古平の間の豊浜というあたりにあるトンネルを通過した。以前に大きな落盤事故が起こり、何台もの車が大量の土石によって押し潰されてしまったトンネルで、いまではその位置はすこし内陸側に移っている。
  多数の人命が失われたその事故よりもすこし前のことだが、このトンネルの入口付近で私もあわやという目に遭ったことがある。その時はこの日と逆方向に走行中だったが、後続の他車を次々に追い越し猛スピードで背後に迫ってきた乗用車に、クラクションを鳴らして道を譲れと急き立てられた。正直なところ少々腹も立ったのだが、当時このトンネル入口の海側にはごく小さな待避スペースがあったので、とっさに左に寄って道をあけた。
  うしろの車が私の車を追い越しトンネルに飛び込んだ次ぎの瞬間、異様な衝突音が一帯に響き渡った。なんと、その車は、トンネル内での追い越しか居眠り運転が原因で反対車線からこちら側の車線に割り込んだ対向車と正面衝突してしまったのだった。当然、トンネルは通行止めになり、死傷者が出て救急車が駆けつける騒動にまで発展したのだが、お蔭で私は事故に巻き込まれずにすんだのである。悪運(?)が強いと言われればそれまでだが、道を譲らずそのまま先にトンネルに突入していたら、いまごろはどうなっていたかわからない。
  実際に走ってみると積丹半島は地図などで想像するよりもずっと大きく変化に富んでいる。その中央背稜部には千三百メートル弱の余別岳をはじめとし、千メートル前後の高さの山々が連なっているから、横断路も古平と神恵内とをつなぐ一本だけしか存在しない。しかも、その横断路も険しい山越えの道だからそれなりに時間がかかるのだ。また、海岸線のほとんどは急角度で海中に切れ落ちる峻険な海食崖に占められているので、その断崖足下を縫い走る道は事あるごとに不通になることがすくなくない。長年にわたって計画道路の建設工事が進められながら、最近まで積丹半島先端部をまわる道路が未開通だったのも、そんな地形上の理由あってのことだった。
  朝早かったせいもあって、路上には他車の影などなかったから、古平、積丹町と順調に走り抜け、神威岬入口の駐車場へと到着した。以前は国道沿いの草内というところに車を駐め、そこから岬へと続く細道を四十分ほど歩いたものだった。たしか、草内というその地点には、「日本で一番夕日の美しい場所」という看板が立てられていたように記憶している。いまでは、その場所から岬方面へと分岐する舗装道路が建設され、道路の終点には売店などもある広い駐車場が造られていた。
  神威岬の先端まではこの駐車場からアップダウンのある小道をさらに二十分ほど歩かねばならない。徹夜の強行軍でさすがに疲労感を覚えていた私は、先に独りで岬の突端に向かって駆け出すS君の後姿を見送りながら、マイペースでのんびりと歩き出した。岬への遊歩道は以前とは見違えるほどに整備が行き届き、格段に歩きやすくなっていた。ただ、そのぶん、かつての自然らしさがかなり失われてしまったような気もしないではなかった。
  細長く伸び出た岬の背稜上を伝う遊歩道の両側眼下には、シャコタンブルーなどとも称される紺碧の海が広がっていた。そして、明るい朝日の差し込む海中では、白緑色の大小の岩々とそれらに付着する海藻類が、幻想的な色合いを見せながらかすかに揺らめき動いていた。急峻な斜面に点々と咲くエゾカンゾウの花々が風と戯れる姿なども印象深かった。
  前方の遊歩道を小走りで駆け登っていくS君の姿を遠望しながら、ふと自分の体力の衰えに思い至った。一晩や二晩徹夜をしようがどうしようが、十年くらい前までは、この程度の道ならいっきに駆け足で走りぬくことができた。しかし、睡眠不足と旅の疲れの重なったいまそんなことをやったら、息があがってしまうのは目に見えていた。体力的に無理のない程度に少しずつ歩調を整えていくうちに、それでもかなり歩速は上がった。神威岬先端にある灯台脇の展望台に着いたS君は、私がやってくるにはまだまだ時間がかかると考えていたらしい。だから、私が展望台に姿を見せた時には、意外そうな表情を浮かべながら、「えつ?、こんなに早く着くなんて思ってなかったですよ」と半ば感心したように声をかけてきた。
  かつてはゴツゴツした自然の岩石に覆われ、あちこちに身を隠せるくらいの窪みもあった岬の最先端部は、観光客が歩きやすいようにコンクリートがはられ、ずいぶんと様相が変わっていた。海面からおよそ八十メートルの断崖上に位置するこの岬は、江戸時代末期の安政三年頃までは女人禁制の地であったという。幸いなことに、沖合いの海中に屹立する高さ四、五十メートルの神威岩の偉容と、その足元を絶え間なく食む激浪の青白い牙の煌きは昔のままのようだった。
  この岬から眺める夕日は、思わず手を合わせたくなるほどに荘厳で、しかも哀しいまでに美しい。巨大な神像そのものの神威岩が夕日を背にして黒々と聳え立つ有様は、抗し難い力をもって見る者の魂を魅了する。明るく朝日の輝く時刻にあって、そんな落日の光景を想い浮かべるというのも妙な話だったけれども、夕日ホリックのこの身にすれば、それは致しかたないことではあった。
  十余年前の夏の朝五時頃だったかと思うが、私は山田岩利さんという地元の密漁監視員の方とこの場所でたまたま出逢ったことがある。その時、山田さんは、大きな岩の窪みから顔だけをのぞかせ、神威岩周辺に浮かぶ男女数名乗りの異様なレジャーボートの動向を双眼鏡でじっと監視しているところだった。トランシーバでどこかと緊密に連絡をとりながら彼らの動きを探り続ける山田さんの様子は真剣そのものだった。それは暴力団系の悪質な密漁グループで、法律的なことまであらかじめ計算し尽くした巧妙きわまりない手口を駆使してアワビやサザエの密猟をするため、取締りは困難を極め、この周辺の漁民たちは甚大な損害を被っていたのである。
  親しくなった山田さんから、私は双眼鏡で眼下のボートの様子をのぞかせてもらったり、想像を絶するような密漁組織の実態について話を聞かせてもらったりもした。そして、のちに、拙著「星闇の旅路」(自由国民社)の中などでそれら一連の驚くべき事態について詳しい紹介をしたりもした。その後、一帯の密漁問題がどうなったのかはわからないが、これほどまでに展望台が整備されたいまとなっては、密漁監視員が身を隠そうにも、付近にはそれにふさわしい岩陰や窪地など見当たりそうにもない感じだった。
  ほどなく岬から車に戻った我々は、再び国道に出たあと沼前岬方面へと走り出した。沼前までは以前から道が通じていたのだが、大絶壁の連なる地帯を貫いて神恵内へと至る予定のトンネル道路の開通は遅れ、いつ訪ねてみても工事中で通行不能になっていた。しかし、最近ようやくその道路が完成し、積丹半島を海伝いに一周できるようになったのだった。   
  トンネルの連続する新しい道路を車は快調に走り続けた。むろん、私もこの新道路を走り抜けるのは初めてのことだった。北海道の外周道路のなかで、この沼前と神恵内間の道路だけは最後まで私が通行できずにいたところだったからである。トンネルばかりで展望がほとんどきかないため、景色を楽しむというわけにはいかなかったものの、それでも私はいつしか深い感慨にひたっていた。そして、ついに車が神恵内側の見覚えのある地点に到達したとき、私は、年甲斐もなく、胸の中で「ついにやったぞ!」と叫んでいた。長年の懸案だった北海道外周道路の完全走行がようやくにして成った瞬間だからだった。
  厳密なことを言うならば、秘境中の秘境、知床半島の知床岬だけは、車道はもちろん、海沿いに岬に至る歩行路さえもまったくない有様だから、それは例外とせざるをえない。ただ、知床半島に関しても、知床横断道路は言うに及ばず、知床林道の終点や、瀬石温泉のある反対側の道路の最終地点、相泊までは行ったことがあるわけだし、船でなら知床岬も一周はしたことだから、一応、北海道外周道路全走破達成と考えて差し支えないだろう。いずれにしろ、積丹半島の周回走行が達成できたのは、この度の北海道旅行最大の収穫ではあった。

「マセマティック放浪記」
2001年10月31日

北旅心景・下北半島へ

  神恵内の海岸や海中一帯には大小様々な奇岩が立ち並んでいる。それらを車窓から眺めながら走行するうちに、右手前方に聳える大きな山塊が見えてきた。冬場にはスキーのメッカとしても知られるニセコ連峰の雄姿である。あのニセコ連峰を越えて国道五号線に再度合流し、内浦湾岸の長万部に出ようかというと、そんな欲張ったルートをとって時間的に間に合いますかと、S君がちょっと不安げな表情で問い返してきた。走りっぱなしなら大丈夫だよと私は横で煽りたて、結局そのコースをとって函館に向かうことにした。ニセコ越えには少々時間を要するが、景色はいいし、国道五号に出て長万部に抜ければあとは函館まで一息だ。
  ニセコ連峰を背景にして広がる岩内の町には木田金次郎の業績を記念した美術館がある。この美術館で近々知人の画家渡辺淳さんの個展が開かれることになっていたので、どんなところか立寄ってみたいとは思ったのだが、時間的に難しそうだったのでその件は断念せざるをえなかった。岩内市街を走り抜けるといっきに高度は上昇し、眼下にのびやかな緑の山麓が広がった。その向こうには日本海が青く輝き、陽光に映える海面越しには、延々と連なる積丹半島の山並みが望まれた。
  ニセコ連峰のあちこちにはいろいろと見所も多いのだが、とりあえずそれらの見物は省略し、標高八百メートルほどの高度の峠を越えると、蘭越町方面に向かってひたすら下ることにした。途中、左手遠くに羊蹄山の特徴ある山影なども望まれた。もうすこし時間でもあれば、ニセコ町から羊蹄山麓を経て洞爺湖北西岸あたりをめぐり、虻田町に抜けたいところなのだったが、どう見てもそれは無理なようだった。
  蘭越町で国道五号線に合流し、一走りして長万部市街を過ぎると、噴火湾の別称もある広大な内浦湾が、青々と輝くその姿を見せはじめた。内浦湾を大きく挟み、左手はるか前方にひときわ大きく聳えるのは、現在も活動中の火山駒ケ岳の雄姿だった。これから内浦湾を半周して森町に至り、その駒ケ岳の西山麓を経て函館に向かおうというわけだった。
  道路は多少混んできたが、渋滞というほどのことでもなかったので、ほぼ予定時刻通りに森町を通過し、駒ケ岳の西山麓に差しかかった。千百三十三メートルと駒ケ岳の標高はそうきわだっているわけではないが、内浦湾の海面からいっきに聳え立つ独立峰なので、標高以上にその山容は大きくそして威々しく見える。誇らかにおのれの存在を訴える駒ケ岳を仰ぎ見ながら一路南へと下っていくと、大小の沼とそれらの沼に浮かぶ百余個もの小島で知られる大沼公園のそばに出た。珍しい植物などでも知られるこの大沼公園一帯を初夏の頃などに散策すると、いろいろな発見や感動があってなかなかに素晴らしい。
  大沼公園を過ぎると函館まではもうほんの一走りだった。フェリー出航予定時刻の三十分ほど前に函館港ターミナルビルに到着した我々は、すぐに乗船手続きを終え、下北半島突端の大間港行きフェリーに乗り込んだ。素直に青森に渡るのではなく、どうせなら下北半島東岸を南下し、三沢、百石、八戸を経由して東北自動車道に出ようという魂胆だった。懲りない面々だと呆れられてしまいそうだが、たとえ還路であっても最大限に野次馬精神を発揮しながら戻ろうというわけだった。また、コスト的にみてもそのほうが安上がりだった。
  フェリーは冬景色ならぬ夏景色の津軽海峡を渡り、一時間半ほどで大間港に接岸した。S君は下北半島も初めてということだったので、下船するとすぐに本州最北端の大間崎に向かい、岬の展望所から津軽海峡越しに北海道亀田半島一帯の山並みをしばし眺めやった。大気も澄んでいたので電波塔の立つ函館山の姿などもはきりと望まれた。
  この大間崎展望所の一角には、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」という、あの有名な石川啄木の歌を刻んだ碑と、その碑の由来を記した解説板が設けられている。大間崎のすぐ沖には、灯台の立つ弁天島という小島があるのだが、解説文によると、啄木のその歌の舞台となったのは、ほかならぬこの弁天島だったのだそうである。啄木自身がはっきりとそう述べているわけではないらしいのだが、残された手紙その他の文書類から考証すると、歌中の「東海の小島」とはほぼこの小島に間違いないということだった。
  流れの速い海中を泳ぎでもしないかぎり弁天島には渡れそうになかったし、たとえ渡れたとしても、白砂のある浜辺を探し当て、蟹を見つけて突ついたりしていたのでは日が暮れてしまう。ちょっと眺めたところでは、そもそも弁天島に白砂の浜辺があるのかどうかさえ定かでない感じだった。いくら野次馬根性の塊みたいな我々だって、さすがにそこまでは付き合いきれない。青春の一時期、啄木の歌に夢中になったこともある身ではあったが、ここはほどほどに退散したほうがよかろうと考え、ほどなく大畑方面目指して走り出した。
  ハンドルを握るS君に、「どうする、閉門時間までに着けるかどうかわからないけど、恐山に行ってみるかい?」と尋ねると、「ちょっと外から見るだけでも……」という返事が戻ってきた。それじゃともかく行ってみるかということになり、大畑から直接に陸奥市へは向かわず、薬研温泉を経て恐山へと続く道に入った。そして、薬研温泉を過ぎ、鬱蒼とした樹林帯をくねくねと縫い進んで、火口湖の宇曽利山湖北岸に位置する恐山霊場の駐車場に到着した。正式には恐山菩提寺と呼ばれるこの霊場は、九世紀頃に慈覚大師円仁が開基したものだと伝えられている。
  無事着いたのはよかったが、残念なことにちょうど門が閉められ、入場受付の係員が奥へと引き揚げていくところだった。白っぽい色の粗砂で覆われた広大な駐車場には、帰り支度をしている先客の車が一台とまっているだけだった。そして、ほどなくその車も立ち去ってしまい、あとにはぽつんと我々の車だけが残された。
  考えてみると、何年か前に若狭の画家渡辺淳さんを案内してやってきたのも、夕暮れ近くのことだった。その時は閉門までにまだ三十分ほどあったのだが、半ば駆け足で慌しく霊場内をめぐり、場内にある古滝の湯という温泉に十分ほどつかったあと、身体を拭くのもそこそこに駐車場へと駆け戻った。そして、この日とは逆のコースをたどって、猛然と大間崎目指して走りだした。大気の澄んだ好天の一日だったので、どうせなら大間崎で美しい夕日を眺めようと考えたからだった。
  初めてこの恐山を訪ねたのはずいぶんと昔のことだが、すでにあたりは深い宵闇に包まれ、ちょうど東側の外輪山の上に、満月をすこし過ぎたばかりの月が昇ってくるところだった。当時も霊場内と外側の駐車場とを仕切る長い柵は設けられてはいたが、いまの高くて丈夫な造りの板塀と違って申し訳程度のものだったから、その気になればどこからでも自由に出入りすることができた。光の弱った懐中電灯と月明かりを頼りに、その夜私は霊場内へとおもむろに足を踏み入れたのだった。
  赤茶けてごつごつした岩場が高低をなして大きくうねるように広がり、鼻をつく硫黄の煙が四方に漂い、さらには地中のあちこちから熱湯が吹き出している恐山霊場は、昼間訪ねてみても実に荒涼とした感じがする。まして、人の気配の途絶えた夜とあっては、淡い月光に浮かぶその異妖な光景に想像を絶する凄みがあるのは当然のことだった。月が高く昇るにつれて月光は明るさを増し、その中に浮かぶように立ち並ぶ賽の河原の無数の石積みは、それぞれに深く秘める悲しい物語を旅人のこの身に切々と訴えかけてくるかのようであった。
  黒ぐろとした影を落として地蔵菩薩の立つ岩山の陰を縫う細道を抜け、宇曽利山湖の湖畔に降り立つと、静まりかえった湖面には大きな人魂を想わせる月影が漂うように映っていた。湖にそって広く長くのびる石英質の白砂の浜辺に足跡を刻みながらゆっくりと歩いていると、突然サーッと風が起こり、それに合わせるようにして、カサカサ、カラカラという奇妙な音がどこからともなく響いてきた。
  一瞬背筋に冷たいものが走るのを覚えながらも、気を落ち着けて不思議な音のするほうへと近づいてみると、砂地の上に立てられた何本もの短い棒状の先端で何かがカラカラと音をたてながら回っていた。懐中電燈で照らし出して見ると、なんとそれらは、霊場を訪なう人々が、いまは亡き縁者の霊への鎮魂の祈りを込めて湖畔に立てた風車だった。数知れぬ風車が一斉に回りだしたときに起こる波打ちざわめくような響きは、地の底から涌き上がってくる死者たちの悲哀に満ちた呟きのように感じられもしたものだ。
  幸いなことに、このなんともけしからぬ霊場徘徊にもかかわらず、その後も我が身にはとくに不吉なことなど何も起こりはしなかった。あまりの図々しさに、恐山一帯に漂う霊魂も呆れはて、遠巻きにして眺めでもしていたのかもしれない。
  そんな昔の想い出を懐かしみながら、さりげなくS君の表情を窺うと、霊場内を一目さえも覗くことができないのは残念でたまらないとでも言いたげである。そんな様子を見ているうちに、なんとかしてやろうというサービス精神がむらむらと胸中に湧いてきた。ただ、そうは言っても、昔のかたちだけの柵とは違い、現在の板塀はしっかりしていて隙間がないから、それを乗り越えたり擦り抜けたりするのは難しそうだった。また、たとえ可能であったとしても、そんな軽犯罪まがいのことまではしたくないとあって、いったんはそこで諦めかけもした。
  だが、この宇曽利山湖の地形に通じていた私は、一箇所だけ意外な死角があることに気がついた。もちろん、過去に死角となっているそのルートの利用を考えたことがあるわけではなかったが、たぶん霊場内へと通り抜けられるだろうという想いはした。そこで、見当をつけたその地点に近づくと、S君をあとに従え、ちょっとした潅木の繁みと深い草むらの続く湿地帯へと分け入った。
  しばらく進むうちに、案の定、地元の誰かによってつけられたとおぼしき、かすかな草の踏み跡らしいものが目にとまった。このまま進めば宇曽利山湖畔の白砂の浜辺に抜けられるに違いない――そう確信した私は、いちだんと足を速めて草むらを分け進んだ。そして、ほどなく、視界を遮るようにして行く手に現れた岩場を乗り越え、その向こう側へと踏み入った。我々の眼前に広がったのは、まぎれもなく、一面を大粒の石英質の白砂で覆われた宇曽利山湖畔の美しい浜辺だった。
  その浜辺の中ほどまで進んだ我々は、そこにしばらく佇んで、黄昏時の残光のもとでなお濃紺に澄み輝く宇曽利山湖の静かな湖面に眺めいった。水辺のあちこちからは温泉が涌き出し、それとともに噴き出してくる硫黄が湖面の一部を黄緑色に染めながら水中に溶け出してもいた。他に人影はあろうはずもなく、渚に寄せる波の音も絶えて、あたりは静寂そのものだった。
  南の空を見上げると、つい先刻までまだ白ぽい色をしていた上弦の月が、宵の深まりとともにぐんぐんと青い輝きを増していくところだった。眼前の宇曽利山湖面に映るその半月の影は、まるでそれが幽界を照らし出すいまひとつの上弦の月であるかのような錯覚さえもたらしもした。賽の河原のある一帯や本堂方面を遠望できる高みにもちょっとだけのぼってみたが、荒涼とした月下の岩場のあちこちで熱水が噴き出し、硫黄が燃え、高温の蒸気が勢いよく中空に立ち昇る異様な光景は、いつもながら冥界を想像させるに十分なものだった。 
  ただ、非常手段を駆使しての時間外場内見学だったので、さすがにゆっくり地獄めぐりをし、温泉に身をひたすというわけにはいかなかった。それでなくても、恐山に寄り道したことで予定時間をかなりオーバーしていたから、そのあとは夜を徹してのノンストップ走行で東京に向かわざるをえない状況になっていた。もう一度宇曽利山湖畔に佇み、湖面に映る月影をしげしげと眺めたあと、我々は往路とおなじ細道を逆にたどって車のところへと戻り着いた。来る時につけた踏み跡を月明かりのもとではっきり確認することができたから、とくに迷ったりするようなこともなかった。
  恐山をあとにした我々は、陸奥市から国道三三八号線に入り、夜の下北半島をいっきに東岸伝いに南下した。広大な湖沼地帯や核物質処理施設の存在で知られる六ヶ所村も、かつては総合開発の基地として脚光を浴びていた小川原湖周辺もあっというまに走り過ぎ、米軍の基地で知られる三沢市に入った。そして、三沢からは百石町と八戸市を経て八戸自動車道に入り、安代で東北自動車道に合流した。東京府中に戻り着いたとき、この旅での走行距離数はほぼ四千九百キロに及んでいた。もちろん、往路にフェリーで移動した新潟から小樽までの距離数はその中に含まれていない。

「マセマティック放浪記」
2001年11月7日

テロ対策特別措置法におもう

  テロ対策特別措置法が衆参両院を通過し、アフガニスタンやパキスタンに展開する米軍を支援するという名目で、海外への自衛隊派遣が現実のものになろうとしている。大規模テロを封じ込めるために我が国も国際的な協力を惜しんではならないということのようだが、自衛隊派遣がアフガニスタン領内のテログループ撲滅やアフガニスタン難民救済に実質的に役立つかどうかの判断より、この絶好の機会を利用し、自衛隊の存在を国威発揚に結びつけようとする一部の人々の執念のようなものだけが先行しているように感じられてならない。個人的な情報筋から耳にしたかぎりでも、今回のテロ対策特別法案成立までの過程においては、首相を直接に囲む内閣官房関係者より、実際に自衛隊を統括する防衛庁幹部のほうがはるかに慎重かつ冷静であったようである。
  さすがに顰蹙(ひんしゅく)をかったようではあるが、このように重要な法律の成立と引き換えに自党勢力の拡大を図ろうという、あまりにも見え透いた政治的動きがあったことなどは、なんとも情けないかぎりであった。一般国民がどう思おうと、現実の政治に関わる者にはそれなりの抜き差しならぬ事情があるし、政治というものはもともとそういうものだというのが当事者の本音なのかもしれない。だが、政治家が自己保身を顕わにしてそこまで開き直るというなら、我々国民にもそれなりの対応をする覚悟が必要となってくるだろう。
  湾岸戦争において金銭的支援のみをおこない人的貢献をしなかった日本は、まっとうな国際的評価を得られず、そのゆえにすくなからぬ屈辱を味わったということである。しかし、そもそもどこの国の誰がどのようなかたちと意図をもって日本をそのように低く評価したのか、また、そのために国内の誰が具体的にどのような屈辱を感じたのかということになると、いまだもって何一つ釈然とはしていない。
  すくなくとも、私の周辺には湾岸戦争後の国際的評価の低さによって実際に屈辱感を味わったという人がほとんど見当たらないところをみると、屈辱感に襲われたのは、大多数の一般国民ではなく、行政にかかわる一部の国会議員や外交関係者たちだったということになるのだろう。端的に言ってしまえば、国際的に評価されなかったということではなく、米国およびその友好国の一部に評価されなかったということなのだろうが、一兆円以上の金銭的支援をし、米軍に後方支援基地を提供しておきながら、その意義と負担の大きさについて国際社会に何ひとつアピールもしてこなかった行政責任者、とりわけ外交関係者の無能さぶりも非難されてしかるべきだろう。
  まだテロ対策特別措置法が法案段階にあったときのことだが、あるテレビ番組に出演していた小泉首相対し、視聴者から「もしも首相自身のお子さんがパキスタンやアフガニスタンに行かなければならなくなったとすれば、親としてどう思うだろうか?」という主旨の質問がなされた。この問いかけに対し、首相はまともには応じなかったばかりでなく、「そんな質問は次元が低い。そもそも実際に現地に出向くのは自衛隊員であり、かれらは入隊時に、任務とあれば生命に危険が及ぶようなところへも出向くという宣誓をしたうえで隊員になっている」という、いささか論点のずれた返答をしていた。
  あえて好意的に解釈すれば、その時首相は、国家レベルの問題を考える為政者としての立場からすると、そのような個人レベルの仮想的質問はナンセンスだと考えざるえないと言いたかったのだろう。だが、首相をはじめとする国会議員諸氏がそれほど次元の高い理念を持ち、国会審議に臨んでいるなどとは到底思われない。野次、冷笑、不真面目このうえない態度、閣僚や官僚の横柄な答弁、人間的温かさや良質のユーモアのかけらすらも感じられない攻撃的嘲笑、はじめから相手の意見など聞くつもりもない慇懃だが悪意と蔑視に満ちた言葉の数々と、どこに次元の高さなどあるかと言いたくなるのは、私だけではないだろう。
  私をはじめとする政治音痴の一般庶民は、なるほど次元の低い存在かもしれない。自分の身の回りのことしか考えることのできない卑小な人間なのかもしれない。しかし、いったん何らかの国難が生じたとき、危険を承知で実際に最前線に身を置きその難局に立ち向かうのは、たぶん国会議員自身や彼らの保護下にある一族の子息子女などではない。そのような非常時において毅然として艱難に立ち向かうのは、次元が低いと言われ、内心では議員諸氏からミーハー的だと蔑視されているかもしれない我々庶民、あるいはその家族や子どもたちなのだ。
  ことさらそのことを非難するつもりもないが、『日本女性「ファーストレディ」に贈る』という、歯の浮くような表紙の一文の下に堂々とサインを入れ、裏表紙に「ここに父のすべてがある」という子息の言葉を配し、中身が立ち読みできぬようにビニールで完全包装した写真集を買うのもほかならぬ庶民であることだけは、首相にも心しておいてもらわねばならないだろう。
  自衛隊員は入隊時に「任務とあれば生命に危険の及ぶようなところにも出向く」という誓約をしているとのことであるが、それは多分に形式的あるいは儀式的なものであって、個々の隊員それぞれが将来降りかかってくるかもしれない身の危険を真剣かつ具体的に考慮したうえで誓約したものではないだろう。誓約を云々するなら、ほかならぬ国会議員や国家官僚らもその就任に際しては公的責務をまっとうすると公約したり誓約したりしているはずだ。だが彼らのうちのいったいどれだけの者が誠意をもってその公約や誓約を守っていると言えるだろう。
  議員や官僚たちが、自らのことは棚にあげ、自衛隊員だけには入隊時の宣誓を厳守し、職務に忠実であることを要請するとするならば、身勝手も甚だしいとしか言いようがない。また百歩引いて、ある自衛隊員が誓約通りに行動することになんの躊躇いもないとしても、その両親や家族、恋人、友人らの抱く不安は想像以上のものであるに違いない。国際的な状況からして自衛隊の海外派遣がやむを得ないものであるとしても、もうすこし心ある発言や配慮が必要ではなかろうか。
  現在では状況はかなり違ってきているようだが、かつては、防衛大学の学生や陸海空の自衛隊員は、その多くを九州、東北、北海道などの地方出身者によって占められていた。経済的に恵まれない地方の出身で、能力もあり勉学意欲もある若者たちは、たとえそれが心の底から志望した道ではなかったとしても、自衛隊関係の学校への進学を選んだものなのだ。高校時代には既にすべての肉親を失い経済的にも困窮の極みにあった私なども、教師から防衛大学への進学を奨励されたりしたものだ。結果的には防衛大に進学はしなかったが、ちょっと状況が違っていたら、けっして勇ましくなんかない私のような者だって自衛官になっていたかもしれないのだ。
  私の知る範囲にかぎっても、自衛官あるいはその経験者には優れた人材がすくなくない。もともと能力のあるところにもって、ある種の使命感を抱きながら各種の研鑽を積んできているから、幹部級の自衛官ともなると二、三カ国語は自在に操ることができるし、自然科学や工学系の専門知識は言うに及ばず、法学、経済学、政治学、社会学、心理学といった社会科学系の分野に通じる者も数多い。しかも、幹部自衛官のかなりの者は、階級社会に属しているにもかかわらず、意外なくらいに柔軟で思想的にも自由であり、人間としては有力官庁の官僚たちなどよりよほど好感がもてるのだ。駐日々パーティーにの在武官として各国の日本大使館その他に勤務した経験のある者などは、みうつつをぬかしている無能な外交官連中よりも、相手国の文化行政その他の国情にずっと通じてもいるものだ。
  政府が真の意味で自衛官の存在意義を国民に認識させようと願うのなら、日の丸を掲げて彼らを海外に送り出すことに執心するまえにやるべきことがあるだろう。ごく自然なかたちで彼らのもつ能力を広く社会の発展に活用し、民間との文化実務両面での交流を深めていくような配慮を先になすべきなのだ。そのために必要とあれば、一時的に制服を脱いで活動することなども許されてしかるべきだろう。災害時の特別出動や演習風景の公開、そして今回のような日の丸の誇示を目的にした隊員の海外派遣だけによって、自衛隊に対する一般国民の広い支持を得ようとするのはどだい無理な話である。
  いささか唐突に思われるかもしれないが、勇ましい言葉を吐いてテロ対策特別措置法の成立に奔走し、日の丸を掲げた自衛隊の海外派遣を嬉々として煽りたてる与党国会議員諸氏にひとつだけ提案をしてみたい。十日でも二十日でもよかいから、まず勇気あるあなたがたが、パキスタンやアフガニスタンに出向き、民間のアフガニスタン難民支援活動に参加してもらいたい。もちろん、渡航費や滞在費くらいは自分で捻出してもらうしかないだろう。よもや飛行機に乗るのが怖いなどとは考えたりなさるまい。テレビなどで国会審議を見るかぎり、十日や二十日姿がなくても審議になんの支障もなさそうな議員などもあるようだから、そういった方々から優先的に出向くようにしてもらいたい。
  それが不可能だというのなら、パキスタンやアフガニスタンでのNPO活動やNGO活動に積極的に参加したり協力したりするように、一人でも二人でも自らの子息子女あるいは孫たちなどを説得するくらいのことはしてもらいたい。もしもそういったことが実現するなら、当該議員に対する国民の信頼は増すことだろうし、たとえその子息子女らが将来二世議員、三世議員になったとしても、その貴重な経験は彼らの政治活動の大きな支えになることだろう。将来の二世、三世議員を目指す自らの身内だけは安全なところに守り置き、他人だけを勇ましく煽りたてるというのでは筋が通らない。
  もちろん例外もあるのは承知だが、大衆を前にし、自信満々にコワモテな言動を見せる政治家や評論家というものを私はかねてからあまり信用していない。そのようなタイプの人物というものは表面的には何事にも果敢で意志も強そうに見えるのだが、裸の姿は意外なほどに脆弱で、真の危険を眼前にすると臆病な姿を露呈することがすくなくない。心理学的にみても、この種の人物は地位や権力への志向性がきわめて強い反面で、自分より権威ある者に対しては従順かつ無批判に振舞いがちなところがある。自分の行為が悪い結果を招いた場合など、早々に逃げをうち、その責任をとろうとしないのもこのタイプの人々の特徴であるようだ。今回のテロ対策特別措置法の早期成立を強く支持した国会議員や評論家の面々に、そんな影を帯びた人物がずいぶんと見受けられたことはいささか気になるところであった。
  前述したテレビ番組のキャスターが、最後に、「真の友とは、時によっては互いに苦言を呈し合うことのできる関係でもあるといわれるが、今後の状況次第では、アフガン問題について首相はブッシュ米大統領に自重を促すようなこともありうるか」という意味のことを問いかけたが、これに対しても首相は正面から答えようとしなかった。それが意図的なものだったのか、それとも長年のうちに身につけたこの人特有のスタンスのとりかたなのかは知らないが、言質をとられるのだけは避けたいという思いが感じられはした。いずれにしろ、過去の言動をみるかぎり、小泉首相は理詰め型の人物ではなさそうだ。
  たぶん、この首相は、様々な状況や局面を冷静かつ論理的に考察し政策上の結論を導き出すタイプの政治家ではなく、直観的あるいは感覚的にまず結論を出しておき、その結論を擁護するために理論や説得法を考え出す信条先行型の政治家なのだろう。このような政治家が行政の頂点に立つ場合、その直観的あるいは感覚的判断と選択が状況的にプラスの方向にはたらいておれば偉業をもなしうるだろうが、マイナスの方向にはたらくようだと危うさもまた大きいから、それなりの警戒は欠かせない。
  こうしてこの原稿を書き進めていると、こともあろうに、首相の母堂が逝去されたとの報道が飛び込んできた。およばずながら、一国民としてまずは御冥福をお祈り申し上げたい。このところ首相の表情がずいぶんと険しくなり、疲労の影が濃く浮き出ているのが気になっていたが、それというのも、多忙な国政上の心労にくわえて、母堂の病状への人知れぬ憂慮があってのことだったのかもしれない。首相就任当初の頃とは違って、このところちょっと冷笑的で怖いものさえ感じられる首相の言葉や表情に、一刻も早く人間的な温かみが甦ってくることを願ってやまない次第である。
  先の選挙で我々国民が首相に託したものは、テロ対策特別措置法の制定ではなく、行政及び構造改革の断固たる実践であったはずだ。先に結論ありきの断固たる小泉流で結構だし、また、そういった流儀でもなければ怪奇面妖な特権官僚群の跋扈するこの国の改革は不可能だろうから、是非とも初志を貫徹してもらいたものだと思う。

「マセマティック放浪記」
2001年11月14日

世襲議員の品性はどこに?

  育ちのよい人というものは、ともすると世間から苦労が足りないとか、現実を知らないとか言われがちなものだが、私自身は、ほんとうの意味での育ちのよさはけっして悪いことではないと思っている。要は、その人が育ちのよさを自分の人生にどう活かし、どう社会に関わっていくかの問題なのだと思う。若い頃に心労の絶えなかった私などは、それゆえに失ったものも断念したものも少なくない。経済的条件や生活環境に恵まれていたら遠回りせずにすんだかもしれないと思うことだってずいぶんとあった。
  もちろん、自らの意思に関わりなく厳しい生活を経験せざるを得なかったがゆえに、はじめて身につけることができたことも多々あったし、そのお蔭で曲がりなりにもいまこうして生きているのだとも言える。若い頃の生活環境が結局プラスとマイナスどちらにより作用したか問われれば、格好をつけて「プラス」と答えたくなるところだが、ほんとうのところはよく判らない。それに、いまだって綱渡り人生を送っていることに変わりはないから、近い将来、綱の上からまっさかさまに転落してしまうことだって考えられる。
  もしも、マイナス含みの運命の歯車がより大きくマイナスの方向に回転していたら、マイナス無限大の人生だってありえたわけだし、プラス含みの環境に育っていたなら、いまとは桁違いにダイナミックな人生が開けていたかもしれない。いずれにしろ、すべては結果論であって、いまさら「もしも」という仮定の話をしてみたところで仕方がない。
  ただ、育ちがよくなければ、より具体的な言い方をするなら、若い時代に一定の生活環境や経済的条件に恵まれていなければそこにいたることの難しい世界が存在することは事実である。たとえばクラシック音楽の世界などがそうであろう。それなりの経済的背景が必要なうえに幼児期からの特別なトレーニングが欠かせないそのジャンルで成功するには、育ちのよさというものが、十分条件ではないにしても必要条件ではあることは間違いない。むろん、育ちのよさをベースにクラシック音楽の世界へと進む人たちは、それが自分たちに託された社会的役割だとわきまえ、そこで格闘し、苦悩し、ある時は挫折もしながら、至上の音楽表現を目指して精進してもらえばよいわけだ。
  古来、刻苦勉励が美徳とされてきた日本では必ずしもそうではないのだが、ヨーロッパなどでは、学問の世界を志す者は一定の経済条件や教育環境に恵まれていて当然だと考えられているようだ。学問の世界で大成するには、生活のことなどいっさい気にぜず研究に没頭できるほどの経済的基盤の存在が当然の前提だというのである。欧米の場合、そういった考え方が伝統的に深く社会に定着しているがゆえに、経済的には恵まれていないが抜群の能力をもつ人材に供される奨学金の支給額などは、必要額を十分に満たすものになっているのだろう。かつての日本育英会などにみる中途半端な奨学金の支給ぶりなどとは、その点ずいぶんと違っているようだ。
  もう遠い学生時代のことであるが、たまたま縁のあったある在日欧人教授から養子縁組の話を持ち込まれ、「君が将来学問を続けたいなら絶対的に経済基盤の確立が必要だからこの話を受諾すべきだ。そうでなければ君に将来はない。学問の世界で生きぬくことはそれだけ厳しいものなのだ」と強く説得されたことがある。欧州などではそういったアドプション(養子縁組)はごく普通のことなのだともその教授は力説した。むろん、近親者のまったくいない私の身上を先方があらかじめ調べたうえでのことだった。
  山梨に夫と死別し、実子もいない老婦人の資産家があって、家の将来を託す大学生くらいの養子がほしいという話ではあったのだが、いろいろと思案した挙げ句、結局、私はその一件を断った。その勧めに応じておれば、貧乏研究者の常として日々の生活に追われることもなく、多少はましな成果を上げることはできたかもしれないが、そうは言っても、もともとの資質に限りのあった身ゆえ、やはり多くは望むべくもなかったに違いない。それどころか、いまごろはその資産を食いつぶしたり、資産管理を誤ったりして、それみたことかと物笑いの種になっていた可能性だってある。
  湯川秀樹、貝塚繁樹、小川環樹の湯川三兄弟は、将来学者として大成するための環境獲得を前提に養子に出され、その結果、それぞれが日本を代表する学者になったことは有名な話である。たぶん、この人たちは幼児期から並外れた潜在能力を示してもいたのだろう。またそうだからこそ、その異才の開花を願う両親や養父母らの関係者によって、一貫した環境造りがなされたのだろう。
  真の意味で育ちのよい人というものは、物欲や名誉欲といった世俗的欲望があまりなく、すぐれた文化的価値判断能力や、諸々の芸術などに対する本質的な享受力をそなえていることが少なくない。世間からは苦労知らずと思われがちだが、意外と逆境にも強く、困窮状態に順応する能力も高い。歴史上の各種社会革新運動や様々な社会福祉運動などにおいて主導的役割を演じたり、多大の貢献をしたりした人々に、良家の出身者が多いのは広く知られるところである。物心両面で恵まれて育った人ならではの優しさ、のびやかさ、執着心のなさ、見識の広さ、優れた感受性、先見の明などが大きく働くがゆえなのだろう。むろん、何事にも反例は存在するわけで、育ちがよいにもかかわらず、人格的に問題を抱えた人も少なからず見かけられはする。

  あえてなにやら思わせぶりなことを書いたのは、育ちのよいはずの二世、三世の世襲議員によってその多くを占められている昨今の政界に一言触れたかったからである。小泉首相、福田官房長官、田中外相、石原行政改革相、阿部副官房長官らをはじめとし、現内閣にはずいぶんと世襲議員が見うけられるし、与野党の有力国会議員にいたっては、その大半が二世、三世の世襲議員というのが、いまや実情のようである。親譲りの地盤というバックボーンをもたない人間が、己の力のみを頼りに国会議員に当選するのは、現在の選挙制度下では大変に難しい。たとえ著名なメディア人であったとしても、よほど条件が整わないかぎり苦戦はまぬがれえないことだろう。
  伝来の家業であれ何であれ、親の職業をそのまま受け継ぐということは、継承する側にもそれなりの抵抗や迷いが伴うのが普通であり、継承者の断絶にいたることも少なくないが、国会議員という職業はその点でも特異な存在のようである。よほど居心地のよい職業なのだろう。かつて戦後の日本政界に君臨、辣腕を揮って一世を風靡した吉田茂首相の場合、その唯一の嫡男吉田健一は、終生政界に距離をおき、優れた英文学者としてその生涯をまっとうしたが、このような事例はむしろ珍しいようである。その善し悪しはともかく、いまや国会というところは、庶民とは一味違う、「育ちのよい」はずの人々の活動する場になりつつあると言ってもよい。
  それはそれでよいのだが、困ったことに、このところの二世、三世の国会議員全体を一瞥するかぎり、その人となりに真の意味での育ちのよさや気品といったものをそなえた人物が驚くほどに少ないのだ。例外がまったくないとは言わないが、表向きの鄭重さとは裏腹の傲慢さ、アクの強さ、自信過剰さ、さらには冷笑的態度といったようなものだけがあまりにも目につきすぎる。「庶民なんて所詮アホな存在にすぎないのさ!」という言葉にならない言葉が彼らの胸中から聞こえてくるように感じるのは私だけではないだろう。おなじ二世、三世の世襲でも、人格者がすくなくない実業界の継承者たちと比べ、なぜこれほどに違うのだろう。
  政治の世界というものはもともとそういうものだから、たとえ育ちのよい世襲議員ではあっても、政界に関わる存在であるかぎり、そこに人間としての温かさや品性の高さを求めてみても無駄であるという見方があるのは、むろん百も承知である。政治家としての親の権謀術数ぶりを身近に見て育ち、若い頃に有力議員の秘書などを務めて政治の世界の何たるかを学べば、必然的にそうならざるをえないし、またそうでなければ政治家など務まらないという考えにも一理ある。国政を預かる者には、時にある種の非情さが必要であることも理解できる。
  だが、それにしてもなお、当今の世襲議員の理念なき言動や羞恥心のかけらもない自己保身ぶりは目に余るものがある。今回の小泉内閣の世襲議員にかぎって言えば、首相を筆頭にしてまだしもましなほうなのかもしれないが、国会全体における世襲議員の姿となるとどうにもいただけたものではない。いつの時代も政治に非情さや怜悧さはつきものだとはいっても、その言動が誰の目にも醜悪に映るとなると話はまたべつである。辛酸の極みを経、善くも悪しくも自らの力で議員になった者ならともかく、そうではない二世、三世議員のこととなるとやはり問題だと言わざるをえない。
  常に地元への利益誘導のみを議員に求め、国家全体のことを考えようとしない選挙民にも責任の一端はあるのだろう。地元への利益誘導に対する選挙民の過度の期待と欲求が、せっかくの育ちのよさとそのゆえの気品とを世襲議員から次々に奪い取り、人間として成熟し、真の政治家として大成することを阻害しているのは間違いない。
  いっぽうの二世、三世の議員は議員で、支持母体となっている地元選挙民や支援団体から何をやっても無批判で祭り上げられるのをよいことに、いつしかおのれの未熟さを忘れて精進を怠り、ついには、「国会議員として現在の地位を得たのは自らの実力のゆえにほかならない」と錯覚するにいたるのであろう。こうなるともう、政治的駆け引きのみが身上のいわゆる「政治屋顔」になってしまい、よい意味での育ちのよさなどどこかへ吹き飛んでしまうのだ。
  おのれの保身など考えず、無心かつ無欲で果敢に政治の難局に挑み、党利党略を超えて真の国政に貢献することこそが、育ちのよい二世、三世議員に本来望まれることなのだが、そういう姿の世襲議員がほとんど見られなくなってきたことはなんとも悲しいかぎりである。
  前回の国政選挙で国民の多くが小泉首相を支持したのは、その真贋はともかく、首相の姿や人となりに近年珍しい育ちのよさと、党利党略や自己保身といった世俗的しがらみに捉われぬ品性を感じたからだろう。首相の選挙地盤が横須賀一帯という文化的歴史的にも常に時代の先端にあった地域であることも幾分関係あるのかもしれない。いずれにしろ、その真贋のほどが試される日は遠くない。むろん、個人的には首相の育ちのよさとその品格が本物であることを願ってやまない次第である。

「マセマティック放浪記」
2001年11月28日

広見町の雉戦略なるか?

 愛媛県広見町は、清流で名高い四万十川源流域の一角に位置している。リアス式海岸や、その地形を利用した真鯛の養殖などで知られる宇和島市のすこし東にあたっており、藩政時代までは奥州伊達家の流れを汲む宇和島藩に属していた。この地には、古式豊かな伊予神楽や鬼北文楽、五つ鹿踊りなどといった民俗文化上重要な古典芸能も残されている。最近、広見町農業公社の新施設建造に際し、先史時代の貴重な遺跡が発見されたりもしたようだ。もちろん、近年大問題になったような捏造遺跡などではない。
  たいへんユニークなこの広見町を以前に一度訪ねたことがあるのだが(その時の探訪記は2000年10月11日〜2000年11月01日のバックナンバー参照)、その際にちょっとだけ話題にのぼった「雉プロジェクト」のその後の展開が気にはなっていた。高麗雉(日本雉は鳥獣保護法の制約があって養殖には使えないのだそうだ)の養殖を町内で大々的におこない、それらをうまく流通ルートにのせたい、そして、できれば「雉の広見町」というイメージを全国的に広げたいという一風変わったプロジェクトで、最近、近代的な雉の加工処理場なども試験稼動し始めたと聞いていた。
  特殊冷凍技術とオペレーション・リサーチの専門家としてこのプロジェクトの顧問をしている知人の三嶋さんに、昨今の状況について尋ねてみたところ、実は「雉酒プロジェクト」という異色商品開発計画が進展中なのだとのことだった。そもそも「雉酒」とはいかなるシロモノなのか?――下戸のくせに好奇心だけは人一倍旺盛な私は、なにやら得体の知れないその正体を探索してみようと思い立った。
  もしも、そのシロモノが、文字通りの「珍品」であるなら、世のアルコール党にとってこれほどの朗報はないだろう。このコラムの相棒の永井明ドクターなどは泣いて喜ぶに違いない。それに、広見町の皆さんには先の訪問で何かとお世話にもなったことゆえ、この際、雉酒プロジェクトなるものの紹介に一役買っておくのも悪くない。まあそんなようなわけで、先方の迷惑など顧みず一年ぶりに広見町へと旅立った。
  もちろん、今回も先達の三嶋さんが一緒だったが、先達とはいっても、この人はナビゲータとしても交代ドライバーとしてもまったく役に立たない。ところが、アルコール・ワールドの関連事となった途端に途方もない能力を発揮するときているから、人間とはなんとも不思議なものである。広見町の雉プロジェクト顧問として「雉酒プロジェクト」なるものを考え出したのも、むろんこの人にほかならない。広見町や同町に協力する民間企業にとって問題のプロジェクトが吉とでるか凶とでるかはべつとして、「雉酒」という着想自体はなかなかのものであるように思われた。
  広見町ではすでに先導試行として相当数の雉の養殖がおこなわれており、まるごと冷凍加工されたものが既に一部販売ルートにのせられたりもしている。詳しい話は省略するが(興味のある方は2000年11月01日のバックナンバー「広見町新規事業探訪記」を参照してください)、雉プロジェクトのおおまかな流れは次ぎのようなものである。
  町営の雛鳥孵化育成施設で雉の卵を人工孵化し、孵化した雛を育雛場で一ヶ月ほど育てる。それらの雛は町内の養殖希望の農家に譲られ、各農家で成鳥になるまで育てられる。そして成鳥を再び町が買い戻す。雛の譲渡価格と町の成鳥買取価格との差額が農家の利益となるのはいうまでもない。広見町のほうは買い戻した雉を町営の加工処理場で商品化し、いくらかの値段を上乗せして販売ルートに流すというわけだ。将来一定量の雉肉が流通するようになればそれなりに採算は合うらしいのだが、本格的にプロジェクトが動き出してからまだ間もない現在は、関係者にとってもっぱら正念場というところであるらしい。
  そもそも、この雉プロジェクトにはクリアしなければならない難題が二つ存在していた。そのひとつは特殊な性質をもつ雉肉の冷凍処理技術上の問題、いまひとつは雉料理の調理技術を含めた雉肉のもっとも上手な賞味法の研究開発だった。流通量がそう多くない雉の場合、どうしても鶏などに較べて一羽あたりの販売価格が割高にならざるをえない。処理した雉の鮮度と味を保ち、いっぽうでその割高感を克服していくには、それら二つの難問を解消する必要があった。
  広見町の雉プロジェクト顧問としてその問題の解決に取り組んだ三嶋さんは、地場産業の関係者を対象に広見町農業公社で開かれた講演会でその研究成果を報告したが、なかなかにその話は面白かった。
  有名機械メーカーや大学の研究室がらみで長年冷凍技術の研究に携わった三嶋さんの話だと、食用畜類、魚類、食鳥類などの肉というものは長期冷凍保存が大変困難であるらしい。冷凍処理をほどこすと、凍結時に細胞内の水分が膨張するため細胞そのものをすくなからず破壊してしまう。しかも、生じた氷の微結晶どうしが次々に結合しより大きな結晶に成長するので、いっそう細胞破壊が進んでしまう。そのため、解凍時に旨味成分をはじめとする細胞内の諸成分がドリップ(旨味成分を含む多量の水滴)となって流出し、味も鮮度も大きく落ちてしまうのだそうだ。とくに、食鳥類の凍結品で解凍時にドリップの出ない商品の存在は、これまで我が国では確認されていないという。
  雉肉は鶏肉などと違って、最高に味がよくなる期間が一年のうちの一、二ヶ月に限られる。だから、味のよい雉肉を年間を通して流通させるには冷凍による長期保存が欠かせない。そうなると、ドリップを極力抑える冷凍技術の確立は避けて通れない問題であった。しかも、それにくわえて、雉肉の冷凍に関してはいまひとつ解決を要する難問があった。
  雉肉は処理後すぐに食べるより、二日ほど熟成させてから食べたほうが美味しいことは昔から知られていた。そこで、旨味の主成分であるイノシン酸等の増減状態を科学的に分析してみると、やはり処理後四十八時間ほど経過したところが熟成のピークになる、すなわち、その時点で雉肉内に含まれるイノシン酸その他の旨味成分量が最大になることが確認された。
  そうだとすれば、処理後四十八時間ほど経過してから冷凍処理するのがベストだということになるのだが、熟成とは要するに徐々に腐乱することにほかならないから、そのぶん大腸菌類が増えることになってしまう。食品の衛生管理には厳しい法的規制が設けられているから、大腸菌類の数は厳格に基準値以下に抑え込まれなければならない。大腸菌の増殖を抑制するには処理直後に急速冷凍するにかぎるが、そうすると、味の落ちる未成熟の雉肉になってしまう。
  技術的観点からするとなんとも厄介な問題ではあったが、三嶋さんらは、まず、成熟進行度と周辺温度との関係、大腸菌の増殖度と周辺温度との関係を詳細に調べてみた。またそのいっぽうで、近年ほとんど顧みられることのなくなっていた液体凍結法という冷凍法に再着目し、いろいろと予備実験を重ねてみた。そして、その結果、ようやく難題解決に漕ぎつけたというのである。
  雉肉の熟成を極力進めるいっぽうで大腸菌の増殖を可能な限り抑えるには、雉の処理後、摂氏八度の定温のもとで四十八時間ねかせておくのが最適であると判明した。また、解凍時のドリップを最小限に抑えるには、そのあとマイナス三十度からマイナス三十五度のエタノール液槽に雉を浸し急速凍結させるのが最良であることもわかってきた。
  ほとんどの冷凍加工工程では、現在、エアフラスト法による瞬間冷凍が主流となっている。気体を用いたこの方法は、熱交換率が小さいために、対象物の表面だけを凍結させるにはよいけれど、対象物の深奥部までを短時間で凍結させることは難しい。この方法で対象物の内奥部までを凍結させようとすると、長時間を要するうえに、発生した氷の微結晶が結合肥大化を繰り返し、どんどん細胞破壊を進めてしまうという。だからといって表面だけを冷凍したのでは、内奥部の鮮度低下は避けられない。
  ところが、エタノールを用いた液体凍結法の場合、冷媒の熱交換率が大きいため、対象物の内奥部まで急速に低温凍結が進む。そのため、内部の鮮度も保たれるばかりでなく、細胞内に生じる氷も微小結晶のままにとどまり、細胞破壊も最小限ですむという。実験結果をまとめたデータを見てみても、まったく問題ないレベルにまでドリップの発生は抑えられている。
  エアフラスト法と液体凍結法による凍結曲線を比較してみると、凍結速度の差は一目瞭然といってよい。液体凍結法の場合、冷凍サンプルの中心部温度が零度前後からマイナス十三度まで下がるのに三十分しか要しないのに対し、現在主流のエアフラスト法では、零度からマイナス一、二度のままの状態が約三時間も続き、そこから四十分ほどかかってようやくマイナス十三度ほどに下がっている。エアフラスト法の場合、サンプルの中心部がマイナス十三度になるまでに三時間四十分もかかっていることになるわけだ。
  面白いことに、液体凍結法を用いると大腸菌類の数までが冷凍開始時よりも減少することもわかってきた。もちろん、冷凍対象物を直接に冷凍液に浸すのではなく、冷媒に触れぬように真空パックして浸すわけだから、エタノールの殺菌作用によるものではなさそうだ。そのメカニズムはいまひとつはっきりとしないらしいのだが、温度低下が急激なため、大腸菌が細胞膜を通してあらかじめ水分を放出し凍結膨張に備える時間がないためだろうと推測されているようだ。水分が一挙に凍結膨張して細胞膜を破壊し、その結果大腸菌が死んでしまうのではないかというわけだ。
  三嶋さんらは、この液体凍結法を用いて先行予備実験をおこない、処理した雉を理想的な状態で約十ヶ月間長期冷凍保存することに成功した。こうしてようやく、広見町に「雉肉処理用プラント・ライン」を建設、ノンドリップで旨味成分を最大限に保った雉肉を安定的に通年供給できる見通しが立ったのだった。この液体凍結法を用いた専用凍結機が完成すれば、雉肉ばかりでなく、鶏肉や牛肉、豚肉、魚肉などのノンドリップ長期凍結保存にも威力を発揮することは間違いなかった。冷媒にエタノールを使うため、他の凍結法に較べてランニングコストが低くてすむことも大きな利点だった。
 
  三嶋さんらがおこなった予備実験のデータをもとに、エタノールを冷媒とする高性能の液体急速凍結機の開発に挑んだのは、神奈川県小田原市の中谷商工という機器メーカーだった。神奈川県小田原市に本拠をおくこの中谷商工グループは極めて高い工業用機器製造技術とすぐれた製品開発能力をもっている。各種の特殊機械や精密機器の製作に携わるほか、国内のCD原盤生産において他社の追随を許さぬ圧倒的シェアを誇っていることでも知られている。遠赤外線と共振する特殊セラミックを素材にし、安眠マットやドライブシートなどのような独創的な商品の研究開発にも余念がない。
  実験データは一応出揃ったとはいっても、それらをもとに実用に耐える機械を製作するのは容易でない。たとえば、冷媒となる大量のエタノール液を一定の低温に保ち、熱交換を安定的におこなう工程を実現するだけでも大変なことなのだ。そのほかに衛生管理上の厳格な条件を満たしながら冷凍対象品を効率的に凍結処理する工夫なども必要だし、冷凍処理工場のライン全体との関係なども考慮しなければならない。しかし、中谷商工の開発技術者はほぼ理想通りの液体急速冷凍機を完成することに成功した。
  完成した第一号機は広見町に新設された雉加工処理工場に納入された。私もこの工場を見学させてもらったが、屠鳥室、解体室、熟成室、クリーンルーム、凍結庫からなる当該施設はきわめて近代的なもので、しかも、厳格な衛生管理基準を十分に満たす構造になっている。なかでも、分類解体、殺菌、真空包装、予備冷却、急速凍結をおこなうクリーンルームには、他に類例を見ないほどに厳しい衛生管理体制が敷かれている。広見町に納入された第一号液体急速凍結機がこのクリーンルームにおさめられているのは言うまでもない。
  いまひとつ小型の液体凍結実験機も広見町に納入されていたが、こちらのほうはすりおろした山芋の長期保存処理に試用されているらしい。この凍結機を使ってすりおろした山芋を凍結保存しておくと、解凍した場合でも、味と粘り気はほとんど損なわれることがないとのことである。
  我が国の観光用大型客船「あすか」への調理用真鯛の納入を一手に引き受けているのは、一度私も訪ねたことのある秀長水産という宇和島の大手水産業者だが、この業者が「あすか」へ出荷する真鯛は、やはり液体急速凍結機によって凍結保存されたものであるという。「あすか」のシェフが、各業者の納入した真鯛を慎重に試食し、秀長水産の真鯛を選んだからだなのだそうだが、その秀長に液体凍結技術を紹介指導したのも三嶋洋さんである。

「マセマティック放浪記」
2001年12月5日

雉酒プロジェクト

  良質の雉肉の長期冷凍保存と年間安定供給の問題は一応の解決をみたが、いまひとつ解決しなければならない問題があった。雉肉の販路拡大に欠かせないその調理法と賞味法の研究開発である。一般によく知られているのは雉鍋で、それはそれでなかなかの味なのだが、鍋にするだけではあまりにも工夫がなさすぎる。
  我が家でも届けられた雉を添付のレシピ通りに鍋にして食べてみたが、煮詰めるほどに、香りも味も抜群のなんともコクのあるスープが得られ(雉汁ラーメンなどをつくったらさぞかし美味いことだろう)、贅沢なことこのうえなかった。だが、そのいっぽうで、せっかくの雉肉なのだから、雉ならではの繊細な味わいを存分に楽しめる特別な調理法があってもおかしくないという思いもした。
  古来、皇室などでは雉料理が伝承されてきているという話などもあるなかで、三嶋さんらはいろいろと料理に関する過去の文献を漁ってみたらしいが、こと雉料理に関しては、これはという資料や記事は見つからなかったようである。そこで何人かの料理研究家にも尋ねてみたが、やはり決定的な解答は得られなかった。もともと野生の雉は捕獲が難しく、容易に入手できるようなものではなかったので、調理法の伝承も途絶えがちになってしまったのかもしれない。
  三嶋さんのお宅のすぐ近くには、エッセイストで、料理研究家としても著名な本間千枝子さんが住んでおられる。本間家と三嶋家との親交は長年にわたっており、本間さんと三嶋さんとはお互い気心の知れた間柄である。また、三嶋さんの奥さんも以前から料理研究家の前田侑子さんの助手を務めたりしている料理のプロである。そんなことなどもあって、三嶋さんの周辺では雉肉の美味しい調理法の研究が始まった。いろいろと工夫が重ねられ、塩釜、蒸し焼きなどをはじめとする、雉肉の美味さを最大に活かすいくつかの料理法なども考案された。
  そんななかで突如浮かび上がってきたのが、現在では幻の存在と化した「雉酒」なるシロモノなのだった。平安時代から現代にいたるまで宮中では毎年元日の朝に雉酒が供される慣わしになっているという記録もあるし、昭和に入ってからも、ごく一部の事情通の好事家らによって密かに雉酒が珍重されてきたらしいこともわかってきた。だが、困ったことに、いくら調べても雉酒なるものの造り方がいまひとつはっきりしなかった。
  雉酒はやはり幻のままで終わるのかと諦めかけた折も折、貴重な手掛かりを与えてくれる文献がついに発見されたのだった。三嶋さんがずいぶんと時間をかけて検索し、苦労して入手したその文献とは小林勇(一九〇三〜一九八一)の筆になる「雉酒」という題名の随筆だった。小林勇は岩波書店の発展に尽くし、幸田露伴や斎藤茂吉らをはじめとする多くの作家や学者の著作を世に送り出した人物である。こよなく酒を愛した小林は、洒脱な文章で知られる随筆家としても名高い。
  その随筆「雉酒」の中で、小林は、――当時の理化学研究所長の大河内正敏、その弟で画家の大河内信敬、作家の幸田露伴、物理学者で作家の寺田寅彦、それに筆者自身の五人が集まって昭和初期のある冬の夜に酒宴を開いた。その時、「お雉さま」と呼ばれ、正月に宮中の儀式で用いられるという珍しい酒が出された。それは、雉の手羽肉や腿肉、胸肉などを薄く切ってこんがり焼き、ほどよく焼き上がった肉を酒器に入れて上からお燗した熱い酒を注ぐというものだった。酒が飲み頃になるまでに、雉肉から滲み出た高貴な香りや成分が酒と融合して、なんともいえない美しい色合いになった。鰭(ヒレ)酒、海鼠腸(コノワタ)酒などに較べればはるかにうまく、上等で、露伴は雉酒を五杯、日頃酒をほとんど飲まない寅彦もおかわりをした。それに味を占めた小林らは、中央気象台の岡田武松、藤原咲平の科学者二人をも巻き込んで幾度も雉酒を楽しんだ――といったようなことを述べている。
  事が動く時とはえてしてそういうもののようで、「よーしっ、これだ!」と意気込んでいた三嶋さんのところに、いまひとつ思いがけない朗報がもたらされた。雉料理のレシピづくりで指導を仰いでいる本間千枝子さんから、昔お父さんがよく雉酒を嗜んでおられ、雉酒を飲む時に用いられた酒器もそのまま残っている、という願ってもない情報が転がり込んできたのである。 
  本間千枝子さんによれば、雉酒は父君自慢のコンコクション(調整物混合飲料)だったのだそうで、つくりかたもそう難しくないという。雉の笹身を薄く三枚くらいに削ぎおろし、上質の塩をごく微量ほどこしてから炭火で炙り焼く。そして、それを 四十五度くらいの燗酒の中にジュッとつけ、五、六分待ってから飲むのだそうだ。父君のご存命中に本間さん自身も数回だけ味わったことがあるそうで、その美味しさはなんとも形容し難いとのことだった。
  前述した小林勇の随筆中に見られる雉酒と、むかし銀座にあった粋な小料理屋の主人直伝なのではないかという本間さんの父君ご自慢の雉酒とは少々処方が異なってはいたが、ここまで判ればあとは実験あるのみだった。三嶋さんらがさっそく雉酒つくりに挑んだことはいうまでもない。多少の試行錯誤はあったようだが、結果は大成功であった。前者の雉酒には独特の野趣と深みがあり、後者の雉酒には比類なき上品さと厳かさがあって甲乙つけがたいが、その高貴な香りと美味さは双方に共通のものであることも判明した。しかも、この雉酒には、多飲しても二日酔いにならないというおまけまでついていた。
  かくして甦った幻の酒、「雉酒」の美味さに三嶋さんらは確信をもったが、自画自讃になってもいけないというわけで、慎重のうえにも慎重を期することにした。そして、本間千枝子さんの少なからぬ計らいのもと、帝国ホテルで開かれた利き酒の会に登場した雉酒は、味にうるさいその道のプロたちからも絶大な評価を受けるところとなったのだった。
  雉酒の再現に成功した三嶋さんらは、そこでとどまらず、さらにもうひと工夫試みてみることにした。雉酒をつくるには、むろん、冷凍した雉肉を一羽分まるごと購入し、それを自分で調理して用いるのが最善だが、当然それなりに手間も費用もかかってしまう。そこで、より手軽に雉酒を楽しんでもらえるように、あらかじめ雉エキスだけを抽出しておき、それを燗酒や冷酒とほどよく調合するようにしたらどうだろうと考えた。それが成功を収めれば新商品として売り出すこともできるし、広見町の雉プロジェクトも一大展開が可能になるというわけでもあったった。
  三嶋さんらはいろいろと研究を重ねたすえに独自の抽出法を考案し、雉肉の旨味成分を抽出した上質の雉エキスをつくることに成功した。そして、日本食品分析センターに依頼し、その雉エキスの含有アミノ酸の分析をしてもらうと、なんと十八種類ものアミノ酸が大量に含まれていることが明かになったのである。雉酒が抜群に美味く、しかも身体によい秘密が、それら十八種のアミノ酸にあったことはいうまでもない。
  実際に抽出した雉エキスを清酒と調合して試飲してみると、直接に雉肉を用いた場合に較べてもそんなには遜色ない味と香りとを楽しめることも判明した。ごく最近になって問題の雉エキスは「雉酒の素」として、愛媛県広見町とその協力企業の雉酒本舗とによって商品化され、徐々にだが市販されはじめているようだ。
  広見町産の高麗雉の笹身と胸肉から抽出される上質の雉エキスからなる「雉酒の素」には燗酒用と冷酒用の二種類がある。燗酒用は清酒と雉酒の素を9:1の割合で、また冷酒用は清酒と雉酒の素を3:1の割合で調合して飲むのだが、それぞれに味わい深いものがあるという。もちろん、燗酒で味わうのが雉酒本来のありかただから、正統性にこだわるか方などは燗酒用を試されるほうがよいだろう。ついでに述べておくと、雉酒用の清酒には純米酒の中口を用いるのが最善であるらしい。高級吟醸酒などを用いたりすると、中に含まれる香料その他が逆効果をもたらし、せっかくの雉エキスの高貴な香りや味がかき消されてしまうことにもなりかねないからだそうだ。
  内親王様のご誕生以来、国内には慶賀ムードが広がっているが、この際、酒に目のない方々は、そんな祝賀ムードに便乗して伝説の雉酒で祝杯をなどというのは如何なものだろう。本物の雉肉を用いて本格的な雉酒で祝杯をという方は、広見町物産展示販売施設「森の三角ぼうし(http://sankaku-boushi.com)」に、また、手軽に雉酒の素で一杯という方は、「雉酒本舗(http://www.kijizake.com/)」にアクセスし、雉酒関連情報を入手されたらよいだろう。

「マセマティック放浪記」
2001年12月12日

文学的宇宙論講座?

  先月半ばのこと、茨城県友部町にある茨城県教育研修センターに出向いた。同センターの職員の方々、すなわち、茨城県下の小、中、高の教員研修指導担当のベテラン指導教官五十人ほどを対象にした講演会に、講師として引っ張り出されてしまったのだ。ひらたく言えば先生の先生を務めておられる方々相手の講演だから、近年、知性よりも「痴性」の占めるウエイトのほうが大きくなったこの身としてはいささか気おくれする思いだった。
  毒にも薬にもならない軽い乗りの講演ならフリーランスの常としてそれなりに場数を踏んできてはいる。しかし、教育の専門家を相手にした真面目な講演となると、ずいぶん久しぶりのことである。フリーランスの世界に身を投じてからというもの、そうでなくても乏しいかぎりの専門的知識や能力は日毎に退化し、その場しのぎの漫然とした雑学的素養だけが垢のように積もってしまった。おかげで肝心の頭脳のほうはスポンジ状化、いまばやりの表現を借りれば狂牛病状態化し、学術的あるいは教育的に有意義な講演などまともにできる状況ではなくなってしまっている。
  そんなところに、宇宙について何か話してほしいなどという、とんでもない依頼が舞い込んできたのだから、困ったことはいうまでもない。そもそも茨城県には日本の学術研究の中枢をなす筑波研究学園都市があるから、宇宙関連の優れた専門研究者などいくらでもいるはずだ。宇宙開発事業団直属の筑波宇宙センターだって存在している。そんな茨城県の教育研修センターに出向いて、しかも、数学、科学哲学、文学、あるは紀行体験がらみのテーマならまだしも、本来専門外の宇宙の話をしろというのだから、何かの間違いだろうと思わざるをえなかった。
  ことの発端は、この拙稿を毎週欠かさず読んでくださっているという数学担当の教育研修センター職員、松延和典さんが、拙著「宇宙の不思議がわかる本」(三笠書房)を手にされたことにあったらしい。その結果、同センターの山内洋行所長と相談のうえ、私を呼ぼうということになったようなのだ。やばいよなあ、出版社の調子よい誘いに乗ってあんな本なんか書くんじゃなかった――などと悔やんでみても、もはや後の祭りだった。
  茨城県内の大学や研究所にはその道の専門家が大勢いるから、そのなかのどなたかに依頼したらと一旦は辞退したのだが、どうしてもとの話である。それなら、私ではなく、もと種子島並びに筑波宇宙センター所長で、前述の文庫本の共著者、菊山紀彦さんではどうだろうと伝えると、実際にあの本を執筆したのはあなたのようだから是非お願いしたいと、先方はまったく引いてくれる気配がない。
  多忙な菊山さんに代わって、前書きを含め宇宙論全般に触れた同書の一章から五章までを執筆したのは確かに私だし、国際宇宙ステーション等の具体的な宇宙開発について述べた六章と七章も、菊山さんの新聞原稿や講演録を私が整理し再文章化したものだ。だが、いったいどうしてそんなことまでわかったのだろう。以前に、「高ボッチ山頂にて」という一文を本欄に寄稿したとき、ちょっとだけそれらしいことを述べはしたかなあと思っていると、なんと、松延さんが電話の向こうで、「あの時の文章に魅せられて、私は高ボッチ山まで行ってみたんですよ」とおっしゃるではないか。とても人様に感動していただけるような文章ではなかったのだが、そこまで言われるともう逃げ出すわけにもいかなくなってしまった。
  当日は時間にはずいぶんと余裕をもって自宅を出発したのだが、途中予想外の大渋滞に遭遇し、講演会場のセンター駐車場に着いたのは講演開始予定時刻のわずか十五分前という有様だった。所長室に通され、とりあえず山内洋行所長と簡単な挨拶を交わしたが、実に温厚で柔軟なお人柄の方だった。茨城県教育研修センター所長という肩書きからして、台上に聳え立つブロンズ像みたいな方であってもおかしくないとも想像していたのだが、それは私の取り越し苦労に過ぎなかった。考えてみれば、私のような不良中年暴走族(このぶんだと、いずれは不良「老年」暴走族になってしまうことだろう)をセンター職員研修講師に招こうというのだから、相当型破りで度量の大きな方には違いない。「遠慮なく、なんでも自由にしゃべってもらって構いません」という所長の一言で、私はすっかり気が楽になった。
  センター到着後十分ちょうどで私は講演会場の壇上に立つことになった。およそ一年ぶりのスーツにネクタイ姿とあって、スーツやネクタイのほうが面食らってオロオロしている感じだった。当日の講演に先立って、「文学論的宇宙論講座」という講演テーマと講演概要についてA4版で八ページほどの図版入りレジメントをあらかじめ送付してあったので、とりあえずはそれをベースにして話を進めることになった。
  講演の冒頭において、私自身は宇宙論の専門家ではないので、言うなればパウロ的立場で、それも極めて伝道能力の劣る贋パウロ的立場で話をさせてもらうことになるという主旨のことを述べた。しょっぱなから逃げ口上をうったなと言われればそれまでだが、そう切り出したのには実はそれなりの理由があった。宗教の世界ばかりでなく、宇宙論をはじめとする各種先端科学の世界にも、キリスト(教祖)的役割を担う人々とパウロ(伝道師)的役割を担う人々とが必要だと常々私は感じてきた。知人の京都大学教育学部子安増生教授などのように、ずっと以前から、すべての学問にはキリスト役とパウロ役が必要だと提唱し続けてきた人もあるくらいである。
  全身全霊を傾けて深遠な教義を生み出す教祖とその教義をわかりやすく人々に説く伝道師が宗教にとって必要なように、科学界においても、独創的な先端研究に全力を傾ける教祖的研究者と、先端研究の成果をわかりやすく一般の人々に伝える優れた伝道師的科学解説者(サイエンスライター等)の両方が必要なことは言うまでもない。
  教祖にあたる人物が伝道の仕事も的確にこなせれば理想的ではあるのだが、現実にはそれはほとんど不可能に近い。時間的制約もあるうえに、自らの研究データを基に専門的言語(数式や各種記号等の科学記述言語)を用いて理論を構築する能力と、巧みな比喩を用いたりしてその論理の概要を一般言語でわかりやすく伝える能力とはもともとべつのものだからだ。アインシュタンやホーキングの書いた相対性理論や宇宙論の解説書の意味するところが結局のところ一般人にはよくわからないのは、理論そのものの難解さにくわえて、もうひとつそのような事情があるからにほかならない。
  ただ、科学界にもパウロ的役割が必要であるとはいっても、これまたそう容易なことではないのである。その役割を務めるには、ある程度まで先端科学理論の専門的記述を理解したり外国語文献を含む関連資料を読みこなす能力のほか、広汎な科学哲学的素養と日常的言語による一定レベル以上の明快かつ的確な文章表現能力をそなえていることが前提となる。
  研究者が象牙の塔にこもっておればよい時代は終わり、大学や各種研究機関と、産業界さらには一般大衆との協力関係が不可欠となったこの時代、科学の世界におけるパウロ的人材の確保は急務なのではないかと思われる。欧米では昔から優れたサイエンス・ライターはそれなりの社会的評価と待遇を受けてきたが、我が国においてはその道の直接の専門家ではないということで、サイエンス・ライターは独立した職業として高く評価されることはほとんどなかった。唯一例外があるとすれば、立花隆氏くらいのものではなかろうか。しかも、立花氏の場合はサイエンス・ライターとしての活動は同氏の仕事の一部に過ぎないし、他分野での優れた業績とその知名度との関係もあって科学ジャンルでの仕事も高く評価されているという経緯もある。
  私個人としては、これから先、一部の大学などには、科学の世界のパウロ、すなわち有能なサイエンス・ライターや科学解説者を養成する学科などを設立すべきではないかとさえ考えている。そこで養成された人材は、たとえサイエンス・ライターなどにならなくても、大学や企業の各種研究機関の広報担当者や対外的な渉外担当者として重要な役割を果たすことができるだろう。
  以前から東大や国際キリスト教大といったごく一部の大学には教養学部(一般教養過程の教科を学ぶという意味での教養学部ではなく、学際的な総合能力をもつ人材を育成する専門学部のことである)が設けられている。教養学部出身者には科学界の伝道師を務めるに格好の人材も少なくはないのだろうが、我が国ではそんな学部の存在意義すらこれまでほとんど理解されてこなかったようである。
  フリーランスに転じてこのかた、様々な一般向けの科学書や科学記事の原稿執筆にも携わってきたし、科学に関する講演などもいろいろとこなしてきたが、そんな折には、無能であっても、せめて四流五流の伝道師もどきくらいの仕事はしたいものだと心がけてきた。逆にいえば、科学関係の世界においていまの私にできるのはその程度のことしかないというわけでもあったのだ。
 
  パウロ談議が長くなってしまったが、そんなスタンスをとる理由を説明したあと、私は続いて「なぜ宇宙論は難解なのか?」という話をした。宇宙論という陽画の世界の背後には、その前提となる科学記述言語(各種数式や科学記号類)や認識論の根底的定義に関わる陰画の世界が隠されている。その陰画の世界の一端でも垣間見ることができるならば、すくなくとも宇宙論が難解な理由だけは納得してもらえる。宇宙論の記述には怪奇面妖な数式を用いざるをえないこと、日常言語でそれを記述したり語ったりするにはおのずから限界が伴なうことなどもいくらかはわかってもらえるかもしれない。まあ、そんなようなことを考えたからだった。
「宇宙の不思議がわかる本」などという本の筆を執った当人が、講演の冒頭で「なぜ宇宙論は難解なのか?」などという話をするなんて本末顛倒も甚だしいかぎりだが、同書にそのようなタイトルがつけられたのは、「わかる本」シリーズを刊行している出版社サイドの意向によるものである。本来なら「宇宙の不思議を考える本」とか「宇宙の不思議に迫る本」くらいにしておくべきところではあるのだろう。
  詳細は省略するが、アインシュタインに一般相対性理論の展開を可能ならしめた非ユークリッド幾何学(リーマン幾何学)の定義の異質性や、人間の認識尺度と自然界の法則との相関性にまつわる解決不可能な問題の存在、さらにはその理由などについて話をした。そして、いかなる自然科学の法則も宇宙における客観的かつ絶対的存在ではありえないということ、宇宙論とは、結局、文学と同様に人間の認識を暗黙の前提とした一種の宇宙描写(科学言語によって宇宙を詠んだ前衛詩)であることなどを述べた。
  また、大宇宙における人類の位置付けとして、「人間とは歪んだ、そして曇った鏡かもしれない。しかし、それはまた、宇宙が自らを映し見るための掛け替えのない鏡のひとつにほかならない。宇宙のドラマがどんなに壮麗かつ深遠をきわめていようとも、そのドラマを認識しそれに感動する存在がないならば、そこには漆黒の闇と永遠の無とが広がっているばかりである」という、いくぶん実存主義がかった人間肯定論を述べたりもした。
  続いて、太陽を直径1mmの円「。」だと仮定すると、その中心から水星までが4,15cm、金星までが7.77cm、地球までが10.7cm、火星までが16.4cm、木星までが55.9cm、土星までが102.6cm、天王星までが206.5cm、海王星までが323.6cm、最遠の冥王星までが452cmということになり、その場合、太陽系のおよその直径は900cmになるという説明をした。そしてそのあと、この計算でいくと約10万光年といわれる我々の銀河系の直径はどのくらいになるだろうかという質問をしてみた。
  ちなみに述べておくと、この答えは68万kmである。太陽の直径は地球の直径の108倍だから、もしも地球が「。」の大きさであるとすると、銀河系の直径は7344万kmということになる。銀河系の中心部の厚さは2万5千光年ほどだといわれるから、こちらのほうは1836万kmに相当している。途方もない銀河系の大きさをある程度は想像していただけることだろ。銀河系一個でこの有様だから、銀河が数千億個も存在するというこの宇宙の大きさは想像に余るというほかない。
  このあと話は、時空4次元の歪みのイメージのしかた、カール・シュバルツシルト半径とブラックホールの意味、フリードマンの宇宙モデル、ハッブルの法則と宇宙の膨張、ダークマターやグレイトアトラクタ問題、2.7°K宇宙背景放射とビッグバンとの関係などといった具合に展開した。さらに、宇宙は無から誕生したとするアレキサンダー・ビレンキンの量子論仮説やスティーブン・ホーキングの無境界宇宙論などの原初宇宙の誕生に関わる理論、真空エネルギーの相転移という概念で宇宙膨張のメカニズムを説く佐藤勝彦やグースらのインフレーション理論について一通り触れた。
  そして、最後をコーネル大のフランク・ドレイクらによってはじめられたSETI(The Search for Extraterrestrial Intelligence、地球外知的生命体探査計画)の話で結んだ。現在では多くの天文学者や宇宙物理学者が、人類以外の知的生命体の存在を信じているといわれている。その推定値をにわかに信じるわけにはいかないが、ドレイクなどはこの銀河系だけでも約三百の知的文明が存在すると考えているくらいである。
  講演に先立っての私の最大の心配事は、下手な話が受講者の方々の格好の睡眠剤になってしまうのではないかということであった。だが、幸いなことに、睡眠を楽しんでおられる方々はごくわずかのようだった。もしかしたら、無理をして瞼を開いていた方が多数あったのかもしれないが、そこは図々しく開き直って楽観主義的判断に徹することにした。
  まあそこまではよかったのだが、最後に壇上に立った山内洋行所長の詩の朗読に不意を突かれ、私は顔を赤らめひたすら狼狽するばかりであった。「渚」というその一篇の詩はすでに絶版となっている拙著の最終章におさめられた自作の詩だったからである。どうやら図書館かどこかであらかじめ調べおかれたものらしい。
  なんとか大役を果たし終え東京へ戻ったのであるが、後日、松延さんと山内所長のお二人からあらためてお礼状を頂戴した。私を呼んだ直接の責任者である松延さんに御迷惑をかけてしまったのではと危惧していたのだが、結果的にはたいへん好評だったとかで(ほんとうは大不評だったのかもしれないけれど)、とりあえずは胸を撫で下ろした次第だった。
  この際、恥をかきついでに、問題の「渚」という詩をご紹介しておこう。もう十年以上前に綴った私の詩作品のひとつである。うまい詩とはとても言えないしろものだが、私なりに深い想いこめ、二重三重の含みを秘めて詠んだものには間違いない。それをどう感じ、どう読み解いてくださるかは皆さんにお任せするしかない。

           渚

たしかこの渚をこころもとない足取りで歩いたような気がします
そう……まだ幼かった頃です もう遠い昔のことです
砂に足をとられながら 寄せる波に小さな靴を濡らしながら……

さがしていました ながいあいだ この渚を……
そのときあなたはひとり坐っていました
すぐ近寄れそうで それでいてどうしても近寄れないところに

歩き疲れて砂の上で眠ったような気がします
ふと気がつくともう夕暮れでした
遠い海面が赤紫に輝いていました
はっとしてあたりを見回すと 渚と垂直に二筋の足跡がつづき
海の中へと消えていました

その日が最後でした あなたの姿を目にしたのは
あれからずいぶんとさがしました 遠い記憶のこの渚を……
砂と波と夕陽が解いてくれるような気がしたからです
わたしという この小さな存在の方程式を……

解けなかったのですね あなたにも
あなたはわざと 解のない方程式を渡したのですね
この浜辺で 幼かったわたしに
解けないことも 解く必要もないことも知りながら

おかげでわたしは生きてきました
小さな謎をいつもどこかで気にかけながら
わたしもまた渡すべきなのでしょうか
わたしもまた残すべきなのでしょうか
解けないとわかっている存在の方程式を……
生命という名の赤いビーズを無数につなぐ
目に見えない細く長い糸として……

「マセマティック放浪記」
2001年12月19日

冬の日に

  夕陽が美しい季節になってきた。私の住む東京郊外の町からは、西の方角に丹沢山塊とひときわ流麗な富士の姿とが折り重なって望まれる。晩秋から真冬にかけての時節は、ちょうど富士山のあたりに夕陽が沈んでいくので、ときたま、西空が真っ赤に燃え上がり山並が息を呑むようなシルエットとなって浮かび上がることがある。日輪がすっかり姿を隠したあとも、黄昏という言葉通りに荘厳な輝きの黄道光が残り、やがて藤色から深い藍色に空の色が変わる頃には宵の明星などが澄んだ光を放ち始めたりもする。東京の空もまだまだ捨てたものではない。
  そんな美しい夕空を見ながら、この冬は人心の奥底までが冷たく凍てつくくらいの凄まじい寒波がやって来るかもしれないなと思ったりもした。でも、人間というものは、おのずから感性の研ぎ澄まされざるをえないそんな時こそ、おのれの成長や飛躍を促す重要な出来事などに遭遇しがちなものではなかろうか。自分のささやかな人生を振り返ってみても、なにかしら前進の糸口を発見したり、想わぬ出逢いに恵まれたりするのは、冬の季節がほとんどだった。むろん、ここで言う冬の季節とは象徴的な意味合いをも含めてのことであって、文字通りの冬期のみをさしている訳ではないのだが……。
  冬の旅に心ひかれることのすくなくない私みたいな人間の眼からすると、この寒い季節はまた、若い女性が心身ともにひときわ美しく輝いて見える時でもある。師走や年始の喧噪に背を向け独り深い愁いを湛えながら、凍てつくような北風の中を、コートの襟をたて、それでもなお毅然として風上に向かって歩いている美しい女性の姿を見かけたりすると、うわぁ、素敵だなって、ついつい見とれてしまうこともある。

  もう十年以上前の話になるが、上野の国立博物館で催されていた百済観音展を見に行ったことがある。真冬の夕暮れ近い時刻とあって、陽はすっかり翳り、身震いするほどの冷たい風が博物館に通じる広場を容赦なく吹き抜けていた。その風の中を清楚な感じの黒のコートをまとった女性が、時の錬磨を偲ばせるそのしなやかな身体からはっとするような「麗気」を発しながら、やはり国立博物館へと向かっていくところだった。
  閉館時間直前であったことなども幸いして、百済観音展の会場はほどよくすいていた。いささか不謹慎ではあったが、煩悩多きこの身は、すこし離れたところから二つの百済観音を感銘深く拝観させてもらうことになった。そのうちのひとつが生身の人間の姿をした百済観音であったことはいうまでもない。
  国立博物館をあとにする直前、地下の売店で鳥獣戯画や平治物語絵詞の絵葉書をあさっていたのだが、ふと気がつくと、生身のほうの百済観音様がたまたまそばにやってきて、私と同じ絵葉書を手にして見とれておられるではないか。一瞬金縛りにあったような思いがしたが、そこはまあ修羅場を幾度か越えてはきた身ゆえ、じっと心を落ちつけ、兎の絵の葉書を指しながら「この絵なかなか洒落てますよね」って話しかけてみた。するとすぐに、「雪兎さんみたいですね、これって?」という澄んだ響きの声が、静かな微笑みとともに返ってきた。
  不思議に気が合ったこともあって、上野から渋谷まで、束の間の時間ではあったが、いろいろと話をしながら一緒に帰った。しょっぱなからなぜそんな話題になってしまったのかは忘れたが、ワーグナーの音楽の世界やメルヴィルの作品モビィ・ディック(白鯨)の思想背景などについて始まった話は、いつしかお互いの旅のエピソードなどにまで及んでいった。
「旅はよくします。わたしも厳しい冬に、雪と氷の輝く荒涼とした北辺の地を人知れず歩くのが好きなんです。たった一度しかないこの人生ですから・・・」
  そう話す彼女の言葉には何の気負いも感じられなかった。うかつなことに、渋谷での別れぎわになってはじめて気がついたのだが、実をいうと、その女性は知的なイメージで知られる某さんだったのだ。
  いつかオンボロ車に乗って一緒に遠い世界を旅しましょうと、半ば冗談交じりの約束をして別れたのだが、海外を一人旅することも多いという彼女のこと、もしかしたらいまごろは遠い異国の空の下にあるのかもしれない。そして、もしそうだとしたら、「他国を旅するようになってはじめて、日本の伝統文化の素晴らしさや自然の美しさをしみじみと感じるようになりました」というその時の言葉通りに、彼女は、この日本の文化に、さらには美しい冬の茜色の夕空に遠く思いを馳せているに違いない。 
  人生は一期一会……人間と人間の出逢いなどというものは、たとえそれがほんの一瞬の出来事であっても、その中に豊かな時間と真摯に向かい合う心とが凝縮されていれば、それはそれで素晴らしいものなのだという気がしてならない。
  その日の帰り道、西の夜空に浮かぶ三日月を仰ぎながら歩いていた私は、以前ある別れの折りに詠んだまま記憶の底に眠らせていた句のことを、突然に想い出した。 

    君行くや三日月凍る寒残し 

  その句を詠んだときとおなじように、この夜も寒気がひどく身にしみたからかもしれない。

「マセマティック放浪記」
2001年12月26日

講演会から雉酒試飲会へ

  雉酒再現の発案者である三嶋さんと私の間で、「メディカル漂流記」を執筆中の永井明さんや穴吹キャスターに雉酒を試飲してもらったら、という話が持ち上がったのがことの発端だった。仲介を依頼された私が永井事務所に電話し、マネージメント担当の浦井さんにその旨を告げると、もちろんこちらは大歓迎ですとの返事であった。
 そこで三嶋さんに電話して、どうせなら東京三鷹台の三嶋邸で賑やかに雉酒試飲会を催したらどうだろうと持ちかけた。すると、奥様手作りの雉料理なども出せるからそのほうが好都合だということになり、まずは永井さんの返事待ちということになった。
  ほどなく届いた永井さんからのメールには十二月十六日の日曜あたりはどうだろうとあった。この日はたまたま、府中市生涯学習センターで「ジャーナリズムの世界」という連続講座の最終回が催されることになっており、「新聞記者という職業とその評判」というテーマで講演をすることになっていたのはほかならぬ穴吹史士さんだった。また、府中市からの依頼で企画コーディネートに携わった私も司会進行役を務めることになっていた。
  結局、永井さんが府中生涯学習センターの講座に当日顔を出すからということになり、講座終了後、そのまま私の車で三嶋邸に雪崩れ込む手筈が整った。話はいつしか、元国土地理院長で「駅弁地理学」執筆者、野々村邦夫さんにも伝わり、一時は急遽広島から参加ということにもなりかけたが、結局、十七日までは大学での仕事があるので断念せざるをえないとのことで、野々村さんの登場はまたの機会にということになった。それでも、永井さんの監視兼介護役の浦井嬢、穴吹さんと私の共通の知人の三森、住田、鈴木の三女史、さらには岩井母娘を加えた計九人が繰り込もうというのだから、戦場となる三嶋家も大変なことではあった。
  アルコールのまったく駄目な私が舌のこえた無類の酒好き連中相手に飲み会を企画コーディネートするという、何とも珍妙な展開と相成ったわけだから、試飲会参加予定の紳士淑女たちがいまひとつ不安を拭いきれないでいただろうことは想像に難くない。私としては、酒客を迎え撃つ三嶋家当主の洋さんの酒豪らしい盃捌きと、「雉酒の君」の実力のほどにひたすら期待を寄せるしかない感じだった。
  当日の十六日は、京王府中駅で穴吹さんと永井さんを拾い、午後一時半頃に府中市生涯学習センターに着いた。講座は二時ちょうどに始まり、私の講師紹介に続いて、独特のリズムとテンポで穴吹さんが熱弁をふるいだした。実をいうと、この日、穴吹さんはいつになく上機嫌だった。
  朝日新聞日曜版にこの一年間連載されてきた「旅する50人の記者」という探訪記事を評価する投書が前日の朝日朝刊に掲載されていた。幸田真音という作家の寄稿した一文で、記者の素顔が見え大変に好感のもてる企画だったと絶賛した内容のものだった。しかも、講演当日の十六日の日曜版に掲載された船橋洋一記者の「隣人」という空からの日本探訪記がその最終回にあたっていた。「旅する50人の記者」の企画編集総責任者であった穴吹さんが喜んだのも無理はない。その投稿記事はコピーして受講者にも配布され、当然この日の講演のなかでも用いられた。
  いつもの調子から考えて、デッドボールやビーンボールとはいかなくても、カーブかフォークボール主体の講演内容になるのではと思ったが、実際には予想に反しストレート中心の講演になった。現在の新聞界の現状と将来を憂いつつも、明治の頃の朝日の社史から説き起こし、司馬遼太郎の言葉などを折り込みながらメディア界における朝日新聞の歴史的意義を論じ、さらには昨今の新聞記者の良心と苦悩をも語るというのが大まかな話の流れだった。穴吹流講演の球筋をストレート主体に調整してみせた「幸田真音効果」は絶大だったというほかない。
  もっとも、本欄AICについての話になると、司会の私と臨時聴講者の永井さんをいいカモにして、いつもながらの容赦ないナニワ流ツッコミが始まった。まあ、気心の知れている我々が相手だからよいけれど、いくらこれが本来の穴吹流だとはいっても、時と場合をちょっとばかり間違えたら、「ナンチューコトヲイイオルネン!」などと気色ばむ御仁も現れかねないことだろう。ツッコミ役は得意だがボケ役は苦手らしいこの稀有の才能の持ち主が、もしもボケの資質、べつの言い方をすれば、茶化されたり嘲られたりしてもそれを受け流し、人知れず相手の心底を見すえるピエロの一面をそれなりに秘めもっていたならば、いまごろ朝日の大看板記者になっていたかもしれないと思う。穴吹さん本人にとっても、また、我々にとっても、そのほうがよかったのかということになると、むろん話はべつだと言うしかなにのだけれども……。
  穴吹さんの魅力的なキャラクターに触発されてか、受講者の質疑が相次いだため、予定時刻を四十五分もオーバーしてこの日の講座は終了した。穴吹さんの魅力的なキャラクターに三嶋邸での雉酒試飲会に参加予定のメンバーは、そのあとすぐに私のワゴン車に乗り込んだ。「全国をめぐっているボログルマ」と先刻の講演で穴吹さんからも紹介されたワゴンだが、ドライバーの私を含め八人までは乗れる。永井事務所の浦井さんは直接に電車で三嶋邸に向かうということだったので、二次会場への移動は私の車一台で足りた。
  前日まで一週間ほど雉の養殖地、愛媛県広見町に滞在していた三嶋さんは、この日、何羽かの冷凍雉と特別に抽出した雉エキスを携えて帰京したばかりだった。三嶋邸に到着した我々は勧められるままにテーブルに着いた。そして一通り互いの紹介が終わると、それぞれに談笑を交わしながら酒宴の前哨戦にとりかかった。
  上質の純米酒をなみなみとついだ大きな土瓶をそのまま湯鍋に入れてお燗し、ほどよいところで適量の雉酒の素を調合して仕上げられた酒は、人数分の大きなぐい飲みに次々と注がれた。私をのぞいてはつわもの揃いの宴席ゆえ、相当に大きな土瓶も小さく見えてしまうほどで、お燗係の三嶋さんの子息やその友人も大忙しの様子だった。はじめのうちは雉酒の素を入れるまえの酒と雉酒の素を混入したあとの酒とを飲み比べたりして、味の検証がおこなわれていたが、やがて本格的な雉酒の試飲会に移行した。
  酒宴そのものはずいぶんと盛り上がったし、問題の雉酒のほうもなかなか好評のようだったので、その場をコーディネートした私は一応安堵の胸を撫で下ろしたような次第だった。途中からは、中谷商工開発部係長で雉酒本舗のSSI公認利き酒師でもある露木昭範さんがはるばる小田原からホスト方援軍に登場、自ら裏方にまわって雉酒の調合役とお酌係を務めるという展開になった。下戸の身でアルコール音痴の私にはその時に供された雉酒の味を論評することはできないので、試飲会の感想については、永井さんや穴吹さんあたりにいずれどこかで述べてもらうしかないだろう。
  雉酒も好評だったが、それに劣らず素晴らしかったのは、三嶋さんの奥様手ずからの雉料理の味だった。何羽もの雉をふんだんに使い、中華風雉肉料理、雉の蒸し焼き、雉の塩釜、そして雉のパイ焼きといろいろな工夫を凝らした雉料理が次々と出されたが、それぞれに独特の風味や旨味があって一同皆感嘆するばかりであった。とくに、この日はじめて試作してみたという、雉一羽をまるごと用いたパイ焼きは絶品で、舌の肥えた一同が思わず美味いと声をあげるほどの珍味であった。
  そのほかに、広見町の篤志家の育てた古代米(黒米)でつくられ、雉のスープで味付けされたお粥、やはり広見町特産の厚肉椎茸の煮物、さらには同町農業公社のハウスで水耕栽培されたという大粒で味も香りも色艶も見事なイチゴのデザートと、文字通り広見町尽くしの一夜であった。デザートのイチゴは、水耕栽培の特質を活かし、成熟中に全方向から光を当てて育てられたものであるため、輝くような色艶をしていて芯まで赤く柔らかく、甘味も抜群であった。温室における水耕栽培技術の革新的進歩のおかげで通年の出荷も可能になったのだそうである。近い将来、雉とならんで広見町の特産物になるに違いない。
  六時に始まった試飲の宴は大いに盛り上がり、弾む話も尽きるところを知らない感じではあったのだが、翌日早くにどうしてもはずせない用事があるという穴吹さんが十時過ぎに三嶋邸をあとにした。本来は永井さんの世話役である浦井さんも、「横浜方面に向かうタクシーに乗せれば、いつものことであとはなんとか本能で帰り着くみたいですから」とあとを我々に託し、すでに天国を遊泳中のドクターのサポートを放棄してそのあとすぐに帰っていった。
  それから一時間ほどしてから、まだ残っていた女性軍をそれぞれ希望の場所まで車で送り届け、再び私が三嶋邸に戻ったときには午前一時近くになっていた。客間では行司役の露木さんをはさんで、永井さんと三嶋さんとの雉酒合戦がなお延々と続いていた。初対面であったにもかかわらず、永井さんと三嶋さんとはすっかり意気投合したらしかった。既に人事不省状態の二人の間で繰広げられる支離滅裂なヨッパライ語の応酬は珍妙そのもので、ひたすら笑い転げる三嶋さんの奥さんや息子さんらの姿がなんとも印象的だった。
  午前二時過ぎ、酒豪でなる二人もついに自らの身体を支えておくことが難しくなってきたようだった。永井さんのほうがまず三嶋さんに近寄り、枕がわりにお前の膝を貸せと合図を送ると、すぐさま三嶋さんの左膝に頭を乗せ気持ち良さそうに眠りこけてしまった。すると三嶋さんのほうもそのままうしろに身を倒し、たちまち寝入ってしまったのだった。しばらくすると、こんどは二人仲良く額を寄せ合って幸せそうに眠り込む有様だった。かくして永井対三嶋の酒闘は引き分けとなったのであった。
「横浜方面行きのタクシーに乗せれば、あとはなんとか本能で家に戻り着きます」との浦井さんのお言葉だったが、そうは言っても心配でならなかったので、永井さんを起こして車に乗せ、東横線沿線のお宅まで送り届けることにした。永井さんのお宅の所在地は知らなかったが、環八の玉川インターから第三京浜に上がり港北インターでおりればよいとは聞いていたので、とりあえずその通りにルートをとることにした。
  助手席で海老のように身をまるめ至福の面持ちで眠り込んでいる永井さんを一時的に揺り起こし、港北インター出口からの道順を尋ねると、そこから先の道がかなり複雑だったにもかかわらず、意外なほどにしっかりした返事が戻ってきた。まさに帰巣本能のなせる業というべきもので、眠りこけながらも要所をしっかり押さえたそのナビゲーションぶりは、素面でも車のナビゲータにはまるで役立たずの三嶋さんにちょっとでも見習わせたいくらいのものであった。無事に永井さんを自宅まで送り届け、三嶋宅経由で府中の我が家に戻ったのはなんと午前五時近くになっていた。

「マセマティック放浪記」
2002年1月2日

川畠成道さんの近況

  しばらくぶりに三鷹のお宅に川畠成道さんを訪ねてみた。夜八時頃のことだったが、お父さんの正雄さんの案内で通された二階の部屋で、川畠さんはまだリハーサルを続けているところだった。全身を使った激しい弓捌きに呼応して、一七七〇年代ものの名器ガダニーニが、魂の奥底までしみとおるような高く澄んだ音を発していた。
  素人目にはどこにでもありそうな古びたヴァイオリンにしか見えないのだが、それを川畠さんが手にした途端に、圧倒的な威厳と存在感を放ちはじめるのだから不思議なものである。このガダニーニをごく間近で目にするのも何度目かになるが、どうしてこの楽器があれほどに神聖な響きを発するようになるのかと首を傾げたくもなるのは私だけではあるまい。名器というものは、それを扱うに相応な人物の存在あってこそ、その隠し秘めた真価を発揮するのであろう。
  ほどなくこちらの気配を察知してヴァイオリンを弾く手をとめた川畠さんに、「どうぞ、リハーサルを続けてください」と伝えると、「いいんです、練習しているときりがありませんから」という、穏やかさの奥に凛としたものを秘めた独特の声が返ってきた。ここ一、二年ほどのうちに川畠さんにはある種の風格がそなわってきたように思う。ひとつの道を極めようとひたすら研鑽を積む人に特有な存在感とでもいうべきだろうか。
  壁には昔川畠さんが使っていたらしい小振りのヴァイオリンが二、三基掛けられていた。それを横目で眺めながら、現在のガダニーニでヴァイオリンは何基目なのかを尋ねてみると、八基目だという答えだった。川畠さんのソリストとしての人生はまだ始まったばかりで、まだまだこれから先が長い。今後もずっといまのヴァイオリンで通すつもりなのか、それともある時期が来たら別のヴァイオリンを使うことになるのか、またその場合には現在のガダニーニはどうなっていくのだろうか。奏者と楽器との相性の問題も重要なようだから、ただ高価な歴史的名器でありさえすればよいというわけにはいかないに違いない。
  是非一緒に食事をという川畠家のご好意に促され、私と同行者の岩井さんとは、成道さん、御両親の正雄さん、麗子さんの三人と並んで食卓を囲んだ。そして、御馳走に舌鼓を打ちながら雑談に花を咲かせたが、そんな談笑を通して、最近の川畠家の御苦労のほどなどを窺い知ることもできた。諸般の事情により、最近、所属マネージメント会社が変わったために、それにともなう事後処理や新たな展開への対応が何かと大変であるらしい。また、時の人の宿命と言ってしまえばそれまでだが、連日の超ハードスケジュールのゆえに想わぬハップニングなども起こったりしているようだった。
  昨年十二月の鎌倉での演奏会のとき、川畠さんはひどい風邪にかかり体調が最悪の状態だった。しかし、だからといって演奏会を簡単にキャンセルするわけにはいかない。無理を押してステージに立ち演奏を始めたまではよかったのだが、風邪の影響で耳がいつもの調子ではなかったため、協奏者のピアノの音が実際の音程よりも低く聞こえたという。そのため、ピアノの音を基準にして奏でられる川畠さんのヴァイオリンの音は本来あるべき音程より高くなってしまったらしい。
  関係者が途中でそれに気づいたため、急遽、演奏は中止され、残された時間をトークでつないでなんとかぎその場を凌いだのだそうだ。むろん、このような場合には、当日の聴衆を別のコンサートなどに無料招待したりしてカバーするなどの対応策がとられるらしい。その翌日は遠く離れた別の会場でのコンサートだった。やはり体調はかんばしくなかったのだそうだが、前日のことを教訓にして、耳に聞こえる音の高さより低めに抑えてヴァイオリンを弾いたところ、結果的には大変素晴らしい演奏になったのだという。耳だけが頼りの川畠さんらしいエピソードではあった。
  目の不自由な川畠さんには、身の回りの世話をするため、常にお母さんの麗子さんが同行しておられる。強行スケジュールが続いているある日の夜こと、演奏会主催者による接待を受けたあと、麗子さんと成道さんは午前零時頃に四谷から立川方面に向かう中央線の電車に乗った。お父さんの正雄さんには、麗子さんから、武蔵境の駅に着く頃に電話するので駅まで車で迎えにきてほしいという連絡が入っていた。
  正雄さんは家を出る準備をして待っていたが、予定時刻がずいぶんと過ぎても麗子さんからの連絡はなかった。心配になった正雄さんがとりあえず武蔵境の駅へと行ってみると、なんと、ヴァイオリンケースを肩にした成道さんが一人だけ深夜の駅改札口の内側にぽつんと立っていたのだという。慌てず騒がず泰然と構えているところなどはいかにも成道さんらしいのだが、正雄さんの驚きは大変なものだったらしい。だが、それ以上に慌てたのは麗子さんのほうだったに違いない。
  帰りの電車が混雑していたため、成道さんも麗子さんもずっと立ちっぱなしだった。ところが、武蔵境のすこし手前の駅でたまたま席が空いたので麗子さんはそこに腰をおろした。そこまではよかったのだが、連日の強行軍で心身ともに疲労の極みに達していた麗子さんは、不覚にもそのまま深い眠りに落ちてしまったのだった。麗子さんが眠っていることなど知るよしもない成道さんは、いつものように武蔵境で下車したが、麗子さんのほうはそのまま乗り過ごしてしまったのだった。
  何が起こったのかよくわからない成道さんは、とりあえず自力で改札口までやってきた。だが、切符は麗子さんが預かったままだったし、所持金もなかったので、そのままそこで麗子さんがやってくるのを待っていたのだという。もっとも、極力何事もプラスに変えて考える成道さんのことだから、もしかしたらその状況をそれなりに楽しんではいたのかもしれない。切符をもった麗子さんが最終電車で武蔵境の駅まで引き返し、二人の待つ改札口に姿を見せたのは、正雄さんが改札口で成道さんの姿をみつけてからずいぶんとたったあとのことだったようだ。
  成道さんには、その夜帰宅してぐっすり眠るいとまさえもなかった。翌朝早くには東京を発って大雪の会津若松に入り、一時間半ほどの講演をすませたあと羽田に直行、沖縄の那覇に飛んで同地の演奏会に臨むという強行軍で、成道さん自身の体調のほか、気象条件に影響されやすい微妙な楽器ヴァイオリンが、その差およそ三十度という極端な温度変化についていけるかどうかも心配であったらしい。
  歓談の盛り上がりついでに、私は川畠さん父子にひとつだけ愚問をぶつけてみた。大編成の交響楽団の場合でも指揮者は団員個々の楽器の音をそれぞれ正確に把握しているというが、それは事実なのか、という長年胸に秘めていた質問だった。正雄さんと成道さんとで多少見解の相違はあったものの、ヴァイオリンやビオラなどの弦楽器の場合には、音が一種の束となって響きわたるので、大指揮者といえども個々奏者の音を明確に聴き分けるのは難しいだろうとのことであった。むろん、ソロ楽器の場合や、弦楽器類でも指揮者が特定の奏者に五感を集中している場合には、話は別であるらしかった。
  この日の二日後に川畠さんのサード・アルバム「愛の哀しみ」がビクター社から発売されたが、川畠家にはすでにそのCDが届いていたので、それを聴かせてもらいながら、心地よい気分で時を忘れて歓談に興じることができた。ファースト・アルバム「歌の翼に」も、セカンド・アルバム「アベマリア」も素晴らしかったが、今回新発売のこのサード・アルバムはそれ以上に素晴らしいと言ってよいかもしれない。芸大の先生でもあるお父さんの正雄さんも、曲目の好みは人それぞれなので別問題だが、演奏自体の出来はサード・アルバムが一番よいとの意見だった。
  来る二月一日(金)には、午後七時から初台の東京オペラシティコンサートホールで川畠さんのサード・アルバム発売記念ヴァイオリンリサイタルが開催される。また、三月三十一日(日)には同じく東京オペラシティホールで同記念リサイタルの追加公演が行なわれることになっている。コンビを組むピアニストも最も息の合うダニエル・ベン・ピエナールときているから、その演奏にはとても期待がもてそうだ。チケットの料金も全席一律で、CDと同じ税込み三千四十五円とたいへん安い。この料金であの聖なる響きが聴けるのであれば言うことはない。
  現在、川畠さんは一時のハードスケジュールから解放され、新春のリサイタルにそなえロンドンで静養中なので、きっと今度の記念リサイタルでは最高の演奏を聴かせてもらえることだろう。所属事務所を変え、心気一転して新たな飛躍を目指す川畠さんを支え励ますためにも、一人でも多くの方々にご声援願いたいものである。私自身も当日は何を差し置いても会場に足運ぶことにしたいと考えている。

「マセマティック放浪記」
2002年1月9日

年頭の詩

     <葬送と新生>

僕もあなたも戯れに 聖なるものの満ち満ちた
この世に生を得たのです

戯れに生まれた者は愚かです 愚かのゆえに迷います
この世の秩序を乱すのは 聖なる構図の狭間から
生まれたものの宿命(さだめ)です

はかない春の悦びと 哀しい冬の痛みをば
聖なるものに責められて 己の生を呪うとき
消えなんとする灯火を 無常の風から守るのは
氷のような涙です 悪魔のような言葉です

氷の涙は力です 悪魔の言葉は自立です
涙と言葉は絡み合い ほのかな意志が芽生えます
暗愚と無知で編み上げた 自縛の網に捕らわれて
傷つき足掻く者たちに 唯ひとつだけ許された
それは小さな武器なのです

闇にうごめく葬送の 調べに慓く胸深く
悪魔の言葉を糸となし 氷の涙を珠として
秘かに育て隠し持つ 意志という名の念珠こそ
去りし者への鎮魂歌 旅立つ者への讚称歌

 

     <夜霧の国にて>

話せというから話しました 叫べというから叫びました
だってそれが あなたがたの願いだったんじゃありません?
そうして欲しかったんでしょう……心の奥では?
そうですか そうなんですか この夜霧の国はいつも……
何処へ行ったんです! ほんとうにもう誰もいないんですか?

戸口を閉めて息をひそめているんですね
誰も入れてなんかくれないんですね
いいんですよ 淋しくなんかありませんから
怖がってなんかいませんから
ただちょっと悲しいだけです がっかりしているだけです
美しい声の人たちだって いつも思っていましたから
この夜霧がすべてを風化させてしまうんですね
さらさらとした無機質の砂へと

指先からさらさらと崩れ落ちていきます 痛みはありません
綺麗なもんです砂というのは なにせ心がありませんから
あなたがたはまだ生きているのですね 霧を避けて戸の内側で
叫んだために砂になります 夜霧を吸って風化します
意識が無くなってきました そろそろですね
ごきげんよう では……

「マセマティック放浪記」
2002年1月16日

W時計物語(1)

(一)W時計登場までの経緯

  我が家の飾り棚には高級ブランドの外国製腕時計が二個、こともなげに転がっている。「転がっている」とわざわざ書いたのは、むろん、それらの時計にはそうしておく程度の価値しかないからだ。言うまでもないことだが、その時計は贋物で、しかも相当に出来の悪い贋ブランド時計なのである。ただ、この贋時計には、かつて私の親しい友であったWについてのちょっとした哀話が秘められており、そのため我が家ではそれをW時計と呼んでいる。
  同郷出身で子どものころから親しかったWは、地元鹿児島の高校を終えたあと私と同様に上京し、都内のある大学を卒業、業界紙を発行している小新聞社に就職した。文学青年でそこそこ筆も立った彼は、その新聞社でなかなかよい仕事をしていたようである。彼には高校時代相思相愛の女性があったが、彼女はその後他の男性と結婚して一女をもうけ、それなりに安定した生活を送っていた。だが、やがて彼女は夫と離婚し、もとの恋人Wと再婚し、連れ子の女児ともども彼の戸籍に入籍した。その離婚と再婚の連続劇の陰には、むろん、並外れた情熱家でもあった彼のひとかたならぬ働きかけが隠されてもいたのである。
  一時期のW一家は見るからに幸せそのもので、しばらくして一人の男児も誕生した。子煩悩で家族思いの彼は子どもたちを心から可愛がり、美人の奥さんの顔から穏やかな笑みが消えることは永遠にないかのように思われた。だが、そんなW一家の背後に暗雲が立ち込めはじめたのは結婚後四年ほどしてからのことであった。
  Wの同僚が突然退社し、自分で会社を設立するという話が持ち上がったのがことの発端だった。その新会社の発起人のひとりとして協力を求められた人情家の彼は、うますぎる話に一抹の不安を覚えながらも、結局相手の懇願に応じることにした。会社を立ち上げるには手持ち資金が十分ではなかったため、彼らはサラ金から百万前後の金を借り入れ、それで設立資金の不足分を補うことにした。
  設立した会社は一年としないうちにあえなく破綻、借金の期限内返済は不可能となって、当然のようにWもサラ金会社の容赦ない取り立てに追いまくられることになった。法外な金利のため借金はたちまち何倍にも膨れ上がり、自分の職場や奥さんをはじめとする親族にまで恐喝同然の厳しい取り立てが及ぶにいたっては、とるべき道はひとつしかないと彼は考えたようである。突然会社を辞めた彼は、奥さんとも離婚し、子どもたちを奥さんのほうに委ねたまま、どこへともなく姿をくらましてしまったのだった。
  むろん、離婚はサラ金取り立ての直接的影響が家族に及ぶことをおそれたからだったようで、それからしばらく、別れた奥さんのもとには、どこからともなく毎月いくらかの仕送りがなされていたようである。私のところにも別れた家族のことをできる範囲でよいから宜しく頼むという電話が幾度かあったりしたが、Wは自分の居場所や仕事については言葉を濁し、けっして詳しいことを語ろうとはしなかった。そして、いつしか、別離した家族のへの仕送りも途絶え、私をはじめとする友人たちへの連絡もまったくなくなってしまったのだった。

  驚いた様子で妻が買い物から戻ってきたのはそれから何年かのちのことであった。妻の語るところによると、なんとWらしい人物が駅前の露店で甘栗を売っているというのである。まさかと思って駅前まで足を運び、店頭に立つ甘栗売りの男の姿を遠目に眺めてみると、顔も手足も浅黒く日焼けし、ずいぶんと変わり果てた様相をしてはいたものの、それは間違いなくWその人であったのだ。その日はどうしても彼に声をかけることができず、そのまま帰宅した。
  それから三日ほどはWとは異なる男が露店の番をしていたが、四日目の夕刻に再び彼が姿を現した。客足の途絶えたときを狙って急ぎ足で近づき声をかけると、Wは私の顔を見つめたまましばし絶句した。その場での立ち話はちょっとまずいので近日中にあらためて我が家を訪ねるから、という彼の言葉を信じ、その晩はそのまま帰宅した。それから数日後の昼過ぎ、約束通り彼は我が家にやってきた。Wの語ったところによると、駅前で天津甘栗売りをするにいたるまでの事の次第はつぎのようなものであった。
  奥さんと離婚したあと、サラ金業者の取り立てを逃れるため誰にも居所を悟られないように転々としながら、工事現場をはじめとする様々な日雇い労働の仕事場を渡り歩き、稼いだお金の一定額を別れた家族に仕送りしていた。だが、重労働続きの厳しい現実生活に追われるうちに、次第に当初の家族への責任感も労働意欲も失せ果てて、わずかでも持ち金があれば、憂さ晴らしの酒に溺れ、さらにはパチンコ、競馬、賭けマージャンといったギャンブルに身を委ねるようになっていった。まあ、ここまでなら世間にいくらでもある話だが、彼の場合はそのあとの成り行きがずいぶんと変わっていた。
  ある日Wはひとつの募集広告を目にとめた。それは労働時間も短く日当も数千円以上支給されるうえに、住み込み食事つきという破格の条件の仕事であった。心の片隅ではまだ別れた家族のことを気にかけていた彼は、これならまた多少の仕送りくらいはできるかもしれないと、一も二もなくその罠仕掛けの餌に喰いついた。
  本人の意志の有無にかかわりなく、面接当日に彼の就労は決定した。否応なく強制就労させられたといったほうがより正確ではあったろう。彼の抜き差しならぬ個人的事情を察知した相手は、カモがネギを背負ってやってきたと思ったに相違ない。多少の貴重品や生活必需品を収納した大型トランクは担保として押収され、翌日から彼はその風変わりな職場で働かざるをえなくなった。
  たまたまWが身を置くことになったその場所は、国内でも名の知れた香具師グループ傘下のタコ部屋だった。見習いの仕事から始まり、次第に仕事のやりかたを仕込まれていったのだそうだが、天性の話術の持ち主である彼の話そのものはなかなかに面白かった。
  十人ほどがひとまとまりになって寝起きするタコ部屋の連中は、決められた時刻に一斉起床すると、家屋やその周辺の掃除をおこない、洗面を終えたあと食卓について共に朝食をとったという。一番奥には姐御あるは姐さんと敬意をもって呼ばれる香具師一家の当主の相方が陣取り、上位者から新参者までが、順位に従って縦長のテーブルを囲んだ。新参者だった彼は、当然、最初のうちは末端の席に坐らせられたようである。
  皆が朝食の席に着くと、箸を手にするまえに姐御と呼ばれる女性に向かって頭をさげ、一斉に感謝の言葉を述べるのが慣わしになっていたらしい。それが終わると一飯一汁に近い朝餉(あさげ)を大急ぎで掻き込み、食器を自分で片付けてから仕事の準備にとりかかった。昼飯は自前で適当にとり、晩飯は仕事を終え夜遅く戻ってから、用意されているものをそれぞれに食べていたという。朝食よりはましだったが、御馳走と呼ぶには程遠いものであったようだ。食事を終えると食器を片付け、タコ部屋に戻ると、よほど余力でもないかぎりは翌日の仕事に備えてひたすら眠る。住み込み食事つきには違いなかったが、人間らしい生活には程遠いものであった。
  主な仕事はふたつあり、ひとつはあちこちの駅前や繁華街の露店における天津甘栗やタコ焼きなどの食べ物売り、いまひとつは各地の神社やお寺などのお祭りや縁日での出店の仕事だったようだ。お祭りや縁日などは毎日必ずどこかで催されているから、よほどの悪天候でもないかぎり仕事が休みになることはなかったという。そう言うと聞こえはよいが、その実は、ほとんど年間無休で強制的に働きづめにさせられたということらしい。日当も実際は売上に応じた歩合制で、うたい文句にあるようにその額が数千円になるのは年間を通じて四、五日もあればいいところだったようである。平均すると日に千五百円から二千円くらいにしかならなかったとのことである。
  Wは露店屋台での仕事の実態についても話してくれた。たとえば、駅前などへ天津甘栗を売りに出掛ける場合には、大量に仕入れ倉庫に保管されている生栗を必要量運ぶ準備を整える。古くなり青カビが生えたものもずいぶんとあるらしいのだが、そんなことなどお構いなしだったという。生栗をもって仕事に出掛ける際には、姐御なる人物から焼き上がった天津甘栗を入れるための紙袋の束を渡された。手渡される紙袋の枚数はしっかりとチェックされており、仕事から戻った時に残っている紙袋の枚数との差が売れた分だと判断される。だから、もしも紙袋を紛失してしまったりすると、その分に相当する金額を全額自己弁済しなければならない仕組みだった。
  担当する駅前や繁華街に出向くと、分解し幌をかぶせて付近に置いてある屋台を組み立て、火を入れたあと定められた場所に運んだ。不慮の事態などに備え二人一組で仕事をするのが常だというが、連帯責任制を敷いてそれとなくお互いを監視し合わせることによって、サボタージュや逃亡を防ぐ意味もあったらしい。
  天津甘栗を買うお客は、その甘く香ばしい匂いに幻惑されて財布の紐を緩めることが少なくない。だから、電車が駅に着いて改札口から人波がどっと流れ出すのに合わせてザラメ糖を焼き栗用の炉中の小石や甘栗そのものにふりかける。すると白い煙とともになんともいえないよい匂いがあたり一帯に立ち昇るのだそうだ。もちろん、ザラメは甘栗の表面や炉の小石を艶やかに光らせるとともに、一部は栗の表皮から内部に沁み込んで、食用部分に独特の味付けをするのにも役立つというわけだ。
  同居するタコ部屋の者たちは、劣悪な生活環境ではあるにしろ、ともかくもそこにおればとりあえず生きてはいけるということで、逃げ出すことはほとんどなかったようである。逃げ出すとすれば、露店で働いているときがチャンスだったようであるが、時折香具師グループと関係のあるらしい恐い顔のお兄さん方がそれとなく巡回してきて様子を窺いもしているので、脱走するにはそれなりの覚悟も必要であったらしい。
  香具師の末端に身をやつしているとはいっても、一応は大学を卒業し業界新聞の記者までやった男のことである。さすがにそのままでは埒があかないと考えたものらしい。しばらくは音沙汰なかったが、それから四、五ヶ月してからのこと、彼は突然に我が家に姿を見せたのだった。担保として押収されているトランクとその中身はすべて放棄し、相棒に天津甘栗売りの仕事をまかせている間に着の身着のままで現場からドロンしてきたのだという。万一のことがあるといけないから、売上金に手をつけるようなことはしなかったとのことだった。
  それからほどなく、Wは私の住む町の一隅にある大手運輸会社の倉庫に勤めるようになった。その会社の独身寮に入り、勤務態度も真面目で、精神的にもかなり落ちついてきたようにみえた。サラ金問題を放っておくと、後日またどこかで足がつき面倒なことになってもいけないので、知人の弁護士に相談に乗ってもらい、法的にきっちりと処理するように促しもした。もともと子煩悩だった彼は、もう一度ここからやり直せば、中断していた家族への送金もできるし、大幅に減額になったサラ金の残金が返済できれば子どもたちとの再会も可能になるということで、表情そのものも別人のように明るくなった。
  我が家にもよく姿を見せたが、徐々にだが以前の彼に戻っていくような感じで、いったんは私も安堵の胸を撫で下ろしたようなわけだった。パチンコ好きだけは相変わらずだったが、どこまでものめり込むようなことはなかったようなので、友人としてその程度は大目に見ておくことにした。
  Wが突然に姿を消したのはそれから二年ほどしてからだった。またもや忽然と行方をくらました彼を探し出そうと思いつくかぎりのことはやってみたが、どこをどう探してもその消息を知ることはできなかった。彼の住んでいた会社の独身寮には身の回りの品がそのまま残されており、退社届などもまったく出されていなかった。もちろん、姿を消した月の分の給与も未受領のままだった。彼の親戚や他の友人などにもあたってみたが、俗にいう神隠し状態で、なんの糸口も得られなかった。
  姿を消した時とは逆に、ある日の夕刻、突如我が家の玄関先にWが現れたのは、それから三年ほど経ってからのことであった。彼は伏目がちで、異常に日焼けしたその姿には肌の浅黒さとは裏腹の深い心身のやつれが感じとれたが、その顔には昔ながらのひとなつこい笑みとある種の安堵の色が浮かんでいた。
  風呂に入れ、食事を済ませ、いつでも横になれるように寝床をしつらえたうえで、彼の過去三年間ほどの足跡について詳しく聞くことになったのだが、それは、「事実は小説よりも奇なり」という諺を地でいくような話だった。来訪の折、彼は、ヨーロッパ製高級ブランドの贋時計を二個、まだ小さかった我が家の子どもたちのお土産にと持参してくれたのだが、そこにいたるまでの一連の物語はそれら二個の贋時計に深くまつわるものだったのだ。

「マセマティック放浪記」
2002年1月23日

W時計物語(2)

(二)運命の悪戯とは言うけれど

  私の住む町の一隅にある運輸会社の倉庫で働いていたWに、再び予期せぬ不運が降って湧いたのはある神社の祭の夜のことだった。誰だって賑やかな祭があったりすればそこに出掛けてみたくなる。もともと人一倍祭好きな彼にすれば、そのおもいはひとしおだったに違いない。居ても立ってもおられなくなった彼が、縁日の出店で賑わう参道を人波にまぎれて歩いたのが運の尽きだった。
  たまたまその場に居合わせた昔の香具師仲間の一人にWは見つかってしまったのだ。すぐに連絡を取り合った香具師グループは、彼の跡をつけ、人気のないところで有無を言わさずその身柄を拘束してしまったのである。もとのタコ部屋に連れ戻された彼は、それ相応の仕置きを科せられたあと、罰として北陸から上信越方面で特殊な仕事をしている傘下の別組織へと送り込まれた。
  彼はそこで仲間五人が一組となっておこなうある種の詐欺活動に強制従事させられたのだった。五人の一味は一台の大型乗用車に乗って行動した。車を運転する一人がリーダー格ですべてを仕切り、残りの四人は免許証、身分証をはじめとするいっさいの所持品を剥奪され、小銭さえも持つことを許されなかったという。
  外国製高級ブランド時計の贋物販売が彼らの主な仕事ではあったが、その手口は相当に巧妙なものだったようである。主たるターゲットは地方の町々や農漁村在住の純朴な人々であったらしい。車を運転するリーダー格の男が、ここはと思うところで車を駐めると、四人の売り子は一応それらしく包装された贋物の高級ブランド時計入りの鞄と、相手を信用させるための本物の高級時計をもって付近の民家に散ってゆく。東南アジア製のそれら贋時計は実際には現地だと二千円もしないシロモノだったらしいが、一応時を刻みはしていたようだ。
  売り子たちは、その時計を二万円以下では売らないように命じられていた。むろん、それ以上ならいくら高くてもよく、実際に五万円や十万円で売れることもあったという。売れても売れなくても三、四十分以内には必ず車に戻るようにと厳重に指示されており、四人の売り子の誰かが一個でも贋時計売りに成功すれば、直ちに車を飛ばしてその場をあとにし、少なくとも三十キロ以上は離れた場所に移動したという。もちろん、売った時計が贋物だとバレて手配されるまでの時間をしっかりと計算に入れての行動だった。
  Wをはじめとする売り子たちは、言葉巧みに相手を誘う方法や相手の心理の読み方、代金の受取り方、買う気はあるが相手に当座の代金の持ち合わせがなく、現金を引き出しに銀行や郵便局に出向く場合の対処法など、贋時計売りのノウハウをリーダーの男から一通り厳しく叩き込まれた。ときにはリーダー格の男やそれと同格の仲間が新米の売り子を同行し、実地販売トレーニングに及ぶこともあったらしい。贋時計を先に渡しあとで代金を回収に出向くなどということは間違ってもやらなかったという。
  何十万もする本物のおとり用高級時計をちらつかせたり、それを相手にちょっとだけ触らせたりしながら、これは絶対に買い得だと吹き込み安物の贋時計を売りつけるのが、むろんその基本的手口である。巧妙な詐欺の手口にふだんあまり馴染みのない地方住まいの人々は、売り子の言うことをすっかり信じ込み、結構喜んで買ってくれたようである。Wが言うには、贋時計を買ってくれるのは、ほんとうに温かくて心の優しい人たちばかりだったという。あまりの申し訳なさにWの心はずいぶんと痛みもしたらしい。彼はそのことを何度も繰り返し強調していたから、実際そうだったのであろう。
  リーダー格の男は、売り子たちが贋時計を売り捌いて車に戻ってくると、恐ろしいほど的確に売値を当ててみせたという。なぜなのかはわからなかったが、どこかに盗聴器が仕掛けられているのではないかと思いたくなるほどの正確さだったらしく、そのため売値をごまかし代金の一部を着服することなど絶対にできなかったという。
  彼らが贋時計を売り歩く地域は、全国どこでもというわけではなく、北陸から越後にかけての一帯に限られていたようである。同じ手口の仕事をしている他のグループとの間でテリトリーの調整がなされていたらしく、テリトリー外に移動するのは捕まる危険を察知し一時的に身を隠すときだけだったようである。Wが拘束されていた三年近くの間に畳やベッドのあるまともな宿に泊まったのはわずか二、三度にすぎなかったそうだ。リーダーの男だけは毎晩ホテルや旅館などに泊まったが、売り子たち四人は来る日も来る日も車の中で寝泊りさせられた。
  また、行く先々の公衆浴場などで何日かごと風呂に入ることが許されたが、監視の目は厳しかったようである。入浴料や三度の食事代はリーダーの男が全額支払っていたというが、食事も安い弁当などがほとんどで、まともな食堂やレストランに入ったことは数えるほどしかなかったという。衣類管理や洗濯物などの処理は一部を自分たちでおこなうほか、各地に点在する一味の極秘の立寄り所で適当な処置がなされていたらしい。
  リーダーの男は時々稼いだ金を郵便局や銀行から香具師グループの上部組織らしいところへと送金した。また商品の贋時計が売れてなくなりかけると、すぐどこかに電話をかけて新たな商品の発送を依頼した。すると厳重にパックされた商品の贋時計が最寄の空港に置き留めで送られてくる手筈になっており、当該空港に出向いてリーダーの男がそれを受取り、また仕事を続けるというシステムだった。
  Wのそんな話を聞いている途中で、私は、その気ならすきをみて逃げ出すこともできただろうに、なぜそうしなかったのだと尋ねてみた。すると、彼は、その渦中にいる者にしかほんとうのところはよくはわかってもらえないのだがと言いながら、噛み締めるような口調でその理由を話してくれた。すべては彼の意志力と決断力の弱さのゆえと断じてしまえばそれまでだったが、もしもそんな状況に追い込まれたら誰にだって十分起こり得ることではあるなという思いはした。
  Wは祭の夜に拘束されたあと、殴る蹴るの暴行を加えられたうえに、しばらくのあいだ食事を絶たれ暗い部屋に監禁された。そして、こんど逃げ出すようなことがあったら手足の一本や二本どころか命だって保証はしないぞと凄み脅されたあげくに、知人や友人との連絡のつきにくい問題の贋時計売り組織の手先のとして北陸方面へと送り込まれた。まだ携帯電話などない時代のことだし、かりにそんなものがあったとしても、他のこまごまとした所持品と一緒にすべて取り上げられてしまっただろうから、いずれにしろ、友人知人への連絡は不可能だったに違いない。
  十円玉一個さえ現金の持ち合わせはなかったから、もし逃げ出すとすれば、すきをみて警察や交番に駆け込んで保護を求めるか、通りすがりの誰かに助けを求めるしかなかい状況だった。はじめのうちはそんなことをしてでもなんとか逃げ出せないものかと彼なりに考えはしたようである。
  だが、警察署や交番に保護を求めることは怖くてできなかった。たとえそれが半ば強要されたものであったとはしても、すでに彼は相当数の詐欺行為をおこなってしまっていた。もし警察に保護を求めたら、自分自身が徹底的に取り調べられ、詐欺罪を理由に犯罪者として送検されるだろうことは確実だったし、他の香具師仲間にも捜査の手が及ぶだろうことは間違いないところだった。むろん、それまで犯罪歴などまったくない彼にすれば、取調べを受け送検されることは心理的にも怖いことだったし、香具師グループの仕返しもおそろしかった。また、そんなことになったら、その噂がすぐにも故郷の人々に伝わり、それでなくてもなにかと大きな心配をかけている老母や親族を悲しませるだろうという思いもあった。
  香具師グループやリーダー格の男などからも、もし警察に垂れ込むようなことがあったら、別れた妻や子どもを探し当てどこまでもつきまとってやると脅かされていた。また、たとえ警察当局に保護されても、解放された段階で再度お前を探し出しそれなりのお礼参りをしてやると釘を刺されてもいた。
  だからといって自力で逃げ出して東京に戻るには、どこかで当面必要なお金を工面し、それから駅に行って電車に乗らなければならなかった。運良く親切な人にでもめぐりあえ、助けてもらえればよいが、世の中そうそう甘くはないし、事情を説明してみても容易には信じてもらえそうになかった。また、そんな事態になったら、香具師グループも仲間と連絡を取り合って駅その他Wの立寄りそうな場所を徹底的に洗うだろうから、再び捕まってしまう可能性も高かった。万一そうなったら悲惨な結果に陥るだろうことは目に見えていた。
  結局、彼はそんな状況のもとで次々詐欺行為に手を貸しつづけるうちに、逃げ出す勇気も、さらには自らが置かれている状況の深刻さを考える気力も薄れ、それから三年間近くも車中生活と贋時計売りの日々を送ることになったのだった。その間に相当数の贋時計を売りまくったらしいのだが、むろんいくら彼が実績(?)をあげても終始無給のままであた。時には警察の警戒網に引っかかり、危ういところで逃走に成功したようなこともあったらしい。
  実を言うとWが突然に我が家に姿を現わす数週間ほど前、たまたま私は、新潟地方をはじめとする日本海沿岸地域で大掛かりで組織的な詐欺グループが贋ブランドの高級時計を売り歩き、一帯に大変な被害をもたらしているとの新聞報道を目にしていた。車で機動的に動く複数のグループが存在しているような感じだったが、まさかその一員をWが演じているとは想像だにしてもいなかった。なにげなく読んだその記事のもつ意味がはっきりとわかったのは、彼の話をかなりのところまで聞いてからのことであった。
  Wの話によると、彼が贋時計売りのグループから解放されたのは我が家に現れる二、三日前のことだったらしい。新聞報道からも推察されるとおり、実際には捜査当局の追及が厳しくなり、それ以上の仕事は無理と判断した香具師上層部の指示でグループの解散がおこなわれたのではないかと思うのだが、彼が語ってくれた経緯はそれとは少し違っていた。
  Wが解放された時、彼らは新潟県のある地方都市近くにいた。その日の朝、突然、リーダー格の男が、「お前も三年近くずいぶんと頑張って売上に貢献したからこのへんで自由にしてやろう」と言いだし、彼は最寄の駅で車から降ろされたのだという。その際、男は、「東京方面に戻るには少しくらい金が要るだろうから、これでも売って金をつくんなよ」と言い添えて、ケース入りの二個の贋時計を彼に手渡してくれたのだそうだ。
  人間の心理とは不思議なもので、解放された途端、Wはそれまでの自分の行為がひどく怖くなり、手元に残った二個の贋高級ブランド時計を売り捌いて東京までの旅費を工面することなど、とてもできなくなってしまったのだという。結局、彼はヒッチハイクまがいのことをやり、長距離トラックの運転手らの好意に助けられたりしながら東京に辿り着いたのだった。
  三年近くにわたる彼の数奇な体験の証ともいうべき二個の贋時計は、そんな経緯で、いまはもう成人している我が家の二人の子どもたちへの手土産と化したのであった。W時計と呼ばれる奇妙な腕時計がいまもなお我が家の棚に置かれているのはそんな理由からである。あれからもうずいぶんと年月が経過した現在、Wは都内のある書籍流通部門の会社の倉庫で働いている。かつてのように無茶のきく体力は失せてしまったし、香具師グループのカモにされるような年齢でもなくなった。私には彼がその人生体験をそのまま筆に托すだけでもかなり面白い作品ができそうな気がしてならないのだが、周りの勧めにもかかわらず、かつての文学青年Wが筆を執りはじめる気配はまったくない。

「マセマティック放浪記」
2002年2月13日

宵闇の奈良井宿

  後輩のYさんが、現在勤務中の外資系コンサルタント会社を八ヶ月ほど休職し近々カリブ海方面にでかけるというので、彼女が日本を発つ前に一度会って雑談でもしようかということになった。Yさんからは何かあるとよく相談をうけるのだが、現代の若い世代の考え方など、こちらも何かと教わることが少なくないので、年齢や男女の別といった次元を超越した付き合いを続けている。まだ二十代で何事につけても行動的な彼女は、NGOの臨時メンバーとしてキューバやコスタリカなどの自然環境調査保護活動に参加することになったらしい。もちろん、NGOサイドからの資金援助はまったくなく、現地での生活費も自己負担なのだそうだ。
  それなりの能力のある人材とはいえ、勤務してまだ数年と経たない彼女が在籍のままでNGO活動に参加することを認める企業のほうもなかなかのものである。たぶん、長期的にみればその企業にとってもプラスになるという判断があってのことなのではあろう。情勢や社会意識が変化したせいか、近年この種の話をよく耳にするようになってきたが、一昔前の国内企業などならば到底考えられなかったことである。
  そのYさんを午後一時過ぎ東横線武蔵溝口駅で拾い、府中国立インターから中央高速道に入って松本方面目指して走り出した。天気もよいことなので、どうせなら冬の北アルプスの夕景でも眺めながら話でもというの彼女の希望もあってのことだった。日帰りの予定に加え、日脚の短い冬日とあって日没まであまり時間もなかったから、アクセルを踏む爪先にもおのずから力が入った。
  すでに太陽が西よりの空に差しかかっていたこともあって、運転席の真正面から陽が射し込んできた。冬の太陽は夏に較べて高度が低いから、午後二時を過ぎたくらいの時間帯でも陽光は運転席や助手席をストレートに照らし出す。眩しくても暑さはあまり感じないため、ついつい陽射の強さを忘れてしまうのだが、大気も澄んでいるうえに顔面に対する光線の入射角も大きくなるから、うっかりすると思わぬ洗礼を浴びる結果になりかねない。気がついたときには、二人とも顔色が赤っぽく変わるほどに日焼けしてしまっていた。
  冠雪を戴く南アルプス連峰や長大な秩父山系の山々を遠望しながら甲府盆地を走り抜け、小淵沢へ近づく頃になると、右手には八ヶ岳連峰、そして左手には鳳凰から甲斐駒ヶ岳へと連なる標高二千八百メートル前後の峰々が大きくその姿を現した。南アルプス連峰の北端に位置する鳳凰三山や甲斐駒ヶ岳の鋭く切り立つ北壁は、壁面全体が純白に雪化粧され神々しいばかりのたたずまいだった。
  鳳凰山系の地蔵ヶ岳の頂上には高さ三十メートルほどのオベリスク(鋭い岩の尖塔)があるのだが、視界が良好だったのでその尖った岩塔の影をもはっきりと識別することができた。上高地の存在を世に知らしめ、日本アルプスの名を海外に広めたウォルター・ウエストンは、その著「極東の遊歩場(The playground of far east)」(山と渓谷社刊)の中でこの地蔵ヶ岳のオベリスクにロープを使って初登頂した際の想い出などを述べたりしている。
  左手の鳳凰や甲斐駒ヶ岳に対し、右手の八ヶ岳のたたずまいは編笠岳南面の雄大なスロープとそれに続く山麓の広さのせいもあって、みるからに女性的な感がする。たまたま山頂一帯が雲に覆われ八合目付近から下側しか眺めることができなかったので、いっそうそんな印象が強く残った。山梨県側からだと難しいが、長野県の茅野や諏訪方面からだと蓼科山を含む八ヶ岳連峰の全貌を一望のもとにおさめることができる。おかげで、諏訪パーキングエリアに着く頃には、八ヶ岳連峰の山肌が夕陽に赤く染まるのを眺めることができるようになった。もっとも、八ヶ岳の山頂一帯は依然雲に覆われたままだったので、雪の積もった峰々の中腹部だけが帯状連なって赤く輝くというちょっと変わった夕景色ではあった。
  長野道方面に分岐し、岡谷で高速道を降りて国道二十号伝いに塩尻峠を越えると、アルプスの展望台として知られる高ボッチ山へ続く林道に入った。こまごまとした道路状況まで知り尽くした林道ではあるが、路面はガチガチに凍結した積雪で覆われていたので、山頂方面に進むには四輪駆動に切換え、チェーンを装着する必要があった。だが、結局、そのまま少し進んだところで引き返えそうということになってしまった。西方の北アルプス連峰一帯が厚い雲とガスに覆われ、まったく展望が利きそうにないことがわかったからである。くわえて日没も間近だったから、それ以上無理して林道深く分け入っても仕方がないという判断もあった。
  北アルプスの眺望を楽しむことは諦めざるをえなかったが、だからといってそのまますんなり東京へ戻るのもあまりに無策すぎる。そんなわけで、急遽、目的地を変更、塩尻市街を抜けて木曽路に入り、奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿などの旧宿場町を巡り、それから中津川に出て中央道経由で東京に帰ろうということになった。当初の予定をかなり超えたロングランのドライブになりそうだったが、私にすればいつものことゆえ、たいして気にもならなかった。
  天候が変わり小雪のちらつきだした木曽路を南下し、奈良井宿に入ったのは午後六時頃だった。幾度となく木曽路を訪ねたことのある私はともかく、同行のYさんにとっては木曽路の旅は初めてのことだった。だから、突然現れた眼前の光景に、彼女が、感動した面持ちで「まるでタイムスリップしたみたい……」と呟いたのは当然のことだった。
  シーズンオフなのにくわえ、既に宵闇の深まる時刻とあって、往時の宿場町の姿そのままに軒を連ねる家々は、皆すでに戸締りを終え、ひたすら静まりかえっていた。午後六時といえば、ちょっとした町ならまだどこでもかなりの往来があるのが普通なのだが、旧街道をはさむこの奈良井宿の街並みに人影はまったく見当たらなかった。そしてそのかわりに、立ち並ぶ家々の軒先に点々と灯る古風な和紙張り角灯の明かりが、あたりをほのやかに照らし出していた。旧街道筋や大小の路地はみな雪で覆い固められていたが、あちこちの家々の格子戸から漏れる光がその雪面に暖かく、しかもやわらかく映えてわたっていた。
  路上に人影がまったくないにもかかわらず、しかもしんしんと冷えこんでいるにもかかわらず、これほどに人の温もりの感じられる空間が存在するということは不可思議なことであった。雑踏と騒音に溢れかえってはいるが、どこか荒涼かつ索漠としたものの漂う現在の都会の空間とそれは対極に位置するもののように思われた。
  車から降り、しばらくの間、我々は雪を踏みしめながら奈良井の街並みを歩き回った。そして、街路が二度直角に折れ曲がる旧宿場町に特有な「鍵の辻」のあたりをめぐったり、「枡形」という昔ながらの共同浄水槽に湧き溢れる清水で喉を潤したりしながら、しばし散策を楽しんだ。
  うまい蕎麦で知られる相模屋の前には、とても愛嬌のある雪ダルマがひとつぽつんと立っていた。その大きなタドンの目は、まるで何かを言い出したそうに、じっとこちらを見つめていた。奈良井宿の街並みのなかほどにある折橋漆器店もむろん閉ってはいたが、店の奥のほうからはなお一条の明るい光が漏れてきていた。
  たぶんいまも置いてあると思うのだが、以前この店ではなかなか洒落た箸置きを売っていた。しっかりと漆を塗って艶やかに仕上げられた小振りで形のよい独楽の箸置きで、黒の漆塗りを基調にし、そのうえから赤、緑、金、銀などの曲線模様の装飾がほどこしてある。五個ほどがセットになったものあるし、一個ずつのバラ売りのものもあり、値段のほうも手頃だった。私はよくこの独楽の箸置きをお土産としてセットで買い求め、友人や知人に進呈したものである。
  この独楽の箸置きがなによりも洒落ているのは、単に風変わりな箸置きとして使えるばかりでなく、ほどよい重量感があって、テーブルの上などで実によく回るのだ。実際、初めて目にする人にこの箸置きを一個だけ手渡したら、皆が皆、それは独楽だと思うに違いない。箸置きだと考える人などまずいないだろう。食前や食後に、テーブルを囲む家族や仲間同士で独楽回しくらべの余興を楽しむことだってできるのだ。いつの時代の誰の着想によるものかは知らないが、遊び心豊かなことこのうえない。
  奈良井宿の南側には、表日本と裏日本との分水界の一部をなす標高一一九六メートルの鳥居峠が聳えている。いまなら国道十九号伝いに鳥居トンネルを抜けると難なく反対側の薮原に出ることができるが、昔の人々はこの鳥居峠を徒歩で越えていた。中山道を経て江戸に向かう大名行列などもむろんその峠道を辿ったのだ。かなり道が拡幅され、車もと通れるようになっているが、いまも薮原方面に通じる旧道の面影は残っているので、興味のある人は訪ねてみるのもよいだろう。
  空調設備などない昔は、この鳥居峠を境にし漆器造りには一種の分業体制が敷かれていたらしい。夏場湿度の高くなる薮原や宮ノ越など鳥居峠以南の集落では、木地どりや木肌のままの漆器類原型造りがおこなわれ、それらは鳥居峠以北の奈良井や平沢といった集落に運ばれて、そこで漆塗りの仕上げ作業がなされていた。漆塗りの作業には冷涼で乾燥した気象条件が欠かせない。峠ひとつ越えただけなのに、奈良井宿や平沢宿は薮原宿などにくらべてずっと湿度が低いから、漆塗りや仕上がった漆器の保存には格好の土地柄だったのだ。
 「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花あるきみと思ひけり」という、島崎藤村の有名な詩「初恋」に出てくるおゆうさんの差していた花櫛も、古来おろく櫛で名高い薮原で原型となるものが造られ、奈良井でそれに漆を塗ったり装飾をほどこしたりして仕上げられたものだったようである。
  奈良井宿の散策を終え車に戻った我々は、鳥居トンネルをいっきに走り抜け、木曽街道を妻籠、馬籠方面に向かって南下した。目指す妻籠は藤村の初恋の人、おゆうさんの嫁いだ旧脇本陣のある宿場町、そしていまひとつの馬籠のほうは島崎藤村その人とおゆうさんとがともに生まれ育った宿場町にほかならなかった。

「マセマティック放浪記」
2002年2月20日

妻籠宿から馬籠宿へ

  浦島伝説の残る上松町寝覚ノ床の町営温泉につかったりしていたため、妻籠宿に着いたのは午後九時半頃だった。妻籠は、奈良井、馬籠(まごめ)などと並んでいまなお昔日の宿場町の面影を留める集落として名高い。しかも、それら三つの旧宿場町のなかで、往時の街並みの構えや雰囲気といったものをもっともよく残しているがこの妻籠宿である。
  おなじ旧中山道の宿場町とはいっても、妻籠宿はずっと南の中津川近くに位置するから、奈良井などにくらべれば雪は少ない。この夜も集落周辺の路上に積雪らしいものはまったく見あたらなかった。街中を歩きだす頃には、夜空の雲のあちこちが途切れ、その雲の切れ間から上弦をいくらかすぎた半月が時々顔をのぞかせた。雲間から月光が零れ落ちはじめると急に街並みは明るさを増して浮き上がり、逆に雲によって月光が閉ざされると街並みは再び暗く沈んで、家々の軒先に点々と灯る屋号入りの角燈のほのやかな輝きがその存在の度を増した。その明暗のコントラストの醸し出す不思議な情景は、まさにこの宿場町の夜ならではのものだった。
  もちろん、旧街道をはさんで軒を連ねる家々はどこもしっかりと戸締りをして静まりかえり、屋内から明かりの漏れている家などはほとんど見当たらなかった。そして、夜通し灯っているらしい各家の四角い和紙張り軒燈だけが、この宿場町に住む人々の温かい息づかいを間接的に伝えていた。そもそも真冬のこんな時刻に妻籠の街中を歩くということのほうが尋常ではないのだったが、常軌を逸した行動をとるがゆえにこそ目にすることのできる感動的な情景というものもまた存在している。この夜妻籠の街並みに見たものはまさにそのような光景であったと言ってよい。
  現在は奥谷郷土資料館となっている旧脇本陣や昔ながらの鍵の辻のあるあたりを中心に、ひとけのない街並みをあちこち歩きまわっていると、突然遠くのほうでカチカチカチと拍子木を打ち鳴らしながら「火の用心!」と叫ぶ夜回りの声が聞こえてきた。昔なら国内のいたるところで見ることのできた光景だが、いまではそんな夜回りの姿などめったに目にすることができなくなった。我々はうしろから徐々に近づいてくる乾いた拍子木の響きと「火の用心!」と叫ぶ声とを懐かしい想いで耳にしながら、大きな軒を連ねて立ち並ぶ二階建ての旅篭や民家の蔀戸(しとみど)や連子格子(れんじごうし)、軒下の古風な看板などを見てまわった。
  変な時刻に見慣れぬ二人連れが歩いているのを、うしろから近づいてくる夜回りの男がどう感じたかは知らないが、相手のほうから自然な調子で「こんばんは!」と声を掛けてきてくれたところをみると、とくに怪しい者たちだとも思わなかったのであろう。我々を追い越した夜回りの男の「火の用心!」の声と拍子木の音が徐々に遠ざかっていくのを聞きながら、私は不思議な感慨を覚えていた。もしもこのような宿場町の一角で火災が発生したりしたら、軒を接する家々はたちまち類焼してしまうに違いない。そんな事態を防ぐためにも、昔ながらの夜回りの存在はそれなりに意味あることなのだろう。
  藤村の初恋の人、おゆうさんの嫁いだ旧脇本陣の建物は、城郭三層造りで妻籠宿の民家のなかでもひときわ大きい。特殊な隠し部屋や隠し階段などがあったりして構造的にも大変面白い建物である。現在は資料館になっているこの建物の内部には、かつては「檜一本首一本」と言われ、一本を無断伐採しただけで即刻首が飛んだというほどに貴重な檜材が柱や板壁、仕切り戸などにふんだんに用いられている。また、島崎藤村がその名を成したのちにおゆうさんに贈ったという「初恋」の詩の直筆額なども飾られ、訪ねる者の目を楽しませてもくれている。
  大変風変わりで面白いのは、明治天皇行幸の際特別に設えられたというテーブルとトイレだろう。当時この妻籠一帯には洋式テーブルや洋式椅子などを所有する家などなかったので、地元の大工が間接的に聞き及んだ情報をもとに急遽組み立て式の洋卓と洋椅子とをこしらえたらしい。明治天皇は礼装用軍服に長靴姿のままでこの屋内に上がり、にわか仕立てのテーブルにすわったのだという。
  これも特別に造られたというトイレのほうは、天皇の滞在時間が短かったため、実際には使用されなかったようだ。そのため、その畳敷きのトイレは由緒ある「使わずのトイレ」として現在まで大切に保存され、来訪者に公開されている。国内広しといえども、トイレが観光の目玉のひとつになっているのは、この妻籠の資料館くらいのものであろう。
  いまひとつ面白い道具として記憶に残っているのはこの脇本陣で用いられていたという特殊な鉄製の燭台である。ふだんは畳の隙間などに脚部下端をさりげなく差し込んで立て置き、上端部の台に蝋燭を灯して使うのだが、いざというときこの燭台を引き抜き逆さまにして持つと、たちまち武具に早変わりするというシロモノなのだ。燭台脚部の鋼鉄製先端は鋭く研ぎすまされて槍の穂先のようになっており、無防備の状態のとき何者かに不意を突かれたような場合には、燭台を抜いて応戦できるようになっていたらしい。
  もちろん、夜遅くのことゆえ資料館のなかを見学することはかなわなかったので、Yさんにそんな資料館内部の様子などを話し聞かせたりしながらゆっくりと車に戻った。そして最後の探訪地である馬籠宿目指して走りだした。

  妻籠をあとにすると、清内路峠を経て伊那谷方面に向かう国道をすこし登り、そこから右に分岐して馬籠峠方面へと続く山道に入った。妻籠と馬籠をつなぐ旧中山道は自然遊歩道として現在も断続的に保存維持されているが、車道の建設整備などのためすっかり様変わりし、昔日の風情はかなり失われてしまっている。
  かつては一車線のダートだった車道は、いまではすっかり拡幅舗装され、歩行者用の旧中山道と何度も交差しながら馬籠峠へとのびている。峠に向かって車の高度が上がるにつれ、道路の両脇やそれに続く山の斜面の積雪が増えてきた。しかも、その積雪は、おりからの月光を浴びて次第にその白々とした輝きを強めていった。いつしか夜空は晴れ上がり、西寄りの空に位置する月齢十日ほどのふっくらした半月の影が、驚くほどに明るくそして眩しかった。
  対向車も後続車もまったくなかったので、試しに車のライトをすべて消し、月明かりと雪明りだけを頼りに走ってみた。周辺に道路灯や街灯はまったくなく、民家も皆無だったから、文字通り自然光のみによる夜間走行というわけだったが、なんともこれが快適そのものなのだった。のんびりと走るかぎり、運転には何の支障も感じられなかった。それどころか、どこか神秘的にさえ感じられる月光と雪明りのみが頼りの山路の旅は、このうえない贅沢であるようにさえ思われてならなかった。
  しばらくそうやって走っていると、時刻表示灯の緑色光だけが妙に目にちらつきはじめた。通常ならまったく気にならないほどの微光なのだが、不思議なものでそのグリーンの輝きが意外なほどに眩しく感じられるのだ。ライト類は全部消してあるのだが、この時刻表示灯だけはエンジンを切らないと消えてくれない。やむなく、時刻表示灯の表面に持ち合わせの本をかぶせて光を遮ると、それまでの違和感が解消されて実に自然な雰囲気になった。
  冴えざえとした月光と白々とした雪明りに心身の垢を洗い浄められるような思いで峠を越えると、ほどなく馬籠宿の坂上側入口に着いた。馬籠宿の集落は石畳の敷かれた急坂の街道沿いに発達している。私自身は過去何度もこの宿場町を歩いたことがあるので、Yさんだけを降ろし、坂下側の入口に車をまわしてそこで彼女を待つことにした。
  坂下側の馬籠入口に着くと、大きく黒々とした恵那山の姿が月明かりのなかに浮かんで見えた。島崎藤村の生地として知られるこの馬籠宿は、明治初年に大火に遭い、その時に旧構のほとんどを焼失してしまった。だから現在の民家の建物はのちに建てられたものである。藤村の生家のあった旧本陣跡周辺は現在島崎藤村記念館となっており、文豪ゆかりの品々が多数収蔵陳列されている。そのほかにも槌馬屋資料館、馬籠宿場郷土館、清水屋資料館などもあって、藤村に関する資料には事欠かない。藤村記念館近くの永昌寺には藤村自身の墓のほか、名作「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデルになった藤村の父、島崎正樹の墓などもある。
  Yさんがなかなか降りてこないので、下側から石畳の坂道をすこしばかり上ってみた。藤村ゆかりの地でもあり、また様々な老舗や大きな宿屋が立ち並んでいることもあって、昼間なら三つの旧宿場町のなかではこの馬籠宿の賑わいの度がもっとも大きい。ただ、時間が時間だったのでさすがに人影は見当たらなかった。そしてそのかわりに、急な坂道の両脇を流れくだる用水路の水音が、夜の街並みにひときわ高く響き広がりわたっていた。
  山間に位置する旧宿場町に共通な特徴は、豊かな水に恵まれていて、軒を連ねる家々の前の側溝を澄んだ水が淀みなく流れていることだろう。往時においては、その水は生活用水として食材の下洗いや衣類の洗濯などに使われていた。かつての用水路の果たしていた役割などもう忘れ去られて久しいが、それでも、古い集落を訪ねた折などにその名残を目にしたりすると、 なんだかほっとした気分になる。もしかしたら、幼少期、水と深く関わって育った私だけの勝手な想いではあるのかもしれないが……。
  階段状に立ち並ぶ民家を一軒一軒物珍しげに覗き込みながら坂道を降りてくるYさんの姿をようやく見つけ、のんびりとしたその歩行ペースに付き合いながら車へと戻った。当初の予定にはまったくない、しかも時間外れの旧宿場町探訪であったが、彼女にとっては望外の貴重な体験であったようだ。
 「たまたまですけど、夜遅くに木曽路を訪ねてかえってよかったかもしれませんね。この夜の風景もすてきだし、宿場町を歩いていてもよけいなものが目にはいらないから、かえって印象的に思われて……」というYさんの言葉には、この日彼女がうけた感動のすべてがこめられている感じだった。
  再びハンドルを握り馬籠宿をあとにすると、私は一路東京目指して走りだした。中津川から中央道に上がり恵那トンネルをいっきに駆け抜けると、右手視界いっぱいに広大な伊那谷の影が浮かび上がった。大きく西に傾いた月の光がその谷をほの青く照らし出している。伊那谷の向こうで黒々とした影を連ねる南アルプス連峰も、稜線のあちこちを銀紫色に輝かせる左手の中央アルプス連峰も、泰然と構えてひたすら沈黙するばかりだった。途中でちょっとばかり眠気がさしてきたけれど、それでもなんとかそのまま中央道を走り通し、翌日の仕事に差支えないくらいの時刻までには東京に戻り着いた。むろん午前零時はとっくに過ぎてしまっていたので厳密な意味での日帰りではなくなってしまったが、成り行き上それはやむをえないことだった。

「マセマティック放浪記」
2002年2月27日

記念パーティ雑感

  先月中旬のこと、東京大手町の経団連ビル・ゴールデンルームで未来工学研究所の創立三十周年記念パーティが催された。未来工学研究所は、現在では文部科学省に統合された旧科学技術庁と関係の深い財団法人で、主として科学技術領域のプロジェクトを専門とする政府系シンクタンクのひとつである。宇宙開発事業団関連の仕事などをはじめとする公的プロジェクトにおいても優れた業績をあげている。
  もうずいぶんと昔のことになるけれど、未来工学研究所主催の会合に招かれ二十一世紀の情報社会の展望についての見解を求められたり、同研究所傘下の研究チームからIT関連技術の現状や将来の予測、さらには未来の教育におけるコンピュータ技術の役割などについて何度か諮問を受けたりしたことがあった。そんなわけで、いまではIT音痴を標榜さえしている私のところへも招待状が舞い込んできたのである。
  フリーランスに転じてからは、学界をはじめとするこの種の会合の場に顔を出すことはほとんどなくなってしまっているので、当然、出席しようかどうかと迷いはした。だが、たまたま近くまで出向く用事もあったし、当時私を招いてくれた主任研究員がいまでは同研究所の所長に就任していること、研究チームの一員だった女性がそのご主任研究員に昇格、現在でも賀状やメールのやりとりがあることなどもあったので、ともかく会場に足を運んでみようという気になった。
  科学技術の発展にはもはや何の役にも立たぬ私などが出席しても、参加者の目障りになるばかりである。だが、会場の片隅に陣取って黙々と御馳走にありついているぶんには迷惑もかかるまい。また、若い研究者や技術者などが出席していたら、彼らから最新技術などについて面白い話のひとつやふたつは聞くこともできるかもしれないし、世の中の動きだってすこしくらいはわかるだろう。率直に言えば、まあ、そんな思いがあっての参加ではあった。
  海外での研究者のパーティのようにジーンズ姿などで気軽に顔を出せればよいのだが、この国では私のような歳の人間がそんな格好で出掛けて行ったら、受付で即刻門前払いを食らいかねない。まして場所が経団連ビルとあっては、会場の受付に辿り着く前にビル入口のガードマンに厳しくチェックされてしまいそうである。よしんば会場に入ることができたとしても、出席の諸氏から白い眼でみられるのがおちだろう。もしかしたら、それはそれで話の種にはなるのかもしれないが、そこまでして世の趨勢に逆らう気にはさすがになれなかった。そこで、久々にネクタイを締め、スーツとコートを身にまとって会場へと出向くことにした。「馬子にも衣裳」、いや、「フリーライターにも衣裳」である。
  実際に会場に臨んでみると、文部科学省をはじめとする諸官庁の官僚たち、NTTドコモ社長以下の大企業や先端技術を有する特殊企業の幹部連、そしてT大やK大その他の有名大学教授たちなど、主催者側が内輪のパーティと断っているにしては錚々たるメンバーの集まりであった。正直なところ、いまや社会のゴミにも等しい私などは、まるで場違いのところへやってきたような気がしてならなかった。
  パーティ出席者はあらかじめ用意された所属機関や所属会社名入りのネームプレートを渡され、それを胸につけていたが、もちろんいまはどこにも所属していない私のプレートはただ名前が記してあるだけだった。他にもちらほら名前だけの人が見られたが、自信に満ちた感じの身振舞いや周囲の人々の気の遣いぶりから察すると、高級官僚OBか一線を引退した高名な元研究者の方々ではないかと思われた。
  言葉にこそはっきりとは出されていなかったものの、パーティが始まるまえから、会場や控え室のあちこちでは、「私こそがこの国のその分野を背負ってきたのです」とか「私などはこの業界の裏の裏まで知り尽くしています」とかいったふうにも聞こえる思わせぶりな会話が交わされていた。パーティが始まってからも、互いに顔見知りであるらしい多くの人々の間で繰り返し繰り返し互いの結束ぶりを確認し合うような挨拶の交換がなされていた。
  面識のある未来工学研究所のお二人は要人への対応やパーティの運営に多忙を極めていたようで、最後まで間近にその姿を見ることはできなかった。招待客は二百名前後のようだったが、この種の世界を離れて久しい私には知人は皆無だったので、はじめのうちは会場の片隅に立ってパーティの成り行きを独りじっと見つていた。所属の記されていない胸のネームプレートに時々周囲の視線が注がれるのを感じはしたが、そのような視線に対してはひたすら沈黙を守り通すしかなかった。自分が何者であるかを明かにしようにも、そもそも明かにすべきものを何ひとつ持ち合わせてもいないからだった。
  もっとも、こういう華やかな場所に独りでいるというのもそれなりに利点はあるものだ。たとえば、周囲の人々に気がねなく、用意された飲み物や料理を自分のペースで存分に賞味できることなどだ。また、社会の要人と目される人物の人柄や、それを取巻く人々の人間模様とそこに渦巻く諸々の思惑などを直に観察できたりもする。私のような物書きの端くれにとってそれは不可欠なことだから、大変にありがたい。
  せっかくの機会を逃すことはないと思いなおし、まずは和食から洋食さらには中華までの御馳走がふんだんに並ぶテーブルに足を運び、あれこれと手を伸ばしてその美味のほどを心ゆくまで楽しませてもらうことにした。そして、そのいっぽうで、さりげなく、しかし注意深く、これとおぼしき人物やその周辺の人々の一挙一動を見守り、漏れてくる会話にそっと耳を傾けた。

  むろん、それはそれでずいぶんと楽しくまた相応の収穫もあったのだが、私にはひとつだけどうしても気になってならないことがあった。日本の未来の一端を担う重要な科学技術系シンクタンクの記念パーティだというのに、将来を背負うべき二十代、三十代の若手の姿がまったくと言ってよいほど見当たらなかったのだ。出席する前は若い研究者や技術者から面白い話などを聞ければと思ってもいたのだが、その点についてはまるで期待はずれだった。また、諸分野における女性の社会進出が目覚しい時代なのに、肝心の女性の姿がわずか四、五名にすぎないというのもずいぶんと不自然に感じられた。
  自分のことを棚に上げてこんなことを述べるのもどうかとは思うのだが、参加者のほとんどは相当な高齢者で、過去において顕著な業績を上げた人々ではあるにしても、互いに我が国の未来像を語るにはもはやトウがたち過ぎていると言わざるをえなかった。もちろん、予算や会場のスペースの関係から招待者数を絞る必要があったのにくわえ、過去三十年間においてこのシンクタンクの発展に寄与したOBや外部関係者を年代順に呼ぶとなると、高齢者中心になることは避けられなかったのであろう。主催者の挨拶の中に「内輪のパーティ」だという一言がつけくわえられたのもそのような事情があったからに違いない。
  だが、たとえそうであっても、このような未来のプロジェクトに関わるパーティには、半分とまではいかなくても、せめて二割や三割くらいは次代を担う若い世代の活きのよい人材を交えてほしいものである。もちろん、女性の出席者数ももっともっと増やさなければならないだろう。我が国には、有能な若手研究者や技術者はむろん、科学技術研究の分野で優れた業績をあげている女性スペシャリストもすくなくない。若い世代の場合などは、とくに業績などなくても潜在的能力があればそれだけで十分だと思う。
  それでなくても、我が国においては、未来を背負う若い世代の人材が、学界の権威と呼ばれる研究者や、高級官僚、大企業の幹部といった人々と直接に対話したり、必要に応じて彼らに自己アピールをしたりすることのできる機会はきわめてすくない。専門分野が互いにすこしでも違ったりすると、その傾向はいっそう大きなものとなる。表面的にはともかく、実際には旧態然とした専門世界にあって男女間の壁や較差もなお大きい。
  今回のようなパーティの役割のひとつは、業績や地位、年齢、性別などを超えて様々な人々が一個の人間として自由に出逢い、率直な意見交換などを経て、創造と発展につながる新たな関係や交流を生むことにある。若い世代は優れた先人たちから学ぶところが大きいし、能力さえあれば相手のリードやアドバイスによって自分の道を開くチャンスにも恵まれる。逆に、既に功成り名成った人々や現在指導的立場にある人々は、若い世代の斬新な発想や活力に触れ、ともすると硬直化し形骸化しがちなおのれの思考を柔軟にし、それぞれの専門分野における自分の役割をより深めることができる。
  昨年、やはり未来工学研究所主催の記念講演会やフォーラムが催され、将来の展望についてなかなか面白い研究発表などもおこなわれたが、やはり参加者の平均年齢は相当に高かった。この時には若手や女性の参加者もかなりの数見られたが、それでも割合はずいぶんと低かった。招待を受けた私が参加を誘った二十代のスペシャリストが「なんだか場違いな所に来たみたいですね」と呟いたのが印象的だった。その時も記念講演終了後にパーティが催されたが、そのほうの出席者はやはり男性の高齢者がほとんどだった。
  海外のこの種の会合やパーティーでは、参加者の服装や身なりなどにもこれといった規制はなく、皆思いおもいの格好で出席するから、勢い会場は自由な雰囲気に包まれる。そんな雰囲気のなかで老若男女が気軽に出逢い、意見交換や情報交換を活発におこない、そこから新たな展開が生まれてくる。我が国でもそのような機運が生まれることが望ましいのだが、無意識のうちに右へ習えの自己規制の働く国民性のもとでは、誰かがリーダーシップをとって日常的にそのような状況が生まれるように働きかける必要があるのだろう。
  いささか皮相な言い方にはなるのだが、未来工学研究所が社会心理学的、さらには組織論的な研究成果を大幅に取り入れ、老若男女のスペシャリストたちが自由闊達に交流できる様々な場を設定することに成功したとき、同研究所の存在意義も飛躍的に高まり、この国の未来にも大きな展望が開けるのだろう。もしかしたら、先日のパーティに出席していた方々の多くも、内心ではもっと若い世代の人々や女性の参加が望ましいと思っておられたのではなかろうか。
  主催者側の事情はわからないでもなかったが、将来の日本の発展を睨み、優れた研究成果を上げている未来指向のシンクタンクのパーティであっただけに、先駆的な意味からしても、いますこし開放的な雰囲気がそなわっていてほしかったというのが率直な感想だった。もっとも、そんな内心の思いをここまで正直に述べさせてもらったとなると、今後の催し物などへの招待を期待するのは無理というものではあろう。

「マセマティック放浪記」
2002年3月20日

鈴木問題の本質は?

  このところメディア界は鈴木宗男問題で沸きかえっている。国会での証人喚問が終わってからも同議員にまつわる疑惑が次々に浮上し、結局鈴木議員は自民党離党のやむなきに至ったが、この問題に関しては、ひとりの日本人として考えさせられるところが少なくない。鈴木議員の恫喝まがいの行為やその政治資金調達の背景に潜む様々な黒い疑惑もさることながら、それら以上に私が気になって仕方がないのは、この種の問題の根底にある我々日本人の倫理的資質のことである。
  人間というものは、その割合はともかくとして、誰もが白と黒の両面を心中に共存させて生きている。いわゆるグレイゾーンなるものものに心の大半を委ねながら、それを当然のこととして生きている人などもあるくらいだ。とくに我が国などにおいては、「清濁相合わせ呑む」という言葉に象徴されるように、白黒両方の要素を超然として内奥に抱えもつことが一種の美徳とも大人物の証ともされ、さらには社会に和をもたらす秘訣でもあるとも考えられてきた。
  善と悪との二元論に基づき、世界の国々を白黒どちらかに色分けして考えるアメリカ大統領らの主張に違和感を覚えるのは、我々日本人の心のどこかに、グレイゾーンをそれなりに肯定し、白一色をかならずしも至上のものとは見なさない伝統がなお息づいているからなのだろう。アフガニスタンにみるような複雑な政治問題などにおいては、日本人のもつそのような資質はプラスにはたらきもするのだろうが、鈴木宗男問題のような場合には、その資質は大きくマイナスに作用してしまう。
  このような日本的精神土壌の下にあっては、政治家や官僚、企業経営者などの心に巣食う黒い要素の際限なき増殖を未然に防ぐのは難しい。我々日本人には、白の要素がずいぶんと少なくなってしまっても、白の占める割合はなお大きいと過大評価し、黒い要素の占める部分にはひたすら目をつむってしてしまう傾向があるからだ。
  そんなわけだから、政治家などの心中に将来異常増殖が予測される真っ黒な芽が生じかけたても、その段階でその芽を摘み取ってしまうことはまずできたためしがない。相手が黒一色に染まりきり、身体中から黒い煙や黒い粉を噴き出すようになってはじめて、我々は事の重大さを認識するのことになるのだが、その時は既に手遅れになっていて、その人物の周辺も社会全体も少なからぬ悪害を被ってしまっている。
  鈴木議員にまつわる諸々の疑惑がいま報道されている通りだったとして、同議員がそのような無法きわまりない状態に至るのを、この社会は未然に防ぐことができただろうか。残念ながら答えはノーである。政官民を問わず、我々日本国民はそのような事態を未然に防ぐ方法も倫理的資質も倫理的基準もいまだ持ち合わせていないし、過去の歴史においてそのような問題に対処する実践的なトレーニングを受けたこともないからだ。
  いま起こっている一連の事態は、たとえていうなら、「社会」という名の生体内に生じた重度の「生活習慣病」にほかならない。生活習慣病を治癒するには適度な運動や摂生が必要だが、特効薬に似てはいるもののその実は麻薬にも等しい利益誘導型政治におかされ、いまや極度の禁断症状に陥ってしまっているこの社会に、運動や摂生に耐えうるだけの体力と意志の強さが残されているとは思われない。私には、日本人が日本人でなくなったときにしかこの生活習慣病は完治しないようにも感じられてならないのだ。
  鈴木議員の業績やその恩恵の大きさを称える地元住民の声はいまもなお少なくない。鈴木議員同様に、与党議員のほとんどは、程度の違いこそあれ、地元選挙区への露骨な利益誘導をおこなうことを自らの至上の任務と信じてきた。そして、それぞれの地域の住民たちはそれをありがたいもの、あるいは当然のものとして受け入れてきた。
  それぞれの地域に強引に誘導された社会資本が効率よく循環して有益な資産をうみ、その結果として投入資本の一部や付加的な利潤がバランスよく国全体に流動し還元されているうちはそれでもまだよい。だが、生態系を破壊するばかりで何の生産性にもつながらない無駄で醜悪な公共事業が全国各地でおこなわれ、際限なく投入される公的事業費の一部が特定議員に還流するような構造になると、もはやどんな手だてをもってしても救いようがない。
  地域住民は公共事業という名の麻薬の中毒患者になってしまって、当然のようにさらなる麻薬を要求し続ける。いっぽうで、「地域住民のために」という言葉をオウム返しに唱えながら、議員たちはヤクザの親分まがいに大量の麻薬、すなわち公共事業の導入をはかり、それを巧みにばらまいて私腹を肥やし、地域住民を篭絡してゴッドファーザー的な地位と権力を確立していく。
  どんなに非生産的で非文化的なものではあっても、公共事業がもたらされると一時的にはその地域は多少とも潤う。だが、そのような生産性も文化的価値もない公共事業が全国各地で大量におこなわれるようになると、国の根幹をなす基本事業や社会保障制度、保険制度、医療制度、研究教育制度など、諸々の行政制度や行政サービスに多大の皺寄せが及ぶことになる。また、公的投資に見合う生産性の向上がなければ、国全体としての経済は疲弊し社会不安は増大する。その結果、公共事業で一時的に潤ったつもりの地域住民は、その何倍もの不利益を別のかたちで被ることになるのだが、困ったことに、公共事業中毒になった人々はそのことをなかなか理解しようとしない。

  いまや「害務省」とでも名称をあらためたほうがよさそうな国辱ものの外務省だが、それにしても、鈴木宗男議員はどうしてあれほどに、外務官僚をはじめとする諸官僚たちを意のままに操ることができたのだろう。鈴木議員の恫喝に近い態度に育ちのよいエリート官僚が怯えて言うなりになったなどと報道されたりしているが、私自身はそんなことをそのまま信じる気にはなれない。大声で怒鳴られたくらいで、誇り高い高級官僚たちが揃いもそろっておとなしく言うままになるなどありえないことに思われるからだ。
  北方領土訪問時の植樹用苗木の検疫問題で、外務省の課長補佐が鈴木議員から殴る蹴るの暴行を受けたと報じられているが、そこまで異常な行動をとったとしても自らの身は安泰だという絶大な自信はいったいどこからきたものなのだろう。当然、当時の外務省の上層部を意のままに操れるという確信があってのことだったのだろうが、そんなことはよほどの裏付けがなければできないはずなのだ。
  これはまったくの個人的な憶測にすぎないが、これまで報道されている以上の何かがこの人の背後には隠されていたのではなかろうか。あくまでも噂の域を出ないものではあるけれども、鈴木議員が秘書を務めていた国会議員中川一郎の縊死事件以来、この人にはある種の暗い影がつきまとっていたとも聞いている。国会議員としてのスタート時点から、尋常ではない不気味な霧のようなものがその背後には流れていたように思われてならない。
  鈴木議員を支えたのはロシア通の佐藤優という有能な外交官で、ロシアの極秘情報を入手することにかけてはこの人物の右にでるものはいなかったとも言われている。なにげなく聞き流せば、ノンキャリア組にもそんな優秀な人物がいたのかというだけのことで終わるところだが、よく考えてみると、この話はそう単純なことではないようだ。
  ロシアの極秘情報を的確に入手できるということは、その人物が元KBGなどをはじめとするロシア情報機関やロシア政府要人らと特別な関係をもっているということにほかならない。そうだとすれば、ギブ・アンド・テイクが常識のその世界でロシア側から一方的に重要情報が流れていたとは考えにくい。当然、日本側からも国家機密に相当する情報や各種利権、多額の資金などがロシア側に還流されていたと考えるべきだろう。
  佐藤優という人物は大局的には日本に有利な仕事をしたのかもしれないが、日ロ間における極秘情報交換のパイプ役として、二重スパイとは言わないまでも、それに近い二重性を帯びて行動していたと推測される。その場合、ロシア側に流れた日本サイドの機密情報源がどのあたりにあったかは言わずとも想像がつくというものだろう。
  我が国と関係のある世界の大国が、様々な手段やルートを用いて日本の主要官庁官僚や有力政治家、有名メディア関係者などのなかに自国の親派を育てあげ、その力を借りて極秘のうちに国益につながる外交を展開しようと画策するのは衆知のことである。米国も中国も韓国も北朝鮮も、そしてロシアもその例外ではありえない。そうしてみると、あらゆる政治的謀略のプロ集団であった元KGBの組織などがロシア政府の要請をうけ、鈴木議員をロシア親派として支援しようとしていたということもまんざら考えられぬ話ではない。当人は否定するだろうが、ロシア政府が極秘のうちに鈴木議員やその周辺議員に特別な利益供与をはかっていたという可能性だって完全には捨て切れない。
  また、元KGBなどと大袈裟なことなど言わなくても、特別な調査機関などを動かして有力政治家や高級官僚、有力民間企業幹部などのスキャンダルを掴むことなど、鈴木議員のような体質の人物にとっては容易なことであったろう。どんな人間にも他人に知られたくない負の部分があるのは普通のことだから、それをネタにして暗黙のうちに脅迫され、忍従を強要されたら抵抗するのはけっして容易でないだろう。いろいろなかたちでさりげなくお金を握らせ、抜き差しならぬ関係ができたところで相手を意のままに操るということも可能だったに違いない。
  いくらなんでもそこまでやったとは思いたくないが、闇の世界の力を借りて自分に不都合な人物に対し生命の危険をもちらつかせる演出をおこない、相手に底知れぬ不気味さを感じさせることによって、その批判を封じ恭順を迫るなどということも、たぶん不可能ではなかっただろう。幸か不幸か、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という文句そっくりの状況になって鈴木バッシングはとどまるところを知らないが、我々国民は自己反省の意味をも込めて、この問題の本質とその対処法についていま一度深く考えなおしてみる必要があるだろう。
  次の選挙で鈴木議員の再選がなるかどうかはわからないが、もしも再起がならなかったら、せめて「鈴木宗男回顧録」のようなものでも著し、政界の舞台裏を白日の下に曝してもらえないものかと思う。そうなれば、今回の不祥事はともかく、鈴木議員の存在意義や、同議員でなければなしえない回顧録の仕事に対する評価は大いに高まるに違いない。
  それにしても、田中問題や鈴木問題に対する小泉首相の、薄っぺらで逃げ腰な、そして核心をはぐらかすとうな対応ぶりはどうだろう。以前に、いささかの批判をこめながらも、その政治姿勢と表向きの人物像が本物であると信じたいと書いてはみたが、最近では贋物とも受取れる一面が浮かび上がってもきているようだ。
  格好よく振舞い、威勢よく断定的な言葉を吐く人物は、一見決断力があり包容力もあるように見えるのだが、心理学の説くところによれば、この種の人物には母子共着、俗な言葉でいえばマザコンの要素をもつ者も少なくないという。その裏の資質は、言葉の軽さ、責任回避、いざというときの弁明保身、自分よりも強い者に対する盲従などであるらしい。首相がマザコンであるなどとは思わないが、いまのような状況が今後も続くと、その資質に首を傾げる人も多くなってはくるだろう。
  銀行の不良債権処理などは首相が掲げる当面の急務であるはずだが、この人のこれまでの言動や銀行問題に対するどこか逃げ腰の対応を見ていると、首相の隠れた支持母体が実は有力都市銀行なのではないかとさえ思われてくる。前に進めと声高らかに煽りながら、進もうとする人のスカートを自ら踏むという矛盾した行為が、都市銀行の不良債権処理問題でも起こらないことをひたすら願うばかりである。

「マセマティック放浪記」
2002年3月27日

桜花余聞

  三月にしては異常な暖かさが続いているせいだろう、東京周辺ではもう桜の花が三分咲きくらいにはなっているようだ。あと一週間もすれば、都内一帯のほとんどの桜は満開になっていることだろう。今年の桜の開花日は、過去五十三年にわたる観測史上もっとも早かったなどと報じられたりもしているが、この調子でいくと来年からはいったいどんなことになるのであろう。
  桜には桜なりの事情もあることだろうから、むこうさまのご都合で早く咲き早く散るのはやむをえまい。だが、桜の季節を迎えるごとにまた一年が過ぎたかなどと考えるようになったこの身にすると、一、二週間分人生が短くなってしまったような気もしてくるから手放しでは喜べない。桜の花は散り際も見事なので、桜を愛でる者はおのれの散り際も桜に倣って見事にということにもなるのかもしれないが、散り際が異常なほどに完璧だというのもまた問題ではあるかもしれない。
  今日の昼過ぎ、たまたま私は東京郊外のとある桜並木を通りかかった。ここの桜も三分咲きほどであったが、折りからの陽光を浴びて瑞々しく輝く花々は、ほどなく風に散る運命にあることなど少しも感じさせないくらい生命力に溢れていた。その並木伝いに歩いていた私は、一本の大きな桜の木の前で足をとめた。以前話に聞いていたのは、もしかしたらこの桜の木ではないかと思ったからである。

  昔の教え子のひとりにAさんという女性がいる。現在は結婚し、二児の母親になっているが、十年近く前までは、社会人や学生対象のIT講座などにおいて、折々、助手などを務めてもらったりしていた。当時、彼女は銀行系のシンクタンクに勤務する有能なシステム・アナリストで、しかも大変に育ちも人柄もよい美人ときていたから、受講者の男性諸氏の間での評判は上々であった。私と彼女といったいどちらが講師でどちらが助手なのかわからなくなることさえもあったくらいだ。
  そのAさんが、いかにしても拭い去り難い心の傷を胸中深くに秘めながら生きているのを知ったのは、彼女とのふとした会話からであった。それは「事実は小説よりも奇なり」という言葉にも余るほどに衝撃的な話で、並大抵のことでは驚かない私も、しばし吾が耳を疑ったほどであった。
  その信じ難い話を打ち明けられたからといっても、私には、Aさんのやり場のない思いに折々耳を傾け、なにかにつけて心から励ましてあげるくらいのことしかできなかったのだが、幸い、いまでは彼女はその深い心の傷みを完全に克服し、主婦として、多忙な中にも充実した日々を送っているようだ。二人のお子さんたちもすくすくと育っているようだから、まずはよかったと思っている。いま私がこうしてAさんにまつわるそんな話を公開する気になったのも、彼女はもう大丈夫だと判断したからにほかならない。

  Aさんには学生時代から交際していた男性があった。二人の間はしばらくはうまくいっていたが、やがて彼女は彼との交際を続けていくことが重荷ととなり、ほどなくそれは苦痛へと変わっていった。Aさんに対する相手の男性の拘束ぶりや支配欲が異常としか言えない状態になってきたのにくわえ、一見包容力があると思われていた彼が、実際にはすべてに自己中心的で、しかもその精神状態が極めて不安定であることが判明したからだった。相手の家庭状況が尋常ではないらしいこともAさんの気になるところではあった。
  大学を卒業し就職した彼女は、それを契機に彼との別離を決意し、何度も話し合いをもってその旨を相手に伝えようとしたが、彼のほうはまったく耳を貸そうとしなかった。やむなくAさんは自らその男性を極力避けるようになったのだが、相手はストーカーと化し、会社の行き帰りなどに彼女を待ち伏せして執拗につきまとった。そして、自分のおかれている苦境などをあれこれと並べたててAさんの同情を買いながら、交際の復活を迫り続けた。
  彼女のもとには彼から切々と心の苦しさを訴えた手紙なども一方的に送りつけられ、最後には、「以前と同様に交際を続けてくれなければ自ら死を選ぶことも厭わない。また、たとえそうなったとしても、その責任は生涯あなたが背負うべきで、けっして自分の責任ではない」といったような主旨の文面さえも見られるほどにその内容はエスカレートしていった。
  自立心の強いAさんは、周辺に不必要な心配をかけてもいけないと考え、そのような状況になっていることを、会社の同僚や上司にはむろん、両親や親友らにさえも話さなかった。そして、時間をかけながら、なんとか自力で事態の好転をはかろうとした。送りつけられてくる手紙は無視したり開封せずに返送したりし、会社の行き帰りには、日毎に通勤時刻や通勤ルートを少しずつ変えたりして、男との接触を避け続けた。そんな苦労と努力が実ってか、ようやくくだんの男の影も遠ざかり、彼女自身もなんとか心理的に落着きを取り戻すことができるようになった。

  桜の季節を迎えたある日の早朝、Aさんの住む近くの警察署から彼女に突然の電話があった。その電話を直接に受けた彼女に、警察の担当者は、緊急事態が生じたのですぐに署まで出頭してほしい旨の要請を伝えた。何が起こったのかまったく事情のわからないままに、とりあえず彼女は警察署に出頭した。
  署内のとある部屋に通されたAさんはあまりのことに絶句し、愕然としてその場に立ち尽くした。彼女がそこで目にしたものは、死亡後まだ間もない若い男の縊死体だったからである。むろん、その遺体はかつて交際していた男のものだった。警察は彼女にまずその遺体の身元の確認を求め、そのあとで出頭を求めるにいたった状況の説明と彼女からの事情聴取をおこなった。
  明かになった一連の状況は驚くべきものであった。男はその日の未明、Aさん宅のすぐ近くの桜並木にやってくると、彼女の家の見える桜の木の一本を選んでよじ登り、その枝で首を吊って自ら命を絶ったのだ。しかも、彼はその死に臨んで、Aさんが真っ先にその遺体を確認せざるをえなくなるように巧妙な一計を案じてもいた。桜の季節に悲劇の物語を自作自演し、否応なくAさんをその舞台に引きずり込んでしまったのだった。
  男は自分の身元を直接明かすようなものは何ひとつ携えていなかった。そのかわりに彼は真新しい手帳をひとつ持っていた。そして、その手帳には、なんと、Aさんの名前と住所と電話番号だけが記入されていたのである。第一発見者からの通報で遺体を収容した警察署が彼女に出頭を求めたのは必然の成り行きだったのだ。
  結局、Aさんは極度の心理的混乱状態のままで、男の葬儀にまで顔を出さざるをえなくなった。望むと望まざるとにかかわらず、彼女は生前に男の書いた物語に最後までつきあわされるハメになってしまったのだ。相手の一存だけで強引に身勝手な物語の中に取り込まれ、それを人知れず背負って生きていかねばならない彼女の胸中は察するに余りあるものではあった。
  その事件があってからというもの、Aさんは自宅と駅とを結ぶ道筋にあるその桜並木を通るのが恐ろしくてならなかったという。とくに、仕事で帰りが遅くなったときなどには、その恐怖の度は極みに達し、人一倍芯の強いその気性をもってしてもそれに耐えるのは至難の業であったらしい。天性のにこやかさとは裏腹に、それからしばらくは、男性というものに対するある種の不信感や違和感をどうしても拭い去ることができなかったという。その後、一大災難ともいうべきその精神的ショックから彼女が立ち直ることができたのは、不幸中の幸いだったと言うべきだろう。

  この日偶然に、私はAさんの実家近くにある桜並木を通りかかったのだった。そして、話に聞いていた状況や、住宅街と桜並木との相対的な位置関係からして、ほぼそれに間違いないと思われる一本の桜の巨木をしげしげと仰ぎ見ることになった。大きく四方にのびた枝々の先には無数の蕾が出番を待ってひしめきあい、すでに開いた美しい花々は、明るい陽光に輝き匂って、道行く人々の目を余すところなく奪っていた。
  その桜の古木には、かつて起こった忌まわしい出来事の記憶など、もうどこにも残ってないように思われた。また、たとえそんな記憶の断片がどこかに残っていたとしても、おのれの枝先に咲く花々のいさぎよい散り際の美学とは異なる、完璧だが妄執の極みとも言うべき散りかたをしたひとりの男の物語など、桜の木のほうにしてみれば所詮どうでもよいことではあったろう。

「マセマティック放浪記」
2002年4月3日

ドラキュラ邸追想記(一)

  北アルプス山麓の広大な赤松林を背にしたその屋敷は、不思議な静けさに包まれていた。かつてこの家の老主は、誰かが近づくと、機先を制するように奥のほうからヌーッとその姿を現わし、不意を突かれた来訪者のほうは、仰天してしばしその場に立ち尽くしたものだった。高性能の監視カメラと音声感知器が密かに設置されており、書斎やベッドルームに居ながらにして戸口周辺の状況を的確に把握できるようになっていたからなのだが、その仕掛けがわかるまでは、私自身も狐につままれた思いで何度も首を傾げたものだった。
  三月下旬のこの日、久々に来訪した私の前にかつての屋敷主がその姿を現わすことはもうなかった。すでに監視カメラは取り外され、電気、ガス、水道などのの供給も止められてしまっていた。私は平屋造りの家の右手に回り、赤松やエゴノキの生えている一角に歩み入った。そして三本の赤松に囲まれた小さなスペースの真中に立ち、初めてこの屋敷に案内された日のことを懐かしく想い起した。
  赤松の幹には頑丈なフックがまだそのまま残されていた。このフックに老主自慢の大きなカナダ製ハンモックを掛け、それに身を委ねながら空を見上げるのは、爽快このうえないことでもあった。大人が三人ほどは乗れるハンモックに仰向けに寝そべってその快適さを体感するのは、初の来訪者に課せられる必須の儀式みたいなものでもあった。
  そのハンモックは、老主と親交のあった写真家市川勝弘氏の要請で東京に運び込まれ、集英社文庫の宣伝ポスターに用いられたりもした。その時にハンモックに寝そべってポスター写真におさまった人物は、最近フランス映画「わさび」などにも登場して話題をまいた人気女優の広末涼子だった。
  昨年まで、すぐ近くの軒下には老主自慢の手製簡易露天風呂などもあったのだが、すでにその浴槽は取り払われ、土台のブロックと排水口のみが残るだけになっていた。まだ冬枯れしたままの庭木を眺めながら安曇野に面する屋敷の表側に回ると、なんとも高らかな水音が響いてきた。屋敷のすぐそばには農業用水路が設けられていて、一年中絶えることなく清冽な水が流れている。大量の水が凄まじい勢いで流れくだっているから、誤って水中に落ちたりしたらとても無事ではすまないだろう。
 この屋敷のアイデンティテイのひとつでもあるそんな水音を聞きながら、小さな石段をのぼって中央のガラス戸に近づくと、そっとそれを押し開いた。家の中に入れるようにしておいてほしいと、現在の管理者の方にあらかじめお願いしてあったので、ガラス戸に施錠はなされていなかった。
 まったく人気のない室内に入った私は、深い感慨にひたりながらしばしその場に立ち尽くした。そして、自らドラキュラ老人と称し、こちらもまたドラキュラ翁と崇め奉った、いまは亡き稀代の奇人の魂に心中でそっと胸の想いを語りかけてみようとした。合掌し線香やお花を供えてみても、あるいはまた跪いて十字架を献げてみても喜んではくれないであろう老翁の魂を弔うには、そうするしかないだろうと考えたからだった。
 そもそも、この日私が石田邸を訪ねたのは、筆を執りかけたままいまだに脱稿していない老翁の伝記、「ある奇人の生涯」の後半部を書き進めるために、いますこし確認したり調べたりしておかねばならないことがあったからだった。石田達夫翁が健在なうちに完成させるつもりでいた原稿は諸般の事情で遅れに遅れ、結局、翁の生前にその実現はならなかった。さらにその結果として、誕生から他界にいたるまでの文字通りの「生涯」を描き切らなければならないという難題を背負い込むはめになったのだった。

  昨年八月上旬のある夜遅くのこと、突然鳴りだした電話のベルに私は目を醒まされた。慌てて手にした受話器から流れてきたのは、いつになく弱々しい、しかし懸命に何かを訴えかけようとする穂高のドラキュラ翁、すなわち、石田達夫老翁の声であった。
  ――すぐこちらに来てくれないか?。どうしてもあなたに会って話がしたい。まわりの者がみんな僕の頭がおかしいと言うのだが、自分ではそうは思っていない。あなたに会って話すことができば、狂っているのがほんとうに自分なのかそうでないのか確認もできるし、かわりにその判断をしてもらうことだってできる――
  石田翁の電話の内容は、ほぼそのような主旨のものだった。電話の声の様子からこれは尋常なことではないと判断した私は、すぐさま車のハンドルを握り、穂高町に向かって走りだした。かねがね、府中のドラキュラなどと軽口を叩いて私のことをからかっていた本家本元のドラキュラ翁が、いまだにドラキュラ見習いにすぎない小物のこの身を呼び寄せるなんて、いったい何が起こったというのだろう。いろいろと想像をめぐらせてはみたものの、確かなことはいまひとつはっきりとはしなかった。
  石田邸に着いてみると、中にいるのは石田翁本人と養子の石田俊紀さんの二人だけだった。若い頃から独身をつらぬいてきた石田翁は、のちのちのことも考え、かなり以前に俊紀さんを養子に迎えた。ただ、車で一時間ほどのところに住む俊紀さんの家族と同居することはなく、この穂高の屋敷で独りで暮らしを続けてきた。むろん、炊事、洗濯、掃除といったようなこともすべて自分でやってきた。人間関係や仕事関係においては、石田翁も養子の俊紀さんも互いに相手の世界にはいっさい立ち入らず、なんの干渉もしないという基本ルールを厳守してきた。
  お会いするのは二度目の俊紀さんと簡単な挨拶を交わしたあと、私はすぐに石田翁の書斎とベッドルームを兼ねた部屋に入った。私の姿を目にした老翁は、そのままでという制止の言葉には耳を貸さず、自力で身を起こすとベッドの端に腰を掛けた。そして、「やあ、あなたが来るのを待っていたよ」とちいさく呟き、ひとつ大きく息をつくと、じっとこちらの顔を見つめた。
  私はそこに、轟音と土煙をあげて崩れ落ちる寸前の巨大な古木の姿を見た。大きな幹はすでに空洞化し枯れ朽ちてしまっているが、枝先のいくつかの葉はなお奇跡的に生命の輝きを発している――そんな老大樹の最期の姿を眼前の老翁に重ね見たのだった。石田翁の身体の一部は明かに植物化しかけていた。だが、並外れて強靭な精神力と明晰で知られた頭脳とが、身体を構成する全細胞やその機能すべての植物化を頑強に阻止していた。それは、いわゆる「死相」が出ている状態には違いなかったが、その身体の内奥でなおも脈動し続ける精神の煌きに、心底敬意を表せずにはおられなかった。
  老翁の語るところを極力自然体で受けとめ、その姿をありのままに直視しようと決意した私は、あらためてベッド脇に椅子を引き寄せると、おもむろに腰をおろして相手の顔に静かに見入った。少々もつれ気味でしかも途切れがちに発せられる石田翁の言葉には、かつてのような勢いと鋭い切れ味は見られなかった。毒舌の権化のような姿を知るこの身にすればいささか複雑な思いもしたが、それもまた、石田翁と私との運命的な出逢いの帰するところとあればやむをえないことだった。
  詳しい事情を知る人からのちに聞いたところによると、その数日前、内臓の血管破裂によって突如ひどい吐血や下血に襲われた石田翁は、そのまま失神状態に陥り、たまたま来訪した近隣者に発見されて病院に担ぎ込まれた。幸い、医師らの懸命の治療によってなんとか一時的に小康を得たものの、意識が回復し、ある程度の体力を取り戻すと、老翁はベッドで激しく暴れ?き、身体に付けられた医療器具類をひきちぎったりして、それ以上の治療を断固拒絶しようとした。
  また、次々に起こる異常な幻覚や幻聴を現実そのものだと信じて疑わなかった石田翁は、それらに耐えられないから自宅へ戻ると強硬に主張して譲らず、御しきれなくなった医者や周囲の者たちは、自宅療養もやむなしという決断を下した。もちろん、その背景には、いずれにしろ死期はそう遠くないという判断があったからだった。だが、老翁がこの日私に真剣な口調で語った状況は、当然それとはまるで異なるものであった。
  ――自分の入院している個室の脇にはオペラの練習用舞台があって、男女何人ものオペラ歌手が、昼も夜もなく二十四時間耳をつんざくような大声で練習をしていた。ドタンバタンという凄まじい物音も響いてきたし、時折、ベッドの自分のほうを覗いては皆で嘲笑するような声も聞こえたりした。頭がおかしくなりそうで、とても眠ってなんかおれないので、その状況を医者や看護婦、見舞い客などに訴えたのだが、誰もが、絶対にそんなことはない、それは石田さんがちょっと錯乱を起こしているからだと言うばかりだったんだ。身体中を管だらけにされて自由を奪われたうえに、あんな音の拷問にまで遭ったら、とても我慢なんかできるものじゃない。皆は否定するけれど、あれは絶対に事実だったといまも私は思っている。病院は都合が悪いから事実を隠そうとしているんじゃないか?――
  たとえば老翁はそんなことを私に伝え、このことをどう思うかと尋ねてきた。このときすでに私には、たとえどんなことであろうとも、石田翁が事実と信じるところをすべて肯定して受け入れようという心の準備ができていた。だから、ごく自然に相手の話に耳を傾け、頷きながら同調し、無理のないかたちで会話を進めることができた。
  むろん、そう対応するのがベストだと考えたからでもあったが、老翁の話そのものも、病院での一件をのぞいてはごく正常なもので、声が小さく言葉が滑らかに出てこないのをべつにすれば、おかしいところはほとんどなかった。病院でのオペラにまつわる幻覚は、長年英国でBBCの放送記者兼アナウンサーとして活躍し、シェークスピア劇場などに足繁く通ったことのあるこの人物ならではのものだったのだろう。幻覚や幻聴であるとはいえ、病院のベッド上で耳にしたというオペラの曲目や歌詞まではっきりと記憶しているその異能ぶりのほうが、私にはよほど興味深いことに思われた。
  養子の俊紀さんは午後から出社しなければならないということで、しばらくすると石田翁と私の二人だけになった。私は近くのスーパーマーケットまで一走りして、老翁の好物を買い求めた。戻ってみると、信じられないことに、石田翁は自分で立ち上がり、冷蔵庫から二、三の品を取り出して皿に並べ、お湯を沸かして紅茶を入れる準備をしているところだった。
  植物化しかけた四股と死相を帯びたその全肉体に鞭打ってなお、やれるだけのことは自力でやろうとする凄絶なまでの行動力と精神力に、私はただ圧倒されるばかりだった。まるでスローモーションの映画を目にしているような動きで、見るからに危なかしくもあったが、私はあえてそれを止めようとはしなかった。止めてはならないと思ったからだった。
  ベッドの脇の小さなテーブルに食べ物と飲み物を並べ、気の向くままにそれらを口にしながら、それからさらに五、六時間ほど我々は二人きりで話を続けた。その間、石田翁は何度もベッドに横になったり、自力でトイレに立ったり、時々眠りに落ちたりしたが、私はすこしもそんなことなど気にせずに、相手のペースに合わせて応対し続けた。
  当初は途切れがちで言葉につかえたりもしていた石田翁の口調が、時間が経つにつれて次第に滑らかになってきたのは意外なことだった。しかも、軽口までが飛び出しはじめたのには少なからず驚かされた。そして、ついには、「どうやら僕の頭のほうがおかしくなってたんだな。この頭も身体も、もう半分死にかかっているんだな……。いまはっきりわかってきたよ」と言い切ったのだった。たぶん、それは、一時的なものではあったにしろ、老翁の精神がいま一度本来の輝きを取り戻した瞬間でもあった。
  片付けなければならない仕事もあったので、近日中の再訪を約束したうえで、その日の夕刻、私は穂高を発って東京に戻った。別れ際、握手を交わしながら、「じゃ、また……」と呟いた老翁の眼差しには、表の言葉とは裏腹に、「もう会うことはないだろう……」という暗黙のメッセージが込められていたように思われてならない。あらためて穂高に向かおうと準備を整えていた矢先に、その電話がかかってきた。          

「マセマティック放浪記」
2002年4月10日

ドラキュラ邸追想記(二)

  受話器をとると、沈んだ感じの男性の声が流れてきた。石田宅の近くに住む陶芸家の平林昇さんという方からの電話だった。石田翁と親交のあった平林さんは、老翁から、自分の身にもしものことがあったらその旨を私に伝えるようにと頼まれていたのである。平林さんは、胸の内で悲しみを抑えるような声で、「石田さんが今日午後四時半に亡くなりました」と伝えてきた。二〇〇一年八月十七日、石田達夫翁は享年八十五歳をもって穂高町有明の地で逝去したのだった。その日はたまたま金曜日ではあったが、生前老翁がとくにお気に入りだった「十三日の金曜日」ではなかった。
  私が電話をもらったのは老翁が息を引きとってから三時間ほど過ぎた午後八時前のことだった。まだ石田邸にいるという平林さんに、穂高に着くのは夜遅くになると思うけれど、出立の準備が整い次第そちらに向からと伝えると、どこか戸惑ったような声が受話器の向こうから響いてきた。平林さんにかわって、やはり石田翁と親しく私とも面識のある安曇野文庫の経営者山本さんが電話にでると、手短にその場の状況を教えてくれた。
  山本さんの話によると、石田翁の遺体はほどなく信州大学から配される車に収容され、同大学医学部に献体されることになっており、いまから穂高に駆けつけてもらっても、もう遺体との対面はかなわないとのことであった。いまひとつ事情がよく呑み込めなかったが、どうやら葬儀なども一切行なわず、遺体はそのまま信州大学へと運ばれるらしかった。永眠した老翁の姿を見守りながら石田邸に留まっているのは、喪主の石田俊紀さんを含む数名の人々にすぎないことも判明した。「まあ、仕方ないことですので、いずれ私たちだけで会う機会を設け、生前の石田さんを偲ぶことにしましょう……」という山本さんの声を最後にその電話は切れた。
  石田翁との親交は私よりもずっと長い湯河原在住の高名な紙彫刻家谷内庸夫さんと東京在住のカメラマン市川勝弘さんの二人に連絡をとった結果、翌日の午前中に松本で待ち合わせ、ともかく信大医学部付属病院を訪ねてみようということになった。そのあと出立の準備を終えた私は、午前零時頃に府中を発って一足先に穂高町へと向かうことにした。
  午前三時過ぎには石田邸に着いたのだが、家の玄関の扉には錠が下り、ひたすら静まりかえった屋内からは仄暗い光がかすかに漏れてくるだけで、人の気配はまったく感じられなかった。もしかしたら、養子の俊紀さんが中に独りでおられるのではないかとも思ったが、かりにそうだとしても、ひとかたならぬ心労のゆえに疲れ切って眠っておられるに違いないと考えた。
  谷内さんらとの松本での待ち合わせまでにはまだずいぶんと時間もあったので、石田翁との初めての出逢いを偲びながら、そのきっかけとなった碌山美術館前や穂高駅前を訪ね、そのあと、まだ明けやらぬ穂高の街並みを通り抜けて大王ワサビ園へと向かった。そして、同ワサビ園の脇を流れる万水川(よろずいがわ)のほとりに独り佇んだ。黒澤明の晩年の作品、「夢」のラストシーンのロケ地もなったこの美しい川辺に案内されたのは、老翁と初めて出逢った日の夕刻のことだった。その時、私たち二人は、この川の土手を下流に向かって歩きながら、珍妙なうえにどこか怪しげでさえもある不思議な会話を繰広げた。
  万水川の川面はまだ暗く、いつもの澄んだ水の輝きこそ目にすることはできなかったが、映画の中にも登場した水車小屋の二基の水車は、相も変わらずゆっくりとした回転を続けていた。黒澤の「夢」のラストシーンに登場する村では、長寿者が天寿を全うするのはめでたいことだと考えられており、村人たちの葬儀の列は華やかなお祭りムード一色に包まれるのであるが、もしかしたら、石田翁の魂もその明るく賑やかな葬送のシーンに紛れ込んで天に昇っていってしまったのではないかと思いたくもなるのだった。
  車に戻りながら何気なく東の方を仰ぎやると、ほぼ新月に近い細く長い月が夜明け前の空に昇ってきたところだった。私はどこか暗示的な感じのするその月のかたちと、不気味にも見える赤褐色の光にしばらく見入ったあと、ほどなく車中で横になりしばらくのあいだ仮眠をとった。
  二、三時間ほどして目覚めた私はいったん穂高町から松本まで南下し、そこで予定通りに谷内、市川の両氏と合流した。そのあと我々三人は、松本市北部の信州大学医学部付属病院を訪ねてみた。もしもまだ石田翁の遺体が納棺されたままの状態だったら、せめて一目でも対面させてもらえないものかと思ったからだった。
  しかしながら、残念なことに我々の願いは叶わなかった。既に遺体の保存処置がとられてしまったあとらしく、たとえ親族といえども、もはや翁の遺体を目にするのは許されないとのことであった。また、献体された遺体が再び遺族のもとに返されるのは早くても三年以上先のことで、いつになるか確かなことはわからないとも告げられた。どうやら当分は信州大学医学部やその付属病院に向かって合掌するしかないらしかった。なんとも人を食ったあの石田翁のことだから、いまごろ悠然とアルコール槽に身を委ねながら、「想像していたよりもずっと快適だから、お前らもそのうちここに遊びに来いよ!」などと毒舌を吐いているかもしれないね、という言葉までが誰の口からともなく飛び出したりもした。
  信州大学病院をあとにした我々は、とにかく、もう一度石田邸を訪ねて老翁の最期の様子を詳しく訊いておこうと相談し合い、再び穂高町へと向かって車を走らせた。石田邸では、養子の俊紀さんがたった一人で、我々三人の到着を待っていてくれた。私が最後に石田翁と話をした書斎兼ベッドルームに入ると、遺髪を収めてあるというごく小さな壷が白布で包まれ、ベッド上にひとつぽつんと置かれていた。その前にはごく普通の小皿を用いた間に合わせの線香立てが一個並んでいるだけで、そのほかには何も置かれていなかった。むろん、お供え物の類などもあたりにはまったく見当らなかった。
  かねがねドラキュラ翁を自称して憚らなかった老人の魂がそのことを喜んでくれるかどうかは疑問だったが、ともかくも、我々は遺髪入りの小壷の前で合掌し、焼香して心の中で祈りを献げた。そしてそれから、石田翁の最期の有様などを俊紀さんに詳しく伺ってみることになった。
  八月上旬に私が見舞いにやって来たあと、三、四日してから石田翁は再び激しい内臓の出血を起こして穂高病院に再入院したのだという。だが、またもや周囲の制止も耳を貸そうとはせず、医療器具を引き抜くなどして病床で激しく抵抗し、どうしても家に戻ると言い張ったらしい。ここまで入院を嫌がるのであれば、本人の希望通りに自宅で最期を迎えられるようにしたほうがよいのではないかという医師の判断もあって、結局、老翁は長年住みなれたこの家へと戻された。
  石田翁は最後の最後までトイレだけは自力ですませると言ってきかなかったという。そこでやむなく、俊紀さんは寝室からベッドを運び出してトイレのすぐ脇に再配置し、そこに老翁を寝かせた。そして、移動したベッドのぞいの壁面に急遽取っ手を設け、トイレに立つときなど、身体の弱った翁がそれに掴まって身を起こしやすくなるような工夫もした。我々が訪ねたとき、ベッドはすでにトイレ脇から元の部屋に戻されていたが、取り付けられて間もない新しい取っ手はそのままになっていた。
  おなじW Cでも、「創造的作品群」あるいは「創造的仕事の場」といったような意味を込め、WとCの二文字を赤色に、残りの文字を黒色にして「WORKS CREATIVE」とトイレのドアに表記して悦に入っていた石田翁は、そのトイレに最後までこだわり、創造を促すドアのアルファベットに見守られながら静かに息を引き取ったのだった。それは、まるで、自らの生涯そのものがひとつの創造的芸術作品であったとでも言いげな往生ぶりであったのだ。
  石田翁と出逢い、初めてこの屋敷に案内された日の夜、トイレに入ろうとした私は、「我が家のトイレにはいったら、あなた、一時間は出てこられませんよ」と言われて返事に窮してしまったものだ。「WORKS CREATIVE」というその洒落た表記にニヤリとしながらトイレに一歩踏み入った私は、その天井と四面の壁に設えられたる驚くべき細工や作品群に圧倒された。さらにはまた、トイレットペーパーに刷り込まれている英語のクロスワードパズルに頭を抱えたりもした(詳細は、バックナンバー「人生模様ジグソーパズル:2000年4月26日)」参照)。私にとっても想い出深いそのトイレのドア脇の空間が、老翁の「冥界への旅路」の出発点になったとは、なんという運命の皮肉と言うべきであったろうか。
  最後の瞬間が訪れたとき邸内には二人だけだったというが、そっと俊紀さんの手を取りながら、とくに苦しむこともなく、またこれといった言葉を残すこともなく永遠の眠りについたのだという。最後まで意識ははっきりしていたらしいが、他界する直前の老翁の衰弱ぶりはやはり相当なものであったようだ。その壮絶な姿を人目に曝すのは石田翁の美学にも反するのではないかと考えた俊紀さんは、結局、誰にも危篤の報せをしなかったのだという。
  どうしたものかと迷いながらも、一応は心ばかりのものをとも思い、あらかじめ用意してきた香典を差し出そうとすると、俊紀さんはその受取りを固辞しながら、なにやら文言の記された一枚の用紙を見せてくれた。鉛筆書きのごく簡単なものではあったが、それは石田翁自らが生前にしたためた遺言状にほかならなかった。それに目を通させてもらった私たちは、そこで初めて老翁が逝去したあとになされた一連の対応の裏事情を知ったのだった。

  私儀(石田達夫)の死後は次のことを守って下さい。
一、葬儀その他の儀式は一切行なわないこと。戒名や位牌の類も一切不用のこと。
二、香典の類も絶対に受取らないこと。その気持ちがあれば、どこかの慈善団体や福祉団体に   寄付してもらうこと。
三、遺体は信州大学に献体すること。連絡先は松本市旭町3丁目1−1、信州大学医学部こま   くさ会。
四、土地建物その他一切の所有物は養子石田俊紀のものとすること。
五、死亡通知は下記のものに限る。
  加島祥造・としこ
   (以下省略)

  俊紀さんは石田翁の遺言を忠実に守ることにした。信州大学への献体を急いだのは、医学部当局との相談の結果、なるべく早いほうがよいということになったからだった。また、遺体を長く安置しておくと、噂を伝え聞いた弔問者が香典や献花を持参して次々に来訪し、それらを固辞するだけでも容易でなくなるだろうことが危惧されたのも、献体を急いだ理由のひとつであったようだ。谷内さん、市川さん、それに私の三人には、永眠直前に一度は会ってもらっているから、あえて棺に横たわる姿を見てもらう必要もないだろうという判断もあってのことだったらしい。
  死亡通知の送付先として指定されていたのも、もごく限られた数名の人たちだけで、その点でも石田翁は最後まで徹底していたと言ってよい。ちなみに述べておくと、最初に名前の挙げられている加島夫妻は、石田翁と公私において終生深い関係のあった方々で、老翁が安曇野に住みつくようになったのも同夫妻との親交が直接の契機であった。
  近年は老子や荘子などについての斬新な著作でも名高い加島祥造さんは、以前、信州大学の助教授をしておられた。多忙な加島さんの英文学翻訳の代役を折々務めてもいた石田翁は、東京から松本方面に仕事の打ち合わせに出向くことが少なくなかった。そのうちにすっかり信濃の風土が気に入った石田翁は、安曇野に住みつくことを決意したのだった。いっぽうの加島さんは、そのあと横浜国大の教授に招聘されて信濃を離れることになり、結局、石田翁だけが信州に残ることになったのだそうである。
  ちょっとだけ話が途切れかかったとき、俊紀さんはふと思い出したように立ち上がり、一枚の小さな紙片を取り出してきた。いつのまに書かれたものかは定かでないが、それは、老翁のベッドの片隅から俊紀さんの奥さんがたまたま見つけ出したものなのだそうであった。字体の著しく歪んだごく短い走り書きだったが、病床にあって石田翁が懸命に書き記したものには違いないようだった。そして、そこに残されたわずか四行の謎めいた文句は、いかにもこの稀代の奇人ならではのもとだと言ってよかった。
――医者も嘘つき、看護婦も嘘つき、薬も嘘つき、そして一番の嘘つきは病気――その紙片にはそう記されてあったからである。

「マセマティック放浪記」
2002年4月17日

ドラキュラ邸追想記(三)

  七ヶ月ぶりに足を踏み入れた石田邸の屋内は深い沈黙に包まれ、ひたすら静まり返っていた。電源が切られていて照明器具はいっさい使えなかったので、ガラス戸や小窓から差し込む自然光だけが頼りだった。ゲストルームやリビングの様々な調度品や家具類はすべて片付けられたあとで、ガランとした室内には暗く冷たい空気だけが重々しく漂っているばかりだった。
  最後に石田翁と会った部屋に入ってみると、小ぶりの本棚ひとつをのぞいては、老翁の仕事机もベッドもみな運び出されてしまっていた。壁面のあちこちに飾られていた美術写真や珍しいポスターの類などもすべて外されたり剥がされたりしており、かつてこの部屋に棲息した奇人の姿を偲ばせるものはもう何も存在していないように思われた。
  しかし、室内の薄明かりに目が馴れてくると、そんな奇人が存在していたことを明瞭に示す痕跡が、いまもこの部屋には二つだけ残されていることが判明した。そのひとつは小ぶりな本棚にぎっしり詰まった状態で立ち並ぶ数々の洋書だった。私がよく寝泊りしていた部屋の本棚や、そこに並んでいた和書類のほうはもうどこにも見当たらなかったが、どういうわけか洋書だけが意図的にまとめられ、そこに残されたもののようだった。以前は洋書と和書とが入り混じった状態であちこちの部屋の棚などに並べ置かれていたから、老翁の逝去後に俊紀さんの手で洋書だけが一箇所に集められたのであろう。
  石田翁は、BBC放送記者としてロンドンに滞在中、のちに研究社の英和辞典の編集者としても名を馳せる故小川芳男東京外語大教授を自室に住まわせ長期間面倒をみていたこともあって、「小川君」と「君」づけで呼ぶほどに小川氏とは親しかった。また、「風と共に去りぬ」の名訳者として知られる故大久保康雄氏とも旧知の仲だったし、すでに述べたように加島祥造元横浜国大教授などとも長年にわたる親交があった。
  そんな縁もあって、イギリスから帰国してからは、国内での仕事の一環として、そういった高名な英米文学者たちの翻訳の仕事を手伝ったりしてもいた。自分の名を表に出すことを嫌った老翁は共訳者として刊行書に名を連ねることはなかったが、実質的に翁が訳した本は八十余冊に及んでいる。シャーロック・ホームズものを中心に石田翁が翻訳を代行していた大久保康雄氏の場合は、初版分の印税はすべて老翁に渡し、再版以降の印税を本人が受取るようにしていたそうである。
  本棚に並ぶ洋書群の背表紙をちらっと見やっただけで、リング・ラードナー、デーモン・ラニアン、アガサ・クリスティ、コナン・ドイル、サマセット・モーム、フォークナーといった英米の著名な作家たちの名前が次々に目に飛び込んできた。とくに、「野郎どもと女たち」や「マンハッタン物語」などで知られるデーモン・ラニアンの名を目にした時は、あの折も石田翁はその作者の短編かなにかを訳している最中だったよなと、初対面の日のことを懐かしく想い出した。
  老翁がかつてこの部屋で暮らしていたことのいまひとつの証は、壁面に彫り描かれた奇妙な樹系図とグラフ、それに「TREES」というタイトルの一篇の英文詩であった。石田翁は、生前、日々の歩行数を万歩計でカウントし、それを距離に換算したデータをもとに、奇妙な樹系図を板壁に描き刻んでもいた。詳しい描画ルールの説明は省略するが、要するに、歩行距離がのびるにしたがい樹形図の枝が怪異な形をとりながら徐々に成長する仕組みで、いくつかのすでに伸び切った枝の先端には日本各地の都市名が表記されていたりもした。すでにかなりの大樹にまで成長を遂げていたその異様な樹系図は、不可思議な存在感をもって我々来客の目を奪ったものだった。しかし、もうその怪樹系図の枝もこれ以上成長することはなくなった。
  樹形図の上に横長に描かれた日付目盛入りの折れ線グラフは、石田翁の感情の起伏をもとにした一種のバイオリズムを図式化したもので、独特の色分けがなされており、怪樹の枝先との相乗効果によってなにやらミステリアスな雰囲気を室内に醸し出していた。初めての来訪者などが呆れ顔でその不可解な壁画作品に見入るのを、老翁はニヤニヤしながら横目で眺めたりしていたものだが、もうそれも過去の話になってしまったのだった。
  「TREES」という英詩は石田翁自身の作った詩であった。英語を自由自在に操ることのできた老翁は、何篇も英詩を書いていたようである。そのなかの一篇を黒のフェルトペンを用い、自ら樹系図の右下に書き記したのがこの詩「TREES」であった。生前の石田翁は草花や樹木をこよなく愛していた。「近頃のドラキュラは美女の生き血ではなく、若木の樹液を吸うようになったんですかね?」などと軽口を叩いたりすると、翁は「いや、近頃は僕のパサパサに乾いた血を若い樹木に吸い取ってもらうのが快感でね!」と切り返してきたものだ。
  老翁が樹木への深い思いを読み込んだその「TREES」の最後の二行に、この日私はあらためて見入った。これまではなにげなく読み通すだけで、その言わんとするところをあまり深く考えたりすることもなかったが、この時ばかりは妙にその結びの二行が胸に響いた。それは、「Even a fool like me can make a poem. But only God can make trees.」というものだった。
  ドラキュラを自称し、あの時の私がその餌食にされたように、行きずりの旅人を言葉巧みに誘い込み、毒舌のかぎりを尽くして翻弄し食い尽くすことを楽しみにしていたあの老翁が、遠くに超越者の存在を見据えていたことは、考えてみるとなんとも感慨深いことであった。
  ドラキュラ翁の崇める神がいかなる神であったのかは私にはわからない。ただ、それが、釈迦でもキリストでもアラーでも、そしてまた日本古来の神々でもなかったことだけは確かである。老翁に訊ねるすべのなくなったいまとなっては、その神はドラキュラ神とでも名づけるべき新種の超越者、あるいは超越概念であったと考えるしかない。
  最後に私は、いまもドアに「WORKS CREATIVE」の二語のしるされたままのトイレに入った。かつてその四面の壁を飾っていた数々の写真やポスター、絵葉書類などはみな剥ぎ取られ、糊の跡だけが痛々しく残されていたが、たった一枚だけそのままになっている写真があった。
  それは、どこなのか場所は定かではなかったが、広い砂丘のようなところを黒いサングラスをかけた大柄の老人が風のように駆け抜けている写真だった。半透明な影にも似たその奇妙な人物は多重写しになっていて、明瞭な輪郭を捉えたり確たる実体を把握したりすることは困難だったが、それにもかかわらず、言葉では形容しがたい独特の存在感がじわじわと写真の中から漂い出てくる感じだった。
  もちろん、その写真のモデルは石田翁その人にほかならなかったが、芸術性の高いこの一枚の写真ほどに往時の老翁の姿をよく伝えるものはないのではないかという気がしてならなかった。初めてこのトイレに入った日も、この写真を見て私は不思議な感動を覚えたものだが、この日もあらためてその映像にじっと見入る有様だった。
  私と同様に、旅先で偶然出逢った老翁の毒気の虜となった市川勝弘カメラマンは、やがて「えごのき」というタイトルの洒落た写真集を刊行する運びになった。その中に収録されている数々の写真の被写体はすべて石田翁とその身辺の事物にかぎられ、写真集の風変わりなタイトルからして邸内の一角に生える老翁寵愛のエゴノキにちなんだものだった。問題の写真はそれらの中の代表的な一枚で、市川さん自慢の作品でもあったというわけである。
  いまは、写真集「えごのき」が手元にもあり、気が向けばいつでもその写真を見ることはできるのであるが、感動の大きさということになると、この石田邸の「WORKS ・CREATIVEギャラリー」における鑑賞には及ぶべくもなかった。もしかしたらこの場所でこの写真を目にするのはこれが最後かもしれないと考えながら、私はおもむろにトイレの外に出た。これほどにトイレから出るのが心残りでならないことなど、自分の人生の中で後にも先にもこれが一度きりに違いないという思いだった。
  石田邸をあとにすると、裏の赤松林の中を走り抜け天満沢という蕎麦屋の前に出た。この老舗の蕎麦屋は老翁と初めて逢った日の夜に案内された想い出の店でもあった。だが、この日はたまたま休業だったので、結局、そこからしばらく走ったところにある上條という蕎麦屋に向かうことにした。この蕎麦屋は信州一帯の風物をテーマとした美しい写真で知られる地元の著名な写真家、上條光水さん経営のお店である。写真家としての上條さんには、信州在住の作家C.W.ニコルさんと共著で出版している「信州の四季」という作品集などもある。
  この蕎麦屋に私を案内し、そのついでに上條光水さんを紹介してくれたのもほかならぬ石田翁であった。こだわりの蕎麦職人を自負してやまない上條さんは、全身全霊を込めて日々蕎麦打ちの仕事に励む。自分で納得のいかない蕎麦はけっして出さないというだけのことはあって、細めの蕎麦だが、香りといい、味といい、腰の強さといい、まさに絶品そのものなのだ。
  明るく落ちついた雰囲気の店内に入り、がっしりした木製のテーブルに着くと、私はこの店おすすめの天恵蕎麦を注文した。この蕎麦を注文すると、冷たい真水に打ちたての蕎麦を少量浮かしただけの水蕎麦なるものが特別奉仕品として出されてくる。自然なままの蕎麦の味を客にも知ってもらいたいという上條さんの蕎麦哲学が、この水蕎麦にはさりげなく込められていると言ってよい。まずはその水蕎麦を味わい、そのあとで十種類ほどの具を盛った天恵蕎麦に箸をつけるわけなのだが、このれがまた実に美味いのだ。天の恵みとも言うべき地元産の新鮮な食材を巧みに調理した独特の具と、上條さん自慢の腰のある蕎麦とのコンビネーションが抜群なのである。
  店主の上條さんは奥のほうで懸命に蕎麦を打っている最中らしかったので、石田翁を偲びながら天恵蕎麦を賞味したあと、上條さんの素晴らしい風景写真作品が展示されている別棟のギャラリーを拝見し、そのまま静かに店をあとにした。考えてみると、この上條で老翁と蕎麦を食べたのはたった一度だけだったが、その時に注文したのもたしか天恵蕎麦だった。
  穂高の町を離れる前に久々に万水川の水面でも眺めておこうと思い立ち、上條をあとにするとすぐに大王ワサビ園方面へと向かった。観光シーズンをはずれているとあって大王ワサビ園一帯に人影はまばらで、万水川のほとりに佇む者など他には誰もいなかった。渇水期だったので水位はいつもの半分ほどしかなかったが、「万水」という名に恥じず、澄んだ水が淀みなく流れ、水中では鮮やかな色の緑の水草が下流方向に細紐のような葉を長々と伸ばしながら、ゆらりゆらりと揺れていた。
  私が佇む地点のすこし上流にある二基の水車は、相も変わらずゆっくりと回転を続けていたが、異界へと去っていった老翁がこの岸辺に立つことはもうなかった。いつの日のことかはわからないが、いずれは私もまたこの世界を去っていかなければならない。その日まで、さらにはその日ののちまで、黒澤映画「夢」のラストシーンに登場したこれら二基の水車は回り続けているのだろうか――そんなとりとめもない想いに駆られながら、私は万水川をあとにした。

「マセマティック放浪記」
2002年5月8日

旧友定塚さんの退職

  四月半ばのこと、北海道から宅急便がひとつ届いた。差し出し人欄に目をやると、そこには旧友定塚信男さんの名があった。何だろうと思いながらすぐに包みを解いてみると、「母・命」というメインタイトルに「五男・60年の軌跡」というサブタイトルのついた著書一冊と二枚のCDが中から出てきた。添付されていた手紙を読むまでもなく、その著書とCDが何を意味しているのかすぐにわかった。ひとかたならぬ感慨を胸中深くに覚えながら、「そうか、定塚さん、定年退職したんだな……」と私は思わず呟いていた。
  四十数年の長きにわたる定塚さんと私との風変わりな親交について語り尽くすのは容易でない。世の常識から見てなによりもまず変わっているのは、半世紀にも近い親交であるというのに、その間に直接に会ったのがせいぜい十回程度にすぎないということであろう。それにもかかわらず、「親友」などという言葉から想像される以上の心の通い合いが、我々二人の間にあったことだけは確かである。
 ――さて、私こと、この度三十七年間にわたる教職生活をこの三月三十一日をもって無事に終えることができました。これも一重に皆様方のお蔭と感謝致しております。これを契機に自分史と記念CDを作成致しましたので御笑納下さい――そう記された定塚さんの挨拶文に目を通す私の脳裏を、懐かしい想い出の数々が走馬灯のように次々とよぎっていった。
  六十年にわたる過去の記録を綴った自分史に「母・命」というタイトルをつけたからといって、定塚さんがマザコンだったわけではない。私の知るかぎり、若い頃から定塚さんは責任感と自立心が人一倍強く、まさに「男の中の男」という言葉がぴったりの人物であった。定塚さんが自分史にそのようなタイトルをつけたのは、それなりに理由があってのことだったのだ。
  終戦直後の昭和二十一年は国内に赤痢が蔓延した。そして、当時五歳だった定塚さんとその父親の外吉さんもその疫病に感染し、地元の病院に入院した。だが、特効薬の入手など不可能だった当時の事情にくわえ、治療にあたった老若二人の医師の間には療法について意見の相違が生じもし、事態は悪化の一途をたどった。長老の医師のほうは食事をとらせるべきでないと考え、若い医師のほうは体力の消耗を防ぐため食事は取らせるべきだと考えたようである。結局、老医師の方針が選ばれたのだそうであるが、外吉さんのほうはそれからまもなく亡くなってしまった。まだ幼かった定塚さんには、隣のお父さんの顔を覆う白布が何を意味しているのかさえ理解できなかったという。
  定塚さんのほうも食を断たれていたため、とにかく腹が減って腹が減ってどうにもならなかったとのことである。どうせ死ぬものなら空腹の吾が子にせめて何かを食べさせてやろうと決意した母親のとめさんは、夜中に医者の目を盗んで、食糧難の当時としては貴重な砂糖のかかった「澱粉かき」を与えたりした。とめさんの苦労の賜物であるその「澱粉かき」の味がいまも忘れられないと定塚さんは語っている。
  それからほどなく、医師から息子の死が近いとの宣告をうけたとめさんは、死が避けられないのなら自宅に連れて帰ろうと考えた。伝染病ということもあったので、夜こっそり貨物列車に乗せ、人目を忍んで定塚さんを家へと連れ戻ったのだという。帰宅後も下痢と栄養失調でぎりぎりのところまで体力を消耗したが、懸命の介抱が効を奏し、定塚さんは奇跡的に一命をとりとめた。
  また、高校三年の三月、大学を受験したあとの帰りの車中でお腹の調子が悪くなった。帰宅後はかなり熱も出て悪寒がしたので、湯タンポを入れて寝込んでいた。町医者を呼び、血沈を計測したり触診をしてもらったりしたが、それでも病名がわからず、その後もひたすら寝ているばかりだった。
  だが、母親ならではの直感で息子の様子が只事ではないと判断したとめさんは、日曜日であったにもかかわらず定塚さんを富良野市の大病院に連れていき、特別に診察を依頼した。当直は産婦人科医だったが、触診するとすぐに虫垂炎が悪化しており一刻を争う状況だと判断、緊急に外科医が呼ばれて手術がとりおこなわれた。患部が破裂寸前で、もうすこし対応が遅れたら落命するところだったという。手術の痕が化膿したたため、三日三晩高熱と痛みにうなされ一睡もできなかったそうだが、この時も母親とめさんの的確な判断が定塚さんの一命を救ったのだった。
  この世に生を授かったうえに、その後二度にわたって母親のとめさんに命を救われた定塚さんは、やがて、「自分の命は、母の命そのものだ」と考えるようになり、大学卒業後、天職ともいうべき教職に就くと、全身全霊を傾けて教育の仕事に尽くしてきた。昭和五十六年にとめさんが亡くなったあとも、母からもらった命は自分だけのものではないと自らを戒め、また、「命をかけて他人のために尽くせ」という父、外吉さんの残した教えを守りながら、次々に生じる仕事上の難事に挑み、それに伴う数々の困難に耐えてきた。
  三十七年間にわたる定塚さんの軌跡の全容をここで紹介することはできないが、教育者としてのその真摯な道程は唯々敬服に値する。定塚さんと出逢い、教育者としての並びなきその情熱に触れ、生きる勇気をもらったり、なにかと啓発されたりした教え子の数はすくなくないことだろう。
  ただ、すぐれた教育者の常として、それを支えた御家族、とくに奥様の苦労は並大抵のものではなかったに違いない。ギリシャ時代のソクラテスにみるまでもなく、古来、献身的な教育者というものは、物心両面で自分の家族にひとかたならぬ苦労をかけるものと相場がきまっているからだ。それでなくても、教師というものは、どんなに献身的に教育に尽くしてもそれは教育者として当然のことだとあしらわれ、少しでも軽率な行為や判断の誤りがあった場合には教育者のくせにと責められる。一口に三十七年間とはいうが、それは長いながい苦悩と葛藤の年月でもあったに違いない。
  母、とめさんが亡くなったあと、箪笥の中からは、小学校入学時から大学を卒業し教員生活を送るようになるまでに定塚さんがもらった各種成績表や賞状類などが見つかった。 とめさんが胸中に秘めつづけていた生前の自分への深い思いを想像したとき、定塚さんは、それらを何らかの形で表わし残すことが必要ではないかと考えるようになっていた。そして、この三月の退職を機に、自分史を編纂することによって、長年の懸案を実現しようと決意したのだった。見方によってはちょっと異様にもうつる「母・命」という風変わりなタイトルが選ばれたのは、定塚さん自身にそんな背景があったからだった。

  北海道南富良野村在住の定塚信男いう人物の存在を知ったのは、たしか小学館発行の雑誌の読者欄を通してのことだった。当時鹿児島県の離島の小学校に通っていた私は、どこか遠くの地方に住む人と文通をしたいと思い立ち、適当な相手を探しているところだった。東シナ海に浮かぶ孤島の磯辺で遠く遥かな本土の影に憧れる少年だった私にとって、文通こそは、時流とは無縁な僻地の小村と未知のドラマに溢れる広い世界とを繋ぐ最善かつ唯一の手段だと思われもしたものだ。そんな折、自校の校歌について述べた定塚さんの投稿記事がたまたま目にとまったのである。
  定塚さんのほうはべつに文通などを望んで投稿をしたわけではなかったのだが、自分よりも一学年うえのこの人のことが妙に気になった私は、たどたどしい文面と筆跡の手紙をもって一方的に文通を申し込んでみた。それが、以後四十数年にも及ぶ親交に発展しようなどとは、むろん、その時には想像もつかないことであった。私はけっして運命論者などではないのだが、人生にはまれに、誰かの手であらかじめ仕掛けられていたのではないかと思いたくなるほどに不思議な出逢いがあることだけは認めざるをえない。
  手紙を投函してから何週間かが過ぎ、やはり駄目だったのかと諦めかけた頃になって、ようやく北海道から一通の手紙が届いた。封筒裏の差し出し人名は「定塚信男」となっていた。内心小躍りしながら大急ぎで封を開くと、とても一歳違いの人が書いたものとは思われないほどに整った字体としっかりした文章の手紙があらわれた。手紙には、突然のことで驚いたけれど、文通の件は喜んで了承した旨のことが記され、そのほかに、定塚さんの家族についての簡単な紹介などがなされていた。
  あとになってわかったことだが、定塚さんもまた、その頃はまだ知る人のほとんどなかった富良野盆地の一隅にあって、広い世界を密かに夢見る少年だったのだ。奇妙な縁ではあったのだが、ともかくこうして、北の大地のなかほどと南のはての島に住む幼い少年二人の文通が始まったのだった。
  それからというもの、定塚さんと私との文通は連綿と続き、いつしか十五年を超える歳月が流れ去った。その間に起こったお互いの驚くほどの身辺の変化については、長年の手紙のやりとりを通して熟知していたが、直接に顔を合わせる機会は依然として一度もないままに時は過ぎていった。初めて手紙を交わしたときには幼い少年だった我々は、もう二十代半ば過ぎの青年へと変貌を遂げていた。すでに地元の北海道で中学教師になっていた定塚さんは、自ら志願して赴任した山間の一級僻地の学校で優れた若手教育者として数々の実践を積み、私はわたしで、かつては遠く無縁の存在にすぎなかった東京の地にあって、ささやかながらも専門研究の道を歩みはじめようとしていた。
  その年の五月のこと、長年の夢を実現する絶好の機会が訪れた。定塚さんが結婚するというのである。このチャンスを逃してはならないと思った私は、すぐに出立の準備を整え、結婚式出席のため急遽北海道へと旅立つことにした。かねてから北海道に渡ったあと最初に踏む土は定塚さんの故郷のそれにしようと決めていたから、函館や札幌などには目もくれず、ひたすら列車を乗り継いでまだ見ぬ友の待つ南富良野村幾寅駅へと直行した。
  列車が富良盆地に入ると、車窓左手に残雪を戴く雄大な十勝連峰の山並みが見えた。あれが十勝岳かと胸が熱くなるような深い感動を覚えたことをいまもはきりと想い出す。富良野市から少し南に下ったところにある南富良野の幾寅駅に降り立った私は、にこやかな微笑みのなかにも静かな緊張を秘めて駅頭に佇む北の友と、ついに念願の対面を果たすことができたのだった。時に昭和四十四年五月十日――初めて手紙を書いた日から数えてみると、実に十六年もの春秋がとどまるところなく廻り繰り返されていた。
  翌日の結婚式の際、司会者や主賓などがその挨拶の中で「じょうづかさん、じょうづかさん」と何回も繰り返すのを聞いても、それが誰のことなのかすぐにはピンとこなかった。お恥ずかしい話だが、私はそれまでの十六年間というもの、「定塚」という姓は「さだづか」と読むものとばかり思っていたので、「じょうづかさん」という名を耳にしても、しばらくはそれが定塚さんのことだとわからなかったのである。前日に定塚さんと対面した直後から、「さだづかさん」を連発していたはずなのだが、遠来の私の気持ちを配慮してのことだったのだろう、定塚さんもその周囲の人々も、なにげない顔をして私の呼び間違いを聞き流してくれていたのだった。

「マセマティック放浪記」
2002年5月15日

この写真の人物は?

  定塚さんの六十年の軌跡を辿るに先立って、添付されていた私信に目を通していると、最後のほうに――自分史には断りもせず、写真と文章、短歌を勝手に載せさせていただきました。お許し下さい――と書かれていた。たぶん、事前に通告すると私のほうが尻込みしてしまいかねないと考えたのだろう、定塚さんは事後承諾を求める手にでたのだった。
  エッ、そんな?――と思いながら慌ててパラパラとページをめくってみると、なるほど、あちこちに「本田君」という名前が登場しているではないか。あれあれと思いながら、定塚さんが二十七歳だった頃の足跡を記したページを開いた私は、しばし絶句したまま二枚の写真とその脇の一文に見入った。
  ――結婚式には本田君が東京から来てくれ、非常に感激した。実際の面会はこの時が初めてあったが、幾寅駅で一見してすぐ本田君と認識できた。この日(十日)は、新居となる公営住宅にて二人で寝食を共にし、これまでの話に花が咲いた。十一日の午前中は、車で新得の花見に行ってきた――
  そう言えば、定塚さんは結婚式当日だというのに、そ日の午前中に自ら車のハンドルを握って、狩勝峠やさらにそのむこう側にある新得まで私を案内してくれた。結婚式の本番を午後に控えなにかと準備もあるだろうにと、こちらは気が気でなかったのだが、なにも心配することはないからと言って、定塚さんは私のために貴重な時間を割いてくれたのだった。
  定塚さんの文章そのものはなんとも感慨深いものだったが、問題はその左手にある二枚の写真のほうだった。なんと、一枚の写真にうつる詰襟学生服姿の人物は十八歳の時の私自身にほかならなかった。しかも、「大学受験時の本田成親君」と説明文まで付記されている。大学受験時に撮った入試願書用写真を当時定塚さんに送っていたらしいのだが、そんな写真などもう私の手元には残っていない。なんでまた今ごろこんな写真をと内心赤面する思いに駆られながらも、私は、別人とも見える若々しいその過去の幻影をしばらく凝視し続けた。いかにも純真そうなその細面の姿には、中年暴走族を自称するいまの私のふてぶてしさなど微塵も感じられないのだった。
  もう一枚の写真には「結婚式当日、本田君と(新得山)」という説明がついていた。桜の木と車をバックにして二人並んで撮った写真だが、定塚さんも私も理想に燃える青年期の真っ盛りという感じで、理想の燃え滓を燻らせて生きるいまとなっては、これまた気恥ずかしいことこのうえなかった。せめてもの救いは、これらの写真を目にするであろうのが定塚さん側の関係者に限られるであろうことだった。
  最近結婚したばかりの娘がたまたま家に戻ってきていて、私の脇から問題の写真を覗き込みながらチャチャを入れてきた。
「へーっ、誰かと思ったら、これがねぇ……、いまよりずっとリコウそうじゃん!」
「そんじゃ、いまはアホかよ?」
「まあ、ホアくらいのところにしておくかな……」
「なんだそりゃ……じゃ、おまえはホアの娘だから、やっぱりアホだよな!」
「ドの字がつかないだけでも私に感謝しないといけないじゃない?」
「ドの字があと三つくらいはつかんと親としては納得がいかんぞ!」
  思いもかけぬ写真の登場に半ばうろたえながら、私は娘としばしそんなたわいもない言葉の応酬を繰り返す有様だった。
  定塚さんの自分史のさらにあとのほうには、以前に北海道を旅したとき下手な字で書き贈った短歌四首のコピーのほか、拙著、「星闇の旅路」(自由国民社)の中の「富良野の友」と「変貌していた富良野」いう文章までが収録されていた。定塚さんと私との出逢いの時から現在に至るまでの二人の軌跡を手短かにまとめた作品で、友の退職を記念する自分史の中に紹介されるほど出来のよいしろものではなかったが、こちらの事後承諾を前提とした旧友の仕儀ということになるとやむをえないことではあった。

  はじめ英語の教師として教壇に立つことの多かった定塚さんは、やがて音楽、なかでも声楽の道に目覚め、ひとかたならぬ研鑽を積んだ末に、音楽の教師として全道に広く知られる存在となっていった。そして、1984年の旭川混成合唱団のカナダ演奏旅行を皮切りに、1987年の旭川市民合唱団ヨーロッパ演奏旅行、1990年のソ連・東欧演奏旅行、1993年の日米合唱交流使節団(北海道民合唱団)のアメリカ演奏旅行、1996年のトゥイマーダ旭川男声合唱団ハバロフスク演奏旅行、2001年の日本・イタリア合唱交流使節団イタリア演奏旅行と、数々の合唱団海外公演の実現に尽力する。
  なかでもソ連・東欧公演、アメリカ公演、ハバロフスク公演などにおいては合唱団の指導者としばかりでなく事務局長としても辣腕を揮い、とくにアメリカ演奏旅行においては、国連本部での公演をはじめとするアメリカ各地での数々の公演を大成功に導いた。それらについての克明な活動記録なども定塚さんの自分史に収められていたが、あらためてその足跡の大きさに心うたれる思いでもあった。
  それらの記録に目を通すうちに、私は、日米合唱交流使節団アメリカ派遣の前年の秋、東京渋谷のあるお店で、声楽の指導者として世界的に高名なロシアのイエルマコーバ女史を囲み、定塚さんや、やはり北海道の著名な音楽家万城目さんなどとなごやかに歓談したときのことを想い出した。その席で久々に対面した定塚さんは、ずいぶんとその言動に貫禄がつき、それに比例するかのように肉付きも口の悪さも相当なものになっていた。
  だが、たゆまぬ努力の結果として、広い世界を駆けめぐるという少年の頃からの夢を果たし、さらにはその夢をより大きく実りあるものに育てて若い世代に伝え託そうと尽力する姿に、私は内心すくなからぬ敬意を覚えたものだった。「超規格外の少年」になり果ててはいても、定塚さんの心の本質そのものは、我々が少年であった頃とすこしも変わることなく純粋であり真摯であることを知って、私は心底嬉しかったものである。
  肉付きと貫禄では定塚さんに何歩も譲りはするものの、私もまた自らの毒舌にはずいぶんと磨きをかけ、内向的で赤面症の傾向があった幼い日の姿から大きく脱皮することができた。脱皮し過ぎて周辺の人々に思わぬ迷惑をかけているのではないかと反省もしている昨今だが、一方向にしか時間の流れないこの人生においては、脱ぎ捨てた殻を探し出し纏いなおすことなどいまさらできるはずもない。
  定塚さんとは選んだ道も方法もまるで異なりはしたが、私のほうは私なりのやりかたで、かつて離島の磯辺で遠く夢見た世界の一部くらいは現実のものとして自らの足で踏みしめることができるようになった。ささやかではあるが、私たち二人は、ともかくも、少年の頃に抱いたひそやかな想いのいくらかを果たすことだけはできた。紆余曲折はあったにしても、夢を夢のままで終わらせなかったという意味においては、お互い恵まれていたと言ってもよいだろう。
  自分史とともに贈られた二枚のCDの一枚は、教職退職記念として特別に作成された「定塚信男歌曲集」であった。シューマンやシューベルとの歌曲を高らかに原語で歌いあげるバリトンの声にうっとりとしながら、私はさらに定塚さんの教育者としての足跡を追い続けた。自分史の中には教育者として関わってきた生徒たちの深い想いのこもる手記の数々や、それに対する定塚さんの感想なども収録されていて、興味深くもあり、また感慨深くもあった。そしてまた、さらにいまひとつ、定塚さんのすぐれた教育者としての一面を窺い知ることのできる資料を、私はその克明な自分史の中に見出すことができたのだった。

「マセマティック放浪記」
2002年5月22日

卒業生に賢治の詩を贈った友

  定塚さんは毎年一篇の詩を選び出し、それを送辞の代わりとして卒業生たちに贈っていたのだった。国内外の高名な詩人たちの名詩ばかりで、しかも、我々おとなたちにとってさえもその含意を汲みとることは容易ではなさそうな詩ぞろいであったが、定塚さんは難しいことを百も承知で、学窓を巣立つ生徒たちにそれらの詩を贈っていたようなのである。
  たとえば、フリードリッヒ・シラーの「希望」、河井酔茗の「ゆずり葉」、宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」、ハイネの「人生航路」、ボードレールの「異邦人」、石川啄木の「飛行機」、ゲーテの「別離」と、ちょっと並べてみただけでもかなり奥が深くて難しい詩ばかりであったが、たぶん定塚さんは独自のやりかたでその内容をできるだけほぐし、巣立ちゆく生徒たちにそれらの素晴らしさを伝えようと努力していたのだろう。そこには、常々、自分の教え子たちを未熟な中学生とみなすのではなく、独立した人格をもつ立派なおとなとして認めようとしてきた定塚さんの確固たる教育姿勢が偲ばれるのだ。
  いますぐにそれらの詩のすべてがわからなくてもいい、先々の人生のどこかにおいてそのような詩があったということを誰かひとりでもよいから想い出してくれさえすればいい、そして、必要ならそれらを心の糧にしてほしい――おそらく、定塚さんの胸中深くには、巣立ち行く教え子たちに対するそんな切なる願いなども込められていたに違いない。
  もちろん、定塚さんが、高名な詩人の作詞になるシューマンやシューベルトの歌曲を長年歌い続けてきたという背景はあるだろう。だが、たとえそうだとしても、いまどき中学生にそのような詩を真剣な気持ちで贈ろうとする教師がいったいどれだけいるだろう。また、そういった一教師の教育に対する熱意を評価する大人たちがいったいどれほど存在することだろう。
  口々に世の不景気を嘆きはしても、魂のこもった一連の言葉が未来の世界に対してもつ重要性など、我が国の大人たちのほとんどはもはや意に介してなどいないことだろう。中学生や高校生の国語力をはじめとする学力の低下が危惧されているが、それはひとえに大人たちの責任なのであって、けっして子どもたちに責任があるわけではない。重々しいその口調と身振りにもかかわらず、命の鼓動の伴わぬ言葉しか吐くことのないどこかの国の政治家などは、小さな泉でもかまわないから、清冽な命の言葉の湧き出でる真の泉をもう一度探しなおしてほしいものだ。
  いまこの国に重要なのは「米百俵の精神」そのものよりも「米百俵の精神」を生み出すことのできる根源的な土壌の育成のほうであり、ベストセラーを狙った数々の日本語ブームの書籍そのものよりも、創造的で感性豊かな日本語を生み出す社会環境や生活環境のほうなのである。名プレイヤーの個性的な運動フォームを真似することはできたとしても、そのような見事なフォームを生み出せる筋力や反射神経、バランス感覚などを身につけるのは容易でない。そういったものは、ほどよい精神的な感動や緊張感、さらには数々の身体的なリスクや生活実感が自然なかたちで混在する環境の中で、それなりの長い時間をかけて徐々に形成されるものだからである。
 
  せっかくだから、定塚さんが卒業生に贈った詩のひとつ、宮沢賢治作の「生徒諸君に寄せる」をここに紹介しておこうとおもう。すでにご存知の方も多かろうが、そのいっぽうで、初めてこの詩を目にし、心洗われる思いでその一行一句に魅せられる人もまたすくなくないことだろう。偉大な教育者でもあった詩人宮沢賢治の時代を超える洞察力と、この詩を選び出した定塚さんの的確な選択眼とにあらためて私は敬服するばかりである。
  なお、「生徒諸君に寄せる」というこの詩は、もともと全体として未整理かつ未完成のままで宮沢賢治の詩作ノートの末尾に残されていたものである。以下には定塚さんが卒業生に贈ったものをそのまま転載しておくが、推敲段階の詩文を含む詩作ノート記載の原文はこれよりかなり長く、各部の構成と配列もいくぶん異なったものになっていることをお断りしておきたい。また、原詩では旧かな遣い表記だったものが現代かな遣いに改められており、もとは漢字表記だった部分が一部かな表記に変えらえてもいる。たぶん定塚さんが資料として用いた書籍の執筆者か賢治の詩を専門とする研究者か編集者が、詩としてのかたちを整え一般にも読みやすくするためにそのように編集しなおしたものであろう。
  賢治の詩には完成されたかたちで残されたもののなかにも難解なものがかなりあり、詩文中に用いられている漢字や梵語、特殊用語などをどう読みどう解すべきかについて、その道の専門家でさえも戸惑うところがすくなくない。地質学の専門家で博覧強記そのものだった賢治は、法華経をはじめとする諸仏典や東西の様々な哲学思想、さらにはその時代の先端科学の世界に深く通じており、それら該博な知識を自在に駆使しながら膨大な詩作に没頭していた。死後に世に出たもののほうが多いから、不明の点も多いのだ。

  生徒諸君に寄せる  <宮沢賢治>

 この四ケ年が
 わたくしにはどんなに楽しかったか
 わたくしは毎日を
 鳥のように教室でうたってくらした
 誓っていうが
 わたくしはこの仕事で
 疲れをおぼえたことはない

 諸君よ紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
 諸君はそのなかに没することを欲するか
 じつに諸君はその地平における
 あらゆる形の山岳でなければならぬ

 諸君はこの颯爽(さっそう)たる
 諸君の未来圏から吹いてくる
 透明な清潔な風を感じないのか

 それは一つの送られた光線であり
 決せられた南の風である
 諸君はその時代に強いられ率いられて
 奴隷のように忍従することを欲するか
 むしろ諸君よさらにあらたな正しい世界をつくれ
 宇宙は絶えずわれらによって変化する
 潮汐や風
 あらゆる自然の力を用いつくすことから一足進んで
 諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ
 新しい時代のコペルニクスよ
 あまりに重苦しい重力の法則から
 この銀河系を解き放て
 新たな時代のマルクスよ
 これらの盲目な衝動から動く世界を
 すばらしく美しい構成に変えよ

 新しい時代のダーウィンよ
 さらに東洋風静観のチャレンジャーにのって
 銀河系空間の外にも至って
 さらに透明に深く正しい地史と
 増訂された生物学をわれらに示せ
 衝動のようにさえ行なわれる
 すべての農業労働を
 冷たく透明な解析によって
 その藍いろの影といっしょに
 舞踊の範囲に高めよ

 新たな詩人よ
 雲から光から嵐から
 新たな透明なエネルギーをえて
 人と地球にとるべき形を暗示せよ

  ちなみに述べておくと、チャレンジャー(原詩ではキャレンジャーとなっている)とは、一八七二年から一八七六年にかけて太平洋各地や大西洋の南半球部分で学術調査を行なったイギリスの海洋調査船のことである。海洋最深部のある北太平洋のチャレンジャー海淵は、この調査船にちなんでその名がつけられた。ずっとのちに米国で打ち上げられたスペースシャトルがチャレンジャーと命名されたことは、予言者としての賢治像さえも彷彿とさせるほどに因縁めいていてなんとも興味深いかぎりである。
  定塚さんの自分史の最終ページには、最後の職場になった旭川市立神居古潭中学校の学校通信「古潭だより」の一文が転載されており、その文章は「教えることは学ぶことであると、私は遅まきながら実感している」という言葉で結ばれている。教育界では昔から幾度となく口にされてきた言葉ではあるけれども、長年にわたって生徒たちと真剣勝負を続けてきた定塚さんがしみじみと語るその言葉には、けっして借り物などではない重々しさが感じられてならないのだった。
  また、かねがね、私自身も、「教え育てる」という他律性の強い響きをもつ「教育」という言葉よりは、「自ら学び育つ」という自律的な色合いの濃い「学育」という言葉のほうにより好感を抱いてきたので、定塚さんの想いには心底共感することができた。
  巻末には、自らの恥を忍んで公開に踏み切ったという小、中、高時代の全成績表や詳細な生活記録などのコピーも添付されていたが、そういった定塚さんの型破りな行為などにも私は大いに好感をもつことができた。同僚や多くの友人知人、さらにはかつての教え子たちが早晩それらを目にするだろうことを百も承知で、定塚さんは正直に昔の自分の姿をさらけだして見せたのだ。誰にでも学業成績の善し悪しはあり、さまざまな社会的行動面での得手不得手は存在する。教師はもともと万能人間ではありえないし、またそうである必要もないことを、定塚さんはあえて示したかったのであろう。
  自分史の「あとがき」の最後にある「これからの人生も迷いながらのものだとは思いますが、自分なりに精一杯生きていくことをここに誓って結びといたします」という言葉を読みながら、「定塚さん三十七年間ほんとうにご苦労様でした」と私は心の中で呟いていた。
 そして、そう呟く私のかたわらのCDプレイヤーからは、かつて定塚さんが指揮した旭川市立中学校マンドリン部の奏でる曲が、まるでその退職を悲しみ惜しむかのように甘く切なく流れ出ていた。

「マセマティック放浪記」
2002年5月29日

仕事場はドトール?

 「原稿を書くのはもっぱらご自宅ですか?」と人から訊ねられたときなどは、「いいえ、車の中や街中のカフェなどで仕事をすることが多いです」と答えることにしている。相手は半分冗談だと思うらしいのだが、けっしてその言葉に偽りがあるわけではない。車で取材をかねた長旅に出かけ何千キロも走りまわっているときなどは、愛車というより哀車といったほうがよいかもしれないトヨタ・ライトエースの中で長時間パソコンを叩く。パソコン内蔵のバッテリーだけでは一定時間以上の作業は不可能だから、車の電源の十二V直流を百Vの交流に変換するコンバータを積んでもある。
  旅に出ていない場合には、近くのカフェ、たとえば京王線府中駅構内の啓文堂書店脇にあるドトールなどを利用することがすくなくない。もちろん、夜遅い時間帯や、大量かつ詳細な資料をあれこれと調べたりしながら原稿を書かなければならない場合はべつである。そんなときには自宅の書斎やあちこちの図書館などを利用するが、そうでないときは、このところ、しょっちゅうドトールに出かけている。このお店は軽い食事もとれて便利だし、お客に対する配慮もこまやかで、料金も安くサービスもなかなかよい。すぐそばに書店があるから、ちょっとした事柄を調べたりしたいきには、一時的に席を立って関連書籍を立ち読みしたりすることもできる。客の出入りの激しいカフェなどは、人の観察をするのにも都合がよい。物書きにとって人間の観察は欠かせないことのひとつだからだ。
  書斎で仕事をすると言えば聞えはよいが、一日中家の書斎にこもって仕事ばかりしていたら、身体によいわけがない。原稿を書くという作業にはそれなりのストレスがつきものなので、適度の運動や気分転換は絶対に欠かせない。パソコンや必要資料をナップサックに詰め込んで背負い、散歩をかねて外出すれば、それなりに運動にもなって体調を整えることができるし、精神衛生上からしても、外気に触れながら四季折々の風物を気の向くままに楽しむのはけっして悪いことではない。
  自宅から駅周辺まで出向くときには、よほどでないかぎり自転車には乗らない。それが習慣になってしまっているから、急ぎの場合などに駅まで自転車に乗って出かけたりすると、帰りには自転車のことなどすっかり忘れてしまう。家に戻ってから、家族のヒンシュクを買うことはもちろんだが、そんな時には、「駐輪場の自転車のことを忘れないで、ちゃんと乗って帰るようになったら、足腰が弱った証拠だぞ。自転車を忘れるってことは、なによりも元気な証拠なんだから!」と屁理屈を並べて開き直ることにしている。
  そんなわけだから、近所に住む人々の中には、私が自転車に乗れないものだと思っている者もあるようなのだ。たまに私が自転車に乗っている姿を見かけたりすると、怪訝そうな顔をする人があるのはたぶんそのせいなのだろう。若い頃から運動神経には自信があったから、実際にはちょっとした自転車の曲乗りくらいはいまでも十分できるのだが、仕事柄もあってか世間の人はそんなふうには見てくれないようである。
  カフェや車中などでよく原稿を書くと言うと、次にはきまって「そんなところでよく仕事ができますねえ。うるさかったり、落ち着かなかったりしませんか?」と訊ねられる。実を言うと、どんな環境下にあっても集中力を失わず仕事に専念できるのは私の特技のひとつである。たとえガンガンと音楽が鳴り響いていたりしても、客の出入りが頻繁で人々の話し声が絶えなかったとしても、すこしも気になったりはしない。またそれとは逆に、周辺が真っ暗で物音ひとつしない真夜中の深山や、寂しく荒涼とした原野のようなところでも、精神を集中し平気で仕事に向かうことができる。
  日々の生活に追われながら学ばねばならなかった若い時代に、やむなくして、どんな悪環境の中でも本を読んだりノートをとったり深い思索に耽ったりするすべを身につけてしまったから、お茶を飲みながら街中の賑やかなカフェで長時間仕事をすることなどヘッチャラなのだ。そんな仕事ぶりを知った友人や知人たちからも呆れられたりはするが、昔の厳しかった状況に較べれば天国みたいなものなので、本人はいたって平気なのである。知人の劇作家の大御所、別役実さんなどもやはり喫茶店を日常的に仕事場にしておられるようだし、明かにプロの書き手と思われる人物がカフェで仕事をしている姿などもよく見かけるから、実際にはそんなに珍しいことではないのではなかろうか。
  常々拙稿を読んでくださっている読者の皆さんには申し訳ないが、そのようなわけだから、このところ発表しているエッセイ類のほとんどは「ドトール謹製」、あるいは「トヨタ・ライトエース謹製」ということになる。どうせなら「帝国ホテル謹製」とか「ロールスロイス謹製」といったような一流ブランド製のほうが望ましいのかもしれないが、そういった作品のほうはいまをときめく超一流作家連のほうにお任せするしかないだろう。そもそも、私のような無能な作家が「帝国ホテル謹製」や「ロールスロイス謹製」にこだわろうとしたら、たちまち財政的に破綻をきたしてしまうに違いない。
  また、かりに「帝国ホテル謹製」や「ロールスロイス謹製」の原稿を書く環境が整ったとしても、かねがね高級ブランドの世界に関心のない私などは、分不相応な美食や身に余る豪華な部屋をもてあまし、文章を綴るどころではなくなってしまうことだろう。人間というものは、かねがね慣れていないことをしたりするとロクなことはない。コーヒーや紅茶一杯で長時間ねばって周囲から奇異の眼で見られようと、「ドトール謹製」のエッセイ執筆に徹するのが性分に合っているし、いい歳をして車の中で仕事なんかと笑われようと、「トヨタ・ライトエース謹製」の紀行文執筆に専念するほうがこの身にはふさわしい。
  さらにまた、帝国ホテルのような一流ホテルの洗練されたホテルマンに気遣いながら、華麗な人々の集う世界について筆をとるより、ドトールのような街のカフェで若くていきのよい学生バイトやフリーターの店員らと言葉を交わしながら、庶民のおりなす世界についての執筆に精を出すほうが気分がよい。高級車に乗って完全舗装道路の走る人工美の世界に感嘆しつつ文章を綴るより、傷だらけのRV車に乗って悪路や隘路の続く大自然の中をめぐり、その苦労のほどや感動の深さを記述するほうが私には合っている。むろん、人にはそれぞれの好みや信条があるわけだから、まったく逆の立場をとる人々も多いことだろうし、また、それはそれで結構なことである。
  豊かさに無縁な人間の偏見と言われればそうかもしれないのだが、たとえ偏っていたとしても、そういう視点と視線を通してしか見えない世界が存在することも確かである。そしてまた、そんな世界を描き出した拙い文章を読んでくれる人々がいくらかは存在するのも確かなことのようである。
  つい先日のことだが、ドトールで隣り合わせた人が手にする数枚の文章コピーに何気なく目をやった。ところが驚いたことには、なんと、それは永井明さんのメディカル漂流記と私のマセマティック放浪記のコピーだったのだ!――「その文章のライターは……」などと隣から声をかけるのはヤボもいいところなので、素知らぬ顔でパソコンに向かい続けていたのだが、内心嬉しいような恥ずかしいようななんとも複雑な気分ではあった。

「マセマティック放浪記」
2002年6月19日

「図説・創造の魔術師たち」
復刊裏話

  今年の三月頃のこと、「メディカル漂流記」の筆者、永井明さんから、工学図書という理系書籍専門の出版社に親しい編集者がいるので一度会ってもらえないかというメールが届いた。ほかならぬ永井さんからの依頼ということで、すぐに了承した旨の返信を送った。それからしばらくしてわざわざ府中まで訪ねてきてくれたのが、工学図書の編集者倉澤哲哉さんだった。一見しただけで信頼に値する人物だと感じたので、すぐにこちらもありのままの姿をさらけだし、しばしあれこれと話し込んだ。
  倉澤さんから伺ったところでは、作家としてデビューなさるすこし前のこと、永井さんは自ら経営者となり小さな出版社を立ち上げようとなさったことがあったらしい。ほどなくして、永井さんの資質が、医師や小出版社の経営者などよりも作家業のほうに適しているらしいと判明すると、永井社長とバイト社員二人だけのその会社はたちまち消滅してしまったのだそうだ。まだ早稲田の学生だった頃、その出版社のバイト従業員のひとりを務めていたのがほかならぬ倉澤さんだったというわけである。去る五月十五日に掲載された永井さんの「ダッカからハルビンから」の中に登場していたKさんとは、この倉澤さんのことにほかならない。
  そんな初対面の席で、私は倉澤さんからなにかしら数学がらみの本でも執筆してもらえないかという話をもちかけられた。ある時期を境にして、数学をはじめとする数理科学関係の原稿執筆から意図的に遠ざかりつつある私は、もう、専門書、あるいはそれに近い数理科学系の本を書くのは気のりがしないと倉澤さんに伝えた。そしてまた、現在手がけている他の仕事との関係もあるので、かりに筆を執るにしても、数理科学系の根底的問題を極力日常的な文章のなかに取り込んだ一般読者向けの原稿にかぎられるだろうとも付け加えた。
  すると、倉澤さんは、常々私の「マセマティック放浪記」などに目を通すなかで、おおかたそうだろうということは推測がついていたので、べつにそのような原稿でもかまわないと、いっこうに引き下ってくれるけはいがない。だんだんと外堀を埋められていくそんな情況のなかで、その場しのぎのために取り出したのが一冊の翻訳本だった。もしかしたらこんなこともあろうかと、あらかじめ用意だけはしてきてあったのだ。
  私は倉澤さんに「これはちょっとした奇書なんですが、工学図書さんはこんな本の復刻出版なんかには関心はおありでないでしょうね?」と言いながら、その翻訳書を差し出した。「VICTORIAN INVENTIONS―19世紀の発明家たち」というタイトルのその本は、私の翻訳で1977年にシグマ社というところから出版されたものだった。A4変形版200ページ弱、単価1800円の大型図版本で、刊行当時は各種新聞や週刊誌などの書評でも大きく取り上げられ、書籍マニアのあいだではちょっとした評判にもなった。
  作家の荒俣宏さんからは奇書五十選のなかにリストアップもしてもらった。当時の国立科学博物館の工学部長青木国夫さんからは、「翻訳の世界」という雑誌の書評の中で、「原著の内容からして翻訳には多くの困難がともなっただろうにもかかわらず、翻訳も優れており、科学史の研究資料として我々研究者にもおおいに役に立つ」という、身に余るような評価を賜わったりもした。また、同書の紙面の六割がたを占める銅版画や精密木版画の創造のロマンに満ちた挿絵の数々は、美術デザイン関係者のあいだでも大好評を博した。同書中の挿絵二、三点をもとに制作し、都内の一部の駅などにはりだした宣伝用ポスターは、知らぬ間に次々に剥がされ、持ち去られたりもした。
  同書の刊行当時、日本テレビなどはこの本の中で紹介されているいくつかの奇想天外な発明品などを復元し、それをネタに番組をつくったりもしていたようである。また、何枚かの挿絵は、いくらかデフォルメしたうえで、様々な催し物の宣伝ポスターの図柄や各種商業広告のデザインなどにも用いられた。なかには無断使用のされたケースもかなりあったようである。昨年の夏には、フジテレビ系の納涼発明大学という土曜の昼間の五分間番組で、同書の絵にアニメーション風の動きをつけたものが毎週放映されたりもした。「山井教雄さんのアニメに仰天!」(2000年1月19日付けの小生のバックナンバー参照)という拙稿の中で取り上げたタイプライターの図版とその解説記事もこの本に収録されているものだ。
  こんなことを書くと、さぞかし売れたのであろうと想像なさるかたも多かろうが、実際のところはそうではなかった。その興味深い内容にもかかわらず、出版時のいろいろな事情から、この本は不遇な運命を辿らざるをえなかったからである。シグマという小さな会社社長の半ば個人的な趣味で委託された仕事だったうえに、もともと書籍会社ではないこの会社は、刊行書を販売ルートにのせるのに必要な出版コードを所有していなかった。だから、せっかく本はできもそれらを全国の書店に流通させる手段をもっていなかったし、むろん新聞や雑誌などに広告をうてるだけの資力もなかった。
  そのため、社員が本業のかたらわ各地の本屋を一軒一軒まわっては、現物を持ち込んで販売を委託し、代金の回収にも出向くというありさまだった。だから、都内の一部の大書店筋に出回るのが精一杯というところであった。そんな状況だったから、入ってくる印税のほうも翻訳に費やした時間にはとても見合わぬ程度のものにすぎなかったが、それでもいくらかは売れ、書評などに取り上げられたぶんましではあったかもしれない。むろん、シグマ社が長期にわたってそんな不安定な出版業務を続けることは難しく、いつしかその本は絶版となり、入手不可能になってしまった。
  それから15年後の1992年、JICC出版(現在の宝島社)の佐藤信弘さん(「田舎暮らしの本」の現編集長)のはからいで、同書は「図説・発明狂の時代」とタイトルを改め、装丁を一新したうえで同社から復刊された。この版には荒俣宏さんの推奨文の記された帯までがついていた。しかしながら、ここでもまたいくつかの不運が重なった。復刊書であったため、書評などに取り上げてもらうのが難しく、しかもJICC出版の本としては異例のA4変形版という大型本であったため、売り場スペースの関係で本屋の店頭に長期的に置いてもらうことは難しかった。また、美術書とも科学書とも大人向けの絵本ともつかぬ奇書であるため、どのジャンルに分類したものか書店側も対応に頭を悩ましたりもしたらしい。
  まだインターネットによる書籍情報検索やインターネット書籍販売などという便利な手段のない時代のことだったから、とくに宣伝も販売促進もなされていない本を買ってもらうということは容易なことではないようだった。それでも幸い一刷り分は完売したのだが、二刷りにとなりかけたところでまた不測の事態が発生した。JICC出版が翌年に宝島社と社名変更になったのにともない、奥付や表紙の表記と装丁の変更が必要になったのだが、そうするには新たに手間も費用もずいぶんとかかるから再版は難しいということになった。かくしてまた同書は廃版のやむなきにいたったのである。突然その旨の通知がJICC出版から届き、慌てて何部かを入手しようと先方に連絡を入れたのだが、そのときには既に在庫切れになっており、結局、私の手元にはJICC版「図説・発明狂の時代」は初版が一部しか残らなかった。
  その時からさらに十年の歳月が流れ去ったが、その間にも、その本の存在を知る一部メディア関係者や美大関係者、さらには科学史の研究者などから絶版なのかどうかの問合せがあったりもした。ものがものだっただけにその翻訳にはずいぶんと苦労したから、私自身も同書にはひとかたならぬ愛着があった。だから、廃版になってからも、またいつかどこの出版社から復刻版を出してもらえないものかという思いだけはあったのだ。
  最近はスキャナーの性能も飛躍的に向上していることだから、原版が廃棄されていても、保存状態のよい本さえあれば、それをもとに、そんなに経費もかけず復刊が可能なのではないかという気もしていた。また、インターネット時代の到来のおかげで、いまなら、小出版社であっても同書の概要を広く紹介しその面白さを皆に知ってもらうことができるから、ビジネスとしても十分成り立つのではないかと考えはじめてもいた。そんなところに、たまたま工学図書の倉澤さんが現れたというわけだった。
  幸い話のほうは想像していた以上に順調に進み、なるべく早い時期に工学図書が同書を復刊してくれるということになった。版権再取得の問題は、工学図書の笠原隆社長が長年講談社で海外書籍部門の総括責任者を務めておられたこともあって、比較的スムーズに解決をみた。私の役割である一部文章の手直しや補足のほうも遅滞なく完了した。復刻版の新たな書名を一日か二日のうちに考えてくれと依頼されたときはさすがに少々焦ったが、なんとか期限内に「図説・創造の魔術師たち」というタイトルをひねりだすこともできた。
  そんな状況のなかで想いのほか苦労したのが、解体して復刊作業に使うための原本の調達であった。私の手元にシグマ版の初版本とJICC版の初版本とが一部ずつ残されていたが、いまとなっては掛け替えのない本なのでそれらを潰すわけにもいかない。そこで、友人に頼み込んで以前贈呈しておいたシグマ版の何刷り本かを返してもらい、印刷所に持ち込んでみたのだが、あちこちに不鮮明な部分が生じたりし、いまひとつ仕上がりの状態はよくないということだった。
  なるべくなら保存状態のよいシグマ版の初版本をどこからか入手できないかということになり、工学図書では各種ネットワークを駆使して全国各地の古書店を調べてみた。だが、青森の古書店でようやくJICC版が一冊見つかっただけで、シグマ版を探し出すことはできなかった。とりあえず大急ぎでそのJICC版を青森から取り寄せたのだそうだが、値段のほうも五千円以上したらしい。また、イターネットのフリーマーケットオークション「楽天」において三刷りのシグマ版が一万円余の値段で売られているのを見つけ、すぐに購入しようと試みたが、ちょっとの時間の差で先客に買い取られてしまったということだった。
  三刷り版でもそんなにするのなら、シグマ版が刊行された当時に初版本を百冊ほど買い込んでおき、いまになってから楽天にでも売りに出せばよかったかなどと姑息なことを考えてみたりもしたが、すべてはあとの祭りである。こうなったら、わずか一冊だけ手元に残った、しかも状態が万全とは言い難いシグマ版初版を生贄に差し出すしかないかと考えはじめたとき、突然思い浮かんだのが旧友の評論家芹沢俊介さんだった。
  芹沢さんのところにはシグマ版初版の贈呈本が一冊あるはずである。すぐに電話をかけて確認してもらうと、たしかにあるという。保存状態もよいということなので、事情を話して泣きつき、大至急私のところへその初版本を送り届けてもらうことにした。芹沢さんには復刊版ができたら真っ先に届けるからと約束したが、楽天では三刷り版でも一万円以上しているらしいとは話さないでおいた。その初版本をもとにした復刊作業の結果は上々で、まさに、神様、仏様、芹沢様となったようなわけであった。今月初旬にタイトルと装丁を一新した「図説・創造の魔術師たち」のサンプル本が届けられたが、旧原版なしでの復刊書とはおもわれないほどに素晴らしい本に仕上がっていた。
  ところで、話がそこまでで終われば文字通りハッピーエンドというわけだったのだが、どうやらそうもいかなくなってきた。復刊作業が無事終了し、立派な復刊書が出来上がってまもないあたりから、工学図書の笠原さんや倉澤さんのにこやかな微笑みが妙に気になりだしてきたからである。その微笑の奥には、「さあ、復刊書のほうは出来上がったから、近いうちに次の依頼原稿を書いてもらうことにしましょうね。タイトルだけでもなるべく早めにお願いしますよ!」という暗黙の要請が隠されていることは明らかだった。ほどなくして、復刊話を持ち込んだのはヤブヘビであったらしいと悟ったのだが、もはやすべては手遅れのようだった。

「マセマティック放浪記」
2002年6月26日

宮沢賢治の手紙

  この六月の毎週水曜日の午後、府中市生涯学習センターにおいて、市民を対象としたやさしい宇宙科学講座の講師を務めさせてもらっている。市の講座企画担当者から講師の依頼をうけたとき、ウィークデイの午後の、しかも、ちょうどワールドカップ・サッカーと重なる時間帯に、実生活にはなんの関係もない宇宙科学講座に顔を出してくれる人があるのだろうかと、正直なところ内心ちょっと心配になった。今後を睨んだ先導試行的な意味合いもあるので受講者の数はあまり気にしないでほしい、という担当者の言葉を信じて一応は了承したものの、そのいっぽうで、もしも応募者がゼロだったらこちらとしても立つ瀬がないなというおもいもあった。
  講座の時間帯が時間帯であったから、受講者の平均年齢が六十二歳とかなり高めになったのはやむをえないことであったが、こちらの予想に反し、講座を維持するのに十分な数の受講希望者があった。高齢の男性諸氏に混じって主婦や若い女性の姿などもちらほら見られ、幸いにして当初の心配は杞憂に終わったのだった。講義がつまらなかったり、難しくなりすぎたりし、途中から集団催眠術体験講座になってしまったらどうしようかともおもったが、実際には大変熱心に講義に耳を傾けてもらうことができたので、その点でもまずは安堵したようなわけだった。
  この講座の話の中でちょっとだけ宮沢賢治の宇宙観に触れようと思い、書架の資料をあさっていると、ずいぶん昔に知人を通して入手した賢治直筆の手紙のコピーがみつかった。そんなものがあったことなどすっかり忘れていたのだが、偉大な詩人作家を偲ぶにはまたとない資料なので、話のタネにと、受講者の皆さんにも紹介してみることにした。
  それは、昭和六年二月、宮沢賢治が当時東京の西ヶ原というところにあった農林省農事試験場勤務の関豊太郎という人物に宛てた便箋三枚ほどの私信のコピーだった。宮沢賢治の年譜を調べてみたところ、関豊太郎という人物は賢治が盛岡高等農林学校研究科に学んでいた頃の恩師であることが判明した。農学博士であったこの関豊太郎指導のもとで、まだ二十二歳の向学心旺盛な青年だった賢治は、地質土壌と肥料の研究に携わり、稗貫郡の土性調査を委託されたりもしたようでる。この手紙の書かれた昭和六年には賢治は三十五歳になっているから、恩師関豊太郎に指導を受けていた頃からその時までに十三年の歳月が流れ去っていたことになる。
  この手紙の筆跡にみるかぎり、賢治の字はたいへんに個性的であったといえる。当時の知識人の多くが用いた草書あるいは行書による連綿体の文字ではなく、多くの現代人の筆跡同様、どちらかというと楷書体に近い感じで一文字一文字が分かち書きにされている。独特の丸みを帯び、大きくてかなりアンバランスなその文字は、お世辞にも達筆とは言えそうにない。当時のことだから、表面的なものの見方しかしない大人たちなら、結構な歳をしているのになんとも稚拙な文字だと陰口さえ叩いたことであろう。しかし、よくよく眺めてみると、それらは不思議にあたたかみのある字なのである。
  天才と呼ばれる人間にままありがちなそんな字体で、賢治は便箋三枚にわたるその手紙文をひといきに書き上げたようである。かなり息の長い手紙文の流れからも、また最後までまったく段落も改行もなしに文章文全体が綴られていることからも、そのことを窺い知ることができる。したためるべき文章の概要を瞬時に頭の中で構築し、便箋をまえにしてすらすらと筆を運んだのであろう。もしかしたら、無段落で手紙文を綴るのは賢治にとって習慣的なことだったのかもしれない。ついでだから、その手紙の全文を紹介しておくことにしたい。

永々ご無沙汰いたし居りました処、本年は寒さ殊の外嚴しく悪性の感冒などもしきりでございましたが先生並びに皆様にはお障りございませんでせうか。虔んでお伺ひ申しあげます。扨(さて)紙面を以ってまことに恐り(原文のまま)入りますが、年来のご海容に甘えお指図を仰ぎたい一事は本縣松川村東北砕石工場より私に同工場の仕事を嘱托(嘱託に同じ)したいと申して参りました儀でございます。同工場は大船渡松川駅の直前にありまして、すぐうしろの丘より石灰岩(酸化石灰五四%)を採取し職工十二人ばかりで搗粉石灰岩末及壁材料等を一日十噸位づつ作って居りまして、小岩井へは六七年前から年三百噸(三十車)づつ出し昨年は宮城縣農會の推奨によって俄かに稲作等へも需要されるやうになったとのことでございます。就て(つきまして)この際私に嘱托(嘱託に同じ)として製品の改善と調査、広告文の起草、照會の回答を仕事とし、場所はどこに居てもいいし給年六百円を岩末で拂ふとのことでございます。それで右に應じてよろしうございませうか、農藝技術監査の立場よりご意見お漏し下さらば何とも幸甚に存じます。尚石灰岩末の効果は専ら粒子の大小にあると存じますが稲作などには幾ミリ或は幾センチ位の篩(ふるい)を用ひてよろしうございませうか、いづれにせよ夏までには参上拝眉いたしたく紙面を以って失礼の段は重々お赦しねがひ上げます。ご多用の場合かとも存じ同封葉書封入致し置きました。単に一方で抹消下さる迄でもねがひあげます。まずは。

                     昭和六年二月廿五日
                            宮沢賢治
  關豐太郎先生

  恩師関豊太郎に仕事上の判断を仰ぐきわめて実務的な手紙ではあるが、この手紙をしたたためてから二年半後に賢治が他界したことをおもうと、深い感慨を覚えざるをえない。賢治はかなり以前から肋膜を侵されており、このときまでに幾度も療養を繰り返していた。この手紙を恩師に書き送った前後、彼は一時的に小康を得ていたようである。関豊太郎がどのような返信を送ったのかは知るよしもないが、三月に入って正式に東北砕石工場技師に嘱託されているところをみると、恩師の関からはその仕事を引き受けてみたらどうかとの返答があったのだろう。
  三月から八月にかけて、賢治は炭酸石灰の製法改良と販売の業務に従事し、宣伝のため秋田、宮城、福島をはじめとする東北各地をめぐり、九月には東京までその足をのばしている。仕事はどこにいてやってくれてもよいという条件下で年俸六百円の待遇というと当時としてはなかなかのものだが、前掲の手紙にみるかぎり石灰岩末の現物支給だったようだから、売り捌かなくてはお金にならなかったはずで、その点でも苦労は尽きなかったことだろう。
  九月に入ると賢治は炭酸石灰製品見本などを携えて上京した。「夏までには参上拝眉致したく」と手紙にも書いているところをみると、予定よりは遅れたものの、たぶん、この時に関豊太郎にも会うつもりでいたのだろう。しかし、神田区駿河台南甲賀町十二番地(現在の千代田区神田駿河台一丁目四番地)八幡館に到着とともに発熱臥床し、数日後になんとか帰郷するが、再び体調が悪化し床に伏してしまった。
  のちになって明らかになったことだが、死期の近いことを察知した賢治は、この上京の際に遺言の書簡をしたためている。また、同年の十一月には、死後に遺言の書簡とともに発見された手帳の中に、有名な詩「雨ニモマケズ」を書き記してもいる。翌年の昭和七年から他界した翌々年の昭和八年九月まで、賢治は病床にありながらも、「グスコーブドリの伝記」をはじめとする数々の作品の執筆に精魂を傾けた。伝えられるところによると、彼はまた、そのような状況下での作品執筆の合間に、なんと高等数学をも学ぼうとしたのだという。その有様はまさに、宮沢賢治という稀代の精神の発した美しくも悲しい最後の光芒ともいうべきものであった。
  確実な足取りで刻々と迫り来る死の影を察知していた賢治の心魂は、「雨ニモマケズ」という詩をよんだとき、すでに達観とも諦念ともつかぬ領域に踏み入っていたに違いない。
そんな背景を念頭におきながら、そのあまりにも有名な詩を読みなおしてみると、これまでとは一味違った新たな感銘が湧き上がってくるような気がしてならない。そう言われても、出だしの部分くらいしか憶えていないという方も多かろうから、もう一度その詩の全文を記してこの稿の結びとしたい。

<雨ニモマケズ>   宮沢賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンヂョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

「マセマティック放浪記」
2002年7月3日

斜めから見たサッカー観

  ドイツとブラジルの決勝戦進出が決まり、いよいよワールドカップ・コリア・ジャパンもフィナーレを迎えようとしている。一ヶ月余にわたる熱狂が冷めたあとのサッカーファンの虚脱感には想像以上のものがあるに違いない。私には、「サッカーって見ているだけで疲れるものなんですねえ……」というお年寄りたちの感慨とも溜息ともつかぬ言葉がなんとも印象的であった。そんな状況から考えてみると、海外のサッカー強国などにおいては、興奮のあまり憤死するファンさえもあるというのも十分に頷ける。
  日本においてもお隣の韓国においても、久々に国民としての一体感を味わうことができたという声が絶えないようだ。たしかに私自身も、日本チームと外国チームとの試合を観戦していて、日本ゴールが危機にさらされたり、逆に自国選手が相手ゴールをおびやかしたりするたびにハラハラドキドキさせられていたから、にわか愛国者になったことだけは疑う余地のないところだ。
  相手国に有利な判定には客観的にみて正当な場合でもブーイングを浴びせかけ、自国に有利な判定にはそれが明らかに誤りであってもエコヒイキまるだしで歓声をあげて応援する――あくまでもスポーツなのだから問題ないと言われればもっともらしくはあるけれど、いったん冷静になって別の角度から考えてみると、そんな己の精神状態の奥底には結構恐いものが潜んでいるようにもおもわれる。
  まだ学生だった頃、明らかに国威発揚と若者の戦意高揚を狙った高村光太郎の戦時中の詩を読み、国際経験も豊かだったはずのあれだけの知識人がなぜそんな詩を書いたのだろうかと不思議に感じたものである。光太郎自身も戦後になってからそのことを深く悔やみ、反省の意味もあって、世間との交流を絶ち岩手の早池峰山麓にこもったことはよく知られているところである。ちなみに述べておくと、亡き智恵子をイメージして制作したという十和田湖畔の豊満な女性の裸像はこのときにつくられたものである。
  光太郎が若者を戦場へと煽りたてる詩を書いた背景には、軍政による思想弾圧下の特殊な事情もあったことだろう。また、光太郎の内奥では、日本古来の伝統に深く根づく神秘主義的精神とロダンに象徴されるような自然主義的近代精神とが、まるでお互いの存在を誇示つつ絡み合う二匹の蛇のようにうごめいていたようである。だから、さきの世界大戦中においては、彼の体内に棲む大和魂的な神秘主義精神の蛇のほうがたまたま勢いを増していたとも言えないことはないだろう。
  だが、このところのサッカー騒動に自らも巻き込まれるうちに、私は光太郎が国威発揚と戦意高揚の意図まるだしの詩を書いた心理状況がいくらかわかるような気がしてきた。それがサッカーであれ何であれ、国民全体が一定方向にむかっていったん熱狂しはじめると、その激しい流れの中におかれた者は、少々知性的だろうが理性的だろうがおかまいなく、いっきにその潮流に押し流されてしまうのではないかと思うようになったからだ。低次元の野次馬精神しか持ち合わせない私のような人間が激流に抗すべくもないのは当然のことなのだが、どうやら光太郎のような崇高な精神をもつ知識人でも、そのような状況におかれたら理屈抜きで時流に呑み込まれてしまうことがあるようなのだ。
  もう何十年も前のことだが、サッカー先進国イギリスの作家ジョージ・オーウェルは、サッカーに熱狂する人々の心理背景を鋭く分析した「The Sporting Sprit」という一篇のショートエッセイを発表した。名作「アニマル・ファーム」において、ロシア革命と革命政権の悲惨な前途を強烈かつ的確な風刺をもって描写し予測してみせたこの作家ならではのサッカー観が、そこには皮肉たっぷりな筆致で語り綴られているのである。ずいぶん昔の作品であるにもかかわらず、昨今のワールドカップ狂騒劇にもそのままぴったり当てはまり、なるほどと納得させられるところも少なくないので、そのサッカー観をすこしばかり紹介してみることにしたい。
  あるとき、旧ソビエト連邦のサッカーチーム、ダイナモスが親善試合のために渡英し、イギリスの名門チーム、アーセナルやグラスゴーと対戦したが、アーセナルとの試合では途中で両チームの選手同士で殴り合いとなり、観客のほうも騒乱状態に陥った。また、グラスゴーとの試合は最初からなんでもありの凄まじい乱闘模様となり、友好親善どころの騒ぎではなくなった。
  さらに、ソ連人たちは「アーセナルは事実上全英チームであった」と主張し、いっぽうの英国人たちは「アーセナルは全英チームなどではなく一リーグチームに過ぎなかった。ダイナモスが予定を切り上げ急遽帰国したのは、全英チームとの対戦を避けようとしたからだ」と主張した。そのため、こころある人々は、このようなサッカー親善試合は尽きることのない憎悪の根源となるばかりで、英ソ関係をますます悪化させ、両国間に新たな敵対意識を生みもたらすだけだと蔭で囁き合ていたという。
  そんな状況下にあって、オーウェルは、「サッカーのようなスポーツは国家間の友好と親善を深め戦争を回避するのに役立つ」などと真顔で唱える人々の気がしれないと公言してはばからなかった。国家や民族の威信がかかる関係上、相手を完膚なきまでに打ちのめして勝つことにこそ意義があり、敗れたら体面を失い屈辱をこうむることになるとするスポーツでは、必然的にもっとも野蛮な人間の闘争本能が喚起される。だから、国際間でおこなわれるサッカーのようなスポーツは擬似戦争そのものにならざるをえないというのである。
  オーウェルはまた、ほんとうに問題なのは、試合における選手たちの野蛮な行為そのものよりも、見方によっては馬鹿げてもいる試合に熱狂興奮し、たとえ一時的ではあっても、懸命にボールを追いかけそれを相手ごと蹴りまくることが国家美徳の証であると信じてやまない観衆や、その背後にある国民のほうだとも述べている。
  サッカー先進国の国民以上にサッカー新興国の国民のほうが国家意識と敵意剥き出しで狂乱しがちなのもサッカーというゲームの特色で、自国チームが相手ゴールに迫ると一部の観衆がフィールドに飛び出しゴールキーパーの動きを妨害するといった事態もかつては日常的に起こっていたらしい。したがって、国際試合における観衆同士の暴動はごくあたりまえのことだったようだ。
  強い敵対感情が喚起されると、ルールを守ろうなどという意識はたちまちどこかへ吹き飛んでしまう。各国民は自国チームが完勝し、相手国チームがこのうえない屈辱を味わうことを熱望するから、不正行為による勝利だろうが相手側選手やレフリーへの観客による直接間接の示威妨害行為による勝利だろうが、とにかく勝ちさえすればよいのだということになる。
  真剣勝負のスポーツというものはもともとフェアプレイとは無縁であり、ルールとは無関係の憎悪、妬み、自己存在の誇示、さらには暴力行為や残虐行為を目にしたいというサディスティックな欲望などと深く結びついている。換言すれば、それは、「A war minus the shooting」、すなわち、「銃撃戦のない戦争」なのだというオーウェルの言葉は実に手厳しい。
古代からスポーツには残虐さがつきものだったけれども、サッカーなどのようなスポーツが政治体制や宗教観の異なる国家あるいは民族間の集団憎悪につながるようになったのは近世のことであるとも彼は述べ、その原因は、欧米の大国が大衆の原始的な闘争本能を喚起するスポーツを利用し、莫大な富を生む商業活動をもくろんだことにあるとしている。
  そして、オーウェルは最後に、ダイナモスの親善訪英に応えてソ連に英国代表チームを送るなら、試合で必ず相手チームに敗れ、しかも英国人のほうはそれが全英チームではないと主張できるような二流のチームを派遣すべきだと皮肉たっぷりに提案している。それでなくても争いのタネの絶えない時世に、猛り狂う観衆の怒号のなかで若者たちが互いの脛を蹴り合うことを煽り立てることによって、さらに紛争のタネを増やす必要などないということのようである。
  オーウェルの指摘を素直に受けとめて考えると、日本チームの試合の観戦に夢中になったのは、たしかに自分の深奥に眠る原始的闘争本能や敵愾心を喚起されたからに違いない。銃を持たない熾烈な代理戦争を日本イレブンにたくしていたことになるわけだ。共同開催国の日韓両国民が相手国のチームの活躍に複雑な気持ちを抱き、手放しでそれを喜ぶことができずにいたのも、一筋縄ではいかないそんな深層心理がはたらいていたからだろう。
  日常的社会生活のなかで無意識のうちに抑圧されている原始的闘争本能やサディスティックな願望、さらにはそれらに伴うストレスなどが、日韓ワール・ドカップの試合観戦を通して解消されたというのなら、それはそれで意義があったと言ってもよい。ただ、以前にもましてストレスが溜まったというなら、いささか問題ではあるだろう。
  もっとも、私個人の感想としては、オーウェルの辛辣な言葉にもかかわらず、ワールドカップの国内開催にはそれなりの収穫もあったようにおもう。たとえば大分県中津江村にみるカメルーンチームと村人との親善交流がそれである。もともと外国人との交流などほとんどない山村のことだから、もしカメルーンチームが中津江村に滞在することがなかったら、黒色の肌をもつアフリカ人に対する違和感やいくらかの偏見などが村人の心のどこかになお棲みつづけただろうとも考えられる。
  しかし、今回のカメルーンチームの滞在でそんな違和感や偏見はまったくなくなり、村人との親善交流はいっきに進んだ。他の国のチームの合宿地でも同様のことが起こったことだろう。サッカーの試合そのものの勝敗とは直接に関係ないが、ワールドカップというこの一大フェスティバルが日本国民にもたらした国際親善効果は、それなりに評価されるべきなのかもしれない。スポーツを通した国際交流というとまっさきにオリンピックがあげられるが、それとはまた一味違う不思議なはたらきがサッカーのワールドカップにはあるようだ。もしかしたら、原始的闘争本能の裏返し効果なのだろうか。
  その点はよいのだが、利益追求主義のFIFA幹部たちの体質には、せっかくのそんな友好ムードに水をもさす違和感がおぼえられてならない。バイロム社との癒着さえも感じさせるチケット販売の不備に関するFIFA幹部の対応は、まさに、組織の威信を守ることができ、自分たちの利益になりさえすれば相手の立場などどうでもよいという、サッカーの悪しき闘争本能まるだしの状態そのままだといってよい。それもまた、サッカーという名の代理戦争を体験してきたがゆえのFIFA幹部連の悲しき性(さが)なのであろうか。
  今回韓国が準決勝まで進んだことにより、四年後のドイツ大会では日本チームもいっそうの飛躍を期待されている。しかしながら、より強くなるということは、これまで以上にずるくなり、いざというときは当然のように身体を張ってルール無視の妨害行為をやってのけるコツを修得することでもあるようだ。単にボールコントロールの技術を高め、高度なチームプレーを身につけるだけではサッカー先進国に勝つことは難しい。
  審判の見ていないところでは相手のユニホームを引っ張ったり身体を押さえたりすることはあたりまえ、ゴールを決められそうになったら渾身の力を込めて蹴り倒すのは当然のこと、ボールを追うとみせて相手の主要選手に強烈な体当たりをくわせ、あわよくば負傷退場を願うのは不可欠な戦略――どうやらそれらの高等技術をマスターしたうえでないと、いくらサッカー本来の技術を身につけても実戦では通用しないものらしい。観客のほうも自国選手の見事な反則プレーに心底拍手を送れるだけのサッカー眼をもたないと真の意味でゲームを楽しむことはできないらしいと知ったのは思わぬ収穫であった。
  国内外のチームを問わず、一流といわれるサッカー選手には、身体的な強靭さや俊敏さのほかに知的な雰囲気をそなえている者がすくなくない。彼らの目の輝きには、戦うもの特有の視線の鋭さばかりでなく、常に頭脳のかぎりを尽くしありとあらゆる画策をおこなう者に共通の知性のきらめきが感じられる。若い女性が彼らの一挙一動に夢中になるのもそんな理由からなのであろう。ただ、そういった彼らのはかりしれない魅力が国家や民族の威信を背負った擬似戦争の結果生まれたものであるとすれば、なんとも皮肉なことだと言わざるをえないだろう。

  ちょうどここまで本稿を書き進んだところで、韓国対トルコの三位決定戦がトルコの勝利で終了した。最後まで両チーム相譲らぬ激戦だったにもかかわらず、まれにみるほどに感動的で、しかもいままで書いてきたことを真っ向から否定するかのようなフェアなゲームであった。まだ完全にはヨーロッパや南米流のサッカーに毒されていないアジアチーム同士の試合だったからかもしれないが、こんなゲームもあるにはあるということらしい。
  ところで明日はブラジル対ドイツの決勝戦――私の場合にはとくにどちらのチームにも想い入れはないから、原始的闘争本能を選手たちにたくしハラハラドキドキしながら観戦する必要はない。映画「猿の惑星」のなかの将軍を連想させるドイツのカーン選手と、シトシトピッチャンシトピッチャンの風情にそうにはヒネすぎたブラジルの大五郎ロナウド選手のどちらに軍配があがっても、歓喜も落胆もせず冷静にテレビに向かうことができるのは、精神衛生上大変よいことではあるのかもしれない。

「マセマティック放浪記」
2002年7月10日

大学進学ルートの多様化
に思うこと

  これまで、中学卒業資格しかない者や高校中途退学者などが大学を受験するには、大学入学資格検定試験を受け、それに合格しなければならなかった。大検は絶対評価に基づく試験で出題内容も各教科の基礎的事項が中心の試験であるから、それ自体はけっして難しいものではないのだが、試験科目が多数の教科にわたることなどもあって、複雑な生活事情や心理状況のもとで日々を送っている受験希望者がその試験に合格するのはかならずしも容易ではなかった。
  学校教育法においては、大学入学有資格者を「高等学校や中等教育学校卒業者、またはそれと同等以上の学力があると認められた者」と定めており、その条文後半の「それと同等以上の学力があると認められた者」という基準を満たすには大検合格が必要な条件であるとされてきた。
  だが、近年の社会状況の変化にともない、文部科学省もこれまでの方針を一部変更し、インターナショナルスクールや朝鮮学校など外国人学校の卒業生については大検に合格しなくても大学受験を認めることにしたようである。また、高校中退者や中学卒業者についてもなにかしらの救済処置を講じ、かならすしも大検合格を条件としないで大学受験に臨めるようなルートを設定するよう検討を進め始めた模様である。しかし、こちらのほうについては、結論が出るまでにまだ時間を要すると考えているのだそうだ。
  そんな折、東京都立大学が、大学入学資格のない者でも大学指定の授業で好成績をおさめれば大学入学が可能となる「チャレンジ入試」を二〇〇四年度から導入すると発表した。同大学は、「大学において、相当の年齢に達し、高等学校を卒業した者と同等以上の学力があると認めた者」という学校教育法の施行規則を根拠にして独自の入試制度を実施するのは可能だと判断したようだ。
  新聞などで報道されているところによると、満十八歳以上のチャレンジ入試受験者に四月から八月にかけて都立大指定の授業を受講してもらい、履修成績や面接を踏まえたうえで若干名の入学を認めるのだという。二〇〇四年の入学にそなえ、まず来春は法学部と理学部で同方式による受験生の登録がおこなわれるらしい。
 「中学卒業後に高校進学しなかったり、高校にうまくなじめずに中途退学した者のなかにも、なお学ぶ意欲をもっている者は少なくない。そのような人々に道を開き、単に暗記力のみを有する学生ではなく、多面的に思考できるような学生を選び、その能力を伸ばしたい」というのが、東京都や都立大学側の意向なのだそうだ。誰の発案かは知らないが、杓子定規の事なかれ主義を常としてきた教育行政当局者にしては、驚くほどに大胆かつ斬新な対応ぶりだと言ってよいだろう。
  もちろん、その新規の制度による入学者数はごくかぎられたもにならざるをえないだろうし、専門的な立場から受験希望者の本質的な能力を問う必要上、選考基準は厳しいものとなり、それなりに高度な知識や判断力の有無など試されるに違いない。だが、たとえそうであったとしても、このような入試制度が設けられることはおおいに歓迎すべきことである。他大学にも影響の及ぶ問題だけになにかと細かな事前調整も欠かせないことだろうが、せっかくのことだから、ぜひとも文部科学省当局の柔軟な対応を期待したい。

  放浪記とは無関係な入試制度問題について書く気になったのは、本質的な能力があるにもかかわらず、大学受験資格がなかったばかりに、大学進学を断念したり、大学に入るまでにずいぶんと青春の貴重な時間を浪費したり、またそうでなくても、その能力について一時的には不当な評価を受けた若者たちをずいぶんと知っているからだ。詳しい経緯や具体的内容について述べるのはこの場では差し控えたいが、様々な理由で中学や高校時に不登校状態に陥った生徒たち、高校の中退者、さらにはあるときから突然学ぶことに目覚めた中卒の社会人といったような若者たちに直に接し、その面倒をみる機会が過去私にはいろいろとあったのだ。
  学ぶことになお強い意欲を抱く中卒者や高校中退者などのなかには、大きな潜在的能力を秘めた者が少なくない。とくに複雑な家庭的事情や経済的事情のために就学を断念した地方出身の中卒者や高校中退者などのなかには、もともと高い学習能力をそなえもっている者が数多く見うけられたりもする。また、高校での授業や生活に馴染めず不登校状態になり、単位不足などになって結局退学のやむなきにいたった者などには、物事の根源や本質に徹底的にこだわるじっくり型の思考タイプが少なくない。ある特別の分野だけには抜群の能力を発揮するが他の分野の教科はまるでだめというアンバランス型や、推理力、観察力、創造力などは秀でているものの、暗記力依存の教科はどんなものも生理的に受けつけないという日本的教育適応不能型なども相当数含まれているようだ。
  中途半端な決断力しかもたなかったがゆえに不登校にもならず退学もしなかったが、物事の根源にこだわる性格のわりには成績はかんばしくなく、青息吐息状態だった私自身の高校生活は、そういった類の若者たちの状況とかなり重なるところがある。当時まともな英語教育など期待すべくもなかった離島の中学出身の私は、進学した鹿児島の高校では英語の劣等生だった。おかげでずいぶんと劣等感を味わったりもした。いまではもう誰も信じてくれはしないのだが、実際にそうだったのである。
  物理の時間には、なぜ力の大きさを f=mα という式で表わさなければならないのかにこだわり、化学の時間にはアボガドロ数がなにゆえそんな変な数になるのかと考え込み、ちっとも先に進めなかった。「そんな簡単なことがわからないのなら理系には向かない。仕方がないからそんなものだと暗記せよ」といわれても、モヤモヤして納得がいかないものは納得がいかず、最後には「おまえは木だけを見て森を見ていない」というお言葉まで頂戴した。それらがけっして簡単な問題などではなく、その定義や数値の決定には物理や化学の根源的な大問題が隠されていること、換言すれば「森を見て木をみない」こともまた問題であることを知ったのはずっとのちのことである。
  心の支えがほしかったため小説や随筆の類は洋の東西を問わずいろいろなものを読み漁っていたが、読書感想文や作文を書く国語の宿題は大の苦手で、一度もまともに課題を提出した記憶がない。それがいまこうして曲がりなりにも人様に読んでもらうための文章を綴っているわけだから、人生とはほんとうにわからないものである。世界史の時間などには、諸々の事件項目やそれらが起こった年代をひたすら記憶することよりも、どうやってそんな遠い昔のこまごまとした出来事がそれほどに疑う余地のない事実とわかるのだろと考え込むことのほうが多かった。その当然の結果として試験の点数は散々だった。
  数学はというと、とことん定義にこだわっていたようにおもう。定義や定理をそんなものだと受け入れてしまえばとりあえず高度な問題も解けるのはわかっていたが、なんでこんな定義をしなければならないのかと考えはじめると収拾がつかなくなった。「サイコロのそれぞれの目が出る確率はいずれも六分の一である」ということが厳密な意味で成り立つためには、「どの目も均等に六分の一の割合で出るサイコロが存在するとすれば」という暗黙の大前提がなくてはならないということに気づくと、確率というものの意味がなんだかよくわからなくなったりもした。結局、それは「人間は人間である」というトートロジイ(同語反復)と同類であるとおもうにいたると同時に、そもそも、そんなサイコロを誰がどうやってつくるのかという根本的な疑問にぶつかり、堂々めぐりに陥った。
  まあ、そんな具合で、高校生の私は、受験に必要な知識をすんなりと受け入れ、それらを無条件に暗記するという受験適応型の優等生ではなかったから、なにかと手のかかる生徒ではあったに違いない。ただ、そんな経験のおかげで、のちになって、学ぶ意欲や本質的な思考力はあるにもかかわらず通常の中等教育コースにうまく適応できなかったり、はじめから無縁だったりした若者に接する機会があったとき、彼らのおかれた心理的状況のをかなり的確に把握することはできたのだった。
  標準的教育コースからドロップアウトした生徒たちは、次第に親を含めた周囲の大人たちから諦めの眼差しで見られるようになり、やがて将来への過剰な期待からも断片的な知識を詰め込む受験教育からも解放される。ところが面白いことに、そんな状態が彼らにプラスにはたらくこともある。
  通常の学校教育カリキュラムを無視して、私なりに彼らを指導するうちに、そのなかからだけでも様々な能力を示す者が現れた。受験レベルの数学を通り越し大学レベルの数学の学習に夢中になる者、物理科学の特殊な領域に並外れて強い関心を示す者、小説、エッセイ、社会科学書などの原書をどんどん読み進む者、高度な文学書や哲学書、歴史書などを読んでは、それらに関する原稿用紙五十枚百枚のユニークなレポートをすらすらと書いてしまう者、さらには三百枚近くの自作小説を仕上げる者などといろいろだった。
  そこまではよかったのだが、オールラウンドではないけれど個性的な能力を発揮する若者たちが、より高度な学びの場を大学に求めようとしたとき、彼らの前に立ちはだかったのが、大学入試資格検定試験と、雑多でやたら断片的な知識を求める大学入学試験という二重の大きな壁だった。もともとその種の試験には性格的に不向きであるうえに、いまさら何教科にもわたる暗記中心の受験勉強などには戻れないという強い思いが心の奥にはたらくから、よほど覚悟して心理的妥協をはからぬかぎり、その壁の突破は彼らにとって容易ではなかった。
  もちろん、なんとかその二重の壁を突破し、いまでは大学の教官やさまざまな分野のスペシャリストになっているものも少なくない。しかし、現実にはせっかくの能力を開化させかけながら挫折していった者のほうがはるかに多かった。たとえば、もうかなり昔のことではあるが、高校中退者であったにもかかわらず、数学のある分野のきわめて高度な知識修得に意欲を燃やす十八歳の男の子に出逢ったことがある。明らかに特異な才能を持っていたと思われるこの生徒は、すでに普通の数学科の大学生などよりも力があったとおもわれたのだが、結局のところ、私には彼の前途をひらいてやることはできなかった。制度の壁のゆえに挫折した彼は一時期ラーメン屋の店員を務めたりしていたらしいのだが、やがてその消息はわからなくなった。
  まだ、試行的なものであるにしろ、今回の東京都立大学におけるチャレンジ入試の導入は大変評価すべきものであると私自身は考える。それでなくても不登校者の数が増大している昨今の状況をおもうと、時代に対応した多様な大学進学ルートがあってしかるべきだろう。多くの大学が同様の制度の導入に関心を示すようになれば、普通のルートからはいったんドロップアウトしたとはいえ、本質的には通常の大学進学者に勝るとも劣らぬ能力をもつ若者を救済できるようになるに違いない。それはまた、直接間接を問わず、将来の我が国の発展にもつながることでもあるだろう。

「マセマティック放浪記」
2002年7月31日

サッポロビールを注いだ相手は?

  六月下旬のこと、新橋の第一ホテルで催された東京周辺在住者対象の高校同窓会に出席した。私自身はいろいろと催されるこの種の会合に積極的に参加するタイプの人間ではないのだが、たまにはいいだろうとおもい顔を出してみたのだった。会場の大広間には今年高校を卒業し大学に入ったばかりのフレッシュマンから七十を超える大先輩まで四百人近くが集まり、それなりに盛況であった。
  立食パーティ形式の会場には二十個ほどの円型テーブルが配されていて、それぞれのテーブルには、たとえば第一回卒生、第十一回卒生、第二十一回卒生、第三十一回卒生といった具合に、十年違いの各年代層の会員が集まり、お互いに年齢を超えた交流がもてるような工夫と配慮がなされていた。
  私が振り当てられた、第二回卒生、第十二回卒生、第二十二回卒生といった会員用のテーブルはたまたま参加者が少なく、また位置的にも会場の右隅寄りに位置していたので、他のテーブルと較べると静かで落ち着いた雰囲気だった。開会直前になって、七十歳前後かとおもわれる物静かな感じの人物が、「ここは老人がいても構わない席ですか……」と言いながら低い物腰で近づいてきて、私の隣にそっとたたずんだ。
  同窓会々長による開会の辞に続き、鹿児島の母校から招待された学校関係者、さらには同窓会幹事連の挨拶が終わり、まずは皆で乾杯という段取りになった。各テーブルに冷えたサッポロビールが何本も運ばれてきたので、私はそのうちの一本を手にすると、すぐさま隣の大先輩とおぼしき人物のもつグラスにビールを注いであげた。なかば遠慮がちに私のお酌をうけてくれたその人物は、いったんグラスをテーブルにおろすと、今度は自分がビール瓶を手にとって私のグラスにビールを注いでくれた。私は下戸でアルコールはほとんどだめなのだが、とりあえず乾杯の音頭に合わせてグラスを掲げ、隣の人物をはじめとする同じテーブルの人たちとも互いにグラスを重ね、かたちだけ軽く口をつけた。
  第二回卒の大先輩であるらしいその人物は、「私も今年で七十になりましてねえ……」と鄭重な口調で親しげに話しかけてきた。それから、私たち二人は、近年の母校の様子などを紹介したリーフレットに目を通しながら、しばし、たわいもない軽い会話を交し合った。ただ、その相手の自然な身振舞いの奥になんとなく洗練されたものを感じ始めていた私は、しばらくすると、この人物はどういうキャリアの持ち主なのだろうかと少々気になりだした。ただ、だからといって、「お仕事は?」だの、「これまでどんなことをなさってきたんですか?」だのと詮索意識をまるだしにして臨むのも憚られてならなかった。
  ところがである。隣合っているときには見えなかったのだが、ちょっと位置が変わったときにさりげなく相手の胸のネームプレートに視線を送ると、思いがけずも「枝元賢造」という四文字の名前が目に飛び込んできた。そんな……まさか……同姓同名ということだってあるしなあ……高名な業界人としてその名前だけはかねがね耳にはしていだけれど、そもそもその人は自分の出身高校の先輩だったんだっけ?……もしそうだとすれば、それに気づいて挨拶に来る者があってもよさそうなものだがなあ――胸中で渦巻くそんな戸惑いをしばし私は御しかねていた。互いにビールを注ぎ合いグラスを重ね合わせた相手がほんとうにその人物であるとすれば、あまりにも話が出来過ぎているともおもったからだった。
  再びその人物の隣に並んで立った私は、周囲の様子を窺い、二人だけになったタイミングをみはからったうえで、思い切って小声でそっと尋ねかけた。
 「あのう……もしかしたら、サッポロビールの枝元賢造さんでいらっしゃいますか?」
相手の人物は不意を突かれたようにちょっと私のほうを見ると、すぐにテーブルの上に軽く視線を落とし、しばしのあいだ黙り込んだ。十秒か十五秒くらいはその沈黙が続いたのではなかろうか。やはり人違いだったのかな、そうだとすればなんだか申し訳ないことをしてしまったかな――私の胸中にそんなおもいが湧き上がりはじめたころになってから、相手はようやく口を開いた。そして、一言だけ、「はい、そうです……」と低く囁くように言った。わずか三十秒足らずの間のやりとりだったが、元サッポロビール社長で現在では同社の名誉顧問をつとめておられる枝元賢造さんのお人柄がよく偲ばれるできごとではあった。
  それにしてもなんということだろう、下戸の私がたまたま元サッポロビール社長と隣合わせ、そうとは知らずにサッポロビールを相手のグラスに注ぎ、相手からも自分のグラスにサッポロビールを注いでもらい、グラスを合わせて乾杯する――気まぐれというかなんというか、神様というものは、時になんとも味な人生の演出をしてくれるものである。
  私がネームプレートのその名をかねがね耳にしていなかったら、また会場でそれを見落としてしまっていたら、サッポロビールを注ぎ合ったその人物が誰であったかなど最後まで知ることはなかったであろう。そのあと私がちょっと席をはずし旧知の後輩と話をし終えてテーブルに戻ったときには、枝元さんの姿はすでに会場から消えてしまっていた。風のようにスーッと立ち去っていったものらしい。同期の友人たちが、「この同窓会用にサッポロビールを寄贈してくれたのは枝元賢造さんらしいよ」というので、「いままで御本人がここにいたじゃない」というと、誰もが狐につままれたような顔を見せたような有様だった。
  あとで拙著を一冊贈呈すると、みるからに達筆なペン字の礼状が送られてきた。鄭重な文面の隅々にいたるまで、初対面の後輩の私に対するこのうえなく温かい思い遣りと心配りに溢れていて、なんとも心嬉しいかぎりではあった。

「マセマティック放浪記」
2002年8月7日

変わり果てた奥三面渓谷

  国内屈指の清流で知られた三面川とその周辺の景観がかなり変貌しているだろうとは想像していた。しかし、その変貌ぶりは私の想像をはるかに超えるものであった。三面渓谷を大きく跨ぐ新設の橋上に立った私は、しばし絶句したまま呆然と眼下の奥三面ダムの湖面を眺めやった。過ぎし日の三面渓谷の水の色には似ても似つかぬ灰褐色の湖水は、夏の太陽の下であるにもかかわらず重たく暗く淀んでいて、かつての生気の名残などまるで感じられなかった。ダムが完成し湛水が始まる直前の二〇〇〇年九月末にこの地を訪れてからまだ一年十ヶ月ほどしか経っていないというのに、この無残としか言いようのない変わりようはどうだろう。私は胸中で交錯する深い哀しみと腹立たしさとをどうすることもできなかった。(2000年9月20日〜10月4日のバックナンバー参照)
  以前には日本屈指の自然の宝庫と謳われ、神秘的な色にきらめく清流、緑豊かな森や林、景勝に富む奥深い渓谷、縄文の遺跡群、さらにはそれらすべてを抱き育む朝日山系の山々で知られた奥三面の地は、もはや感動のかけらさえも覚えることのできない平凡で殺風景な巨大人造湖と化していた。上高地梓川の水の青さをも凌ぎさえしたコバルトブルーの清流の大部分が奥三面ダムの湖底深くに沈んでも、かつての面影のいくらかくらいは偲べるであろうと期待しながら私はここへやって来た。しかし、そんな淡い期待は瞬時にして吹き飛んでしまったのだった。
  そこに残されていたのは奥三面の谷々の哀しい亡骸にすぎなかった。東京の多摩川の上流にある小河内ダムの水の色でさえも、いま目にしている奥三面ダムの湖水の色よりはずっとましだとおもわざるをえなかった。ダム建設後まだ二年足らずしか時間が経過していないというのに、これほどまでに周辺環境が一変してしまったという現実を目の当たりにして、私は心底愕然とするとともに、美しい自然の川が死ぬということがどういうことであるのかをあらためて思い知らされるばかりであった。
  北国の山岳地帯では、膨大な量の雪融け水とともに大量の土砂や植物性の腐葉土、樹々の落葉や小枝、倒木類などが次々に渓流中に流れ込む。だが、たとえそうであっても、以前のように川が生きていて絶間なく水が流れ動いているときには強力な自然の浄化力が働き、長期にわたって水が青黒く淀んだり灰褐色に濁ったりするようなことはない。そのいっぽう、大型ダムの出現によって水流を堰き止められ水の動きのとまった湖水では、土砂や腐葉土は次々と湖底に沈澱し、上流から流れ込む多量の有機物のため、もともとはどんなに澄んだ水であっても急速に富栄養化が進み、たちまち透明度を失ってしまうのだ。むろん、そんなことなど理屈としてはとっくに知ってはいたことだが、その凄まじい変容ぶりを現実に目にしてみると、そこから受ける衝撃の大きさはまた想像以上のものではあった。
  二〇〇〇年の十月五日に三面ダムの湛水がはじまるとダム周辺への一般人の立ち入りは禁止された。その後の様子を知りたいとおもい、昨年六月のある夜遅くに朝日スーパー林道側からダム方面へ入ろうとしたのだが、まだ通行止めになっており目的を果たすことはできなかった。しかも、その時は、まったくの偶然から、文字通りの手ぶら状態で、さらには折からの体調の悪さをおして朝日スーパー林道奥の西側に位置する石黒山に強行登山するハメになったのだった。(バックナンバー、2001年6月20日〜7月4日参照)
  結局、昨年はそのあと奥三面を訪ねる機会に恵まれなかったので、今年はなんとしてもとおもい、七月の初旬に再訪を試みたようなわけだった。今回は村上市から朝日スーパー林道伝いに入るいつものコースではなく、山形県南部の小国から五味沢の奥へと続く道を走り、途中から北に分岐する細い林道に入って蕨峠を越え、奥三面ダム本沢方面へとくだるコースをとった。
  蕨峠越えの林道は深い林を縫う狭いダートの道で、途中、急坂と急カーブの多い悪路だったが、周辺の景観はなかなか変化に富んでおり、樹林相も豊かなだったので、走っていて苦になるようなことはまったくなかった。蕨峠を越え、「あさひ湖」と命名されたとか聞いている奥三面ダムに下るまで、正直なところ、私は、それなりには青い湖面が見られるのだろうと考えていた。もちろん、摩周湖やオンネトーに見るような真っ青に澄んだ湖水の色を期待していたわけではなかったが、ダムの湛水がはじまる以前の三面川や本沢川の清流の青い輝きを知る身としては、いくらかでも青く澄んだ水面の輝きが残っているようにと願わざるをえなかった。
 しかしながら、実際に私を待っていたものは、灰褐色をした湖面の鈍く沈んだ輝きだけだったのだ。水没した旧三面渓谷を大きく跨ぐ現在の新しい橋は、私が二〇〇〇年九月末にこの地を訪ねたときにはまだ建造中であった。三面川沿いの道を谷奥へと向かって走りながら、はるか頭上でおこなわれている大掛かりな架橋作業を複雑なおもいで仰ぎ見たものである。皮肉なことに、いま私はその新橋の上から、かつて道路のあったとおもわれるあたりの水中をしげしげと見下ろすことになったのであった。もちろん、そうしたからといって水底深くに沈んだ旧道や三面川の河原などが見えるはずもないことはわかっていた。実際のところは、たとえどんな奇跡が起こったとしても、失われたものがかつての姿そのままに甦ることはもうないのだと自らにかたく言い聞かせていたのである。
  その新しい橋の端にある一対の支柱には、それぞれにマタギとカモシカのレリーフが嵌めこまれていたが、そういった発想そのものが空々しいかぎりではあるとおもわれた。かつてはマタギやカモシカがこの奥三面の谷の象徴であったと言い伝えたかったのであろうが、ごく最近まで曲がりなりにも生きていたこの美しい谷をこんな無残な姿に変えた当人たちの手によって、自然への畏敬のかけらさえも感じられないそんな小手先の細工がなされたことに私はやり場のない憤りを覚えざるをえなかった。
  二年前に水没直前の奥三面を訪れたとき、巨大ダムの工事現場には、「清らかな三面川、事故で汚すなダム仲間」と大書した大きな横断幕が張られていた。誰が考え出した標語なのかは知るよしもなかったが、私はそのうわべだけの自然讃美の言葉の裏側に潜む無神経さに唯々呆れ果てるばかりであったことを想い出す。ここ三十年来の我が国の大規模公共事業と建設行政の実態をこれほどに象徴している言葉はないと感じたからだったのだが、それとまったくおなじような無神経さをそれら二枚のとってつけたようなレリーフに感じたことはいうまでもない。
  人類史の流れのなかにあって、必要に応じて自然が徐々に改造され、それによって自然本来の姿が少しずつ変容していくことは仕方のないことだとはおもう。災害から地域住民を守るための治水、農業用水や生活用水の確保、さらには逼迫する電力事情の緩和に巨大ダムが絶対必要であり、地域住民も環境アセスメントの専門家もそのことを十分に納得しているというなら、ダム建設に敢えて反対はしない。
  しかし、この奥三面ダム建設に関しては、初めから終わりまでまるで納得がいかいことが多すぎた。建設推進関係者にとっては治水も用水確保も電力供給も実際のところはどうでもよく、明らかにダムを造ること自体を目的にした、より正確に言えばダム建設を通して巨額のお金が動くことだけを狙ったダム建設だったからである。近年の行政改革や構造改革の気運の高まりにつれ大型ダム建設の見直し論なども飛び出すなかで、三十年来の奥三面ダムの完成と湛水が異常なまでに急がれた裏にはそれなりの事情があったに違いない。
  国内有数の豊かな自然に恵まれた三面集落を半ば強制的に全面移転させ、美しい緑と清流と奇勝の数々からなる広大な渓谷を水没させ、その喪失を専門家も惜しんだ元屋敷一帯の貴重な縄文遺跡を消滅させてまで建設されたこのダムは、今後いったいどれほどに地域住民の生活に役立つというのであろう。このダムの建設目的が、治水用、生活用水確保用、さらには発電用とその時々の都合でくるくる変わったことからしても、その必要性が絶対のものではなかったことが窺われる。
  新潟県村上市の北側を経て日本海に注ぐ三面川水系には、すでに大型の三面ダムと猿田 ダムとが造られており、治水や各種用水確保の役割はそれら二つのダムによって十分に果たされていた。各方面からその目的の曖昧さを批判された新潟県や旧建設省の関係当局は、結局、この奥三面ダムを発電用ダムだと位置づけることにしたのだったが、素人目にもその主張に説得力があるなどとはおもわれない。
  奥三面ダムによって新たに生み出される電力は年間約一億三千万キロワット時とのことで、これを金額に換算すると年間およそ十七億円になるという。三面ダムの建設やその維持管理費に投入された資金はすでに一千億円を超えているから、その資金分を償還するだけでも単純計算で百年近くも要することになる。現実には投入資金に利息もかかることだろうし、ダムの耐用年数は百年前後でその間に発電施設のほうも老朽化してしまうから、とても採算の合う話ではない。
  しかも、すでに数多くの水力発電所があり電力事情も悪くはない新潟県が、このダムの発電能力にそれほど依存しなければならなかったとは考えられない。また、私自身がこれほどまでにと驚くほどに変わり果てた眼前の風景は、とても観光資源などにはなりそうにもない。湛水開始後二年足らずでこの有様だから、湖底にはどんどん泥土が溜まり、水質は有機化して事態はいっそう悪くなるいっぽうだろう。
  やりきれない想いに駆られながらも、私はいま一度なんとか気持ちを奮い立たせ、以前に歩きまわった三面渓谷の上流地帯を再訪してみることにした。ダムの湖面が谷奥のどのあたりにまで達しているのか、湛水開始直前に渡ったあの想い出深い吊り橋やその下を流れていた清流はどうなってしまったのか、栗林やそのさらに谷奥にあるブナ林はかつてのままで残っているのかなど、いろいろと気になることがあったからだった。そして、なかでもとくに気掛かりだったのは、二〇〇〇年九月末の探訪の際に急斜面に生い茂るブナ林の深い藪地を掻き分けで降り立った美しい渓流や河原が、その後どうなっているかということだった。
  あのとき泳いだコバルトブルーの淵や石英質の白砂と純白の玉石からなる河床はいまどうなっているのだろうか、さらにまた、その河床の上をサラサラと快い音を立てながらきらめき流れ下っていた、あの青く澄んだ幻想的な清流はなおも健在なのだろうか――私はそれらの存在の無事を祈りながら、水没した三面渓谷の左側を上流に向かって遡行しはじめた。

「マセマティック放浪記」
2002年8月14日

墓標としての奥三面ダム

  二年ほど前まではその偉容を誇っていた元屋敷縄文遺跡群の大部分は水没してしまっていたが、遺跡の最上段部にあたるところだけは現在も冠水を免れている感じであった。ただ、遠目に眺めるその荒れ果てた様子からすると、二〇〇〇年の秋に湛水が開始されてからいったん遺跡全体が水中に沈み、その後のダムの水位低下にともなって再度その部分だけが姿を現わしたもののようにもおもわれた。かなうものなら現場まで近づいて詳しい状況を観察してみたいという気はしたが、ダムの対岸にあるその地点に渡ることはボートでもなければもはや不可能なことだった。  
  国内でも珍しいその貴重な遺跡を守るため、なんとか水位の調整をする工夫だけでもしてほしいというのが一部専門家のささやかな声でもあったのだが、発電用としてのダム機能の維持上からも遺跡の全面水没は避けられないと関係当局は主張し、予定通り湛水は強行された。それにもかかわらず、その一部だけが中途半端なかたちで水面上に無残な姿をさらしているのは、見るに忍びないかぎりだった。
  湛水開始直前に訪れたときまでは残っていた奥三面名物の古風でスリル満点の木造吊り橋もすでにその影は見られなかった。その時の探訪直後に、当時既に廃橋同然になっていたこの吊り橋を最後に渡ったのは私たちだったということになるのではないかと書いたりもしたが、実際にそういうことだったのではなかろうか。その時はまだ橋の下をきらめくような清流が勢いよく流れていたが、むろん、一帯は水没し淀んですっかり生気を失った水が重たく漂うばかりであった。
  新しく設けられたダム沿いの舗装道路を最奥まで詰め、そこで車を降りると、深々と草むし荒れ果てた細い旧登山道を谷の奥へと向かって進んでいった。幸い以前からあった広大な栗林は水没を免れ、いまも昔のままの姿をとどめていた。俊敏で力強い動きをみせたあの小型の赤蛙の棲む沢も健在だった。登山道をしばらくゆくと、以東岳方面から下山中の登山者二、三人とすれ違った。それからほどなく道は深いブナ林の中へと入った。登山道周辺のブナ林もかつてのままの姿をとどめていたので、私の気持ちは少しばかり明るくなった。そして、このぶんだと、二年前の九月に泳いだことのある青く澄んだ深い淵やあのコバルトブルーの幻想的な色の清流、さらには眩しく輝く白砂の河床、綺麗な小石の河原などがいまもそのまま残っているのではないかと、ささやかな期待を抱きはじめたのだった。
  ブナ林の奥の見覚えのある地点までやってくると、私は樹林下の藪を掻き分けながら急斜面を谷底の方へと向かって下っていった。しかし、あと少しというところまで来て、なんだか以前と様子が変わってしまっていることに気づいたのだった。斜面がドロドロになってぬかったり滑ったりし、しかも、前方がほぼ垂直にえぐれてしまっていて河原に降りるルートを探すことができなかった。それどころか、そもそも河原らしいものもが見当たらないのだった。下る地点を間違えたのかなとおもい、また斜面をよじのぼって登山道まで引き返すと、少し奥のほうへと地点を変え、再度挑戦を試みた。しかしながら、結果はまるでおなじだった。
  もうこうなると意地である。私はあえてもう一度アタックを試みることにした。だた、三度目は谷の上流方向へと大きく移動し、適当な斜面を選んでそこから降下しはじめた。その斜面の谷底近くの一帯もやはりツルツルドロドロで、しかもズブズブとぬかったが、泥んこになるのを覚悟でえぐれた地形上を横に移動しながら懸命にルートを探しているうちに、なんとか渓流に面する地点に降り立つことができた。そして、その場に佇んだ私は、ほどなくして何が起こったのかをはっきりと悟ったのだった。
  渓谷の水はゆっくりと流れており、そして水は確かに澄んでいた。普通の川の水などよりは格段に綺麗で、初めてこの渓流を目にした人ならそれなりに美しいと感じたに違いない。だが、以前の美しい川面の輝きを知る者の目にとっては、それは弱り果てた三面渓谷の姿以外のなにものでもないのだった。あの神秘的な色のコバルトブルーの水流は、澄んではいるものの緑がかった色の水へと変わり、横切ろうとして泳ぐと大きく川下方向へと流されるほとに勢いのよかった水流は、わずかに動く程度の流速しかとどめていない有様だった。
  目を凝らしてよく見ると、以前より広くそして深くなった渓流の水底には緑褐色の泥土が厚く沈殿しており、石英質の白砂の河床などもはやどこにも見当たらなかった。さらにまた、斜面の両側や上流域から流れ出た泥土が積もってしまった関係で、渓谷のあちこちに広がっていたかつての美しい河原はすべて消滅してしまっていた。
  私の足元はぬかってドロドロ状態だった。たぶん、融雪期の大量の雪融け水のために一帯の渓谷の水位が上がり、流れがとまって土砂や泥土が沈殿、その後に水位が下がってこのような無残な状況になったのだろうと推測された。下流にダムができ水流がとまったり、そうでなくても流速が落ちたりして自然浄化のバランスが崩れてしまうと、このようなことになってしまうのだ。二年たらずでこの有様だから、今後はますますひどい状態になっていくことだろう。私のささやかな期待もむなしく、湛水前に目にしたあの幻想的な光景はすでに失われてしまっており、それが甦ることなどもう二度とないというわけなのであった。
 
  ジーンズの裾や靴の一面にドロドロの土を付着させたまま、潅木の小枝を手繰り藪を掻き分けて急斜面を登り山道へと戻る私の足取りは重たかった。もう二度とこの斜面を下ることはないだろうとおもうと悲しくもあった。せめてマスメディアの取材陣が湛水前のこの渓谷の幻夢ともまがう光景をビデオにでも収録して残しておいてくれたなら、現在の同所の光景と比較放映することによって、ダムというものが如何に短期間で掛け替えのない自然を破壊してしまうかを人々に訴えかけることもできたのだが……。
  水没直前に元屋敷の縄文遺跡の取材に駆けつけた一部の地方メディアの報道陣も、それよりずっと上流に位置していて当時も知る人の少なかったこの地点まで取材に来ることはまずなかったに違いない。また、たとえ何かしらの情報を得ていたとしても、カメラを担ぎ、苦労してわざわざそんなところまで撮影に入ることなどなかったであろう。視聴率と商業ベースのみに重きをおいた現代日本のマスメディアの報道力や報道姿勢なんて所詮そんなものなのだろうとおもうと、やりきれない気分にもならざるをえなかった。
  この奥三面ダムとまったく同様の社会的構図や政治的背景をもち、多数の住民や環境保護団体の事業見直し要求の声があるにもかかわらず、関係当局によって超大型ダムの完成が急がれようとしているのが、九州の球磨川上流の川辺川ダムと岐阜県北部の徳山ダムの二つである。川辺川ダムの場合には流域一帯の動植物生態の大きな変化や、下流域の川魚漁や八代海(不知火海)沿岸の水産業への悪影響が危惧されている。また、いっぽうの徳山ダムについては、奥三面ダムの場合がそうであったように、大自然の宝庫として知られ、多くの自然愛好者に惜しまれ続けてきた旧徳山村全域を水没させることの是非や下流域の水質変化の是非が問われている。徳山ダム建設予定地の場合、何年か前までは一般の立ち入りも可能で、私もその自然の素晴らしさを目にしておこうと一、二度訪ねたことがあるが、現在は関係者以外の立ち入りは禁止され、急ピッチでダムの完成が急がれているようだ。
  どちらのダム建設事業も、列島改造論が謳いあげられバブル経済の絶頂期に向かって日本社会全体が走り出した時期に計画されたものだから、国家による巨大資本投下先の確保とその経済的効果や資金運用効率のアップに役立つことが第一で、自然環境に対する配慮や本質的な事業目的の是非など二の次の問題に過ぎなかったのだ。しかし、バブル経済崩壊以降の社会状況の変化にともない、巨大ダム建設の目的や必要性が各方面から疑問視されるようにもなってきた。事業計画を推進した関係当局者らは、治水上の必要性や電力資源開発、各種用水の確保、地元経済の活性化などを建設理由にあげたりして一日も早いダムの完成をと願ってはいるようだが、その主張には一貫性がなく、社会状況の推移につれて説得力に欠けるようになってきているのはすでに衆知の通りである。
  関係当局者や関係自治体の事業責任者だって、内心は社会状況の変化を察しダム建設を強行することに懐疑的にはなりはじめてはいるのかもしれないが、行政上の責任問題が発生することなどもあって、既に膨大な資金を投入してしまった計画を中止する決断をくだすことなどもできずにいるに違いない。たとえそれまでの投資が無駄になったとしても、のちに生じる損失の大きさをおもえば事業計画の中止がふさわしいと判断されるケースは少なくないことだろう。ただ残念なことに、そういった決定を敢然として下せるような政治哲学と責任感をもった政治家や行政者というものは、我が国には過去にも現在にもほとんど存在していない。
  いま長野県の県政は前知事の脱ダム宣言が発端となって大揺れに揺れている。同県内のすべてのダム計画を中断ないしは中止するという前知事の政策方針が全面的に正当かつ適切なものであるのかどうかは、それらすべてのダム計画事情に通じていない私には判断がつきかねる。しかしながら、すくなくともそれらダム事業計画のうちの二、三のものが、現在の社会状況や周辺環境の様子からしても必要のないものであることだけはよくわかる。
  イワナ釣りや山菜採り、茸狩りなどをかねて長野県をはじめとする各地の深い沢に入ることの多い私は、ほとんど人跡稀で人目にふれることもなにようなところに、莫大な費用をかけ何重にも造られた砂防ダムや治水ダムに行き当たることがある。たしかに必要だとおもわれるダムがあるのも事実だが、いっぽうでその種のダム周辺の荒れ果てた状況や実質的な無機能無益ぶりから判断し、建設されなかったほうがずっと増しだったろうとおもわれるようなものも少なくない。一見しただけで、なぜこんなところにこんなものを造ったのかと首を傾げたくなるようなシロモノだってずいぶんと存在しているのである。
  県議会から不信任決議を突きつけられ失職した前長野県知事は再度知事選に立候補し、脱ダム問題をはじめとする行政方針や自らの能力や人格に対する県民の信を再度問うつもりだという。有力な対抗馬が現れかけてもいるようだから、その結果については予断の許されないところだが、その影響は他県ばかりでなく国政全体にも及ぶことだろうから、長野県の方々には昨今の状況や将来の社会状況を十分に熟慮したうえでの投票をお願いしたいものである。
 
  すっかり落胆しきって車に戻った私は、せめて変わり果てた奥三面の地の無残な姿をしっかりと脳裏に刻みつけておきたいとおもい、ダム本体のある下流方向へと走りだした。くだんの巨大なアーチ式ダム上に差しかかる少し手前の地点には、大きな石碑の立つ展望台風のスペースが設けられていた。なんだろうとおもい車から降りてその石碑の前に佇んでみると、そこには「三面ここにありき」という短く哀しい八文字の文が、大きく、そして深く刻まれていたのだった。
  在りし日の三面集落をいまも偲ぶ旧住民たちの深い想いを汲んで建てられた碑なのであろうが、私にはそれが、湖底に眠る旧三面集落の墓標であるばかりでなく、広大な奥三面渓谷の自然の、さらには日本という国がかつて有した世界有数の美しい自然そのものの墓標でもあるようにおもわれてならなかった。また、その事実を物語りでもするかのように、
眼下に広がる奥三面ダムの水面は大量の紅茶を溶かしたような色をしていて、ひたすら重たく、そしてどこまでも暗かった。

「マセマティック放浪記」
2002年8月21日

声に出して読みたくない日本語

  出版界はいまちょっとした日本語ブームのようである。街中の本屋の店頭に各種の日本語関係の新刊書が山積みになっているのは皆さんもよくご存知だろう。もちろん、その火つけ役となったのは、斉藤孝著の「声に出して読みたい日本語」という本である。この本が大評判となったために、柳の下の泥鰌(どじょう)を狙ってか、「日本人なら知っておきたい日本語」だの「常識として知っておきたい日本語」だのといった、「なんとかかんとかしたい日本語」なる類書が続々と店頭に並びはじめた。そればかりではなく、「なんとかかんとかしたい諺」、「なんとかかんとかしたい名言」といったような本までが相次いで出版されるようになってきている。  
  こうなってくるともう、妖しく輝く色とりどりのネオンのもつ相乗効果で次々にお客を誘い込む国内各地のラブホテル群のありようとたいした違いがなくなってくる。よくもまあそこまでやるよなあ、というおもいがするいっぽうで、いよいよそこまできたかという危惧感をも懐かなくもない。「日本語、日本語」の大合唱は、「ニッポン、ニッポン」のサッカーの大声援に通じ、やがて「日の丸万歳!、日本民族万歳!、天皇陛下万歳!」の一大唱和へと向かって熱狂の度を増していきかねない勢いさえも感じさせる。
  むろん、その種の本の筆者らにそのような意図や狙いがあるというのではないのだけれども、この国には、そんな唱和の声がいま一度国中に高らかに響きわたることを希(こいねが)う人もすくなくないのは事実である。内心では「声に出して読みたい日本語」のなかに教育勅語や戦陣訓を収録してほしいとおもっている人だっているだろう。
  そもそも、「声に出して読みたくない日本語」しか書けない私のような泡沫ライターが、「声に出して読みたい日本語」についてあれこれと述べるのはどうかともおもう。しかしながら、この種の本を書く人々の日本語文そのものが「声に出して読みたい日本語」であるのかどうかはまたおのずから別問題であろうから、あえてこのような駄文を綴ることを私にも許してもらうことにしたい。
  おもしろいことに、「声に出して読みたい日本語」には現代作家の文章は一篇も収録されていない。同書の中に収録されているのは、三島由紀夫や川端康成以前の文章ばかりなのである。いくらなんでも現代作家の文章がすべてが「声に出して読みたくない日本語」であるわけでもないだろうから(もしもそうだとしたら、それこそ大問題である)、そうなってしまったことの裏にはそれなりのやむをえぬ事情があったに違いない。
  現代作家の文章の場合には著作権や印税などの関係で引用するのが難しいとかいったような事情もあったのだろう。また、たとえ文章の収録が可能である場合でも、その文章を選択した理由やその選定法、判断基準などの是非が問われることになりかねないといったような問題もあったに違いない。むろん現代作家たちへ及ぼす直接間接の影響などについての配慮もなされたことだろう。だがそれでもなお、現代作家の文章がまったく収録されていないというのはなんとなく心にひっかかる。私なら「声に出して読みたくない日本語」と感じるようなものなどが一部に収録されているのも気にはなる。
  いっぽう「声に出して読みたい日本語」の中には、少年期や青年期に暗唱し愛唱した名文や名詩、名歌、名句なども数多く収録されており、それらの名文や名詩名歌の類から私自身おおいに影響を受けたことも確かである。下手な短歌を詠んだりすることもあって、言葉のもつ韻律やリズムには常々かなりこだわるほうである。文章を書くときにも、実際に声にこそ出さないが、声に出して読んだとしてもなるべく自然な響きと流れになって聞えるようにと、心中で声を出しリズムをチェックしながら筆を進めるように心がけている。そんな場合に拠り所となっているのは青少年期に親しんだ名文や名詩名歌のリズムや響きなのだから、斉藤孝氏の主張には共感を覚えるところもすくなくない。
  だが、すくなくとも私たちの世代の場合には、大自然やその中での実生活を通して得られる諸々の深い感動や喜び、悲しみ、苦しみといったようなものが先にあり、それらを表現するにはあまりに未熟な言葉しか持たない未成長な少年青年としてのおのれが先に存在していた。そんな状況の中で先人の名文や名詩名歌にめぐりあうことによって、言葉の力に心から感動し、様々な心象を的確に表現する技術にすこしづつ開眼していったものである。城跡の夜空に昇る満月の美しさを知ってはいたがその美しさを表現するすべを持たなかった田舎育ちの少年が、土井晩翠の「荒城の月」の歌詞に初めて出逢い、言葉の力に圧倒され、眼を開かれた光景を想像してもらえばよいであろう。
  しかしながら、いまや時代はすっかり変わってしまったようである。自然の中での体験もなく、昔のような生活感覚もそなえていない子どもたちの心の中に、かなり時代的にはずれのある名文や名詩名歌の一端を朗読させ暗唱させてまず刷り込むことが奨励される。教育に自信を失った教師たちのある者は、これ幸いとばかりに先を競ってこの種の本を購入し、無批判なままにその手法を踏襲、教育の現場で即刻実践しようとする。何もしないよりはましであることは確かだが、そんな名文や名詩名歌を体内深くに刷り込まれた子どもたちは先々どんな自然観や生活観を形成していくのであろう。また彼らは将来どのような美しい日本語を使いこなし、どのような名文を書き綴るようになるのだろう。その子どもたちが、将来、論語読みの論語知らずにならなければよいがとおもうのはこの私だけなのだろうか。
 「読書はスポーツだ」と主張する斉藤孝氏は、美しい日本語なるものを繰り返し声に出して読み、その響きを全身に叩き込むことによって、健全かつ明朗な精神の持ち主を育成することができるとも考えているようだ。時代の状況が状況であることもあって、その主張にはそれなりの説得力が感じられないこともない。すくなくとも非常手段として、あるいは試行的なプロジェクトとして一部にそのような言語教育法が存在してもよいのかもしれないとはおもう。
  しかしながら、文学の世界などおいて名文や名詩名歌といわれるもののほとんどは、社会生活に適合できず深く傷ついた精神や、焦燥、不安、恐怖、懊悩、生活苦、病苦、失恋、嫉妬、敗北、服従、諦念といったような、屈曲し抑圧された人間心理のもとにおいて生み出されてきたと言ってよい。それらの名文や名詩名歌の創作者たちの大半は、けっして健全でも明朗でもなかっただろうと考えられるのだ。すくなくともそのことだけは忘れないようにしておくことが必要だろう。
 「声に出して読みたくない日本語」しか書けない私は、すこしでも自己啓発をしようかとおもって書店に出かけ、「日本人なら知っておきたい日本語」や、「常識として知っておきたい日本語」、「正確に知っておきたい日本語」、「いつまでも忘れたくない日本語」などといった本を次々に手に取り立ち読みしてみた。その結果、私は自分が、日本人でもなく、常識人でもなく、さらには美しい日本語も正確な日本語も知らない人間であることを悟らされた。明らかにライターとしては失格だと言うほかない。
  どうやら泡沫ライターとしての私に残された道は、「『なんとかかんとかしたい日本語』の本を書いた人たちの日本語」という本が刊行されるのを待ってそれを熟読し、おのれの教養と日本語の表現力を高めるべく、再度文章修行に勤しむことであるらしい。それにしても、「声に出して読みたい日本語」は売れに売れているそうだが、講読者のうちで実際に声に出して読んだ人はいったいどのくらいいるのであろうか……。

「マセマティック放浪記」
2002年9月11日

旅の始まりは講演で

  八月下旬のある日の午後、茨城県友部町にある同県の教育研修センターへと出向いた。この世の中というものはなんとも気まぐれにできていて、折々、私のようなわけのわからぬ漂流人間の話を喜んで聴いてくださろうという教育関係者があったりもする。今回私が依頼を受けたのは茨城県高等学校長研修会での講演で、同県下の公立高等学校の校長先生方を前にして、「私の歩いてきた道」という演題のもとにあれこれと話をさせられるハメになった。ずらりと居並ぶ高等学校長を相手にそんな演題で無責任な話をするほうもするほうであるが、私みたいないい加減な人間を校長研修会に呼んで、そんな話をしてほしいと依頼するほうも依頼するほうであるとおもわれた。
  状況が状況だったので、いつもながらのTシャツにジーンズという出で立ちで演壇に立つのもどうかとおもい、私なりに気を遣って上下のスーツにネクタイという格好で茨城県教育研修センターへと向かった。フリーランスに転じてからは、スーツを着用しネクタイを締めるということなど滅多にないから、全身が硬直した感じになり、このぶんだと自分の吐く言葉の一語一句までがガチガチに固まってしまうのではないかという危惧さえもあった。だが、山内センター所長、小貫センター次長、講演企画担当の永塚教育指導主事、さらにはこのAICの熱心な読者でもあるという松延教育指導主事などの温かい対応もあって、そんな心配はたちまち吹き飛んでしまったのだった。
  講演の依頼をうけたとき、プロフィールはどうしますかと永塚指導主事に尋ねられ、「めんどうですから、さすらいの旅人ライターということにでもしておいてください」と半ば冗談に答えておいたところ、研修会参加の校長先生方にあらかじめ配られた資料中においても、私については実際にそういった感じの短い紹介だけがなされていたようである。なるべくアット・ホームな雰囲気のなかで、自然体のままに講演ができるようにとの研修センターサイドの配慮があってのことだったのだろうが、お蔭でこちらも、そんなことならスーツ姿でなんか来るんじゃなかったとおもうほどに気が楽になり、ずいぶんと開き直った感じで当日の話を進めることができた。
  その日がたまたま人生の境目ともいえる誕生日の翌々日だったこともあって、この際自分の生き恥を洗いざらい曝してみるのもいいのではないかと思い立ち、それなりに覚悟をきめて演壇に上ったようなわけだった。そして、長年の間胸の奥に封印してきた我が身にまつわる悲喜こもごもな過去の出来事などを教育問題や社会問題などに面白おかしく絡めながら、私なりの思いを喋らせてもらうことになった。長くなるので具体的な話の内容は割愛するが、こちらもすっかり腹をくくり、とても教育的とは言えない体験談などをもあれこれと交えながらの講演となったような次第だった。
  ただ、そのことが逆に幸いしたとみえ、会場の校長先生方も皆さん襟を開き、折々笑い声をあげながら私の拙い話に聞き入ってくださった。漫談につぐ漫談だけで通すのもどうかとはおもったので、自分の言語形成や思考形成、さらには思想形成のプロセスなど多少は教育に絡むことなどについても話を広げたのだが、正面きって仰々しくそんな問題だけを取り上げるのではなく、自然な流れをつくってさりげなく話題を深めるように心がけたことが、多少なりとも効を奏する結果にはなったのかもしれない。
  会場の空気をなごますために講演の冒頭などで講演者が飛ばすジョークのことを英語でicebreakerなどというが、講演者と聴衆の双方が異様に緊張し冷たい空気の漂う講演会場などにおいては、このicebreakerのはたらきはとくに重要だといってよい。うまくそれを使いこなせるかどうかによってその後のスピーチの成功度が左右されることだってあるだろう。まだまだicebreakerの活用に未熟な私などは、下手なスピーチを続けながら、もっとその使いかたに習熟する必要があると内心で反省もする有様だった。
  会場の隅のほうにありながらも、熱心に私の話に耳を傾けてくださっている女性の校長先生方の姿もたいへんに印象的であった。私が高校生の頃までは、公立高校の校長を女性の先生が務めるなどということはほとんど考えられないことであったが、女性の社会進出が目覚しい昨今、我が国の教育界の状況は確実に変化してきているようである。ともすると旧来的な発想に縛られ硬直してしまいがちな教育界に、男性社会の淀んだ空気を一掃する新風が吹き込むのはおおいに歓迎すべきことだと、それら女性の校長先生方の大いなる活躍を心の底から祈らずにはおられない気持ちであった。

――この講演を終えたらすぐに私は駐車場の車に戻り、ネクタイをはずしスーツを脱いでTシャツとジーンズに着替えます。そしてそれから、福島、宮城、山形方面を目指して北上するつもりです。極力経費を節約した車で寝泊りの旅ですから気ままなものなのですが、そのぶん成り行きまかせにもなりますから、実際にこのあと何処をどう旅することになるのかはわかりません。近年は旅というと海外旅行と相場がきまっているようですし、紀行文なども海外ものがほとんどのようなのですが、なぜか私は日本の旅にこだわっています。ひとつには、日本語による表現の対象としてはやはり日本の風土がもっとも相応しいと、かねがね考えてきているからなのかもしれません。また、どんな小さな日本の風景にも世界のあらゆる風景に共通するもの、換言すれば、世界中の風景の縮図とでもいうべきもが秘められているとおもうのです。そんな風景の縮図を見つけ出し、その本質を的確に描写することができないとすれば、結局、私には紀行文など書く資質も資格もないということになってしまうでしょう――最後にそのような意味のことを述べて、私はこの日の講演をなんとか無難に締め括った。

  講演が終わるとすぐに、山内洋行研修センター所長と松延和典教育指導主事のお二人の先導で講演会場から車で一走りしたところにある笠間日動美術館に向かうことになった。講師控え室に戻るいとまもないままの移動で慌しいかぎりではあったが、二、三人の女性校長を含む数人の方々の鄭重なお見送りをうけながら、私は茨城県研修センターの玄関をあとにした。
  友部町と隣り合う笠間市の一隅に位置する笠間日動美術館では、たまたま富士山をテーマにした写真展が催されていた。展示されている七十余点の作品は皆アマチュア写真家による写真ばかりなのだそうだったが、どれもが偶然と幸運の導きとしか言いようのない一瞬のシャッターチャンスに恵まれなければ到底撮影不可能な、奇跡にも近い素晴らしい作品ばかりであった。案内に立ってくださった同美術館事務局長の中原昭さんの話によると、当初はもっと展示点数を絞り込もうとおもったが、残ったものはいずれも甲乙着け難い感動的な写真ばかりなので、結局それらの作品すべてを展示することにしたのだという。
  たとえ狙っていたとしても成功する可能性は極めて低いに違いないこの種の風景写真の撮影は、プロの写真家にとってよりも、むしろ、生涯に一度あるかないかのチャンスに賭けるアマチュア写真家に向いた仕事ではあるのかもしれない。それにしても、おなじ富士山が季節や気象条件さらには時刻の変化などに応じてこれほどに多様な顔や姿を見せるとは、かねがね様々な角度から富士山の眺望を目にしてきている私にとっても大きな驚きであった。
  それらの写真を一枚いちまい眺めながら館内をめぐるうちに、これは霊峰富士の隠しもつ内なる世界の果てしなき旅路そのものにほかならないという想いが湧いてきた。講演の結びにおいて、「どんなに小さな日本の風景にもあらゆる世界の風景に共通するもの、換言すれば、世界中の風景の縮図とでもいうべきものが秘められている」と述べてきたばかりだったが、まさにそのことを象徴するような富士山の風景写真展ではあった。一足先にこの写真展会場に足を運び同様の感慨を懐いておられた山内センター所長は、是非その感動を分かち合いたいというわけで、多忙な時間を割いてわざわざ私を笠間日動美術館へと案内してくださったようなわけだった。
  この笠間日動美術館の一階展示室の中央奥には外側に向かって三角形状に突き出た空間があって、壁面が全面ガラス張りになっており、そのガラスの壁面の向こうに真竹か孟宗竹とおもわれる竹林を望むことができるようになっていた。また、その三角形の空間の中央にはジャコメッティ作の細長いブロンズ像が一体だけ配置されていた。その洒落た空間の構成と演出に感嘆しながらガラス越しに外の竹林を眺めるうちに、私はかつてよく訪ねた若州一滴文庫の車椅子劇場のことを懐かしく想い出した。車椅子劇場の舞台奥は全面総ガラス張りになっていて、そのガラスの壁面を通して劇場裏手の庭の竹林を望むことができたものだった。両者の特異な空間構成に見られるこの類似性はまったくの偶然なのだどろうかというおもいが、一瞬私の脳裏に浮かび上がったりもした。
  富士山写真展の見学を終え美術館脇の駐車場に戻った私たち三人は、近くの自動販売機でそれぞれに缶入りの飲み物を買ってベンチに坐り、それらをお別れのお茶代わりにしてしばしのあいだ話し込んだ。ちゃんとした応接室や喫茶室などではなく、お互いウーロン茶やジュースの缶を手にしたまま何の変哲もない青天井のベンチに坐ってのお別れのお茶というのは、見方によっては粋なことこのうえない計らいでもあった。そして、この柔軟さが茨城県教育界の指導部にあるかぎりは、この県の教育における将来の展望は明るいのではなかろうかとおもわれた。
  それからほどなくしてベンチを立った私たちはその場で別れの挨拶を交し合い、先に研修センターへと引き返していく山内所長と松延教育指導主事の乗る車を私は駐車場で見送った。それから車中に戻り、ネクタイをはずしスーツを脱ぐとすぐにTシャツとジーンズに着替え、徐々に夕暮れの迫りはじめた一般国道を水戸方面に向かって走りだした。そして水戸市内で北に進路を変え、海岸線近くを福島方面へとのびる国道6号伝いに、茨城と福島県境の勿来、さらにはその先の小名浜方面を目指して愛車のアクセルを踏み続けた。

「マセマティック放浪記」
2002年9月18日

磯原から新舞子浜へ

  日立市に差しかかるころにはすっかり日も暮れ、東の空から「盆のようにまるい」という言葉そのままの大きな月が昇ってきた。運のよいことに、たまたま満月の夜にあたっていたというわけだった。この望外のチャンスを逃す手はないと考えた私は、どこか海の見えるところに出て、明るい月光と夜の潮のきらめきおりなす魅惑的な情景を楽しもうと考えた。
  しばらく走ると、海沿いに一軒だけ温泉宿のある北茨木町の磯原というところに出た。その地名の通りにすぐそばが海だったので、そこで車を駐め、おもむろに浜辺に降り立った。太平洋上はるかなところにある台風の影響なのだろう、海はかなり荒れていて、絶間なく大波が岸辺に向かって打ち寄せてきていた。浜辺のすぐ近くにある小島の磯のほうからはとりわけ激しく砕け散る荒波の音が響いてきた。その轟々という潮鳴りを聞いているうちに、海にまつわる遠い日の記憶の断片が突然に甦ってきはじめた。回想の中で眺めやる風景というものは、月光にきらめく足元の白砂にもどこか似た「時間の砂」に浄化され、よけいなものが削ぎ落とされてしまっているから、不思議なほどに美しく感動的にみえたりする。
  しばらくその浜辺に佇んでいるうちに、満月の光のもとで大きくうねり輝く眼前の海面の光景と、月の美しい夜などに櫓を漕いで渡った南の島の海の懐かしい記憶とが奇妙なまでに交錯しだし、その結果、現実とも非現実ともつかぬいまひとつの新たな心象風景が私の胸中に形成された。

  荒潮を湧き立て煽る望月の光満ち降る磯原の海

  昼間、明るい太陽のもとで眺めたら、たぶん、この磯原の浜辺やその向こうに広がる海の風景はごくありふれたものにすぎないことだろう。しかし、ある風景を目にし、そこから我々が心で感じ取る心象風景というものは、現実の風景とは異なっていることがすくなくない。一見したところなんでもないような風景をもとに偉大な絵画作品を生み出すこともなどあったりする画家たちのことをおもえば、べつだん不思議なことでもない。もともと風景とは個々の人間が発見するものであるのかもしれない。
  昔の人々が、女性の姿の美しく見える状況を「夜目、遠目、傘の内」などと言い表わしたのも、恋する男が相手の女を慕う心理を「アバタもエクボ」と言ったりするのも、本質的にはそれとおなじことなのだろう。
  よくよく考えてみると、そもそも「現実の風景」なるものが存在するのかどうかさえも怪しいものである。白日下で眺めるのが真の光景であって、朝日や夕陽の淡い光のもとで、さらには月光や星明かりのもとで目にするそれは真の光景ではないなどと言うことができるだろうか。それらのいずれもが等価な風景であり、特定の条件下で見る風景だけがほんとうの風景だなどということはありえない。百人の人がいるとき、それらの中の特定の人物だけを指して「これが真の人間である」と断定することなど誰にもできないのとおなじように……。
  磯原をあとにすると、国道六号からすこしはずれたところにある五浦のあたりをめぐったりもした。それから再び国道筋に戻ると、「吹く風を勿来の関とおもへどもみちもせに散る山桜花」という八幡太郎義家の歌で名高い勿来を通過して福島県に入った。二箇所も掛詞のある技巧的でどこか思わせぶりなこの歌は、はからずものちの源頼朝、義経ら一族の子孫の運命を暗示しているようでもある。
  風よまだ吹いてきてくれるなよ、桜の花もまだこれからというこの勿来の関に吹き寄せてくるようならこの関の先には通してはやるまいぞ――そうおもってはみたももの、そんな我が願いも空しく、勿来の関を吹き抜ける春の嵐のために、満開の日をむかえることもできないままに細く狭い山路一面に山桜の花が散っていくことよ
  我流の下手な解釈をすれば、どうやらそのようなことを言わんとしているらしいこの歌を詠んだ源義家は、勿来の関を馬に乗って越え、当時蝦夷地と呼ばれた東北地方一帯の支配者、阿部一族に戦いを挑んだのだった。
  いっぽう、すっかり近代文明に毒された現代人の私のほうは、おなじ四つ足でも馬ならぬ車に乗って、夏の夜の勿来をひといきに走り抜けた。そして、小名浜を通過し、磐城(いわき)市の東部に位置する新舞子浜へと出た。さすがにちょっと眠気を催しもしてもきたので、浜沿いの空き地の一角に車を駐めると、気分転換をかねて広大な無人の砂浜へと足を踏み入れてみることにした。
  南天高くに昇りつめた満月の光はいちだんと冴え渡り、南北に遠くのびる砂浜を明るく照らし出していた。ゆるやかに流れる夜の大気は爽やかそのもので、さくさくと深く砂中に足跡を刻み込みながら、月下の浜辺を独り占めにして歩きまわるのは実にいい気分だった。ところが、波打ちぎわに近づいて寄せ引きする大波と戯れるうちに突如生理現象を催しはじめた。近くにはもちろんそれ専用の施設らしいものは見当たらなかった。
  ものには我慢の限界というものがあるから、そうとなったらとるべき手段はひとつしかない。山奥でなら珍しくもないことだが、広い浜辺でということになると最近ではあまりその種の記憶はない。もっとも、島の荒磯や浜辺を駆けめぐっていた少年時代のことともなると話はべつである。その状況を克明に描写するわけにもいかないが、とにかく、生活の中で自然に身につけたそれなりの知恵と工夫に頼っていたものだった。
  まあそんなわけもあって、ここはどうせならと天真爛漫だった少年時代の気分に戻っておおいに開き直ることにした。煌々と照り映える満月下の広大な無人の砂浜で、きらめく海面を眺め、さらには高らかに響く波音を聞きながら一大イベントを決行することになったのは言うまでもない。お月様の呆れたような呟きが空のほうから漏れ聞えてくるのではないかともおもったが、この際そんなことなど気になんかしてもおられなかった。
  考えようによっては、人間にとってこれほどの贅沢はないのかもしれないなあ――ふざけていると言われてしまえばそれまでだが、イベントの進行中にそんなおもいが一瞬脳裏をよぎったりもした。さらにまた、カタルシスという有名な言葉があるが、その言葉はまさにこのような心理的さらには身体的状況のことを意味しているのかもしれないという奇妙な想いにかられたりもした。
  深夜の新舞子浜をあちこちと徘徊しその風情と景観を心ゆくまで楽しんだあと、車に戻って二、三人の知人宛てにEメールを打った。文明の利器というものはこういう場合にはたいへんに有り難い。切手や葉書を買い求めたりポストを探したりすることなどなく、自分を取り巻く現在の状況をリアルタイムで直接相手に伝えることができるから、うまく使えばなんとも臨場感溢れる情報のやりとりが可能になる。ただ、だからと言って、この時のEメールで知人たちに月下の新舞子浜での特別イベントの有様をつぶさにレポートしたというわけではない。カタルシス云々はあくまでも私の個人的な体験にともなう印象なのであって、他人の知るところではないからだ。
  メールを送信し終えたとき、時針はちょうど午前二時を指そうとしているところだった。さすがに頭がボーッとしてきたので、これ以上無理して先を急ぐこともなかろうと考え、そのまま眠りにつくことにした。草木も眠る丑三つの刻にあって、はるかな天空で青く輝く月影だけが、一瞬たりともとどまることなく孤高の旅を続けていた。

「マセマティック放浪記」
2002年9月25日

阿武隈洞から入水鍾乳洞へ

  翌日は六時半に起床し、ただちに阿武隈山系のなかほどにある滝根町目指して走りだした。お目当ては同町にある阿武隈洞である。秋芳洞や竜泉洞をはじめ、国内にあるめぼしい鍾乳洞にはほとんど行ったことがあるのだが、阿武隈洞だけはまだ一度も訪ねたことがなかった。たまたま車中泊をした新舞子浜のあたりからはそう遠くないところのようなので、この機会に是非訪ねてみようと思い立ったようなわけだった。途中で朝食をとったりしながら夏井川渓谷伝いにくねくねと山間を縫う道路をのんびりと走ったが、それでも午前九時頃には阿武隈洞前の駐車場に到着した。滝根町に近づくと、遠くからでも石灰岩を削り取った痕跡も生々しい白く大きな岩山が見えるのだが、阿武隈洞の入口はその岩山の中腹あたりに位置している。
  阿武隈洞が発見されたのは比較的最近のことのようだ。一九六九年(昭和四十四年)、石灰岩の採掘中にたまたま発見されたものらしい。国内有数の規模をもつ鍾乳洞で、公開されている部分の洞の長さが六百メートル、未公開部分の洞の奥行きは二千五百メートルにも及んでいるという。未公開部分の洞内には、天井の高さ九十メートルにも及ぶ大ホールや日本一を誇る高さ四十五メートルのフローストーンなどが存在することも確認されている。通常コース千二百円、探検コースを含めると千四百円という見学料はちょっと高いという気もしないではなかったが、その料金が適切なのか否かは実際に入洞してみてからでないと判らないので、まずは素直に料金を支払って洞内に入った。
  広く大きな洞内はよく整備が行き届いており、直接間接の照明にも音声や文字による解説にもあれこれと工夫が凝らされている感じだった。白頭巾をかぶった巨大な妖怪を連想させる妖怪の塔、滝根御殿と命名された高さ二十九メートルの大ホールやそのなかで青白く輝く無数の荘厳な石柱と石筍群、針のような形の結晶が成長してできた海の珊瑚そっくりの洞穴珊瑚、さらには、洞窟壁面を流れ落ちる地下水の石灰分が再結晶し滝のような形になったフローストーンなど、洞内に見る自然の造形の妙はなんとも素晴らしいかぎりだった。
  この阿武隈洞の鍾乳石の全体的な特徴はその色や形の繊細さで、なかでも上部から垂れ下がるように伸び広がるヴェール状やカーテン状の鍾乳石は他の鍾乳洞ではあまり見かけることのない珍しいものであった。クリスタルカーテンと呼ばれる薄手の垂れ幕状鍾乳石などはそれらの代表的なもので、十分に光を当てるとその内部模様などをも観察できるということであった。
  各種のフローストーンや複雑な形状の石柱石筍群の立ち並ぶ竜宮殿もその名に恥じぬ華麗さを荘厳さを誇っていた。また、側面を大小無数のツララ状鍾乳石群で覆い飾られた巨大石筍などにはクリスマスツリーとか樹氷とかいった名がつけらていて、いずれも息を呑むばかりの美しさであった。
  洞内通路の片隅に設けられたベンチに腰掛け、しばしこの洞窟御殿の見事な石の装飾物にみとれながら、この大鍾乳洞が形成されるまでの長いながい時間のことをおもいやった。鍾乳石や石筍がわずか一センチ伸びるのにさえも途方のない時間を要するという状況のもとで、この岩の御殿が現在のような形をとるようになるまでにかかった気の遠くなるような時間の流れにくらべ、おのれの命のなんと短く儚いことだろう。
  もちろん、百数十億年という宇宙誕生以来の天文学的時間に較べればずっと短いに違いないが、それでも何千万年さらには何億年にものぼるという鍾乳洞形成までの時間の集積がいかに途方もないものであるかは、鍾乳石の先端に付着した水滴が間をおいてポトリポトリと垂れ落ちる様子を見ているとおのずから納得がいく。

  かぎりなき時の滴の穿ちたるこの岩殿に命はかなむ

  巨大洞窟の中で静かにしかし着実に繰広げられている壮大な時間のドラマに圧倒されながら、いったんはそんな歌を詠んだりしたものの、人間の命などというものは長ければよいというものではないとあらためて思いなおし、私はおもむろに立ち上がった。この世界の中においては、我々の短い命には短い命なりの役割と意義とがあるはずだ。そのひとつは、たとえば、この鍾乳洞の中にみるような自然の一大ペイジェントの存在を認識し、そこに秘められた大宇宙のメッセージに深い感動と共鳴を覚えることだろう。もともと暗黒に包まれた深い洞内に息づく時間の芸術というものは、たとえそれがどんなに素晴らしいものであろうとも、その素晴らしさを知覚し激しく心を揺すぶられる生命体がなかったら、所詮無に等しいに違いない。その意味では壮大な宇宙もまたおなじであるといってもよい。
  柄にもなくそんな大仰なことなどを考えながら、洞内探訪コースの最後にある月の世界なるところへと出た。相当奥行きのある地底空間があって、石筍、石柱、リムストーン、鍾乳管、フローストーン、ヴェール状鍾乳石など多種多様な鍾乳石群が立ち並び、まるで月世界かなにかにもまがう不思議な雰囲気をかもしだしている。それを、夜明けから夕暮れにいたるまでの光の加減を演出できる舞台照明用の調光システムでライトアップしてあるから、なかなかに見ごたえがあった。

  阿武隈洞を一通りめぐり終えた私は、これなら千四百円の入洞料もまあ仕方がないかとおもいながら外へ出た。そして、ともかくもこれで未訪問のまま残っていた阿武隈洞の探訪を実現することができたというささやかな達成感にひたりながら、なにげなく周辺の観光案内リーフレットを眺めやった。すると、「入水鍾乳洞」という変な名前の鍾乳洞の紹介記事が目に飛び込んできたのである。
  なにーっ、じゅすいしょうにゅうどうだって?、まるで昔の人が身投げの場にしていた鍾乳洞みたいじゃん!――そんなおもいが一瞬脳裏をよぎったりもした。だが、その鍾乳洞の紹介文によく目を通しているうちに、どうやら「にゅうすいしょうにゅうどう」と読むらしいことが判明した。ちょっとしたケービング気分が味わえる鍾乳洞だとのことで、洞内を湧水が流れており、膝下あたりまでを水中に入れながら洞内探索をしなければならないのでそんな名がつけられているらしかった。
  道内は真っ暗で狭いところがほとんどなので、自分でライトを持参するか入口で蝋燭を借りるかし、それで足元を照らしながら奥へと進まなければならないらしい。また天井が特別低くなっているところなどでは、下半身をまるごと冷たい水中につけながら、いざったり四つん這いになったりしながら移動しなければならないようでもあった。身支度に関しては、下半身は濡れても構わない短パンか海パンに草履かサンダル履き、上半身には防水の効いたアノラックか雨合羽をはおるか、さもなければ濡れてもいいシャツ類を着ておく必要があるみたいだった。
  うーん、これは面白そうだなあ、ちょっと大変かもしれないけれど、またとないチャンスだからチャレンジしてみることにするか――むらむらと湧き上がるいつもなからの野次馬根性を抑え切れず、自分の歳も考えずにそう決断したようなわけだった。近頃は、何か興味深い出来事を目前にしたようなとき、「それはまた次の機会に……」などといったふうに先送りすることはしないようになってきている。それとは逆に、たぶんこれが最後の機会で、この機を逃せばもう二度とチャンスに恵まれることはないだろうと考えることのほうが多い。
  どうやら私も「一期一会」という言葉のもつ重みを痛感する年頃に到達したということなのだろう。それならば、すぐにも身を慎んで放浪などはやめ、残された時間をもっと意味あることとの出逢いに費やす心がけがあるかというとそうでもない。身体の動くうちに行けるところは行っておこうと、ますます粗食と車中泊がもっぱらの経費節減の旅に身を委ねることになるのだから始末が悪い。
  阿武隈洞から車で二十分ほど走ったところにある入水鍾乳洞の駐車場に着くと、すぐに濡れてもいい短パンとスニカーに履き替え、Tシャツの上に登山用のフード付きアノラックをはおり防水ライトを手にして入洞口へと向かった。洞口へと向かう道沿いにある食堂や土産物店では、下準備のない入洞希望者に、草履や合羽、照明用蝋燭などを貸し出しているようでもあった。また、入洞口脇の受付事務所に隣接して男女別の更衣室なども設けられてもいた。
  予想外だったのは、洞内の見学コースがA、B、C、の三コースにわけられていて、それに応じて三段階の料金設定がなされていることだった。洞内のもっとも手前の部分だけを見学して戻るAコースは五百円、さらにその奥のカボチャ岩までを往復する片道六百メートルのBコースは七百円の入洞料になっていた。ところがBコースの終点からさらに三百メートル奥まで進む片道九百メートルのCコースだけは特別で、危険度も高いという理由から案内人付きでないと探訪を許可されないようになっていた。しかもその料金たるや、一名〜五名までが四千六百円一律になっていた。五名のグループなら一人当たり九百二十円となり、Bコースより二百二十円高いだけなのだが、一人だと四千六百円をまるまる自分で支払わなければならない。
  誰かCコースを希望する来訪者が他にあれば声をかけて割り勘でともおもい、しばらく受付事務所前で様子を窺っていたが、Cコースは言うに及ばず、Bコースを希望する者さえほとんど現れない有様だった。ウイークデイだったこともあって、来訪者がそう多くはなかったこともその原因だったのだろう。どうしたものかとおもいながら案内表示板の解説などを読んでみると、Bコースのカボチャ岩まででも往復はそれなりに大変で、ケービングの雰囲気だけならそれでも十分に味わうことが可能らしいとわかってきた。それならばというわけで、この際Cコースは断念しBコースで我慢しておくことにした。
  一期一会の精神にのっとれば、洞内の最奥までを往復するチャンスはもうなさそうだからこの際迷わずCコースをと決断すべきところだが、そこが貧乏人の情けないところで、四千六百円が惜しくなってしまったというのが正直なところだった。一期一会の精神が金次第で左右されたというわけだからなんとも格好のつかない話である。たとえ明日食べるものがなくなったとしても今日見るべきものは見ておくという潔い心を持てる状態にまで到達しないかぎり、私の一期一会の精神は所詮贋物に過ぎぬのかもしれないと、あとになって少々反省した次第でもあった。

「マセマティック放浪記」
2002年10月2日

入水鍾乳洞探訪記

  受付事務所で入洞料を払うと、応対してくれた若い女性係員はすぐに、照明器具を持参しているかどうかを尋ねてきた。そのチェックが終わると、つづいて彼女は大きな洞内案内図を取り出し、それを指し示しながらあれこれと注意すべき事柄を説明してくれた。それによると、洞内には水温十度の冷水が流れており、足をつけると最初は冷たく感じるがしばらくすると慣れてくるということであった。さらに、冷水による足のしびれがどうしてもおさまらないような場合には、探洞を中止し引き返してほしいという補足なども付け加えられた。
  また、洞内は暗く狭いところがほとんどなので岩に頭をぶつけたり足を挟んだり滑らしたりしないようにすること、天井が低く狭いため四つん這いになるか尻を床面につけるかしなければ通過できないところがあり、そこで下半身は間違いなくずぶ濡れになってしまうこと、他の入洞者とすれ違うときには互いに道を譲り合ったり助け合ったりしてもらいたいことなどの注意もなされた。
  さらに、カボチャ岩のところがBコースの引き返し地点なので、案内人なしにはそこから先には進んではならないことなどもあらためて伝えられ、最後にゴム輪のついた番号札を手渡された。入洞者の数とその安全をチェックするための番号札なので、探洞を終えて外に出たら必ず管理事務所の係員に返却するようにとの指示もあった。

  防水ライトを片手に照明のない暗い洞内に入ると、すぐに身震いするほどの冷気に全身を包まれた。洞外の気温が三十度を超えているのに対し、洞内の温度は年間を通して十四度と一定しており、温度較差が十五度以上もあるのだから最初そう感じるのも無理はない。もっとも、これが冬場だったら逆に温かく感じたに違いない。
  しばらく進むとかなりの水量をおもわせる滝の音が響いてきた。近づいて音の聞こえてくるほうをライトで照らし出してみると、勢いよく水が流れ落ちているのが目にとまった。実際には音から想像されるほどに大きな滝ではなかったのだが、その音が洞の中空部で共鳴したり何度も洞壁で反射されたりすることによって、何倍にも大きな音になって聞えるのであろう。試しにライトを消してみると、洞内はたちまち真っ暗になり、滝の音だけが深い闇を小刻みに揺すり震わせていた。
  その奥のほうにもさらにいくつかの滝があったが、それらのなかで最も大きなものは高さ六メートルもあるという不動の滝だった。通路からすこし奥まったところにあるためにライトで照らしてみてもその全貌を目にするのはできなかったが、実際に水量のほうもかなりあるようで、轟々という落水の音が洞内の重たい空気を激しく揺さぶり動かしていた。
  ライトに浮かぶ洞内の鍾乳石の様子などをつぶさに観察しながら上下左右にうねる通路を奥へと辿ると、一休洞という名のついた小ホール状のところに出た。そこから先は急に通路が狭くなっている。復路にあるらしい先行入洞者の声が前方からゴワーンゴワーンと響いてきたので、ライトを消したまましばらくそこで相手がやってくるのを待つことにした。
  しばらくすると、闇の奥にボーッと輝く点光が現れた。なんとそれは一本の裸蝋燭の光だった。真っ暗な鍾乳洞の奥のほうから徐々に近づいてくる蝋燭の光というものには独特の雰囲気がつきまとう。横溝正史の小説「八墓村」のクライマクスシーンではないが、実際に体験してみるとなんとも妖しく不思議な感じのするものなのだ。
  ほどなく蝋燭の光は四個に増え、だんだんとその光の輪を広げながら私の佇んでいる地点へと向かってきた。闇の中からヌーッと顔を出して相手を驚かすのも悪いので、私のほうもライトを再点燈し明るく前方を照らし出した。現れたのは男女数人のグループで、いかにも疲れたと言いたげな表情の女性の姿がなんとも印象的ではあった。
  四個の蝋燭とおもわれたが、実際にはそのうちのひとつはキャンプ用の小型ガス燈のようだった。そのガス燈を手にした男とすれ違いながら挨拶を交わし、ついでに、奥にまだ入洞者がいるのかと尋ねると、たぶんもう誰もいないはずだというという返答が戻ってきた。べつにそう願ったわけでもないのだが、どうやらそこから先は錆つきの目立ちはじめたおのれの身体に鞭打っての洞内単独行ということになりそうだった。ただ幸いなことに、「暗闇は幼なじみのお友達」という変わった感覚の持ち主なので、心理的な恐怖感などはまったくなかった。
  急に狭くなった通路をすこしだけ進むといよいよ「ご入水」とは相成った。一瞬冷たいという感覚が爪先に走ったが、その冷たさにはすぐ慣れた。向こう脛くらいまでの深さの流水につかりながら大人ひとりがちょうど通れるくらいの通路を歩いていくと、傾斜がすこし大きくなり急に足元の水の流れが速くなった。足先で水を掻き分けながら上流に向かって進むのだが、その感触がなんとも心地がよい。この水の感触には覚えがある――そう感じた次の瞬間、冷たく澄んだ水の流れる小川で川遊びをしていた頃の懐かしい記憶が全身を貫くように甦った。
  足を止め、ライトで狭い洞内の床面や左右の壁面をあらためて照らし見た私はその美しさに息を呑んだ。澄みきった水が勢いよく流れている細長い床も両方の壁面も、すべて純白の大理石の岩盤からなっていたからである。どうやらこの付近においては、細い洞が厚い大理石の岩盤層のなかを貫いているらしいのだ。ライトの光を浴びて真っ白に輝く艶やかな壁面を掌で撫でたり、流水に磨かれてキラキラ光る滑らかな床面を細々と観察したりしながら、しばし私は望外とも言うべきその自然の演出をこころゆくまで楽しんだ。 
  ライトを消すと洞内は漆黒の闇となり、足元を流れる水音だけが耳元に心地よく響いてきた。この鍾乳洞が発見されるまでは、このような漆黒の闇の中で、気の遠くなるほどに長い時間をかけながら流水による一大彫刻が営々と続けられてきたことなど誰も知らなかったわけである。たぶん日本国内においてだけでも、まだ一度も人目に触れたことのない美しい天然洞窟が地底の闇の奥に数多くあって、いまなお静かに眠りつづけているのだろう。狭い暗黒の鍾乳洞内にただ独りあって、それが誕生するまでの時間を想うのはなんとも不思議な気分のするものであった。
  そこからさらにしばらく進むと音楽洞と呼ばれるところに出た。水深も水量もかなりあるその洞窟部は相当広くなっており、構造的にみてとても音響がよさそうだった。天井から垂れ下がる鍾乳石を軽くコンコンと叩くとよい音がしたことや、ピチャン、ピチャンと垂れ落ちる水滴の共鳴音にも美しい響きが感じられたことからすると、音楽洞という洒落た名の由来もなるほどと頷けようというものだった。この鍾乳洞の素晴らしさのひとつは、発達中の大小さまざまな鍾乳石を自由に手で触ってみることができることだろう。ケービング気分を味わいながら鍾乳洞の成立過程などを体感的に学ぶことができる点で、この入水鍾乳洞はまたとない体験学習スポットでもあるというおもいもした。
  音楽洞の名にあやかって、ライトを消し真っ暗な洞内で下手な歌でも大声でがなったりすれば名歌手にでもなった気分がするのかもしれないとも考えたが、誰かあとからやってきていたりしたらいささか格好悪いので、さすがにそれだけは思いとどまった。ひとつには悪声のために洞内の岩盤が異常な振動を生じて崩壊し、出口が塞がれてしまったらたいへんだということもあったからである。
  水深が膝元近くまである深水洞の丸みがかった鍾乳石は、その手触りといい色艶といいなかなかのものだったが、その深水洞あたりを境にして通路は一段と狭まり、天井も急に低くなってきた。腰をかがめ頭を低くして注意深く歩かないと、岩角で身体のあちこちをガツーンとやられてしまいそうだった。実際、気をつけて進んでいたにもかかわらず、それからほどなく右前頭部に強烈な岩石のパンチを一発見舞われるハメになった。まさに目から火花が飛び散るという感じで、その火花で洞内が明るくならないのが不思議なくらいではあった。
  懐中電灯などで行く手を照らしながら中腰で前進する場合、どうしても視線が前方下側に向けられることになるから頭上の周辺の注意がついついおろそかになってしまう。自分の身体の上下左右は闇に包まれてしまっているため、十分に注意しているつもりでも岩角に頭を打ちつけてしまうのだ。実をいうと、この洞内を往復する間に三度も岩角に頭をぶつけタンコブをつくってしまった。ヘルメットでもかぶっておれば痛いおもいをしなくてもすむのであろうが、その用意のない鍾乳洞探訪者などは、一度や二度は頭をゴツ―ンやることをあらかじめ覚悟をしておいたほうがよいだろう。
  頭をさすりながら、それでもめげずにどんどん奥のほうへと進んでいくと、胎内くぐりと呼ばれている極端に通路の狭まっている地点に出た。腹這いになって人ひとりがなんとかすり抜けられるくらいの岩の裂け目をライト片手に通過していかなければならない。足先からはいると下半身がぴったりと岩間に挟まって動けなくなってしまうことがあるので、必ず頭のほうからさきにはいるようにと注意のあった箇所である。できるだけ身を縮め這いずるようにしてその岩間を通り抜けたが、太った人や身体の動きがままならない高齢者などにはそれ以上の前進は困難であるに違いないともおもわれた。
  右手にライトをもち左手を壁面に軽く触れながら深く腰を折って進んでいくとBコース最大の難所へと出た。第二胎内くぐりである。天井の岩盤が極端に低くなってしまっているため、四つん這いになって進むか、さもなければ胡座をかくか尻をつき膝を折り曲げるかした格好で二十メートルほどの距離をいざるように進まなければならない。だが、床面を流れる水の深さが三十センチほどはあるので、どうやっても下半身はずぶ濡れになってしまうのだ。二人の場合だと、一人がそこを通過する間もう一人が明かりで通路を照らし出すこともできるのだが、単独行とあってはそうもゆかない。
  ただ幸いなことに携行していたのが防水ライトだったので、点燈したたままそれを水中に入れ、四つん這いになってその地点を無事通過することができた。もちろん、下半身はずぶ濡れになってしまったが、ある種の達成感のようなものが加わったせいか、寒さを感じるようなことはまったくなかった。
  そのあとも、低く狭いながらも変化に富んだ洞内の景観を楽しみながらどんどんと進んでいくと、ついに進行方向右手に大きなカボチャ様の岩が現れた。Bコースの最終地点カボチャ岩である。カボチャ岩の向かい側はちょとした淵になっており、その地点からはさらに奥のほうへと向かってより細く狭い洞道が続いていた。立膝をつき頭を低くした状態でなければ前進できそうにない真っ暗な洞内をライトで照らし出してみたが、二、三十メートル先のところで左手上方に洞がカーブしているらしく、残念ながらそれ以上奥のほうを見通すことはできなかった。
  それでもカボチャ岩から十メートル余のところまではCコースに足を踏み入れてみた。しかしながら、案内人つきで五人まで四千六百円というCコースの入洞料を払っていない身としては、それ以上の探洞を断念せざるをえなかった。心の片隅では、誰も見ていないことだからそのままCコースに突き進んでみたらどうだという声もしなくはなかったが、もし何かあったら管理者に迷惑をかけるし、そもそも違反行為はよくないことだという良心の声のほうが勝り、結局はその声に従ったようなわけであった。
  洞口へと引き返すまえに、私はカボチャ岩に腰をもたれ掛けてライトを消し、文字通り一寸先も見えない闇の中でしばし瞑想に耽けることにした。それから五、六分ほど経った頃だろうか、誰かがこちらに近づいてくるけはいがした。そしてそれからほどなくして姿を見せたのは若い夫婦連れらしい一組の男女であった。二人の会話の様子からすると男性のほうは何度かこの鍾乳洞を訪ねたことがあるらしかったが、女性のほうは初めてらしく、無事に洞外に戻れるかどうか少々不安げな様子だった。
  懐中電灯で照らし合いながらお互いに挨拶を交わしたあと、私は二人の持参したカメラでカボチャ岩をバックに記念撮影をしてあげた。二人はあらかじめ水に濡れないようにそのカメラを防水用パックに入れて携行してきたもののようだった。そのカメラを手にして撮影を担当する私のほうは、必然的に淵のある側に身を寄せて低く構えねばならなくなったため、どっぷりと下半身が水につかってしまう有様だった。
  カボチャ岩からの復路は若い夫婦が先に立ち、私がゆっくりとそのあとを追うかたちになった。一度辿った道を引き返すだけなのでとくに大きな問題はなかったが、先行する夫婦の男性のほうが突然何かにぶつかりゴツーンという鈍い音をたてた。それに続いて「イテーッ!、イテーッ!」という悲鳴があがったことから察すると、どうやら彼は岩角にひどく頭を打ちつけてしまったようだった。そして、その声に気をとられた次の瞬間、こんどは自分の頭のほうにまたもやゴツーンという衝撃が走った。頭の芯までクラクラするような激痛に必死になって堪えながら、再度にわたる自分の不注意を悔やんではみたものの、すべてはあとの祭りであった。
  入洞口へと戻る途中で、新たに奥を目指す四人の家族連れとすれ違った。まだ小学生低学年とおぼしき二人の男の子たちは、身体が小さく俊敏なだけに洞内での動きは軽やかで、未知の洞窟探検を心底楽しんでいる様子だった。あとに続く両親のほうはかなり悪戦苦闘しているようではあったが、それでもこの風変わりな鍾乳洞に対する好奇心のほうがその苦闘ぶりをはるかに上回っている感じだった。
  ちょっとした冒険心のある子どもたちなら大喜びしそうだし、いつまでも想い出に残るだろうことも請け合いなので、フィールドワーク好きの家族にはこの入水鍾乳洞の探検をぜひともおすすめしたいものである。地質学の体験学習を兼ねての探洞ならばいっそう収穫は多いことだろう。
  無事に洞外に出ると腕につけてあった番号札を管理事務所に返却し、水に濡れたシャツやパンツを着替えるため急いで車へと戻ったが、結果としてはなんとも充実感のある鍾乳洞探訪ではあった。洞内で頭につくった二つの大きなコブが消えるのに二、三日を要したのと、中腰の不自然な姿勢を長時間案続けざるをえなかったのが原因でしばらく腰のあちこちが痛んだのは計算外だったのだが、自ら望んで挑んだ初等ケービングの体験の代償としては、それらはやむをえないことではあったのだろう。

「マセマティック放浪記」
2002年10月9日

喜多方の町を再見する

  喜多方が蔵とラーメンの町だということは以前からからよく知っていた。だが、この折の旅において、会津若松から米沢に抜ける途中立寄った喜多方では想わぬ発見がいくつかあった。喜多方市内の一角には、かつて市内のあちこちに建っていた蔵々を移築し、その内部に各種の歴史資料や民俗資料等を展示した「喜多方蔵の里」という資料館が存在している。さして大きな期待も持たずにこの資料館を訪ねた私は、そこで喜多方という町の秘める意外な一面をまのあたりにし、すくなからず驚かされることになった。
  慶応四年に建てられた旧井上家穀物蔵と説明のある蔵内には、かつてはこの地の誇る伝統職人技芸であった会津型紙作成についての技術資料が展示されていた。型紙とは着物の布地に種々の絵柄や紋様を染め付けるための染色用原型紙のことである。すぐれた型紙技術があったということは、当然この地では布地の染色も盛んだったことを意味している。江戸時代にあっては誰でも自由に型紙を造ることができたわけではなく、幕府から特別に許可のおりている伊勢、江戸、それにこの会津喜多方の職人たちしかその制作に携わることができなかった。解説されているところによると、一時期までは伊勢地方の職人集団だけの占有技術であったともいう。喜多方へ型紙技術を伝えたのは伊勢の職人だったそうで、その後幕府から特別な認可がおり、会津藩の管轄のもとに本格的な型紙造りがおこなわれるようになったようである。
  型紙を彫るに先立って、職人たちはまずその地紙を造らなければならなかった。地紙は上質の和紙を柿渋で三枚接着して造り、それに職人が染め型を彫り込む。精緻な染め型を彫ったり、完成した精巧な型紙で染め付けをおこなったりするときに型崩れが生じたりしないように、紐入れとか沙貼りとかいった特殊な処理なども施されていたらしい。
  展示資料によると、型紙彫りには、道具彫り、縞彫り、錐彫り、突き彫りの四通りの方法があったようだ。道具彫りとは、職人が様々な刃形の彫刻刀を必要に応じて自作し、それを使って地紙を打ち抜くように図柄や模様を彫る技法のことを、また、縞彫りとは、定規に彫刻刀の刃を当て、数回手前に引いて均等に筋模様を彫る技法のことをいったらしい。錐彫りとは小さな円形の穴を無数に連ねて紋様を彫る技法で、先端が小さな半円形の細刃を半回転させて地紙を刻んでいたという。最後の突き彫りの場合は、切り出し形の彫刻刀を用い、前方に刃を押し出すようにして細かな模様を彫り刻んだのだそうだ。
  型紙彫りに使用された彫刻刀類や完成した型紙なども展示されていたが、神がかりとでもいうほかない往時の天才職人たちの技にひたすら感嘆するばかりであった。小紋などの染付けに用いられた型紙などは見ているだけでも気の遠くなりそうなくらいに精緻をきわめていたからだ。着物全盛の時代における粋な柄模様を――現代風にいえば最先端ファッション、あるいは最流行ファッションを創造し支配するための根幹技術だったわけだから、幕府が型紙造りに厳しい規制を設けていたのも当然のことだったと頷ける。
  喜多方産の型紙は会津型紙と呼ばれ、それによって染め付けられた生地類は広く東北地方一帯に出回っていたようだ。喜多方の職人たちはやがて本場の伊勢型紙をも凌ぐ美しく精巧な型紙を生み出すようになっていったようだが、近代に入りプリント技術による布地の染め付けが普及したために、型紙技法による伝統的な染め付け法は廃れ、技術を伝承する職人もいなくなってしまったという。すべては時代の流れというしかないのだろうが、なんとも惜しい気がしてならなかった。
  蔵の里には穀物蔵のほかにも、味噌蔵、勝手蔵、厠蔵、酒造蔵、座敷蔵、店蔵といったような様々な蔵が移築展示されていた。そして、それらを一通り見ていくうちに、喜多方の蔵々は単なる貯蔵庫としての蔵ではなく、各種生産作業場用、台所用、トイレ用、住居用、来客接待座敷用、商店用など日常生活全般と深く結びつく存在であったことがわかってきた。地元出身の写真家の故金田実は、近代化の中で失われゆく喜多方一帯の蔵々を惜しみ、その情景を写真にして広く全国に紹介した。そのことが発端となって喜多方の蔵は多くの人々に知られるところとなり、結果的に民俗文化遺産としての蔵保存が実現したのだが、そうなったことの背景には、この地の蔵が単なる貯蔵庫ではなかったといった事情などもあったのだろう。
  ちなみに述べておくと、喜多方がラーメンで有名になったのも金田実のおかげである。珍しい蔵々の写真が広く紹介されたのを契機に、喜多方には全国から多くの写真家や見物客などが訪れるようになった。当時喜多方にはそういった来訪者が食事をとれるお店などがほとんどなく、やむなくして彼らは近くにあった一軒のラーメン屋に立寄るようになったらしい。たまたまそこの店で出すラーメンが美味しかったため評判となり、それが呼び水となって似たようなラーメン屋が次々に現れ、独自の味を競うようになったようだ。そして、ついには喜多方ラーメンというブランドまでが生まれるにいたったのだという。
  蔵を利用した展示館の中には、東洋のナイチンゲールと謳われた瓜生岩子の年譜と業績を列挙したコーナーや、一時代前に独特の教育理念の実践で名を馳せた教育者蓮沼門三の業績を称える資料室などもあった。私自身にすれば、どこかで名前くらいしか聞いたことのない人物たちだったが、二人ともこの喜多方地方の偉人なのだそうである。たまたまのことだったが、よい機会ではあったので、その足跡を興味深く拝見させてもらうことにした。
  瓜生岩子という人物は、戊辰戦争などにおいて多くの負傷者を敵味方へだてなく救済したのを手始めとし、貧民救済など様々な社会福祉運動に生涯を献げた先駆的女性福祉活動家であったようだ。浅草には彼女の業績を記念した銅像が立っているそうで、その碑文は渋沢栄一の揮毫になるものだという。
  十三巻もの分厚い著作集などあることすら知らなかった教育家蓮沼門三について、その偉業を語ったり評したりする資格などこの身にあろうはずもないが、それはともかく、半ば伝説的ともいえそうな彼にまつわるエピソードそのものはなかなかに面白かった。解説文によると、蓮沼門三は明治十五年二月二十二午前三時過ぎ、大雪のさなか、道端の胡桃の木のもとで生まれたのだという。夫の実家に独りで挨拶に行った母親が帰途の山道で突然産気づき、誰の助けもないままに雪上に生み落とされたのだそうだ。誕生の瞬間からその人生はおそろしく劇的だったというわけである。
  そんな彼の誕生の苦労を知ってか知らずか、彼が幼いうちに実父は家を出奔し行方不明になってしまう。嫁ぎ先の配慮もあってその後いろいろな再婚話が周辺から持ち上がるのだが、母親は頑としてそれらの話を断り、義父母に尽す日々を送った。やがて母親は困窮する生活を支えるため他家に住み込み下働きをするようになるのだが、お世辞にも裕福とはいえなかったその家の主は幼い門三を我が子のように可愛がってくれたのだという。その様子を見ていた母親は、それまでのかたくなな態度を変え、その相手と再婚することを決意した。蓮沼という姓は母親が再婚した先のものであったという。
  苦節を重ねに重ねながら成長した門三は、やがて向学心に燃えて上京し、現在の東京学芸大学に入学、他の学生たちと共に寮生活を送るようになる。選ばれた学生という一種の特権意識を持ちバンカラの美学を誇る寮生たちが土足で寮内に踏み入ることなど常のことで、そのため玄関や廊下などは汚れほうだいであった。そんな中で門三だけは、他の寮生の蔑視や嘲笑をものともせず、来る日も来る日もただ独りで雑巾がけをはじめとする清掃に専念し、寮内の美化に努めたのだという。 
  そんなある日、過労がたたり体調を悪くしていた彼は、掃除の最中に高熱を出し、血を吐いて倒れてしまう。それでもなお必死に頑張ろうとする門三の姿に、それまで彼の行動を冷視していた同室の寮生も自分が悪かったと反省、以後、彼と共に寮内の美化作業に勤しむようになった。そして、いつしかその美化運動は学生寮全体に広がり、皆が率先して寮内の整頓と美化に努めるまでになっていったのだという。
  どんな小さな誠意といえども、諦めずにそれを積み重ね続けていけばやがてそれは大きな力となって社会を動かすようもになる――そんなふうにも読み取れる蓮沼門三の教育理念の根幹を、このエピソードなどはよく象徴しているのだろう。立派なことこのうえないのではあるが、生来無精なうえに、現代社会の個人主義的な環境にすっかり毒されてしまった私などにはとても真似ができそうにない。すくなくとも、ふらふらと旅をしながら勝手なことを綴っている身がおいそれと気軽に近づくことのできるような手合いではなさそうだ。
  のちに修養団運動などを通して教育面で国際的にも貢献したという蓮沼門三は、昭和五十五年に他界した。晩年は天皇の前で御進講などをする栄誉にも恵まれたということだ。彼が残したという言葉が資料室の壁に表示してあったので、ついでにそれを紹介しておこう。あの資料展示室の様子からすると、私のような気まぐれな旅人がたまにふらふらとやってきて、室内を一瞥しただけでそそくさと立ち去るのがよいところではないかともおもわれるから、こんないい加減な紹介でも、いくらかは蓮沼門三先生の霊の慰めになるかもしれない。

人よ醒めよ 醒めて愛に帰れ
愛なき人生は暗黒なり
共に祈りつつ
すべての人と親しめ
わが住む郷に
一人の争ふ者もなきまでに

人よ起てよ 起ちて汗に帰れ
汗なき社会は堕落なり
共に祈りつつ
すべての人と働け
わが住む里に
一人の怠け者もなきまでに
     (蓮沼門三)

「マセマティック放浪記」
2002年10月16日

さらに小さな発見と出逢いが

  喜多方蔵の里の資料館にはもうひとつ興味深い展示物があった。明治十五年に起こった喜多方事件の資料である。時の明治政府は会津三方道路の開拓を強行しようとしていた。会津三方道路とは会津から山形県に通じる羽州街道、栃木県に通じる野州街道、そして新潟県へと通じる越後街道のことで、いずれも険しい山岳地帯を縫い貫く道路であったため、当時の技術のもとでは大変な難工事が予想されていた。
  その時代山形と福島の両県令を兼ねていた薩摩出身の三島通庸は、会津一帯の農民を強制徴用しその道路開削にあたらせたが、あまりにも常軌を逸した難工事だったため、ひどく農民を苦しめることになり、彼らの間には必然的に待遇改善の要求運動や道路そのものの開拓に反対する運動が勃発した。そして、その運動を支援し、政府官僚らによる圧政に抵抗するため、地元や国内各地の自由民権思想家有志たちが喜多方の属する耶麻郡周辺に集結した。それに対し、県令の三島通庸は同じ薩摩出身で警視庁権大警視の佐藤志郎を腹心として福島県耶麻郡長に招聘し、反対者の徹底弾圧にあたらせた。
  明治十五年、三島の指示を受けた佐藤は官憲を動員して一帯の多数の農民や自由民権家を次々に逮捕投獄し、容赦ない圧政と民権思想弾圧を試みた。これが世にいう喜多方事件にほかならない。逮捕された農民や民権家たちは結局裁判で無罪となるが、三島県令らが責任を問われることは最後までなかったようである。国家の近代化を最優先させていた明治政府には、道路建設強行にともなう民衆の多大な苦しみを黙殺しても、まずは道路の完成を急ごうという暗黙の方針があったからなのだろう。
  この喜多方事件を契機として自由民権運動は民衆の間でさらに広がりをみせ、板垣退助らの登場をみることになるのだが、それに比例するかのように政府当局や官憲による規制も厳しさを増していったようである。喜多方事件に関する当時の膨大な裁判資料がガラスケースに保管展示されていたか、誰でも自由にそれらを手にとって閲覧できるようになっていたのがいかにも暗示的で、私にはたいへん興味深くおもわれた。もうすこし時間があれば墨書されたそれらの資料にゆっくりと目を通してみたいという気もしないではなかったが、どう考えても容易にできるようなことではなかったので、さすがにそれは断念せざるをえなかった。
  資料のひとつとして、末広重恭著「花間鶯」の挿絵で、「雪中拘引の図」なるものが展示されていたが、この絵図などは興味深いことこのうえなかった。吹雪きの中を官憲によって自由民権家が引き立てられていくところを描いた絵図なのだが、縄を掛けられているにもかかわらず毅然とした着物姿の民権家は、風に髪を逆立たせ、衣の裾をはためかせながら、恐ろしい形相で前方を睨んで立っている。豪雪の中であるにもかかわらず、拘束された両手は肘からさきが剥き出しで、両足はなんと裸足のままである。それに対し、三人の官憲のほうは、制服制帽のうえに厚い外套をはおり、皮手袋に皮の長靴という出で立ちなのだが、なんとも情けなさそうな表情を浮かべ、全身に自信のなさそうな様子を漂わせながらガタガタと雪に震えている。その挿絵師をふくむ当時の会津民衆の官憲への内なるおもいがその絵図にそのまま乗り移っている感じであった。
  高橋由一といえば、芸大美術館保存の「鮭」という作品で広く知られる高名な写実画家である。この高橋由一は当局から三方道路完成直後の風景を克明に描くように依頼されていたものらしい。彼の描いた道路とその周辺の景観図がかなりの枚数展示されていたが、それらの絵図からもいかに三方道路の開削が難工事であったかを窺い知ることができた。当時この地方で共同作業に用いられていた頑丈な修羅(資材運搬用の木製橇、この地方では「シラ」と呼ばれていた)なども並べられていたが、そのような修羅はオンノレの木という硬木から造られていたらしい。オンノレとは「斧折れ」が訛った言葉なのだそうで、斧が折れてしまうほどに硬い木なのでそう呼ばれていたという。当時、オンノレの木は貴重な樹木として大切に守られ、数十年に一度といった具合に、その伐採は必要最小限にしかおこなわれていなかったようである。

  喜多方蔵の里のすぐ近くには喜多方市立美術館があった。門前の催し物案内板を見ると、たまたま「巨匠たちが描いた日本の自然」という風景画展が催されているところらしかった。意外なとことろで思いがけない風景画展にめぐり逢った私は、これを見逃す手はないとすぐさま入館し、素晴らしい作品の数々に対面した。日本画壇にキラ星のごとく輝く高名な画家たちの描いた風景画はいずれも素晴らしい作品揃いで、甲乙つけがたい感じだった。各地の国立公園を描いた作品もかなりの数あったが、なかにはすでに失われてしまったずいぶん昔の風景などもあって懐かしいかぎりであった。
  展示作品のなかには坂本繁二郎の描いた「桜島」という題の初めて目にする風景画などもあった。総じて淡い青の色調で描かれており、テーマとなっている対象物の輪郭がぼーっとしていて、いまにも背景の世界に溶け込み同化してしまいそうにもみえるのは、他の作品にも共通する坂本の絵の大きな特徴と言えた。若い頃はどこか影の薄い感じのする坂本繁二郎の絵にいまひとつ馴染めないでいたのだが、ある時期を境に、けっして激しく個の存在を主張しようとはしないその画境がなんとなくわかるようになってきた。能の小面を描いた作品が彼にはあるのだが、たまたま目にしたその小面の絵の凄みに圧倒されたのも、私が坂本繁二郎の世界にのめり込むひとつの大きな転機となった。
  「海の幸」で知られる青木繁の親友で、夭逝した生前の青木をなにかと陰で支えたという坂本繁二郎は、あらゆる点で青木とは対照的な人物だったらしい。一口に言えば「動」の青木に対して「静」の坂本――激情家で志向性の強かった青木と違って坂本のほうは穏やかで、きわめて自己抑制のきいた人物だったようである。天才と謳われ自らも天才を自負しながら、強烈な構図と色彩をもつ絵を凝縮された時間の中で描いて早世した青木、いっぽう、地味だが着実な人生を自然体で生き抜き、どこか枯れていて流れるような構図と淡い色彩の絵を描いて大成し、八十を悠に超える天寿をまっとうして逝った坂本と、画家としての二人の人生もまたきわめて対照的だったみたいである。互いに異質な存在だったがゆえにこそ、東京美術学校(現東京芸術大学)時代の青木と坂本の間には深い友情の絆が芽生えたのであろう。
  坂本繁二郎はよく馬のいる風景を描いているが、それらの絵のいずれもが見る者の心になんとも不思議な印象を焼きつける。見方によっては何もかもが陽炎のようにはかなく実体のない存在にも感じられてしまいそうな絵であるからだ。彼の描いた絵のなかには水色をした馬がおり、空色をした馬がいる。そしてまた、逆に、馬の色をした水があり、馬の色をした空がある。
  悠久の大自然のなかにあってはあまりにも儚い影のような束の間の生、しかしながらその淡い影のような一瞬の生なくしては意味もなく存在もしえない自然界――坂本繁二郎は、東洋思想の影響を大きく受けたホワイトヘッドの哲学の説くような深遠な世界を直観し、たぶんそれを絵にあらわそうとしたのだろう。断ち難い自然界との連続性のなかで、外界との境界の定かでないままに淡くほのかに浮かび上がる生命の神秘、さらにはその光の影のごとき生命を通してのみ認識される果てしない外界の広がり、そういったようなものを坂本はその卓越した審美眼のむこうに読みとっていたに違いない。
  たまたま喜多方の地でめぐり逢った坂本繁二郎の素晴らしい一枚の風景画を通して、かつて感動したいろいろな坂本作品を懐かしく回想し、ささやかな想いを深めることができたのはこの旅の収穫のひとつでもあった。
  ついでだから、この折に記憶の古層から突然に甦った奇縁ともいえる想い出のことにちょっとだけ触れておこう。私が幼かったころに一世を風靡したNHKのラジオドラマ「笛吹き童子」のなかなどで美しい尺八の音が流れたりすると、すでに鹿児島県の甑島の地で死の病の床に就いていた母は、「ああ懐かしい蘭堂さんの尺八だ……」と呟きながら、それに聞き入っっていたものだ。福田蘭堂とは笛吹き童子のほか、白鳥の騎士など当時の数々のラジオドラマの音楽を担当し、その名を知られた人物である。
  横浜生まれの横浜育ちだった母は、実をいうと若い頃福田蘭堂夫妻の家のすぐ隣に住んでいた。その関係で福田家とは一時家族ぐるみの交際があったようである。福田蘭堂夫人は川崎弘子という当時の有名な美人女優で、母の形見のアルバムには福田夫妻と一緒に撮った大きな写真などが貼られている。川崎弘子直筆のサイン入りの写真なども残っているようだ。かつて母が話してくれたところによると、綺麗な月の夜などには蘭堂氏の奏でる美しい尺八の音がろうろうと響いてきたものだったという。
  むろん、そんな遠い日の記憶を私が急に想い出したのにはそれなりの理由があった。福田蘭堂とは、坂本繁二郎の親友だった青木繁の息子、福田幸彦のことだからである。私がその事実を知ったのはずっとのちになってからのことだったが、その母堂はむろん福田たね――青木繁の恋人で、「海の幸」に描かれている裸体の女性のモデルになったと言われているあの人物にほかならない。坂本繁二郎の風景画「桜島」が発端となり、連想が連想を生んだ結果、記憶の底に沈んでいた想い出が甦ってきたようなわけだったが、とにかくも不思議な旅の一日ではあった。

「マセマティック放浪記」
2002年10月23日

奥の細道・山刀伐峠考

  山形盆地を北に向かって走り抜け尾花沢に入ると、そこで国道十三号に別れを告げ、陸羽東線の羽前赤倉駅付近へと通じる県道に車を乗り入れた。お目当ては奥の細道で有名な山刀伐峠(なたぎりとうげ)だった。いまはすっかり拡幅整備されたこの道を、芭蕉一行は現在の羽前赤倉あたりから逆に辿って尾花沢方面へと出た。この県道は近年完全舗装され、旧道の山刀伐峠越えの道を通らず峠下のトンネルを抜けて赤倉温泉方面に通行できるようになっている。そんなわけだったから、しばらく県道を走ったあと、トンネルのすこし手前で右手に分岐する細い旧道に入った。一車線しかない細い道だが一応舗装はなされている。
  旧道を上りつめたところにはすこし開けたスペースがあり、そこが小さな駐車場になっている。その駐車場で車を降りて木立を縫う細道をすこし歩くと、芭蕉が通った当時のままの山路がいまもそこだけ残っている本来の峠道のところへ出た。この山刀伐峠には今春も旅の途中で立寄ったのだが、その時はまだ残雪があって寒々としており、しかも夕方の七時近くということもあってあたりは暗く展望もきかなかった。
  幸いこの日は天候もよく、また午前中の時間帯ということもあって、尾花沢側の木立の間からは月山連峰の大きな山影が望まれた。木の葉の積もる昔ながらの細い峠道の脇には子持地蔵の祠がひとつあり。その近くには芭蕉翁の顕彰碑が建っていた。この子持地蔵の祠はかなり昔からこの地にあったものらしいから、芭蕉一行がこの峠を越えた時にも、現在のものとおなじではないにしても似たような地蔵像のようなものが祀られていたのであろう。旧山道そのものは細いけれどもしっかりと踏み固められており、カサカサと落ち葉を踏み鳴らしながらその道を辿るのはなかなか気分のいいものだった。
  車に戻ると、来たのとは反対側の赤倉温泉方面へと下ったが、こちら側はかなりの急斜面で道もくねくねとうねっており、道路の両側の森林も深々とした感じだった。でもその旧道は走り出してほどなく先刻の県道に合流した。峠の上から県道との合流地点までの高度差は百メートルくらいのものだったろうか。再び県道伝いに羽前赤倉駅方面へと走りだした私だったが、そんななかで突然胸中にある素朴な疑問が湧き上がってきた。奥の細道の道中にあって最大の難所だったとも伝えられ、昔の古典の授業などにおいても芭蕉一行が大変な難儀をして越えたと教えられたこの山刀伐峠の状況について、実際のところはどうだったのかという想いが生じたからである。
  奥の細道の本文中にも曽良随行日記にも山越えをした旨の記述があるだけで、具体的にはその名称の記されていない山刀伐峠は、標高八九七メートルの大森山と標高七六二メートルの金山をつなぐ稜線の鞍部にあたり、その高さは海抜四九〇メートルほどである。芭蕉らが逗留したという封人の家のあった堺田付近の海抜高度を地図で調べてみると三、四百メートルほどだから、高度差はせいぜい二百メートルたらずのものだろう。奥の細道の行程記録を調べてみると、芭蕉らは現在の六月下旬頃にあたる時期に、堺田から尾花沢まで約三十キロメートルの道のりを一日かけて歩いている。
  堺田と山刀伐峠間十二キロほどの道のうちもっとも高度の低いところは現在の赤倉温泉付近で、海抜三百メートル強のようである。そうだとすれば、芭蕉一行は堺田を出たあとゆるやかな坂道伝いに百メートルほど高度を下げ、それからまた徐々に二百メートルほど高度上げて峠を越え、尾花沢へと下っていったことになる。
  実際に自分の目で確かめてみたかぎりでは、このくらいの険しさと高さの峠を越える山路なら当時どこにでもあったに違いないというのが正直な印象だった。むろん、当時はそれなりに淋しいところではあったかもしれないが、地形的にみたかぎりでは、たとえ元禄時代のことではあったとしても、それが想像を絶するほどに峻険な難路だったとは考えにくい。しかし、芭蕉は、「尿前の関」の章のところで次のようなことを述べている。
 
  宿の主人によれば、ここから出羽の国に出る場合、途中に大きな山があって道もはっきりしていないから、道を案内してくれる者を頼み、その者の先導で山越えをしたほうがよいということである。それならばと人を頼んだところ、道案内にはもってこいの頼もしい若者がやってきて、刃の反った山刀を腰に差し樫の杖を手にした姿で我々を先導してくれた。我々は、「今日こそはきっと危ない目に遭うにちがいない」とはらはらしつつ、またそのうえに辛く苦しい思いを重ねながらそのあとについて行った。宿の主の言った通り、その高山は森閑としていて鳥の鳴き声ひとつ聞こえず、樹木が鬱蒼と繁っているため樹下の道はひどく暗く、まるで夜道を歩いているような感じである。「雲端につちふる」という杜甫の詩の一節をも想い出すほどに薄暗くて凄まじい有様で、笹薮の中を踏み分け踏み分け前進し、流れを渡ったり岩に躓いたりするごとに冷や汗で肌身を濡らしながら、やっとのことで最上の庄に出た。案内の男は、「この道を通る時にはきまって困ったことが起こるのですが、今日は無事にお送り申し上げることができ幸いでした」と言い残し、喜んで帰って行った。その言葉を聞いたのは無事に道中を終えてからではあったけれも、胸がどきどきしてならなかった。

  堺田から尾花沢方面へと抜けるこの山道一帯がそれほど峻険な地形ではなかったにしても、当時はきわめて人跡稀なところで、深い樹林や藪地、笹山などを掻き分け切り分けしながら進まなければならない状況だったとか、追剥ぎなどが常時出没していて危険このうえなかったというのなら話はわからないでもない。実際、いま紹介した奥の細道の記述をそのまま事実とうけとるならば、芭蕉一行が通った山路はそのような危険かつ困難な状況下にあったようにも思われる。
  しかしながら、いろいろ調べてみるとその点についてもいささか疑問が生じてくる。仙台、石巻方面から岩出山、鳴子を経て出羽の舟形や新庄に至る北羽前街道は、元禄時代は言うに及ばず、江戸時代のずっと以前から奥羽地方における重要な交易路であった。尿前の関などが設けられていたことなどもそのことをよく物語っていよう。そうだとすれば、鳴子、堺田、舟形、新庄をつなぐ中山越えの街道はそれなりには通行者もあり、踏み跡もしっかりした道であったに違いない。最高地点でも海抜四百メートル程度で、鳴子の町のあるあたりの高度がすでに二百メートル以上はあるから、現実には難路というほどのものではなかったようである。現代人などよりもはるかに健脚だったと想像される当時の旅人たちにとって、中山越えがそれほど過酷なものだったとはとても考えられないからだ。
  堺田の封人の家を出立した芭蕉らは、新庄方面に向かって北羽前街道を六キロほど進み、現在の羽前赤倉駅に近い明神という地名のあたりで左に分岐し、山刀伐峠を越え尾花沢に向かう山道に入ったものと思われる。地図を見れば明らかだか、舟形や新庄に出てから尾花沢方面へと向かうルートをとらなかったのは、尾花沢への直接ルートのほうが半分ほどの行程ですみ、新庄や舟形を迂回するよりずっと近道だったからだろう。いまひとつには、尾花沢から立石寺のある山形方面に南下し、そのあと最上川沿いに舟形、新庄の町を経て、そこからさらに最上川口の酒田へと出ようと考えたからでもあったろう。
  芭蕉一行はともかくとしても、当時の行商人その他の旅人なら、鳴子から堺田を経て交易の要衝であった尾花沢へと向かう場合、当然この山刀伐峠越えの山路を辿ったであろうことは想像に難くないし、全体的な状況からしてもこの峠越えルートは相当に古い時代から存在していたと考えるのが自然だろう。そもそも、芭蕉らが山刀峠越えを選んだのも、地元民や行商人らがこの山道を使っていたからに違いない。山刀伐峠には元禄時代以前から地蔵を祀る祠などがあったらしいことも、折々通行者があったことの傍証にはなるだろう。
  尾花沢で芭蕉は門下の清風の屋敷に泊まっている。紅花商人でもあった清風は尾花沢の豪商だったから、当然、鳴子、岩出山、さらには石巻、仙台方面の商人たちとも取り引きがあったはずである。むろん、尾花沢はそれなりに栄えていたことだろうから、清風傘下の用人たちをはじめとする尾花沢の商人らは尾花沢と堺田との直接ルートを利用していたに相違ない。そうだとすれば、芭蕉が尾花沢に到着するかなり以前から清風とは連絡がついており、堺田からはこのルートをとるようにとあらかじめ情報が提供されていたと考えるのが自然のことではなかろうか。
  もしもそれが実際の状況であったとすれば、なぜ芭蕉はあえて奥の細道という紀行文の中で、あのような大袈裟ともいえる記述をしたのだろう。当然それにはそれなりの訳があったと思われる。芭蕉研究の専門家たちにとっては既に解決済みの問題なのであろうが、私のようなその道の素人にはいささか気になることではあった。その理由なるものにあれこれととりとめもない想像をめぐらしはじめた私は、以前に拝聴したことのあるドナルド・キーン氏の奥の細道をテーマにした講演のことを想い出した。そして、なるほどやはりそうだったのかとその背景を幾分納得した気分になった。そんなこともあって、とにかくこれからすぐに、堺田にいまも残るという「封人の家」を訪ねてみようと思い立ったようなわけだった。「蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと」の一句で名高い封人の家を訪ねてみれば、あえて誇張ともみえる記述をおこなった芭蕉の真意が、素人の私にもはっきりと理解できるのではないかという気がしてきたからだった。

「マセマティック放浪記」
2002年10月30日

奥の細道・封人の家考

  奥の細道尿前の関の章に「大山をのぼって日既に暮れければ、封人の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれてよしなき山中に逗留す」と記述されている封人の家は、重要文化財の指定をうけ、現在も山形県最上町堺田に残る旧有路家住宅であると言われている。悪天候のため、やむなく芭蕉一行は三日間この封人の家に滞在し、天候の回復を待っていたわけである。そして、その間に詠まれたのが「蚤虱馬の尿する枕もと」という有名な一句にほかならない。蚤、虱、尿といったような、人々がもっとも忌み嫌う対象物をありのままに句に詠み込み、奥の細道の文章のなかほどに平然と配した芭蕉の俳諧精神の達観ぶりを、芭蕉研究の専門家たちは皆そろって高く評価してもいるようだ。
  ところで「大山をのぼって日既に暮れければ」とあるところの「大山をのぼって」とは鳴子から尿前の関を経て堺田に至る中山越えの道をさすのだが、既に書いたように鳴子の町と途中の峠の最高地点との高度差は二百メートルくらいのものだから、現実にはそれほどの難路だったとは思われない。かなり以前に画家の渡辺淳さんと二人で、芭蕉一行が中山越えのときに通ったと言う小深沢の六曲がりの古道を十五分ほど歩いてみたことがある。そのときは、こんな道が延々と続いていたら大きな峠を越えるのは結構大変なことだったろうなとは思ったのだが、あとでよくよく地図を見ながら考えなおしてみると、急なのぼりのそんな沢道は行程中のごく一部にすぎなかったようである。
  また、問題の一句を素直に読むと、芭蕉一行が泊まったのは、掘っ立て小屋か粗末な藁小屋みたいなところで、不潔な小屋の中には蚤や虱がウジャウジャしており、身体中が痒くなって眠るどころの騒ぎではなかったような感じをうける。しかも、同じ小屋の中で飼われている駄馬が枕もとでジャージャーと放尿する始末なのだから、とても安眠できるような状況ではなかったろうとも想像したくなる。
  しかしながら、この日初めて訪ねてみた封人の家のたたずまいは、句に詠み込まれているのとはまるで異なるものであった。そもそも、封人の家とは陸前仙台領と出羽新庄領との国境を守る役人の家のことを意味している。実際の考証では、新庄領堺田村の当時の庄屋の家、つまり、この旧有路家住宅であったといわれている。いずれにしろ、仙台領と新庄領とを結ぶ重要な交易路、北羽前街道の要衝の集落なのだから、その地を預かる役人や庄屋の家がそれほどに粗末なものであろうはずもない。
  実際に目にしたその家屋は、総茅葺の屋根をもつ建坪81坪(270平方メートル)もの立派な建物であった。ほぼ東西にのびる長方形の建物の北西奥が縁側付き約十畳の畳敷き床の間、その南側にあたる南東奥が十二畳半畳敷きの入りの座敷、入りの座敷の東側がやはり畳敷き十五畳の中座敷、そして、床の間の東側、すなわち中座敷の北側が十二畳の板敷き納戸の間になっていた。また、納戸の間と中座敷の間の東側には約十八畳の総板敷きの間があって、そのなかほどには大きな囲炉裏がしつらえられていた。ここが当時日常的に使われていた居間だったらしく、囲炉裏にはこの日も赤々と炭火がおこされており、自然に身体が暖まっておのずから心安らぐ感じであった。さらに、入りの座敷、中座敷、囲炉裏のある板敷きの間の南側には通しの大廊下があって、その廊下の入りの座敷に面する箇所の外側に玄関が設けられていた。
  では問題の厩が屋内にあったのかというと、実際に、立派な造りのも厩が三つも設けられていたのである。十八畳の板敷き居間の東側には面積十五坪(三十畳)をゆうに超える大土間があって、そこには炊事用の大竈や水屋(内井戸などのある生活用水場)が昔のままに残されていた。かつてこのような土間は、炊事場、洗い場、各種作業場、物資保存場などとして多様な使い方がなされていたようである。そして、この土間の東側、すなわち家屋の最東端に、四坪(八畳)ほどの厩が一つと三坪(六畳)ほどの厩が二つ並び配されていたのである。
  当時小国と呼ばれていた最上町一帯は中世以来の有名な馬産地で、江戸時代には新庄藩の保護奨励のもとに、武士たちに供する乗用馬を産出していた。この小国地方では牡馬(雄馬)を各地に送り出しており、「小国駒」と呼ばるそれらの馬は、遠く江戸や越前地方にまで移出され、重用されていたのだという。そのようなわけだから、この厩で飼われていた馬たちは農耕用の駄馬などではなく、我が子のように愛情深く育てられた高級馬であったようなのだ。芭蕉らの逗留時に何頭の馬が飼われていたのかはわからないが、こざっぱりしたそれら三つの厩舎があれば、すくなくとも五、六頭の馬の収容が可能だったのではないだろうか。
  通常、最奥の床の間や入り座敷の間は使用されておらず、折々街道を通る大名やそれに従う高位の武士たちの休憩や宿泊に供されていたらしい。たまたま居合せた管理人に、芭蕉一行はどの部屋に泊まったのかと訊ねてみると、中座敷だったそうですという返事が戻ってきた。最上の間ではなかったにしても、それに次ぐなかなか立派な畳敷きの座敷だから、蚤や虱がそうそう出たとは思われない。寝具だって、豪奢なものではなかったにしてもそれなりに清潔なものが提供されたと考えるのが自然だろう。馬の尿にいたっては、その音がはっきりと聞こえたかどうかさえ疑問である。中座敷から厩まではすくなくとも六間半(11.7m)はあるから、枕もとで馬が放尿するという状況にはおよそ無縁だったと言ってよい。
  ともかくこうして実際に現場を訪ね、その家の構造を我が目で確かめてみた結果、山刀伐峠についての叙述と同様に、「蚤虱馬の尿する枕もと」と詠まれた封人の家の状況は事実とはずいぶん異なっていたらしいことが判明した。中山越えや封人の家の描写、さらには山刀伐峠越えの記述のいずれをとっても、ずいぶんと誇張された表現の多いことだけは、もはや素人目にも明らかであった。
  そしてこの時点で、私は再び芭蕉がなぜそのように事実とはずいぶん異なる記述をあえて書き残したのかという疑問に立ち戻ることになった。もっとも、この時にはもう、芭蕉の世界にうとい私にもさすがにその答えらしいものがそれなりには判りはじめてはいたのである。疑問解消の糸口となったのは、ずいぶん以前に聴いたドナルド・キーン氏の奥の細道についての講演の記憶だった。
  その講演において、ドナルド・キーン氏は、「フィクション部分があるからといって奥の細道の文学的な価値がさがるわけではない。むしろそれによってその芸術性は一段と高められている」とあらかじめ断わったうえで、実のところ奥の細道にはいくつものフィクションの部分があることを具体的に指摘してみせた。また、同氏によると、自らの作品を納得ゆくまで推考し、何度も手直しするというのは芭蕉の常であったのだそうで、数々の有名な芭蕉の句のなかには即興句はほとんど存在していないとのことでもあった。
  山形県の山寺にある立石寺で詠んだとされる有名な一句、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
は完成に至るまでに少なくとも三回は手直しされ、最終的には当初の句とはかなり違ったものになったというし、旅立ちに際し見送りの人々との別れを惜しみながら千住あたりで詠んだとされる句、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」にいたっては、奥の細道の旅を終えたのちに詠み加えられたものであるという。
  明らかにフィクションとわかるのは、日光で詠まれた、「あらたふと青葉若葉の日の光」
という一句なのだそうで、曽良日記その他の資料などをもとに詳しく考証してみると、芭蕉一行が日光を来訪した時は雨続きで、青葉若葉が日の光を浴びて輝きなどしていたはずがないとのことだった。
  「石の巻」の段には、「山深い猟師道を迷い抜けてようやく繁栄をきわめる石の巻の町についたが、なかなか泊めてもらえるところが見つからない。やっと見つけた貧しい小家に泊めてもらい、夜が明けてから、また知らない道を迷いながら歩いていった」という内容の記述がある。ところが、実際には、当時すでに伊達藩の要港だった石の巻周辺の道路は十分に整備が行き届いていて迷うようなことはなかったはずだし、泊まった家もほんとうは地元の豪商の立派な邸宅だったというのである。芭蕉があえて事実と異なる記述をしたのは、石の巻周辺の栄華ぶりが自ら理想として想い描いていた陸奥の情景とは違ったものだったからではなかったかということであった。
  荘厳に輝く中尊寺光堂に感動して詠んだといわれる「五月雨の降りのこしてや光堂」の句に関しても、「曽良日記によると、光堂を包み守る覆い堂には錠がおろされていて、実際には芭蕉たちは何もみることができなかったようなのです」というキーン氏の指摘があった。どうやら、奥の細道のクライマックスの一つとして欠かせない光堂の情景を芭蕉は想像力を駆使して心眼で透視し、その心象風景をきわめて芸術性の高い歴史的な名句として詠みあげたということであるらしい。それはそれでまた見事としかいうほかはないような話ではあった。
  芭蕉は四百字詰め原稿用紙で三十五枚ほどに相当する奥の細道の全文を完成させるのに五年もの歳月をかけたのだという。その理由は、句の部分ばかりでなく、散文部を含めたその作品全体を、きわめて完成度の高い詩篇ないしは詩物語として仕上げようという意図があったからだろうというのが、ドナルド・キーン氏の見解だった。私はその講演を聴きながら、「長大な旅路における数々の実体験が芭蕉という稀代の天才の心を通して一度濾し分けられ、それが深い感動を伴う究極の心象風景となって、『奥の細道』という普遍性の高い作品へと結実したのだ」ということなのだろうと了解した。奥の細道が国外でも広く愛読されているというのも、そう考えればおのずから納得のいくことではあった。
  奥の細道の随所において事実とは異なる記述がなされたり、大袈裟とも思われる表現が用いられたりしているのは、はじめから芭蕉には事実を克明かつありのままに記述する意図もなかったし、またその必要性もなかったからに違いない――今回の山刀伐峠や封人の家の探訪を通じて、つまるところ私はそう確信するにいたったのだった。紀行文などというと、なにもかもを事実に即して克明かつ正確に記述しなければならないように思われがちだが、それは現代的な紀行文に毒された我々の勝手な思い込みだともいえる。奥の細道という作品の記述に事実との一致を求めることそのものが無意味なことなのである。
  一流の画家というものは、ひとつの現実の風景を目の前にしてその画家なりの心象風景をつくりあげ、それをキャンバスに描きとめる。印象派の作品の場合はむろんだが、たとえ写実主義の画家の作品だったとしても、もはやそれは厳密な意味での写実とは異なっているはずである。そのようなわけだから、絵画の世界ではなんでもない風景をもとにして後世に残るような感動的な名作が生み出されることだってすくなくない。そのような場合、完成した絵の風景が現実の風景とは異なるからといって、その絵の評価が低くなるようなことはまずもって考えられないことだろう。
  芭蕉の奥の細道を陸奥の旅を題材にした一幅の絵巻、それもきわめて完成度の高い絵巻物語だと考えてみるならば、すべては説明のつくことである。それは、実際の旅の出来事を素材にした心象作品、べつの言い方をするなら、ノンフィクションをベースにしたこのうえなく良質なフィクションなのだということになるのだろう。芭蕉という稀代の「言葉の絵師」に偉大な絵巻物師の姿を重ね見るならば、万事納得がいくというわけなのだ。
  遠く李白を偲び、歌人西行法師の旅の心に傾倒していたといわれる芭蕉は、奥の細道の旅路のなかに先人たちが辿り訪ねた昔ながらの風物や風情を求めようとしたに違いない。だが、旅先で現実に芭蕉が目にした光景は、かならずしも彼の期待に添うようなものではなかったのではなかろうか。
  元禄という名の新しい時代の波が、行く先々の景観を善い意味でも悪い意味でも大きく変えてしまっていただろうことは想像に難くない。現代の我々が芭蕉らの歩いた古道や名所旧跡を辿るとき、昔の面影などどこにもないあまりの変容ぶりに歎息するのはよくあることである。それと同様の思いが元禄時代の芭蕉にもすくなからずあったと考えてみるのが自然なことではあるだろう。そうだとすれば、奥の細道を完成させるにあたって、芭蕉が終始心象風景の記述に徹しぬいたこと、すなわち、実際の旅を素材にした一大フィクションの創作に専念したことは、当然の成り行きであったと言うべきだろう。

「マセマティック放浪記」
2002年11月6日

旅のフィナーレは温泉で!

  東鳴子の古びた旅館田中温泉に一泊したあと、大間歇泉で名高い鬼首温泉を通過し、さらには落ち着いた雰囲気と静寂さで知られる秋の宮温泉を経由して秋田県の雄勝町へと走り抜けた。このときはまだ季節が早すぎて紅葉は望むべくもなかったが、秋の盛りの頃に見るこの一帯の渓谷の紅葉美は素晴らしいの一語に尽きる。知る人こそすくないが、標高八百メートルの鬼首峠を越える旧道から眺める秋の景観は文字通り息を呑むばかりである。
  雄勝町からは湯沢へと向かってすこしばかり北上し、相川というところから小安温泉郷方面へと続く道に入った。相川から小安温泉郷までは二十五キロほどの道のりだった。
  小安温泉郷の道の駅に立寄ると、誰でもが無料で自由にはいれる釜湯と足湯とがあった。どうせならと葦の簾を掻き分けて釜湯のある部屋を覗いてみると、一度に二人くらいは入れそうな昔風の大釜型湯船がしつらえられていているではないか。湯釜には近くの源泉から引かれてきたお湯が溢れんばかりにはられている。これを見逃す手はないと考えた私は、他に観光客がいなかったのをいいことに釜湯をながながと独占し、湯加減もほどよいそのお湯を心ゆくまで楽しんだのだった。
  釜湯を出ると、すぐそばの広場の芝生に寝転がって小一時間ほど昼寝をし、そのあと歩いて十分ほどのところにある小安峡の名勝、大噴泉を訪ねてみた。小安峡の急峻な斜面をジグザクに縫う歩道をくだると、ほどなく渓谷の底部に出た。岩盤のあちこちからは高温の温泉が湧き出ており、それらが幾筋もの細流となって深い淵をなす渓谷本流へと流れ込んでいた。合流部のすこし川下にあたるところでそっと淵の水に手先をつけてみると、その表層部はほどよい温かさになっていた。
  そこから上流方向へむかってしばらく進むと、ゴーゴーという音が聞えてきた。蒸気かなにかが激しく噴き上がっている感じである。ほどなく、一面にもうもうと湯煙が立ち込め、水蒸気混じりの温泉水が勢いよく噴出しているところへと出た。間歇泉と違って絶間なく大量の熱水が噴き上がり、すぐそばの淵へと流れ込んでいる。各地の温泉をずいぶんとめぐり歩いてきている私にとっても、深い渓谷の断崖から激しく湧き出るこのような大噴泉を目にするのは珍しいことだった。大噴泉を見学してからの帰り道、たまたま道路のすぐ脇に独特の形と色をしたタマゴダケが生えているのを見つけたので、それを採って車に戻った。
  小安温泉郷からさらに谷沿いに遡行し、秋田と宮城の県境にあたる花山方面へと向かって進むと、大湯という新たな温泉地に差しかかった。とても落ち着いた雰囲気の宿が二軒だけ建っていて、そのすぐ近くには見るからに風情に富んだ天然露天風呂などがあったりもした。だが、ちょっと前に長々と温泉につかってきたばかりだったので、さすがにそこは周辺を一通り見学するだけにとどめ、さらに奥へと向かって再び車を走らせた。
  国道三九八号伝いに花山峠を越えて宮城県側に入る前に、日本百名山のひとつ栗駒山の北西面を縫う栗駒道路への分岐点に差しかかった。そのまま通過しようかとも考えたが、せっかくのことだからと思い直し、ちょっとだけ寄り道して須川温泉までの往復を試みることにした。もう太陽は大きく西の空へと傾いていたが、眼下はるかに広がる雄大な山岳風景を楽しみながら栗駒山北面の高原地帯を疾走するのは快適このうえないことだった。一段と展望のきく途中のオープンスペースに車を駐めて休憩したおり、コンロとコッフェルを取り出してお湯を沸かし、先刻採ってきたタマゴタケ入りのインスタントスープをつくって飲んでみたが、なかなかに美味で全身が温まってくる感じだった。
  一関と湯沢とを結ぶ三四二号線との合流点にある須川温泉まで行くとそこで引き返し、もう一度三九八号線に戻った。そして、そのあといっきに高度を上げ、花山峠を越えて宮城県側に入った。花山峠からすこしばかり下っていくと、左手道路脇に駐車場らしい小さなスペースがあって、その一角に湯浜温泉入口という表示板が立っているのが目にとまった。どうやら左手の深い谷の奥に温泉宿が一軒あるらしく、そこまで行くには山道を歩いて二、三十分ほどの時間を要するらしかった。
  もうあたりは薄暗くなりかけていたが、その晩には東北を立って東京への帰途に着くつもりだったので、旅のフィナーレを飾る意味でももう一風呂浴びていこうという気になった。そして、タオル類のほかに帰りの暗がりに備えて懐中電灯を用意し、深いブナ林の下を縫う細く急な山道を伝って谷底の方へと下っていった。谷底を流れる渓流をいったん横切り、その渓流沿いに宿のあるとおもわれるほうへと向かう頃にはあたりはすっかり暗くなった。途中に野趣あふれる無人の露天風呂があるのを見つけたが、中をちょっと覗いただけでそのまま通り過ぎ、そこからさらに十分ほど歩くと、谷奥に一軒だけぽつんと建つ小さな温泉宿の前に出た。
  突然の訪問にくわえ着いた時間が時間だったから、宿の主人はちょっと驚いたような様子をみせたが、入浴させてほしいと申し出ると相手はにこやかな笑顔でその依頼に快く応じてくれた。知る人ぞ知る山奥の秘湯という感じの温泉宿で、照明用電力などはいっさい自家発電によって供給されているようだった。玄関脇の案内書きなどからすると、どうやらすこし前まではいわゆるランプの宿であったらしい。満々とお湯を湛えた檜の湯船を独占し、鼻歌まじりで旅の疲れをのんびりと癒すことができたのは、望外とも言うべき幸せでもあった。
  入浴を終え温泉宿の玄関をあとにした私には、むろんいまひとつやるべきことがあった。懐中電灯の明かりを頼りに真っ暗な山道を引き返し、先刻見かけた露天風呂のところまでやってくると、私はまた大急ぎで裸になり当然のようにその湯船に飛び込んだ。ちょっとした誤算は脱衣中急に懐中電灯の調子がおかしくなり、真っ暗闇の中で入浴せざるをえなくなったことだったが、その程度のことでいまさらジタバタするような身でもなかったので、慌てず騒がず深々と湯船につかりフィナーレの湯と洒落込んだ。懐中電灯が使い物にならなくなってしまったため、露天風呂から上がったあと勘を頼りに細い山道を辿るのは少々難儀だったものの、とくに立ち往生するようなこともなく無事車に戻り着いた。
  旅の最後の一日は、はからずも温泉、温泉、また温泉、それでも懲りずにまた温泉ということになってしまったが、風情豊かな栗駒山周辺の秘湯の有様をこの目でしっかりと確かめることができたのは大きな収穫でもあった。栗駒山の南に位置する夜の花山村を走り抜けながら、この名湯秘湯地への再度の旅をぜひとも実現しようと私は胸の奥で誓っていた。

「マセマティック放浪記」
2002年11月13日

伊藤廣利先生の想い出

  十数年前のある晩秋の日のことだったようにおもう。新宿紀伊国屋四階の画廊にふらっと立寄った私は、このうえなく温もりのある、それでいてしかも内に底知れぬ存在感を秘めた不思議な鍛金作品群に遭遇した。古代の倉か宝蔵を偲ばせる大作などは、それが鉄で造られたものだとは信じられないほどにやわらかく穏やかな輝きを放っていた。会場の一隅にはそれらの作品の制作者とおぼしきがっしりとした体躯の中年男性がすわっていて、一瞬視線が合うと、眼鏡の奥の双瞳が何かを語りかけでもするかのようにきらりと光った。鋭いけれども人の心を優しく温かく包みこむ、なんとも不思議な輝きに満ちた瞳だった。
  その日はなぜか客足が少なく、そのとき個展会場にいたのはたまたま我々二人だけだっだ。鉄や銅といった金属を素材にした場合でも、これほどに美しくやわらかな色調やラインをもつ作品を生み出せるものなのかと感嘆しながら、私は会場に並ぶ大小様々なオブジェを一つひとつ丁寧に見てまわった。私のような行きずりの、しかもその世界にはまるで無縁な人間の目と心をそれほどまでに惹きつけて離さないということは、裏を返せばそれらの作品がいかに素晴らしいものであったかということの証でもあった。
  私が作品を一通り鑑賞し終えるのをみはからって、その制作者とおぼしき人物は、「よかったらどうぞ……」と言いながら一杯のお茶をすすめてくれた。こちらもその人物の心からのすすめを遠慮なく受け入れることにした。「鍛金」という言葉そのものからして初耳に等しかった私は、無知ならではの厚かましさをいいことに、実はたいへんな方でもあったこの人物にあれこれと初歩的な質問を浴びせかけた。
  すると相手は、こちらの愚問にも嫌な顔ひとつせず丁寧に答えてくれたのである。アールと呼ばれる特殊な鉄製工具などを用いて美しく滑らかな曲面を打ち出す工程などについても、あれこれと詳しい説明をしてもらうことができた。その独特の言葉の響きには、一芸に通じた人ならではの力強さと確信の深さが窺われた。それもそのはず、その人物とは、我が国屈指の鍛金作家として高名な伊藤廣利東京芸術大学教授(当時助教授)だったのだ。それは、までまるで異なる世界を生きてきたわたしたち二人のなんとも奇妙な、しかしどこかしら運命の糸の存在の感じられなくもない出逢いではあった。

  ほどなく私は先生からお手製の桐箱入り銀のぐい呑みを頂戴し、そのお礼にとこちらも自著を二、三冊進呈した。もともと下戸の身であったうえに、そうでなくても普段に使うには畏れ多い貴重な作品だと思った私は、その銀のぐい呑みを大切に仕舞い込んだが、伊藤先生のほうは拙著にじっくりと目を通してくださったようである。それが契機となって、時々私は客員講師として芸大大学院の美術教育研究科に出向き、認知科学や科学哲学、コンピュータサイエンス関係の諸問題をテーマにささやかな講義などをするようになった。ただ、当初から同じ内容の講義はしないという私なりの方針を貫き通したこともあって、のちには講義内容が表現論や教育論、さらには文学論にまで広がっていく有様となった。
  美術の世界にはまったく無縁であった私が、芸大という日本の芸術教育の中核に位置する大学に関わりをもつことができたのは、ひとえに伊藤先生のおかげである。傑出した鍛金作家であったばかりでなく、たいへん優れた教育者でもあられた先生の真摯な教育理念に共感し、微力な身ながらもできるかぎりの協力はさせていただこうと決意した私は、集中講義という特殊な条件下ではあったけれども、おのれの能力のかぎりを尽して誠心誠意講義をおこなおうと考えた。美術教育研究科の主任教授でもあった伊藤先生はそんな拙い私の講義を院生たちと一緒に毎回聴講してくださったものである。本来の専門分野の講義を通じて関わっていたそれまでの大学とはあらゆる点で異なる芸大での講義経験は、私にとってもたいへん貴重なものとなった。
  紀伊国屋での出逢いから二年ほど経ってからのことだったとおもうが、私は折々埼玉県狭山市にある工房にお邪魔し、伊藤先生の独創的なお仕事のひとつであった木目金(もくめがね)の作品制作工程などをつぶさに拝見したりするようになった。また先生直々のお勧めなどもあって、ある時からは初歩的な鍛金作品造りに挑戦するようにもなった。まったくの素人の身がその道の大先生の工房の真中を占領し、手取り足取りの指導のもとで銀杯造りをしたわけだから、なんとも呆れ果てた話ではある。
  きわめつけは、半ば戯れで私が朝日新聞社から依頼された社内テニス大会用の大銀杯造りであった。私はひと夏狭山の工房に通い詰めて先生の懇切なご指導を賜わりながら立派な大銀杯を完成させた。その舞台裏の事情を告白しておくと、表向きは私の作でも半分くらいは伊藤先生の手になるものだったから、完成した大銀杯が見事な出来栄えであることは当然のことだった。この大銀杯騒動に関してはAICの穴吹史士キャスターが一枚かんでもいたことなので、時間のある方は私のバックナンバー<純銀大杯版「藪の中」1999年8月4日付け>を参照していただきたい。
  なんとも残念なことに、伊藤廣利芸大教授はいまから四年前の平成十年十二月、通勤途中の電車においてクモ膜下出血で倒れ、そのまま意識を回復することもなく他界された。当時先生は文部省の教育カリキュラム改変等にともなう美術工芸教科関係の代表委員を務めておられたが、一部には美術工芸教科不要論のような極論さえもあるなかで、文部省の役人や他教科の関係委員たち相手の不慣れな折衝や対応にずいぶんとご苦労なさっている様子だった。学内外にわたる過度な公務に端を発する極度のストレスや過労も急逝の原因のひとつかと推察されるだけに、いまもなお甚だ心残りでならない。
  他界なさる一ヶ月ほど前に工房にお伺いしたときのこと、先生は、「大学を退官し、いまのこの忙しさから解放されたら故郷の今治に戻ってアトリエを構え、心底楽しみながら自然体で素材と向き合い、よい作品を造りたいんですよ。いまはその日が一日も早く到来してくれることを心待ちにしているんです。その時は四国に来て、先生も作品造りに興じてください」という言葉をさりげなく漏らされもした。たぶんそれは先生の偽らぬ心境であったに違いない。だから、あまりにも突然の伊藤先生のご逝去は、私にとって唯々衝撃の一語に尽きた。
  現在、その伊藤先生の遺作展「鍛金・伊藤廣利の世界」が上野の東京芸術大学美術館陳列館で開催されている。同展は今月二十四日までの予定で、入場料は無料となっている。先生は平成天皇即位の儀式に必要な金銀製用具の制作にも携わられた。また木目金(もくめがね)の作品制作技術をはじめとするその独創的な金工技術は海外においても高く評価されていた。会場には先生の生涯にわたる代表作八十点ほどが展示されているので、この機会に一人でも多くの方々にその見事な作品群を御覧いただきたいものだとおもう。やわらかなラインや曲面を主体とした晩年の作品も素晴らしいが、古代神話をテーマにした若い時代の鬼気迫る作品なども実に感動的である。いまは亡き伊藤先生の功績を称え、そのご遺志を後世に承け継ぐ意味でも、この遺作展が盛況をきわめることを心から願ってやまない次第である。
                平成十四年十一月十三日

「マセマティック放浪記」
2002年11月20日

このボクが食の大使に?

過日、愛媛県広見町から松浦甚一町長以下三名の方々が上京された折、先方からの要請があってしばし御一行とお会いし歓談する機会があった。それよりすこし以前に、広見町では「食の大使」という一種の対外広報特別代理人みたいなものを任命することになり、その候補の一人に私がノミネートされらので、この際ぜひとも受諾してほしいという打診があった。

そのときの話では、もう一人の候補者はエッセイストで料理研究家としても名高い本間千枝子さんであるということだった。本間千枝子さんは食に関する有名な専門家でもあられるから白羽の矢が立ったのは当然だとしても、日々粗食に甘んじて生きるこの私のほうは、およそ食通には程遠い存在である。だから電話を通して大使就任の打診をうけたとき、どう考えてみたってこの身にそんな大役が務まるわけがないだろうと、ただただ戸惑いを覚えるばかりだった。

たとえ食の大使なるものに就任したとしても、そもそも何をどんなふうにこなしたらよいものやら皆目見当がつかない。そのへんのことを先方に問い合わせると、「まぁー、あんまり難しく考えないで適当にやってくだされば結構です。ええそうです、適当でええですけんに……」というなんとも要領を得ない返事なのである。「適当でええですけんに」と言われてもなあと、こちらのほうはますます頭を抱えこんでしまうありさまだった。

そりゃまあ、「今日は広見町特産の高麗雉十羽と雉肉の味噌漬け十パックを送ってください。明日は水耕栽培の大粒イチゴ二十パックを、明後日には名産椎茸「媛王」を三十パックお願いします。その次ぎの日には瓶入り良質ウコン粉末十個と、あの抜群の味の柚子ポン酢と柚子飲料の詰め合わせ『ゆずの里』を十セットほどお届け願いたいですねえ。そうそう、合鴨農法で生産される例の美味い米も忘れないでもらえれば嬉しいです。それからもうひとつ、鬼北自然薯も十本ほど……。ボクは食の大使なんですから、もちろん、みんな贈呈というこでお願いできるんですよね!」なんてことができるなら食の大使も悪くはないが、それでは汚食の大使どころか汚職の大使になってしまう。瘠せても枯れてもどこかの国の一部の外交官みたいな真似だけはしたくない。

それに、そんなことになってしまったら、広見町は破産してしまう……ってなことはまあないかもしれないけれども、人選を誤った責任をというわけで、町長以下の関係者だってただではすまないことだろう。清流で名高い四万十川の源流河川広見川などは、その美観で知られる名が泣いてしまうことにもなる。

広見町が私を食の大使に任命しようと考えたのは、この「マセマティック放浪記」をはじめとするいくつかのメディアで、同町の自然美や様々な風物、産物などについてなにかと紹介したことがあったからであるらしい。広見町の雉プロジェクトおよび雉冷凍加工場の技術顧問を務める親しい知人、三嶋洋さんの取り持つ奇縁がそもそものこのと発端ではあった。

お酒を満たした大型プールを毎日泳ぎ回っているようなこの不思議な人物の大活躍……というよりはとてつもない悪あがき(?)が効を奏し、広見町は結構有名になり、その雉プロジェクトや雉料理、雉酒などは朝日新聞の土曜版BeやNHKの教育テレビなどでも紹介され、国内に広く知れ渡るところとなった。

この三嶋洋という怪人物、かつて小松製作所などにも勤務し、たいへん優れた仕事をしていたことなどもあるのだが、そのもっと以前には東京から沖縄の西表島に移住して本格的な漁師となり、そのかたわら民宿の経営に携わってもいた。国内では数少ないスキューバダイビングの上級国際ライセンスの持ち主で、新人ダイバーの養成にも尽力してきたらしいのだが、いったいどこでどうやってダイビングスクールの生徒らを指導してきたものなのか、いまだに私は腑に落ちない。この世のどこかにお酒かウイスキーでできた秘密の大海があって、たぶんそこでダイビングの極秘指導がおこなわれているのだろう。

先日、この放浪記をたまたま読んだというかつての教え子がメールをくれ、「三嶋さんは私のスキューバダイビングの先生でした」と伝えてきてくれたところからすると、看板に偽りがないことだけは確からしい。今度その教え子と会う機会でもあったら、一日のスケジュールのうち、ダイビングの指導時間とアルコールの指導時間との割合がどうなっていたのかを含め、その詳しい実状など尋ねてみることにしたいとおもう。

西表島に移り漁師となる前は、なんと日本開発銀行に勤務する優秀なオペレーション・リサーチのスペシャリストで、いま話題の竹中平蔵金融担当大臣はその当時の同僚だった。三嶋さんの結婚式で竹中大臣は受け付けを務めていたというのだからは話はますますややこしい。「平ちゃん、洋ちゃん」と呼び合う仲はその後もずっと続いてきたらしいのだが、かたや、「末は博士か大臣か」どころではなく「末は博士も大臣も」をすでに現実のものとし、いっぽうはというと、「末はアル中か寅さんか」の道を大驀進中ときている。このギャップをいったいどう考えたらよいものなのだろう。

竹中大臣が誕生する以前から、三嶋さんは、「平ちゃんは人間としてはとてもいいやつだけど、なんせ御用学者だから、彼の経済学はあかん、あかんですよ」などと、よく冗談まじりに口走ったりしていたものだ。このところ、その経済政策がなにかと批判を浴び、四面楚歌気味の竹中さんだが、その政策が失敗に終わったりするようなら、小泉首相はこの三嶋さんをピンチヒッターに登用したらどうだろう。アルコール流の寅さん経済政策は意外に効を奏するかもしれない……でもまあ、世の中そうあまくはないか……。

単なるアルコール中毒や寅さんもどきなら、酔いつぶれて裸で寝ようが身ぐるみを剥ぎ取られようが周囲も知らん顔で放っておくのだが、へんにいろいろな才能があったりし、それがまた結構世の中の役に立ったりするものだから話はなんとも厄介なのである。いつのまにやら、ちゃっかり広見町の名誉町民におさまったりしているのも、その献身的な仕事、いや献酒的な仕事ぶりが高く評価されてのことなのであろう。本間千枝子さんと私とが広見町の「食の大使」にノミネートされた背景に、この規格外の名誉町民殿のすくなからぬ奔走があっただろうことは想像に難くない。

ついでだから書いておくと、天下御免のこの三嶋さんも、どうやら本間千枝子さんにだけは頭が上がらないらしい。三鷹市にある本間さんのお住まいは三嶋邸と隣接していて、三嶋さんが少年だった頃から、本間さんには何かにつけてお世話になってきたらしい。だから、どんなに酔っぱらっていても、本間さんが「三嶋君!」と一声かけただけで「はいっ!」とばかりに直立不動の姿勢をとりかねないほどの傾倒ぶりなのである。本間さんはたいへんな切れ者で歯に衣を着せぬ物言いをなさるうえに、その広い見識に裏打ちされたお人柄や存在感も抜群ときているから、それでなくても三嶋さんが敬意をはらうのは当然のことではあるのだろう。

ともこかくも、そのようなわけで、結局、私は広見町の食の大使なるものを引き受けさせられるはめになった。「大使」ではいささか荷が重いけれども、まあ「小使」くらいならなんとか務まるかもしれないというおもいもあってのことだった。いまひとつには、松浦町長や入舩課長ら、町役場関係者のすこしも偉ぶったところのない庶民的なお人柄や、よそ者にも優しく温かい広見町の皆さんの町興しに賭ける熱意のほどを、これまでの訪問を通じて私自身痛いほどに感じとっていたからでもあった。

三嶋さんに誘われて初めて広見町の地を踏んだときから、私はこの町のもつ独特の空気のようなものを直感していた。自然美を背景にした古い伝統文化への敬意の念と現実的改革を恐れぬ進取の気鋭とがバランスよく共存し、不思議な調和を保っていることがなんとも印象的だったのだ。そのことはまた、この地の食文化にも色濃く現れているようにおもわれた。たぶん、それは、隣接する宇和島市とともに旧宇和島藩の特異な歴史と文化を受け継ぐ広見町ならではのことでもあるのだろう。非力なうえに横浜生まれで鹿児島の離島育ちのこの自分に何ができるのはいまだに疑問なのではあったが、本間さんも大使役をお引き受けになるということだったので、私はその随行役にでもと考えたようなわけである。(次週につづく)

「マセマティック放浪記」
2002年11月27日

なんとまあ神代檜の御分身が!

松浦甚一広見町長ら一行と歓談した当日、本間千枝子さんと私とは額装された食の大使の任命証書を町長より直接に授与された。大きな額に入った上質の和紙製の証書には「緑と清流の町、鬼北の里、広見の食文化に造詣が深く、食に精通されている貴殿に『広見町食の大使』の就任をお願い致します」という一文が墨書してあった。証書の上隅には同町特産の雉の絵が描き添えらえてもいた。

過去何度か広見町を訪ね地元の新鮮で豊富な食べ物に舌鼓を打ったのは事実だが、「食文化に造詣が深く、食に精通されている貴殿」ということになると、これはもう赤面ものである。だが、それでも、「食」の字を「色」に変え、「色文化に造詣が深く、色に精通されている貴殿」と持ち上げられるよりもはるかにマシだとはおもったので、とりあえずはそのことには目をつむっておくことにした。そして、真の意味で広見町の食文化に精通するように今後すこしは努力しようとも考えたようなわけだった。

食の大使の認定書とともに箱入りの立派な檜の置物と大きな檜の表札を贈られたのだが、実を言うとそれらの副贈品はたいへんな逸品だったのである。独特の芳しい香りを放つこの檜、そんじょそこらのただの檜とはわけが違ったのだ。贈呈されたこの檜の置物と表札には一九九二年発行の地元紙、宇和島新聞の夕刊記事のコピーと地球科学研究所の作成した年代測定結果表なるものが添付されていた。

「マニアものどから手が……神代檜見つかる」という見出しで始まるその夕刊記事によると、この年、広見町内の田んぼの地下一メートルから四メートルの地中より、長さ九・五メートル、直径六十センチメートルと、長さ六メートル、直径四十五センチメートルの二本の古い檜が発見されたのだという。発見者は同町で工務店を営む清家茂さんで、三年前にも同様の木が見つかっていたことから、付近を探していたとのだそうであった。記事の写真には発見された神代檜と、その大きな根っこの部分に手をそえて立つ清家茂さんの姿が写ってもいた。

推定樹齢四百年以上というそれらの檜は天災などの影響でいっきょに土中に埋まってしまったものだろうと推測され、水分を多く含む粘土質の土壌のおかげで腐ることなく現代まで残っていたものらしいとあった。また、発見当時、表面から深さ三センチくらいまでの部分はスポンジ状になっていたが、芯の部分は堅固なままで青黒い色をしており、いまも檜特有の香りを放っているとも記されていた。そして、埋もれた年代ははっきり分からないものの相当に古いことは間違いなく、マニア垂涎の珍品だけに、何に使うのか町内で話題になっていると結んでもあった。

なんと、私に贈られた檜の置物と表札はそれらの貴重な神代檜でつくられたものだったのだ。何に使うのかと話題になり、マニア垂涎の的であったとかいう「珍品檜様」の御分身が、こともあろうにこのみすぼらしい我が家に鎮座ましまそうというのだから、それはもうたいへんなことだと言うほかなかった。

岩塊のように硬く固まったその檜の古木の表面を撫でながら、いったいどのくらい経っているのだろうとあれこれ想像をめぐらせた。それからおもむろに地球科学研究所による年代測定データ表を開いてみた。そこには放射性同位元素カーボン14の半減期を用いた年代測定結果が記されていたのだが、その数値に目をやった私は驚きのあまり思わず息を呑んだ。

NO.1と資料番号のつている檜の生育しはじめた時代の推定暦年代がなんと紀元前一九一〇年、そしてNO.2の資料番号のついた檜のほうが成育しはじめた時代の推定暦年代は紀元前一七三五年、年代推定誤差はプラス・マイナス七十年と記載されてあったからだ!

今年が紀元二〇〇二年だから、いまから三千九百十二年前と三千七百三十七年前の檜ということになる。何らかの理由でどちらの檜も同時期に地中に埋没したらしいという推定結果も併記されていた。神代檜という表現がけっしてオーバーでないほどの古木だったというわけなのだ。いまからおよそ四千年前といえば、日本の縄文時代の後期に相当しており、エジプトでは中王朝の栄えた時代、中国でいえば殷王朝の成立に何百年も先立つ仰韶文化の盛隆期にあたっている。

檜の置物を居間の一角に据えると部屋いっぱいに芳しい香りが漂いはじめた。なにせ四千年近く以前の香り、より正確にいえば「香りの化石」なのである。全身の皮膚のいたるところから体内深くにしみわたるようなその香りに包まれながら、私はまだこの檜が葉を繁らせていた頃の遠い昔に想いをめぐらせた。この魔法の香りが私を縄文時代へと瞬間移動させてくれるのではないかという気分にさえなっていた。この神代檜を小さく切り分けてマニアに売ればしばし糊口を凌ぐことができるかななどという貧乏人の姑息な想いは、その神聖な香りによってたちまち浄化され、日々の怠惰な生活で弛みはてた心身がなにやらピーンと引き締めなおされる感じでもあった。

分厚く大きな表札のほうもたいへんな存在感を漂わせていた。むろん、まだ名前は表記されておらず、自分で好みの文字を記したり刻んだりすようになっていたのだが、下手にそんなことをやろうものなら、私の軽い名前など表札本体の放つ威光に圧倒され、たちまち吹き飛んでしまいそうなおもいもした。この表札のほうはいまも贈呈されたときのままで大切に保存してあるのだが、これになんとかうまく自分の名前を記して玄関先にに掛けることでもできるようなら、その御利益と御威光を背に何千年も長生きすることがでるかもしれない。

でもまあ、まかり間違ってそんなことにでもなったりしたら、迷惑するのは世の中のほうだから、ここは己の分際をわきまえ自重するのが一番だろう。それでなくても、いまこの国には老醜という表現がぴったりの顔も姿も化け物みたいな老齢議員などがいて、毒気を吐きながら大きな態度で政界を牛耳ったりもしているのだから、これ以上の老害は国の将来にとって迷惑千万なことだろう。化け物退治に神代檜の放つ芳香成分ヒノキチオールが有効なら国会に神代檜の置物をすぐにも送り届けたいところだが、相手もそうそうやわではないから始末が悪い。異形を売り物にあの手この手でくねくねと利権に巻きつくあの連中は、神代藤か神代蔦みたいなものをバックボーンにでもしているのだろうか。

後日、西川さんという広見町役場勤務の女性職員が中心になってデザインした「食の大使」の名刺が手元に届けられた。これまで二、三度お会いしたことがあるのだが、西川さんはたいへんにセンスのある方で、広見町役場にあっては、女性ならではのこまやかさを活かし、町行政全体の流れを巧みに調整コントロールする役職に就いている。

その名刺は近年はやりのトンパ文字(一種の絵文字)を交えてデザインされたなかなか洒落たシロモノだった。左隅上に「食べる」「話す」「贈る」という意味を表わす人形模様の三つのトンパ文字が大きく配され、中央横一列に同じく十二個のトンパ文字が並べられている。その文字の意味するところは、「緑の山、川の水、美しい土地、そこでとれた野菜、果物、雉などの食材――それら豊かな収穫物の味を伝え、それらの食を贈る」というようなことであるらしい。もちろん、広見町のイメージをトンパ文字で表わしたもので、それら十二個のトンパ文字の意味は名刺の裏面に通常の文字で記されてあった。

また名刺の表面の一番下に通常の文字で、「愛媛県広見町食の大使・本田成親」と記されており、裏面のおなじく最下段にごく小さく「〒798-1395 愛媛県北宇和郡広見町大字近永800番地1広見町役場農林課 0895-45-1111」と連絡先が入れられていた。むろん、私はこの風変わりな名刺がとても気に入った。たぶん、本間千枝子さんもそうではないだろうかと思う。どうせなら、私の肩書きを「食の小使」とか「食の浪士」とかしてほしかった。そう表記されていたらもっと気に入ったに違いない。

各種パーティ会場のような大勢の人がたむろすところへ足を運ぶのは元来好きなほうではないのだが、やむなくしてそのような場に顔を出す機会があるときにはこの名刺を携行し、「食の小使」くらいの役割は果たしたいと思っている。広見町の特産物その他に関心のある方は前述の農林課に問い合わせてもよいが、同町の道の駅にある広見町の物産展示販売施設「森の三角ぼうし」にアクセスすればより具体的な情報も得られるし、商品の注文なども可能である。

冷凍雉、雉の味噌漬、雉スープ、雉酒の素、水耕栽培の大粒イチゴ、鬼北自然薯、ウコン及びウコン入り各種加工品、鬼北米、合鴨農法米、名産椎茸「媛王」、精選素材をもとにした柚子ポン酢や柚子飲料、各種生鮮野菜類、さらには、ユリの花や木工製品類など食品以外の特産物――いずれの品も地元の人々が丹精込めて生産したものであるばかりでなく、その販売価格もたいへん良心的である。

広見町の松浦甚一町長は、「広見の特産物販売施設では絶対に本物しか扱わないようにします。本物だけを供給しようとすると、時にはひどい供給不足に陥ってお客様に迷惑をかけることもあります。でもそこで妥協し、一時凌ぎに地元の純生産品ではないまがい物を流通させたりしたら、結局信用を落としすべてが台無しになってしまいますから……」とその決意のほどを語っておられた。私も町長のその言葉と熱意のほどを信じ、ささやかながらも広見町紹介のお手伝いをしていきたいものだと思っている。

「マセマティック放浪記」
2002年12月4日

好事魔多し、
されど悪運もまた強し!

澄みきった晩秋の青空の下、中央高速道をひたすら西へと疾走する私の気分は晴れやかだった。府中から八王子、相模湖、大月と経て甲府盆地へと向かう間、ときおり車窓左手に姿を見せる富士は新雪を戴いて純白に輝き、なんとも神々しいばかりではあった。勝沼を過ぎ甲府盆地に入ると、前方に南アルプス連峰の白く鋭い稜線がくっきりと浮かび上がり、右手には連綿とつらなる秩父連峰の山並みが誇らかにその偉容をあらわしはじめた。

大気の澄んだ晩秋といえども、これほどにはっきりと遠くの山々を眺めることができるのはめずらしい。左手に白鳳三山や甲斐駒ケ岳の切り立つ峰々を、右手にはどこかしら女性的な感じのする八ヶ岳を仰ぎ見ながら小淵沢を通過すると、諏訪湖方面にむかっていちだんとアクセルを踏み込んだ。茅野市付近までくだると、さきほどとは違い八ヶ岳連峰を西側から望むことができるようになったが、こちらから目にする峰々はすでに眩いばかりの白一色の姿に変貌を遂げていた。うっすらと雪化粧をした霧ヶ峰高原一帯のゆるやかな稜線も実にのびやかで、この日ばかりはその名と違って霧にも無縁のようであった。諏訪盆地をはさんで聳える高ボッチ山の向こうでは、乗鞍、穂高、槍と続く北アルプス連峰の山々が、俺たちこそが山岳風景の真打だと言わんばかりに峻険なその山容を誇示していた。

諏訪か岡谷のインターチェンジで高速道をおり、そのまますぐに高ボッチ山に上がれば三百六十度の山岳パノラマを楽しむことができるのはわかっていたが、この日ばかりはそうするわけにもいかなかった。我が愛車の後部には過日東京で催された渡辺淳画伯の個展出展作品二十数点が積まれていたからである。それら大切な絵画を若狭まで運び、無事に返却するのがこの日の私の責務であった。長年にわたる付き合いのよしみもあって、あまり大掛かりな搬送作業を必要としない場合などには、渡辺さんの絵画を直接に預かって遠くまで運んだりすることがある。この日もたまたまこそんな役目を引き受けて車を走らせているところだった。

ノンストップで諏訪を通過し伊那谷に入ると、再び左手に白く連なる南アルプス連峰が姿を見せた。仙丈ケ岳、北岳、間の岳、農鳥岳、赤石岳、荒沢岳など標高三千メートルを超す高峰が連なり並んで聳え立ち、覇を競い合う有様はいつ見ても壮観の一語に尽きる。駒ヶ根周辺に差しかかると、今度はすぐ左手に中央アルプスの盟主木曽駒ケ岳の大きな山影が迫ってきた。鋭く天を指す宝剣の頭や、夏場には高山植物の咲き匂うその直下の千畳敷カール一帯は雪に覆われて白銀に輝き、はや真冬の厳しいたたずまいへと変貌を遂げていた。

次々と車窓を流れゆく美しい山岳風景にみとれながら私は快調にハンドルをさばき、気持ちよくアクセルを踏み続けた。「好事魔多し」とはいうものの、その時まで何もかもが順調そのものだったのだから、何事かが起こりかけているなど神ならぬ身に知りようのあろうはずもなかった。

阿智パーキングエリアを過ぎ次第に恵那トンネルが近づきはじめた頃だったと思う、突然、パシンと何かが弾け飛ぶような音がした。一瞬あれっとは思ったが、路面上の小さな異物か何かが跳ね飛んでボディにぶつかった感じだったので、さして気にもせずそのまま速度を落とすことなく走行し続けた。それからほどなく車は全長八・六キロメートルの恵那トンネルへと突入した。ウイークデイということもあってか走行車はすくなく、トンネル内の車の流れもスムーズだったので、前方をゆく車の尾灯を追いかけながら私は気持ちよくアクセルを踏み込んだ。

このときにすでに異常を知らせる警告灯が点っていたのかもしれないが、長いトンネルの中にあって前方を注意深く睨み、百メートルほど先を走るワゴンの赤いテールランプに視線を集中していたこともあって、不覚にもそのことにはまるで気がつかなかった。たとえ警告灯の点灯に気づいたとしても、とりあえず車は百キロを超える速度で快調に走っていたので、即座には何が起こったのか判断がつかなかったに違いない。また、急遽車を止めたとしても、場所が場所だっただけに追突される危険性もあり、事後処理をふくめて事態は深刻かつ面倒このうえない展開になっていたことだろう。それに、その時点ではまだ知らずにいたが、止めようにも車のほうががすぐには止まってくれなかったろうから、前方の車が渋滞か何かで急に速度を落としていたら追突は避けられなかったに違いない。

何の異変にも気づかぬままに恵那トンネルを走り抜けた私は、その直後に、左右に大きくカーブしながら中津川方面へと下る急坂に差しかかった。下り坂ということもあって、時速百二十キロほどのスピードだ出ていたのではないかと思う。大きなカーブの手前で前方を行く車が速度を落としたので、それに合わせてこちらもブレーキを踏んだ。ところがなんと、ブレーキがまるで作動しないのだ!――いくら強く踏んでみてもブレーキペダルはピクリともしないのだった。あっというまに迫ってきた分離帯のガードレールを眼前にして、私の身体は硬直し、瞬時に背筋が凍りついた。

しかし、この人生、何が幸いするかわからない。昔、知人にプロのカーレーサーがいて、私は彼から遊び半分で走行速度を落とさずにカーブを曲がるテクニックを教わったことがあった。ハンドルを左右に小刻みに振りながら、ブレーキを踏むかわりにアクセルをほどよく踏み込んで、遠心力と求心力のバランスを利用しながらカーブを曲がりきるのである。F1のレーサーたちがやっているあのハンドルさばきを思い浮かべてもらえばよいだろう。意外に思われるかもしれないが、ハンドルを左右に小刻みに振りながらアクセルを踏んで加速すると車が安定しうまくカーブを曲がることができるのだ。

知人にそのテクニックを教わったあと実際に何度も体験し、そのコツだけは呑み込んでいたおかげで、運よくも咄嗟に身体が反応した。激しく小刻みにハンドルを振りながら思い切ってアクセルを踏み込むと、ガードレールに激突する寸前でなんとかそのカーブを曲がりきることができたのだった。カーブを曲がり終えた直後に四、五メートルの距離まで前方の車に接近したが、そこですぐさまギヤを落としエンジンブレーキをきかせたので追突のほうもぜずにすんだ。高速でのカーブ走行のテクニックを教わっていなかったら、いまごろ渡辺画伯の絵画ともどもグシャグシャになっていたかもしれない。

すぐさまハザードランプを点滅させ、エンジンブレーキとサイドブレーキを併用しながら路肩よりのところを時速五十キロほどで走行した。警告灯が全部点灯した状態になっているに気がついたのはそのときだった。ブレーキオイル系統のパイプか何かが破裂したのかもしれないと思ったが、とりあえず車は動くので、最寄の恵那サービスエリアまでそのままなんとか走行してみることにした。あとで判明した状況からすると、途中でエンジンがオーバーヒートしてもおかしくない状態だったのだが、たまたま大気温が低かったことなども幸いしたようだ。途中の中津川のインターチェンジでおりようかとも考えたのだが、ブレーキのきかない状態で料金徴収ゲートまでくだり、一般道に出てから対応処置をとろうとするとかえって面倒なことになりそうだったので、そのまま二十キロほどを慎重に走りなんとか恵那谷サービスエリアへとたどりついた。

早速にエンジンルームを開けてみると、なんとVベルトの一本がバラバラになってしまっていた。定期点検はしっかりやっているのだが、何かの原因でVベルトが突然切断されてしまったものらしい。恵那トンネルに入る手前でパシンという音がしたのは、そのベルトが切断したからだったのだ。Vベルトが切れると冷却ファンが止まってエンジンが過熱するばかりでなく、フットブレーキを作動させる油圧ポンプも動かなってしまうから、突然にブレーキがきかなくなったのも当然のことではあった。それにしても、Vベルトが切れてから高速走行で恵那トンネルに入り、トンネル内を高速で通過し、ブレーキの異常に気づいてからも時速六十キロほどで二十キロ近く離れた恵那谷サービスエリアまで走ったというのに、エンジンがオーバーヒートしなかったこの悪運の強さには我ながら驚いた次第だった。

恵那サービスエリアのガソリンスタンドでは修理不可能だというので、JAFに連絡をとり、車輛ごと台車に載せて恵那市内の岐阜トヨタのサービス工場まで運搬してもらい、そこで修理をしてもらうことになった。ことによったら恵那市で一泊しなければならないかと覚悟もしたのだが、幸い三時間ほどあれば交換用ファンベルトを取り寄せることができるということだったので、サービスルームで本を読んだり付近をうろついたりして四時間ほどを過ごし、無事に修理が終わるのを待った。

すでに十七万キロを走破した我が愛車は、かくしてまた故障から四時間後に奇跡の復活を遂げたのだった。若狭大飯町の渡辺画伯のアトリエ山椒庵に到着したのは午後九時頃になってしまったが、ともかくも貴重な作品を返却するという大任を果たすこともできたし、私自身もなんとか無事ですんだ。車で全国を走り回っていることもあって、正直なところ、あわやという目に遭ったのはこれが一度や二度ではない。ほかにも過去何度か信じられないような体験をしているが、これまでのところなんとか無事に生き延びてきてはいる。

いまはすっかりリラックスした気分になり、山椒庵の暖かいコタツのなかでこの原稿を書いている。私の背後には完成間近な二百四十号の大作「谷の村」の大キャンバスが据えられていて、画面いっぱいに描かれた画伯ゆかりの青く深い山々が、キーボードを叩く私の姿を無言のまま見下ろしている。この日東京府中の自宅を出て若狭のこのアトリエに至るまでの状況にちょっとでも狂いが生じていたら、私はこの画伯の大作と対面することはなかったかもしれない。つくづく人間の運命というものは不可思議なものであると思う。運が良いのか悪いのかはよくわからないが、かくしてまた私は性懲りもなく気まぐれな旅路に身を委ね、周囲の迷惑もかえりみずにこの放浪記をなお綴り続けることになったのだった。

「マセマティック放浪記」
2002年12月11日

ワーストセラー作家の戯言

ある出版社から依頼されいた四百枚近くの原稿をようやく書き終えたところである。科学哲学の根底問題をテーマにした原稿だっただけに、生来たいした思考能力など持ち合わせていない身にすれば近年にないハードな仕事ではあった。それに、このところずっと、軽い駄文ばかりを書き綴る日々が続いていたので(といっても、このAICの読者の方々をおろそかにしてきたつもりはありませんので、その点は誤解なきように)、弱い脳味噌がますますふやけてしまっていて、深い思索や徹底した推敲を要する原稿などを容易に執筆できる状態ではなかった。だから、よけいに執筆作業は大変だった。

それでもなんとか脱稿にまで漕ぎつけることができたのは、ある程度中身がしっかりしさえおれば売れない本でも刊行するのはやぶさかでないとする出版社サイドの意向と、担当編集者のひとかたならぬ熱意とがあったからだった。また、今年六月にその出版社から拙訳の奇書「創造の魔術師たち」を刊行してもらった際に、次はきちっとした自著原稿を書くという暗黙の約束みたいなものが成立してしまっていたこともいまひとつの理由だった。(時間のある方は2002年6月19日付バックナンバーを参照してください)

いまどき科学哲学がらみの本を出版してくれようというのだから、ワーストセラー作家の身としては文句のいえる筋合いでもないのだが、久々に小さな脳髄をとことん酷使したこともあって、いま我が身は一種の虚脱感に襲われている。当分は根詰めて面倒な仕事など当分はする気になれない状態なのだ。

そんな気分の延長もあって、深い思索や考察のともなう数理哲学や科学理論がらみの原稿執筆はもうこのへんで最後にしたいと編集者に告げると、「いやあ、そんなこと言わないでくださいよ」とたしなめられもした。先々どうなるかはわからないのだが、目下のところ、そんな負の心理的状況に自分がおかれていることだけは間違いない。

話は飛ぶが、いま府中市の生涯学習センターでは、例年私が企画コーディネート及び司会進行を委託されている秋の講座が開かれている。朝日新聞東京本社社会部デスク、同論説委員を経て現在は朝日新聞編集員の藤森研さんにはじまった今年の講座も、十二月八日の評論家芹沢俊介さんによる最終講座で無事閉幕ということなる。前回の十二月一日は、文藝春秋社第二出版局長の平尾隆弘さんを迎えての「ベストセラーにみる社会現象」というテーマでの講座だった。週刊文春編集長、文藝春秋編集長を経て現職にある平尾さんは、当然ながらベストセラーつくりの達人の一人で、いろいろな大物作家との付き合いも長い。そんな平尾さんをもってしても、本の売れ行きを的確に予測することは至難の業であるという。

ついでだから述べておくと、いまからもう二十年以上前のこと、長年の友人でもある芹沢俊介さんから依頼を受け、ポアンカレー著の「科学と仮説」および「科学と方法」という二冊の本をテキストに、科学理論や科学哲学に関するかなりハードな連続講義をしたことがあった。芹沢さんのほか、評論家の米沢慧さんや玉木明さんが幹事を務める「類の会」という勉強会のメンバーが対象の講義だったが、当時文藝春秋社の若手中堅社員だった平尾さんもたまたまそのメンバーの一人だった。平尾さんとはその時以来の付き合いである。

大物作家とのやりとりや出版業界のあの手この手の戦略など、業界についての平尾さんの裏話は実に面白かったのだが、話を聴けば聴くほどに私などはベストセラー作家とは無縁な存在であると痛感させられるばかりであった。ここまではっきりそのことを悟ったとなると、残る道はワーストセラーに徹するしかないのだが、よくよく考えてみると、ほんとうの意味でのワースト作家になることはこれまたなかなかに難しいことなのだ。

とりあえず、その作家の本が最低一冊は出版されるのでなけれなならない。とにかく本が出版されないことには作家とはいえないからだ。本が出版されたうえで一冊も売れないというのがパーフェクトなワーストセラー作家ということになるのだろうが、作家本人が意地でも一冊くらいは買うだろうから、現実にはまずそのようなことは起こらないだろう。そうだとすれば、ワーストセラーのワーストぶりの基準としてはいったいどのようなレベルを想定しておけばよいものなのだろう。ワーストセラー作家を自認する私の場合でも、初版発行部数二千部くらいの最低ラインの仕事をしたことはあるものの、幸いというべきか、初版が売れ残ったという経験はこれまでのところいちどもない。

四年余にわたって毎週休みなく書き綴ってきた放浪記の原稿は二千数百枚にのぼっている。雑事に追われるままに、手入れもせずそのままにしてあるが、なかにはいくらかまともな文章もあることなので、すこしくらいは整理して多少はましな扱いをしてもらえる出版社を探そうかとは思っている。先日の講座終了後、平尾さんを駅まで見送りながら、もしかしたら朝日で書いた原稿を文藝春秋社から出してもらうなんてこともありかななどと悪い冗談を考えたが、表向きの両社の日常関係からすると、いくらなんでも冗談がきついというものだろう。また、たとえそんなことをしようとしても、たちまち門前払いを食ってしまうのが落ちには違いない。

昔からの知人、友人、教え子などで大新聞社や大手出版社などに勤務する者などはたくさんいるにはいるのだが、そのような個人的交際がらみのツテやコネを頼って自分の作品を刊行してもらうようなことは正直言って好きではない。ワーストセラー作家と言われようが言われまいが、あくまでも作品本位の評価をしてくれるところと仕事がしたいし、そのような相手があるならそれが名も知れぬ小出版社でもいっこうに構わない。そんなところも見つからないとあれば、ライターとしての己の力量不足と諦め、自己満足の証として原稿をそのまま山積して放っておくか、さもなければ筆を折るのみである。

「マセマティック放浪記」
2002年12月18日

久々の雪景色に想うこと

 雪が降っている。テレビなどでも報道されているように、東京で十二月十日前後に積雪をみるのは久しぶりのことである。十年ほど前までは雪を見るとなんとなくわくわくした気分になっていたが、近頃は、「雪かあ……、寒いから外にでるがなんとなく億劫だなあ」などという気持ちのほうが先に立ち、戸外に出る決断をするまでにちょっとだけ時間がかかるようになった。これが、「雪かあ、外はひどく寒いだろうなあ……、ストーブをつけ、コタツに入ってボーッとしているのがいちばんか……」なんてことになってきたら、私の人生もそろそろ終わりが近づいたということになるのだろう。幸いというか、目下のところはまだそこまではいっていない。
 世界的な大気温の上昇が伝えられる近年にあってはすいぶんと状況も違ってきているのだろうが、私が小中学生だった頃までは、南国鹿児島の離島でもたまには雪が降り積もった。小学校の校庭で雪だるま作りをしたり雪合戦をしたりしてはしゃぎまわったことなどもいまとなってはたいへんに懐かしい。激しく降りしきる雪を眺めているうちに、なぜか突然私はそんな遠い日の情景を想い出した。
 私が育った甑島は東シナ海に浮かぶ離島のひとつで、鹿児島県串木野市の西方四十キロほどのところにある。熊本県天草島にある牛深市の南方三十キロ余の海上に位置しているといったほうがわかりやすいかもしれない。真冬に大陸から吹き寄せる北西の季節風をまともにうける位置にあるから、南国の島とはいっても、風の強い日などは結構寒かった記憶がある。冬山登山や冬季の北方旅行など一時的なケースをのぞけば、これまでの人生の中で冬の時期もっとも寒いと感じたのは、意外なことにこの甑島での小学校時代なのである。もちろん、冬の平均気温の低さからすると同島を離れて以来暮らしてきた国内各地のほうがずっと寒かったはずなのだが、実感としてはその頃の寒さがいちばん記憶に残っている。むろん、そう感じたことにはそれなりの理由もあったのではあるけれども……。
 当時、我が国はまだずいぶんと貧しかったから、離島の小学校の校舎などはみな木造で、しかも戦前からの古い建物が多かった。エアコンディショナーなど無縁の時代のことだから、夏が暑い南九州各地の当時の校舎は、みな風通しのよい夏向きの造りになっていた。しかも床はあちこちが隙間だらけの一面の板張り、そして机も椅子も古びて穴だらけ傷だらけだった。その頃の甑島では夕方から翌朝までしか送電がおこなわれていなかったから(このあたりは、なにやらいま話題となっている北朝鮮の電力事情とそっくりである)、学校の教室では自然光だけを頼りにして授業がおこなわれていたものである。
 自然光を最大限に採光するために、教室の左右両面には四角くて薄い透明ガラスを何枚もはめこんだガラス戸が多数立て並べられていた。ところが、古い木製の窓格子は歪んだり傷んだりしているために、それらのガラス窓のいたるところが隙間だらけになっており、また、常時何箇所かは割れたまま放置されているというのが実状であった。もちろん使用されている窓ガラスはみなごく薄いものばかりだった。
 そんなわけだから真冬になると隙間風が吹き込み、またそうでなくても教室内はしんしんと冷えわたった。しかも、その寒さに当時の島の貧しい生活状況がいっそうの拍車をかけた。生徒たちは教室内ではみな裸足だった。もちろん、靴下など履くことは許されなかったし、たとえ履こうにも靴下などない生徒がほとんどだった。私が小学校高学年になる頃までは靴をもっている生徒そのものがごくわずかで、真冬でも裸足で通学するのがごく普通のことだった。たとえ靴をもっていても、それを履いて通学するのが憚られさえしたものである。
 毎朝校庭でおこなわれる朝礼も、たとえ地面が凍りつくような日であっても教師以外は全校生徒裸足、体育の時間はいうにおよばず、運動会などのような催し物などもみな裸足での参加が義務づけられていた。その時代はみなそうだったが、着衣もはなはだ粗末なもので防寒性など望むべくもなかったから、冷え冷えとした教室にじっと座っているだけで爪先やお尻のほうから寒気がじわーっと全身に伝わってきたものだった。
 学校で裸足が義務づけられていたのは、廊下を磨き教室を美化するという建前のほかに、当時の生徒たちの生活事情への配慮などがなされていたからでもあるのだろう。ごく一部の生徒だけが靴や靴下を履いていたら不平等感などもあってなにかと問題が生じたに違いない。「こどもは風の子」だの「質実剛健」だのといった言葉が当時はずいぶんもてはやされたりしたが、意地悪な解釈をすれば、本音のところは、「こどもなんだから、このくらいの寒さは我慢せい!」とか、「貧乏でも仕方ないから頑張れよな!」とかいったようなことだったとも考えられなくはない。
 ともかくも、そのような状況下での学校生活だったから、真冬などは授業中に手がかじかんで鉛筆をうまく持てないこともしばしばだった。当然、両足の指もかじかんで感覚がなくなることもしょっちゅうだった。授業中に両手や両足の指を激しく擦り合せ、なんとかしてかじかんだ指先を伸ばし感覚を取り戻そうと必死になったことなども鮮明に記憶の中に残っている。もっとも、どんな状況下にあっても生活の知恵は湧き出てくるもので、休み時間ともなると、生徒たちはお互いに激しく身体をぶつけあったり擦りあったりする遊びをいろいろと考えだし、その場を凌いだものだった。
 冒頭にも書いたように、それなりに歳をとってしまったせいで、いまは結構寒がりになってしまったが、南国育ちであるにもかかわらず、ある年齢までは寒さには強いほうだった。とくに、じわーっと身体全体が冷え込むような寒さに対しては、北国育ちの人々などよりもずっと強かったかもしれない。家内は北海道育ちだが、東京の冬の寒さに対してはいまでも明らかに私の適応能力のほうが高い。北国は戸外の温度はとても低いけれど、家の造りが冬向きになっており、昔から防寒対策に十分な工夫と配慮とがなされてきているから、そのような環境で育った人々は、案外、東京におけるような寒さには弱いのかもしれなしれない。
 若い頃、積雪期の北アルプスで猛吹雪に襲われ遭難しかかったとき、仲間の皆がかなりひどい凍傷になったにもかかわらず、私だけは頬に軽い凍傷を負っただけですみ、それもほどなく完治してその痕はまったく残らなかった。毛細血管が人一倍発達していたからだともいわれたりしたが、もしかしたら、あの甑島の冬の寒さに順応するために自然に体内の毛細血管が発達したのかもしれない。そうだとすれば、甑島での小学校生活において寒いおもいをしたことはたいへんに有り難い経験だったということにもなる。
 国内の津々浦々を旅するにつけても、近年の小中学校の建物や設備はずいぶんと立派になったものだとおもう。授業中に手がかじかんで鉛筆がもてなくなるようなことなど、いまではどんな田舎の学校でだって起こったりはしないだろう。では、昔に比べると格段に恵まれたそんな教育環境の中で、小中学校の生徒たちの本質的な基礎学力もそれ相応に向上したのかとなると、たぶん答えは「ノー」であるような気がしてならない。
 貧しくはあったけれども、アフガニスタンのこどもたちの瞳がそうであるように、まだ幼かった私たち離島の小学生の双眸は、未知のものへの憧れを秘めキラキラと澄み輝いていたに違いない。では、こどもたちの瞳の輝きを取り戻すために、日本社会はいまいちど昔のように貧しくなったほうがよいというのであろうか?――「イエス」とはどうしても言えないところがこの問題の厄介なところである。生物の進化の流れが遡行不能であるように、文明史の時間軸を逆行させることもまた不可能なことである。それに、いまさらそんなふうに昔をやたら懐かしがってみても、滑稽なアナクロニズムに陥るのが関の山ではあるだろう。時代の問題を解決するには、結局のところその時代なりの知恵と工夫に頼るしかない。

近著紹介

AIC本田成親マセマテック放浪記 で1998年12月9日から1999年4月21日まで掲載された甑島紀行エッセーをA4判縦書きの本にしました。

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