マセマティック放浪記

エッセー

20.上海駈足紀行(4)

翌日はガイド役のFさんにベテラン運転手付きの車を借りるように手配してもらい、その車で市内のあちこちを案内してもらうことになった。出発前にホテルのレストランで朝食を取ったが、バイキング風の朝食メニューは和洋中のいずれもヴァライエティに富んでいて味のほうもなかなかよかったし、従業員の応対振りも行き届いたものだった。朝食を取っているお客は外国人、それも欧米系の外国人が多く、レストランの中はゆったりとしていてそれなりに落ち着いた感じだった。ただひとつだけ問題だったのは食前食後に口にした紅茶の味だった。前夜に部屋で試しにと水道水を沸かして飲んだお湯の味そのままに、なんとも違和感のある味がしたからだった。やはり飲用水の水質がかなり悪いに違いなかった。

朝食を済ませると、直ちに我々は迎えに来てくれた車に乗り込みホテルをあとにした。その日最初に向かったのは、かつて日本租界だった虹口地区の一角にある魯迅公園と、その中にある魯迅記念館だった。浦東地区から魯迅公園方面に行くには黄浦江の下をくぐるトンネルを通り、車の混雑する市内の中心部を抜けて北上しなければならなかった。そのため四、五十分ほどを要したが、その間、車窓越しに目に飛び込んでくるのは、前後左右いたるところに林立する高層ビル群の光景だった。東京都心部の高層ビル街などものの数ではないほどにその光景は凄まじく、唯々圧倒されるばかりだった。地震がすくなく地盤が安定している上に早くから西欧文化の影響を強く受けた上海には、1920年代から当時の東洋には珍しい高層ビル群が存在していた。だが、何十階建てもの近代的なビルが広い市内のいたるところに聳え立つ現在の光景は、写真で見る往時のビル群の様相とは桁違いの感があった。

土地がすべて国有なうえに労働力も各種の資材も安く、しかも急カーブを描いて上昇発展中の経済を睨んでの膨大な外国資本の流入もあるから、このような高層ビルの建築ラッシュが起こっているのだろう。もちろん、政府筋の有力者と特別な関係を持つ民間業者が莫大な利権を手にしてビル建設や道路開発を強力に推進している結果には違いない。それにしても、こんなに高層ビルを建てまくって将来どういうことになるのだろうなどと思いながら、たまたまそのそばを通りかかった建設中のいくつかの高層ビルに目をやると、驚いたことには、外壁に添う工事用の高い足場が金属パイプや鉄骨ではなく太く長い竹で組み上げられているではないか。日本などではまず見かけられない光景なのでいささか不思議にも感じたが、考えてみると竹は軽くて丈夫だし、柔軟性と弾力性にも富んでいて人体との接触感も悪くないから、建築用足場材には結構適しているのだろう。もちろん、竹の本場の中国には竹材は余るほどにあるだろうから、素材はごく安く調達できるに相違ない。

上海市内を縦横に走る主要車道は往復六車線ほどもある立派なものが多く、十分に整備もなされていた。むろん、それに加えて高架道路や有料道路も随所に設置されているわけだから、上海が一大車社会となり膨大な数の車で溢れかえるのも当然のことだった。これでは国際的に原油価格が高騰するのも無理ないなと思いながら、すれ違う車種をそれとなく確認してみると、どういうわけか圧倒的にフォルクスワーゲンの占める割合が高かった。なかでもタクシーは10台中6〜7台までがフォルクスワーゲンの車だった。日本車を探してみようとしたが、トヨタもホンダもちらほらと目につく程度だった。ただ、中国を走る車種は各都市によってずいぶんと偏りがあるとも聞いているから、もしかしたら、フォルクスワーゲンが格段に多いのは上海のみのことだけなのかもしれなかった。

車の走りっぷりは相当に強引だった。我々の車の運転手が特にそうだというのではなく道路を走る車のすべてが互いに割り込み、追い越し、路線変更、横断歩道上での優先走行などを思いのままにやっている感じで、他車を威圧するかのようなクラクションがいたるとことで鳴り響いていた。車の運転は大好きで、日本にあっては高年暴走族を自負している身ではあるのだが、この上海においていきなり車を運転するのは到底無理だなというのが偽りのない感想だった。

大小の車の往来がとても激しく、成り行き任せにしていると混乱が生じかねないせいだろうか、交通警察官の姿が随所に見られるのも印象的だった。彼らは胸部に「警察」、背部に「POLICE」と明記された黄色の上衣を身に着けていたのですぐにそれとわかった。ボディサイドに「公安」という文字の表記されたパトカーの姿も街路のあちこちでずいぶんと見かけはしたが、旅の途上にある他国人の気楽さで、親しみを感じこそすれ威圧感など覚えることはまるでなかった。日本国内を車で旅している時などは必ずしもそうはいかないから、人間の心理とはなんとも不思議なものである。

魯迅公園はかつて日本軍が使用していた広大な射撃訓練場跡地に設けられたものである。公園の前で車を降りると真っ先に目に飛び込んできたのは緑色のポストだった。形はひと昔前の日本に広く普及していた赤い円筒形のポストとまったく同じ形をしていたが、色が緑というのがなんとも奇妙に感じられた。郵便ポストは赤いものという長年の固定観念がそんな印象をもたらす原因になっているわけで、あらためて異文化に接する場合の難しさというものを痛感させられる有様だった。

ちょうど休日に当たっていたので、魯迅公園内は思いおもいに秋の一日を楽しむ市民たちで溢れ返っていた。とくに目についたのは、グループごとに太極拳や各種のダンスを楽しむ中高年層の男女の姿だった。各グループにはそれぞれに先生らしい人物がいて手本を示しながら太極拳の型やダンスの基本を演じ、気が向いた人々がそれを真似ながら和気藹々にひと時を過ごしているという様子で、グループでの活動にありがちな強制感や拘束感といったものはほとんど窺えなかった。日々の健康維持や日常のルーティンワークから心身を開放したり、市民間の交流を自然に促進したりするために、公園などにおいてこのような場が設けられるようになったのだろう。また、ひとつには、夫婦や家族共々に食事などはすべて外食ですませ、専ら労働時間と余暇の効率的な確保に努め、それらのほどよいバランスの取り方に心がけるのが普通になった現代中国社会の都市生活者の姿の反映でもあるのかもしれなかった。

公園の一角にはちょっとした子供用の遊戯場みたいなものがあって、そこの池に浮かぶエンジン付きボートに乗って休日を楽しむ家族連れの姿などが見られもした。上海市内の他所では中国人の子供の姿を見かけることがなぜかほとんどなかったので、ボートに乗ってはしゃぐ子供らの姿を目にすることができた時は、なんとなくほっとした気分にさせられた。

魯迅記念館は白壁に精緻な黒の瓦葺きの屋根をもつ大きく立派な二階建ての回廊式建物だった。現在に至るまでに何度か建替えや改修がおこなわれてきたらしいが、館の入口左手壁面に表示されている「魯迅記念館」という大きく立派な文字は開館当初からのもので、かの周恩来の筆になるものだということであった。8元の入館料を払って入った館内には魯迅の生涯の軌跡を伝える資料や写真、彫像類、各種遺品、さらには中国内外において刊行された膨大な数の魯迅の著作類が展示されていた。

意外だったのは、入館してほどなく、我々一行を日本人だと察知したかなり高齢の専属解説員らしい人物が日本語で話し掛けてきて、自ら進んで展示資料の解説をしてくれはじめたことだった。そこまではよかったのだが、こちらのペースにお構いなく持論とおぼしきものをあれこれとまくし立てながら、日本人向きだと彼が勝手に判断した展示コーナーだけを強引かつ足早に案内しようとするのには、正直なところいささか閉口してしまった。挙句の果てに、もういいだろうと言わんばかりの勢いで、我々は地階にある喫茶室兼土産物売場へと通されてしまったのだった。やむなくして私たちはもう一度展示室内へと戻り、展示物のいくつかをしばらく見直す結果となった。

近代中国革命思想の理論的先駆者の一人としてのちに中国で高く評価されるようになった魯迅は、斬新な着想と手法のもと、古い中国の体制を強烈に風刺批判するさまざまな文学作品を著わした。その中でも、日本ともゆかりの深い名作「阿Q正伝」は、彼の名を広く世界に知らしめるところとなった。学生時代に読んだことのある「阿Q正伝」の岩波文庫版も展示してあったので、懐かしい思いで私はその一冊に見入ったりもした。

よく知られているように、魯迅は日本の東北医専(現東北大学医学部)に学び、そこの日本人恩師から多大な教示と庇護とを受けた。のちに魯迅が大成したのもその恩師あってのことだったと言われているが、その東北医専時代の写真資料なども懇切な解説付きでしっかりと展示してあった。魯迅記念館の見学を終えたあとでFさんにその一角へと案内してもらうことになってもいたのだが、1936年に55歳で他界した魯迅は、最晩年の3年間ほどをこの近くにあった内山書店の店主、内山官造の庇護のもとにありながら、その本名や身分を隠して暮らしていたのだった。その当時の内山書店の入口をそっくりかたちどったコーナーが展示フロア内にわざわざ設けられたりしているのも、私にはとても印象深かった。時代を超えたその強烈な精神のゆえに不遇の日々を送らざるをえなかった魯迅が、はからずも内山書店主から受けることになった恩恵の大きさのほどを、その展示コーナーは無言のうちに物語っているように思われてならなかった。

くだんの専属解説員らしい老人は、日本語によるその饒舌な解説の中で、「魯迅は別に共産党員だったわけではありません。私は共産党が嫌いです」とさりげなく呟いた。たとえ相手が我々現代日本人であっても、またその言葉が日本語であったとしても、こんな場所でそんなことを言って大丈夫なものなのかと驚きもしたが、見方によってはそれほどに上海を中心とした中国現代社会は変貌を遂げつつあるということなのでもあろう。魯迅記念館をあとにし、旧日本租界の中心街のあった一帯へと向かっておもむろに歩を運びながら、一瞬私はそんな想いに駆られるのだった。戦後まもなくこの虹口地区に魯迅公園や魯迅記念館ができたのは、これから向かう旧日本租界中心街の一隅に晩年の魯夫妻が住んでいたからにほかならなかった。

 

近著紹介

AIC本田成親マセマテック放浪記 で1998年12月9日から1999年4月21日まで掲載された甑島紀行エッセーをA4判縦書きの本にしました。

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