マセマティック放浪記

エッセー

11.「鳩ノ巣釜飯」を喰わずして…

奥多摩の秘湯三条の湯からの帰り道に鳩ノ巣にある名物釜飯屋に立寄った。国道沿いにあるこの老舗の屋号は、そのまま「鳩ノ巣釜飯」なのである。奥多摩一帯には「釜飯」の看板を掲げる店か幾つもあるが、このお店の釜飯の味は抜群で、「鳩ノ巣釜飯を喰わずして釜飯を語るなかれ!」と言ったとしてもけっして過言ではないだろう。

奥多摩の山々に登ったり多摩川源流域の探訪などをした帰り道には、できるかぎりこの釜飯屋に立ち寄るようにしてきた。なにせ、私がまだ学生だった頃から通い続けてきているのだから、店の女将などにはすっかり顔をおぼえられてしまっている。筋肉質のスリムな体型をしていた学生時代の姿も、妻や二人の子供らを連れて出入りした中年前期の頃の姿も、徐々にウエイトが増えふてぶてしさが身につきはじめた中年後期頃の姿も、そしてまた不良中年暴走族から不良老年暴走族にとなり果てた近年の姿も女将はよくよくご存じなのだ。

「あら、いつもありがとうございます。またちょっと太られましたねえ……」という女将の忌憚のない声に、いったんは「ええ、ここの釜飯を食べ過ぎたせいかもしれませんねえ……」と応酬しかけたが、胸中でその言葉をぐっと抑え、「学生時代なみにウエイトを減らそうと、今日は久々に三条の湯まで行ってきたんですよ。登りではちょっとばかり汗をかきましたがね」と心にもない返事をした。それに対するさりげない女将の笑顔の裏には、「そんなことやっても無駄じゃありませんか?」という内心の率直な呟きが隠し秘められている感じだった。

でも、三条の湯への急な登り道でウエイトの増加と体力の衰えを痛感した身としては素直におのれの情けない現状を認めざるをえなかった。しかも、相手の女将のたたずまいときたら以前とほとんど変わりがない感じだったから、ますますこちらは立つ瀬がなかった。そこで、「あら、ひどくお痩せになられましたねえ。どこかお悪いところでも?」などと訊ねられるよりはまだましというものだと自らに言い聞かせた。

この釜飯屋には過去多くの友人知人や教え子などを連れてきた。そして、それらの誰もがここの釜飯の味の素晴らしさに揃って感嘆の声をあげたものだった。しかも、その多くが以後リピーターとなってこの釜飯屋に出入りするようにもなっている。それらのなかには相当に舌の肥えた食通などもいるのだが、そんな連中であっても、いや、むしろそんな連中ほどにこの店の釜飯の味にとりつかれてしまうようなのだ。

ここの釜飯には山菜釜飯と茸釜飯の二種類があり、どちらも単品での注文は可能だが、せっかくこの店を訪ねてみるようなら、ぜひとも釜飯セットを注文してみることをおすすめしたい。二種類の釜飯のどちらかに加え、水炊きと味噌汁、地元の特産である刺身コンニャク、さらにはお新香などが合わせて出される。いずれも地元産のごく素朴な素材を用いただけのもので、高級素材を用いた色とりどりの具がふんだんに入っているというわけでもないのだが、それにもかかわらず視覚的にも味覚的にも素晴らしい手料理なのだ。

釜飯にも水炊きにも見るからに年期の入った素焼きの釜が用いられているのだが、それもまたこの店ならではの味を生む秘密のひとつであるらしい。たとえば、茸釜飯はお米とごく普通の茸類や胡麻塩を用いただけのごくシンプルなものなのだが、米の炊き上がり具合やその色艶の美しさといい、御飯全体にしみわたるほどよい塩味といい、ほのやかな香りといい、さらには口に入れた時の舌触りのよさといい、なんとも申し分ないものなのだ。

さらにそれに輪をかけたように美味なのが何種かの新鮮な地元産野菜の入った水炊きだ。上質の地鶏肉でダシをとった水炊きなのだが、その秘伝のスープの味はそんじょそこらの料理人がおいそれと簡単に作り出せるようなものではない。また、いつ立ち寄っても、釜飯も水炊きも味がまったく変らないのもこの老舗のよいところだ。素材、水質や水加減、釜の形や厚み、火加減、全体的な調理法などにその味の秘密はあるようで、用いる素焼きの釜ひとつとっても新しいものや見栄えのよいだけのものではまるで役に立たないらしい。一緒に出される川苔入りの特性刺身コンニャクも、薬味を含めたその香りといい歯触りといい、まったく文句のつけようがない。

釜飯セットには含まれていないが、このお店のいまひとつの珍味は「シメジのワサビ和え」だ。シメジを縦に細長く引き裂いたものをワサビ醤油で和えただけの、ごく単純な和え物なのだが、初めてそれを口にした時、私はその味のよさに思わず「うまい!」と感嘆の声を漏らしたほどだった。アルコールに無縁な身でもそう感じたのだから、ビールや酒好きの人がこれを肴にしたら堪えられないに違いない。

もうずいぶんと昔、家族連れで立ち寄った時のこと、妻がその味のよさを絶賛しながらそれとなく作り方を訊ねてみると、女将は「お宅でも簡単に作れますよ」と言いながら快くそのレシピを伝授してくれたものだ。それ以降、我が家では、折々、シメジのワサビ和えを作り、舌鼓を打ちながらその美味を楽しむようになった。もちろん、シメジやワサビなどの素材の質ほか、細かい調理技術的な腕の違いなどもあるから、奥多摩釜飯のお店で出されるほど上等なものを作れるわけではないのだが、それでも十分賞味に堪えるだけのものを作ることはできる。

まず、シメジを買ってきて、ほどよく手で細かく縦に引き裂く。その際、シメジの根の深い部分までを全部用いるのが重要なポイントだ。間違っても包丁で切り刻むのだけは避けてもらいたい。次にそのシメジをさっと茹で上げ、そのあとしっかり水を切って茹でたシメジを氷や冷蔵庫の冷凍室で凍らない程度に冷やす。その傍らでワサビ醤油を作り、そのワサビ醤油もワサビや醤油の香りが飛ばないようにして程よく冷やす。最後に、十分冷やした茹でシメジを同じく冷やしたワサビ醤油でほどよく和えて味が染み込んだ頃合を見計らって食べる。

もちろん用いるワサビ醤油はワサビがザラつくくらいのほうがよい。生ワサビをおろして用いるのがよいにきまってはいるが、市販の練りワサビを用いてもそれなりはいけるから、是非とも試していただきたい。もちろん、いちばんいいのは、奥多摩の鳩ノ巣を訪ね、鳩ノ巣釜飯に立ち寄って釜飯セットのほか、メニューの一番はじめにあるシメジのワサビ和えを注文してもらうことだろう。

近著紹介

AIC本田成親マセマテック放浪記 で1998年12月9日から1999年4月21日まで掲載された甑島紀行エッセーをA4判縦書きの本にしました。

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