初期マセマティック放浪記より

192.自詠旅歌愚考(九)

生まれ来し証は青き一条の光の糸と蛍飛ぶ夜
(長野県坂井村草湯にて)

長野県坂井村草湯にある冠着荘(かむりぎそう)に初めて宿泊したのは、私がまだ三十代のはじめの頃だったとおもう。かつて、この村営の保養所は、谷筋の田園地帯にある小集落のはずれに一軒だけぽつんとたつ、とても静かな雰囲気の温泉宿だった。冠着荘というその風変わりな名は、姥捨て山伝説や田毎の月で知られるすぐ近くの冠着山(かむりぎやま)にちなんでつけられたものであるらしかった。

とても世話好きな当時の支配人は、「美人の湯」の異称をもつこの温泉は全国の泉質コンクールで一位になったこともある名湯だと誇らしげに話してくれたものである。何を基準に温泉の泉質に順位をつけたものなのか少々疑問にはおもわれたが、美人の湯なら美男の湯も兼ねるのであろうと勝手に拡大解釈し、さらさらとした感じの単純泉の湯に深々と身を沈めたものである。入浴に適した四十二度ほどの湯を源泉から直接湯船に引いているから、熱すぎて水で割ってある他の温泉の湯とは違って、百パーセントの天然温泉だとも支配人は自慢していた。その点だけはたしかに支配人の言う通りであったとおもう。

その夜のこと、なにげなくフロントにおりていくと、くだんの支配人が、そっと囁くような口調で、「このあたりには蛍の群棲地がありましてね、まだ時期的にちょっと早いかもしれませんが、そろそろ出はじめるころなんです。もしかしたらいくらかは蛍が見られるかもしれませんよ」と言って、ほど遠くないところにある蛍観賞スポットを教えてくれた。散歩をかねて早速教わった場所へと出向き、付近の田圃の畦道(あぜみち)を歩いていると、なるほど、青白い光を明滅させながら空中を舞い漂う蛍の姿がちらほらと見かけられた。それでも二十匹ほどは目にとめることができただろうか――源氏蛍などよりもずっと小ぶりなところからすると、山間部の渓流などによく見られるヒメボタルであるようにおもわれた。

この時の初宿泊をきっかけとして、私は折あるごとに冠着荘を訪れるようになった。ある年の七月上旬、糸魚川方面からの帰りに同荘に宿泊したことがあったが、そのときに目にした蛍の乱舞はなんとも壮観なものであった。まさに幻想的という言葉がふさわしいその夜の光景をいまもありありと想い出すことができる。気の向くままに私が足を運んだ水田の一角だけでも、二、三千匹にはのぼろうかとおもわれる蛍の成虫やその幼虫たちが一斉に命の灯を瞬かせていたからである。なかでも細い水路に沿う棚田斜面の蛍の明滅の見事さはただもう息を呑むばかりであった。時折、まるでサカー状の観客席のウエーブを連想させるような光の帯の揺らぎまでが見られたりしたものである。

蛍の幼虫はカワニナなどの小さな巻貝を捕食して成長し、一定の期間が過ぎると小川の土手や田圃の畦の土中に這い上がり、小室をつくって蛹(さなぎ)となる。そして、それからさらに十日ほどしてから羽化をとげ、成虫となって空中へと飛び立っていく。意外に知られていないことだが、蛍は水中で生息している幼虫のころから青白い燐光を発しはじめる。そのため、それらはミズボタルという異名で呼ばれたりすることがある。

羽化の最盛期ともなると、水中の幼虫たちばかりでなく、小川の土手の斜面や畦道の両脇などでも、水中から這い上がったばかりの幼虫や羽化したての若い蛍の一群が、青く澄んだ力強い光を放つ。もちろん、空中では成虫となった無数の蛍が光の尾を曳き、明滅を繰り返しながら命も尽きよと乱舞する。

とくにこの夜は、水中、地上の草むら、そして空中のそれぞれにあって無数の蛍たちが何ごとかを訴えかけでもするかのように光の大合唱をしていたのだから、美しさを通りこし、ある種の壮絶ささえ感じられたものである。蛍は恨みをのんで死んだ者の霊魂が漂い出たものだとする伝承が各地に残ったりしているが、昔の人々がそう信じたのも無理のないことではあったろう。

そのときからさらに十年近く経った夏の夜、ちょっと寄り道して草湯一帯を訪ねてみると、あたりの様子は一変していた。近くには高速道路が通じ、冠着荘は近代的な建物に変わり、その隣にはクア・ハウスが新設されていた。また、蛍の棲息する田圃の周辺は、すぐそばに開設されたゴルフ練習場かなにかの夜間照明灯のため、目も眩まんばかりの光の大洪水にさらされている有様だった。

急激な環境の変化に戸惑いを覚えながらも、注意深く付近の棚田の斜面や畦道の脇を探してみると、それでも五十匹前後の蛍が草むらにしがみつくようにして淡い光を明滅させているのが目にとまった。だが、まるで照明灯の輝きに無言の抗議をするかのように、それらの蛍たちはいっこうに飛び立つ気配を見せなかった。

どうしたものかとおもったが、幸い、午後十時過ぎになって問題の照明灯が消されるとあたりには暗さが戻った。するとそれを待っていたかのように、青白い光の糸を曳いて蛍たちが草むらから飛び立ちはじめた。水中にも点々と小さな命の灯が息づいているのが見うけられた。かつて目にしたような凄みのある光のドラマは望むべくもなかったが、それでもまだ相当数の蛍が棲息しているらしいことはせめてもの救いであった。

蛍の飛び交うこの季節にあわせるかのようにして、野辺のあちこちにはホタルブクロという淡紫色あるいは白緑色の釣鐘型の花が咲く。途中で茎ごとホタルブクロを摘んできていた私は、畦道下の水辺近くの草むらで光っている一、二匹の蛍をそっとつまんでその花の中に入れてみた。すると、蛍が光を放つごとに、釣鐘状の花びら全体が明るく透き通るような紫緑色に輝いて見えた。その不思議な光の色合いのなんと美しかったことだろう。

その後、若狭在住の渡辺画伯(この一連の文章の挿絵をお願いしている渡辺淳さん)と旅先の若州一滴文庫でたまたま出逢い、初対面にもかかわらず共に一夜を語り明かすことになったときにも、ホタルブクロの花は一役買ってくれたのだった。お互い蛍をホタルブクロに入れて光の美しさを楽しんでいるとわかって意気投合、二人の間でますます話は弾んだからである。渡辺さんには、その時すでに蛍入りのホタルブクロを描いた素晴らしい油絵作品が何点もあって、私はそれらの作品を拝見しながら深い感動にひたったものである。

それにしても、ホタルブクロなどという絶妙な呼び名をこの花に授けたのは、いったいいつの時代のどのような人物であったのだろう。私のほうはホタルブクロというその洒落た花の名に示唆を受けて蛍を中に入れてみることを想いついたわけであるが、初めてそう命名した人物の場合は、蛍を釣鐘型の花の中に入れて眺め、その美しさに深く心うたれたあとでホタルブクロという名を考え出したはずである。

もしかしたら、蛍狩りに行き、捕った蛍を入れる適当な小箱や小袋がなかったので、たまたまその花を袋代わりに使ってみたら便利だったという、ごく実践的な状況が先にあったのかもしれないが、いずれにしても実験精神において私などより一歩も二歩も先んじていたことだけは確かのようである。

そんなことを心中で想像しながらも、そろそろホタルブクロの中の蛍を放してやろうかと思い立ち、草むらの一角を何気なくのぞきやると、蛍が数匹もかたまって光っているところがあるではないか。なんだか妙だなあとおもって懐中電灯で照らし出してみると、なんとそれらは、羽化した直後に蜘蛛の巣にかかって動けなくなったにもかかわらず、なおも明滅しつづける一群の蛍たちの姿だった。

この世の自然の摂理とはときに非情なものである。それでなくても儚く短い命しかない蛍たちにさえその冷酷な手は情け容赦なく及ぶ。どこか幼い日の我が身にも似た姿のその蛍たちを蜘蛛の巣から一匹いっぴきていねいに解き放ってやりながら、厳しい自然の摂理にさらされつつも必死にそれに耐え抜こうとする小さな命のけなげさを、あらためて私は、このうえなくいとおしいものに感じだのだった。

羽化したのちは水しかとらず短い命をまっとうする蛍たちにとって、生の証となるものは、交尾を求めて雌雄それぞれが呼び放ち合う青い光の脈動以外にはありえない。青く淡い一条の光の糸を曳きながら空中に舞い立つ蛍の姿を眺めつつ、私はいつしか心の中でささやかな歌を一首詠み囁いていたのである。
2002年7月17日

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