初期マセマティック放浪記より

177.ドラキュラ邸追想記(一)

北アルプス山麓の広大な赤松林を背にしたその屋敷は、不思議な静けさに包まれていた。かつてこの家の老主は、誰かが近づくと、機先を制するように奥のほうからヌーッとその姿を現わし、不意を突かれた来訪者のほうは、仰天してしばしその場に立ち尽くしたものだった。高性能の監視カメラと音声感知器が密かに設置されており、書斎やベッドルームに居ながらにして戸口周辺の状況を的確に把握できるようになっていたからなのだが、その仕掛けがわかるまでは、私自身も狐につままれた思いで何度も首を傾げたものだった。

三月下旬のこの日、久々に来訪した私の前にかつての屋敷主がその姿を現わすことはもうなかった。すでに監視カメラは取り外され、電気、ガス、水道などのの供給も止められてしまっていた。私は平屋造りの家の右手に回り、赤松やエゴノキの生えている一角に歩み入った。そして三本の赤松に囲まれた小さなスペースの真中に立ち、初めてこの屋敷に案内された日のことを懐かしく想い起した。

赤松の幹には頑丈なフックがまだそのまま残されていた。このフックに老主自慢の大きなカナダ製ハンモックを掛け、それに身を委ねながら空を見上げるのは、爽快このうえないことでもあった。大人が三人ほどは乗れるハンモックに仰向けに寝そべってその快適さを体感するのは、初の来訪者に課せられる必須の儀式みたいなものでもあった。

そのハンモックは、老主と親交のあった写真家市川勝弘氏の要請で東京に運び込まれ、集英社文庫の宣伝ポスターに用いられたりもした。その時にハンモックに寝そべってポスター写真におさまった人物は、最近フランス映画「わさび」などにも登場して話題をまいた人気女優の広末涼子だった。

昨年まで、すぐ近くの軒下には老主自慢の手製簡易露天風呂などもあったのだが、すでにその浴槽は取り払われ、土台のブロックと排水口のみが残るだけになっていた。まだ冬枯れしたままの庭木を眺めながら安曇野に面する屋敷の表側に回ると、なんとも高らかな水音が響いてきた。屋敷のすぐそばには農業用水路が設けられていて、一年中絶えることなく清冽な水が流れている。大量の水が凄まじい勢いで流れくだっているから、誤って水中に落ちたりしたらとても無事ではすまないだろう。

この屋敷のアイデンティテイのひとつでもあるそんな水音を聞きながら、小さな石段をのぼって中央のガラス戸に近づくと、そっとそれを押し開いた。家の中に入れるようにしておいてほしいと、現在の管理者の方にあらかじめお願いしてあったので、ガラス戸に施錠はなされていなかった。

まったく人気のない室内に入った私は、深い感慨にひたりながらしばしその場に立ち尽くした。そして、自らドラキュラ老人と称し、こちらもまたドラキュラ翁と崇め奉った、いまは亡き稀代の奇人の魂に心中でそっと胸の想いを語りかけてみようとした。合掌し線香やお花を供えてみても、あるいはまた跪いて十字架を献げてみても喜んではくれないであろう老翁の魂を弔うには、そうするしかないだろうと考えたからだった。

そもそも、この日私が石田邸を訪ねたのは、筆を執りかけたままいまだに脱稿していない老翁の伝記、「ある奇人の生涯」の後半部を書き進めるために、いますこし確認したり調べたりしておかねばならないことがあったからだった。石田達夫翁が健在なうちに完成させるつもりでいた原稿は諸般の事情で遅れに遅れ、結局、翁の生前にその実現はならなかった。さらにその結果として、誕生から他界にいたるまでの文字通りの「生涯」を描き切らなければならないという難題を背負い込むはめになったのだった。

昨年八月上旬のある夜遅くのこと、突然鳴りだした電話のベルに私は目を醒まされた。慌てて手にした受話器から流れてきたのは、いつになく弱々しい、しかし懸命に何かを訴えかけようとする穂高のドラキュラ翁、すなわち、石田達夫老翁の声であった。

――すぐこちらに来てくれないか?。どうしてもあなたに会って話がしたい。まわりの者がみんな僕の頭がおかしいと言うのだが、自分ではそうは思っていない。あなたに会って話すことができば、狂っているのがほんとうに自分なのかそうでないのか確認もできるし、かわりにその判断をしてもらうことだってできる――

石田翁の電話の内容は、ほぼそのような主旨のものだった。電話の声の様子からこれは尋常なことではないと判断した私は、すぐさま車のハンドルを握り、穂高町に向かって走りだした。かねがね、府中のドラキュラなどと軽口を叩いて私のことをからかっていた本家本元のドラキュラ翁が、いまだにドラキュラ見習いにすぎない小物のこの身を呼び寄せるなんて、いったい何が起こったというのだろう。いろいろと想像をめぐらせてはみたものの、確かなことはいまひとつはっきりとはしなかった。

石田邸に着いてみると、中にいるのは石田翁本人と養子の石田俊紀さんの二人だけだった。若い頃から独身をつらぬいてきた石田翁は、のちのちのことも考え、かなり以前に俊紀さんを養子に迎えた。ただ、車で一時間ほどのところに住む俊紀さんの家族と同居することはなく、この穂高の屋敷で独りで暮らしを続けてきた。むろん、炊事、洗濯、掃除といったようなこともすべて自分でやってきた。人間関係や仕事関係においては、石田翁も養子の俊紀さんも互いに相手の世界にはいっさい立ち入らず、なんの干渉もしないという基本ルールを厳守してきた。

お会いするのは二度目の俊紀さんと簡単な挨拶を交わしたあと、私はすぐに石田翁の書斎とベッドルームを兼ねた部屋に入った。私の姿を目にした老翁は、そのままでという制止の言葉には耳を貸さず、自力で身を起こすとベッドの端に腰を掛けた。そして、「やあ、あなたが来るのを待っていたよ」とちいさく呟き、ひとつ大きく息をつくと、じっとこちらの顔を見つめた。

私はそこに、轟音と土煙をあげて崩れ落ちる寸前の巨大な古木の姿を見た。大きな幹はすでに空洞化し枯れ朽ちてしまっているが、枝先のいくつかの葉はなお奇跡的に生命の輝きを発している――そんな老大樹の最期の姿を眼前の老翁に重ね見たのだった。石田翁の身体の一部は明かに植物化しかけていた。だが、並外れて強靭な精神力と明晰で知られた頭脳とが、身体を構成する全細胞やその機能すべての植物化を頑強に阻止していた。それは、いわゆる「死相」が出ている状態には違いなかったが、その身体の内奥でなおも脈動し続ける精神の煌きに、心底敬意を表せずにはおられなかった。

老翁の語るところを極力自然体で受けとめ、その姿をありのままに直視しようと決意した私は、あらためてベッド脇に椅子を引き寄せると、おもむろに腰をおろして相手の顔に静かに見入った。少々もつれ気味でしかも途切れがちに発せられる石田翁の言葉には、かつてのような勢いと鋭い切れ味は見られなかった。毒舌の権化のような姿を知るこの身にすればいささか複雑な思いもしたが、それもまた、石田翁と私との運命的な出逢いの帰するところとあればやむをえないことだった。

詳しい事情を知る人からのちに聞いたところによると、その数日前、内臓の血管破裂によって突如ひどい吐血や下血に襲われた石田翁は、そのまま失神状態に陥り、たまたま来訪した近隣者に発見されて病院に担ぎ込まれた。幸い、医師らの懸命の治療によってなんとか一時的に小康を得たものの、意識が回復し、ある程度の体力を取り戻すと、老翁はベッドで激しく暴れ?き、身体に付けられた医療器具類をひきちぎったりして、それ以上の治療を断固拒絶しようとした。

また、次々に起こる異常な幻覚や幻聴を現実そのものだと信じて疑わなかった石田翁は、それらに耐えられないから自宅へ戻ると強硬に主張して譲らず、御しきれなくなった医者や周囲の者たちは、自宅療養もやむなしという決断を下した。もちろん、その背景には、いずれにしろ死期はそう遠くないという判断があったからだった。だが、老翁がこの日私に真剣な口調で語った状況は、当然それとはまるで異なるものであった。

――自分の入院している個室の脇にはオペラの練習用舞台があって、男女何人ものオペラ歌手が、昼も夜もなく二十四時間耳をつんざくような大声で練習をしていた。ドタンバタンという凄まじい物音も響いてきたし、時折、ベッドの自分のほうを覗いては皆で嘲笑するような声も聞こえたりした。頭がおかしくなりそうで、とても眠ってなんかおれないので、その状況を医者や看護婦、見舞い客などに訴えたのだが、誰もが、絶対にそんなことはない、それは石田さんがちょっと錯乱を起こしているからだと言うばかりだったんだ。身体中を管だらけにされて自由を奪われたうえに、あんな音の拷問にまで遭ったら、とても我慢なんかできるものじゃない。皆は否定するけれど、あれは絶対に事実だったといまも私は思っている。病院は都合が悪いから事実を隠そうとしているんじゃないか?――

たとえば老翁はそんなことを私に伝え、このことをどう思うかと尋ねてきた。このときすでに私には、たとえどんなことであろうとも、石田翁が事実と信じるところをすべて肯定して受け入れようという心の準備ができていた。だから、ごく自然に相手の話に耳を傾け、頷きながら同調し、無理のないかたちで会話を進めることができた。

むろん、そう対応するのがベストだと考えたからでもあったが、老翁の話そのものも、病院での一件をのぞいてはごく正常なもので、声が小さく言葉が滑らかに出てこないのをべつにすれば、おかしいところはほとんどなかった。病院でのオペラにまつわる幻覚は、長年英国でBBCの放送記者兼アナウンサーとして活躍し、シェークスピア劇場などに足繁く通ったことのあるこの人物ならではのものだったのだろう。幻覚や幻聴であるとはいえ、病院のベッド上で耳にしたというオペラの曲目や歌詞まではっきりと記憶しているその異能ぶりのほうが、私にはよほど興味深いことに思われた。

養子の俊紀さんは午後から出社しなければならないということで、しばらくすると石田翁と私の二人だけになった。私は近くのスーパーマーケットまで一走りして、老翁の好物を買い求めた。戻ってみると、信じられないことに、石田翁は自分で立ち上がり、冷蔵庫から二、三の品を取り出して皿に並べ、お湯を沸かして紅茶を入れる準備をしているところだった。

植物化しかけた四股と死相を帯びたその全肉体に鞭打ってなお、やれるだけのことは自力でやろうとする凄絶なまでの行動力と精神力に、私はただ圧倒されるばかりだった。まるでスローモーションの映画を目にしているような動きで、見るからに危なかしくもあったが、私はあえてそれを止めようとはしなかった。止めてはならないと思ったからだった。

ベッドの脇の小さなテーブルに食べ物と飲み物を並べ、気の向くままにそれらを口にしながら、それからさらに五、六時間ほど我々は二人きりで話を続けた。その間、石田翁は何度もベッドに横になったり、自力でトイレに立ったり、時々眠りに落ちたりしたが、私はすこしもそんなことなど気にせずに、相手のペースに合わせて応対し続けた。

当初は途切れがちで言葉につかえたりもしていた石田翁の口調が、時間が経つにつれて次第に滑らかになってきたのは意外なことだった。しかも、軽口までが飛び出しはじめたのには少なからず驚かされた。そして、ついには、「どうやら僕の頭のほうがおかしくなってたんだな。この頭も身体も、もう半分死にかかっているんだな……。いまはっきりわかってきたよ」と言い切ったのだった。たぶん、それは、一時的なものではあったにしろ、老翁の精神がいま一度本来の輝きを取り戻した瞬間でもあった。

片付けなければならない仕事もあったので、近日中の再訪を約束したうえで、その日の夕刻、私は穂高を発って東京に戻った。別れ際、握手を交わしながら、「じゃ、また……」と呟いた老翁の眼差しには、表の言葉とは裏腹に、「もう会うことはないだろう……」という暗黙のメッセージが込められていたように思われてならない。あらためて穂高に向かおうと準備を整えていた矢先に、その電話がかかってきた。
2002年4月3日

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