初期マセマティック放浪記より

176.桜花余聞

三月にしては異常な暖かさが続いているせいだろう、東京周辺ではもう桜の花が三分咲きくらいにはなっているようだ。あと一週間もすれば、都内一帯のほとんどの桜は満開になっていることだろう。今年の桜の開花日は、過去五十三年にわたる観測史上もっとも早かったなどと報じられたりもしているが、この調子でいくと来年からはいったいどんなことになるのであろう。

桜には桜なりの事情もあることだろうから、むこうさまのご都合で早く咲き早く散るのはやむをえまい。だが、桜の季節を迎えるごとにまた一年が過ぎたかなどと考えるようになったこの身にすると、一、二週間分人生が短くなってしまったような気もしてくるから手放しでは喜べない。桜の花は散り際も見事なので、桜を愛でる者はおのれの散り際も桜に倣って見事にということにもなるのかもしれないが、散り際が異常なほどに完璧だというのもまた問題ではあるかもしれない。

今日の昼過ぎ、たまたま私は東京郊外のとある桜並木を通りかかった。ここの桜も三分咲きほどであったが、折りからの陽光を浴びて瑞々しく輝く花々は、ほどなく風に散る運命にあることなど少しも感じさせないくらい生命力に溢れていた。その並木伝いに歩いていた私は、一本の大きな桜の木の前で足をとめた。以前話に聞いていたのは、もしかしたらこの桜の木ではないかと思ったからである。

昔の教え子のひとりにAさんという女性がいる。現在は結婚し、二児の母親になっているが、十年近く前までは、社会人や学生対象のIT講座などにおいて、折々、助手などを務めてもらったりしていた。当時、彼女は銀行系のシンクタンクに勤務する有能なシステム・アナリストで、しかも大変に育ちも人柄もよい美人ときていたから、受講者の男性諸氏の間での評判は上々であった。私と彼女といったいどちらが講師でどちらが助手なのかわからなくなることさえもあったくらいだ。

そのAさんが、いかにしても拭い去り難い心の傷を胸中深くに秘めながら生きているのを知ったのは、彼女とのふとした会話からであった。それは「事実は小説よりも奇なり」という言葉にも余るほどに衝撃的な話で、並大抵のことでは驚かない私も、しばし吾が耳を疑ったほどであった。

その信じ難い話を打ち明けられたからといっても、私には、Aさんのやり場のない思いに折々耳を傾け、なにかにつけて心から励ましてあげるくらいのことしかできなかったのだが、幸い、いまでは彼女はその深い心の傷みを完全に克服し、主婦として、多忙な中にも充実した日々を送っているようだ。二人のお子さんたちもすくすくと育っているようだから、まずはよかったと思っている。いま私がこうしてAさんにまつわるそんな話を公開する気になったのも、彼女はもう大丈夫だと判断したからにほかならない。

Aさんには学生時代から交際していた男性があった。二人の間はしばらくはうまくいっていたが、やがて彼女は彼との交際を続けていくことが重荷ととなり、ほどなくそれは苦痛へと変わっていった。Aさんに対する相手の男性の拘束ぶりや支配欲が異常としか言えない状態になってきたのにくわえ、一見包容力があると思われていた彼が、実際にはすべてに自己中心的で、しかもその精神状態が極めて不安定であることが判明したからだった。相手の家庭状況が尋常ではないらしいこともAさんの気になるところではあった。

大学を卒業し就職した彼女は、それを契機に彼との別離を決意し、何度も話し合いをもってその旨を相手に伝えようとしたが、彼のほうはまったく耳を貸そうとしなかった。やむなくAさんは自らその男性を極力避けるようになったのだが、相手はストーカーと化し、会社の行き帰りなどに彼女を待ち伏せして執拗につきまとった。そして、自分のおかれている苦境などをあれこれと並べたててAさんの同情を買いながら、交際の復活を迫り続けた。

彼女のもとには彼から切々と心の苦しさを訴えた手紙なども一方的に送りつけられ、最後には、「以前と同様に交際を続けてくれなければ自ら死を選ぶことも厭わない。また、たとえそうなったとしても、その責任は生涯あなたが背負うべきで、けっして自分の責任ではない」といったような主旨の文面さえも見られるほどにその内容はエスカレートしていった。

自立心の強いAさんは、周辺に不必要な心配をかけてもいけないと考え、そのような状況になっていることを、会社の同僚や上司にはむろん、両親や親友らにさえも話さなかった。そして、時間をかけながら、なんとか自力で事態の好転をはかろうとした。送りつけられてくる手紙は無視したり開封せずに返送したりし、会社の行き帰りには、日毎に通勤時刻や通勤ルートを少しずつ変えたりして、男との接触を避け続けた。そんな苦労と努力が実ってか、ようやくくだんの男の影も遠ざかり、彼女自身もなんとか心理的に落着きを取り戻すことができるようになった。

桜の季節を迎えたある日の早朝、Aさんの住む近くの警察署から彼女に突然の電話があった。その電話を直接に受けた彼女に、警察の担当者は、緊急事態が生じたのですぐに署まで出頭してほしい旨の要請を伝えた。何が起こったのかまったく事情のわからないままに、とりあえず彼女は警察署に出頭した。

署内のとある部屋に通されたAさんはあまりのことに絶句し、愕然としてその場に立ち尽くした。彼女がそこで目にしたものは、死亡後まだ間もない若い男の縊死体だったからである。むろん、その遺体はかつて交際していた男のものだった。警察は彼女にまずその遺体の身元の確認を求め、そのあとで出頭を求めるにいたった状況の説明と彼女からの事情聴取をおこなった。

明かになった一連の状況は驚くべきものであった。男はその日の未明、Aさん宅のすぐ近くの桜並木にやってくると、彼女の家の見える桜の木の一本を選んでよじ登り、その枝で首を吊って自ら命を絶ったのだ。しかも、彼はその死に臨んで、Aさんが真っ先にその遺体を確認せざるをえなくなるように巧妙な一計を案じてもいた。桜の季節に悲劇の物語を自作自演し、否応なくAさんをその舞台に引きずり込んでしまったのだった。

男は自分の身元を直接明かすようなものは何ひとつ携えていなかった。そのかわりに彼は真新しい手帳をひとつ持っていた。そして、その手帳には、なんと、Aさんの名前と住所と電話番号だけが記入されていたのである。第一発見者からの通報で遺体を収容した警察署が彼女に出頭を求めたのは必然の成り行きだったのだ。

結局、Aさんは極度の心理的混乱状態のままで、男の葬儀にまで顔を出さざるをえなくなった。望むと望まざるとにかかわらず、彼女は生前に男の書いた物語に最後までつきあわされるハメになってしまったのだ。相手の一存だけで強引に身勝手な物語の中に取り込まれ、それを人知れず背負って生きていかねばならない彼女の胸中は察するに余りあるものではあった。

その事件があってからというもの、Aさんは自宅と駅とを結ぶ道筋にあるその桜並木を通るのが恐ろしくてならなかったという。とくに、仕事で帰りが遅くなったときなどには、その恐怖の度は極みに達し、人一倍芯の強いその気性をもってしてもそれに耐えるのは至難の業であったらしい。天性のにこやかさとは裏腹に、それからしばらくは、男性というものに対するある種の不信感や違和感をどうしても拭い去ることができなかったという。その後、一大災難ともいうべきその精神的ショックから彼女が立ち直ることができたのは、不幸中の幸いだったと言うべきだろう。

この日偶然に、私はAさんの実家近くにある桜並木を通りかかったのだった。そして、話に聞いていた状況や、住宅街と桜並木との相対的な位置関係からして、ほぼそれに間違いないと思われる一本の桜の巨木をしげしげと仰ぎ見ることになった。大きく四方にのびた枝々の先には無数の蕾が出番を待ってひしめきあい、すでに開いた美しい花々は、明るい陽光に輝き匂って、道行く人々の目を余すところなく奪っていた。

その桜の古木には、かつて起こった忌まわしい出来事の記憶など、もうどこにも残ってないように思われた。また、たとえそんな記憶の断片がどこかに残っていたとしても、おのれの枝先に咲く花々のいさぎよい散り際の美学とは異なる、完璧だが妄執の極みとも言うべき散りかたをしたひとりの男の物語など、桜の木のほうにしてみれば所詮どうでもよいことではあったろう。
2002年3月27日

カテゴリー 初期マセマティック放浪記より. Bookmark the permalink.